top of page

古事記・漢字源の世界(2)


 「一大」発見!!?  ⑥ 地図・緯度・地理史  古事記に展開されている「場所」は何処であったのか?

 上の地図を診れば中国大陸「会稽山」の近くに「東台」の地名がある。何時の時代からあった地名かは不明だが、「東冶」と「東台」の違いは「冫」が有るか無いかである。しかもここは「緯度32度50分」、ほとんど「33度線上」に存在する。そして「邪馬台国は会稽、東冶の東に存在」したのだ。「会稽、東台の真東、緯度32度50分」あたりには九州長崎、島原諫早、熊本玉名郡横島、阿蘇山頂、横島、四国土佐横島、八丈島が並んでいるのだ。「東台」→東→「邪馬台」→「32度50分」にあるとするならば当時の中国人は平面な地球ではなく、「球体」としての地球を知っていたのだ。傾いている地球を輪切りにした「緯度」の概念を明確に知っていた。  歴史上、日本ではその知識を確実に実測して有していたのは江戸天文方の

 高橋景保  と日本地図を作成した  伊能忠敬  であった。  参考になるホームペ-ジは、以下のアドレスに勝手にリンクしてみて・・・

 参考(1)・伊能忠敬へ  参考(2)・伊能忠敬へ

 「邪馬台国」の「邪」は「よこしま」とヨムのだが・・・  「現存・古事記」から私が推理した「日本・古代史」は次のごとくである。  すなわち、「古事記」に展開されている「地理(輿)と人物(姓名)」は  1、地理的な場所は阿蘇山を中心にした東西南北の「九州」である。  理由は日本の九州は、中国大陸の「九州」とその「地名」が  「故事的」に「音」をとって日本の九州に重ねられたからである。  しかも、日本人にはおなじみの占ない、幕末から明治に活躍した  高島易断の「九星学」は3x3=9のマトリックスの魔法(方)陣で、  縦、横、斜の升目の合算が十五となる「方位学」の占ないである。  これは「気門遁甲・鬼門遁甲」とも呼ばれているものだ。 ------------------------------------------------------------    九星学上の配置       現在的な北を上とした地図上の配置       南                 北   鬼門

    4 9 2            6 1 8   東 3 5 7 西        西 7 5 3 東     8 1 6            2 9 4

      北         裏鬼門    南 ----------------------------       ↑       北   6白 1白 8白   7赤 5黄 3碧   2黒 9紫 4緑

 2、物語は  「北(子)=博多=伊都=一白・水星・中男」  「西(酉)=長崎=諌早=七赤・金星・少女」  「中央=阿蘇山=     五黄・土星」  「東(卯)=大分=宇佐=三碧・木星・長男」  「南(午)=鹿児島=   九紫・火星・中女」  の地域、及び、九州周辺の島々と本州西南、四国、そして「朝鮮半島」での展開ある。  3、「古事記・神話」に展開されている人物は  「魏志・倭人伝」に展開された  「卑弥呼」、「壱与」  の歴史的「事実(?)」を下敷にし、中国の漢籍、書籍に記されている「故事」によって説明されている。   「壱与」が十三歳の少女であったとしたら方位の示唆は  庚辛→庚申→更新→後身→後進→高進→兌換                         ↓  である。スナワチ、               ↓(金)  「西(酉)=長崎=諌早=七赤・金星・少女・庚、辛・兌」である。  ちなみに、「卑弥呼」は長生きした「鬼道の老婆」であった。  「老婆」の示唆の方位は「二黒・土星」の「裏鬼門・南西」である。  九州の地図を広げて「阿蘇山」を中心に東西南北の地名を観て欲しい。  4、「邪馬台国の都=女王国=斎宮」は  「九州内の各地域」に時代的状況によって移動=遷都した。  「遷都」したのは「邪馬台連合国」の「宗主国=斎宮=西宮」で、  「宗主・女王国=斎宮」である。  その場所は九州に現在も地名として残されている  各「横島よこしま」  である。

 九州の政治権力は「卑弥呼」の死後、「三分(?)」されていた。  西は「日=左目=烏=鴉=阿=肥の国」  東は「月=右目=卯=兎=宇=豊の国」  北は「時=中鼻=子=鼠=禰=筑紫国」  南は別格の隼人、薩摩の国、「句奴国」である。  九州とは別個に「出雲の国」、「安芸の国」、「四国」、「大和の国」、「東北、蝦夷の国」が存在した。  「卑弥呼」は先ずは中国三国時代の「呉国」、朝鮮半島の「公孫淵・燕国」と関係があり  「台湾・沖縄琉球・九州南西」に影響力を持つ海女族の「女王(?)」であり、  「長崎半島・島原・天草半島」に存在した。  「壱与」は  「帯方郡派遣」の「張政」と縁籍の者(?)で「人質(?)」であったが、  「卑弥呼」殺害後(?)、「玉名・横島(?)」に存在し、その後、  「豊国」の「宇佐」に遷都した(?)。  そして、この「三つの権力」の影響を受けた人々は縄文・蝦夷族の地 山陽、山陰、西海、東海、北陸、東北へと移動、移民した。  「白村江の海戦」後に「志賀・長津」から「滋賀・大津」に遷都し、 伊勢内宮に遷宮したのは「壱与・百済」系・・・?  「壬神の乱」後に「大和」に遷都し、  伊勢外宮に遷宮したのは「卑弥呼・新羅(唐)」系・・・?  「ヨコシマ(横島)」と読まれる漢字は「感冒」の「冒」をはじめに  よこしま=(宀+九)=横・邪・姦・干(カン=諌=甲)・佞・漢  よこしま=侘・差・左・ム・私  よこしま=(宀+九)=侈(シ)・佻(チョウ・ジョウ)・犯  よこしま=毎・曲・奸・淫・自・己  「宀+九=キ・よこしま」は「邪悪・姦・・悪者・盗人」と諸橋轍次先生の「大修館・新漢和辞典(改訂版)」にはあり、「究」の「八」を欠字させた漢字である。  「菅原(すがわら)」の「菅」も「よこしま」と訓れている・・・漢和辞典を注意してみないと「よこしま」とヨマれている漢字を見落とす事になる・・・もちろん、太宰府に流刑された「菅原道真」の「菅」である。  現存する「横島=ヨコシマ」と呼ばれている地名の場所は  ①熊本県玉名郡「横島」 各「横島」を結ぶと逆台形  ②大分県南海部郡「横島」  ③愛媛県南宇和郡「横島」  ④愛媛県「日振島」に隣接する「横島」  ⑤長崎県北松浦半島、田平沖北方に存在する「横島」  ⑥広島県、倉橋沖南方の「横島」と、呉の南方に存在する「横島」  ⑦天草諸島を東西に横切り、西に天草、その東に存在する「横島」  各「横島」を結ぶと逆「台形」である。  ⑧長崎県「諌早=伊 邪       早(日 十)」             ↓ ↓          ↓ ↓             伊の邪(ヨコシマ)の 日の十(叉=交差)  この現存する「よこしま」は単なる偶然ではない  ・・・もちろん、「イト的」なモノである・・・「古事記・神代の七代目」に登場する「伊邪那岐いざなぎ」、「伊邪那美いざなみ」の「邪(よこしま)」である。「日本書紀」の「伊弉=(壯+廾)=奘(壯+大)諾尊」、「伊弉=(壯+廾)=奘(壯+大)冊尊」の「弉=邪悪」の「漢字」とは「イト的」に異なるのだ。  伊邪那岐   ↓  伊弉諾 尊・・・諾=言+若   ↓   弉=(壯+廾)=奘(壯+大)=ソウ・ゾウ・大きい・壮ん・健やか  伊邪那美   ↓  伊弉冊 尊・・・冊=册=几+几+一   ↓   弉=(壯+廾)=奘(壯+大)

 「砂=いさ=諫」で、「くじら=鯨=いさな=勇魚」、「寝覚め=いさめ=伊邪女」、「いさは=斑葉=石和・井沢・胆沢・伊沢・井澤・胆澤・伊澤」、「いざり=漁り」、「イザ、ナギ」へ、「イザ、ナミ」へ等の「誘い」である。

 明治の教育者に「伊沢修二(嘉永四年六月二九日・1851~大正六年五月三日・1917)」と言う人物が存在した。「長野県」生まれで「大学南校(東京大学)」に学んで米国の「ハーバード大学」に留学し、「師範学校長」、1881年「文部省編集局長」、「日本最初の国定教科書」を編纂、その後に「東京音楽学校長」、民間人として「国家教育社」、1903年「吃音矯正」事業の「樂石社(学石社)」を起こし、「東京盲唖学校長」などを暦にし「盲唖教育」にも尽力したとある・・・怪しい人物ではあるな。・・・サラには「伊沢蘭軒(安永六年・1777~文政十二年・1829)」等という「歴史書研究」をし、長崎遊学後に「福山藩医」を兼ねて「儒官」となった人物がいたのだが・・・「備後・深津郡・十一万石・福山藩」は「宝永七年」に「阿部(正邦)家」の領地となったところで、江戸城の詰め所は「帝鑑の間」であったのだ。  そして、トウゼンにも「万葉仮名」の漢字にはモチロン、「意味」があるのだ。


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page