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みんなが知っていることをボクは知らない

2023/3/15・水曜日・・・追加添文・・・

ボクのヤッテいること・・・

過去に記録したモノの再読と再添付・・・

「蒸し返し」だが

知らないことがイッパイで

忘れたことがワンサカ

「ムシかえし」って

「虫=蟲=🐛=むし=無視・無私・無死」カエされル・・・コト?

「有弑(ユウシ)」って・・・

「プウチン露西亜=魯西亜=俄羅斯=峩羅斯」

 の

「烏蘭克=克 蘭」侵略での無差別殺戮・・・強奪・・・

くたばれ、「Puチン」・・・

↓↑

今現在、朝の7時40分・・・

9時30分までには町の歯医者さんにいかなくちゃぁッ

外は天気になりそうだし、雪解けでアスファルト舗装の黒道・・・

自転車では10分もかからずに歯医者さんにイケるハズだが・・・

イケるものの宿命は「一寸先は闇(門+音・やみ)」・・・

「一秒先は闇(門+音・やみ)」・・・「生滅存在」・・・


 ・・・「夫餘」・・・オフクロの姉は「きさよ」、2番目の姉は「はぎの」、そして三番目の末っ子の「おふくろ」の名前だけれど・・・父祖の最初の奥さんの名前と同名の「ふよ」・・・?・・・なんとなく、「ジィさん」の気持ちが・・・最後の奥さんは「三番目のバァさん」で、この「夫」の子供を七人産んで、「道楽ジィさん」よりも、苦労して早く亡くなった「最後の女性」だった・・・真相はワカラナイけれど、明治、福島生まれの彼女は、彼を極寒の北海道まで追っかけてきて「夫婦」になった・・・  「夫餘(フヨ)」は「夫の餘り」か・・・漢字を分解すれば、「夫」は「一の大」、「二の人」、「十一の人」、「土の人」で、「餘」は「食(しょく・おす・ジキ)のアマリ」・・・?・・・「夫=おっと」は「夫人=婦人」でもある。古語では「夫」の漢字は「接続詞」の「そもそも・いったい」で、「ひとつ」のコトバ、あるいは出来事の内容説明を、別な視点から説明するコトバであるらしい・・・「夫」=「背の君」とも・・・「せ(背・夫・兄・妹)は主として女性から兄・弟・恋人・夫など、または他の男性を親しんで呼ぶ語」・・・「弟=おと-うと=弟人」、「(妹=いも-うと=妹人)」の訛り?・・・弟人→乙人=乙女→乙姫・・・「妹背(いもせ)」は「妹と背」で、「男女・夫婦」のコトバであるが・・・「妹背(いもせ)」はどうなるのか?・・・問題は「背=北(爿匕・爿ヒ)+月(肉?)」の漢字である。「北」そのものが「そむく・叛く・背反・二心」である・・・「爿(ショウ・ソウ)=爿は牀(ベッド・カウチ・寝台・長椅子)」・・・「妹の背反」・・・「妹(マイ・メ・いもうと)=女+未」で、「(バツ・バイ・マツ・マチ・あざな)=女+末」である・・・「wife of the last ruler of the Xia dynasty=夏王朝の最後の妻=喜(バッキ)は、夏王朝の最後の帝桀の妃の一人・喜、末嬉、嬉とも書かれる」・・・  「いも」は「芋=艸(サ・廾)+于(ここに・ゆく・ウ)」で「イのモ」だろう・・・「廾=両手で捧げ持つ」、「拱に通じ」て「こまぬく=両手を組む」だげ、文字発音の道理の漢字転換なら「高麗(狛・駒・独楽)貫く」だろう・・・「主として」だから、「主ではない」詮索はヤメテおこう・・・ ーー  余(餘)  ヨ・あまる・あます・われ  必要な分をこえて残る  引き続いてあとに残る  あまり  余韻・余剰・余震・ 余地・余熱  余白・余分・余命・余裕・余力  刑余・月余・残余・剰余  代名詞の「わたくし・自分」  自称の人称代名詞で「男性」が用いる  奥の細道   「よもいづれの年よりか、    片雲(へんうん)の風に誘はれて、    漂泊(へうはく)の思ひやまず」 ーー  余事象  ↓  サイコロを振った  結果は6面の  ヒトツの目しか出ない。  出なかった  「他の目」の  残りの目を  「余事象」と云う  サイコロを一回のみ振る前の  予想の確率(1/6)の目は一つ  予想以外のは目は  残りの「5/6」  全事象の1つである  事象Aに対して  余事象は  全事象から  事象Aを除いたもの  全事象が10の可能性があるとし  結果の「一つ」の事象が起これば  残りの「九つ」は  余事象・・・ ー↓  餘慶寺(ヨケイジ)  岡山県  瀬戸内市  邑久町  北島にある寺  宗派は天台宗  山号は上寺山(うえてらさん)  本尊は千手観世音菩薩で秘仏  三十三年に一度開帳  直近では  平成二十四年(2012年)  十一月開帳  中国  三十三観音霊場  第二番札所  本尊・東向き観音の霊験  天平勝宝元年(749年)  報恩大師によって開山  別称  日待山日輪寺 --  以下ウイッキペデアより・・・参照、参考抜粋し、少々改作して添付・・・ ーー↓ーー  夫余(フヨ・夫餘)  建国の地  濊(わい)族が住んでいた  松花江上流の  弱水(奄利大水、拉林河)  南進して  夫余を建国する以前の  慶華古城(濊城・黒龍江省賓県)が発見 ーー  神話  「論衡・後漢書東夷伝・魏略」  「昔、   北夷の   索離国があった   国王は侍女が妊娠したので殺そうとした   女は   以前、空にあった   鶏の卵のような   霊気が私に降りてきて、身篭りました   と言い、彼女は男子を生んだ   王が命じて   豚小屋の中に放置させたが、   豚が息を吹き掛けたので死ななかった   次に   馬小屋に移させると、   馬もまた息を吹き掛けた   それを王は神の仕業だと考え、   母に引き取って養わせ、   東明と名づけた   東明は長ずると、   馬に乗り弓を射ること巧みで、   凶暴だったため、   王は東明が   自分の国を奪うのを恐れ、   再び殺そうとした   東明は国を逃れ、南へ走り   施掩水にやって来て、   弓で川の水面を撃つと、   魚や   鼈が浮かび上がり、   乗ることが出来た、   そうして   東明は   夫余の地に至り、王となった」 ーーー  ・・・「魚や鼈」にのったとは「浦島太郎」に似ている・・・ ーーー  「魏書」、「三国史記」  高句麗の  始祖  朱蒙も夫余の出身  衆を率いて  夫余から東南に向かって逃れ、  建国したと記録  「三国史記・三国遺事」  「解夫婁(カイフロウ)」が       ・・・?「カイの夫の婁」  治めていたがのちに  太陽神の  「解慕漱(カイボソウ・カイボス)」が       ・・・?「カイを慕うウガイ」  天降ってきたので  解夫婁は東に退去し  別の国(東夫余)を建てた ーー   吉林省東団山一帯で発見された  南城子の調査結果から  紀元前200年頃に存在  夫余王の王室には  「濊王之印」が伝来  夫余王および夫余の老人たちは  自らを「亡命者」と称していた  漢四郡を設置した際の記述中に  夫余の名  東夫余  東夫余は  高句麗を臣属  紀元前6年1月  太子  「都切」を人質へ差し出すことに応じなかった  高句麗を  十一月に五万の兵で  高句麗を攻めたが大雪と厳寒により  凍死者を出し軍を撤退  三年後、王の  帯素が再び使者を派遣  高句麗は服属した  王莽が「新国」を作り  異民族に対する  蔑視政策のため、離反  建武年間(25年~56年)  東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上  建武二十五年(49年)  光武帝に  夫余王が遣使を送って朝貢  安帝の  永初五年(111年)  夫余王は歩騎7~8千人を率いて  玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷  再び帰附  永寧元年(120年)  夫余王は嫡子の  尉仇台を遣わし  印闕貢献してきたので、  安帝は尉仇台に  印綬金綵を賜った  翌121年  高句麗が1万の兵を率いて  漢の  玄菟城を囲むと、  夫余王は嫡子の  尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、  高句麗軍を壊滅  翌122年(延光元年)、  高句麗が  馬韓  濊貊と共に  遼東へ侵攻したので、  兵を派遣して打ち破り救った  順帝の  永和元年(1336年)  夫余王は京師(洛陽)に来朝  桓帝の  延熹四年(161年)  夫余の遣使が  朝賀貢献  永康元年(167年)  夫余王の  夫台は2万余人を率いて  玄菟郡を侵略したが、  玄菟太守の  公孫域によって撃破され、  千余名が斬首  霊帝の  熹平三年(174年)  夫余は  再び冊封国として貢ぎ物を献じた  夫余はもともと  玄菟郡に属していたが、  献帝(在位は189年~220年)  夫余王の  尉仇台が遼東郡に属したいと申し出  遼東郡に属した  この時期は  玄菟郡、遼東郡は  公孫氏の支配下  東夷諸国は公孫氏に附属  高句麗と  鮮卑が強盛だったので、  公孫度はその二虜の間に在る  夫余と同盟を組み、  公孫氏の  宗女(公孫度の娘、or妹)を  尉仇台の妃とした ーー   魏の  黄初元年(220年)  夫余が魏に朝貢  君主は  「夫余単于」  尉仇台が死んで  簡位居が立った  位居には適子がいなかったが、  孽子の  麻余という者がい  位居が死ぬと、  諸加(諸大臣)は共に  麻余を立てた  牛加(官名)の兄の子である  位居は大使(官名)となり、  善政をしき  国人はこれに附き、  年々中国に遣使を送って朝貢  正始年間(240年~249年)  幽州刺史の  毋丘倹は  高句麗を討伐し、  玄菟太守の  王頎を夫余に遣わした  大使の  位居は  大加(官名)を遣わし  王頎らを郊外で出迎え  軍糧を供えた  季父(おじ)の  牛加に二心があったため、  位居は  季父父子を殺し、  財産を没収し、  帳簿に記録し、  使者を派遣してその帳簿を官に送った  麻余が死ぬと、  6歳の  依慮が立って王になった ーー  西晋時代  武帝(在位は265年~290年)  夫余国は  西晋へ朝貢  太康六年(285年)  鮮卑  慕容部の  慕容廆に襲撃され、  王の  依慮が自殺  子弟は  沃沮に亡命して  「東夫余」を建国  武帝は夫余を救援する詔を出したが、  護東夷校尉の  鮮于嬰が従わなかったため、  彼を罷免して  何龕をこれに代えた  明年(286年)  夫余後王の  依羅が遣使を送って  何龕に救援を求めてきたので、  何龕は  督郵の  賈沈を遣わして兵を送り、  遼寧省開原市に  夫余国を再建  賈沈は  慕容廆と戦い、大敗させ、  夫余の地から慕容部を追放  依羅を復国させた  その後  慕容廆は夫余に侵入し  の民衆を捕まえて  中国に売りさばいた  武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、  司州,冀州では  夫余人奴隷の売買を禁止させた ーー  東晋時代  永和二年(346年)正月  夫余王の  玄は  前燕の  慕容皝に襲撃されたが  西晋は夫余を後援する力なく、  王と5万人余りが捕虜として連行  夫余王の  玄は  燕王の娘を娶った  夫余は  前燕の属国 ーー  東夫余  「広開土王碑」、  410年  高句麗の広開土王が  東夫余を討伐  東夫余の5集団が来降  435年  東夫余は高句麗に併合され消滅 ーー  北夫余  夫余国は北魏の時代まで存在  太和十八年(494年)  勿吉に滅ぼされた  夫余族の  苗裔は  豆莫婁国と称して  唐代まで続いた ーー  夫余  長城の北方、  玄菟から夫余の王都まで  北へ千余里  南は高句麗、  東は挹婁、  西は鮮卑と接している  北には  弱水がある  国の広さは  二千里四方  戸数は八万戸  人々は定住生活  城郭、宮室、倉庫、牢獄があり、  山や丘や広い沢が多く、  東夷地域では最も広い平坦な所である ーー  衣食住  白の衣服を尊重  白布の大きな袂の袍や袴を着て革鞜を履く  国外に出るときは、  絹織物、繍、錦織、毛織物などを  身につけ金銀で飾る  大人は、  狐、狸、狖(黒猿)、白貂、黒貂などの  皮をまとい、  金銀で帽子を飾る  食飲は俎豆(ソトウ=食器、作法)を用い、  宴会での立ち居振舞いは謙虚  殷歴の正月  天を祭り、大会を開き、連日飲食、歌舞  この祭を  「迎鼓」という  祭りの時期には  刑罰を行なわず、  囚人を解放する ーー  統一的な君王  古い夫余の風俗において、  天候不順で五穀の生育が順調でない時には  その責任を  王のせいにし、  或いは王を易えるべきだと言い、  或いは王を殺すべきだとした ーー  官職の名称  六畜の名  馬加,牛加,豬加,狗加  の諸加  諸加はそれぞれ  四出道を守り、  勢力の大きな者は数千家、  勢力の小さな者は数百家を支配  諸加の下に  大使、大使者、使者の諸使  邑落には豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農、  下戸と呼ばれる隷属農民や奴隷、奴僕と呼ばれる  奴隷がいる ーー  夫余の生業は主に農業  鉄製農具を使用  農業技術や器具は同時代の  東夷の中で最も発達  金銀を豊富に産出する土地であり、  金属を糸状に加工して飾り付けた物など、  金銀の加工に関しては  高い水準だった  紡績に関しても  養蚕が営まれ絹や繍・綵など様々な種類の  絹織物が作られたほか、  麻織物や  毛織物が作られ  東夷の中で最も発達  牲の牛を多く養い、  名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出  珠の大きなものは  酸棗(やまなつめ)ほどもある --  刑罰  人を殺せば死刑  家族は  盗みは盗んだ物の12倍で償わせる  男女の私通、  婦人の嫉妬は死刑  妬みによる罪をもっとも憎んでおり、  その罪により死刑にされると、  死骸は国の南の山上にさらされ、  腐爛するまで放置  死骸が腐爛したのち、  その婦人の家人がその  死骸を引き取りたいと望んで  牛馬を連れていけば、死骸を与える ーー  兄が死んだ場合、  兄嫁を  弟が妻とする  匈奴と  同じ「習俗(レビラト婚)」 ーー  有力者が死ぬと、  夏期であればみな氷を用い、  人を殺して殉葬  多い時には  殉葬者が数百人  死者を厚葬し、  遺体を納める  棺(ひつぎ)があるが  槨(かく)はない  喪に停すること五ヶ月  男女は皆純白の喪服を着用  婦人は布面衣(布製のベール)を着用  環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす ーー   人々の体格は非常に大い  性格は勇敢で、謹み深く親切  あまり他国へは侵略しない・・・? ーー  通訳が言葉を伝える時、  みな跪いて両手を地につけ、  小声で話をする ーー  戦争を始めるときは  天を祭り、  牛を殺して  その蹄を見て開戦の吉凶を占う  蹄が開いていれば「凶」  蹄が合わさっていれば「吉」  戦争  諸加はすすんで戦う  下戸は食糧を担いで  諸加に従い、諸加は下戸の荷う食糧を飲食 ーー  東夫余と北夫余  東夫余という名は  「広開土王碑」に記録 ーー  夫余の言語は高句麗と同じ  沃沮と濊もほぼ同じ  東の  挹婁は独特の言語を使用  夫余の言語と異なる  ツングース語系  粛慎系、靺鞨、勿吉とともに  夫余もツングース系であるとされている  ツングース+モンゴル語系説  比較言語学的研究により、  穢貊系(濊系、扶余系)の語彙の多くが  ツングース系の語彙と共通し、  かつ  モンゴル系の語彙も含む  夫余・高句麗語はツングース系をベースとした  モンゴル系との混成語であるとする説  粛慎系の言語は  モンゴル系などが混じっていない  「純ツングース系」とされる  夫余語系説  比較言語学的研究により、  「三国史記」所載の高句麗地名から抽出した  高句麗語語彙が、  ツングース系語彙よりも  日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、  アルタイ祖語は  夫余・日本・朝鮮・韓共通語と  テュルク・モンゴル・ツングース共通語の  二つに分離し、  前者が  原始韓語と  原始夫余語とに分かれ、  ついで  原始夫余語が  高句麗語と  原始日本語とに分かれたとする説  モンゴル語系説  北夫余の故地に在った  豆莫婁の言語は、  室韋  庫莫奚  契丹と同じであることが  「魏書」に記録」  「新唐書」にある  北夫余の末裔を自称した  達末婁が同じ国であるため、  言語的にも末裔であれば  これらの言語系統は  モンゴル系になる  しかし  支配層と民衆の言語が異なる可能性も有る  古シベリア(古アジア)系説  中国史書の記述から  粛慎系の言語系統と  濊系の言語系統が異なると判断し、  粛慎系をツングース系と仮定すれば、  濊系は古アジア系となる説 ーー  歴代君主  東夫余  解夫婁王(在位年不詳)  2.金蛙王(在位年不詳)  3.帯素王(?年 - 22年)  4.曷思王(22年 - ?年 ※夫余王か疑問)  5.都頭王(?年 - 68年 ※夫余王か疑問) ーー  北夫余  夫台王  2.尉仇台王  3.簡位居王  4.麻余王  5.依慮王  6.依羅王  7.蔚王(※夫余王か疑問)  8.玄王  9.居王 ーーー  百済の王族名→扶余氏  朝鮮半島北部と  南満州における特定の  古代言語→扶余諸語  吉林省松原市に位置する県→扶余県  大韓民国  忠清南道の郡→扶余郡 ーーーーー  ・・・???


 ・・・みんなが知っていることをボクは知らない・・・当然であるけれど・・・「東京砂漠」・・・「東京捌く」、「東京裁く」、「勤皇佐幕」・・・なるほどネッ・・・ミンナが知らなくてダレかが知っている「秘密」・・・「阿毎王朝」は秘密にされた・・・アベちゃん・・・  タケシのTV番組・・・それにしても「年金」は兎に角、「生活保護費支給」・・・寒空の路頭で生活するよりはトリアエズは、「衣食住」が確保されるならば「ホームレス」よりも「生活保護費」をピンハネされても「ギュウギュウ詰めでタコ部屋の暖かい空間」でイノチを長らえることが出来るだろう・・・昔の強制労働のタコ部屋とは異なるのである・・・家賃五万円、食事代七万円の「生活保護費のピンハネ」の「価格」は各々の搾取される側の「価値観」である。情況によっては「パン一個の値段が10万円」でも食えればアリガタイのは「その時の人間の心情」である。ピンハネ屋は「生活保護不案内の手続きをしてくれるアリガタイ人間」なのだ・・・その日の「一ショク一パン」と「住む場所」を確保してくれる「オン」がある人物なのだ・・・役にも立たない一個100万円の「ダイヤモンド・金の塊り」をカエル人間の「価値観」と同じである・・・カネの有る奴は「ガラクタ」にも「キャバレーの一パイの酒」にも100万を払ってもイイと言う「価値観」で生きているのだ。モチロン、情況によっては「タケダ」でも一個100万のパンも買って喰うだろう・・・「価値観のレベル」は「エンゲル係数」が基準のメモリである・・・「アベ」が目指しているのは「デフレ解消」ではなく、「食糧インフレ」である・・・  以下はブログ記事とウイッキペデアを下敷きにして貼り付けて少々改作したもの・・・ダケれども・・・ ーーーーー  渤  ボチ・ホツ・水がわきたつ・・・渤海  溟渤(メイボツ)=果てしなく広い海・大海  渤泛涌   泛=うかべる(浮かべる・泛かべる)     浮かぶようにする・浮かばせる     外面に表す・表面に表し出す     思い起こす・意識に上らせる ーー  真渤特別区(シンボク-トクベツク)          ・・・特別 矩、苦、口、玖、句?  「汪兆銘」の政権  華北政務委員会により設置された  河北省の特別区 ーー  渤渤海楽  天平勝宝元年(七四九)十二月丁亥(二七日)条  奈良時代から平安初期にかけて  日本に伝来した渤海国の楽舞  平安時代以降は  右方(うほう)高麗(こま)楽に編入された  「綾切(あやきり)」  「新靺鞨(しんまか)」  「古鳥蘇(ことりそ)」などの曲 ーー  渤龍・・・上京竜泉府      (黒竜江省       牡丹江市       寧安市       渤海鎮東京城)       龍州・湖州・渤州を管轄       龍(竜)州に府治が設けられた ーー  渤公島・・・無錫(ムシャク)市、        江蘇省南部の都市に存在する        无锡市=無錫市(Wuxi)        「錫(すず)が無(ない)」・・・?        昔は        「有錫」と呼ばれたが        採掘され尽くされて        「無錫」となった・・・?        無錫市域の南部には        太湖が広がり、小さな河川が無数に流れる        江南の水郷        太湖の水産物が豊富で、古来       「魚米の郷」と呼ばれていた・・・ ーー  古代信渤の文字・・・底部外面に「代」という            文字が2箇所記された土器            山形県            飽海郡平田町の            山海窯遺跡から出土            則天文字「 青」 (正)が             1点出土した・・・? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%97 ーー  渤泥(ブルネイ)=文莱  1521年  マゼラン艦隊は・・・墨瓦蘭(マゼラン)  ブルネイ湾内に・・・文莱蘇丹(ブルネイ・ダルサラーム)  2万5千戸の  水上家屋ありと記録  渤騎=将軍の号  渤=氵+孛+力      孛=十+冖+子(孑)      孛=一+宀+一+了  類字「勃(ボツ・おこる)」の借用  「悖」=ハイ・もとる・道理に外れる      悖徳・悖反・悖理・悖戻・狂悖      「背」を代用字とするコトがある  「孛(ハイ)」=彗星・・・バイ・ボチ・ハイ・ホツ    説文解字・ 巻六(段注本)    「彗星の色=孛なり」    「論語・郷党」から「色、孛如なり」    「ほうき星・箒星・帚星」・・・ ー   ↓     帚木(ははきぎ・ホウキギ)     信濃国     園原伏屋にある木     遠くから見れば箒を立てたように見えるが、     近寄ると見えなくなるという伝説の木    「源氏物語・五十四帖・巻名」    「桐壺」に続く第二帖     光源氏と     空蝉が交わした和歌    「帚木の心をしらで     その原の道に     あやなくまどひぬるかな」    「数ならぬ伏屋に生ふる     名のうさにあるにも     あらず消ゆる帚木」  マルコ ポーロ・・・馬哥孛羅・瑪爾哥波羅  「溟渤(メイボツ)・漰渤(ホウボツ)」  「渤耳匿阿(ボルネオ)」  「勃」=ボツ      物事が急に起こる      勃起・勃興・勃然・勃発      盛んにわき起こるさま      勃勃・鬱勃(ウツボツ)  「勃牙利(ブルガリア)」・・・・ヨーグルト   Bulgaria・布加利亞・保加利亞・勃牙利  「牛溲馬渤(ギュウシュウバボツ)」   ウシの洩らす小便、ウマの排便(大便)   溲=シュウ・シュ・ソウ       ひたす・そそぐ・ゆばり・いばり       細長く水をたらしてぬらす・小便   つまらないものや、役に立たない無用なもののたとえ   「牛溲」は牛の小便、馬勃」は馬のくそ(糞)   「牛溲」は下等な薬草のおおばこ・利尿作用がある    「叟」は長老の意    「馬勃」は腐った木などに生える茸の類       ほこりだけ(ホコリ茸・誇り岳)             嶽・他家・竹・武       嶽は「岳(嶽)父」=妻の父・舅・岳翁          ガクフ=楽譜・学府        「牛糞馬涎(ギュウフンバエン)は類語  「混淪鬱渤(コンリンウツボツ」  「混淪」が物体の液状に混ざった存在様態  「鬱渤(勃)」が時間の切迫している様子?      内にこもっていた意気が高まって      外にあふれ出ようとするさま      鬱積を吐き出す寸前      こもった気が盛んに出るさま  「深於溟渤(大海)」・・・吾妻鏡  「古事記・日本書紀」の「須佐之男」の場面  「溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴?、   此則神性、雄使之然也」   ↓  「李渤」   773年~831年   字は濬之   号は白鹿先生・排行十   殿中侍御史   李钧之の子   洛陽の人   兄と   廬山に隠棲して   白鹿を飼っていた   唐の   穆宗の・・・穆(やわらぐ・ボク・モク)   考功員外郎   元和十五年(820年)   十一月   定京考官   曾、上書言   宰臣   肖免等平庸誤國   其   性情   粗放、・・・・・・「須佐之男」?   令權臣所顧忌。   後に虔州刺史   長慶元年(821年)   調任、江州刺史 ーー↓  渤海  韓国で使用される通称・・・?  渤海国の  建国  粟末靺鞨と・・・アワの末のマッカツ?  高句麗遺民  建国者  大祚栄・・・・・祚(さいわい・ソ・ゾ)  「旧唐書・新唐書」 ーー  「旧唐書」  大祚栄を  高句麗の別種  (渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也   渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり)  風俗  高句麗、契丹と同じ  高句麗から派生した種族・・・ ーー  「新唐書」  高句麗の支配下にあった  粟末靺鞨  (渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏   渤海、それ粟末靺鞨にして   高麗に附く者たり。   姓は   大氏) ーー  言語  新羅と、  高句麗・渤海とでは  言語的に隔たり  日本史学界  渤海はツングース民族  満州族の祖先  渤海は、  唐の高宗の代に  高句麗が  唐・新羅の連合軍に討滅された後、  唐の  玄宗から  渤海郡王に封ぜられた  大祚栄氏がつくった  ツングース系の国  高句麗と渤海は  満州族の祖先  高句麗(?~668年)  渤海(698~926年)  渤海国滅亡後  「遼史・高麗史」には  渤海国滅亡前の  政争に敗れた王族や貴族が  高麗へ亡命  契丹による滅亡後  大光顕などの王族や貴族が  契丹に抵抗して  渤海国を再興させたが  民衆を率いて  高麗に亡命した記載  「金史」には  渤海と対立関係にあった  黒水靺鞨が  女真族へと発展  契丹の遼を滅ぼし  金王朝を興すと、  完顔氏は  渤海王の  大氏の子孫であると自称  「大金国史」には  女直(女真)は  粛慎の遺種  渤海の別種  (又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也)  遼に囚われていた  渤海人は  女真族の  金王朝に中国文化の担い手として協力  金王朝はこれら渤海人を貴族とした  金帝国において、  渤海系貴族からは  大臣や皇后を輩出したと推察・・・  金滅亡後の金王朝  渤海人貴族は、  モンゴル帝国統治下で  女真人、  契丹人、  高麗人と共に  漢人として分類 ーー  渤海民族(?)  興遼 1029年~1030年  大渤海(大元)1116年  王を称したもの  ↓  後渤海  渤海(復興)928年~976年  渤海(大光顕の勢力)930年~934年  渤海(再興)989年~1018年  定安 938年~1003年  兀惹(烏舎城渤海)981年~996年以後  その他、渤海遺民によるもの  大鸞河の勢力 979年〜984年 ーー  渤海(ぼっかい、698年~926年)  満洲から  朝鮮半島北部、  ロシアの  沿海地方にかけて、存在  大祚栄により建国  唐からは  「海東の盛国(新唐書)」と呼ばれた  最後は  契丹(遼)によって滅ぼされた ーー  渤海は  粟末靺鞨であり  高句麗に従属  姓は  大氏  (渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏   渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏) ーー  渤海の名  遼東半島と  山東半島の内側にあり  黄河が注ぎ込む湾状の海域  初代国王  大祚栄が、  渤海沿岸で現在の  河北省南部にあたる  渤海郡の名目上の  王(渤海郡王)に封ぜられた  渤海から地理的に離れているが  国号となった ーーー  690年  武則天(則天武后)  羈縻支配地域は  唐によって  営州都督府の管轄下にあった  松漠都督府(遼寧省朝陽市)の  支配地域に  強制移住させられていた  契丹が暴動  粟末靺鞨人は指導者  乞乞仲象の指揮の下で・・・「乞乞仲象」?  高句麗の残党と共に、  松漠都督府の支配下から脱出  彼の息子  大祚栄の指導の下に  高句麗の故地へ進出  東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に  都城を築き  震国を建てた  この地は後に「旧国」と呼ばれる  大祚栄は  唐(武周)の討伐を  凌ぎながら勢力を拡大し、  唐で  712年に  玄宗皇帝が即位すると、  713年に唐に入朝する事で  「渤海郡王」に冊封された ーー  二代  大武芸は  仁安と言う独自の元号を用いてた  唐と対立して  山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領  唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために  日本へ使者を送った ーー  計34回使者が行き来  (渤海使・遣渤海使)  大武芸が没  子の  大欽茂が即位し  大興と改元  父武王の唐との対立した政策を改め  文治政治へ転換  唐へ使節を派遣  (渤海時代を通じて132回)  恭順の態度を示  唐文化の流入を積極的に推進  漢籍の流入を図ると同時に  留学生を以前にも増して送り出す  唐は  大欽茂に初めて  「渤海国王」と従来より高い地位を冊封  大欽茂  治世末期から国勢不振  大欽茂が没し、  その後  王位継承に混乱が生じ  族弟の  大元義が即位後、  国人により殺害  後は  大欽茂の嫡系の  大華璵が即位  短命で死亡  続いて  大嵩璘が即位  大嵩璘は  唐への恭順と  日本との通好  外交問題に力を注ぎ、  渤海の安定と発展の方向性を示した  治世十余年で没し  大嵩璘没後は  大元瑜、・・・瑜?・・・古事記の賢瑜  大言義、  大明忠と短命な王が続いた  6代の王の治世  合計、20数年間 ーー  大明忠が没し、  大祚栄の  弟である  大野勃の  四世の孫  大仁秀が即位  渤海は中興  大仁秀  渤海が統治する  各部族が独立傾向  渤海政権の弱体化を招来  唐は  「安史の乱」後の混乱  周辺諸国に対する支配体制も弱体化  黒水都督府を  9世紀初頭に解体  拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、  東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府など  府州を設置  黒水部も影響下に入り、  黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった ーー   子の  大彝震  軍事拡張政策から  文治政治への転換  唐との関係を強化  留学生を大量に唐に送り  唐からの文物導入を図った  渤海は、  大虔晃、  大玄錫の代まで保持  十世紀  唐が  藩鎮同士の抗争、  宦官の専横、  朋党の抗争により衰退  農民反乱により崩壊状態  大玄錫に続いて即位した  大瑋瑎、それに続く  大諲譔の時代になると  権力抗争で  渤海の政治は不安定化  唐が滅びた後、  西の  シラムレン河流域において  耶律阿保機によって  建国された  契丹国(後の遼)の侵攻を受け  渤海は  926年に滅亡  契丹は故地に  東丹国を設置して支配  渤海の制度  契丹が中原化していくに際し  唐が参考にされ、  遼の国制の特色とされる  両面官制度に影響を与えた  東丹国の設置と縮小に伴い、  数度にわたって遺民が  渤海再興を試みるが、  契丹(遼)の支配強化によって失敗  遼の保有する  遼西や遼東の各地域へ移住させられ  残留し、  一部は高麗へ亡命し  一部は故地の北方へ戻った  黒水靺鞨(女真)が統合を果たし  金王朝(1115年~1234年)  旧領に残った  渤海遺民は厚遇され  金を滅ぼした  元の代では、  華北の渤海人は  「漢人」として支配された  女真は  満洲として再び台頭 ーー  文籍院  唐の秘書省に相当し、  経籍  図書の管理を担当  長官を  文籍院監と称し、  唐の秘書督に相当する従三品  日本に派遣された  19次遣日大使の  李承英の官名が  「文籍院述作郎」とあり、  唐の述作局に相当する  「述作局」或いは「述作署」が設置されていた ーー   太常寺  唐でも  同名の  太常寺が存在  礼楽・郊廟・社稷の管理  長官は  太常卿と称され、  正三品 ーー  司賓寺  唐の  鴻臚寺に相当し、  外交と周辺の少数民族関連業務を担当  長官は司賓卿と称され、  唐の鴻臚卿に相当する従三品 ーー   大農寺  唐の司農寺に相当し、  農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当  長官は大農卿と称され、  唐の司農卿に相当する従三品 ーー  司蔵寺  唐の太府寺に相当し、  財務、貿易の事務・管理を担当  長官は司蔵令と称され、  唐の太府寺卿に相当する従三品 ーー  司膳寺  唐の光禄寺に相当し、  王廷の酒食の担当  長官は司膳令と称され、  唐の光禄卿に相当する従三品 ーー  冑子監  唐の国子監に相当し、  渤海国内の教育を担当  長官は冑子監長と称され、  唐の祭酒に相当 ーー  塩州  現在のポシェット湾岸の  クラスキノ南方の城址に比定され、  日本への出発港が設けられていた  下部に  海陽・接海・格川・龍川の  四県を管轄 ーー  扶余府  夫余の故地に設けられ、  扶州、仙州が設けられていた  扶州は府治が設けられ  扶余、布多、顕義、鵲川の四県を管轄  仙州は強師、新安、漁谷の三県を管轄 ーー  鄚頡府  夫余の故地に設けられ、  鄚州、高州が設けられていた ーー  鄚州は府治が設けられ、  現在の  昌図県  八面城に比定  粤喜、万安の二県を管轄 ーー  定理府  挹婁の故地に設けられ、  定州、潘州が設けられていた ーー  定州は府治が設けられ、  現在の依蘭県城に比定  定理、平邱、岩城、慕美、安夷の  五県を管轄 ーー  潘州は沈水、安定、保山、能利の  四県を管轄 ーー  安辺府  挹婁の故地に設けられ、  現在の双鴨山、宝清、富錦一帯に比定され、  安州、瓊州(けいしゅう)を管轄 ーー  ・・・  「遼史・太祖紀・下」に  節度使来朝の記録 ーー  渤海の司法制度  唐の文宗の時代に  大彝震の治世には法律の運用面で  国内が安定していた事を示す史料  渤海は法律面でも整備  律令格式は他の統治方式同様に  唐制を模倣  司法機関としては  中正台、礼部、大理寺が任務に当った ーー  中正台  渤海最高の監察機関  長官の大中正は官民の監督の他、  王室内部の粛清や、礼部、大理寺と  重要案件を  審議する権限を有していた ーー  礼部  渤海最高の司法機関  徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた ーー  大理寺  渤海最高の裁判機関 ーー  新羅への交通は  南京府を中心とする  「新羅道」が存在  「三国史記・地理志」には  「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載  泉井郡(現在の咸鏡南道の徳源)より  柵城府、則ち上京府までの道路  契丹との交通には  扶余府を起点とする  「契丹道」が設けられていた ーー  渤海の海上交通  唐への交通は  「新唐書・地理志」に  登州より渤海への交通路が記録  登州(現在の蓬莱県)を起点に  亀歆島(現在の砣磯島)を経て  烏湖海(現在の渤海海峡)を渡り、  更に  烏骨江(現在の靉河)を遡上し  西京府に至る  「朝貢道」と称される道程が示されている ーーー  日本への海上交通  「日本道」  起点は  上京府を基点とし  陸路  塩州(現在のクラスキノ)に至り  そこから海上を進む  「筑紫路」  塩州を出発した船は  朝鮮半島東沿岸を南下し、  対馬海峡を経て  筑紫の大津浦(現在の福岡)に至る  日本朝廷は外交を管轄する  大宰府を筑前に設置していたため、  渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、  距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった  第二のルート  「南海路」  と称されるルートである  南海府の  吐号浦を起点とし、  朝鮮半島東沿岸を南下し、  対馬海峡を渡り  筑紫に至るルート  776年に暴風雨により  使節の船団が遭難、  120余名の死者を出し  その後は使用されていない  第3のルート  「北路」  塩州を出発した後、  日本海を一気に東南に渡海し、  能登、加賀、越前、佐渡に至るルート ーー  713年  唐は大祚栄を  「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。  招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。  大祚栄の嫡子であった  大門芸が派遣されたのが初見  渤海からの質子は単なる人質としてではなく、  皇帝の謁見、賜宴を受け、  皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席  唐にて客死した場合は  位階の追贈や物品の下賜を受ける  唐滅亡後  渤海は中原王朝との外交関係を継続 ーー  突厥との関係  398年の渤海(当時は「震」)建国当初は  東突厥の躍進期に当たっており、  営州の反乱の後、  東突厥  第二  可汗国の  第二代  阿史那・・・あしな・アシナ  默啜は  唐を支援し  契丹を攻撃  渤海は、  唐による侵攻に備え、  使者を突厥に派遣し支持を獲得  代償として  渤海は東突厥の属国としての地位を甘受  東突厥から派遣される  吐屯(トゥドゥン)により  渤海は統制と貢賦の権限を与えられた  その後  唐との関係が改善  唐が  大祚栄を冊封  東突厥との関係が疎遠  大武芸が即位し  唐と対立した際、  東突厥の支援を得られなかった事で  関係悪化は確定的となり、  唐との和解と同時に東突厥と断交 ーー  734年  東突厥は渤海に使者を派遣  契丹と  奚の挟撃を打診されるが、  渤海はこの要求を拒否、  使者を抑留し唐に移送し処理を委任  東突厥との関係悪化は決定的  東突厥は内紛と唐との闘争により  745年に  回紇により  東突厥は滅亡 --  契丹との関係  720年  唐が渤海に対し  契丹  及び  奚への攻撃を打診  冊封体制下の  渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、  拒否  唐との関係が改善  渤海と契丹の関係は冷却化  それは  渤海後期に  扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく  常備軍を駐留させた記録  渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れる  契丹王室の  轄底が渤海へ亡命  渤海の風俗  「高麗、契丹と略等し」 ーー  926年  契丹人による国家、  遼により滅ぼされ、  その故地には  東丹国が建国 ーー  新羅との関係  698年  震国が建国  新羅はかつての  百済全土  高句麗の一部を領有  北進政策を採用して  渤海の安定を脅かす  渤海は唐と対立しており、  唐の脅威を抑え、  同時に  新羅の北進を牽制するため  新羅に接近する政策を採用  新羅の藩屏と称し、  新羅の五品の官職  大阿飡を授位  渤海と唐の関係が好転するに従い、  渤海と新羅の関係は変質し、  大武芸の時代になると  高句麗の故地の回収が目標となり  両国関係は緊張  721年  新羅が北辺に長城を築城 ーー  渤海と唐が  「登州の役」で対立した際、  新羅は唐の出兵の求めに応じ  渤海を攻撃するが  新羅軍は大損害  唐と新羅の対立を政治的に解消  新羅はこの功績により唐から  寧海大使の地位を与えられ、  浿江以南の  高句麗の故地統治を正式に承認させ  渤海を牽制 ーー  新羅との対立  渤海は  日本と通好  新羅を背後から牽制  安史の乱に際し、  渤海は日本と共同して  新羅挟撃を計画  藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫  軍事的解決の姿勢を放棄  新羅側から  790年に  一吉飡(7品)の  伯魚を、  812年に級飡(9品)の  崇正を渤海に派遣  大仁秀の即位  両国の均衡は崩壊  826年  新羅の  憲徳王が  浿江に300里の長城 ーー  両国の関係が好転するのは十世紀の  契丹の勃興という外的要因による。  渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解。  当時の新羅は国勢が衰退し、  既に後三国の時代に入っており、  軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、  渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。  新羅は一面で  渤海に同調するそぶりを見せ、  反面  遼に使者を送り方物を献じる二面外交を展開。  遼が王都の  忽汗城を包囲した際には、  新羅は渤海に出兵し、  この軍功により  耶律阿保機により褒賞。  回紇との関係  回紇(ウイグル)は  鉄勒諸部の一つであり、  バイカル湖南方で遊牧生活。  八世紀半ばに東突厥を滅ぼし、  唐を支援して  安史の乱を平定するなどの軍事活動を行った。  経済活動も活発に行われ、  渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。  回紇商人の足跡は上京府以外にも、  率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、  古ウスリーク城からは  突厥文字が刻字された回紇人の遺跡が、  沿海州の  チャピゴウ河岸の渤海寺院跡から出土した  景教の陶牌からも  回紇人の渤海に於ける活動を示している。  文化・経済交流は  840年に  回鶻(回紇)の政権崩壊により消滅した。 ーー  黒水靺鞨との関係  渤海建国  当初は  黒水靺鞨諸部は独立した勢力  唐との対立と、周辺諸部に対する  支配強化を推し進める渤海は  黒水靺鞨に対し懐柔策。  当初は突厥の支配を受けていた  黒水靺鞨であるが、  次第に突厥の支配を脱し  唐へ帰属する路線への転換。  722年に首長の  倪属利稽が朝見  勃利州刺史に冊封され  黒水府を設置するに至ると、  唐と  黒水靺鞨による  渤海挟撃を危惧した  大武芸は黒水靺鞨に出兵。  大欽茂が即位  唐と関係改善し  黒水靺鞨とも緩和。  大仁秀の時代  渤海により海北諸部の討伐  黒水靺鞨は渤海に服属し、  独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、  渤海の統治に対する反乱が発生し、  黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、  直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。  9世紀になると、  黒水靺鞨は新羅との連盟を模索  自立の道を探り、  渤海の衰退により  黒水靺鞨に対する統治が弱体化  渤海の従属的地位を脱し、  924年には後唐に使節を送るようになった。 ーー  日本との関係  「渤海使」、「遣渤海使」  渤海と日本の関係は  当初は  新羅を牽制するための軍事的性格  唐から独立した  渤海であるが、  大武芸の時代には唐と対立  周辺情勢は  黒水部は唐と極めて親密  新羅もまた唐に急速に接近  渤海は孤立  大武芸は  新羅と対立していた  日本の存在に注目  727年  渤海は  高仁義  を日本に派遣  初めての渤海使は、  蝦夷とによって殺害・・・?  生き残った  高斉徳  他八名が  出羽国海岸に漂流し、  翌年  聖武天皇に拝謁  引田虫麻呂ら  六十二名を  送渤海客使として  派遣し  軍事同盟的な交流  渤海と唐の関係改善が実現すると、  日本との関係は軍事的な性格から  文化交流的、商業的な性格を帯びる  交流は  926年  渤海滅亡時までの  200年間継続  日本海側の、  金沢、敦賀、秋田城などからは  渤海との交流を示す遺物が発掘 ーー  渤海の漁業  唐へ奉献した方物の中に  「鯨魚睛」と称される  鯨の眼球が含まれていた  特産品として  湄沱湖(現在の興凱湖)の  鯽(フナ・鮒)や、  忽汗海(現在の鏡泊湖)の  「湖鯽」などが記録  文昌魚(鯉の一種)、  鰉魚(チョウザメ・長鮫)、  大馬哈魚(鮭)、  斑魚、  鯔魚などが記録 ーー  貂(てん・チョウ)  日本の貴族間で珍重された  貂皮(チョウヒ) ーー  日本に送った国書の中で  「皮幣」の文字を使用している  873年に日本で貿易を行った際に、  「賜銭」を得て日本の物産を購入  滅亡に際して  耶律阿保機が  「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたとあり  貨幣が流通していた ーー  菅原道真と渤海の使者との間で  漢詩の応酬が行われた  上流階級では女子に対する教育も実施  貞恵公主や  貞孝公主の墓碑に  「女師」の文字がある ーーーーー 668年 唐により高句麗滅亡、    平壌に安東都護府を設置。    高句麗遺民は満洲の営州に強制連行される。 671年 唐・新羅戦争始まる 697年 契丹・李尽忠の乱。    靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走。    唐、安東都護府を廃止。 698年 大祚栄、震国建国 705年 大門芸が唐に入侍。    唐による侍御史を震国に派遣。    安東都護府復活。 713年 唐、大祚栄に渤海郡王に冊封 719年 大祚栄卒し、大武芸即位 721年 新羅による東北国境での長城建設 722年 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使 725年 唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される 726年 大武芸の弟・大門芸、唐に亡命 727年 渤海、高仁義らを日本に派遣。    蝦夷地に漂着したため    高仁義等多数が殺害され、    残った者が    高斉徳に率いられ入京 728年 日本、送渤海使を派遣 732年 渤海の将    張文休、水軍を率いて    山東の蓬莱港を占領 733年 唐、    大門芸に命じて    渤海を攻撃させるが、    大雪のため失敗 738年 大武芸卒、    大欽茂即位 739年 遣唐判官の    平群広成、渤海使とともに帰国 746年 渤海人及び    鉄利人1100人    出羽国に漂着 749年 この頃、    旧国より    中京顕徳府に遷都 755年 この頃、    中京顕徳府から    上京龍泉府に遷都 762年 唐、    大欽茂を渤海国王に冊封 774年 大興から宝暦に改元 777年 日本の    舞女十一人を唐に献上 779年 渤海人通事、    日本の朝廷で    鉄利人と席を争う 785年 上京龍泉府から    東京龍原府に遷都 790年 新羅、    伯魚を渤海に派遣 793年 大欽茂卒。    弟、    元義が即位するが廃位され、    嫡孫が即位。    都を    東京龍原府から    上京龍泉府に戻す。 798年 唐、    大嵩璘を    渤海国王に冊封 809年 唐、    大元瑜を    渤海国王に冊封 810年 日本からの最後の    第15次遣渤海使 812年 新羅が崇正を派遣 813年 唐、    大言義を渤海国王に冊封 818年 唐、    大仁秀を渤海国王に冊封 821年 王文矩を    日本に派遣 826年 新羅、渤海との国境に長城を築く 830年 大仁秀卒、    大彜震が即位    咸和と改元。 833年 賀守謙を    幽州盧龍節度使に派遣    唐、    張建章の渤海遣使。 853年 張建章が    幽州に戻り    「渤海記」を著す 860年 李居正を日本に派遣 906年 宰相の    烏炤度を唐に遣使。    その子の    光賛、賓貢に及第。 907年 唐滅亡 911年 大光賛を    後梁に派遣 918年 遼に使節を派遣 919年 最後の渤海使を日本に派遣 924年 渤海軍、    契丹軍占領中の遼東に反攻 925年 契丹軍、    渤海の    扶余府に侵攻。    礼部卿の    大和釣ら100戸を率いて    高麗に投降 926年 契丹軍、    上京龍泉府を攻略    渤海滅亡。    契丹、渤海故地に    東丹国設置。 928年 東丹国、遼陽に遷都 929年 東丹国使、来日 930年 日本との通交が絶える。    以後、    東丹国が史料から消滅。 ーーー 1.高王 大祚栄(698年 - 718年) 2.武王 大武芸(718年 - 737年) 3.文王 大欽茂(737年 - 793年) 4.大元義(793年 - 794年) 5.成王 大華璵(794年) 6.康王 大嵩璘(794年 - 808年) 7.定王 大元瑜(808年 - 812年) 8.僖王 大言義(812年 - 817年?) 9.簡王 大明忠(817年? - 818年?) 10.宣王 大仁秀(818年? - 830年) 11.大彝震(830年 - 857年) 12.大虔晃(857年 - 871年) 13.大玄錫(871年 - 895年) 14.大瑋瑎(895年 - 907年?) 15.大諲譔(907年? - 926年) ーー  渤海国の継承国家  皇帝を称したもの  興遼 1029年 - 1030年  大渤海(大元)1116年  王を称したもの  後渤海  渤海(復興)928年 - 976年  渤海(大光顕の勢力)930年 - 934年  渤海(再興)989年 - 1018年  定安 938年 - 1003年  兀惹(烏舎城渤海)981年 - 996年以後  その他、渤海遺民によるもの  大鸞河の勢力 979年 - 984年  契丹によって渤海の故地に設置されたもの  東丹 926年 - 930年  渤海国の王室である  大氏の後裔を自称したもの  (血縁として繋がってはない)  金 1115年 - 1234年  渤海の元号  仁安 : 720年-738年  大興 : 738年-794年  宝暦 : 774年-?年(大興の一時期を改元使用)  中興 : 794年  正暦 : 795年-809年  永徳 : 809年-813年  朱雀 : 813年-817年  太始 : 818年  建興 : 819年-831年  咸和 : 831年-857年 ーーーーー  ・・・?・・・渤海・・・海水が勃起状態になる現象は地震による津波か、海底火山の爆発・・・?


 ・・・「何度、ナンド」も、「繰り返し、クリカエシ」、同じ事を「貼り付けたり」、「書き込んだり」している・・・ボケ防止にはなっているかな・・・  「歴史上の人物の名前」がナゼ、怪しいと考えないんだか、不思議である・・・「姓名判断」を巷の「占い師」にマカセていたら「アカンぞなモシ」・・・歴史学者も、国語学者も、言語学者も・・・「アカンな、ぞ、モシ」・・・「アカンなどモシ」・・・  「~ぞなもし」「~なもし」→「~ですよ、ねぇ」  ・・・「何=イ(人)+口+丁(ひのと・チョウ・テイ)」だが、人の「クチョウ=口丁、口調・クテイ=句体、句綴、句態、口訂」・・・しばらく人間との会話も無く、ニャンコのモモとブブとの会話があるのみだが・・・独り言もブツブツ・・・オオイ・・・ ーー  土佐弁や広島弁などにも類似語彙・表現が見られるが、土佐弁より伊予弁の方が一般的に語調にソフトな表現が使用される傾向がある・・・「~ぞなもし」「~なもし」→「~ですよ、ねぇ」・・・  「‎伊予弁」に関連した「ぞなもし」・・・  ・・・  「ぞな、もし」という風に区切る説・・・?  「これはチョコぞな、もし」・・・?  「なもし」には敬意を表す助詞の役目がある・・・?  ・・・「ぞなもし」とは「伊予あたりの方言」で、半ば疑問形の呼びかけ、問いかけの意味合いを含んだ表現・・・「ぞな」は「なぞ」なモシ・・・ダガヤ、ッ・・・  「ではないですか」に近い・・・  「ではないです、か」  「ではない、ですか」  「では、ないですか」  「で、はないですか」  「では、ない、で、すか」  「ではな、い、です、か」  「ではない、です、か」  「ではないで、すか」・・・?  「で、はな、い、です、か」・・・困ったァ~、オッカサン、伊予、愛媛、愛知、ニッポン・・・パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム(Parsley,Sage,Rosemary and Thyme)・・・ サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)・・・サイモン&ガーファンクル・・・スカボロー・フェア(スカボレフェア?)・・・コンドル・・・卒業できない・・・ ーーーーー  霊思何皇后  父は何真  母(舞陽君)は  何真の後妻であり、  何進は異母兄、  何苗(朱苗)は異父兄  妹が宦官  張譲の子(養子?) ーー  霊帝の皇后であった  宋氏が寵を失い、間もなく  宦官の讒言により  無実の罪を着せられ廃された  何氏が皇后に立てられた・・・霊思何皇后 ーー  何進(カシン)  ?~  光熹元年  (189年)八月二十九日旧暦)  中国後漢末期の武将、政治家  字は  遂高  南陽(河南省南陽)宛の人  霊帝の  皇后(霊思何皇后)  何氏の異母兄  父は  何真  継弟(義理の弟)は  何苗(朱苗)  孫に  何晏 ーー  何姫・・・・・・・・・・・ナンの秘密→姫=足  春秋第三部 ーー↓  「呉の孫氏」収録人物   何氏(カシ)・・・・・・・ナニのウジ  名と字(あざな)は不詳  丹楊郡(タンヨウグン)・・・単葉群・探要訓  句容県(コウヨウケン)・・・句用懸(件・兼)  生没 ?~?年 ーー  他氏改姓。  东汉灵帝大将军  何进异父弟朱苗为车骑将军,  改姓何。  另有南方郝姓由于古代语音流传后  来书  写作何。  西汉时有蜀郡  何氏,东汉时有扶风何氏、南阳何氏,  魏晋时有陈郡  何氏,  说明四川、安徽、陕西、河南  均有  何姓分布。  何氏主页 ーー  何氏渊源  何氏宗族的起源根  据古代历史文献的记载和历史传说,  何源于韩,即何氏  宗族的韩氏转化而来。  早在西周初期,韩与郑、  晋,应为  周武王之支子,  成王之叔,  以功封于韩,  为古韩国  世界何氏宗亲总会网站 ーー  广东何氏书画院揭牌仪式暨书画展在穗举  宜春何氏召开宗亲联谊总会筹备工作会议  华葛集团高层在海南考察  何贵在渝  在穗举行紫砂及书画作品拍卖同期进行来源  世界何氏网上传  本站广州讯(何涵报道)  广东何氏书画院揭牌仪式暨 ーー  公羊・・・・・(系統)句用?  何氏  釈例  世界大百科事典第2版  公羊何氏釈例・・・?   ↓  羊頭狗肉は「羊頭を掲げて狗肉を売る」  出典は  中国宋時代の  禅書  「無関門(ムカンモン)」  店頭の看板には  「羊頭(羊の頭)」を掲げ、  実際には  「狗肉(犬の肉)」を売る意味  見せ掛けは立派だが実物は違う、の意味  牛頭馬肉→洋頭馬脯(馬肉)→羊頭狗肉  ↓  晏嬰(アンエイ・?~紀元前500年)  春秋時代の  斉の政治家  氏は晏  諱は嬰  字は仲  諡は平  莱の夷維の人  父は晏弱(晏桓子)  子は晏圉(アンギョ)  霊公、荘公光、景公の三代に仕え、  上を憚ることなく  諫言を行った。  名宰相として、  晏平仲、晏子と尊称  「史記・管晏列伝」  晏嬰は身長が「6尺(周代の1尺は22.5cm)に満たず」  社稷(国家)を第一に考えて上を恐れず諫言  人民に絶大な人気を誇り、君主も彼を憚った  質素を心がけ、肉が食卓に出ることが稀だった  狐の毛皮を仕立てた一枚きりの服を、  三十年も着ていた  倹約さを示す故事成語  「三十年一狐裘」  「豚肩豆を掩わず」 ーー  霊公の時、女性の間で男装をすることが流行  霊公は禁令を出した  流行は霊公の妃に男装をさせていたからひろまった  晏嬰は  「牛の頭を看板に使って   馬の肉を売っているようなもの。   宮廷で禁止すればすぐに流行は終わる」  と諫言  「牛頭馬肉」が、後に変化して  「羊頭狗肉」になった  晋との戦いで敗北  霊公が逃亡しようとしたので、  「まだ戦えるのにどうして逃げるのですか」  と諌言  逃亡の際、霊公の袖を晏嬰が引きちぎってしまい、  霊公がその無礼に怒って剣に手をかけたが、  晏嬰は  「私を斬り捨てる勇気を持って敵と戦って下さい」  と言うが  霊公は  「お前を斬り捨てる勇気がないから逃げるのだ」  と首都  臨淄へ逃げ帰った  荘公の時  紀元前551年  晋の卿(大臣)の  欒盈(ランエイ)が  士匄(范匄)との権力争いに敗け  斉へ亡命  荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、  晏嬰は反対した  荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、  晏嬰は職を辞して田舎にひきこもりた  荘公は、  宰相  崔杼の妻と密通  怒った崔杼は  紀元前548年5月  自邸に荘公をおびき寄せ、私兵をもって殺した  これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。  荘公を悼む様子を見せれば  崔杼によって殺され、  崔杼に阿(おもね)れば  不忠の臣としての悪名を受ける  晏嬰は  「君主が   社稷(国家)のために死んだのならば私も死のう。   君主が   社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。   しかし   君主の私事のためならば   近臣(直臣)以外はお供する理由はない」  と言って、型通りの哭礼だけを行って帰った。  崔杼の配下は晏嬰を捕え殺そうとしたが、  崔杼は  人民に人気がある  晏嬰を殺すのはまずいと考え、これを止めさせた。  その後、  崔杼は  慶封と共に  景公を擁立  反対派を圧迫するために皆を集めて  「崔・慶に組しない者は殺す」  と宣言した。  しかし晏嬰はこれに従わず  「君主に忠誠を尽くし、   社稷のためになる者に従う」  と言い返した。  崔杼と慶封は政権を握るが、  崔杼は  紀元前546年に  慶封により殺され、  慶封も  翌紀元前545年  陳無宇や  鮑氏(鮑叔の子孫)  高氏  欒氏に攻められて滅びた。  この時  晏嬰は彼らの戦いを  私闘として  景公を守った。  景公に信任されて宰相の地位に上り、  田氏一門の  司馬  穰苴を推薦  紀元前540年  晋へ使節に行った時  晋の  名臣  羊舌肸(叔向)と会い、  「田氏(陳無宇・田乞親子)は  民に人気を取っているので、  斉は田氏に取って代わられるかもしれない」  と言った。  約150年後に実現 ーー  使節として  楚へ行った際に、  楚の城門に来た  晏嬰が  小男なのを見て、  楚の案内係は  大門の横の  狭い潜り戸に  晏嬰を案内した。  晏嬰は  「他国の使節を、   犬を入れる門で迎えるなら、   それは犬の国だ。   楚国は今日使節として来た私を、   この戸から入らせてよいのか」  と言った。  案内係は、大門を開いて晏嬰を入らせた。  王との会見で、  王は貧相な晏嬰を見て  「いったい、斉には人がいないのか」  と言った。  晏嬰は答え  「(斉の)臨淄は街路300余り、   人々が袖を広げれば日も遮られ、   人々が汗をふるうと雨となり、   肩と肩、踵と踵がぶつかるほどに人がいます。   人がいないことがありましょうか」  王  「では何故、貴殿のような者を使節によこしたのか」  晏嬰  「斉が使節を任ずるには適性により、   賢王のもとには賢者を、   不肖の王侯には不肖の者を使節に遣わします。   自分は最も不肖なる者ゆえ、   楚国に使節として使わされました」  と答えた。  会見のさなか、役人が縛られた者を連れてきた。  王は「それは何者か」と聞いた。  役人は「斉人です」と答えた。  王はまた「何をしたのか」と聞いた。  役人は「泥棒です」と答えた。  王は晏嬰に向かい  「斉の者は盗みが性分なのかね」  と聞いた。  晏嬰は、  「江南に橘という樹があります。   これを江北に植えると橘と為らずして、   棘のある枳と為ります。   これは土と水のためです。   斉人は斉に居りては盗せず、   その良民が楚に来たれば盗みをいたします。   何故でしょうか?   楚の風土のせいでございましょう」  霊王  「聖人に戯れんとして、却って自ら恥をかいたか」  と苦笑いした(南橘北枳の語源)  その後も折に触れ、景公に対して諫言を行った。  紀元前500年  晏嬰は妻に対して家法を変えぬようにと遺言して死去  晏嬰が危篤に陥った時、  景公は海辺に遊びに行っていた。  そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、  馬車に飛び乗って臨淄に向かった。  景公は馬車の速度が遅いと、  御者から手綱を奪い取り自ら御を執った。  それでも遅いので、  ついには  自分の  足で走った。  晏嬰の邸に着くと、家に入り、  遺体にすがって泣いた。  近臣が、  「非礼でございます」と言ったが、  景公は  「むかし夫子(晏嬰)に従って   公阜に遊んだ時、   一日に   三度わしを責めた。   いま誰が   寡人(わたし)を責めようか」  と言い泣き続けた。  死後、  「平」を諡され、  「晏平仲」と呼ばれるが、後世の人々は  「晏子」と尊称した。・・・?  ・・・「子」の漢字は「尊称」・・・ ーー  何(なに・なん・カ)  ↓  何氏家谱、  何氏家谱网、  何氏族谱、  何氏族谱网、  何家谱源流、  何姓文物古迹、  何姓人物、  何氏论坛、  何姓起名交流、  何氏起源、  何姓名人、  何姓图腾  何氏公羊春秋十論  坿  春秋  天子  二伯  方伯卒  正附  庸  尊卑 ーーーーー  何皇后(カコウゴウ・?~189年)  後漢の  霊帝の皇后  少帝弁の生母  皇太后・・・・・コウタイゴウ  諱は不明  諡は思・・・・・?  諡号として  夫の諡を重ねて  霊思皇后・・・・?  レイシコウゴウ・?・・・霊視(例詞)交合  父は  何真  母(舞陽君)は  何真の後妻で名は不詳  何進は  皇后(思)の異母兄  何苗(朱苗)は  皇后(思)の異父兄  皇后の妹は  宦官  張譲の子(養子?)の妻 ーー  南陽郡宛(河南省南陽市)の  家の出自  賄賂を用い  宦官の伝手で後宮に入る  ↓  同郷の宦官の  郭勝であるという  「後漢書」 ー↓  霊帝の寵愛を受け、  男子(少帝弁)を生む  気が強く、  後宮の  和を度々乱した・・・ワをミダス  霊帝の皇后であった  宋氏が寵を失い、  間もなく  宦官の讒言により  ↓  「霊思何皇后紀の注・風俗通」  戸籍調査の役人へ賄賂を渡しており、  宦官ではない・・・  ↓  無実の罪を着せられ廃された  何氏が皇后に立てられた  (180年)  父に  車騎将軍と  爵位を追贈  母に  舞陽君を贈った・・・ブヨウクン  霊帝の寵妃であった  王美人が  ↓  扶風平陵の人で、  父は  執金吾に・・・・・?  取り立てられた  宦官の  王甫が調略により死に追いやった  皇族の夫人と縁戚であったため、  報復を恐れた  王甫が  霊思何皇后に  讒言をして無実の罪を着せ、  自害に追い込ませ  一族は  三族皆殺しの刑に処せられた  無辜の死であったため、  愛惜しない者はなかった  ↓  霊思何皇后は  劉協(献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、  王美人を毒殺  霊帝は激怒し、  何氏は廃されそうになるが、  宦官の取りなしにより免れた  189年  霊帝の崩御後  少帝弁が即位  何氏(霊思何皇后)は  摂政皇太后となった  政敵であった  董太后との争いに勝ち、  ↓  董・・・・董(ただす・トウ)       見張る・監督し管理する        「威をもってこれを董す・董狐の筆」       権勢を恐れず、ありのままに歴史に書き記すこと       董(トウ)       漢姓の一       袁紹は       董昭を参軍事とした       公孫瓚の勢力が盛んで、       鉅鹿太守の       李邵をはじめ、       郡内の大半が       公孫瓚に味方       董昭は計略を用いてこれを鎮めた       魏郡でも反乱が起き、       太守が殺害され時、       董昭は、袁紹の命令で魏郡太守の       事務を引き継ぎ、       謀略を用いて反乱を鎮圧    「董=董+灬=ただす・トウ」の類字は「勲」       勲(かおる・クン)・・・薫の君       薫製・燻製・・・訓所為 ーー↓  董太后        趙国の人で、  祖父は  五官中郎将  河間の人  霊帝の生母で、  桓帝の未亡人である  竇太后が死去した後、  朝政に関与するようになり、  一族の  董重を取り立てて  官職に就けるとともに、  一部の宦官と結託して権勢を振るった  劉協を養育していた  ↓  董太后を洛陽から追放(のち謀殺?)  何太后の政権を支える  大将軍の  何進と宦官(十常侍)とが争い、  何進が  袁紹たちと共に  十常侍の殺害を計画  宦官とも結託していたため、  弟の何苗と共に何進の計画に反対  何進と十常侍は政争の末に共に滅び、  何苗も殺害  洛陽に入った  董卓が権限を手中にした ーー  董卓は董太后と同族である  ↓  趙国の人で、  祖父は  五官中郎将  河間の人  霊帝の生母で、  桓帝の未亡人である  竇太后が死去した後、  朝政に関与するようになり、  一族の  董重を取り立てて  官職に就けるとともに、  一部の宦官と結託して権勢を振るった  劉協を養育していた  ↓  董太后の報復として  何氏を排除しようとした  董卓は  何太后を脅迫  少帝の廃位を実行  董太后が養育していた  劉協を皇位に就かせ  何太后の  董太后に対する振る舞いが  孝の道に叛く行いだと問責し、  永安宮に幽閉して、後に殺害  何太后は  霊帝の陵に合葬されたが、  董卓は  霊帝の陵の  副葬品をことごとく奪った  (董卓伝)・・・?・・・「ただす、卓」である ーー↓  何太后は  小説「三国志演義」では  董卓の命令を受けた  李儒に毒酒を勧められるが、  毒による自害を拒否したため、  幽閉された塔の上から  李儒に突き落とされることになっている

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