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『則天武后』と「現存・古事記」(1)・(51) 『則天武后』と「現存・古事記、現存・日本書紀」


 「唐」を「周王朝」とした「絶対専制」の素晴らしき「女帝」

『則天武后』と「現存・古事記」(1)・(51) これから展開していく「現存・古事記」、「現存・日本書紀」の「下敷」は何か?と云う私の「アソビ」に関しては、そのほとんどが澤田瑞穂氏が僅か「二十日間」で脱稿したとおっしゃる「則天武后・中国の英雄⑦・(集英社・昭和六十一年発行)」を参考にさせてもらったモノである・・・こんな本を「二十日間」で書き上げれる先生の博識には驚嘆と敬意、敬服の「念」である。しかも私はこの「20日(はつか)間」や「念(ネン)」と云う「コトバ」に執着し、「古事記」や「日本書紀」との関連に妄想をタケて、もはや数年以上も経っているのだからナオサラである。だが、残念ながら澤田瑞穂先生のこの著書には「日本(倭)」と「唐」との関係の叙述に関しては「毛」の生えた程度のことしか言及していなかった。マァ、私の興味と先生の目的が違うのであるからしょうがない・・・カナ。 とにかく、「唐」に関しての資料的な原文や文献は過去の日本の研究者がヤマほど多数いることであるし、図書館に行けば簡単に手に取って読むことが出来るハズであるから私の「孫ひきの引用」に疑問があればあなた自身が調べてサイ確認してもらうより他にない。  私の「アソビ」はナンでもカンでも「文字が掛けられてイルのを捜し出すコト」であるから、例のごとく「 」や( )、カタカナ、年号、国名、国号、年齢、地名、姓名、字(あざな)、号(號)に注意して「同音異字漢字」を考えてみてようと云うことだ。ここでは前述した『秦(はた・シン)』の『秦』に注目しながら「初唐」から「則天武后」の登場とその活躍を『現存・古事記』や『日本書紀』に関連させて検討して行きたい。  「隋王朝」最後の皇帝「恭帝」の「義寧二年(618)五月」に、「唐王」であった『高祖(李淵)』は皇位を譲位されて国号を『唐』とし、年号を「武徳元年」として「長安」を都と定めた。 『高祖(李淵)』の遠祖は『胡族』であった。「胡(コ・ウ)」とは唐時代では「西域の人々」であり、近世日本人が「胡」と 云うときは一般的に「西欧人」の意味に使われる。しかも前王朝『隋』もそうであり、『高祖(李淵)』は元々が『隋王朝・煬帝(ヨウダイ)』の「一武将」に過ぎなかったのだ。  『高祖(李淵)』には「三人の息子」がいた。『①建成(皇太子・息王・隠)』、『②世民(秦王)』、『③元吉(斎王・刺王)』である。  この次男の『②世民(秦王)』は、『高祖(李淵)』が権力を握ってからの「七年間」各地の群雄を制覇するのに他の兄弟を抜きんでて多大な貢献をした。もちろん、名声と賞賛は彼に集中し、「武徳四年」には「天策府(軍事参謀本部)」の『天策上将』となっている。また学芸方面でも「文学館」を設け、『房玄齢』、『杜如晦』、『于志寧』、『蘇世長』、『姚思廉』等の『十八学士』を集め、この「文学館」に参加出来るものは『登瀛州(トウエイシュウ)の士』と言われたエリート達であった。これらの名前の一字、一字をヨォークみて、その意味を調べて欲しい。『十八学士』とは次の人物達の「名前」である。  『房・玄・齢』・・・ボウ・ゲン・レイ・・・暴言例  『杜・如・晦』・・・ト ・ジョ・カイ・・・図序解  『于・志・寧』・・・ウ ・シ ・ネイ・・・得詞(史)音意・牛(丑)根意  『蘇・世・長』・・・ソ ・セイ・チョウ・・蘇生調・組成帖  『姚・思・廉』・・・ヨウ・シ ・レン・・・養子連・葉試練・用史鎌  『薜・収』・・・・・セツ   ・シュウ・・接収  『緒・亮』・・・・・チョ   ・リョウ・・著漁  『陸・徳・明』・・・リク・トク・メイ・・・理句特命(特明・匿名)  『孔・頴・達』・・・コウ・エイ・タツ・・・控栄達  『李・玄・道』・・・リ ・ゲン・ドウ・・・裏言動  『李・守・素』・・・リ ・シュ・ソ・・・・裏諏蘇  『虞・世・南』・・・グ ・セイ・ナン・・・愚生何・具世難  『蔡・允・恭』・・・サイ・イン・キョウ・・載(歳)隠教・斎寅(虎)経  『顔・相・時』・・・ガン・ショウ・ウジ・・元相似・彦相似・諺相似  『許・敬・宗』・・・キョ・ケイ・ソウ・・・嘘(挙)係争  『薜・元・敬』・・・セツ・ガン・ケイ・・・洩贋経・切願経・説贋経  『蓋・文・達』・・・ガイ・ブン・タツ・・・外聞建・我意聞達・臥意文多柘  『蘇・助(日+助)』・ソ・キョク・・・・・素曲・蘇極・姐曲・組局・措旭  『登瀛州(トウエイシュウ)』とは「仙人のいる国の山に登る」と云う意味だが、上流階級の文学サロンの場であると同時に『②世民(秦王)』の政治顧問的な立場の人々の集まりの場でもあった。「蓬莱山」は「支那中国」にとって「東方に存在する国(日本)」にあった。「秦の始皇帝」が「徐福(徐市=ジョフツ・市は前掛け、エプロンで、市場の市と類字)」を派遣させた国である。「ジョイチ(序位置)」で「蓬莱の山」が「ヨモギ(世模擬・代模擬・預模擬・豫模擬)のサン(纂)」ならば、「徐(ジョ・おもむろ)」は「やす(安)・ゆき(倖))」とも訓んで、「やすらかに、静かに、穏やかに、ゆっくりと、徐行」の意味である。これを「現存・古事記+序文」ならば、その解読は、  秦の始皇帝・・・・・・・・振(シン)、思考(シコウ=試行)、綴(テイ)  徐福(ジョフク)・・・・・序伏(女覆・助夫苦・鋤伏)    ↓    ↓                 フ=父・婦・普・斧・釜・附  徐市(ジョフツ)・・・・・序附柘           ↓ ↓ ↓  市は前掛け・・・・・・・ 位置は膳家        ↓ ↓ かま=鎌  徐(ジョ・おもむろ)・・ 緒模武賂          ↓ おの=小野  やす(安)・・・・・・・・・康・靖・哉州 ならぶ=奈良の武  ゆき(倖))・・・・・・・・逝き・雪  やすらかに・・・・・・・・安(耶州)拉(・・羅・裸・螺)掛似  静かに・・・・・・・・・・・試図掛似(尼・迩・爾)  おだやかに・・・・・・・・織田家掛似  ゆっくりと・・・・・・・・・ 喩(楡・にれ=似例)柘句理  徐行(ジョコウ)・・・・・序校・女皇  である。「徐福(徐市)」の姓を有する人物は『徐皆(金+皆)』や、彼の兄『徐鉉』で『説文解字』に注釈と校注をつけた人物であった。ようは「漢字」の意味説明である『説文解字(漢の許慎の著・三十巻)』に更に説明を加えたのだ。そして、私は『セツモンカイジ=設問開示(窃文快事・切分改字・節分回時・洩文海事)』、「接分晦示」、「鱈文廻持」と漢字をヨムのだが・・・ワカルかな「日本北海の深海に棲息するサカナは、スケトウ鱈。その卵はタラ子」で、「肝臓からは肝油(キモあぶら・カンユ)を採る魚(真名)」であることが・・・「カイジ」の濁点を「ガイジ」、「ガイシ」にすれば、その「漢字」でもっと化解、理解、深解出来るだろう・・・?・・・とにかく、「蚊(カ・あぶ=虻=阿武)の意思」である。「阿武」、「阿武郡」、「阿武隈高地」、「阿武隈川」、「虻田」とは何処にある地名か?・・・「緯度(34度30分)」や「伊達」に関係しているのだが。「接吻貝示」は「kiss」のカタチではあるな・・・「キス(帰す・期す・記す)」か「キソ(基礎・木曾・起訴)」、「ギス(議す・欺す)」、あるいは「キズ(傷・鬼都・基図・亀頭)」だ。「キシ(吉士)」なら「阿部の配下」の「海士(船史恵尺)」で、「騎士・棋士・貴誌」であるワケだ。「ナイト(knight・night)」で、「名意図(異図)・名伊都・拿糸・拿緯度」である。とにかく、世界地図でその線、「緯度(34度30分)」をひいて調べてくれ・・・  『登瀛州(トウエイシュウ)』の『瀛(エイ)』の漢字に関しては既に述べたが「天武天皇(大海部皇子・大海人皇子)」の『諡号』であった。スナワチ、『天渟中原瀛真人尊』である。「秦の始皇帝」の姓は『瀛(エイ=大洋・大海)』に類字する、「・」で、  『(瀛)-(水)=エイ(あまり・余り)』 であった。「あま・り」の音を採れば「海部・海士・海人・海女・尼」の「里・吏・履・裏・利・理」で、  海部・海士・ 海人 ・海女・尼・ 女   ↓  ↓   ↓   ↓  ↓  ↓   里 ・吏 ・履  ・裏 ・利・ 理  である。「登」は「トウ・ト・のぼる」だ。「登瀛(トウエイ)」ならば「東栄・東映」で「投影」である。若い世代の人は知らないだろうが、昭和二十年代に生まれた人ならばその記憶の片隅に「東映映画」のスター、「市川歌衛門(旗本退屈男)」、「片岡千恵蔵(多羅尾伴内・丸橋忠弥・大石内蔵之介)」、「月形龍之介(水戸黄門)」、「大友龍太郎(むっつり右門・怪傑黒頭巾)」、「中村欽之助(一心太助)」、「東千代之介(雪之丞変化)」、「大川橋蔵(銭形平次・月形半平太)」等を思い出すことが出来るカナ。加えるに「一宿一飯」の役座な渡世で義理と人情に命を張ったのは「鶴田浩二(兄貴)」と「高倉建(舎弟)」であった。正月映画は云わずと知れたオールスター勢ぞろいの「赤穂浪士」の「吉良邸」への討ち入りでござる・・・ゼェ~ンブ、「時代劇の筋」が「古事記」に掛かッちゃう!?・・・なんせ「東映」映画のヒットとは、子供向けのNHKラジオドラマ、「福田ランドウ(?)」原作の「新諸国物語(白鳥の騎士)」からハジまったのだから。当然にも「勘善懲悪(カンゼンチョウアク)」の「同音異字漢字」の「ウラミゴト」である。モチロン、「官選重悪(帖握・調開・超亜句)」の「間然長握」だ。「海士(あま)」の役目とは「海防」である。ならば、すべての「海事・外交」に関する「歴史上」の事件が掛けられているハズ(筈)だ・・・スナワチ、  『遣隋使、遣唐使』船に関する人物、事件  『白村江の海戦(663)』前後の人物、事件  等や、鎌倉時代の  「元寇(文永十一年・1274)     (弘安四年・1281)」  太閤『豊臣秀吉』の  「朝鮮侵略(文禄一年・1592)       (慶長二年・1597)」  江戸時代の  「浦賀の黒船来航(嘉永六年・1853)」  「下関事件(文久三年・1863)」  「薩英戦争(文久三年・1863)」  等に関しての「艦船兆悪の事件」が重なっているのだ。とにかくいままであげてきた「随所(隋書)の漢字の全てを検討し」、「唐初(唐書)の当所、人物、事件」等、これらを「同音異字漢字」に転換して「古事記の頭書、巻頭詞(懸頭詞・謙頭姉)」と、その「イト」を読み取って欲しいのだが・・・ とにかく、この「サンニンの息子」達が次期皇帝の座を巡って対立、敵対し、結果『②世民(秦王)』が部下の『長孫無忌』等と謀って『玄武門の変(武徳九年・626)六月四日』で、兄の『①建成(皇太子・息王・隠)』、弟の『③元吉(斎王・刺王)』を殺害し『皇太子』となって『八月』に『第二代皇帝・太宗』として即位したのである。人物の名前と数字、場所、建物の名前に注目して欲しい。  『世・民(秦・王)』  『長・孫・無・忌』  『玄・武・門』  『建・成(皇太子・息・王・隠)』  『元・吉(斎・王・刺・王)』  『八・月』  『第・二・代・皇・帝・太・宗』  『長孫無忌』の妹『長孫妃』は『②世民(秦王)』の妃であり、皇后であった。「古事記」や「日本書紀」には『長(チョウ・ながい・おさ・たけ)』の漢字を有する女性は「息長足姫(神功皇后)」や「長田姫」等だが、「長(おさ)の孫(まご・馬子)の武(牟・矛・夢・鵡・務)の記」ではないのか・・・ 『隋王朝』も『唐王朝』も遠祖が「胡族」であり、『長孫無忌』は「鮮卑族」であった。そして「現存・古事記」の『序文』は『長孫無忌』の『唐律疏議』の『表』と、『顔師古』の『尚書正義』の『序』を参考手本にしたらしいとの研究(薮田嘉一郎氏の説)もあるのだが、ここでは  「胡・族」  『長・孫・無・忌』  「鮮・卑・族」  『唐・律・疏・議』  『表』  『顔・師・古』  『尚・書・正・義』  の漢字そのものの示唆を「魏志倭人伝(正式には『三国志・魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人』)」と「古事記」の使用漢字に重ねて検討して貰いたいのだ。そして、「胡」が「コ・ゴ・ウ・なんぞ・いずくんぞ・どおして・かつ」とヨミ、その意味が「牛や鶏の顎の垂れ下がった肉」であり、「ながいき・としより(年寄り)・はるか・とおい・異民族(匈奴、北狄)・外国・でたらめ・とりとめがない」であり、「えびす=恵比寿(大黒様・大国主)・恵比須・戎・夷狄」であり、「『西洋人』・西域人」で、『胡孫』が『猿』であることを踏まえて「江戸時代」の蘭学者の事件「蛮舎の獄(尚歯会への弾圧)」にも重ねて・・・ミロ、である。『胡』とは「現存・古事記」の作者にとっては「都合のイイ混乱した意味の漢字」なのだ。「としより」は「年・歳・徒死・杜氏・塗史」を「選る」とヨム。  「胡族の一」である「突厥族」の『阿史那(アシナ)族の首長』は『思摩(シマ)』であった。彼は唐に帰属してその「姓」を『李』としたらしい。「古事記」で「アシナ」と云えば「八人の娘」の「七人」まで「八俣大蛇」に喰われてしまった「足名椎(夫)・手名椎(妻)」夫婦の『足名』で「出雲の大山津見(祇)」の子孫である。「須佐之男(素戔嗚)」がやつけた「八俣大蛇」の「尾」からは『天叢雲剣=草薙剣』が出てきたのだ。  天叢雲(テンソウウン=転操運・典叢有無・天争有武・転送云)      (あめのむらくも)の      剣(つるぎ)とは、『編め之、叢書、句模の都留偽』である。  草薙(ソウギ=争議・葬儀)、(操魏=操伎・曹偽)の     (くさなぎ)の    剣(ケン)とは、『鎌(金+兼)』=「藤原鎌足」である。  日本戦国時代、『伊達正宗』に「摺上原の戦い」で敗北したのは『芦名(葦名)盛重』であった。「アシナ(Αθηνα)」がギリシャ語であるならば『アテネ』である。「思摩(シマ)」の「シマ」は「洲・州・島」で、『ス(-s)=νησι(ニシ)』である。「にし」とは「西・爾志・螺」である。沖縄では「西」は「いり」で「西表(いりおもて)島(しま)」と云うのだ。ならば「・・・いりヒコ、・・・いりヒメ」は「西の彦(言・諺・元)」、「西の姫(記・企・秘)」ではないのか・・・英語では、  ウエスト(west)・・・・・・西(いり ・にし  ・セイ)  リスト(list)・・・・・・・表(おもて・あらわす・ヒョウ)  テーブル(table)・・・・・表  スケヂュール(chedule)・表  アイランド(island)・・・島(しま ・くに  ・トウ)  だ。「島大臣」とは「蘇我氏」であった。しかも「島(シマ)」とは「中国南梁」からの帰化人、仏像彫刻家で「蘇我馬子」庇護下の「司馬達等の娘」で、日本最初の「比丘尼」であった。彼の「孫」は「止利(鳥)仏師=鞍作止利」であった。『多須奈』は「司馬達等」の子供である。『鞍作』ならば『蘇我入鹿』である。『多須奈』をどのように読むのか?・・・「タスナ(足す名)」、あるいは「オホ(太・大・尾補・嗚補・将補)のス(素)のナ(名)」・・・になるのだが・・・しかも「斯揣(シマ)」とは「読心術(心理学)」で、「読振(新・審・診・神・晋・秦・辰・臣)術」である。ならば、まさに『思摩(シマ)』は「摩天楼」を思え、で、  高山=高(コウ)の纂  白山=白(ハク)の纂  崋山=崋(カ )の纂  泰山=他意の纂・「台・鯛・体・腿・胎・帯・太・退・替・載」の纂  娥眉山=臥備(ガビ)の纂  阿蘇山(安蘇の纂)・富士山(藤の纂)・息吹山(伊附記の纂)  御獄山(音拿懸の纂)・アルプス(吾留敷州)・ヒマラヤ(比魔羅也)  「山脈(纂脈)、山麗(纂例)、山峰(纂倣)」の示唆である。「泰山封禅(乾封元年・666)」とは『則天武后(武照)』の生涯にとっての一大イベントであった。このイベントは夫の「高宗」を主導しての「皇后(女性)」参加の前代未聞のモノであった・・・だが、「思え」とは即ち、「現存・古事記」に関しての「新井(白)石の編纂」、「(高)野長英の編纂」、あるいは「(高)橋景保の編纂」、「渡邊(崋)山の編纂」を重ね、「他意(タイ)のサン」、すなわち、  「太(おほの)・替(かえる)・台(やまたい・天台)・鯛(竜宮城のタイ)・対(つい)・体(からだ)・貸(かし)・腿(すね)・胎(はらむ)・帯(たらし)・苔(こけ)・退(まける)・耐(てる)・載(のせる)の纂」  で、「臥備(ガビ)の纂」として読み取れで、「アシカビヒコ字」である。ならば、「現存・日本書紀」に記録されている正体不明の「司馬達等」の存在は・・・その字面どうりの「司馬(歴史家・書記官)+達+等」の「改竄」か「竄入」の記事だ。なぜなら「改竄」の「竄」は「穴(あな・ケツ)+鼠(ねづみ・ソ)」の合字で、『鼠(ソ・ねずみ)』とは『則天武后』の蔑称であり、『阿武(アブ)』であるからだ。しかも『移鼠』は唐時代の「景教(キリスト教)」の碑銘に刻まれた救世主「イエス・クリスト」の漢字名であった。「現存・古事記」を「偽書」などとは云ってはイケないのである。「日本書紀」に「偽した意味」ではマサニであるが、その「目的」がゼンゼン違うところにアルのだ。「古事記」をウリ出した『弘仁私記』も『多人長』も後世の周到な『伏線』であるのだ。『弘』と『仁』、そして『文』の漢字は一体(一対・一帯)全体、「歴史上の記録」で何処に使用されているのか・・・研究者は捜してミロ、である。「アソビ」そのモノか、「危機的状況」に陥った人物の『あそび』に見せかけた『秘密文書(連絡文書)』以外の何物でもない・・・「偽書」とは「歴史」を「出鱈目」に糊(のり・コ)で貼り併せた『日本書紀』そのもののことであり、現在の文部省が検定して学生に使用させている「歴史教科書」である。「古事記」は「欺書」として「戯書」にミセカケタ「義書」の「伎書」なのである・・・「本居宣長」も「加茂真淵」も「鬼」に追っかけられながら「黄泉(よみ)の世界」でヒッカケラレタ現世人を笑っているだろうさッ。  『第二代皇帝・太宗』となった『世民』にも『長孫妃』の同腹で『①承乾(皇太子)』、『②泰(魏王)』、『③治(晋王)』の「三人息子」が存在した。他には『隋王朝』の『煬帝(ヨウダイ)』の娘であった『楊妃』から生まれた『呉王恪』が存在した。ここでも次期皇帝を巡って兄の『①承乾(皇太子)』、次男の『②泰(魏王)』の確執があり、結果「漁夫の利を得」たのが『③治(晋王)』であった。彼が唐王朝の「第三代皇帝」の『高宗』となるのだ。「漁夫=みず・サンズイ+真名+敷(纂の出、まなぶ)」の「理」である  ここでも人物の名前に注目して欲しい。  『承・乾(皇太子)』  『泰・(魏・王)』  『治・(晋・王)』  『隋』  『煬・帝』  『楊・妃』  『呉・王・恪』  「第・三・代・皇・帝」  『高・宗』  『則天武后』は元々『太宗(世民)』の後宮の『女性』であった。父親は『武士獲』と云う「材木商人」であったらしい。この父親の名前を鎌倉、江戸時代に重ねれば「木材商人」が「武士の地位を獲得」であるのだが・・・商人(あきんど)が「帯刀(たてわき)」するとは御用商人の成り上がり者で、その儲けの出どころは「木造建築物」の「火事・火災」であろう・・・「大国主」は二度殺されて「母親」の尽力で蘇生(甦生・組成)させられたのだ。彼の「危機的状況」を庇護してくれたのは「木国の神」であった・・・彼『武士獲』は『隋王朝』の『煬帝』の『鷹楊府隊正』の部隊長で、その当時の『李淵』や『世民』親子と縁があり、『隋王朝』滅亡の時には『李淵』の配下の『大将軍府・鎧曹参軍』の地位にあったらしいのだ。彼の最初の夫人が『相里氏』で、その後に再婚した別の夫人が『楊氏』で『隋王朝』の『観王(楊雄)』の姪であった。この夫人が「三人娘」を産んでいるのだが、後に  『①韓国婦人』は長女で、「調序・重所・聴如」。  『②照(則天武后)』は次女で、「自序・次序・爾汝・自助」と言うわけだ。  『③郭素慎婦人』は三女で、「纂序・纂所・蒜如・讃女」  になる女性達である。「古事記」では「三姉妹」と云えば『宗像三姉妹神』である。物語に共通項を発見できるであろうか?・・・またプロシャ人であった『シーボルト』が長崎にやってきたのはオランダ船の『三姉妹号』であったのだが・・・。ついでに云えば江戸時代の「阿部藩(二藩)」は共に「鷹羽紋」である。「柵倉藩の阿部」はその祖先を「大彦」と自称しているらしい。  次女の『②照(則天武后)』が『太宗(世民)』の後宮入りした時の「地位」であるが、『才人』であった。『照(則天武后)』の「照」は「天照大御神」の「照」でもあった。モチロン、私がヨメバ、  「束典」、     「武」の「項」を「照らす」                 ↓↓↓                 「テラス(terrace)」・・・・出・ラ=(羅・螺・裸・等)・素                 「タラトラ(ταρατσα)」・・・鱈・虎                  ↓             「宮殿の謁兵台・丘上の展望台」  であり、「武(ブ・ム)」とは漢和辞典(大修館・漢和辞典)に  たけし・強い・猛々しい・勇ましい・武勇・ほこる・あなどる・もののふ・つわもの・武人  武徳・威力・戦術・兵法・武芸・武道  兵器・武器  あと・あしあと・事跡・継ぐ  一足の長さ・半歩=わが国の一歩で三尺・歩武  冠まき・委武・武官の冠  鐘・金属製の楽器  いさ・いさむ・たけ・たける・たつ・ふか  武尊山(ほたかやま)  武蔵(むさし)  会意・・・止と戈(ほこ・武器)をもって兵乱を防ぎ止める意        ヒトが戈をもって前進する意  武王・・・周の初代の王・姓は姫(キ)、名は発・文王の子供        殷の紂王を滅ぼし、周王朝を建てた  武挙・・・則天武后が制度化した武官の採用試験  武后・・・則天武后  武皇・・・漢の武帝  武帝・・・前漢、第七代の孝武帝        三国時代の魏の始祖、曹操        西晋の始祖、司馬炎        南宋の始祖、劉裕        南梁の始祖、蕭衍  武陵桃源・・・秦代に乱世を避けて隠れ住んだ所           胡南省常徳県           陶淵明の桃花源記の仙境・理想郷  と記されている。「武」とは歩幅で、「距離の単位」でもあった。  「天照            大 御 神」  ↓↓             ↓ ↓ ↓  「添出(テンデ)、留(ル)、代音尋(ダイオンジン)」   ↓                     ↓  「転妾(テンショウ)      大  恩 人」  「転照           他意 音 訊」  「典照           替  音 字務」  「転生           逮  怨 訊 」  等に「転換(展観・典鑑・天諌・天干・天観)」、「置換(知観・治鑑・知諌・地干・地観)」して考えてみる、と云うワケだ。「痴漢」は混雑した電車の中で、こっそり、すばやく「御婦人のカラダに触れるコト」だが、本来の意味は「漢字狂い・漢字マニア」のことである。『②照(則天武后)』も新たな漢字を作り出すことに狂った時期があるのだ・・・「則天文字」である。

『則天武后』と「現存・古事記」(2)・(51x) 唐王朝の後宮の「位階」は次のようになっていた。  ①皇后  ②妃(貴妃・淑妃・徳妃)  ③九嬪(昭儀・昭容・昭媛)     (修儀・修容・修媛)     (充儀・充容・充媛)  ④捷予・美人・『才人』  ⑤宝林・御女・采女  「①皇后」から数えれば『④才人』は下級の位の「妾(めかけ・ショウ)」であった。だが、字面通りならば「才人(サイジン)」は「才能、才覚のある人物」と云うことであろう。歴史的な流れから「才人=才能、才覚の人」の概念を観れば『則天武后』以降ではないのか(?)・・・そして、「サイジン」の同音異字は、  「歳尽(歳年を尽くす・年末晦日)」  「歳尋(年齢・年月等を尋ねる)」  「祭人=巫(卑弥呼・壱与)=斎人」  「斉人(財人=宝媛=斉明女帝)=祭人=巫」  「差偉人(偉人の格差)」  「佐異人(外国人・渡来人・帰化人等の補佐)」  「左異人(左〈よこしま〉な外国人・渡来人・帰化人)」  「宰人(宰相)」  「日本書紀」に記録されている「阿倍内麻呂」は「大化改新(乙巳年・645)」の「左大臣」であった。  「済人(百済人)」  「載壬(壬〈みずのえ・ジン〉に掲載)=壬申の乱」  「載申(申〈さる  ・シン〉に掲載)=壬申の乱」  「災甚(災い甚大)」  「偲人(忍ぶ人)」  「砦陣(トリデの陣)」  「採尽(トリ尽くす)」  等で、「作意尋」である。また、「西人の作為(作意)」は「詐伊人(伊太利亜人)」・・・「古史通」、「采覧異言」や「西洋紀聞」等を著作した『新井白石』が訊問したのは「屋久島」から密入国した「イタリア人宣教師」の『シドッチ』であった。そして、「殺人(サイジン)の作為」、「聖人(サイジン)の作為」の「再訊(再奏)」を嫌って怒ったのは『隋王朝』の『煬帝』で、その「無礼な書簡」、  日出処天子、到書日没処天子、無恙哉  を「小野妹子」に託した「聖徳太子(?)」であった。しかも、「小野妹子」は『隋の煬帝』の書簡を『裴世清』ともに持ち帰ってきたのだが「百済」で盗まれ「紛失」したのだ。何故「百済」なのか?・・・「小野妹子」はその中国名を『蘇因高』と呼ばれたらしいが(?)。時代の「天皇」は『第三十三代』の「推古女帝(推す古〈コ・いにしえ・ふるい〉)」で、「蘇我氏」であった。ここは『隋書(国伝)』に記録されている「倭王朝」ではない「阿毎王朝」を踏まえ、考えどころである。従来、「日本書紀」に重なるここの部分は結果「小野妹子」の失策を許し、使者『裴世清』を盛大に三百隻もの船で歓待したとしているのだが、『隋書(国伝)』が『隋王朝』を滅ぼした唐代の著作ならば、その時代の作為はなかったか?どうかを・・・『裴世清』がみた「阿毎王朝」は「阿蘇山」が見えるところに存在したのだ・・・『阿倍仲麻呂』は中国名『朝衡』と呼ばれた唐の「高級官吏」で、僧「道鏡」をモットも信頼した「称徳(ショウトク)・孝謙女帝=阿倍皇女=高野天皇」と同年に唐で死没したのである・・・「聖徳(ショウトク)・後見(コウケン)」・・・  「古事記(三巻)」はその天皇の記録を『第三十三代』の「推古女帝」で終わらせているのだ。『隋書(国伝)』を信じれば彼女(推古)が現実的に畿内「大和」に存在した「女帝」であったかどうか疑わしい。  スイ(出)  コ (拠・姑・胡・湖・雇・虎)  で、「出拠(山々ヶ所=纂三の懸書)」とは、「姑(卑弥呼)」、「胡(西域)」、「湖」、「虚(嘘)」、「雇(雇用)」、「虎(天武天皇)」であり、  いにしえ(古=十+国=重国・獣国・柔国・従国・中国・拾国・廿国)  ↓↓↓↓  意似史重  委西 重(西洋に重ねて委ねる)  ふるい(古=十+口=重句知・重皇・重項・重厚・重工・重后)  ↓↓↓  振る意  で「合理・号理・號理・劫理・傲理・郷理・拷理」である。「古事記」が『第三十三代』の「推古女帝(額田部・豊御炊屋姫・小治田天皇)」で終っている理由の示唆は「誰拠」で、その「出拠」の「素意拠」は、  「諏居胡(胡族の居る所を諏訪=胡族である隋、唐王朝を諏訪)」  「諏意拠(諏訪)」  「州移拠」  で、「垂拠・帥拠・悴拠・遂拠・彗拠・衰拠・水拠」に重なっている「記録のヶ所」である。ちなみに彼女は『第二十九代』の「欽明天皇」の『第三皇女』で、夫は「敏達天皇」であり、天皇位にあった時の大臣は『蘇我馬子』であった。モチロン、「初唐」の重鎮は『長孫無忌』であった。これら人物の名前に疑問を抱かない歴史推理作家はペケだな。  『第二十九代=拿意似重句』、『第三皇女=拿意纂控除』ならば、「二十九代」~「三十三代」までの「天皇」の「記録(漢字)」をすべて調べろ、である。  『則天武后(武照)』が「才人の位」であったのは「太宗」が死亡した「貞観二十三年」までの「八年間(十五歳~二十二歳?・十四歳~二十一歳?・十三歳~二十歳?)」である。この時期には子供も産んではいない・・・「避妊(非人・否認)」と云うことでなかったならば、「太宗」との「房中関係」が少なかったか、単なる「一時的なお手付きの宮女」であったのだ。性格や気性も激しかったらしいのだが。その逸話が「太宗」の「荒馬」を調教する条件として「三つ」あげている。  「①鉄鞭(ムチ)」  「②鉄棒(木+咼)」  「③ヒ首(短刀)」  である。「才人の位」では格好がつかなかったのか「武媚」の「號」を賜ったとの記録もあるらしい。とにかく「太宗」は「離宮・翠微宮の含風殿」で『長孫無忌』と『猪遂良』に後事を託して死亡したのだ。  翌年(650)、「六月一日」に「唐王朝第三代」の「高宗(治)」が皇位に就き、「両儀殿」で『于志寧』を侍中、『張行成』を兼侍中、『高李輔』を「中書令」に任命した。この時、「太宗」の子供を産めなかった『則天武后(武照)』は「感業寺(一説に『安業寺』)」の『尼(あま)』となったのだ。「尼(ニ)」とは「尸(屍)+匕(牝)」の合字である。「しかばね」の「女」である。まさに「尼」の漢字は仏門に入った女性で、「禁男」の「比丘尼(びくに)」である。「道教」的に云えば「巫(みこ)」なのだ。「キリスト教」的に云えば「修道女」である。「宗童女」とは「鬼道」の「卑弥呼」の後を嗣いだ「壱与」であった。  ここで、「あま」の意味する同音異字を「古事記」、「日本書紀」に関連させて「故意に他人に逆らう『天邪鬼(テンジャキ=典邪記)』=つむじ(摘む字・積む字)曲がり(間借り)=偏屈(編掘・片句摘)」的に考えてもらいたい。「記紀」は「真面目」に考えちゃぁ判らないのだから・・・  「天」、「雨」、「海」、「贏(エイ・ヨウ)」、「凡」、「余」、「剰」、「阿摩(阿麻・奄)」、「阿毎」、「飴」、「甘」、「編」、「辮(ベン)」、「女」  等である。「贏(エイ・ヨウ)」の類字は「・」、「瀛」である。「辮髪(ベンパツ)」の「辮」の類字は「辯(弁・わきまえる)」である。「女(おんな・め・めす・ジョ)」の同意文字が「牝=『=牛+字』=雌=匕」ならば、「匕(めす)」の類字は「ヒ(とうし・刀子)」と「七(ななつ・漆)」である。『・(シ・ジ)』が何故「メス」なのかは私の漢和字典には説明がないのだが、『』が「牛(ゴ)+字(ジ)」の合字であるのを考えれば、その同音異字は「誤字(ゴジ)」か「護持(ゴジ)」、「後事」である。「牝」ではないが去勢された「牡(ボウ・モ・ボ)」は『(ケン・コン)』=「牛(ゴ)+建(ケン)」である。「語懸」、「語兼」で、「後兼」である。宮廷の去勢人とは「宦官(カンガン)」であり、去勢される罪人の罪は「宮刑」であった。「漢奸(売国奴・スパイ)」で刑が執行されるときにはさぞかし恥辱の「汗顔」であったはずだ。「カンカン踊り」も「カンカン照り」の「夏季(夏期)」にも「汗顔」になるだろう。必要なのは夕涼みである。日本の「七夕=乞巧奠」は『孝謙・称徳女帝(阿部・高野天皇・宝字称徳孝謙皇帝・法基尼)』の「天平勝宝七年(755)七月七日」に清涼殿の庭で行われたのが初めらしく、「天平六年(734)七月七日」に『聖武天皇』が「七夕の詩」を作ったらしい。もちろん、「箋(短冊)」に書いて「笹竹」に吊るしたのだ。じゃあ、「1734年」と「1755年」には何があったのか?・・・ここは、あなたが既存の「日本史年表」をみて推理してみるといい・・・「牡」の熟語は「牡丹(ボタン・なとり草=名取句作)」と「牡蛎(ボレイ・かき=柿・書き・描き・掻き・花器=華基)=推す書き」である。「特別」や「孤特」の「特(トク・ドク)」も「おす(をす=牡・雄)」とヨム。ならば「トクドク」は「得読・読獨・匿毒」で、「斗(登)句怒句」、「渡(図)句土句」、「解く度区」の「釈く口説く」の「功徳」である。「牡」の類字は鎮守の「杜(もり・ト)」、「吐(はく・ト)」等である。  この初唐三代(高祖=李淵・太宗=世民・高宗=治)の時代、「杜」の姓を有する人物とは・・・『秦王(世民・太宗)』の臣下で、「玄武門の変」で彼に荷担し活躍した『杜君綽』。そして「登瀛洲(文学館)」の「十八学士の一人、『杜如晦』」。その弟『杜楚客』は、「魏王(泰)府」を皇太子擁立の為に買収工作をした人物であった。『杜正倫』は皇太子「中山王『承乾』」の家庭教師であったが皇太子を諌めて返って「左遷」された人物である。『杜荷』は皇太子『承乾』の謀叛クーデターに荷担して「斬罪」になった人物だ。杜撰(ズサン)とは何を意味するのか?・・・調べて欲しい。  「周の蜀王」の名前の『杜宇(トウ)』は別項で既に述べたが「多くの別名、違名、同種の科目に属する渡り鳥」の名前である「ほととぎす(杜魂・杜魄・蜀魂・杜鵑・子規・時鳥(朱鷺)・あやなしどり・『不帰如』・『郭公=かっこう』)」等の異字である。「葛洪(カッコウ)」は「道教」の原典「抱朴子(317年)=ホウボクシ」の著作者であった・・・放牧詞(?)。そして、「補図土擬素=ホトトギス=補斗説素」である。『不帰如(フキジョ)』とは、漢字転換すれば、  不帰所=夫帰如=婦鬼如=附記女=付記如=『付記序』  ではあるナ。『郭公』が「日本書紀」に登場する『郭務』である(?)とするならば、スナワチ、「ホトトギス」や「かっこう(郭公・閑古鳥)」のその生態的特徴である。  「①南から初夏に来る渡り鳥」  「②咽喉が紅・背は灰黒・腹は淡黄で黒い斑点」  「③卵をうずら(鴬)、ほおじろ(頬白)、もず(百舌鳥・鵙)等の他の鳥の   巣に産み落とす」  である。「鳥子」を「養子」、「鳥親」を「養父母」と云うのはこの「③」あたりに掛けられた意味にあるのではないか。しかも、注目すべきは「③」の  「もず(百舌・鵙・もづ=母都・模図)の    巣(州・素・ソウ=相・叢・曹・操・争・奏・捜・扱)に     産み落としていった            タマゴ(卵・ラン=覧・乱・濫・嵐・蘭・藍=ラム)」  で、「らむ」は「推量の・・・らむ」ではあるな・・・それで「ラム(rum)酒=糖酒・(奇妙な、変な)」の飲み過ぎで「模図」の上でヨタヨタ足で「走(run)」ったワケだ。「ラム(rum)」には別な形容詞の意味で「奇妙な、変な」と「危険人物・危険な獣・驚くべき事件」の意味がある。同音に聞こえやすい「ラム(lamub)」は「子羊・子羊の肉」でキリスト教徒の「さ迷える子羊」である。「lump(ラムプ)」は「塊(かたまり)・瘤(こぶ)」である。「ランバー(lumber)」は「木材、材木商人」であった・・・「ほととぎす」・・・「吐血」する贅沢病と云われた「呼吸器・肺」の病、「労咳(結核病=結郭描)」の隠語の象徴ではある。まったく、「チを吐き出すトリ」で、「地理(輿)トリアソビ」である。  『杜李良』とは、『光武帝』の軍人で任峡に過ぎて免官なった人物である。これを例えて『馬援』が兄の子供に「虎を画いて成ずんば、かえって狗に類する」と諌めたと云う。  虎(コ・とら)  =(寅=イン=因・胤・院・允・音)を  画(ガ・か )  =(描=   掴・獲・較・欠・拡)いて成ずんば  かえって    =(還えって・返って・帰って・変え柘出)  狗(ク・いぬ)  =(戌=ジュツ=術・述・嬬柘)            =(犬=ケン=懸・兼・建)に  類(たぐい)   =(他具意・多句意・太悔い・侘寓意・汰愚意)   (ルヒ)     =(婁日=るび=瑠美=留毘)する  諌(カン・いさめ)=(委作女・意左女・鮪鮫・委座女・伊佐女)  『杜康』とは中国で酒を最初に造った人物の名前で、酒の異称。  『杜衡』とは香草の『かん葵(杜葵)』のことだ。  『杜子春』は『鄭還古』の小説の主人公で、仙人に出会って「華山」に登り、「女」に変身し、嫁となって男の子を産んだが「二才」になっても「唖」であったのを夫が怒って「石」の上に投げつけたのをみて「アッ!」と驚きの声を発したとたん、モトの場所、モトの姿で仙人と共に座っていた、と言う物語(太平広記)である。「唖の本牟田和気」も「アギ!」と声をあげたのだが・・・芥川龍之介の小説に出て来る「仙人」になりたくて果たせなかった主人公はこれを改作した『杜子春』であった。  『杜甫』は云わずと知れた有名な初唐の詩人である。  『杜祐』は唐代の歴史学者でその著書に『通典』がある。  『杜預』は晋の「春秋左氏伝」を研究した武将であった・・・これら「杜」のつく人物達が果たした役割を「日本書紀」の中の人物に比定すれば誰になるか。しかも「杜(ト・ヅ)」とは果物の「やまなし(山梨)・あまなし(甘梨)・ずみ」であり、別な意味は「閉じる(綴じる)・ふさぐ・絶つ・断ち切る」で、『鎮守の杜(森)』である・・・ナルホド、「北杜夫」はドクトル・マンボウではあるな・・・だが「もり」とヨマセタ理由は「医師」が、  『仁』(ジン・ジム・にん・に=似・ひと)にも・・・ 神(尋・陣・字務)  『劣』(レツ・おとる=音留)る・・・・・・・・・・・・列  『怪』(カイ・あや=絢・彩・彪・文)しい・・・・ 解  『奴』(ド ・ぬ・やつ=哉柘・やっこ)」・・・・・度  であるとはネ・・・何でも「金権商売、卑劣」でズサン(杜撰)な現代ではあるカラナ。  で、杜(もり=森)は杜(やまなし=山梨・甘ナシ・とじる・とづ)とヨム。熟語には「杜撰(ずさん)」がある。その意味は『杜黙』と云う人物の詩が律に合わなかったことからの故事で、「出たら目(出鱈目)・いいかげん・そまつ・ぞんざい」な「校正」のコトである。そして『杜漏(ヅロウ)』とは「手抜かりが多いコト」である・・・何が?と云えば、  「杜(ト)=木(キ)+土(ド・十一=壱拾壱=イチをヒロウ、イチ)     =もり=森(木+木+木=三キ=纂基)」  であり、「キキの上のキ」・・・「基奴」、「記土(風土記)」、「紀土」・・・「現存・古事記」、「現存・日本書紀」で・・・「木戸の浦」から出雲に行った「曙立王」は「三十歳まで唖であった本牟知和気王」の病を治したキッカケを与えたワケだが・・・「杜宇(トウ)」とは「ホトトギス(不如帰)」で、別名が「杜鵑(トケン)」、「杜魂(トコン)」、「杜魄(トハク)」で、キを突っつく「郭公ドリ」で、「ふふどり」であった。  どうやら・・・手抜かりして杜漏(ズロウ)した人物は「壬申の乱」に登場する「郭務宗」の示唆らしいなッ。「張(はる)」ともヨマセテイル「郭」は「くるわ(遊廓)」で、花柳界。「郭公」とは「木偶(でく)」、「人形」、「傀儡(カイライ)」の意味でもあった。  「聞聴の上の記」・・・太安麻呂と稗田阿礼の関係  「奇記の上の記」・・・伝奇物語の記録  「寄記の上の記」・・・蒐集、寄せ集めの記録  「鬼気のウエのキ」・・卑弥呼の記録。鬼門(丑寅)の上(子)の氣  「鬼己のジョウの記」・鬼(新井白石)、譲(高野長英)の記  「魏記のジョウの記」・魏志(曹操)倭人伝の擾(嬢)記  「飢揆の飢えの記」・・飢饉、一揆の飢餓の記  「機器のウエの記」・・ハタの上の記  「記紀の上の伎」・・・・「古事記」、「日本書紀」の記録上のワザ             ・・・「記規」は「貞記」=「資治通観の貞記」の記録  「汽機の上の記」・・・汽船上の記録  「危機の上の記」  『木戸』の名前を有する人物・・・明治の元臣『木戸孝允(桂小五郎)』は・・・遊廓の女性を妻にした。木戸を叩いてノイローゼに陥った時には彼の憩いの場所はココ(遊廓)だった?・・・何故かは『伊藤博文』に聞くがイイのだ。「イトウ」は「以東、意問う尋文」で「厭(イト)う」でもあるのだ。  「太宗」の子供を産めなかった「才女」であった『則天武后(武照)』、「太宗」の死後、「感業寺(安業寺)」の『尼(あま)』から随分と発展してしまった「杜」ではあったが・・・とにかく私は『則天武后(武照)』の時代背景に関することを「ト」でイイたかったのだ。  「高宗(治)」は「貞観二十三年(649)六月」に帝位に就き、八月には「太宗(世民)」を「醴泉県(レイセンケン)」の「昭陵」に埋葬した。翌年を「永徽元年(650)」とし、妃の「王氏」を皇后として彼女の父「王仁祐」を「魏国公」とし、母「柳氏」は「韓国夫人」とした。また「三人の皇子」、「①孝(母は鄭妃)」を「許王」、「②上金(母は楊妃)」を「杞王」、「③素節(母は蕭淑)」を「雍王」とした。そして「④忠(母は劉氏)」は「陳王」であったが「永徽三年(652)」に「皇太子」となった。  かって「太宗」の時代に「才人(才女)」の位にあった『則天武后(武照)』は「高宗」の皇后「王氏」の推薦で宮廷に返咲き、「才女(才人)」よりも「十一級」上位の「昭儀」の位として寵愛され始めたのだ。そして『則天武后(武照)』は「永徽五年(654)」に「女の子」を出産した。ところが、子供が産めなかった皇后「王氏」は運悪く付添いのいない赤子の所に出産見舞いに訪れた。その退出直後にこの「赤ん坊」が死んだのである。「赤ん坊の死」は皇后「王氏」がヒステリー発作を起こしての「扼殺(窒息死)」とされてしまったのだ・・・事実かも知れない(?)。だが「旧唐書」や、「新唐書」には『則天武后(武照)』が自ら自分の「赤子=嬰児(みどりご・エイジ)」を殺して、その罪を皇后「王氏」に転嫁した策謀であった、と記録している・・・後世、「女性権力者」の『則天武后(武照)』を嫌う立場から虚偽に記録したカモ知れない(?)。とにかく、『嬰児殺しの事件』で不利になったのは皇后「王氏」であった。「日本書紀」に登場する「王」の姓を有する人物は「西史(かわちのふびと)」の祖と云われる「応神天皇十六年」に百済からやってきた渡来人「王仁(わに)」と、「敏達天皇元年」記事の「船史の祖」と云われる「王辰爾(おうしんに)」であった。いずれも「文字(千字文)」や「文字解読(高麗表疎)」で「文字」に関して記録されている人物である。この「王仁」や「王辰爾」の「記録」の示唆を気が付かない「研究家」には私の「説」を理解してもらうのは困難ではあるカモ。「嬰児(エイジ・みどりご)殺(サツ・ころし)」とは字面の分解から診ても、  嬰児=貝貝女旧人=目人目人女旧人・・・目人とは「目付け(?)」  殺 =メ+木+几+又=女紀企佑      メのキのキのマタ(亦・復・股・俣・未・マのタ)=目利きの真他  で、古語の「また」の掛けである。しかも『嬰(エイ・ヨウ・ヤウ)』は  みどりご・ちのみご・おさない・かよわい  めぐる・めぐらす・おびる・まとう・まつわる  つなぐ・つらなる  かかる・かける  ふれる・くわえる  とヨマれているのだ。  嬰児(みどりご・エイジ)=貝貝女の旧人                 =カイカイ(開解・開会・甲斐歌意)、                  オンナ(音名)                  の                  キュウジン(求人・九仞・求訊・吸塵)  ワタクシはアナタのご推察のとおり、嬰児(みどりご)殺=「エイジ・サツ」=英字の冊と読みたい奴なのだ・・・「みどりご」を「見鳥子(養子=ヨウシ=用詞・要旨・妖史・洋史)」とヨンで貰いたい。「ちのみご」は「知之診語(胡・虎)」、「おさない」は「長内・長名意・訳田名異」、「かよわい」は「加代和意・掛齢・蝦(蝦夷)世話意」等と・・・『鳥居耀蔵』は預かられた牢屋で何を考えていたのか?  「木の股」に挟まれて殺され、「再生(蘇生)」したのは「大国主」である。比喩的に云えば「須佐之男」が「女の赤子(吾禍子・垢子・せキシ=畝機子)」を殺すことによって「最盛(祭政・再製・再生=蘇生)」したのは「天照大御神」の記録であった。「バイブル(新旧聖書)」であれば「男の赤子」を殺させた王の時代の「モーゼ(申命記・芦舟の駕篭・捨子、拾子)」と「キリスト(三博士来訪・イエス生誕・厩宿の子)」の幼児時代の「事件」である。「水子(みずこ)」の意味は「聖水洗礼の幼児儀式」と「見ず(不見=フケン=敷懸・付言・武懸・分懸=父権・夫権・婦権)子=蒜子」を重ねたからではないのか。ならば「水主(かこ=加古・過去)」の子供は「水子(水子・水死=溺死)=海士=海女」で、「推古(蘇我氏の係累)」であろう・・・江戸幕末時代の歴史的な「扼殺(ヤクサツ=焼殺)」された「エイジ(英児)殺しの事件」とは、「隠れキリシタン」であり、「高野長英」であり、薩摩藩士の「英国人殺し」であり、『孝明天皇(統仁・煕宮)』の「薬殺(?)」であり、「訳冊(訳刷)」の「英和字典」の「英字拠賂詞」に掛かっているハズなのだが・・・えっせんしゃる英和辞典・・・フザケルナ(巫山戯名)!。  さて、『則天武后(武照)』の皇后位の獲得には様々な確執があった後、「永徽六年(655)」の「王皇后」と「蕭淑妃」の「鴆毒誣告事件」を契機に正式な「高宗」の「皇后」となった。「王皇后」と「蕭淑妃」は『則天武后(武照)』の怒りをかって「杖刑一百」で刑死したのである。その時、「蕭淑妃」は『則天武后(武照)』に怨みと呪いの言葉で罵った。  「『阿武』の奴め、私は『猫』となり、おまえが『鼠』なった来世で、おまえの咽喉を噛(咬)み切ってやる」  と。『則天武后(武照)』を『鼠』に例えて罵ったのは彼女が「子年生まれ」であったから、との説があるかららしい。スナワチ、『則天武后(武照)』は「貞観二年(628)」の生まれ年の干支は「戊子(ツチのエのネ)」であった。そしてこの「戊子」は「ボシ」とも読むのだ。当然にも「古事記」や「日本書紀」の中では「ボシ」、「ホシ」、「ボジ」の同音異字に掛けられているとみるべきだろう。「星」、「干」、「補詞」、「補史」、「母子」、「母死」、「母字」、「母事」等の、「模字」で、「母鼠」の誕生と「音図見とりの描写」である。  『則天武后(武照)』は憎くっき「王氏」を  「蟒(ボウ・モウ・うわばみ・おろち)」、  「蕭氏」を  「梟(キョウ・シャオ・ふくろう・みみずく)」  としてその記録上の「姓の漢字」を換えさせた。また後にも「武氏」を  「蝮(フク・まむし)」、  「李氏」を  「キ(兀+虫=カイ・ケ)=まむし・とかげ・ひばかり」  と凶悪な「字」をつけたらしい。日本では「孝謙称徳女帝」が「和気清麻呂」を「汚麻呂」とした記録がある。「キタナマロ」とは「記他名真賂」か、「企多名眞賂」である。「ヨゴレマロ」はアナタが漢字を当ててミてくれ・・・世後例間ロ、予後例眞賂・・・余呉、余語、四語・・・等の例を萬慮と。  ドウ云うワケか気丈夫で勝気な『則天武后(武照)』も殺してしまった「王皇后」と「蕭淑妃」の亡霊、幽霊に悩まされて「竜朔三年(663)」に「西内の大明宮」から「蓬莱宮」に引越しし、さらには「長安」から逃れて「東都・洛陽」に住むようになった。  唐王朝にとって「竜朔三年(663)」とは「白村江の海戦」での大勝利の年である。

『則天武后』と「現存・古事記」(3)・(51y) 『則天武后(武照)』が皇后になるに及んで、「忠」皇太子を排して「梁王(梁州刺史)」とし、彼女の息子『弘』を新たな皇太子としたのだ。そして「621年」に「高宗」は学士、学生、校書郎を置いた『修文館』を、後に『弘』の名前を採った『弘文館』とし、図書、典礼を司る役所とした。日本史の上で『弘(コウ・グ)=弓+ム(シ・ボウ・モ・コウ・腕・肱・私・横島・ござる)』の漢字が重要なモノとして使用されているのを確認しておこう。「人名、建物、記録、地名」は、  弘文天皇・・・天智天皇の息子、大友皇子。壬申の乱で大海人皇子に敗北  弘法大師・・・高野山真言密教の開祖、空海  弘文院・・・・和気広世(和気清麻呂の子)が子弟の為に設立した私学校  弘仁私記・・・多人長が「日本書紀講延」に於て注釈記録したモノ  弘道館・・・・徳川斉明(水戸藩)が設立した学校  弘道館記述議・徳川斉明の弘道館記を藤田東湖が解釈した記録  弘前・・・・・東北青森の岩木山麗の南東(辰巳)にある地名  弘前藩・・・・津軽家・家紋は「牡丹」紋・江戸城の詰所は大広間          元、「南部」氏の家臣で「大浦」を名乗った。為信は本家の女         (娘)である「阿保良」の婿となった。信政は名君だが大飢饉  「年号」に関しては、              五(ゴ=語)   ↓  弘仁・ 810年 9月19日~ 824年1月 5日(いつか)  弘長・1261年 2月20日~1264年2月28日(はつか余りようか)  弘安・1278年 2月29日~1288年4月28日(ニジュウハチ ニチ)  弘和・1381年 2月10日~1384年4月28日(〃〃  〃  ジツ)  弘治・1555年10月23日~ 1558年2月28日(〃〃  〃  ひ)  弘化・1844年12月 2日~ 1848年2月28日(〃〃  〃  く)       ↓             ↓↓↓       歳(サイ)         ↓弐拾八 (ニを拾うハチ)       齢(レイ)         ↓     似   葉知       歯(シ)           つき     爾   歯知       才(サシ)         ゲツ     尼   恥知       合歓(ねむ)       ガツ    丹   羽地  「弘仁」トハなるほど「公認」で、「後任」、「降任」、「光仁」ではあるな。  「年(ネン・とし・太歳・year・χρνια=ホロニア)」の同意文字は「歳・齢・歯・才」である。  「ネム」ならば、示唆深い「木の名」が『合歓(ねむ)』である。何故『合歓(ゴウカン)の木(キ)』が、「豆科の落葉高木。山野に自生し六、七月ころ淡紅色の花が咲く。葉が夜になると閉じる。別名はネブの木」が「ねむの木」なのか?・・・は、  豆  =まめ・・・・・(魔女・真女・磨女)  落葉 =らくよう・・・(洛陽・落陽)  高木 =こうぼく・・・(弘模句・高模句)  山野 =さんや・・・・(纂哉・纂也)  自生 =じせい・・・・(時世・時勢・字声)  六  =むつ・・・・・(陸奥・武都・武柘)  七  =しち・・・・・(史治・漆・質)  淡紅色=たんこうしょく(鍛工職・探鉱職=ヤマ師・探弘属・探弘の死期)  花  =はな・・・・・(葉名)  にあるらしい・・・「高木の神(古事記に登場する別天五神で最初の三神から二番目の『高御産巣日神』の別名で、天孫が天降る時に『天照大御神』と同列、対等に『高木の神』として登場する。要するに「高宗」と「武照」の夫婦の示唆だ。天上界の最初の神は『天之御中主神』であるにもかかわらず、ここでは登場していない)」である・・・漢和字典では「合歓」は「男女の睦見合いの喜び」の意味だが、これを普通に耳で聴けば「強姦(ゴウカン)」である。よほどの経過事情が無いかぎり「強姦(ゴウカン)」が「合歓(ゴウカン)」であるワケがないし、その逆でもない・・・だが「おむな」が「カギを握って」いるのだ。「ポルノ小説」に出てくる女は「強姦」されて「合歓」となっていく「性(さが)」と云う「パラドックス(逆説)」のせいらしいのだ(?)。「ゴウカン」の同音異字は「種種」あるが、ここでは「合観・合巻・合鑑・號観・号貫・号串・号鑑」としておこう。  「月(ゲツ・ガツ・ゴチ・つき・太乙・太陰・moon・luna・φεγγαρι=フェンガリ・σεληνη=セリニ)」は本来「月の中の二線の文字が右から離れていた」のだ。もちろん「二線」は「左に接していた」。示唆深い「名」が『月下部(かすがべ)』である。一般的には「春日部」と記すハズだ。  「日(ニチ・ジツ・か・ひ・く・太陽・sun・ηλιοs=イリオス)」も同様で、「日」の類字は「白・百・曰・臼」である。示唆深い「姓」が『日下部(くさかべ)』である。これも一般的には「草壁」と記すハズだ。また『月日』を「おちごり」、『日月』を「たちもり」とヨマせているのだ。「おちごり」は「をちこち(今昔・遠近)」のナマリか、「たちもり」は「太刀母離・太刀守(防人=さきもり・兵士=武士・草薙剣と倭姫)」か「他地母履(母の経歴、履歴)」、「多地盛(杜・漏・洩)」「多治母離」で、「母離」は「魏志倭人」で記録された文字である。「雛母離」だ。「月朔(ゲツサク・ついたち)の喪里(もり・杜・森・盛り・漏り・洩り)」だ。いずれにしても「越智後離・越地呉里(呉越同舟)」で、「堕ち後の理」、「越後の裏(浦)」、「落ち語の裏・落語、落伍、落後・洛陽の語」、「経ち(辰)語の模の理」であろう。とにかく、医学=醫學(彙学・帷学)用語の「排卵(配乱)、月経(解晦氣意・外柘経)、妊娠(壬申・認振)、出産(出纂)」は「女(おんな)に関(かん)する月の周(巡・回・循・circle=サークル・cycle=サイクル・φορα=フォラ)りのモノ」だ。  「机(つくえ・デスク・テーブル)」は古語で「つき」である。「調(つき)」は「絹布・糸」などをの租税品である。「坏・杯(つき)」は「さかづき(酒坏・酒杯・杜杯)」である。「鴾(つき)」は「とき(朱鳥・朱鷺・鴇・時鳥)」の別名だ。ならば「ほととぎす(子規)・不帰如」である。「槻(つき)」は「ケヤキに似た落葉高木」で、その「若木」から「弓」を造ったのだ。「弓」である。これらに「ヤ」を接いでツケイルだ。「古事記」では「弓」から放たれた「矢」が「的」にアタルかどうかの「記事(キジ=雉)」の「よこしま(ム・邪)」のハナシではあるな。  『弘=弓+ム』の付く「年号」の「尾の漢字」を並べれば、  『弘』+「仁長・安、和・治、化」      ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓      訊調・安 和・治 化・・・「安和」は968年8月13日~      ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 970年3月25日。「安和の変」は      尋弔 按 話 時 下 源満仲の「密告」で源高明が左遷      ↓↓     「人の長」が「安萬侶」に「和(倭・我)」し、      ↓↓↓  「治(事・字)」して「化(掛・加)」す      ↓↓↓     「忍の長」の「案配」は「和字」の「転化・変化」  である。「安和」の西暦年号期間は「968(戊辰)年8(庚申)月13(癸巳)日・土曜日~970(庚午)年3(己卯)月25(壬午)日・日曜日」であり、「安和の変(969・3)」とは「源満仲(マンチュウ)」の「密告」で「橘繁延(たちばなハンエン)」が罪に問われ、「源高明(みなもとコウメイ)」が左遷。「冷泉(レイセン)天皇」が「円融(エンユウ)天皇」に突然、譲位した年である。「醴泉(レイセン)県」とは「太宗」が埋葬された場所であった。  「戊辰ネン・庚申ゲツ・癸巳ニチ」=西暦・968・8・13  「庚午ネン・己卯ゲツ・壬午ニチ」=西暦・970・3・25  の同音異字を踏まえ、ここでのテーマ、『密告』と云うことを考えてミヨ、だ。『垂簾政治』と『密告政治』は『則天武后(武照)』の「十八番(おはこ)」であった。この『垂簾政治』と『密告政治』を日本史に掛けろ、と「現存・古事記」はウヅいているのだ。しかも特に「江戸時代」の事件を。「元禄時代」があったとは云え、「天和二年二月(1682・壬子年・壬寅月)」の「徳川綱吉」の「生類憐れみ令」の発端から「宝永六年一月(1709・辛巳年・辛丑月)」の「生類憐れみ令の廃止」までは「蚊・虻の命をも尊厳」する程、「自然保護団体」が歓喜、小踊りする「密告(蜜国・蜜濃・希臘)の用法(養蜂・陽報)時代」であったのだ。だが、アマくはなかった。「江戸幕府」の秩序は全国的には「隠密(スッパイ・伊賀者、甲賀者)」と、幕府直轄、「天領」内では南北町奉行、代官配下の「与力同心・目あかし」に支えられていた。「華の蜜の情報伝達」と、その「採取」で成り立ち、「卵を産む女王蜂を頂点とする全体主義社会」、「母子社会」なのだ。『渡邊崋山』は確かに母親『おタカ』に孝行者であった・・・  「文政十一年八月(1828・戊子年・庚申月)」の「高橋景保」は「シーボルト(ジイボルト)」との「地図(輿図)の交換」を蘭学者の「鳴滝塾」の同士でもあった隠密「間宮林蔵」に密告され下獄したのだ。翌年二月に「高橋景保」は獄死し、その遺体は「塩漬け(鹵づけ・鹽づけ)」にされた。国産みは「地図(輿図)」の作成者からであるが「塩漬け」にされてしまった。同年十二月、「シーボルト」の「長崎・出島の幽閉」であった。蘭学者の動向、言語に対する「密告」は、「天保九年五月・1838・戊戌年・丁巳月」の『蛮舎の獄』を発端として、『弘化二年三月(1845・乙巳年・己卯月)』の「親不孝者の『高野長英』」の「伝馬町獄舎」の放火、脱獄事件から「嘉永三年十月(1850・庚戌年・丙戌月)」の『高野長英』の「逮捕・暗殺」までに混乱熾烈を極めたに違いない。その後も『吉田寅次郎』逮捕、斬首があった「安政の大獄(1858・戊午年~1859・己未月)」や、幕末の「新選組」の活躍まで「密告政治」であった。その後もズゥ~っと。「密告(情報)」の「把握」、諜報謀略は戦争、政治、経済、「組織」での利害対立が存在する限り必然的に必要とされるモノである。しかも権力を握った者は権力維持の為にそれを独り占めにしようとスルのは当り前だ。だが、「・・独裁」が「理想へのプロセス」であるなんて考えチャァ、悲惨な「パラドックス」に陥るのだ。  そして、『弘』の漢字の最大眼目の掛けは「明治元年(1868・戊辰年)~明治三年(1870・庚午)七月(癸未)二十三日(庚申)」にあったのだ(?)・・・何故なら「お披露目」したい『弘文(こうぶん)天皇』は、「日本書紀」にはその天皇位に就任した記録はなく、あるのは死亡した「672年7月23日(?)」とする記事で、彼の首が確認されたのは「乙卯日」で、西暦で云えば「6(丙午)月28(乙卯)日」か「8(戊申)月27(乙卯)日」である。そして、この天皇就任のキジは『水戸黄門』のヂジイが編纂させた『大日本史』の「明治三年」の総轄の中にコソあるからだ。「コウブン」は、  「構文・高(皐)文・校文・后文・皇文・孝文・康文・功文・公文・控文」  で、「胡得文」、「乞う文(聞・分・蚊=虻=阿武)」でもあるから。シカモデある、『弘仁』、『弘長』、『弘安』、『弘和』、『弘治』の各年号の「オワリの日付」は「5(五・伍)日」が「一(ヒト)つ」で、「28(二十八・弐拾八・廿八・貳拾捌)」が「五(イツ)つ」である。コレは確率的にも必然的な意図がなければナカナカ揃わない数字である。「宝くじの5・28・28・28・28・28」でアテるのはチョォ~とした「神業」であるナッ。ならば、そのイト(意図・異図・伊都・糸)を「オワリ」、「ゴ」、「ヒトツ」、「ニ・ジュウ・ハチ」等のスベテを「同音異字の変化・転換」で推理せよ、である。  オワリ・・尾張・終わり えんど・らすと  ゴ・・・・・吾・語 ふぁいぶ  ヒトツ・・・比・渡(登・図)・柘(拓) わん  ニ・・・・・似(爾・丹・貳・尼) つぅ  ジュウ・・重(従・充・中・戎・廿) てん  ハチ・・・捌(蜂・鉢・椀・葉智・8=∞) えいっと  イツつ・・何時柘(逸拓・溢拓・乙付・壱柘) ふぇん(敷衍)  「尾張の吾(我)の言葉の語尾」が「猫」や、「海猫(かもめ)」の鳴き声に似ている「にゃぁー(ミユー)」であるならば、随分と手の込んだ「示唆」ではある・・・カナ。「猫(描)」こそが「憎き(似句記)、怨念(音撚)の、天敵(転出記)」である、「鼠(音図診・素・蘇)」を「クイ(区意・句意)殺(戸賂・胡賂)」して、「仇(字・阿多)」を果たしてくれるのだ。「現存・古事記」は「尾張」にある「真福寺」の「賢喩」が書き写したモノ(?)が最古のモノであった。「おキク」の霊魂は「三毛猫」の「おタマ」に「憑依(ノリりウって)」し、「佐賀・肥前・鍋島藩・幡町皿屋敷」にヨナヨナ出るワケだ・・・当然、「現存・古事記」、「現存・日本書紀」に「写したモノ」はスタイル(国家制度)ばかりではなく「隋・唐」の「スキャンダル」をも、である。  「太宗」の「貞観十二年(638)」、吏部尚書「高士廉」に『氏族志』を撰させた。これは従来の名門門閥を廃して「唐王朝」の皇族、外戚、功績を基準にした「九階級」の官爵順位の記録簿であった。これを改作して「顕慶四年六月(695)」に「許敬宗」の奏請によって礼部郎中「孔志約(コウシヤク)」等に命じて『姓氏録』を作らせた。理由は『則天武后(武照)』の出自である「武氏」が『氏族志』には記録されていなかったのだ。それで「武氏」をこの名簿の第一番目に記録する事であった。日本にもこれと似た「氏姓名」を明らかにしたモノがある。だいたいからして「官位・爵位」を気にするのは「成り上がり者」と相場が決まっている。「聖徳太子」の「官位十二階」や、「天武天皇」の「八色の姓(天武十二年・十月・684)」や、翌年の「天武十三年一月・685」に制定した「親王・諸王十二階」、「諸臣四十八階」もこれと同類であるハズだ。さらに「天照大御神」の「伊勢神宮」だが、当時たいした役割を果たしていない。「壬申の乱」の時に戦勝祈念して「伊勢神宮」に向かって祈った記事ぐらいである。むしろ、『竜田神宮』に何度も「持統天皇」は伺いをたてている。  『則天武后(武照)』は「654年(甲寅)」、「嬰児死亡事件」を「王氏」の殺人として実質的に皇后になったのだ。「寅(イン・とら・虎)」年である。翌年「655年」は「乙卯年」であった。「卯(ボウ・うさぎ・兎)」年だ。陰謀である。そして「705年(乙巳)」に死亡した。生存期間を年表でみれば、  623年(癸未・『羊』年)~705年の「八十二(八拾弐)歳」  あるいは数えで「八十三(八拾参)歳」である。別な説では  628年(戊子・『鼠』年)~705年(乙巳)の「七十七(七拾七)歳」  で、数えで「七十八(七拾八)歳」であった。  いずれの数字も「都合がイイ数字」である。実際に権力を握ったのは夫の「高宗」が死亡した  683年十二月四日=癸未年・癸亥月・辛卯日、唐王朝『弘道』元年(癸未年)  であった。『弘道』である。『弘文天皇』が「672(壬申)年7月23日」に死亡したならば翌年は『癸酉(キユウ)年』である。「癸(キ)」は「ミズ(水)のト(弟)」とヨ(訓)ミ、「酉(ユウ)」は「トリ」とヨムのだ。 『則天武后(武照)』が生存した期間である「623年(癸未・『羊』年)~705(乙巳・『蛇』年)」、あるいは、「628年(戊子・『鼠』年)~705年(乙巳・『蛇』年)」の「七十七(七拾七)歳」を「日本史の事件」と重ねるとどうなるのか?  620・掖玖人(ヤクジン)二人が伊豆に漂着・天皇記、国記  623・『則天武后(武照)』誕生      「聖徳太子」妃が鞍作鳥に金銅釈迦三尊像を造らせる(推古三二年)  628・『則天武后(武照)』誕生      「蘇我蝦夷」が金銅釈迦三尊像を造らせる(推古三六年)      「推古天皇死没(三月)」  641・「武照」が入宮して「才人」となる       山田寺造営・舒明天皇(十三年)死没  645・「大化改新」  649・「武照」が感業寺(安業寺)の「尼」となる      冠位十九階・蘇我石川麻呂自殺・阿倍内麻呂死没  651・「武照」が再度後宮に入る      孝徳天皇難波長柄豊崎宮へ遷都  652・「武照」が長子「李弘」を産む      戸籍作成し里、五保制  653・「武照」が昭儀の位      白雉四年・遣唐船の第二船沈没  654・「武照」の嬰児(娘)死亡      遣唐使(高向玄理・河辺麻呂)・孝徳天皇死没(十月十日)      吉士長丹、唐から帰国      御物・金銅釈迦像飛天舟形光背(甲寅年の銘あり)  655・「武照」、皇后となる      斉明天皇即位(皇極女帝重祚)  656・「李弘」が皇太子となる  657・洛陽を東都とする      吐火羅人、筑紫に漂着  659・「長孫無忌」自殺・「垂廉の政治」開始・「姓氏録」に「武氏」      阿倍比羅夫、蝦夷を討つ  660・合壁宮を造る      鬼室福信、百済救援要請・漏剋を造る  661・第四子「旭輪」誕生      初めて耽羅(トラ)の王子「阿波伎」来る・斉明天皇死没  663・竜朔三年・「白村江」で「倭国水軍」を撃破      天智天皇二年  664・劉仁願が「倭国」に来る  666・泰山封禅      耽羅(トラ)皇子来る・・・・・・・・天智五年  667・耽羅(トラ)の王子「始如」来る  668・耽羅(トラ)の佐平「椽麿」来る  669・『郭務・』、二千余人を率いて来る      耽羅(トラ)の王子「久麻岐」来る      藤原鎌足、西暦六六九(己巳)年十一(乙亥)月十七(辛酉)日死亡  670・法隆寺炎上  671・百済鎮将『劉仁願』、『李守眞』来る      『郭務・』六百人、『沙宅孫』千四百人、船四十七隻を率いて来る      天智天皇死没=(辛未)年(癸亥)月(乙丑)日      大友皇子が太政大臣・・・・・・・・・天智十年  672・『弘文元年』・壬申の乱・大友皇子死没(七月)  673・天武天皇即位  674・高宗を「天皇」、「武皇后」を「天后」と呼称      大来皇女が伊勢へ  675・「李弘」死亡。「賢」が皇太子      占星台設置  677・耽羅(トラ)皇子来る  680・「哲」が皇太子となる      持統天皇病気・薬師寺造立発願  681・「太平公主」が薜紹に嫁す      多彌島より島地図の献上・氏の定・帝紀、旧辞の撰修  683・高宗死亡・中宗(賢)即位・「天后」を「皇太后」とする      大津皇子の政治  684・中宗廃位・旦(叡宗)即位・「皇太后」の称制      八色の姓  686・告密の制      朱鳥元年・天武天皇死没・大津皇子死没  687・持統女帝の称制  689・夏正暦を廃し、周暦を採用      草壁皇子死没  690・大雲寺建立・周王朝とする・「聖神皇帝」となる・則天文字の施行      持統天皇即位・高市皇子が太政大臣・元嘉暦、儀鳳暦併用  702・張兄弟の名声と一族の横暴      十二月、持統天皇死没  704・楊再思が宰相・『則天武后』病      慶雲元年・粟田真人、唐から帰国  705・『則天大聖皇帝』      十一月二十六日(乙巳年・丁亥月・戊寅日)死没・・・寅(虎)日      刑部親王、葛野王死没  『則天武后(武照)』は「654年(甲寅)」に「嬰児(エイジ)」を亡くしている。『トラ(虎・寅)』は『天武天皇』の別称で、『野(うの)』は『持統天皇』だ。「654」はアナロジー(analogy)で「645」、「564・546・465・456」。この「645」年代を調べろ、である。「聖Ananias(アナニア)」は「ウソツキ(liar)」の代名詞だがヤ?  654年=6+5+4=15(十五・壱拾五=イチジュウゴ=位置重語)        む ご し=惨し=悲惨(比纂)だ、残酷(竄刻・竄告)だ  甲寅=コウイン=弘韻・工員・拘引・光陰・降音・皐因・高胤・孝允・控隠             項音・皇院・敲音・稿音・孝蔭・康胤・庚寅     =きのえのとら=記(紀)之重の虎(コ)     =紀(記)乃重のトラ(耽羅)     =揆(鬼気・機器・危機)埜重の都羅(斗・)  「654+1000」の「1654年(承応三年)」の事件は「隠れキリシタン」の訴人(密告人)の褒償金の増額、仙台の大洪水、信濃高遠藩の苛政で領民が天領地に逃亡、西国大洪水、玉川上水の完成であった。 「645年大化元年」は「蘇我蝦夷・入鹿」の暗殺と焼き殺しで、「蒸しゴロシ」であった。「6・4・5=む・し・ご」=「無視語」、「無死吾=蘇我」、「武私語=武使語=武死後=務史語=武試語」、「鵡詞語=蒸し語」、「虫呉=蜈蚣=むかで=百足」、『武士後=無私吾=戊辰後=明治』・・・  「645+1000」の「1645年(正保二年)」の事件は「徳川家康」が「東照宮」の宮号を賜った。赤穂藩が塩田開発。剣豪「宮本『武』蔵」の死没であった。出来れば無理にデモ「6」を「9」に換えて類推したいモノだが・・・広島、長崎、次は名古屋か原爆投下・・・「1945年(昭和二十年八月十五日)=己酉年」・・・「嬰児の厄死、扼殺」は「産めよ増やせよ」と太鼓を叩いても喰うモノが無きゃぁ、日常茶番・・・それでも「陰暦八月十五日」の夜は「仲秋」の「満月(マンつき)」、「名月(メイつき)」だ。「満月」の「ウサギ」は狂(ルナ)って、ウソツキになってしまった。史朗詐欺は真っ赤なウソつきで、赤目である。1946年」の「5月3日」じゃぁなくて「十一月三日」を「倭国民」は大切にしなきゃぁ・・・アカン。  エイジ(英児・英治・英次・栄治・英字・英二・洩事・映字・影児・叡児)  ナクシ(名句詞・拿句史・那句試・納句誌・奈苦死)  で、『叡智(フィロソフィ)の薬冊』と、『英字(イングルッシュ)の訳冊』であるからナ・・・めりチャン、母値、姥知で、ネッ。  スナワチ、「トラ(耽羅)・トラ(寅)・トラ(虎)」に始まって「コウブン(降文・降参の文書・無条件降伏の幸福文書)」の受諾であったカナ・・・他の『弘』の付く「年号」の事件はあなたが自分で調べてクレ。  『弘仁』、『弘長』、『弘安』、『弘和』、『弘治』の各『元年』~『三年』と、その前後の事件をも・・・

「新井白石」と「古事記」・(1)・(52)     「新井白石」と「古事記」・(1)・(52)      「白(曰)」と「石(巖)」の、          「参(參)」と「考(土ノ于)」の資料・史料・飼料・死霊・思量


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