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「国家」をどのように考えるか?


       国家論・目次     (一)  「国家破綻と崩壊」     (二)  「民族国家」の「民族」とは     (三)  国家エゴとは      (四)  健康で文化的な最低限度の生活とは      (五)  日本国憲法      (六)  パリ・コミューンの原則      (七)  価値論

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     国家をどのように考えるか?(1)       「社会主義諸国(?)」の「国家破綻と崩壊」・・・・  世界中に「国家」と言う名の付く「地域」が線引きされてジグソウーパズルのように埋め尽くされている。  ここで、「資本主義」、あるいは「社会主義」と言われている「国家形態」とは何かを考えて見たいのだが・・・アメリカを中心とする「自由主義諸国家」、あるいは計画的経済を標榜していた「社会主義諸国家」は現実的には何が違うのか。  「資本主義諸国家」は必然的にその「生産手段の私有化」を前提とし、歴史的存在として立ち現れたのだからそのプロセスは必然的に「植民地主義的=商品市場の獲得」による行き詰まりに陥った。その結果、「帝国主義的戦争=金融資本主義」として「破綻・崩壊」もした。だが、その「資本回転」の反省、手直しから「蘇生」もした存在である。  それを根幹で担っている実体が「国家」をはみ出して「資本」を操作している「国際金融関係で閨閥」をつくっているゴク少数の人間達である。「資本主義経済」は「生産手段の私有」と「商品市場の私的売買」が保障されている限り、利潤を産み出すべく、「国家政治体制」が如何なるモノであれ、世界経済として「資本を国際回転」をさせていくのだ。  先進資本主義に存在する彼等は自国の「支配形態の法」を「民主主義的」なモノに手直しする。「余剰生産の再分配」を資本主義的国家体制の秩序維持のタメに被支配階級へ拡大し、「自国国家内の民主主義」も拡大した。だが基本的な「私有財産法」を変えはしないのである。階級、階層のいかんを問わず、「私有財産法」の下、皆が「自由平等」に「資本主義者=大金持ち」になれるハズだ。もちろん、「自由平等」に路頭をウロウロする「ルンペン・乞食」にもなれる。そう、「私有財産法」の下で、その「選択」は「私的個人」の「自由」なのである。  先進資本主義国内の「被支配階級」の一般的な生活、福祉レベルは「支配階級の恩恵」で高いが、その「恩恵」とは後進国、発展途上国の「国際的階級搾取」を前提にしている。資本主義諸国のほとんどは「国境領土枠内の国家」であるから富める国家もあれば、貧困国家もある。裕福、貧困度は「国家単位」の比較だが、「貧困国家の支配階級」こそ、その国民としての生活レベルは裕福なのだ。「資本主義経済国家」は「政治的民主主義国家」としての「法秩序」が整備されようが、されまいが、「私有財産法」さえ守られればイイのである。そして、「君主制」であったり、「軍事的独裁制」であったり、「国家社会主義(ナチス)」であったりして、「政治的支配者」が専制としてその「還元された富(利潤)」を独占的に搾取するのである。先進諸国家の外国資本が介在している中近東の「産油国=資本主義国」の国内の貧富差、アフリカ、中南米の「鉱物資源国=資本主義国」の国内の貧富の差を視れば歴然である。後進資本主義国の支配階級は、その利権(生産手段=生産地・原材料・労働力を含む)を先進資本主義国家の政府を媒介にした通商、関税条約等で、資本、投資家に売り渡し、握られている存在なのだ。その還元された富の一部が後進資本主義国の国民全体を潤すのではなく、政治的権力を有する一部の支配者に握られ、蓄積されるのだ。この蓄積が「国家(民族)資本」となるか、単なる私的財産となるかは「スイス銀行の秘密口座」をみれば明らかになるだろう。政情不安定になり、自国を捨て、国外亡命するかっての権力者を保護するイギリス、フランス、アメリカ、カナダ、スイス国家等の思惑は何か?・・・「難民の人権」を護る等とは違うのだ。政治的に利用価値のある駒か・・・それもある。彼等は膨大に自国民から収奪した私的財産を「スイス銀行の秘密口座」に有しているからだ。しかも資本主義諸国家の金融機関の殆どはその大元で国際的な金融閨閥に繋がっている。  いずれにせよ、「資本自体」は「利潤」を求め、形を変えて国家の枠を超えて周っていくのだ。政治的には資本主義国家の階級矛盾は「民族資本」と「外国(国際)資本」、「民族と民族」、「人種と人種」、「宗教と宗教」の対立に歪曲されていく。  「社会主義諸国家」の誕生は「資本主義諸国家間の戦争」の行き詰まりのドサクサに「労働者・農民」の解放を旗印に「共産党」が「労働者の前衛」とぬかし、「国家権力」を簒奪した。ロシア革命である。社会的な民主主義的基盤が成熟されてない国家権力の奪取は悲劇である。特にその革命が優れた資質を有する個人に委ねられているとしたら最悪である。レーニンが単にツァーリ(皇帝)に代わるロシア国家の指導者として、パンに餓えていた民衆に思われていたなら尚更である。  レーニン死後、その「政治的理想」を忘却し、「民主主義的」な政治システムを欠落させ、その「共産党組織官僚」を肥大化させ、「国家企業(国営工業・国営農業)」を彼等「官僚=特殊な国民」の「利益収奪機関」としてしまった。・・・我が日本の合法化されている「日本共産党」は膨大な「蓄積された資本」で「豪華な巨大ビルデング」を建設所有している。この「資金源」は何処から来ているのか?「資本家」からで無いとすれば、党員の寄付か、「労働者」からの労働組合費か、「自由市場での商品売買」としての政党機関紙、雑誌、書籍類の収入か、でなければ「自由市場での投機的な売買」の利潤によってである。  ロシア革命直後の国家は「労働者・農民評議会(ソヴィエト)」による「生産管理・市場管理・政治委員、軍事委員の選出と罷免」を兼ね備える「社会主義国家」をめざした政治権力を奪取した「プロセスの国家」であった。  だが、「労働者・農民評議会(ソヴィエト)」は「国家権力奪取の為に存在していた共産党のシステム」に取って代わられたのだ。その「共産党のシステム」とは「非合法化されていた国家権力奪取の為の秘密政治的軍事組織」であった。「秘密政治的軍事組織」は国内、国際状況が厳しいものであったとしても、「社会主義的民主主義国家の政治組織」とはなり得ないのアタリマエである。だが、国内、国際状況が厳しい中で、果たして「労働者・農民評議会(ソヴィエト)」による「社会主義的民主主義国家の政治組織」を防衛出来るのか?・・・デキルハズであった・・・が、現実的な歴史はソレを望まなかったのだ。  その意味で、「民族主義者のスターリン・・・の履歴」を闇雲に批判はできない・・・カモ?  1917年、  2月革命後、5月ペトログラードで党中央委員会政治局員に選出、  6月第一回ソヴィエト大会で中央執行委員に選出。  以後レーニンとともに十月革命武装蜂起。  革命後民族人民委員(1917~1923)。  国内戦時代には軍事委員会委員。  ツァリーツィン(スターリングラード、ヴォルゴグラード)を白軍攻撃から防衛。  1922年コミンテルン中央執行委員。  1923年4月党中央委員会書記長。  ・・・民族人民委員→軍事委員→書記長であった。  グルジア人であった彼は「ロシア民族国家」の「皇帝(書記長)」として振舞うより他に無かった。政治権力が「共産党書記長」に握られたコト自体が問題である。記録文書係の長が何故権力を握る事になったのか?・・・記録されたモノはすべてが「情報」である。この「情報を独占」して政治を「操作」したのだ。だが、「軍事戦術スッタッフ」であった彼は、イギリス革命、フランス革命を「軍事的」に反省しても、マルクス、レーニンと比較して、その「階級的自覚」としての「歴史的反省」に対する頭脳が及ばなかったに違いない。  特にフランス革命のギロチンに登壇させられた権力者達の首の数、そしてジャコバン党を指導したロベスペール等の人民議会の革命スタッフの首の数、周辺諸国の反革命勢力の圧力、その後、ジャコバン党員であったナポレオンの登場は「フランス革命」ではなく、「皇帝」として「フランス国家」を救ったのだ。スターリンはその上っ面の反省しか無かったに違いない・・・そして、スターリンは被抑圧階級ではなく、「ロシア民族国家」を救ったのだ。「革命の最高権力機関」としての「人民議会」や「コンミューン」の存在を反省しなかった。「人民議会」も「コンミューン」も、お喋りに飽きた、ギロチンと政治にうんざりした「人民自身」がつぶしたのだ。「人民自身の秩序」をつくること無く、結果として「人民」は革命の決着として「軍人英雄=将軍=皇帝=カエサル」の秩序を望んだのである。  だが、「人権宣言」は残された。そして、「ナポレオン法典」も・・・「フランス革命」を基盤に、1804年公布。全文2281か条、身分編、財産編、財産取得編の3部からなる。法の前の平等、私的所有権の不可侵、個人の自由、信仰の自由などを基本原則とし、第1編「人」において、人間のもつ自由や法の前における平等などを規定、第2編「財産と所有権の諸形態」においては「私的所有財産の絶対性を強調し」、第3編「所有権取得の諸形態」は現代的な近代的諸国家の「民法」の基礎を成している。  すなわち、「市民(ブルジョワ)社会原理」を「法」で明示し、「私的所有財産」を前提にした「私的個人の自由」は「法」でまもられるベキモノとしたのだ。だが、「民法」をまもれない人間が何故か存在する・・・「レ・ミゼラブル(小説・映画・演劇)」の主人公、「ジャンバルジャン」や、その関係者を観て「あぁ、ムジョウ!」と涙を流す奴は、「物語自体」ではなく、その「生きている今現在の己の頬に流れる涙の雫の根源」を考えてみるべきだな・・・当時も今もギリギリのところで現実的に「私有財産法」を護るコトができない人間は「私有財産法の裁き=裁判」を受けるのだ・・・まったく、「貧乏(?)」な一般市民は複雑な「法」も、単純な「法」にも「無知なコト」が多いからなのだ。行列の出来る・・・なんかのTV番組をみる暇もなく、生活におわれて「法的教育」から疎外されているのである。  そして、「法」を熟知している人間は「一般社会の倫理・道徳=常識」を無視して「法の抜け穴(盲点)=規制記録条文が無」をくぐり抜け、「私的所有としての蓄財財産」としてウマイシルを吸うのである。「法の下(記録条文)」で記録されていないモノは更に私有財産蓄積として「法からは自由」なのである。「法から自由」とは「法を犯しても見つからねば、法から自由」でもあるのだ。そして、アンタの脳ミソは生きている限り「スベテのモノから思考自由」なハズだが・・・?  そして、ナポレオンが組織した軍隊は「小土地自由農民とプチブルジョワジー」を基盤としていた。ナポレオンの軍隊はその「法的理念」とは裏腹に食料などを進軍先の「住民」から現地調達=略奪し、かつ、「住民」を暴行、虐殺したのである。そのナポレオン戦争では、およそ200万人が死亡したのだ。殆どの「歴史家」も「政治家・国家官僚」も、「経済学者」も「哲学者」、「物理学者」も「化学者」もこの「理不尽な200万人の死の意味」を自分自身の問題としては捉え返さない・・・もちろん日中戦争であれ、太平洋戦争であれ、あらゆる過去の戦争で理不尽に死んでいった一兵士や人々を。そして、現在的に「国家間戦争・内戦」に巻き込まれている人々を・・・今現在生きているアンタも・・・海外に派遣された日本国「自衛隊」を・・・TVの画面で視ているだけ?・・・給水や学校の修理だけの「理由」でイラクに派遣されていると考えている人間はよっぽどの脳天気である・・・過去に於いて「殺し合いの戦場」から生きて帰還した日本兵は戦争体験に無口になり、その精神がイカレしまったのは当然である・・・シベリアで捕虜になって帰還した日本兵も・・・饒舌になったのは敗戦で特攻が出来無くなった命拾いの日本兵か、上級将校である。戦争の白兵戦の現場にいなかった奴である。アンタにチャンスがあれば「西部戦線異常無し」と言うドイツ映画を観て欲しい。その場面で、銃後の日常生活の教室の中で、若い生徒に戦争を煽っている「学校の先生」が登場している・・・その人物に対するアンタの評価が分かれ目である。  現在のイラクから一時的に帰還したアメリカ兵が軍隊に復帰せず、精神病院に逃げ込んでいるか、あるいはアメリカ政府を相手に軍隊復帰拒否の裁判訴訟を起こしている。イラクでのアメリカ兵の戦死者は2005年現在、既に1500人以上になっているのだ。当然、イラク人の戦死者は万単位である。  スターリンはその国家意志としての「スターリン憲法」を残した。この「スターリン憲法」はどのように機能したのか?・・・「KGB」・・・一般的には「秘密警察」と言われるモノがそれを護って機能したのだ・・・1917年12月20日、ロシアで設立された「チェーカー(反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会)が前身。チェーカーとは「反革命分子による破壊活動、反革命公務員によるサボタージュを取り締まり、革命法廷へ引き渡しを任務とし、人民委員会議 に直属する機関として発足した。当初は調査活動を主としたが、「裁判所の決定なしに逮捕、投獄、処刑」を実行。チェーカーは1922年、「GPU」に改組。スターリン末期にはベリアを議長とする内務省が強大な実権を握るに至った。1953年スターリンの死後、ベリアの力を恐れたフルシチョフは、同年ベリアを逮捕・処刑するとともに、翌年1954年「KGB」に改組した。  ・・・「裁判所の決定なしに逮捕、投獄、処刑」を実行とは「リンチ=私刑」そのものである。コレのどこが「社会主義」であると言えるのか。「鳥居耀蔵」だって、偽の証拠、証人をデッチあげたとしても、お白砂に引っ張り出して沙汰を言い渡したに違いない。  「単純明快(?)」な「戦争放棄を謳っている日本国憲法」は「国家憲法」として歴史的に残されていくのか?・・・残されても、残されなくても「現実」と「法的理念」は戦争と平和的状況で、ハナハダシク乖離するのだ。  ヒトラーのナチスは、  ドイツ・ワイマール憲法・・・  「1919年、ワイマールで開かれた国民議会で制定されたドイツ共和国憲法の通称。  国民主権、  男女平等の普通選挙の承認に加えて、  新たに所有権の義務性、  生存権の保障などを規定し、  初めて社会権の保障について定めた。  二〇世紀の民主主義憲法の典型とされる」  を変えはしなかった。ナチスはこれを政権獲得にむしろ「社会主義的な幻想をあおって」利用したのだ。その党名が「国家・社会主義・ドイツ労働者党」であった。・・・そして、1933年のナチスの政権掌握、「全権委任法」によって事実上消滅したとされている。  ・・・「消滅」させられたわけではないし、改憲もしなかったし、されなかった。「ワイマール憲法」はあったがその内様を事実上、機能させられなかったのだ。日本語ではコレを例えて「絵に描いたモチ」とも言う。    参考・「人民議会」、「コンミューン」・「フランス、人権宣言」・国連に於ける世界人権宣言へ  そして、「ソヴィエト(評議会)」はつぶれるべくして、つぶれた。そして名前だけが「ソヴィエト連邦」として残った。いまや、この「ソヴィエト連邦国家」すらすっ飛んだのである。そして、「ロシア共産党」は「階級、人間解放」の原点を忘却し、「物質存在の意味」を取り違え、「人間の命を単純物質に還元」してしまう「単なる唯物論の党」になりさがってしまったのだ。「ロシア共産党の教義」を「ユダヤ、キリスト、イスラム」の「政治権力者に利用されたメシア思想にも似た不寛容な宗教教義」以下の次元のモノにしてしまった。個人崇拝、共産党官僚絶対、秘密警察、その次元で「人民」を煽動し、思想教育で組織化していったのだ。個人崇拝はその個人が死亡すれば偶像崇拝として二流、三流の共産党官僚に利用されたのである。  ・・・「人民」は「ソヴィエト」を嫌ったわけでもないし、「資本主義」に憧れたわけでもない。また、「マルクス・レーニン」の立場や思想的理論に憧れたわけでもない。体制、思想の如何を問わず、「ジャンバルジャン」と同じように、何よりも現実的な「パン」を求め、その分配方法としての「民主主義」と「抑圧からの自由」を渇望したのだ。そして「戦争での命のヤリトリ」は、その「階級国家」の本質を暴露させ、「ロシア革命」はソレに代わる「労働者・農民・兵士の階級的政治機関」としての「ソヴィエト」を組織形成したのだ。  だが、残念ながら「直接民主主義の基盤であるソヴィエト」を階級的立場を見失った「秘密政治的軍事組織」としての「共産党官僚組織」に奪われ、骨抜きにされたのだ。「共産党官僚」は「ソヴィエト」を「秘密政治的軍事組織」の延長の組織として組織化してしまった。国家権力の転覆を目的とする「非合法の政治的秘密軍事組織」の原則は裏切り者の「暗殺粛清」である。そして、この論理=実践は対峙する「合法国家権力」そのものの暴力的機能性と同類同質である(アメリカ政府のCIA)。違うのは因って立つ「思想的立場」だけである。「私的所有財産法の堅持」か、「私的所有財産法の廃棄」かの立場の・・・お題目だけで革命をやられては迷惑千番、また「矛盾論」よろしく論理と実践のパラドックスなどと、「大義名分、親(非抑圧階級)を滅す」であっては如何なる「革命」もワタシはモチロン、「人民」もタマランのだ。  「国家権力」を奪取した「労働者、農民、市民、兵士の直接民主主義のソヴィエト」は、後にも前にもその階級的解放を前提とした情報と、政治的決定と実行の「スベテの秘密から自由」であらねばならない。「直接民主主の組織、組織化原則」とはコレの一点にある。  結果、「人民」は「ロシア皇帝」と、その「官僚」、「抑圧階級」からの解放ではなく、階級概念を「ソヴィエト民族(国家)」に重ねられ、塗りつぶされたレトリックにダマサレテ、信じ込まされた・・・すなわち、「絶対的権力者=ロシア皇帝=ニコライ二世」に代わる「絶対的権力者=共産党書記長=スターリン」と、その「共産党官僚組織」を望んだのだ。ロシア共産党に階級歪曲された「民族国家=ソヴィエト国家」として洗脳されてしまった・・・情報と教育から疎外された「革命的人民」は「ダマサレやすい存在」でもあり、あったのだ。過去の日本人民も・・・現在の日本人であるアンタはどうか?  「被支配階級」がダマサレないためには「何」が必要だったのか?・・・「階級的自覚に立った直接民主主義的な立法・行政・裁判」の一体化した機関。そこで「決定された経緯と、その内容のあらゆる情報の公開」、それらによって「直接民主主義的に選出された各委員」、その「委員の実行、施行」を監視、監督する「監察組織委員」、そして、その「各組織委員に対する罷免、リコール」・・・なによりも、「階級的自覚保持」としての「階級的相互自覚教育組織そのものとしての政治組織」である・・・「階級的教育」とはソラ恐ろしいのだ・・・あらゆる社会的階層、階級の如何を問わず、将来も資本家でありたい、将来は資本家になりたい「資本主義的人間」にとっては・・・彼等の「私的財産所有の自由」が否定され、ソレを将来的には無くしてしまおう、と言う教育なのだから。「資本主義的」な彼等の「スベテの自由」とは、この私的財産所有の社会的現実によって維持されているからである。  逆に言えば、如何なる体制の支配階級であっても、常に、この「階級(私有財産・官僚支配)教育」を自らの特殊階級利害を「国民利害」、「民族利害」と言うコトバでたくみに覆い隠して一般化してきたのだ。ダマし、ダマそうとしてきたのである。「情報の秘密」こそが、「歪曲、偽情報の宣伝」こそが、彼等の支配技術の常套であり、常識である。バレそうになると当然のように暴力の行使であった。  しかも、問題なのは一旦そのシステムに組み込まれてしまったら動物の幼少期のスリコミ現象のごとく、「ダマシテイル人間」と言う自覚すらおきないのだ。革命時期に殺された支配者階級は「己の死」を悲運である、不運である、としか考え無かったであろう。フランス革命で王妃はその支配階級としてのプライドを崩すことなくギロチン台に臨んだのだ。死に直面して磔刑になって「キリストが吐いた最後のコトバ・・・主よ、何故、我を見捨てたまいしか・・・」を思い浮かべる支配者は幸いであるかな。「主」とは「人の子、キリスト自身の思想」であり、その教えを聴いた「天国を約束された人々=死んだ後に救われる人民」でもあったのだ。時代的な俗世に於いて偉大なるスーパースターは支配階級に加担し、要請された「詐欺師」であった?  「ダマサレテイル人間」もそのおかれた立場の理不尽さにナカナカ気づこうとはしないのだ。自己存在の立場を疑うことともせず階級支配されているのを当然の立場としているからである。「家畜」は自分自身の存在の意味を知ろうともしないであろう・・・気が付いてもその立場に甘んじてしまうのに違いない・・・時には逃げ出す「家畜」も・・・?  青年期に「マルクス」に触れて、その哲学と学問的立場に単純にカブレナカッタ人間は信用しないほうがイイ。中年、壮年期に「マルクス主義」にカブレテイル人間は信用しないほうがイイ。老年期にまだ生きて「マルクス主義」にカブレテイル人間は「要領がイイ奴だった」に違いない・・・「エゴイスト」ととして?  「マルクス主義」にカブレ無かった人間は「幸い」である・・・「マルクス」に触れるコトのなかった人間も「幸い」である・・・何があろうとも「現実的に事実として生きてきているハズ」だから。「幸(さいわい)」と「辛(つらい)」の漢字が似ているよなッ・・・イチ(一)が無い「辛」の意味はナンだろう?  戦前(?)も、敗戦後も、日本人の事業家は「資本家、資本主義者」と謂われるのを嫌ったらしいが、「労働家、労働主義者」と謂われて嫌われたか、ドウだかは知らない・・・「士ー農・工ー商」とはかっての日本の支配、知識層が「カネ」を扱う階級の本質をよくとらえていたのだ。「勤労者」って言うコトバは「資本家・労働者」も含む概念みたいだが、「勤労感謝の日」はダレのタメの日なんだか・・・ネッ。  時代に生きてイカつい顔をし、美人の奥さんを侮辱され、決闘も辞さなかった「マルクス」はあらゆる既存の「主義(principle)=思想(thought)」を疑う人間であり、「自分自身とその現実社会の関係」を疑い、その「現実的な人間関係の理不尽」と戦うヒトであった。  「マルクス」は当然、「マルクス主義」にもカブレ無かったのだ。「理屈=理論」にカブレナクテモ、「現実的な人間関係の理不尽=不快」さは、ダレでもその「状況に出会えば知るコト」が出来るから・・・だが、その状況に出会って怒りを覚え、その「怒りの理屈」を考えない人間ならば、アンタ自身も含めて信用しないほうがイイ・・・  「社会科学(社会関係の理不尽)」を学習しても、「絶体絶命的」な「個人の実存的、心理的危機」に直面せねば、長い物に巻かれろの立場をとるのである。「私有財産的個人」であって、「社会的個人」である「存在」に思いも馳せないからだ。だが、「恋人」や「家族の危機的実存」に対してはどうか・・・スベテの人間とは言わないが、殆どの人間が「階級支配者」や、「法」を超えて「自己犠牲的精神」で「己の命を賭けてマモルハズ」である。それは、「家畜以前の生物の存在的意味」、殆どの「生物が種を雌雄の対で護ろうとする協働的な実存的原点」だからだ。  そして、フランス革命後、ロシア革命後の権力闘争に於いては自分自身をダマして(自己批判?)死刑になっていく「革命家」も存在した・・・現実的にも、思想的にも逃げ場が無くなってしまったのだ・・・家族縁者への迷惑をおもんばかったのかも・・・?  思想的立場は違え、「権力を握った如何なる個人、その配下の如何なる組織員」も「自己保身」に身を費やし、「権力組織内(国家組織内)での相互補完」に隋するのだ。  であるとするならば、権力を握った「自覚的被支配階級」であった人間は、  「① 生産と分配の民主的社会化」を前提にした  「② 議論・決定・役員選任・役員罷免・施行」を  「③ 生産ブロック・市場ブロック・居住地ブロック」に於いて     その「直接民主主義」で敢行し、  「④ 階級的教育」を再確認、チェックし、     その「直接民主主義組織」を  「⑤ 階級警察・裁判による治安維持」と  「⑥ 外部からの軍事暴力に対して     ③との連携に於いて武力防衛」  せねばならないのは言うまでも無い・・・敢えて、このような状態を「国家」と言う必要は無いし、呼ぶ必要は無い。この「諸ブロックの連携、連合組織」は「階級的国際社会解放共同体」、あるいは「全世界、全国民的な生活水準の均一化を目指す連携連合共同体」とでも呼べばイイのだ。  何故なら「資本主義的生産」と、ソレを前提にしている「商品の自由売買市場」での経済は一国家の枠では成り立たないし、あり得ないからだ。例え、「社会主義(計画経済)的国家」があったとしても、国際関係の中で、諸国家を巻き込んで「売買市場」は動いているからである。  かって西側自由主義諸国から鉄のカーテンと言われた「ソ連邦」が崩れ始めたのは「小麦の生産不足=自然災害」からであった。国家の食料不足が国際市場での「食料買い付け」となったのだ。売り手は「豊作国家のアメリカ」であった。当時、ソ連邦内に於いては通貨として役立たずの「金塊」が有り余っていた。需要=供給=売買市場・・・売買取引の成立である。問題は「官僚分配の不平等」であった。  日本国家の食料不足・・・1993年、「日本」が米の不作に陥った時に「タイ米」は・・・食糧庁が国産米不足を理由に輸入米のブレンド販売を決定。米は、タイ、中国、アメリカから輸入された。だが日本人の口に合わず、特に「タイ米」が大量に廃棄されたのだ。  この日本の緊急米輸入で、国際米市場は大混乱に陥ったのだ。当時の国際米貿易量は年間1200万トンで、総生産量の3~4%であった。米を主食にする国は「100%自給自足」である。残りが輸出されるコメである。  アメリカ政府は米を生産する「アメリカ農業」に農業用水などの援助を有利に与えていた。主食の麦生産にでは無い米にだ。アメリカにとって米は輸出米としての商品であるのだ。そのターゲットは日本であった。日本政府の「減反政策」にもかかわらず、毎年在庫の古米が余ってきた。そして農民と消費者に介在して日本政府は主食の米を諸外国よりも「法外に高い安定価格」で売ってきたのである。主食の米を日本政府がその売買を税金操作で管理していたのだ。これが完全に日本市場で自由化されれば「田圃の減反政策」ではなく、「田圃の廃棄政策」となるのは歴然である。高い日本米より、「安いアメリカ米」が日本農業を潰すコトにもなりかねないからだ。  1993年、その日本が国内産の米不作を理由に国際取引される米1200万トンの内の255万トンを輸入したのである。結果、国際米貿易量の「2割増し需要」となった。米の貿易価格は約2倍に高騰、輸出国の「タイ国内の米価」はモチロン上昇し、「タイ国内の貧困層が自国生産の米が食えない状況」になってしまったのだ。また、従来から「タイ米」を輸入し、それをアテにしていたアフリカやイランなどの貧困な人々は「食料の米自体」を手に入れることが出来無くなったのである。原産国の買い手市場で資本は高く買い、尚且つ消費国の売り手市場で高く売る。需要必須とみられた日本人には高くてもよかったのだ。日本米が不作でも「外国産の高い米を買い占めるカネ」はあり余っていたのだから。だが、原産国の農民が儲けたワケではない。カネを手にしたのは原産国の穀物商人、商社資本であり、富める国の穀物商人、商社資本である。「損」をしたのは「税金」で買い占められたコメを捨てられた「日本の納税者」である。「国際市場での国際階級収奪」のカラクリである。  コレに似たような江戸時代の米買占め事件、「1836年(天保七)の大飢饉」に発した「大塩平八郎の乱(1837)」があった。食えたのは上層支配階級と御用商人で、餓死したのは農民である。  ・・・だが1993年の日本には「乱」も「一揆」も起こす様な奴はいなかったし、その必要はなかったのだ。  翌年の1994年、「日本」では米が豊作となり、輸入米は「90万トン在庫」、尚且つ「1993年国産日本米」も在庫として残ったのだ・・・蓄積された「国家資本(税金)・商社資本」が国際的に動くとはこの様なコトである。だれが、損をし、だれが「餓え」たのか・・・「救民」されたのはダレなのか?・・・日本での「田圃の減反政策」は当然のようにイワレタのだ・・・「肥満体質で悩んでいる日本人」は一体、何を食っていたのか・・・牛肉・・・メリケン粉?  ・・・1994年、日本政府は「食糧管理法(食管法)」を「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)」に変えたが・・・ここでは「米の自由化」と言う「国産米不足」よりも更に恐ろしい「アメリカ国際資本」のエゴがうごめいている。日本資本主義国家は最早、「主食食料の自給自足」が出来ない国で、庶民は尚且つ「安全な食料を口に出来ない国家」となりつつあるのだが・・・。  ハナシを「ロシア=ソ連」に戻そう。  決定的なソ連邦(民族諸国家連邦)の崩壊の要は「チェルノヴィリ原発事故」であった。科学技術管理の官僚支配のデタラメである。「原発事故=放射能汚染」が起っては、「官僚」も「階級」も、その「社会主義」もあったモンジャない。その広大に放射能汚染された生活空間で人々は事件当時から今現在を生きてきている。命が途切れるのは一時間後かも・・・一時間後の死よりも、今現在の命を生かす放射能汚染の食料である。明日命を奪うかも知れない汚染食物を今現在、食べざるを得ないのだ、今現在生きるためには。だが、その現実を知って、その汚染地域の行政を担う「ソ連官僚」などはもはや存在しなかったし、しないのだ。「下級官僚」は逃げ出した。「秘密」、「機密」、「粛清」でその官僚組織を牛耳ってきた「高級官僚」はもはやその「国家幻想」での指導力を失ったのだ。  モチロン、この問題は「日本国家」の「頻発し続けている原発事故の問題」でもあるのだ。  国際階級収奪関係から解放されるべき「社会主義革命」は思想的にも、行政、裁判、警察、軍事、科学の技術に於いても「世界的、国際的」規模での「被抑圧階級の自覚」が必要とされるのだ。  そして、「階級関係からの解放条件」は「主体的」にも「客体的」にも革命の「己の存在する場所」をわきまえた世界的、国際的なチャンスが重ならねば成就しない。原発事故は起る、台風は来る、地震は確実に来るのだ。だが、その予測が目的ではない。目的は襲来時の生活防御と、その後の後始末である。被支配階級の権力奪取が一国に起ろうとも対外的な国際情勢から潰される可能性が大である。  「① 生産と分配の民主的社会化」を前提にしたその時の準備万端の体制が「理論的」にも「経験的訓練」に於いても必要なのだ。  来たるべき「全世界、全国民的な生活水準の均一化を目指す連携連合共同体」・・・  プロセスとして「私有財産」は「生活水準の均一化」を前提にしてのみ許される。  プロセスとして「私的所有」は廃止されるのではなく、制限されるのである。  プロセスとして「思想・信条・芸術的創造」等の「その自由な表現されたモノ」は、その「生活水準の均一化」の前提で許されるのだ。  私自身、「理性的な人間」は、他の人間に対してダレも理不尽な「殺人」、「強盗」、「詐欺」、「差別」を讃美する者はイナイはずであると確信するからである。  「社会生活での理不尽・非業」の根源は「暴力と殺人」、「ぬすみ」、「だまし」、「差別」である。自ずから「自由な表現」はそれらの「否定」を前提になされるであろう。  「私有財産」とは他者に対する「暴力と殺人」、「ぬすみ」、「だまし」、「差別」の「かたまり」である。だが、「感情的でもある人間」の頭と生活に染みついたモノを即、現実的に無くすのには寛大で、寛容な「時間と教育」が必要である。  本来「思想・信条・芸術的創造、表現」はどのようなモノであれ「自由」である、と考えられがちだが、国家が発生、存在して以来、歴史的に眼に見えて、耳に聞こえての「自由なモノは存在」させられなかったのだ。「自由の領域空間」は頭の中にだけのコトバとしてイメージとして存在させられるモノであった。国家権力はその体制を政治的に批判、否定するモノを「焚書坑儒」で抑圧、弾圧してきたのである。だからかっての「思想・信条・芸術的創造、表現」は「秘密を孕んだ自由」となったか、「秘密を孕んでいないモノ」は「秘密の場所」に隠されたのだ。  「愛のキリスト教」であれ、「喜捨(捐課 (えんか)・ザカート=ザカー=サダカ)のイスラム教」であれ、当初、これらの「宗教」が弾圧、迫害を受けたのは何故か?・・・全てが当初は「生きた人間社会関係の平等、対等としての解放」であったからだ・・・「唯一神の下での階級解放の宗教」・・・「宗教」は「私的個人の継承利権」にシフトされるや、支配階級の思想=法へと世俗化するのだ。これらの当初の思想が、「抑圧され、生きて生活する人々のモノ」になった時には「密教」となるのである。  「支配階級」にも優しく、寛大な、「悟りの仏教」は世俗化した「宗教」に吸収されていくのが当然であった・・・空海が目論んだ「護国鎮護」の「真言密教」とはナンであったのか?・・・抑圧された人々の「現世」をまもるための「秘密の教え=表現芸術」であった・・・カモ?  それゆえに「全世界、全国民的な生活水準の均一化を目指す連携連合共同体の「思想・信条・芸術的創造、表現」は「私有財産否定=階級社会否定」の「自由」であらねばならないのは当然である。  「私的私有財産=蓄積された富」は社会共同体に本来属するモノで、その分配も共同体構成員に均等分配されるハズのモノであった。にもかかわらず、それは階級階層の如何を問わず、私的私有財産の蓄積は個的人間の当たり前の「常識」となっているのだ。問題は「商品市場の自由売買」がスベテの「階級関係」を覆い隠しているからである。  かっても今も、「思想・信条・芸術的創造、表現・科学的発明発見の技術」で生きてきた「自由人」は、その知識教養、技術を支配階級の私的財源や、国家組織・地方治自体組織=税金をあてにして「商品」として売り渡し、その生活を支えてきた。資本主義社会のある「特許(特許権・著作権・商標権)」はその商品市場に投げ込まれるや「私的財産を膨大に蓄積する商品(富)そのものに化ける」のである。資本主義的市場に於いては「自由人の意図」は何処にあれ、マルクスの思想であれ、レーニンの思想であれ、ポルノ写真と同じ「商品」となるのだ。そして不必要になったモノはゴミ箱に捨てられるのである。「国家」もぶっ壊されて将来はゴミ箱行きだと思っていたのだが・・・人間の命を粗末に食い潰し、資本を肥やしにしながらリサイクルしては増殖する、バケモノなのだ。


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