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2012年12月22日ウソ(鷽)やサギ(鷺)がトリの名前になったコトワリは「七(なな・シチ)=漆(うるし・シツ)」


 七(7・Ⅶ)+面(顔・丆囬)+鳥(酉・禽・鶏)

             囬=異体字「囜・囬・佪・𢌞」=回

               回=旧字「囘」

      カイ(クヮイ)

     (漢・呉)エ(ヱ)

      まわる・まわす・めぐる・かえる 

 七面鳥=ターキー

     Tur key

     tur key(鍵・鉤・鈎・鑰)

     tur=前立腺肥大・・・全理通選肥岱(肥前・肥後)?

     カラクン(karakun)・・・加羅(唐・韓・漢・空)のクン?

     カラクン鳥・・・漢訓帖(調・喋)?

             唐君長(聴)?

  キジ目シチメンチョウ科の鳥

 (記事 志知免 調    採り)?

 ↓↑

 北アメリカに分布

 全長約1.1メートル

 羽は光沢のある青黒色

 頭から首にカケての皮膚の裸出部が

 青・紫・赤色などに変化

 家禽(カキン) としたものは

 クリスマス料理のメイン調理材料

 ↓↑

 1991年6月3日

 雲仙普賢岳火砕流・・・雲仙=温泉

 普賢岳

 島原半島中央部にある山

 標高1359メートル

 かつては

 雲仙岳の最高峰だった

 ↓↑

 『肥前国風土記』で

 「高来峰」

  コウ来訪・乞う来訪

  考来訪・項来訪・侯来報 

  高麗+報(訪)⇔高句麗

 雲仙岳(うんぜんだけ)

 長崎県

 島原半島中央部の火山

 半島西方の橘湾を中心とする

 千々石カルデラの外輪に位置

 「雲仙火山」と同義

 最高峰の平成新山

 三岳(三峰)の

 普賢岳・国見岳・妙見岳

 五峰(五岳)の

 野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山

 を含め

 東の眉山・・・雲仙火山の東端に位置

        溶岩円頂丘

        眉山火山は

       「七面山」

        と

        天狗山

        の2つの

        デイサイトの溶岩ドームからなる

 ↓↑

 右は眉山、左奥は雲仙岳

 (眉山)七面山(819m)

     天狗山(695m)

     小天狗-眉山南峰(708m)

 長崎県

 島原市

 北緯32度46分6秒

 東経130度20分22秒

 ↓↑

 主峰、七面山(標高818.7 m)

    天狗山(695 m)

    南峰(708 m)

    の三峰を合わせた全体を

    「眉山」と総称

 から

 西の

 猿葉山まで

 総計20以上の山々で構成

 三岳五峰(三峰五岳)

 八葉

 二十四峰

 三十六峰

 など様々の呼称

 1792年5月21日

 寛政四年四月一日

 雲仙岳

 眉山で発生した山体崩壊・津波災害

 眉山には

 「六筋の堅割」

 が生じ泥水が噴き出した

 島原大変、肥後迷惑

 肥前国と肥後国

 合わせて死者・行方不明者1万5000人

 火山災害

 ↓↑

 高岳・絹笠岳・矢岳

 九干部岳火丘群

 九干部岳、吾妻岳

 野岳、妙見岳、普賢岳

 ↓↑

 七面山(しちめんさん)

 山梨県

 南巨摩郡

 1,989mの山

 ↓↑

 八面山

 大分県

 中津市

 三光地区

 南部にそびえ

 標高659mの「卓状溶岩台地」

 中津市の中心市街地から10kmほどの距離に位置

 大分県

 中津市

 三光田口

 和与石

 『八面山縁起』

 「和与石」は

 「大宝元年(701年)

  八幡大菩薩が

  唐の国から帰り

  英彦山にいた

  僧・法連

  と宝珠の授受について争ったのち

  当地で

  和与(和解)したときに

  御座した巨石」

  石体の大神

ー↓↑ーーーー

 ・・・何かを「記録」していくと言う事は色々な方法があるのだが「歴史」と言う「記録内容」が「事実」なのか「モノガタリ」なのかは「判然」としないのは「記録」が「文字」でなされているので「当然」である。

 もっとも「事実的」な「記録部分」は「年月日時」の「数字」であろう。その「数字」も当てにならないのは「年代の起点・始点」である過去の各々の支配領域の支配者の「暦」がそれぞれ「独自」な「数字」で記されていたのだから当然でる。各地域の「暦」の数え方が「統一」されてくるのには「時間」が必要であった。

 通信情報がコンピュータ、携帯電話でホトンド同時に情報交換が出きるが、地球上の「場所」で、日月星辰を確認して拝める朝昼晩の明暗が異なっているのだから「時間」は「相対関係」である。現在的に「世界時間」と言うマルっと地球を包み込む「時間帯」が設定されている。そして世界の「基準」は「西暦年号月日時」となりつつあるが、各国の「宗教事情」によって相対的なモノであるのは当然である。

 西暦を「基準」に各国の過去的な「出来事・事件」の年代、月日時を「統合」出来るのは「理屈」で可能であるのだが、「人間」がやることである・・・個人的な「出来事・事件」でも利害関係が絡んでくれば「虚偽のアリバイ=出来事のWho=誰・Where=何処・Why=何故・What=何」、「時間的アリバイ=When=何時」を作り出すに違いない。自分自身の「日記の中」にも「ウソ」をつくコトも・・・

 先ずは「記録」された「When=何時」の「年代の年月日時の数字」が目に付いて「?」である・・・その「When=何時」が「記録内容」に関わっているハズなのだが歴史記録に於いて「ム」から「ユウ」の「虚偽」を捻出するのには苦労がいるであろう・・・空想、妄想、事実入り乱れてのモノガタリにはその「制約」は無い・・・だろう・・・それでも「歌舞伎」、「浄瑠璃」、「物語本」は「制約・規制・禁止」された・・・「情報」は「事実」であろうが「虚偽」であろうが、「制約・規制・禁止」されるか「歪曲」される。

 そして、「事実を伝えたい人間」が「記録の中にヒント」を遺して去って逝く・・・

 以下は例の如く「ウイッキペデア」からの参照、参考の抜粋記事を若干改作したモノです・・・

ーーーーー

 紀伝体

ーーー

 本紀(ほんぎ)

 皇帝や王などの支配者に関した出来事を年毎に記述する。

 『史記』の「高祖本紀」「秦始皇本紀」など。

 本来は必ずしも正統の天子についてのみの項ではなく、その勢力が天下を覆う者についても立てられた。

 『史記』の「項羽本紀」などがその例である。『漢書』は「帝紀」と「后紀」の二本立てになっている。

ーーー

 世家(せいか)

 諸侯に関する記述。

 「趙世家」「魏世家」など。

 「世々家録を受ける者」という意味だが、

 本来は諸侯のみならず「時代をこえて祭祀を受ける者」についても立てた。

 『史記』の「孔子世家」や「陳勝呉広世家」がその例である。

ーーー

 列伝(れつでん)

 個々の人物、特に国に仕えた官僚の一生を記したもの。

 また周辺の異民族の風習などを書き並べたものもこう呼んだ。

 本来は「列侯(爵位を持った家臣)の伝」という意味でこの名称となったのではないかと考えられている(『史記』の「淮陰侯列伝」や「呂不韋列伝」など)。

 列侯は初め徹侯と言っていたが、漢の武帝のときにその諱(劉徹)を忌避して通侯と改められ、その後さらに列侯と改められた。

 ちょうど司馬遷が『史記』を書いた時代は武帝の時代で、列侯と呼ばれはじめていた時期と一致するからである。

 しかし『史記』の中ですでにその原則は崩れており、「匈奴列伝」や「朝鮮列伝」、さらには「酷吏列伝」など、人物でも列侯でもない記事内容をもつ列伝がいくつも立てられており、その詳細は判然としない。

ーーー

 志(し)

 天文・地理・礼楽・制度など、分野別の歴史。

 『史記』では書としているほか、

 典、略、考など歴史書によっていろいろな言い方がされている。

ーーー

 表(ひょう)

 各種の年表や月表。

ーーー

 載記(さいき)

 各地に割拠した自立諸勢力の記述。

 天子に公然と反旗を翻して自立したり、自ら帝位を僭称したりした点で世家に似るが、

 世家で記述される群雄はかつて天子によって

 各地に封建された正統な諸侯の出自であるのに対し、

 載記で記述される群雄は戦乱に乗じて各地で武装蜂起した反乱勢力の出自である点が異なる。

 『晋書』からはじまったもので、司馬遷は秦末の反乱の首謀者陳勝と呉広の事績を「陳勝呉広世家」としているように、当初はこれを区別する意図はなかったと考えられる。

ーーー

 修史詔(しゅうし しょう)

 その歴史書が奉勅公撰であることを公示すために、編纂を命じた詔勅の写しを付録したもの(『晋書』)。

ーーー

 四夷(しい)

 列伝から異民族出身の人物に関する記述を独立させたもの(『晋書』)。

ーーー

 国語解(こくご かい)

 異民族王朝の場合、彼らに固有の民族語が頻出するため、特にその解説を添えたもの(『遼史』『金史』)。

ーーー

 同じ事柄が重複する事もよくあるが、

 個人や一つの国に関しての情報がまとめて紹介されるためにその人物や国に関しては理解しやすい。

 これに対して

 全てを

 年毎に並べていく方法を

 「編年体・紀年体」といい、こちらは全体としての流れがつかみやすいと言う利点がある。

 中国では『春秋』と言う名作があったために

 最初は

 編年体が主流だったが、

 司馬遷の『史記』以降は

 紀伝体が主流になり、

 二十四史は全て紀伝体である。

 また、

 日本の

 『大日本史』も紀伝体で書かれている。

 一方、

 編年体の代表としては春秋の他に

 司馬光の『資治通鑑』がある。

 「紀伝体」と「編年体=紀年体」の

 他には、

 紀事本末体(きじほんまつたい)、

 国史体(こくしたい)がある。

ーーー

 紀事本末体

 ストーリー展開を追って事件の筋がわかりやすいようにまとめ直したもの。

ーーー

 国史体

 日本独自のもので、

 編年体を基本としながらも人物の死亡記事があった場合にその人物の列伝を付載するものである。

ーーー

 国史体から発展して後に

 漢文伝という

 漢文の伝記が書かれるようになった。

 なお、日本には記紀が成立する以前に

 『古事記』の序文などに記されている

 『帝紀』と『旧辞』のような

 二つの史書を組み合わせた

 「日本式の紀伝体」とでもいうべき形態が

存在したのではないかとする説もある

ーーーーー

・・・

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