top of page

「虎関師錬」と「古事記」(2)


     「占い」と「心理=理性・感情論」・・・2  で、既に前述したが、次ぎの著作から「心理学・精神学」の概念を抜き出して、自分なりに考えていくことにしたいのだが・・・「*」印がついているところがワタクシの部分である。ワタシの解釈であるから「植村肇」先生の概念とはその意味に於いては一致しない場合があるから、そのつもりで。ここでは国語辞典、漢和辞典からの「概念の意味」と照らし合わせて考えて見たい。  現代人のための  「精神保健」  -精神保健学への試み-  駒澤大学教授  植村肇著作  発行昭和五一年二月二十五日  発行所(株)ぎょうせい  定価:1600円  精神の健康状態  1、知性  2、情緒  3、意志  4、自分の健康を私物化しない  5、人間関係  6、道徳  *・・・「1、知性」とは、人間の精神のもつ思考、判断の能力。特に、ある事物についての抽象的、概念的な認識能力である・・・らしい。既に「コトバ」を理解する上で、「精神」、「思考」、「判断」、「能力」、「抽象的」、「概念」、「認識」、「能力」等の意味とは何かを知っているコトを前提にしていなければわからんよなッ。  「精神」とは「こころ(心=脳ミソ=頭脳)の中(領域)」だが、この領域の働きが持つ「思考=思い、考え」て、「判断=判別し、分断し、筋道をハッキリさせるコト」が・・・「知性」・・コレでもいまいち、わからんョなッ。  「心=脳ミソ=頭脳」があって、その中の働きは「思い、考える」と言うことで、その思い考えた結果を、ハッキリさせる働きが・・・「知性」・・・この説明文には「思い、考え」ているところの「モノ」を補う必要がある。  「知性」とは、「心=脳ミソ=頭脳」の中に「観念的な何か」があって、その「何か」を対象として「何であるのか?」と既得しているコトバで思い、考え、その「何かの意味をハッキリさせる働きのコト」らしい。  「何かの意味」は「ことば=観念=言語」としての「何か」なのだ。「何か」とは「事物の意味のコトバでの説明である」。とにかく「何か」を対象にしない限り、「心=脳ミソ=頭脳」は「言語思考」も「言語判断」もしないのだ。そして「何か」とは「ある事物」であり、その「事物」についての「抽象的」で、「概念的」な「認識能力=ある事物が何であるのかを意識(記憶)として認め、とどめ、理解する働きの力」であるらしいのだが・・・「抽象」も、「概念」もその意味が何だかハッキリしない。  「抽象」・・・漢和辞典には「抽象」とは「個々の事物や観念に共通する性質を抜き出して一つの新しい観念にまとめるコト」である。  「概念」・・・漢和辞典には「概念」とは「個々の事物から共通点をひきだし、それをまとめて得た観念」  と記されている。どうやら「抽象」も「概念」も同じ意味らしい。で、「範疇」も同じかと思っていたら  「範疇」・・・漢和辞典には「範疇」とは「しなわけ。分類。部門。哲学上、外物を認識して概念化する時、必ずよるべき思惟の形式。ドイツ語 Kategorie (カテゴリー)の訳語」とある。国語辞典には「範囲。部門。種類。哲学上、実在または思惟の最も普遍的、基本的な概念。カテゴリー」とある。  これをワタクシが「翻訳」すると、  「事物」は「モノ=実在実物」で、「概念」は「コトバ=観念」であり、それらのある「モノ」や、ある「コトバ」に共通する「性質=傾向性」を抜き出して「新しいコトバ」にする、コト  である。これらの働きを「認識能力」とし、「知性」と「コトバ」言っているらしいのだ。図式化するならば、  事物(モノ  )←感性的感知(五感)→精神(思考)→抽象・概念→精神(判断)→知性                            ↓↑  頭脳活動の領域で、あるモノを、既に過去に獲得した「事物のコトバ=概念化した事物」を  頭脳の中で駆使し、言語化し、  あるモノが「何」であるのかの意味を与え、  新たに「あるモノは A 」である、とする頭脳の働き                           ↓↑  観念(コトバ)←概念自体の対象→精神(思考)→抽象・概念→精神(判断)→知性  「知性=認識能力」とはここで上述した「頭脳の中で、ある対象事物を思考し、その対象物の意味をハッキリさせ、新たなコトバを与える、頭脳機能の内容の説明」を一つの「知性」と言う「コトバ=概念」に統一したモノなのであるらしい。  五感(視覚・触覚・嗅覚)で得た  頭脳領域での対象物と、それに対する思考と判断    ↓↑    何?

   ↓↑

=革で造られ両足に履くモノ=革靴・・・はきモノ=履物    ↓↑         ↓↑    ↓↑  言語での意味内容    規定観念・・一般概念  で、「概念」と「観念」とは何が違うのか・・・「観念」とは「対象を表示する心的形象」である、らしい・・・じゃぁ、「心的形象」とは何か?・・・「心的形象」とは心の中でつくられる「形( form =姿、外観= figure )」と「象( image =想像、心象、仮想、空想= vision )」であるらしいのだ。  とにかく、  「観念」は心の中で形成されたあらゆる「コトバ」と「形」で、共同体に於ける「人間相互の共通な意味情報の伝達手段」として既に獲得されたモノや、新たに獲得されるモノとしておこう。  「概念」は特殊、個別化として分類され、その分類されたモノが、大枠で共通な意味を持つ一般化された基本的な「コトバ」としておこう。       分類の例  生物一般  分類された生物の特殊分類化  ↓↑  動物・植物  ↓↑  動物の特殊分類化     ・・・哺乳類       ↓↑ の特殊分類化     ・・・人類       ↓↑ の特殊分類化     ・・・国家別に特殊分類化された       ↓↑ 人種の呼称     ・・・日本人・・・山田太郎は       ↓↑      国別に特殊個別化された日本人の       ↓↑     更に特殊個別化された名称、呼称       ↓↑       イギリス人       フランス人       ペルシャ人       ギリシャ人       ↓↑       等の特殊個別化された「個人」の誰々さん  するとこの場合、現実的に存在する「個人=個的人間」の大枠の「概念」は「生物」と云う「観念=コトバ」になります、なッ。  実際には「山田太郎」と言う「名前」は、実体を有する彼の特殊的で個別的な「人格」から彼個人の独自な経歴、履歴のスベテの情報を含んでいる。「山田太郎」とは現実的に生きている個的人間としての彼のあらゆる「構成要素」の「総合されたコトバ=特殊で個別化された名詞=人格呼称観念」である。地域国家別の日本国籍の日本に住む日本人で、名古屋の中区に生まれた30歳の未婚の男性であるコトなど等。  しかも、「山田太郎の実体」は「生物」で、「動物」で、「哺乳類」で、「人類」で、「日本人の男性」としての「社会性の中」で生きて存在する。だが、「生物」、「動物」、「哺乳類」、「人類」等の「コトバ=観念」そのモノは、「分類されたモノの統一概念、統括された概念=一般化された範疇のコトバ(観念)」で、この世にはそれ自体、実体として実在しない。  「山田太郎」は「履歴=歴史性」と「現実的な社会性」を有した「生きモノ」であるが、「生きモノ」は「山田太郎」の生物一般としての、「共通項」としての「一般的な抽象化された説明のコトバ」であり、「生物(生きモノ)一般」は「山田太郎」だけではない。「生物」とはあらゆる生きているモノを「抽象化・概念化」したコトバである。そして、この宇宙に「存在するモノ」は最後には「モノと言うコトバ」に「抽象化・概念化」されてしまうのだ。  *・・・「2、情緒」とは、「思いにつれて起る様々な感情。心理学で怒り、悲しみ、驚きなど、強く本能的に現れる感情」である。ならば、「感情」とは何かのコトバの意味を知らねばならないなッ・・・・「怒り、悲しみ、驚き」が「感情」であるとすると、何故、「本能的」に現れるのか?  ・・・「本能」とは自分自身の肉体的存在を健康的に機能維持する為の「生理的な欲望」であるが「食欲・性欲・健康機能維持欲」である。  「本能」とは基本的には「固的身体の健康的な生命機能を維持する欲」と言うことに尽きそうだ・・・。  で、「感情」とは、漢和辞典によれば「物事に感じて動く、喜び、悲しみ、楽しみ、怒り、苦しみなどのココロの活動」であるらしい。「気持ち、心持」ともある。  とにかく、ワタクシ的に翻訳すれば、基本的には「感情とは、物事に感じる本能的な肉体的健康維持に反応するココロの動き」である。ならば「感情」とは「生理的な本能の現れ方」であるから、「物事」次第でそれに「反応」する「感情の種類=快・不快」の現れ方が異なるというコトである、なッ。  事物(モノ  )←感性的感知(五感)→精神(本能)→反応→感情  ↓↑  「本能的な肉体的健康維持に反応するココロの動き」  ↓↑  感性的感知(五感)→精神(本能)→反応→感情表現・表情・行為・行動  この「物事」は「肉体的な健康維持の是非」として関わってくるモノであるから、自己の個体的肉体の健康機能を「損傷=害=否定」するモノは「生理的本能に不快」として反応し、健康機能を「快復」させるモノは「生理的本能に快」として反応するであろう。  しかも、自己の健康機能だけではなく、本人が属する家族関係、友人関係、共同体関係での相手の「幸・不幸」、「生死・死活」や、「規範維持」の「遵守」と「否定」にも共感反応し、「自然の状況変化」に対峙しても心身の「快=不快」の反応は喚起する。  「感情」は自己の「自己存在」を健康機能維持を出来るか、あるいは親子関係、家族関係、社会関係、自然関係での「相互依存関係を承認」されるか、「否定」されるかを問われる時に起る人間心身の「快=不快」のことだ。  「2、情緒」とは「ある事物に対する感情の種類一般」であり、「生理的な快=不快」、「社会的観念=個人的信念・信条」の「快(承認)=不快(否定)」として「心の中=頭脳」に反応し、その反応が肉体的、身体的な各部分の内面、外面の双方に「表情・表現・コトバ・行動・行為等が反応」として現れるコトバである。  それは、現実的な事物の対象、環境、あるいは内面的な空想、幻想、妄想、想像、夢などの観念的な諸状況によっても  ・・・「喜び」は事物の対象理解、目的の達成、自我の貫徹、人間関係の必要性による相互理解、相互承認による協力、和合、賞賛、他者への共感からの賞賛、自己の克ち得た諸状況による他者への優越によって  ・・・「悲しみ」や「怒り」は事物の対象不理解、目的の不達成、自我意志の他者へ不貫徹、人間関係の必要性による相互不理解、相互不承認、自己の他者との対立での、敗北、裏切り、否定、親しい者との別離、分離によって  ・・・「驚き」は予期せぬ事態が起った時に  ・・・「苦しみ」は自己の肉体的な疾患、罹病状態の継続、親しい者が不幸に陥った時の同情、あるいは事物の選択、決断を自己が迫られ、葛藤する時  等に「感情の起伏」となって人間の精神と身体の内面、外面双方に現象化する意味のコトバである。一般的に「快=好き」とは気持ちがイイと言うコトであり、「不快=嫌い」とは気持ちがワルイと言うことだ。そして結果、気分と体調が良くなったり、悪くなったりする。  「感情」の根本は個的肉体の維持に於ける損傷、快復の「生理的な不快=快」であり、共同体に於ける相互依存関係での「親しい者との別離、分離」、相互依存関係の破綻、修復による「孤立・排除・差別による不快=快」である。すなわち自己存在が「共同体構成員としての一員として排除、不必要、不承認、孤立」させられたり、させられようとする時の「不快」であり、その快復、復帰の「快」である。人間は日常的な状態には「快」であるモノにはあたりまえのモノとして「無自覚」である。だが、その日常的状態が崩れだしたり、破綻する時に脅威をもって「不快」は現出し、その快復、修復を望み、その実現がなった時に「快」は現出するのである。  「感情の快=不快」は「依存するモノからの保護=分離」の時に立ち現れるモノだ。その観念的な根本は「死=肉体の消滅」に対する「特殊な観念=幻想」を有した人間の固有で特殊なモノである。  「特殊な観念=幻想」を有した人間の固有で特殊なモノとは、人間の幼児がすでに形成された人間共同社会に存在する家族(父母・兄弟姉妹)の感情と観念に依存して養育され、その過程で感情教育と観念教育を出生、幼児期になされるからである。  しかも個的人間の共同体での出生(幼児期)~生長(少年・少女期)~成長(成人期)~老化(老人期)に条件付けられているモノは、  第一に母親の母乳依存とそれからの分離にはじまり、  第二に家族依存とそれからの分離、  第三に同世代的な友人、仲間の依存とそれからの分離、  第四に男女の結婚による夫婦間依存とそれからの分離  等と、「各分離」は共同体内での新たな各層への構成員としての参加、相互依存関係の段階的な区切りである。それは「共同体観念=共同幻想の段階的獲得」でもある。最期の「分離」は「死」である。だが、この「死」は実体として「肉体の死」であるが、人間共同体としての生きている人間が有する「観念的な死」でもあるのだ。「観念的な死」とは「肉体を失った生きたタマシイ」の行き場所としての「幻想観念」自体のコトである。  とにかく、個的人間はこの幼少時の養育、育成時期を共同体生活をしている人間(父母、特に母親)から遮断されると決して「共同体としての特殊な感情・観念=幻想」を獲得した「感情的人間」にはならないのだ。その幼少時期、人間社会から切断された「小児の脳形成」は「人間感情のスリコミ(注・・・他のhpから言語説明を拝借 imprinting =「最初に見た大きくて動くものを親と思う」こと。ロレンツの発見した水鳥における先天的学習と後天的学習の中間に位置する学習。水鳥のヒナがはじめて出会った動く物体を学習して追跡する行動。初期学習の一つで臨界期を持つ。一度形成されると、以後変容しない。)の欠如」と云われるモノらしい・・・。  「スリコミ」の本義は「洗脳」とは違うが、言葉を理解する人間が施術者のコトバによって「催眠暗示」にかかる人間の「脳領域の働き」と似たところがあるようだ。  その幼児期に狼に拾われ、育てられた狼少年、狼少女は「狼的感情をスリ込まれて」、人間社会に戻っても、その「スリコミ」は消去、去勢されずに、その一生を終わる可能性が大である。  (注・・この狼少年、少女の話は「野生児の記録1・狼に育てられた子・カマラとアマラの養育日記・J.A.L.シング著・中野善達・清水知子訳・福村出版1977年2月10日初版発行」に詳しい。アメリカ合衆国には人間の父親によって幼少時から暗い部屋に家族関係から隔離、監禁されて家畜のように「餌だけ」を与えられて育った少女の例がある。発見、解放された後には「学者達」の研究対象となったらしいが言語学習が困難であった)  逆に人間に小さい時から飼われた「ネコ」や「イヌ」、「トリ」、その他の「動物」も限界はあろうとは思うが「人間感情、あるいは観念(?)をスリ込まれて生きている」ように思える。ワタクシが過去的に幼い頃から大人になるまでに飼った「ネコ」や「イヌ」、「小トリ・ニワトリ」はそうだった、と「主観的」に思うのだが・・・いや、主観的なモノではなく人間関係を持った動物は全てがそうである。あなたが過去現在「動物」を家族同然として身近に「飼っている」ならば当然のことであろう。私が飼った猫も犬も私のコトバや、感情的な表情や仕草を理解し、寝ている時には「寝言(?)」を言う存在であった。  人間と関らないところでの同一種である野生の動物達の生活には生きるための基本的な雌雄ツガイでの「巣造り、子育て、対敵防衛の学習観念」も「怒りと怖れ、悲しみの感情」も、「喜びの感情」もあるのは当然である。  *・・・「3、意志」とは、漢和辞典では「考え。哲学で、事をしようとする行動を起こす過程、また原因の一つを選び、その実現を意欲する心の作用」、とある。なるほど、ある目的を実現しようとするココロの状況なんだ。  *・・・「6、道徳」とは、「人のふみ行うべき正しい道。道理、道義。老子の説いた道と徳」・・・これは何だか意味不明だよな。ワタクシの考えでは「道徳の基本」とは社会生活の中、人間関係で「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」を遵守することである、と考える。そして、これは「倫理」と言われる心の内面に於いても社会的人間存在の個人が要求される「個人的な心のルール・規範=信念・信条」であるベキものである。  「道徳」とか「倫理」が「学問」としてあるコト自体が共同体での人間生活が「だまし」、「ぬすみ」、「ころし」が日常茶番であるというコトかも・・・  ここでは「道徳」は現実的な共同社会に於ける人間関係での行為、行動のルール。そして「倫理」は「道徳」としての社会的共同体での行動を支えている個人の内面的な「信条・信念・確信」と考えたい。  ところで、何故、人間個人が他の人間に対して「だまし=うそ=詐欺」、「ぬすみ=窃盗」、「暴力的行為・殺傷」等を起こされたり、起こしたり、起こってしまうのだろう?・・・根本的には「人間社会」では共同体の規範としてこれらは特別な場合を除いて「禁止」されている。「道徳」と「倫理」の根本観念は共同体構成員同士での「だますな」、「ぬすむな」、「ころすな」である。これらから外れた行動を起こすものは基本的には共同体の構成員から「排除」されるのだが・・・このあたりに「感情の葛藤」があるようだ。  だが家畜以外の「自然界の動植物」は「生死=死活」を賭けて獲物を捕獲するために「だまし=トリック=策略」、「ぬすみ」、「殺し」、それを食べているようにみえる。それらは個体的維持として、種族保存維持として相手の命を奪って食うことが「生存条件」であるからだ。人間の側からみれば「自然」とは、気候変化や地形変化、海洋、湖沼変化に伴うその環境内での「動植物の弱肉強食関係」である。人類もその「自然の一構成員」であったし、今現在もソウである。だからかってはその「自然の法則」の枠内で生存していたのだ。だが「コトバ=観念」を獲得した人間と人間社会はこの「自然の法則=弱肉強食=食料不足=天候次第=自然災害」から「食料確保」に関してなんとか「自立」しようとしてきたのだ。「穀物生産と貯蔵、生産手段の発明と改良、共同体間での生活手段の交易」等。  人間の共同社会生活とは異なるが、人間以外の群れを成す動物も「社会的な共同生活」で生存しているモノもある。昆虫で代表的なモノで、ある種の蟻は茸子を栽培したり、アブラ虫を家畜のようにして生きている。人間はこれを「共生」とかとも言う。蜜蜂の生活は「社会的、共同的な生活」で生存している。哺乳類で群れをなす動物の殆どは「社会的な生活」をしている。これらの動物にはある種の「共同体生活に於ける相互共通理解のコミュニケーション手段」を有していることが人間の研究で判っている。その殆どが外敵から群れをまもる音声合図であったり、身体合図だが、獲物である食料を発見した時にも使われている。しかも、人間に比べるとその出生からの「習得学習時間」はきわめて早い。まるで「経験的学習」で獲得したものではなく「本能」そのものようにみえる。そして、これらの「相互共通理解のコミュニケーション手段」は人間のような「言語」でもないし、「観念=幻想」でもないようにみえる・・・だが観察すれば彼等の「自己存在、あるいは集団的な群れを否定」される状況に於いては怒り、狂い、その相対するモノを威嚇し、戦い、時には「逃げて」、「隠れ」、身の安全をはかっている。ワタクシ的に考えれば「共同体的維持の学習的観念」を習得していると思わざるを得ない・・・のだが。  人間が共同体としての社会生活で生存できているのは「相互共通理解としてのコトバ=観念」があるからである。しかもこの「コトバ=観念」を得るには共同体内で育成保護と経験的学習にかなりの時間を要するのだ。これは今の所人間だけの特殊なモノであるように思える。そしてこの「コトバ=観念」は共同社会生活をする人間にとっては「絶対条件」なのだ。  単純に「モノの変化」とはすべからく「モノ」と「モノ」との「関係性」による。人間社会にあっての「生活維持・変化」は、共同体各構成員同士の「関係性」が「コトバ=言語=観念=相互共同(共通)観念=相互共同(共通)感情=相互共同(共通)幻想」が要になっているコトである。この「関係性」は「観念=コトバを媒介」にした「相互の刺激=相互の反応」と実際的な相互の行動、行為である。そして行動、行為の「関係性のプロセス、結果」が個的相互の「感情・観念」をまた、喚起させるのだ。  健康成立条件  1、個性・・遺伝子を含めて先天的精神障害、性格傾向  2、環境・・生育期の家庭環境、人間環境  3、行動・・知識、技術、態度、意志力の欠如  H=f (I.E.B))   (f)函数(function)  H:健康(healht)   I:個性(individuality)・主体(host)  E:環境(environment)  B:行動(behaviour)  上の三条件と精神機能  保険教育  生活行動に対する教育知識と技術  精神的健康の保持  精神障害の予防  精神障害者の医療、福祉、教育、取り締まり  精神保健学  教育学         宗教  精神医学        心理学        精神保健学  法学           社会学  医学 1)解剖学、組織学      2)生理学、生化学      3)病理学、病態生理学  社会 4)公衆衛生学      5)法医学  臨床 6)精神病学      7)神経病学      8)神経内科学        ↓  精神保健学  自然科学 1)遺伝学         2)薬学         3)医療電子工学         4)生物化学  人文社会科学         1)心理学、倫理、宗教学         2)社会学(含、福祉)         3)教育学(特殊教育)         4)法学(民事、刑事)  精神的不健康  特殊反応 1)習癖・不調  虚言、癖         2)一時的異常行動  適応障害 1)非社会的行動  嗜癖、自殺         2)反社会的行動  犯罪、非行  精神障害 1)精神薄弱  知能遅滞         2)情緒障害  情緒不安         4)精神病質  性格異常         5)神経症   病感過剰         6)精神病   人格崩壊  小児の心因性習癖   1) 情緒     不安、恐怖、無力、孤独、反抗、内気   2) 対人行動  虚言、喧嘩、盗み、残忍、性的悪戯   3) 生活行動  偏食、異嗜、不眠、夜驚、悪夢、吃音              自慰、   4) 身体     頭痛、嘔吐、失神、心悸亢進、喘息              咳、腹痛、下痢、便秘、倒錯、感覚障害  生命構造三層  1)植物的生命  2)動物的生命  3)人間的生命  人間  頭、心=精神・感情(heart)=霊(spirit)魂(soul)  mind spirit   mental  フロイト  1) 意識    前意識    無意識(精神分析によって意識化)  2)人格    超自我(倫理・道徳・super-ego)・ 理想    自我(自己統制・ego)・・・・・・・・・ 現実    原始自我(本能・Es、Id)・・・・・・・・本能    (リビドー・libido)=性的本能  精神機能分析  人格(個性)・・・知(論理学)・情(心理学)・意(心理学)   知能   性格  対人間、対社会関係(倫理学)  知能(intellgence)・・・一般論   環境適応(処理)能力   知的作業能力   知恵、才能  抽象的思考能力・・・心理学   文字、数、記号を用いる精神作用  知能の概念分析1

1)能力区分(操作) 1)記憶・・・・・・・・・・記銘 2)認知(思考)・・・・認識・弁別・注意 3)推理(思考)・・・・集中思考・生産的思考 4)創造(思考)・・・・拡散思考 5)判断(思考)・・・・比較・評価

2)領域区分(素材)1)図形・・・・・・・・・・形 2)記号・・・・・・・・・・色・文字・数 3)概念(語義)・・・・言語意味・言語論理 4)行動・・・・・・・・・・動作・行動

3)所産区分 1)単位・・・・・・・・・・知識・事物 2)分類・・・・・・・・・・比較・区別 3)関係・・・・・・・・・・二つの単位の関係 4)体系・・・・・・・・・・三つ以上の単位関係 5)転換(変形)・・・・変化・切り替え 6)見通し(含意)・・結果

 1)応用力・・用途の転換  2)生産力・・改良  3)空想力・・非日常的思考  4)流暢性・・臨機応変  5)柔軟性・・視野、思考、適応の幅  6)独創性・・独自性  7)具体性・・現実的、具体的な把握  知能因子  1)知覚  2)数量  3)言語  4)記憶  5)思考判断  6推理論理  7)創造  8)倫理  知能発達  刺激が無ければ機能は発達しないし、  機能が無ければ組織は退化萎縮する  感情  快、不快の感じに伴う自我の内的状態  喜・怒・哀・楽・驚・怖  感情(feeling)・・・・情性・・・好き嫌い  情緒(emotion)・・・情動・・・本能の内的外的情的適応  情操(sentiment)・ 心情・・・道徳、美、宗教  知的障害を省いた感情面の障害  快・・・愉快・歓喜・愛情  不快  恐怖・・・羞恥、心配  怒り・・・嫉妬、羨望、失望  不快・・・嫌悪  日本人は感情表現を押し殺し、平然とすることが美徳とされた  意志(will trieb)  行動の誘発する過程で、その結果が行動である  意欲・・・意志+意欲  意図・・・行動目的計画  意思・・・身体動作の心理作用・行為認識の犯意  意地・・・自我の貫徹  意志の発達  意志は行動の具体性によって判断  意志発達の条件  鍛錬、訓練による  意志的行動  目的意識の達成  健康に対する社会の連帯性、連帯責任  健康保障の組織、制度、事業  社会性は個人と他人の関係性  知性、感情を基礎に  意志によって表現される行動形式  皮肉、イヤミ、あてこすり  ユーモア、ジョーク、ウィット  態度

行動性積極(勇敢)消極(臆病)

対人攻撃(反抗)服従

思想伝統(保守)革新

集団独自(自己中心)順応

対事象激情冷静(理性的)

思考性集中散漫

感覚・行動細心粗雑

 性格(ethos)  1)人格(personality)・・・・意志の素質  2)気質(temperament)・・感情の素質  軽快  鈍重  敏捷  遅鈍  明朗  陰気  快活  陰鬱  などが、  感情・意志、  気分・行動  に現象化する  性格分類  意志、能動性、環境処理性  根本気分、感情惹起性、自我感情、自己関係  性格形成  1)遺伝  2)胎生期  3)出産時・・・外傷経験(不安の源泉)  4)乳幼児期・・・生理的早産    精神機能と肉体機能の未分化(反射活動)    狼少女:1920年10月カルカッタの西南110キロの    ゴタムリ村で発見救出された二人の女児    アマラ(推定二歳で死亡)    カマラ(推定八歳は九年間生存)    狼少年:1955年に発見    アヴェロンの野生児:18世紀にフランスで発見  遺伝は肉体的形成  環境は精神形成・・・大脳新皮質の発達時期(0~7才)  5)学童期以降    親子関係 

親子関係親の態度子供の性格傾向

1)支配関係厳格型 期待型 自発性欠如・消極的 不安定・気分的・要領的

2)拒否関係積極型 無視型(放任)過敏・怨恨・逃避 冷淡・劣等感

3)服従関係盲従要求型 溺愛型無責任・自身・非服従・横暴 依存・意志薄弱・反抗・独断

4)保護関係干渉型 心配型依存・反抗・乱雑 幼稚・依存・過敏

5)教育関係教師型感情安定・思慮・親切 積極性・自発性

対象区分子供青年

1)親・家族絶対視・依存傾向 独立・自己解放

2)友人一時的・気紛れ交際 多勢で賑やか・活動的 共鳴による持続的交際(友情) 少数で静か・趣味的

3)集団性仲間意識の欠落・ 帰属感薄い仲間意識強い・同一化

4)第三者への   態度実力者に敬意と依存 見得、非洞察 自己依存・個性的振る舞い 洞察力

5)行動局部的に満足成人の文化様式の追求

6)性関係無関心か反発関心、優れた人物に傾倒

 *・・・以上は、”現代人のための「精神保健」-精神保健学への試み-駒澤大学教授、植村肇著作”からの抜粋である。人間個人の「精神的状況」は根本的には「病理学的な障害」以外は共同体社会の「共同観念=コトバ」に規定されている、と言うことだ。そして、その「共同体観念」は共同体そのものの「諸状況・諸関係」が創り出してきたモノである。だから、個人的な「精神状況」は「共同体観念」が要求するモノに、はまっている時は「安定」しているのだ。そうでない時は共同体内の人間関係は必然的に反発、否定、排除となる。この状況が個人の「精神状況」に「不安」をきたすのである。自然の枠内に形成された如何なる「人間社会」も自然から独立して存在し得ないのは、農耕社会をつくろうが、遊牧社会をつくろうが、狩猟、漁猟社会をつくろうが「食料自体」を「自然から切り離しては作れない」と言うコトである。そして自然=食料から見放されては生きて行けない。食えなくなってしまう、と言う状況は観念的人間の最大の「不安」である。肉体的な健康機能は飢餓によって機能できなくなるからだ。そして、飢餓を経験しなくても人間の個的肉体は決して「自然からは解放されない存在として出生させられる(生→老化→病→死)」のである。「不安」とは食べることが出来なくなってしまう存在・・・「死」である。「不安の解消=自然からの解放」を望んでいるのは「人間の観念」であり、人間実体=肉体とその機能の「生→老化→病→死」は「観念としてでは無く、自然そのものの存在としての変化」なのである。そして「共同社会と言う観念」は「自然の中」での人間生物の「生活存在のあり方」を言っているだけなのだ。  だから人間は「自然=観念的人間存在=自然」の「生理的諸感情」からは決して逃げることが出来ないのだ。だが、この「人間共同体の共同観念」が社会的な諸状況から歪んでいるとすれば、歪んでいるモノを排除、否定すれば、その部分の人間諸関係の「観念感情=感情観念」からは解放されるだろう。  すなわち、共同体内での「特殊利害の排除・否定」である。そして、その共同体に覆いかぶさり、その共同体空間に浸透している汚水のような「特殊な共同観念=特殊な共同幻想」の排除、否定があれば、その意味での、その枠内での「人間精神の安定」は克服されれるハズである・・・単純ではないが・・・汚水も精神には必要カモ?・・・「人間精神」は「不安定=危険=刺激」を望む存在でもあるらしいから・・・  大ざっぱに言えば、「精神保険の心理学」とは、その必要性が個的人間の「精神の安定」であるらしいが、この「安定」はある共同体社会の「時代の共同幻想」の枠に矯正され、填められたときになんとか「安定」するらしい・・・矯正されない者は共同体から隔離、あるいは排除されるのだ・・・が・・・そのプロセスでの精神の「躁鬱」、「悩み」は「病」ではないのだ。人間社会に於ける人間の必然性である。  人類が「スリコミ」として「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」を「スリ込められた」としたら、その生存は不可能であろう・・・「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」は人間共同社会の「観念的理性」であるが、「だます」、「ぬすむ」、「殺す」も「観念的理性」であるからだ・・・  で、「占い」と「心理=理性・感情論」がどこで結びつくのか?・・・「占い」はその殆どの人達がある問題に直面し「精神不安定になった時」にかじりたくなるモノらしい。多分、その時期にその自分の問題に相談に乗ってくれる人物が周囲にいないか、あるいは相談相手がいたとしても、その相談相手のコトバやアドバイスに納得できなかったからであろう。納得できないカモ知れない、と言うことでは「占いの結果」も同じである。で、占いは一時的な「気休め」でイイのである。  「占い」を摩訶不思議なモノと考えてはイケナイのだ。霊感、テレパシ-でない限り、殆どの「占い」はその未来的状況を「相互のコトバのヤリトリ」としてしか理解せざるを得ないのだ。そして「占い師」は「心理学のプロ」と言ってもいいホドにそのお客の「心理」をたくみな「コトバ」で突いて来る。同類の「新興宗教」などの組織を支えているヤカラも精神的に不安定な「信者予備軍」に同じような「コトバ」を投げかける。そして「心理学のプロ」とは、この共同社会を牛耳っている「宣伝、情報屋のマスコミ」であろう。更に言えば共同体自体にある「共同観念」である。「ウソ」と「ホントウ」を使い分ける社会にアナタもワタシも存在しているコトを忘れてはイケナイのだ。当然にも「ウソ」と「ホンネ」のはざ間で社会生活をする人間は「精神的に葛藤し、悩み、感情も不安定」になるのが必然である。  この社会の「本質」を支えているモノが人間の「生産的諸労働」と、その生産物を「商品」とした「交換」による「消費・使用」である。そして「儲け」がある。この「もうけ」は「ある特定の人間の財力の蓄積」となっていく。そして「蓄積された財力」は「社会」を動かす「政治権力」となっていく。現実的な「もうけ」は「商品交換される場所での差額」でしか発生しない。そして「もうけるコト」はダレも疑問を持たないし批難しない。アタリマエとしての「基本的な共同観念=法」になっているからだ。で、この「共同観念=自由売買=私有財産」に「ウソ」はないのか?・・・共同社会の大枠の「共同観念」が「大ウソ」ならば、共同社会の構成員は常に「不安定」なところで生活をしている、と言うわけである。  不安の解消・・・今現在、「占いのコトバ」を得ようとも、未来に何が起ろうとも「可能性としてのコトバの結果」でしかない。生きているのは「今現在」である。そこでアナタに問われるのは、その「未来的結果」に対する対処の「立場」でしかない。不幸になると言われての「諦めの立場」からは何にも生まれてこない。「乗り越えていく立場」こそが何かを産み出す。不幸があって、当然、と居直る人間はもっと強いかも知れない。「未来的結果」が幸福なると言われた人であっても「感情」は不安定に揺れ動いて一定しないモノなのだ。世の中には今現在の自分自身の存在が「社会的レベル、生活環境が幸福」であることに恐れを抱く人もいる。もちろん「幸福」がもろいコトを知っている人か、「不幸」を経験した人に違いない。  とにかく、「占い」はある意味では人間関係で「孤立」している人間にとって、医学を装った「心理学者のコトバ」よりははるかに「参考」にはなるだろう。  今現在、自分自身の存在の意味が、その置かれた「状況、環境の中」でわからなくなった時に、その「状況、環境」を「理解、判断できる情報」が無いか、曖昧だ、と言うことに尽きる。あるいは「状況、環境」を「理解」する過去的な「経験」や、その「経験」を基礎にした「コトバ=観念」を持っていない、あるいは「経験」があったとしても「観念として整理」出来ていない、と言うことだ。そして、その「経験」が自分自身の既得している「信念・信条」に照らし合わせて「理不尽」である時は心の葛藤が渦巻きだすのだ。  たいがい自分自身の「信念・信条」は「世間的に常識=私有財産」である、と思い込んでいる「観念」が殆どである。アナタの「常識=信念・信条」が「世間一般の常識」となんとなく重なって一致しているらしいと思っている時にはアナタの心の葛藤は起こらないだろ。また、あなた自身に直接関って来る事件がない限り、何が起っても、ただ客観主義的に納得するだけであろう。この時点ではアナタの「常識=信念・信条」は他人事としての「世間一般の常識=私有財産」の次元なのだ。自分に降りかかった事件が納得できない時はどうなのか・・・?・・・当然にも、アナタの「常識=信念・信条」と「世間一般の常識」、あるいはアナタの「常識=信念・信条」と対峙する人間関係での「相手の常識」が「利害関係=損得勘定=損得感情」で違ってくるのだ、と気が付くハズ。その違いさえ判ればイイ。違いが判れば、その時点で自分の生きる道、選択する道は決まってくるからだ・・・自分自身の「信念・信条」さえ固まれば、あとの部分は「生きるため」の方策、技術的駆け引きでしかない・・・金持ちになるのさ・・・この現実社会では自分自身に「命の余裕(精神的にも、肉体的にも、経済的にも)」がある時に、自分も他人も救えるハズだ・・・「慈善」とか「偽善」とかで・・・先ずは金の損得勘定で収支が黒字になった場合は「慈善」とか「偽善」に金をまわすのサッ。そうすれば、この社会の「精神的損得感情・・・躁鬱患者」のいくらかは救えるハズだが・・・


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page