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バラの名前*2~3・・ドウシのコムラン


 『薔薇の名前(上巻)』の「264頁」には師匠と言われる『ウィリアム』が「謎の文字」に対する見解を見習い修道僧の弟子『アドソ』に述べる下りがある・・・  「出来るとも、アラビア人の知恵を少しばかり知っていれば。隠された意味の解読に関する最良の論文は、いずれも異教の学徒たちの手になるものだが、オックスフォードにいたころ、いくつか講義を聞く機会があった。ベーコンがいみじくも言ったように、知識の獲得はさまざまな言語の学修を通して行われるのだ。アブー・バクル・アフマド・ベン・ワシーヤ・アン・ナバーティは何世紀も前に『古文書の謎を解読したいと願う信徒の気違いじみた願望の書』を著して、魔術に用いるだけではなく、軍隊と軍隊とのあいだの通信や、王と使節のとのあいだの秘密連絡に用いる、謎の文字について、その組合せ方法や解読の規則をたくさん披露してみせた。その他にも、じつに巧みな方法を列挙した、アラビアの文献を、何冊かを見た覚えがある。たとえば、ある文字を他の文字と入れ換えてもよいし、綴りを逆さまに書いてもよいし、文字を逆に配列する場合もある。一つ置きにする方法もあるし、まったく別の方法を用いて、いまの場合のように、文字を黄道十二宮に置き換える場合もあるが、そういうときには隠された文字に数値を付与させたり、別のアルファベットに基づいて数字を別の文字へ変換することもある・・・」  と。この『ウィリアム』の見解は私と全く同じモノである。  私にとって『薔薇の名前』とは、「現存・古事記」に於ける『キクの名前』でもある・・・そして、「この漢字自体」こそが、『謎の文字』なのだ。『薔薇の名前(下巻)』の92頁から93頁には、この師弟が「ウェルギリウス」に関しての会話が記されている。  「わが故郷の島国の人間はみな少し狂ったところがあるから」ウィリアムは誇らしげな口調でそう言った。  「別の書棚を覗いてみよう」  「ウェルギリウスです」  「いったいどうしてここに?ウェルギリウスの何が?『農耕詩』か?」  「いいえ、『摘要』です。話にも聞いたことがありませんでした」  「それはあのマローのほうではない!トゥールーズのウェルギリウスだ、われらが主の生誕後六世紀に出た雄弁家だ。賢者として大変に名が高かった・・・」  「芸術とはポエーマ〔詩〕、レトリア〔修辞〕、グラマ〔文法〕、レポリア〔諧謔〕、ディアレクタ〔論理〕、ジェオメトリア〔幾何〕である。とここに記されてますが・・・いったい何語ですか、これは?」  「これもラテン語だ。ただし、この人物の考えだしたラテン語で、こちらの方がずっと美しいと思いこんでいるのだ。ここを読んでみるがよい。こう書いてあるぞ。天文学とは黄道十二宮の記号の研究であり、それらはモン、マン、トンテ、ピロン、ダメト、ペルフェッレア、ベルガリック、マルガレト、ルタミロン、タミノン、それとラパルトである」  「気でも狂っていたのですか?」  「それはわからん、わたしの故郷の島国の人間ではなかったから。よいか、さらにこうも書いてあるぞ。火を書き表すのには十二の方法がある・・・云々」  と『ウィリアム』が『アドソ』にその方法を教えるくだりがある。その「・・・云々」のヶ所は片仮名で記されているが、これを「平仮名」にして箇条書きに抜粋してみると、  ①イグニス、コクィハービン(生き物を煮炊きする言い方を持つがゆえに)  ②アルド、カラクス(熱を発するので)  ③フラゴン(炎の立てる音から)  ④ルジン(赤い色から)  ⑤フマトン、ウストラクス(焦げることから)  ⑥ウッティウス(仮死状態の手足を生き返らせるがゆえに)  ⑦シルレウス(火打ち石から打ち出すので。         そしてこれも、火花を打ち出すとき以外には正しくは         名ずけられていないので)  ⑧アエネオン(アイネイアース神から。なぜなら、この神はその中に         住んでいて、彼によって基本要素の息吹がもたらされるがゆえに)  と、あるのだ。そして100頁には、『アドソ』が師匠の『ウィリアム』に「一角獣」に関して尋ねる下りがある。  「では、古代の学問の大家たちは、どうして、一角獣の本性に関する啓示を、神から得たのでしょうか?」  「啓示ではない。経験だよ。たまたま一角獣の棲む地方に生まれ合わせたとか、さもなければ、このあたりで、まだ一角獣の棲んでいた時代に生まれたとか」  「でも、師匠、あなたが一貫して足跡を追い求めてこられた古代の学問を、あまりにも勝手な解釈で歪めながら、虚偽の書物が伝えてきたとすれば、これ以上どうして信じられましょうか?」  「書物というのは、信じるためにではなく、検討される対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているかを、わたしたちは問題にしなければならない。この点に関して、聖なる書物の昔の注釈家たちは明晰な考えを持っていた。これらの書物に語られている一角獣は、倫理的、寓意的、神秘的な真実を隠しているのであって、純潔を高貴な美徳とする考えが真実として留まるのと同じように、それを真実として留まる。ただし、これらの三つの真実を支える、文字の上の真実に関しては、どのような根元的な経験の事実からその文字が生み出されたかを、調べてみなければならない。文字は検証されねばならないのだ、たとえその超越的意味が有効に留まるとしても。ある書物の中に、ダイヤモンドを切れるのは山羊の血だけだ、と書いてある。わたしの偉大な師ロジャー・ベーコンはそれが真実でないと言った。理由は簡単だ。それを試してみたが、成功しなかったからだ。しかし、もしもダイヤンモンドと山羊の血の関係に、より高次の意味があれば、それは損なわれずに留まるはずである」  「では文字の上では嘘をつきながら、より高次の意味を述べることができるのですね」  と。さらに、158頁で、『ウィリアム』の考え方を披露している。  「・・・じじつ、私たちの時代においても、<名辞ハ事物ノ結果デアル>という者がいるとはいえ、にもかかわらず『創世記』はこの点に関して非常に明確なのだ。すなわち、神は人間のもとへすべての動物を連れていき、それらを何と呼ぶかを見られた。そして人間がそれらの生き物の一つ一つを何と呼ぼうとも、それがそれぞれの名前にならねばならなかった。そしてこの最初の人間が、エデンの園の言語において、非常に明敏であったが故に、一切の事物や動物に対してそれぞれの性質に応じた名前をつけたとしても、だからといって一種の至高な権利を行使して彼が、自分の判断よってそれぞれの性質にふさわしいと勝手に考えた名前を想像しなかった、とは言えないであろう。なぜなら、現に、人々が同じ概念を表すためにつけた名前が、まことに多様であり、万人とって同一なのは概念だけ、つまり事物の記号だけであることが、すでによく知られているのだから。したがって、〈名辞〉はたしかにギリシア語の〈ノモス〉すなわち〈掟〉から生じたのであるが、何よりも数々の〈名辞〉が数々の人々によって〈随意に〉、すなわち勝手な共有の取り決めによって、与えられてきたのである。」  と・・・。これらの抜粋したヶ所の考え方を、私は「古事記」と言われるモノに対してやってきたのである・・・のだが。  そして、『薔薇の名前(下)』の334頁~335頁には『アリストテレース』の「ギリシア語の筆写本」である、『詩学』の『第二部』をみせてもらいたいと『ウィリアム』は盲目の『ホルヘ』に要求する場面がある・・・そして、その部分には、  「第一部」では悲劇を取り扱い、それが憐憫と恐怖とを掻き立てることによって、どのようにして感情の浄化を行うかについて述べた。先に約束したとおり、今度は喜劇を(むろん風刺劇や無言劇をも含めて)取り扱い、それが諧謔の喜びを掻き立てることによって、どのようにして情念の浄化を達成するかについて述べてみよう。情念が考察に値することは、すでに霊魂論において言及したが、それは・・・すべての生き物のなかにあって唯一・・・人間だけが笑いの能力を備えているからだ。それゆえ以下においては、喜劇がいかなる型の行為を模倣するかについて定義し、ついで喜劇が笑いを掻き立てる手段について検討することにしょう。この手段こそは所作であり話法なのだ。したがって、以下において、所作の諧謔がどのようにして生ずるかを、すなわち、最善を最悪へ同化させたりその逆を行うことによって、欺きながら人を驚かすことによって、不可能なことや自然の法則を蹂躙することによって、無関係や無定見によって、登場人物を貶めることによって、剽軽で低俗な無言劇を用いることによって、不調和によって、無価値なものを選び出すことによって、それぞれに生ずることについて示してみよう。ついでまた、話法のが諧謔、異なった事物に対する似通った言葉と似通った事物に対する異なった言葉の取り扱いから、饒舌や反復から、言葉の遊びから、縮小辞から、発音の間違いや誤用などから、どのようにして生ずるのかについて示してみよう・・・  と記されたあった。・・・その『第二部』には、『ウィリアム』のことば(340頁~341頁)を抜粋すれば、  「・・・喜劇は〈コマイ〉すなわち農村で、食事や宴会の後に述べられる戯れの祝辞として、発声した。それは知名の人士や取り立てて有能な人物について語ろうとするのではなく、歪小で滑稽な、だだし邪悪でない人物ついて語るのであり、主人公の死をもって物語は終わらない。それは平凡な人間の欠点や悪癖を示すことによって、滑稽さがもつ効果に達する。ここで、アリストテーレスは笑いを誘う傾向を認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確にわたしたちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、とわたしたちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思い込んでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、要するに、英雄叙事詩や悲劇や聖者伝などがわたしたちに示してきた方法とはことなり、悪しざまに描き出すことによって、明るみに出された真実。そうであろう?」   と。だが、・・・『アリストテレース』の「ギリシア語の筆写本」である、『詩学』の『第二部』は、この物語の中では「灰塵」となってしまった・・・  「デカルト」と言う「哲学者」が存在したが、彼の有名な「命題」をあなたは知っているに違いないとは思うが・・・「世界人名辞典(㈱東京堂出版・昭和41年4月5日発行)」をみれば、彼はフランス人であり、「1596年3月31日誕生~1650年2月11日死没」と、ある。日本なら「1600年」は「関ヶ原の戦い」であるから、その「50年後に死亡した人物」である。彼は「哲学」のみならず、「数学」、「物理学」、「法律学」、「医学者(解剖学者)」であった。「十八歳で志願兵」、「音楽提要」を著作、「三次及び、四次方程式の根を抛物線と円とによって作図することを考案した。1621年軍籍を脱し、数年欧州各地を旅行。1626年~1628年まではパリに生活、1629年~1649年まではオランダに住んで著作に専念した。1649年、「スウェーデン(瑞典)女王」の師傳として招かれ、ストックホルムに赴き、進講しながら学会で活躍した」とある。『瑞・典の序・謳』である、彼は江戸時代の誰かと似てはいないか?・・・『瑞皐(高野長英)』の「辞典(事典)」・・・そして、「古事記」の「序文」である。 その哲学的著作は、  「方法叙説」・・・Discours de la methode  「第一哲学省察」・Meditationes              de primaphilosopha  「哲学原理」・・・Principia philosophiae  「情念論」・・・・Lespassions de lame  である。  「Dscartes(デカルト)」   ↓  「cogito ergo sum」=我、思う 故、我あり                   我、思惟、故、存、我                   ↓                   ガ、シイ、コ、ソン、ガ                   賀 四囲 拠 孫  臥                   雅 強  涸 鱒  河                   餓 死委 虎 蘇無 我                   ↓                   畫 史異 古 措夢 画                   ↓                   画 詞意 胡 蘇夢 物語                   ↓  I  think therefore I exist  ↓  愛  素 イン ク 是 阿  夫緒吾  愛 意気地諏徒  吾意 諏 音 句 背 亞  敷将吾  遺 意句字栖渡  娃委 州 寅 貢 是 亜  府将唖  愛 育 児守菟・・・佐本比賣  愛  辛    苦 是 吾   補 襾  合 医句字諏図  ↓  (ア・カ・ケ)=おおう(覆う)=奥羽                  欧胡  で、あるのだが・・・?  cog ①・・・・・・・・歯車  cog ②・・・・・・・・いかさまをやる・ペテンにかける  cog ③・・・・・・・・小型漁船・小型ボート・小舟  舟を「漕(こ)ぐ」と言う日本語は外来語であったコノ「cog」ではないのか?・・・そして、「虎(コ・とら)の愚」か、「姑(コ・しゅうと)の愚」、「誇(コ・ほこる)の愚」、「胡(コ・ウ・エビス)の愚」、「子(シ・こ・ね)の愚」、「己(コ・キ・つちのと・おのれ)の愚」かも・・・潜めているのは「股(コ・また)の愚」かも・・・  cog ④=cognate  cogitable・・・考えられる・思考の種となる  cogitate・・・・熟慮する・工夫する  cogitation・・熟考・沈思・思案・計画・考案  cogitative・・熟考する・思考力のある  cogitator・・・沈思するヒト  cognate・・・・・④同族の・同系の・同種の・女系親の・母系の  cognation・・・女系親・言語の同族

バラの名前*3

 私の「妄想」は尽きないけれど、「デカルト(出化留徒)」は「こじき(コジキ)」を「熟考」し、その「物語」の流れは「鳴滝(瀧)塾=キュウ、ロウ、ジュク」の「瑞皐(皇・敲・稿・交)」のヒトで、「ドウメイ(尚歯会)」の「塾の高野」であるとシグナルをチラつかせているようなのだが。私の使用している漢和辞典には「滝岡」は中国の江西省永豊県の鳳凰山で、宋の『欧陽脩』が父を葬った所。その時、「滝岡阡表(ソウコウセンビョウ)」と云う文を作った。「阡」は墓の道。「阡表」は墓に奉る文章、とある。「草稿(ソウ・コウ)」は「撰病(セン・ビョウ)」の全ての同音異字である。「現存・古事記」には「薬草」の「奏功」が秘められてもいるのだ。  ・・・『でかんしょ』、『デカンショ』と半年くらぁ~し・・後のハントォ~シヤぁ~ぁ、寝て暮らす・・・とは、何時の時代の誰の作なのか・・・?、『出巻書(漢書・神書・鑑書・館書・関書・官署・甘藷=薩摩薯・さつま芋』・・・「サツマいも」とは「察魔意模=魏志倭人伝」、「作柘萬(磨)遺模=古事記の模倣」・・・?  では、『カント』はどうか?・・・再度、「世界人名辞典(㈱東京堂出版・昭和41年4月5日発行)」をみれば、彼はドイツ人であり、「1724年4月22日誕生~1804年2月12日死没」と、享年「八十歳」である。彼は「ケーニヒスベルク」の『鞍工=鞍作の第(代)四(肆)子(音)』として生まれたのだ。  『鞍作』とは余りにも都合のいい「職人の子供に生まれたモノ」だ・・・同じ職業名を有する人物が「日本書紀」の中に登場するのだが・・・アナタ、まさか、私が『カント』が、「蘇我入鹿(蝦夷)=鞍作」だと云っている、のだとは考えまい、ヨ、サッ。だが、「カント」は  「神徒・感砥・漢(字)鍍・韓渡・官途・鑑徒(日本書紀)・巻図(古事記)・関徒(和算の『関孝和』の門下・蘭学の『小関三英』・『関ヶ原、不破の関』の徒党)・換柘・諌徒・姦徒・艦渡(シーボルト)・館徒(鳴滝塾の生徒)・翰杜(尚歯会)」  で、「カント」だろう、さ。  1740年に生地コレギウム・フレデキアヌムの大学に進み哲学、数学、神学、物理学等を学んだが、特に『ニュートン』の自然科学(万有引力=で落下する林檎を1666年発見。この1666は1999の逆でもある。天から『恐怖の大王=リンゴ=物理科学』が降りてきたのだ)に通暁した。  1755年、『火論(De igne)』を提出してMagisterの学位を得、更に『形而上学的認識第一原理新釈』を提出。  「ヒロン」ならば「比論」で、「卑(壱)論」、「肥(飛・桧)論」、「氷論」で、「避論」ではある。  1770年、論文、『可感界並びに可想界の形式と原理に就いて』を発表した。  「カ(掛)カンカイ(官界・緩解・感懐・翰会)」と「カソウ(火葬・下層・仮装・家相)カイ(会・絵)」の形式と原理の「同音異字」の形式と原理である。  1781年、『純粋理性批判』を発表した。    「ジュン・スイ・リセイ・ヒ・ハン」     ↓    ↓  ↓  ↓ ↓    循    出  裏声  比  版  1783年、入門書、『プロレゴメナ』、『道徳哲学言論』。  なるほど、「風呂屋」で「男女混浴」は「道徳的」にまずいのは確かであるナ。・・・「風呂令(例)後(語)女名」とは「湯女(喩女=ユメ=夢=夢物語)」のことか?  1785年、『実践理性批判』。         ↓↓↓↓↓↓        「実戦利正否版」=「実撰裏声比判」  1789年、『わが上の輝く大空、わが心のうちなる道徳律』。  ワ ガ ウエノ カガヤク  オホ ソラ、ワガ ココロのウチナル  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓↓  ↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  話 臥 上 野 加賀 訳  将補 蘇羅、倭賀 箇々路之迂地名留  道徳律=道読立  1789年、『道徳形而上学の基礎付け』。  ・・・さすが、「寒戸(カント)」は「奥羽」や「牢獄」である。  ドウトクケイジ  ジョウガク  ↓ ↓ ↓ ↓   ↓  ↓  同 読 計 時   ↓  ↓  何 解 刑 事(慶事・掲示・掲示・慶治・経字・奎字・兄事)           上(譲=高野長英)              嶽(額=ひたい・鰐=わに                楽=たのしむ・顎=阿児)  の「木曾(起訴)付け」ではあるから・・・。  1798年、『自然科学の形而上学的基礎』  1790年、『判断力批判力』。  1793年、『単なる理性の範囲内に於ける宗教』。  1795年、『永久平和論』  1797年、『道徳形而上学』  1798年、『大学各部の紛争』。  私は、「フザケ(巫山戯)テイルわけ」ではないのだが、「カント」をヨンで、「古事記(?)」を考え、「現存・古事記(?)」を書いた奴は、ふざけているのか、「永久(とわ=十和・エイキュウ・エイク)平和(たいらかづ=他意拉化柘・ヘイワ)論」者なのか・・・?  じゃあ、「ショウペンハウエル」はどうなのか?       ↓  ↓ ↓↓↓↓   ・・・「章  弁 葉植える」・・・ 彼はドイツ人であり、  「1788年2月22日誕生~1860年9月21日死没」  と、ある。これら哲学者「三人」の「生死没の数字」に注目して欲しい。  彼は「ダンッィヒ」の『銀行家=金貸=両替商』の息子として生まれたのだ。母親は『ゲーテ』とも親しかった。  哲学者であるが、『カント』、『プラトン』を好んで研究し、「弁証法」の確立者『ヘーゲル』や『シュリング』には反感を有していたらしい。  1813年、『充足理由の四根に就いて』。  1819年、『意思及び表象としての世界』。  1836年、『自然に於ける意志について』  1841年、『倫理学の二つの根本問題』  ・・・再三、「世界人名辞典(㈱東京堂出版・昭和41年4月5日発行)」から彼の哲学を抜粋すれば、  「彼の哲学は生きんとする盲目の意思を根本原理とする点に於て主観論、世界は迷妄と闘争苦痛の舞台と見る点に於て厭世論であり、その様な苦痛からの脱却は一時的には個体性を超越したプラトンの所謂イデアを体得することによって得られるが、より根本的には意志そのものの否定、所謂『涅槃=Nirvanaネハン=ニルバーナ』によって完遂されると説いた」  とある。  哲学は生きんとする盲目の意思を根本原理とする点に於て主観論、     ↓↓    ↓↓↓ ↓↓ ↓↓    ↓     異筋    望模句 医師 音翻   辞典措いて主幹賂務   世界は迷妄 と 闘争苦痛 の 舞台と  見る点に 於て厭世論      ↓      名模得土 問総句柘有   部他意  見る典  おいて 延声論      ↓      盟母宇土 渡宇佐迂狗頭  部隊   遣 纏(橿)将尉出 遠征      ↓      名簿胡徒 逃走供津迂廼 歩詫意図 身流 転  尾移出 援請   その様な苦痛  から の脱却は      ↓    要名 句柘得 華羅 埜  一時的には個体性を超越したプラトンの所謂イデアを体得すること  ↓  一字 拠鯛声 調閲 敷・遁 意出阿 他意図句  によって得られるが、  より根本的には意志そのものの否定、     ↓    音翻 委詞  所謂「涅槃」=Ni r vanaによって完遂される     ↓    ↓     音判   に る ば あな          似 留 場 蛙名  である。  ・・・『ショウペンハウエル』とは、  『ショウ=証(明)・章(句)・(帥)升・商(国)       (天)照・咲(夜姫)・焼(津)・(武)将        鍬(鋤=桑)・(晩)鍾・姓(名)        薔(薇)・(微)笑・(事)象・尚(歯)』、  『ペン=(辺・邊・部)=毛筆・筆ペン・翰・羽筆』、  『ハゥエル(歯羽重留)』  である。・・・もちろん、「尚歯会」のメンバーの「小編葉上留(抄の編、波状に留める)」、「照らして編纂、言葉は胡語(西洋語)に重ね留める」である。 ちなみに、『薔薇の名前』の『修道士・ホルヘ』が、かたくなに秘密にし、その意味を禁忌としようとしたのは『笑』であった。これは「シュウ・ドウシ=秀(囚=囚人・醜人・終=尾張)同志」の「稿(コウ・わら)遺(イ・のこした)の医務(イム)の記」・・・?  「バラ(rose)」は「イングランド(英国)」の「表象」であった。  「rose」は[じょろ]の「散水口」である。・・・「序呂」とは「古事記序文」の『太安萬侶』の「纂出句知」である。「じょうろ」ともヨメば、「譲露(路・鷲=倭史)」の「纂諏意」である。「じょろ」は『女路・女賂(音名を賄う)』の「産水口(纂の推敲・推考・遂行)」なら、「子宮孔(史旧交・師旧交)」と、その「性器(西紀・生起・盛期・世紀)の膣口(知柘頁・帙皐)」である。もちろん、「皐」とは『瑞皐』こと『高野長英』である。 「rose」は[鳥の目]の「周囲の隆起」である。  「the rose」は、「rose daiamond」の意味で、[医学用語]での「丹毒」である。「丹毒」の同音異字は「単独」で、「耽読」である。  「the rose of」とは「第一の美人」、「・・・の名花」である。日本語なら「・・・小町」である。  「the rose of Jericho」とは「安産樹(暗算樹=算盤?)」である。「安産の記」ならば、現在的な「産婦人科の医書」であり、「暗算の記」ならば「かけ算の九九」か「数学」であろう。  「the rose of May」とは「白水仙」である。直訳すれば「五月の白バラ」で、「皐月の死路薔薇」である。「白」は『沢三泊』、「皐」は『瑞皐』で、「バラ、バラ」は「乱れる・個別的な部分、部分」、船底に敷く「バラス」は『小石』で「バラスト(ballast)」の略。江戸時代『小石川』は「医者」の居場所で「診療所」があった所だ。「バラス」の言語は「殺す・屠殺」で、『塗擦』で、「塗って擦り込むコト」では、あるナ。しかも「秘密をバラス」である。  『bar』は「かんぬ木・横棒・牢獄の格子・弁護士・法廷・障害・酒場・砂州・関所・城門」で、「閉門蟄居」である。  『Barbbas』は「クリスト架(磔)刑」の代わりに無罪放免された盗賊であった。なるほど、これも、「バラバ」、「クリスト」・・・「馬羅場・婆羅場・罵螺婆・薔薇場」の「句理諏図・庫裏守徒・栗栖渡・刳素塗・繰諏斗」に「掛ける経」ではある。  『barb』は[矢尻・釣り針]の「かかり・逆刺(さかとげ)」で、「古事記」では「鯛の咽に刺さったモノ」である。  『bare』は「裸の・あからさまの」で、「猿女命」の「ストリップ」だ。  『bear』なら「くま=熊(ユウ・コウ=・・光)」で、「支える」であり・・・「干支(カンシ=漢詩・漢史・冠詞・神視・環視・監視・官史・巻詞・換詞・・・)」の同音異字の全てである。  『bal』なら「バランス(balance)」の略で、「天秤」である。  「the rose Sharon」とは、「シャロンの野草」で、「オトギリ草」である。「音擬(オトギ=御伽)、理想(リソウ=利曾=そろり新左衛門?)」で、「写(シャ)す論(ロン)、廼(ノ)の叢(くさ)」ではある。  「under the rose」とは「秘密に」、「内証で」である。  「the Wars of Rrose」とは、「York(ヨーク)家」と「Lancaster(ランカスター)家」が対立した王位継承の「ばら戦争」であった。「薔薇戦争」の「薔薇」の由来は「家紋」にあるだろう。  「the white rose of virginity」とは、「白バラのような清純な乙女」である。「白馬羅」とは「新羅の乙女(?)」・・・「無垢・無罪・潔白」・・・これは「務(鵡)句」、「武・罪(財=宝)、「欠伯(懸柘葉口・結葉句)」に関して「白痴」か「無知」と云うことではないのか。「夢物語」、「武王の罪」、「天武天皇・斉明天皇(財媛=宝姫)」、「伯父が欠(郭・客・塙・較)」・・・『伯林』とはドイツ(独逸・独乙)のベルリンだ。  ・・・「Innocent’s Day」とは「12月28日」にユダヤの「ヘロデ王」が幼児虐殺をやった日である。「東邦の三博士」が「イエス・クリスト(キリスト)誕生」を祝って「ベツレヘム」を訪問し、「未来に王となるべき御子は何処にいますか」と「ヘロデ王」に尋ね、その預言を恐れた王が、「幼児を虐殺させた記念日」なのである。  だが、「ベツレヘム(捌例経夢)」の「クリスト(矩理素斗)」は「エジプト(埃及=ちりおよぶ=地理(輿)及ぶ=ジンキュウ=神宮・神救・尋旧・人求・尽究)」に逃れたのだ。  「ようじぎゃくさつ=要事(葉字)逆察(欺訳詐柘)」  「ちりおよぶ   =地理(智理)、尾、預分(部)」  とは「地理、尾張(渡邊華山の在住地)に分け(訳・和解=翻訳)て預けた」ではないのか・・・。  『渡邊華山』は「愛知県・渥美半島・三河国田原城主宮宅氏」の家臣で、藩の儒者、『鷹見爽鳩(星皐)』の門弟になった人物である。画家であり、『高野長英』や、『小関三英』に依頼、翻訳させた「オランダの書物」をテコに世界情勢を的確に分析判断し、『慎機論』、『西洋事情』、『諸国建地草図』などを著して江戸幕府の政策に「批判的立場」をとった政治家であった。  当時の地図をみれば、『渡邊華山』、『高野長英』、『小関三英』の江戸屋敷は「江戸城御西丸」の「外」に「正三角形」を結ぶように存在していた。  「現存・古事記」は元、「愛知県・尾張・名古屋」の「大須文庫」に存在したモノである。「故おおす、ういろ会長」であった『山田氏』等の尽力で、東京に貸し出されていたモノが、現在は名古屋市博物館に存在するのだ。  「rosemary」とは「まんねんろう(萬念労・萬撚漏・万年牢)」で、「万年牢」とは「永牢」のことだろう。  ・・・ダとするならば、「萬念労」とは「太安萬侶の想念、思念した労作」で、「英弄」とは「高野長英がもてあそんだ英(語)と(希)臘(語)」ではないのか・・・?  「rose」とは、「rise(あがる・のぼる・甦生・蘇生・復活)」の「過去形」である。「過去(加古・水主=船乗り)の形(潟地)」の「蘇生、組成、復活」である。  ことわざに、  「No rose without a thorn」  がある。一般的には「きれいなモノには刺がある」と言われているものだが、英和字典には「楽あれば苦あり」とある。ならば、「羅句(ラテン・ギリシャの文句)・阿例場(阿礼の婆)・句有り」ではないのか。「古事記」には「阿礼媛」が登場するが、「古事記」を語った「語り部」が『稗田阿礼』であった。「比拿蛙齢」の示唆で、「比べあわせ、カエル(還・返・代・帰・換)」、「歯=年・齢・歳」である。ちなみに、『稗田阿礼』の年齢は「弐拾八歳(28)」であった。「似、拾う、葉知、再」である。そして、「古事記学者」は『稗』の漢字の意味を調べろ、である。  『Rosetta stone』とはフランスの『ナポレオン(Napoleon・拿破崙・拏破崙)』がエジプト遠征で「1799年」にエジプトのロセッタ付近で発見された「エジプト(埃及)神聖文字」と「ギリシャ(希臘)文字」で「同じ事績が記録」が刻された「石碑」で、「象形文字」解読の端緒になったモノだ。  「rosette」とは「[リボン・毛糸などで作った]バラ花飾り・バラ結び・バラ形の装飾・バラ形の窓」であ る。『Rosetta stone』のスペルとは語尾の「a」と「e」の違いがあるだけである。  ・・・「現存・古事記」の作者の問題意識は

  ロセッタ・ストーン

 ではないのか?   ・・・「ロ      路=みち・・・・・・・・・未知・満・盈・道      芦=あし、よし・・・・・・足・脚・股・髄・葦、義・芳・好・佳      呂=せぼね・・・・・・・・施模音      鷺=わし・・・・・・・・・倭史      賂=まかなう・・・・・・・真仮名有      濾=こす・・・・・・・・・拠州・古州・虎諏・胡州      露=あらわ・・・・・・・・阿羅倭州      セ   ッタ      ↓      競(せ)った=きそう・・・起草・寄贈・奇想・帰巣・記総      ↓      雪  駄(雪踏)・・・説多・窃多・設多・洩他・接他・摂多      ス  ト   オン・・・・石・医師・意思・遺志・意志      ↓      州  図(土)音      ↓      くに、はかる、おと・・・・句似、諮る、音(緒と・尾と)」  ダ、とするならば、「ナオポレオンのエジプト遠征」を知っていた人物である。  「なぽれおん」・・・彼の漢字の宛名は「拿破崙=拏破崙」で、その「崙(ロン=崑崙山=コンロンサン)」の類字は

 「侖・倫・崘・輪・綸・論・淪・龠・籥」  である。「侖=集+冊」・・・コンコウ(崑岡)、シャミセン(沙彌山)も同じ「崑崙山(混論纂)」の意味である。「金光・混交」、「三味線・蛇味線・柘診箋・作診箋」である。「箋」は辞書であった。辞書、スナワチ、「虎の巻」だが、『ナポレオン』の名言は「余の辞書に不可能と言う言葉はない」であった。  あわせる(拿)、  やぶる (破)=石+皮         =セキヒ=石碑         =イシのカワ=         ・やぶる=哉武留=葉)  やま  (崙)=論         =聖山=声纂・西纂  なぽれおん・・・「名補例音」、「医師(いし・遺志)の避(ひ・秘)」であり、「委史の一(卑弥呼・壱与)」は・・・既に別項で述べたが、  卑=ヒ   (いやしい)・・・委耶(夜・八・哉・埜・也・冶)思惟(四囲・私意)  弥=ビ・ミ   (彌の俗字・ひさしい・ひさし・あまねし・わたる・月日を重ねる・覆う・    満ちる・みなぎる・はこびる・ひろい・とおい・ふかい・おおきい    ・窮める・おわる・おふ・つくろう・縫う・弛む・いよいよ・ますます    ・いや・や)  呼=コ・ク    (よぶ・となえる・なづける・呼称・称呼・さけぶ・ああ・うん      ・おと・こえ)  の「同音異字=導音意字=奴(土)有音委字=道恩医事=道『遠』維持=同怨意地(遺児)」である。「道」とは「七道」の「東山道・北陸道・東海道・南海道・山陰道・山陽道・西海道」に、「北海道」である。「遠」が存在する「道」は「東海道」の『遠州=遠江(とおとうみ)』であった。  もちろん、「壱与(いちよ)」は「位置(位地)輿(預=伊豫)」である。「巫」は「匠・工・医=醫」である。漢和字典には「同=々」は「人+工」と同じとある。  さても、『ナポレオン(Napoleon・拿破崙・拏破崙)』がエジプトに遠征したのは「1799年」であった。  この同年正月の日本では「東蝦夷地の浦河、知床の間を七年間、幕府の直轄地」とし、勘定奉行を『石川忠房』、目付けを『羽太正養』を「蝦夷地取締り御用掛」としたのであった。二月には若年寄『立花種周』に「蝦夷地」を監督させた。三月、『近藤守重』を「蝦夷地」に派遣。六月、「石灰売捌の自由」、「蛎殻(かきから)灰の取り扱い」は元どうり。「昌平坂学問所落成」。八月、「東蝦夷地は上知」となる。『高田屋嘉兵衛』が「エトロフ航路」を開拓。十一月、江戸、大坂に打ち壊し。『寛政重修緒家譜』の編纂、『中井竹山』が「逸史」を幕府に献上。翌年の「1800年(寛政十二年)」には『伊能忠敬』が「蝦夷地の測量」。銀座を「蛎殻(かきから)町」に写す・・・である。このヶ所の「各漢字」を読んでピーンと来る人物は「ロセッタ・ストーン」解読にも興味を持つだろう。「漢字」で「カカれた書物」が「ロセッタ・ストーン」の『神聖文字』である。「漢字」の「解読」を可能にしてくれるのが「音訓の平仮名・片仮名」で、「ロセッタ・ストーン」の『ギリシャ文字』の部分である。「漢字の音訓」が記録されているモノは「漢和字典」である。江戸時代、世界情勢を教えてくれるモノは「蘭学の書物」であった。「蘭学の書物」を理解するには「蘭和・和蘭字典」が必要であった。「蘭学」とは「オランダの学問」と云うわけではない。「出島・オランダ館」を「出入り口」にした「西欧諸国の近代的学問」である。だから、「辞書」の必要性は「ラテン・ギリシャ・スペイン・ポルトガル・イギリス・ドイツ・フランス」等の「字典・辞典・事典・辞林・箋」がその時点で、必要であったのだ。  『ナポレオン(XNapoleon I、Bonaparte)』は、フランス人、「1769年8月15日生~1821年5月5日死没」。軍人、政治家、皇帝(在位1810年~1814年)。コルシカ島生まれ。小貴族の子。経歴は、  1792年、コルシカ独立運動に参加。  1793年、家族と共にフランス本土に移住。革命軍に投じ、        砲兵隊長としてツーロン砲撃に成功。        旅団長となってジャコバン党に入党。  1794年、ロベスピェールが倒れ、逮捕拘束、拘禁された。  1795年、執政政府のバラーに認められて王党鎮圧に成功。  1796年、イタリア方面指揮官。対イギリスの為エジプト遠征。  1799年十一月、クーデターにより政権獲得。  1800年、アルプス越でオーストリア軍を破った。  1801年、リュネヴィュ協定によりライン左岸の獲得。  1802年、イギリスとアミアン協定。  1804年~1810年、「ナポレオン法典(Code Napoleon)」  1810年、10月トラファルガー海戦でネルソンに完敗。        12月アウステルリッツで大勝。  1812年、モスクワ遠征失敗。  1813年、リプチッヒで敗北。エルバ島に流刑。        後に脱出して百日天下。        ワーテルローで敗戦。セント・ヘレナ島に流刑  である。「甥」は『ナポレオン三世(1808年4月20日生~1873年1月9日死没)』、皇帝在位期間(1852年~1871年)。「普仏戦争」でドイツ軍の「捕虜」となって終戦まで「拘禁」された。1871年3月廃位。イギリスに亡命して死亡。  江戸幕府に派遣された『竹内保徳』等が1862年3月に謁見したのは『ナポレオン三世』であった。「古事記」の「竹内」とは、誰であったか・・・まさか、『竹内宿禰』の寿命延長が江戸幕末までなされたワケではあるまい・・・同年9月、『西周(にし・あまね=セイシュウ=声周・声集・声蒐)』等がオランダ留学生として派遣されたのだ。『西周』は「西洋哲学」の日本への紹介者であった。「デ・カン・ショ」である・・・  「古事記」は「1657(明暦三年)年二月十日~1725(享保十年)年五月十九日」までの間に生存していた『新井白石』も読んでいた。イタリア(伊太利亜)人、『シドッチ』が屋久島にきたのが「1708年八月」であった。「1712年二月」には江戸の善竜寺で「オランダ人のカピタン」、『コルネリス・ラルダイン』に「西洋事情」を尋ねている。この年、『読史余論』を将軍に進講しているから既に「源(元)・古事記(?)」を読んでいたのに違いない。  「1724年(享保九年)」に『史疑』を書いたのだが・・・この古代研究の書物は「湮滅(インメツ=隠滅)」されてしまった(らしい)・・・何故か?・・・『アリストテーレス』の「詩学の第二部」も「湮滅」してしまった(?)・・・漢和字典には、「湮(イン・エン)」とは「しずむ(沈む)・うもれる(埋もれる)・ほろびる(滅びる)・ふさぐ(塞ぐ)・とどこおる(滞る)・むすばれる(結ばれる)」とあり、熟語には「埋湮」、「湮没」、「湮淪」がある。「湮(イン・エン)」は「水+西+土(十一)」の合字である。「淪(リン)」も沈む意味である。類字に「渝(ユ・かはる・かわる・かえる・あふれる・変更させる・改める)」がある。「淪」は「水(サンズイ)+侖」の合字で、「水(さんずい・さんすい=纂髄・纂推・纂誰・纂垂・纂出・産巣日〈次の高御産巣日・次の神産巣日〉)」であり、「水(みつ・みづ=御津・密・蜜・三・瑞)」である。「瑞」は『瑞皐』の「瑞(ズイ)」でもあった。「侖」は「集+冊(簡符)」の合字で、いわゆる、書物の項目の札であり、順序立てる、筋道を立てるである。  「現存・古事記」は「712年のモノ」ではあるまい。  「現存・古事記」は「ドウシ(同志)の混乱(今覧)」に対する「メッセーッジ」として「改作」され、「記録(?)されたモノ」に違いない・・・?  『新井白石』のような合理的精神に富んだ人物でさえも、自分の娘、『ます』の婚期、縁談を心配して「占い師」を訪ねた(1717年・享保二年)、と云う。だが、「占い師」の言葉を鵜呑みに信じたとは思えない。「合理的懐疑論者」で、読書家であった『新井白石』は中国の「運命学」にも興味を抱いたハズに違いなく、どのようなモノなのか、その関係の著書も読んでいたハズである。幕末の蘭学者と関わった(?)朱子学者で、伊達藩、仙台に生まれた『桜田虎門(名は景質・字は仲文・別号は欽斎・1774年生~1839年十月三日没)』と言う人物が「推命書」なる「占いの本」を出版した。日本では「四柱推命学」と呼ばれるモノで、中国の「運命学(淵海子平)」を最初(?)に翻訳したと言われるモノである。いわば、個人の「生年・月・日・時」の「干支」を調べて、その人物の「宿命」と「運命」を「推理」する「学問体系」である。彼は江戸の『服部栗斎』の門下となり、そこの「麹渓書院」の助教となり、後に「順造館」を創立、督学となり、更に仙台の「養賢堂」の指南となったが学頭、『大槻平泉』と対立、引退して著述に専念した。著作には「経世談初編」、「四書摘疏」、「近思録摘説」、「詩職名」があるらしいのだが。  ・・・不思議なのが地震や火災に対処して、あれだけ慎重になって、自分の書籍類を守った『新井白石』なのに彼の著書、『史疑』だけが何処かへ消えてしまったのである。・・・だが、誰かがこの『史疑』を読んでいるハズだし、「写本」も何処かに埋もれているに違いない・・・のだが、この『史疑』は「現存・古事記」の『鍵(キイ)』かも・・・  「バラの名前」のモウ一つ秘密は口に「薔薇の花」をクワエて、タップを踏み鳴らし、フラメンコを踊り狂う「カルメンの情熱」であった。

 coginition・・認識力・[認識作用の結果の]知識  cognomenn・・・古代ローマの家名・名前・あだ名


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