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「虎関師錬」と「古事記」


     「占い」と「心理=理性・感情論」  大須妙音さんの正門の右側の道で新聞雑誌、古本がゴッサリと素材ゴミとして捨てられてた。オタカラ!と、本の大好きな私は乞食のように漁った。ヒヤァ~、もったいない、こんな本、ダレが捨てたんだろう、と手にした一冊が、  現代人のための  「精神保健」  -精神保健学への試み-  駒澤大学教授  植村肇著作  発行昭和五一年二月二十五日  発行所(株)ぎょうせい  定価:1600円  と言う本であった。  この本には「経理課厚生係」のゴム印が押されてあったが・・・私にとっては「精神学(?)」に関する勉強にはもってこいの本、と思いながらページをめくってみた。すると、「3・日本における健康観(4ページ)」に興味ある人物の名前を発見したのだ。「虎関師錬(1278~1346・僧侶)」である。そして、彼の著作「済北集」の「病儀論」で健康を損なう条件として、  「主(生活条件)」、  「質(環境条件)」、  「宅(内的条件)」  の「3つ」である、と記されてあった。  で、「虎・関・師・錬」って、高校生の日本史にチラット出てくる「五山文学」の先駆者で、実在した人物である、らしい・・・大学試験にも結構登場する人物であるようだ。  「HP」にある「虎関師錬」の関連記事を抜粋すると、以下の記事が記されてあった。

 (1278-1346) 南北朝時代の臨済宗の僧。京都の人。  虎関は号、師錬は諱(いみな)。  一山一寧(いつさんいちねい)らに学び、東福寺・南禅寺などの住持となる。  五山文学の先駆者。著「元亨(げんこう)釈書」「済北集」など。  鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した臨済宗の学僧。  京都の人。  おさなくして三聖寺の東山湛照(とうざんたんしょう)のもとで出家し、南禅寺の規菴祖円(きあんそえん)などにまなび、一山一寧が来日するとその門下となって学芸をきわめた。  『聚分韻略』は五山の禅僧・虎関師錬の撰になる日本で最初の韻書。  平声二巻、上声、去声、入声 各一巻の全五巻、百十三韻に、更に乾坤、時候等の十二部門に分けてのち、各字に加注。韻書や作詞の参考書として以後よく用いられたのみならず、『下学集』、『節用集』、『塵芥』など後行辞書編纂への影響は多大なものがある。  政徳寺は、14世紀の前半頃に、日本仏教史『元享釈書(げんこうしゃくしょ)』の著者として有名な虎関師錬(こかんしれん)(1278~1346)によって開創され、15世紀後半頃に大通和尚によって中興された、ということになる。  元亨釈書  1322年(元亨2)/仏教伝来から鎌倉時代初期までの高僧伝記集と仏教の歴史を伝・賛・論・表・志の5部門に分けて紹介している。  虎関師錬は臨済宗の僧。  一山一寧に師事し『済北集』を遺した虎関師錬  聚分韻略(享禄二年 真幸院版)  鎌倉末期の東福寺の禅僧である虎関師錬(こかんしれん)が著したもので、漢詩文を作るときに音や韻を調べる辞書として編集され、室町時代には禅僧の間で広く利用された。  日向版は大内氏の周防版を底本としたもので、1530年にえびの真幸院の宥円と秀篤によって刊行された。  現存する宮崎県内最古の印刷物で、戦国時代の日向国文化を特徴づける貴重な遺産です。  禅僧の虎関師錬(こかんしれん)が書いた『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』。  これは日本の仏教史を意図して書かれた。これを手がかりにしながら、声明や読経、念仏、唱導と言われるような、音の芸能から探っていこうと考えています。音の問題を扱うのは、現在でも音楽は時代の先端をゆくことがあるので、それが時代とどう関わっているのかを考えます  庭が美しい天授庵は、臨済宗南禅寺の塔頭。  暦応2年(1339)、南禅寺の第15世であった虎関師錬が、南禅寺を開山した無関普門(むかんふもん)を祀る開山塔を建立を願い出た折に、その庵として創建された。応仁の乱で焼失したが、慶長7年(1602)、細川幽斎に再建された。  南北朝時代の虎関師錬が著した「異制庭訓往来」には当時の名茶産地として京都各地、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵をあ げている。  これらの各産地は寺院、寺領のの茶園を主としたもので、近畿から関東にかけてさらに茶栽培の北限と言われる茨 城の奥久慈の茶も14世紀に始まったといわれる  虎関師錬(こかんしれん、1278-1346、臨済宗の僧)が著した  『元亨釈書』に次のような話がある。  「奈良坂に手足が不自由な癩病患者がいて、日々乞食として生活していた。これを見た律宗の忍性は、毎朝彼を背負って北山十八間戸に連れていって、そこで湯に入れたりしたあと、毎夕彼を背負って奈良坂までりとどけた。このことは、大雪の日でも風雨の強い日でも欠かさなかった。患者は死に臨んで、「あなたへの恩を返すため、私は必ず生まれ変わります。この顔にあるホクロが目印ですよ」といった。数十年後、忍性の弟子の中に、かつての患者と同じ位置にホクロのある者がいた。この弟子は実によく忍性に尽し、人々は患者の生まれ変わりだといった。」  玄慧  虎関師錬の弟。玄恵とも書く。号は独清軒、健叟。  比叡山で天台を学ぶが下山し京都北小路に住す。  日野資朝と親交をもち、宋学の祖というが不明。  程朱学をもって後醍醐天皇の侍読となり、その講座は鎌倉幕府打倒の密議の場となったとも伝わる。  倒幕後、武家方につき、足利尊氏・同直義に重用されて、建武政権崩壊後は『建武式目』(建武3の撰定に関与する。『庭訓往来』『喫茶往来』を撰したというが確証はない。  大念仏  「大念仏」は大勢の若者によって担がれた大太鼓や大鉦を打ち鳴らし、ホラ貝や笛を吹きながら、毎年8月13に東日野列が西日野町の顕正寺へ、15日に西日野列が東日野町の西覚寺へ参詣し合う仏教的な行事である。  行事は大太鼓や大鉦の打数で念仏を表現して、道中を行進するときを「道行き」といい(南無不可思議光如来を表す)9打を、境内を回る時を「境内」といって(帰命尽十方無碍光如来を表す)10打を打ち鳴らし、顕正寺の境内では5回半、西覚寺では7回半を回る習わしとなっている。  その起源は元亨元年(1321)東福寺の僧、虎関師錬(こかんしれん)が、西日野町の西明寺(現在の顕正寺)の境内に起こった魔障(仏道の修行を妨げる悪魔の障害)を密法で鎮圧した故事に倣い、その後、時代とともに五穀豊穣も併せて祈念するようになったという。  最後に「世界人名辞典・日本編」から抜粋してみよう。  虎関師錬  1278年(戊寅年)~1346年(甲申年) (弘安一年四月十六日~正平一年・貞和二年七月二十四日)  俗姓は藤原。藤左金吾・校尉・某の子  玄恵法印と兄弟とも言う  号は「虎関」  八歳で三聖寺の東山湛照に従い、十歳の時に比叡山で具足戒を受け、その後四方を遊歴し、南禅寺の規庵祖円、円覚寺の桃渓徳悟に従学、また無隠円範、一山一寧に参じた。  1313年(正和二年・癸丑年)に京都に帰った。  1322年(元享二年・壬戌年)「元享釈書」を後伏見天皇に奉じる。  1332年(元弘二年・壬申年)同書を後醍醐天皇に進献  1339年(延元四年・暦応二年・己丑年)に光明天皇の詔を奉じて南禅寺に住む。  1341年(興国二年・暦応四年・辛巳年)東福寺海蔵院に入る。  1342年(興国三年・暦応五年・壬午年)村上天皇から国師号を与えられる。                     城北柏野に楞伽寺を建立  密教、宋学の儒学にも精通  著作  楞伽の注釈「仏語心論」  詩文集の「済北集」  語録の「十禅支録」  韻書の「聚分韻略」  作文法「禅儀外文集」  など

 で、「虎関師錬」に関する西暦年代の数字や、日本年号、干支年、人間関係の名前、事件、建物の名前、著書のタイトルなどは私から見ればフザケタモノに思える。興味のあるヒトは、コレラの年代の中国史の年表も参考に調べて見るがイイ。虎関師錬の誕生は南宋の滅亡(1297年・己卯年)する一年前である。  虎関師錬の誕生年は「寅=虎」から始まって「申=猿」に終わる「試練=師錬」、「錬金」の人生であった。  この「寅=虎」と「申=猿」の関係は「占い学(四柱推命学)」では「寅→冲←申」で「支冲=支沖」と言う関係である。占いの「支冲」の意味するところは「対立・反発・苦労」としての出来事である。でてくる「干気(エネルギー)」は「初気の己(おのれ・キ・つちノと)」である。「支=十+又」で、「足の右手」、「冲=冫+ 中」で「氷の中」である。「タリのミギテ=ソクのウシュ」、「コオリのナカ=ヒョウのチュウ」にある「己(おのれ・キ・つちノと)」がでてくる、と言うモノである。同音異字でとれば、  己・・・おの+れ=(小埜・尾野・小野)+(金戻・霊・例・戻・齢・lei)    ・・・キ=記・紀・・・企    ・・・つち+ノ+と=(槌・鎚)+(埜・廼・之)+(度・徒・都・斗・杜)  支冲=支沖・・・シチュウ=市中・詩中・死中・史中・・・  である。  とにかく、今回はこの「精神保健」の著書を下敷きにして、「占い」と「精神・心理」を考えて見たい。  「古事記」はその「序文」には「天武天皇の意向」に添って作成されたモノと記されている。この天武天皇は「占い」の知識に長けた人物であることが「日本書紀」に記録されている。  「占い」とは、自然、社会、個人などの「未来的事象」を「予見」するモノである。歴史的に巫女、覡(かんなぎ・ゲキ)、霊媒者等の「予見者」はその「精神構造」が特殊な人々であった。いわゆる「精神感応」によって未来を予見する人々である。一方、「西洋占星術(天体+天体位置+神話)」や「東洋占星術(天体+天体位置+五行思想)」は天体の運行を見定めて「未来予見」をするもので、天体運行の循環を「数字計算」でその天体位置を割り出し、各天体と各位置に意味を与え、その関係から「未来事象」を予見した。  ここで、私は「未来の予見」と言うことではなく、漢字を通して過去の人々が「占い」をどのように考えてきたのかを追求して見たいのだ。「ウラのナイ」である。  たとえば、巫女、覡(かんなぎ・ゲキ)、霊媒者は未来が「視える」か、「聴こえる」のである。私にとってはそれが、幻想なのか、幻視、幻聴なのは知るところではない。西洋では「預言者」は「神の言葉を預かった」のである。「預かったモノ」が音声としての「コトバ」か、文字としての「コトバ」か、これも知るところではない。ノストラダムスは未来を幻視したらしいから映像として「視た」のだ。  漢字は視覚で「ミテ」、声で「ヨム」ものである。そして、その意味を知るコトだ。「ミル」と言うことは「字形」をである。その「字形」の意味を知るコトが「ヨム」でもある。漢字は「表意の字形」と「音符の字形」が合体されたモノであるから複雑と言えば複雑だが、「アルファベット」や「あいうえお」等の表音文字からなる言語文字よりは遥かに具体的で、写実的な「イメージ」を「脳裏」に浮かばせてくれる。  「脳裏」とは「精神の現象活動領域」である。私の「脳裏」は漢字を次のように「分析」、「理解」していくのだが・・・  巫女(みこ・フジョ・ムジョ)              ・・・「人+工(丁+一)+人」の「女(く+ノ+一)」  覡(かんなぎ・ゲキ)・・・「巫」を「目(め・モク・ボク)+儿(ひと・ジン・ニン)」  巫女の対なら「巫男」とすればいいのに、漢字では「覡(かんなぎ・ゲキ)」で、男の霊媒だが、巫の右字の旁は「見」の「儿(ひと・ジン・ニン)」は「人繞(ニンニョウ)」と言われるモノだ。「目+人」は「モクニン」である。更に「目」分解すると「冂+二+一」か、「囗+二」である。「マキガマエはニ(じ・つぎ)のイチ(はじめ)」か、「コク(くに)のジ(つぎ)」である。古代史に関連させた解き証しは「真紀の構えは尼(爾・邇)の壱(位置・位地)」で、魏志倭人伝に登場する「壱與(与)」で、卑弥呼の後を継いで、「張政(チョウセイ=肇所為=ハジメの所為)」に援護された「壱与(ハジメに与える)」となろうか。読み証しは「国(コク=虎宮・虚句・拠工・胡句)の字」で、「国字・告示・酷似・刻時=十二支」で、「虎句字=寅句字(インク字)」である。  霊媒(レイバイ)・・・「雨(丁+冂+::)+並」の「女+某(甘+木)」                    ↓                   (一+亅+冂+::)  靈媒(レイバイ・リョウバイ)・・「雨+口口口+巫」の「媒」  「巫」の漢和辞典での説明は「①舞楽をして神がかりになり、神意を知り、これを人に伝えるオンナ ②医者 ③妄(みだり)・出鱈目(でたらめ)」とある。解字には「人人」は両袖で舞う人の形で、「工」はその舞の規則(方法)を表すとある。私には「巫」は「天秤そのもの」、あるいは「天秤で量られる人と人」と「一(はじめ・イチ・台)」のように見える。この私のイメージは古代エジプトの「トト神」が霊魂の重さを羽毛の重りで量って記録している「絵」のように思えるのだ。「トト神」は. エジプト名は「ジェフティ」で、ヘルモポリスの神で「トキの頭をした人物」としてあらわされた。記録係りで、書記官である。またはこの「トキ(鴇・朱鷺・桃花鳥)」は「ハピ(サル=猿・ヒヒ=狒狒)」としても描かれており、文字の発明者とみなされていた。  「トキ(鴇・朱鷺・桃花鳥)」が文字の発明者とするならば、その発想は「トキ(鴇・朱鷺・桃花鳥)」のクチバシが「ペン先」のようであるからなのか。また、辞典では「トキ(鴇・朱鷺・桃花鳥)」は「鷺(サギ)に似た鳥」とある。そして「鷺(サギ)」の説明をみると「鶴(ツル)に似て口ばし、首、足などが長い水鳥」とある。英語の「PEN(ペン)」は「細長いモノ」を意味する。中国では文字の発明者は「蒼頡(ソウケツ)」で、彼は鳥の足跡を見て文字を思いついたらしい。ちなみに漢字のコトを「チョウセキ(鳥跡・鳥迹)」と言う。「水鳥」であるところを推察すれば水草=アシ=葦=パピルスが茂る「ナイル河」の河岸の水量の増減か、その時期に出来た「湖沼」の水そのものに関係するだろう。「トキ」は日本語では「時」が一般的であるが、漢字で書けば動詞の「トキ(解き・説き・溶き・梳き・融き・研き・伽き・疾き)」と名詞の「穐=秋・辰=龍・鬨=鯨波・斎」が同音異字である。地名には岐阜県に「土岐」がある。「トキワ・ときは」なら「常盤・常磐・常葉」の漢字が与えられている。意味は「永遠、永久に変化しないモノ」で、植物では「常緑樹」の「松」である。「トキ」が「トク」ならば「得・特・匿・徳・禿・篤・督・読」である。  「風・土記」、「土器」で、粘土板のシュメール文字を考えるならば「粘土+パピルスの茎(ペン)」=文字=「鳥跡」である。ペンは鳥の「羽」でもあった。  では、「ハピ(サル=猿・ヒヒ=狒狒)=Hamadryas Baboon 学名 Papio hamadryas」がナゼ「トキ」に重なるのだろうか?・・・「ハピ」の音が重なった。あるいは長い顔、長い鼻、長い毛、長い尻尾、長い手・・・マントヒヒの長い毛は「筆・絵筆」の材料になったのかも・・・

    (絵はエジプト関係のPH、「トト神」からお借りしました。ご了承ください)  上の古代エジプトの絵にある「トト神」と「アヌビス神」の間に描かれているモノは「天秤・スケール」である。「十字架」状の「天秤」にぶら下げられた「心臓」と「羽根」である。  私はこれらの漢字とコトバの関連、連鎖から邪馬台国の卑弥呼、女王、「巫女」の原点は古代エジプトの「イシス」で、エジプト名が「アスト」であると妄想をタケてしまうのだ。イシスはオシリスの妹で、また妻であり、ホルスの母であり、妻でもある。詳しくは「古事記とエジプト」の別項で述べたが、イシスは頭に王座を載せていたり、牛の角をもち日輪をつけた女性である。牛の角を有するのは彼女が「トト神」との浮気を疑われ、ホルスにその首を切られて、「トト神」が代わりに「牛の首」を据えたコトによるらしい。「牛」の漢字は「十」と「ノ(ヘツ・ヘチ)+一(イチ・イツ)=(かみさし・かんざし=簪=クシ=梳)」からデキテイル。「」は「毎」の漢字からの類推である。「」は漢和辞典には母が頭にカンザシをつけた形とある。牛の「」は「角」である。「阿毎」は「隋書倭人伝」にでて来る阿蘇山が見える場所に存在した「王朝」の「姓」であった。  で、過去からの進行時間に添っての考え方をすれば、原点、始点は古代である。現在から過去的時間へ遡って分析すれば、「関連」させていく分析概念の原点、始点は、今現在の私の知識範囲のモノである。上に述べたモノは現在の知りうる知識からのモノである。  で、私と同じような妄想をする人間が過去に存在したとするならば「古事記」作成年代は「712年」よりも遥かに近代に近い時代に生存していた人間となるのだが・・・江戸時代初期から末期には既にエジプトの古代文明は知られていた。明確なのは幕末のピラミッドを知っていた蘭学者にである。初期ならば、その可能性は徳川家康の顧問になった「三浦按人(ウィリアム・アダムス)」の知識である。戦国時代ならば既に宣教師達が日本人に教えていた。ここまでに於いてはエジプト文明を知り得た、あるいは伝えた人物が存在していても納得できる。  奈良平安時代には隋唐に派遣された「遣唐使」で、占いの「宿曜経」をもたらした密教の開祖「空海=弘法大師」である。古代エジプト文明を知っていた「日本人」の可能性は更に遡るカモ知れない。  だが、確実に言えるコトは幕末のヨーロッパに留学派遣された幕府御家人の留学生である。  「雨(あめ・あま・さめ・ウ)」とは天から降ってくる「水滴水滴」である。漢和辞典には雨の意味として「友人」とあるのだが、「雨」が友人であるとは何を意味しているのか。乾燥、沙漠地帯、干上(乾上)がった土地、天日で飢饉に陥りそうな土地では「慈雨」は友人であろうが、豪雨ではその意味は否定されるだろう。だが、「水ナシ」ではどんな生物でも生きてはいられない。「雨」の解字は「一(天)+冂(雲)+:|:(水)」であるから「天の雲の水」は素直すぎるくらいの意表漢字の合体である。では素直に日本語(漢語)の訓と音で読めば、「一(はじめ・イチ)」の「冂(まきがまえ・けいがまえ・ケイ・キョウ)」は「みず・スイ」である。  「巫山之夢」とは「楚の襄王が高唐に遊び、夢の中で巫山の神女と契ったが、神女が去るに臨み、妾は巫山の陽、高丘の岨に在り、旦には雲となり、暮れには行雨となる」との故事。そして男女間の情交、とあった。「妾」の漢字はこれからすれば「神女」の「自称」である。「妾」は「立つ女=神女」である。  覡(かんなぎ・ゲキ)は字からして「巫女」を見ている「男」だが、男のミコである。  「霊」は「アメ(あま・ウ)がナラブ」で、源字は「靈」で、「雨(アメ=編)の口口口(サンコウ・三つ口)の巫(フ・ム)」である。「口口口」が「参考・三公・参公(シンコウ=申公=猿公=媛公)」で、京劇の「孫悟空」を連想するならば、「三つ口」の「エテコウ(猿)」の「巫女」である。「古事記」では「猿女=宇受女」である。あるいは「口口口」は「三国(参国・讃国=讃岐の国)」である。当然、「持統天皇」の名前の「鵜野讃良」であった。  鵜野の「ウ」の本字は「鸕(う・ロ)」

 「女(おんな=音名・ジョ=序)」は「くの一=クのイチ=句・矩のハジメ(一=イチ=位置)」である。「覡(かんなぎ・ゲキ)」は「巫女(フジョ)」を「見る男」ならば、「オンナ(音名)のフ(扶)・フジョ(扶助)」を見る「オトコ(音拠)」である。とにかく、ここでは「巫」、「見」、「雨」が付く漢字をミヨ、である。  もちろん、巫山戯(ふざけた)名前の「虎・関・師・錬」に関しては、「天武天皇」、「太安万侶」、「古事記」との関連をだが、「虎関師錬」は既に別なところで展開したので、ここでは彼の名前「虎・関・師・錬」と、古代史の「翼(羽が異なる)を持った虎=大海人皇子=天武天皇=壬申の乱=不破の関」と、「大友皇子」の「友=雨」が臭い、とだけ言っておこう。  「神懸り」に似たコトバとして「憑依(ヒョウイ)」がある。事件的には人間がキツネ(狐)とか、タヌキ(狸)とか、ネコ(猫)等のケモノの霊にとり憑かられるコトである。とり憑く動物はだいたいがこの「コ・リ・ビョウ」の三種である。  精神に異常をきたしたと見なされる人間は何かに「トリ憑かられた」とみなされたのだ。トリツカられた人間は「預言者」であった。漢字にトリツカレタら、その人間は漢字の「表意」に拘(コダワル・孤拿輪留)に違いない。  ここで「ケガレ」なるモノに触れておこう。「ケガレ」は古代日本(縄文・弥生時代)の「宗教」でもないし、「思想」でもない、と言うことだ。「ケガレ(汚れ)」は古代からの世界的な人類の生活の「衛生観念=清潔=清い」の「対観念=不潔=汚い」である。汚いモノを洗い清めるモノは「水」である。そして焼き清めるモノは「火」でもある。ガンジス河、ヨルダン河、沙漠のオアシスの水で身体を清めているのは「日本人」ではないだろう。そして「水」も「火」も恐ろしいモノなのだ。  「殺生=ケガレ(穢れ)」なるモノは「仏教思想」が日本に入って、根づいた時期の「支配階級」のモノであるのは歴然である。「生き物の殺生=血=穢れ」を怖れては「源日本人」は生活できなかったのは当たり前である。そして「差別の始原」ではない。「タタリ」も別物である。「生き物の殺生=ケガレ」とは関係ない。奈良平安時代の支配者もそのご先祖(神武天皇?)は「血」にまみれてその基盤をきずいたのだ。「祟る」のは「古事記」では「崇神天皇」の記事で、「意富多多泥古(オホタタネコ)の祖先(大物主大神)」である。「意富多・多泥・古」の漢字のポイントは「多泥古」である。「意が富む多い、多くの泥の古」である。「泥」は「土に水が混じった粘土質の汚いモノ」である。そして「泥=水(・さんずい)+尼(あま・ニ・尸の牝)」である。泥は水を汚す環境的に不衛生なモノである。汚い食べ物も「流行の疫病」の要因であったハズだ。殺した動物はナマでも食うが、自然死した動物の肉は食わないのが古代人だ。罹病して身体にヤケルような高熱症状と水疱瘡が出て、タダレルこともあったに違いない。赤班の「天然痘」や「麻疹」はその症状が知られていた。「癩病」は皮膚がタダレルのだ。その身体を水で清めるのは当然である。だが、その流行病の原因は大国主と共に国造りに参加して来た元の支配種族の首長(大物主=美和一族の主・御諸山の主・三輪山の主・大神の主)、「人間」がタタッタものなのだ。ここでは「神道の神」として祭った。737年(天平九年)、奈良時代の藤原一族の壊滅的なダメージと、全国民的な人々の死亡は天然痘と言われている疫病であった。原因は長屋王のタタリと言われたのだ。だからこの時は仏教的に「人間の霊を祭った」のである。  古代に於いて動物達や樹木が「自然神」であったのは「殺生されるべきアリガタイ食べ物」で、動物達の住処が森であったからである。狩猟、漁労される動物は人間の命を繋ぐ「食べられるべきアリガタイ存在」で、樹木は木の実と、住居、燃料の材料であったから「大切」にしなければならなかったのだ。すべての自然、山川、海空、湖沼、岩には神が宿っていた。  「仏教思想」と言っても「シャカ」が「ブタの肉」を食って死んだ、と言う説と、「毒キノコ」を食ったとの説もあるが、シャカの出身は「ヒンズー」であった。崇めるのは「牛」である。「牛肉」以前的に「ミルク」や「労働力」として大切な存在であった。古代では種族によって「トーテム」としての特別な動物が神獣とされた。現在でも未開地や少数種族には「トーテム神」が崇められている。当時の「生活思想」は渾然、混然としているのであり、「殺生禁止思想」が確立されていたわけではない。日本に仏教が当時入ってきた時も、その後もそうであったハズだ。  「イスラム」は「ブタ」を不浄なものとした。だから食べないのだ。崇めて食べないわけではない。「羊」は遊牧種族の「大切な食べ物」であり、「生活用品の一部」であった。そして「神」に燔柴、燔燎するささげ物であった。古代中国では「牛」も祖先の霊に燔柴、燔燎された。古代社会ではどこでも人間も含めて動物はすべからく「燔柴、燔燎」されたのだ。またの繁殖、狩猟の収穫をお願いし、殺生して「神」に「ケムリ」として「天」にお返したのである。  「殺生禁止思想」は穀物栽培社会では「植物、穀物の食糧事情が安定」している時に有効性を発揮するが、田畑が不作飢饉になれば有効性を持ち得ない。ましてや「部族間、国内内戦、国家間の戦争」は人間同士の「殺生」である。「殺生禁止=仏教」は吹っ飛んでしまうのだ。唐時代の仏教弾圧、儒教国是の要因や、インド本家で廃れた要因を考えて見れば明らかである。  「人種差別」の根源は「階級差別」である。その根源は「分業」による「生産物」の「不平等な階級分配」にある。そして種族、部族、国家間の「平等交易」が壊れた結果の暴力的な「収奪」、「略奪」、「戦争」である。  「宗教」と「政治・経済」は「渾然一体」である。「宗教」は儀式を伴った「階級的政治経済」を裏打ちする「思想=理屈」であるのだ。  現在のアメリカの「資本主義的経済」を裏打ちしているモノが「アメリカ的民主主義」の「思想=理屈=法」である。当然、アメリカ的資本主義=階級体制の法の下の「宗教・思想・信条の民主主義」での現実である。現アメリカ大統領はこの法すらも超えて公然と「神による戦争」をしているし、現日本国首相は公然と「日本国憲法」を無視、足蹴にして「自衛隊」をこのアメリカ大統領、側近の「showe the flag (日の丸) !」の一声で日本国外に派遣しているのだ。  厳守されるべき「法」と「現実・事実」の乖離の根源は「階級社会」では当然である。「法」は幻想を与えるが、「現実」は法を無視、破壊した結果事実として起きるのだ。   「法」は社会的人間が人間関係に於いて守られるべき「ルール」である。観察すれば、「ルール」は集団的な生活をする「動物」にもある。この動物達の「ルール」が「本能的なモノ」なのか、「意識的に学習したモノ」なのかは伴然としないようだが、ワタクシ的にみれば「意識的に学習したモノ」のように思われる。そして、「動物達のルール」には常に「生死」が伴い、その「ルール違反の結果」は「死」が存在する。  人間の作った「法」は、「法を支配する階級」にはアマイのは当然である。「法で支配される階級」にはキビシイのは当然である。現実的には「法の執行」は「法の下」で対等、平等になされるコトはない。特殊化され、差別されるのだ。日本史的には「アマ・イ」、「キビ・シイ」に関連するコトバである。これらのコトバは「法の執行」に於ける結果としての「感情」に於ける「快・不快」を喚起させるモノでもある。  「平等」であるのは人間も含めて「生物」として生まれたならば、その「生存期間」には「最期」がある、と言うコトである。その「生存期間的な長短(一生涯)」は「平等」ではないが、「老化」と「死」は、あらゆる「生物」の宿命である。  国家に於ける「法」は「国家の意志」である。「国家」とは「社会的特殊階級」によって組織化された「階級機能組織」である。その維持のタメにはアメで宥めすかし、ムチで恐喝しながら「階級間妥協」もし、「幻想」を与えながら「被支配階級」をダマスのは当然である。  人間個人の「精神構造」はどうか?・・・似たようなモノかも・・・


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