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「国家」をどのように考えるか?(2)


     「民族国家」の「民族」とは、  国語辞典では、  「共通の出自・言語・宗教・生活様式・居住地などをもつ集団とされることが多かった。   民族は政治的・歴史的に形成され、状況によりその範囲や捉え方などが変化する。   国民の範囲と一致しないことが多く、複数の民族が共存する国家が多い」  とある。この説明は概念的にあいまいである。「日本民族国家」を念頭に置いているからだ。  「民族」とは「同一国家=同一言語=同一血族」としての概念であり、歴史的に日露戦争後に明治御用学者の日本人が創り出した「日本語」としての独自の政治的な概念であるらしいからだ(岡田英弘著・「世界史の誕生」・ちくまライブラリー・1992年筑摩書房発行)。もちろん、「同一言語=同一血族」の近代国家なんぞはありえないのだ。現代中国人が使用している「民族(ミンズー)」はこの「政治的日本語」の借用であるらしい。日本語では「a race」を「民族」と訳しているが、「民族」は生物用語としての「人種(a race)」ではないのだ。  領土支配が「異人種」によって繰り返され、共通言語が変遷した西洋では当然「民族概念」は無く、領主が支配領有した領土内の人々で、「国民(the nation, the people)」である。  近代社会の「国民」とは「一法治国家の領土に内在するスベテの階級、階層を含む人々」である。だが、元々「国家」は「国家君主」に属する概念であった。だから「国民」とは「臣民・領主支配下の領民」であった。フランス革命後に「国家主権」は「国家の君主」から「国家の国民」になった、と言うわけである。しかもこの「国民」概念は「フランス国家内」の「ブルジョワ都市市民(中産階級= citizen, subject.)」を「国家のスベテの人々(the nation, the people)」に拡げた概念となったのである。  「国民」とは厳密に言えば「一法治国家の領土内、あるいはその国家連邦領土内と、その属領に内在するスベテの人種、階級、階層を含む人々」である。  ・・・「国家」の根本機能は「国事」で、「立法・行政・司法」と、「自国通貨の発行」、そして「対外軍事」である。「日本国憲法」はこの対外的な「国際軍事」を否定しているのだ。「国際軍事」が無いとすれば、「国際外交」しか残らない。「国際外交」の延長に「軍事暴力」は無い、とする国として「日本国憲法」を制定したのである。  「国家」は相対的な概念であるから、国際的な「他の諸国家」があっての「日本国家」である。その「日本国家」が「国事」である重要な要素、「国家軍事」を放棄しているのだ。  日本国憲法が謳っている「日本」は正当な「エゴ国家」ではないのだ。「国家エゴ」をやめようとしている「国家」で、「国家暴力」を「放棄」した「国家」なのである・・・簡単に言えば「敵対国家が存在しても軍事的な国家間の紛争を無くしましょう」と自国民と他国家、他国民に自己主張しているのだ。この思想をあたかも「国家悪=欠陥国家」であるようにワメイテ、他国家に、国際的に「積極的輸出」しようとしない「政治屋」の理由はナンだ・・・将来、現実的には資本家の儲けの支障となると考えているからだ。コレを胆に命じておくことだ、ナっ。  ダガ、いかんせん、現実的にはアメリカとの喧嘩に負けた配下の「資本主義的国家」なのである。東西冷戦状態になって憲法があろうが、無かろうが「日本国家のエゴ」なんぞはアメリカ国家エゴの自由の問題だったのだ。だから日本資本主義国家は冷戦の合間に「民族(資本)国家のプライド」を捨てて、愛想好く頭を下げて商売に徹し、専念してきたのだ。そして「エゴ国家」としてもなんとか自立できる「膨大な資本も蓄積」したのである。親分の領土の若干の資産も利権も手に入れた。アメリカ「自由」主義親分のエゴに、少しは子分としてエゴりたくなってきたのだ。だが、エゴっても、その手の平でていよくあしらわれ、利用されてきたのだ。  「商人国家」としての日本支配階級は儲けたカネを国連に上納して帯刀を許される組長にもなったが、親分達(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連=ロシア・中国)とは対等ではないのはアタリマエである。そしてアメリカ親分から組を守ってやると言われたが、実は親分の権利・権威と財産を守るのが子分の鉄則である。これを破るのは国家間仁義にもとるのである。  そして、東西冷戦が終わって、本来の「資本主義国家エゴ」と「資本主義国家エゴ」の民族国家資本同士の対立となってきたのである。日本にとってはカネの上納だけの問題ではなくなってきたのだ。ソ連が分裂消滅し、弱小のロシア資本主義国家となった現在、アメリカ親分がアメリカ資本主義国家=国際資本エゴ剥き出しで、厄介な資本主義国家(アラブ)とトラぶりはじめたからである。大義名分は何であれ、これは国際的階級対立である。  「イラン革命(1979年2月1日)」はアメリカ資本とイラン国王が結びついた利権に対する「階級矛盾の爆発」であった。  そして、イラン・イラク戦争、1980年から1988年の8年間、イランで足場を失ったアメリカ国際資本+政府は西欧的近代国家(アラブ的社会主義)に憧れ、ソ連寄りであったサダム・フセインのイラク(回教国)をイラン(回教国)にけしかけ、尚且つクウェート(回教家)にけしかけたのだ。アメリカは石油資源確保のタメ、「イラン革命」の周辺アラブ諸国への波及を恐れたのである。アメリカ国際石油資本はアラブの既得の石油利権をまもって、カネで動いてくれる「アラブ国家」であれば、どんな体制国家であろうとも構わないのである。だが「イラン」はアメリカに懐柔されていた「国王」を追放し、石油を抱えて全面的に「反アメリカ」となったのだ。イラクはアメリカ国際資本に利用され、その利用される事にこの時点では乗ったのだ。  1979年12月24日、ソ連軍アフガニスタン侵略に対してアラブ義勇軍として戦ったサウジアラビア(回教国)出身のオサマ・ビンラーデン(Osama bin Laden)は、かってイギリス、フランスがやった常套手段、対外利権獲得の国策=ダブルスタンダード、そのアメリカ国家(国際資本)のキタナサを思い知らされらたのである。だが、彼の宗教が如何なるモノであれ、彼もまた「国際石油資本」で膨大に余った資金を利用し、「資本主義的民主主義の矛盾を逆手」にとろうとしているのだ。「カネ(回教国に蓄積された資本)」で。  アメリカはテロ組織の資金源を、「外国資産凍結法(OFAC)」によりその集団、個人の「資産」を凍結しようとしているし、している。「OFAC」の規程により、認定されたテロ組織は、組織として或いは組織内の個人として、米国の安全に重大な脅威を及ぼすモノとしてリストアップされた組織の「資金」は凍結されるモノとしているのだ。この「資産」、「資金」はどのように「蓄積」、「調達」されたモノなのか・・・国際石油、金融資本、あるいは国際階級収奪されたものである。アメリカも、「ブッシュ大統領一家と親交(カーライル投資グループ)があったオサマ・ビンラーデン」も同じ土俵の上で踊っているのだ。「戦争=兵器の消耗を必要としている国際軍事産業」のデクの坊=操り人形として。しかも更なる国際石油資本の利権を絡めて。  命が「商品」のアメリカ兵はタマランよな。正規のアメリカ軍隊と交替させられた「徴兵州兵」の悲惨さはダレのタメに命を落としているのか・・・アメリカ映画、フォレスト・ガンプ(一期一会)は・・・ヴェトナム戦争で生き残り、海老で儲け、「株の投資」で100億ドル長者になっても救われないのさ。「現代的戦争」の根源が「産業、金融資本投資の株式による利益配当」の有無によっているのだから。  更にアメリカ元軍人、「OB」の民間軍事派遣会社の傭兵アメリカ人である。徴兵アメリカ兵の死亡の増大の国民批判を避けると同時に、国家補償として死亡軍人に高額に支払われるカネをキラってアメリカ軍はアメリカ人傭兵を大量に雇っているのだ。アメリカ人傭兵の死亡数はかなりの人数になっている。  現代のアメリカ国家+西欧諸国とアフガン、イラク、イラン、パレスチナ、レバノン等の中東諸国と、ユーゴ、ボスニア、クロアチア等の中欧諸国の問題は「宗教・文明などの上っ面の対立」ではない。その本質は「国際金融資本・国際石油資本・国際軍事産業資本」が根底で連動し、うごめいている「国際階級収奪」の現象化なのである。

 アメリカはイラン・イラク戦争で建前はイラクに軍事援助をしたが、このイランにも「軍事兵器」を援助していた(イラン・コントラ事件)。  イスラエルは敵対しているハズのイラン(回教国)に武器援助をした。  イラクに後に攻められたクウェートは「イラン・イラク戦争」でイラクに資金援助していたのである。  「援助」とはイラク・イラン戦争での「カネの流れ」である。戦争は「謀略」で動いているのだ。その戦場では兵士の命と武器、兵器が消耗される。そして民間人の命が・・・この戦争で高みの見物をしているのはダレか?・・・カネを動かし、それで儲けて生きている人間で、カネで結びついている閨閥である。大モトはアメリカ国際資本とイスラエル資本主義国家、そしてヨーロッパ資本主義諸国が結びついた国際金融資本秩序のバランス維持で「援助」は動いているのだ。「援助された資本主義・回教・諸国家」の「宗教」、「アラブ社会主義」や「アラブ原理主義」は本の表紙なのである。中身は「カネの配分」で、操られながら中東産油諸国家の「独裁者」は「国内支配体制」をまもろうとしている、と言うことだ。  「戦争」はダレのタメの戦争なのか?  ・・・第二次世界大戦でかっての「帝国日本国国民」は軍人も民間人も「天皇陛下万歳」と言う「思想」の為にその「戦争」で膨大な命を消耗させられた。そして戦争に負けたのだ。負けたのは運命共同体としての「立憲国家君主=天皇=帝国日本国国民」であった。「立憲国家君主=天皇」は「奸臣」に利用されたのか?・・・「立憲君主は国家の主体」であり、「天皇万歳」は国家の意志(法=思想)であった。そして、「天皇の臣下、臣民」が、かってのすべての「帝国日本国国民」であった。「立憲君主体制」とは親亀がだまされれば子亀、孫亀の「帝国日本国国民」も、右へならえで運命共同体的にダマサレルことになるのだ。だが「天皇側近の奸臣」は「立憲君主である天皇」をダマシテ「敗戦の君主」に貶めるコトを望んでいたのか?・・・そんなコトはない。どんな犠牲を払おうとも、ただただ戦争に勝ちたかったのだ。「日露戦争」で徴兵された兵隊も職業軍人も「天皇陛下万歳」で虫コロのように命を捨てて行ったが結果は「勝戦」であった。「帝国日本国国民」の殆どがダマサレタとは考えなかっただろう。例え「敗戦」で頭に来てもダマサレタとは考えなかったに違いない・・・だが「勝戦」は同胞の命が膨大に失われようとも生き残った人間は「勝戦」自体で納得しようとするのだ。「戦勝の物的利権」のなにがしかが手に入ると妄想するコトで相殺しようとするからだ。「敗戦」でも日本人は意外と「天皇万歳思想」を悔やむことなく捨て去り、マッカーサー元帥がくれた「民主主義」を手に入れたが、今現代でも敗戦国日本人の一部には「戦争で犠牲になった悲惨な他人の命」を自分自身に重ねて「戦争」を考えるのではなく、「戦争のやり方」自体と、物資、科学的兵器の優劣で負けたのだ、と考えている連中が結構多いのだ・・・しかもこの思考は「昭和天皇御自身」のモノでもあった・・・まさに「楠正成」以外はいかに「自己保身的な天皇」に忠誠を尽くそうとも、彼の意見を採用せず「戦争に負ける戦略、戦術」しか持たなかった側近は「奸臣」なのである。専制国家であれ、立憲君主国家であれ「戦争を敗戦に導く支配者、支配階級」の殆どは「奸臣」となるのだ。そして、「天皇自身の失策」であったとしても敗戦の責任は臣下が引き受けるのが「時代的常識」なのだ。お祭りの神輿と「カザリモノ」はあらゆる「時代的国家支配階級」に必要とされるモノなのだ。  「帝国日本」の戦争指導者の臣下としてトップに存在したのは「東条英機」であった。「東条英機」は「「帝国軍人」としての自らの「信念」であり、「思想」でもあったハズの  「戦陣訓  第八、名を惜しむ、  恥を知る者は強し。  常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。  生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」  にオノレの汚物をぶちまけたのである。日本刀で切腹もせず、しかもピストルの弾丸では致命処を外し、「敵国に捕虜となっって生き恥をサラした軍人、民間人、スパイ以下」の「恥知らず」の典型であった。「連合国による東京裁判判決以前的な帝国軍人、日本人としての立場の問題」である。「戦犯」等と言う問題以前の「日本帝国的思想を裏切った奴」なのだ。敗戦後、帝国日本の「立憲君主」として「覚悟した昭和天皇陛下」の「東条英機」に対する心中は・・・この期に及んで卑怯モノメッ!、であった。そして「靖国」へ行きたくても生き残った「日本国民の行く末を想えばコソ」、陛下は行けなかったし、行かないと「御心」に誓ったのだ。「おお御心」を知らない「現代の三流以下の奸臣」は不敬であるナッ。  誤解のない様に前文に展開した「東条英機」の立場を言っておく。彼は、近代的な知識を有した昭和天皇、「立憲君主」ではない、「専制絶対君主」的、かつ「日本帝国陸海軍の軍事総司令官」的立場の昭和天皇に忠実な臣下であったらしいことを言い添えて置こう。その資料的根拠は「昭和天皇独白録(寺崎英成・御用掛日記・文藝春秋・1991年発行)」である。「東条英機」は、近代合理的精神の「インテリ」で自ら「人間である」と言っていた「天皇」からみても忠臣であった。この「独白文」を読めば天皇自身は「立憲君主」であったコトを再三強調しているが、「専制絶対君主」的立場をとっていたのはマチガイない。天皇は決して「平和論者」ではなかったのだ。国家の軍事、武力行使、譲歩、妥協、和平に於いて戦略、戦術家としての「常識的」な「国家君主」であった。大義名分が何であれ、「戦争」するからには目的は「戦争勝利」である。敗戦を望むものはいないのはアタリマエである。戦って不利になっても五分五分で和平、である。しかも国家の「支配者的なギリギリの自己保身」さえできれば・・・「帝国国民」は「将棋の駒」なのだ。  そして、この本の365ページには東京裁判に於ける「東条英機」に関する心情的、かつ「信条変節」の示唆深い煩悶も注釈されている・・・マッカーサーと天皇の利害関係に於いて責任をとらされ、生き恥を晒して使い捨てにされた彼の精神は「帝国軍人」でも、「武士」でもなかった。「専制絶対君主」に信義、忠誠を「確信的に自己納得」し、その命を預け、死をかけるのは「時代的思想」の要請である。それが「武士道」である。そして「職業軍人」としての「戦陣訓」であった。  現代のイラク、アフガンなどの人民、軍人はアメリカ軍隊、軍人による「(無駄に)死して罪禍の汚名を残さず、捕虜となってもその生き恥を肝に銘じている」のだ。  その「思想の如何」にかかわらず、あらゆる「国家の軍人」には「国家防衛」としての「戦陣訓・第八」は要求されるのだ。「名を惜しむ」とは、近代戦、現代戦に通用し難い「武士道として、騎士道として己にも、敵に対しても敬意を払って戦う立場と、その結果的名誉」である。だが、核戦争、宇宙戦争の時代であったとしても「軍人」としての立場の問題だ。「卑怯者」は勝利しても嫌われるのである。  その「奸臣」にダマされた「日本帝国国民」も同類の「奸臣」だったのだ。二度も三度も、更には累々代々、歴史的にも、神代の時代からも「命を理不尽に消耗」させられ、それを反省するコトなくダマサレルコトは「日本帝国運命共同体個々人、臣民の欺瞞であり悪」であり、あったのだ。  で、過去も現代も「戦争はダレのタメの戦争」なのか?・・・「郷党家門の面目」・・・確かに・・・?  ・・・この「資本主義的生産様式、商品市場」の世界では、あんた自身の「個的私有財産=個人的生活=家族生活」を「国家をテコにしてまもる、あるいはマモラレル」、と言う「思想=幻想」のために・・・デ、ある・・・で、過去に於いて、ソレをマモって天寿をマットウできたか、ドウかは「運次第」であった。将来的にも「徴兵」的状況による「戦争」に於いては、生きるも死ぬもアンタの「主体性を問わないウン次第」である。それが嫌なら納得の行く「人間としての実存=生死の選択」を意識的に自ら問わねばならない。  近、現代の国家間戦争は「資本主義的生産、商品市場」と言う歴史的現実を背景基盤に有して起ったのだ。「大義名分、主義」は何であれ、戦争に勝っても負けても生き延びた人間の殆どは「国家権力」を握り、その周辺に群がる奴か、その閨閥、親類縁者である。「国家権力に動員され運よく生き延びた一般人」は戦争が終われば「国家から解放された気分」で天寿を全うしようと「闇市=法外」での生存競争をしてきたのだ・・・だが、一財産築いた人間、そのおこぼれを貰う政治屋、軍人官僚は「国家再建」を使命とし、「核戦争」で「人類が破滅」しようとも彼等の「頭の中」では生き延びられる可能性、あるいは死しても「特殊利権」を有する別種な特別人間と考えているらしい、のだ。「戦争」に「細菌」が使用されたとしても決して「エイズ」や「コレラ」の伝染病と同じ次元で「細菌戦争」を考えない連中であろう。「細菌汚染」も「放射能汚染」も「階級を無視」して万人を蝕むモノなのに。  ・・・近代、現代的に「資本主義的生産様式」でないように現象的に見えた「ソ連・東欧諸国」、そして「中国・北朝鮮」は「閉塞的な商品市場」の「国家独占的資本主義国家」の変種で、その政治体制は「専制官僚主義」であり、あった。「資本」とは「蓄積された疎外労働」である。如何なる政治体制の国家と言えども「資本」を得ずして存在出来ないし、存在しないのだ。「生産物の計画的均等分配を目指す社会主義国家」などは無かったのだ。一方、日本を含め、アメリカ、西欧諸国は単に「資本主義的生産、商品市場」に少なからず政治的介入しながらも、その政治体制を「自由・民主主義」としているだけである。  「戦争」とは「戦争」で「生活基盤」を得ている人間と、それによってしこたま「儲けるコト」ができる奴のタメの国家間の暴力行使である。  国際連合はその殆どが「私有財産」を前提し、「国家の政治体制」を問わない諸国家間の政治的妥協を模索する寄り合い所帯である。資本の論理で言えば上納金(各国民の税金の一部=国家的階級収奪金の一部)を多額に納めた国家の影響力が強いはずである。だが、ここでは核軍事力と通常軍事力がモノを言っているのだ・・・そのバランスも怪しくなりつつある。金の無い国家と、政権不安定な国家が核とミサイルを所有し始めたからである・・・圧倒的に核軍事力の牙城としても、国際金融資本の牙城としてもアメリカ国家が強いのである。世界に影響力を有する資本家の殆どは武装したアメリカ合衆国の国籍(市民権)を有して守られているのだ。国境線引きで諸国家が区切られ、その枠内で「自国通貨」が流通交換手段とされていたとしても、「カネ(財産)と資本」は「安全」で、「儲かる国」に「移動」させられるのが鉄則である・・・にも拘らず、「資本主義的自由主義国家アメリカ」は安全なのか?  2001・9・11・・・アメリカは有る程度の「近代的な国家主権」を有する「資本主義的国家政府」には政治的、経済的にも、戦争にも強いが、「国家権力」があいまいな国の人々には弱いのだ。「国家権力」とは国内の秩序を有し、国家間の「外交・戦争」でその秩序関係の決着をみるからだ。アメリカが望んでいる「戦争」相手とは「国家主権に組織化された軍隊」との戦場の戦争、「正規戦」である。だが、現代戦争は「国家主権」がアイマイな、かっての「南ヴェトナム」のようなところで起こっているのだ。現在のイラク戦争の担い手は、あるか無いかの「自国国家権力」など無視して戦っているのである。戦場は都市であろうが農村地域であろうが、軍服などは身につけない彼等の「生活の場」が戦場になっているのだから。  これはかってのアメリカ大統領であったケネディ自身が1962年6月に演説で表明していたコトでもある。  ・・・ゲリラや破壊活動や暴動や暗殺による戦争、決戦の代わりに待ち伏せる戦争、侵攻の代わりに浸透する戦争、敵と交戦するのではなく、敵の力を奪い、疲弊させるコトで勝利をおさめる戦争・・・  を、である。「国家支配者間の秩序ある戦争」はもはや望めない、と言っているのだ。「抑圧される人民」は「抑圧する支配階級」と戦うのである。この経験はかっての日本軍が「中国解放地区」で経験していたコトだ。優秀な近代兵器を有するアメリカも、こんな戦争には勝てないことを南ヴェトナムで証明したのだ。現在のブッシュ大統領も表明しているように国家を超え、「戦場」は全世界的な生活の場に拡げられてしまったのだ。「抑圧される人々」も資本主義的産業が創り出してきた「情報機器」を世界レベルで有し、「戦う知識と知恵」を有しているからだ。  歴史的に戦争で増え続けてきた難民キャンプの人々は当然、「資本主義的生産」がもたらしたモノを武器にして「自分自身の置かれた立場を自覚し、その生き方を決める」に違いない。  国家の政治的経済的な信用度、あるいは国家間の国際状況によって「国際通貨の価値は相対比率によって不安定」となる。だが、それを現在的、意図的に操作するために金融資本家が動かす国際通貨は「アメリカ・ドル」、「ヨーロッパ連合・ユーロ」、「日本・円」等である。今の所、「私有財産」は国際的に「ドル紙幣の信用度」を基準にレート換算され、その財産価値が保障されているのだ。アンタが財布にしまい込んでいる「紙幣」が何故、モノと「交換価値」が有るモノとして存在しているのを考えて見たことがあるだろうか?・・・単なる「カミ」である。  歴史的には中国の「宋王朝(960~1126年)」が最初に通貨としての金属貨幣に代わる「紙幣」を発行使用したのだ。そして現代まで諸国家が自国で発行使用している。だが各王朝の崩壊末期、諸国家権力の崩壊末期には闇雲に発行された「膨脹通貨による「インフレ=物価高」の混乱があったのだ。逆に言えば「国家」が腐敗、戦争、内乱、自然災害等で混乱すれば売買市場は「インフレ=物価高」になるのだ。  何故、闇雲に「紙幣を発行」したのか?・・・「権力者・支配階級の借金=赤字」を「紙幣=カミの証書」を増やしてチャラにしようとしたからだ。徳政令は「政治的」な現物借金保証書を破棄する棒引きのチャラであったが、「インフレ」は「経済的」な「商品交換手段=紙幣増発」で官僚に給料として支払い、それで現物の借金をチャラにしようとしたのだ。「国家」は「カミ」で多くのモノが買える様にしたのである。商人に対する借金もそれで支払ったのだ。「国家の赤字」は数字の上では解消されたのだ。第一次大戦後のドイツも戦後賠償金を支払うために「マルク紙幣」を膨大に発行させて借金をチャラにしょうとしたのだ。市場には「マルク紙幣」が膨大に氾濫したのである。  当然、商品市場では現物が少ないのだから従来十円のモノを百円で売るのさ。モノが高くなるからまた「カミを増発」する。悪循環で交換価値が無くなった「カミ」だけが増えていく。そして紙幣はカミクズになった。「カミ=紙幣」の信用が無くなると言うコトはそれを裏打ちしている「国家の信用」が無くなる、と言うことだ。  金属貨幣は希少価値がある金貨や銀貨であるが、やはり支配者や国家の借金が増えると当然その実質金属の純度が少い合金として増大改鋳され、市場ではインフレ作用として使用されるのだ。  インフレとは市場にモノが少なく、「紙幣」が氾濫し、モノが高くなったコトである。「インフレ=物価高」で、消費市場で一個のパンが10、000円にもなってしまう、と言うことだ。ダレも借金をチャラにしようとする紙幣を発行する「権力」を信じなくなるのは当然である。  デフレとは「商品」が氾濫し、モノが安くなっているバブル崩壊後の現在の日本である。「デフレ=物価安」で、品物が売れない、利益が無いから生産にブレーキをかけざる得ないのだ。企業倒産で生産が落ち込み、労働市場が不安定で勤労者の低賃金、リストラ、失業者が増大になっても、金持ち、政治家、国家公務員はモチロンのコト、まだ一般日本人には「物価安」で、当分は生活する為の「貯蓄を切り崩す余裕」があるのだ。  現在的なデフレ不況とは、カネを借りる事の出来ない「中小生産企業」と、その企業に金を貸せない「不良債権を抱えた金融企業」、そして「デフレ不況」を謳歌している赤字でも倒産しない国家公務員の勤め先と、その天下り先である諸公団組織の問題である。これらの人間の「給料」は資本主義的生産からの直接的利益ではなく、「税金の直接横領」から支払われているのだ。早晩、「デフレ不況」は「インフレ不況」になっていくのは当然である。  どちらも、商品市場の需要供給のバランスが崩れた時には「生産現場=労働市場」での労働者は低賃金でこき使われるか、解雇である。  従来、イギリスのポンド紙幣が金に裏打ちされた「国際通貨としての兌換券」とされていた。イギリスポンドを中心とする金本位制は、第一次世界大戦前の1914年まで続いたが、植民地経営の不振、不安、アメリカの台頭などで、国際的な威信失墜で廃止し、再度第一次世界大戦後の1925年に金と兌換能力を失っているにも拘らず金本位制に復帰させたのだ。だが、「金兌換」出来る国は戦場とならなかったドルのアメリカとなっていたのだ。国際的な商品取引は金の実質価値を交換基準にして決済されたのだ。これによって各国の資金はアメリカに流入することになった。ヨーロッパに於ける過大投資と投機熱による生産過剰、ウォール街の株式バブルの中でヨーロッパ資金はアメリカへの株式投資に向けられたのだ・・・ニューヨークのウォール街で株式が大暴落して世界大恐慌(1929~1933)となった。  資本主義経済では、利潤追求のため、大量の商品を生産する一方で、人件費を含むコストを低くしようとする。このため、生産が増大しても、人々の所得が無く消費が渋滞、商品の過剰生産は価格暴落、破産、失業などの生産と商品市場、雇用関係市場での需要=供給バランスが崩れるのだ。  1931年、アメリカの輸入関税は50%引き上げられ、コレに対するヨーロッパ諸国の関税報復措置で、米欧貿易は急速に縮小し、一次産品・資源輸出国も輸出の停滞となった。金の米国滞留、ヨーロッパ諸国の貿易赤字、金融不安の拡大で世界大恐慌は更に連動して進行することとなった。  このような状況でイギリスは1931年に再び金本位制を止め、主要各国も金本位制を止め、金の保有量とは関係ない管理通貨制度、自国経済圏の確保へと移行していった。そして結果が第二次世界大戦・・・その後もアメリカは貿易黒字となり、金が蓄積されアメリカンドル=金兌換の天下となった。  そのアメリカが「ニクソンショック」と言われる「ドルの金兌換廃止(1971年8月15日)」をしたのだ。理由はヴェトナム戦争、東西冷戦での援助資金などでドルを世界中にバラ撒き、国際収支が赤字になったのだ。ドル=金として交換するのが不可能になったのである・・・  (アメリカの保有する金塊)-(世界に発行され決済使用されたドル)=金不足(赤字)  「金塊」に対する「ドル紙幣のインフレ」である。映画、007の「ゴールドフィンガー」が望んだコトであるが・・・ニクソンはアメリカ金融閨閥の意向に添って単に「金塊」をアメリカに残したかっただけ?・・・すべてドル=カミで決済し、するようにしたのだ。  ヴェトナム戦争後、ソヴィエト連邦崩壊後も、国際通貨としてその管理通貨制=金不兌換=ドル=相対的な為替相場を操作しているが、本質的にはドル紙幣は何等担保物権の無い「カミの証書」である。そして日本は「外貨準備」として黒字国だが「紙切れのアメリカ国債」で持っている。ドル安になり続けてきた「アメリカ国債の1/ 3」の「紙切れ」をである・・・現在的に「担保」も取らずに「約6400億ドル x 110円=70兆4000億円」ものカネをアメリカに貸している?・・・このカネは日本が返済してもらう前に本物の「カミクズ」になってしまうだろう。実際は「返済」してもらうとアメリカがパンクするのだ・・・当然、世界恐慌になる。  アメリカの中央銀行は「金塊」の保有量が約8139トン(2001年3月現在)で、世界の公的機関の中で最大の「金塊」を保有しているのだ。ちなみにIMF(国際通貨基金)は約3,200トン。日本の中央銀行は763トン(2001年3月現在)の保有である。理由はいかに「金塊」を「商品として市場売買」しようとも、「国家のカミよりも、金塊そのものの実質信用価値=交換価値」がある、と「思っている」からだ。  思っている根拠は「金」が地球上で他の金属物質よりも「① 稀少な金属」である、と言うことと、「② 柔軟性に富んで、酸化ぜず、加工しやすい金属」であると言うことと、他に余り「③ 利用価値が無い=社会的有用度が無い」と言うことらしい。「③ 利用価値が無い=社会的有用度が無い」と言うモノ自体がこの「人間社会関係」では一番大切なモノになってしまった。「金」それ自体が「美しい」とかも理由にあげるコトもあるが、それは「主観的なモノ」である。古代エジプトでは「金」よりも「銀」の産出比率量が「稀少」であったらしい。だから「希少価値」としては「金」よりも「銀」が重んじられたらしいのだ。  で、単純な疑問だが「価値」とは何だろうかをアンタは考えた事があるだろうか。価値論(クリックすれば価値論へリンクします)  金であろうが、貝であろうが、石であろうが、紙のお札であろうが、クレジットカードであろうが、「おカネ」として歴史的、地域的に交換代用物・・・信用度の意味さえあれば殆どあらゆる「物」と交換できるとは、一体どお言うワケだ・・・?・・・この謎を解いたのが「マルクス」だったのだ・・・「資本論」や他の著作で。「人間労働」、「生産物」、「商品」、「貨幣」、「資本」、「市場」、「市民社会」、「国家」と言うコトバの意味を彼の時代の「資本主義的生産様式」を研究するコトで。つまるところ、この現代世界はその「資本主義的生産様式」とその「商品市場」を根幹に蠢いているのである。  金に裏打ちされない「ドル=紙幣=カミ」を操作するコトで、資本力、生産力、軍事力で、アメリカ国家は世界最強である。アメリカにとっては国連総会、常任理事会なんのその、デ、アル。現在的にアメリカ国家が存在しなければその資本主義的世界階級収奪秩序の意味が無いからである。  だが、「核」は「資本主義的民主主義」秩序を望まないテロ組織がいつ何時でも使用する可能性は大である。「命」を「天国=靖国」に預けた人間はかって神風日本資本主義国にも存在したのだから。ダマサレルてしまえば自分の「生きている命」も他人の「生きている命」も天に昇るほどに軽くなるのだ。自分の「命」を重いと知っている人間はダマス人間である。そしてダマサレタ人間は後からその重さに気がつくが、後のマツリで、命がある期間には決して意識的に経験出来ない、確かめようがない「天国・地獄」か、今現在、確実に確かめるコトの出来る「他人の骸=宇宙塵」と同じモノになってしまうのだ。  国際連合・・・その国際連合の官僚も組織を利用してボロ儲けしているのだ。国際連合の難民事業・開発途上国援助事業の殆どは利益目的としての民間下請け業者に任せられている。その立場は「国連御用達商人」である。まるで国際紛争を期待し、待ち構えているが如くの「援助資金に群がる寄生虫のような援助屋」である。  だが、アフガニスタンで「井戸掘りに、運河用水路に命を賭けている日本人医師(ペシャワール会の中村哲医師=クリックすればリンク出来ます)」には頭がさがる。彼の報告を読めば、国際連合の援助事業の現実が如何なるモノかをアンタも少しは理解するに違いない。そして食える人間と食えない人間の「現実の人間存在関係のハザマ」が如何なるモノなのかを・・・破壊されていない仏像を発見して歓喜する「日本人学者」は「ホトケもまた塵」であるコトが解かっていないのだろうなッ。  とにかく、国際連合官僚と各国民間業者の癒着は、ここでも各国国家官僚の腐敗と同じである。


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