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「国家」をどのように考えるか?(3)


      国家エゴ  ここで解かりやすく、セルフッシュ(エゴ・EGO)なあなた個人を「国家」に例えて考えてみたらドウであろうか。あなた個人が「国家」とすれば、あなた以外の他人は「他の国家」である。あなたは生きるために何らかの「仕事=生活手段を得る為の生産労働」をせねばならない。あなたは仙人のように孤立的に生きているのではなく、社会的に生きているハズだから他の人々との関係で仕事をしているに違いない。個人が二人以上の関係になるとお互いの了解を前提にした「ルール=契約=約束事」で生活をしていかなければならない。そして、結果、個人の生活は相互依存関係によって支えられているコトになる。  あなたが、セルフッシュ(エゴ・EGO)な人間でないとするならば、夫婦生活、家族生活、社会生活、市民生活でのあなた個人の生き方は以下のモノとして例える事が出来るだろう。  ① あなた個人の「立法」とは、意識的生き方の規範で、「信念・信条」である。  ② あなた個人の「行政」とは、生活に於ける実践的行動で、「行為」である。  ③ あなた個人の「司法」とは、あなたの「行為」の可否を反省する「判断力」である。  ④ あなた個人の「外交・国際条約」とは、     あなた個人が関係する他の個人との「関係ルール」である。  ⑤ あなた個人の「軍事」とは、    相手が④を無視した場合、    自分自身を相手からの    暴力行使、不正行使をはねのける為にとる    「自己防衛」のタメの「暴力行使」、「逃亡」を含めた実践的行為、行動である。  あなたが、セルフッシュ(エゴ・EGO)な人間ならば、既に ① の「信念・信条」が相手の立場を認めない「セルフッシュ(エゴ・EGO)」そのモノなのであろう。  「自己防衛」のタメの「暴力行使」が出来ないとするならば、「逃亡」するより手は無い。「難民」である。何処に「逃亡」すればよいものやら・・・「世界人類、みな、兄弟」になればイイのか?、「私的所有権」を巡る「兄弟姉妹」ほど「近親憎悪」が激しいものはない・・・簡単明解な解決方法は「日本国憲法」を「世界人類の憲法」として相手の意識を「組織化」し、「実践」していくことである・・・気長に暢気になんては言ってられない。今現在目の前にある美味しい物はサッさと食わなきゃ腐るのだ。既に「日本国・憲法」をドブロクのように心髄の根幹を腐らしはじめてから随分となっている。酔ぱらっちゃぁ「理性」なんかは吹っ飛んでしまうのは当たり前だ。酔っ払いの仕業は「自然界の弱肉強食の法」でもないのだ。  「憲法」とは「理想」であり、「理念」であるのだ。この「理想・理念」であるからこそ「憲法」なのである。「弱肉強食の法」を「憲法」とはしないし、いまどき、「人種・民族優位」をダレも「憲法」などとはしないのである。「憲法」がなくても、ごく、常識的な社会的人間は「弱肉強食」で生きようとは思っていないハズだし、しないハズだ。だが、ある時、「自然界の弱肉強食の法」がアタリマエのように言われて、その「弱肉強食の法」すらも超えて「実践行動」がなされる場合がある。その最たるモノが戦争地域を限定しない、軍人、兵士、民間人「無差別の戦争・戦闘・テロ」である。「人民戦争」なのである。元々「戦争の現場」ではルールなどはないのだ。殺すか、殺される、かである。  「戦争」にロマンを夢見て、心を躍らせるのは「現実の戦場現場での直面当事者」ではない。物語、映画、ゲームの中での敵をヤツケル主人公は「アンタ」じゃないのだ。「アンタ」は現実には戦場でのた打ち回って殺される、その他大勢の端役なのだ。  「戦争」でなくても、この「弱肉強食の法」は市民社会でも、裏社会でも「金の貸借関係」でワナに填まった人間がもろに経験することだ。市民社会での「金の貸借関係」にはルールがあるが、民法を無視したところで「金を貸した方」も「金を借りた方」も「暴力的」な決着をつけているのはTV、新聞、ニュースが日常茶番で報じているところだ。「起った事件」は「法が守られなかった結果」である。「夫婦間暴力・家庭内暴力・学校内のいじめ、暴力」等は眼に見えて倫理、道徳的、法的にも否定されるが、利益、利潤の効率性を追求する「企業・会社」内での「左遷・リストラ・解雇」、「企業・会社」間での競争での倒産は、次元は違うが秩序の中での「弱肉強食の法」ではないのか。職を得たい「失業者」の「失業率」、「企業倒産率」は市民社会での「弱肉強食」のバロメータである。  だが、「余裕のある資本主義社会」では、「私有財産法」を根幹として秩序を守るべく、この「失業率」、「企業倒産率」を一時的なモノと見なして、なんとか低く抑えようともする。余裕のある人は倫理、道徳、宗教心に於いて「乞食」にもカネは恵むのだ。「自然界の死活バランスの弱肉強食の法」とは違う、と。  だが、全世界的規模でみれば、「絶対的私有財産法」が当然であると意識にこびり付いている限り、「資本回転の行き場の無い破綻の繰り返し」は「死活、弱肉強食」を過去も現在も、きっと近々未来にも、この地球上のある地域で現実化させていくのだ。  「憲法」など無くても人は「理想」を望みながら「現実」を生きていくのだ。「理想」とは「コトバ」で言ってしまえば、簡単なことである。人間関係で、  ① 殺すな  ② 盗むな  ③ 騙すな  である。だが、「現実の非合理性」と「現実の非業性」・・・①も、②も、③も「守れない理由」はなんであるのか?  「自然界の弱肉強食の法」では①も、②も、③も否定された殺せ、盗め、騙せ、として許されているのだ。理由は動物自身の存在個体と種の存続としての「死活」が賭けられているからだ。人間は社会的存在として自ら、自然界の、この状況から解放されようとしてきたのである。「自然界の死活=飢餓」からの解放として「社会共同体の余剰生産物、富の蓄積」を始めたのだ。そして、その「富の管理者」が必要となったのだ。  「富の管理者」とは「階級社会」の始まりの兆である。①も、②も、③も「余剰生産物」の「管理分配権」を握った「支配階級」の「特殊利害」を覆い隠す「階級レベルとしての法」となっていったのだ。  生殺与奪は支配階級の特権である。他の共同体との交戦権もそれを前提にした・・・①は殺せ、②は盗め、③は騙せである。戦争での②の盗めには人間の「労働力=奴隷」も含まれる。古代ローマでの戦争は「生産力=労働力=奴隷」の獲得でもあった。  切っ掛けはヘレンであれ、怨みであれ、ナンであれ、戦争を単純に考えれば、敵対する共同体に対する収奪の支配権の確立である。②の盗めが目的で、③の騙せは戦術である。①の殺せは対峙する相手の抵抗状況次第である。②の盗めは商品交易を前提にしない暴力的略奪である。市民社会では「強盗」である。暴力的略奪をしないためには・・・「盗むために嘘をつく(ウソはドロボウのはじまり)=策略なのだ」・・・。なぜ、盗みたくなるのか?・・・その根拠は何か?・・・カネも無く食う物が無くなったら・・・これも単純に考えれば「無いモノに対する欲得」で、その殆どが「交換対価になる物(金銭)が無い場合」である。あっても盗むのは心理的スリルに興奮する性癖の万引きか、プロである。市民社会では盗みを目的にした殺人ならば強盗殺人である。騙しての盗みは詐欺である。で、「国家間、共同体間の戦争」が始まれば皆がグルになって殺せ、盗め、騙せをヤルのだ。  そして「現代の戦争現場の一兵士」は一見、「自然界の弱肉強食の法の意味、目的」すらも逸脱した「トリガー・ボタン・ゲーム感覚」で虐殺、殺し合いをやっている・・・上官の命令で始る「一兵士の殺人に理由は無い」のだ。あるのは「殺人命令」だけである。第二次世界大戦の独ソ戦を描いた映画「スターリングラードに登場する狙撃者」に政治的思想はあったのか?・・・戦意高揚のタメに利用されたのか?・・・その「目的性」を吹っ飛ばして自分の命も相手の命も危険、危険感覚にさらしてみたい人間もいる。理由を訊いても生きている人間、動いている人間をタダ殺してみたかった、と言う市民社会での犯罪少年や、犯罪者と同じレベル・・・スリル感覚のみ、コロシの状況現場に当事者としてタダ、自分の身を置きたかっただけ・・・「自然界の弱肉強食」には「殺しの理由・目的」がアル・・・食って生きるタメだ。殺して生きるタメだ。だが、「理由・・・食う目的、盗む目的の無い殺人」も「武器を手にした人間」はヤル・・・「怨恨殺人」には理由と目的がある・・・そして一般的には「殺人目的のタメだけの愉快殺人」・・・「一家心中殺人・恋愛心中殺人・道連れ心中殺人」・・・「宗教・思想目的の殺人」・・・「国家・民族・人種・血統」・・・共同体を防衛するタメの殺人・・・色々な「殺人の理由」があるのだが・・・簡単に殺される側の人間はたまったモノじゃない。  国家間戦争の目的は「ヌスムコト(利権獲得=戦略的目的)」で、「ダマスコト・オドスコト(戦術=手段)」も、「コロスコト(戦術=手段)」もその付随事項のテコ=手段である。だが負けた国家支配階級は「ヌスマレ」ても、「ダマサレ」ても、「オドサレ」ても、「命」があってのモノである。全てが「不必要にコロサレテ」も、全てを「不必要にコロシテ」も得策は無いのだ。  農耕社会と狩猟・牧畜社会の接点でのイサカイ、戦争はその「相互の共同体間での富の防衛=富の略奪」の関係である。  農耕社会では多少の天候=自然災害があっても、その食料確保=余剰生産物の蓄積には有利である。農耕社会は圧倒的にその共同体の人口を養い、増加させることが出来るのだ。自然災害の飢えから「自立」出来るのは、労働と生産秩序のある「農耕社会」である。その為の「貯蔵庫=穀物倉庫=自然災害時の備蓄=餓えからの防御」こそが「農耕社会の発生」であるからだ。だが、その「共同体の余剰生産物=蓄積された富」は私的所有=私的分配として指導者に管理を握られたのだ。  殆どの食料が直接的に自然に依拠している狩猟・牧畜社会ではその余剰生産物の蓄積に不利であった。動物の肉類は燻製にでもしなければ備蓄保存は無理である。しかもその保存の量は知れているのだ。しかも牧畜は必然的に定住し得ない社会である。狩猟種族もその獲物を獲得するには、まったく自然の流れに委ねざるを得ないのだ。ましてや「生もの」は大猟、大漁であっても保存には限界がある。  食う物が無くなった牧畜、狩猟種族共同体はどうするか?・・・物々交換での平和的交易?・・・自然のなすがママに家族が、共同体が飢えで切羽詰っているのだ・・・相手がすんなりと備蓄している穀物=食料を分けてくれるならばイイのだが?・・・生きる為には食うモノを持っている奴から「盗もうとする」に違いない。備蓄している奴は「盗まれないため」には武装し戦ってマモルより他に手段はない。これが「自然」であり、「戦争の原点」である。  「戦争での殺し合い=盗むタメの手段=盗まれないタメの手段」である。だが犠牲的ダメージは双方の「国家支配=階級収奪」秩序維持に取って最小限がイイに違いない。農耕サイクル社会を襲う狩猟・遊牧民は穀物収穫後を見計らってやってくる。あるいはその時期の「食糧事情」によってランダムに。だが、次回の食料を略奪するためには農耕社会のすべてを破壊するワケにはいかないのだ。もちろん、農耕社会はその被害を少なくするためには武装して自らの共同体の命をまもる。  「国家」は「国家間対立」することで「国家の特殊化された支配幻想を国民にオシツケル」ことが出来るのだ。農耕社会に取って盗む奴がいなくなれば問題解決である。「世界帝国=国家間秩序を統一」すればイイのだ。「世界帝国」とはその領土的枠内で「無国家」と言うコトである。「帝国」の完成は平和維持と言うことだ。だが「帝国」を支えてきた軍人の生活費の捻出はもはや領土的な拡大では賄えないし、その存在意義も薄れる。帝国維持の諸経費、軍人、国家官僚の給料の捻出の殆どは「帝国内の階級分化している農民、農奴」からの収奪である。  「平和な帝国」は文人官僚の帝国となるのだ。そして地域的に富が不均衡に発展する帝国は支配権力が分散、分裂する小国家になるのが必然だ。その交替の時期こそ「暴力=武力」を握る軍人兵士である。国家は暴力的に帝国秩序に集約され、帝国は再度、暴力的に地域国家に分裂するのである。  そして「国家間戦争」が「命を賭けない儀式=懐柔交渉=冊封=手打ち式」ともなる。だが「国家間外交条約」が長期にまもられることは「歴史的条件」には無い。常に破られるモノである。国家支配階級にとっては軍人、武力の蓄積と戦争訓練は、対外的に絶対条件である。そして、なによりも国内の階級収奪の「暴力=武力秩序」こそが自己存在の立場を維持する条件である。  外交と武力、これのバランスをオロソカにした「階級国家」は国家間戦争に傾いて滅びるのだ。  「私有財産法」もその目的は「ヌスムコト(搾取)」で、「ダマスコト・オドスコト(法)」も、「強制束縛、監禁(法の実行)」も、「コロスコト(法の実行)」もその付随事項である。殺さず、生かさずに「ダマシ」て、搾りあげて「私的所有の富を蓄積」し、その「管理・分配の権利」を握り、「法と武力」で維持しながら、他の人々を支配するのが「支配階級」なのだ・・・だが自然災害はその「階級社会」を丸ごと滅亡させてしまう。「伝染病細菌・ヴィルス」は人間の意図(階級的存在秩序)を無視したところであらゆる人々をコロシテしまう、が・・・人間はコレをも「意図的にバラ撒く存在」になっている。  だからこそ、「私有財産の蓄積=生産物の直接搾取=市場でのモノの交換売買による儲け」を埒外に疎外したところで、極端な階級社会を戒める「理想」を「文字」に記録した「憲法」ともなるのだ。  「憲法」とは「理想」を掲げ、その理想目的を追求すべき条文なのである。「現実状況」に合わせる、と言ったモノではないのだ。そして、守られるかどうかは別である。いかなる「法律」も事後によって裁かれる基準である。  「憲法」とは、護られるべきモノとしての「理性的思想の幻想銘文」なのである。  守られるか、どうかは「私有財産を根幹にした階級社会を解放する、②盗むな、③騙すな、①殺すなと言う立場」にコソあるのだ。  「支配階級」とは「被支配階級」から「②盗む為」に「③騙して」、時には「①脅す・殺す」存在であると言うことだ。  「国家組織」とは対外的にも国内的にも「③騙して、②盗む為に、①脅す・殺す」と言う「支配階級の組織」である。  とにかく国語辞典には・・・国家とは、  (1)〔易経(繋辞下)〕王家と邦土。くに。  (2)〔state〕一定の領域に定住する人々が作る政治的共同体。    国家の形態・役割は歴史的に異なるが、    一般には、近代の国民国家を指し、    主権・領土・国民で構成され、統治機関を持つ。  と、ある。「国・國・国家・國家」は漢字であるから漢和辞典をみてみると・・・  ① くに・独立した一政権のもとに統治されている全地域  ② 諸侯の領地  ③ みやこ・国都  ④ 地勢や行政の便宜によって区切られた地域  ⑤ ふるさと・故郷  ⑥ 地方  ⑦ 土地・大地  ⑧ 国色  解字  ⑨ 國は囗(四方の城壁や封土の意符)       或(ワクの転音コク)が音符       狭い地域の領地。或るは國の源字       或=戈(ホコ)+口(ヒト)+一(土地)  ⑩ 国家・・・国土と王室          天子・王          朝廷・政府  ⑪ 一定の地域に居住する多数の人々からなり、     統治権によって組織せられている団体  ⑫ 領土・人民・統治権の構成、三要素の統一概念  ⑬ 統治権・・・主権者が国(領土)、人民を治める権利  ⑭ 国土・国民を治める権利(主権)。    一般に国家の体内的な最高支配権力を意味し、    その最高性の視点から主権とも呼ばれる。    国家意思である点において国権ともいわれる。    さらに、    イ)    領土高権    (国家の基礎である一定地域の    すべての人や物に及ぶ国家の支配権)    ロ)    対人高権    (領土の内外を問わず、    国民に対する国家の属人的な支配権)    ハ)    自主組織権    (国家がその活動組織を    自ら法によって定める権利)    の三つの性質の権利に分けられる。    統治権は主として主権の国内的発動の面において理解され、    その発動様式によって政治体制の種別を生ずる。  ⑮ 主権者・・・国民・・・或る地域で税金を納める人々?                 或る地域で税金を収奪される人々?                 或る地域で税金の管理運用を任された人々?  「主権者」は「国民=the People」であって、「全世界的な人類( human being・mankind )=人民=People=ヒトビト」ではない。これは日本では「民族」と言われているアイマイな概念でくくられている。しかも「国民」とはその共同体内領域のスベテの「人々」、国によっては「諸民族・諸人種」も含むモノであるが、その「国民スベテの人々」は「階級分裂」をしていている存在なのだ。  「市民=国民=民族」は元々「私有財産・私有権」を根幹にした「支配階級」と「被支配階級」に分裂しているコトを基本的に踏まえなければならないのだ。この「階級、階層分離」を包んでいる概念が「国民」なのである。  そして「市民」とは元々「市民階級=ブルジャジー(フランス革命で、封建制、絶対君主制を打破した近代民主主義=議会制の確立、身分制の廃止、営業の自由に代表される近代市民社会の担い手。産業資本主義的経済体制を確立した都市の中産階級)」のコトであった。当然にも産業資本主義的経済体制の担い手は、その私有財産法の下、労働市場で自由な賃金雇用関係を結ぶ「資本家(雇用主)」と「労働者(被雇用者)」である。現実的には雇うも雇わないも「資本家」サイドの自由であるから「賃金労働者」に取って不利である。当然、「金融資本家」は「産業資本家」にカネを貸して影響力を及ぼすコトも絡んで。  そして、一般国民として労働者であっても、生活費に余裕があれば「金融資本家」にも「産業資本家」にも自分の資金を「資本投資」出来るのだ。  その「資本投資のカネの管理運用」は相手に任せっぱなしではあるが・・・株なら「配当金」で潤うかもしれないし、運用機関が失敗して投資は「0」になるかもしれない。一種の博打である。  あなたの「税金」の使われ方も同じである。「国家に収奪されている「予算」が前提の「税金」も「国家官僚・公務員」にイイように使われているのをアンタだって納得しないであろう。あんたが主婦なら「家計簿」はどのように記録する?・・・普通なら夫の稼ぎを手にしてその枠内で「予算」をたて、買い物や支払いをスルのではないのか・・・「収入の枠内」で「支出」を考えるのが普通である・・・借金をアテにし、出費予算を組んでも「将来的な借金返済」の計画をするに違いない。今現在の「日本国政府+官僚の予算」は未だ「手元に無い現金」をアテにし、「返済するツモリがない借金」のように「公共事業=天下り公団役員給料・下請け民間企業事業費支払」として使っているのだ。この「税金の支出」は事業失敗しても「将来的な返済」を考えなくてもイイのだ。できた物は二束三文で払い下げるか、廃棄処分である。「赤字」の穴埋めは更なる「税金」で、と言うことだから。  「主権」=「国家意思」を発動する「国民主権者」とは一般国民ではなく、現実的には「階級分離している特殊な国民の意思」である・・・「国家の基本法律」とは「特殊な国民」の都合のよい「私有・特殊利権(使用権・占有権・行使権)・特殊利害権」を包んでいるオブラートなのだ。  いや、「日・叛・国・憲法」として「人類の立場」をウタってある事を信じよう。  自己存在させしめられている「階級存在である己」と、自己意識が「理性的人間」として、「如何なる社会的存在であるべきかの自覚的己」とは、区別されねばならない、よなッ。  もちろん、「社会的存在」とは「現実の階級関係から自覚的に自由な人間たらんとしている存在」という事だが。内面に於ける意識的な「倫理」が要求されるのだ。  「特殊な利害を一般利害とする共同幻想」をコッテリとこびりつけた「歴史的遺伝プログラム」は、その抑圧者からの「政治的解放」の瞬間に多大な「犠牲」を払ってワズカなコビリを落としさえすれ、さらなる「悲惨な犠牲」と「非人間的な状況」を結論つけているのだ。  抑圧者から「解放された人間」は、生き残った「抑圧者」を同じ立場の「人間」として解放などはしないのである。だが、利用価値のあるかっての抑圧階級の人間を生かして「再教育」し、利用していくのが、「階級的自己解放」を目指す「人間」の常套手段である。  この社会で階級抑圧の根源が「私的所有財産=分業」で、なおかつ社会の「あらゆる有用な物質生産」の根源が「私的所有財産=資本の蓄積・運用」で歴史的必然のモノであるとするならば、キタルベキ過度期の国家は「私有財産」の「放棄」ではなく、「制限」である。  本質的な「階級対立」に「和解」はない。階級は非和解、非妥協としての存在であるからだ。階級社会は支配階級と被支配階級の対として存在している。頂点で搾取する階級と底辺で搾取される階級に分離され、その間に幾重にも階層が存在している社会である。この中間階層はその殆どが支配階級の余禄を貰う立場に立つ存在である。そして非和解的階級社会であるにもかかわらず、この中間層が非和解的階級対立をアイマイにしている存在なのだ。中間層が求めるのは対立、非妥協ではなく、常に支配階級を優先にした妥協である。  そして、多かれ、少なかれあらゆる体制の「国家」が政治的階級妥協をしてきたし、しているのだ。あらゆるモノが歴史的国家支配階級の自由になるモノではなかったのだ。現実的には「国家」に於いて支配者の社会的存立基盤は「階級妥協」であったからだ。現実的には「富=蓄積された社会的余剰生産物」の支配階級によるランダムな分配か、私的所有財産法を根幹に据えた法的比例数量分配(最低賃金法)に於いてである。  どんな国家体制であろうが、国家の中間層とはその殆どが国家官僚であり、企業官僚である。  戦後日本の「農地改革」、「大企業の独占禁止法」、「労働者の組合法」、「遺産相続法」等。だが、「農民」は解放された「農地」を「政治家と官僚」に「利権」として利用され、「企業労働者」は「組合官僚」を太らせ、「企業家」は「市場の自由化」などとあたかも「純粋資本主義国家」があるかのように国際資本に踊らされた「政治家と国家官僚」に振り回され、倒産合併で、寡占化を許し、自らも破産し、そのあおりで労働者は実質的に「低賃金化」するか、路頭を迷うルンペン労働者になりつつある。「遺産相続法」は巨大資産を残された子孫には有利だが、年間何万人もの死亡する一般市民の「相続資産」の金額は市街地一坪の土地を買えるかドウかのモノでしかない。  資本に枠組みされた生産現場は階級搾取の原点だが、生産されたモノは商品となって、他の商品(金券)と市場で交換されるのである。ココで初めて生産現場で生産されたモノの価値が決定され、生産に要した原価に+αとなって生産現場に還流されるのだ。だが、市場では生産原価+α=Χの価値が生産原価を割る場合がある。需要が無い時である。利益は産み出されないし、諸経費はもちろん、賃金も出ない。赤字である。どんな生産物でも市場での「需要情報」が無いところでは商品としての価値は未知数である。そして、生産価値を無視して商品価値は需要と供給の自由市場で決定される。「自由主義経済」も「計画主義経済」も市場情報がその生産数量決定の要なのだ。  ついでに、「生産物(現物実体)を無視」したところで諸国家の「流通通貨=金銭」自体が国家間の為替相場の差額に於いて「商品」として売買取引(交換)されているコトも踏まえておこう。単純に言えば「為替相場の上下予測にカネを張る博打の利ザヤかせぎ」である。現在の「ヘッジファンド」と言われるモノは利ザヤかせぎを狙う「投資信託の一種」である。近年の「アジア通貨危機」、「円安」、「株安」、「ロシアルーブルの事実上の切り下げ」等は、多数の投資家から資金を預かり、それを担保に莫大な金額を「空売り」などで動かす「ヘッジファンド」の投機的結果であった。その投機はコンピュータを使い、「株、債券、為替、商品、不動産、デリバティブ」などの「あらゆる商品」に対して短期間で売買を繰り返し、利ザヤを稼ごうとする博打=マネーゲームである。実物の価値に裏打ちされない「カネ自体=カミ」が「気分情報」で一人歩きしているのが現代資本主義社会の特徴でもある。  とにかく、いかなる経済国家体制であろうとも「私有財産法」と「官僚の特権」を前提に「社会的に蓄積された富の分配(収奪)バランス」を踏まえた法的な「制限」、「監視」、「違反告発」等の「警察・裁判組織」をつくってきたのだ。  だが、「自由売買の商品市場」が存在する限り、いかなる「法」を創ろうとも、それ自体が私的所有を集中拡大する必要充分条件なのだ。生産コストを無視する「商品市場」は「賭博市場=売買自由市場」で、売れても、売れなくても「生産物の最終コストを決定」をする場所であるからだ。商品として売られた利潤は資本家の懐へ、売られなかった残存商品・・・豊作貧乏とは、余剰生産物の廃棄である。あるいは原価を割って叩き売られるのだ。産業資本と金融資本が結びついた「商品市場競争」で各資本は淘汰独占的に集約され、負けた資本家は破産、倒産していくのが当然である。  国際的には「独占企業体と金融資本の国内支配が成立し、資本輸出が著しく重要性を増し、国際的なトラストによる世界の分割が始まり、最強の資本主義諸国による世界の全領土の分割が完了したという発達段階の資本主義(レーニン)」・・・いわゆる「金融資本主義=帝国主義」である。そして、世界領土の再分割戦争が第二次世界大戦であった。資本主義国家間に於ける「戦争産業」は労働力を吸収し、兵器と兵士を戦争で「消耗」して利潤を上げ、そして「自国資本主義国家の法的な民主主義」をも裏切るのである。  現実的な「経済的豊かさを基準」にした「人間解放=平等」そのモノが「幻想」なのだ。「経済的豊かな消費」とは「経済的な無駄な生産」をも前提にしているからである。このバランスの上で「政治的な解放=政治的対等」があるのみである。「経済的豊かさ」を基盤にした「ユートピア」、「桃源郷」等は未来に於いてもないのだ。  経済的な困窮は経済恐慌、戦争だけではなく、人間社会の外からもやってくる。経済的な困窮とはパンの有無、パンの分配の有無である。フランス革命も、ロシア革命もパンからはじまったのだ。自然災害は食料飢饉をもたらす。その時の「パン」の分配こそが「政治的=経済的」な対等・平等であることの立場を試され、要求されるのだ。  モチロン、純粋な「ブルジョワ独裁国家=資本主義」、「プロレタリア独裁国家=社会主義」、ましてや「自由主義国家」などはありえないのである。その国際的国家間の底流には「世界資本の水」が循環しているのだ。その水を意図的に調節しようとしているのが、国際資本を握っているごく、少数の国際的な「閨閥関係で結びついている人間」なのだ。  ごく、日常的に使われている「自由」の意味を、ナニからの自由であるのかを考えてみるべきである。根本的な「自由」は「餓えから解放された自由」である。「餓え」は何時でもやってくる。日本的市民社会では「餓え」などが無いと考えている連中は脳天気なのである。「餓えからの解放」こそが、政治と経済の根本なのである。  また「国家主権」が「人民」、あるいは「民主」にあるとその「国家名」に冠している「国家」を見れば「人民」がどのような存在におかれているかは明らかである。「人民」は「階級・階層・分裂」しているのだ。当然にも「利益配分」と「権利配分」は不平等である。  で、「実質的な国家主権」はダレが握っているのか?・・・どんな政治支配形態であれ、商品生産=商品流通の中での「モウケ」を再配分し、「各階級のバランス」をとっているのは、「独裁者(支配階級)」とその取り巻き連中である。この「独裁者=独裁階級=支配階級」はいずれの「階級出身」であろうが、常に「階級支配としての法」を管理し、行使する「官僚組織」を必要とするのだ。  だから、「共産主義」、「社会主義」、「国家社会主義(ナチス)」、「自由民主主義」であれ、なんであれ、その国家体制の官僚が振りまく、フルビタ「幻想」に酔っても、とりつかれても最後は幻滅が待っているだけなのだ。  思想、信条が実体の実践行動から乖離する「コトバ」でもあることを忘れてはイケナイ。問題は「コトバ」とは裏腹に自己の私的な利害関係で実践行動するのがほとんどの「人間」であるからだ。「私的利害関係」とは帰するところ、「心理的・心情」の快、不快も含めた「損得」が判断基準になっている、と言うコトである。  モチロン、大方の人間は「得」の方に動くのだ。


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