白江村
「白村江」 「白村江(古代日本の敗戦と薬師寺の謎・鈴木治著・学生社・1995年2月15日)」 以下、上の本を下敷きにして「古事記」と「壬申の乱」を考えていきたい。 抜粋箇所(*印)は「鈴木治」先生の著書「白村江」に叙述されている文である。 * 藤原貞幹・・・・「素戔(盞)雄尊は辰韓(新羅)の主なり(衝口発)」と主張。「日本書紀」に記されてある「曽尸茂梨(ソシモリ)」を「新羅のソウル(蘇之保留)=首都」 ではないのか、とした。 「ソシモリ」は「牛頭山」の意味。彼は日本の牛の種類としての各地の「牛図」も描いている。「蘇我」氏の「蘇我」は漢文読みすれば、「われ、よみがえる」である。「蘇」の漢字を「大修館・新漢和辞典(昭和六十年四月一日・第四刷発行)」で調べてみると、その「蘇」は「762」ページに「艸+衡(コウ・ギョウ・かなあおい)」、「藷(ショ・いも)」、「蘂(ズイ・しべ)」の次に「蘇」が記されてある。「西暦762年」の中国史年表には「詩仙」と言われた「李白(太白)」と、「高力士(唐、玄宗皇帝の宦官)」が死んでいる。この年の日本史年表では「恵美押勝」が「正一位」をもらい、「石川年足」が死んでいる。翌年の「763」年には「唐招提寺」の「鑑真」が死亡である。これらの名前に示唆、教唆を見出すヒトは、その「漢字」の意味から「歴史」の「?」も考えるべきである。 「藤原貞幹」は寛政九(一七九七)年八月十九日死没、享年六十六歳の人物であり、最近になってその名前が知られるようになった人物であるらしい。 彼は仏光寺の僧侶を父とする京都出身の「町人」学者で、貧乏学者の境遇ながら、根っから学問好きと、今も京都寺町御池下ルに「古書肆を構える竹苞楼」の二代目主人など多彩な師匠・交友関係にも恵まれ、様々な分野にわたる多くの著作を遺した。 学問内容は、「日本古代史」ないしは「古代文化」の研究、及びその根拠となるべき各種の史料すなわち和漢の古文献と考古学資料との両面にわたる基礎的研究で、併せて歴史研究における実物資料の重要性を早くも表明するなど、その先見から「日本考古学の鼻祖」と位置づけられているらしい。 天明八(一七八八)年に焼失した御所再建の拠り所となった大著「大内裏図考証」(裏松固禅編)の編纂に助力があった。 私の有する「人名辞典」にはなく、インターネット上で知りえたことは、寛政七(一七九五)年の、「水戸藩」の「史官・総裁・立原翠軒」らによる大日本史編纂のための関西方面史料調査での、貞幹の活躍ぶりを記録する貴重本(翠軒自筆)上京日録は、同志社大学学術情報センターにあるらしい。 日本古代文化と大陸文化との深い関わりを説いた著書「衝口発」(書名は、黙っておれるかい、というぐらいの意味)は、かの「本居宣長」の反論を招き、やがて「上田秋成」をも巻き込んだ、歴史学の方法論に関わる論争にまで発展した、ようである。 洛東真如堂(真正極楽寺)に程近い墓地に「貞幹」の墓碑があるらしい。 だが、彼に関しては「歴史資料的な偽作・贋作」もしたと言われている人物らしいのだ。
私は「偽作の内容」は詳しくというよりも、ほとんど知らないが、過去の「文献」に対するインターネット上の「偽作」とか、評論雑誌の「偽作批判」を展開する研究者はもう少し「常識的な視点」を変えて、その「偽作」からナニかを得るべきモノがあるハズ、と考えるコトも必要じゃないのか、と思うのだが。 異言語に於ける「同音」に対する「こじつけ」は「同音」であるがゆえに読む者、聞く者にその意味的関連性は「ナイのか?」と疑問を起こさせる第一要因で、ごく自然なモノである、と思うのだ。学者や、研究者はハナから「ソレ」を「常識的」に否定する。だが、同音の文字音声、「A」=「エィ」≠「絵意・詠・嬰・英・衛・頴・娃・重意」が意味そのものの「A」≠「エィ」ではないが、その意味「A」≠「エィ」は、「関連性アルモノ」として「A」≒「エィ」の意味がある、と「コジツケ論者」は言いタイのである。「関連性」が言われた時点で、「A」と「エィ」が一人歩きをしだすのだ。「日本語」への漢字の「当て字」はまさに逆な意味で「同音・同意」のソレである。 「隋書倭人伝」・・・「随所(随処)倭人伝」?・・・・鈴木治先生はこの「隋書」が「小野妹子」が送ってきた「斐(裴)世清」の報告が基礎であるから正しい、としているが、本当か?・・・現にこの著書(白村江)に記されている「斐世清」の「斐」が「裴」の漢字と違う。「印刷ミス」か「意図的な文字」か?・・・これは同類異字の「斐分・斐文」の示唆とも思える。この記録者が「倭」を「妥(イ+妥)」としたのならば、尚更怪しい。「倭」が「矮小の意味」であると考えるのも「?」である。 最近読んだ中国史を借りて「小説」にしている小説家の随筆の文章に「蘇」は「邪鬼のコト」であるとあった。その意味する出所は記していないが、コレ、彼が蘇をデフォルメした想像なのか、どうか、だとするならば「蘇=邪気」、「蘇=邪記」である。そして「邪」が「ヤ(倭)」と考えるのも「?」である。もとは「邪(ヤ)」は「祁(キ・ギ)」の漢字であったのを改めた、との説(邪馬台国論争終結宣言・山形明郷著・発売所株星雲社・1995年5月7日発行)がある。「邪馬台国」に興味のあるヒトは読むべき価値はあると思う。この著書の176~177ページから抜粋すれば、 「至邪馬臺(壹)國『邪』各本譌『祁』拠冊府元亀九五七改」・・・梁書巻五十四諸夷傳・校勘記 ↓ 邪馬臺国に至るの「邪」は各本「祁(キ)に譌(たが)う。冊府元亀957(西暦1013年)」に拠って改める。 ↓ 「冊府元亀」とは北宋の真宗の大中祥符六年(西暦1013年)に詔をくだされた「王欽若」が歴代王朝の君臣の事跡を編纂したもの。 ワタクシは「国家」を考える上で「邪馬台国論争」を終結させたくない、とは思うが、「山形明郷」氏の研究では以上の指摘がある。 これは逆にこの【「邪」は各本「祁(キ)に譌(たが)う。】の「記録」ジタイが「付与」された怪しい記録なのカモも知れない。 とにかく、この記録が事実だとするならば、漢和辞典を調べれば 「祁(キ・ギ・おおいに・さかんに・はなはだ)」 の熟語に「祁山(キザン)」があり、「甘粛省西和県の北西にある山」で、ここは「諸葛亮孔明」が「魏」と戦った場所、とある。平仮名で記されている「おおい」は「多い」の意味だが、「覆い・被い・蔽い・蓋い」で、「大井・大飯・太井」で、「太意」、「タイ=大意・対意・他意」、「タイ=鯛・体・帯・胎・台・戴」カモ・・・「さかん」は「盛ん」の意味だが「左官・佐官」で、「割かん」カモ。魚(まな)を調理するときには「魚(さかな・ギョ)を割かん」とする。「はなはだ」は「甚だしい」の意味だが、「花(華)肌(葉だ・波田・羽田)恣意(示威・思惟・四囲)」である。「四囲」は「四方を囲む」意味で、包囲、国境でが、日本語では「囲=圍」は「かくまう・(妾を)かこふ・かこひ」の意味である。中国語の意味の一つに「囲(かかえ)」とヨマセテ、「樹木の外側を測る単位」とある。なるほど、これは「キギ(記義・記戯)の(ガイソク)概則・我意促・画意捉」カモ・・・。 西暦「1013」年には「李建中(946~1013)」死亡の記事があり、「源氏物語」の作者「紫式部」は「1014~1016」年ごろ死没と言われている。「1013」にこだわれば「壱千壱拾参・千十三・千拾三」で、「撰(セン)、拾(ジュウ)、纂(サン)」・・・「13」とは「邪馬台国」の「宗女・壱與」が「卑弥呼」の後を継いだ「年齢」である。日本史の「1013年」は「三条天皇」の時代で、「長和二年」でその6月に「大納言を五人置く」の記事がある。・・・1019年には「女真人」が「対馬・壱岐・肥前・筑紫」に「入寇(刀伊の賊)」の記事である。 私が妄想すれば「妥(イ+妥)」は、「人(ひと=ヒト[卑都]・ジン[壬]・ニン[認・妊])の妥協」の示唆である。 「白村江前夜」 *斎明天皇二年、四年の「阿倍比羅夫」の東北蝦夷遠征・・・・比羅夫自身が今日の伊賀上野にある「阿閉神社」を中心にする、大和の東方山中に番居した蝦夷の大集団のボス。 蝦夷・・・「津軽(都加留)蝦夷」、「麁(あら)蝦夷」、「熟(にぎ)蝦夷」 *斎明天皇五年(659)七月、「唐の高宗」にも遣唐使「坂合部石布」等が男女二人の「蝦夷」を謁見させた。 日系唐人の「韓智興」の「兼(イ+兼)人=ともびと=兼従人」の「足島」の密告で遣唐使等は長安(西安)に移され幽閉された。 この「日系唐人の韓智興」は前回の遣唐使帰国の際に同伴してきた唐のスパイであったらしい。その家来の「足島」が密告したのだ。「傔(イ+兼)」の熟語に「傔仗(ケンジョウ)」があるが、国語の意味は「中古、鎮守府将軍・大宰帥・按察使など、辺境の役人につけられた護衛武官」とある。「大宰帥」とは九州「大宰府の長官」であった。「傔仗」とはその「武官」である。音でヨメば「韓智興(カンチ・コウ、キョウ)」、「足島(ソクトウ)」であるが、彼等の名前に「謎」はないだろうか?「カンチ・キョウ」と「ソクトウ」の同音異字はかなりアル。 カンチ・・・感知・関知・完治・寒地・奸智・閑地・換地・奸知・監置・・・漢字・巻知・鴈時 この「密告」の内容は定かではないが「朝鮮半島情勢をめぐってのモノ」だったらしい。鈴木治先生は既に「大和」はこの時点で「対唐戦争」の偵察の為の遣唐使だった、と考えていらるらしい。 斎明天皇六年(660)に唐は「唐+新羅」同盟により将軍「蘇定方」を「熊津大総督」として百済に進攻。新羅は「金臾(广+臾)信」を将軍として進攻。敵する百済将軍は「皆(土+皆)伯」は戦死。百済の「義慈王」以下、皇子十三(13)人、臣下が降伏捕虜となった。 この作戦終了後の八月に遣唐使等は帰国を許された。翌年の正月出帆、途中「耽羅王子・阿波伎(あわき)」等九人と帰国。 天智天皇二年(663)八月 「白村江」で「倭の水軍完敗」 天智天皇三年(664)5月「百済鎮将・劉仁願」の派遣使者「朝散大夫・郭務宗」の来日。文官30人、百済「佐平・禰軍」等の兵員100余人が対馬に。コレに対して「大山中・采女・信侶」と僧「智弁」を派遣(室町時代の善隣国宝記・周鳳)。十二月帰国。 新羅「文武王」と百済「熊津都督・扶余隆」が和親。 十月四日「郭務宗を発遣(京へ)」。中臣大臣(藤原鎌足)に命じて使者を接待。十二月十二日帰国(日本書紀)。 天智天皇四年(665)七月二十四日「朝散大夫・沂州司馬・上柱国・劉徳高」、「郭務宗」が対馬へ。九月二十日筑紫へ。十月十一日難波から宇治で閲兵式。十一月十三日賜宴、十四日賜物、帰国。 唐年号「麟徳二年(665)」には、 泰山を封ず、仁軌、所領の新羅、及び百済・耽羅・「倭の四国」の酋長を領して会に赴き、高宗甚だ悦ぶ、懼んでて大司憲に拝す(唐書・劉仁軌傳) とあり、「倭の四国の酋長」とは「劉徳高」等帰国の際に随伴した日本人の「守君大石」、「坂合部石積」、「吉士岐彌」、「吉士針磨」であるらしい。 天智天皇は百済人「答火(火+本)春初」、「憶礼福留」、「四比福夫」に城を築造させた。 天智天皇六年十一月九日~十三日「熊津都督府・熊山県令・上柱国司・司馬・法聡」 天智天皇八年「郭務宗」等、2000余人 天智天皇十年正月~七月「唐人・李守真」、及び百済使者。 十一月~翌年五月「大唐・使人・郭務宗」、「送使・元百済人・沙宅孫登」等、2000人、船47艘。「比知島」に停泊。 十二月三日、天皇崩御。 この天智天皇の崩御に対して「扶桑略記」と、「帝王編年」の記録には「天皇変死」が記されている。「暗殺」である。 「壬申の乱(弘文天皇元年・672)」・・・「天武天皇元年・673~天武十三年(685・乙酉)」・・・「朱鳥元年・(686・丙戌)・九月・天武天皇死没」、「扶桑略記」は「673年=白鳳元年」とし、「685年=白鳳十三年=乙酉」としている。 「壬申(ジンシン)」は干支番号「甲子(一番目)」から数えて「9番目」であり、「乙酉(オツユウ・イツユウ・オトユウ)」は「22番目」である。「丙戌(ヘイジュツ・ヘイシュチ・ヘイシュツ)」は「23番目」であった。 穿って考えれば「扶桑略記(フソウリャクキ)」の同音異字は「伏そう・臥そう・付そう・附そう」の「掠記・理訳記」である。「13」は「卑弥呼」を継いだ「壱與」の年齢である。「9(句)=人心」、「22(二重似・二重爾)=何時結」、「23(二重纂)=併述」である。 *天武天皇に宇陀の吾城、甘羅で従った「美濃王」は「美濃の国司」ではなく、筑紫太宰の「栗隈王(敏達天皇の曾孫・難波王の子供)」の王子で、「武家王」の兄である。 「第30代」の「敏達天皇(渟中倉太数珠)」は「欽明天皇」の子供で、母は「石姫」であった。彼の皇后は「第33代」の「推古天皇」であった。ここは「30」と「33」の数字と、「石」の音訓にも拘りたい。 「日本書紀」に「七箇所」も記されている「美濃王」、「三野王」、「美努王」、「彌努王」は同一人物である。 美努王 ┌ 葛城王(橘諸兄) │ │ ├───├ 佐為王 │ │ │ └ 牟漏王 橘三千代 │(父親は縣犬養大伴) │ ├───光明皇后 │ 藤原不比等 「橘三千代」の父親が「縣・犬養・大伴」であるとは「顕揚、険要、兼用」の「大伴・大友」の示唆だ。 美努王の死を悼んだ挽歌がなぜか、「万葉集」の「十三(13)」にある。 百小竹の、三野の王、西の厩、 立てて飼う駒、東の厩、 立てて飼う駒、草こそはとりて飼うがに、 水こそは 邑(手+邑=く)みて飼うがに、 何しかも、 葦毛の馬の嘶え立ちつる 反歌 衣手葦毛の馬の嘶ゆ声、 情あれかも常ゆ異に鳴く *近江王朝の「山部王」と「羽田矢国」の裏切り。「羽田矢国」は「天武十三(13)年」に「真人」姓を賜った。