「アベ・マリア」・・・「シバの女王」・・・後祭り
「聖母・アベ・マリア」・・・「シバの女王」 (*文中の歴史的な内容はホトンドが「ウイキペデア百科辞典」からの「支離滅裂」に思いつくまま、索引、引用したモノで、勝手に参考抜粋したモノを更に私の妄想思考回路に合わせて「改作」してあります。悪しからず・・・ご容赦・・・) 「女王の系図」・・・「アマ・そ・ネ・ス」→「海人・海部・海士・海女」の祖子(根)の州 尼→阿武(則天武后) 阿毎王朝→阿倍・阿部・安倍・阿部・安陪 中大兄皇子─鸕(鵜)野讃良=持統天皇←卯(ボウ・う)・兔(ト)←母は蘇我
落智娘
│
落智の地名は吉備岡山 │ 安芸=秋津島=広島=厳島←居付く嶋(揣摩) │ │ 唐王(周王朝・則天武后=子・鼠)朝から派遣された人物 │ ↓則天武后の父は「武士獲(尋+艸+隻)」で材木屋 │ ↓ 母は楊氏で、「楊」氏とは │ ↓ 「猿の拉致」から生まれた「子孫」 │ ↓ │ 劉仁軌←辰(シン・たつ)・龍(リュウ) │ 劉仁願 │ 劉徳高 │ 郭務悰←則天武后の妹の夫は「郭素慎」 │ 蘇定方・・(唐)・百済征討派遣(660)唐将軍、 │ 「神丘道行軍大総管」 │ 百済を滅亡させた後に帰国したが、 │ 高句麗、百済残党が │ 国家再興を謀り戦闘を継続したので、 │ 再度高句麗征伐の為 │ 「遼東道行大総管」として派遣された │ │ 阿閇(阿部・阿閉)皇女=元明天皇 │ ├───軽皇子=文武天皇─聖武天皇 │ ├───氷高皇女=元正天皇 ├─草壁皇子─文武天皇─聖武天皇─阿倍皇女=孝謙・称徳天皇 │ ├───吉備内親王←(吉備真備) │ ├膳夫王←(高橋) │ ├葛木王 │ ├鉤取王 大海人皇子─高市皇子├───長 屋 王 ←(おさ=訳語哉) │ ├鈴鹿王│ │ │ │ ├山背王 │ │ ├安宿王 │ │ 長我子媛 中大兄皇子├大友皇子 │ │ │ ├──桑田王 │ │ 石川娘 │ ├─施基皇子 │ │ 大友皇子 │ │ 鏡 王 │ │ │ 額田王 │ │ │ ├─── 十市姫←(壱拾壱・鯛中文) │ │ │ │ │ 大海人皇子←寅(イン・とら)・虎(コ) │ │ │ │ │ ├───大津皇子 ├───────太田皇女 │ ├─大伯皇女 ├─阿閇(阿部・阿閉)皇女=元明天皇←母は蘇我姪娘 │ 草壁皇子=岡本宮←吉備(岡山) 長 屋 王 ←(おさ=訳語哉) │ ├─黄文王 │ 藤原不比等─────長我子媛 ←(おさ=訳語ワガ子ヒメ) ↑ ↑↓ ↑ 「長(おさ)」とは何か?・・・「ナニ(名似)」である。 ↑ ↓ ↑ 安土桃山時代の四国の覇者は「長宗我部」だった。 ↑ ↑↓ ↑
↓
蘇我蝦夷・馬子←蘇我=ソガ=曾我→曽我兄弟 ↑ ↓ ↑ ↓ ↑ ↓ 「曾我・曽我」兄弟の仇討ちは、 ↑ ↓「建久4年5月28日(1193年6月28日)」、 ↑ ↓「源頼朝」が行った富士の「巻」狩りの際に、 ↑ ↓「曾我祐成」と「曾我時致」の兄弟が父親の仇である ↑ ↓ 「工藤祐経」を討った事件。 ↑ ↓ ↑*「安=ウ+女」+「土=十一」+「桃=木+兆」+「山=凵+|」 ↑ 安堵倒産・夜須通知等纂→安堵(暗度)を問う纂 ↑ ↑ 四国土佐の「長宗我部」とは? ↑ 「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」は、 ↑ 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で ↑ 土佐国の七豪族の一の土佐国の戦国大名であった。 ↑ 長宗我部氏第二十代当主「長宗我部国親」の ↑ 長男で、第二十一代当主。 ↑ 母は美濃「斎藤」氏の娘。 ↑ 正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 ↑ 長宗我部氏(ちょうそかべし)は、 ↑ 平安時代末から戦国時代の武家であった。 ↑ 本姓は ↑ 「秦(はた・シン・うずまさ=太秦)」氏を称した。 ↑ 長曽我部・長曾我部とも記 される。
室町時代以降、通字に「親」を用いた。 ↑ 土佐一国に減封され豊臣政権に臣従。 ↑ 戦国時代に土佐を統一し四国に進出し ↑ 「長宗我部盛親」の代に
「関ヶ原の戦い」に西軍として参戦・敗北し ↑ その後、盛親は、 ↑ 慶長19年(1614年~同20年1615年) ↑ 大坂の役で豊臣方につくが、敗北し ↑ 盛親、子らも斬首され直系は絶えた。 ↑ 元親の甥、 ↑ 吉良親実(元親の弟・吉良親貞の子)
の子孫は 肥後藩に仕え、 ↑ 同じく香宗我部親泰の子・貞親
堀田氏に仕えたとされる。 ↑ 傍系の一族は他家に仕えるか帰農した。 ↑ この際、 ↑ 「島」姓等他の名字に改姓し、 ↑明治にいたって長宗我部姓に復した者も多い。 ↑元親が晩年伏見屋敷に暮らしているとき、 ↑婢女が彼の子を孕み、生まれた子供がいたという。 ↑名を「信九朗康豊」といい、
生母の実家で幼少期を過ごした後、 ↑滅亡した主家を再興すべく兄盛親が
大坂城に入城したのに続き、 ↑ 大坂冬の陣、夏の陣と参陣した。 ↑ 大坂城落城後はつてを頼って駿河に落ち延び、 ↑ その後酒井家に登用され、 ↑ 長宗我部家の血を続かせたらしい。 ↑ 「由井正雪」の片腕といわれた ↑ 「丸橋忠弥(長宗我部盛澄)」は、 ↑ 長宗我部盛親の子孫と称していた。 ↑ 長宗我部氏の拠った ↑ 土佐国長岡郡 ↑ 宗我部郷の名が古くより ↑ 「宗部」・「曽加倍」 と記載される、 ↑ 氏の名も「長宗我部」・
「長曽(曾)我部」の両方が用いられる。 ↑ 家紋は ↑ 「七つ酢漿草(かたばみ)」。 ↑ 家紋カタバミ(片喰、酢漿草、
→「酢=酉+乍」・「漿=将+水」 ↑ 学名=Oxalis=オキザリス・オキサリス) ↑ ↑ ↑ 置き去り素・置気座李州・沖座の
理素(栗鼠=立素) ↑ 栗鼠=西木臼爪(レ:レ:レ)尾(瓜の蔕) ↑ 西の記のゼウスのシ(つめ・うり) ↑ 唐王朝の創成期に ↑ 「長孫無忌」と言う人物が存在した。
(生年不詳~659年)。 ↑ 唐の 太宗の「長孫皇后」の兄であり、唐朝の
戚に当たる。 ↑ 「長孫无忌」とも書かれる。字は輔機。 ↑ 隋の右驍衛将軍 ↑ 「長孫無忌(ちょうそん むき)」、「長孫晟」の 子として生まれた。 ↑ 長孫氏は、 ↑ 「拓跋鬱律」の ↑ 長子の ↑ 「拓跋仁」を祖とする一族であり、その子の ↑ 「嵩(コウ・かさ)」のときに長孫氏に改姓した。 ↑ 北魏の ↑ 「道武帝」により宗室の長とされた。 ↑ 617年、唐の高祖李淵 が太原で起兵して長安
を奪うと、 ↑ 「長春宮」で謁見を受けて、渭北道行軍典籤
に任じられた。 ↑ 「李世民」の征戦に従軍した
「長孫無忌(ちょうそん むき)」は、 ↑ 比部郎中に累進し、上党県公に封ぜられた。 ↑ 626年の ↑ 「玄武門の変」のとき、 ↑ 房玄齢、 ↑ 杜如晦らとともに襲撃の計画。 ↑ 李世民が皇太子となると、その功績により、 ↑ 太子左庶子に昇進。 ↑ 太宗の即位後、 ↑ 左武候大将軍となった。 ↑ 627年、吏部尚書に転じ、功績第一として ↑ 斉国公に進封。 ↑ 同年に尚書右僕射となった。 ↑ 649年、太宗の臨終にあたって、 ↑ 「李治=高宗」の後見と輔政を託された。 ↑ 高宗が即位すると、 ↑ 太尉に進み、中書令を検校し、
門下省と尚書省を領知した。 ↑ 三人の子はみな朝散大夫となった。 ↑ 武昭儀(武則天)が高宗の男子を産み、 ↑ これを皇后に立てるか、
どうかの議論が起こったが、 ↑ 長孫無忌は「武氏立后」に反対し、
高宗に諫言したが ↑ 高宗に聴きいれられなかった。 ↑ 655年に「武昭儀」が皇后として立つと、 ↑ 657年には ↑ 褚遂良・来済らが謀反を誣告されて左遷。 ↑ 659年 ↑ 許敬宗が ↑ 李奉節らに指示して「朋党事件」をでっちあげ、 ↑その黒幕を長孫無忌ということにして高宗に訴えた。 ↑高宗は許敬宗の ↑弁舌に説得されてしまい、長孫無忌の官爵を削って ↑黔州(貴州省)に流刑。 ↑許敬宗や李義府がさらにかれの謀反を訴えたため、 ↑長孫無忌は配所で首を吊って自殺した。 ↑674年になって、官爵をもどされ、 ↑孫の長孫元翼が爵位を継いだ。 ↑長孫無忌は、「唐律疏義」 や「隋書」の編纂者。 ↑長孫無忌は、学問を好み、文章や史書に通暁した。 ↑本貫は河南郡洛陽。 ↑ ↑ 「長孫皇后」は、隋の右驍衛将軍 ↑ 「長孫晟」と「高氏」のあいだの娘として生まれた。 ↑ 609年、長孫晟の死亡後、母方の伯父の ↑ 「高士廉」を頼った。 ↑ 613年、 ↑ 13歳で唐国公 ↑ 李淵の次子の ↑ 李世民の妻と なった。 ↑ 618年、唐が建国されると、 ↑ 秦王妃に立てられた。 ↑ 626年、 ↑ 「玄武門の変」後に皇太子妃、李世民が即位すると、 ↑ 皇后に冊立。 ↑ 太宗との間に三男四女をもうけた。 ↑ ↑藤原(中臣←長登美)鎌足の次男→金を兼る足、
氷を欠く田の力→登美の那賀須泥毘古(古事記) ↓ 坤(西南・未申)を兼ねる亜史、彪をカク、タのチカラ
羊猿=ヨウエン=妖艶・遥遠・遙遠 洋々敷衍→衍(彳+氵+亍)→中州→汀≠汗≠行 「彳=左足」+「氵=水」+「亍=右足」 中のサンズイを左右のアシで歩く ミズのナカを左右のアシで挟んで歩く 左右のアシ辺の中のミズの流れ 「中州の嶋」は「横島(よこしま)」と呼ばれたカモ・・・「横島」は浅瀬を挟んだ陸地に近接しているので、この河川、海岸の「湖沼、沼地・泥地」を「干拓・拓殖・干潟」し、土地を広げる「埋め立て」事業の対象地である。「潟」とは「水の渇水」だが、「潟=氵+臼+一+勹+灬」で漢字が異なる・・・「写す」の旧漢字は「寫=ウ+臼+勹+灬」である。「ペスト(黒死病)」、「コレラ(虎列刺)」の激しい下痢を「瀑瀉」と記した。「瀉」は水を注ぐ意味だが、「土砂降りの豪雨」、「大津波の押し寄せる濁流、激流」であるかな・・・春に芽吹く草、「雪ノ下」は「虎耳」の漢字が当てられている。砦の濠に仕掛ける罠の「もがり・竹矢来」は「虎落」。「虎杖」は「蓼のイタドリ」である。幼児用の便器の「おまる」は「虎丸」であった。シャワレットの水洗ではイメージも出来ないだろうな、「トグロを巻いた黄色いウンコ」・・・ 「夏目漱石(1867.2.9~1916.12.9)」・本名「金之助」。 筆名の 漱石は頑固者という意味の故事「漱石枕流」から来ている。 「夏目」は漢字の意味からすれば「夏の時期」だろうが、 漢字分解では「頁+攵+目」で、 「なつめ」ならば「棗(なつめ)=棘・朿+朿」で、「トゲが二つ縦に重なる」である。 「漱石枕流」 『晋書(しんじょ)』孫楚伝(そんそでん)「漱石枕流」 ◎漱石枕流のごとき言い訳漱石枕流 故事 中国西晋せいしんの孫楚(そんそ)は 「石に枕し流れに漱くちすすぐ」 と言うべきところを、 「石に漱ぎ流れに枕す」 と言ってしまい、誤りを指摘されると、 「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ」 と言ってごまかした故事から。 楚少時欲隱居。 謂濟曰、當欲枕石漱流、誤云漱石枕流。 濟曰、流非可枕。石非可漱。 楚曰、所以枕流、欲洗其耳。所以漱石、欲厲其齒。 楚 … 孫楚。西晋の文人。 済 … 王済。西晋の文人。 以上を踏まえて・・・次に展開・・・「アベ・マリア」&「シバの女王」・・・バァちゃん、トシをくった「おんな」ってスゴイ、ねッ!! 1 「天武天皇」なる人物は存在しなかった。 「天智天皇」死亡後に存在したのは 記録上に「天武天皇」とされていたのは「唐人」の「郭務悰(忄+宗)・劉仁願」である。 「劉仁願」の姓名は「日本書紀」の記録にあって「中国」の記録には無いの何故か? 「中国姓」の「郭」とはだれか? 「則天武后」の縁戚である。 「持統天皇」はこの「郭務悰(忄+宗)」、あるいは 「劉仁願」と婚姻関係、縁戚関係になっていたのだ。 「持統天皇」の母親は「蘇我落智娘」で、吉備に関係する 「吉備内親王」は「草壁皇子」と「阿閉皇女(元明天皇)」の皇女で 「長屋王の妃」であった。 「持統天皇の孫」で「文武天皇」、「元正(氷高皇女)天皇」と 「元明天皇」を母親とする姉兄の妹。 「吉備内親王」の名前を有する人物は「吉備真備」である。 「郭務悰(忄+宗)」は「托卵」の渡り鳥、「郭公=不如帰」である。 「劉仁願」は「龍神の願い」である。 「龍神」は「留まるコトを願った」のだ。 場所は「笠」の字が付く所で、「竜田神社」である。 「笠沙」は「鹿児(かご)島の地名」だが、 「カゴ」の同音異字「籠・篭・駕籠・駕篭・加護・歌語・過誤・かご」である。 「籠の中の鳥」とはメーテルリンクの「青い鳥のチルチルとミチル」だが、 童話の 「モーリス・メーテルリンク・1862年8月29日~1949年5月6日) は 、 ベルギーの詩人、劇作家、随筆家。 正式名はメーテルリンク伯爵 モーリス・ポリドール・ マリ・ベルナール (Maurice Polydore Marie Bernard, comte de Maeterlinck)」 である。 この「白耳義(ベルギー)」人は「712年代の人物」ではない ・・・だが、「メーテル(芽重出留・女重鵜留)」に「リンク(輪句)」である・・・ 「笠沙=かささ=加佐作(査)」ならば、「かさ」とは「数量の差」であり、 「笠差懸・数量懸」で、同音地名の場所の示唆であり、 円形の「雨傘・唐傘・天笠=天蓋」を広げれば 「加佐・葛西・河西・笠置・笠戸・ 笠原・笠野原・笠間・笠松・笠利」で、 「暈」が「太陽・月」に懸かる輪で、 「嵩」が中国五山の一で、漢の「武帝」が登ったとされる 「嵩山=高山」で、異名が「外方・太室」ならば 「鞆の浦」がある 「吉備」の「笠岡」である。 「か-さ-さ-ぎ=笠鷺(?)」とは、「さだまさし」が歌っている歌詞のタイトルである。 「サギ(鷺)は、コウノトリ目サギ科 (Ardeidae) に属する鳥類の総称で、 水鳥の仲間である。「雪客(せっかく)」という異称もある。 「羽が白いダイサギ(アオサギ)・ゴイサギ・チュウサギ・アマサギ(アマサギ
は冬羽のみ白)は 白鷺(しらさぎ)と呼ぶことがある」らしい。 「水田や湖沼などで、魚、両生類、ザリガニ、昆虫などを捕食する」とは 「トンボ」も幼虫の「ヤゴ」も捕食される、と言うことだ。 聴いた事がないけれど、鳴き声は「ゴァー」であるそうだ。 英語の鷺は「ヘロン(heron)」。 「詐欺・詐欺・嘘」は「フロード(fraud/lie)」 「鷽(うそ)=ブルフィンチ(bullfonch)」と言う鳥もいる。 「白鷺城」は「007・ジェームス・ポンド」が乗り込んでいった「陰謀者の棲家」であった・・・ 「姫路城」は「千姫」が嫁いだ「白鷺城」の別名である。場所は「播磨の国」である。 「はり(針)の間」は「裁縫の部屋」であるかな・・・ 「播磨」は「ツガイ(番)の手の技をみがく」だろう。→磨・研・漱・ミガク 「千姫(せんひめ)・天樹院」だが、「千(セン・チ)の秘め」である。 「ウソ(嘘)を言ったら針、千本、呑ます」である・・・ 「伏見城内」の徳川屋敷で産まれたのだから・・・伏せられた秘密を見る、である。 慶長2年4月11日(1597年5月26日)~寛文6年2月6日(1666年3月11日) 七歳で豊臣秀頼と結婚。 大阪城落城後、 秀頼と側室の間の娘、 「奈阿姫 (天秀尼)」が処刑されそうになった時、養女にして命を助けた。 元和2年 1616年 桑名藩主・本多忠政の嫡男・ 本多忠刻と結婚。 この時、 津和野藩主・ 坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画が発覚し、 直盛は自害(家臣に殺害)、坂崎氏改易処分となった。 同年9月26日に桑名城に到着。 この時に10万石の 化粧料を与えられた。 翌年の 元和3年(1617年)、 本多家が 播磨姫路に 移封になった時には8月28日に 桑名を発って姫路城に移って 播磨姫君と呼ばれるようになる。 元和4年(1618年)には長女・勝姫( 池田光政正室、 池田綱政生母)、 元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。 元和7年(1621年)に 幸千代が 3歳で没したのを始め、 寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・ 熊姫、母・江が次々と没し、 本多家を娘・勝姫と共に出、江戸に戻った。 以上は「白鷺城=姫路城」のハナシであった。「本多」家には「本が多くある家」・・・「図書館」と考えて欲しい。 以下は「鳥類百科図鑑辞典」からの抜粋だが、「持統天皇=鸕(鵜)野讃良」が「鵜飼の鵜(鸕)」であるならば「鳥類の種類分類と生態説明」が「古事記・日本書紀」の「人物の履歴、傾向の説明」である。 ↓ 「アオサギ」は優雅な姿をしているが、意外にも攻撃的で神経質な鳥で、餌場では羽毛や飾り羽を逆立てて他の鳥を威嚇して追い出すことがよくある。特に獲物が共通する。ダイサギなどのサギ類には容赦なく攻撃をしかけて執拗に追い立てる。 また、獲物に対する執着も強く、他の鳥から獲物(主に魚類)を奪って捕食することが見られる。 ミサゴなどの猛禽類や、時にはツルやコウノトリなどの自分よりもはるかに強大な相手でも付け回して隙があれば横取りする。 「ゴイサギ」は 「平家物語(巻第五 朝敵揃)の作中において、 醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっている 。 また、能楽の演目「鷺」はその「五位鷺伝説」に由来するものである。 夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから 「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。 「チョウサギ(ノニム:英語)」は田植え前の田、休耕田など比較的乾いた場所で、主に「飛蝗(バッタ)」などの昆虫を捕食する。「バッタ」は「飛ぶ虫の皇帝」なのだ。 「アマサギ」は動物食で、主に 昆虫、クモなどを食べるが、魚類両生類、小型爬虫類、甲殻類なども食べる。 大型の草食獣の背中に止まり、 寄生虫を採ることもあるので、「共生関係」の例に挙げられることもある。 英名「cattle」は「ウシ」の意で、ウシなどの家畜が移動する際に追い立てられた獲物を目当てに後をつけることが由来。日本語で「うし・ぬし」は「主人」である。 「コサギ」は「鷺と葦」(鈴木春信・画、18世紀)に描かれているのが「ウイキペデア百科辞典」には貼り付けられていた。江戸時代である。 「カサ・サギ」の説明が「鳥類百科辞典」にはない。 「白鷺」は「七月七日」は七夕(たなばた)だから、「織姫(七夕津女)」と「彦星(牽牛)」のデートを助けるため、満天の星の散らばる夜空の「晴朗」の「天の川」に架かる「橋(半円・⌒・レインボー的形状・七色虹虹形・アーチ型の高橋)」となり、「雨(雨天)」の日であっても、「笠・傘・蓋」を天の川に差す役目もするのだろう。「七色の虹(にじ)」とは「七種の龍」でもあった。龍の雄(牡・♂=火星)が「虹=虫+エ」で、龍の雌(牝・♀=金星)が「蜺=虫+臼+儿」である。 ・・・「乞巧奠(酋+大)・天平勝宝七年(755年)七月七日、七夕の初主催者は孝謙天皇・・・・キッコウデン・・・「拮抗伝・亀甲伝・吉向伝・記通項伝」・・・乞交典・・・「現存・古事記」は「たくみ」→「匠・工・巧・技・伎・業」で、話差、「琢己・卓美・卓巳」で「拓海=干拓の海・干潟のウミ(湖沼)」でもあるかな・・・ 「壬申の乱」の「人身・人臣・人心」の説明は 「邇邇芸命」から「火遠理命」までのハナシの内容である。 「鰐=和邇」とは「海神=龍神=劉仁」で、 「猿女=宇受女君」とは「鸕(鵜)野讃良=持統天皇」である。 2 「天皇」は中国太古の「三皇」である「天皇・地皇・人皇」で 「天地人」の支配領域の「皇帝」である「天の神・天界の神」である。 「天の時・地の利・人の和」を司る「皇帝=神」である。 「天皇」は中国では唐の「高宗」に唯一冠せられた。 「天皇」は天体の「紫薇園に存在する皇帝の称号」であった。 「紫薇垣(園・苑)の天皇」が夜空の「星座の天帝」ならば、 星座を祭るのは「巫女(斎女)」である。 日本では「巫女である女性」に冠せられるモノであったハズだ。 「天皇」の称号が冠せられた存在はこの時期は 「皇極=斎明天皇」・「持統天皇」である。 「壬申の乱」とは 「大友皇子(唐・百済)」と 「高市皇子(唐・新羅・高句麗)」の確執である。 そして 「隋残党軍」の海軍(水軍) 「陽侯氏(煬帝=広)・呉(くれ・秋津=安芸津・厳島)」の 「日本亡命一族」 と、 「唐派遣軍」の海軍(水軍) 「劉仁軌・劉仁願・劉仁徳・郭務悰」一派の 確執 である。「陽侯(ヤコウ・ヨウコウ)」とは「とんぼ(蜻蛉・あきつ・蜉蝣)=陸生昆虫」の幼虫、「ヤゴ(水蠆=萬+虫)=水生昆虫」の示唆である。「陽炎(ヨウエン)」とは「かげろう」とも訓まれ、「蜻蛉」と同音の「かげろう」のヨミである。「水」の中の「萬」の「虫」であり、「水棲昆虫動物」である。「とんぼ」は「アキ」で、「やご」は「ハル」なのだ。天文学上の「彗星(スイセイ)=箒星(ほうきぼし)」とは「客星」の異名である。そして「辰星(シンセイ)」は「水星(スイセイ)」の異名でもある。そして、「ほうき星」の「ホウキ」の同音異字は「法規・放棄・宝器・法器・宝亀・芳紀・法喜」で、「宝亀年号」にある「蜂起」である。 「芳紀」とは婚期、年ごろを迎えた女の年齢であるらしい。年のころは「十八歳」を言うらしい。「よぉッ、待ってました。からおけ、オハコ、十八番ッ!」である。水底から水面の葦(蘆)の茎、葉に這い登ってヤゴがトンボに変体し、空中に飛翔する時期である。「芳紀」とは「丱+方+糸+己」で、「芳の紀の十八歳」とは「日本書紀・十八巻」か、「十八年の記事」、「壱拾八」で「イチを拾う八(捌)」をミヨである。「十八巻」は「安閑天皇紀・安閑元年(534)」、武蔵国造「笠原・直・使主」が同族の「笠原・直・小杵」と国造の地位を争い」であった。「安閑天皇元年(534年)、小杵は上毛野君( かみつけののきみ)小熊(おぐま)の力を借りて、使主を殺害しようとしたが、朝廷より地位を安堵された。「笠原直使主」は「横渟(よこぬ)」、「橘花(たちばな)」、「多氷(たひ)」、「倉樔(久良郡)」、さらに「久良岐(くらき)郡」の四ヶ所を屯倉として朝廷に献上した、とある。「笠原」の「笠(かさ)」は「リュウ」と音読みする。同音異字漢字は「龍・劉・隆・柳・粒・流・留・立」で、「こぶとり爺」の「瘤(こぶ)」も「リュウ」とヨム。ニキビやデキモノ、「種痘・疱瘡」、掠り傷のアトに出来るのは「ガンベ」で、「傷瘡(かさ)」であった。 「宝亀(ほうき、正字体:寶龜)日本元号」とは、「神護景雲」の後の年号で、「光仁天皇」即位に際して肥後国から相次いで「白亀」が献上され「宝亀元年(庚戌)」とされた。出来事は、 宝亀2(771)年、渤海使、出羽に来る。東山道、武蔵国を東海道に編入。 宝亀4(773)年、常平(物価調整)の法を定める。 宝亀11(780)年、陸奥国「伊治郡司、反乱」を起こす。 「宝亀の蜂起叛乱」とは陸奥(むつ)国の従僕、俘囚、夷俘の「伊治砦麻呂」が蝦夷征伐で「宝亀九年六月二十五日(778年7月24日)」に「上治郡」の「大領」となり「外従五位下」に叙される。その後、夷俘の「牡鹿郡大統」の「道嶋大盾」と対立。宝亀十一年(780年)三月二十二日に叛乱。伊治城で「道嶋大盾」、按察使「紀広純」を殺害。多賀城に攻め入った。陸奥介(カイ)の「大伴眞綱」と、陸奥掾(ジョウ)「石川浄足」は城の守備を放棄し、逃亡。 で、ナニをイイタイの、カ、ネっ、て?・・・十八番、オハコの同音異字漢字のコトバのかさなり、を・・・壱拾捌、つがい(番い)・・・である。 「阿部仲麻呂」は15才で唐に留学生として渡ったが、日本に帰国することなくその生涯を唐で終わった人物である。彼が「中国歴史書の改竄」者ではなかったのか。しかも「唐王朝=則天武后=周王朝」時代の・・・ 理由は単純で、彼は唐の「図書館長」になった人物だからだ。しかも「阿部」である。「阿部一族」は「隋の王族」の縁故で、宮廷水軍の「リーダー」であった。 「阿部仲麻呂」に関しては「古事記字源(2)」の別項、「阿部仲麻呂」をヨンで欲しい。 「隋王朝」は「運河」と「水軍」、「科挙」、そして「律令制度」の中央集権国家であった。 斉明天皇の時代の「倭水軍」の提督は「阿部比羅夫」であった。 「日本書紀」によれば「阿部」の古い「姓」は「布施」である、と記されてある。この「姓」に「謎」を託してあると私が考える根拠は単純で「布施(フセ)」の同音が日本語の「伏せ・臥せ・賦せ・付せ」であるからだ。では何故「布施」が「阿部」になったのだろう?「阿部」は「阿」と「部」からなっている姓である。「アベ」の漢字は「阿部・阿倍・安部・安倍・安陪」等がある。「部」、「倍」、「陪」の違いである。「部分」と全体の一部であるが、古代の「部」とは「豪族」に臣従する「私有民」で「職業集団」の「人々」である。「天武天皇」以後には「公民」となったとされる人々である。 「日下・部」 「物 ・部」 「弓削・部」 「斎 ・部」 「埴 ・部」 「服 ・部」 「綾 ・部」 「膳 ・部」 「海 ・部」 ↓ ↓ 「安 ・部」 「阿 ・部」 等の「かき・かきべ」で、漢字では「部曲・民部」の「部」であった。ならば「安部」は「安の部・阿の部」である。「阿部・阿倍」、「安部・安倍・安陪」とは誰の「私有民」であったのか・・・九州の「阿毎」一族か、中国唐の「阿武」一族である。英語の「A・B」は海軍である・・・ 音でヨメば「ベキョク・ブキョク」、「ミンベ・ミンブ」である。「私有民」の「部曲・民部」である。これを支配する豪族は「姓」と言うモノを称していた。 「姓」も「屍」も「かばね・しかばね」とヨマせている理由は何であろうか?天武天皇以前の「姓(かばね)」は、古語辞典(旺文社・新版)の訓読みで 私の註 ↓ 1・臣(おみ)・・・・・・・本来は「目」で監視、観察。上代では「使主」とも記す。 2・連(むらじ)・・・・・・連絡、連結 3・君(きみ)・・・・・・・「隋書」には「阿輩鶏彌」とあり「鶏彌」が「きみ(?)」 また王の妻も「鶏彌」と記されている 4・首(おびと)・・・・・・「首」は「トップのカシラ」 5・直(あたい)・・・・・直接、真っ直ぐ・・・中国北方種族「女真人」は「女直人」とも 6・史(ふひと)・・・・・「史」は記録・「記録」・「歴史=暦史」、「司馬遷」の「史記」である。 7・村主(すぐり)・・・・「おさ」ならば「長」で、「訳語(おさ)田(だ)」の「訳語」である。 8・造(みやっこ)・・・・「造作」だが「造」は「告示の道」だから「情報員」だろう。 9・県主(あがたぬし)・・・「県」は「懸かる」であるから「族長」・・・小地域の区長 等であり、「3・君」は第三位である。これらの「名称」は漢字の意味としても理解しやすい。これが天武13年(673~684・685・686=数字は天武13年の古語辞典の西暦年数記載の混乱によるモノ)以後は「ヤクサ(八色)のカバネ(姓)」となった。漢字を理解するならば「1・臣」が「3・君」の上位とは、矛盾する「順位」である・・・ これは、 古語辞典の説明 ↓ 1・真人(まひと・まっと・まうと)・・・皇族に与えられた ・・・中国北方には「女・真人」が存在した 2・朝臣(あそん・あそみ) 3・宿禰(すくね)・・・・・・・・・・・・・・「大兄(おほえ)」の対語、小兄(すくなえ)」の転 4・忌寸(いみき)・・・・・・・・・・・・・・「秦・漢・韓」の帰化人に与えられた 5・導師(みちのし)・・・・・・・・・・・・「天文官(私の説?)」 6・臣(おみ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・「目付け」で役人監視の役人(ここは私の説) 7・連(むらじ)・・・・・・・・・・・・・・・・地方官吏の長官 8・稲置(いなき・いなぎ)・・・・・・・・地方官吏の次官で、徴税官 と訓読みされているモノである。 「真人」の漢字を歴史的に見れば示唆する漢字は「女真人」である。「女真人」は「女直人」とも記録され、「金」、「満州」、「後金」、「清朝」を打ち立てた種族である。また「韃靼」、「渤海」とも記録されている種族だ。彼等は「ヌルハチ」が「大汗」の時に現在の中国「瀋陽」に都を得、その子孫たちの「汗(世祖)」が中国「明王朝」に万里の長城を超えて浸入し、「明王朝」を滅ぼした「李自成」の僅か数日の「順王朝」を滅ぼして「清王朝」を打ち立てた(甲申年・1664)のだ。滅亡した明王朝の「隠元」が「江戸幕府の日本」に亡命してきたのは「甲午年・1654」であった。その4年後の「1657年」に「大日本史」編集の史局が開設されたのだ。「日本書紀」には「渤海国」の使者が何度も「大和王朝」に来ているが、この「渤海国」とは将に「女真人」の国であった。この「韃靼=女真人」が何故「女・真人」の「女・直人」の漢字を与えられて、ソウ、中国王朝(明)から呼ばれたのか?・・・私の疑いはこれらの「漢字」にコソあるのだが。そしてナゼ、「天武天皇」が「真人」なのか・・・ ヨコシマな妄想だが、「八姓」制定前の「5・直」が「5・(女)直=女真」であるならば、「壬申の乱」以前の「天武の位」は「直」であった・・・? ここに「韃靼疾風録(下巻・1987年発行・中央公論社)」という「司馬遼太郎」氏の小説がある。その「96ページ」から抜粋してみたい。 ・・・ここでついでながら、満州時代の清史の王室関係の記録についてふれておく。その幾分かは湮滅されてほとんど存在しない。 湮滅は、清朝第六代の乾隆帝(1711~99)そのひとによるものであった。・・・ ・・・かれほど、じぶんこそうまれついての大地のぬしだとからりと信じていた明るい男ですら、自分の王統が、 「夷」 であることについては憂鬱な感情をもちつづけた。 ・・・儒教主義者であり、儒教の価値観の至高の座にいるつもりの乾隆として耐えられることではなかった。 一方に於いて、乾隆は中国の精神文明史の保存者として稀代の事業をした。 かれは即位するや、国家事業として、古代以来の中国の書物という書物を集め、これを編集させ、分類し、建物をたてて、保存したのである。「四庫全書(シコゼンショ)」がそれであり、それを保存する建物を「四庫全書館」と呼ばせた。・・・ ・・・そのときに、焚書=(木+木+火+書)もおこなったのである。 「キキ(記紀)はヒ(カ)」である、「キキのヒのショ」であるカナ、「モクモクのカのカキ」でアルかな。 ・・・明末の書物には、当然、乾隆の同族の女真族の陋穢(ロウワイ)な暮らしを書き、その武装のまずしさなども書かれている。その野蛮人くさい無原則な外交、戦術も書き、女真人の乱暴についても書いている。乾隆は、そういう部分を削らせ、ときには書物そのものも焼かせ、版木まで砕かせた。 その数は、二千数百種にものぼった。 ホンタイジ(清王朝の太祖)の『実録』もまた、そういう目に遭った。 ・・・乾隆は、このホンタイジ記録の中の多くを削除し、入念に湮滅した。 ・・・ところが、ふしぎなことがおこった。 これを盗写した者がいたのである。・・・・右の盗写された太祖の『実録』の一部が『太祖実録』、『世祖実録』とともに、江戸期、長崎に入港した清船ではこばれ、清商の手で長崎奉行の唐通事に売られていたのである。 これによって、この秘本は幕府の手に移った。江戸城内の書庫(紅葉山文庫)に入り、蔵された。 と、「司馬遼太郎」氏は記している。色が変化する「もみじ=揉み字=模実字」の「山(やま)」とは、 サン=纂・簒・竄 であるな。そして、 ・・・さらに数奇がかさなる。それをひそかに筆写した日本のマニアがいたことである。書痴というべきだろうか。その筆写本が、南部藩の永根鉉の手に入った。鉉もまた奇特な人物だった。この人物の手で『実録』の採要が公刊された。このため、この本は日本にのみ残ったことになる。 とも「司馬遼太郎」氏は書いているのだ。また 「漢人」を 「女真人」は 「ニカン」・・・・→二巻・二間・二冠・二館→似巻・尼姦? と呼んだらしいコトも書いている。 この「韃靼疾風録」には、 「髪の毛」 が、いかにその形態によって「人種」の「文明基準(?)」が区別されうるのかを執拗に展開している。中国の基準は「中華思想=儒教=孝行=長髪」である。「親から貰った身体(髪の毛)は傷をつけないことが孝行」であるからだ・・・「身体髪膚、受之父母(孝経)」。ココは「髪の毛」が如何に貴重なものであったか漢和辞典でも調べて知るべきである。ついでに「カミ」の同音異字漢字も・・・。 「漢人=長髪」、 「女真人=辮髪」、 「蒙古人=辮髪」、 「朝鮮人=長髪」、 「倭人(武士)=さかやき(月代)・ちょんまげ(丁髷)」 ・・・これは将に分別すべき「古事記・神代」の「カミ」の問題ではないのか・・・定かではないが、古代に於いては「女」が「男」に身を許す時に「カミをオロシタ(切った)」らしい。死に逝く人の形見は「髪」であった。しかも倭人の髪型は「階層・職業身分」によってさらに「分別・区別」されている。倭人に於いて「皇族・公家」、「医者」が「長髪」を守ったのは何故か?・・・元々「ニカン」か、あるいは「ニカン」かぶれか・・・カブレル原因は「漆(うるし・七)」だが・・・ 「女真人」の「漢人」への「辮髪の強制」は支配者への服従のシンボルであり、見かけの「同化」であった。「辮髪」はまさに現実に「命」と引き換えに「長髪」を駆逐、駆除していったのだ。だが「中華思想=儒教」は、「明王朝」を倒し、その「漢人」を含めた「多人種」を支配せねばならない「清王朝」の「辮髪皇帝」にとって、「最高の思想」でなければならなかった。「辮髪(現実)」と「儒教(思想)」は矛盾したのだ。 辮髪=辛+糸+辛+髪(長+彡+友) =カミのヨリワケ 儒教=人+雨+而+孝+攵 =シタガウおしえ・ヨワイおしえ・ウルオス訓え 「実録」の「焚書・廃棄・改竄」・・・今現在、かって中国で記録された書物であるのにもかかわらず、中国に存在せず、この日本に存在するモノは結構ある。例えば弘法大師、空海が将来した「宿曜経二巻」などもそうである。 それよりも、問題にしたいのが「焚書」という事であり、原本の「改作・改竄」と言うことである。この「乾隆帝の焚書」は「秦の始皇帝」がやった「焚書坑儒」の「焚書」とは質的に違うのだ。「始皇帝」はまさに「儒教本=思想」の「焚書」であり、「儒教者=思想家」の「坑儒」であり、穴埋め、生き埋めであった。 日本における・・・「古事記」、「日本書紀」の類はどうか・・・たとえ、それが「乾隆帝」のように自らの出自にコンプレックスを有するような「意図的なモノ」ではなくても、同音異字の「漢字使用」と「漢字解釈」の異なった日本的言語状況では「漢文・和文」はあらゆる「解釈」を期待していると言ってイイ。理解がアイマイになる、と言うことだ。ましてや「大和」は「和歌の国」で、「倭人文官の記録」は「和歌の遊び技法を縦横無尽に駆使した教養階級」が書き残したモノである。「焚書」や「改竄」以前に、記録されたモノは「高度な(暗号)記録技術(?)の書物」なのである。 だが、「古代史」の日本の「支配階級」は、いずれも「乾隆帝」の「心情」と同じモノであったのに違いない。「家系図」である。「出自」である。「ご先祖様」である。 「系図一巻」を欠落させた「日本書紀・参拾巻」の「再構成」は「桓武天皇」の時代らしく、血筋、家系、門閥等・・・どっちにしても「日本」に渡来して「始原的な国家権力を握った奴」、あるいは「戦国下克上で権力を握った奴」は「火事場泥棒の大親分」でしかない「系図・血筋」が怪しいヤツばかりなのだ。・・・いずれの時代に於いても「武装」した「集団」はその発生した次元から必然的に「盗賊」となり、「海賊」となるのである。「バイキング」は「海賊」だった。イギリス海軍は「海賊」を「貴族(サー)」にしての「海軍」であった。「フランス革命」での「革命軍」はその「理想」と裏腹に「軍需物資」を現地調達する「略奪・強奪軍」であった。「ロシア革命」の立場を忘却した「ソ連軍」は東欧諸国の人々を血で染めたのだ。もちろん「近代国家の税金で傭兵・徴兵」されたあらゆる「諸国の軍隊」は戦争時において「国内外」で、さらに「盗賊」である。「盗賊の頭」とは一体全体、最終的にナニになりうるモノなのか・・・「国家の最高権力者」である。中国の「王朝」はすべからく、ソウであった。多分、世界の東西を問わず「国家」は似たり寄ったりの「盗賊集団」なのデアル。