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朝衡(晁)=阿倍仲麻呂はナニを考えていたんだか?


 ここは小説作家「陳舜臣」氏の「九点煙記(中国十八景)・講談社・発行昭和五十五年十一月二十五日」の「朝衡小考」を参考資料にして「阿倍仲麻呂」と「現存・古事記」を考えてみたい。  以下、「・・・」から始まる文章は「陳舜臣」氏の「九点煙記(中国十八景)」の「朝衡小考」からの「抜粋」である。  「同音異字」と「妄想的」叙述はワタクシのモノである。混同しないように区別されたい。

 「陳舜臣」氏は次のように述べる。

 ・・・公平さでは「大日本史」は合格といわれている。  だが、  ・・・論賛の部分で、「朱子学思想」の大義名分が強く出すぎている。  ・・・遣唐留学生になった「阿倍仲麻呂」に対して「大日本史」の筆は手きびしい。

 ・・・是レ祖先ヲ蔑(ナイガシロ)ニシ、而シテ本ヲ二ニスルナリ。豈(キ・ケ・カイ・ガイ・あ)ニ聖賢ノ道ナランヤ。世、徒(イタズ)ラニ才藻ニ眩シ、其ノ唐廷文士の推奨スル所と為ルヲ、キンエン、スルハ過テリカナ。

 ・・・「藤田東湖(水戸藩)」も「阿倍仲麻呂」に対しては、

 ・・・・阿倍の仲麻呂なんどが、から国になびきつつ、てる日の本を忘れて、「李隆基(玄宗皇帝)」の大臣となりしたぐいは、かたちこそ、をのこ、ならめ、心は、をうな、にもはるかに、劣れるこそ、いまわしき。

 と言っていた、らしい。これは、

 ・・・「宋」へ渡る僧「成尋」にその「母」が与えた「歌」

  もろこしも、天の下にぞ、あると、きく      照る日のもとを、忘れさらなむ

 を「東湖歌話」に収録し、「オンナ(女)ながらも、ますらをに、はぢざるべし」とほめたのはよいが、ことのついでに・・・・

 前(・・・・阿倍の仲麻呂なんどが、から国になびきつつ)の文を記したモノであるらしい。ワタクシはこの「宋」、「成尋」と「オンナ(女)」と「母(ボ・モ)」、「歌(カ)」の漢字に注目したい。「成尋」は「尋ねれば成る」で、「ボ・モ(簿模)」、「おんな(音名)」の「うた(得多・有他)」である。  「徳川光圀」が「人材」を結集し、「豊富な資料」を蒐集させて「大日本史」を編集記録したのである。連中が記録するにあたって、「阿部仲麻呂」の「履歴」を知らなかったとは思えない。が、その「履歴」を端折って「裏切り者(いまわしき者)」に仕立てる(した照る)には「時代的」に都合がいい人物だからだ。理由は「阿部中麻呂」の同姓の「阿部正弘」はこの時期の江戸幕府、幕閣の家系筋で、ペリー来航以来、「米・英・露・蘭」の各国と「和親条約」を締結した「いまわしき」人物であるからだ。だが、「望郷の念にカラれた安倍仲麻呂」に対する「いまわしき」は本音ではあるまい。  「藤田東湖」は「藤田幽谷」の次男、「文化三年三月十六日(1806)~安政二年十月二日(1855)」の人物で、幼名は「武次郎」、通称は「虎之助」、「誠之進」、名前は「彪」。「東湖」は「號」であった。

 武次郎・・・武、次、郎・・・・・・・武の次の郎  虎之助・・・虎、之、助・・・・・・・虎、胡玲を助ける                     虎、「シ(史・使)」を助ける  誠之進・・・誠、之、進・・・・・・・真人(まこと)、之、将(すすむ)  彪・・・・・・ 虎+彡・・・・・・・・・・文(あや)・・・虎の刷毛(はけ)  東湖・・・・・吾妻・我妻(あづま)、湖=水(さんずい)+胡(コ・ウ・えびす)         號=号+虎(虍儿)

 ダレでも持ちそうな名前の、幼名(ヨウメイ=陽明)の「武次郎」だが、この「武・次・郎」を「阿部中麻呂」の時代に近い「古代史」に重ねて個々の漢字を考えてみたい。「武」は「桓武・聖武・文武・天武」の各天皇の名に付随する漢字で、唐王朝では

 「武照」こと「則天武后」

 が有する「武」であった。ちなみに唐の「武宗」の即位は「辛酉年・841年」で、日本では「仁明天皇」の「承和八年」で、「藤原緒嗣」等が「日本後紀」を撰上である。「武宗」は「道教」以外を禁止し、弾圧した人物である。

 「次(ジ・シ・つぎ・ついづ・ならび・やどる・とまる・うち・たび)」

 は「二番目」のことだが熟語には

 「次韻・次舎・次序・次席・次善・次官」  等と、  「次第(順序・由=よし・理由=わけ・由来・即刻、即時=ただちに・まにまに)」

 がある。「郎」は、

 春秋時代の魯の地名・山東省  官名=秦の時は宿営、       漢の時は侍従、       唐の時は次官、       明と清の時は下級官吏

 で、「郎中(ロウチュウ)」は「唐以後は各部の長官」で、江戸幕府の「ロウジュウ」は「老中」であった。尾張名古屋中区の銘菓「大須・ういろ」の「ういろ」は、元、「外郎(ういろう=漢字の発音は唐音)」からの由来である。江戸時代には「痰きり飴」の通称のことだ。「日本書紀」での「郎」の漢字を有する人物は「ダレ」か?。「いらっこ(郎子)」、「いらつめ(郎女)」と何故、「日本語」ではソウ「郎」の漢字をあてたのか?

 『郎』の官職名は唐代では大臣の『次官』  唐の『太宗・高宗の郎』、あるいは『太皇后の郎』  「郎子(いらっこ)」は男子、「郎女(いらつめ)」なら女子  『太宗の妾郎』ならば『則天武皇后』、あるいは彼女自身の配下の『郎将』  『郎将』の肩書きを有するのは・・・日本に来た『劉仁願リュウジンガン』  彼は「668年」に『姚州(雲南)』省に流刑になった記録がある。  同年には「高麗」滅亡。平壌に「安東都護府」の設置。  天智天皇が「称制」から正式に「即位」した年で「天智七年」であった。  『天武天皇』は朱鳥元年、『686』に死没。その差は十八年  「668」と「686」の西暦年号、「壱拾八」の差・・・アヤシイ。  「686」は唐の年号は「則天武后」が「垂拱二年・丙戌年」で、               「中宗」が「嗣聖三年」である。               この時期、中国年号がダブって存在する。  「690」は「則天武后」を名乗り、国号を「周」としたのだ。

 ワタクシの「妄想的推理」は「郎」とは「唐」の「郎将(劉仁願)」で、「郎子」、「郎女」はその「子供達」の示唆である。「異羅津子(いらっこ)」で、「異羅津女(いらつめ)」である。  「藤田東湖」は文政十年(1827)には水戸藩「彰考編修」、「総裁代理」となった人物で、「海防」を唱えた藩主「徳川斉昭(諡号は烈公)」を助け側用人として「弘道館」を設立、「尊皇攘夷」を立場として兵制整備にあたった。コレが原因で幕府の忌諱により「弘化元年(1844)」に藩主とともに謹慎、蟄居幽閉された。この前年「1843年」の幕府閣僚の中心となったのが「公武合体・雄藩合議制」を先導した福島藩藩主「阿部正弘」で、「水野忠邦」罷免後の「老中首座」となった人物である。この「水野」の復活(1844)、失格(1845)する中で、「阿部正弘」は対外交政策に専念した。この「阿部」に外交意見を述べた(1846)のが、「1844年十一月(1849年・嘉永二年)」に謹慎を許され、顧問格となった「徳川斉昭」であった。  「藤田東湖」は「1846年十二月(弘化三年・中央公論の年表)・1849年(嘉永二年・東京堂人名辞典の説明)」に蟄居を免ぜられている。「藤田東湖」の先の文(東湖歌話)はこの「幽閉期間」に記されたモノだろう。彼は1853年六月「黒船」の「ぺりー来航」を見、蟄居を許された後「斉昭」の補佐(七月)となる。だが、「1855年一月」に「日米和親条約本書批准交換」がなされた後、同年の「安政大地震・十月」で死亡している。「尊皇攘夷」の彼は墓の中でもアタマに来ていただろう。  そして、同年「十二月」、萩藩の「吉田寅次郎」こと「吉田松陰」の出獄、蟄居であった。  「藤田東湖」に支えられた「徳川斉昭(諡号は烈公)」の政治的方針は、条約推進派の大老「井伊直弼」の就任(1858・安政五年四月)によって挫折したのだ。彼は同年六月の「日米修好条約」を憤慨、「井伊直弼」を面責した後、謹慎幽閉され、「1860・万延元年八月十五日」に死没したのである。  この流れでみると、尊皇攘夷の「藤田東湖」と、公武合体、雄藩合議の備後福島藩「阿部正弘」は政治的に対立していたのだ。  「阿部」は「阿部」でも別系統の陸奥棚倉藩の「阿部家」は「大彦命」の子孫と称していた。  先の「藤田東湖」の「阿部中麻呂」に対する批判文だが、かってにワタクシが「文字」を改作して

 「かたち(形・容・身体・肉体)=華性質                     蚊(中のムな文)多知                          ↓                       中のヨコシマな文の多を知」は  「をのこ(男)=小野子・尾野拠・小埜虚」で、  「緒之胡」、「将に之、虎」である。  「心(魂・精神)=個々賂・此処賂・珠四囲・多磨思惟・多真史意」は  「をうな(女)=オンナ」にも  「劣(レツ)=おとる=音留」=レツ=「列・烈・裂」  「いまわしき(忌まわしき)」=異真話私記・意真把史記

 以上のようにヨムのだが・・・  何時のころから「女(をうな・をむな)」は「オンナ」と発音されるようになったのだろう・・・「をうな」が訛って「オンナ」の音声になったとは思うが、「方言」で「オンナ・ヲンナ」と発音していた特定の地方は無かったのだろうか?  古語辞典では「おんな(嫗)」は老婆で、「おんな・おみな・おうな」の音便、撥音便とあり、「枕草子(清少納言)」には「おんな(老婆)」と記されている、とある。「おんな」は平安時代から老婆の存在として使用されていたワケだ。「をんな」は「成人した婦人」とあり、「紀貫之」の「土佐日記」に「をんな」の記録がある。他には「徒然草」、「源氏物語(夕顔)」にも使用されている、とある・・・「お(オ)」と「を(ヲ)」の撥音は、どう違うのか?・・・区別して発音をしていたのだろうか。あるいは「文章上だけの区別」であったのだろうか。もはや文字での違いでしか確認できないのだが・・・

 オンナ(音名=オンメイ           インメイ=隠名=陰名                =寅名=とらめい=虎 名)

 の発音である。  とにかく、「陳舜臣」氏は、結論的に、この「大日本史」の記述の中の「阿倍仲麻呂」の手厳しい批判に対して、当時の「歴史的状況」を調べて「仲麻呂」の立場を弁護をしているのだが・・・。  ワタクシは、なぜ、「大日本史」の編纂者、追従者が

 「祖先(ソセン)を蔑(ベツ)に」したと「阿倍仲麻呂」を批判し、  「而(ジ)して本(もと)をニ(ふたつ)にする」と非難し、さらには  「豈(あに・キ・ケ・カイ・ガイ・なんぞ・いずくんぞ・なんと・かちどき・たのしむ・やわらぐ)に聖賢の道ならんや」

 としたのか、を、「同音異字漢字」を重ねて「陳舜臣」とは違った視点、観点から考えてみたいのだ。  スナワチ、ワタクシの言いタイコトは「和歌の技法」をヨクした「尊皇攘夷」の先鋒者、「藤田東湖」が「阿部仲麻呂」に託(かこつ)けた、老中「阿部正弘」批判ではないのか?、と言うことだ。「藤田東湖」の著作物は尊皇攘夷派の人々にヨマレ、「おおやけ」になっていたハズである。「御政道への直接批判」はヤバイ・・・。  「現実的な歴史的事件」を「批判」するのに江戸時代の「戯作者」がやったように、「過去の時代」を舞台に仮託して「今現代」を批判する、と言ったヤリカタで、常套である。その典型は「忠臣蔵」である。「戯作者」の「文章」は、「和歌の技法(戯法)」が駆使されているのだ・・・もちろん、「現存・古事記」、「現存・日本書紀」もそうである可能性が大である。更には「中国の歴史書」も例外ではあるまい。  このペンネーム「陳舜臣」・・・「本名」かも知れないが、

 「陳(ならべる)」、  「舜(あさがお・むくげ・もくげ)」、  「臣(おみ・君に仕える家来・見張っている目、監視の目)」

 ではあるな。

 「祖先=ソセン(素線・措撰・素撰・蘇先・蘇戦・蘇船)」を  「蔑=ベツ(捌・別・瞥・経拓)に」と・・・  「而=ジ(字)」して  「もと(母賭・模途・許・元)」を  「ふたつ(附他途・普多拓)」にする・・・と。  「豈(あに・キ・ケ・カイ・ガイ)」は片仮名の音を聴くと、  「兄、阿仁、阿児、阿尼、阿爾、きけ、海外、亜(あまねし)」と聞こえるのだが。  「豈=山+豆=サントウ(サンヅ)=纂唐・山東・参津・三途・参図」、  「やま(邪馬・邪魔)・まめ(耶麻・真女)」

 である。ワタクシのワープロに無い漢字の

 「(音+欠)+(豊+盍)=キンエン・コンエン」の意味は  「キン=神が祭事に満足して供えモノを受ける・もてなしを受ける」で、  「エン=艶・みめよい・あでやか・いろ・つや」

 「豊満、豊かな色(妻女・愛人・恋人・妾=めかけ)」である。「妾(めかけ)」の漢字分解は「立つ女」である。「女帝・女王」だ。彼、仲麻呂の生きていた時代は唐では「則天武后(654~705)」、日本では、

 「推古(593~623)」から始まって、  「皇極(642~645)、斉明(654~661)」、  「持統(686~702)、元明(707~715)、元正(715~723)」、  「称徳・孝謙(749~770)」

 の女帝の時代(642~770)であり、極論すれば「男の天皇」は霞(かす)んでいるのである。日本だけではない、朝鮮半島の新羅も「善徳(632~646)、真徳(647~653)」の「女帝」の時代なのだ。要は「則天武后」の時代なのである。  「キンエン」、「音を欠く」、「豊の盍(コウ・ゴウ・カフ・ガフ・覆う・おおう・合う・なんぞ・・・ざる)=曲(よこしま・くせ)の豆(まめ)、去(さる)る皿(さら)」、「キョクトウ」の「キョベイ」・・・「極東・虚句唐」の「拠併・虚併」である。  古代史に於いて「アベ(阿倍・安陪・阿部・安倍・阿閉・阿閇・阿毎)」の「姓」を有する人物の「現存・日本書紀」に記録されている連中は一体、「何者?」であったのか、と言うことである。「現存・日本書紀・巻第廿八」の「壬申の乱」に「高市皇子」が引き連れてきた従者に「膽香瓦(いかご)・臣・安倍」、「紀・臣・阿閉麻呂」が記録され、終息時に「天武天皇」の場所的移動を記している。「膽香瓦(いかご)」だが、

 膽(タン・きも・い・胆の旧字)・・・旦は夜明け  ↓                  女形  ↓                (おやま・おんなかた)  ↓                        ↓  ↓                      音名化多  ↓    膽の類字≠憺(タン・デン・やすらか)  ↓            檐(エン・ひさし=軒)  ↓  月(肉・じく・つき・ふね)   +  危(あぶない・あやうい・キ)-卩(セツ・セチ・割符)

 or

 刀+厂(かたな+がんだれ)⇔(トウ+カン、ガン)   +                 唐  宦  官  ハ(8・捌)   +  言(ことば)

 で、「臥薪嘗胆」の「胆=膽」である。「月」は「肉偏(ジクヘン)」で、「旦」は「女形(おやま・ジョケイ・ニョケイ)=オンナ・ガタ」である。「字句の偏の音名の化の他」・・・「膽香瓦(いかご)」の古語の意味は何かを古語辞典はアキラカにしていない。音を採るなら「如何語・以下語・易化語・異化語」で、漢字の意味ならば「キモ、かほる、カワラ」である。類字の「檐(エン・ひさし=軒)+香(コウ・かほる)+瓦(ガ・かはら)」ならば、「瑠璃瓦職人」で、「瓦職人の臣」か?・・・「膽」は漢字分解では「月=舟=肉(ジク・ニク・ジウ・しし)」の「トウ・宦官、汗顔」の「ハ(8・捌)の言」である。「唐の宦官」は「汗顔」で、「汗」は「胡族の王」の「顔(彦のページ)」である。確かに「黄門」は「宦官」の意味である・・・水戸黄門(徳川光圀)だ・・・「イカ・ルガ=斑鳩・飛鳥」を妄想すれば「鳥類」だが、「烏賊(イカ)」も「飛び魚」のように「空中を飛ぶ」が、関西では「凧(たこ)」を「イカ(紙鳶)」ともいう。そして「烏賊(ウゾク)」とはその皮膚も変化させる生き物だ。「烏賊語=ウゾクゴ=胡族の語」である。英語では「烏賊(cuttlefish・squid)」は「いかがわしい、あやしいモノ」で食わないそうだが、「スルメ烏賊(いか)の臭い」は「女の発情の体臭」を示唆しているのカモッ。忍者の里と言われた「伊賀(いが)」には「阿拝(あべ」)」の地名があった。江戸時代の「伊賀」の藩主は「藤堂高虎」であった・・・「唐同多可徒等」?・・・「イカ・ル・ガ」で、「怒る我」かも・・・。

 「九月」  己丑朔丙申、      伊勢・桑名に宿  丁酉、鈴鹿に宿  戊戌、阿閉に宿  己亥、名張に宿  庚子、倭京に詣(いたりて・もうでて)、「島宮」に御  癸卯、「島宮」より崗本宮に移・・・「崗(コウ・カウ・岡の俗字                       小山・山の背・峰・岑・峯・坂)」

 「イセ・くわ名」、「すずシカ」、「阿閉」、「名ばり」、「ワキョウ」、「シマみや」の移動「地名」も謎的象徴であるが、この「九月」の「日の干支」も示唆的である。

 「己(ツチのト・おのれ・よこしま)の丑(チュウ・うし)」・・・よこしまな主                         桑名=くわな・ソウメイ=句罠・僧名  「丁(ヒのト・てい・ちょう)の酉(ユウ・とり)」・・・・・・・・・・帝、綴、訂を採る                         鈴鹿=すずか・レイカ=素図化・例加  「戊(ツチのエ・ぼ)の戌(ジュツ・いぬ)」・・・・・・・・・・・・・姥、母、簿の述、術                         阿閉=あへい=蛙併(かえる、あわす)  「己(ツチのト・キ・よこしま)の亥(ガイ・い・いのしし)」・・紀、記、邪の害、意、猪                         名張=なばり・メイチョウ=謎調  「庚(カのエ・こう)の子(シ・ね・こ)」・・・・・・・・・・・・・・・項、講、交・行・考、校、                                    乞うの史の詞  「癸(ミズのト・き」の卯(ボウ・う・うさぎ)

 「癸(ミズのト=水野の徒・水野忠邦の徒党?)の卯(ウ=有・得)」、「トウ(島)キュウ(宮)」より「コウのホンのキュウ」に「うつす」だ。「島の大臣」とは「蘇我氏」であった。「よみかえる・われ・うじ」である。「島」は「トウ」と発音する。同音異字は「唐・藤・等」で、「読」の「問う」の「答」ではあるな・・・  「現存・日本書紀」の記録する初期の「遣唐留学生」のほとんどは「帰化人の子弟」である。「唐人(からびと)」をどういうわけか学者、研究者は「韓人(カラビト)」としたい傾向があるらしい。「種族」としての純粋な「中国人」などはいないであろうが、「唐人(からびと)」は「唐人(漢人・中国人・支那人)」である。時代的に朝鮮半島経由した「韓人=唐人=漢人=中国人」であるが、その時代の「今来=新来」の「唐人=漢人=中国人」である。唐土(もろこし)の人物で、「母賂胡司・模露虎子・諸虎視・諸故氏」である。「あや(漢)人」、「はた(秦)人」である。「訳語田(おさだ)」と言う名を有する人物達である。  別項(小説・メリちゃん)でも記したが「阿倍」氏は元、「冨制(フセイ)」、「布施(フセ)」の姓であったのが「阿倍」になった、と「日本書紀」には記録されている。この漢字の同音異字は、

 「不正・父性・不整・負性・腐生・斧正・不省」・・・フセイ・・・「斧」は「岑」に類似  祖先(ソセン)を蔑(ベツ)に  「伏せ・臥せ・付せ・附せ」・・・・・・・・・・・・・・・・・フセ

 である。ワタクシはこれらの「漢字」に対して妄想をタケざるを得ないのだ。特に「斧(おの)・正(ただしい)」の意味を考えるときに膨張する。漢和辞典には「斧」は、

 斧(ふ・おの・をの)・・・まさかり・キを切る道具(斤斧=キンフ)                いくさにモチイル武器                罪人を処刑する道具

 これは、目をつぶって音で聴けば、将に「記・紀・祁・軌」をキル、導句である。斧の熟語には、

               斧鉞(フエツ)=重刑・征伐                          文章の字句などを                          削ること。修正                斧柯(フカ)=斧の柄・政権                斧斤(フキン)=おの・まさかり                斧鑿(フサク)=斧と鑿(のみ)                        大工道具                        詩文、絵画などに                       小手先の技巧をこらすこと                斧質(フシツ)=首切る斧と首切り台                          処刑の道具                斧辟(辟+力)=フヘキ・中国の山水画の                          岩石などを描く画法

 があり、「文章の字句などを削ること。修正」、「詩文、絵画などに小手先の技巧をこらすこと」があるのだ・・・「首」とは「和歌」の「一首」でもある。「岩石=磐石=ガンセキ」の「磐」は「現存・古事記」では、

 「磐余」として使用されている名前の持ち主である。  「神武天皇」である。  「彫刻」するために「素材の磐」をクリヌイた「岩石」の「小片(かけら・欠片)」である。スナワチ、

 「張告・長国・兆国・兆石・超克・チョウコク」するため  「違和・イワ」を「庫裏・句理・繰り・クリ」貫いた  「岩」の「石」  「意思・意志・遺志・頤使・遺子・李氏・縊死・医師・イシ」の  「アマリ」で、  「掌編・小編・章編・小変・ショウヘン」の  「ガン・セキ」=「雁・鴈・贋・含」の「籍・席・関・積・昔・蹟」

 である。「斧」の漢字分解は、「父」は「斤(キン・キム)」である。美男子の「キムタク」ではあるまい。「キン・キム」の同音を有する者に違いない。

 キン=金武・禁(裏)・筋(書)・訓(辞)・欽(明)・勤(皇)      軽(挙妄動)・禽(獣)・欣(喜雀躍)・錦(糸)・今(昔)      軽皇子=カル王子       同音の「カル」は「天智天皇十年春正月己亥朔庚子・・・       丁未、高麗、上部・大相・可婁等の遣、調進」の名がある

 歴史に登場する最初の「遣隋使」と「遣唐使」であり、その系列化の人物の存在である。「おの」とは姓では「小野」か「尾野」、あるいは「小埜」である。「小野妹子」と、ソレに連なる子孫達である。「小野妹子」の中国名は「蘇因高」といわれた、と中国の記録にも「現存・日本書紀」にも記録されている。「蘇(よみかえる)・因(もと)・高(たかし)」である。しかも「小野妹子」は「隋書」に記されてある「阿蘇山」が見える「阿毎王朝」と密接な関係がある人物であったのだ。  実際に「小野妹子」の子孫は「海人(海士・海女・海部)」につながる「遣唐使」の家系であった。彼「小野妹子」に関して「現存・日本書紀」には不可解なことが記されている。「隋王朝」からの「国書の紛失事件(推古天皇十六年六月壬寅朔丙辰)」である。この「推古」と「16年・6月・壬寅・朔・丙辰」の漢字そのもの示唆的意味は」

 いにしえ=古  おしはかる=推し量る  16=壱拾六=壱拾陸  6=六(亠+ハ=音略の葉)=陸=陸奥=むつ=武都  みずのえのとら=壬寅=水の江の虎  さく=朔月(一日・新月=しんじく)  ひのへのたつ=比の経の龍・ヘイシン=併進・兵進

 である。  「阿倍仲麻呂」の「履歴」と、その政治的、歴史的を「陳舜臣」氏の記録から拾っていくと、

 阿倍仲麻呂は「中務大輔船守」の子供だった。  大宝元年(701)に誕生。  元正天皇・「霊亀二年(716)」、  十五歳の時に遣唐留学生に選ばれた。  その時の遣唐大使は  「多治比県守(たじひ・あがたもり)」であった。  同期の留学生は「吉備真備」で  六歳年長(当時二十一歳)。  入唐は翌年霊亀三年(717)。  長安の「太学」に入学し、  「科挙」に合格し「進士」となった。  その後「太子左春坊」の「司経局」で  「校書」の職に就いた。  「司経局」とは「経書」の  正本、副本を「筆写」、「校正」をするところであった。  定員四名、官位は「正九品下」。  仲麻呂入唐後の16年目  開元二十一年(733)に遣唐大使の  「多治比・広成」の遣唐船が来た。  仲麻呂の官位は「左拾遺」、「左補闕(欠)」、「従七品上」。  「李伯」、「王維」と同年に生まれ、  「杜甫」と同じ年に死没。  帰国を許されず  玄宗皇帝の  第二十四子である「義王比(王+比)」の  「親王府」の官職、「友」となった。

 と、ある。

 「親王府」の機構           長官・・・傳(フ)・・・従三品官           次官・・・諮議参軍事・・・正五品上             ・・・・友・・・従五品下

 「衛尉寺」の  「兵器庫管理」と「宮門衛屯事務」の  「衛尉少卿」に昇進。  「衛尉寺」の機構           長官・・・卿・・・従三品           次官・・・少卿・・・従四品上

 「秘書省」、  「禁中図書秘記」の「秘書監・従三品」に昇進  「秘書省」の機構           著作局           太史局

 「唐王朝」の「歴史的記録」の「管理者」で「実権者」であった、と言うことはそれらの「記録」を「自由」にする立場の人物であった、と言うことにつきる。「自由」とするならばナニを自由にするだろうか?・・・「日本に関する記録」であるに違いない。 どのように?・・・  仲麻呂「52歳」の時、前回の遣唐使から「十九年後」の「天宝十一載(載=年)・752」に遣唐大使「藤原清河」と副使の「大伴古麻呂」、「吉備真備」が入唐。コレとともに「帰国」することになる。  ここでは「阿部中麻呂」は「唐の役人として日本の遣唐使を送る者」、すなわち「答礼使」として帰国許可を得る。もはや、「日本人」ではないのである。事実、「本国・本籍」は「唐」なのだ・・・だが日本人としては「唐系二世・三世・四世」等としての「あいの子(混血児=コンケツジ=混結字=恨結辞?)」であったのに違いない。この彼の立場は微妙で複雑である。・・・「日本に関する記録」はどうするであろうか?  元々、彼の親や祖父の血縁、「阿部」氏は「唐王朝」の縁戚者か、「隋王朝」の縁戚者であった可能性が高いのは当たり前である。「617年(丁丑)」、「隋」を滅ぼした「唐の李淵(高祖として618年・戊寅・武徳元年に皇位に就いた)」は元々「隋王朝」の臣下の将軍である。「唐王朝」の后は「隋王朝・煬帝」の血縁であった。しかも「隋王朝」の使者「裴清世」は既に「608年(推古十六年)」に「日本」に来ている。そして「隋王朝」の滅亡である。この王朝の滅亡(617・推古二十五年)は「日本への亡命」である。日本書紀「推古天皇十年十月(602年)」に「百済僧・観勒」に「陽胡史(やこふみびと)・祖(おや)・玉陳(たまふる)」が「暦法」を習う、とある。この「陽胡氏」は大和王朝に仕え、「大隈の国司」であった「陽侯氏」と同族であろう。彼等は「隋王朝の貴族末裔の日本への帰化人」であった。だが、隋滅亡が「617年」で、「玉陳」が「暦法」を学んだのが「602年」ならば、彼は「隋滅亡時の亡命帰化人」ではないハズである。「隋書」には日本から隋への遣隋使(名前不明)の記録が「600年(推古八年)」にある。「607、8年(推古十五、十六年)」に「小野妹子」の「遣隋使」派遣である。ならば、「陽胡史の祖、玉陳」とは「600年」に来た「隋人」か、それ以前に来ていた「隋人」か、その「隋二世、三世」であるハズだが・・・。  名前が「たまフル」である。学んだのが「暦法」である。ここの記事はあやしいのだ。多分、

 「言霊=文字霊」に  「振る=ルビを振る=漢字、真名仮名のヨミ」、  そして  「暦法=歴史方法」の「操作=紀年」

 の示唆である。  「阿部」氏は「海軍・水軍」の頭領であった。しかも「日本書紀」の記録では「斎明天皇の時代(658年・斎明四年~663年・天智二年八月まで)」が、派手な「東北・蝦夷征伐」の活躍の時代で、その海軍の凋落は「白村江の敗北」からであった。だが、「阿部」氏は「大和王朝の重鎮」として存在していた。  仲麻呂の時代の天皇は「元正(715)~聖武(724)~孝謙女帝(770/8)」であった。

 阿部中麻呂は「701年」に誕生し、「716年」に遣唐留学生となり、「752年」に帰国することになった。その後、帰国船が難破し、「帰国」出来ずに「770年一月」に唐で死没である。同年の八月に「孝謙天皇=阿部皇女」が死没しているのだ。  帰国に際し、その時に作詞したのが、

 天のはら、ふりさけみれば、春日なる  三笠の山に出でし月かも

 の歌であった。  親友の「王維」が仲麻呂に送別の宴会で「送秘書晁監還日本国」の「五言排律詩」を贈る。これは「唐詩選」にも収録されている、らしい。以下の各漢詩のすべては、「陳舜臣」氏の「九点煙記(中国十八景)」の「朝衡小考」からの「抜粋」である。

 「送秘書晁監還日本国」・・・王維

   →    ←   ↓積水不可極↓     安知倉海東     九州何処遠     万里若乗空     向国惟看日     帰帆但信風     鰲身映天黒     魚眼射波紅     郷樹扶桑外     主人孤島中     別離方異域   ↑音信若為通↑・・・音信、ワカを通して為す    →    ←

 ・・・「包佶」も「送日本国聘賀使晁巨卿東帰」の詩を作り、これに和して仲麻呂も「五言排律詩」を作った。

 「送日本国聘賀使晁巨卿東帰」・・・「包佶」

  →     ←  ↓ 銜命将辞国 ↓    非才添侍臣    天中恋明主    海外憶慈親    伏奏違金闕    非驂去玉津    蓬莱郷路遠    若木故園鄰    西望懐恩日    東帰感義辰    平生一宝剣  ↑ 留贈結交人 ↑   →     ←

 ワタクシはこれらの仲麻呂の「和歌」、彼の友人の「漢詩」を  「横にも、縦にも、斜め」にも、「回しても」ヨミ、そして  「同音異字の漢字」にしてヨミたいのである。

 ・・・「天宝十二載(753)」、帰国遣唐使船の難破で「安南」に漂着。翌年、長安へ帰還。

 ・・・この難破で仲麻呂は溺死したとの報告を受け、「李白」は「哭晁卿衡」という「七言絶句」を作った。

 「哭晁卿衡」・・・「李白」

 日本晁卿辞帝都  征帆一片遶蓬壷  明月不帰沈碧海  白雲愁色満蒼梧

 「安禄山(安史)の乱」の勃発

 仲麻呂は  「左散騎常侍(従三品)」  「鎮南都護(従二品)」等を歴任  「大暦五年(770)」に死没。  「路(水+路)州大都督」を唐王朝より追贈  日本朝廷も「正二位」を追贈(日本詩記)

 唐時代の学校教育は「国子監」と言うところが役所。  「国子監」の長官は「祭酒」と呼ばれ、「文部大臣」であり、「国立大学総長」であった。

 国子監の機構・・・六学の講義、教授           国子学・太学・四門学・律学・書学・算学(暦学)           大経(礼記・左氏傳)           中経(毛詩・周礼・儀礼)           小経(周易・尚書・公羊傳・穀梁傳)           孝経・論語・老子

 「国子学」の入学資格条件は「三品」以上の文武官の子弟、国公の子、及び孫、「従二品」官以上の曾孫。  「太学」は「五品」以上の文武官の子弟。郡県公の子、及び孫。「従三品」官の曾孫。  「四門学」は「七品官」以上の「侯伯子男」爵、及び「庶人」の子供で俊英な者。  これら「諸学」の「二経」以上を習得した者に「科挙受験」の資格を与えた。  「進士科」の科挙は「経学」が要であったが「玄宗皇帝」のころからは「詩学」を重んじるようになった。  「詩文」のテキストは「文選」であったらしい。  外国から留学生は「太学」に慣例的に入学。  阿倍中麻呂の同期の友人に六歳年下の「儲光羲」がいた。彼は「開元十四年(726)」に十九歳で「進士」に合格。「監察御史」までなった。仲麻呂に与えた詩が残っている。  「旧唐書」によれば仲麻呂は入唐後、名前を「朝衡」と改めた。

 ・・・其ノ偏使朝臣仲麿、中国ノ風を慕イ、因ッテ留リテ去ラズ。姓名ヲ改メテ朝衡ト為ス。

 「偏使」とはヒラの随員。  ・・・「儲光羲」が仲麻呂に与えた詩のタイトルは「洛中贈・朝校書衡」で、「朝・校書・衡」の「校書」は職名で名前の「朝・・衡」に挟んむのは中国の古くからの習慣である。

 「洛中贈・朝校書衡」・・・「儲光羲」

    →   ←   ↓ 万国朝天中↓     東偶道最長     吾生美無度     高駕仕春坊     出入蓬山裏     逍遥伊水傍     伯鸞遊太学     中夜一相望     落日懸高殿     秋風入洞房     屡言相去遠   ↑ 不覚生朝光↑     →   ←  ・・・「伯鸞」は「後漢」の人物「梁鴻」の「あざな」であった。「梁鴻」は「太学」に学び「博覧」の人物であった。「扶風平陵」の人で、父「梁譲」は「王奔」の時の「修遠伯」に封じられた。  「儲光羲」は「仲麻呂」を「梁鴻」に例えた・・・・ナゼ?・・・陳舜臣氏は「できるだけ他人の世話にならないという姿勢だったのであろう」と推測している・・・・堅物の頑固者で「けったいな人物」。ワタクシは「国家機密の使命を背負った人物」だったからと妄想するのだが・・・「唐王朝の歴史記録の改竄」である。  ・・・「なお阿倍仲麻呂の経歴に関しては『旧唐書』日本伝のほうが、『新唐書』のそれよりはマシである。『新唐書』のほうでは、彼がいったん帰国して再び入唐したように書かれているし、上元年間(760~761)に、安南都護となったとしるしている。『旧唐書』には鎮南都護になったとある。安南都護は、すでに至徳二年(757)に鎮南都護と改名されている。あとから編まれたのに、もとのものより杜撰になっているのはどうしたことだろうか。  その理由はあるに違いない、とワタクシも思うのだが、ソモソモ『旧唐書(二百巻)』と、『新唐書(二百二十五巻)』が「二書」あるのはドウ言うワケなのか・・・「『新唐書』のほうでは、彼がいったん帰国して再び入唐したように書かれている。」のは「杜撰」がその理由なのか?・・・「帰国の事実」の可能性があるとしたら・・・ワタクシの妄想だが、その「可能性」は「現存・古事記」、「現存・日本書紀」、「続日本紀」の「文字・文面」にあるハズだ。『旧・唐書』と、『新・唐書』の歴史的事実の「詳細正確」を「旧」と「新」の文字に求めるのはナンセンスで、当てにならないからだ。「比較資料」があろうとも、未だ「可能性」の次元である。  「安倍仲麻呂」は唐王朝の「図書館長」であったから・・・後晋時代の

 「劉昀(『日+句=ヒク)=旧唐書の執筆者」

 であろうが、宋時代の『新唐書』の編纂執筆者の

 「欧陽脩(オウヨウシュウ≠応用集・鷹揚州)」、  「宋祁(ソウキ≠想起・総記・僧記)」

 であろうが、ワタクシの漢和辞典が教えてくれる『唐(トウ・ドウ・タウ・ダウ・から)』の漢字の意味は

 「おおぼら・大言・とりとめもない」で、

 荒唐無稽・唐突

 と言うことだから・・・しかもこれら(新旧の唐書)を編纂執筆した人物の「姓名」の漢字の示唆には、独り合点で、わらチャウのだが・・・笑われるカモ・・・


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