top of page

蝦夷とはナニか?・・・北の海の道・・・


 「日本書紀」に登場する「蘇我蝦夷(えみし・えぞ)」は「毛人」とも記録されていた。そして「蝦夷」は日本の「東北地方」の人々の一般的種族名称であり、その地名的地方、「蝦夷地」であった。近代に於いては「アイヌ人」のことであり、明治以降は「北海道」の「旧名」で、旧名は「渡り島」でもあった。  漢字辞典では 「蝦夷=蝦+夷=(中+ム+尸+二+コ+又)+(一+弓+人)」で、 「蝦」の類字には、

 「暇(ひま)」、  「鍜(?≠鍛)」・・・・鍛冶・「鍛錬之吏」  「鰕(えび・さんしょううお・さんしょうお=山椒魚・牝鯨)」、  「葭(あし・よし・葦・芦・蘆)」、  「瑕(ひび・きず・かけめ・とが・あやまち)」、  「霞(カスミ)」、  「假=仮(カ・かり)」・・・イ+反(厂+又)・ヒトが反する・ヒトはガンダレのマタ

 等がある。音読みは「カ・ケ・ゲ」。「カケ」、「カゲ」の意味の示唆ではある。「鍜(鉄カス?・カナくそ?・鉄屑?)」は私の漢和辞典では発見できなかったが類字に「鍛」がある。熟語には「鍛冶」・「鍛錬」等があり、「鍛錬之吏」は「むごい役人が無理に人を罪に陥れること」とある。  「假=仮(カ・ケ・ゲ・カク・キャク・借りる・偽・贋)」=「イ+反」であるならば、

 「鍜=金+反=鈑(ハン・ヘン・版金=活字=font・板金=いたがね=大判)」

 であるが、「金」に「反する」とは何か?・・・歴史的に「金」とは中国の「清(満州)王朝」の源泉であり、かっては「女真人」とも言われた種族であった。モウひとつの類字は「釵(サイ・サ・セ・二股の髪飾り)」で、V字形のピンセット(pincette・つまみ・鉗子=カンシ)に似ている。「辮髪」は「清王朝のシンボル」であった。更に、かなり似ている字に「金+殺=鍔のアル剣・両刃の鉾」がある。  蛇足的に「金+武(ブリキ)」はオランダ語で、文字自体は「国字」である。「金」の「武」はブリキの鉄板か、ブリキの玩具だよナッ。  「鰕」の意味するところは形態において極端で「海老(えび)」、「山椒魚(さんしょううお)」、「牝鯨(めすくじら)=鯢」である。が、これは、漢和辞典の著者(?)が訓で読ませたい別の意味であるハズだが・・・とにかく、「魚(まな=真名)」の「反(厂+又)=ガンダレのマタ」である。

 「蝦(カ・ゲ)」は

 ①「ガマ・カエル=蝦蟇・蛙」、   「ヒキ・カエル」   「両生類」

 で、「カエルの大きなモノ」であるが、「両生類」とは「水生」でも「陸生」でも出きる「たぐい」の動物である。どうやら「両生類」とするならば、この示唆するところは「ミツイカス・ミツうまれ(御津生まれ・水戸生まれ)」、「ムツイカス・ムツうまれ(陸奥生まれ)」であるらしい。  エゾのカエルとは「両=対=併=兼」、「イカス」なのだ。「烏賊酢」で、「烏(ウ・からす)の賊(ゾク)の酢(ス=酉+乍=ス=州・簾)」・・・「ウ(胡=西域・西欧)」の「ゾク(族)」の「スッパイ(スパイ)」・・・?

 ②「エビ(海老)」で、   「節足動物の一」

 である。

 「エビ(重備)」で  「セッソクドウブツ(拙速同仏・説即導沸・施頭蘇句同弗・洩捉同武頭)の一」。

 両生類のカエルの特徴は「皮膚の色の変化」である。「海老」は「海老で鯛(亀)を釣る」の言葉があり、「蝦」は「蝦蛄(しゃこ)=蝦姑」にも使用されている漢字である。「蛄」は「虫(中ム)+古」の合字である。だが漢和辞典には、

 「蝦姑」ともあり、「姑=女+古」

 である。ここは「おんな(音名)」の「ふるい(振るい・篩い・揮い)」とも考えて欲しい。すなわち、「音名を振る=振り仮名・ルビ振り」と。  「かえる(蛙)」の言葉は、同音異字で、

 「カエル(変える・代える・換える・替える・買える・帰る・返る・還る・孵る・飼える・蘇る・甦る)」

 であることも確認しておきたい。「ヒキカエル」も

 「ヒキカエル(引き換える・引き替える・引き返る・引き帰る・退き返る・弾き返る・弾きかえる・轢きかえる・惹きかえる・曳きかえる・牽きかえる)」等がある。ここは「漢字の勉強」であるから「漢字」を「換える(交換)」と、「引き換える(索引して再交換)」するの意味で考えてもらいたい。「蛙」の類字は「圭(ケイ)+X」の合字で、

 「桂(かつら=鬘・蔓・葛)」、  「佳」、  「娃(アイ・ア)」、  「珪(たま)」、  「袿」、  「哇」、  「鮭(さけ)」・・・鮭=魚(まな)+圭  「硅(石英)」  「圭」、  「卦」、  「挂(カイ・ケイ・かける・ひっかける)」  「奎(ケイ・ケ・キ・また・またぐら)」=文章を司る西の星宿              (月が位置するその日の星座) アンドロメダ座の十六星

 で、「圭」がつく漢字は全てが「月」に存在するモノとして考えられている漢字である。「古事記」で登場するのは「伊邪那岐命」の「右目」から産まれた「月読命」であった。」すなわち、「月の形態変化」である。暦でいえば「陰暦」である。また漢字部首の偏になる「月」は「肉(ジク)」であり、「舟(フネ)」であった。  幕末、明治を考えるならば「毛利藩」の下級武士で、明治維新後、1871年、特命全権副使として欧米諸国を視察し、「参与・参議」にもなった「和田昌景」の次男で、「桂」家の養子となった躁鬱症の「桂小五郎=木戸孝允」か、彼に関係する女性、人物等の示唆だ。  「圭=土+土」が「月のなにか」であれば、幕末の時代的状況に登場した「月形半平太」である。映画、演劇での「月形半平太」とは「土佐勤皇党」の過激派首領で、「尊皇攘夷」の「殺し屋の元締め」で、「吉田東洋」を「那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵」等に暗殺させた「武市半平太(瑞山)」、その人であった。「武市」とは「たけち」とヨム。配下には「土佐勤皇党」を壊滅させるきっかけともなった「人切り以蔵」こと「岡田以蔵」がいた。「武市半平太」は「南画」の画家でもあり、江戸の剣術道場「桃井塾(桃井春蔵)」の塾頭ともなった達人でもあった。「桃生(ものう)」は伊達政宗がノベスパニア(メキシコ)に「支倉常長」を派遣した時に西洋型帆船を造船させた場所で、牡鹿半島と宮戸島に囲まれた石巻湾、仙台湾の北に位置する場所であった。「古事記」では「ヨミ」の国から逃げ出して「モモ」に助けられたのは「伊邪那岐命」であった。しかも将来、「青草人」が困難に陥ったときも「モモ」が助けてくれることを懇願した。「桃」は長寿の果実である。「多遅摩毛理(田道間守)」が「垂仁天皇」の為に「常世国」から求めた「橘(登岐士玖能木實=非時香実=蜜柑)」も長寿の果実であった。「常世」は別意で「常夜」とも記すが、「常識」の「常」の漢字は「常陸(ひたち)」にも使用され、「常陸」は「水戸藩」の地である。「長州(毛利)」、「土佐(山内)」、「常陸(水戸)」が揃って、残るは「鹿児島(島津)」の「西郷隆盛」が登場すれば明治維新を武力で推し進めた「勤皇」諸藩である。「陸奥仙台(伊達)」は東北戦争で微妙な存在だが、分家の「伊予宇和島(伊達宗城)」は「大政奉還建白」の一人で、「王政復古」の「議定」であり、明治維新後は「大蔵卿」、「修史館副総裁」であった。

 もも・・・・・・・・・peach=密告  みかん・・・・・・・Orange=オランダ(オレンギ公国)           ・squeeze the orange=甘い汁を吸う           ・a horned orannge=ぶしゅうかん           ・a mock orange=さつまうつぎ  さくらんぼう・・・cherry=二心(背信・裏切)・対         ・・・cherry bob=二股につながった桜ん坊(錯乱望)         ・・・・・・・bob=対の振り子の玉・断髪(たつかみ)         ・・・・・・・bob wig=短い辮髪のカツラ         ・・・cherry apple=蝦夷りんご

 と番外の

 サツマイモ・・・sweet ptato=甘藷(カンショ)                =あまいも=海部いも =海人妹(妻)                      ↓↓↓↓                     =天武意模

 の裏の意味は「英語」にあるらしい。とにかく「月形半平太」、映画や芝居では、  「月さま、雨が」  「春雨じゃ濡れて参ろう」  が、有名な科白(台詞・せりふ)だが・・・明智光秀の「時雨」は「本能寺(信長)」、北条時宗の「暴風雨」は「神風(蒙古・元)」、藤原氏の「春雨」は「春日大社(東宮=皇太子・皇太弟=交替綴)」、不破の関の「暮雨」は「謀鵜(鵜野讃良)」の古代史で、「壬申の乱」に登場する「高市皇子」は「タケチ皇子」とヨマレテイル人物が存在した。「高市皇子」は「天武天皇」と「胸形君の徳善の女=尼子娘」の間の息子だが、皇位継承者とはならずに「持統天皇」時代の「太政大臣」となった人物である。後に左大臣となり、「藤原」氏の讒訴にあって自刃した「長屋王」の父親であった。  古代史を更になぞって考えれば、「桂(かづら)」は「葛城皇子=中大兄皇子」、「圭(ケイ)」の音は「軽皇子(孝徳天皇)=珂瑠皇子(文武天皇)」、「木梨の軽皇子」に掛けてあるハズだが・・・?・・・「木戸曙立王」に関係する皇子は「トリ」を見て「アギ(安芸)」と声を出した長い鬚の「聾唖(おし)」の皇子「本牟智和気(品牟都和気別)」で、「沙本毘売(佐波遅比賣)」の息子であった。「安芸(あき)」の地名は現在の広島県の西半部である。毛利藩である。明治に「カイザル鬚」が流行ったのは「伊藤博文(実家の姓は林)」がプロイセンの「ビスマルク」の真似をしたからだ。・・・どうやら「蝦夷=毛人」としたいのは元「毛利藩」が生んだ思想家、実父が「杉・百・合・太郎」であった「吉田寅次郎(松陰)」先生の「松下村塾の塾生」に重ねたいイトがあるようだ・・・もちろん「現存・古事記」はその時代を背景にアレンジされたか、「勤皇の志士」の為に改作された「暗号解読源本」に違いない。  明治の「国家神道」は「反本地垂迹説=根葉花実説」で唯一神道を唱えた吉野、平野神社の神主であった「吉田兼倶(1435~1511)」の「吉田神道」を下敷きにし、理論化したモノらしい・・・「鞍馬天狗=倉田典善」などとは愛妻家の大仏次郎もチョット「フランス革命」を美化し、考えすぎて、明治維新に重ねたんじゃないのか?

 「蝦蟇陵」とは中国大陸の地名で「陝西省・長安県城の南」とあり「妓女(教養技芸を有した高級遊女)」が多く、また名酒を産する。これは「白居易」の「琵琶行」にも歌われている場所である。「白居易=白楽天」の有名な詩は「長恨歌」であった。この詩のテーマはタイトルそのものだが「楊貴妃=玉環」の立場に立った「長恨の歌」である。この詩の、

 「113行」には「臨別慇懃重寄詞(別れに臨み、殷勤に重ねて詞を寄す)」  「114行」には「詞中有誓兩心知(詞中に誓い有り、兩心知る)」  「115行」には「七月七日長生殿」、  「117行」には「在天願作比翼鳥(天に在りては願はくば比翼の鳥と作り)」とある。  「118行」には「在地願為連理枝(地に在りては願はくば連理の枝と為らん)」である。

 「蝦夷」の「夷(イ・えびす)」の熟語には「夷則=陰暦の7月の別称」とある。

 辞典を調べれば、日本では「七月」は・・・

 「秋発月(あきはつき)」  「七夕月(たなばたつき)」  「柵機月」  「七夜月(ななよつき)」  「初秋(はつあき)」  「親月(ふづき)・相」  「文月(ふみつき)・文暴月・親月・相」  「文披月(ふみひらきつき)」  「文披月(ふみひろげつき)・書披」  「愛合月(めてあいつき)」  「迎鍾(むかいづき)」  「女郎花月(おみなえしづき)」

 とよばれ、一般的には学校で「文月」と教わるが、「文暴月」とは私も知らなかった。「暴く=あばく」ならば「秘密の暴露」で、「暴れる=あばれる」ならば「乱暴」である。そして漢和辞典には、

 「暴=邪(よこしま)」  「暴=犯(おかす)」  「暴=猛(たけだけしい)」  「暴=害(そこなう)」  「暴=虐(しいたげる)」  「暴=俄(にはか)」  「暴=曝(さらす)」  「暴=暴虎(ボウコ)=暴寅(ボウイン)」  「暴=枯れる」・・・・・かれる・枯=木+古=十+八+十+口  「暴=乾」・・・・・・・かわく・乾=十+日+十+乞      ↓     乾隆帝は「愛新覚羅」の「奴児哈赤(ヌルハチ)=太祖」が             建国した「後金」の系統で、             その後の 「清(満州・女真人・女直・渤海・金)王朝の             第六(陸)代皇帝=高宗(1711~1799)」で、             在位「60」年。             彼がつくらせた             「四庫全書」等は有名。             名は「弘暦」。「世宗」の子。     康熙帝は世祖(順治帝)の第三子で,             第四(肆)代皇帝=聖帝 (1654~1722)で在位「61」年。             彼が「張王書」等に作らせた             「康熙字典(42巻・康熙五十五年・1716)」 は有名。

 等と記してある。「あばく(蛙罵句?=网馬、司馬の句、換える)」、「暴漢(傍観・坊間・防寒)」とはナニ?  中国では「七月」は・・・

 「夷則(イソク)」  「金柔(キンジュウ)」  「残熱(ザンネツ)」  「首秋(シュシュウ)」  「鶉尾(ジュンビ)」  「初秋(ショシュウ・ソシュウ)」  「初商(ショショウ)」  「商節(ショウセツ)」  「蕭辰(ショウシン)」  「上秋(ジョウシュウ)」  「肇秋(ジョウシュウ・チョウシュウ)」  「蓐収(ジョクシュウ)」  「親月(シンゲツ)」  「餞暑(センショ)」  「草秋(ソウシュウ」  「相・相月(ソウゲツ)」  「中元(チュウゲン)」  「賓涼(ヒンキョウ)」  「烹葵(ホウキ)」  「孟秋(モウシュウ)」  「葉落(ヨウラク)」  「蘭月(ランゲツ」  「蘭秋(ランシュウ)」  「蘭涼(ランリョウ)」  「流火(リュウカ)」  「涼月(リョウゲツ)」  「涼天(リョウテン)」

 とにかく、陰暦の「七月」とは「文月」で、  「文暴月」で、  「夷則」であった。  「七月七日=七夕=乞巧奠(キッコウデン)」の  「七の類字」は、

 「匕(めす・カケ・ヒン・ビン)」  「ヒ(さじ・ヒ)・あいくち=匕首=短剣=刀子)」  「ヒ=ひ」

 である。  「夷」の漢字漢字分解は、

 夷=一+弓+人

 である。「イチはユミのヒト」、「ハジメはユミのヒト」、「イチキュウジン」・・・位置求人?、医智救人?、意字求審・・・「ユミ」は「ユメ」にも聞こえる・・・  さて、「余市りんご」をかじりながら、「ニッカウイスキー」をチョット口に含みながら、「蝦夷」なるモノを、

 「風土記日本   ・第6巻(北海道編・平凡社・昭和44年6月15日発行)」

 を下敷きにして考えていきたい。ここに述べることはすべてがこの「本」をベースにしていくモノであるから、これから抜粋したモノには以後、敢えてコトワリ書きをいたしません。  もちろんコレを下敷きにしたワタクシの記述は「同音異字漢字」による「現存・古事記」、「現存・日本書紀」と関連させてのことである。・・・ウイスキー、スコッチ、「蒸留酒」がマワッテイルかも・・・

 ナゼ、北海道の「アイヌ」の「熊祭り(モノおくり=霊おくり)」は

 「イオマンテ」・・・イオ・マン・テ            イオ=盦・猪尾・倭生=イヨ(壹與=臺與)               マン=萬(満・曼・蔓・鰻・幡)                  萬=万・瞞・真務                  テ=出(手・弟・弖・氐)=豸

 と呼ばれているのであろうか?・・・全てのモノにはタマシイがある・・・私の勝手な妄想だが、これは「魏志倭人伝」に登場する「壱與」に関係するのではないのか・・・と、同時にギリシア神話の「イヨ」の話と、「大熊座・小熊座」の「親子の話」が基調になっているのでは、と考えているのだが・・・まったく「言語」の「音と文字」に「トリツカレタラ」どうしょうもない。だが独り言を呟いているだけではなく、他の人々にイイ・タイ、キイテ・モライ・タイ、ミテ・モライ・タイのだ。

 「手宮洞窟」

 この洞窟は、  小樽市手宮に所在し、慶応年間に石工「長兵衛」によって発見された。これを「蝦夷共和国大統領・榎本武揚」によって明治11年に東京の学会に報告され、東京大学の講師「ジョン・ミル」が調査発表。大正2年に「鳥居竜蔵」、大正7年に「中目覚」の文字説が発表された。  これらの人の「名前」と「年号数字」が私にとってはすこぶる「ふざけ(巫山戯)た名前」と「年号」に思えるのだ。

 「石工・長兵衛」・・イシ句・長平(徴兵)・衛  「榎本武揚」・・・・・エノ本・舞踊(武・揚)  「ジョン・ミル」・・・ジョ・ム・ミル(見る)  「鳥居竜蔵」・・・鳥居・竜・蔵=この人物は「鳥居耀蔵」の縁戚者?  「中目覚」・・・・・・中・目・覚

 と、「ニネン・ジネン」、「ナナネン・シチネン」である。

 「余市・フゴッペ洞窟」  昭和25年に発見されたモノ・・・コレは先史時代の遺物を抱合する幾層もの砂層の下にあったモノ。・・・それにしても「余市(ヨイチ)」と読む地名は何か?・・・丸くて赤い「余市りんご●」もあるが、「琥珀のニッカ・ウイスキー」ですな。古代中国の北方種族に「烏丸」と言う人々がいた。これは「日の丸」のことですな。「琥珀(王+虎+王+白)」は「虎目の玉」でしょう。「琥珀」は「木」の「樹液の化石」で、この中には「昆虫(ムシ)」が閉じこめられているのもある。「昆虫=日+比+中+ム」で「ムシ=insect=インセクト=音施句斗=寅世宮渡)」で、「虎のセクト(派閥)」ですな。ギリシア語では「昆虫(ムシ)」は「エンドモ(εντομο)」であった。これって「円度模・燕土母」の示唆(?)で、天体十二支の北東東の「寅の方位」で「鬼門」・・・この「琥珀」が世界的に有名なのはロシア(露西亜)の「エカテリーナ宮殿」に収集されたモノであった。  古代天王の名前で「イリ」がつく人物が記されている。「イリ王朝」等と色々考えている学者もいるが、これは紀元前2世紀後半の前漢時代の地図に存在する「匈奴」の西、アルタイ山脈を越えたところ、「天山山脈」のフモト、「烏孫」の北西の「伊列(イリ)」で、19世紀の「イリ(伊犂」)」です、ナッ。イリ川は「バルハシ湖」に注いでる。ここには東の「鮮卑」から孤立した同属の「鮮卑」が居住していたらしい。12世紀には遼東半島の北方に存在した「遼(契丹)」が征西移動した「西遼」の領地であった。もう少し西にカスピ海、黒海を越えていけばギリシャの「トラキア」を発見するだろう。

 「アイヌ文字」  明治四十二年に発見された「小樽市富岡古代文字」、  昭和12年に発見された「小樽市山田町古代文字」などがあり、  これは「伝世品」と遺されてきたモノであるらしい。  小樽市の駅裏・・・駅横の海産物市場を通り抜け、山に向かった急勾配の「地獄坂」を登った所の・・・「富岡町」はワタクシの父親の現住所でありましたが・・・祖父母は新潟から渡来してき、雑貨のお店をはじめた人々でした。・・・このご夫婦は駆け落ちとか・・・でしたが?

 「鉄の刀子」  コレは、「江別市対雁」の竪穴識墳墓から「後藤寿一」が発見。後にここから出土した土器は「後北b式土器・後北c式土器」と呼ばれ、鉄の「双刃の剣」、「刀子」が同時に発見されたのでこの時代は金石併用時代であった、と言われる。  「現存・古事記」には「八塩折の刀子」のハナシがあります。この考察は「コジキ姫」の小説でも若干触れました。興味のある方は「ヤシオオリ」を踏まえて漢和辞典、古語辞典を調べてみてください。「やし・お・おり」、「や・しぉ・おり」、「やしお・おり」、「やしおり」等とも・・・

 「モヨロ遺跡・モヨロ種族」  いわゆる「網走川口左岸の砂丘上」に存在している「モヨロ貝塚遺跡」である。石器は「北朝鮮・沿海州」のモノと共通し、鉄器類は「奈良・平安朝期」=「唐・遼・金・女真人(女直)」にまたがる大陸渡来のモノであるらしい。

 「元の樺太遠征」  「モヨロ種族」の衰退時期は「元の樺太遠征、対馬、九州の来寇と一致」しているらしい。  「元の樺太遠征」は少なくても中国の記録には「5回」あったらしい。樺太(カラフト)の「マグンタン」、「シラヌシ」に当時の「満州式土城」が存在している。  中国の「蒙古騎馬民族」、「元寇来襲」、「鎌倉時代」から「樺太」は既に知られている「島」。  もちろん、その南の「蝦夷地=北海道」も知られていた。「ジンギス汗」は「源義経」である、なんての説は結構あり、この類で一番面白かったのが「高木淋光」氏の推理小説「ジンギスカンの秘密」でした・・・今から考えるとワタクシの漢字遊びも、これが無意識にアルかも・・・なんせ、「現存・古事記」には「天孫降臨」の会議で、「死んだハズの高木のカミ」が二度も出てくる。そお言えば、「ヴァイタミンB1」が日本人には不足している、とパン、麦食を軍隊の給食に推奨した「明治海軍・軍医」に高名な「高木」と言う人物もおりましたね。この方はその業績をたたえられて南極の地名にもなっている。

 「盛土墳墓群」  日本海岸の石狩から札幌、江別、千歳、太平洋岸の苫小牧に至る帯状低地帯の西側丘陵上に点在する土饅頭状の墳墓群。このなかにある遺物は「蕨手刀(25本)・和同開珎・唐様の刀・袋柄の斧・土師器・刀子・ジョウ子・瑪瑙製の勾玉」が存在し、「奈良・平安朝期」のモノと一致する。

 なぜ剣の柄を「蕨手(わらびて)」にしたのかは、その形が「波」に似ているからではないのか?九州の古墳の壁画には「古代エジプト風の船」とその周りに「波=蕨」+「太陽」+「鳥=からす」+「蛙=かえる」+「人物」が描かれている。  「古代エジプト風の船」だが、この絵の構図がまったく「古代エジプト」なのだ・・・九州の「珍敷塚古墳」、「鳥塚古墳」である。  ・・・妄想をタケルならば「古代エジプト」の「クレオパトラ七世」と「ユリアス・カエサル」の「息子」が、「アントニオス」敗戦後、こっそりアラビア海、インド洋、マラッカ海峡、東シナ海、を経て九州に来た(?)のだ・・・巨石建築を残しながら・・・日本では「イシ」よりも加工しやすく、かなり硬い「キ」が豊富にあった。「キ」の方がはるかに「イシ」より建築材料として利用しやすかったのだ。ギリシャ、ローマ時代、化石燃料をまだ十分に使用しきれない文明は金属を鋳るために山林の樹木を切り倒しては燃やしてしまった。古代中国でも同様であった。とにかく、「古代エジプト人」が歴史的時間をかけて極東の「倭(ゥエィ)」までやってきたんだろうさ。結果、すべて「南北東西の住居」を折衷した木造芸術建築の極みが「日本建築」というわけです(?)。

 「安倍臣の粛慎征伐」  「日本書紀・斎明天皇」・・・安倍臣の遠征                第一回遠征は斎明天皇4年                蝦夷地の「齶田(あきた)」と               「渟代(ぬしろ)」の2郡を征服                第二回遠征は斎明天皇5年               「飽田(あきた)」と               「渟代(ぬしろ)」の蝦夷241人                捕虜31人                「津軽郡」の蝦夷112人                     捕虜4人               「胆振さえ」の蝦夷21人を                一箇所に集めて饗応               「渡島の粛慎」との戦闘で               「トピウ」の                蝦夷「胆鹿島」、「ウ穂名」が               「後方羊蹄(しりへし)を                政所とすべし」と進言

 「砦址」はアイヌ語で「チャシコツ」といい、「砦」は「チャシ」と言う。「茶志内(チャシナイ)」の地名はコレかららしい。私の母が在住している「北海道・空知郡・奈井江」のお隣の町である。  「チャシ」に類似するのは「シャチ」でもあるが、名古屋城の「鯱鉾」と関連しないか・・・言葉の音が逆にもなっているのだが。だいたいからして「古事記」信奉者の「本居宣長」なんてヤツは「尾張藩」の家老スジからかなりの資金援助を受けていたらしい(?)のだ。どこが「国粋主義者」なモンか・・・「ルビ振り人」としては一流の詐欺師なんだろうサッ。  ユウカラには「いたどりまる(虎杖丸)の曲」とイウモノがあるらしい。だが「イタドリマル」の漢字が何故「虎+杖+丸=コジョウガン(胡貞観?)」なのだろうか・・・この曲の中に「チャシ(砦)」の勇壮さが歌われているらしいのだが、「虎杖(いたどり)」とは、

 「タデ科の多年草。白い花が咲く。   地下の茎は健胃剤(ケンイザイ=兼異材)」

 とある。ならば「砦=チャシ=虎杖=いたどり=植物=健胃剤」の連鎖暗示である。「イタドリ」の形状はナニに似ているのか・・・イタドリ、イタトリとはナニか?・・・とにかく「草本学者」は「漢方医」でもある。「日本の植物」に甚大な興味を持った外国人とは「プロシャ人」の「シーボルト(ジーボルト)」であった。  この「チャシ」の番人を「ブンキ=砦の見張り番」といい、敵が現れた時には「オトイバ(ホトイバ)=合図の声」で知らせた。この「オトイパ」には、

 ドイマ・オトイパ  ハンケ・オトイパ  ドイマ・オトイパ

 その返事が「アンプイエカリ=我が耳に聞こえたり」であるそうだ。「アンプ」とは英語で「amplifier」の略で「増音器・増幅器・拡大鏡」で、「注射液のガラス容器」の「ammpoule」の略である。「遠軽の物見」は「インカル・ウシ・ベ」と言うらしいが、「虎杖」に連鎖させるならば「寅化留・ウシ・部」で、「虎狩る・主・部」になる・・・のだが。

 「ミズ」  アイヌ語の「水」は  ウオル=オル=ホル  ペ  ワッカ

 である。英語の「water(ウォター)」は日本人のワタクシには「ワタ」と聞こえるのだが。「わたつみ」とは「海神」であり、「海洋」である。「vodka(ウオッカ)」は「蒸留酒」であり、ロシア語だ。インド語の「アカ」は「水」であった。「輪ッ架」の「イド」を掘れば「水」が出るわけだな。ドイツ語では「コロン(ケルン)」、「エル」、ギリシア語では「ネロ」である。  「山(やま・サン)」はアイヌ語で  「シリ」、「ヌプリ」、「イワ」   であり、  「ピンネ(男)・シリ(山)」   と  「マチネ(女)・シリ(山)」

 は男女の山が「対」になっているモノだ。「川(かわ・セン)」は「ベツ」と「ナイ」である。なるほどである・・・邪馬・纂・・・知り・支離・尻・・・叉振り・手不離・・・違和・磐・岩・・・化倭・皮・革・側・懸話・・・撰・泉・潜・・・「別」と「内・名意」ではあるな。

 「クジラ(鯨=魚+京・くじら)=フンペ」   と  「シャチ(鯱=魚+虎)=レプンカムイ」

 近年、青森県の丸小山古墳が発掘され、その場所から「くじら」の骨が発見されている。「捕鯨」は「長い紐のついた銛」の先に「トリカブト」の根から採った「ブシ」と言われる「毒」を塗ったモノを鯨に打ち込んで、その獲物をし止めるのだ。この「ブシ」はあらゆる狩猟のときにも使われた。  ユーカラ、「アーオロン」に謡われている「鯱(レプンカムイ)」は鯨を沖から海岸や浜辺に追い込む「海の王者=沖の神」として崇拝され、敬られていた。この「シャチ」の呼称は、

 トマリ(入り江)・・コル(支配)・・カムイ  アトイ(海)・・・・・コル(支配)・カムイ  レプン(沖)・・・・・・・・・・・・カムイ  レポロン(沖)・・・・・・・・・・・カムイ  カムイ・チシ(船)  チオハヤク(恐れ、かしこむ神)  イソ(海)・ヤンケ(幸)・・・・・・カムイ

 等と言われた。「オキナ」は「海を支配する神」の意味であるらしいが、日本語の「翁(おきな)」は老人のことだ。「翁」の漢字分解は「翁=八+ム+羽」である。「オ・キ・ナ」、「オキ・ナ」、「オ・キナ」とは何だろう?・・・「尾・紀・名」、「沖・那」、「将、記名」、「沖の茄」、「沖の拿」・・・  ならば「オキナ」とは「海人族の長老」と言うことだナっ。しかも「尾州」、「紀州」の「那」である。北海道開拓にかかわった「尾州の殿様」もいたらしいが・・・

 「アイヌ」と「大和朝廷」との交易  「日本紀」・・・越前の豪族「阿部氏」が秋田、能代を超えて「ヒグマの皮」を得て朝廷に献上した。

 安倍氏・・・藤原氏     ・・・源氏     ・・・安東氏     ・・・津軽の十三湊(トサミナト)は一大拠点     ・・・捕鯨が盛んだったのは四国土佐     ・・・・蝦夷松前・・・下北半島の蠣崎氏

 津軽の「安東氏」・・・「ナガスネ彦」の兄、             「安日彦」の子孫             「阿部貞任」の子孫

 「アイヌ族の叛乱(?)」  「コシャマインの乱(康正二年・1456~57)」  「ナウケの乱(1643)」  「シャムクシャインの乱(1669)」  「クナシリ・メシナの乱(1789)」

 「コシャマインの乱」は  「新羅之記録(蝦夷松前藩の最古の記録)」によると、  箱館(函館)付近)の志苔村の鍛冶村・・・昆布の産地で足利時代の「庭訓往来」にあげられた「宇賀昆布」がここのモノらしい。この鍛冶村の職人にアイヌの酋長が小刀を注文し、受け渡しのときにその切れ味について争いがあり、鍛冶屋は使いのアイヌの少年を殺してしまった。これが乱の発端であったらしい。これにより蝦夷に住む倭人の豪族はアイヌに攻められ不利になったところ、上国の「蠣崎李繁のところにに寄寓していた若狭国守「武田信広」」が総大将の「コシャマイン」親子を射殺し、コレを鎮定した。この「武田信広」が「蠣崎氏の養子」となって盟主となり、この子孫が「松前氏」となったらしい。

 「蠣崎信純」  「南部家」の記録によると、  下北半島蠣崎の豪族「蠣崎(カキザキ)・蔵人・信純」が「南部家」の討伐を受け蝦夷地に逃げ込んだとある。この人物は南北朝時代、陸奥国司となった「北畠顕家」の目代となった「武田修理大夫」の子孫である。これによって「武田信広」=「蠣崎蔵人」であるらしい。この乱には「蒙古、韃靼」人等も加わったらしく、奥羽騒乱の一部として起こったらしいのだ。  「カキザキ」なら「柿崎・蛎崎」でもある。  「書きの元、比の図間、賂」ではないか・・・  「蒙古人・韃靼人」とは「蒙古」ならば「元王朝」の血統、「韃靼(渤海・遼・女真・金・満州)」ならば「清王朝」の血統である。それに「武田(たけだ)=蠣崎(かきざき)」であるが、なぜ「蠣崎」の漢字なのであろうか?・・・「蠣=虫+厂+萬(中+ム+厂+艸+甲+冂+ム)」で、「崎=山+大+可」である。

  蠣=虫・・・むし      ・・・チュウ      ・・・英語では「insect・worm」     +     厂・・・がんだれ・・・カン・ガン     +     萬・・・よろず・・・・マン

 あるいは

   =中・・・なか・・・・・・・・・チュウ・ジュウ     +     ム・・・よこしま・・・・・・・シ     +     厂・・・まだれ・・・・・・・・ガン     +     艸・・・くさかんむり・・・・・ソウ     +     甲・・・きのえ・かぶと・・・・コウ     +     冂・・・まきがまえ・けいがまえ・ケイ・キョウ     +     ム・・・よこしま・・・・・・・・シ

 そして

 崎=山・・・やま・・・・・サン    +    大・・・たい・・・・・ダイ    +    可・・・べき・べし・・カ

 これらのルビの平仮名、片仮名の同音異義、同音異字で考えてもらいたい。たとえば「冂」は・・・  ・まきがまえ(巻きが前)  ・けいがまえ(経が前・軽が前・景が前・慶が前)  ・ケイ(毛意・毛医・懸異)  ・キョウ(今日・鏡・教・匡)  等と・・・。

 「蝦夷地の鷹(たか・ヨウ)」  「蠣崎氏」が「豊臣秀吉」から「鷹の公逓免許状」を得て、徳川時代もこれを継続した。  「鷹」の捕育は松前藩の財政源であった。  「鷹(たか)」と「鷲(わし)」と「鳶(とび)」と「隼(はやぶさ)」は漢字が違うが同類の「禽獣類」である。英語では「鷲」は「eagle(イーグル)」で、ドル貨幣に刻まれている米国の「象徴」である。「キャピタル」は「ワシ・ン・トン」ではあるな。「hawk(ホーク)」は「鷹(たか)」である。「kite(カイト)」は「鳶」だが別意で「詐欺師」であった。「雁(かり・ガン)=鴈」は「V字形」に編隊を組んで月夜に飛ぶ渡り鳥であるが、類字には「贋作(ガンサク)」の「贋(にせ)=偽=似」がある。  「古事記」、「日本書紀」に登場する「蝦夷=毛人」なる人物は「近習・禁中」の「贋作」である示唆だろう。多分、元々「ヤマト」に存在した「王朝」のモノとしては「蘇我氏=蝦夷族」なのだ。  で、「豊臣秀吉=太閤(タイコウ)」だがタイコウの同音異字には次のものがある。  タイコウ=対抗・対向・大光・大興・退行・体腔       大功・退校・大公・太閤・大行・大綱  この漢字を観て「豊臣秀吉」を疑って考えない「歴史屋」はアンポンタンかも・・・。序でに「豊臣秀吉」に関する面白い話(?)を「邪馬台国・ハンドブック(安本美典著・講談社・昭和62年3月3日第一刷発行)73頁」から見つけたから紹介しておこう。  豊臣秀吉は朝鮮を攻めた。そして、当時の李朝朝鮮の首相であった柳成竜(りゅうせいりょう・1542~1607年)は、その著『懲比(比+必)録(こりて、つつしむ記録の意味)』のなかで、つぎのように述べている。

   「万暦丙戌(万暦十四年=1586)     平の賊、秀吉、     華人を以て流れて     日本に入る(中略)。     自立して関白陸侯となり、     諸酋を虐滅し、州島を統合す。     この時、     源の家康、城によりて服さず」

 ?・・・これを著者(安本美典)は「外国史書」の事実に反する記事の実例としてあげている。「邪馬台」を推理思考するときの彼の立場には他者の説に対して慎重な「懐疑的で、合理的な立場」を採ってきたのに、『懲比(比+必)録(こりて、つつしむ記録の意味)』に対してはその立場を吹っ飛ばして「事実・史実に反する」と一言(?)で決めつけている。「豊臣秀吉=日吉丸」に関する「史実・事実」として日本人のダレが今現在、詳細に知っているのか・・・?・・・ましてや、「キコリ」がご先祖さまであったとかの説もある徳川家康の出自についても、オヤ。「豊臣秀吉」は「華人」カモねっ?・・・「華人を以て流れて日本に入る」の意味はナンダ?・・・柳成竜の「情報源」は何処にあったのか?・・・豊臣秀吉が中国、明国の皇帝になりたかった理由はナニ?・・・「サル」とか「はげ(ハリ)ネズミ」とかのニックネームの由来は?

 「砂金堀」  「蝦夷地」はこの時期(幕末)に於いて西欧人の「黄金のジパング」、幻想のエルラルドであったのだ。

 「中国」  「山海経」の「海外北経」にある記録には  長白山の北方に粛慎という国があり、その向こうに魚の皮の着物を着る「玄股」という民族あり、その北に全身毛深い「毛民国」がある。  と記録されている。「玄股」は後に「魚皮韃子」と呼ばれ、鮭の皮を衣服や天幕などにりようする黒竜江(アムール川)河口の「ゴルチ」、「オリュチャ」等のツングース族をさしたものであるらしい。  唐(胡)の貞観十四年(640)に「流鬼(リュウキ・ルキ・からふとアイヌ)」が入貢している。

 「元兵の   カラフト派兵、   駐屯」  中国の元王朝は「至元」元年(1264)に樺太(からふと)に軍勢「3000人」を派兵、駐屯させた。  中国の明王朝は「永楽」九年(1411)、「宣徳」七年(1432)に樺太に遠征軍を向け、黒竜江付近に政庁を設けた。  中国の清王朝は黒竜江付近の酋長に「カシンダ(郷長)」、「ハラダ(姓長)」等の位階を与えた。  「皇輿全覧図」は1717年にフランス人の「バレーニン」等の手によって作られ、黒竜江河口に  「サガレン・ウラ・アンガ・ハタ」  と、言う島が描かれており、これが「樺太」である。  「樺太(からふと)」は「日露戦争」の結果、日本が「ロシア(露西亜)」より割譲した膨大な血をアガナッタ領地であった。  ワタクシの父方の祖母の兄夫婦は第二次世界大戦の敗戦前後まで樺太の漁港で海産問屋を営んでいたらしいが、この夫婦には跡取りの子供がなく、私の父親の次兄が幼児の時からこの海産問屋の養子となっていたそうだ。わがままし放題の人らしかったが、モノ心ついた13,4歳のころ番頭さんから事情を知らされて、ショックを受け、実の母に会いたい一念で、北海道の小樽の実家に独りでポツンと戻ってきたそうである・・・彼を養子に出した祖母の立場は苦しいものだったとは思うが・・・その後、この「樺太」の「海産問屋」がどうなったかは定かではない。  終戦間際、「ソ連軍侵攻」によって、樺太から引き上げる途中、船が撃沈されたとも。北方の樺太・・・どこでも「地政学的」な島や国境の要地となる場所は生き血を吸い込むのは必然で・・・ここも歴史的にその場所であったようだ。  「康熙帝」の康熙四十八年(1709)に耶蘇会士が命令を受けて黒竜江沿岸を実測、樺太に渡航、その北部を測量し、北緯50度近くまで踏査し、中国地図上に描いた。「樺太(からふと)」は日本人が「唐人(からひと)」を訛ったモノらしい(?)。

 「キリシタン」の耶蘇会士「ジェロラモ・デ・アンジェリス」  耶蘇会士「ジェロラモ・デ・アンジェリス」は「元和二年」に津軽に流されたキリシタンを慰問した。その時に彼は津軽の深浦から出帆し、「蝦夷が島」に渡航。上国(かみのくに)付近に着き、徒歩で松前城下に入った。この地では「乙人(おとな)」の待遇を受け10日ほど滞在してキリシタン信徒の「告解」を受けて出羽に戻った。元和六年に再び蝦夷地に入り詳細な報告をした。同僚の「カルワリオ」も「六年・七年」に蝦夷地に渡っている。  耶蘇会士「ジェロラモ・デ・アンジェリス」の作った地図には、蝦夷地の  「テッソイ(天塩)」、  「マツマエ(松前)」、  「コーライ(高麗)」  等の地名が記録され、「韃靼」と「蝦夷が島」は狭い海峡になっている。

 「カルワリオ」の記録  彼は金掘坑夫に変装し蝦夷地に渡り、金山に存在していた隠れキリシタンのために「8月15日」の「聖母昇天祭」を祝った。ここにいた隠れキリシタンは寛永十四年(1637)の「島原の乱」があった後の寛永十六年に蝦夷地の大沢、知内、石崎の金山に潜伏していたが松前藩はこれら「106人」を捕らえて斬首にした。「正保元年(1644)」に「日高の様似」の金坑で隠れキリシタンの「児玉喜左衛門」を捕らえて江戸に送った。  この時点で蝦夷の隠れキリシタンは絶滅したらしい。

 「金銀島=蝦夷?」  耶蘇会士の報告には「蝦夷が島」には金塊がいたるところにあると報告されていた。「金銀島」の発端は「元王朝」に仕えた「マルコポーロ」の「東方見聞録」の「ジパングリ」。その後天正十年(1582)にマニラを出帆した西班牙(スペイン)船が漂着したと言われる「金銀島」が「北緯35度半」に描かれた。その実在確認のためにスペインは慶長十六年(1611)から二ヵ年に渡って「セバスチャン・ビスカイノ」を派遣調査。オランダは寛永十六年(1639)に「クワスト」と「タスマン」を派遣。そして寛永二十年(1643)には「ド・フリース」を派遣した。

 「ド・フリース」の蝦夷地探検  彼は二艘の船に50人あまりの乗組員でジャワのバタビアを出帆、暴風雨で船は別々になったが彼は北に進み襟裳岬を発見、蝦夷地南岸を沿って東に進み「エトロフ島」を発見し、この島を「スターテン・ランド(国家島)」と命名し、さらに「ウルップ島」を発見上陸し、この島を「コンパーニース・ランド(会社島)」と命名した。その後オホーツク海に出、北見海岸に沿って西へ進み「樺太島」南岸の「亜庭湾」に上陸。さらに樺太東海岸に沿って北上、北緯50度付近に到達。その後「厚岸湾」に入って船体を修理、岐路に着いた。この時に彼は「松前藩」の蝦夷交易船と合い、「上乗役・小山五兵衛」、「船頭・弥兵衛」が彼の船に乗船して検閲した。  この時に「ド・フリース」は蝦夷の東部海岸を実測図を描いた。だが、樺太と蝦夷地の全貌は未知であった。  「天明三年(1783)」にフランス人の「ラ・ペルーズ」、そして「寛政七~八(1795~96)」にはイギリス人「ロバート・プロートン」の「ブンスロヴィッデ号」の探検船で蝦夷地の実測全貌が見えてきた。

 「ロシア(露西亜・・・西、             あまねく、             露見する)」・・・西周(にしあまね)?  拠点は東部シベリアの「ヤクーツク」に政庁(1642・寛永十九年)をおいた。千島列島の発見と進出。  「ド・フリース」の探検は「ウルップ島」以東には及ばず、この島をアメリカ大陸の一部と考えていた。  カムチャッカを征服してその南端に達して「千島列島(クルムヤ15島)」を発見したのはロシア人であった。1729年、その命を受けたロシア人、コザック隊長「セスタコフ」の作った地図の「島名」は、  シュムシュ(占守)  パラムシル(幌延)  オニクタン(温禰古丹)  アラマクタン(春牟古丹)  シャスクタン(捨子古丹)  シコク(雷公計)  モトゴ(本輪)  シャショヴォ(羅処和)  ウシシル(宇志知)  カトイ(計吐夷)  シムシル(新知)  ウルップ(得撫)  エトルプ(択捉)  マツマイ(松前)  シリンキ  イクンバ  イカルマ  マシャウチ  イガクツ  等など。この「シコク島」には既に倭人がアイヌとの交易のために存在していた。  確かに「蘇我蝦夷」は「島大臣」と呼ばれていた・・・のだが。

 「日ロ交渉」  「安永九年(1780)」の記録(?日露)にはロシアが「絹二巻、漆塗り御椀3個、雨傘1個、小刀1梃」、日本が「砂糖若干」とあるらしい。アイヌ人は交易ロシア人のことを「フレーシャム=赤い隣人」と呼んだ。日本人は「赤蝦夷」と呼んだ。仙台人の「工藤平助」は長崎の通訳からこの事態を聞き、また松前藩の国後に関する事情通に聞いて「赤蝦夷風説考」を著作した。「天明十五年(1785)」に老中「田沼意次」が幕府財政の建て直しから「青島俊蔵」等の5人の普請役を蝦夷地に派遣調査させた。

 「最上徳内」と「蝦夷草紙」  彼は羽前国(山形県)の貧農に生まれ、タバコ行商人として奥羽を行商し、後に江戸小石川の「音羽」に塾を開いていた越後出身の「本田利明」の門人であった。この「本田利明」が「青島俊蔵」に「最上徳内」を推挙して「竿(棹)取り」として同行させた。・・・「古事記」では「神武東征」に登場する「サオツネ彦」の役ではアル。天明五年(1785)に「最上徳内」は国後(クナシリ)島まで行き、翌年に「択捉(エトロフ)島」に渡った。そこでロシア人同士の内輪もめから択捉島に上陸していた「イジュヨゾフ」等の3人のロシア人に出会っている。このロシア人たちはロシア本国に送還帰国したいとのコトで彼はロシア人たちを松前藩士に引渡し、再度戻って「ウルップ島」に渡り、「マカンルル」、「ヤンゲチリポイ」、「レブンチリポイ」等の島々を測量した。だがその後「田沼意次」が失脚して「蝦夷地普請役」も解散されてしまった。  この時のアイヌ人の中にはロシア人に影響されたキリスト教信者も存在していたらしい。  その後寛政元年(1789)に「アイヌの反乱」があり、再度、名目「長崎奉行俵物御用」、実は隠密となった「青島俊蔵」とともに蝦夷地に渡った。だが、「青島俊蔵」は密偵の役を果たさず、松前藩に懐柔されたことで牢につながれ、「最上徳内」もこれに連座した。  老中「松平定信」は「徳内」を無罪放免し、普請役に取り立て、「寛政二年(1790)」に「蝦夷地御救交易御用」として蝦夷地に派遣した。この役は「松前藩によって過酷な使役・不当交易を受けていたアイヌ人救済」を主旨とするものであった。

 「アダム・ラクスマン」   と  「光大夫・小市・磯吉」  「天明二年(1782)・十二月」に「伊勢白子村」の「彦兵衛」所有の「神昌丸」の船頭、乗組員「光大夫・小市・磯吉」が駿河灘で暴風雨で遭難、漂流すること8ヶ月、アリュート列島の「アミシツカ島」に漂着、カムチャッカに渡って、ロシア帝国に保護され、その後、「寛政三年九月」に「ラクスマン」指揮する「エカテリーナ号」にて根室のサラハン沖に送り届けられたきた。  「寛政十年(1798)」に幕府は「近藤重蔵」の蝦夷地調査隊を派遣、その案内役として「徳内」は再度蝦夷地「エトロフ島」に渡った。この調査隊の報告に基づいて蝦夷地太平洋岸一帯を幕府は松前藩から仮に上地し、「蝦夷地取締役御用掛」を置いた。  「光大夫」の小説は「井上靖」氏だったか・・・ナ。

 「蝦夷方言藻汐草」と「渡筆記島」  この調査隊での通辞役の「上原熊次郎」、「阿部長三郎」が収集したアイヌ語の「アイヌ語字引辞典」が 「蝦夷方言藻汐草」である。「最上徳内」はコレに「序文」を書き、出版も助けた。さらに彼自身も「アイヌの風物」を「渡島筆記」として記録した。

 「近藤重蔵」  彼は24歳で「聖堂学問吟味の単科」を合格し、長崎奉行配下の下付となった。彼の著書には外国事情を紹介した「清俗紀聞」と「安南紀略」がある。「寛政十年」に「エトロフ島」に「最上徳内」とともに渡り、南端の「タンエモイ」に「大日本恵登呂府・寛政十年・戊午七月」の標柱を建てた。また、「留辺志別」から「ビタタヌンケ」に至る道路をつけた。  そして、彼は「源義経」の遺跡を探るために日高の「沙流川のハヨピラ」、「鵡川のキロロ」等の上流地域を探検した。翌年に一体の「義経像」を持ち来たって「沙流川の下流に義経神社」を造った。その木像には、

 寛政十年巳未四月二十八日            近藤重蔵、   藤原守重            比企市郎右衛門、藤原可満

 と記録されている。これらの「名前」と「場所の地名」に「!?」の興味を抱かない「歴史的事件の推理屋」はダメだろうな(?)。  「辺要分解図考」は「近藤重蔵」がロシア領から来たアイヌ人から北方の情報を聞いてその地図を作成したものである。択捉島のアイヌ人にキリスト教徒が存在するのを報告し、「文化元年(1804)」に蝦夷地に寺院を設けた。  厚岸の  「国泰寺(禅宗)」、日記の「日鑑記(1861~64)」がある。  様似の  「等樹院(天台宗)」  有珠の  「善光寺(浄土宗)」、蝦夷最古の板木の「念仏歌」がある。

 「間宮林蔵」  彼は寛政十二年(1800)に「伊能忠敬」の蝦夷松前から根室実測の後、その残りを実測し「蝦夷実測図」を完成させた。これを基礎に「高橋景保」が「大日本沿海実測図」の蝦夷地図を完成させた。  「間宮林蔵」は東海岸を「タライカ」まで、「松田伝十郎」は西海岸を「ラッカ岬」まで見極め、「樺太=サハリン」が島であることを確認した。さらに「間宮林蔵」は黒竜江口まで渡り、下流の満州政府の出張所まで赴き、情報収集をした。  「間宮林蔵」は絵図師「秦檍麻呂(はたあおきまろ)」こと「村上島之允(むらかみしまのじょう)」の弟子でもあった。  「間宮海峡」とは彼の探検を讃えた「シーボルト」がその弟子(間宮)の名前を「地図」につけた記念すべき「海峡名」であった。そして「間宮林蔵」は幕府に忠実な「隠密」でもあったのだ。・・・「間者=忍者=間諜=スッパ=スパイ=007」と言う概念はいつの時代からなのだろうか・・・百地三太夫、戸川白雲斎、石川五右衛門、服部半蔵・・・ジェームス・ボンドとは何者?  ・・・「シーボルト事件」で「獄死」した「高橋景保」は「世界を知りたかった」ダケなのに「獄中での死後」も刑期を全うするまで「塩漬け」にされたのである。彼のイシは「古事記神話」の「塩(エン)=しお=鹵=鹽=鹹」による「国(地図・輿)つくり」となったのではあるなっ・・・「鹵(ロ)」に類字するのは「歯・齒(は・シ)」・・・もちろん、「密告者」は「間宮林蔵」であった。英語辞典で「もも(桃)」を調べてみて欲しい。「ピーチ」は「密告者」とも・・・「現存・古事記」に登場する「モモ」は誰?・・・「モモ太郎」ってその「寓意」はナニ?

 「高田屋嘉兵衛」  と  ロシア海軍大佐  「ゴロウニン」  「文化八年(1811)」に「ゴロウニン」は二隻の軍艦で千島列島を南下、国後島に上陸して薪と水の援助を守備兵の津軽藩士に請うて束縛され松前に幽閉した。コレに驚いた露西亜軍艦は「高田屋嘉兵衛」の乗っていた御用船を襲った。そしてカムチャッカに連行されてコトの事情を尋問され文化二、三年の蝦夷地に対するロシア人の横暴を明らかにした。  この結果、「高田屋嘉兵衛」を仲介斡旋人として、ロシアは松前藩に遺憾の意を表明し、幕府は「ゴロウニン」以下を釈放した。  「御浪人」を「牢屋」から釈放すると、どういうことが起こたのか・・・「語浪人」、「呉楼人」とは誰か?・・・「ジェラード警部」の見解では、「キンブル医学博士」だが・・・ワタクシの見解では、モチロン、御浪人が牢屋に連行され「牢名主」になって、放火逃亡したのは「高野長英」である。同じ環境で逃亡しなかったのは『堀達之助』で・・・『英和対訳袖珍辞書』を「文久二年(1862年)」に完成させた人物なのだ。彼はドイツ人の『リュドルフ事件(安政二年・1855年)』で「伝馬町の牢獄」に入牢。彼の罪状を沙汰したのは「奉行」、『水野忠徳筑後守』。入牢中に「牢名主」になって、火災(安政五年十一月・西暦1858年)が起き、牢外に出されたのは全く「弘化二年(1845年)」の「永牢」となった『高野長英』と同じであった。  択捉島の番人「五郎治」は文化四年にロシア側に捕らえられた人物だが、シベリア放浪中に「種痘術」を学び、日本で最初の「種痘」を試みた。  「種痘」・・・「おおた・たねこ」のことだろうか・・・

 「阿部伝次郎」  「箱館戦争・明治二年(1869)」で  「榎本武揚」の政策を石狩で請け負った人物。

 榎本武揚 =木+夏+本+武+揚  榎本釜次郎=キのナツの本、カマのツギのイラッコ

 は同一人物の名前である。この漢字分解からあなたはナニを推理憶測するだろう。「榎本武揚(釜次郎)」は後に特命全権大使として露西亜に駐在(1882)。千島樺太交換条約を締結。さらに1885年には清国駐在公使として全権「伊藤博文」を援助して「天津条約」の締結に尽力した。「天津条約」とは「「天孫譲訳(常訳・丈訳・譲訳)」じゃないのか?・・・「武」を「揚げる」とはね・・・  また「アベ」はナゼ「伝次郎」なのかネッ。

 「五稜郭」の築城  「安政四年」から「元治元年(1864)」に箱館奉行諸術調所教授「武田斐三郎」が「オランダ築城書」を基に設計し、完成。

 「北海道共和国(1868・12・15)」  総裁  副総裁  七奉行・・・海軍・陸軍・会計・「箱館、松前、江刺、室蘭(開拓奉行の根拠地)」  年号は「慶応」を使用  「榎本武揚」は「函館戦争敗北後」に  「海律全書・二巻」を政府軍に贈った。  「小林重吉」持ち船の  「虎久丸」の「水主、水手」は  「榎本武揚」が海中に張り巡らした  「大索条」を切断した。

 以上、抜粋してきた記録上の  「人名」、  「地名」  を  「現存・古事記」、  「日本書紀」、  あるいは  「日本史年表」に重ねてみたら、コレが重なるのだ。  もちろん  「徳川光圀」の  「大日本史=明治維新政府の日本史製作」  の改作改竄の苦労の跡が・・・


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page