ギリシャの哲学・ヒッポクラティスと 「古事記・字源」(2)
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
吉村昭氏の小説によれば、彼『堀達之助』の辞典は「横長で通称、『枕辞書』」と云われたらしいのだ。『枕』である。『袖珍(袁沈)=シュウチン=周枕=舟沈=拾枕=酋鎮』、『修陳』である。『中山(重纂)』である。『西(似詞)』である。『古賀(故臥)』である。『達(竜・巽・辰・建・他柘・多柘)』である。「たつ・たち」に掛かる「枕詞」は「たった(竜田・立田)山(やま・サン)」、「歌枕」は「たった川(かわ・セン)」で、奈良「平城京の『西』の生駒郡三郷町立野の竜田神社近辺」に存在する「山川」で、「紅葉の名所」だ。「たった」の同音異字は、
「起った・立った・絶った・裁った 足った・経った・発った・建った 断った・炊った・焚った・奉った」
で、「山(やま・サン)」の同音異字は、
「纂・算・蚕・杉・讃・燦・餐 三・参・産・桟・惨・蒜」
等である。古語辞典の「枕詞」の説明によれば、
「枕詞は、 主として和歌にみられる修辞用語で、 一定の語にかかって、ある種の情緒的な色彩をそえたり、 句調を整えたりにするのに用いられるが、 主想とは直接に意味的な関連のない語である。 五音が普通」
とある。「主想とは直接に意味的な関連のない語である」であるならば、「何に間接的に関連」するのか?・・・私は「意味的に関連のない語」であるはずがナイ、と考える。「情緒的な色彩をそえたり、句調を整えたりにする」ダケではあるまい。 「枕の中の種草(諏扱)」は 「もみがら・あずき(小豆)」である。 「たった山(サン)」、 「たった川(セン)」は 「主想の裏に掛かる異想(意想・位相・医操・易操・移送)か、 奇想(起草・帰巣)、 別想(=捌想=八想=発想)、 訳想(薬草・約想=新約、旧約聖書)」 に対する、それ自体の「掛言葉」なのだ。 そして、「枕詞・歌枕」が掛かる「地名」をも・・・例えば 「竜田川」、 「竜田山」の場所、所在地は、
平城京・・・ヘイジョウキョウ ↓ ↓ ↓ 並 所、有虚 有 (キョウ=経・鏡=かがみ=鑑=歴史) 『西』・・・にし・・・・・・・セイ ↓↓ ↓ 似詞(螺・爾志) 姓=歳・声・整・世・星・生・逝 生駒郡・・いこまグン 「医独楽(獨学)・意狛・委小間・詑護摩」の群 ↓ ↓ ↓ 読学=釈学=解学=疾学=毒学 委胡魔軍(異拠真具務) 三郷町・・サンゴウチョウ ↓ ↓ ↓ 纂 合 調(帳・張・諜・肇・長) 立野・・・・たちの(達之)・・・リツヤ ↓↓↓ ↓↓↓ 他知之(乃・廼・埜)裏柘也
等である。 『堀達之助』は 「シーボルト事件(文政十一年・1828年8月~12月)」での 『高橋景保』の獄死(1829年)、 連座した養父 『堀儀左衛門』の投獄、そして 「蕃社の獄(天保十五年六月・西暦1839年)」での 「渡辺崋山」、 「高野長英」等が獄につながれたように ドイツ人の 『リュドルフ事件(安政二年・1855年)』で 「伝馬町の牢獄」に入牢した。 彼の罪状を沙汰したのは「奉行」、 『水野忠徳筑後守』であった。 入牢中に 「牢名主」になって、 火災(安政五年十一月・西暦1858年)が起き、 牢外に出されたのは全く 「弘化二年(1845年)」の 「永牢」となった 『高野長英』と同じであった。 しかも当時の 「奉行」は 『鳥居耀蔵』、 老中は 『水野忠邦』だ。『水野』である。違うのはしたたかな『高野長英』は逃亡し、『堀達之助』は逃亡せず、その後 「安政の大獄」で入牢した 『吉田松陰(寅次郎)』と同じ屋根の牢獄にい、 『吉田松陰』は 「安政六年十月(西暦1859年)」に斬首され、彼は 『古賀謹一郎』の請願によって出獄(出牢)させられたことだ。 付け加えるに 「安政五年・1858年八~九月」には 『暴瀉(コレラ=虎列刺)』が大流行し、 「死者二千八百人余」と歴史年表(中央公論社・日本の歴史別巻5)にはある。 火災、地震、旱魃(干ばつ)、暴風雨、洪水での大災害はこの時代の記録だが、季節による『疫病』や『流行病』は日常茶番であったハズだ。 漢和辞典には 『暴瀉(コレラ=虎列刺)』の 「瀉(シャ・そそぐ)=水(さんずい)+写(うつす)」 とは 「降り注ぐ・流し込む・流す・ながれる・除く(排水)・吐く・もどす・くだす・くだる・もれる・下痢・不毛の地」 と記されている・・・ そして 「コレラ」は「虎の列を刺す」である。 『虎=寅=耽羅』の『列』を『刺(さす・シ)』である。 「翼の付けた虎」とは『天武天皇』であった。 彼の皇后は 『持統天皇』であった。彼女は 「日本書紀・参拾巻」では 「伊勢神宮」ではなく、頻繁に 『竜田神社』への参詣、伺いをしている。その理由の記述はない。だが、たった一度だけではない・・・ 「百度参り」もしたカモ?・・・ 「百会」とは「脳天・頭の中央」のことだ。ここへの「指圧」や「お灸」の効果は「下痢」に関するものだ。 「百日咳」とは「子供の伝染病で、長い間、痙攣(けいれん)性の咳が出る病」だ。 「百日紅(ヒャクジツコウ)」とは 「さるすべり(紫薇の統べ理)」の別称である。 「百年目」とは「めったにない好機」で、「陰謀が露見」し、「もはや、おはり(終わり・尾張)」のことだ・・・「ココであったのが百年目」とは「浄瑠璃・歌舞伎」で吐かれる言葉で、憎っくき「仇(敵)」に出会ったときのコトバである。 「藤原定家」は 「嵯峨」の 「小倉」の「山荘」で何故、 「百人」もの 「一首」を撰んだのカネ・・・?
「天つ風、雲の通ひ路、吹き閉じよ、 をとめ(乙女)の姿、しばしとどめむ」 「ちはやぶる、神代も聞かず、 竜田川、からくれないに、水くくるとは」 「山川に、風のかけたる、 しらがみは、ながれもあへぬ、紅葉なりけり」 「風をいたみ、岩うつ波の、おのれのみ、 砕けて物を、思うふころかな」 「瀧の音は、絶えて久しく、なりぬれど、 名こそ流れて、なほ聞こえけれ」 「嵐ふく、三室の山の、もみじ葉は、 竜田の川の、錦なりけり」 「音に聞く、高師の浜の、あだ波は、 かけじや袖の、ぬれもこそすれ」 「玉の緒よ、絶えなば絶えね、 ながらへば、忍ることの、弱りもぞする」
そして「百人一首」にある「掛言葉」は、誰かが別の意味で「利用」したのじゃないか・・・「歌の番号」や「作者の名前」を・・・ ギリシャ語で 「風邪」は 「クリオメノス(κρυωμενοs)」。 「グリピ(γριππη・grippe=英語)」とは 「インフルエンザ」である。 ここは 「日本書紀」の 「三十巻」の 「持統天皇の頁」を 「繰れ、緒は女の之(埜・乃・廼・野)の州(素・簾・諏)」だ。 スナワチ、 「もみ字」を散らす『竜田の風の神』だ。 「グリピ」とは、
「愚理妃」、「愚理非」 「具理非」、「句狸比」 「求裏(履)比」、 「グリッピング(切抜き記事)」か、 「grief(不幸・災難・苦痛)」、 「griff(胴が獅子、頭と翼が鷲の怪獣)」、 「grip(にぎり・理解力・会得・呑込み 小溝・下水道・下水の溝)」 で、英語の「grippe」、「グリ、グリ、ピィー」とはまさに「下痢(げり)」である。ならば、これを「解理」せよ、と云うことだ。 映画 『ベニスに死す』とは何を云いたかったのであろうかネッ・・・? 「流行病」を研究した 「ヒッポクラテス(460 π.X.;-377 π.X・)」は 「コス(Κωs)島」に誕生し、
「プラタナス(πλατανοs)の木陰」で 「医学(イヤトリク・ιατρικη・medicine)」と 「医学者(ヤトロス・γιατρs・doctor)」の 「倫理(イシコ・ηθικο・moral・ethic)」をも
説いたのだ。ところで、 「460 π.X.;-377 π.X・」の 「π.X」はギリシャ語で 「BC(befor Christ)」を表している。 ならば、 「π」は「πριν(プリン)・προ(プロ)」の略である。 「after」は 「アリストテレス」の 「メタフジカ(自然学)」の 「μετα(メタ)」である。 「με(メ)」は「・・・で」あった。 「μου(ム)」は「私の(に)」である。 「メ」は「目・眼・女・雌・芽」で、 記号の 「×・〆・X」で、「十のナナメ」である。 「現存・古事記」は「ななめ」にヨメと云うことだ。実際に「斜め」に読めば、どうなるかはイマダ試みてはいないのだが、 「ナナメ」とは「七七目・七十七目・七拾七」で、 「7×7=49日の一周忌の法要」である。 「7+7=壱拾四(いち、疲労、し)、 (詑恥、妃老、嗣)、 (医治、披露、誌)、 (医事、披露、志)、 (はじめ、披露、よつ)、 (壱、卑老、史)」、 「七拾七=七獣室(七支は午・馬・夏期=真夏・火気)」で、 「名名目(女=おんな=音名)」である。
流行病・・・・は やり やま い=行の流れのヤマイ ↓↓↓ ↓ ↓↓ ↓↓ ↓ ↓ ↓やまいだれ 把、埜理、耶麻(邪馬)、意=文行の流れの耶麻意 ↓耶麻意拿例(誰意・垂位)↓ ↓+ 妥例(・例・惰例) ↓ ↓丙(ひのえ) 木木十一=記紀の壱拾壱の理(裏) ↓ 比之重 ↓↓↓↓ ↓↓↓↓ ↓ 鬼気重位地 位地重位置・位地獣一 ↓ 危機嬬鵜(烏・卯・胡・羽) 位地 リュウ=龍・竜・劉・柳・笠・瀧・留・瘤・瑠・粒・琉・硫・溜 ↓ コウ=交・敲 ↓ ビョウ=描(えがく)・猫(ねこ)・秒(とき)・廟(おたまや) ↓ ↓↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓ 重賀句 音胡 斗気 将多摩耶 ↓ 錨(いかり)・平(たいら)・苗(なえ)・鋲(くぎ) ↓ ↓ ↓ ↓↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓ 易化理 他意等 名重 句義 ↓ 怒 り 戴 等 ↓↓ ↓↓ リユウコウビヨウ 鯛 螺 綯え 苦義 ↓↓↓↓↓↓ ↓ 理由有胡有備預宇=理由、胡(西洋・夷)に有り、 (伊)豫、宇(佐)、 ↓ あるいは、 ↓ 伊(達)、宇(和島)に備え有り 理由得考 毘葉 =理由は「毘」の「言葉」を考えて得る ↓ 毘=田+比=タヒ(イ) 毘古、毘賣・・・替・他意・たび =中心、中央、へそ =毘沙聞天=多聞天 =『伊達政宗(梵天丸)』の守護神である。彼の位は 「従三位権中納言」。「独眼」であった 「毘」は越後の 『上杉謙信(長尾景虎・政虎・輝虎)』の軍旗 であった。 「川中島」の決戦で 『武田信玄』に「単騎」で迫り 「三太刀」、 「七太刀」をあたえた伝説がある
予後・・・よご=預語・余呉・輿護(御輿の守護) 輿語(地理)・・・おみこし(御神輿)の語 伊豫(愛媛)、豊後(大分) ・・・・・後(のち・ゴ)に 予(あづける・預ける・あらかじめ) ↓ 序文 神聖病について・・・ かみひじりやまい=カミ、比事理、耶麻、委(易・彙) シンセイビョウ=真正描・新政平・申請描・心性病 真性病・新生廟・新制描・新星描 人間の本性について・・・ ジンカン(にんげん)の ホンショウ(もとさが) ↓ ↓ ↓ ↓ 世間、世俗・尋鑑(歴史・暦) 本省、本庄(元は佐賀)
箴言・・・シンゲン(いましめのコトバ=諫、戒めの言葉) 進 言=震源=申言(猿言) 箴・・・・はり=鍼、針、箴石・・・葉理(裏) ↓ さす=刺す・・・・・・・作諏(素) 竹+咸 とじる=綴じる・・・・・図字留 さしこむ=差し込む(射込)・詐仕込む 痛み、激痛 箴・・・・文体の名前 夢について・・・ゆめ=喩女・湯女・癒眼・愉眼・諭目・・楡芽 ゆめ(幻覚・幻想・幻視=元始、原始) 夢=ム(霧・無・武・矛・牟・六・鵡=オウム) 処女の疾病について・・おとめ(乙女)の シツビョウ(蛭描、櫛描、嫉病、失錨・漆描=七廟) ・・オンナ(女・娘=嬢・音名・音拿)の処の執描 ↓ 卑弥呼・壱与・斎女
風について・・・かぜ(風邪・化是・掛背・蝦世=蘇我蝦夷、毛人) かせ(枷・械・校・綛=垰=木+上+下=キの上下) フウ(婦鵜・夫胡・冨有・譜得・封・夫・楓) 法・・・・・・・のり(糊・海苔・規・憲・矩・弼・朔・乗・載) ホウ(保胡・捕胡・輔胡・穂有・蒲兎・歩羽・補宇 方・包・宝・鳳・鴇・泡・豊・豊・邦) 誓い・・・・・・ちかい(近・地階・地下位・値甲斐) ・・・ちがい ↓ ↓ うけい=右傾、胡掛、羽掛、得稽 ↓ 同盟、連合、誓約 違い・知画意 ・・・・・・セイ(姓・声・歳・星・清・整・性・世・西)
等、「・・・」の「同音異字」に重なるモノである。 既に述べたように彼、 「ヒッポクラテス」の 「箴言(シンゲン・格言)」は、
ο β ιοs βραχυs、η δε τεχνη μακρα. ↓ ↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓ ↓↓ ↓ ↓↓↓ ↓ ↓↓↓ ホォ ビ オス ベラ キュス ヘー デ テ クネー マ クラー Ιππο κρα τηs ヒッポ クラ テース イッポ クラ テース
「人生は短く、芸術は長し」の訳文が有名であるが、 「芸術(占術・戦術)は長(猛)し」ならば、これは 「上杉謙信(長尾景虎)」と、 「箴言(シンゲン」ならば 「武田信玄」を掛け遊んでいる(申諺・申軒・振言)のだ。 『コウヨウグンカン(甲陽軍艦)』である。 本来は「箴言」の「第一章」の「1(いち)」の訳文で、 「世界の名著(中央公論)」から日本語訳の全てを抜粋すれば、
1 「生命は短く、学術は永い」。 好機は過ぎ去りやすく、経験は過ち多く、決断は困難である。 医師はみずから自己の務めを果たすだけではなく、 患者にも看護者にも、 また 環境にも協力させる用意がなくてはならない。
と、ある。 「日本語」に於ける文学的、哲学的な 「人生は短く、芸術は長し」の訳文と、 医学的、治療技術的な 「生命は短く、学術は永い」 の訳文を比較すればその謂わんとしているところの 「意味(意知)」には 「主体」にかなりの差異と隔たりがあるのが理解されるであろう。 だが 「あらゆる技術者」には普遍性を持つ言葉ではある。 しかしながら 「ヒッポクラテス」が「医者(イシャ)」であったことを思えば、後者の訳文の「学術=医術」が正しいのは自明だ。 だが、 「いしや(石屋)」、「意思冶」であれば「芸術職人」である。 「イシヤ(遺志哉・意思家)」であれば 「文筆家」か「哲学者」ではあるカナ。 ちなみに医者の彼とは 別人の哲学者 「ヒッポクラティス」がいた。 ギリシア哲学や神話には 「対」になるモノや 「双子」のハナシが多いのだが。 「人生は短く、芸術は長し」を 黒澤明が監督した 映画『生きる』の主人公がブランコに乗って唱った 「命みじかし、恋せよ、乙女。 あかき唇(くちびる)、焦(あせ)ぬまに・・・」 に重ねるならば、まさに 「映画芸術(フィルム)」は 「長し(ながし=名臥シ・名賀司・那賀詞・那珂視・中の師)」で、 「一コマは短し」だ。 そして 「ながし」とは江戸時代では 「三味線」を弾き、謡いながら放浪する 「鳥追い女」であった。 「チョウを(が)オウ、オンナ」である・・・ 『高野長英』が(を)「おうオンナ」ではないのか、あるいは 「シーボルト」の娘で、後に 「婦人科」の「女医」となった 「滝本おいね(イネ)」・・・? ・・・彼女の母親は 「楠本おたき(タキ)」であった。 そして、 「現存・古事記(上中下、三の巻物)」に於いては 「名臥(ナガ)」の、 「シ・し・祇(かみ)・支(えだ)・子(こ・ね) ・施(ほどこす) ・柴(しば)・紫(むらさき)・芝(しば) ・史(ふみ)・司(つかさ)・志(こころざし) ・死(みまかる) ・歯(は) ・姉(あね)・始(はじめ) ・視(みる) ・市(いち)・柿(かき)・思(おもい) ・屍(しかばね)・尸(しかばね) ・詞(ことば)・糸(いと)・諮(たずねる)」 等々の同音異字であるハズだが。 「ホ・ビ・オス・ベラキュス・ヘー ・デ・テクネー・マクラー」の日本語、漢字の「同音異字」をどの様に採るかは箇々人、読者の勝手であるが、ワタクシは、とりあえず、
ホ・・・補(保) ビ・・・備(尾・毘) オス・・推(牡・雄・嗚素=須佐之男=素戔嗚) ベラ・・綜羅(戸裸・部拉・部・・邊螺・邊ラ=石+阿) キュス・記由素(紀由素) ヘエ・・経得(辺重・邊衛・庇恵) デ・・・出(手・弟) テ・・・手(又=右手・亦・俣・股)・・・弖 クネエ・句音重(躯音重) マクラ・枕(魔句羅・真暗) ア・・・阿(亜=あまねし・雅=からす、太陽 娃=天女、月のオンナ・蛙=かえる)
と採るのだ。 「八俣遠呂智(やまたのをろち)」は「長い八頭八尾」の「大蛇」だが、敢えて「俣(国字)」の漢字を使用しているコトに注意せよ、である。 『枕詞』自体、 「何か(?)」に対する 「懸(掛・欠・加計・賭・化卦)言葉」で、一首の和歌の全体構成の、文字と音に繋がった「意味」がアルコトバ、と私は考えるのだが・・・ 例えば、 「あしひきの(足引きの)」は古語辞典に、
あしひきの 山鳥の をのしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 柿本人麿
あしひきの 山の雫に妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしずくに 大津皇子
あしひきの きしかば山人の 朕に得しめし 山つとそこれ 元正天皇
の例題が引用され、解釈されている。そして、 「あしひきの(足引きの)」は、
「山(み山・山田・山河・山辺・山椿・山橘・山桜花・山吹きの花・『山郭公』・『山鳥』・山藍・『山彦』・山中・山嵐・大和撫子・『やまい』)」、「峰・尾の上・やつを・『岩根』・『岩』・『木』・あらし・野・遠面・葛城山・『笛吹山』・岩倉山」
に掛かると説明されているのだ。 『病(やまい)』に掛かるならば、 『岩』は「癌・眼・含」で 『木』は「氣(息)・紀・記・基」だ。 「四谷怪談」の 「お岩さん」は「毒」を呑まされ 「クシでトイたクロカミ」 が抜け落ちたのだ。 『笛吹の山』は 「風重不帰、不壊附記の纂」だが・・・ 『あしひきの』が 『山』の 「枕詞(まくらことば・チンシ)」であるならば、 これにノ(載・乗)る 「頭詞(あたまことば・トウシ・ヅシ)」は 「山」だ。 「枕に頭をノせる」とは一般的には 「枕に頭(顔)を沈める」、 「枕に頭(顔)を臥せる」 などとも言われる。 問題の主題は 「枕(まくら)」よりも 「頭(あたま・かしら・こうべ・トウ)」である。 ならば、主題の『頭』が「何」かに懸けられているのだ・・・ 「病」であり、 「天然痘」であり、 「種痘」だ。 「頭(トウ・唐)」が 「山(サン・纂)」なら 日本語の 「山(やま)・耶麻」のみならず、 漢音の「サン」にも懸けられているのだ。
サン=纂・算・讃・蚕・杉・産・三・参・傘・蒜・惨
「算段・山難・産難・産褥・散々・三嘆・賛歎・散弾・惨残」 の 「三段論法」である。 「編纂」の「纂(サン)」ならば、
あしひきの=亜史比企の=阿司比企の 葦(よし)比企の=娃志比紀の ↓↓ ↓↓ 悪↓ 良子とは「鸕野讃良(持統天皇)」 脚↓ 阿部(阿閉)とは 足↓ 「阿毎王朝」の 「元明天皇」と 「孝謙称徳天皇」? 葦↓ ↓ 蛙詞(換える言葉) 阿部仲麿はこの天皇の遣唐留学生 多字比掛けまもる 多治比懸守は遣唐使
足 引 の=ソクインの=即音の =息 音の=促音の =蘇句音の=楚句音の ↓ たりひきの=侘理比企の=多(他)理比記(紀) =詫(汰)履卑記(紀) 「足」とは 「藤原鎌足(中臣鎌子)」? 卑弥呼の履歴?
である。そして、「現存・古事記」に記録されている 「亦の名は」の意味である。 「佐本姫(沙和遅媛)」は 「稲城の炎の中で死亡」した。 これも 同一人物の「異称」ではなく、 「異なった歴史上の人物に重ね掛ける」と云うことか、その人物の「出来事の意味説明」である。 『阿倍仲麿(701~770年7月1日死亡)』 は当時、 「唐王朝」の 「玄宗皇帝」に仕え、 『秘書監兼衛尉卿』で、 位は 『従三品』の重臣にもなった人物で 『朝衡』とも呼ばれた。 帰国の念が深かったが暴風雨で「安南」に遭難漂着。さらには 「粛帝」、 「代帝」にも仕え、 『鎮南都護』となり 「安南」の 宣撫にあたった。 当時の唐の文化人 「李白」、 「王維」 と親好した。当然、 唐皇室の書籍を直に手にとって読めた。 そして 『楊貴妃』の悲劇をうたいあげた 『長根歌』を作詞した 『白楽天(白居易)(772~846)』 の時代は 一世代遅れるが、中国皇帝 「武宗」、 「宣宗」、そして、 「弘法大師・空海」の帰国後の 高野山密教、 「日本後紀」編纂、 「嵯峨天皇」 の時代にヒッカカルのだ。 ・・・ 彼、 『阿倍仲麿(701~770年7月1日死亡)』は 「中国の歴史」に 介在、介入出来る立場の人物ではなかったか.・・・? ・・・有り得るとしたら・・・マァ、「小説の種」かもネッ。
遣唐使船の画像
京都府京都市
真正極楽寺
真如堂の縁起を記した
大永4年(1524)の『真如堂縁起』に描かれた、帆走する後期の遣明船
入唐僧の
円仁が帰朝する際に乗船した
遣唐使船を描いている
(所蔵、真正極楽寺真如堂)