ギリシャの哲学・ヒッポクラティスと 「古事記・字源」(1)
「ヒッポクラテス」と「現存・古事記」 さてここで、「ヒッポクラテスの医学(大橋博司訳)」を「中央公論社発行」の『世界の名著・ギリシアの科学』から抜粋したモノを参考にして「現存・古事記」を考えてみたい。この訳本には「流行病」、「予後」、「神聖病について」、「人間の本性について」、「箴言」、「夢について」、「処女の疾病について」、「風について」、「法」、「誓い」が収録されている。あなたの関心ごとが何処にあってもイイが、私の関心ごとは、ここの「タイトル」に記録された「漢字」に「漢籍(漢書地理史・魏志倭人伝、随書・國伝)」、「日本書紀」や「現存・古事記」、江戸時代の「蘭学者」達が記録した著書との関係に於て「共通項」は存在しないか、どうか、と云うことを追求したいのである。 ちなみに『渡邊崋山』は「ヒッポクラテス」の「肖像画」を何かの本から「コピー(複写・複寫・フクシャ)」して描き残しているのだ・・・『渡邊崋山』は、『高野長英』、『小関三英』等と『蛮社の獄』で弾圧を受けて最期に「自刃(自尽・自盡・切腹)」して逝った人である。時代は「飢饉」と大坂での「大塩平八郎の乱」、『シーボルト』の「世界地図」と『高橋景保』の「日本地図」交換による「シーボルト事件」。江戸幕府の「鎖国」に対する列強、特にイギリス、アメリカの「門戸解放」圧力。そして北方の「蝦夷地」には「ロシア艦船」の出没時代であった。文化八年(1811)六月、「クナシリ島」で捕虜になったのは「ゴロウニン」であった。「イワン(イヴァン)の馬鹿」、この「意味」するところを、あなたにはワタクシが「ナニをイワン」としているのか「理解(カタラヴェノ)」してくれるとは思うが?・・・理解してくれるか、ドウカは別にして、とにかく、「フク・シャ」、「フ・ク・シャ」の「同音異字漢字」を漢和辞典で検討し、そして、前述した「ヒッポクラテスの医学」訳本の「各タイトル(主題)」の漢字を考え、「共通項」を捜してみてくれ。 とりあえず、「共通項」は「ナニ」か、例(レイ)のごとく、私の「カンジ」の考えと、その「ヨミカタ」を「テンカイ」していこう。
「流行病」とは英語では「be rife・raging・rampant・epidemic」である。英和辞典には「誤りの多い論文」として、
a thesis 「rife」 with error
とある。「猛烈な歯痛」として、
a 「raging」 tooth ache
「rampant」の動詞は「ramp」で、「ライオンが後脚で立ってたける。あばれまわる。激怒する。草木が繁茂する。傾斜する。『勾配(コウバイ)』をなす。斜面を設ける。欺く。ペテンにかける」。名詞として「傾斜。傾斜路。斜道。手すりなどの反り」とある。「ナナメ」である。「猩紅熱(ショウコウねつ)」は、
an 「epidemic」 of scarlet fever
とある。「猩猩」は生物学的には 「類人猿のオランウータン(ギリシャ語はオランゴタンゴス=οραγκοταγκοs)」 で、私が漢字転換すれば、
おらんごたんごす ↓ 将蘭語単語素・・まさに、蘭語、単語のモト・・・ラテン(拉典)語 将覧語探語諏・・まさに、覧語、探語のトイ・ハカル・モトム・タズネル 将蘭語探胡州・・まさに、蘭語で欧州を探(サグ)る。「胡」は西洋 将乱後丹後州・・まさに、乱後の丹後のクニ 将乱後丹後守・・戦国時代後の「丹後守」とは、 元和九年(1623年)の「稲葉正勝」である。
ここは年表(1623年)を調べてみれば、
オランダ人、アンボイナ島で日本人を刑罰 「ヤン・ヨーステン」、遭難溺死 「黒田長政」死亡 越前北庄城主「松平忠直」、豊後へ流刑 将軍(秀忠・家光)、シャム大使と謁見 キリシタン50名を江戸芝で「火刑」 「本田正純」、出羽大沢に移封(最上家騒動の改易後) イギリス商館、平戸から撤退 ポルトガル人の居住制限 日本人のルソン島渡航禁止 *元禄十四年(1701)~宝永四年(1707)の 「稲葉 正往」が「丹後守」で、
1701年には、 『契沖』死亡・・・沖=冲=衝 「契約、敬訳、啓訳、桂訳、慶訳、恵訳」の「註・注」 『契沖』・・・「景中・景柱・景註・景駐・景抽・景忠」 「景教」とは東方伝播のキリスト教であった。・・・ 天文方の「高橋景保」はキリシタンであった(?)
赤穂城主「朝野『長矩』」が改易、切腹 将軍「綱吉」、「柳沢保明」に「吉保」、「柳沢安輝」に 「吉里」と『偏諱』を賜う・・・・・・「柳」=リュウ 江戸質屋の『利足引き下げ』の公定・・利の「あしひき」 「足利」は室町幕府の姓 「尾形光琳」、「法橋」となる・・「おがた・緒方・緒方」 岡山閑谷学校講堂出来る・・・・・「岡山」=オカサン
1707年には、諸国に「大地震」勃発 十月には南海、東海、大坂で倒壊、死者「三千人」 十一月には「富士山噴火」
とにかく、1701年~1707年の記録年表をみよ
寛保二年(1742)~延享一年(1744年)の 「丹後守」は「土岐頼稔」である。 「土岐」=とき
1742年には、関東大水害 富士山の「加持水服」を禁じる・・かじみつふく=火事三伏 「化字見拓付句」=加事水戸副 浅間神社の主神は 「鍛冶屋」の「木花之佐久夜姫」
石清水山下「疫」神堂、焼落 「青木昆陽」が「相模・伊豆・遠江・三河・武蔵金沢」等 の「古文書」を「採訪」・・・「諏訪」 上方に「読み本」が盛ん
1744年には、「痘瘡病」が流行し、「陰陽二血丸」を給与 「商品代金」での取引を「文字金銀」に限る 「甲子革令の年」で「改元」 大奥の女房「三十年以上の勤務者」には「生涯蔵米給与」 江戸神田に「天文台」完成 「出雲大社本殿」完成
とにかく、1742年~1744年の記録年表をみよ、デアル これら、各「丹後守」の「共通項」はの示唆は何か? 「現存・古事記」、「日本書紀」の 「読み方自体(事態・辞退・字体)」である。 さらに、「オランゴタンゴス」は、
将乱後探胡州・・・まさに、乱後の欧州の探査 将蘭護耽互守・・・まさに、蘭学者を保護、 相互に守ることにヒタル・ネラウ ・・・将(軍)、蘭学を擁護、 互角に守ることにヒタル・ネラウ 将覧悟端午諏・・・五月五日は「皐月の祭」で、 「鯉幟」と「鐘馗」で、 「鐘馗の絵」は「玄宗皇帝」が夢に視たものを 「呉道子」が描いたもので 「疫病神」を追い払う神だ。 漢和辞典で「端午」と「鐘」を調べよ、で、後に悟(サトレ) 将乱語探胡諏・・・まさに、乱語 を西洋の語源に探る
等で、『将の藍の保護、担(湛・探・耽)胡素』で、「藍山」は「宇和島藩主(伊達家八代)」の「伊達宗城」の名『號』だ。彼は養子で、実父は『相模守』の『山口直勝』の「次男」であった。逃亡中の「高野長英」や、「大村益次郎」の擁護者でもあった。「相模」とは「三浦案針(英国人ウィリアム・アダムスの帰化名)」の拝領地で、東征の「ヤマトタケル」が、妻「弟橘姫」を「海神(龍神)」の犠牲(人柱)にした場所である。染料の「洋藍」は「インジゴ」と云う。「印字語」か「隠事後」、「隠字胡」、「寅(虎)字悟」、「故事悟」だ。 「オランウータン(オランゴタンゴス)」だが、国語辞典には想像上の動物としては「人の言葉を理解し酒が大好きな猿」、とある。日本語では「大酒のみ(大虎)の別称」だが、これは「西洋人」の別称、「赤鼻長で面妖な大猿」の比喩で「天狗」だ。 「猩」の漢字分解は「獣+星」で、「星座」か「獣帯」、あるいは「犬+日+生」だ。「犬公方」とは「徳川綱吉」であった。とにかく、あんまりにも「顔や尻が赤い」のは健康上、要注意である。漢和辞典の説明では「猩(ショウ・セイ・シャウ)」は「犬の吠える声・濃い赤・濃血の色」とある。ギリシャ語で「猿」は「マイム(μαιμου)」だが、漢字では「麻(酔)医務・痲忌む」だろうな。日本語では「えてこう(得手公)・えてもの」で、「得手」の他意は「最も得意なモノ」、「例のモノ」だ。 ここには「犬(ケン)・猿(エン)・紅(コウ=黄)=朱(シュ)」が揃っているのだが、「桃太郎(チョウタイロウ=長多慰労・肇足遺漏・百他意弄)」には鳥の「雉(チ・きじ=記事・木地・生地)」が必要だが、南の方の星座には「朱鷺(朱鳥)」と「南十字星」が存在する。南方のバタビア経由で「出島」にやってきた「紅毛碧眼」とは「オランダ人・西洋人」だ。「膏盲(コウモウ)」は「膏肓(コウコウ)」の誤用で、「難病の内蔵疾患」である。 そして『日本書紀』によれば、 「朱鳥元年(686年)」とは 「天武天皇死亡」、 「大津皇子死亡」の日本年号であった。 「日本書紀」の「日本年号」の奇妙なことは「大化(645~649年)」と「白雉(650~654年)=ハクチ・しろきじ・白鷺=しらさぎ・ハクロ」、「朱鳥(686年)=朱鷺(あかさぎ・とき・シュロ)」である。「大宝元年(西暦701年)=文武天皇五年」以前には「天皇名の年紀(在位年号)」の中に混じり込んで 「大化」と「白雉」と「朱雉」が記録されているのだ。「年号」の連続は「大宝元年(701年)」からだ。当然、「年号」が孤立している「大化(タイカ)」と「白雉(ハクチ・しろきじ)」と、「朱鳥(シュチョウ・とき=朱鷺・土岐・鴇・雉)」、後世挿入された「弘文」と同様に、「大化・白雉・朱雉」は後代の挿入であるハズだ。でなければ「記録者(編纂者)」の「何かの示唆(施詐)、暗示(案字・安示)」である。 スナワチ、「大化=タイカ=他意化・大火・大家・大過」、「白雉=ハクチ(白痴)、しろきじ=白(斯盧、新羅)生地・施呂記事・死路記事・史賂記事=イワク(白)記事」、「朱鳥=シュチョウ、あかどり・あかさぎ=娃(蛙)化詐欺・とき=時、辰」である・・・年表に後世挿入された「弘文=コウブン、グブン・ひろし、ひろめる文=比賂史文」ならば、『弘文一年(672年)』とは『壬申の乱』であり、「弘文天皇」とは「大友皇子」に後世に贈られた「追號」であった。「乱」を起こした人物は「天武天皇」、スナワチ『大海部皇子』であった・・・「国家反逆罪」の人物だ。内乱の「反逆罪」でなければ他国(日本)との「戦争」での「勝利者」である。「倭国=弘文天皇(日本人)」ならば、「外国(唐)=天武天皇(外人)」だ。「倭国」は敗北して「侵略・進駐」されたのだ・・『則天武皇帝(后)』の「劉仁願」と「郭務宗」に・・・そして私同様にカイライ政権の「長」は「持統女帝(鵜野讃良)」で、「実権」は「漢人」と考えていたらしい人物が過去にも存在したのではないか・・・? 『弘文館』とは「寛永七年(1630年)」に『林羅山』が「上野忍が岡」に建てた学校である。 『弘文院』とは『和気清麻呂』の子供『和気広世』が一族の子弟の為に建てた「私学校」であった。 『弘道館』とは『徳川斉昭』が「寛政十二年(1800年)~万(萬)延元年(1860年)」に『水戸』に建てた学塾だ。「水戸学派」とは『水戸光圀(水戸黄門・梅里)』が創始者で、そして「尊皇攘夷」の思想的基盤を与えた彼の『大日本史』を編纂した人々と信奉者達である。 何故、「大友皇子」は「弘文(コウブン・グブン)」であるのか?・・・ 「コウブン=構文・後文・孝文・黄文・皐文」 比字=菱 「グブン =具文・愚文・虞文・倶文・求文」 ↓ 「弘=弓(キュウ・ゆみ)+ム(シ・よこしま・ひじ=肱・肘 ・秘事・日出)」 「文=亠(トウ・ヅ・なべぶた・音の字の略・Tの逆字) + 乂(ゲ・ガイ・苅る・おさめる・こらす・いさめる ・メ・×・X)」 であるからだ・・・漢字と英語には「飛耳(ヒジ)張目(チョウモク)」であれ、だ。 「賢い猿」は「金髪(金毛)」で「如意棒(optional望=女意房)」と「金斗雲(コント云=conte um〈周〉、un〈pron・奴・逆・欠如・反対〉=短編風刺小説、掌編小説を云う)」を道具とする「石猿(いわざる)の孫悟空」であるが、「軒轅(ケンエン=犬猿・懸縁)」とは古代中国の「黄帝=姫」の名前であった。十二支の関係で云えば「猿=申」を痛(傷・衝・冲)めるのは「虎=寅」で、害(そこなう)のは「猪=亥」だ。そして「猿=申」と「破合」するのは「蛇=巳」である。「大猿の紅の熱」、スナワチ、「猩紅熱(ショウコウねつ)」とは、 an 「epidemic」 of scarlet fever ↓ ↓ スカーレット 不意婆(婆娃・把蛙) 諏禍娃烈吐 風意頗阿 変えて把握 ↓ オハラ=熱=汚破裸 映画、『風と共にサリ(去)ぬ・gone with the winds』の主人公は「スカーレット・オハラ」ではあったナ、旦那が「レッド・バトラー」とはね、まったく「アトランタ(痕爛多・跡覧侘・跡乱多・後乱汰・蹟覧他)」はアメリカ南部の「綿(わた・メン)摘(つみ・テキ)」の産地ではあるナ・・・「ジーンズ(jean・あや織り綿布・木綿の作業服)」は「藍染(ランセン・あいぞめ)」だ。「乱戦」は「北軍・グラント将軍」、「南軍のヴァージニア(virginia)最高司令官・リー将軍」で戦われた「Pennsylvania」の「Gettysburg」であった。 「virginia(処女地・処女エリザベス一世にちなんだ地名)」 「Pen(筆・鵞ペン・文体・筆跡・白鳥の雌 ・イカの甲・書く ・囲い・檻 留置所・牢屋・閉じ込める・檻に入れる・幽閉) n(ローマ数字の90・爪・豆・生・中性 中立・主格・指名・名詞 数・愛国者・海軍・新・北)等の英単語の略称 syl(syllable=音節・綴り・一言半句・一言) van(大荷車・手荷物車・囚人護送車・前衛・先陣・先鋒・先頭 翼・ふるい分け・選鉱・of=の、from=~の意) ia(Iowa・アイオワ州・合衆国中央の州の略) ↓ (娃衣汚和、藍汚和・藍将和・秋穂和)州? i(ローマ数字1・私・自我・興味)=アイ(藍) a(イ音・イ調の意味・one・1・最初)=エ(重)」の 「Get・tys・burg 『TYS』を採った町名?・・・「タイスの瞑想(?)」 『GET』は得る、とる、獲得 『ty-』は『+・十・拾』の意味 『Ty-burn』とはロンドンの死刑場 『ty-coon』とは日本の将軍の意味 『tie』とは「帯、結び目、ひも、ネクタイ。鉄道の『枕木』」。動詞では「縛る、結ぶ、ゆわえる・つなぐ」であった。・・・『tie』をローマ字で読めば『ちえ=知恵・千重・千恵・地絵』等であるのだが・・・ネッ? そして、「Gettysburg Address(1863年11月19日)」とは「大統領(1860年当選)、リンカーン」の有名な「黒人解放宣言」演説であり、英和辞典には「民主主義の真髄を道破した文句を含む」とあり、 the goverment of the people, by the people, for the people であった。リンカーン大統領当選の前年、 「1859年」には 『ダーウィン』の『種の起源』の発刊である。 であるならば、まさかと思うが、
gone with the winds ゴネ ウイズ ザ ウィンド 語音 有為 図、 座(字)、得印 度 ↓ ↓ (引 度・音度・陰度・隠奴) ゴォン ↓ ↓ 天竺=テンジク=典字句=転字句 あまとく・海の字句 海部、海女、海士、尼の字句 白水郎(あま)=潜水夫 竺=竹+二=ジク・チク・とく・あつい・たけ・太い竹 異体字=笁(竹+エ)・篤(竹+馬) とはネッ?・・・もちろん、 「風邪(フウジャ・かぜ)」は「cold」で、 「冬(トウ・ふゆ)」にはやる(流行) 「grippe(グリッピィ)」、 「influenza(インフルエンザ=音振る円座) flu(フル=振る)」である。 一体全体、「こおる(凍る・氷る・桑折・郡)」とは何処からきたコトバなのだか、「こおるど」とは「北方」の「蝦夷地」かロシアの「シベリアのツンドラ=タイガ地帯」だ。 「日本・阿蘇山・京都・江戸」を中心にすれば「冷気(霊気)=風雪」は「北西(乾・戌亥・犬猪・狗猪=クイ=咋)」から、「風説」は「オランダ」からやってくるのだ。 「熱気(温気)=熱風=台風」は「南東(巽・辰巳・龍蛇・竜拿・劉舵)」から、「音柘記(音疑)」は「辞書の巽(『たつみ』・ソン・そなえ・したがう・つつしむ・『ゆずる』)」からである。 上奏された「古事記(712)」、「日本書紀」編纂に関係した 「第肆拾参(四十三)代・元明天皇」は 「慶雲四年(707)」に即位した女帝で、 名前は 『阿閉(阿閇)』だ。 「日本書紀(720)」が「上奏」された 『霊亀元年(715)』に即位し 『神亀一年(724)』に退位した 「第肆拾肆(四十四)代・元正天皇」 の期間で 遣唐使 『多治比懸守』、 留学生 『吉備真備』、 『阿部仲麿(朝衡)』にも関わった。 「元正天皇」は『氷高』であった。彼女の治政に 「三世一身法を施行」した、とあるのはどういうコトだか・・・ 同じ様な言葉に 「三位一体(Trinity・Three in One)」がある。 「Trinity House」とは「ロンドンの水先案内組合」だ。「船頭」や「水主(かこ)」、ようは「パイロット」の「案針」の「組合」だ。「pilot」のニュアンスは異なるが同意語は「guide(案内人)」、「usher(門衛・取次人)」。英和辞典で「pili-」は「毛の意」とある。「pil・・・」の単語をおって行くとスペルは「pill(丸薬)」、「pillar(柱・台脚)」、「pillory(さらし台・首手かせ)」、「pillow(枕)」で、次が『pilot』だ。どうやら、「三浦案針」がまとめた「組合(union=ユニオン=喩似音)」で、「図裏似綴・把得州」、「鳥小屋」とは『鳥居耀蔵』自身の「幽閉」か、彼に「逮捕(arrest・nab)」された「牢獄(jail・prison・gaol・pen)」の人だ。「Trinity Sunday(三重の日曜日・『桑折』の「桑」の三つの「又」は三日、三の太陽と同意・桑港はサンフランシスコ・羅府はロスアンジェルス)」とは「聖霊降臨(誕)祭」で、「Triones」とは「北斗七星」である。 『堀達之助』って知っているカナ・・・実は全く私にとっては未知の人物であった。私が持っている「人名辞典」にも「百科辞典」にも見あたらない名前だった。知ったのは吉村昭氏の小説『黒船(中央公論社・1991年20日発行)』を読んでからなのだが・・・『英和対訳袖珍辞書』を「文久二年(1862年)」に完成させた人物なのだ。1862年、この年に「幕府・遣欧使節」の『武内保徳』等が帰国しているだ・・・とにかく、ここで問題にしたいのは『堀(ホリ)・達(たつ)・之(の)・助(すけ)』の漢字の名と、この辞典編纂に参加した人物、
『西周助(周)』・・西・周・助 『千村五郎』・・・・千・村・五・郎 『竹原勇四郎』・・・竹・原・勇・四・郎 『箕作阮甫』・・・・箕・作・阮・甫 『箕作貞一郎』・・・箕・作・貞・一・郎・・・『箕作阮甫』の孫 『高島太郎』・・・・高・島・太・郎・・・・・『高島秋帆』の孫 『手塚節蔵』・・・・手・塚・節・蔵・・・・・『手塚律蔵』の養子
達と、編纂を命じた、 「蕃書調所」の「頭取」であった 『古賀謹一郎』 の「漢字の名前」である。そして、養子であった『堀達之助』の親戚縁者である。実父の大通詞(通訳・interpreter)であった『中山作三郎』、実母『陳(のぶ)』、養父の『堀儀左衛門』、妻『房』とその妹『ハル』、実母『陳』の叔父で大通詞の『西吉兵衛』の「名前」である。・・・「天孫降臨(転巽敲臨)」の「孫(馬子)」、「鳥子(調子・酉子)」の「養子(要旨・洋紙・洋史・洋詞・用詞)」・・・「蕃書調所」の「頭取(唐採り・訪諏・当主・十首・あたま採り)」・・・「1858年」には「The Japan-U・S Tyellowe and Friendship Treaty」だ。そして、「桜田門外の変(万延元年・庚申年・1860年3月3日)」で「首(頭)」をトラれたのは彦根藩の『井伊直弼』で、「大老」であった。翌年の「1861年」は「文久一年」で、「辛酉(カノトのトリ)年」であった。「五月」には追放された『シーボルト(置維波斯徳利)』の日本への再来である。「大老」の首を取った『金子孫次郎』は「七月」に斬首され、「十一月」には『遣欧使節』の『竹内保徳』、『松平康直』等がイギリス軍艦の『オージン号』で品川を出帆した。