倭(ワ)=環(カン)・モノガタリ文化の謎(ナソ)」(2)
伊400特殊潜航艇
倭(ワ)=環(カン)・「古事記・漢字」の「源流」と「物語」訊ねて
「モリ・オウガイ」
「1」から「9」まで「数える」と・・・ 「森・鴎外(鷗外)」=「モリ・オウガイ」=「漏(洩・盛・守・杜・銛・傅・Mory・文里)」+「頁(page)」
「me」+「mory」&「re」+「mem」+「brance」
「モリ=forest=木(トリー・ツリー・tree)の集合体
「頁」=「書物の2ページ」を「頁(葉)=ケツ・ヨウ」とした=英訳は「leaf・head」
「おほがい・おおがい・かしら・ページ・ケツ・ゲチ・ヨウ」=「一」+「ノ」+「目」+「八(捌)」
「頁」=「大貝」・・・「一+ノ」=「大」・・・「一の人」
「御願い致します」・・・「乞食=こつじき・コジキ=古事記」
・・・「バクシーシ=baksheesh=喜捨=キシャ=記写・・・舎人
「I beg your pardon?=アイ ベッグ ユア パーヅン?」・「乞食=beggar」
蛙意捌具 喩會 葉蛙亠(音)務?
「法螺貝(ほら がい) ・・・オニヒトデ(鬼人手)の天敵
・・・・「トリトンのトランペット」
・・・・「a trumpet shella conch(コンク)」
「トリートーン」=馬の前足を持つ人魚のような生き物・雌雄で、
海の神々の護衛隊を組織する「tritons」と関連づけられた
海王星(ネプチューン=ポセイドーン)の最大の衛星
大貝(おおがい・おほがい)
杓子貝(しゃくしがい)
煙管貝(キセルがい)」
「必ず右側の旁の位置に置かれ、合成字体の部首となる」
「頭=head」・「頸=neck」
「タイトル=題名=title」・・・鯛獲る・対取る・他意採る・碓録る・台録る・太摂る
「頁 頂 頃 項 順 須 頑 頌 頒 預 頏 頓 領 頗 頚
頡 頬 頣 頭 頼 頸 頤 頽 頹 頻 頰 頷 頻 顆 頥
額 顔 顕 題 類 顎 顏 顋 頾 願 顛 顙 顚 類 顧
顥 顫 顯 顬 顰 顱 顴 龥 顳」
「碓(タイ・うす・いしうす)」・・・「大碓、小碓=倭男具那=倭建命=日本武尊」
「小碓命(おうすのみこと)=日本童男(やまとおぐな)」
「頗(よこしま)=破廉恥」・・・「廉頗負荊」
「偏頗(ヘンパ)」
「吟頌(ギンショウ)・読頌( ドクショウ)・魯頌(ロショウ)・頌礼(ヨウレイ)」
「夏目」=なつめ=棗=夏梅・奈爪・・・夏目漱石
「頁岩」=「堆積岩の一種」
「樺太(カラフト)」=「庫葉島」=「庫頁島」?
「伊四百型潜水艦」
「●」印の数字は「森鴎外(森林太郎)」の作品「雁」、「灰燼」に使用されている章の番号数字の漢字であるが、「雁」の主人公は「お玉」。「灰燼」の主人公は「節蔵」である。彼のこの物語の内容が「日本の過去の物語」と重なっているかどうかは各々興味があれば検討してみると面白いであろう。 「森鴎外」の経歴を「角川文庫」に記されているところから抜粋してみると、 「彼は文久二年(1862)二月十七日、島根県(石見国)、鹿足郡津和野町字横堀に、津和野藩の典医、森静男とその妻峰子との長男として生まれた。」 と、ある。彼は「大国主」の「出雲国」の出身なのである。 「明治四年(1871)まで藩校の養老館で、三年間漢籍を学び、五年、父に従って上京し、同郷の先輩で当時の先覚的な哲学者であった『西周(にし・あまね)』の邸に寄寓して本郷の進文学舎に学び、七年、東京医学校予科に入学、十四年七月、東京大学医学部の最少年の卒業生として医学士になった。」 その後、彼は軍医となり、一時、明治三十二年、九州の小倉に左遷された後、明治三十五年三月、東京に帰り、大正六年十二月に 「帝室博物館長兼宮内省図書頭」 すなわち、一般人としては読書不可能な「御禁制の本」が山積みされている「皇室図書の館長」になったのだ。 ここでは彼、森林太郎が「漢字」の裏庭で遊んだと思われる「森鴎外」のペンネームと、一群の作品の「タイトル」を検討してみることにする。 森鴎外=モリオウガイ =漏 横 臥委=漏らす横(ヨコシマ=邪)に臥した委を =守 皇 害 =守る皇の害(ヨコシマ=邪) =模理負 我意=模した理は我意の負い =母里将烏骸 =母の里はまさに烏(卯)の骸骨とならん =裳裏汚有畫威=裳の裏に汚れある威を書く =藻利悪得芽位=藻、悪を利し、芽、位を得る =杜 桜 苅 =杜の桜は苅られる =盛 殴 劾 =殴るべく弾劾を盛る =慕李将得華易=李を慕い、まさに華の易(変化)を得んとす =洩 皇 戒 =皇の戒めを漏らす 作品=サクヒン 裂 彬=彬(文の外形の飾りと内容、アヤ)を裂く 析 斌=斌(文のアヤ模様と生地の美質)を分析する 咲 貧=貧しく咲かせた 錯 品=交錯したホン 乍 牝=モッハラのメス 削 秉=秉(升目の十六石・公平・正しい心)を削った 題名 =ダイメイ=台謎=タイトル=鯛捕る? この「鴎外」のペンネームは既に彼の知人が使用していたものを借用したそうで、後、「鴎外」のペンネームを嫌ったそうである。 彼の作品は多数あるが、少し作品の内容と、使用されている「漢字」を「古代史」と関連させて検討してみるとどうなるか?・・・ 明治 二十二年・・・於母影(面影=メンケイ=綿掛=綿賭=糸白巾貝十一ノ日) (1889) 「しがらみ草紙」創刊=「史絡相思=糸臥螺未造史(誌)」 二十三年・・・舞姫(武器=ブキ=武姫=たけひめ=侘懸秘=附記 =まいひめ=妹比女=魔委卑女=埋媛=毎日女) うたかたの記(唄形乃槻=口目人幵彡乃木夫見) ふた夜(蓋預=豚世=賦侘=婦多世=府他家) 埋木(梅木=バイモク=賣杢=うめき=卯女期=楳記) 二十四年・・・文づかい(富美遣=践使=踏柘化謂=蚊使=聞使=分使) 山房論文(耶麻絃=邪馬惣=サンボウロンブン=参房論分) 二十五年・・・美奈和集(水沫集=水縄州=三輪州=箕輪州) 「即興詩人」翻訳開始=「ソッキョウシジン=卒去牛人」 二十六年・・・傍観機関=暴漢帰還=防寒期間(冬=トウ=唐=統) 二十九年・・・「めさまし草」創刊=「女叉眞支区差」 三人冗語(讃人上戸) 雲中語(運中語) 「都幾久斜」=「トキクサ=斗規矩差」=「月育七女」 三十 年・・・「かげ草」=「化解句差」 三十一年・・・審美新説(申未晋接=坤=ひつじさる=日辻差留) 西周伝(星周天=星秋填=爾志海部子殿=西尼音転) 三十三年・・・鴎外漁史とは誰ぞ(横臥委魚支) 心頭語(シントウゴ=神道語=真訊午=親等胡) 三十五年・・・審美極致論(申壬局地論=三合会局水=子・辰・申) 音 賑 晋 万年草(盤年相) 玉篋両浦嶼 三十六年・・・芸用解剖学(ゲイヨウカイボウガク=解委世得改旁畫句 =委の世を解くに旁を改め畫句を得よ) =禾(能義)女(音名)用(余得)=壱与 人種哲学梗概(ジンシュテツガクコウガイ =壬 主 ・氐(弖)椄臥句口外) 「大戦学理」(クラウゼヴッツ)翻訳 =「タイセンガクリ=他意占学理」 三十七年・・・第二軍の歌(台尼群の烏侘) うた日記(得他=烏多=卯太=有侘) 黄禍論梗概(王化論) 四十一年・・・能久親王事蹟(退く親王自責) 仮名遣に関する意見 門外所見 四十二年・・・プルウムラ(古生羅=振る有無螺) 半日(反日=晩日=判日=盤日=犯比=ヨコシマの比較) 仮面(カメム=亀武=玄武=北=木田) 追儺(ツイナ=対南=柘否) 懇親会(コンシンカイ=恨深海=坤進回) 大発見(他意=台=鯛=太=対=帯=苔=替・発見) 魔睡(粋真=水間) ヰタ・セクスアリス(委侘・瀬 玖珠あり州) 鶏(ケイ=経=形=軽=兄=継=恵・トリ=酉=採) 金貨(金化)=金化目人=金嫁女人=鬼武掛女人=金亀訊 金毘羅(坤一羅) 四十三年・・・黄金杯(王言拝) 青年(盛年) 杯(稗=配=牌=肺(月市)=背(北月)) 牛鍋(牛化=丑化) 電車の窓(殿社の真土) 里芋の芽と不動の目(聡謂母之女と不同〈婦道〉の女) 普請中(不審注) ル・パルナス・アンビュラ(留春名州案美由良) 花子(華子=鼻子=塙姑) あそび(阿蘇美) 沈黙の塔(鎮母供の島) 食堂(織童=七夕女) 四十四年・・・雁(玩=王元) 灰塵(廃人=俳人=頗異字務=葉偉人) 蛇(巳=経美=経尾=経備=辺備=真虫=真六支=真六史) カズイスチカ(華随州地か=河図移素知卦) 妄想(模嘘胡) 藤鞆絵(トウヘイエ=訊丙柄=馬史=司馬遷=唐経意重) 心中(進駐=臣従=審重) 百物語(珀武柘語) 四十五年・・・かのやうに(花野様似=化 乃 冶 卯璽) スナ ワチ ヤ ↓↓ 州拿 倭地 ↓ 月雨玉 ↓↓ ↓↓ ↓ ↓↓ =化、素名、輪知、氷ム国、得字 不思議な鏡(婦史擬中頭) 鼠坂(蘇叛=姐犯=蘇版=素盤=蘇我) 吃逆(キツギャク=鬼都逆=コチギャク=故知逆) 記柘逆 虎智虐 藤棚(不字拿名) 羽鳥千尋(得張薦嬬) 田楽豆腐(伝嶽東府) 我一幕物(われいちまくもの=割れ壱卷く物) 冬の王(ランド)=付、湯の王(ランド=覧奴) みれん(シュニッツラ)=未練(未だ伊都の東)=見れん 興津弥五右衛門の遺書(コウズヤゴウエモンの遺書 = 構 図屋号 得文 委処) 大正一年・・・阿倍一族(阿毎壱続=阿部・安部・安倍・阿毎・阿武) (1931) ながし(流し=名賀史=那賀史=拿歌詞=納歌誌) 佐橋甚五郎(さはしじんごろう=作箸尋期婁) 槌一下(土一家) 護持院ケ原の敵討(誤字因果葉螺乃仇内) 青年(盛年) 意地(壱=位置=位地=市=異字 =意字=維持=遺児=医事) 走馬燈(相午訊=牛=丑=主) 分身(文審=聞申=蚊真) 三年・・・大塩平八郎(将推史尾柄八婁) 堺事件(作開示圏) 曾我兄弟(鼠臥鏡台)・・・「蘇我強大(兄弟姉妹)」 安井夫人(夜州委婦人) 栗山大膳(句理耶麻大全) 番紅花(サフラン)=盤光華=作斧乱 謎(ホフマンシュタール)=名素 四年・・・山椒大夫(参照他邑=参照他有=参照多熊) 歴史其侭と歴史離れ 天窯(海部化真=海女=飴=尼=編) 津下四朗左衛門(しんかしろうさえもん) 神 化知侶有作重文 つげしろうさえもん 注げ史路宇佐江問=通解詞賂得作重文(聞) 二人の友(釜足の供・・・鎌足のトモ) 魚玄機(禦元気=禦言記)・・・真名衒気・真名元亀・真名原器 余興(余鏡=夜境)・・・与考・予(序)考・輿考 本家分家(本卦分懸) ぢいさんばあさん(示威纂頗娃参) 最後の一句(祭語の一句=ワッショイ =作囲碁の移突=参った=差異語の一区、一宮) 盛儀私記(精義史記=正義始期=声義識=世魏志記) 妄人妄語(盲人模卯語) 塵泥(尋出委)・・・地理度賂 沙羅の木(更の紀)・・・讃良の紀 諸国物語(渚国者が足り) 稲妻(ストリンドイベリー)=委名柘間 五年・・・高瀬舟=タカ セフネ =多寡(鷹・孝) 世負子 寒山拾得(観算修得=換算収得=甘酸習得) 椙原品(素義言斌=素記源本) 渋抽斉(重注差異) 寿阿彌の手紙(素娃巳の・加味) 伊澤蘭軒(委唐乱圏=諌倭乱乾=戌亥=犬=狗奴) 空車(唐来る間) 六年・・・宮内庁博物館兼図書頭・・・五五歳 都甲太兵衛(渡航多兵迂) 鈴木籐吉郎(素嬬姫投棄地婁) 細木香以(再起皇位=佐伯更衣) 小嶋宝素(古史真豊祖) 北条霞亭(芳情家庭) なかじきり(那賀時期理) 七年・・・礼儀小言(霊気個々斗) 八年・・・蛙(還える) 山房礼記(三紡皐月・五月) 帝諡考(綴私行) 十年・・・ペリカン(経理間) 元号考(源合光) 古い手帳から(振る意、・張掛羅) 十一 年・・・六月十五日から役所を休む 七月九日午前七時没 法号は「貞献院殿文稷思斉大居士」 ↓ 帝婚姻電文(伝聞)秘史委細退位史 などと・・・これらはすべて「邪馬台国」と「夜間、他移、弧句」に懸けられた「タイトル=他意採る=帯執る=鯛捕る=台都瑠」だと考えるのだが・・・ ちなみに、渡辺三男氏著作の「名づけ事典(毎日新聞社・昭和48年3月1日発行)」には「欧風の語感」のカ所で「森鴎外」の五人の子供の名前に関して述べている。 私がこの本を古本屋で手にいれたのは「平成の昨今、世紀末」も近くになってからからだが、「(生まれてきた日本人の子供の)名前の国際化を違和感なく漢字を使用して付ける」と云う渡辺氏とは「現存・古事記」を踏まえた別な観点、視点から大変興味深く、「共通項」があるように思えた。 「森鴎外」の子供達の名前に関するそのカ所を抜粋、要約すれば、 長男の「於菟(おと)」は、「オットー(Otto・神聖ローマ帝国の大帝)」で、「左伝」では「楚」の方言で『虎』のこと。 次男の「不律(ふりつ)」は、「フリッツ(Fritz)」で、「不律」は「筆」の異名で、「文章」を「文筆」と云う場合には「韻文=文」、「散文=筆」といった。 三男の「類(るい)」は、「ルイ(Rui)」 長女の「茉莉(まり)」は、「マリー(Marie・フランス王ルイ十六世王妃)」で、漢字音では「マツリ」。小さいクチナシの花に似た香り高い花。北京音では「茉莉花(モーリーホウ)」とされ、乾燥させた花弁は緑茶に混ぜて用いる。 次女の「杏奴(あんぬ)」は、「アンヌ(Anne・フランス王シャルル八世王妃)」で、「杏」は漢字音では「きょう」、唐音では「あんず(杏子)」。「奴」は万葉仮名の「怒・努・弩・奴・農・濃・沼・停・渚・寝・犬・去」の中から特に選んだ。「奴」は男女とも自称に使われた。 とある。実際に「森鴎外」が子供達の「名前」を以上のような「思索の結果(?)」、名付けたのならば、推して知るべし「タイトル」ではあるのだが、渡辺氏の単なる「推理・推測・類推」かも・・・それにしても示唆深い「宮内庁博物館兼図書頭」であった「森林太郎」の「立場」ではある。 私は「森鴎外」を「漏横臥委」とヨミ、さらに「ヨコシマに漏らし、ユダネて臥(伏・賦)す」、あるいは「模理将得我意」とヨミ、さらに「理を模すこと、マサニ、我が意の得るトコロとす」とヨミタイのだが・・・。
・・・「古事記・漢字」の「源流」と「物語」訊ねて 「1」~「9」(18) 既に検討した「数字」を再度、重複しながら「森鴎外の作品」をモウ一歩進めてみたい。 「1」から「9」の「漢数字」は、「関・数・字」、「鑑・数・字」で、 ・ 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ・ ・ 零 一 二 三 四 五 六 七 八 九 ・ 零 壱 貳 參 肆 伍 陸 漆 捌 仇 ・ レイ イチ ニ サン シ ゴ ロク シチ ハチ ク(キュウ) ・ ・ 戻 位置 似 纂 史 語 録 質 把知 句
(究・宄=宀+九
=よこしま・キ) ・ ・ 例 位地 邇 傘 至 誤 鷺句 指示 頗地 宮(扱) ・ 霊 委致 尼 燦 始 娯 賂句 質(虜) 葉置 貢 ・ ・ 蠣(レイ)=かき=牡蠣=柿=夏季=花卉=花器=火気 ・ =欠=下記=書き=掛紀 ・ 牡蠣=牛+十+一+虫+厂+萬(丱甲冂ム) ・ 掻き=痒い処を掻きたいの「itch・be itching for」=堵=垣 ・ 「itch」に類似するのは ・ 「ich=ichthyology(イヒチオロヂィ・魚論・魚類誌・魚類記載学)」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ・ 励 医治 持 参 私 語 録 執 歯知 仇 ・ 励 遺児 自 纂 詞 語 録 詞知 葉知 句 ・ 励ます 医事 辞 纂 死 後 肋 失 葉値 句 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 等、「巻(古事記・日本書紀)数・字」、「環・数・字」、「串(中・中)・数・字」、「換・嵩(山高=サンコウ=参考・纂交・やまたか=耶麻多寡)・似(地・児・爾)」・・・「神・崇・示」・・・「関数児」とは「和算の大家」、『関孝和』、あるいは「咬(噛・加六)・数字(崇地・州迂地・数値)」で、「蘭学者」のサークル、『尚歯会(コウシカイ=甲支回・合志解・なおしあい=名将死愛・拿緒史合)』のことだ・・・ならば、時代は「艦数次」の幕末の欧米諸国の『黒船(艦)』渡来、「数次」で、「キセン(お茶)一杯で夜も眠れず」の「川柳」の「キセン」、「キ・セン(セム)」は単に「汽船」だけに掛けられたモノではないらしい・・・「棋戦(将棋)・輝線(光の波長、ベクトル)・貴賎(階級、階層)・機先(計画、策謀、企画)・基線(三角測量)」の( )の同音異字、・・・「記撰(古事記)」、「紀撰(日本書紀)」、「姫戦(黄帝の戦)」、「鬼占(鬼門遁甲、九宮・卑弥呼の鬼道と内戦)」、「揆戦(一揆)」・・・「癸戦(ミズノトのイクサ=御津能登、北陸能登の戦。美津濃都の戦)」、「葵戦(徳川家の戦記)」、「葵撰(徳川家の戦時作)」等で、「アオイの煎茶」であるらしいのだが。 とにかく・・・『森鴎外』は「宮廷図書で何を見たのか?」・・・当然にも「大和王朝出生」の秘密である「御禁制=呉金生=胡金星=語禁制」の「本」であるハズだ・・彼が「医者」であったならば「医学書」、しかも、「オランダ語」か「ドイツ=プロシャ語」で記録されたモノの「日本語訳」、あるいは「漢字訳」のモノではないのか・・・「妄想」は尽きないのだが・・・彼が読んだ本の「翻訳」の著者は『高野長英』の「医学字典」、「戦争論」・・・カモ。 やはり、先に述べたことだが、九州小倉に左遷された後に「宮廷図書館長」に就任した理由をもう少し別の視点から「松本清張さん」は推理するべきであったのでは・・・と思う・・・。 「六十干支」は中国や日本で使用している「年・月・日・時」を示す「六〇のサイクル、循環」である。 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 十干 =甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸 甲 乙 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 十二支 =子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥 「十干=甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」と「十二支=子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の組合せの「六〇のサイクル」である。「九番目の干」は「壬」であり、「九番目の支」は「申」であった。この組合せは「壬申(ジンシン・みづのえのさる)」である。同音異字で転換すれば、「ここのつ」は「箇々乃(廼)津=箇々之都=箇々埜柘(拓)」、「ジンシン」は「尋審・訊診」なのだが・・・そして「十=拾・足・とう・たり」が十二支の「酉(鳥・鶏・禽・とり・にわとり・キン)」で、「十一=とう、あまり、ひとつ」が十二支の「戌(犬・狗・いぬ・ジュツ)」で、「十二=とう、あまり、ふたつ」が「亥(猪・いのしし・い・ガイ)」であった。『壬申の乱』は「天武天皇=大海部皇子」が「弘文天皇=大友皇子」に対して「反乱(?)」し、権力を握った事件であった。 壬申(ジンシン)=「人身」=「人心」=「神 振 」=「人 臣」=「尋真」 九 (く ) =「躯 」=「苦」 =「字務史武」=「字務審」=「尽唇」 九 (キュウ ) =「究 」=「窮 」=「扱 」=「級 」=「求・球」 である。 「十(拾・壱拾・十=1+一)」は、「イチ」を「重」ね、それを「ヒロウ」で、「縦棒」と「横棒」を「重ねる占いの八卦」の「意味」で、「たり(足・多理・他理)」、「ジュウ」、「とお」である。「十番目の干」は「癸(キ・みずのと)」であり、「十番目の支」は「酉(とり・ユウ・イウ)」で、この組合せは「癸酉(キユウ・みづのとのとり)」である。時刻は「夕暮れ時の七ッ半」。方位は「西方」である。「キユウ(記有・機夕・飢憂)」で、ギリシャ語で「デカ(δεκα)」ならば、日本語(?)の漢字は「出化」、あるいは俗語の「刑事(?)」。「たり(足・多理・他理)」は「充足・満足・萬捉・万捉」である。「満」は名前が「麻呂・麿」と付く人物と「同じ意味の漢字」である。だとしたら「・・・麻呂」の名前の付く人物の筆頭は『太安麻呂』である。「おほのやすまろ」とはヨマずに、ここは『森鴎外』のやり方で、「タイアンマロ(対案真賂)」とヨンでもらいたい。 癸酉(キユウ)=杞憂=喜憂=喜遊=記熊(球磨書)=記(紀)の由来は胡 ↓↓ =妓夫=義勇=牛=丑=うし=主(あるじ)=阿留字 十↓(ジュウ) 壱拾(たり)・・・足 「十一(拾壱・壱拾壱)」は「イチ」を「ヒロウ」、「イチ」の重なりで、「とあまり、ひとつ」。「十足、余り、比と柘」。「十一番目の干」は循環して「一番目」の「甲(コウ・きのえ)」であり、「十一番目の支」は「戌(ジュツ・いぬ)」で、この組合せは「甲(コウ)戌(いぬ・ジュツ)」である。ナラバ、同音異字漢字は「口述コウジュツ」である。「後述」、「講述」、「公述」、「庚戌」、「甲戌」等でもある。 「十三歳」の「お市(壱)さん」は「卑弥呼」の後継者として「披露」され、とっても「疲労」で、「困憊」したワケだ。・・・「先生」が「口述(コウジュツ)」して「記録」させるとは、「講義」そのものを「弟子・生徒・学徒」にノートに記録させることだが、「口述筆記」させるモノ書きなら「目(眼)」か「手(又)」が不自由な人物だ。江戸時代の戯作者の『滝沢馬琴』は歳老いて『嫁(ヨメ)』に彼が「口述」したものを「筆記」させて完成させたモノが『南総里見八剣伝』であった。もちろん、「名夢想聡美発見傳」である。そして盲目の学者であったのは『塙保己一』である。耳がイイだけに「視覚的な記憶力」も特殊な人物が世の中にはいる・・・あるいは、「皇帝・上司」が「口述」するのに「疲労」したか、「口述記録」を「披露」させたかである。「エンデカ(ενδεκα)」とは「重夢(エム)の出書(デカ)」であるハズだが・・・「夢」の「字」のタイトルのある書物とは・・・有名なのは「発禁本」であった『夢物語』である。とにかく、「円出化」ならば「月の朔望」で「一日」と「十五日」で、「古事記」ならば「エンデカ」とは「塩(しお)・縁(ふち)・媛(ひめ)・猿(さる)・円(つぶら)・艶(つや)・燕(つばめ)・・・」等の「で・か」である。 「十二(拾弐・壱拾弐)」は「とう、あまり、ふたつ」で、「イチ」を「ヒロウ」、「ニ」である。「十二番目の干」は循環して「二番目」の「乙(オツ・きのと)」であり、「十二番目の支」は「亥(ガイ・い)」で、この組合せは「乙(オツ・オト・イツ・きのと)亥(ガイ・い)」である・・・「外遺・害威・劾意・臥居医」・・・医者の居るところを伏(臥)す、である。「ドデカ(δωδεκα)」で「土出化(獣位置・中一・重位置)・努出華(中国)・度出日(日の出)・奴出書(魏志・倭人伝)」で、「出=山+々=サンサン=参纂」である。 乙亥(オツガイ)=乙外=乞骸=音外=音劾=何時害(劾=弾劾) ・・・・・・・・・・ ・再度・モリ・オウガイ ・・・・・・・・・・ 「漢数字」は『森鴎外』の作品「雁」、「灰燼」に使用されている「章の番号数字の字」であった。「雁(ガン・かり)」の主人公は「お玉(球)=温灸」。「灰燼(カイジン=化異人・化偉人=ハイジン=廃人・俳人)」の主人公は「節蔵(施柘造・洩蔵)」である。推して知るべし、である。 「森鴎外」の経歴は既に「角川文庫」に記されているところから抜粋したが、「彼は文久二年(1862)二月十七(一月十九日)日、島根県(石見国)、鹿足郡津和野町字横堀に、津和野藩の典医、森静男とその妻峰子との長男として生まれた」のだ。そして、故郷は「古事記」に記録された「大国主」の「出雲国」なのである。 「明治四年(1871)まで藩校の養老館で、三年間漢籍を学び、五年、父に従って上京し、同郷の先輩で当時の先覚的な哲学者であった『西周(にし・あまね)』の邸に寄寓して本郷の進文学舎に学び、七年、東京医学校予科に入学、十四年七月、東京大学医学部の最少年の卒業生として医学士になった」のだ。 その後、彼は軍医となり、一時、明治三十二年、九州の小倉に左遷された後、明治三十五年三月、東京に帰り、大正六年十二月には「帝室博物館長兼宮内省図書頭」になった。一般人としては読書不可能な「御禁制の本」が山積みされている「皇室図書の館長」になったのである。 彼自身、後に嫌った(?)らしい「鴎外」のペンネームは何を示唆するものなのか・・・「オウガイ」・・・「皇害・歐害・奥害・姶害・横害・・・桜貝・横臥意・凹賀意・邑甲斐」等で、「西欧の我意」であるハズだが。既に彼の作品、著書の「タイトル」を同音異字で変換したが、更に検討してみたい。 1889年(明治二十二年・己丑) 「己丑(キチュウ・おのれ、うし)」の年の作品である。「オノレの主の忌中」の示唆の年だ。 「於母影(おもかげ)」は、当然「於て、母の影」であるが、漢和辞典が教えてくれる「於(オ・ウ・ヨ・オ・ああ)」は、 ① 感嘆の声。助字、「于」と同じ。 ② 「に」。句中にあって、方向・位置・時・原因を表す。 「至於盟津=盟約、津に於て至る」 「積於今六十歳矣=今に積みて、六十歳なり」 ③ 「より」。句中にあって比較を表す。 「苛政猛於虎也=苛酷な政治は虎よりも猛なり」 ④ 起点を現す。・・・から 「青取之於藍=青はこれを藍から(より)とる」 ⑤ 「を」。目的を表す。 「於我如浮雲=われ、於て浮雲のごとし」 ⑥ 主動者を導き出す ⑦ おいて、・・・する。 ⑧ 於ける。両者の関係を表す。 ⑨ 受身を表す。 ⑩ 「ここ」、「ここにおいて」 ⑪ 発語の助字・・・発語の序次。捌語の序辞。初子の女児 ⑫ 「於保野(おほの)」 ⑬ 「於越」は「越の国」 ⑭ 『於菟(オト)』は『虎』の意味。「楚国」の方言 である。「於母景(おもかげ)」とは「母系(母型)に於て」であり、「於」の熟語、『於菟(オト)』が『虎(コ・とら)』であり、「楚国(ソコク)」の「方言」である、とするなら、漢字そのものの『於菟(オト・うさぎに於て)』は、「古事記」であれば、「鰐」を騙して丸裸にされた「稲葉の白菟=因幡の史朗詐欺」で、その後「大国主」に助けられた「人物(?)」である。「大国主」は「七福神の大黒天」に掛けられてしまっているが、「大黒さん」とは「中国の周代、文王に見いだされた『呂尚(ロショウ)』で、別称が『太公望(タイコウボウ)』」と云われる「戦略家」の人物である。「たい・こう・ボウ」である。「老人」が「釣竿の糸、針」に「海老」を付けて「鯛」を釣っている「水墨画」は一般的に知られているだろう。「ロウジン」と「サヲ」、「イト」、「ハリ」、「エビ」、「タイ」の「五点セット」はこの「概念を拡大」した「古事記・日本書紀」の「テーマ」である。そして、『呂尚(ロショウ)』は『尚歯会』の「つけ目」でもあったのだ・・・「ロ・ショウ」とは『ロ(鹵・鹽・塩』の『鹹(カン・ガン・しおからい)』であり、『シ(歯)』の類字であり、「ショウ(升・商・将・昌・章・象)」であるからだ。『尚歯会』の蘭学者のメンバーは知識に飢えた「乱学社(柘・写・者)」の集団であるから、天文学者なら「大黒点」とは「太陽の黒天周期」と考えるであろうし、歴史学者なら「他意の国典」、医学者なら「体(躯・躰)の黒点(ペスト=虎列刺)」と考えるであろう。 「宇(ウ・そら)佐(サ・たすける)の欺(ギ・あざむき)に於て」とは『孝謙・称徳女帝(阿倍)』と『道鏡』が、『和気清麻呂(汚麻呂)』にアザムカレタと云うことだ。「ウ(う)の詐欺(サギ)に於て」は『鵜(鳥+廬)野讃良(持統女帝)』に於ける「歴史の詐欺」であり、『虎』は「天武天皇」のことであるから「楚国の方言」とは「楚=キ(記)+キ(紀)+疋(ヒク)+コ(胡・古)+ク(句)」の「方言=方+言=方位の言=寅=北東・東北」か、「放言」である。「楚国」とは「祖国」、「蘇国」、「甦拠躯」で、「ヨミガエリの奇跡」を示した「人物の国」・・・キリスト教国の西欧諸国である。 『森林太郎(鴎外)』は「プロイセン(ドイツ=独逸・独乙)」に留学した医学生であった。「独逸=獣+虫+辷+免」であり、「独乙=ドイツ=読意柘・ひとり、きのと=比土里、何時=日菟理、記廼渡」である。 「プロイセン(ドイツ)」の人物で日本に縁が深いのは長崎オランダ館の医者であった『シ(ジ)ーボルト』であった。彼は日本人の女性、『おたき(そのぎ)』と結婚し、娘の『いね(おいね)』をもうけているのだ。そして『シーボルト』の「高弟」は東北岩手県・陸奥・水沢出身の『高野長英』で、『杉田玄白(翼・子鳳・九幸)』の出身地である「福井県・越前・小浜藩」にも逃亡して同志の援助を受けたのであったのだが・・・『杉田玄白』は幕府の医学者であった『西玄哲』に外科を学び、『西幸作』からオランダ外科を学んだ人物である。『西周(にし・あまね)』と同姓の人物である。『森林太郎(鴎外)』は「島根県・出雲・津和野藩」出身であり、『西周(にし・あまね)』とは同郷の人で、「江戸(東京)」では『西周』の邸宅に寄寓していたのだ。
・・・「古事記・漢字」の「源流」と「物語」訊ねて 「1」~「9」(18a) さて、普通、「おもかげ」は「面影」と漢字をあてるが、「面影(おもかげ・メンケイ=綿掛=綿賭=糸白巾貝十一ノ日)」、「つらかげ=柘羅化解・柘羅掛解・柘・可解」である。 この年には「しがらみ草紙」の創刊で、「史絡相思」、「糸臥螺未造史(誌)」である。 1890年(明治二十三年・庚寅年) 「庚寅(コウイン・かのえ、とら)」の年の作品である。「庚」は「コウ・キョウ・とし・よわい・年齢・みち・かわる・つぐなう」とヨム。熟語の「庚伏(コウフク)」は「夏の一番暑い時期・三伏」である。「鹿野・重・都羅、拘引」の示唆の年だ。『森林太郎(鴎外)』出身地である「島根県・津和野」の周辺の地名には興味深い地名が点在しているが、「鹿野」は山口県にあるが「津和野」の「南東30度」ぐらいに存在するが「名賀・美津・美濃郡・益田・高津川・日原・田万川・須佐・阿武・阿東・柿木・六日市・・・」等である。 「舞姫」は「留学先」の「ドイツ女性」との恋物語であるが、「舞姫」は、 「舞姫(武器=ブキ=武姫=たけひめ=侘懸秘=附記」 「まいひめ=妹比女=魔委卑女=埋媛=毎日女)」 「まいひめ=毎姫・埋卑女」 「マイキ =毎期・妹姫・魔意鬼・魔域」 で、「阿毎」とは「随書・(イ+妥)國伝」に記録された「九州に存在した倭王」の姓であった。 同年の作品に、 「うたかたの記(有多化他乃記・唄形乃槻=口目人幵彡乃木夫見)」 「ふた夜(婦多与・府他輿・蓋預=豚世=賦侘=婦多世=府他家)」 「埋木(梅木=バイモク=賣杢=うめき=卯女期=楳記・賣記・煤記)」 「梅里」とは水戸藩、水戸学の『徳川光圀』の「号」であるなら「梅の記」とは『大日本史』である。「煤記」であるなら推して知るべし彼の「陪記」、「陪臣の記」は「すすけて(煤煙)」いる、である。 1891年(明治二十四年・辛卯年) 「辛卯(シンボウ・かのと、うさぎ」。「辛抱・心棒・信望・心房・深謀・鹿野都、宇佐疑」の年の作品である。なるほど、「辛抱」とは「カライ(立+十)をイダク(抱=手+勹+己)」ではあるな・・・。 「文づかい(富美遣=践使=踏柘化謂=蚊使=聞使=分使=分詞=分史)」 「古事記」には「トミのナガスネ彦」と云う人物が登場し、江戸時代には『富永仲基』と云う人物が存在した。 「蚊(か・無視文)」とは「虻(あぶ・武史暴)」の類で、「吸血虫」であり、 「伝染病(伝箋猫・傳戦猫・淀千描=淀君と千姫 ・伝鮮描=朝鮮を描いたモノの伝)」 の「媒介動物」である。既に述べたが、「疥癬(カイセン)=皮癬(ヒゼン)の虫」とは「たまらなく皮膚が痒(掻ゆ)くなる病」で、英語では「itchmite」、「itching」と云う。「itch(イチ)」は「かゆいところをどうしてもカキたい」と云うことであり、「比喩」的に「熱望、渇望(be itching for)」である。これはどお云うことか?・・・ カキたいところは カイセン、 ヒゼン ビゼン ↓ ↓ ↓ ↓ 書きたい所 は 甲斐戦(山梨甲府)、肥前(佐賀、長崎)、備前(岡山) ↓ ↓ 会 戦=海戦=回船=改選=回戦=開戦=回旋 のムシ(虫)=中+ム=ナカのヨコシマ、カイナ ↓↓ 無視・無死・無私・武史・蒸=ジョウ=嬢・擾 ↓↓ 昆虫=インセクト(insect・因施区図・音施苦徒・寅世供徒) ↓↓↓↓↓ 医務施苦徒 であるのだ。蚊、虻の「幼虫(おさない、むし)」は「ぼうふら(孑)」で、同音異字は「防腐裸」か、「亡父(夫・婦)羅」、「卯府羅(大分宇佐)」、「卯婦羅(月の天女の国)」、「坊府羅(山口県)」は『森林太郎(鴎外)』出身地である「島根県・津和野」の「南西」に存在する。「古事記」に関すれば「慕得婦裸」は「ストリップ」で踊った巫、「猿女(宇受女)」と云うことになる。そして、「阿武」とは『淑妃』が『則天武后』の仕打ちへ対する「蔑称の言葉」であり、ついでに云えば『淑妃』が『則天武后』に云った「罵りの言葉」は「猫(淑妃)になって鼠(則天武后)を喰い殺してやる」であった。 「阿武」は「阿武郡」、「阿武隈川」、「阿武隈山地」等の日本の地名になっているのだが・・・。同年の他の作品は 「山房論文(サンゲンロンブン)=耶麻元論文=邪馬惣論文 (サンボウロンブン)=参房論分=参謀論文=三宝論文) (やまふさ、あげつらふ、ふみ)=耶麻敷作、安芸面有、府見」 であった。 1892年(明治二十五年・壬辰年) 「壬辰(ジンシン・みづのえ、たつ」。「人心・神診・尽審・尋唇、美津(御津・密・蜜・三・水)の虎」の作品である。「尽」は「つくし=筑紫」ともヨムのだが。「水虎(スイコ)」の同音異字は「推古」、「推虎」、「出拠」、「垂子」、「水滸(伝)」・・・ 「美奈和集(水沫集=水縄州=三輪州=箕輪州=三和集=美和集)」 「みなは(わ)しゅう」とは「見名話収(集・修・拾)」で、「話(物語)の題名(タイトル)を見よ」の示唆である。 そして、 「即興詩人」 の翻訳開始であった。 「ソッキョ・ウシジン=卒去牛人」とは「主人の死亡年月」である。既に述べてきたが「歴史上の人物の死亡年月日」を確認せよ、である。私の使用している「歴史年表」は、ほとんどが「日本の歴史・中央公論社・昭和四十二年九月五日印刷、九月十四日発行」、「世界の歴史・中央公論社・昭和三十七年八月二十五日印刷、八月三十日発行」のモノと、「大修館新漢和字典・大修館書店・昭和六十年四月一日発行」のモノ、最近では「世界史年表・地図・吉川弘文館・1995年4月1日発行」のモノである。 「九月五日、十四日」と「八月二十五日、三十日」、「四月一日」とは年中行事は何であったモノなのか、ふざけているのか、洒落なのか・・・「長月のイツカ、重視」、「葉月の二重語、纂重、ミソカ」、「卯月の対経(建)」の「嘘・馬鹿」・・・マサカねっ。 1893年(明治二十六年・癸巳年) 「癸巳(キシ・みづのと、み)」で、「貴誌・岸・貴志・貴紙・棋士・騎士の美津濃渡巳(水野徒診)」の作品である。江戸時代の『水野忠邦』の部下には『鳥居耀蔵』が存在し、彼は『高野長英』を殺した張本人であった。 この年の作品は 「傍観機関」・・・暴漢の機関とは「奉行所」である。 であった。「権力の暴力」には「傍観」せざるを得ない立場の人々の意味なのかどうなのか・・・戦後の「独立・(民主)日本国の権力者」は「米国」との「外交条約」で「非核三原則」などとイイながら、これを「反故(古)」にする「秘密文書」を交わしていたのだ。「井伊直弼」の時代も今も「日本支配権力者」は卑屈であるのはかわらないらしい・・・「ボウカンキカン=暴漢帰還(奇観)」、「暴漢貴簡(漢字の貴簡を暴く)」、「防寒期間(冬の期間)」であれば、「冬(ふゆの期間=婦喩の期間・卑弥呼、壱与の告喩)」、「冬(トウ=唐の期間=統の既刊=持統の期間)」である。 「傍観」とは「第三者的立場の観方」であり、「旁観」とは「合字された漢字の造りの右側の漢字部分」である。例えば「傍=イ+旁」の「旁(かたわら)」の部分である。ちなみに、「扁(かたよる)」は「偏=イ+扁」の「イ」の部分である。 1896年(明治二十九年・丙申年) 「丙申(ヘイシン・ひのえ、さる)」で、「平身・並進・兵進・並臣・併辰・閉真」、「日野を重る作留」の作品である。 「弊臣」とは「弊害の臣」、「日野家」とは「室町幕府」の「女性権力者」であった「日野富子(とみこ)」の実家ではないのか。「古事記」に関すれば「火野」とは「大国主」の「須佐之男」に試された火攻め、あるいは「姥(倭姫・ヤマト媛)」に励まされた「ヤマトタケル」の「焼津」での戦いである。あるいは「佐保(沙本姫)媛」の「稲城」炎上での死亡だ。あるいは「兵後の猿」は「猿田彦」の降伏と、その「溺死(水刑)」後、彼の領地を得た「猿女(宇受女)」の「火祭」ではないのか。そして江戸時代の「大火事」である。 この年は「めさまし草」創刊の年であった。 「めさましくさ=女作真詩句差=女叉眞支区差」 「女(おんな=音名)覚まし(詐真史)くさ(句差)」で、医者ならば眼科医の治療薬、「眼冷ます草」の「ミント(mint・眠怒・民度・明渡)=はっか(発火)」であろう・・・「mint」には「造幣局」の意味があるが、「ゾウヘイ」なら「増兵(僧兵)、拒(こばむ)、苦を」が行き着くところだ。 「三人冗語(讃人嬢後・纂任序有後・讃人上戸=讃岐の上戸、上古)」 ↓↓↓↓ 纂尋上古 「雲中語(運中語・云註語・有無注語・得武仲後)」・・・出雲の中の語 ↓ くもなか ご ↓↓↓↓ ↓ 句模中(那珂・那賀・名賀)語 「都幾久斜(トキクサ)=斗規矩差=朱鷺(土岐・時岐)苦娑=解き叢」。 ↓ ↓ みやこ・いく・ひさしい・ななめ 持統女帝・朱鳥元年686年=天武死没 見哉拠 意句 比差思惟 中国の唐689年=垂拱元年 宮 古・委苦・卑娑誌遺・納名女 690年七月 宮 子 育 避早至葦 七 女 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 中宗失権・則天武后、国号=周 移九 ↓ 四囲(四国)=始移 異句 比差思惟 那拿女・・邪馬台の同盟主 粥 名菜芽・・「春秋」の七草の種類 莞句 茄名目・・茄子=那須備(栃木県那須近辺の地名) 茨木・茨城近辺の地名 1897年(明治三十年・丁酉年) 「丁酉(テイユウ・チョウユウ・ひのと、とり)」、「帝雄・定結・綴優・提祐・鵜遊・底湧・諦憂・出熊、比能登の盗り(比較、能登の国盗り=長尾景虎・上杉謙信・・・虎列刺の検診、献身、検針ではあるナッ)」の作品には、 「かげ草」=「化解句差」 である。「テイユウ=綴友」で、「友人の綴った文書」であるのだが。 「酉(西)=ユウ」は、次の異字も「ユウ・ゆう」とヨムのだが、特に「幽霊」の「幽」に注意し、その熟語に注目し、それを同音異字転換して欲しいのだ。 ユウ=熊(くま=熊本)・・・・・・・・・・・・・・・・・熊本 =遊(あそぶ=阿蘇分・あそび=阿蘇尾)・・・・・・・阿蘇山麗 =楢(なら=奈良)・・・・・・・・・・・・・・・・・奈良 =幽(かくれる=隠れる・ひそむ=潜む・かすか=霞)・春日 (幽隠=ユウイン・誘引・・・・・・・・・・・・・由宇音) (幽韻=ユウイン・誘引・・・・・・・・・・・・・謂う音) (幽咽=ユウエツ・優越・・・・・・・・・・・・・邑越) (幽婉=ユウエン・遊園・・・・・・・・・・・・・邑媛) (幽遠=ユウエン・遊遠・・・・・・・・・・・・・憂援) (幽界=ユウカイ・遊界・誘拐・融解・・有蓋・・・阿留婦多) =あの世・冥土・よみじ=黄泉路=夜路・・・読み字) (幽懐=ユウカイ・遊界=くるわ・遊女の里・魁界・有害) (幽客=ユウキャク・・・・・・・・・・・・・・・『蘭』の別名) 遊 客 (幽壑=ユウガク・遊学) (幽閑=ユウカン・有閑) (幽間=ユウカン・勇敢) (幽鬼=ユウ キ・結城・勇気・有機・有期) (幽宮=ユウキュウ・遊休・有給) (幽情=ユウジョウ・友情) (幽居=ユウイ ・有意・有為) (幽深=ユウシン ・雄心) (幽墟=ユウキョ ・友居・憂居) (幽人=ユジン ・友人) (幽境=ユウキョウ・遊興) (幽翠=ユウスイ ・優翠) (幽禽=ユウキン ・友筋) (幽棲=ユウセイ ・有性・熊征) (幽襟=ユウキン ・憂今) (幽石=ユウセキ ・雄石) (幽径=ユウカイ ・誘拐・融解) (幽絶=ユウゼツ ・雄説) (幽玄=ユウゲン ・有限) (幽草=ユウソウ ・郵送) (幽光=ユウコウ ・有効) (幽探=ユウタン ・夕胆) (幽巷=ユウコウ ・有功) (幽鳥=ユウチョウ・夕朝・祐長) (幽香=ユウコウ ・有効) (幽討=ユウトウ ・優等・雄踏) (幽篁=ユウコウ ・友好) (幽美=ユウビ ・優美) (幽賞=ユウショウ・勇将) (幽憤=ユウフン ・友憤) (幽魂=ユウコン ・雄魂) (幽僻=ユウヘキ ・邑日置) (幽思=ユウシ ・雄志・有志) (幽昧=ユウマイ ・夕毎・遊舞) (幽室=ユウシツ ・邑失) (幽明=ユウメイ ・有名) (幽寂=ユウジャク・友弱) (幽冥=ユウメイ ・由梅居) (幽趣=ユウシ ・遊資・遊資) (幽幽=ユウユウ ・悠々・優々) (幽囚=ユウシュウ・憂愁・優秀) (幽林=ユウリン ・友林) (幽愁=ユウシュウ・有終) (幽厂+萬=ユウレイ・優麗) (幽所=ユウショ ・友書) (幽霊=ユウレイ ・熊霊) (幽渚=ユウショ ・郵書) (幽敞=ユウショウ・優賞) (幽勝=ユウショウ・勇将) (幽賞=ユウショウ・有償) (ユウヘイ =幽閉) (ユウシュウ=幽州・・・古代中国の十二州の一) (レイカイ=霊界=例解 (よみじ=黄泉路=読み字) (ゆうれい=幽霊・幽蛎=周の二暴君) ユウ=夕(たなばた・くれ・呉) =邑(むら・宮古・都) =猷(酋犬長=酋長は委奴・イヌ・ク・狗) =友(とも・鞆=応神、智=天智、共) =疣(いぼ・異母・揖保・遺母・委姥) =融(とける・解ける・菟毛留) =結(むすぶ・六州武・結城) マァ、私が「同音異字」から「古事記・拠時期=場所と時期」を「妄想」すれば、ゼェーンブ、「全部(マタのブ)」、「前部(マエ、サキのブ)」、「繕部(ツクロイのブ)」、「膳部(カシワのブ)」、「然部(シカリのブ)」、「禅部(ユヅルのブ)」、「善武(良と武=讃良と大海部)」、「蝉部(セミのブ)」、「禅武(ゼン・セン・ゆずりの武)」が、懸けられてしまうのだが・・・「天智天皇」と「大友皇子」は「親子」ではなく、「同一人物」で、「天武天皇」に「殺された」らしい、と。当然、『森鴎外』の立場であるならば「医者」であり、「江戸時代の先輩の医者」を意識していたのに違いない。 ・・・トウゼンにも『高野長英』の周辺であるハズだが・・・
1898年(明治三十一年・戊戌年) 「戊戌(ボジュツ・つちのえ、いぬ)」、「模述」、「母綬都(卑弥呼・壱与)・墓術(埴部、土部)・模診・暮進・募臣・簿審」の「柘の知、廼の重り、医奴」の作品である。 「審 美新 説」 ↓ ↓↓ ↓ 「シンビシンセツ(申未晋接=坤=ひつじさる=日辻差留)=西南」 「西周伝」とは『森林太郎』の同郷の先輩で、「哲学」者であった「西あまね」の伝記である。「セイシュウデン(星周天・星秋填・清洲=『華岡清洲』)」、「にしあまねでん(爾志海部子殿・西尼音転・西海女子伝)」・・・『西施』とは中国の有名な「傾城の美女」であった。 「西」の姓名を有する人物は『杉田玄白』の師で、幕府おかかえの医者であった。 1900年(明治三十三年・庚子年) 「庚子(コウシ・かのえ、ね)」、「合志・後嗣・孝子・高士・格子・厚志・講師・後肢・行使」の作品で、「鹿野が、重る子」だ。 「鴎外漁史とは誰ぞ」・・・鴎外=区+鳥+タ+ト=朱鳥=鶉 この意味を素直に採れば「西欧の我意、その歴史を漁るモノとは誰ぞ」である。前に述べた「イチ(itch)」であるが、類似する英語に「ich(ichthyology)=魚類学」がある。「魚=まな=真名=漢字」であることは何度も別なところで述べたが、「キリストの象徴」は「双魚宮」であった。キリストの弟子、「パウロ」は「漁師」なのである。 鴎 外 漁 史=匚+品+鳥+夕+卜+水(さんづい)+魚+史 ↓ ↓ ↓ ↓ 纂隋(書) 「オウガイ ギョシ(横臥意魚詞=ヨコシマに臥したる漢字の言葉の意味)」 ↓ ↓↓ ↓ ↓ 皇 我意 禦 施(天皇の我意、禦して施せ)とは誰ぞ ↓ ↓ ↓ ↓ 欧 害 禦 詞(西欧の害、言葉を禦せ)・・・禦=御+示=音を示す 「心頭語(シントウゴ=神道語=真訊午=親等胡=染む唐語=凍む唐后)」・・・「浸透する后(語・娯・悟)」、そして、織田信長に「恵林寺の山門」の上で「火刑」にされた『快川禅師』の「心頭、滅却。火、亦、涼しい」である。 1902年(明治三十五年・壬寅年) 「壬寅(ジンイン・みづのえ、とら)」、「尋音・尽音・甚音・神音・陣因・塵音、美津濃(水野)、重、虎(柘螺・都羅・菟羅・渡羅)」の作品は、 「審美極致論」 であった。これは、「美しさ審査(申鎖・晋差)して、その極致(局地・極地)を論ずる」である。ならば、「方位の局地」は「申壬局地論=三合会局水=子・辰・申」で、「子(ね)=音」、「辰(たつ)=唇・振賑」、「申(もおす・シン)=晋」である。 「万年草(盤年相)」とはその「年毎の事相」を占う「方位盤」である。 「玉篋両浦嶼」の作品のタイトルの示唆は「浦島太郎の玉手箱」であろう。「白髪のジジイ」である。 1903年(明治三十六年・癸卯年) 「癸卯(キボウ・みづのと、う)」、「希望・貴報・既報・貴方・紀宝、美津能登、有」の作品は、 「芸用解剖学」 であった。「ゲイヨウカイボウガク=解意(委)与得改旁畫句」で、「委の世(代)を解くに旁を改め畫句を得よ」、あるいは「禾(能義)女(音名)用(余得)=壱与」である。 「人種哲学梗概」は「ジンシュテツガクコウガイ=壬の主の出(テ=弖=氏一)、柘に臥す句、口外(害・解)」。 「大戦学理」とは、 「クラウゼヴッツの戦争論」 で、その翻訳であった。西洋に於ける「孫子」の「戦略戦術の虎の巻」である。「大戦学理=タイセンガクリ=他意占学理」で、「運命学理論」である。戦争は「机上の論理では勝利し得ないモノ」を含んでいるとは「孫子」に詳しい。すなわち、「天の時(不時・不治)」、「地の利(不利・不離)」、「人の和(不和・不破)」の「運(不運)」と云うモノだ。 1904年(明治三十七年・甲辰年) 「甲辰(コウシン・きのえ、たつ」、「更新・行進・交信・高進・後進・後身・功臣・庚申、記の重(木江)、多柘」である。 作品は、 「第二軍の歌(台尼群の烏侘)」 「うた日記(得他=烏太=卯多=有侘)」 「黄禍論梗概」は「王化論」の「王禍論」だろう。ちなみに「黄帝(軒轅・姓は姫)」は「医者」との問答した「書物」を作った「皇帝」である。「黄泉(オウセン・コウセン・ウセン)」は「よみ」と訓み、「黄」は「やむ・病・病み疲れる」とヨムのだ。「きセン」なら「紀撰」で、江戸時代を念頭に置くなら「きいずみ」は、「紀伊頭見」である。であるとするならば、「慶安事件(1651年・慶安四年・辛卯年・七月)」の首謀者、『由比正雪』を裏から操った「紀伊藩主」の『徳川頼宣』である。この年の四月には将軍『徳川家光(いえみつ)』が死没して彼の陪臣が多数「殉死」したのだ。 1908年(明治四十一年・戊申) 「戊申(ボシン・つちのえ、さる)」、「母神・母審・姥診・墓晋・慕臣・模新、津茅野(柘知埜・柘知廼)、重、佐留」の作品には、 「能久親王事蹟(退く親王自責・之、句、審能生、次席・次席・事績)」 「仮名遣に関する意見」 「門外所見」 である。 1909年(明治四十二年・己酉年) 「己酉(キユウ・つちのと、とり)」、「杞憂・起遊・記有・紀結、津知能登、採り」の作品には、 「プルウムラ」、「古生羅(伝)」 で、「振る有無の・(拉・螺)」である。そして、 「半日(はんにち・はんび・なかび)」 「はんにち(反日=晩日=判日=盤日=犯比=ヨコシマの比較)」とは「反日運動」が示唆されているかも知れない。スナワチ、「朝鮮半島・中国大陸」の「日本」に対する国際的な批判かも。 「仮面(カメム=亀武=玄武=北=木田)」 「追儺(ツイナ=対南=柘否)」 「懇親会(コンシンカイ=恨深海=坤進回)」 「大発見(他意=台=鯛=太=対=帯=苔=替・発見)」 「魔睡(粋真=水間)」 「ヰタ・セクスアリス(委侘・瀬 玖珠あり州)」 「鶏(ケイ=経=形=軽=兄=継=恵・トリ=酉=採)」 「鶏林」とは「朝鮮」の「新羅」のことである。 「金貨(金化)=金化目人=金嫁女人=鬼武掛女人=金亀訊」 「金毘羅(坤一羅)」 『金』とは「朝鮮王朝の代表的な姓」であり、日本と歴史的な関係性を有したのは「新羅」の『金春秋(武烈王)』であった。 1910年(明治四十三年・庚戌年)は「黄金杯(王言拝)」。 「青年(盛年)」。 「杯(稗=配=牌=肺(月市)=背(北月)」。 「牛鍋(牛化=丑化=王化)」。 「電車の窓(殿社の真土)」。 「里芋の芽と不動の目(聡謂母之女と不同〈婦道〉の女)」 「普請中(不審注)」 「ル・パルナス・アンビュラ(留春名州案美由良)」 「花子(華子=鼻子=塙子)」 「あそび(阿蘇美)」 「沈黙の塔(鎮母供の島)」 「食堂(織童=七夕女)」 1911年(明治四十四年・辛亥年) 「辛亥(シンガイ・かのと、い)」、「侵害・心外・真外・清害、鹿野、渡、居」の作品は、 「雁(玩=王元)」 「灰塵(廃人=俳人=頗異字務=葉偉人)」 「蛇(巳=経美=経尾=経備=辺備=真虫=真六支=真六史)」 「カズイスチカ(華随州地か=河図移素知卦)」 「妄想(模嘘胡)」 「藤鞆絵(トウヘイエ=訊丙柄=馬史=司馬遷=唐経意重)」 「心中(進駐=臣従=審重)」 「百物語(珀武柘語)」 1912年(明治四十五年・壬子年) 「壬子(ジンシ・みずのえ、ね)」、「人士・人史・尋史・陣史・神史、美津濃、重、音」の作品は、 「かのやうに」 で、 かのように(火のように)=花野様似=化、乃・冶・卯・璽=化す、スナワチ・ヤ・胡似=化す州の拿の倭地也。胡に似る(五胡・西洋)」。「化、素名、輪知、氷ム国、得字」。 「不思議な鏡(婦師疑仲頭=父子疑名鑑)」 父死 夫死 婦死の疑 拿巻 ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 附史の欺 ↓ ↓ 道鏡 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 阿部内親王 藤原仲麻呂 歴史 天智 天武 称徳 記紀・史記 阿部仲麻呂 聖武 「鼠坂(蘇叛=姐犯=蘇版=素盤=蘇我)」 「吃逆(キツギャク=鬼都逆=コチギャク=故知逆)=記柘逆=虎智虐」 「藤棚(不字拿名)」 「羽鳥千尋(得張薦嬬)」 「田楽豆腐(伝嶽東府)」 「我一幕物(われいちまくもの=割れ壱卷く物)」 「冬の王(ランド)=付、湯の王(ランド=覧奴)」 「みれん(シュニッツラ)=未練(未だ伊都の東)=見れん」 さて、問題の『乃木希典(まれすけ)』将軍の「殉死の年(1912年9月十三日午後八時)」である。このすぐ後に『森鴎外』は「興津弥五右衛門の遺書」を書き上げた。そして、『森鴎外』の研究家はこの作品を巡ってあれや、これやの「批評」を展開したのである。「殉死」の「是非」を巡って・・・。 「興津弥五右衛門の遺書(コウズ・ヤゴウ・エモンの遺書)」 ↓ ↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓ 構 図・屋号 ・衣紋 委処 好 事・耶合 ・重門 医書 興 津 弥五右 衛門 ↓ ↓ ↓↓ ↓↓ 神 津 彌語右 重文 ↓ 見=観・看・視・診・御(おん=音) ここで私が展開したいことは『森鴎外』が『乃木希典(まれすけ)』の「殉死」に関しての立場としての「是非」ではない。「殉死」の同音異字である「巡視」に関してである。『乃木希典(まれすけ)』が「殉死」したなら、その「是」としての立場は文学者『森鴎外』としての「作品」ではなく、「帝国陸軍軍人」としての「殉死」そのもので「表現(思想実践)」したであろう。「批評家」がこの事件と『森鴎外』の作品を云々するのは自由勝手ではある。だが、『森林太郎(鴎外)』は「殉死」をしなかったのである。だから、彼にとって「殉死」は「非・否」である。「安楽死」の「死」は「是」で有ったかも知れない、が・・・。 私も勝手な「亀は甲良に合わせて穴を掘る(私は古事記使用漢字に合わせてアナドル)」式の「主観主義者」であるから、彼の作品とこの事件に関して「自由」に云えば、「殉死」よりも「歴史の巡視」の方が彼の立場であったのだ。そして、彼の作品を読んでくれる「読者」に「文字の裏」に、「記録した漢字の裏」に「真意」を込めて「メッセージ」を発信していたのに違いないのだ、と。スナワチ、「現存・古事記」の「作者」と「意図」するところは同じ立場(?)である、ラシイのだ、と。 「宮仕えの立場」とか、「文学者の立場」とか「自分の生活の現実の場の地位、収入などの悲哀」に重ねて「批評」する「批評家(?)」は「思想実践」しない限り、『森林太郎(鴎外)』の立場を擬して、自分も同類なんだと彼に重ね、単なる「自分の愚痴」を「吐露」しているだけにすぎないのだ。 どのような作品でも「出来上がってしまった作品」は「作品、それ自体」である。「作品」と「作家の立場」とは区別して考えねばならないのは云うまでもないだろう。「実際に残酷な独裁者」であっても「素晴らしい作品」は遺す。「実際に理想的な人物」であっても「まずい作品」は遺すのだ。「作品」は「表現技術・才能の問題」である。表現されている「内容」は、「作者の立場(思想・人格)」とは、はるかに「乖離」していて当り前である。そして、その「作品」を通して「鑑賞者・読者・享受者」が、「作家」をいかように「思い込んで解釈」しても勝手であるのだ。だが、それは「作者」の預かり知らぬ事である。・・・「作品」=「作家の信条・思想の表現」などと思うのは勝手だが、殆ど、「騙される」のはアナタかも・・・ネッ。「出来上がった作品」のみが「あなたの価値判断」と対決し、「作家」ではなく、「あなた自身」を教えてくれるのだ。 では、『森林太郎(鴎外)』の「立場」とは何であるのか?・・・彼の「歴史性」を推理すれば出身地は『島根県(出雲)・津和野』で、父親は津和野藩の『典医』、『文久二年(1882年)生まれ』で、この1882年には「坂下門外の変」、「寺田屋騒動」、「生麦事件」、「遣欧使節・竹内保徳がナポレオン三世に謁見」、「オランダ王・ウィレム三世に謁見」、「プロシャ王・ウィルヘルム一世に謁見」、「ロシア皇帝アレクサンドル二世に謁見」、「麻疹流行で死者多数」、「オランダ留学生、榎本武楊・津田真道・西周等の派遣」があった。「明治初年」には「津和野藩・亀井家」は「長崎」から連行された『キリシタン教徒』を迫害、弾圧して『乙女峠の牢屋』で「三十数名を拷問し、殉教死」させた・・不思議にも「名古屋」の東別院の裏にある某寺院には『森鴎外の碑』があり、そこには「隠れキリシタンが殉教死」した慰霊の墓と「隠れキリシタン」が「ミサ」に使用した器具が陳列されている・・・そして医者を目指した彼は江戸時代の『蘭学者の生き方』に興味し、「明治十四年」には『東大医科卒・陸軍軍医任官』、「明治十七年」に『ドイツ留学』・・・当然にも『日本書紀』や、『現存・古事記』を読んで「疑問」したハズなのだが・・・「彼の立場」とは、「大塩平八郎」にもなれなかった単なる「国家の枠内に飼われた傍観者」・・・カモ?
イヤイヤ、イヤサカ、トウゼンにも彼は単なる「傍観者」ではない。だが、「赤ひげ先生」でもなかった、よなッ。 1912年(大正一年・壬子年) 「壬子(ジンシ・みづのえ、ね)」の作品は問題の『阿倍一族』である。「アベの位地する属」である。 以下、「干支」の「同音異字」は繰り返しになるから省略するが、確認したいヒトは前述した「年号干支」を参考にして欲しい。 アベイチゾク(阿毎壱続)=あべ =阿部・安部・安倍・阿毎・阿武 いちぞく ↓↓↓↓ 委治族 =遺知足・位地属・位置測 である。 『阿倍一族』は「興津弥五右衛門の遺書」に続く「殉死」をテーマにしたものであるが、私の興味は「殉死」であると同時に、「あべ」と云う「音」である。片仮名で「アベ」と云う字を視たなら「キリスト教徒・信者」であれば、『聖母・アベ・マリア』を思い浮かべるに違いない。「アベ」は「ラテン語」で、日本語訳では「めでたし」である。 別項でも述べてあるが「阿倍」と云う「姓」は「日本書紀」に登場し、重要な存在者となっているのだが、「阿倍臣」の「遠祖」は「垂仁天皇・二十五年」には『武渟川別』とあり、「孝元天皇」には、「其兄・大毘古命之子・建沼河別命者・〈阿倍臣等之祖〉)』とある。「大化改新」の左大臣は『阿倍倉梯麻呂(内麻呂)』で、その娘らしい『阿倍小足姫』は『孝徳天皇』の妃の一人であったらしく『中臣鎌子(藤原鎌足)』が天皇を訪問した折には彼の世話をした女性である。『阿倍比羅夫(?)』は東北、蝦夷地を遠征した水軍の提督であったらしいが、記録には「名は欠」ともある。その子供は『阿倍少麻呂(宿奈麻呂)』で、『藤原仲麻呂』の学問上の先生であった。『阿倍御主人』は『阿倍倉梯麻呂(内麻呂)』の直系らしく、彼の子供は『阿倍真虎』で、その娘の『阿倍貞媛』は『藤原武智麻呂』の妻であり、この二人の関係から生まれたのが『藤原仲麻呂』である。同時代の『阿倍仲麻呂(701~770)』は「遣唐留学生(716・霊亀二年)」で、『李白(701~762)』、『王維(699~759)』とも交遊した秀才で、『玄宗皇帝』にも仕え、「秘書監兼衛尉卿」、「従三品」として活躍、帰国しようとしたが暴風雨で「安南」に漂着、その後「粛宗」、「代宗」に仕えて「鎮南都護」となった。「在唐54年間」、中国で「客死」した。中国名は『朝衡=朝晁』と名乗った人物である。 『元明女帝』は『阿閇』と記録され、『孝謙・称徳女帝』は『阿倍内親王』であった。 『阿』は「ア」とよむが、『オ』とも読む。その例は歌舞伎芝居の「元(鼻)祖」とされている『出雲阿國(イズモのオクニ)』である。・・・「出雲・津和野・島根県」は『森林太郎』の故郷であった。 「奈良時代の『阿倍一族』」と、『森鴎外(林太郎)』が「殉死」をテーマに描き出した「阿倍一族」には共通項があるのであろうか? ・・・「殉死」の文字が「古事記」に記録されているのは古代の『垂仁天皇・二十八年十一月丙申・朔丁酉』に於ける『倭彦命』の死没を契機にした「殉死の禁止」で、『日葉酢媛命』の死亡時(三十二年秋七月甲戊・朔己卯)から、その身代を「埴輪(土物)」にしたとされている。この「埴輪(はにわ)」は「出雲國の土部壹佰人を喚し上げて、自ら土部等を領ひて造らせたモノ」で、その進言した『野見宿禰』を誉めて「鍛地を賜ふ」とあり、「土部連」の始祖は『野見宿禰』である、と記録している。・・・これより、「天皇の『殉死』を伴わない喪葬」は「土部連」の任務となったのだ。 「古事記」では、この「第十一代」の『垂仁天皇』の時代には『開化天皇』の皇子、『日子坐王(彦坐王)』の娘であった『沙本毘賣(佐波遅比賣・狭穂姫命)』が皇后であったが、彼女の兄の『狭穂彦』が反乱(垂仁・五年)を起こし、兄に同調して彼女は天皇のもとから去る。天皇は彼女が「妊娠・懐妊」しており、 「不忍其后懐妊、及愛重、至于三年。」 ↓ 「また愛で重みしたまふこと『三年』に至りぬるに忍びたまはざりき」 「故廻其軍不急攻迫。」 ↓ 「故、その軍を廻して、急かに攻迫めたまはざりき」 として、すぐには『狭穂彦』を攻めなかったのだ。そして彼女は皇子(唖の『品牟都和氣(誉津別命)』)を兄のもとで出産し、「稲城」の外に置いて、『垂仁天皇』の配下に託した後、『沙本毘賣(佐波遅比賣・狭穂姫命)』は「稲城」で炎の中、兄と共に死んだ、と記録されている。そして、「玉造部の領地を没収」したのだ。「玉名」は「熊本」の地名である。 これは、「兄」に「殉死」したと言うことであろうか・・・。「日本書紀」では『沙本毘賣(佐波遅比賣・狭穂姫命)』は既に「生まれた皇子を抱いて兄の王の稲城に入った」と、あるのだが。そして、「三年」の文字もない。 江戸時代の「殉死の禁止」は『徳川秀忠』の「武家緒法度」で定められ、『徳川家光』で確立していた。だが、『徳川家光』死没時には「殉死」する者がワンサカと存在した。その時の幕閣に『阿倍重次』がいた。 江戸幕府を支えた「岩手県・陸奥・柵倉藩」の『阿倍家』は『大彦命』の子孫である、としているらしい・・・のだが。 同年の『森鴎外』の作品は、 「ながし(流し=名賀史=那賀史=拿歌詞=納歌誌)」 「佐橋甚五郎(さはしじんごろう=作箸尋期婁)」 「槌一下(土一家)」 「護持院ケ原の敵討(誤字因果葉螺乃仇内)」 「青年(盛年=盛歳・洩歳・漏歳)=成年=載年」・・・年=歳=齢=歯 「意地(壱=位置=位地=市=異字=意字=維持=遺児=医事)」 「走馬燈(相午訊=捜牛頭)」 ↓↓↓ 葬丑頭 葬主問・・・主人、君主の死亡時期を問え 「分身(文審=聞申=蚊真=武務申=武務審=武務診)」 =「対=ツイン=対象相似」の片割れ=骨肉分離=肉親の生き別れ であるが、「阿倍一族」の「殉死テーマ」を追うごとくの「タイトル」ではあるのだが・・・『殉死』には『埴輪(はにわ=葉似話)』で、『巡視』なのだが・・・「旧約聖書」の日本語版には「土部」、「土師」に似る文字が記録されているのだが・・『師士記』・・・『土比亞』・・・そして、『申命記』と。 1914年(大正三年・甲寅年)には、これも問題の「大塩平八郎(将推史尾柄八婁)」である。「原題」には『大鹽平八郎』とある。『鹽』の漢字は「古事記」に於ける「国造り」の始まりの「原料」である。明治維新の原点は「大塩平八郎の乱」であったのだ。 「塩の精製・販売」は「植民地支配」の「大英帝国」の専売であったが、「インド洋」の「塩の精製・販売」を逆手にしたのは「インド独立の偉人」である『マハトマ・ガンジー』のとった「戦術」であった。 中国では「塩商人」は「国家経済の税収」を揺るがす存在で、「塩商人の夫人(塩賣婦)」とは「賄賂・贈収賄」の「夫」の「妻」の蔑称の意味であった。 『大石良雄』の苦悩は「主君の仇討」、「殉死」ではなく、『浅野藩の経済的維持と存続』であった。その要は白い「鹽・塩・鹵」であり、「潮汐の流れ」であり、「志雄」であった。「上杉家」の親戚、『吉・良・好事(構図)家の助』の立場を考えれば、益々、『大石・喩螺・乃(スナのワチ)・笥(簾)・袈』である。・・・『上杉謙信(長尾景虎・政虎・輝虎・虎千代)』は川中島の戦いで、敵(武田信玄)に「塩」を贈ったのだから・・・。 同年の作品は、 「堺事件(作開示圏)」 「曾我兄弟(鼠臥鏡台)=蘇我兄弟」・・・・・・鼠=移鼠(キリスト) 「安井夫人(夜州委婦人=八重洲の異夫人)」・・八重洲=ヤン・ヨーステン 「栗山大膳(句理耶麻大全)」・・・・・・・繰、纂の「大」の「全(また)」 「番紅花(サフラン)=盤光華=作斧(敷)乱」 「謎(ホフマンシュタール)=名素」・・・・「な・・・そ」は強意の禁意 ↓ ↓ 名 蘇 であった。 1915年(大正四年・乙卯年)に「山椒大夫(参照他邑=参照他有=参照多熊)」である。子供向けには「安寿と厨子王」である。角度を代えてのテーマは「姉」の「弟」に対する「殉死」であるかも。「ホトケの眉間に『十字架』」が刻まれたのであるならば、「キリスト」に対する「殉教」の示唆である。人買いに賣られた乙女の「安寿」の過酷な労働は『シオ水を酌むコト』であった。 同年の作品は、 「歴史其侭と歴史離れ」 「天窯(海部化真=海女=飴=尼=編)」 「津下四朗左衛門(しんかしろうさえもん)」 ↓ ↓↓↓↓↓↓↓ 神 化知侶有作重文 つげしろう さえもん 柘植史朗 作重文 注げ史路宇佐得問 「二人の友(釜足=鎌足の供)」 「魚玄機(禦元気=禦言記)」・・・「魚=まな=真名=漢字」の元記 「余興(余鏡=夜境)」・・・・・・「余」・・・「磐余=神武天皇」 「本家分家(本卦分懸)」 「ぢいさんばあさん(示威纂頗娃参)」 「最 後の一句(祭語の一句)=ワッショイ(話柘所為)」 ↓ ↓↓ ↓↓ 作意語の異句=「参った」=差異語の一句) 作品では「最後の一句」とは主人公の乙女である「いち」が云った言葉、すなわち、「お上の事に間違いございますまいから」である。この言葉を巡って、「評論家」がとやかく云う必要はない。その説明は「解説」されるまでもなく、作家である『森鴎外』が述べているからだ。問題は主人公の名前が「いち」であることと、 おうえのことにまちがいございますまいから ↓ 将飢え之古都似真知害 語座意真諏真意化羅 ↓ 王餌の事 に間違 い悟坐位升 魔意化裸 ↓ 横重 の古都尼・魔治・雅位・護座位間 洲摩・移空 ↓ 横島が重なる古都の天(尼)、姫(魔)が治める、太陽(雅)の位置、座の 位の間を護る、洲と山(摩天楼)、空の移動 おじょうのことにまちがいございますまいから ↓↓ ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓↓ 置嬢 之古都似磨違 い互座位升 真意掛羅 であるのだが・・・? ・・・とにかく「鴎重(おうえ=鴎外の重ね)の言(異)・・・」である。 「盛儀私記(精義史記=正義始期)」 「妄人妄語(盲人模卯語)」・・・・妄人=亡女人 「塵泥(尋出委=地理出意)」・・・塵泥=鹿土水尼=史家努出似 「沙羅の木(更の紀=讃羅の紀=持統女帝の日本書紀)」・・・沙羅双樹=仏 「諸国物語(渚国者が足り)」・・・諸国=言者剋 「稲妻(ストリンドイベリー)=委名柘間」・・・稲城の妻=狭穂媛 である。 1916年(大正五年・丙辰年)には 「高瀬舟」=タカ セフネ ↓↓ ↓↓↓ 多寡(鷹・孝)世負子 他化 施敷音 「高瀬舟」のテーマは「金(銭)不足」と「確信犯」による「安楽死(殺人)」である。スナワチ、「考(孝)世相」か、「乞う世襲」である。主人公は「罪人」ではなく、「船頭の下級役人」である。 ・・・「殉死」はモシ、「神」なる存在がいるとするならば、「神」の望むところではあるまい。「神の教え」の何処に「殉教死」が要求されているであろうか?・・・「殉教に生きるコト」を教えているのだ。「神」ではなく、「ヒト」が宣教、布教の手段として「殉教死」を云ったのだ。宗教が「こころ」の問題であるならば、「マヌーバー(嘘も方便)」は許されるはずだ。主体的に考えれば「安楽死」とは「死」することの「方法」ではなく、すなわち、「死んだ後の安楽=天国」なのだろう。だが、「肉体的に楽に死ねる方法の選択」であるならば、「死」へのプロセスと「死」の間際は依然、「肉体的な苦痛」と「精神的な恐怖(?)」を伴う「現実=現世=地獄」の世界である。客体的に考えれば「安楽死させてやるコト」であるが、「殺される側の立場」を欠落させてはどんな方法であっても「安楽」の意味がないだろう。 「ココロの苦痛(頭痛ではない)」は「肉体的な苦痛を伴わない(?)」が、「肉体的な苦痛は精神の根幹で苦痛する」のだ。また、「肉体的な自虐」や「マゾ」で恍惚を感じる人間もいるし、「武士の切腹」とは「名誉」であるらしいからこれの類は「痛み=恍惚・快楽感」であるかも知れない。別な意味で・・・疲労した時や不健康な時に「ツボ」を圧えると痛いと同時に気持ちがイイ。お灸の熱さも不健康な人や、老人には快感を伴うモノだが、子供はただ、痛さと熱さで泣き出すだろう。 人生で、「死を意識する年代の人間」が口にすることは「コロリと死ねるならば幸いである」とか云うし、その願いを叶えてくれる「神社」もあるらしい。「コロリ死」は「肉体的な痛みと苦痛」が伴わない、と考えているからである。・・・「神」を信じるならば「ココロの苦痛」は当然であるが、「肉体的な苦痛を伴わない殉教死が一番」である・・・ハズだが。 「金不足(不自由な生活)」よりも「金足(生活)の余裕」があるのがイイ・・・個人的な「余裕のレベル」は当然、「ココロの欲深さに比例」するだろうが・・・。 これを私が「歴史的に解釈」すれば、 「金不足」とは、『金は足らず=金さんは足(たり)ではない』 「金足の余裕(アマリがユタカ、ユトリになる)」とは、 ↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓ 海部利 輸多寡 愉渡哩 海女理 喩孝 由菟里 『禁足・禁則の預友(友人)、誉雄(英雄)、輿有(地図)、世癒羽(筆)』 があるのがイイ、である。「銭不足」とは「箋(辞典・字典)不足」でもある。個人的な「余裕のレベル」と「ココロの欲深さに比例」させたのは「シーボルト」で、「箋不足」に焦ったのは、彼の弟子達である「蘭学者」であった。そして、秀才、天才であった『高野長英』は「イキ字引」であったのだ。 ちなみに「金春秋」は新羅の「武烈王」で、『禁林』は「禁園の林」で、これは「エデンの園の林(?)」、あるいは『翰林院(カンリンイン)』の別称で、漢和字典には、 『翰林院(カンリンイン)』=文人、学者の社会。文人の仲間。学者の仲間。詞壇、文苑。文人学者を集め天子の詔勅を司った役所。唐の玄宗の時から置かれ、明代には秘書の著作も扱い、清代には侍講、侍読、書物の編纂も行った。『翰苑』。 『翰(カン・ガン)』=山鳥。はね。鳥の羽。飛ぶ。高く飛ぶ。速く飛ぶ。「翰飛」。ふで。筆毛。「筆翰」。ふみ。てがみ。「書翰」。白い。白い馬。幹、はしら。はたらき。才能。「史翰」。 『林(リン・はやし)』=物事や仲間が多く集まっているところ。「辞林・儒林」。おおい。衆多。「林立」。さかん。野外。君主。 と説明されている。市販されている辞書、辞典の名前に「林」が付けられているのは「林立する言葉の意味説明をしている書物(辞林)」と、云うことであろうが、音を採れば「キキ(記紀)」である。「辞」に関して云えば「卑辞(史記・魏世家・卑辞厚幣)=謙遜して言葉を丁寧にする」の熟語がある。「卑弥呼の辞」ではないのか、これは。そして「古事記」に関して云えば「邇邇藝命」の「邇」の類字、「爾(ジ・ニ・なんじ・かれ・これ・ここ・それ・そこ・しかり・のみ・か・ちかい)」の熟語は「爾雅=中国古代の字書」、「爾来=その後・それ以来」である。・・・「爾霊山=乃木将軍が日露戦争の時に激戦地であった旅順の203高地に付けた名前」であった。もちろん、軍医『森林太郎(鴎外)』と、陸軍大将『乃木希典』は同時代の「友人」であった。「森」、「林」、「乃(すなわち・なんじ=汝・爾・難字)」、「木」、「希典=ギリシャ語辞典」である。 そして、「辞」の漢字分解は「辞=舌(ノ十口)+辛(立十)=説審・絶辰・洩振」で、「秦国」、「晋国」、「龍国(劉=漢)」、「新羅(辰韓)」、「清(金)国=女真国」の「ノ(ヘツ・経柘)」を「十(壱拾・イチジュウ・重)」の「口(コウ・交)」である。 とにかく、「カン・リン(ム)・イン」の同音は無数にあるが、「(古事記)のカンの裏(うら)、務めよ音に」である。「鑑(歴史)の離、務の隠」は1915年に『森鴎外』が発表した『歴史其侭と歴史離れ』の意味の更なる裏カモ・・・「(日本書紀)の鑑(歴史)の裏、鵡(おうむ・繰り返し)の引」である。・・・「咸臨丸(圓)」とは1860年(万延元年)に「福沢諭吉」等を乗せてアメリカへ渡航した幕府の船であった。 ちなみに「翰」の類字の「瀚(カン・ガン・ひろい)」の熟語は「瀚海」で、「ゴビ砂漠、バイカル湖、北海の意味。『唐代の都護府の名前・ゴビ砂漠以北の地を管轄した。瀚海は初め燕然(エンゼン)と云った』」と、ある。「鑑改(甲斐)=歴史の改め・歴史の対称(対象・対照)」は「ゴ・ビ」、「バ・イ・カ・ル」、「ホ・ク・カ・イ」の同音異字である。 「寒山拾得(観算修得=換算収得=甘酸習得)」 「椙原品(素義言斌=素記源本)」 「渋抽斉(重注差異)」 「寿阿彌の手紙(素娃巳の・加味)」 「伊澤蘭軒(委唐乱圏=諌倭乱乾)」・・・乾=戌亥=犬遺(犬上御田鋤) 狗奴(委奴加味満たす記) 「空車(唐来る間・供胡者)」 1917年(大正六年・丁巳年)、『森鴎外』は『宮内庁博物館兼図書頭』になったのである。「五五歳」であった。『宮内庁博物館兼図書頭』であるからして「御禁制の書物」は自由に「閲覧(エツラン=悦蘭・越乱・重津乱・重柘・夢)」出来たのだ。 「都甲太兵衛(渡航多兵迂)」 「鈴木籐吉郎(素嬬姫投棄地婁)」 「細木香以(再起皇位=佐伯更衣)」 「小嶋宝素(古史真豊祖)」 「北条霞亭(芳情家庭)」 「なかじきり(那賀時期理・仲時期裏・中喰裏)」 1918年(大正七年・戊午年)・・・「礼儀小言(霊気個々斗)」 1919年(大正八年・己未年)・・・「蛙(還える・かえる)」 「山房礼記(三紡皐月・五月)」 「帝諡考(綴史交)」 1921年(大正十年・辛酉年)・・・「ペリカン(経理間)」 「元号考(源合光)」 「古い手帳から(振る意、・張掛羅)」 1922年(大正十一年・壬戌年) 六月十五日から役所を休む 七月九日午前七時没 「法号」は「貞献院 殿文 稷思斉 大 居士」 ↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓ ↓↓ 帝婚姻 伝文(伝聞)秘史委細 他意 位史 綴今音 淀聞 などと・・・これらはすべて「邪馬台国」と「夜間、他移(他意)、弧句(語句)」に懸けられた「タイトル=他意採る=帯執る=鯛捕る=台都瑠」だと考えるのだが・・・ ちなみに、渡辺三男氏著作の「名づけ事典(毎日新聞社・昭和48年3月1日発行)」には「欧風の語感」のカ所で「森鴎外の五人の子供の名前」に関して述べている。 私がこの本を古本屋で手にいれたのは「平成の昨今、世紀末」も近くになってからだが、「(生まれてきた日本人の子供の)名前の国際化を違和感なく漢字を使用して付ける」と云う渡辺氏とは「現存・古事記」を踏まえた別な観点、視点から大変興味深く、「共通項」があるように思えた。 「森鴎外」の子供達の名前に関するそのカ所を抜粋、要約すれば、 長男の「於菟(おと)」は、「オットー(Otto・神聖ローマ帝国の大帝)」で、「左伝」では「楚」の方言で『虎』のことだ。 次男の「不律(ふりつ)」は、「フリッツ(Fritz)」で、「不律」は「筆」の異名で、「文章」を「文筆」と云う場合には「韻文=文」、「散文=筆」といった。(ちなみに「毛・羽」とは「筆・ぺん」のことだ。) 三男の「類(るい)」は、「ルイ(Rui)」 長女の「茉莉(まり)」は、「マリー(Marie・フランス王ルイ十六世王妃)」で、漢字音では「マツリ」。小さい「クチナシの花」に似た香り高い花。北京音では「茉莉花(モーリーホウ)」とされ、乾燥させた花弁は緑茶に混ぜて用いる。 次女の「杏奴(あんぬ)」は、「アンヌ(Anne・フランス王シャルル八世王妃)」で、「杏」は漢字音では「きょう」、唐音では「あんず(杏子)」。「奴」は万葉仮名の「怒・努・弩・奴・農・濃・沼・停・渚・寝・犬・去」の中から特に選んだ。「奴」は男女とも自称に使われた。 と、ある。実際に「森鴎外」が子供達の「名前」を以上のような「思索の結果(?)」、名付けたのならば、推して知るべし「タイトル」ではあるのだが、渡辺氏の単なる「推理・推測・類推」かも・・・それにしても示唆深い「宮内庁博物館兼図書頭」であった「森林太郎」の「立場」ではある。 私は「森鴎外」を「漏横臥委」とヨミ、さらに「ヨコシマに漏らし、ユダネて臥(伏・賦)す」、あるいは「模理将得我意」とヨミ、さらに「理を模すこと、マサニ、我が意の得るトコロとす」とヨミタイのだが・・・ネッ。