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プラトンの「高句麗」と「古事記」(1)


 さて、ここまで「興味」をもって読んでくれたアナタの「脳味噌の構造」は、「眞言密教」の『求問持法』をモノにした『空海(弘法大師)』と同じくらい「異常」になっているであるだろう。  多分、生理、整頓された文章や歴史に慣れているヒトには「時代」が、「場所」が、「人物」がアッチコッチにトンで、ヒョットしたら「チンプン、カンプン」で「理解困難」であったかもしれない。だが、私の頭が混乱しているわけではないし、私の文章が混乱しているワケでもない。「誤字」も「脱字」も「誤解」も「私のイト」的なモノで、「現存・古事記」に重ねてみたいなぁー、と云う「問題提起」であるから、それでも「スキ(興味=音足例諏天具)」なヒトは読み続けて下さい。  朝鮮半島の版図を鳥瞰すれば、「紀元前108年」には「衛氏朝鮮」と呼ばれる領域に「楽浪」、「臨屯」、「玄菟」、「眞番」の「郡」が置かれていた。

 ・・・朝鮮半島の地理的な「全体領域の図形」は「ウサギ」に似ているらしいが・・・

 「日本(倭)」として記録された「原点」は「西暦五十七年」の「後漢」の『光武帝』から『倭奴国』の王が『漢委奴国』の『金印』をもらった、と言うことである。当然にも「古事記」、「日本書紀」を「記録」した編纂者達はこれらの「漢字」を意識していたに違いない。スナワチ、記録者として「漢字の音」を重ね掛けて「ウラの意味を示唆」したいのであるならば、「記録に関する漢字の文字」で、これらの「同音異字」であるハズだ。  ①『光・武・帝』・・・=口(交・考・控・口・敲・稿・頁・行・講)・分・綴  ②『倭・奴・国』・・・=話・讀(読)・告  ③『漢・委・奴・国』=巻・意・読・告  ④『金・印』・・・・・ =筋・音  である。だとするならば、「紀元前108年」の数字は、「煩悩を払う『除夜の鐘の音の数』」であり、「1+0+8=9」で、「10+8=18(壱拾八=イチ、拾う、ハチ)」であり、『漢書・巻二十八下・地理志第八下(班固)』の記録にある「楽浪海中有『倭人』」、「百余国に分かれている」の『西暦年号』であり、原典には、  盗俗稍益薄。  今於犯禁帚多、至六十餘條。  可貴哉、仁賢之化也!  然東夷天性柔順、異於三方之外、  故孔子卓道不行、設浮於海、  欲居九夷、有以也夫!  《楽浪海中有倭人》、  《分為百餘國》、  以歳時来献見云。  と記録されている《 》ヶ所である。もちろん(勿論)、「衛氏朝鮮」、「楽浪」、「臨屯」、「玄菟」、「眞番」、「郡」も「現存・古事記」の作者(?)には「意識」され、「意図(糸・伊都・異図)」化されるベキ「漢字」である「筈(はず・『竹+舌』=チクゼツ・地区説・治貢説・知句説・築説・畜説・蓄説・馳駆説・逐説・筑説=筑紫説)」だ。スナワチ、  「紀元前108年」・・・起源・桝・壱零八・撚・・・舛=倭国王・帥升(桝)  「衛・氏・朝・鮮」・・・洩・史・調・撰・・・・・・重意視挑戦  「楽・浪」・・・・・・・絡・漏  「臨・屯」・・・・・・・倫・敦・・・・・・・・・・英国の首都=ロンドン  「玄・菟」・・・・・・・諺(言・現)・図・・・クロ-ウサギ?・・・新月(朔)の月?  「眞・番」・・・・・・・審・判  「郡」・・・・・・・・・・訓(君)  である。「紀・元・前・1・0・8・年」の同音異字が「起・源・桝(枡)・壱・零・八・撚」であるなら「桝(セン・ます=枡)」は「枡」で、「国字・和字・倭字」で、「舛」は「升(ます・ショウ)の俗字」であり、「枡」の意味は「モノの容量をはかる道具、器具」、「四角に仕切った芝居や、相撲(角力)の観覧席」である。  一般的に「道・具」の原義とは字面から「道に供えられているモノ(標識)」や「旅に備えるモノ」ではないのか。「黄道」とは「太陽の通り道=獣帯」で、十二区分された座宮にそなわっているモノは「十二の獣」と「二十八宿」の「星座」である。「白道」とは「お月さま=白菟=しろうさぎ=『史朗詐欺』」の通り道である。「役者」は「俳優・女優」、「伎モノ」、「くぐつモノ」、「河原モノ」と云われ、「相撲とり」の「大関」、「小結」、「関脇」、「幕内」、「十両」、「幕下」、「序段」は『関取』と云われる。「器具」はウツワだが、『機具』は「ハタに備える」ものだ。「危惧」は結果の不利をサキドリした不安である。「規矩」は『手本』や、規則で「物差し(T定規)」と「分まわし(コンパス)」である。『起句』とは最初の書き出し文句だ。「菊」は「壱拾六弁の紋所」だ。『耳』で聞いて『疑懼(ギク)』するとは、本当かどうかの事実、真実を疑って「不安」になることであるが、『眼』で確かめてみれば「安心」と云うわけだ。だから、あなたが私の云っていることを『疑懼(ギク)』するならば、ココでは辞典で確かめればイイのだ。  漢和辞典には「升」は「升目の単位・一升は十合・全ての枡」とあり、  「ショウ・ます・昇・揚がる・のぼす・のぼらせる・すすめる・奉じる・成る・みのる・たかい・高くする・さかえる・盛りもの・よみ」  と記されている  「桝」の漢字はワープロ漢字にあって、私の「漢和辞典」で何故か、発見出来ない漢字である。そして「桝(セン)」の類字の『桀』は、  「ケツ・ケチ・はりつけ・になう・すぐれる・ひいでる・あらい・わるつよい・ねぐら・とや・鶏のとまり木」  と記されている。  「桀・桝」の類字の「磔(タク・チャク・裂く・張る)」は「十字架に架けられる刑」で『磔刑(タッケイ)』とも云われるのだが、「新約聖書(福音書)」に記録された主人公の「最後の壱拾参日の金曜日」である。「磔」が「石」と「桀」の合字なのは、キリストの使徒が殉教者の「ペトロ=石・岩・磐」であるからだろう・・・本来は「身体をバラバラに引き裂く刑」で、「車裂き」、「牛裂き」と云われるものだ。そして「『物音』の形容・鳥の鳴き『声』や羽ばたきの『音』」である。  「舛」の本来の意味は「背く・たがう・違う・もとる・入り交じる・混じり乱れる」なのだ。「舛午・舛忤(センゴ)」は「背き違う・違背する」の熟語である。裏切り者である。「枡・桝」の類字、類音漢字に「枅(ケイ・とがた・『ますがた』・ひじき)」があり、「柱の上に置いて棟木(むなぎ=務名伎)を受ける角材(かくざい=化句座意)」とある。・・・「舛添某」って名前の「国際政治学者」が最近、ヴェトナム沖海底油田開発問題に絡んで噂された政治利権屋の「渡邊某」にTVで媚びたり(?)、某企業のコマーシャルなんかに出ているが、なるほど、彼は「仏国」にいたらしい・・・  さて、以上を踏まえ、「倭国王・帥升(スイショウ)」の名前が意味するモノ、「スイショウ」ならば、「水(ミズ)を・ハカル・升目(ますめ)の単位(タンイ)」である。そして、同音異字は『水将(スイショウ)=海軍(水軍)提督』、『水沼(スイショウ)=瀛(エイ)・渟(テイ)』である。  「現存・古事記」ならば『猿(犬+爰)田毘古神』は「比良夫・貝(ヒリョウフバイ・ひらふかい)」に手を喰われて「海底」に沈んだ時の別名が『底度久(テイトク=提督=綴読・そこどく)』である。そして『都夫多都(トフタツ=塗布他柘・つぶたつ)』であり、『阿和佐久(吾話作・あわさく)』であった。  「比良夫・貝」を種類不明の「貝」であると注釈し、「貝」そのものだと考える「馬鹿」な「古事記」研究家もいるが、「比良夫」なら『阿部比羅夫』だろう。「貝(バイ)」なら「売(賣・買)」か、「梅(煤=すす・賠=つぐなう=柘愚名得)」である。「梅里」とは『大日本史』を編纂させた「徳川光圀」の「号」であった・・・「現存・古事記」作者の云いたいことは「比羅府の売(女・おんな=音名)」で、「比較せよ新羅のカイ(皆・魁・海・甲斐・諧・届・解・改)」であるハズだ・・・が、サテもさてさて・・・。  『天武天皇(大海部皇子)』は『天渟中原瀛真人(あめの・ぬ・なかはら・おきの・まひと)』であった。彼が「海軍提督」であったとしたら「何処の国」の「提督」であったのか?・・・「倭人」ではあるまい・・・。  ・・・「水」と「沼」なら、江戸時代には「水野」とか「田沼」なんて云う幕閣がいて「人々」を弾圧し、「賄賂」をしこたま懐にしていた人物も存在したのだが。「枅(ケイ・ますがた・ひじき)」なら漢字分解では「枅=十+八+幵(・)」は「壱拾八」を「併(并)せる」か、『・』は「鳥居」で、「水野」の手先であった。「枅(ケイ・ますがた・ひじき)」の読みは「ケイ(刑・鶏)」、「ますがた(眞姿・魔素画侘・磨諏臥他)」、「ひじき(比時期・日出氣・菱記・肘起・肱起・秘事記)」だ。  さて、「音」が「重ねられている」のは「記録を意味する漢字に関するモノ」ばかりではない。「現存・古事記」が記録された「①時代的状況の歴史的な政治事件」と「②過去の歴史」が重ねられているのだ。多分、「ももしき(百磯城=壱百史記=百済・新羅・高句麗=一白史記)や、けふ(キョウ)、九重の八重桜」の「もも(桃・股・腿・脚・足)始期」で、「腿(亦・俣・又)死期」、「茂藻色(四季)」、「母喪式(識)」等、「言葉の櫻(サクラ)=佐倉(査句羅・作倉・詐欺)」、「桜=オウ=王・応・奥・邑・鴨・謳・横・姶・欧・・・」は『九重』も懸けられているのだ・・・ろう。  「西暦九年」、「王奔(西暦七年~弐拾参年在位)」が「紀元一年・『元始元年』・辛酉年」に「太傅(タイフ)」となり「安漢公」となり、「紀元六年・丙寅年」に「仮皇帝」と称し、『紀元九年・己巳年』に「前漢」の『孺子嬰』を廃し、「新」を建国した。「高句麗」と「扶余」は「新」の「柵封」国家となったが「西暦十二年」、「高句麗(建国紀元前三十七年)」の「東明王・鄒牟(朱蒙)」は「匈奴」征伐を拒否したことから「王奔」に殺された。この討伐に「王奔」は臣下の「厳尤(ゲンユウ)」に諌められている。この時期、朝鮮北東部に「・+歳(カイ)」、「貊(ハク)」、「夭沮」南部に「韓」、「倭」。中国北西部に「羌(キョウ)」、「・(テイ)」、南部に「・+眞(シン)」、「門+虫(ビン)」が存在した。(ワープロに無い漢字は部首の接合として、□+■とした)  私の基本的な立場は「現存・古事記」は「何を意図」とされて記録されているのか?、と言う「漢和辞典・英和辞典・ギリシャ辞典」を片手にした「深(附加)読み」であり、「勝手な推理」と「遊び」であるからして、「・・・カモ、知れない」のそれ以上でも以下でもない。それで、私につき合ってこの「本」を読んでくれるならば文句はナイし、あなたの文句もキキたくない。唯只、読んでクレルならば・・・アリガタイ・・・のだが。  ・・・機会があるならば、「明里」の「文句」は無条件に聞く・・・。  さて、「西暦年号の数字」も重要なポイントで、特に「9(九・仇)・6(六・陸)」の付く年号には注目して欲しいのだが。「9」は単数の極まる数字で、「宿曜経」の「9+9+9=弐拾七宿」の星座区分、かけ算の「9×9=八拾壱」、中国(支那)、朝鮮(統一新羅)、日本(九州)の領土区分の「九州」であり、「九重」で、「6」は聖書が語る「6+6+6=壱拾八」で「悪魔の数字」で、「6=六・陸奥・奥羽・王有・被う・覆う・追おう・逐おう」であるからだ。  スナワチ、・・・「現存・古事記」の作者は『西暦元年』の『王奔』が歴史に登場した『元始元年・辛酉(かのと・とり)』を意識し、『仮皇帝』を称した『紀元六年』の『丙寅(ひのえ・とら)』、『皇帝』に就任した『紀元九年』の『己巳(つちのと・へび)』、建国の国名の『新国』等の「漢字」を文字道理に重ねる「始まり」にしたかったのだ。  勿論、「7=七・漆」も「乞巧・亀甲・拮抗・記柘虹」、「復讐」の「基数」ではあるのだがネッ。  さて、同音異字で歴史的な「5W」である「誰・何・何時・何処・何故」を「記録に関するコトバに文字転換」させれば、  「王奔(オウモウ)」・・・・横網・緒得模得・尾羽毛・欧望・将胡模有  「王奔(オウモウ・オウホン=姶本・黄本・奥本・欧本)」は漢王朝を倒した人物だが、漢字分解の「王=二+十」と、「奔流」の「奔=一+人+十+廾」を踏まえ、私流の「コジツケ」をしていけば、江戸時代に盛んになった相撲(角力=書く力)の「横網(よこづな)」である。「相・撲」を漢字分解するなら「木+目+手+ボク・ハク」で、「決め手は打つ(殴る・持つ・集まる・尽くす・すべて)」で、「鬼女の出、模句=記序、出、模句」である。  「相撲」に類似する地名は「三浦案針(按針・英国人ウイリアム・アダムス)」が領地をもらった「相模(さがみ)」である。「ヤマトタケル」が「あつまはや」と「乙橘姫」の「溺死」を嘆いた「東征」の場所でもある。相撲の元祖ならば「古事記・神代」では「天の石屋戸」をコジ開けた「天手力男神」で、「横網(よこづな)」とは「天照大御神」が「天の石屋戸(海女の委話哉採)」から出るや、結界を張った「尻久米縄(しりくめなわ・史裏句目名話・詞裏汲め名和)」だ。「横綱」は「化粧まわし」と共に「シメられるナワの紐(ひも)のコト」でもあるが、「神社の鳥居・賽銭箱」や「御神体の岩倉」に締(絞)められる縄でもある。ここでは九州「阿蘇山」山頂を横切る「緯度(33度線)」で、東西南北の「横(よこしま・横島・邪)の網(あみ・編み・阿見)」と「記録にカンスル邪(ヤ・ジャ・よこしま)」の示唆の「オウモウ」である。  「尾羽毛」であるなら「祭り(奉り・政り・サイ=差異)」の「御輿(みこし=見越し・おんこし=音胡詞)」に載る「鳥(チョウ・とり=斗理・止利)」、「鶏(ケイ・にわとり=似話採裏」、「酉(ユウ・にし=爾志・螺・似史」、「禽(キン=近・筋・金」、「鳳(ホウ・おおとり・ほうおう=法王」の「採り・執り・掲り・取り・盗り・捕り」である。  「輿(ヨ)」は「地図」のことである。類字は「與」と「興」である。  「奥羽網」ならば「東北地方のあみ(モウ=毛)」で、「毛人=蝦夷」である。「弘法大師・空海」の姓は「佐伯」氏で、出身は「讃岐」、開壇の本拠地は「紀伊・和歌山・高野山」であった。「佐伯」氏は「蝦夷・毛人」の監督者であったらしいが、「蘇我入鹿・『蝦夷=毛人』」親子の「暗殺」に荷担したのが「『海』犬養連・勝麻呂」に「箱の中」の「兩剣」を預けられた『佐伯連・子麻呂』と、「葛城『稚』犬養連・網田」であった。伯父は「阿刀大足(あと・おおたり)」であった。  ここは「 」と『 』にククった漢字をじっくり調べ、あなたの手元に「ます」があったら、その「差益(差役・差易・差亦・差液・差疫)」を計って考えて欲しいのだが・・・  「欧望」なら「西欧(歐)を望む(蘭学者)」で、「将胡模有(まさに、西洋の模倣、あらんとす)」である。  「緒(著)得盲」ならば、「緒(著)はメクラが得る」である。メクラの語り部とは「琵琶法師の耳無しホウイチ」で、「按摩の座頭の市さん」で、メクラの学者と言えば「塙己保一」である。いずれも「音」で「イメージ(映像化)」して「モノ」を知(視)る人たちだ。  「網」にひっかかるのは「徳川将軍」で、言語障害があったらしい「四代・家綱(竹千代)」、「犬公方」と言われれた「五代・綱吉(徳松)」、そして「第三代将軍・家光」の「孫」であり、『新井白石』と『間部詮房』を幕閣に従えた『六代・綱豊=家宣(虎松)』である。「徳川豊綱(家宣)・(1709年・宝永六年五月一日~正徳二年十月十四日在職)」の時代の『朝鮮信使・1711年十一月引見』の訪問、上京の「道筋・道程」の「休憩・宿泊」の場所は「鎖国」によって閉息していた「江戸時代の学者連中」が渇望した「学問交流の一大チャンス」の場所であった。しかも、『綱豊=家宣』の幼名が『虎松』で、将軍職に就任する以前は『甲斐・甲府』の大名であった。母は『長昌院』、妻は『天英院』であった。  「甲斐・山梨県」は、北は「信濃」、南は「駿河」と「相模」、東は「武蔵」に囲まれているところでもある。「日本書紀」によれば「武蔵国」は「新羅」の帰化人が移民させられた所でもある。 サテ、マァ~っ、「1H」である「how」、貴方も、私も、どの様に考えるのも勝手であるのだがね。「H」は「水素」、「H-2O」とは「水」の元素記号で、「O」とは「酸素」の元素記号ではあるから「歴史」も「分子式」で考えようとしたんじゃぁないのか・・・漢字のアメ音をフッて、フッてフリまくって、接合したんだ・・・「現存・古事記」の作者は・・・?  「前漢」・・・・・・・・・・全巻・前巻・撰鑑・鮮鑑・繕換  「新」・・・・・・・・・・・・審  「高句麗」・・・・・・・・拠句理  「扶余」・・・・・・・・・・付与  「柵封」・・・・・・・・・・作風  「西暦十二年」・・・・・声例起  「建国  紀元前三十七年」・・・参拾七  「東明王」・・・・・・・・・透明将雨・東名謳  「鄒牟(朱蒙)」・・・・・ 諏有無(諏模有)  「匈奴」・・・・・・・・・・・経度・郷土  「・+歳(カイ)」・・・・・解・甲斐・改・皆・海  「貊(ハク)」・・・・・・・ 葉句  「夭沮(ヨウソ)」・・・・・要素  「韓」・・・・・・・・・・・鑑・巻・関・汗・干・韓・桓・姦・艦・神・換  「鑑」とは歴史書のことである。「巻」とは虎の巻である。「関」とは関所のことである。「汗」とは「王様」のことであるが、「あ施」のことである。「干」とは「六拾干支(六十甲子)」のことであるが、「ほし」のことである。「韓」とは朝鮮半島にあった国々であるが、「から(~)」で、「十(壱拾)の日の十(重)の韋(なめしがわ)」である。「桓」とは亘理のことであるが、「桓武天皇」のことである。「姦」とは「よこしま」であるが、三人の「おんな」のことである。「艦」とは「戦艦」のことで「黒船」のことである。「神」とは死んだ「御先祖」のことであるが、「ネ=子=音」と「申」のことである。「換」とは「転換」のことで、すべての「テン」の「かむ」ことである。  「倭」・・・・・・・・・・・話  「羌(キョウ)」・・・・ 教・・・えびす  「・(テイ)」・・・綴・・・氏の一(はじめ)・・・つづる  「・+眞(シン)」・・・診・・・水の眞・・・任那  「門+虫(ビン)」・・ 紊・・・文の糸・・・文の意図(異図)  となる。  さて、「王奔」の時代は「西暦23年」で終わった。そして『劉秀(光武帝)』の「後漢(二十五年・乙酉)」が興ったが、朝鮮半島では「西暦三十年」に「楽浪郡」で中国人系の「王調(オウチョウ)」が反乱し、「楽浪郡」を占拠した。また「仏教伝来」で「訓詁学」が盛んになり、かつ、「宦官」の「党錮の獄」、「黄巾の乱」があった。  「水戸黄門」の「黄門」だが、「中納言」であるが、別に「宦官」の意味もある。 時代は下って「後漢」は、184年には「張角」等の「黄巾の乱」、「道教」による「五斗米道の乱」が起こった。  「張角(チョウカク)」ならば「聴覚」で、「五斗米道」とは「語渡目導」、「語斗真異同」、「后都間異動」、「一途真医道」等々・・・      「公孫氏」・・・公   の 孫  の氏          ・・・ハ+ム の 子(孑)の系の氏

               孑(ひとり・ケツ・ケチ)・のこり・刈り のこり・滅びた一族の残党

                片腕を切り落とす・片腕を切りとられた者

                妾腹ショウフクの子・わすれがたみ・遺子

                ただ一つのこったさま・ひとりぼっち

               孑孓=蚊的幼虫・ボウフラ=孑孒  朝鮮半島では「玄菟郡太守」は「公孫或」であった。彼の子「公孫豹」が死亡してたので、同名の「豹」である少年を養子にした。その養子が「公孫度」であった。「公孫度」が「一八歳」の時、実父の「公孫延」は「遼東半島・嚢平県」から「玄菟城」に赴任した下級郡吏であった。  169年、遼東郡太守となった「公孫度」は「高句麗」、「烏丸」を討って勢力拡大。  「公孫・或」・・・・・・・・・「耶」・「はじめ」  「公孫・豹」・・・・・・・・・「彪・瓢」・「ことら・ひさご=瓢箪」  「公孫・度」・・・・・・・・・「土・奴」・「つち・やっこ」  「一八歳」・・・・・・・・・・「壱拾八差異」  「公孫・延」・・・・・・・・・「縁・猿」・「のばす」  「遼東半島・嚢平県」・・・・・「両統・両刀=両刃=領頗=漁葉」  「玄菟城」・・・・・・・・・・「元都嬢」・「くろ・うさぎ」=新月  「烏丸(ウガン)」・・・・・・「右岸」・「からす・まる」=太陽  等の「人名」、「歳」、「場所」、「種族」は云うまでもなく「古事記」、「日本書紀」の「天孫降臨」の重なる原点である。  197年・高句麗王の「故国川王」の死亡で「発岐(抜奇)」と「延優(伊夷模)」が王位を争って 「発岐(抜奇)」が王位に就く。「延優(伊夷模)」は「新国」を建国。後に合体吸収。  「高句麗」の部族構成は「涓(消)奴部」、「絶(掾那)奴部」、「順奴部」、「潅奴部」、「桂婁部」であった。  220年・「後漢」滅亡。「魏」、「呉」、「蜀」の三国時代の「公孫氏」は両属政策」をとっていたのだ。  「魏」→属→「公孫氏」←属←「呉」・・・両属政策                  (ダブルスタンダード[double standard] )                  日本語では、「二枚舌」に近い否定的な                  ニュアンスを持つことが多いが、                  英語では中立的な意味のみ  233年十二月・「公孫淵」は「呉」の使者を斬って「魏」へ忠誠。「呉」の「中使」である「秦旦」、「張群」等六十余人が「東川王・高句麗」に逃避した。その結果、「東川王・高句麗」は「呉」と同盟することになった。  236年7月・高句麗は「呉」の使者、「胡衛」を斬って首を「魏の幽州」に送った。  237年・「魏」の「幽州刺史(長官)」の「毋丘倹」が東方に進出。7月「毋丘倹」が「公孫淵」と戦って敗北。  238年1月・「魏」は「司馬宣王」を派遣、8月「公孫淵」を滅ぼす。「高句麗」は「魏軍」を支援して壱千人の将兵を派遣したが、その後「魏」と対立。さらに「韓族」は「帯方郡太守・弓遵(キュウジュン)」、「楽浪郡太守・劉茂」の連合軍と戦って「帯方郡太守・弓遵」が死亡。  244年・「毋丘倹(カンキュウケン)」が「高句麗の丸都城」を陥落させる。「東川王・高句麗王」は「密友」、「紐由」と共に「粛慎」、「南夭沮」まで逃げた。「毋丘倹」は「扶余」、「夭沮」、「邑婁」、「歳」にも侵入。  246年・韓の「那奚」等、数十国が「魏」に朝項。  南朝鮮=「馬韓」、「弁韓」、「辰韓」  「辰国・辰王」=「辰韓」は「いにしえの辰国」。「辰王は月支国を治めている」  「新羅」の「和白(大等会議・全員一致の合議政体)」による王位擁立。  **「過去の記事が不明な場合、『同名異種』の『史料』を付会し、合理化しようとする歴史家」が何時の時代にもいる」とは参考にしているこの本の著者、「井上秀雄」氏の言葉だが、まさに私の「方法」がコレなのだ。「合理化」されるかどうかは「?」であるが・・・その方法(同名異種の資料付会

)で記録されたモノが「過去的な既存のモノ(何時の時代)」となって存在するなら、それらも「史料」であるだろう・・・  ・・・過去の記事が不明な場合、『同名異種(意趣)』の『史料(資料・思量・飼料・死霊)』を府会(不快・深い)し、合理化(語得利化)しようとする「歴史家(暦視価)」であるのだが・・・マァ、「井上秀雄」氏も含めて、「歴史の不明な部分」は「推理・類推」であるハズだ・・・中国文献にしたって、どこの文献にしたって、「証文記録」であってさえも「(過去的に)記録されたモノ」である限り、即、「信じるワケ」にはイカナイモノなのである。  「字遊び」、「字アソビ」、「じ・あそ・び」、「ジ・ア・ソ・ビ」ですよ・・・。

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 「漢民族」の「河北・遼寧・北朝鮮」を領有した「燕」が「紀元前323年」には「春秋戦国時代」の国の一として登場した。『燕丹』は『燕王喜』の太子で「秦」の「人質」であったが逃げて故国に帰り、壮士『刑軻』に『始皇帝』を暗殺させようとし、失敗して『始皇帝』に攻められ父親に殺された人物である。『燕頷虎頭』は「遠い国で封侯となる人相」を云い後漢の『班超』の故事である。  「河北・遼寧・北朝鮮」・・・化補句・漁音意・補句挑戦(調箋)・箋=辞書  「燕」・・・・・・・・・・・・・・・・猿・媛・援・延・縁・円・艶・演  「紀元前323年」・・・・・・・起源繕、参百弐拾参撚(3+2+3=七)  「春秋戦国時代」の国の一 駿重(駿河、重)、千石(宣告・先刻=巳・未)  『燕丹』・・・・・・・・・・・・・・笑んたん・延探  『燕王喜』の太子・・・・・・・厭緒得記・援将鵜紀・猿王記(豊臣秀吉?)  「秦」の「人質」・・・・・・・・ 申(猿)の秘図(比都・卑都・日渡)字知  壮士・・・・・・・・・・・・・・・・相思・草子・草紙・創始・添詞(視)  『刑軻』・・・・・・・・・・・・・・経過・系化・刑禍・鶏日(酉日)・継家  『始皇帝』・・・・・・・・・・・・思考綴・試行綴・施行綴・嗜好綴  父親に殺された人物・・・・「婦親・夫親・釜親・斧親・府親・扶親・敷親」                  等に殺された人物。                   ↓                  「風疹・不信・不振・普請・不審」に殺された                  人物。                  「風疹」に殺されたのは「藤原一門」。                  「不信」に殺されたのは「ヤマト・タケル」と                  「仲哀天皇」、「古事記」作中の人物多数。                  「不振」に殺されたのは「大国主」、「崇峻天                  皇」、「大友皇子」等、歴史上多数。                  「普請」に殺されたのは「加藤家」、「朝野匠                  之守」等多数。                  「不審」に殺されたのは「蘇我入鹿」、「有馬                  皇子」、「大津皇子」、「草壁皇子」、「長屋                  王」、「富永仲基」、「高野長英」等多数。  『燕頷虎頭』・・・・・・・・沿岸孤島(沖島)・塩岩孤島(古事記の国造り)           ・援願湖東(大津京)・媛願虎読(虎頭=天武天皇)

          ・縁願胡唐「遠国で 封侯となる 人相」

               援護句、風向(敷宇高)、認叢  『班超』・・・・・・・・・・・・版調・反調・反長・蟠桃(『山片蟠桃』)  『燕支(燕脂・臙脂)』とは「紅」や「紅を採取する草の名前」で、「『匈奴』の山名」で、『美人』のいる場所のことだ。『匈奴』が美人の産地とは如何なる女性を「美人」としていたのか・・・多分、騎馬民族として各地から略奪した女性に産ませた『混血児・混血美人』ではなかったのか。「燕支(エン支)」とは「申支」で「南西」である。九州阿蘇山の南西なら「天草方面」である。京都の南西は「紀州和歌山方面」である。江戸の南西は「相模・神奈川」と「伊豆・静岡」である。「申」とは「中国・蘇州の上海」の俗称である。「燕脂(エンシ)」とは「塩と脂肪」であるならば「古事記」冒頭の「塩(鹵・鹽)と脂」で、「『鹽』許々袁々呂迩」と「次國稚如浮『脂』而」のヶ所の漢字である。「日本書紀」があるにも拘らず、「古事記」が「存在」しているならば、その存在意義(?)は「現存・古事記」が「何かの秘密(?)を読者に知らせたい」のだ。コレを示唆しているなら、ここは注釈の「訓でヨメ」などに惑わされる事なく『漢字音でヨム』と云うコトなのだ。「臙脂」の「臙」とは『咽(イン・のど)・咽喉(インコウ)』のことである。「咽(能登・能都)」から出るモノは「息(長足姫)」と「音声(陰性)」である。「越後・新潟・つばめ」の南東には「佐渡」と「能登」が存在する。「能登(越後・越中・越前)」から「京都」へ向かいたかったのは「誰」か?・・・「長尾景虎(政虎・輝虎)=『上杉謙信』」であった。「越前の朝倉」は元「日下の庄」であった。  そして「臙脂」は「紅(糸+工)」で、「イトのタクミ」で、「朱(牛木)」、「赤(十+亦)」、「垢(十+一+后)」である。「インコウ」とは「寅(虎・渡羅・耽羅・斗・・図拉)の考(頁・稿・行・交・控・后・降・敲)」で、「日本書紀」の「天武天皇(大海部皇子)」と、その皇后であった「持統天皇(・野讃良)」の「頁・稿・行・交・控・后・降・敲」である。  スナワチ、「咽喉(インコウ)」が「発声・音声」の源ならば、この暗示は「ヒトの言葉を真似て繰言を云う鳥類」の、「インコ(鸚哥)・ウ」と「オウム(鵡)」である。  イン コ・ウ   ↓ ↓ ↓  『鸚 哥』得=インゴ=『隠語』=韻語=音語   ↓   オウム   ↓  『鵡   』=オウム=『雄武』=緒(著)得夢・・・夢(梦)を売る著   ↓  「夢物語」・「夢之代」  「一炊夢」・「邯鄲夢」  「華胥夢」・「胡蝶夢」  「南柯夢」・「巫山夢」  オウム=『雄武』=「緒(著)得(賣)夢(梦・ゆめ)」ならば、「夢(梦=木木夕)を得(売・賣)る著」とは、中国には「夢物語」が多数あるが、日本(本朝)では、江戸時代の『高野長英』の『夢物語』、『山片蟠桃』の『夢之代』が有名である。誰が云ったのか、『豊臣秀吉』の夢は『浪速の夢のまた夢』であった。『芭蕉』の死期の夢は『夢は枯れ野を駆けめぐる』であった。  そして、喩女、癒女、湯女とは誰なのか・・・  「鸚哥(インコ)」、「鵡(オウム)」と同類の「おしゃべり(喋)」する鳥は『黒いカラス(鴉・雅・烏・鵲)』に似た『九官鳥』である。「鵲」は「朝鮮カラス」であり、『鵲』は「三姓始祖神話」の「新羅」の「開祖・朴氏の七代」とそれに続く「『昔』氏の八代」の『昔(シャク・ジャク)=鵲』である。      『九官鳥』の同音異字       ↓↓↓       究館長・窮館長・救館長・求館長・記有館長・紀諭館長       ↓↓       九館長=屋形(やかた)の主・城主・学問所の長       宮神長=神社、神宮の長・『子宮』、『牛宿』、『張宿』       宮神鳥=朱鳥・『朱鷺(シュロ・とき)』・・諏賂、真っ赤な詐欺       宮宦帳=『司馬遷』の『史記』         艦長=船舶・軍艦の提督         管長=宗教・宗派・寺院の最高権威者         汗長=中国北方民族、蒙古、高麗、扶余、騎馬民族等の「大王」         諌張=「魏」の帯方郡から邪馬台国に派遣された『張政』         姦重=「三女・三姉妹」=『三序』           =「よこしま・横島」の重なり        干潮=ひきしお=比企史将(志雄)・ホシのシオ=補史の支将        官庁=役所        関超=「関=堤=河口堤」を越える        換帳=記録帳簿を換える        間諜=スパイ・忍者・「伊賀、甲賀」者・柳生一門・「間宮林蔵」        浣腸=便秘の時に油液を肛門から直腸に注入する療法  であり、「九韓長(重)=朝鮮半島の九州(領域区分)=九伯(覇)」、『旧韓朝』の「引項(目)」である。  そして、人の言葉を真似するのは『猩(セイ・しょうじょう)』と言う動物である。熟語の「鸚猩(オウセイ)」である。「しょ・う・じょ・う=初(書・処・緒)、有(得・鵜・兎・羽・烏・宇・雨・胡)條」で、「少女・有」とは「十三(壱拾参歳)」の『壱与』である。熟語は「賞状・症状」で、「掌上」とは漢和辞典には「運於掌上(孟子・公孫丑上)」とあり、「たやすく自分の思う様にするコト」、「たなごころ」である、と説明されている。コレは「他名護故賂」で、「手相に於ける運命・宿命」のことじゃないのか。  手相=シュソウ・ てそう・でソウ          ↓ 助詞         =「弖(助詞のテ)」そう・・・・・・・・・女史・女子・序詞         =「氐=氏+一(助詞のテ・テイ・タイ)」そう・・・テイ=綴 ・帝 ・提           ↓       ↓  ↓  ↓           ↓    太・台・体・対・他意・鯛・帯           ↓           ↓  ↓  ↓           ↓         竜宮城の乙姫(音秘め)          もと・ふもと・木の根・柢の古字・いたる・おおよそ          おおむね・やしき・やどり・ふせる・たれる・いやしい          「とも」、星宿の名          「水草」を追って移住する種族(五胡の一、江北に建国)  「出総」で、「だそう」、「出捜・出草・出叢」。「出=山山=やまやま(耶麻哉真)=さんさん(産纂)」の示唆である。  そして、「燕(つばめ)」の異字は「玄鳥(ゲンチョウ)」、「乙鳥(イツチョウ)」であるのだ。  もちろん、「寅(イン)=虎(コ)」で、すべての歴史上(世界史・日本史)の「虎」の名前が付く人物と、地理上の「トラ」の場所を索引せよ、である。「虎」の眉間(頭)には『王』の漢字が黄地(生地・木地・記事)の『毛』に黒字」が「印爾」されているのだ。  「トラ」は音からすれば「龍(辰)=ドラ・ゴン(dragon)」に重なり、「虎=龍=劉=留=柳(キ卯)=瑠(王留)=笠(竹辰)=流(ながれ)=瘤(こぶ)=隆(たかし)」の「龍虎の合箋」である。「虎言(虎厳・虎権・虎魂)」とは「Dora(戯言的)」と云うワケ(訳)である。ここは「日本書紀」の「大化改新」の前の「虎の記録」をヨンで診ることだ。  「燕国」の「亡命者」の『満』が「朝鮮王」となる。  「円満解決」で、「望名(命・明・芽葦・女意・眼医)」の「諧結・改訣」である。「いのち、なきもの=委之知(地)名、鬼母埜(乃・廼)」。  スナワチ、「亡命者」とは「ボ・ウ・メ・イ・シャ」だが、コジ付ければ、「母(ボ)が得(ウ)る女(メ・娘)、遺(イ・派遣)者」で、「卑弥呼」、「壱与」、「張政」である。  これを、従来の「古事記」流の読み方をすれば、「亡・命・者」は「なき・みこと・もの」で、「母の黄泉の国」に行きたいと言った「須佐之男」のコトで「哭き尊の母之」ではないのか・・・?  「 なき・みこと・もの」   ↓↓ ↓↓↓ ↓↓  「名記・診虎渡・模埜」・・・・「虎」の付く人物・・・埜=キキ十一   ↓↓↓↓  「ボ・ウ・メ・イ・シャ」 記紀重意知   ↓ ↓ ↓ ↓ ↓  「姥 有 女 慰 謝 」・・・乳母、憂児、与慰謝・・・倭姫と日本建  「模 得 目 医 者 」・・・模写、得、目医者(眼科医=願化意)                           ↓↓                           岩改=岸改  「募 梅   遺 者 」・・・募集、梅里(徳川光圀)、遣いの者  満  =マン=幡・・・・・萬(太安萬侶)・・・満=水(サンズイ)+艸+両                       水(纂  隋)  草  漁                        纂  髄  草  療

簒奪の瑞皐(ずいこう)

                    高野 長英=瑞皐

                    文化元年五月五日

                    (1804年6月12日)

                      ~

                     嘉永三年十月参拾日

                    (1850年12月3日)

                    医者・蘭学者

                    通称は悦三郎

                    諱は譲( ゆずる)

                    号は瑞皐(ずいこう)

                    纂  髄  草  療                     ↓   ↓  ↓  ↓                     杉  頭意 日下領                     ↓      ↓

                   吉田松陰   久坂 玄瑞(げんずい)

                   吉田(杉)寅次郎

                   上杉移    日下領(越前)     =みつる=充・密留・御津留・水流・水留  朝鮮王=チョウ・セン・オ・ウ=「調(諜・聴)・潜・奥」=重・箋・将・胡  597年・「任那日本府」の名称が「百済本記」に記録されているが、『百済本記』の作成年代が不明である。そして『百済本記』は「日本書紀」に引用されているが、「日本書紀」の「一書に白(いわく)」の類で、コレは「在る書によれば・・・である」の意味だ。が、これは「一書に白(いわく・岩句=玩句・贋句・元句・岸貢=吉士、貴誌貢ぐ)」で、「貴地=新羅(シロ・白)=朝鮮」ではないのか。そして、書き写された度に、「後に書き込(混)まれたモノ」ではないのか?・・・しかも「597年=5・9・7・撚」である。「1597年」とは「豊臣秀吉」が『朝鮮再征軍』派遣の年である。『百済本記』が「日本書紀(720年・養老四年五月)編纂以前のモノ」なのかも怪しいと云うモノだ。「1720年(享保五年)十月」には『大日本史(250巻)』が幕府に献上された年なのだ。そして俄然「古事記」が「コジキ」、「こじき」と謂れだしたのは『朝鮮信使』が「新将軍」に謁見するようになった「江戸時代初期~中期」であった。  『朝鮮人参(高麗人参)』の効用が「広東人参」よりも凄いと言われて『朝鮮種人参座』が置かれたのは、「宝暦十三年・1763年十一月」である。  日本史年表を信じたとして

 「宝暦十三年・・・・1763年十一月」

 「天平宝字・七年・・763年 一月」には

 『渤海使節』がやってき、「五月」には『鑑真』が「七十七歳」で死没、「八月」には『儀鳳暦』は廃止して『大衍(エン)暦』を採用、「九月」には『道鏡』が「少僧都」となった年である。  「古事記・序文」は『賀茂真淵(明和六年・1769年十月死没)』が『本居宣長(享和一年・1801年九月死没)』に「伊勢・松坂」で会った(宝暦十三年・1763年五月)と言われる以前に、「存在」していたことは確かだが、その「源(元)・古事記」が「書き写された時代」に「古事記」に拘ったと云う『多人長(おほの・ひとなが)』の存在も、『賢瑜(1371年)』の「存在」も怪しいと云うものだ。・・・・・・・・・・・・・『371年』とは『百済』が『高句麗』の『平壌』城を攻めた年になっているのだ。「西暦年号」を意識せずしてはコレラの事件の重なりは無理と云うモノである。  「魏」は「弁韓」、「辰韓」の小国に、「魏」の「官号」を与えて懐柔したのであるが、その「官号」として、  「卒善邑君」・・措柘繕由得組夢(拓本の繕い由縁、組んだ「夢物語」の措定)       ・・蘇是務諭有訓(是を蘇らせるに訓に有るを諭し務めよ)       ・・蘇津前酉酌(蘇津彦の真重、西=爾志・螺=津武を斟酌)       ・・柘卆全熊君(拓本、「卆=九拾」、全て、熊本の君主)  「帰義侯」・・・・記宜項(宜しく「項目=ウナジのメ」を記す)       ・・・記義交(交わる欺、記す)  「中郎将」・・・衷賂有称(折衷するを賄う、名称有り)  「都尉」・・・・・問(とい)        ↓     ・・・・土肥(土佐と肥=佐賀・長崎・熊本)  「伯長」・・・・白鳥(はくちょう・葉口調)=いわく(白)、とり(斗裏)      ・・・・白鳥(しらとり・新羅都里)          ↓↓          ヤマトタケルの霊魂=埜真鍍他家留の例を込(混)む          邪魔図焚流=焚書坑儒=分書口授  等を与えたのだ。「官号(勘合・鑑合・巻合・韓合)」である。  朝鮮では「苦行の青年式」を終えたものは「健児」と呼ばれた。これは「建児=ヤマトタケル」の示唆であり、「懸字」である。  「鬼神」を祭り、「天神・天君」とした。犯罪を犯した者は「治外法権」的な「蘇途」に逃げ込んだ。「蘇塗(アジール・駆け込み寺のような村)を作るは仏教に似ている」。「蘇塗(ソト)」は「塗りつぶしたモノのよみがえり」である。「蘇途」なら「途をよみがえらす」であるから犯罪者の「再生、更正」の場所かもしれないが、「蘇我の途(扶余の進入)」、「ソト=素土・外(ゲ・解)」ではないのか。  「扶余」では「災害の責任は全て王にあるとされ、退位あるいは殺害された」とある。「付与」、「賦与」である。  地方貴族としての「六加」が存在し、階層分化が明確した。「六加」とは「録加」、「録化」であろう。  185年・「鮮卑」族の「慕容魁(大単于)」が「扶余」を攻め、王の「依慮」を自殺させ、「一万人を捕虜」にして「遼西」に引き上げた。だが「扶余」は『晋』の「東夷校依尉・何龕(カガン)」の援助によって「慕容魁」を破り国家再建を果たした。  これから順次挙げて行く「西暦年号」に「1000年」を加えて「日本の歴史」に「共通項」を発見出来るなら「イト的」だと考えてイイだろう。  例えば、「185年」に「1000」を加えた《1185年》の事件である。  1185年・・・・・・ 文治元年・平家一門、『西国』で滅亡。   ↓↓↓        東大寺大仏開眼供養(後白河法王)。             京都「入梅病」が蔓延。             京都「大地震」。             「源頼朝」が「守護・地頭」を置く。             「保元物語」、「平治物語」が完成。   ↓↓↓   185年・・・・・・・壱百八拾五撚   「鮮卑」・・・・・・・戦比・潜卑・遷比・箋比   「慕容魁」・・・・・牡妖怪(牛若丸)・母溶解(常盤御前)       ・・・・・姥妖怪(般若鬼面の女)・慕幼カイ(蝦夷)   「大単于」・・・・・大繕得・大全得・台前(遷)有・大胆迂   「扶余」・・・・・・・賦与・付与   「依慮」・・・・・・・輿旅・医侶・・・・「人は衣(衣川)、思慮、考慮」   「一万人を捕虜」・・・壱萬尋、補侶・・・「一幡」   「遼西」・・・・・・・両性・両聖(最澄・空海)・・・良妻・旅宇佐移   「晋」・・・・・・・・・診・審   「東夷校依尉」・・遠い好意委・十意校医   「何龕(カガン)」=嫁願・禍癌・加元・加岸・加眼    265年・「晋」が中国統一。   ↓↓↓  《1265年・続古今和歌集・普寧が帰宋》    ↓↓↓    274年・「晋」は「幽州の五郡」を分割して「平州」とした。  「平州」とは「昌黎」・「遼東」・「楽浪」・「玄菟」・「帯方」である。  「永嘉の乱(307~12)」、「高句麗・美川王」が遼東郡に出兵。    ↓↓↓  《1274年・文永十一年・元、高麗軍来襲(文永の役)》    311年8月・「鴨緑江・西安平県」を陥落させた。          「匈奴・漢王・劉聡」が「晋の洛陽」を陥落させた。    ↓↓↓  《1311年・興福寺と多武峰の僧徒が戦う        ・疫病(三日病、田楽病)・弁円に聖一国師の国師号を贈る》    313年・「楽浪郡太守・王・」と「遼東郡太守・張統」は       「楽浪郡」を放棄した。    ↓↓↓  十月・「高句麗・美川王」が「楽浪郡」を占拠。  《1313年・香椎宮焼ける》    314年九月・「高句麗・美川王」が「帯方郡」を滅ぼす。    ↓↓↓  《1314年・疱瘡病流行》  「五胡十六国」   319年・「平州刺史東校尉・崔比(比+必)」は        「高句麗」、「鮮卑・段部」、「宇文部」と        共同し「慕容魁(大単于)」と戦ったが敗北。   333年・「慕容魁(大単于)」死亡。         子供の「光(皇+光)」と「仁」が対立「仁」が敗北し         部下の「冬寿」、「郭充」が「高句麗」へ逃亡。   ↓↓↓  《1333年・鎌倉幕府の滅亡》  《1334年・建武の中興・足利尊氏が正三位・楠木正成が従五位下》   337年・「慕容光(皇+光)」は「平州+遼東」を併せて「燕国」とした。  《1337年・以降は足利高(尊)氏の         登場と『太平記』の物語が重なっていくのだが・・・》    338年・「光(皇+光)」が「趙」を破ると「趙」の「宋晃」、       「游泓」が「高句麗」へ逃亡。   ↓↓↓  《1338年・足利尊氏が「恒良・成良」親王を毒殺し、征夷大将軍になる》    339年・「光(皇+光)」は「高句麗」の「故国原王」を敗北させた。         「故国原王」の母親「周氏」を人質にした。  《1339年・「夢窓疏石」が「尊氏」に進言して「天龍寺(暦応寺)」を創建。         北畠親房が「神皇正統記」を著す》    349年・「燕王・儁」は「高句麗」の「故国原王」を柵封した。  《1349年・清水寺、大隅正八幡宮焼失。「二条良基」が「連理秘抄」を著す》    369年9月・「故国原王」は「百済の雉壌(チジョウ・きじつち」に侵入した。           「百済王・近肖古王」は「太子・須」を派遣してこれを討つ。           元、「百済人」で「高句麗」に移住した「斯紀」が           「高句麗」の弱点を教えたことが勝利となった。  《1369年・中国「明」の「太祖『朱元璋』」が『懐良親王』に使節を派遣し           「倭寇」の制止を要請。『竹田昌慶』が入「明」し『医術』を学》     雉壌・・・チ・ジョウ(知擾)            「壌=ジョウ・乗・條・嬢・擾・上・畳=たたみ・多他見            に侵入(新入)した」である。        雉・・・きじ(記事)は        壌・・・つち(土・津地)、くに(国・句似)、みのる(稔・三野留)           こえている(肥えている・胡重綴留・虎重帝留)     371年・「高句麗」の「故国原王」が「百済王・近肖古王」と戦って戦死。   《1371年・『小島法師(?)』の『太平記』成る》    372年・「高句麗・小獣林王」に「秦王・符堅」は「僧・順道」を送った。   ↓↓↓ 「儒学の大学」を設置。「百済」が「東晋」に入朝。  《1372年(南朝の文中一年=北朝の応安六年)       『賢瑜』が『真福寺本・古事記』を『書き写す』。       『段銭』で『日吉神社・御輿』の改造をする》    374年・「魏」から「僧・阿道」が送られた。   ↓↓↓  《1374年・「御光厳上皇」が流行の「疱瘡」で死亡》    375年・「肖門寺(順道)」、「伊仏蘭寺(阿道)」を建て開山、寺主とした。   ↓↓↓  《1375年(南朝の天授一年=北朝の永和一年)・         「永和(洩話)=長話(調和)         =英和(英和の時点・事典・自転・辞典・字典)」》    377年・「新羅」、「高句麗」が「秦」に入朝。   ↓↓↓  《1377年・「九州、肥後臼間野の戦いで「今川仲秋」、         「大内義弘」が戦勝し、「植田宮」、「菊池武義」、         「阿蘇惟武」等戦死》    382年・「新羅王・楼寒(奈勿・麻立干=ナコツのマリカン)」が         「秦・符堅」に美女を貢いだ。   ↓↓↓  《1382年(南朝の弘和二年=北朝の永徳二年)      『楠木正儀』が『南朝』に復帰。『足利義満』が『相国寺』建立》  西暦年号が重なる「1000・一千・壱千」の暦史的事件の「共通項」をあなたは発見したであろうか・・・?・・・「王千字文(南朝梁の周興嗣が武帝の命を受けて王羲之の書蹟のなかから1000字の異なった文字を集め、四字の韻文としてまとめたモノ・周興嗣は梁の普通元年、西暦520年頃に死亡)」はダレが伝えたのか・・・285年、日本に来たとされる「王仁」とは・・・520年-285年=235年・・・レレレレッツ?・・・「王仁(わに)」が伝えた「千字文」は「周興嗣」が作った「千字文」じゃぁないんだ。西暦513年には百済の「段楊爾」、516年には「高安茂」が来ているのだが・・・談(判)用字と考(交)案摸・・・だなッ。  周興嗣+武帝・・・なるほど、周って興し、嗣(シ・ジ・つぐ・あとを受け継ぐ・あとつぎ・相続人・習う・練習する・さね・つぎ・つぐ・ひで)=口+冊+司であるな。・・・「冊」は政治や、祭祀に於ける重要文書。司はそれをつかさどった人。  周興嗣の「千字文」をアナタ自身が読み解いてみる・・・?  千字文  天地玄黄・宇宙洪荒・日月盈昃・辰宿列張  寒来暑往・秋収冬蔵・閏余成歳・律呂調陽  雲騰致雨・露結為霜・金生麗水・玉出崑岡  剣号巨闕・珠称夜光・果珍李奈・菜重芥薑  海鹹河淡・鱗潜羽翔・竜師火帝・鳥官人皇  始制文字・乃服衣裳・推位譲国・有虞陶唐  弔民伐罪・周発殷湯・坐朝問道・垂拱平章  愛育黎首・臣伏戎羌・遐邇壱体・率賓帰王  鳴鳳在樹・白駒食場・化被草木・頼及万方  蓋此身髪・四大五常・恭惟鞠養・豈敢毀傷  女慕貞潔・男効才良・知過必改・得能莫忘  罔談彼短・靡恃己長・信使可覆・器欲難量  墨悲糸染・詩讃羔羊・景行維賢・克念作聖  徳建名立・形端表正・空谷伝声・虚堂習聴  禍因悪積・福縁善慶・尺璧非宝・寸陰是競  資父事君・曰厳与敬・孝当竭力・忠則尽命  臨深履薄・夙興温清・似蘭斯香・如松之盛  川流不息・淵澄取映・容止若思・言辞安定  篤初誠美・慎終宜令・栄業所基・藉甚無竟  学優登仕・摂職従政・存以甘棠・去而益詠  楽殊貴賤・礼別尊卑・上和下睦・夫唱婦随  外受傅訓・入奉母儀・諸姑伯叔・猶子比児  孔懐兄弟・同気連枝・交友投分・切磨箴規  仁慈隠惻・造次弗離・節義廉退・顛沛匪虧  性静情逸・心動神疲・守真志満・逐物意移  堅持雅操・好爵自縻・都邑華夏・東西二京  背芒面洛・浮渭拠涇・宮殿盤鬱・楼観飛驚  図写禽獣・画綵仙霊・丙舎傍啓・甲帳対楹  肆筵設席・鼓瑟吹笙・升階納陛・弁転疑星  右通広内・左達承明・既集墳典・亦聚群英  杜稿鍾隷・漆書壁経・府羅将相・路侠槐卿  戸封八県・家給千兵・高冠陪輦・駆轂振纓  世禄侈富・車駕肥軽・策功茂実・勒碑刻銘  番渓伊尹・佐時阿衡・奄宅曲阜・微旦孰営  桓公匡合・済弱扶傾・綺回漢恵・説感武丁  俊乂密勿・多士寔寧・晋楚更覇・趙魏困横  仮途滅虎・践土会盟・何遵約法・韓弊煩刑  起翦頗牧・用軍最精・宣威沙漠・馳誉丹青  九州禹跡・百郡秦并・岳宗恒岱・禅主云亭  雁門紫塞・鶏田赤城・昆池碣石・鉅野洞庭  曠遠綿貌・巌岫杳冥・治本於農・務茲稼穡  俶載南畝・我芸黍稷・税熟貢新・勧賞黜陟  孟軻敦素・史魚秉直・庶幾中庸・労謙謹勅  聆音察理・鑑貌辨色・貽厥嘉猷・勉其祇植  省躬譏誡・寵増抗極・殆辱近恥・林皐幸即  両疏見機・解組誰逼・索居閑処・沈黙寂寥  求古尋論・散慮逍遥・欣奏累遣・感謝歓招  渠荷的歴・園莽抽条・枇杷晩翠・梧桐早彫  陳根委翳・落葉飄遥・遊昆独運・凌摩絳霄  耽読翫市・寓目嚢箱・易奠攸畏・属耳垣牆  具膳餐飯・適口充腸・飽飫亨宰・飢厭糟糠  親戚故旧・老少異糧・妾御績紡・侍巾帷房  丸扇円潔・銀燭韋煌・昼眠夕寐・藍笋象床  弦歌酒讌・接杯挙觴・矯手頓足・悦予且康  嫡後嗣続・祭祀蒸嘗・稽桑再拝・悚懼恐惶  牋牒簡要・顧答審詳・骸垢想浴・執熱願涼  驢騾犢特・駭躍超驤・誅斬賊盗・捕獲叛亡  布射遼丸・就琴阮嘯・恬筆倫紙・鈞巧任釣  釈紛利俗・並皆佳妙・毛施淑姿・工顰妍咲  年矢毎催・羲暉朗曜・旋幾懸斡・晦魄環照  指薪修祐・永綏吉劭・矩歩引領・俯仰廊廟  束帯矜荘・徘徊瞻眺・孤陋寡聞・愚蒙等誚  謂語助者・焉哉乎也  「廣(広)開土王陵碑=好太王碑」  「廣(広)開土」王陵碑=公開奴・航海努・公海度・更改怒・降灰土・後悔怒  「好太」王碑=交替・後退・交代・小謡・スキタイ  ① 開国伝承・・・扶余王「解夫婁」は「金色の蛙形の小児・『金蛙』」を養子にした。「河神の娘・柳花」が「天帝(点綴)の子・『解慕漱』」と交わって『朱蒙』を産んだ。『金蛙』の皇子達が『朱蒙』を殺そうとしたので「冬佳江」まで逃げて河を渡るときに「魚」や「亀」が橋になって助けてくれた。そして『朱蒙』は「高句麗」を建国した。  ② 王様の功績・・・395年・「碑麗」を討伐。翌年、「水軍」を率いて「百済討伐」。理由は「倭が辛卯年(391)に百済を撃ち破って臣下として倭」に朝献したから。398年・「息慎(粛慎)」を服属させた。翌年「百済は倭と和通」。「倭が新羅に侵入」。400年に「新羅を救援し倭を任那・加羅に追ったが安羅軍が新羅を逆襲」。404年・「倭が帯方郡地方に侵入したのを撃退」。407年・「倭を京畿道北部で撃退大勝利」。410年・「東扶余」を服属させた。  ③ 墓守「烟戸」・・・墓守人、三三〇戸の構成。墓守人の売買の禁止。              烟戸(インコ=韻胡・寅子=虎の子=宝・財宝)  とにかく、「 」や、『 』の漢字の「同音異字」を採って考えてくれ。


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