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プラトンの「高句麗」と「古事記」(3)


    「ウサギ(兎・兔・莵・菟)」・・・鵜鷺(うさぎ)・・・得詐欺

    「カラス(烏・鴉・鵶・雅)」・・・烏丸・胡丸・烏桓・・・烏丸と鮮卑は元は東胡

                         燕国の北に位置

             「東胡,烏丸之先,後為鮮卑。在匈奴東,故曰東胡」

    「ネコ(猫・根子・根古・根来)」

    「ワニ(鰐・鱷・倭似・和仁・王仁・鬼・和邇)」

       ・・・サヒモチ=紐小刀・短刀・・・八尋熊鰐(やひろわに)

            一尋和邇(ヒトヒロワニ)=佐比持神(サヒモチ神)?

    「アリゲーター(Alligator)・クロコダイル(Crocodile)・ガビアル(Gharial)」

     ↓↑

    「似鱉、有四足、喙長三尺、甚利歯、虎及大鹿渡水、鰐撃之、皆中断」

   「高句麗」と「古事記」(3)  百済(からす・唐洲・韓州)  百済・・・「伯済国(馬韓)」。都は「慰礼城」。「始祖・温祚王」は「高句麗」の『朱蒙』の子供。『朱蒙』の「長子・解明」が「扶余」から「高句麗」に来たので「温祚王」は兄の「沸流」と共に「漢江西岸」に移住。  「伯済国(馬韓)」・・・葉句差異  「慰礼城」・・・・・・・異例條・威令條・慰霊條  「始祖・温祚王」・・・・史(詞)素、音素負(嗚有)  『朱蒙』・・・・・・・・諏模有  「長子・解明」・・・・・調子・改名  「沸流」・・・・・・・・仏隆・物流・布津留・払劉  「漢江西岸」・・・・・・刊行歳元・勘考請願・換敲青眼  「百済記」、「百済本記」は「日本書紀」に引用されている。「日本書紀」の「干支年」は「120年引き上げてある」らしい?・・・のだが、「引き上げ、引き下げ」が問題であるワケではない。「事件(?)」を重ねている所に問題があり、「古事記」、「日本書紀」は何を読者に伝えたいのか?・・・である・・・「過去の日本の歴史」なんかはドウデモイイのだ。多分、「記録された時点」での「時の支配者」に対する「アンチテーゼ」と「事実(?)」のアッピールを「文字の裏に託したコト」をヨミとって欲しいからだ。  マァ、とにかく「120年引き上げてある」らしいから、この説をみていくことにしょう。  「神功紀・四十六年    (246年)」は   ↓↓↓   「366年」とする。『斯麻宿禰』が「卓淳」に派遣。   ↓↓↓  《1366年(南朝の正平二十一年=北朝の貞治五年)        ・『由阿』が『詞林采葉抄』を撰進。『飢饉・疫病』の流行》  「神功紀・四十九年(369年)」           ↓↓↓  『上毛野君』の始祖『荒田別』、『鹿我別』を新羅討伐軍の将軍として派遣。

          ↓↓↓   《1369年は「新羅」の項と参考》  「神功紀・六十二年(382年)」           ↓↓↓  『葛城臣(かつらぎのおみ)襲津彦(そつひこ)』を新羅討伐へ派遣。   《1382年は「新羅」の項と参考》  一体全体、『葛城臣(かつらぎのおみ)襲津彦(そつひこ)』の実体は誰なのか・・・?  『襲津彦(そつひこ)=龍+  衣+水+ 聿+ 立+ ノ +彡            ↓           =リュウ  イ スイ シン  リッ  チ サン           =留   意 推  進  立  地 山           =劉   移 守威 信  率  治 纂 』  である。  漢和辞典には「襲」は、  「襲」=ソ・シュウ・ジュウ・シウ・ジウ・おそう・おそふ・継ぐ・襲撃・夜襲・受ける・及ぶ・因る・入る・取る・奪う・重ねる・かさぬ・重ね着る・着る・重ね着・きせる・おおう・閉じる・とざす・あう・かなう・あわせる・そ・つぎ・より  と記されている。「襲=龍+衣」で、「リュウイ・たつころも」である。「留意」するのは「侘(よこしま)の柘(拓本)、拠(ところ)を賂(まかな)って模(モ)す」であり、「劉の意、断つ虎の路(子呂=新羅)の模」だ。  だとすれば、『リュウシンガン』・・・スナワチ、「劉仁願」とは「白江村の海戦」の時の「唐の将軍」であったのだが・・・『襲津彦』=『劉仁願』ではないのか?  「熟語」には、  『襲衣』、『襲因』、『襲沿』、『襲継(繼)』、『襲撃』、『襲殺』、『襲雑』、『襲爵(伯爵)』、『襲取』、『襲芳舎(かみなりの壷)』、『襲封』、『襲名』、『襲用(踏襲)』、『襲来』  等がある。  「応神三年(392年)」       ↓↓↓  『紀臣』の祖『角宿禰』、『波多臣』の祖『矢代宿禰』、『蘇我臣』の祖『石川宿禰』、『平群臣』の祖『木莵宿禰』等を百済に派遣して「百済王を廃立」した。

      ↓↓↓   《1392年(南朝の元中九年=北朝の明徳三年)十月・『南北両朝講和』成立。

『吉野王朝廃止』。『高麗』の使節僧に返書》  「応神十六年(405年)」        ↓↓↓  『木莵宿禰』と『的臣』の祖『戸田宿禰』に「新羅」討伐をさせた。

 《1405年(応永十二年)三月・『朝鮮人入洛』。五月・『足利義満』が『明』の使節を引見》  「仁徳五十三年(485年)」         ↓↓↓  『上毛野』の祖『竹葉瀬』と、彼の弟『田道』を新羅討伐に派遣。

      ↓↓↓   《1485年(文明十七年)七月・『山城国一揆』。

『足利義尚』が『島津武久』の要請で「医者」を鹿児島に派遣》  これらは「日本人名」を「訓」では読まず、まずは「漢字音」でヨンでみろ、だ。そして、「1000年後の日本の事件」と重ねて診ろ、である。  「第十三代・『近肖古王』(速古王・346年~375年在位)」。この時代に『高興』が「漢字」を伝えた。  「第十四代・『近仇首王』(貴首王・375年~384年在位)」。  384年9月・「第十五代・沈流王(~385年)」の元年に「西域」の僧侶『摩羅難施』が来る。  「第十六代・辰斯王(385年~392年在位)」。  387年・「東晋」に「太子・余暉(第十七代・『阿辛王』392年~405年在位)」が朝献。  391年・「高句麗」の『広開王』が即位。  397年・「余映(『腆支王』」は「倭」の人質となる。  416年・「余映(『第十八代・腆支王=直支王』・405年~420年在位)」も「東晋」に柵封された。即位前は「倭」に存在し、末弟の「喋礼」が次兄『訓解』を殺して反乱。『解忠』に依って王位に就く。 ↓↓↓ 《1416年(応永二十三年)五月・『内大臣』の『藤原満季』が『後小松上皇』の勅により「帝王系図『本朝皇胤紹運録』」を撰進》  「宋書」は『沈約(チンシャク)』の編著で「宋」と「百済」は緊密な柵封関係続けた。記録には「百済が『遼西郡』の晋平郡・晋平県を根拠地とした」とある。「百済は海上交通国」であったから中国の「『遼西郡』の晋平郡・晋平県」を領有していた可能性があるが、ここでは『遼西郡』、「晋平郡・晋平県」の漢字の意味を調べたし、である。  「第十九代・久爾王(420年~427年在位)」。  「第二十代・毘有王(427年~455年在位)」。  「第二十一代・『蓋鹵王』(455年~475年在位)」。                 ↓↓↓  475年9月・「高句麗」の『長寿王』が百済侵攻。『蓋鹵王』は元百済人であった『再曾桀婁』と『古爾万年』に捕獲される。「高句麗」の僧『道琳』をスパイとして百済財政を疲弊させた。  「第二十二代・『文周王』(475年~477年在位)」。「高句麗」との敗北(「『乙卯年・七日七夜』の猛攻で『威礼城』は落城・三国史記」)で『木協満致』と『祖弥桀取』と共に南方の『熊津(ユウシン)』に落ちのびた。『木協満致』=「木満致(?)=蘇我満致(?)」は『木羅斤資』の子供らしい。王弟の『昆支』を「内臣・佐平」とし、『解仇』を「兵官・佐平」とした。  「第二十三代・十三歳の『三斤王』(477年~479年在位)」。478年・「解仇の乱」で『文周王』は暗殺。  「第二十四代・『東城王』(479年~501年在位)」。『解仇』、『恩卒・燕信』と共に『大豆城』で反乱したが『徳卒・眞老(燕突)』によって鎮圧。493年・『東城王』は「新羅」の『伊伐食比知』の娘を妃とした。501年・『衛士・白加』は「加林城主」任命に不満し、王を暗殺した。  「第二十五代・武寧王(501年~523年在位)」。501年・「白加」を討伐。508年・「耽羅」が朝献。  「百済新撰」は「日本書紀」に引用されているが成立時期や内容は不明。  「百済本記(偽書説がある)」は「継体紀三年(509年)」~「欽明紀十七年(556年)」の文注に使用されている。『任那日本府』は「百済本紀」に初めて記録されていた、らしい・・・では「1556年」の事件は「何?」・・・『斉藤道山(まむし)』が息子『斉藤義龍(たつ)』に「長良川の合戦」で敗北死し、『耶蘇会宣教師・コスメ・デ・トルレス』が豊後府内に存在したことと、『ルイ・アルメイダ』が最初の「洋式医療」を行ったコト、なのだ。  「第二十六代・聖王(明農)・在位523年~554年」は「倭」と親交。552年5月・「倭」に軍事的救援依頼。538年・都を「熊津」から「泗比」へ遷都。556年・人質の皇子「恵」の帰国と共に「倭」軍一千名の派遣。「新羅」との戦いで死亡。『百済本記』に「任那日本府(安羅・加羅)」の記録。  597年・「第二十七代・威徳王(余昌・554年~598年在位)」が「倭」に「皇子・阿佐」を派遣。  「第二十八代・恵王(598年~599年在位)」。  「第二十九代・法王(599年~600年在位)」。  「第三十代・武王(600年~641年在位)」。  『第三十一代・義慈王(641年~660年在位)』。  「義慈王」の皇子達、「孝(太子)」、「泰」、「隆」、「豊」  新羅  新羅(斯盧・辰韓)・・・「月城郡」に存在。建国神話では「六村」の先祖は天から降臨。この「六村の長」達が「閼川(アッセン)」に集まって建国の主を決めようとしてた時に「南山」の梺の「蘿井(ラセイ)」に天から「紫卵」が降って、その「紫卵(筑紫の乱)」から生まれた男子と、「閼英井(アッエイセイ)」のほとりに現れた「鶏龍(係留)の左脇(佐波家)」から生まれた女子を「十三歳」になった時に結婚させて建国の王と皇后とした。  この女子が「十三歳」で、「結婚」と云うことならば、「結=糸吉」、「婚=女氏日」の暗示は『十三歳の壱与』である。 「三姓始祖神話」・・・「朴(木+卜)氏が開国七代」、

「鵲(昔+鳥)氏が八代」、

「金(今+八+土=今+光=混交・金光=近郊・均衡・金工)氏」

がその後の現実的な「王統」となる。  「婆娑尼師今(102年8月)」・・・「音汁伐国」と「悉直谷国」が国境争いで「婆娑尼師今」はその裁定を「金官国」の「首露王」に任せた。係争地の判定は「音汁伐国」に属するとした。裁判後、「六部(梁部・沙梁部・牟梁部・本彼部・漢祇部・習比部)」の内、「五部」の長が慰労したが「漢祇部(漢岐部)」だけが身分の低いものが慰労したので「首露王」は「下僕」の「耽下里」に「漢祇部」の『保斉』を殺させた。「耽下里」は「音汁伐国」に逃げたが「婆娑尼師今」はこれを討伐した。  これも、「婆娑尼師今=場差に至近」、「音汁伐国=音中抜告」・・・「漢字」と「年代」の示唆をみれば、すぐ理解できるであろう。  「第十代・『奈解尼師今』」の子供で太子の『昔于老(セキウロウ)』の英雄伝説。209年・「浦上八国」を撃破。231年7月・『助墳王』の時に大将軍として「甘文国」を討伐。233年7月・「倭兵」の水軍を「沙道」で撃滅。『沾解尼師今(274年~261年在位)』の時に「沙梁伐国」を討伐。254年・倭国の使者『菖那古』に「倭王を塩焼の奴、王妃を飯炊き女」にすると云った。「倭」将軍『于道朱君』が「新羅」討伐によって『昔于老』を『火炙(あぶ)り』にした。  『于道朱君』は「倭人」であるとして「日本人」の名前ならば、その意味するところは「于(ウ・一+・)=平らな息が妨げられる」で、同音異字は「ウ(紆・迂・訐・芋・宇・胡・得・右・有・烏・卯・兎・菟羽・鵜・雨)」であり、「紆余曲折」の「道(導)」、「朱君(諏訓)」ではないのか。だとするならば、『火炙(あぶ)り』は、  比  炙(あぶ・ セキ・ シャク・シャ・熱い・  怒る・親しく近ずく、教えを受ける)    ↓  ↓  ↓ ↓ ↓    ↓↓ ↓↓    阿武  関  釈  写  阿対   意借    虻   石  借  者  娃都威  斑鳩(いかる・が)  熟語・・・「炙果(シャカ)」=車の油をさすところを火でアブル           =知恵や弁舌の極まりない例え    ・・・「炙膾(シャカイ)」=火でアブった細かい肉    ・・・「炙背(シャハイ)」=太陽で背中をアブる。              =気持ちのイイこと。苦しいこと    ・・・「喜怒哀楽」  で、「アブリ出して、比較せよ」である。当然、「阿武・阿夫・阿父・阿婦・阿符・亞府・吾譜・蛙賦・唖付・阿富・虻」である人物と場所と時期である。スナワチ、「三国史記」も『金富軾』による彼の生きた時代的状況の要請で記録された「怪しい『倭国』をアブリ出すカナメ(要・金目)の記録」である、と云うことだ。  「阿武(アブ)」は中国「周王朝=唐」の『則天武后』の蔑称であった。「則(ソク・のり)」とは「即(すなわち)」、「足(あし・たり)」であり、「促(うながす)」、「束(たばねる)」、「測(はかる)」、「塞(へだてる・とりで・ふさぐ・つまる・うづめる・うめる・つめこむ・たむ・たえる)」で、「速(はやい・はやし)」、「息(いき)・意気・帷記」である。・・・「息長足姫」とは勿論、『白村江の海戦』の勝利後に「新羅」と対立した国号を「周」とした『則天武后』のことだ。「仇敵の新羅」に滅亡された「百済」は、かっては「敵」であった「周」の武力と、「白村江海戦」で敗北し、『劉仁軌』将軍配下の駐留された「倭国(九州勢力)」の武力と、「日本(近畿勢力)」を頼ったのだ。  そして、『味鄒尼師今(262年~261年在位)』に『昔于老』の「妻は夫の仇」として「倭人」を酔いつぶして焼きごろ死にしたのである。  『味鄒尼師今』の「漢字の意味」こそは「倭国アブリ出しの鍵(鈎・嗅ぎ)」である。・・・『奈解尼師今(那珂意に至近・名甲斐西筋)』、『昔于老(セキウロウ・借得弄)』、「浦上八国(長崎)」、『助墳王(女分王)』、「甘文国(カンモンコク・漢文告)」が「日本」と重なってアブリ出されるとは・・・『味鄒尼師今=味を反芻(趨・雛=ひな=比名=例)、似至近(史近・史筋・史欽)』であり、「見雛(崇)似史筋」、「見数貳至近」、「未諏得西筋」、「診数似資金(紫紺)」等々・・・である。  280・281・286年・「辰韓・十二国」が「西晋」に朝貢。  377年・「前晋」に朝貢。  382年・「楼寒(新羅・第十七代『奈勿麻立干・356年~402年在位』・金氏)」が使者「衛頭」を派遣し「美女」を献じた。   399年・「奈勿王」が「高句麗」の家臣となる。  「実聖」・・・「奈勿王」の子供「未斯欣」を「倭国」の人質とする。412年・「奈勿王」の子供「卜好」を「高句麗」の人質とする。駐留「高句麗軍」に依頼して「奈勿王」の長子「訥祇(とき)」を暗殺しようとするが逆に殺され、「訥祇(とき)」が王位に就く。僧「墨胡子」が「一善郡」の「毛礼」の家に来る。  「第二十一代・召知王(475年~500年在位)」・・・僧「阿道」が「一善郡」の「毛礼」の家に来る。弟子三人が仏教を布教。439年7月・「倭賊」に備えて「臨海」と「長麗」の二鎮台をおいた(『三国史記(五十巻)』)。  『三国遺事』は高麗の僧『一然(イチネン=位置撚・イチゼン=位置繕)(1206年~1289年死没)』が晩年に編纂したものである。  『三国史記(五十巻)』は『金富軾(キムフシキ・起務譜始期)』が「1145年」編集成立。  『東国通鑑(五十六巻)』は『李居生(リキョセイ・理虚勢)』が「1483年」に「三国史記」、「三国遺事」等の「朝鮮歴史文献」を編年体に書き改めて編纂。  『日本』の呼称は「梁」の『任坊(五〇二年~五五六年)』の『述異記』に見えているらしい。  『爾雅』は中国最古の『字書』である。これには『日下』に関して「刑丙(932年~1010年)の『疏(書籍の注釈)』に『日下』は日の出るところで、日の下にある国を云う」と記されている、らしいのだ。  「第二十二代・智證麻立干(500年~514年在位)」・・・国内外とも「新羅」を国号とした。以前は国内では『鶏林』としていた。505年・『異斯夫(イシフ)』を「悉直(シツチョク)州」の軍主に任命。514年・「小京」を「阿尸(あし)村」に設置。536年・年号を「建元」とした。545年・『異斯夫』の奏上によって『居渠夫』等が「国史編纂」する。「渠=水+巨+木」。  「第二十三代・法興王(514年~540年在位)」・・・「異次頓」の自殺で仏教が公認される。535年・王母の「迎帝夫人」の創建で「仏国寺」着工し、『景徳王・742年~764年在位』の時の『宰相・金大城』が発願して『恵恭王』の774年に完成。この寺は「豊臣秀吉」の朝鮮侵略軍によって焼滅。  「第二十四代・眞興王(540年~576年在位)」・・・戦死者を供養する「八関会」。官制、身分、組織を記録した「四碑(568年設置)=磨雲嶺碑・黄草嶺碑・北漢山碑・昌寧碑」・・・身分の記録は、  「①執駕人、②裏内従人、③供奉乗師、④占人、⑤薬師、⑥書人、⑦旨為人、⑧助人」  と、ある。552年2月・「皇竜寺」着工、『善徳女帝』の「645(日本書紀では大化改新)」年に完成。「花郎」の活躍。  581年・・・「隋」が北周の「靜帝」から禅譲されて王朝を建国。「高句麗・高陽(平原王)」、「百済・扶余昌(威徳王)」が朝貢。  594年・「新羅・眞平王」が朝貢。  598年・「高句麗・元(嬰陽王)」が「遼西」に侵入したが「営州総管」の『韋沖』が撃退。「漢王・諒」を追討軍として派遣したが『臨渝関』で流行病の為に挫折。  600年・・・「倭国」から「隋」へ使節派遣。『劉玄』が「撫夷論」を「隋・高宗」に奉じる。「高句麗・元(嬰陽王)」が『李文眞』に『留記・百巻』を「新集五巻」に編纂させた。  604年・・・「隋」の『煬帝(広)』が即位。「突厥」の『啓民可汗』を訪問し、そこで「高句麗」の使節と鉢合せした。「黄門侍郎・裴矩(ハイク)」が「高句麗」出兵を唆した。  607年7月・・・「推古女帝(日本書紀)」が「遣隋使」として「小野妹子(蘇因高)」を派遣。  610年7月・・・「高句麗」の『乙支文徳』が「薩水の大聿」で「隋」の軍団を撃破した。  611年・・・「隋」の『楊玄感』の反乱。『・斯政(コクシセイ)』の「高句麗」への投降。  618年・・・『李淵』の「唐王朝」。622年・「高句麗」の『栄留王』に国書をして中国軍捕虜の返還を求める。  631年・・・「高句麗」の『栄留王』は唐の挑発を警戒して「扶余城」から「渤海湾」まで『長城』を建設。  640年・・・唐は西方の『高昌国』を滅ぼす。  642年・・・「高句麗」の『栄留王』は『泉蓋蘇文』によって殺害。『泉蓋蘇文』は『太陽王』の子ども『宝蔵王(蔵)』を擁立し、『莫離支』となった。唐が「高句麗」征伐を計画したが「外戚」の『長孫無忌』が諌めた。  636年・・・「新羅」の『善徳女帝』は「百済」に「独山城」を襲われる。  638年10月・「七重城」を「高句麗」から攻められる。8月・「大耶城」を「百済」に奪われて『品釈』夫妻が殺害される。『品釈』の妻は『金春秋(太宗・武烈王)』の娘であった。  642年・『金春秋(太宗・武烈王)』は「高句麗」に救援をしたが返って捕虜となってしまった。「金春秋」の義弟は「金官加羅国」の最後の王『金仇亥』の曾孫『金臾信』で、「金春秋」を救助する為に「高句麗」に迫った。「金春秋」は「高句麗」を脱出。  643年・唐の太宗に援軍を求める。  645年11月・『毘曇』が「上大等(宰相)」となる。  647年・・・『善徳女帝』は陣中で死没。(『善徳女帝』は百済救援途中に朝倉宮で死没した「斉明天皇」と重なっているのではないのか?)・・・  『眞徳女帝(647年~654年在位)』が帝位。「金春秋」は「大和朝廷」に使節として来る。『毘曇』が内乱を起こす。  648年・・・『眞徳女帝』の二年に「金春秋」は息子『文王』と唐に朝献。  655年・・・『金春秋(太宗・武烈王)』が帝位。「高句麗」と「百済」に北部「三三城」を奪われる。子供の『金仁問』、『文王』が唐の『太宗』、『高宗』に近従。  659年・・・唐は「高句麗」討伐に失敗。  660年3月・・・唐は「百済」攻撃を開始。「7月9日」、「新羅」軍は『黄山之原』で、唐軍は『白江・伎伐浦』で百済軍を撃破。『百済・義慈王』は『熊津城』に逃れたが『十八日』降伏。  661年・・・唐・新羅連合軍が高句麗の「平壌」を包囲。『金春秋(太宗・武烈王)』が死没。  663年・・・「白村江の海戦」で倭軍壊滅  665年・・・倭国は「守君大石」を唐に派遣  666年・・・高句麗の『泉蓋蘇文』が死没。長子の『男生』が唐に亡命。  667年7月・・・高句麗滅亡。  668年10月・・・『文武王』が家臣に論功行賞をした。唐は「倭国討伐」を理由に軍船を修理したが「新羅討伐」の為と噂された。  669年・・・唐は百済人の娘を「漢城州都督」の『朴都儒』と婚姻させ新羅の武器をかすめ取ろうとした。  670年・・・新羅で唐の画策による『薮世』の反乱。6月・唐と「高句麗復興軍」とが合戦。新羅は元高句麗大臣『淵浄土』の子供を『安勝』を「高句麗王」として唐と対立。7月・新羅は唐を元百済の領地から一掃。倭国が唐に使節を派遣。  671年10月六日・・・新羅の『当千』は唐の海軍を撃滅。  673年・・・新羅の『大吐』が反乱。  675年9月・・・『儒冬』が唐軍から「七重城」死守。『素那』が「阿達城」死守。『脱起』が「赤木城」死守。『仙伯』が「石見城」死守。  676年・・・『居尸知』が「道臨城」死守。一一月・『施得』が唐の『薜仁貴』率いる海軍を撃破。  670年12月・・・「天智天皇九年」・「倭国」が国号を「日本」とした(三国史記)。「倭国」と唐との国交は648年が最後。再開は703年6月二十六日出航、704年7月1日帰国の『粟田朝臣真人』の派遣。  690年・・・唐で『則天武后』が帝位に就く。  「1690年」の事件は「朝鮮人参」は『長谷川安清』の「一手販売とする」、「湯島聖堂」への「学寮の移転」。そして、「ドイツ」人『ケンプェル』の来朝であるのだが・・・・。


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