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プラトンの「古事記」と「朝鮮」(1)


     「古事記」と「朝鮮」(1)  さて、日本の隣国の「朝鮮」と「現存・古事記」の関係を井上秀夫著の「古代朝鮮(NHKブックス・日本放送出版協会刊・昭和四七年十一月二五日発行)」を参考にして考えてみたい。  私が追求、探求をするのは「漢字で記録された歴史書」に使用されている「事件・年号(年代)・人名・地名・国名」の「同音異字の漢字」を媒介にした「現存・古事記」の作者(?)の意図と、「日本での歴史的な出来事としての『推理』」である。それ以上でも以下でもない。  であるから井上先生の説はあくまでも「参考」として、抜粋させて頂いたので、展開内容は先生の説ではないから誤解なきよう。  「檀君(ダンクン)朝鮮」、「箕子(キシ)朝鮮」、「衛子(エイシ)朝鮮」は「古代朝鮮王朝」の伝承的な国としての「名称」であるが、「朝鮮」の名称は「管子(紀元前645年死亡の管仲の著)」や「戦国策(前漢の劉向の校定)」にあるらしい。  「朝鮮」は「漢の『武帝』」が朝鮮の『楽浪』、『帯方』を植民地とした地方の呼称として使用され、「紀元前104年~紀元前91年」に編纂された『史記』にも記録され、「史記」は『武帝』配下の『司馬遷』の著作であった。  井上先生の説によれば、「檀君・朝鮮」は「西暦1231年」ころから侵入してきた「蒙古」に対する「民族思想(?)」としての「建国象徴」であり、「箕子・朝鮮」は『班固』が「紀元前82年」に編纂した『漢書』に記録した「古代中国の賢人」であり、その「箕子」を崇拝対象にした「新羅儒教」の「建国象徴」であるとされている。  「衛子・朝鮮」は『魏略』に記録されているモノらしいが、この『魏略』の編纂著者は「『晋の太康』年間(280年~289年)」に『魏』の『郎中』であった『魚豢』であるのだ。  『魏』の「『郎中』であった『魚豢(ギョケン)』」の「造作」とするならば、歴史好きのヒトならば即座に「邪馬台国」の「魏志倭人伝」の「陳寿(壽)」を思い出すだろう。  さて、「現存・古事記」、「日本書紀」と『 』の漢字を「意図」的に重ねてみるならば、  『武帝』・・・「武」の付く中国の皇帝は「各王朝」に殆ど居り、「中国史」全体で診れば多数存在する。だが、日本で記録される「天皇」は、  第一代    『神武』  第二十五代 『武烈』  第四十代   『天武』  第四十二代 『文武』  第四十五代 『聖武』  第五十代   『桓武』  等で、番外は「478年(昇明二年)」に「順帝」に上奏し、「宋書」に記録されている『武』である。  「朝鮮」では、  「百済・   『武寧』王(523年)」  「新羅・太宗・『武烈』王(654年)」・・・金春秋  「新羅・太宗・『文武』王(661年)」  である。従来、「神」の付く「天皇」を「共通項」にククっての研究はあったが、『武』を「共通項」とした研究は見あたらない。  「天武天皇」は「古事記編纂の勅命者(?)」である。「天武」の同時代の中国の「皇帝」は「垂簾政治」で名高い「唐」時代の「高宗」の皇后であった『則天武后=則天武帝』であった。しかも彼女は国号を「周」としていた。通説によれば、「天智天皇(中大兄皇子)」と「天武天皇(大海部皇子)」は「兄弟(?)」で、「斎明女帝」の下で「百済王(義慈王)」と同盟し、「白村江の海戦(663年)」を戦ったのだ。その敵対者は「周」の『則天武后=則天武帝』と「新羅」の「太宗・『武烈王(金春秋)』」であったのだ。  『楽浪』・・・「楽浪(ラクロウ)」は朝鮮半島の北西に位置する中国の植民地であった「楽浪郡」であるが、敢えて私が「現存・古事記」、「日本書紀」に「コジツケ」として「ラクロウ」に「漢字」をあてるならば、「タノシミ(多野史診=太史診」で、「『太安萬侶』の古事記」であり、「他之(廼)史診・侘(よこしま)の埜(キキ十一)の染(水九木)」の「ナミ(名診)」である。アソビだから、御容赦アレ・・・  「裸苦労」で、「裸で苦労」したのは「羅(新羅)苦労」の「猿女(宇受女)」である。  「螺狗狼」ならば、「螺(ニシ=似史・似詞・西・つぶ=『贏(ラ・にな・にし)』・津府)、狗(ク=句・いぬ=犬・委奴・移奴)、狼(ロウ=賂宇・賂胡・郎・弄・おおかみ=大神)」である。「犬(ケン・いぬ)」の類字は「太(タイ・おほの・ふとい=付問い)」であるのだが・・・  『贏(ラ・にな・にし)』の類字には、   =亡国(口)、月(舟・肉)の女の凡(ボン・あまねし)      ↓  『エイ(エイ・ヨウ・満ちる・肥える・伸びる・余る・美しい)    (秦瀛=秦王室の姓)』  羸 =亡国、月(舟・肉)の羊(未)の凡(ボン・あまねし)     ↓  『羸(ルイ・やせる・よわい・からむ・まつわる・くつがえす)   ・(羸馬=痩せた馬・疲れた馬)』    瀛 =沖     ↓  『瀛(エイ・ヨウ・海・池・沼・湖)   ・(瀛海=エイカイ、大洋、大海)   ・(瀛寰=エイカン)は全世界で、(寰宇)は天地、宇宙、世界』   ・(天渟中原『瀛』真人=天武天皇=大海部皇子)  がある。ついでに「亂=乱」とその扁が類字の「ラ」と発音される次の漢字もあげておこう。      覶=爪+マ+冂+ム+又+目+儿=ラ・楽しげにみる  「天渟中原『瀛』真人」は

 「天武天皇(大海部皇子)」

 であり、

 「秦・嬴(えい)」は

 「秦王室」の「姓」で、

 「姓は嬴(えい)、

  氏は趙(ちょう)、

諱は政(せい)」

であった。

 始皇帝の名前は「政」で「万里の長城」を築かせた人物であった。また「秦(シン)」は「はた」とヨミ、「服部(フクベ・フクブ・はっとり)」の「姓」であった。服部は「呉服屋」である・・・江戸時代ならば「服部半蔵」は「伊賀忍者の頭領」である。「はた」の同音で漢字を採れば「機・将・旗・端・畑・側・畠・幡・圃・幡多・波田・羽田・旛・肌・膚・葉多・頗拿」である。「忍者・ハットリ」君であるから、都合のイイように「バける」のは当然、朝飯前である。

 『物部』の「物」も「ハタ」である。・・・「鬼のいぬまに命(いのち・メイ)のセンタク」、「センタクしたモノ」は「モノ干し竿にカケる」のだ。「モノさし(定規)」は「センタク物を乾かす長いサオ」で、「魚(まな・うお)釣りの竿」であり、「模之星座尾(将)=北斗七星」である。「日本書紀」に記録された「氣門遁甲(占術)」、「天文学」に優れた天皇は「天武天皇」であった。  「ラクロウ(羅句賂胡)」で、「ラテン(羅・あみ・とりあみ・つらなる・網羅)の句」、「西洋(胡人・ウ)」が、「まかなう(真仮名得・魔叶・賂)」である。  「(拉)句・臘(蝋)胡」なら「句」を「・(細かく、詳細に、楽しくみる)」か、あるいは「拉致(盗んだ)」した「ラテン(羅甸・羅曲・拉丁=羅伝・羅天)・ギリシャ(希臘=キロウ)・ペルシャ(波斯=ハシ)」語で、「虫の類」の同音異字と意字の「螂(かまきり・ロウ)」、「螻(おけら・みづち・ロウ)・「蝋(蜜蜂の蝋燭)」、「希臘(キロウ・ギリシャ)」、「漏(もらす)」の「羽(はね・葉音)」である。  「楽浪郡」とは「倭の委奴国」の始まる「視点」であり、「古事記・序文」を記録した「太(多野=被い・覆い=侘の=他の)安萬侶」の「イト的」な「原点」なのだ。とにかく、「朝鮮」で「羅」の付く国は「新羅」であった・・・太閤秀吉はナゼ、「朝鮮半島」に攻め込んだのか?・・・

 「文禄の役・慶長の役)」は、文禄元年(天正二十年)四月13日=万暦二十年=宣祖二十五年(1592年 )に始まって、翌、文禄二年(1593年)に休戦」

 と、

 「慶長二年(1597年)の講和交渉決裂によって再開され、慶長三年=万暦二十六年=宣祖三十一年(1598年)」

 ・・・それにしても「柳川一件(やながわいっけん)=江戸時代初期に対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件」、

 「偽使=ギシ=宜次・義士」であるだろう・・・  『帯方』・・・「帯方(タイホウ)」は「楽浪郡」の南に位置する中国の植民地であった。「古事記・序文」には、この「帯方郡」の「帯」を「多羅斯(たらし)」とヨメ、とある。「たらし」は「垂らし(足)」で「垂仁天皇」の「たらし」で「古代天皇」に使用されている「王様の意味」であるが、「多羅史(支)」でもある。蒙古侵略時に「耽羅島(斉洲島)」に逃亡したのは「朝鮮王族」であった。「タイホウ」の同音異字は「大鵬(おおとり=鳳・鴻・将補採)」と「大砲(おおづつ=大筒・大津都・将補津都)」である。「他意包」ならば「他意を包む」である。「『タイ=タ・イ』と『ホウ=ホ・ウ』の同音異字」の全てを含む、である。「帯方」は「獣帯(十二支)の方角」であり、「将美化多」であり、モチロン、「逮捕の胡(ウ)」の示唆でもある。「胡」とは「逮捕の胡人」のことで、「外人」である。その人物は「セイイキのヒト=西域の人=胡人=波斯」で、「聖域の比都」、「声域の比吐(採)」である。  で、「12区分・12単位・12支」は普通で、一般的であるが、「11」と「13」は特殊で違和感(異和感)をおぼえるが、「11日の土曜日(3月11日)」はグレゴリオ暦で年始から「70日目(閏年で71日目)」、「年末まであと295日)」とか、「13日の金曜日」ならば、ピィ~ンとくるかも・・・

 西暦の  3月11日・・・march・11

 「ユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエ

 (Urbain Jean Joseph Le Verrier、

 1811年3月11日~1877年9月23日)

 フランスの数学者、天文学者

 未発見であった海王星の位置を計算によって予言

 原因不明であった水星の公転軌道の

 近日点移動についても他の惑星の影響であると主張した」

 「ジョニー・アップルシード(Johnny Appleseed)の命日」

 「パンダ発見の日」

  ↓↑

 旧暦の  三月十一日=彌生(弥生)壱拾壱日・・・イチ、ヒロウ、イチ

    壱=十+一+冖+ヒ(七・匕=牝・匙)

    壹=十+一+冖+豆(まめ・トウ・ズ)  天正十年(ユリウス暦1582年4月3日)

 信長・家康の連合軍に、甲斐武田勝頼、自害、武田氏滅亡

 『史記』・・・「史記(シキ=ふみ、しるす)」の著作編纂は「司馬遷(シバセン)」であった。「司馬遷」は友人を弁護して「武帝」から「宮刑(ペニスを去勢された官宦)」に処せられた人物である。ちなみに漢和辞典では「水戸黄門さま」の「黄門(散騎の官・中納言の別称)」も中国王朝の王宮の「黄色」に塗られた「小門」であり、また「官宦」と同じ様な意味で説明されている。「紙」の発明(105年)は「官宦」の『蔡倫』であったが改良したのは「左伯」と「毛弘」であった。日本の記録に「佐伯(さえき)」の「姓」を有する歴史上の人物が存在するが、「弘法大師(空海)」と「大化改新(645年)」で「蘇我入鹿」暗殺の実行犯であった「佐伯子麻呂」である。  ついでに「去勢(割勢・閹割)された家畜」の漢字は、  「犬+賁(ブタ)」  「馬+扇(ウマ)」  「牛+害(ウシ)」  「牛+建(ウシ)」=犍・・・ミノタウルス(ミーノータウロス・Minotaur)  「羊+曷(ヒツジ)」=羯  「羯(ヒツジ)」・・・この字は「般若心経」の「羯諦」と、         「星座宮」の「磨羯宮」に使用されている漢字だ

 「犭+奇(イヌ)」=「猗(いぬ・イ)」・・・去勢された犬=狗=いぬ=戌

           戌(いぬ・ジュ・ジュツ)=西北西・午後8(20)時ごろ、

                      午後八時の前後の弐時間

        漣猗(レンイ)=さざなみ・小波

         猗頓の富

         猗靡 (イビ) =はでで美しい

          靡(なびく)=隋書「俀」国伝(貞観二年(628年)~の編纂

               二十四史の「第壱参(13・十三)番目」

          ↓          

       「都於 邪靡堆、則、魏志所謂、邪馬臺、者也」・・・「邪靡堆」

 ・・・「隋、唐」の時代は「邪馬臺」は「邪靡堆」と云う「漢字」で認識されていた・・・モチロン、「隋、唐の時代」の「倭人=わじん=和人・日本人」は「邪馬臺(やまと)」と漢字でも音声でも認識していたハズだが、漢字の「邪靡堆」で「やまと」と認識していたとは限らない。

 隋書「俀」国伝は「唐の則天武后の側近」であった「長孫 無忌(ちょうそん むき、生年不詳 - 659年)は、唐の太宗の長孫皇后の兄で、唐朝の外戚。字は輔機。本貫は河南郡洛陽。凌煙閣二十四功臣の第一位・李世民(太宗)の征戦に従軍、比部郎中に累進、上党県公に封ぜられ、吏部尚書、尚書右僕射、開府儀同三司、趙国公に改封)」と「魏徴」の編纂であった・・・

 第3代高宗に代替わりした後の

 「656年(顕慶元年)」に、長孫無忌によって志30巻が完成、編入されたモノである・・・

 その3年後の

 「659年」、

 許敬宗が李奉節らに指示して

 朋党事件をでっちあげ、

 その黒幕を長孫無忌ということにして高宗に訴え

 高宗は

 長孫無忌を「黔州(貴州省)」に流し、

 許敬宗や李義府がさらに長孫無忌の謀反を訴え、

 長孫無忌は首を吊って自殺・・・

 「674年」、・・・674-659=15年後

 官爵をもどされ、

 孫の

 長孫元翼が爵位を継いだ・・・

 長孫無忌は、「唐律疏義」の編纂者でもあった・・・

 ↓↑   ↓↑

 660年、・・・660-659=1年後

 唐の蘇定方将軍が山東半島から海を渡って

 百済(百濟)に上陸

 百済王都

 「泗沘」を占領

 義慈王は熊津に逃れたが降伏

 百済(百濟)人は

 新羅、渤海、靺鞨、倭国へ逃げ、

 百済(百濟)は滅亡

 (図書寮本類聚名義抄・1081年)に

 「久太良」と記録・・・・・・・・・・・・・・・「百済(百濟)」=くたら=「久太良」

                      グウダラ?

               泗沘時代(538~660年)

 663年、

 天智二年八月

 白村江(錦江河口付近)で、

 倭国・百済遺民の連合軍と、

 唐・新羅連合軍が海戦

 唐は倭国とは「敵対関係」にあったが

 「長孫無忌」が自殺したのは

 「659年」である・・・

 「隋書」が完成したのは

 「656年」である・・・

 「王妃は

 「於陸(おりく?)」と呼ばれていた。

 「鞬吉支」は『日本書紀』古訓に見える「百済王」の

 和訓「くだらのこにきし」の

      「こにきし」が相当する・・・

 ↓↑   ↓↑

 「則天武后」との重なり

 永徽六年(655年)六月・・・・「隋書」が完成したのは「656年」

 ↓  昭儀(後宮の位の一)だった武照を新たに設けた  宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとした  宰相の  韓瑗と来済が反対  中書舍人の  李義府などの側近が  皇后廃立と  武照擁立の策謀

 ↓  許敬宗、崔義玄、袁公瑜  等の大臣が  高宗に  武照立后の上奏文

 ↓  高宗は

 王皇后を廃し  武照を皇后に立てる事の是非を

 重臣に下問

 ↓  太宗の皇后の兄である  長孫無忌、  信任の  褚遂良、  高祖の

 李淵と同じ  北周八柱国出身の  于志寧、  太宗の下で  突厥討伐の  李勣  の四人

 ↓  長孫無忌と褚遂良は反対  于志寧は賛成も反対も言わず、  李勣のみが  皇后の廃立を消極的に容認  10月13日(11月16日)  高宗は詔書を以て、  「陰謀下毒」の罪により  王皇后  蕭淑妃  の二名を庶民に落として罪人とし投獄  同二名の親族は官位剥奪の上  嶺南への流罪  7日後、  高宗は再び詔書を発布し  武照を立后すると共に、  諫言した  褚遂良を潭州都督へ左遷した  11月初旬  皇后になった  武照は  監禁されていた  王氏(前皇后)  蕭氏(前淑妃)  を  棍杖で百叩きにし  処刑  ↓  垂簾政治  武皇后は  高宗に代わり  垂簾政治を行った。  武皇后は  人材を非貴族層から登用  狄仁傑・姚崇・宋璟  など  姚崇  宋璟  は後に  玄宗の下で  開元の治  を導いた。

 ↓ ↓  顕慶五年

 (660年)  新羅の請願を容れ  百済討伐の軍を起こし、  百済を滅ぼし  倭国(日本)・旧百済連合軍  と  唐軍との  白江口の戦い(白村江の戦い)  勝利し、  5年後の

 665年

 には  高句麗を滅ぼした

 ↓ ↓  武皇后の暴政と  営州都督  趙文翽の横暴により  契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻  遼東、遼西の情勢が悪化

 武皇后は娘の  太平公主や  薛懐義・張易之・昌宗  兄弟といった自身の寵臣、  武三思・武承嗣ら親族の  武氏一族を重用し、  専横  佞臣の  許敬宗などを任用し、  密告政治により反対者を排除、  来俊臣・索元礼・周興  ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った  状況に高宗は  武皇后の廃后を計画するが、  武皇后は計画を事前に察知し  皇帝の権力奪還を許さなかった

 ↓ ↓  弘道元年

 (683年)  高宗が崩御  子の李顕(中宗)が即位  中宗の皇后  韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、  太平公主を使って  中宗を廃位し  その弟の  李旦(睿宗)を新皇帝に擁立  睿宗は武后の権勢の下、  傀儡とされた  武則天の専横に  皇族が次々と挙兵  反乱軍の檄文を詩人の  駱賓王が書いたが、  その名文に感嘆した武則天が  「このような文才のある者が   流落しているのは宰相の責任だ」  と言った・・・  武后は  女帝出現を暗示する  預言書(大雲経の疑経)を全土に流布  周代に存在したとされる  「明堂」(聖天子が政治を行った場所)  を宮城内に建造  権威の強化を謀り、  帝位簒奪の準備

 ↓ ↓  天授元年(690年)  武后は帝位に就き  国号を「周」とし、  自らを  聖神皇帝と称し、  天授と改元  睿宗は皇太子に格下げされ、  李姓に代えて  武姓を与えられた。  この王朝を  「武周」と呼ぶ  帝室を老子の末裔と称し  「道先仏後」だった唐王朝と異なり、  武則天は仏教を重んじ  朝廷での席次を  「仏先道後」に改めた。  諸寺の造営、寄進を行った他、  自らを  弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、  『大雲経』を創り、  これを納める  「大雲経寺」を全国の各州に造らせた  狄仁傑  武則天は狄仁傑を宰相とし  その的確な諫言を聞き入れ、  国内外の難題を処理  治世後半期  姚崇・宋璟  などを要職に抜擢した  玄宗の時代の「開元の治」を支える  名臣  武則天の治世の後半  狄仁傑らの推挙により  数多の有能な官吏を登用  晩年の武則天  武則天は甥に帝位を譲ろうとしていたが、  「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」  との  狄仁傑の反対で断念  子とは  高宗との子

  ↓↑  武則天の寵愛をうけ横暴を極めた  張易之・昌宗兄弟を除くために、

 ↓↑  神龍元年1月24日

 (705年2月22日)

 ↓↑  宰相

 張柬之は

 中宗を東宮に迎え、  兵を発して

 張兄弟を斬り、  武則天に  則天大聖皇帝の  尊称を奉ることを約束して位を退かせた。  中宗は復位し、  国号も唐に戻った。  武氏の眷属は李氏を筆頭とする  唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、  武則天自身も  太后としての立場を有していたため、  唐朝再興に伴う粛清は  太平公主  武三思  などには及ばず・・・

 ↓↑

 706年(神龍二年)5月・・・丙午年・慶雲3年  武則天は死去・・・新羅貢調使帰国(大使:金儒吉・副使:金今古)

         遣新羅使派遣(大使:美努浄麻呂・副使:対馬堅石)

慶雲の改革(文武天皇朝における律令制改革)

   ↓↑   ↓↑

 「倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則 魏志所謂 邪馬臺 者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」

 「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、

謂之 倭奴國。

桓、靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。

有女子、名 卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。

有男弟、佐 卑彌理國。其王有侍婢千人、

罕有見其面者、

唯有男子二人給王飲食、通傳言語。

其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、為法甚嚴。

自 魏 至

齊、梁、代(かわる・ダイ)=河北省北西部~山西省北東部

   ↓↑  ↓↑   ↓↑

          にかけての古代中国の国名(代=ダイ=台・臺)

河北省蔚県を中心

代国=春秋時代の国名・・・代は

      ↓↑  ↓↑ 「年代・代数」なのか?

       紀元前475年、

      「晋(晉・すすむ・シン)の趙襄子」によって滅ぼされた

   ↓↑ ↓↑

      代国       戦国時代、紀元前228年、趙が秦によって滅ぼされると、

      趙の公子嘉は代の地に至り、

代王を名乗った。

      6年後に秦により滅亡。

      漢初同姓九国の一つ

      文帝が支配していた国

      武帝の元鼎三年(前114年)に廃止

      五胡十六国時代の国名

   ↓↑ ↓↑

      代郡

      戦国時代、

      趙の武霊王によって設けられた郡

      秦・漢代、現在の河北省蔚県に

   ↓↑ ↓↑

      代県を置いた。

      内外の長城の間に置かれ、異民族防衛の要衝の地

      五胡十六国時代、

      後燕の建興三年(388年)に廃止。       北魏の時、

現在の山西省

大同市を中心に代郡が置かれた。・・・「大同の位置」

   ↓↑ ↓↑       代州

      古代中国の州

      隋の開皇五年(585年)

      肆州を改めて設置

      広武(雁門と改名。現在の山西省の代県)を治とした。

      清の雍正以後は直隷州となり、

      1912年に廃止。

   ↓↑ ↓↑       代県

      中華人民共和国の県名。

   ↓↑ 現在の山西省忻州市に属する。

中國相通。」

   ↓↑     ↓↑        ↓↑         

       「都於 邪靡堆、則、魏志所謂、邪馬臺、者也」

               ↓↑

               「魏志倭人伝」

               ↓↑

 「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸

                   狗邪韓國・・・狗(いぬ)

                   ↓↑   邪(よこしま)

                   ↓↑   韓(から)の國

七千餘里」

  「官亦日、卑狗(卑のイヌ)・・・・・・・・・卑(ひ→い)の狗(いぬ・ク・グ)

   副日、卑奴(卑のヤッコ)母離」・・・卑(ひ→い)の奴(やっこ・ヌ・ド)

 「其南有、狗奴國 男子為王 ・・・・・・・・狗(いぬ・ク・グ)奴(やっこ・ヌ・ド)の國

  其官有、狗古智卑狗・・・・・・・・・・・・・狗、古(旧・舊)くは

                  智の卑狗(ひく・ヒグ・いく・イグ)

  不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」

 「傳送文書、賜遺之物、詣女王 不得、差錯」

 「下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪

  兩手據地 為之恭敬

對應聲 曰噫(あ・あぃ?) 比如然諾」

 「其八年太守王頎到官 倭女王 卑弥呼

              與

         狗奴國男王 卑弥弓呼

素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状

遣塞曹掾史 張政等 因齎 詔書 黄幢

拝假 難升米 為檄 告喩之」

 である。「牸(めす・めうし・シ・ジ)」は「牛+字」のつくりで、「牝(めす・ヒン・ビン)」は「牛+匕」である。「牡(おす・ボ・ボウ)」は「牛+十+一」である。「犍」・・・なぜ、「去勢される刑」を「宮刑」と言ったのか?、「宮(キュウ)=ウ+呂(躬・背骨・虜)」の同音異字なら「球・窮・朽・臼」で、「子宮を有しない女性」に「擬態化」したからだろうか。「官宦」・・・「割礼」とは「ユダヤ人」の「男性器」に処する「包茎除去」の「儀式」であるのだが・・・これは砂漠に住居を移動した牧畜民の「衛生上」の問題であろうが、「古代ユダヤ史(旧約聖書)」をみれば「ヨセフ(ヨゼフ)」が「歴史の始り」だろう。エジプトでの彼の罪は主人の奥方に対する「姦淫罪・姦淫未遂罪」であった。「宮刑」とはその罪に対する屈辱の極刑(血縁絶滅)であった。エジプト人もギリシャ人も、後のローマ人もその儀式、儀礼としての「割礼」を軽蔑していたのだ。「旧約」には「アブラハム」と神との契約の「証」であるとの説明しか無い。「嫉み、怨みの一神」の民族としてはその「頑固さと執念深さ」を他民族に教えたのは「ユダヤ・イスラエル」であった。「ヨセフ」に対する刑の執行がなされたとの記述は無い。だが、この事件で彼はエジプトのパロの宰相になった・・・「割礼」は「ヨセフの屈辱記念」に起因するのではないのか?  イエス・キリスト(クリスト)の事績である「新約聖書」は「紀元70~100年」頃までに成立し、「福音書」とも記録される。「福」の「音(おと・ね・おん)」の「書」である。中国経由のインドの「菩薩」は「・・・観音菩薩」と記録される。「音」を「観(み)れ」である。「漢書」偏纂の「班固」の弟であった「班超(32年生~102年没)」は「西域都護」で、「甘英」を「ローマ」と「シリア(大秦)」に派遣した人物である。彼の妹は「班昭」であり、兄「班固」の遺志をを嗣いで「漢書」を完成させた「女史」である。「説文解字」は「許慎(50~121年)」が撰した「漢字研究の書」。エジプトのアレクサンドリアには「天文学・地理学」の「プトレマイオス」、インドには「仏教詩人」の「馬鳴」、「サッタサイー(叙情詩)」を偏纂した「第十七代アンドラ国王」の「ハーラ」、「医聖」と言われた「チャラカ」が医書の「チャラカ本集」を著作した。「107年」には「トラ・ヤヌス・帝」が「キリスト教徒」を迫害し、「117年」、東方遠征中に「キリキア」で「客死」したのだ。  ・・・「現存・古事記」の作者は「この時代」の世界史的な「出来事」と「人名」に興味があって、「漢字の音訓」に「託」したのではないだろうか・・・  とにかく、ここは「現存・古事記」に重なる「朝鮮の歴史」と「シキ」と「ふみ・しるす」の同音異字「漢字」の重なりと、「シバ・セン」と「つかさ・うま・かえる」の重なりである。  「シキ」の「同音異字」には「仄(シキ・ショク・ソク・かたむく・そばだつ・ほのか・かすか・かたわら・いやしい・せまい)」があり、そして「ほのめかす」とヨムのだが、意味的には「漢字音」の「平仄」以外の「上声」、「去声」、「入声」である。スナワチ、「声=音」である。熟語には「仄韻」、「仄字」、「仄日」、「仄声」、「仄微」、「仄聞」、「仄陋」があるので、その意味を「仄=厂+人」の分解と「仄」の訓を重ねて推理して欲しい。  「式(シキ)」は「のり(法律=規矩・憲・弼・掟)」とヨムのだが、神主の「祝詞(のりと)」や、仏教典の「大乗=小乗」も「のり(乗)」、掲載も「のり(載)」。天草海苔も「海苔(のり)」だが、「うみごけ」ならば「海後家(天後家)・宇美後家」で「生み語気」である。朔望月の「朔」も「のり」で、接着剤も「糊(のり)」である。  そして「式」の訓は「きまり・のっとる・つつしむ・もって・つね」で、「発語の助字」の「それ・あれ」で、「儀式」であり、平安時代の「律令の施行細則」である。「貞永式目」は「武家の法律」であった。「式神(識神・しきのかみ)」は「『陰陽師(おんようじ)』の命令に従って、変幻自在、不思議な技をなす『鬼神(キジン)』」である。  対(ペア)で、「シキ」を書けば、軍隊の「士気=指揮」、時期の「始期=死期」、季節の「色=四季」に関係する人物は『金春秋=武烈王』であり、日本の「敷島の欽明天皇」の「磯城=史記」は『日本書紀』で、「武帝」によって屈辱的な「宮刑」に処せられたにもかかわらず、獄中で『司馬遷』が書いた『史記』の「志気=識」である。そして「織」、織り込むとは「機織」で「イトのアヤ」を「布(フ・ぬの)」の中にツクルことである。「シギ」と濁音を振れば「私儀・私議・思議・鴫・仕儀・市議」である。「市議」は「市会議員」ではなく「市(市場・刑場・いち)の議(はかる・いいさだめる・ときあかす・いさめる)」であり、「市」の熟語をあげれば、「市賈(商人)」は「アキナイ(安芸内・安岐内・空名意)=アキンドの人」、「市虎(嘘で惑わす虚言)」で「史は虎(天武天皇)」であり、「市肆(商店・みせ)」は「シ(詞)、あるいはイチ(位置・位地)の連なり」、「市曹(売官・刑場)」は「シソウ(詞操・思想)」である・・・江戸時代に『歯槽膿漏(シソウノウロウ)』、『歯垢(シコウ)』と言うコトバがあったのかどうか勉強不足だが、『尚歯会』は蘭学者の『会』である・・・「市隠(町中の隠者)」は「市(イチ・フツ・フチ)を隠(カク)す」とヨメ、である。「市(シ・いち)」の類字(似)の漢字は「市(フツ・フチ・ひざかけ・まえだれ)」であり、「秦の始皇帝の『道士(同志)』」で、日本の「蓬莱山(ホウライサン・よもぎのやま)」に漂着した「徐市=徐福」の「フツ(市)」なのだ。『師の高弟を、尚歯会の同志は隠せ』だ。  戦国時代の人物で、「市」と「織」をペアにすれば、妹と兄の関係にある「お市の方」と「織田信長(元、斯波氏家臣の一族)」である。「イチ」と「シキ」であるならば「位置(場所)」と「敷(屋敷)」である。『邪馬台国』ならば『壱与』の『始期』である。また、「議」も「のり」ともヨムのだ。そして「ジキ」と濁点を添えるならば「こ・じき」で、「仏僧(坊主)の修行の一」である「乞食」の「食(じき)」である。モチロン、同音異字は「こつじき(乞食)」とヨンだ以後の時期の「現存・古事記」の「事記」である。  「シバセン」は「柴箋(シバのシオリ・シバの辞典)」か、「芝(居)撰」で、「つかさ(司)・うま(馬)・かえる(遷)」の異字は「曹(ソウ)・午(ゴ)・変(ヘン)」ならば、「相互にカエル」となる・・・「太平記」には「芝居の『長』酒盛り」とあるらしいが、「芝居」の「コトバ」がポピュラーになったのは「江戸時代」であろう。「史記」、あるいは「三国遺事(高麗僧の一然〈1206生~89死〉が晩年に偏纂)」、「三国史記(高麗儒学者の金富軾が1145年に偏纂)」は芝居(江戸時代の戯作)の「種本」なのである。  『司馬遷』・・・「シ・バ・セン」は「古代史」に於いては「邪馬台国」の「始の婆(壱与)の遷」であり、『古事記』に於いては「史の場の旋」、「詞の葉の箋」、「支の場の占」、「師の場の潜」、「祇の場の揃」、「莱草の葉の煎」の懸けである。そして、守護大名であった「斯波(氏)の領土に潜(ひそむ)」、「織田・浅井・朝倉」の「姉(死)の場の選」で、「お市の方」が「柴田勝家」と共に自害した「北の庄」の掛けであり、とにかく、「シのバのセン」の同音異字である。  ついでに、波斯(ハシ)はペルシャのコトである。  「檀君・朝鮮」・・・「檀君神話」の発生が「1231年の蒙古侵入」で「国」を捨て逃亡した「朝鮮の支配階級」の「国防」があてに出来ない「朝鮮農民民衆の義兵」の「民族的(?)な抵抗」からのモノであるなら、「ダンクン」も「断君の朝鮮神話」であろう。「民族的」とは誤解のあるコトバではあるナッ・・・人々は「死ぬか生きるかの状況」に於いては「侵略者」であろうが「内政権力者」であろうが「生きるためには死を懸けて、必死で戦う立場」をとるのだ。「日本」であろうが「朝鮮」であろうが「人民」をマモる「支配者」などはいないのだ。護るのは「国家=支配階級の私益」でしかありえない。もちろん、「純粋な共同幻想」などは「憲法(理念化・言葉化)」にしても「国家」を前提としても、しなくても「現実」にはありはしないのだ。「支配階級」としての「聖徳太子(?)」も「日本人(?)」も、「アメリカ人」も、「国連の諸加盟国(特に多人種間の内紛、内戦をはらむ発展途上国)の人々」も、「諸国家間のレベル」、「諸地域共同体間のレベル」、「諸家族間のレベル」、「諸個人間のレベル」に於いての「幻想支配」と「現実支配」の「区別」をヨク知っているのだ・・・スナワチ、「俺の痛みはあんたの痛み、あんたの痛みは俺の痛みだ」とイイながら「俺は痛みなんかゴメンだ」と言う立場である。あるのは「特殊な利害関係を共同幻想として一般化してヨソオウ幻想」だけだ。誰かが言っている「対幻想」なるモノだって「主観的幻想」でしか有り得ないのだ。「騙(だま)して」いるのさ、「相手」のみならず「自分自身」をも・・・そして、「騙されてもイイんだ」と言う立場である。とにかく、「大義名分」があれば「納得」するのが「人間」であるらしいのだ。なるほど「タイギ・メイブン」の「同音異字」ではあるなっ。  とするならば、「檀」のヨミと意味は「単」なる「旦那」の「タン・ダン・まゆみ(真弓)・ほどこす(施す)・ほどこし」で、これらの同音異字の全てである。「繭身(まゆみ)」は「蚕(かいこ)」で、「眉見(まゆみ)」は「うわめ(上目)使い」、「条目図解(譲女遣い・字与模句柘化意)」は「かみ(加味・守・神・髪)女図解」であろう。国語辞典には「上目」とは「皆掛(かいがけ)・超過」とあるのだが・・・「ほどこす」とは「程度超す」とはねッ。  「檀林」とは「寺院」であり、江戸時代の「西山宗因が始めた俳諧一派」で、「談林派」とも言われているモノだ。ならば、「林の談訓」である。  「日本書紀」に登場する「蘇我入鹿」は『林臣』とも『林太郎』、『鞍作』とも呼ばれた人物で、「蘇我蝦夷」から大臣の位を譲られた時には「蘇我馬子」が「聖徳太子」と組んで滅ぼしたハズの「物部氏」の「氏姓」である『物部大臣』とも呼ばれたのだ。・・・「蘇我=物部」・・・?、この謎は「物我(客観と主観)」の意味に答えはあるだろう。そして『島大臣』であった。さすがに「蘇我氏」と「聖徳太子」は「心理学(読心術)」に長けた「揣摩(シマ)の術者」であった。  そして「江戸時代」に「林(木+木=キキ)」の姓を名乗った「奴」の「談訓」である。「林篤信」、「林羅山」、「林子平」であり、明治三年に『中浜万次郎(ジョン・万次郎)』と共に「ドイツ(独)・フランス(仏)戦役」を調査派遣された、『林有三』等である。  「林=木+木=キキ(記紀・危機・鬼気)」で、「現存・古事記」に関すれば「拿務句務」で、「難訓」か、「探訓」で、「椴訓=むくげ、とどまつの訓」である。すなわち、「務句解」、「図努魔都」である。  「蒙古」・・・「蒙」は「モウ・ボウ・こうむる・うける・おおう・つつむ・かぶる・おおい・おかす・みだす・まじる・あう・あざむく・くらい・おろか・おさない・めをだす・のせる」で、「占いの卦」では「物の微かで明らかでない様」であり、「蒙(さるおがせ)」は異字で「女蘿」と書くのだ。「女(ジョ・ニョ・め・おんな)の蘿(ラ・つた・かずら・つのよもぎ・まがき=間垣)」である。「マ我記」とは「間・摩・磨・麻・魔・痲・真・眞」の「ガ(臥)・キ(記紀)」でもある。「女の羅」であるなら「女王(善徳・眞徳)」を頂いた『金春秋(武烈王)』の時代の「新羅」である。「モウコ」は「模胡(得)拠」である。とにかく、「蒙の古」であるならば、すべての「モウ(模胡)の音名(おんな)をフル(振る)」で、「タタール(Tartar)」である。スナワチ、「たたぁーる(多々有る・崇る)」の同音異字である。一般的には「モンゴリアン」、十世紀頃中国北部の地理史に登場する「ダッタン(韃靼)人」、あるいは十四世紀にビザンチン帝国の東を領した「ターキィ(Turkey)=オスマン・トルコ=『土耳古』・『土耳其』)人」も重ねて使われるコトバである。・・・「聖徳太子」は「蘇我馬子」の娘『とじこ(刀自古)郎女(いらつめ・ロウジョ)』を妻にしていたハズだが・・・ここは英和辞典で「T-、ta-」~「Tz-」の単語を順序よく調べてみることだ。「tan(革)」、「Tang(唐)」、「tam(大黒頭巾)」等、『現存・古事記』に重なる「串ざし(座視)」の「タンゴ(だんご)」が満載である。  「箕子・朝鮮」・・・「箕子」は「殷」の暴虐な「紂王」を諌めた王族で、「殷」を滅ぼした「周」の「武王」が「紀元前1122年」に「朝鮮王」にした人物である。「キシ」が「高麗時代」から「新羅儒教の賢人」の呼称であるならば、「日本書紀」に記されている「キシ(岸・貴志・吉師・吉士)」は「阿倍氏」に関係する「吉士舞」の人々で、「外交官・記録係り」だが、「キシ」の音は「キス」、あるいは「キソ」と同類なのだ。当然、「記す・期す・帰す」で、「基礎・起訴・木曽・木曾」に重なるのだ。英語の「kiss」は「接吻=唇を合わせる」である。もちろん、「箕」は「キ・みの・ざる」で、その「子」である。「みの(美濃・味野・三野・簑・蓑」の「子(シ・ス・こ・ね)」だ。  「蓑虫」、「蓑踊り」・・・とは「蓑」を着せて「火」を付け、「キリシタン」を「処刑」する「火刑」のことだが・・・マツリに「火」はつきモノで、世界史での「火祭」とは「ペルシャ(波斯)人」の「拝火教(ゾロアスター教)」か、キリスト教「異端」者の「魔女狩」の「火あぶりの刑」のことである。そして、「古事記」の「サル踊り」とは「猿女(天宇受女)の踊り」である。  「箕(キ・みの)=竹+其」であるならば「筑前」、「筑後」は「長崎・出島」と「三野」がある九州であり、「筑前守」とは九州の「名護屋」に本陣を構えて「朝鮮侵略」をやった「日吉丸=木下藤吉郎=羽柴秀吉=豊臣秀吉=針鼠=サル」であった。もちろん、彼の親戚の「加藤清正」は幼名を「虎」、通称「虎之助」と呼ばれた「肥後守・熊本城主」であり、この時代に彼に「誘拐・拉致」された「朝鮮人の陶工者」はその「日本姓」を「加藤」と名乗った人々が多い。  江戸時代の「松尾芭蕉(桃青・風羅坊)」の作品に弟子の「去来」、「凡兆」が選録した「猿蓑(元禄四年・1691年)」があるのだが・・・誰かが既に「芭蕉=忍者」説を言って久しいが、私も俳諧人は「暗号」を俳諧句に託す「徘徊の忍者」の類であると考えている・・・国語辞典には「俳句の根本理念」の「サビ(寂)」とは「閑雅、枯淡の美」で、「荒(さ)ぶ」、「錆(さび)」と同語源であると説明されているが、「荒=草下+亡+爪(津女)」、「錆=金+主+円(エン・猿)」で、「古事記」での「猿女」は「侵略前」の「偵察・探偵」であり、女スパイの「間諜(忍の者)」であり、「くノ一(クのイチ)=句埜意知」である。「錆鮎」、「錆竹」の共通項は「マダラ(斑・駁)」があることだ。特に「錆竹」は「意図的に硫酸で焼いた竹」である。江戸時代に「硫酸で自分の顔を焼いた人物」は蘭学者の「高野長英」であった。「障(さ)ふ」は「さえぎる(遮断)、せきとめる(関留)、じゃまする(邪魔)」であり、熟語には「白カミ」を張った「障子」がある。英語での「サブ(sub-)」は「補充、代替、副次、亜次」であり、「サブ・タイトル」は「副題」の意味である。「subacid」とは「やや、す(酸)っぱい」である。「左府」は「左大臣の唐名」とある。「大化改新」の左大臣は「阿倍倉梯麻呂」であり、「倉梯(くらはし)」は「ソウテイ(想定・装丁・壮丁・漕艇)ともヨム。「孝徳天皇(軽皇子)」の妻は「阿倍倉梯麻呂」の娘「小足(おたらし)姫」で、彼女は「藤原鎌足(中臣鎌子)」が「軽皇子」を訪問した時に「寝室」の世話までヤイタのだ。「小足(おたらし・コソク=姑息・ショウソク=消息)姫」は何者であったのか?・・・「姑息な手段」とは「卑怯な手段」で、「一時(ジ・とき=解き・辰・釈き・鴇・説き・穐・朱鷺・時岐・土岐)逃れ」の意味もある。「一時」は「一事・一次・一字・一児・一地」だ。そして、「消息筋」、「消息通」である・・・マリーネ・デートリッヒ演じる「オンナスパイ・間諜X-28」か、宝塚女性が演じた「満州国」出身の「川島芳子=女スパイ」の類だろう・・・情報を得ていたのは彼女の父親の「阿倍倉梯麻呂」で、「クラ(鞍・蔵・駒羅・句・)に梯子を懸ける人物」であったハズだ。「軽皇子」の「軽」は「キン(金)」ともヨムのだ。  女帝、「孝謙・称徳天皇(阿倍内親王)」の時代に「遣唐留学生」であった「阿倍仲麻呂」は帰国せずに「唐の高級官僚」となって「唐」で死没しているのだが・・・。当り前だが「古事記」も「日本書紀」も「漢字」で記録されているのである。そして「漢字」の「解き」こそが全てであるのだ。  「ブタ」=『武・太』であるならば「現存・古事記・序文」に記録されている「天武天皇」と「太(おほの)安萬侶」の示唆である。「魚(まな)」を「養う」であるならば「養殖魚」である。さしずめ「鯉」か、「鮒」の品種改良された「金魚」であろう。「魚(ギョ・うお)」は「まな」とも「さかな」ともヨムが、「真名(まな)=漢字」であり、「唆仮名(さかな)=肴(メ+ナ+月)」であり、「漢字」の「字形・音訓・意味」のすべての「示唆」である。  養殖(容色・要職)の『金魚』であるならば、「金の真名(漢字)」の「要職」である。当然、歴史上のスターは「新羅」の『金春秋』で、江戸時代なら「背中に桜吹雪の入墨」のある南町の名奉行(ブギョウ)の『遠山金四郎・佐衛門尉』である。  「金」さんは「蝦夷地、対馬に赴任した遠山『景晉』の息子で、天保十一年に北町奉行になったが、天保の改革を進める『水野忠邦』や『鳥居耀蔵(忠耀)』らと意見対立し、天保十四年に『大目付』となった。弘化二年、『水野忠邦』等が退いたので南町奉行となり『十一年間』在職した人物」なのだ。  『水野忠邦』や『鳥居耀蔵(忠耀)』は「蛮社の獄」で蘭学者の天才児であった『高野長英』を牢獄につないだ「張本人」である。ここに述べた「場所」、「人物の姓名」や、「事件」、「年号・数字」に注目して欲しい。  最近、在日朝鮮人のナントかと言う女史が『大塩平八郎』に対して『鳥居耀蔵(忠耀)』の生き方を某TV番組で擁護していたが、違った意味で「日本人庶民(?)」の多くは、「体制内」の同じ「御政道の官吏」ではあるが、心情的に『金(酉)』さんの生き方(リーダーシップ)には共感はすれ、『大塩平八郎』さんのヤリ方にも、『鳥居』さんの生き方(ヤリ方)にも庶民は賛成しないのだ。だいたいが、「飢えと死の人々」を眼前にして、「命を懸けて救済」しようとしている『大塩平八郎』と、「体制維持」の『鳥居耀蔵』を「比較対照」し、その「賛否を問うこと自体」がナンセンスであると思うが・・・  意外と「日本人(?)」の矛盾する曖昧な精神行動の根元、その「歴史的深層心裏」を影響しているモノとして、「百済帰化人」と「新羅帰化人・唐帰化人」が「犬」すらも墓地に埋葬する「無垢な人々(?)」、「倭委奴=アイヌ=蝦夷=縄文人」の領地に侵入し、「支配層」として、その本国の「対立感情」を持ち込んで、ばらまき、巻き込んでいったトコロにあるのではないのか・・・だから「一般庶民」は「命の危険」がない状況では「ドッチでもイイ」のであり、「ドッチでもイヤ」なのである。・・・「曖(I)昧(my)味(me)」しか解らないと云うワケではない、「佑(you)融和(your)友(you)」だって、「庇(he)卑頭(his)肥務(him)」だって、「思惟(she)頗娃(her)葉亜(her)」だって、「税(they)脆亜(their)是務(them)」だって知っているのだが、それ故に、微妙で「曖昧な味」も「好」きなのだ。  スナワチ、「日本人」は縦に頭を振る二拍子の「ヨシ、よし=ウン、うん=Yes(委得素)」でも、横に頭を振る三拍子の「ダメダ=イヤダ=No(悩)」でもない、「手打ち式の三、三、七拍子」が好きなのだ。「三、三、九度」は「メデタイ婚礼の儀式」だが、  「on(音・恩・温・穏)=上」を  「trust(取らす図・虎諏兎)=信用・信頼・信任・希望・期待」して、  「try(虎威・渡来)=試みる・務める・努力する」した  「naturalized(拿沖羅留来奴・名中羅羅遺図)=帰化人」の  「take(綴句) on(音) trust(虎諏斗)=掛けで・信用して     人の云うままに」 せざるをえず、この一方的な  「crazy(句例示意)=精神異常・馬鹿加減」の  「credit(呉地津都)=信用・信頼」こそを  「virtue(場阿中)=美徳」とした  「obscurity(将文素究理諦)=曖昧」な立場を  「principle(分理務詞振)=信条」と  すればイイのだがね・・・。  とにかく、「机下・帰化・貴下・気化・幾何・貴家・奇禍」の人を検討せよ、である。  ちなみに「tring(渡来寅愚・『寅意蔭具』・虎委音句)」は「つらい・くるしい・難儀」である。「男は寅さん、辛いのもトラさん」である。江戸時代ならば『寅の意、陰に具=(虎威音具)』とは「安政六年」に刑死した通称「寅次郎」と云われた『吉田松陰(矩方)』である。「tryst(渡来素問・渡羅遺簾徒)」は「会合・密会・あいびき」である。「1663年」に「新羅に渡り派遣された『簾の徒』」とは「垂簾の政治」を行った『則天武后』の配下の将軍『劉仁軌』、あるいは『安倍仲麻呂』かも・・・。  なるほど、『新井白石』は日本に苦労の末、至った「密航渡来」のイタリア(伊太利・阿)人の『シドッチ(ジョバンニ・パチスタ・シドッチ)』を「渡来した素を問」い、尋問し、「苦労」の末『西洋紀聞』を記録したのに違いない。『西洋紀聞』流に片仮名で彼の名前を記録すれば、『ジョバンニ(序盤似)・パチスタ(葉知諏多)・シドッチ(支度都知)』で、彼の通称は「シローテ(史朗出)」であった。  とにかく、「漢和辞典」の「漢字=真名文字(仮名)」と「音訓のヨミと意味説明」は「現存・古事記」、「世界史」、「日本史」、「朝鮮史」と「金武町(長)」に懸けられている・・・ハズである。  モチロン、『魏略』、『魚豢』の漢字分解、類字の「カン・ケン(豢・拳)」と、同音異字のすべてを「挙(上・揚・擧・掲)」げ、「懸」けて検討するのだ。  「現存・古事記」には「雄略天皇(大長谷若建命)」が「若日下姫」を訪ねていく途中、『志幾之大懸主』家の屋根に『堅魚(鰹)』の飾りを「カカゲ」ているのを観て怒る場面がある。既に「シキのカケ」は前述し、説明してあるから、賢いあなたには『志幾之大懸主』が理解できるであろう。「雄略天皇(大長谷若建命)」の「エピソーゾウ(episode)=挿話・古代ギリシャ悲劇の二つの合唱歌を結ぶ対話部『幕』にあたる・挿入楽章」の全ては「現存・古事記」のヨミカタの示唆暗示である。同時に英和辞典で「episode」の前後の単語を調べてみるとイイだろう・・・イヤ、全て頭文字の『E(e)=・Ε(ε)』を調べればイイ・・・アルファベットの「第5字」、「ホ調」、「ホ音」、「全称否定」、「符号の第五番目のモノ」、「第二級(ロイド海上保険の船舶検査格付け符号)」、「ローマ数字の250(弐百五拾)」・・・そしてあなたの英和辞典に『エドワード・ジェンナー』の名前があり、その説明文があればサイワイなのだが・・・『Ed(ed)』は、「Edgar」、「Edmond」、「Edmund」、「Edward」、「Edwin」、「Edna(女子の名)」の通称である・・・わかるかな?・・・「edit」の意味が・・・。  『江戸』、『江戸川』、『江戸主税』、『江戸万戸』、『江戸話(娃)度』、『江戸胡音』、『江戸名(拿・納・茄・菜)』・・・重字図・・・である。  ・・・「朝鮮」が飛んでしまったが、「朝鮮」のハナシは「日本にトンで来た」カナメなのだ。スナワチ、「長戦」、「調宣」、「暢(申昜=シンヨウ=猿の陽=猿の日吉丸=豊臣秀吉)戦」に「挑戦」ではある・・・カラなッ。  「高句麗」である、「熊矩理」、「乞苦理」、「交句理」・・・。

 「古事記」と「朝鮮」(2)  『班固』・・・「斑(まだら・ぶち・ふ=王+文+王・魔拿羅・分置・譜)の固(かたい・硬・堅・難・難・過怠・化他意)」の同音異字を考えるべしである。彼の「弟(テイ・ダイ・おと)」と、「妹(マイ・バイ・いも)」の名前とその事績も調べろ、である。「まだらはんてん(魔拿羅斑点)」は「虎」や「縞馬」、「麒麟」がその毛皮に有する「文様」である。そして「西方の聖獣」の「白虎」と「麒麟」である。「班鳩」を「いかるが(異化留臥・医科留我・怒る臥)」とヨムまさせているのだが「まだら数珠掛け文様を首に有する鳩(九+鳥)」のコトだ。もちろん「にし(似詞)」の「セイジュウ(声重)」は「ハン・コ」の同音異字も重ねろ、の示唆である。スナワチ、  「判の子=印の鑑(歴史)=印の璽(球)=音の字」   ↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓  ↓↓↓  「叛の虎=寅の巻(記紀)=隠の字(霊)=天武天皇=大海部皇子」   ↓↓↓↓ ↓ ↓↓   則天武皇帝=将補海士   将補解詞(会誌)   即天部天皇=牡歩開始   ↓↓↓↓↓  斗牛魁四(枢旋幾権)   ↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓   紫薇苑の皇=牽牛と北斗七星  であり、「叛の子」は「幡の姑」で、その示唆は「應仁天皇(誉田)」と父の「仲哀天皇」に「反乱」し、「新羅・百済」を「侵攻(親交・親好)」した母の「神功皇后(氣長足姫命)」である。これは「ジンコウ=人口・人工・沈香・壬考・字務項」であり、「コウゴウ(交合)」の同音異字で、「氣長足姫命(キチョウソクキメイ)=意気長足姫=息長足姫(ソクチョウソク)」とは「貴重・基調・記帳・機長・帰朝」、「即」、「キのメイ」であり、「貴命・記名」で、「素句重蘇句(本の句を重ね蘇らす句)」なのだ。「姫名」とは「黄帝・軒轅氏」の姓である。もちろん、「息が長い」とは「長寿の姫」か「遺棄(委棄・異記)された潜水(泉水)の海女(海部=『阿倍』・海士・尼)」であり、「黄帝素問(オウテイソモン・コウテイソモン)」とは「黄帝」と臣下の「岐伯」との問答を記録した最古の「医学書」である。「将胡綴素文=まさに胡人(西洋)の本のつづり」、「校訂組文」である。ナルホド「黄泉(オウセン=黄線・横線・応戦)・(ウセン=胡箋)・(コウセン=交戦・光線・鉱泉・高専・公選・抗戦・口銭・交線)」で、「キセン(氣腺・基線・機先・貴賎・汽船)」の訓は「よみ」である。「虎の胴体の皮」には「黄色の縦縞」と「眉間の『王の字』」がある。「黄草」とは「よもぎ(蓬)・もぐさ・かいな・かりやす草」であり、「お灸」の材料である。  そして「斑点」は流行病(疫病)によって「身体」にでる「発疹」、「赤疹」、「青疹」、「風疹」、「疱瘡」、「痘瘡」や、「若者」のシンボル「ニキビ」や「老人」の「シミ」である。  ・・・「現存・古事記」とは「漢方医学」と「西洋医学」の折衷した「山脇東洋」の『蔵志』と、「1771年(明和八年)」に「小塚原の死刑囚」を解剖した、「杉田玄白」と「前野良沢」の「1774年(安永三年八月)」に成った『ターフェル・アナトミア(解体新書)』を重ねた「江戸時代の医者」の「虎の巻」でもあった・・・「蘭学事始」の「コトバ」の苦労は「・(羅)務学古都葉字目」であった?  『漢書』・・・「カン・ジョ」とヨマセているのは中国漢代の歴史書である。ならば、「歴史のジョ」である。ならば同音異字は「鑑序=巻序(古事記序文)」で、「観女・観序・姦序・・・」等で、あり、『漢書』を完成させたのは「班固」の妹の「班昭」の「女史」であった。  「衛子・朝鮮」・・・「衛子・朝鮮」は「燕国」が滅亡した後に「燕国人」の「満」が「紀元前195」年に建国。そして紀元前109年に漢の「武帝」はこの「衛子・朝鮮」を五万の陸軍、五千の水軍で征伐しようとしたが「朝鮮王・右渠」がこれを撃退した。翌年「紀元前196年」に彼は大臣の「尼鶏相参」に裏切られて殺された。「右渠」の子、「長」、大臣の「路人・参・韓陶」等は漢に投降したが「幾侯」に封じられた「長」は謀反して殺された。  ここにあげた人物名の「右渠」、「尼鶏相参」、「長」、「路人」、「参」、そして「長」が封じられたとされる「幾」は「日本の記録」に関係する「漢字」である。  「右渠」・・・「右(ウ・みぎ)」、「渠(キョ・ゴ・みぞ・ほり・すじめ・おおきい・かしら・かれ・なんぞ・いずくんぞ)」で、「渠」の熟語に「渠魁(キョカイ)」、「渠帥(キョスイ)」の頭領(かしら)と、「渠荷(キョカ)」の蓮(はす)がある。  「尼鶏相参」・・・「ニケイソウシン(似係争審)・ニケイショウサン(似継承纂)」、「あまとりあいみつ(海女・取り合い・御津=水)」とは、「魏志倭人伝」にある「卑弥呼・壱與」の記録(189・239・243年)か、「随史」に記録(600年)されている「・王」で、姓は「阿毎」、字は「多利思比孤」、号は「阿輩鶏彌」ではないのか。  「阿毎」・・・・・・あまい(甘・海部異・海士委・尼位・阿倍・阿部・安倍)  「阿(ア・アク)」=おか・くま・まがり・さか・ふもと         きし・おもねる・へつらう         やしき・むね・のきよりかかる         お  「多利思比孤」・・・たりしひこ(他裏史比拠・侘里始日拠・足支比弧)         侘(よこしま)入りし日拠。「孤」=私、我、自。  「阿輩鶏彌」・・・・あはいけいみ(阿背景美・阿波委卦意味・安房委卦意味)    「輩(ハイ・ヘ)」=つら・ならび・もと・ともがら           なかま・たぐい・むら・あいて           つらなる・ならべる・とも  「彌(弥・ビ・ミ)」=ひさしい・あまねし・わたる          へる・みちる・みなぎる・はこ          びる・ひろい・とおい・ふかい          きわめる・おわる・いよいよ          ます・いや・や  「多利思比孤」とは「利は多い、コを比べて思考」せよ。  「長」・・・「チョウ・ながい・おさ・はせ・たけ」は「氣長足姫」の「長」である。  「路人」・・・「ロジン」とは「呂人・侶人・旅人」であろう。  「参」・・・「サン・シン・みつ」とは  「讃・臣・御津」、  「山・深・水」、  「纂(山)・神(申)・密(教)」、  「蚕(天+虫=天武史)=かいこ=解雇・回顧・懐古・甲斐拠」の「サン・やま」、  「神(ネ+申)=かみ」の「蜃(龍武史)」、  「箕頭(座留化支羅)=サルのカシラ」、  「産・娠・診図」・・・。  「幾」・・・「機」の類字であり、海水が岩場に激しくブチ当たる「磯(キ・ケ・いそ・あらくなる・激)」に類字する漢字だが、「キ(木)とイシ(石)を除去」した「幾(キ・ケ・ゲ・いく・きざし・かすか・おだやか・あやうい・ほとんど・あらかた・ちかし・ねがう・のり・ふさ)」とは、「オダヤカ」で、これらの同音異字のすべてで、「疑問の数詞(幾日・幾何=いかん)」である。「幾何学」とはそのほとんどが「図形」の「相似」を求めるモノであるのだが、基本図形の計算は「三角=ピタゴラスの定理」と「円=円周率=π」であろう。あなたは「現存・古事記」には江戸時代の「算額」が「ファッション(流行)」となった「算数=数学」の「和算・幾何学」の「謎解きコトバ」が満杯に「掛けられている」のを知っているだろうか。もちろん、「キ(氣)」も「イシ(医師)」もない状況は「流行(はやり)病(やまい)=疫病(エキビョウ)」の蔓延であり、「ヤマイ」の「コトバ」も掛けられている、のである。  『晋(晉)』・・・「晋(晉)」は「シン・すすむ・おさえる・つつしむ・あき・くに・ゆき」とヨミ、「周」の「成王」の弟の「叔虞」が封ぜられた『春秋』時代の大国であった。後に「韓」、「魏」、「趙」の「三国」に分裂する。ここで国家としての「王朝」の「晋(晉)」を調べると、  ①「司馬懿」の「孫」、「司馬炎」が「魏」を嗣いで建国した。初め「洛陽」    に都し、後に「長安」に遷都した。「西晉」、「前晉」とも呼ばれる。

「316年」に滅亡した。  「司馬懿(シバイ)」の「しばい(芝居)」の同音異字と、「懿=壹+次+心」の漢字の意味するモノだが、「懿=壹+次+心」は「邪馬台国」の「壱与(壹與・臺與)」で、「卑弥呼」の後を継(次)いだ「宗女」であった。その「ココロ(心)」は「ソウジョ(総女・嫂女・綜序)」の「扱」いの「字与」である。  「司馬」の名前を有する人物が日本の歴史上にも存在する。  「司馬達等」は中国「南梁」からの「帰化人」で、「継体天皇十六年」に来日した。「蘇我馬子」と結んで仏教をすすめた。娘の「島(しま・トウ=頭)」は日本最初の「女性の出家者」、スナワチ「尼(あま)・比丘尼(びくに・ビキュウニ)」である。子供は「多須奈(おおのすな・タスナ)」、孫は「鞍作止利(くらつくりとり・アンサクシリ=按作詞利)」。二人ともに「仏教彫刻家」であった。  「司馬凌海(リョウカイ・しのぐうみ)」は、オランダ海軍軍医で、「長崎」養生所教頭となった「ポンペ(ファン・メーデルフォールト・ポンペ)」の弟子である。  「司馬江漢」は「美人画」の「浮世絵師」で、後に「宋紫石」に学び「写生画」を描き、「オランダ画」の「銅版画」も制作した。また「地動説」の鼓吹者で、「封建制度」の批判者でもあった。  同音異字の「シバ」の姓名に関係する人物には、元は「足利」であり、その姓を変えた「斯波高経」が存在する。彼は室町時代の「尾張守護」、「右馬頭」であった。後に「越前・若狭」の守護を兼任。「斯波義将」は「斯波高経」の子供で、「室町幕府の執事、管領」であった。「斯波義廉」は「応仁の乱」の関係者である。「斯波氏」は「織田信長」の主人筋であるから「芝居」としての「シバ」は戦国三武将が「美濃・越前」に登場してシノギを削る物語の「序曲」であり「序幕」の人物なのだ。もちろん、「現存・古事記」では「司馬遷」と「史記」が「記録漢字」の背後(同音異字・字形・次兄)にある「序章」である。  「司馬懿(シバイ)」の『孫(ソン・まご=馬子)』である「司馬炎(シバエン)」が「晉」の「建国の始祖」とは、「古事記」、「日本書紀」で語られる「建国の始祖」としての『迩迩藝(瓊瓊杵)命』が「天の孫」であるからだ。「馬子」とは「ばくろう(馬喰・博労・伯楽)」であり、牛馬の仲買商人であるが、一般的には「交換」することだ。もちろん、「ソン(尊・巽)・ソム(祖武)」の「交換」である。  さて、「天『孫』降臨」の「孫」は「孫(ソン・まご・ゆづる・へりくだる・したがう・のがれる・さね・ただ・ひこ・ひろ・なかつぎ)」とヨムが、熟語には「幾世孫=幾世目の孫」があり、中国の「三国史」に登場する「呉の国」の「孫権」の姓で、彼の「字名(あざな)」は『仲謀』である。都は「建業(南京)」であった。父親は「孫堅」、兄は暗殺された「孫策」である。『孫武』は「春秋戦国時代、呉王(韋閭)に遣えた斉の人物」で、『孫子』の別名だが、「兵法書=『六韜三略』=『虎の巻』」で、「戦略・戦術」の書物そのものをもさすが、英語の「戦略」とは「ス・トラ・テジィ(strategy)」であり、「ス・トラ・テジック(strategics)」とは「戦術」である。  「孫武」+「孫権=仲謀」+「孫策」=「孫」の「武・権・謀・策」である。「兵法書(軍学書)」とは「虎の巻(虎巻=コカン)」であり、「ス(素)・トラ(虎)・テ(出)・ジィ(字意)」である。  「医学=身体」的に言えば、「コカン(股間・マタのアイダ)」にあるのは「セイキ(性器)」であり、男性の「睾丸(testicles・金玉)」と「陰茎(penis)・亀頭」、女性の「陰部(恥丘・陰核・陰唇・尿道・ほと)」と「子宮(womb=ウーム・uterus=ウタラス)」で、ギリシャ語では「子宮(ミトラ=μητρα)」であり、「十二月」、「正月」に懸かるのは「山羊座(Capricorn・Goat)」と「水瓶座(Aquarius・Water Beare)」である。スナワチ、「股間(こかん・ごかん=語感)」にある水の貯蔵器と水流と水分に関する「膀胱(ぼうこう=防港・ほうこう=方向)」、「尿道(にょうどう=如胡憧・にょうとう=如胡読)」につながる「前立腺(ぜんりつせん=全率撰・せんりつせん=旋律潜)」、「子宮(羊水)」につながる「産道(参道)」と「膣口(vagina・vulva)」の「みなまた(水俣)」の示唆である。  『孫武』の「子孫」には『孫賓(月+賓)』がおり、「龍涓」に「足を切られた」人物だが、『孫賓(月+賓)』の「月+賓=臍」は「臍(へそ=毘)」である。「孫康」とは「東晉の歴史家(御史大夫)」であるが、灯油も買えない貧乏学生であったが「蛍雪之功」と言われる勉学の人物だ。「孫叔敖」は「双頭の蛇」を殺して「楚王」の宰相となった人物である。  「孫=了(おわり)+一(はじめ)+系(つながる・イトのスジ・かかる・かかる)=三代目(参内女)」の共通項は、「トラ(虎=寅=イン=陰)」であり、「戦略家+医学者=蘭学者(ランガク・シャ)」で、「セイショク・シャ」で、「ソン(尊)」の「同音異字」のスベテである。  もちろん、「中国の三国時代」と「卑弥呼の時代」に「朝鮮」と「遼東半島」で頑張っていたのは『公孫氏(燕王)』であった。しかも、『孫仁師』は「663年」の「白村江の会戦」時の「唐の陸軍の援将」であった。  「現存・古事記」に登場する『迩迩藝命』は『木花之佐久夜姫(神阿多都姫=かみ合った渡ヒメ)』と一夜契って妊娠したことを告げられ、「ソンナァー」とアワテタ男である。『木花之佐久夜姫』はその証明をする為に『八尋伝』に閉じ込もって「火」を付け、三人の子供を産んだのだ。  『邇邇藝命』の「迩」とは「ジ・ニ・ちかい・ちかずく」、であるならば、  「ちかづく・近づく・近々=キンキン・コンコン            =ちかじか(治鍛冶禍)=治火事禍            =ちかづく(地掛図句)=治禍柘句」  の「藝術・外医術・解医術」である。漢和辞典が教えていることは「藝」は「占い」で、「医(醫=医+几+又+酉)」は「巫(工+人+人)・匠(匚+斤)」であった。  漢和辞典にある「在迩求遠(孟子・離婁上)」のコトワザの意味説明は「学問の路は自分の『身』にもとめるべきで、近いところにある。だが、人はかえって、これを『外』に求める」とある。これは単なる「漢(蘭)学者連中に対する批判のコトバ」だろうか(?)・・・  「学問(ガクモン・額句文・我苦悶)」の  「路(未知)」は  「自分(時分・字文)」の  「身近(シンキン=審今=今現在を審(つまび)らかにする         =シン・キンを詳(つまび)らかにする)」、  「人(ジン=尋・にん=認)」は  「かえ(却・返・帰・逆)って」  「これ(来・之・是・此・惟・凝)を」  「外(ゲ=解・下・懸・氣)」に  「求める」  「孟子(模胡詞・望詞・耗死・猛死・盲師)」  「離婁上(理老嬢・理路場・履篭城)」であり、  「婁(ひく・つなぐ・ちりばめる)」は「七夕津女」であり、  「瘻」は「瘰癧(背虫病)」と「瘻癘(癩病・首に腫れ物が出来る病)」で   「婁(屡)」は「ふいご・たたら(鞴=鍛冶屋の送風機)」である。  ・・・私が「イト」的に同音異字を採れば、  「在  邇 求   遠=(ザイジ・キュウエン)」   ↓  ↓  ↓    ↓   ↓  ↓  ↓    オン  「ある・じ・もとめる・とおく(在=有=或る字を音に求める)」   ↓  ↓ ↓↓↓十 句(拾句)   ↓  ↓ ↓↓↓ ↓↓↓  「主 模渡目留 渡邑久(尾久・奥=欧・西欧=欧州)」     母 女   ↓句           邑(ユウ・オウ=皇后・皇太后・大夫・公主の領地)  である。「罪(つみ)の児の救援」で、江戸時代ならば「罪の児」とは「蘭学者」で「蛮社の獄(牢獄)」に下った「奥州水沢」生まれの『高野長英(悦三郎・《瑞皐=ズイコウ》・《譲=ジョウ》)』と、「長州長門東松本」生まれで「安政の大獄(牢獄)」に下って刑死した『吉田松陰(矩方・《寅次郎》)』であろう。『高野長英(悦三郎・《譲》)』の妻は『青地林宗』の娘であった。  「現存・古事記」の「神代」ならば「祭の児・斎の児」であり、「積みの児・摘みの児」で、「わたつみ(棉津見)」は「海神」である。竜宮城の「おと(音・乙)姫」と「鯛(タイ・台・他意・体・対)」を訪ねたのは「山幸彦(サンコウゲン=参考諺・纂交源・三公言・産皐元・三光源・広原・讃高原・纂虎鵜元)」であった。ならば、「海幸彦」は「開港(開講・回航・開校・海溝・海港・開口)源」である。  「大化改新」あたりであるならば「財の児の救援」とは「斎明天皇(財姫)」の子供、「天智天皇(中大兄皇子)」となろう。「剤治の救援」ならば「薬剤治療師・薬師(医者)の救援」である。もちろん、「ヤクシ(訳詞)の救援」である。「旧約聖書」の「罪の子」とは「キリスト教徒」の「源罪者」で、「蛇(悪魔)」に唆されて「禁断の木ノ実」を食べた「アダムとイヴ」であり、その「子孫」は「新約聖書」の「ヒトの子のクリスト(キリスト)」と言うことだ。そして、「ザ(座・坐・挫)のイジ(異字・維持・意地・遺児・医事・意字)」の「キュウエン」のコト、である。「サイチ・キュウエン」ならば「災地への救援」、「差異字」、「作異字」の「救援」、「球円・求円・旧縁・舅縁・仇縁・宮猿(申=南東・坤=戊申)」で、「孟(猛)の子・離(里)の婁(糧)の上(擾)」である。「救済」の漢字は「百済の救援」に掛けられているのだ。「迩来」とは「近ごろ・近来」の意味で、「迩言」は「卑近で通俗なわかりやすい言葉」とある。「迩来也」と言えば、歌舞伎の「三竦(さんすくみ)」の「なめくじ(名目公事・拿女久慈・名目句字)」を恐れる「ガマカエル(画真変える)」に乗って「印を結ぶ忍者」である。  「魏」は「禾(のぎ)+女(おんな)+鬼(おに・あに・キ)」であるならば、「能義(野木・退き)は音名(女)の将似(兄・記)」である。ここは漢和辞典の「鬼」を参照し、その全ての「熟語」を調べよ、である。  「鬼道」とは「卑弥呼」であり、「鬼才」とは「才能の人物」であり、江戸時代の「鬼」とは「朝鮮使節」に対して「第七代・徳川家宣(『綱豊』・『虎松』)将軍」を「日本『国王』」と呼ばせた『新井白石』である。彼は「種子島」に上陸し日本に密国した「伊太利亞(イタリア)人」の宣教師、「シドッチ」を尋問した人物で、その尋問の内容を「西洋紀聞」として記録した。  そして「鬼門関」とは「中国広西省にある関」で「ハマダラ蚊」を伝染媒体とする「マラリア(malaria)=おこり・瘧(ギャク・ガク・わらわやみ)・間歇熱」の死地である。「わらわやみ(童病・妾病)」とは「源氏物語」の「コトバ」であるが、「童病=ドウビョウ=奴得病=患者=間者=忍者」、「妾病=ショウビョウ=傷病=障病=性病」、「めかけやまい=目掛合真意」で「女掛合真意」は、「わらわやみ=話裸倭闇」で、「話は倭の闇を裸」にする、あるいは「稿話病身」で、「原稿は病身の話し」であるカモ・・・「マラリア(魔羅の裏の阿)」は「蚊(か)・虻(あぶ)」の類に「病因・原因」があるならば、  「魔羅の    里(裏)の  阿」   ↓↓    ↓       ↓  「陰茎(ペニス)を離(切られた)の阿(阿呆・阿保・阿母・阿倍)」   ↓↓            ↓ ↓   寅系(虎系) 司馬遷      阿倍(称徳・孝謙皇帝)  で、「虻(蚊)=阿武」の係累は「則天武后」カモ・・・。  「阿蘇」の「阿」は、「ア・アク・おか(丘)・くま(隅)・まが(曲)ったところ・さか(坂)・ふもと(麓・梺)・きし(岸)・おもね(阿)る・へつら(諂)う・やしき(邸)・むね(棟)・のき(軒)・よりかか(寄り掛か)る・お(阿)」とヨムのだが、この同音異字の「意字」のスベテである。  もちろん「鬼門」は「丑寅=艮=北東」であり、「牛(ギュウ・うし)」と「虎(コ・とら)」は、「義喩有拠(ギユウコ)」、「胡の使徒等=西洋の宣教師等」の「魂(根・恨・混・金)」で、「裏鬼門」は「未申=南西」の「羊(ヨウ・ひつじ)」と「猿(エン・さる)」で、「用縁(ヨウエン)」、「日辻左留」ある。「左」は「たすける」、「よこしま」とヨムのだ。 「晋(晉)」は、  ②「司馬懿」の「曾孫」、「司馬睿」が「西晉」を継いで建国。都は「健康(   南京)」で、「東晉」、「後晉」とも呼ばれる。  ③「五代」の時「石敬唐」が「後唐」を滅ぼして建国。洛陽に都した。「後晉」   とも呼ばれる。  ④「山西省」の別称。  ⑤「易」の「坤下離上」で、地上に明るさが出る象。  ⑥「あき・くに・すすむ・ゆき」の訓でよまれる。  ⑦「晉」の漢字分解は、   「一(はじめ)+ム(よこしま)+ム(よこしま)+一(はじめ)+日」      ↓  ↓       ↓ ↓↓   ↓    ↓      始   私(横 島 )  私(横 島 )   初    日      ↓   ↓      ↓       ↓    ↓      葉字芽 わたくし    わたし      一=肇=始=元      ↓   ↓      ↓      ↓      把似女 話多駆使    渡 し     捌 目=代裏女      ↓   ↓      ↓      ↓      把字目 シ(おうとう)  シ(おうとう)  撥=一揆          詞(応 答 )  史(桜 桃)  頗柘                  王 朝=皇唐=皇統  「『横島』の地名」は実際に九州「阿蘇山・山頂」を東西に引いた「緯度・三十三度」の「線上」に存在するのだ。

 「古事記」と「朝鮮」(3)  『太康』年間(280年~289年)・・・「タイコウ」ならば「太閤」で、「豊臣秀吉」であり、英語の「タイコオ(tycoon=タイコーン)」は「将軍」を意味する日本語の英語化である。「タイ(tie)」なら帯(紐・結び目)で、「コーン(coon)=あらい熊」か、「corn=穀物=唐黍(とうきび・倒吉備=長州)」を縛るであろう。「corn」には「底豆・うおの目」の意味があり、「corm」は「球茎(キュウケイ・宮刑)」である。  「鯛の拠の恩(音)」は「古事記」の「竜宮城」での「乙(音)姫様」ある。モチロン、『太康』は「鯛(タイ=他意)」を喰って「あたった(中毒死)」と噂された「東の将軍」の「徳川家康」である。  この事件は当然、「古代史」にも懸けられ、これに喜んだのは「スッパ(素柘把・酸)い胃液(いえき=異役)」の「溜飲(龍寅=劉・虎=劉仁軌と天武天皇)」を下げてスッキリした人々で、「関ヶ原(不破の関)」で「苦汁」を「嘗め」た「西軍」の「豊臣残党(大友皇子)」と「外様大名(尾張豪族で乱後に自殺した『少子鋤鈎(ちいさこべさひち・ショウシソコウ)』)」である。スナワチ、「ちい(地位)・さこべ(差虚分・佐古部)・さひち」に懸けられた人々であり、「ちいさこべ=恥諌拠部・差異(祭)地=知諌拠部作一(卑弥呼、壱与の告喩)」を受けた人々である。江戸時代なら「ショウシ(笑止・賞賜・賞詞・称死)・ソコウ(素行)」で、「聖教要録」を出版して「赤穂」に流され、「兵法神武雄備集」、「武教全書」の著作者である「山鹿素行(高祐・甚五左衛門=尋語差衣紋)」か、『高野長英』を「焼死」させたものとして隠まい、援助した『尚歯才知』の『尚歯会』の「蘭学者」達であろう。  『魏』・・・「ギ」は「高く大きい」意味である。ここは「魏=禾+女+鬼」を踏まえて「ギ」の同音異字を漢和辞典で調べて欲しい。  『郎中』・・・『郎中』は「魏」の『魚豢』の「官名」であった。「郎中令」とは「秦時代の官名・九卿の一・宮殿の門戸を司る役人」であるが、「ロウチュウ」も「ロウ・チュウ」の同音異字で「弄(ロウ・もてあそぶ)」してほしい、と言うメッセージなのだ。もちろん、「漢書」の「楽浪、海中、有『倭人』」である。  そして、「郎」は「春秋時代の魯国・秦時代の宿衛・漢時代の侍従・唐時代の次官・清時代の下級官吏」であり、訓で「いらっこ」で、「中」は「なか・ジュウ」ともヨム。『郎中』の位置を変えた「中郎」は、「大化改新」の立て役者で「字名(あざな)」を『中郎(なかちこ)』と呼ばれた『藤原鎌足(中臣鎌子)』であった。何故、何時の時代から「なかちこ」とヨマセているのか?・・・彼が生存した時から「なかちこ」と呼ばれたのは怪しいモンだ。シグナルとすれば、「逆位置の名を掛けて知る拠」、あるいは「那珂(那賀・長)の地の胡(姑・虎)」に関係させタイのだ。大阪、「角座」の「歌舞伎・戯曲作家」の「奈河亀輔」の周辺が怪しいカモ・・・。  「チュウロウ」の同音異字には江戸大奥の「上中下」の女中の位の「中臈」があるが、「臈」は本来は「坊主が得度後、一夏九十日」の修行年数を数える語だが、「年功序列」の意味である。「歴史」の「記録」ならば「年項目の序列」のコトだ。しかも漢和辞典には「臈」は「臘」と同字である、と記されており、「臘」は「冬至後の第三の戌(ジュツ・シュツ・シュチ=いぬ=犬・ケン=狗=ク・グ)支の日に行う祭で、獣を猟して神々や祖先を祭る」、「陰暦十二月八日=釈迦の悟りを開いた日=開眼日(海岸鼻・海岸備)」、「両刃(もろは)の剣」、「リョウバ(猟場=漁場)」の意味と説明されてある。「もろは(諸葉)」ならば、「臈=臘」は「希臘(ギリシャ)語」の「諸葉・模賂葉」である。  「リョウバ=両葉」は「若芽」から出る「双葉(ふたば)=二葉(ニヨウ・似様)=ソウバ」である・・・「二葉百合子」は「岸壁の母」や「九段の母」を唄った歌手ではあるナッ・・・「ソウバ」が「あきない(商・穐無・秋内・安岐内・安芸内・亜紀中・空名位・飽岐内・合畿内)」の「こめ(米・込め・混め・姑女・虎女・子女)」の「ソウバ=相場」の連動なら、「江戸(政治府)と大坂(商業府)」、「生産地(田舎)と商売・消費地(都市)」の「二つの場の生産物の流れ」である・・・「災害・疫病・飢饉」の時には災害死、『病死』、飢死にする人々が出るのは当り前だが、『罹病・病死』の不偏性は別にして、暴力で生き残ろうとするのは「時代の支配層と暴力団(野盗盗賊)」で、「米相場(商品相場)」の高騰を利用して「悪どく儲ける」のが「商人」と云うものである・・・当然、「餓死」の選択しかない人々は『一揆・反乱・米騒動』である。「相場(ソウジョウ・層状・相乗・総状)」とは相対する場であり、  「相」=「木+目」=きめ(肌理)・肌理の細かい膚(羽田)      ↓  =もくめ(模矩女・母久米・茂矩眼・藻粂)      ↓  =木の「木目」は年輪で、その年の天候の善し悪しが解る     「十(東西南北・壱拾)+八(南西・南東=坤・巽)+目(はかり)」  「場」=「土(十一・壱拾壱)+昜(日一勿・日の初めの変化)」                  ↓                 勿=ブツ・モチ・なかれ・あらず                  =禁止、禁忌の・・・するナカレ                  =人民を集めるしるしの旗  であるのだが。「十八番(目)」とは「おはこ・得意な技芸」であるならば、「十八番目の支」は、  「十二支+六支=巳(蛇=へび・ミ=壬・水)」  「重(獣・拾)の八番目の支」は「未」で、「未(いまだに・ミ=壬・水)」=「羊(ひつじ=日辻・筆字・逼時)=ヨウ=昜・要・用様」である。  「場(ジョウ・ば)=土+昜(ヨウ・ヤウ・あがる・陽)」の類字に、   土+易=(エキ・ヤク・さかい・国境・あぜ・くろ)  がある。「昜」≠「易」は、「一」が無いところが異なるのだ。勿論、  易(エキ・イ・ヤク・やさしい・おさめる・あなどる)  は、「易占の八卦」で、「蝪(とかげ)の皮の色の変化の意味」である・・・「二葉(ふたば)」とは、「土の中の球根」の「根」から出た「緑の二股の若芽」で、「時間」が「経」てば「天に向かって伸」び、「変化」していくのだ。  ならば、この「アナロジー(類推・推理)」で考えればよいワケである。スナワチ、「二婆(ふたば)」とは、「嫂婆(卑弥呼・倭姫)」、「宗婆(壱与・倭建)」、「僧婆(比丘尼・尼将軍)」、「掃場(出雲・須佐之男・大国主)」、「争場」、「曹(操)場=魏」、「捜場」、「叢(草)場=焼津」、「繰場」、「綜場(宗像)」、「送場」、「想場」、「葬場(古墳・塚・墓)」、「扱場」、「創場」、「総場」、「総(ふさ・しめる・むすぶ・すべる=統)の婆(場)」の「持統女帝」である・・・「祖姥」・・・ソウバは「卑弥呼」である。  「ソウワ」ならば、「総和・挿話」である。  「ソウハ」ならば、「争覇」、「走破」、「爪(蚤)破」・・・「掻爬」とは・・・理由はナンであれ、「水子」になった「子女」は「親」を恨むよな・・・葦舟で流された「モーゼ」は人々を救ったのだ。だが、夫婦の「都合」で、あるいは、時代的な状況にあっては、「現存・古事記」の「伊佐那美」が「天之御柱」を「右から回って」、「あなにやし、え・おとこ(阿那迩夜志・愛・袁登古袁)」のコトバで、「水蛭子」はナガサレたのだ。漢和辞典には「蛭」は「シツ・シチ・ひる」とヨミ、「吸血虫」、「蟻塚」の意味と記されている。「水の吸血虫の子」とは「蚊の幼虫」である「ボウフラ(孑孑)」である。「蛭」の漢字分解は、  「蛭」=「虫+至」=むしいたる=務思惟多留     =「中+一+ム+十+一」=なか いち よこしま じゅういち           ↓     =那賀 位置 横 島 重 位置           ↓      なか はじめ よこしま じゅういち           ↓     =那賀 端地目 横 島  重 位置           シ・よこしま・かいな(肱=コウ・ひじ・腕=ワン・うで)            ↓     ↓ ↓  ↓↓ ↓   ↓↓           邪=冒=左   ↓ 港 日出 湾   得出                  ↓ 皐  秘事=肘=菱  海明=海名=開命=改名=甲斐名=科医名    ↓ ↓  ↓    ↓  ↓  ↓↓    ↓  空海 ↓    ↓  武田  科否  有明海    天智 新女留 長野  嫁いね         開化 荒田女留    禍稲  最後に懸けられている「稲の禍」とは干ばつ飢饉だ。「場所」は「九州有明海の湾の右の横島」、「水の(水野・水、乃=水砂輪地)・吸血虫の(仇結忠埜・窮地無視)・子(司)」とは「蚊の幼虫」である「ぼうふら(孑孑=ゲツゲツ)」で、「ケチケチ・ケツケツ・あまる・あます・のこす・のこり・ちいさい・ひとり・すこやか・ほこ)」とよみ、本義は「右腕(右肘=ウチュウ)の無い事」である。「孑遺=生き残り」、「孑然=ひとりぼっち」、「孑立=孤立」の意味である。ついでに、「孥(ド・ヌ)」は「子孫・捕虜・父や夫の罪によって妻子まで罰する刑」である。  江戸時代の「水野忠邦・鳥居耀蔵」の時代の「水蛭子」とは誰の掛けか?・・・長崎バッテン、佳(美しい・掛)の『いね』とは?・・・科(とが=罪・火)の医者の名前とは?・・・『いね』の名前を有する女性とは、「文政六年」に来日した「長崎・出島」のオランダ商館付医官で、「長崎」郊外に「鳴滝塾」を設立し、初めての「臨床講義」をし、数多くの「蘭学者」を育て、「日本植物誌」を著作し、「文政十一年」に「日本地図持ち出し事件」で国外追放され、「安政五年」に再来した『シーボルト(ジーボルト)』と日本人妻の『楠本タキ』との間に生まれた「娘(嬢・譲)の名前」である。「瑞皐(ズイコウ)」とは『高野長英』の「号」で、「譲」は名であった。「皐」とは「水沢・水田・岸・水際・境・昇・高い・緩い・告げる・五月」で、『皐比』とは『虎の皮の敷物』の意味である。  「臘」の類字は「蝋」だが、「蝋燭屋」と「線香屋」、「字」を「ナゾ」って書く「提燈屋」は「寺」の得意先だが、  「蝋・即・漏(もれる)」、      「漏・即・垂(たれる)」、          「垂・即・足(あし)」、              「足・即・腿(もも)」、                  「腿・即・体(からだ)」、                      「体・即・躯(く)」、                          「躯・即・狗(いぬ)」、                               「狗・即・犬(いぬ)」、 「犬・即・懸(かける)」、  「懸・即・書(かく)」、「書・即・句(く)」、「句・即・口(くち)」・・・・∞∞・・・  「犬(ケン)=懸   =いぬ(狗=ク=駈・琥・工・駒・孔・久・貢・苦・倶・躯・句)」の  「ポチ(ボチ=墓地・母地・暮致)=歩致・浦地・補知」が  「仏(ほとけ)」と  「したい=死体=姿態=肢体=詞台(せりふ=台詞の逆)」、  「やりたい=哉理対」  の名前であるとは・・・なぁーるほどネッ・・・「『解体新書』=改代新書=懐胎新書」と「『夢物語』=喩女模野方理」で「解剖=海防=改謀」しなくちゃぁ~ワカラないワケだ。  「ギリシア国」  「ギリシャ(ア)」、「Greece」、「Greek」とは漢字で「希臘」、「希蝋」の国人であった。英語では「Greek」とは「訳のわからない言葉・ペテン師・詐欺師」とあり、  be all Greek to person・・・ワカ~ンないっ  That is all Greek to me・・チンプンカンプン  When Greek meet Greek・・・・龍虎相対する時  と和訳文が記されている。「グリース(grease)」は粘りのある半個体状の「油」で、「脂肪・軟膏・獣脂・羊毛の脂肪分・機械油」、「馬の水疵病」である。「grease-ball」とは「ラテン系外人・Mexican」の蔑称で、「grease-er」とは「汽船の火夫長」である。火傷に効き目のある「ガマの油の軟膏」はイカガであろうか・・・  「イラッコ」は「異の羅の柘は虚(拠・虎・姑)」か、「意はラッコ(rakko)」で、「ラッコ」は「宮沢賢治」の『銀河鉄道の夜』に出て来る主人公の『ジョバンニ』をいじめる言葉だが、「アイヌ(蝦夷)語」であるらしく、「いたち科の海獣」で、これを漢字で書けば『猟虎(リョウコ)』である。「イタチ科の海獣」とは「医達家=伊達家=板地掛=大分家」で、九州豊後の「大分県」の「甲斐重・魁従・怪獣・懐柔」であろう。ちなみに『ジョバンニ』の水死した友人は『カンパネルラ』であった。  英語の「rack」は「柵架け・上着、帽子架け」と、「馬が軽く駆ける」、「拷問台」、「飛び雲・ちぎれ雲」、「羊(ひつじ)・豚(ぶた)・小牛(こうし)」の「首肉」、等の意味である。「lac」は「赤色の染料」で、「lacquer」は「うるし(漆=七)」で、「漆器・蒔絵」。「lack」は「不足・欠乏」である。「good luck」と言えば「縁起のいい幸運」で、日本語訳は「さようなら(作用拿羅・左様奈良)」でもある。  「ロウチュウ・ロウジュウ」から音を採れば「江戸幕府の老中」だが、  「牢(ろう)の中」、罪人。  「廊(くるわ)の中」、遊女や娼婦。  「瘻(こぶ)の中」、「背虫の瘻癘病(クル病、ライ病)」の人。  「労(つかれる・いたわる)の中」、「労咳(肺結核)」の人。  「浪(なみ)の中」、船上の人々。  「婁(ふいごう)の中」、鉄、銅、金属の類を扱う「鍛冶屋」。  「楼(やぐら)の中」、物見、火消し、鐘突きの人々。  「滝(たき)の中」、海から川と滝を昇る鯉、鯵、鱒のサカナの類と、「龍」。  「狼(おおかみ)の重」、「大神」と「犬・狗」の類。  「蝋(はち・ギリシャ)蝋の中」、蜜、オリンポス、アテネの神々、ラテン人。  「篭(かご)の中」、食糧になるモノの類。  「聾(つんぼ)の中」、聾唖者、検校と言われる人々。  「朗(ほがらか)の中」、明るく大声で「朗読」をする人。  等である。  「蜂蝋の蜜」は「ロイヤル・ゼリー」で、御利益、無限(∞)の「長寿の健康食品」で、「甘い味」である。「蜜」の同音異字は「密・御津・三・参・水・瑞・味酢」である。  「日本書紀」には「631年(舒明天皇三年三月)」に人質として日本に来た「百済の皇子」の「豊璋」であった。彼と同一人物であるかどうか「?」であるが、「養蜂」した人物は「百済皇子」の「餘豊」、「643年(皇極二年)」に「蜜蜂の房四枚を以て三輪山に放ち飼う」と記録している。だがこの養蜂は「百済滅亡」を暗示するかのように失敗して「蕃息」しなかったのだ。そしてこの年には「聖徳太子」の子供である「山背皇子」が「蘇我入鹿」に滅ぼされている。「蜂子皇子(能除太子・法名は弘海)」と云う人物が存在した。彼は「聖徳太子」の「従兄弟(イトコ)」と云われ、「出羽・三山」の「開基」者であった。「647年(大化三年)」には「新羅の皇子」の「金春秋(智)」が人質として日本に来ているのだが。  「新羅・八幡(ハチマン)・太郎・義家」の秘密もこの辺に掛けられている筈である。以上、述べた人物名、地名、これらの同音異字と熟語を検討せよ、である。  『魚豢』・・・    「ギョケン・ギョカン・ うお やしなう・  うおくらわす ・うおさそう」     ↓↓↓ ↓↓↓↓  ↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓     禦 懸 ・禦化務・ 得将 夜詞拿胡・得尾句羅話素 ・得長 騒     ↓↓↓ ↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓     疑輿懸 気与掛務 さかなやしなう さかなくらわす さかなさそう               ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓              差仮名八支名迂 作仮名句裸倭素 査掛拿作祖胡  である。「漁師」は「キリスト教徒の宣教師」で、「う・おさ・そう」ならば、「胡(西洋)の長の僧」で、「キリスト教の宣教師の長」である。「豢(カン・ゲン・ケン・やしなう)」は穀物で養われた家畜で、「犬、豚、牛、馬、羊・鶏」等で、「十二支の動物」で、「化知句」すれば「戌・亥・丑・午・未・酉」等であるが、「家畜」ではないモノは「鼠・虎・竜・蛇・猿」であり、「兎(菟)」は家畜かも。「豢」を漢字分解すれば「豢=ム(よこしま)+一(はじめ)+人(ひと)+豕(ぶた)」で、「ブタ」=『武・太』であるならば「現存・古事記・序文」に記録されている「天武天皇」と「太(おほの)安萬侶」の示唆である。「魚(まな)」を「養う」であるならば「養殖魚」である。さしずめ「鯉」か、「鮒」の品種改良された「金魚」であろう。「魚(ギョ・うお)」は「まな」とも「さかな」ともヨムが、「真名(まな)=漢字」であり、「唆仮名(さかな)=肴(メ+ナ+月)」であり、「漢字」の「字形・音訓・意味」のすべての「示唆」である。  養殖(容色・要職)の『金魚』であるならば、「金の真名(漢字)」の「要職」である。当然、歴史上のスターは「新羅」の『金春秋』で、江戸時代なら「背中に桜吹雪の入墨」のある南町の名奉行(ブギョウ)の『遠山金四郎・佐衛門尉』である。  「金」さんは「蝦夷地、対馬に赴任した遠山『景晉』の息子で、天保十一年に北町奉行になったが、天保の改革を進める『水野忠邦』や『鳥居耀蔵(忠耀)』らと意見対立し、天保十四年に『大目付』となった。弘化二年、『水野忠邦』等が退いたので南町奉行となり『十一年間』在職した人物」なのだ。  『水野忠邦』や『鳥居耀蔵(忠耀)』は「蛮社の獄」で蘭学者の天才児であった『高野長英』を牢獄につないだ「張本人」である。ここに述べた「場所」、「人物の姓名」や、「事件」、「年号・数字」に注目して欲しい。  最近、在日朝鮮人のナントかと言う女史が『大塩平八郎』に対して『鳥居耀蔵(忠耀)』の生き方を某TV番組で擁護していたが、違った意味で「日本人庶民(?)」の多くは、「体制内」の同じ「御政道の官吏」ではあるが、心情的に『金(酉)』さんの生き方(リーダーシップ)には共感はすれ、『大塩平八郎』さんのヤリ方にも、『鳥居』さんの生き方(ヤリ方)にも庶民は賛成しないのだ。だいたいが、「飢えと死の人々」を眼前にして、「命を懸けて救済」しようとしている『大塩平八郎』と、「体制維持」の『鳥居耀蔵』を「比較対照」し、その「賛否を問うこと自体」がナンセンスであると思うが・・・  意外と「日本人(?)」の矛盾する曖昧な精神行動の根元、その「歴史的深層心裏」を影響しているモノとして、「百済帰化人」と「新羅帰化人・唐帰化人」が「犬」すらも墓地に埋葬する「無垢な人々(?)」、「倭委奴=アイヌ=蝦夷=縄文人」の領地に侵入し、「支配層」として、その本国の「対立感情」を持ち込んで、ばらまき、巻き込んでいったトコロにあるのではないのか・・・だから「一般庶民」は「命の危険」がない状況では「ドッチでもイイ」のであり、「ドッチでもイヤ」なのである。・・・「曖(I)昧(my)味(me)」しか解らないと云うワケではない、「佑(you)融和(your)友(you)」だって、「庇(he)卑頭(his)肥務(him)」だって、「思惟(she)頗娃(her)葉亜(her)」だって、「税(they)脆亜(their)是務(them)」だって知っているのだが、それ故に、微妙で「曖昧な味」も「好」きなのだ。  スナワチ、「日本人」は縦に頭を振る二拍子の「ヨシ、よし=ウン、うん=Yes(委得素)」でも、横に頭を振る三拍子の「ダメダ=イヤダ=No(悩)」でもない、「手打ち式の三、三、七拍子」が好きなのだ。「三、三、九度」は「メデタイ婚礼の儀式」だが、  「on(音・恩・温・穏)=上」を  「trust(取らす図・虎諏兎)=信用・信頼・信任・希望・期待」して、  「try(虎威・渡来)=試みる・務める・努力する」した  「naturalized(拿沖羅留来奴・名中羅羅遺図)=帰化人」の  「take(綴句) on(音) trust(虎諏斗)=掛けで・信用して                     人の云うままに」                     せざるをえず、                    この一方的な  「crazy(句例示意)=精神異常・馬鹿加減」の  「corangeit(呉地津都)=信用・信頼」こそを  「virtue(場阿中)=美徳」とした  「obscurity(将文素究理諦)=曖昧」な立場を  「principle(分理務詞振)=信条」と  すればイイのだがね・・・。  とにかく、「机下・帰化・貴下・気化・幾何・貴家・奇禍」の人を検討せよ、である。  ちなみに「tring(渡来寅愚・『寅意蔭具』・虎委音句)」は「つらい・くるしい・難儀」である。「男は寅さん、辛いのもトラさん」である。江戸時代ならば『寅の意、陰に具=(虎威音具)』とは「安政六年」に刑死した通称「寅次郎」と云われた『吉田松陰(矩方)』である。「tryst(渡来素問・渡羅遺簾徒)」は「会合・密会・あいびき」である。「1663年」に「新羅に渡り派遣された『簾の徒』」とは「垂簾の政治」を行った『則天武后』の配下の将軍『劉仁軌』、あるいは『安倍仲麻呂』かも・・・。  なるほど、『新井白石』は日本に苦労の末、至った「密航渡来」のイタリア(伊太利・阿)人の『シドッチ(ジョバンニ・パチスタ・シドッチ)』を「渡来した素を問」い、尋問し、「苦労」の末『西洋紀聞』を記録したのに違いない。『西洋紀聞』流に片仮名で彼の名前を記録すれば、『ジョバンニ(序盤似)・パチスタ(葉知諏多)・シドッチ(支度都知)』で、彼の通称は「シローテ(史朗出)」であった。  とにかく、「漢和辞典」の「漢字=真名文字(仮名)」と「音訓のヨミと意味説明」は「現存・古事記」、「世界史」、「日本史」、「朝鮮史」と「金武町(長)」に懸けられている・・・ハズである。  モチロン、『魏略』、『魚豢』の漢字分解、類字の「カン・ケン(豢・拳)」と、同音異字のすべてを「挙(上・揚・擧・掲)」げ、「懸」けて検討するのだ。  「現存・古事記」には「雄略天皇(大長谷若建命)」が「若日下姫」を訪ねていく途中、『志幾之大懸主』家の屋根に『堅魚(鰹)』の飾りを「カカゲ」ているのを観て怒る場面がある。既に「シキのカケ」は前述し、説明してあるから、賢いあなたには『志幾之大懸主』が理解できるであろう。「雄略天皇(大長谷若建命)」の「エピソーゾウ(episode)=挿話・古代ギリシャ悲劇の二つの合唱歌を結ぶ対話部『幕』にあたる・挿入楽章」の全ては「現存・古事記」のヨミカタの示唆暗示である。同時に英和辞典で「episode」の前後の単語を調べてみるとイイだろう・・・イヤ、全て頭文字の『E(e)=・Ε(ε)』を調べればイイ・・・アルファベットの「第5字」、「ホ調」、「ホ音」、「全称否定」、「符号の第五番目のモノ」、「第二級(ロイド海上保険の船舶検査格付け符号)」、「ローマ数字の250(弐百五拾)」・・・そしてあなたの英和辞典に『エドワード・ジェンナー』の名前があり、その説明文があればサイワイなのだが・・・『Ed(ed)』は、「Edgar」、「Edmond」、「Edmund」、「Edward」、「Edwin」、「Edna(女子の名)」の通称である・・・わかるかな?・・・「edit」の意味が・・・。  『江戸』、『江戸川』、『江戸主税』、『江戸万戸』、『江戸話(娃)度』、『江戸胡音』、『江戸名(拿・納・茄・菜)』・・・重字図・・・である。  ・・・「朝鮮」が飛んでしまったが、「朝鮮」のハナシは「日本にトンで来た」カナメなのだ。スナワチ、「長戦」、「調宣」、「暢(申昜=シンヨウ=猿の陽=猿の日吉丸=豊臣秀吉)戦」に「挑戦」ではある・・・カラなッ。  「高句麗」である、「熊矩理」、「乞苦理」、「交句理」・・・。


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