「藤原仲麻呂(恵美押勝)」と「古事記」(1~3)
- 2017年4月4日
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「藤原 仲麻呂(恵美押勝)」と「古事記」(1) 「恵美押勝(えみおしかつ)」・・・「笑み・微笑」・・・「王将・応召」???・・・咲く
中国語の「关(關)(関)」 閉める・閉じる・关门=ドアを閉める 关=收音机=ラジオを消す 閉じ込める・幽閉する=关在监牢里=牢に入れる 倒産する・店じまいする 関連する=不关你的事=君に関係のない事
さて、例のごとく他人の著書を参考にして「現存・古事記」を考えてみたい。そこで、「岸俊男」氏の著書、「藤原仲麻呂(株・吉川弘文館・編集者日本歴史学会・代表者・坂本太郎・昭和44年3月10日発行)」を参考にした。 ここでも、「例」のごとく、「齢」のごとく、「戻」のごとく、「鈴」のごとく「 」や『 』、年号数字、カタカナを「同音の異字(維持・意字・遺児・医事・意地)」として重ねていきたい。 「天武天皇」の血筋、最後(?)の女帝「孝謙・称徳天皇」の時代を担った人物で、『藤原仲麻呂』をである。 彼は「藤原鎌足」の「曾孫」、「藤原不比等」の「孫」、「藤原武智麻呂」の「次男」である。 「『藤原仲麻呂』の乱」、スナワチ「大師・正一位・藤原恵美・朝臣・押勝」は「天平宝字八年(764年)九月十八日」に捕らわれて斬殺されたのであるが、この「年号」、「月・日」は私のヨコシマな思考には都合よく、「天平宝字八年九月十八日」となっているのだ。これは、「天平(テンピョウ・テンヒョウ・テンヘイ・あまだいら・あまたいら)」とヨメ、「宝字(ホウジ・たからあざ・たからあさ)」とヨメるであろう。 天平・宝字・ 八年・九月 ・ 十八日 ↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓↓ 天並・邦字・ 葉撚・句画図・壱拾八日(位置、重、葉、似知) ↓↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓ 和字 把捌 矩画柘 中=仲 しかも、西暦では「764年」であり、 7+6+4=17・・壱 拾 七・・・・・1+7=8(捌) ↓ ↓ ↓ ↓ ・・・イチ(市)、ジュウ(重)、シチ(漆) 葉知 7×6×4=764・壱 百六 拾八 ↓ ↓↓ ↓↓ 一 釈賂句 重把知 一 昔録 中琶地 位置借録 重巴置 168・・1×6×8=48・四 拾 八 シ(肆)、ジュウ(足)、ハチ(捌) 1+6+8=15・壱拾五 15・・1+5=6=陸 48・・・・・4×8=32=参拾弐 4+8=12=壱拾弐 32・・・・・3×2=6・陸 3+2=5・五 12・・・・・1+2=3・参 である。この数字を「漢字数字」と「同音異字」に変換すれば、 8=「八・捌=ベツ(部柘)・やつ(奴 ・耶津)」・・・未(羊)支 7=「七・漆=シツ(詞柘)・なな(那名・名拿)」・・・午(馬)支 6=「六・陸=リク(裏句)・むつ(陸奥・武津)」・・・巳(蛇)支
ロク(録 )・むつ(陸奥・ム椄) 5=「五・伍=ゴ (語 )・いつ(乙 ・何時)」・・・辰(龍)支
4=「四・肆=シ (録 )・よつ(與椄・預都)」 3=「三・参=サン(纂 )・みつ(御津・箕津)」・・・寅(虎)支 2=「二・貳=ニ(似)・ふたつ(府他津・武龍)」・・・丑(牛)支 である。・・・「一音」で「漢字」を選択すれば「無数」に採れるが、ここは「現存・古事記」解読として「無数」に「トッテみる」のである。年号が「天平・宝字」である。 天の平・・・テン(あま) ヘイ・ピョウ(たいら) ↓ ↓ 店(みせ・たな)に並(なら)ぶ 典(のり)に 綴(と)じる 点に 描(えが)く 展じて 評(ヒョウ)する 添じて 標(ヒョウ)する 貼じて 表(ヒョウ)する 填じて 票(ヒョウ)する 転じて 豹(彪・ヒョウ) 転じ 睥睨(ヘイゲイ・にらむ) 「店に並ぶ」のは「品(ホン・ヒン・しな)」で、「本、稟、支那(科・詞名)」である。「店を閉じる」のは「呉の暮れ、夕方」である。「(教)典に綴じる」のは「仏か神の教え」である。「ノリ(糊)で閉じる」のは「書籍」である。「ノリ(海苔)」で巻くのは「寿司」か、「オニギリ」である。「ホシの点々をアワセ、描」いて図形を観るのは「星座」である。「展示、展開して評する」のは「絵画、書画、陶器等の芸術作品」である。「色の添加」、「札の添付」、「試験の添削」、「添書に標」するものは「札(ふだ)」である。「標示板に貼じて表するモノ」は「成績・叙勲」である。「不足を填(実)して票する」とは「印刷した小札」である。「転じて豹」にするとは「君子豹変」で、「豹・彪・虎」の「表偏(比様)右辺」である。「兵藝」とは「軍事技術・軍略(戦略)、軍術(戦術)」で、場所なら「兵庫・安芸」である。 宝の字・・・たから(ホウ) あざ(ジ)=唖座(おしざ=押挫) ↓ ↓ 寶=財 字=痣・阿座・朝・麻・浅・安佐・旦・厚狭 たか=(鷹・孝・多可・隆・多寡・嵩・尭・多化・他加・田価)+ら(等) + ら・ラ=羅・螺・螺・拉・・ =ホウのジ=法事・報時・奉事・方字・訪地・鳳璽 「あざ=(字)」が、「唖(ア・おし)の座(ザ・ざ)」であれば、「押の挫」で、「恵美『押勝』」の「挫折の年」である。 「天の平・宝の字・八年九月十八日」である。岸俊男氏によれば、正確な西暦に換算すれば、「764年十月弐拾壱日」に当たるそうだ。 『恵美押勝の乱』とは何であったのか・・・? 確かに「称徳・孝謙上皇(安倍)」に対する「宰相」であった「藤原仲麻呂(仲満)」のとの戦い(叛逆)ではあったが、二人とも「藤原氏」の血縁である。 「光明皇后(安宿媛・光明子)」からみれば「称徳・孝謙女帝(阿部)」は「聖武天皇」との間の「娘」であり、「藤原仲麻呂」は、彼女の「兄」の「藤原武智麻呂」と「安倍朝臣『貞吉』」、あるいは「安倍『真虎』」の女(むすめ)、「貞媛」との間に出来た子供で、「甥」である。・・・「藤原一族」の「確執」である。だが、「称徳・孝謙女帝」は『阿倍(阿部)・内親王』と記録され、『藤原仲麻呂』の母親も『安倍』氏である。「安倍」は「大化改新」の「左大臣・安倍倉橋麻呂」の血族で、彼の母は「安倍・朝臣・御主人(みうし)」の「外孫」らしいのだが・・・。「文武、元正天皇」の母「元明天皇」も「阿閇(あべ)」と記録されている。「閇=閉(?)」 |・・武智麻呂(長男) ・・豊成(長男) |・・仲麻呂(次男) 藤原不比等・・・| ・・宇麻合(三男) | |・・・安倍貞媛(嫁) | | 橘 三千代 ・・光明子(妹)= (安宿媛・藤三娘) | |・・・・・・・・・称徳・孝謙女帝(阿倍・阿部) 聖武天皇
藤原不比等生
斉明天皇五年(659年)~養老四年八月三日(720年9月9日)
別名 史諡号 文忠公、淡海公
官位 正二位右大臣、贈正一位太政大臣
主君 天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇
氏族 藤原氏
父=藤原鎌足
母=与志古娘
兄弟 定恵
氷上娘、 五百重娘、耳面刀自、斗売娘
妻 蘇我娼子、五百重娘(異母妹)、賀茂比売
県犬養三千(道)代=橘三千代・・・県(懸る)、犬を養(やしなう)一族?
子 武智麻呂、房前、宇合、麻呂
宮子、長娥子、光明子、多比能 不思議なことに、私の持っている漢和字典には『閇』の漢字は見あたらなく、ワープロには「閇」があり、しかも「日本人物総覧(㈱)新人物往来社・昭和四十八年六月二十五日発行」には『元明天皇』は『阿閇(あべ)』と記録されているのだ。「阿閉」ならば「阿」の「閉門」で、・・・「阿」の「閇=門+下」は「阿の門下」ではある。私の考え方をすれば、「阿蘭陀(おらんだ)」の門下生の『閉門、蟄居(帙去・窒拒・膣拠・秩嘘)』して自殺したのは・・・『尚歯会』の主要メンバーで、「慎機論」、「西洋事情御答書」、「鴃舌或問」を著作した「尾張・渥美半島・三河国・田原藩」の江戸詰め家老となった『渡邊華山(登・子安)』であった。
親戚かどうか知らないが「渡邊守綱」は「徳川家康」の「十六将の一人」で槍の名人で、後に「尾張義直」に仕えた。「渡邊数馬」は「荒木又右衛門」に助けられ、仇討の本懐を果たした。「渡邊銅意」と「渡邊正次」は親子で『鋳金師』であった。子供の「正次」は「弘前・津軽藩」に仕えた人物である。「天暦三年」生まれの「渡邊綱」は「酒天童子」を退治し、「羅生門」で『鬼(茨木童子)』の片腕を切り落とした武将であった。 スナワチ(乃=廼・野・埜=素名話遅)、「風土記」、「源・古事記(?)」に関係したと言われる「元明天皇」、「元明(もとあき=模図亜紀・ゲンメイ=言明・厳命・『懸命』)」+「天皇(テンコウ=天候・転向・転校・『填稿』)」は「蘭学者の閇(門下)」に掛けられており、同時に和名、和訓の「日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしるとよくになりひめ)」にも掛けられている、である。どうやら「天皇(すめらみこと)」は、恐(虞)れオオクも「現存・古事記」の「守女羅診拠菟(諏女裸巫渡=猿女・宇受女)」のことらしいのだが・・・ 「日本」は「にほん・にっぽん・じっぽん・カホン・ヒホン」とヨムなら、 「似本・爾(字)柘本・時津本・華本(化本)
・比本(卑本・肥本・火本・氷本・秘本)」である。 シカラバ、 日本 根子 天 津御 代 豊 国 成 姫 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ やまと・ ねこ・ あま・ つみ・ しる・とよ・くに・ なり・ ひめ 哉真途・ 音拠・ 阿部・ 罪 知留・豊 ・句似・名理・比女(秘) ↓↓ 阿毎=海部=海女=尼 日 本 根 子 天 津 御 代 豊 国 成 姫 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ビ・ホン コン・ シ・テン・ シンオンダイ・ ホウコク・ セイ・ ヒ 備・香 港 ・ 視 点 ・審 遠 大 ・ 報 告・ 正 否 (日 本 港) (史 典) (清 怨 戴) (報 国) (成 否) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ (備 本 頁) (始 点) (唇 音 他意) (補得胡句)(西 彼) 「日本書紀(720年)」や「古事記(712年)」がこの「年号」通りに存在し、「日本根子天津御代豊国成姫」=「やまとねこあまつみしるとよくになりひめ」と「訓」で「ヨマレテ」いたとしたら、怪しいと云うものだが、この「漢字転換」の意味は単なる「私のワープロ・アソビ」である。だが、もし(if)、「ビ・ホンコン・シテンシン・オンダイ・ホウコク・セイヒ」と「音」で「ヨマレテ」いたら、『香港』、『天津』、『北京(燕京)』事情を少なくても知っていた「江戸時代」の「誰かの遊び」であったカモ・・・ちなみに『阿』には『太阿(タイア・宝剣・王莽の時代の官名)』、『阿衡(アコウ・殷の時代の湯王の宰相の伊尹=イイン)』の熟語がある。「アコウ」とは『塩のトラブル』でお家が断絶した『浅野長矩・匠守』の『大石良雄・赤穂浪士(四十七士)』の「赤穂」だ。彼らは「元禄十五・壬午(1702)年十二月」に『吉良義央』の首を討ち取ったのだ。「記羅(裸・螺・拉・・)、構図懸の素の懸」をウチトルである。しかも、中国では「明史」編纂、『萬斯同』が死没した年である。 ・・・「西暦1842年」、「清王朝・宣宗・道光二十二年・『壬寅』年」は「1840年」の「清王朝・宣宗・道光二十年・『庚子』年」に「イギリス」と『阿片』戦争を起こし、その結果として「南京条約」を締結した年であった。その結果として『香港』の割譲、『上海』、『寧波』、『厦門』、『広州』、『福州』の『五港』を「開港」したのだ・・・『阿片(opim)』とは『麻薬(drug)』である。『大麻(hemp)』とは「ハッシシ(hashish)」、「マリファナ(marijuana・marihuana)」、「アサシン(assassin・暗殺者)」である。『幻覚作用を起こす植物』ではあるが、『華岡清州』も研究した「痛み止め」の『麻酔薬』でもあった。『コケイン(cocaine)』は『歯痛薬(止痛薬・私通厄?)』である。 なるほど、「司会」も「歯科医(dentist)」もいたハズの「蘭学者」の「斯界・史家遺」の『尚歯会』ではあるな。 『阿片(アヘン)』・・・・・・・・ア の編 (返・辺・変) 吾編 「清朝(シンチョウ)」・・・・シン の朝 (調・重・聴・長・帳) 新 調 =伸張・深長 「宣宗(センソウ)」・・・・・セン の宗 (総・草・叢・捜・シュウ) 戦 争 =船倉・船窓・撰修 「道光(ドウコウ)」・・・・・ドウ の項 (交・頁・稿・敲) 動 向 =同行・同好・同校・瞳孔 「二十二(ニジュウニ)」・・・ニ の重爾(従事・十字・中事) 二重 に=廿似・・・・甘 『壬寅(ジンイン)』・・・・・・・ジン の寅 (胤・韻・音・引・因) 人 員 =尋音・神韻・陣引 『庚子(コウシ)』・・・・・コウ の子 (史・詞・始・支・誌) 合 志 =後嗣・孝子・高士・厚志・講師・後肢・公司・『尚歯』 「南京(ナンキン)」・・・・・ナム の京 (教・経・鏡・協・橿) 軟 禁 =名務巾・拿武金 『上海(シャンハイ)』・・・ジョウの海 (会・諧・改・開・解) 社 務拝=写務葉意 『寧波(ニンポウ)』・・・・・・・ニン の波 (葉・頗・把・般・歯) 忍 法 =認邦・任邦・妊豊・仁法・認法 『厦門(アモイ)』・・・・・・・・ア の門 (問・文・紋・聞・悶) 阿模意 =亜模意・阿母移 『広州(コウシュウ)』・・・・・・コウ の州 (集・周・習・修・讐) 講 習 =公衆・甲州・口臭 『福州(フクシュウ)』・・・・・・フク の州 復 習 =復讐 『五港(ゴコウ)』・・・・・・・・ゴ の港 御幸 =後光・呉皇・語交 「開港(カイコウ)」・・・・・・・カイ の港 開 口 =開校・開講・海港・回航・『開港』 『西太后(1835年~1908年)』は「清王朝」の『咸豊帝』の妃で、欧米人には「Empress Dowager(エンプレス・ダウェジャー)」と呼ばれ、別称は「懿貴妃」、「孝欽顕皇后」、「慈禧皇太后」、「老仏爺」とも呼ばれた女性権力者であった。 漢和字典には『咸豊帝』の『咸(カン・ゲン)』は、 「みな・すべて・ことごとく・おなじ・おなじにする・あまねし・ゆきわたる・やわらぐ・心を一つにする・易の艮下兌上で陰陽が互いに感じあう象」 とあり、熟語の「咸陽・咸京」は「秦の都。長安の別称。孝帝の時に都としたが『楚の項羽』に焼かれた。唐代、南西(坤=未申)の郊外の『渭水に架けた橋』の名前が『咸陽橋』で、『西方』に通じる要路であった」と記されている。『渭水(ウェイスイ・ワイスイ・イスイ)に掛(か)けた葉詞(はし・梯)』で、「ワイスイ=話移素意・倭遺素出・和委推(古)」であり、「渭陽(イヨウ)」は「母方の伯父(叔父)」、「渭陽情」は「母方の伯父(叔父)を思う情(ジョウ・なさけ=名差懸)、あるいは母方のオジが甥(オイ)や姪(メイ)を思う情(ジョウ・なさけ=拿作化)」である。「偉容(威容・移用・壱与得・医用芋・伊豫胡)の嬢(娘)」ならば「女帝」である。「渭濱(浜)=イヒン(遺品)」とは「『周』の文王の名宰相の『太公望・呂尚』」のことで、「周(シュウ・チョウ)」の「名大臣」だが、「女房に逃げられ、失業して釣りで暇つぶし」をしていた老人ではあるなッ。「鯛(チョウ・たい)」を釣ったか、どうかは知らないが、「鯛の対陣(対人・退陣・他意尋)」は「古事記・『乙媛』様が居る竜宮城で、『山幸彦』が借りた『釣り針』が『咽喉(のど=能登・能都)』に刺さった『鯛(たい=碓=ヤマトタケル)』」の苦しみであった。 『安倍真虎(貞吉)』の「孫」の『藤原仲麻呂』は、『藤原武智麻呂』の「姪」であった『称徳・孝謙女帝』の「メイ大臣」であったのだが・・・。 「左大臣・阿倍倉梯麻呂」の家系で、「阿倍御大人(みうし)」の血統(?) ↓ 「阿倍御大人」は『布勢・朝臣』と呼ばれ「右大臣」として「大宝三年」 に死没。 「布勢=ふせ=伏せ・臥せ・布施」 ↓ 孫・・祖父・・・・・・・・甥のオジは誰? ↓ ・ ・ ↓ 安倍真虎(貞吉)の娘「貞媛」 |・・・・・・・・『藤原仲麻呂』 藤原不比等の・・息子「武智麻呂」 藤原不比等の・・・娘「光明皇后」 |・ ・・・『称徳・孝謙女帝(阿倍内親王)』 「聖武天皇」 ・・・・・・・←姪・・伯父→・・・・・・・ ちなみに『西施(西子)』は「春秋時代の『越』の美女で、後に『呉王・夫差』に仕えた傾城の女性」であった。ついでに『西施棒心』とは「荘子・天運」にある言葉で、「病(やまい)の『西施(西子)』をマネ(真似)て、オンナは胸に手を当てて『シカメ(顰)っ面』をすれば美人に見える」と言う意味である。・・・この意味は、 『耶麻意(ヤマイ=邪魔彙・邪間移・邪馬遺)』の 『整枝(セイシ=正視・誓詞・西史・姓氏・声詞・正史・生死))』を 『真音(マネ=摩根・磨子)』て 『音名(オンナ=音拿・音納・怨納・御名・遠那)』は 『旨(ムネ=棟・宗・鵡音・六音=陸奥)』に 『出(テ=弖・・・載=綴=帝=定=梯=鵜=貞=偵=逓=鼎)』を 『当(アテ=宛・充)』て 『詞化目(シカメ=鹿眼・志賀女・史家眼・詩歌女・歯科女)っツラ』 『都津螺(ッツラ=柘柘・・筒羅)』をすれば、 『日人(ビジン=鼻人・毘人・火人・備人・尾人・琵人・梶人・薇人・眉人)』 に見えるのだ。『備字務』、『美辞務』、『美事武(牟・矛)』、『日事務』である。 ・・・『西太后』の賢臣、『欽差大臣・林則徐』が苦悩、奮闘した『阿片(アヘン)戦争』、『第二次阿片戦争(アロー号事件)』の「日本への情報(?)」である。そして、見えて来るのは「同音異字」の歴史的「類似(類字・累次)」事件の重なりである。 「清王朝」はその後「太平天国の乱(長髪賊の乱・キリスト教信仰の『洪秀全』の反乱)・道光三十年・庚戌年(1850年)」が起き、同年、日本では『シーボルト』の高弟、「蘭学者」の『尚歯会』の『高野長英(譲・瑞皐)』が縛吏に「殴殺」されたのだ。そして、「アロー号事件(第二次阿片戦争・1856年)」の結果、ロシアとの「愛琿(アイグン)条約(文宗・咸豊八年・戊午年・1858年)」、同年「天津条約」を結んだ。そして「北京条約」もまた、「文宗」の「咸豊十年・庚申年・1860年」に結ばれた。いずれも「中華」の「西夷(欧米植民地主義)」に対する屈辱的な屈服の締結条約であった。同年、日本では「桜田門外の変」で『井伊直弼』が暗殺された年であった・・・「萬延元年の蹴球」とはネッ・・・「1960年」は『日米安保条約締結』であった。そして、「女王の死」、「カンバミチコ」は「殴殺」されたのだが・・・。 「藤原 仲麻呂(恵美押勝)」と「古事記」(2)・(33x) とにかく、「古代史」から「江戸時代」までに登場する『阿倍(阿部・安倍・安部)一族』の存在とは「一体、何(?・・・南・難・軟・男・楠・名武・名無・拿務・納夢)」、であるのか・・・「拿(拏)破崙=ナポレオン」・・・「仏国皇帝」・・・簿納葉留斗・・・。 『阿倍御主人(みうし)』は『布勢(ふせ)の朝臣(あそん)』と呼ばれ、「大納言」から「右大臣」に昇進し、「大宝三年(703)」に死亡した人物である。 「布勢(ふせ)」の同音異字は「布施」、「伏せ」、「臥せ」の、「阿孫」か「チョウシン(長身・聴診・調進・長針)」、あるいは「阿存・阿蘇武」、「娃・(帯方郡太守・弓・の娘?)」、「蛙存(かえるあり=変える孫氏)」、「唖・祖・武(おし・おや・む=押しの親は武=押、将也、緒哉、夢・務・武)」である。「恵美押勝」の「親(祖=不比等・武智麻呂)の夢」である。 丁重にも岸俊男氏の著書によれば「阿倍一族」は「布勢(ふせ=伏せ・臥せ)」、「久努(くの=句之)」、「長田(おさだ=訳語田=譯語多)」、「狛(こま=独楽・駒・小間・高句麗)」等に分家していたとある。 ①『阿倍倉梯麻呂(内麻呂)』は大した役割もなく「大化改新(645年)」の「左大臣」であった。240年に「邪馬台国」に派遣された「帯方郡・建中校尉『梯儁(テイシュン)』」の縁籍か?・・・「儁」は「秀才、才能、能力」を意味するのダガ・・・「梯(タイ・テイ・はしご・きざはし)」は「手引・案内・導き」と漢和字典にはある・・・「句・の手引の真の賂」である。 彼は「孝徳天皇・649年・大化五年三月乙巳日」に死没しているのだが、そのすぐ後(三月己巳日=干支の乙巳~己巳までの日数は二十五日後=弐拾五日後)に「右大臣」の『蘇我倉山田石川麻呂』が反乱の疑いで自殺している。生き残っているのは「内臣」の『中臣鎌子(藤原鎌足)』である。・・・「弐拾五日後=二重語(悟・期)・日後」の示唆である・・・ハズ(?)だが。 ②「阿倍『比羅夫』」は「蝦夷地」を征伐した「水軍」の「提督」であった。だが、「日本書紀・斎明天皇・四年」には『比羅夫』とは記録されず、ただ「阿部臣[名を闕(欠)せり]」とある。そして後の記録に「[或本に云ふ、『阿倍引田臣比羅夫』、「粛慎」と戦ひて帰り虜册九人を献(獻)る]」とあるのだが、同一人物かどうかは『不明』である。しかも、「白村江の海戦(663年・天智二年八月戊申)」、その「三月」には「後の将軍『阿倍引田臣比邏夫(枚吹)』」は「新羅討伐」に派遣された記録はあるが、「八月の戊申日」の「海戦の現場」にはその「活躍の名前」が存在しないのだ・・・「今聞く、救将『盧原(いほはら)君臣』が来る」と言う「新羅が得た情報」としての記録と、『朴市(えち)田來津』が奮戦して戦死した記録である・・・『朴市(えち)田來津』とは「孝徳天皇・645年・大化元年九月戊辰日」に吉野で反乱を起こしたと記録されている『古人大兄皇子』に荷担した『朴市(えち)・秦造・田來津』と同一人物であろうか?「秦造」の漢字がないだけなのだが・・・『古人大兄皇子』は「吉備・笠・臣・垂」に裏切られ、密告されて、一族は殺された事(?)になっているが、荷担したとされる『朴市・(秦造)・田來津』は「白村江の海戦(663年・天智二年八月戊申)」まで生きていた事になる。・・・彼が『中大兄皇子』のスパイであったなら、ナルホドなのだが・・・とにかく、「『阿倍』提督の戦艦」は撃沈されてしまって、「記録」されるまでもなかった、のか?・・・「阿倍比羅夫」の子供には『藤原仲麻呂』に『綴術(算数・高等数学=代数・幾何学)』、『天文学』を教えたとされる『阿倍少(宿奈)麻呂』がいる・・・そして、同時に「大海部皇子(天武天皇)」の所在もこの時期の記録に登場しない。ただ、 「熟田津(にぎたず)に、船乗(ふなの)りせむと月待てば、 潮(しお)もかなひぬ、今(いま)は、漕(こ)ぎ出(い)でな (萬葉集・巻一・八)」 の『額田王』の和歌があり、彼女は「大海部皇子(天武天皇)」の「愛人」であったらしいので、一緒にいたカモ、と言う、そのアリバイの解釈があるだけである。スナワチ、「日本書紀」では「斎明天皇七年(661年)正月丁酉日」に百済救援の船団を発し、「大海部皇子」の「妻」で、『中大兄皇子』の「娘」であった『太田皇女』がこの船団に乗船しており、『大伯海』で『大伯(おほく・大來)皇女』を産んだ日が「甲辰日」であった。その後日、船団は「庚戌日」に「伊豫の『熟田津(にぎたず)』の石湯」に停泊した、と云う記録である。『額田王』の和歌はその時の作であろう、と云うものだ。だが「大海部皇子(天武天皇)」の名前は記録されてはいない。記録されているのは「五月乙巳日」の『耽羅(とら)島』の皇子、『阿波伎(あはき)』である。 『太田皇女』は『天武天皇』との間に「第三子」として『大津皇子』も産んだのだが、この皇子が「九歳」の時に「壬申の乱」に参加、活躍したと言われ、そして、父親が死没した「686年(朱鳥元年)・九月戊戌日」その「十月戊辰日」に謀反の企てありとして、母親の「妹」である『持統女帝』に「十月庚午日」に『訳語田の舎』で殺されたことになっている。「壬申の乱」の時『太田皇女』は何処で何をしていたのかは不明である。そして、『大津皇子』が殺された時に錯乱状態で悲しみ死んだのは妃の『山辺(邊・部)皇女』であった。『太田皇女』はどうなったのか?・・・戦国時代に「扇谷・上杉定正」の家臣で『太田道潅(資長・持資)』が存在するが、「1432年(永享四年)」に生まれ、「1457年(長禄元年)四月」に「武蔵江戸城」を築き、「1486年(文明十八年)7月」に讒言、中傷を信じた主人の「定正」に「相模国・大住郡糟屋の邸の浴室」で暗殺された人物である。「五十五歳」であった。時代の天皇は『後土御門天皇』であった。・・・そして『大津皇子』に荷担したとされる『帳内・砺(蛎)杵・道造=とねり・とき・みちつくり』だけが「伊豆」に流罪となったのである。・・・「帳内=巾は長い冂(ケイ・キョウ・まきがまえ・けいがまえ)の人(ヒト=比拓・日渡・肥都・火都・卑与)」で、「チョウナイ=中内・帖内・町内・長の亡い=重名意」、「調拿異」、「とばり、うち=帷の家(中)」である。歴史上、『垂簾の政治』として名を馳(ハセ)せた人物は『則天武后』である。そして、後に『藤原仲麻呂』が『紫薇中台の内相』であった時に起こった、「橘奈良麻呂の乱(757年・天平宝字元・丁酉年・7月)」によって「伊豆・三嶋」に流刑されたのは『天武天皇』の孫で、『新田部親王』の子供であった『氷上・塩焼王』であった。中国では『安禄山』死没。『氷上・塩焼王』は許されるが、更に「『藤原仲麻呂』の乱(764年・天平宝字八年九月)」の時に『藤原仲麻呂』自身に擁立された「天皇」となってトバッチリを受け死没した人物であった。 「672年」が「壬申の乱」であるから『天武天皇(大海部皇子)』と『額田王』の間に出来たと言われる『大友皇子』の妻であった『十市(といち)皇女』はこの年、661年から何年目?かを単純に計算したら・・・672-661=十一・・・「重位置」、「中位地」、「従位置」、「獣位置」、「住位置」、「従市」、「受胡医治」、「拾位置」とはネッ。 ③秀才「遣唐留学生(716・霊亀二年)」の『阿倍仲麻呂』は「唐(周)」の『玄宗』に遣え、「秘書監兼衛尉卿(従三品)」として活躍。753年、暴風雨で帰国出来ず「安南」に漂着。日本で活躍する事なく、「粛宗」と「代宗」に『鎮南都護』として仕えた。在唐五十四年、この間『靜夜思』で有名な『李白(太白)』や、『竹里館』の『王維』と交友。『李白(太白)』の「靜夜思」は、 牀前看月光 疑是地上霜=照、全(前)巻、外柘交。欺背、知、上奏 拳頭望山月 低頭思故郷=検討、望、纂、解柘。綴、唐史拠、挙有 である。『阿倍仲麻呂』の漢詩は「文苑英華」に載る。「770(大暦五・庚戌)年」、「光仁天皇(白壁皇子)」即位の時(六十五歳)に唐の地で死没した。『阿倍仲麻呂』は唐王朝ではその名前を『朝衡』と言われた。ちなみに「光仁天皇」の皇后には『高野新笠』が存在したのだが。「笠=加佐・リュウ(劉・龍・柳)」である。 ④ 安倍真直』は平安前期の「京都左京」に住んだ「医者」である。「808(大同三)年」に『出雲広貞』と共に日本最古の医学書『大同類聚(壱百巻)』を編纂した。「811(弘仁二)年」に「主殿頭兼豊後守」。ついで、「左少弁」となった。 ⑤『安倍清明(921~1005年没)』は「土御門家の祖(暦術家)」であり、「陰陽・推算・識神」の「占い師」であった。 ⑥『安倍頼時』は東北奥羽の「俘囚の長」で「前九年の役」で「源頼義」によって「鳥海の柵」で戦死させられた。 ⑦『安倍貞任』は『安倍頼時』の子供。「衣川の戦い」での「源義家」との歌のやり取りは有名。「厨川柵」で戦死。 ⑧『安倍宗任』は『安倍貞任』の弟。別称『鳥海三郎』。捕虜となって「伊豫」、「太宰府」に流刑された。その後、僧侶となって「筑紫」に住んだ。 ⑨「新羅の吉士舞い」を監督した一族として「阿倍」氏が存在し、「吉士」とは「外交文書」を扱った「一族」で、「日本書紀」には数人が記録されている。だが、『新羅の官名』ともある。 ⑩『福山・阿倍家』は「備後・福山藩」。江戸城の詰所は「帝鑑の間」。 ⑪『柵倉・阿倍家』は「陸奥・柵倉藩」。江戸城の詰所は「雁の間」。先祖は『大彦命』と云う。 ⑫『阿部正弘』は十八歳で「⑨の福山藩主」となり、二十四歳で『水野忠邦』に代わって『天保十四年(1843年)』に「老中首座」となる。「安政四年(1857)年六月」に三十九歳死没。同年の二月には「オランダ商館長」の『クルチウス』が「アロー号事件」を報告。五月には「アメリカ総領事」の『ハリス』と「下田条約」を締結。である。①~⑫までの歴史的な流れ、スナワチ、「現存・古事記」の示唆は「⑫」そのものを基礎に据えて、幕末の国情に対する「危機感(キキカン)」を訴えているハズなのだが・・・?・・・もう一人、「1827(文政十)年~85(明治18年)」に存在した『阿部茂兵衛』は福島県郡山で『小野屋』の屋号で「安政の開国(1854年)」により「生糸貿易」でボロ儲けした豪商であった。・・・ナラバ、「古事記」の「712年」は・・・ドウナルの? 「アベ」には「安倍・安部」と「阿倍・阿部」の漢字が使用されるが「読み方」は、
安部(アンベ・アンブ・やすべ・やすぶ・アブ・阿部=おぶ=みず(水))
↓ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓
按 分・鞍 部・耶統べ・夜守部・虻 ・将武
↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓ ↓↓
暗 部・案 文・埜諏部・康 武・阿武・ ・帯ぶ(せおう・施王)
↓ ↓
阿 フ=阿父・阿夫・阿婦・亜府
↓
阿=女性の名前の上に付く時は「お」
↓ ともヨム。例は『出雲阿国』
↓ 噫乎(ああ)=感嘆悲哀の息音
↓ 意富(おほ・イフ)=於保=多 =太(タイ)
↓↓
他意
安倍(アンバイ)=案配・按排・按配・塩配
である。「あんばい」とは調味量、特に「塩・鹽・鹵」の「舌加減」、「味覚のバランス」で、「モノごとの調和のとれた状態」である。
「阿倍倉梯麻呂」は「左大臣」であったから「左党(砂糖)」の「差等」の要でもある。『左(ひだり)』は『ヨコシマ(邪=横島)』とも訓(よむ)のだ・・・ワカってくれるかな?・・・ワタシ(ム・私)の謂いたいコトが・・・。 そして、『阿毎(アマイ)』の記録は「隋書・・国伝」にある「阿蘇山」が見えるところの「大王」の「姓」であった。「九州の王」である。 「安倍」の示唆は、 「安=宀+女=ウ+メ(おんな=音名)=うめ・・・得音名 =梅・楳・埋・生・産・膿 =烏目(眼)=烏丸・・・・・・・・・「烏丸(桓)族」 =兎眼=赤目=朱眼=垢女・胡女)」 であり、「安(アン・やす)」の漢字分解が示唆するモノは「う・ウ」と、「おんな・オンナ」の意味である。単純に「う」の同音を地理として考えるならば「九州」の「豊国・大分県・『菟狭』・宇佐(うさ)」か、「肥国・熊本県・『火葦北』・宇土(うど)」である。私には何故、「明治政府」が「大分県」の名称漢字を「おおわけ」、「ダイブン」とはヨマセずに、「おおいた(おほいた)」とヨマセて使用したのかを納得したいところであるのだが・・・
スナワチ、私流の解答は、
安部(あべ)= 阿倍(おばい) = 阿部(おぶ) =『大分(おおぶ)』
↓↓
『大夫(タイフ・だいぶ・たゆう)』
・・・辞典を診られたし
『乃父(だいふ)』 『大部(タイブ)』 『腿部(タイブ)』
『太分』=『於保』=『意富』=『妖富』=『太』=『多』
『他意分』=『台分』=『鯛憮』=『対部』=『帯分』=『替分』
であり、
『dictionary(辞典・字書・《出句書名理》)』
の
『タブ(tab・耳・見出し・索引・《多符・拿付》)』によって記録分類された言語の
『タイプ(type・型・《他意符》)』で、
「意図(異図・伊都)」的に重ねられた「漢字」ではないのか。
『大義名分』の「同音異字」とその意味の解釈である。
幼児語の「おんぶ・おぶ」とは「音分・帯ぶ(背負う)」であり、「おぶ」とは「水」のことで、英語ならば「water(ウォター・ワァター《魚多・雨蛙多・倭阿多・環阿侘・わた=綿・棉・渡・話詫》)」、「off(制限・禁止・とめる)」か、「of(接続詞の『の・乃=スナワチ』)」である。
「県」は昔の「戸籍簿」を診ると「○○懸」と言う漢字を使用しているのだ。「掛ける」である。 勿論、「懸」けられているのは「藤原仲麻呂」と「阿倍内親王」の時代の事件、「白村江の海戦」、「壬申の乱」、「平家滅亡」、「鎌倉幕府滅亡」、「南北朝の争乱」、「戦国時代の争乱」、「江戸時代の一揆・争乱」等や・・・そして、「現存・古事記」の基数、奇数、帰趨の原点は・・・「倭人伝の乱の壱」と『阿蘭陀の覧』の「乱(亂)数」、『婪数(ランスウ)』、「覧雛」、「卵雛」をである。
さて、『烏丸』とは紀元前二世紀頃から活躍し出す中国北東部の北方種族で、類似する名前の『烏孫』は中国の北西、「西域」の北方、『イリ(伊列)川』を挟んで存在した種族である。「イリ(王朝)」の人脈、水脈は何処に流れ込んだのか?・・・「バルハシ湖」である。そして地図を観れば、『匈奴』の『冒頓単于(紀元前209~174年)』の広大な領地の東に『烏丸』、西に『烏孫』が存在している。彼の死後、一千年後の「1174年」には「珍海(沈下意?)」が「光台院」の『文殊渡海図』を描いた、とされる年である。 「音」で採れば『隋書』とは「随所」、「髄書」、「瑞処」、「蕊緒(草木の花の花しべ=蘇胡模句の葉名の話部)」、「対書」、「頭遺書」、「水書」、「柘医書(図医書)」であり、「随神道(惟神道)」の「ズイショ」である。 「現存・古事記」の『伊邪那岐』が「女性」に産ませたのではなく、自分自身が「みそぎ(禊)」して生み出したのは「天照大御神(左の御目から生まれた)」と、「月讀(右の御目から生まれた)」、「建速・須佐之男(御鼻から生まれた)」であった。彼は「単性の父親」から産まれたクローンで、「母無き子」であるにも関わらず、「故哭(ココク)」した「建速・須佐之男」が「妣(はは)の國、根の堅州國に能らむと欲す」と解釈するのはバカである。漢和辞典には「妣(ヒ・なきはは)」は「亡母」で、「亡父」が「考(コウ・かんがえる)」と言う漢字の「対」と説明されているが、「妣考(ヒコウ=非行・肥厚・引こう・曵こう・弾こう・退こう・飛行)」の「比合・比号」で、示唆する意味は「同音異字」なのだ。「はは」は「把葉=言葉の把握」であり、「妣=女+比=オンナをクラベル=音名を比較」であり、「亡母=亠(音の略)+乙(イツ・イチ・オチ・オツ・おつにょう・おと・きのと・かがまる・きしる・魚のはらわた・魚のあご・ひとつ)」か、あるいは「ゝ(チュ・てん・ぼち・灯火・主の古字)+匸(ケイ・ゲイ・かくしがまえ・かくす・覆い隠す)」の「ボ・も」である。「母」の類字は「毋(カン・なかれ」で、「なかれ(い)=仲例・衷例・流れ」であるのだ。・・・『毋丘倹』は「237年」に登場し、『公孫淵』と戦った「魏」の「幽州刺史」であった。・・・父親の『伊邪那岐』は「大忿怒詔」して、その後「坐淡海の多賀也」であるから「近江の国で死没し、鎮座」したのだ。「近江の國」とは『藤原武智麻呂』、『藤原仲麻呂』の「領国地」であった。 物語の確執は最初は姉と弟であり、「女の姉(左)」と「男の弟(中)」、次には追放された「男の弟(中)」と「女の妹(右)」であった。
「天照 大 御 神(太陽・日)=テンショウダイオンシン=典章代音審(診)」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
天 象 廼 音 信 「建速(たけはや)」
ケンソク =検束・懸足・懸塞・懸則・懸素句
「須佐之男 (海 ・塩)=シュサシナン =主査指南 =シュサシダン =主査史談 =ス サシナム =諏唆史拿務(談)」
の対立であり、原文の
『振滌天之眞名井而、佐賀美迩迦美而、於吹棄氣吹之狭霧所成神御名』とは
「サガミにカミにカミ砕いた戦い」で、
「付記、素の柘に留、意分記の、詐欺の理の名の例に留る、カミの音名」の
「『各宇氣比而生子』=較、誓約(うけい=右傾)の字の有無の詞」であった。
その後、「弟=建速・須佐之男」とのトラブルで「姉=天照大御神」は死亡し、「岩穴=アナグラ(ム)」に葬られ、「蘇(甦え)る=よみがえる(読み変える)」のである。
・・・キリストの噺ではあるが「性別(セイベツ=生別・聖別・所為別)」である。
「大化改新」の王政の組織で云うならば「左大臣=阿倍倉梯麻呂(萬侶)=阿部内麻呂」と「内(中)臣=中臣鎌子=藤原鎌足」の確執であるハズだが、失脚したのは「右大臣の『蘇我倉山田石川麻呂(萬侶)』であった。あるいは後の時代に於ける「藤原不比等(右大臣)」、「藤原『武』智麻呂(右大臣)」に対立した『長屋王(左大臣)』、「藤原『仲』麻呂(紫薇中台長官、紫薇令)」を巡る『橘奈良麻呂(左大臣)』、『称徳女帝』との対立、確執ではないのか。 『藤原仲麻呂』の父親は『藤原武智麻呂』であった。『藤原武智麻呂』は『大学頭』となり、「707年(和銅元年)」~『712年(和銅五年)』まで『図書頭』であり、『侍従』を兼務したのである。『図書頭』とは「書籍・記録」の管理者の長官である。「記録文書の改作・変更」を自由に出来る立場ではある。『712年(和銅五年)』とは『古事記』完成の年である。しかも同年、『藤原仲麻呂』は「七歳」であった。『藤原武智麻呂』は後に生前の位としては「右大臣(従二位)」となって生涯を終えたのだ。スナワチ、「737年(天平9年・7月25日」に『赤胞瘡(天然痘・裳瘡=もがさ・豌豆瘡=エンドウソウ)』で死没したのである。 ならば、「月読命(右眼・月)」の役割は「何」であったのか?・・・当然にも「右大臣」である。「甦生・蘇生・組成」した「女王」+「左大臣」と、追放された「男の弟(中)=須佐之男(素戔乎)=スサノオ=措箋音顧」+「女の妹(右)=月讀命=『所知夜之食国、事依也(処置埜史書句顧句、示威也・侍医家・辞意家・字意哉・時位也)』=月夜見尊=暦、記録係りの組務」の確執である。 ・・・「月」=「菟(兎・卯)」=「豊国・宇佐」への特命は「孝謙・称徳女帝」時代の『和気清麻呂(汚麻呂)』であった。
「日本書紀」では『持統天皇』は「宇野皇女」とも「菟野皇女」とも記録されている「女帝(ジョテイ=序綴)」だ。
「月 読命 (右眼・ 月)=ゲツドクメイ
↓ ↓↓
解柘 努句名=月渡区名
↓ ↓↓ ↓↓ ↓ ↓↓
=外都 特 命・・・
下都督 筑 特命 =ガツトクメイ
=臥都 特 明 柘記匿名
=画柘 匿 名」
である。 さて、「藤原仲麻呂」の時代的状況の「類似性」が「現存・古事記」に伏線として記録されているようなのだが・・・モチロン、「卑弥呼(氷見化=氷味掛・日未化・比巳化=氷蛇化=『氷高』=『元正女帝』=みおば=姥・姨・澪場=水脈)」、「壱与(位地予)」、「張政(調整)」の時代を下敷にしてである。 この時代の「天皇家系図」の「名前」に疑問を抱く人はサイワイである。「名前」の「ヨミカタ」に「多用性」を気が付く人はサイワイである。そして、「六親(リクシン=理苦心・裏句審)」、「親(シン=診・疹)」、「兄弟(キョウダイ=拠宇内・嘘有代・鏡台)」、「姉妹(シマイ=仕舞・島位・死毎・始毎・史真意)」、「子(シ=詞・史・視・始・誌)」、「孫(ソン=尊・鱒・樽・遜・邨・存・蘇夢・甦務)」、「甥(ソウ・ショウ・セイ)・姪(テツ=綴・デチ=出地・出稚)」、「従兄弟(ジュウケイテイ=中掛綴・重刑定)・従姉妹(ジュウシマイ=重視磨意・嬬鵜施間位・呪有史真意)」、「祖父母(ソフボ=蘇譜簿・蘇普模)」、「嫁(カ=化・掛・耶)」、「舅姑(シュウコ=周子・集庫・宗拠)」の「ことば=読み方」を。
大友皇子(天智の息子)
額田王
| ・・・・・葛野王
|・・・・・・十市皇女
天武・・
┣・・・舎人親王・・・・・淳仁天皇
|
┣・ ・・新田部皇子・・・塩焼王・・・氷上志計志麻呂
|
┣・ ・・高市皇子・・・・・長屋王
|
┣・ ・・長親王 ・|
|
┣・ ・・大津皇子 ・|
|・・・草壁(岡本宮) ・|
持統(天智娘) ・ ・|
|
|・・・・・吉備内親王||
・・・・・・・・・・・・文武
|・元正(氷高)
|・・・・・聖武(武智麻呂・光明の甥)
天智・倭姫王 ・ | |・藤原宮子娘 ・・・・・・称徳(阿倍)
| | | ・ ・ イトコ(糸子=従姉弟)
|・・・・・元明(阿閇) |・・・藤原安宿媛(光明) ・
| | (聖武・仲麻呂の叔母) ・
| |・ ・藤原多比能
| | |・ ・ ・・・・・橘奈良麻呂 蘇我姪娘
| 橘諸兄 | ・・ イトコ(糸子=従兄弟) 藤原鎌足
・・・藤原不比等・・・・・・|
藤原武智麻呂 | 阿部比羅夫・・・・ 阿部少(宿奈)麻呂
|・・・・藤原仲麻呂
| (真虎の孫)
|
安倍倉梯麻呂・安倍御主人・阿部真虎・阿部貞媛 (阿部のオジは誰?)
「阿部・安倍・阿倍・安部」の存在の原典(原点)とは『阿毎』、『阿武』なのだが・・・
「卑弥呼(ヒミコ・ヒミカ)」の「邪馬台・同盟(童姪=壱与)=同名・同姪・道命」の「掛(懸)け」であるならば、
ヒミコ=比巫・・・
巫を比較 =氷見姑・・評(郡=こおり)懸戸
ヒミカ=氷見化・・
氷の変化を観る・・・水、水蒸気、気体 =氷味掛・・・
氷の味を掛ける・・・冷たい・冷気・寒気(換気・官記)
日未化・・日、未(いま)だ変化せず・比較、筆字(羊・日辻)の化
↓↓↓
比巳化=妃蛇化=清姫(道成寺の娘・愛媛=めご姫)・・龍(劉)
↓↓↓ ↓ ↓↓↓ ↓
ヒダカ=日高・肥田蚊・飛騨夏(懸) 笠(加佐)
↓↓↓ ↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓ 量
↓
襞 袈(衣服の細長い折り目と、
毛衣=法衣=袈裟=今朝)
↓↓↓
氷高 =元正女帝(現象・言声の序綴)
みおば=姨・姥
↓↓
澪 場=水脈・地下水
↓
井戸・泉 で、
「イト=糸・異図・意図・伊都・委土・移都・夷渡・帷戸・遺徒・医徒」である。当然、「イトはん」は『孝謙・称徳女帝(阿倍)』は「壱与」に「アナロジー(類推)」され、「トイ(戸井・問・樋・土肥)」として「アナグラム(文字の配列交換)」され、「王位簒奪者」として「アナドラレ」ているのだ。そして、『皇極・斉明女帝』、『天武・持統』、近くは『明治天皇(睦仁・祐宮)』の父親であった『孝明天皇(統仁・照宮)』にも・・・
「藤原仲麻呂(恵美押勝)」と「古事記」(3)・(33y) 「阿部」は、江戸時代の幕府閣僚、「老中」となった人物の姓名に記録されている。参考程度にあげておこう。 姓 名 官 名 所 領 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 「阿部正次」・・・・備中守・・・「相模・小田原」 「阿部忠秋」・・・・豊後守・・・「武蔵・忍」 「阿部重次」・・・・対馬守・・・「下野・鹿沼」・・1651年4月20日 徳川家光に殉死 「阿部正能」・・・・播磨守・・・「武蔵・忍」 「阿部正武」・・・・豊後守・・・「武蔵・忍」 「阿部正喬」・・・・飛騨・豊後守「武蔵・忍」 「阿部正右」・・・・伊豫守・・・「備後・福山」 「阿部正允」・・・・豊後守・・・「武蔵・忍」 「阿部正倫」・・・・伊豫守・・・「備後・福山」・・1788年2月29日 失脚 「阿部正精」・・・・備中守・・・「備後・福山」 「阿部正弘」・・・・伊勢守・・・「備後・福山」・・1857年6月
死没 「阿部正外」・・・・豊後守・・・「陸奥・白河」・・1865年10月1日 失脚・朝命 である。「阿部重次」は「対馬守」で所領が「下野・鹿沼」。「1651年4月20日」、徳川家光に「殉死」したのだ。「殉死」は『森鴎外』の「阿部一族」のテーマであった。「阿部正倫」は伊豫守で所領が「備後・福山」。「1788年2月29日」は「天明八年」であり、失脚の理由は前年、「天明七年」の賄賂政治の「田沼意次」の蟄居に関連しているらしいが、「年号」の示唆は「全国の一揆、逃散、打ち壊し」、「新吉原の大火事」と、『本居宣長』の「たまくしげ」の完成である。「阿部正外」は「豊後守」で所領が「陸奥・白河」。「1865年10月1日」は、「慶応元年」。失脚は「朝命」であったが、理由は前年、彼の在職した「1864(元治一)年」の問題だ。年号の示唆は「禁門の変」、幕府の「長州征伐」、「西欧・米国」の日本への「条約締結」への脅迫、「英、仏、米、蘭の四国連合艦隊十七隻の下関砲撃」である。 さて、『シカメ(顰)っ面』は美人『西施』の胸に手を当てて真似する顔の表情であるが、『顰』の漢字は「頻+卑」である。漢和字典には「頻」は、 しきりに(仕切りに)・・・史記理似 たびたび(度々)・・・・・太備多備・立日度・旅度・蛇尾・旅足袋 しょっちゅう(初中終)・・書柘衷 みぎわ(汀)・・・・・・・・・見疑話 きし(岸)・・・・・・・・・・・貴誌・貴志・貴紙・棋士・騎士・記史 さしせまる(差し迫る)・・作史世間留・差史施真留・詐史背磨留 ちかずく(近づく)・・・・・知化図句 ならぶ(並ぶ)・・・・・・・名螺分・拿羅部・奈良武 したしむ(親しむ)・・・・・史多史務 いそがしい(忙しい)・・・委蘇我思惟・意蘇我私意 みだれる(乱れる)・・・・診誰留・御足留 ひそめる(潜める)・・・・比蘇女留 かお(顔)をしかめる・・・化将尾史掛女留 はなすじ(鼻筋)・・・・・・葉名諏史・華州事(字) とある。下に記したのは同音異字である。熟語には「頻伽(ヒンガ・ヒマラヤの雪山に住む鳥で妙音を発する)」、「頻行(ヒンコウ・並行する)」、「頻蹙(ヒンシュク・顔をしかめる)」、「頻度(ヒンド・繰り返し起こる度数)」、「頻煩(ヒンパン・毎年毎年、連年)」、「頻繁(ヒンパン・しばしば、たびたび・わずらわしい)」、「頻頻(ヒンヒン・しきりに・度重なる)」である。 私が異図的に、『シカメ(顰)っ面』を分けて勝手に考えれば、「頻卑(ヒンヒ)」で、同音異字の「品比(シナの比較)」、「賓比(嬪=妃の比較)」、「牝比(メスの比較)」、「斌比(彪、文の比較)」、「彬比(文、彪、林の刷毛、筆の比較)」等の「面(メン=目務・つら=柘螺)」となるのだが・・・ 「いや(卑)し・いや(卑)しい」 ↓↓ ↓ ↓↓ ↓↓ 祖谷 史 委耶 思惟(椎・四囲・強い・私意) 「いや・す=祖谷・守(洲・洲・棲・栖・笥・酢・簾)」、「癒す」の漢字になるのだ。「祖谷姉(ソコクのシ=祖国の始=祖国の死=ソヤシ=蘇耶史=訴爺使=措邪詞)」である。日本史の始点である「卑弥呼」と、「蘇我史」、「耶蘇教=景教=キリスト教」。 そして、「訴『爺(ジジ・時事)』使=措邪詞」とは、「清国」の 『老仏爺(ロウ ブツ ジ=労分柘字) =(おい・ほとけ・じじ=将委補図懸時事 負 捕徒家 時事 甥 補都懸 時事)』 の使者、スナワチ、『西太后(1835年~1908年)』、「Empress Dowager(エンプレス・ダウェジャー)」、別称は「懿貴妃」、「孝欽顕皇后」、「慈禧皇太后」とも呼ばれた「女性権力者の使者」であったのではないのか・・・。 もちろん、『藤原仲麻呂』を討伐した「女帝」である『称徳・孝謙女帝(阿倍)』、『大津皇子』を殺害した『持統女帝』、「日本史(世界史)」上で権力を握った「女」達、その最初の『卑弥呼』の「使者」の掛けでもあるのだが・・・。 「壱与(イチヨ・イヨ)」の「掛(懸)」けならば、 イチヨ=位地誉・位置輿・市預・委地予・一代 イ ヨ=伊豫・伊予・移代・意輿・意預・委与 「張政(チョウセイ=著有世遺)」の「掛(懸)」けならば、 チョウセイ=調整・調製・長生・長逝・聴声・重声 =中甥=仲の 甥 ↓ ↓ 藤原仲麻呂は誰の甥か? である。「張政」は『曹操(魏王)』の支配下にあった「帯方郡」の『塞曹掾史(サイソウエンシ・採草園司)』であった。彼は「国境の砦の司の三等官(小役人=ショウえんニン=招燕人=コやくニン=子役任=胡訳人=雇薬人=虎埜句爾務)」であった。 「卑弥呼」が登場する以前の「動乱」は「七八十年」と記録されたが、「七、八〇」の意味ではあるが、「七八〇(780・七百八拾)年(ネン=撚・念)=歳(サイ)=歯(シ)=齢(レイ)」でもある。 「官庁の記録」にさいして、「年」の漢字を「歳」と改めて「記録」させたのは『藤原仲麻呂』であった。そして、『念』は「二〇(二十・弐拾)」を意味する「漢数字」になったのは『宋』の時代からである。同音異字の「(ネン・いさめる)」は九州の「諌早」の「諌(いさ)める」、「倭人伝」の「告喩」の「喩(さと)す」と同じ意味であるのだ。そして、「撚糸(ネンシ)」の「撚(よ・ねじ)る」は「捌(さば・ハツ・ハチ・ヘツ・ヘチ・わける・ねじる)く」と同じ意味である。「年歯(ネンシ)・年齢(ネンレイ)」の「年(とし=斗支)」も「歯(は=葉・般)」も、「齢(よわい=預話遺・代吾意・世話意)」も同じ意味で、江戸時代に「蛮社の獄」と言われ、弾圧された「蘭学者のサークル」は『尚歯会』であった。 中国では、「78年」の翌年「79(章帝四年・己卯)年」には「学者が『白虎観』で五経の異同を講究した」とある。「178年」には官位売買が公然となされた。「780(唐・徳宗・建中元年・庚申)年」には「両税法施行」とあり、日本年表では「新羅の使者、来朝。陸奥に覚鰲(カクベツ)城。陸奥上治郡の大領、『伊治・砦麻呂』が反乱して按察使、『紀・広純』を殺害。墳墓を破壊して寺の持領とすることを禁じる」とある。「1078年」には宋の商人『孫忠』が宋の「牒状」を持って太宰府に来た。「1178年」には「北宋・『神宗』の『元豊』元年・戊午年」である。前年の「1177年」には『皇極経世書』ができた。『皇極天皇(財媛)=斎明女帝(宝媛)』の「いみな」に掛けられた『皇極・経世書』ではないのか? 7(七・漆)+8(八・捌)+0(零)=一五(壱拾五) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ うるし よる 例 壱+五(伍)=六(陸) ↓ ↓ ↓ 位置 呉 陸奥 7(七・漆)×8(八・捌)=56(五拾六=五+六=壱拾壱) ↓↓↓
イチをヒロウ、ハジメ 語重録=呉+陸奥 「78」、「780」、「1780」のスウジの中に「意味するところの共通項」をあなたには見えるであろうか? 『卑弥呼』の時代は「三国史」であるが、「直接的(?間接的)」には「魏の国」と、遼東半島を領有していた「燕の国」の『公孫氏』の確執に関わっていった『邪馬台国』の立場であり、「間接的(?直接的)」には「呉の国」の「関係維持(血縁・縁籍)」の立場であり、それを調べた『記録者』の、その「存在意味の様々な解釈」とそれをベースにした「日本史」に於ける各時代の「歴史物語(古事記・日本書紀)」への「重複」である。 「古事記」も「日本書紀」もその「記事(木地・生地・雉)」を鵜呑みに出来ないのは現存されているものが「書き写されたモノ」である、と云うことだ。しかも、「漢字」で記録されたモノなのだ。我々、「日本人(?)」は「日本語化」された「漢字の意味」で読み取らねばならないのは云うまでもないであろう。そして、その「日本語化」された「漢字」の意味は「漢和字典」を頼る他にはないのである。ところが、「漢和字典」に記録されている「動詞的な意味」は奇妙にも「肯定」と「否定」の相反する説明を「羅列」、「並列」させているのだ。「正統な言葉(?)」は「支配者(勝者=ショウシャ=商者)のモノ」であった。だが、「被支配者(敗者=ハイシャ=歯医者)」である人々は「正当な言葉」に「裏の意味」を与えたのだ・・・ 古事記・日本書紀に記録された「魏・呉」からの渡来(帰化)人は誰か? 「魏の国」→「燕の国」の『公孫氏』←「呉の国」 ↑ ↑ ↑・物 ギ エン コウソン ゴ 物 ↑ ↑・人 欺 媛 貢 ・ 期 人 ↑ ↑・た 偽 縁 皇 孫 語 た ↑ ↑・来 疑 延 考 存 誤 来 ↑ ↑・ら ら ↑ ↑・か 伎 演 巧 姐務 語 か ↑ ↑・魏 義 淵 講 噂 子(良弁) 呉 ↑ ↑・祇 園 古有蘇矛 庫(山鉾) ↑ ↑ (山車) ↑ ・・・・・・・・・・←『邪馬台国』→・・・・・・・・ ↓↓↓↓ 邪魔大国・・邪魔な大黒=大国主命 ↓↓↓↓ 大石=内蔵之助・ 四十七士 夜間他意告・・弐拾八宿の星座 ↓↓↓↓ 28=4×7・壱拾壱=4+7 もちろん、「中国(中華)・朝鮮(韓)・インド(天竺)・ペルシャ(波斯)・ギリシャ(希蝋・希臘)・エジプト(埃及)・ローマ(羅馬・羅罵)・ヨーロッパ(欧州・奥州)」の「物語」が「重層化(ジュソウカ)」されているのが「日本の古代歴史物語=現存の古事記」なのだ。「ジュウソウカ」である・・・ 十三加(禍・蝦=蝦夷=東北青森県の十三湊のアイヌ人・・13=トミ・トサ) 十三可(壱拾参化=十三歳の宗女は『壱与(壹與・臺與・台与)』) 十三日(13日の金曜日の架=キリストの磔刑・架刑・『張り付け』の刑) 従総化(総て変化させてシタガエ=「詞違え」) 充創価(ミツル=満・萬・麻呂の創り出した価値) 銃装化(銃争禍・銃創禍・・・種子島・長篠の合戦) 縦走日(太陽の黄道・尾根を伝って歩くヒ) 獣捜掛(十二支の獣を捜して掛ける) 重奏歌(コーラス=凍らす・虎将・諏・湖居らす) 重曹菓(膨らし粉の混ざった菓子・重曹は酸っぱいモノを中和) (重炭酸「曹達」・炭酸水素「ナトリウム=名採り有無」) 拾草加(重日下) 重総華(すべて、中華に重なる) 充挿花(真言宗密教の曼陀羅儀式=「真言集、水鏡に挿掛」) 住僧懸(嫁・家・禍・坊主の懸け=タスキ衣・袈裟=ケサ・今朝) 重祚掛(皇極斉明女帝=「宝・財媛」・称徳孝謙女帝=「阿倍・高野」) 切りがないほどの「ジュウソウカ」である・・・「中叢加」、「中葬歌」、「仲想禍」、「仲争禍」、「仲奏日」、「仲聡価」、「仲総化」、「重宋禍」、「中捜可」・・・「中宗の禍(蚊・虻=阿武)」は「高宗の嫁」であった「則天大聖皇帝」、「則天武皇帝」と称した『則天武后』であった。「則」は「のり(規矩・法)」であるが、「のっとる」とも訓み、意味は「手本とする」であるが、「乗っ取る」で、「奪う」、「簒奪=帝位を奪う」の意味である。そして、「・・・ば」、「すなわち」とも訓んで、「場(場所)」は「砂輪地(阿蘇山)」か、「素名(州拿)倭地」である。「婆(老婆)」は「簾納和治(垂簾の治)」、「罵(罵倒)」は「諏拿我恥」、「馬(駿馬・羅馬)」は「棲那羽地・栖名話致」、「芭(芭蕉)」は「笥名杷茅」である。 とにかく、ここは『藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱』を踏まえて考えたし。 さて、紀元「8」年、前漢を外戚の『王莽』が皇位を簒奪したが、紀元「25」年に『光武帝(劉秀)』が後漢を復活した。だが、後漢末の「166(延喜九・丙午)年」と「169(建寧二年・己酉)年」には「宦官」の『党鈷』が権力を奮って、「高官・党人」を投獄、処刑した。この「166年」には「ローマ皇帝・『安敦(アントニウス)』」の使者が洛陽にきている。「184・霊帝・中平元年・甲子年」には「沛国豊県(安徽省)」の『張陵』、孫の『張魯』が『五斗米道』の教団を起こした。病人の『診察・診療、治癒』の代金が一律『米、五斗』であった。これの系譜から発展したのが『太平道』の『張角』が首謀者となった『黄巾の乱』である。この『張角』は「太平道」の元祖である『于吉』と言う人物が有していたと言う『太平清領書』を手にいれて『大賢良師』と称して乱の指導者となった・・・『道教』とは『景教・キリスト教(?)』・・・現代的にも犯罪者の「発頭人を『張本人』」と云う。「邪馬台国」から派遣された人物の名前は『難升米』であった。・・・清末に起こった『洪秀全』が起こした乱は『太平天国の乱(1850・宣宗・道光三十・庚戌年~1864年・同治三・甲子年)』である。・・・「道教」は「キリスト(景)教」で、「鏡」を権力の象徴にしていた「卑弥呼」は『道鏡』を「法王」としていた『称徳・孝謙女帝』と重なってしまうのだが・・・もちろん、『かがみ』は「鑑」であり、「歴史書」だ。「甲子(コウシ)」は「合志」で、「後嗣」、「孝子」、「庚子(康子)」、「高士」、「格子」、「厚志(皐死)」、「講師」、「後肢」、「行使」、「公私」、「公使」、「公子」、「公司」、「乞迂史」、「恋う子」、「考誌」、「子牛(子丑)」、「孔子」、「皇死」、「后死」の重なりで・・・一応、「皇帝」や「皇后」の死没年は、新しい「皇帝」の誕生であり、「年号」の改変である。 「清」の『西太后』が直接的に「政治権力」に登場するのは『穆宗』死後、彼女の『妹』の子供、『甥』の『徳宗』を擁立した「1875年・『徳宗』・光緒元年・乙亥年」であった。「伯母(叔母)」と「甥」の関係である。この関係『光明皇后』と『藤原仲麻呂』の関係でもあったが、誰にでも「オバ」や「オジ」、「オイ」や「メイ」、「イトコ」、「ハトコ」はいるのは一般的で不思議ではないのだが、これらの「同音異字漢字」の示唆、暗示しているモノが「キイ・ポイント」=(「紀伊の岬・串本」、「記意の筆先=古事記序文」、「鍵の選探=山幸の釣り針」、「『飢、揆、鬼、氣』の為の戦端=飢饉、一揆、鬼道、和気の戦争の端緒」)で、「lock=錠(ジョウ)」、「rock=岩(ガン)」、「lack=欠(ケツ)」、「luck=運(ウン)」、「rack=架(カ)」の「in・on・out・off・for)」なのである。 「後漢」は「220年・『献帝』・延康元年・庚子年」に滅び、その後は群雄割拠となり、「宦官の養子」であった『曹操(216・丙申年・魏王・武帝)』、その子『曹丕(220年・文帝・黄初元年)』。「句章」で反乱を起こした「会稽の妖賊」の『許昌(陽明皇帝)・許韶』を鎮圧した『孫堅』の子供、『孫権(229・己酉年・呉大帝・黄龍元年)』。漢王朝の正統とされた「蜀」の『劉備(221・辛丑年・漢中王・昭烈大帝・章武元年)』。「会稽の妖賊」は、北宋時代、『王安石』と政治的に対立した、『司馬光(君実・温公・1086・哲宗・元祐元・丙寅年死没)』の著した「資治通鑑」に詳しい。1086・丙寅年・・・日本では『後三年の役・院政の開始』)」である。 ・・・なるほど、『資治通鑑』は「指示通観・支持通観・師事痛感・私事通関」で、「君美」とは「幕閣」から『鬼』とも呼ばれ「正徳の治」を行った『新井白石』ではあった。しかも「1120(宣和二・庚子)年~1122(宣和四・戊寅)年」には「『宋江』の乱=三六人の「梁山泊=沢の名前」、一〇八人の英雄・豪傑譚の『水滸伝』の物語の下敷になった事件」が起こった。ところで、同音異字の『梁山伯』は黄色い蝶であり、晋の人の名前でもある。『山伯』が病死後、生前、彼に求婚された男装の美人、『祝英台』が彼の墓前で嘆き悲しんでいる時、その場所の地面が割けて『英台』も共に葬られ、二人の魂が蝶々になった、と言う話で、「黒蝶」を『祝英台』とも云う・・・「コクチョウ」は「国」の「お喋り」で、「祝福(いわう)」、「張(張り出した・でっぱった)英(ふさ・高野張英)」、「おしゃべり=将写(柘舎・者・社)邊理」・・・。 『劉備玄徳(蜀漢王・劉の備え、元の説)』、彼の宰相の『諸葛亮孔明(劉備・玄徳の宰相)』、配下の『関羽(別称は雲長・長生・壮繆=ソウビュウ)』、『張飛(別称は益徳)』。そして「魏」の臣下であった、『司馬仲達(280・庚子年・司馬懿・武帝・晋=晉を建国)』等が活躍したのである。 ・・・彼らが活躍したのは「明國」の『羅貫中』の著作した「240(弐百四拾)巻」の「三國時代の物語」、『三國志(通俗)演義=纂語駆使(通続)縁起』の「本=物語」に記録された「九七年間」の『中』に於てである。 ・・・理解できなくして踊らされて、活躍しているのは明治以後、今、現在迄の「古事記学者(?)」連中と「御用学者連中(?)」である。 ・・・私にとっては「漢・和事典の漢字説明の中」と「和・『英』字典(箋)」、「希臘・『英米』辞典」の「仲」で、並べられ、踊っている「意味説明」である。例えば、漢和字典で『張(チョウ・チャウ・はる)』を調べれば、 「はる・弓の弦を張り渡す・大きくする(誇張)・広げる・廣がる(伸張)・のばす・延びる・強くする・盛んにする・突き出す・むき出す(張牙)・設ける・施す・連ねる(張楽)・催す(開く・張宴)・弓、琴、幕などを数える言葉・張れる・膨れる・誇る・たかぶる・肩を張る・気が張る・欲張る・賭事に張る・付け狙う・番をする・見張り・張り込み・頭を張る」 である。関西語で「チャウ」は「違う・異なる」である。 「張」の人物の説明には、 「張華」・・・西晋の武将、学者。著書に「博物志・十巻」 チョウケ=長懸・長氣・長家・長嫁・・・・・・・・「帳化」 「張角」・・・黄巾の乱の頭目 チョウカク=聴覚・調較・諜塙・著有掛句・・・・・「帳化句」 「張儀」・・・「算命学」の鬼谷子の弟子。「連衡」論者 チョウギ=長義・喋義・調義・・・・・・・・・・・「帳義」 「張九齢」・・唐の玄宗の名臣。ライバル「李林甫」との対立者 チョウクレイ=長呉委・肇貢例・・・・・・・・・・「帳句齢」 「張旭」・・・唐の草書の名人。「飲中八仙の一」 チョウキョク=朝旭・超極・頂極・帳局・・・・・・「帳曲」 「張継」・・・中唐の詩人。字名は「懿孫」 チョウケイ=長兄・弔慶・長刑・・・・・・・・・・「帳係」 「張騫」・・・漢の武帝の「大月氏」への使者。著書に「楓橋夜泊」 チョウカン=長官・朝刊・長巻・帳換・帳姦・・・・「帳鑑」 「張載」・・・北宋の学者・「横渠」先生と呼ばれた チョウサイ=調査委・長才・長妻・『長殺』・・・・「帳差異」 「張三李四」・張家の三男、李家の四男。有象無象。ありふれた人々 チョウサンリシ=脹算利子・逃散里死・重山裏視・「帳纂理史」 「張巡」・・・唐の忠臣で「安禄山の乱」で「雎陽城」で殺された チョウジュン=重順・鳥隼・調旬・超順・・・・・・「帳順」 「張世傑」・・南宋の忠臣で「元」との戦いで「崖山」を死守して溺死 チョウセイケツ=調整頁・調清潔・長生欠・長逝桔・「帳声結」 「張籍」・・・中唐の詩人。字名は「文昌」 チョウセキ=潮汐・弔席・長関・超関・長石・重責・「帳籍」 「張道陵」・・後漢末の人物で「道教の開祖」 チョウドウリョウ=長同僚・調同量・・・・・・・・「帳導瞭」 「張魯」・・・「漢中(蜀国)」で三十年間、独立的な領土を領有し、215 年に「魏」の「曹操」に降伏。娘は「曹操」の息子の嫁 チョウロ=長路・調芦・潮路・重賂・・・・・・・・「帳魯」 「張良」・・・漢の高宗の巧臣。字名は「子房」。戦略家で「留侯」に封 チョウリョウ=跳梁(跋扈)・・・・・・・・・・・「帳漁」 と、あるのだが、ここで、あなたには「現存・古事記」、「日本書紀」の記録の『中(なか・チュウ・ジュウ)=仲・那珂・那賀(長)』に漢字としての「張(はる・はり・チョウ)=春・貼・針・箴・鍼・『帳』・梁・榛・(林+分」以外の「共通項の何か」を発見できたであろうか?・・・『帳』とは奈良東大寺の宝物殿、『正倉院』に納められている『聖武天皇』の「遺品」である管理、控え帳、『国家・珍宝帳』である。 「 」の数字と『 』の人名、事件はその意味する所と、これらを「同音異字」に転換した「漢字の意味」と、それらを「訓」でヨンで意味する所が「日本史」と「新旧・進級・深究」の「鍼灸の審究、診灸(蓬=よもぎ・世模擬・代模擬・与模擬・與模擬・余模擬・夜模擬)」に掛けられているのだ。 とにかく、「三国志時代」の領域区分は「208」年の『赤壁の戦い』と「219」年の「呉国」の『荊州』獲得で「三国鼎立の領国境界」が決まったのだが・・・なるほど、「弐百八(208)」、「弐百壱拾九(219)」、「茨城(荊州)常陸の水戸藩」、「徳川光圀(三国)」の「綴理拓(鼎立)」本は「漁語句(領国)=漁った語句(圀・国・獄・哭・剋・酷・刻・谷・石・告・濃・穀・鵠・黒)」の『大日本史』で、『古事記のコク』ではあるな。





































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