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「イチ」の考察と「現存・古事記」の「字撚学」の「娯」に出来た「形『字』上学」(1~3)


 『アリストテレス(BC384~322年)』、その時代、「63年間」生存していた。彼の著作の「一番」古い「写本」はイタリアのベネチアにある「995年」の『マルコ文庫』であるらしいのだ。・・・「マルコ」である。「写本」である。そして、この「写本」年代の「995年」前後の「日本史の事件」では、  990(正暦一年)・・・藤原道隆が「関白」、彼の長子、藤原伊周が「蔵人               頭」。彼の女(娘)、定子が「中宮」となる  992(正暦三年)・・・花山法王が熊野に御幸。「真如堂」が建立  993(正暦四年)・・・託宣によって菅原道真に「左大臣正一位」を贈る               内大臣藤原道兼の「夢想」によって藤原道長に「太               政大臣」を贈る。比叡山の「円仁」、「円珍」の両               門徒が争う  「疱瘡病」が流行  994(正暦五年)・・・「疫病」の蔓延。疫病対策として「油小路」の「                井戸水」を汲む  「高野山金剛峯寺大塔、講堂」等に落雷炎上  995(長徳一年)・・・藤原道長が『内覧』となる。  996(長徳二年)・・・藤原伊周、隆家が花山法王に不敬し、「流刑」  997(長徳三年)・・・南蛮人が壱岐、対馬を襲う  998(長徳四年)・・・太宰府、南蛮人を追討  999(長保一年)・・・内裏焼亡  である。この年代はすべて「疱瘡、疫病の蔓延」で貫かれている。  これらの事件から「何」を読み取るかどうかは読者の勝手だが、私なら、  花山・熊野・御幸・真如堂・伊周・中宮・定子・道長・関白  高野・比叡・円仁・円珍・油・井戸・『内覧』・隆家・流刑・南蛮人  等の漢字、そして「比叡(比英)」、「円(まる・エン)」、「南蛮人」に「懸(掛)け」られた江戸時代の「類似事件」と「漢字の同音異字」によるシグナルであるとヨミとるのだ。もちろん、「渡辺崋山」、「高野長英」、「小関三英」、「新井白石」等であり、「現存・古事記」の中の『比(くらべる・ヒ)』、『叡(あきらか・かしこい・さとい・エイ)』の熟語である『叡算』は「天子の年齢」であり、『円(まる・まろ・まどか・エン)』、『井戸(イド・いと)』、『内覧(ナイラン=内乱)』、『隆家(たかいえ・リュウケ=劉家・留家・流家・柳家)』、『流刑(ながす・ルケイ=留景)』、『南(みなみ・ナン=難・楠』、『蛮人(えびすびと・あなどるひと・かろんずるひと・バンジン=反神・叛時武・萬人・ハンジン=叛尋・版字務・判字夢)』に重ねてみるのだ、が。  古代日本人に「まるこ」、「まる・こ」、「ま・るこ」、「ま・る・こ」と云う「名前」の人物、事物は存在しなかったであろうか・・・あるいは「類似(類字)」する持ち主の「名前」の人物・・・「麻呂古」、「真呂古」、「魔留姑」、「磨侶古」、「摩路拠」、『(太・安)萬侶』・・・と、「丸」は「舟の名前」であったり、「童子(わらす・わらし・ドウジ=同時)の名前」に付ける、「・・丸」であった。  ようするに、私は「現存・古事記」の作者、あるいは「改作者」が『アリストテレス』の著作を読んでいたのではないのか・・・と、勝手に考え、推理するのだ。故に「現存・古事記」は「712(和銅五)年のモノではない」、と・・・単なる「和同後撚(語撚)」のモノ・・・だ、と。輪・環はマルではないのか。  古代エジプトの「アレクサンドリア」に住んだギリシャの『プトレマイオス・クラウディオス(トレミー)』は、「天文・地理学者」であり、地図上の「子午線・緯度線」を「地理学概要」で導入し、「127年~151年」までエジプトの「アレクサンドリア」で天文観測をし、「西洋占星術」に関する『メガレ・シュンタクシス(アラビアの翻訳はアルマゲスト=Almagest)』も著作した。英語で「アルマナック(almanack)」とは『暦・年鑑』である・・・中国の「三国(魏・呉・蜀)」時代の「魏」の記録では「倭国大乱」で「卑弥呼」が「146年」に「女王」となった時代なのだが・・・この著作は既に「唐時代(700年代)」には既に「漢訳」されていたハズだ・・・「原・古事記」、あるいは、「現存・古事記」の作者はコレを読んでいたのではないか。「ローマ帝国(大秦国)」の「景教(キリスト教・ネストリウス派)」の『阿羅本』が唐の「長安・洛陽」に来たのは『太宗』の治政、「九年」であり、「西暦635年・乙未年・貞観九年」であった。この「5年前」、既に「630年(貞観一年)」には日本人の『犬上御田鋤』が「遣唐使」として「大唐」に渡(航)っている。『則天武后』が国号を「周」として権力を握ったのは「西暦690年(天授一年)」の『庚寅(カノエのトラ)』年であった。円周の弧はマルコとはヨマないか・・・  日本(712年~795年)→←唐→←西域→←伊太利亜(995年前後にアリストテレスの著作集の写本)・・・「藤原道長」が『内覧(ナイラン)』になった『995』の『・・95』をチョット「日本年号」も踏まえて調べてみよう。何故なら「995年」は日本年号で、『長徳一(元)年』で、「ナイラン(内覧)」の同音異字は、「内乱・那委乱・拿意羅務・名委蘭」で、「名意・(拉)武(務)」を、「長の徳の一」とは『徳の人(アリストテレス)』を暗示、示唆しているからだ・・・  1095(嘉保二)年には「延暦」寺僧徒が入京し源義綱の流刑を強訴、源頼治が「神人」を射殺し佐渡に流刑。「丹生(にう)」、貴布禰(きふね)神社に奉幣し「神泉苑の池」を浚渫し雨を祈る。高野山大塔が再興される。堀川天皇、嵯峨野で「虫」を求めて宴する。  1195(建久六年)年には源頼朝、妻の政子と入洛。「栄西」が「筑前」に「聖福寺」を建てる。「鷹狩り」の禁止。  1295(永仁二)年には「引付」を復して「五方」とする。鎌倉「勝長寿院」が火災全壊。  1395(応永二)年には侍別所の京極高詮が「山名満幸」を誅し、「出雲・隠岐」の守護職となる。「陳延祐」が「七十三歳」で死亡。  1495(明応四)年には京都に「徳政一揆」。大和「長谷」寺の焼亡。雪舟の「破墨・山水図」が出来る。  1595(文禄四)年には秀吉が養子の関白秀次を「高野」山に追放し自殺させる。島津義弘が朝鮮より「塩漬けの『虎』二頭」を秀吉に送る。宣教師「オルガンチノ」等が布教活動。  1695(元禄八)年には江戸大火事。江戸中野に「犬小屋」を設置し、野良犬を収容。勘定奉行、萩原重秀が金銀改鋳。これを「元字金銀」と呼ぶ。長崎貿易の超過分を銅支払いする。これを「代物替」と呼ぶ。西川如見の「華夷通商考」が出来る。  1795(寛政七)年には「酒」造制限解除。先手「弓頭・長谷川宣以」の「火附け盗賊改役」を病気免除する。大坂定番同心『高橋至時』が「天文方」となる。翌年の、  1796年には「稲村三泊」が『ハルマ和解(江戸ハルマ)』を刊行。  1895年(明治28年)には「日清講和条約調印」、「露国、独国、仏国の三国干渉で遼東半島の返還」  であった。このときの「怒りの国民感情」を抑えた合言葉こそ、『臥薪嘗胆』であったのだ。そして、『マルコニー』の「無銭通信装置(送信)」の設計完成の年でもあった。『レントゲン』の「X線」発見・・・「X」とはローマ数字で「十」であり、「かけ算」の「数学記号×」で、「たすき懸けのバッテンX」であり、「ナナメにした十(壱拾)」である。「ナナメな心」を研究して「催眠術によるヒステリー治療」をしたのは『フロイト』であった。初めて富士山山頂に観測所を設置して「気象観測」をしたのは『野中至』であった。きっと「天文観測」も兼ねたに違いない。  さらには、『樋口一葉』の「たけくらべ」の発表であり、書家の『長三州』の死亡であった。  哲学界では、『津田道真』の「唯物論」。『井上円了』の「哲学史」。『大西祝』の「西洋哲学史」の刊行であった。  この『大西祝』の「祝」は「イワイ」ではアルナ・・・「岩井・磐意・巖意」・・・「磐余」とは初代の『神武天皇』ではある。しからば、岩井とは磐井で、磐の余・・・とは「磐井=岩井」の「余(あまり・ヨ)」で、「神武」ではあるな。「磐井の乱」とはナンであったのか?  この『・・95(九五・九十五・九拾五・仇拾伍)』  仇     拾   伍・・・あだ、ひろう、いつ=敵、疲労、何時  ↓     ↓   ↓  ↓↓ ↓↓↓ ↓↓  かたき、ひろう、 いつ  阿多 妃路得 委柘  化多記、比賂胡、何時  掛他紀、比蝋有、壱・・・・「蝋」=「希蝋・希臘」=ギリシャ  過多記、尋胡、 溢・・・・「胡」=「西洋」=恵比須=恵比寿=大国主  化瀧、 披露、 意柘・・・「瀧」=「鳴滝塾」=ジーボルト門下  に「共通項」を発見できる人はカナリの「歴史通」で、「哲学通」ではあるハズだが・・・?・・・「現存・古事記」、「日本書紀」の「・・95年」は『1895年』に集約的にその象徴的事件の「言葉・文字」が「カケ」られているようである。  と、するならば、「712(和銅五)年」は「古事記の撰上(洗浄・戦場・線上・船上・鮮場・扇状・線条)」である。そして歴史年表には「郡司の職務規定。越後國出羽郡を出羽國とする。銭五文を布一丈に準じる。衣服の制度を定める」とあり、翌年の「713年」には「天下に新格と権衡度量を分ける。山背に牛乳戸五十戸を置く。郡郷名に好字を用いさせ、風土記を撰上させる」、「714年」には「出羽國に養蚕。尾張、上野、信濃の民二百戸を出羽柵に移す。奄美、新覚(しがき)、珠美(くみ)の嶋人が来る。紀清人、三宅藤麻賂に国史を撰ばせる。播磨風土記が成る」、「715(霊亀一年)年」には「里を郷と改め、郷を2~3の里に分ける。飢饉に備え麦禾を植えさせる。『草壁皇子』の為に『栗原寺』を建立し、『丈六釈迦像』を造る。『栗原寺』の三重塔伏鉢が成る」と記されている。  ・・・『795年(延暦十四年)』には「大伴弟麻呂が蝦夷征伐から凱旋。渤海使、蝦夷に漂着し、越後に移す。大極殿落成」であった。この前年の「794年」には「平安京へ遷都」で、翌年の「796年」には「諸国に『地図』を作らせる」である。この時代は「蝦夷問題」と「地図作成」と「国史作成」「異邦(胡・西洋)人来朝」が「共通項」である。  「895(寛平七)年」には「博多に俘夷五十人を増置して新羅の賊に備える。渤海使の入朝」である・・・。  「995年」の事件は、日本史の「・・95年」に懸かるならば、私は「712年」の「現存・古事記」を「・・12年」にも懸けてみたいのだ。  先ずは前年の「911年」には『大安寺』焼失。ダイの暗示、按字、案示の炎上(エンジョウ)である。「大安寺=たいあんじ(太安字=他意暗示=太安萬侶の辞)」である。天皇に「七種菜」を供する。  「912(延嘉十二)年」には「天長格抄」を「勘解由使」に貸与する。『紀長谷雄』が「六十八歳」で死亡。「京中火災、罹災者に米を与える」とある。ここで問題にしたいのは、法律の「律令」を補い、または改めるために臨時に発せられた勅令の「格」である「天長格(抄)」と、「勘解由(使)」、「火災」の漢字の「意味」と「音」と「訓」である。  天=あま・テン  長=おさ・ながい・たけ・チョウ  格=いたる・くる・きたる・いたす・とおる・きわめる・のぼる・ただす    のり・おきて・くらい・ようす・おもむき・こうし・たな・うつ・てむかう    あたる・そむく・もとる・くいちがう・さしおく・とめおく   =カク・キャク・コウ   =格格は「鳥の鳴き声」  「テン・チョウ・カク」の同音異字は、「店長」、「天調」、「典調」、「転調」、「貼帳」、「辿張」、「伝張(張政とは邪馬台国に派遣された帯方郡、魏の役人であった)」、「出務調」、「填(はめる)肇(はじめ)」の「カク」である。これらの「漢字」は「格(カク・キャク・コウ)」の同音異字と「各訓よみ」とを重ねるなら全てが「意味がとおる」であろう。  「勘解由使(カゲユシ)」を検討すれば、  勘=カン・巻・・・考える・調べる・罪人を取り調べる・たえる・第六感  解=カイ・改・甲斐・海  由=ユ ・喩・諭・油・湯  使=シ ・詞・史・志・始・姉・姿・示・施・支・師・死・・・諮  等のすべての「同音異字」である。  「令外の官」とされた「勘解由使(カゲユシ)」とは「国司が交代するとき、前任者から後任者に引き継ぐ財政上の書類を審査した職」である。  『新井白石』は「『明暦三』年の大火(1657年二月十日)」に誕生し、「正徳の治」に活躍し、『勘解由』とも呼ばれた人物であった。そして、「字名(あざな)」は『君美』、『在中』、『済美』で、城中での「あだ名」は『鬼』だ。幼少児には藩主から『火の子』と呼ばれた。  そして、私は「・・12年」を「江戸時代」に「懸けて」しまうわけだが・・・「1712(正徳二)年」は『新井白石』が「徳川家宣に『読史余論』の進講を開始した年」だ。  「1812(文化九)年」は「若年寄」の『水野忠成』が「西丸側用人」となる。「『高田屋嘉兵衛』が「クナシリ島」でロシア船に拉致された年」である。  「1912(明治四十五)年」は「国際阿片条約調印」。中国では一月、『孫文』が南京で臨時大統領就任。二月、『清国』が滅亡し「中華民国」成立。三月、『袁世凱』が北京で臨時大統領就任であった。  そして干支は『壬子(ミズのエ、ネ)年』、『明治四十五年』で「七月三十日」に『明治天皇』が死亡。・・・『七月』、『参拾日』である。  前年の「1911(明治四十四)年」に流行したのが『デカンショ節』であった。  時代を遡れば、  「1612年(慶長十七年)」には「キリスト教徒の『岡本大八』が駿府で火刑にされ、キリシタン禁圧が始まった年」である。  「1512()年」には「『豊原統秋』が『体源抄』を著作」した。  「1412(応永十九)年」には「『南蛮船』が『若狭湾』に来訪した年」である。

              『密伝中穏』が七十四歳で死亡  「1312(正和一)年」・・・天変地震で「改元」。「横川中堂」焼失  「1212(建暦二)年」・・・「鴨長明」の「方丈記」           ・・・「明恵」の「摧邪論」  「1112(天永三)年」・・・皇居「高陽院」焼失  「1012(長和一)年」・・・藤原升(妍)子、中宮となる  「912(延嘉十二)年」  「812(弘仁三)年」・・・・摂津國に「長柄橋」  「712(和銅五)年」・・・・古事記  「612(推古二十)年」・・・百済人『味摩之(みまし)』の帰化  ・・・これは「意図的」に懸けられてイルか、「年号」に誤りがなければ「歴史は類似する事件を繰り返す」と云うことだが・・・最近(明治時代)の「記録者」のイトであるとしか考えられない・・・「古事記」、「日本書紀」の「記録者」の時代を「折衷」するならば、「叡智(ギリシャ哲学の知識)」を有する人物が、「712年」に存在し、「1912年」にも存在した・・・タイムトンネルでもくぐってきた奴に違いない・・・コレが無理なら、異なった時代の二人(複数)の人物が同じ基礎的な「叡智(ギリシャ哲学の知識)」を有し、「写本」するタビに「改作」していったのだ。  さて、『アリストテレス』を「万学(萬學)の祖」といわしめている彼の著書は『Corpus Aristotelicum』と呼ばれている著作集であり、この中に『自然学』と『形而上学』が存在し、そして『形而上学』には第一巻に『(6)プラトンの哲学』、第五巻(哲学用語辞典)には『(1)元(はじめ)~(30)偶然付帯的なもの』が記録されている。  私が勝手に『自然学』を「ジネンガク(字撚学・字念学・字年学・事撚学・時撚学・地念学)」、『形而上学』を「ケイジジョウガク(形字上学・計時学・計地上学・刑事上学)」とし、『(6)プラトンの哲学』を「(陸・陸奥・務柘)付羅團の綴学」とし、『(1)元(はじめ)』を「(壱・位置・市・位地)」の「もと=模図・はじめ=葉字女・波地女(伊邪那美)・頗地目・歯置目」とし、「万学の祖」を「マンガクのソ」として、「萬学の蘇(甦・よみがえらす=読み替えらす)」と考えるならば、ストレートに「太安『萬』侶のソ(措=おく・措定・措辞・措大・措置)」の「解釈」である。すなわち、「物部(もののべ=モノ述べ)」、「蘇我(我、よみがえらす)」だ。サラニは、「磨無学・魔夢学・摩矛学」の「楚・組・措」で、「幡(はた・秦)学」、「曼(ひく・ながい・ひろい・はてしない・うるわしい・つや・ない)学」、「満(みつる)学・鰻(うなぎ)学」、「蔓(つる)学」、「卍(まんじ)学」の「祖」である。  ちなみに「曼」が「引く」ならば、「漢和辞典」を「ながく(長句・名賀句)、ひろく(尋句・秘録)」、引いてミヨ、である。  曼=引く・長い  ・広い ・果てしない・麗しい  ・艶   無い    ひく・ながい・ひろい・はてしない・うるわしい・つや・ない    ↓ ↓  ↓    ↓     ↓    ↓  ↓  ①比句 名臥意 比賂意 葉出施名意 得留和詞意 柘哉 名意  ②一句 納画彙 尋 意 把弟子名意 有流話死意 晦哉 納意  ③卑句 那賀委 肥路遺 頗出施拿囲 胡留話史意 柘耶 拿易  すなわち、「ひく・ながい・ひろい・はてしない・うるわしい・つや・ない」の全ての同音異字の「漢字転換」である。取り合えず、これをヨメば、  「①比べる句 名を臥す意 比べ賄う意 葉を出す施の名の意 得る留める和詞(やまとことば)の意 柘(拓)の哉(はじめ) 名の意」  「②一(はじめ)の句 納め画く語彙 尋ねる意 把握する弟子の名の意 有る流れの話は死亡の意 晦(みそか・三十日)の哉 納める意」  「③卑弥呼の句 中に委(ゆだねる) 肥国の路に遺(のこす) 頗(よこしま)に出す、施し拿す囲(周囲の國) 胡(西洋)に留る話の歴史の意 柘は耶を 拿(あわ)し 易(かえる)」  である。他にも読み方は「無数」にある。「曼」の熟語は、   =曼衍(無限・つながり続く)   =曼辞(修辞・美しく飾った巧みな言葉)   =曼朱沙華(彼岸花)   =曼陀羅(諸仏の悟りの境地・浄土の実相を描いた絵図)   =曼陀羅華(白い蓮の華・毒草の名・気違いナスビ・朝鮮朝顔)  であり、さらには「マンガク・マムガク」は、  磨無学・・・無学であることを磨(みが・マダレの林の石)く  魔夢学・・・麻(あさ・マダレの林=キキ=記紀・危機)の鬼の夢  摩矛学・・・摩天楼の頂上・麻(マダレの林)の手の矛(ほこ)  痲部学・・・痲痺の学・麻酔の学・・・間夫臥苦・・・まむしの毒学  眼部学・・・眼科医学・目医者の学・・・瞼、瞳、マナコの画句  である。「万が一」の「学問」とは「非常時・緊急時」の学問である。これに「国家」を冠すれば、「国家非常時の学」とは「戦争体制準備学」であり、「国家緊急時の学」とは「戦時の防衛学、叛乱内乱時の鎮圧学」であり、「自然災害の防災学」である。  同音漢字の「ソ」は、私のワープロにプログラムミングされているものをアゲレば、  素・・・もと  組・・・くむ  遡・・・さかのぼる  鼠・・・ねずみ  組・・・くむ  姐・・・あね  蘇・・・よみがえる  甦・・・よみがえる  訴・・・うったえる  措・・・おく  疏・・・しるす・ときあかし・上奏文の一・解釈・注釈・くしけずる  疏記(箇条書)・疏奏(上奏文)・疏陳(まばらに並べ連ねる・陳述)  疎・・・うとい・うとんじる・まれ・まばら・あらい・おおき・わける・ほる  曾・・・すなわち・かって・なんぞ・これ・かさねる・ますます・曾孫・たか      い・あがる・曾参(別称は曾子・孔子の門人の子輿で、孝経の著者)      「曾経(以前に・これまでに・これまでずっと)」      「今人不見古人時月、今月曾経照古人(李白・把酒問月詩)」      「曾國藩(清末の名臣・字は滌生・諡は文公正・太平天国(長髪賊)        の乱を平定した)」  曽・・・木曽の「曽」・「曽」は「曾」の俗字      類字で「曹操、曹公」の「曹」で「つかさ・裁判官」  祖・・・おや  狙・・・ねらう  礎・・・いしずえ  粗・・・あらい  噌・・・かまびすしい・やかましい  阻・・・はばむ  租・・・みつぎ・ねんぐ・つむ  酢・・・すっぱい  岨・・・いしやま・そわ(そば)・けわしい・がけ  塑・・・でく(偶人)  等である。次に、「現存・古事記」の「一巻」と「魏志・倭人傳」の「記録」の「ソ」を踏まえて「一(壱)」を検討してみよう。  ここで参考として、「世界の名著・ギリシアの哲学(中央公論社)」の翻訳から、とりあえず、「アリストテレスの形而上学(タ・メタ・タ・ピュシカ)」の「第一巻」の構成「項目」を抜粋し、そのポイントを私があげてみると、  (一) 知覚・経験・技術・学問的知識       ・・・我々の求める〈知恵〉とはどのようなものか  ここでは、知覚のうちで一番優れているのが「視覚」である、と言われ、〈技術〉が生じるのは、「経験」の与える「多くの想念」にもとずき、そこから「相似た事柄」について「一つの普遍的な把握」が生まれる、とされている。そして、〈経験〉は「箇々の時柄」に関する「知見」であり、〈技術〉は「普遍的な事柄」に関する「知見」である、としている。 「知恵」とは「知っていること」との関連においてこそ存在し、「技術家」は「事柄」の「原因(根拠)」を知っており、「経験家」は「事柄」の「事実」を知っているが「原因(根拠)」を知っていないとしている。  そして、彼の論述の目的は「人々が〈知恵〉が第一の〈究極〉原因や諸原因にかかわるモノと考えていることを示すこと」だ、として「〈知恵〉がなんらかの原理や原因にかかわる学問的知識であるのは明白」であると、している。 ちなみに、ここではエジプトの地方で「暇な坊主神官」達によって「最初の数学の技術」が成立した、と記されている。  (二) 第一原理・原因をみきわめる      学問的知識としての知恵  考察の目的は「どのよう原因・どのような原理についての学問的知識としての〈知恵〉であるのか」とし、それは「第一の〈究極〉諸原因・諸原因をみきわめるところの知識」であるとする。人々(哲学者)は「無知の状態をのがれるためこそ知恵を求め、ひたすら知らんがため」に「知識」を求めた。それは「決して効用のためではない」、これを例えて、「他人のためにではなく、自分自身のために生きる人間=自由人=知恵、唯一自由な知識」とする。すなわち、「考察の目的」とは、「神的知識」の追求である、としている。  ここで、私が「イデア」を「思想・観念」として「現在的な意味」に於て捉え返すならば、「他人のためにではなく、自分自身のために生きる人間=『自由人』=知恵、唯一『自由な知識』」、『神的知識』とは個人の思惟し、意識する「観念・思想」こそはナニモノからも『自由』である、と云うことだろう。この時代に於いては「神」こそが「全能の自由者」であった。「アリストテレス」はこの「神の知識=神の自由」を「人間(哲学者)」が「第一の〈究極〉諸原因・諸原因をみきわめるところの知識」として、「人の知識=人の自由」、「人の無知の状態をのがれるためこその知恵」としたのだ。すなわち、「神からの自由」とは「人間自身の自由」であるが、「カン・かみ」からの「自由」だ。  (三) 四原因について。〈原理〉・〈原因〉に関する      先行哲学者たちの諸見解  では、「原因」とは何か、それは次の「四通りの意味がある」とし、  ① 〈本質〉(形相)・・・本質定義(ロゴス)へ還元されるモノ  ② 〈質料〉(素材)・・・本質定義(基体)  ③ 〈動(運動変化)の始原〉  ④ これと対置される原因・・・〈それのために〉を示す目的・・・〈善〉  (四) 四原因について。〈原理〉・〈原因〉に関する       先行哲学者たちの諸見解(続き)  (五) 四原因について。〈原理〉・〈原因〉に関する       先行哲学者たちの諸見解(続き)       ・・・ピュタゴラス派とエレア派  ここでは「先行哲学者たちの諸見解」を紹介すると同時に、彼ら哲学者に対する「アリストテレス」の「総括」が記録されているが、その総括批判は「①・②・③・④」を踏まえたモノである。  (六) プラトンの哲学  ここでは「アリストテレス」は、「プラトン」が、師である「ソクラテス」の考えていた「倫理的な定義」は「感覚される事象」とは別物で、「別種な存在について成立するモノであると考えていた」とし、それを「イデア」であるとした。すなわち、「感覚される事象すべて」は「イデア」に即し、これに根拠、関連して存在するものと考えていたことを紹介している。  「プラトンのイデア」=「倫理的な定義」。  (七) 総括  これらの「(一)~(七)」の項目から、更に私の興味のある部分、「(六)プラトンの哲学・(七)総括」と、そして、「第五巻の(一)元」から抜粋してみたい。

 第一巻の(六)プラトンの哲学 ・・・さらにまたプラトンは感覚される事物とイデアの他に、両者の中間に位置づけられる存在として、数学が扱う諸対象があると主張する。つまり、数学的対象は、それが永遠であり不動であるという点において感覚的事物とは異なり、他方、数学的対象に相似た同類者が多くあるのに対して、イデアそのものは一つしかないという点において、イデアとも異なるとされるのである。  ・・・イデアはほかのもろもろの事物にとってその原因である以上、イデアを構成する因子はあらゆる事物の構成因子にほかならない、とプラトンは考えた。かくて、質料(素材)としては「大と小」がそうした原理であるとされ、本質(形相)としては「一」が原理であるとされた。なぜならプラトンによれば、イデアは「大と小」から、それが「一」に預かることによって、数として成立するから。  しかし、「一」はそれ自身が実体であるという点、そして何か別の存在が「一である」と語られるような形で述語的なものとして考えられているのではないという点では、プラトンの説はピュタゴラス派にきわめて近い。また、数(=イデア)がほかの事物を存在せしめる原因であるとされる点も、ピュタゴラス派と同様である。他方しかし、「無限」を一つのものとして扱うことなしに「二」(大と小)というものをたて、無限はこの「大と小」からなるとする点は、プラトン独自の考えである。さらにまた、プラトンは、数(=イデア)を感覚的事物から区別して別に存在すると考えるのに対して、ピュタゴラス派のほうは、事物それ自体がそのまま数であると主張し、また、数学的対象をこれら両者の中間にとくにたてることはしない。  プラトンが、「一」と「数」を具体的な諸事物とは別次元の存在であるとみなして、ピュウタゴラス派のようには考えなかったことと、また「イデア」を導入したこととは、言論における考察(本質定義の探求)に由来するところであった〔彼以前の人々は、問答法(ディアレクティケー)というものを預かり知らなかったのである〕。他方、「二」(大と小)というものをもう一つの原理的存在としてたてたことは、素数以外の数がこの「二」を元にして、それがあたかも印材のような役割を果たすことによって、容易にそこから生み出されるという考えに由来している。  しかし、ながら、事実はこれと逆である。彼らの考えは理にはかなっていない。なぜなら、彼らによれば、素材からは多くのものがつくられるのに対して、形相はただ一度しか生み出さないというのであるが、しかし、実際には明らかに一つの素材からは一つの机しかできないのに対して、机の形相を素材にあてがう人は、ひとりでありながら、多くの机をつくりだすのである。男性と女性の関係もこれと同様である。すなわち、女性は一度の交わりによって孕(妊娠)むけれども、男性は多くの女性に孕ませる。しかも、この男性と女性とは、彼らのたてた原理をたとえる似像とされているのである。  ・・・プラトンは二種類の原因だけを用いた。〈なんであるか〉を示す形相因と、質料〈素材〉の意味での原因とがそれである。けだし、イデアはほかのもろもろのものにとって、それがなんであるかを規定する原因であり、さらにそのイデアにとって「一」がそのような原因にほかならない。そして、これらに対してその基体となるところの質料(素材)……すなわち、感覚的事物のばあいにはそれのもとにイデアが語られ、イデアそのものにおいては「一」がそれのもとに語られるところの基体的質料……がなんであるかということも明かである。すなわちそれは、「二」であり、「大と小」である。・・・  これは「アリストテレス」が「プラトン」が考えていた「一」なるモノの紹介である。「女性は一度の交わりによって孕(妊娠)むけれども、男性は多くの女性に孕ませる。しかも、この男性と女性とは、彼らのたてた原理をたとえる似像とされているのである」などと云うところは「古事記」の「木花之佐久夜媛」と「迩迩藝命」の会話のギャク(ギャグ)である。「迩迩藝命」は「木花之佐久夜媛」の妊娠を「一宿(ひとよ)にや妊める。これ、我が子にはあらじ(一宿哉妊。是非我子)」と驚き疑ったのだから・・・当然にも、「山幸比古」は「参考」にし、「比較」するも、「うが(穿=セン)って」も「うが(穿鑿=センサク)、や(乎哉)、付記会えずの名(鵜葺草葺不合命)」である。ちなみに「葺(シュウ)」は「覆(おお)う・繕(つくろ)う・修理・重なる」とヨム。  ここに抜粋したモノを次のように考えてもらいたい。スナワチ、「哲学的問題」としてではなく、「魏志・倭人傳」に記録されている『卑弥呼』を「一(ひぃ・ヒ)」とし、さらに「卑弥呼の宗女」であるとされた『壱与』の問題として「一(イチ)」と「二(ふぅ・ニ・ジ・ふたつ)」として。そして、「現存・古事記」の「天照大御神・大國主」を「大」とし、「月讀命・少名毘古那神」を「小」として考えて貰いたいのだが・・・ネッ。  とにかく、「アリストテレス」は「プラトンの考え」を、「一」と「数(イデア)」を具体的(感覚的)な諸事物とは「別次元」の存在とし、  イデア・・・・・・事物の構成因子(イデア)=諸事物の原因(イデア)  質料(素材)・・・原理としての「無限」=「大と小」=「二」  本質(形相)・・・原理としての「一」=「数(イデア)」   ↓   ↓  う が や ふき あえず みこと  ・・↓・・・・・・・・・・・・・・  鵜 葺 草  葺  不 合  命    ・「数(米+女+攴)」=八方音名  ↓ ↓ ↓ ↓  ↓  ↓  ↓    ・「數(婁+攵・攴)」=婁・ロを  弟 艸 艸 艸  一  𠆢  八 割符   ・「攴=卜+又」=カルくタタク  + + + +  +  + +    ・ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓↓↓  鳥 口 日 口   ノ   一 一    ・ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓↓↓ ↓ + + +  +  + +    ・ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓↓↓ ↓ 耳 十 耳  卜  口 叩(口卩) ・ ↓ 手 掛留句多々句 ↓   ↓ ↓  ↓  ↓ ↓ ↓ ↓  ・ ↓ 股=俣・亦=腿・桃  音調 日下日下日下一 葉 把 印     ・ ぼくにょう=卜女菟=模句如宇

 公示 日拾幸司ノ卜一句一敲 手形 ・・・・・・・・・・・・・・・・・  として捉えていた。「アリストテレス」はこの「プラトン」の「イデア」を『エイドス』として同じ概念として使用した。私は「エイドス」を「叡努諏(比叡山が努める諏訪=問いはかる)」、「泳渡洲(泳ぎ渡るシマ、中洲、渚)」、『重緯度数(重なる緯度の数)』、「重意土州(重なる意は土の州・トルコ)」、「英努諏(英語に努め、問いはかる)」と理解(誤解・曲解)し、「イデア」を、  イ                 デア  ↓                 ↓↓  囲(圍・区域・境界・境・限り)出鴉(太陽) ↓↓  意                 出阿(阿蘇)  委(ゆだねる)          出娃(月の女神)  遺(のこす)           出唖(嗚施=素戔嗚)=品牟智和気  易(かえる)           出蛙(月の掛話図・かえる・ワ)  と考えたいのだ。「アリストテレス」自身は「数(數)学的対象のもつ質料についての考察」を『知恵の愛求(哲学)』とし、「プラトン」の「無限=大と小」を「質料(素材《漆料=ウルシのリョウ=七量=拿名量=詞知量》)の原因」の説明であると捉え、「二(大と小)」であるとし、「一」を「イデア(数・數)」として捉えていた、とした。ウ(得・賣・売=女=音名)ル(留)シ(詞)だ。  「大中小」としての「言葉」の「中」はここでは語られていないが、「感覚される事物とイデア(エイドス)の他に、両者の『中間』に位置づけられる存在として、『数』学的諸対象がある(第三のモノ)」としているから、「曲解」して、「中間に位置づけられる『数・數(婁=ろ=ロを掛留句多々句)』学的諸対象」が「中」ならば「大と小(二・Ⅱ)の無限(∞・8=八)を半分に分けた『数字』」は、「三(ε+з・З・3=ろ=ロ=賂・Ⅲ・みぃ・サン・みつ)」である。「ε」はギリシャのアルファヴィトの第5文字の「エプシロン(重譜史論・絵敷試論・柄普至論・重符私論)」である。英語なら「e・E」で、「ホ(補)調・ホ(保)音・全称否定・ローマ数字の250(弐百五拾・似比訳語重・爾白語重・迩股語重)」の象徴文字である。「ea」は「each(箇々)」の略だ。  そして、特に「ギリシャの数学」とは図形の「比」を計算する『幾何学』であった。「ピュタゴラスの式・施・真」とは「直角三角形の定理」だが、「直角三角形」を構成する「三辺」の漢字訳の概念は「直角を夾む長い辺=『股』」、「直角を夾む短い辺=『玄(弦)』」、「斜め(ナナメ)の辺=『勾(句)』=勾配」で、「はすかい(斜交)」、「はすかけ(斜掛)」だ。『比喩、他(多)語、羅州(ピュウタゴラス)』である。ならば、「しきしま(式施真)」は「識史魔(倭人傳の鬼道を認識)」、「敷島・磯城島(日本書紀・欽明天皇)=日本=大八州=安芸津州」の「宮」である。  「三宮」とは「天子(皇帝)・太后・皇后」、「明堂(霊廟)=名同」、「辟雍(太学=天子が建てた最高の大学校)=日置要・経紀用」、「霊台(天文台)=例題・齢代」であり、「水(壬癸)の三合会局」ならば「子(ね=音)・辰(たつ=起、発)・申(さる=作留)」の結合である。「六宮(理句窮・裏句究)=陸奥宮(宮城)=睦奥室」とは「天子の後宮(ハーレム)=考究」だ。  「三支」とは「寅支(因子・音施)」で、「三干」とは「丙(並)」である。英語のアルファベットの「第三番目」とは「C(シィ・c)」は「ローマ数字の100、ハ(葉)音、セ(施)氏寒暖(鑑探)計の度数、Cape=岬」の象徴文字で、「C(シィ)」を「思惟」すれば、「Circe=魔女、circle=円、cipher=ゼロ、零、暗号、計算」で、「China=中国、中華」、「Cipango=Japan(日本)」、「Christ(キリスト)」である。「C」の図形は「下弦の月」に相似だ。ギリシャ文字の第三のアルファヴィタなら「Γ(γ・ガマ)」で、図形は「L(エル)」の逆字で、『天文観測』と『前方後円墳(大塚)』建設の測量、設計と土木施工の「規矩(コンパス・ぶんまわし)」である。そして小文字の「γ」は「釣り針」か「錨・碇」の図形である。「がま」とは「蛙(ア・かえる(変える)」のことだ。そして、「鎌」とは三日月形の「草薙の刀」である。「稲葉の白菟」は「蒲の白穂」で「皮膚」が癒えた。「釜」は「炊飯器・茶の湯釜」で、「窯」は「陶器・土器」を焼く「八尋殿」である。そして、「ガマガエル(蝦蟇)」とは「ひきかえる」であった。  ・・・『数(かず)』とは「和(ワ)」で、「倭」、「輪・窪」、「環」、「話」は「羽(羽毛・奥羽)」と言うことだが「羽毛(ウモウ)」は「軽(かるさ)」の単位である。「羽毛」を「秤」の「オモリ」とし、その「たましい(霊魂)」の「善悪」を「計った」のは「エジプト」の足長で、嘴(喙・くちばし)の長い「トト神(朱鷺の神)」であった。そして、「軽(珂瑠・かる・ケイ・キン)皇子」とは「日本書紀」では「孝徳・文武」の両天皇の名前であった。「おかる」とは「忠臣蔵」に登場する「遊女」であり、彼女は「大石内蔵之介」の「手紙(通信文)」を「手鏡」で盗み視た人物である。当然、「手鏡」に映る「文字」は「逆文字」であった。「クダラナイ(句拿拉名意・百済亡い)」ことを考えるのも必要なのだが、「シラギ(詞拉義・試羅義・史・義・死留紀・新羅・白義)」で、「四(肆)留記」で、「白記」、「知る義」、「シラをキルナ」である。  『ピュタゴラス(BC528~BC493)』はサモス島で生まれ、南イタリアのクロトンに「ピュタゴラス教団」を設立した人物と云われ、「霊魂」と「肉体」を区別する二元論、「転生輪廻」を信じていた。音楽の「ミューズ女神」を崇拝し、宇宙も音階によって「天球調和」されているとして、万物の本質を『数』とし、宇宙は「一」によって統一された「コスモノス」とした人物だ。  この「ピュタゴラス派」の「数」の考え方によれば、「一」が「始まりの数(始原・根元)」であり、「二」が「女性の数」であり、「三」が「男性の数」である。ならば、「三(参・纂・佐武)」は「魏志・倭人傳」に記録されている『張政』であり、「古事記」の「素戔嗚(須佐之男)」だ。ギリシャ神話なら「プレアデス星団(六星・すばる=統星)」を追いかける「オリオン座の三星」の「狩人のベデルギウス(脇の下=腋、和気、訳の解)とリゲル(左足=比拿理の測)」でもあるな。この「オリオン(織り音・折音・嗚理音)」は「海神ポセイドン」と「大地母神ガイア」の子供であったと云われ、ここで、ギリシャ語をも併記すれば・・・「キリスト」も海の上を歩く奇跡をみせたが、「オリオン」も、  水の=(ネロ=νερο)      ↓↓      音賂  上を=(エリ=επι・エパノ=επανω・カタ=κατα)      ↓      ↓        ↓     重理     重葉埜       形  歩く=(ポディヤ=ποδια)     ↓↓↓↓     補出意耶  能力=(イカゴタ=ικανοτητα・イオカス=ιοχυs)     ↓↓↓↓           ↓↓↓↓     易化語多           意将掛洲(諏・素)  をもっていたのだ。  「オリオンの物語」は「キオス島」の「オイノピオン王」に騙されて「盲(めくら)」になったり、「曙の女神エオス」と「恋」をしたり、「月の女神アルテミス(ダイアナ)」の「愛人」になったり、「サソリ(蠍)」に殺されそうになったり、最期には「太陽神アポロン」の嫉妬によって騙された「アルテミス(ダイアナ)」の「銀の『弓矢』」で「泳いでいる最中」に射殺されてしまうのだ。「月(暦上=歴上)」はギリシャ語で「ミナス=μηναs」である。日本語の「・・・と、ミナス」とは「・・・と、同類とする」だ。この「オリオン座の星絵(点描・天光)」を構成する「ベデルギウス(赤星・脇の下)」は、  ① 参(參)宿・・・・・參=ムムム一人彡・・・ム=よこしま=左=頗=侘  「宿曜経・二八宿」の順番の始めを「牛宿」にすれば順序の「数」は、  一番目の牛~2番目の女~7婁~6参(算・纂)~6張~→13番目の女  一番目の牛を基点に 8婁~13参~ 18張~ 23番目の・      ↓      ↓   ↓   ↓ ↓      ゴ(ギュウ)  ロ  サン(シン) チョウ         て         ↓  ・は助詞のテ・・・氐=氏+一・・・・・・参宿=夫妻(双子)宮の中心(井『参』觜)  ② 三大星・・・・・・・三(みつ・みぃ・サン)+大(おほきい・ダイ)        ・・・・・・・三光=日月星辰・「房心尾」宿等の蠍座(朱鳥座)  ③ 柄鋤(からすき)星・柄(え)+鋤(すき・くわ・金+助)                      ↓                     「鋤友」=第四代『懿(壹次心)』徳天皇    第三代「磯城」津彦玉手看=『安』寧天皇                  ・酒桝(さかます=水酉木タヰ=癸酉紀載)星  ④ 鼓(つづみ)星・・・鼓の形は「臼(碓)の形・二台形の重なり」             ・・・抃(かせ)星=「抃」は糸を紡いで巻く道具  ⑤ 頂珠(チョウジュ)・頂(上・点)+(有)珠               ・額上点=天眼(第三の眼)の意味・・岳上点  ⑥ 魯達羅(ルドラ)・・魯の達の羅(くに)  ⑦ 平家(あか)星・・・平家の旗の色が「赤色」。「赤族」=皆殺し  等と呼ばれ、「リゲル(白星・左足)」は「源氏星(源氏の旗色は白)」、「月神(ソーマ・アルテミス女神=ダイアナ女神)」、「傭兵隊長(葉柄体調)」、「鹿頭(ししとう・シカのカシラ=史家の頭)」等と呼ばれている。「オリオン座」と周辺の星座、「馭者・牡牛・双子・小犬・大犬」等、「冬の大三角形」を形成する星々「プロキオン・ベデルギウス・シリウス」の「形状」を観れば、「古事記」の「三神=①太陽神(左眼)、②月神(右眼)、③辰神(中鼻)」と「倭人傳」の「三人=①卑弥呼、②壱与、③張政」、「④狗奴国、⑤卑弥弓呼」等の「漢字形・漢字音・漢字の意味」が重なりとなっているがわかるであろう。  「二七宿(3×9=27)・二八宿(28÷3=9・・・1、商は九、余り一)の宿曜経」ならば、『参宿』そのもので、余った『一(壱・イチ)』は『牛(ギュ=祇由、義喩・ゴ=語、悟・うし=主)宿』であり、『磐の余の比古(神武天皇)』であり、「始(女台)=はじまり」で、「姉(女市・姐=女且)」である。だから「二(に・弍・貳・次+女=姿・尼)」に類する字形、発音の漢字は何でも「二番目の女(おんな=音名・め・むすめ・ニョ・ジョ=序)」だ。そして「十三番目の参(みつ・みぃ・サン・シン)」に類する漢字は何でもカンでも「壱拾の三男(産難・山何・纂難・蚕何・算何)」と考えればいいのだ。  そして、「トラさん」の開口「一番」、  「サァ、サァ、ニイちゃん、ネェちゃん、オジちゃん、オバチャン、よってらしゃい、みてらしゃい、カケテもいいが、コロンじゃぁダメダ、ココでウルのは、ソンじょ、ソコらのシロモノとは違う、上物、一品、真キィキィの台湾バナナ」  の、叩き賣りの口上だ、コレは・・・「ピュタゴラス」の数の象徴、「二(おんな・音名)」と「三(おとこ・音雇)」の加算が「五(語・悟・いつ)」で「結婚・結合」ならば、  「2+3=5、結構、懸(ケ)だらけ、音壷(ネコ)、配(ハイ)だら懸(ケ)、懸柘(ケツ)の真話理(マワリ)が、句蘇(クソ)だらけ、2×3に、懸けても、2+3に、肇(はじめ・初・始・一・位置・市)を足しても、陸奥(むつ・六・むぅ)見合う。2×3に1なら師地、漆地の七(なな)で、2なら頗地、羽地の窮地(九地・臼地・碓地・有珠地)、旧知(求知)で、窮まった、足り(十・とぉ)」  である・・・失礼。  「素戔嗚(須佐之男)=海神(宇美)」の名前が示唆するモノは、「素の箋(短冊・便箋・辞典)の嗚(音声・ためいき=多明記・他名基)」である。「須」は「ひげ」とよみ、「須=彡(サン)の頁(ページ)」で、宇美は空の美だ。  「数(數・スウ・ス)」とは「かづ(和=倭)」であり、「占いの河図(魔法陣)」であり、「日本地図の下図(掛図・下=カト=κατο)」で、「崇・趨・雛・枢・嵩・吸」、「諏胡・州有・須有・素得・棲烏」である。  「一」はギリシャ語で、  αρχη =アルヒ・・・・・・・有る比(比較)・或日・阿留肥  εναs =エナス=男(牡・雄)の一(はじめ・初・肇)  μια =ミャ  =女(牝・雌)の一(はじめ・壱・始・市)  ενα =エナ =中性(中世・忠誠・中正)の一(はじめ・旦・単)  等の「はじめ」を意味し、「初」、「肇」、「聿」、「旦」、「単」、「始」等の漢字を「はじめ」とヨマセテいる。「ハジメ(葉字目・波字女・端女=箸女)の字」とは「あいうえお」の「あ」であり、「イロハ」の「イ」であり、「甲乙」の「甲」であり、「子丑」の「子」であり、アルファベットの「AB(αβ)」、ロシア語の「АБ(аб)」の「A(α)」である。   壱(一・1)    壹    甲=コウ・きのえ    子=シ・ね・こ    イ=人    イチ=伊地・異字・意字・医事・遺児・意地      =位置=場所      =市 =市場・死刑場・・・市=亠(音の略字)+巾(ぬの・はば=幅)      =位地=官職名・「筑後の守、従三位」等       =place・rank        プレ ス ラン  ク        ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓        振れ 州 ・蘭  句(・務句)=乱苦        status・position・・・(英語)        ステイタ ス ポ ジ ショ ン        ↓↓↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓        捨て得た 州・保 持 所 武              補 辞 書 務      =τοποs・με ροs        ト  ロ  ス メ ロ ス        ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓        図 路 素 ・女 賂 州        βαθμοs・δειρα・θεση・(希臘語)        バ スモ ス デ イラ セ ス        ↓ ↓↓ ↓ ↓ ↓↓ ↓ ↓        馬 州模 州 出 委羅 施 州        場 素母 州 出 伊羅 背 州  弌  Aa(英語)  Аα(ギリシャ語)  あア  仁(二・2)  乙=オツ・イツ・きのと  丑=チュウ・うし  ニ=似  ロ(ろ)=くち・國(くに)  乙  ↓  オツ=将柘(まさに、拓)  いつ=何時(ナンジ)     =失(うしなう)     =聿(はじめ)     =逸(はしる・にげる・うせる・すぐれる)     =溢(あふれる)     =伍     =壱     =壹     =己  おと=音(ね・イン)  二=ニィ(新・新居=あらい=新井)  ↓  似(にる)  児(こ)  尼(あま)  貳(ふぅ・ふたつ)  丹(に・あか)  爾(なんじ・しか・のみ・ばかり・か)  煮(にる)  邇(ちかい・近い)  弐  弍  荷(に・はす・はちす・になう)  Bb(英語)  Ββ(ギリシャ語)  いィ  「形而上学」の第五巻(哲学用語辞典)の

『(一)~(三〇)』の各項目

、各章(サブタイトル)には、  (1・一・壱)・・・・元(はじめ)  (2・二・弐)・・・・因(もと)  (3・三・參)・・・・要素  (4・四・肆)・・・・生まれ(生まれつき・自然)  (5・五・伍)・・・・なくてはならぬもの  (6・六・陸)・・・・一(ひとつ)  (7・七・漆)・・・・ある  (8・八・捌)・・・・実体  (9・九・仇)・・・・同じ、異なる、差異(ちがう)、似  (10・十・一〇・壱拾)・・対立するもの、反対のもの、種的に異なるもの、              種的に同じもの  (11・十一・一一・壱拾壱)・より先のもの、より後のもの  (12・十二・一二・壱拾弐)・・能力、能力がある、無能力、不能  (13・十三・一三・壱拾參)・・量  (14・十四・一四・壱拾肆)・・質  (15・十五・一五・壱拾伍)・・相関的(相対的)なもの  (16・十六・一六・壱拾陸)・・完・全なもの  (17・十七・一七・壱拾漆)・・限(き)り  (18・十八・一八・壱拾捌)・・よりどころ  (19・十九・一九・壱拾仇)・・配置の様体(模様・様子)  (20・二十・二十・弐拾・念)・・もつこと(所持・状態)  (21・二十一・二一・弐拾壱)・・受容性質  (22・二十二・二二・弐拾弐)・・欠如  (23・二十三・二三・弐拾參)・・もつ・たもつ  (24・二十四・二四・弐拾肆)・・何々から……ある  (25・二十五・二五・弐拾伍)・・部分  (26・二十六・二六・弐拾陸)・・全体  (27・二十七・二七・弐拾漆)・・不具の  (28・二十八・二八・弐拾捌)・・類・種族  (29・二十九・二九・弐拾仇)・・いつわり  (30・三十 ・三〇・參拾 )・・偶然付帯的なもの  等が記録されている。「古事記」には「一(1・壱)代の神武天皇」から「三三(33・参拾参)代の推古天皇」までの記録である。だが、偶然(必然?)にも「日本書紀」は「三十(三〇・参拾)巻」であった。どちらも「参拾・参拾参」の「参」が「共通項」である。この「タイトル(代採る)」を各天皇の「巻数」に当てはめ(填=テン)ると、どうなるのか・・・  (一)は「はじめの、神武天皇」である。  (二十四)は「何々からある、皇極天皇」  (二十五)は「部分の、孝徳天皇」  (二十六)は「全体の、斎明天皇」  (二十七)は「不具の、天智天皇」  (二十八)は「類、種族の、天武天皇」  (二十九)も「偽りの、天武天皇」  (三十)は「偶然付帯的なものの、持統天皇」  である。  「漢数字」は私が記したものだが、この「サブ(参分・纂部)タイトル」の意味を踏まえ、

「(壱)」~「(參拾)」の「数字の序列」を考えてみよう。  先ず「1~9(壱弐參肆伍陸漆捌仇)」の漢字の意味と、

「同音異字」と、訓よみでの「漢字転換」としての意味、

更に

「一字」を「偏旁冠脚」に「分解」してヨンでみるのだ。   10~19(壱拾+壱・弐・參・肆・伍・陸・漆・捌・仇)         (足 +壱・弐・參・肆・伍・陸・漆・捌・仇)  の漢字の意味と、「同音異字」と、訓よみでの「漢字転換」としての意味、更に「一字」を「偏旁冠脚」に「分解」し、そして「壱拾」は「(位置・市・位地)+重」とヨンでみるのだ。あるいは「イチをヒロウ」とヨムのだ。  20~29(弐拾+壱・弐・參・肆・伍・陸・漆・捌・仇)        (念 +壱・弐・參・肆・伍・陸・漆・捌・仇)  の漢字の意味と、「同音異字」と、訓よみでの「漢字転換」としての意味、更に「一字」を「偏旁冠脚」に「分解」し、そして「弐拾(念)」は「(似・児・尼・丹・爾・迩・煮・荷)+重」、あるいは「ニをヒロウ」、または「念+重」とヨンでみるのだ。「念(ネン)」は「二十(廿)」の代用漢字である。中国「宋」王朝時代かららしい。 「壱弐參肆伍陸漆捌仇」をヨメば、  イチが似ている纂が、ツラナリ、委津、伊都、何時の理句かに、ウルシ(胡留史)を、箇々の柘(つげ)に、より(捌)分け、窮めた・・・  そして、「30(参拾・參拾)」の「数字」である。スナワチ、「參拾」は「(纂・算・讃・山・蚕・杉・惨・酸・産・散・桟・餐・傘・蒜)+重」としてヨムのだ。あるいは「サンをヒロウ」とヨムか、「シンをヒロウ」とヨムのだ。私が今まで、繰り返し、クリカエシ、他の所で云ってきたクドイほどのモノであるが、漢字の特殊な読み方である。 「イチ(位置)」  「ニ(似)・ジュウ(重)」  「サン(纂)・ジュウ(重・字喩胡・地由宇・自由)」  である。これらが「現存・古事記」の「ワタシのヨミカタ」なのである・・・デアル、とスルならば、「現存・古事記」の作者は『アリストテレス』の『形而上学』の「日本語訳の哲学概念」の説明と、その「数字の序列」を「下敷」にし、その「音」を採って「同音異字漢字」で「物語」を「記録」していることがワカルだろう。

 「一(イチ・ひぃ・ひとつ)」に拘(こだわ)れば、「邪馬台国」の「壱与」であると同時に「位置」である。「十(壱拾・ジュウ・たり・とぉ)」に拘れば、「邪馬台国」の「位置重・他理=足り・図保」である。  「二十(弐拾・ニジュウ・はたち・はつか・ふたたり・ふたり)」に拘れば、「邪馬台国」の「似重・秦地・把柘化・付多他里・婦足=赴多里」で、「念(ねん)じる=年字留」で、「観念(想う)=かんねん・鑑年・かむねむ(咬音務・掛夢音無・華務合歓)」である。「念=弐拾」は「宋代」から使用。  「三十(參拾・サンジュウ・みそじ・みそ・みと」に拘れば、「邪馬台国」の「纂重・味噌児・晦・晦日・水戸・御津」である。  『形而上学(ケイジジョウガク)』に拘れば、「魏志・倭人傳」に記録された「邪馬台国」の『形字上学』であると同時に「稽地(会稽東冶)上の嶽」であり、「経字上学=経典の字」、「計時上学=時代を計る学。暦学」、「景地上学=景の地上学(日本の三大景観地、景勝地とは何処か?・・・松島、厳島、天の橋立て。三景とは日月星の天文学でもある)」、「啓示上学=キリスト教、新約聖書のヨハネ目示禄」、「刑事上学=法律・法曹(奉送)」等である。  「法曹」の「曹」は「魏志の曹操(ソウソウ)=丞相=武帝」の名前でもあった。そして、「魏志・倭人傳」の作者は『陳寿』であった。「ソウソウ」は、  「宗姐有=宗女の姐(あね・姉)=壱与」  「葬送=卑弥呼の葬送」  「早々=はやばや=把耶場耶」  「添う曹=曹操に奏争」  「装総=総てを装う」  「宋僧=曹僧、曹道宗の道元(正法眼蔵の著作者)」・・・眼蔵(めくら)  で、・・・「古事記」での「青草人」は「人民」に解釈されている場合が多いけれども、「草」は「薬草」で、「草人」は「薬師(本草師)」で、「医者」であるハズだ。皮膚病の「湿疹(シッシン)・瘡蓋(かさぶた)」の漢字も「くさ(瘡)」と訓辞られている。「草にかぶれる」とは「漆(うるし)」の類の草に触れて皮膚がカブレルことである。「漆」は「七」と同意異字である。「アリストテレス」の「形而上学」の「(7・七・漆)」は「ある」の「概念規定」であった。「七」の類字は、  「ヒ(ひ)」  「匕(めす)」  「ヒ(匙・さじ)」  である。薬師(くすし)、医者に必要な物は「匙(ヒ)」であり、「メス(執刀用小刀)」、「比」は秤りで比べる目盛りで、薬草の調合の量(かさ)である。「道草をくう」は本来の目的から外れて途中で他の事をして時間をつぶすことであるが、「本来」は旅や道行の途中で「薬草」の採取をしたことだろう。  「草々(くさぐさ)=句作具乍」、「草創」、「草双紙(くさぞうし)」とは江戸時代の「絵入りの読み本」で、「赤本」とか「黄表紙」と云われたモノだ。「扱双」とは「対」になった「フタツを扱う」意味である。  「プラトンの無限(∞)」とは「大と小」=「二」であった。「∞」は「双眼・寄り目」の図形だ。  私流には「大と小」とは、  「大=一の人」  「小=八(や・やつ・ハチ・は)の亅(かぎ=鈎・はり=針)」  である。  「大小」の同音異字は「代償(ダイショウ)」で、「タイショウ」は、  対象・大将・大勝・対称・対照  鯛章(古事記の竜宮城の『鯛=赤海鮒魚』)  ↓                     ↓  ↓       魚 +即(皀+卩)=鮒(ふな=附名)  ↓ ↓ ↓  あかうみ   まな  ↓  さかな(作仮名)  ↓↓↓↓   ↓↓  ↓  ↓↓  蛙掛得診   真名、 即、 得尾  醍嘗(醍醐味=醍醐天皇、  ↓      あるいは  ↓      後醍醐天皇の食したバター、チーズか蜂蜜)  ↓  乳酪  耐嘗(臥薪嘗胆=会稽山で雌雄、怨念の決戦をした呉と越の諺である)  ↓                ↓↓  試みる             越王の句践(勾践・匂践)と呉王の夫差  「十八史略・春秋呉」・・・18=重鉢(椀・蜂)  ↓  「夫差」、志、復讐、朝夕臥薪中・・フサ=絃・弦  「句(勾)践」、反国、懸胆、於坐臥・・・・勾配  で、「会稽、東冶」に存在したのは「邪馬台國」だ。この『臥薪嘗胆』は「ロシア(魯斯亜)」に「対」する「日清戦争後の復讐(三国干渉)の合言葉」であった。「台秤(邪馬台の天秤内。天秤座の位置とは紀元前の秋分点であり、正義の『アストライア女神』が主神である。星座は台形である)」、そして「大照(天照大御神・日照・火照命=海幸)=太照(太安萬侶)=他意照=太陽」である。ならば「日暮(呉)・夕闇・日没=酉=西」は「日遠・火遠理命=山幸彦」だ。  「古事記」の「山幸・海幸」には、次のヶ所の記録があり、  「・・・是以海神、悉召集海之大小魚問曰、若有取此鈎魚乎」     ↓  「是、もって、海神(解尋・改審)、悉(ことごとく・シツ・シチ)、召し集め、海の『大小』の『魚(うお・さかな=作仮名・ギョ・まな=真名)』に問(と)いて曰(いわく)、若(もし=模詞・わか=話掛・ジャク=字訳)、此の『鈎(コウ=考)』を取る『魚(真名)』は有るか?」  これを、わたしが「現代語(誤?)訳」したモノを併記した。「真名」とは「漢字」である。「サケのサカナ」とは「まな」でもあった。この「山幸・海幸」の部分はアキラカに「プラトン」の「大小=無限(∞)=2(二)」の「真名」の「翻訳」で、「かぎ(鈎・鍵・嗅ぎ=匂・勾配=交配)」であり、「鉤=鈎(コウ・ク)」は、  かぎ・帯留め・釣り針・鎌・枝矛・剣の環頭・掛ける・引っかける・とる・引き寄せる・さぐる・引き出す・誘う・おびきよせる・まがる・かがむ・めぐる・まわる・とめる・とどめる・そむく・動く・動かす・くまどる・くじ・かぎはしご・かけはしご  等と意味し、読まれる。「鉤=鈎(コウ・ク)」の類字は「いびき(鼻+句)=鼾」、「駒(ク・こま)」である。「こま(独楽・狛・駒・小間)使い」の名人である。「独楽」は「回し遊ぶ道具」で、「どくがく(獨学・独学・度苦学・読学・毒学)」を「独り、楽しむ」とヨムのだが・・・「独逸(ドイツ)の学」であり、「とくがく」ならば、「説く学」、『亞立斯度徳』の「徳学」であり、「アリストテレス」の「哲学」である。釣り針の「亅(ケツ・カチ・かぎ)=曲がった針」の類字は「JjrLΓΥγ・レ・し」等である。  「アリストテレス」の「形而上学」の「(8・八・捌=撚)」は「実体」の「概念規定」であった。「草叢」とは「草(下書き・草書・はじめ・卑しい・草履)」の意味で、「叢(叢刊・叢刻・叢書・叢談・叢話=色々な話を集めた書物)」の意味の「本屋」を「草薙(くさなぎ)の剣」と「天叢雲(あめのむらくも)の剣」にヒッカケタものだ。  天叢雲  =テン ソウ ウン        ↓ ↓ ↓        天  相 雲(運)・転送云・転宗有無=改宗の有無  剣(ケン)=つるぎ       ↓↓↓       釣る義・鶴来・都留鬼・柘留記・敦岐・吊る義・蔓木  は「素戔嗚(須佐之男)」が「八俣大蛇の尾」から得たモノだ。そして、  倭建=(やまとたける・ワケン            ↓↓            話懸=訳・和気・分け・沸け・湧け  が、  焼津=やいづ     ↓↓↓     哉意図、夜異図、八委図、家移都、埜易図    =ショウ シン      ↓ ↓      焼  身=傷心・焦心・正真  で使用した時から「草(ソウ・くさ)薙(テイ・タイ・チ・ヂ・なぎ=名義)の剣」と「名前が変えられた」のだ。ちなみに、「草」は「日下(日本=似本)の日の十(癸=キ・みずのと=水戸)、「薙」は「日下(日本=似本)の雉(きじ=記事・生地・木地)」である。・・・「水戸の記事」とは「大日本史」であった。  「アリストテレス」の「形而上学」の「(2・二・弐)」は「因(もと)」であった・・・「日本史」を大幅に改作した「偽物」・・・?  ・・・「ソ・ウ・ソ・ウ」ならば、「組んで得る、遡(さかのぼ)る胡(西洋)」。「ソ・ウソ・ウ」ならば、「訴(素)、嘘、有」である。  ・・・「瀧の素は胡」ならば、「鳴瀧塾」の「姐(素)」は「宇(芋・兎・菟・胡)」で、「楠本オタキ」さんは、「シーボルトの妾(めかけ)」で、彼「ジーボルト」は「紫陽花(あじさい)」に「オタク」と学術上の植物名を付けた。そして、彼らの「女(むすめ=娘・オンナ)」は「オイネ」さんであった・・・「辞意簿留図(ジィボルト)」である。  さて、また「アリストテレス」から抜粋してみよう。  第一巻の(7)総括  ある人びとは、〈質料〉(素材)としての原理を説いている…… ・・・つぎに、〈とはもともとなんであるか〉を示す〈本質〉について、だれひとりこれを明確に提示した者はいないけれども、いちばんこれに近い考えを述べているのはイデア論者たちである。  というのは、彼らイデア論者たちにおいては、感覚される諸事物にとって「イデア」とは、またそのイデアにとって「一」とは、けっして質料(素材)にあたるものとして考えられているのではないし、また、動(運動変化)の始原としての役割を果たすものと考えられているのでもない〔むしろ彼らの主張によれば、それは不動性と静止性の原因である〕。彼らの提示した「イデア」はほかのそれぞれの事物にとって、また「一」はイデアにとって、それぞれの〈とはもともとなんであるか〉を規定する本質としての意味をもっているのである。  さまざまな行為や変化や動きが〈それのために〉なされ生じるところのもの(目的)については、彼らは、たしかにある意味においてはそれを原因として語っているが、しかし、はっきりとそうした目的因として語っているわけではなく、原因であることがそれの本来的なあり方であるような形で語っているのでもない。 ・・・  同様にして、「一」や「真実在」が善なる性格のものであることを説く人びとも、その「一」や「真実在」が事物の本質を規定する原因であると主張しているのであって、けっしてそれのために事物が存在し、あるいは生成するのではない。したがって、彼らはある意味において、〈善〉を原因として語っているとともに語っていない、ということになる。つまり、彼らの説では、〈善〉がまさに〈善〉として直接原因となるのではなく、ただ付帯的に(間接的)な仕方で原因とされているのである。・・・  これは、「壱与」や「邪馬台国」は無かった、との批判的な示唆ではあるな・・・「善(ゼン)=前=全」がまさに「善(ゼン)=前=全」として直接原因となるのではなく、ただ、  「付帯的(フタイテキ)=付台(邪馬台)的           =付他意           =付鯛(竜宮城での乙姫の家来の鯛)的           =付太(太安萬侶)的           =付載(記紀)的           =冨(登美比古)大敵           =付腿(髄・随・股・足・又・俣・垂・亦)的           =付対(双書)的           =赴碓(日本建)的           =普岱(阿蘇山)的           =附替的           =譜他意的」に  「間接的(カンセツテキ)=関節的             =官設的」な仕方で原因とされているのである、             と云うことである。  では『アリストテレス』の「一」とは何か?・・・それは「形而上学」の第五巻(哲学用語辞典)の『(六)』のサブタイトル「一(ひとつ)」に語られているすべてである。ここには「コリスコス」と云う人物を登場させている。そして、このヶ所から言葉を拾っていくと、  「連続体の一」  束(たば・ソク)は紐(ひも・チュウ)  膠(にかわ・コウ)は木片(きかた・モクヘン)  点(黠・くろぼし・ぽち・ちょぼ・しるし・くぎり・テン)  線(いと・すじ・セン)  面(おも・おもて・つら・かを・まえ・メン)  腕(うで・ワン)や脚(あし・すね・キャク)  彎(ひく・はる・まがる・ワン)  曲(まがる・キョク)  脛(すね・ケイ)や腿(もも・タイ)  「基体の一」  「種(たね・シュ)の一」  油(あぶら・ユ)と酒(さけ・シュ)の液体  「類(たぐい・ルイ)の一」  馬(うま・バ・マ)、人(ひと・ジン・ニン)、犬(いぬ・ケン)  「定義の一」  三角形  平面図形  「実体の一」  靴(くつ・カ)  沓(あふれる・あう・おかす・まじる・トウ・タフ・ドウ・ドフ)  「元(もと・ゲン)の一」  数(かず・スウ)、元、尺度  半音、子音、母音  類比的  多(おお・おほ・タ)  等である。  「一」とは「①連続一体」、「②形相一体」、「③定義一体」のモノである。  では、これを踏まえて、「現存・古事記」の「中巻(第一代神武)」、「日本書紀」の「一巻(神武・磐余)」とは、スナワチ、「(6・六・むつ・ロク=賂句・陸=陸奥・リク=裏句)」、「裏句」は「一(ひとつ)」である、と云うことに尽きる。「陸奥」とは「地理的場所」の名称であり、「東北地方」である。しかもここに使用されている文字は「現存・古事記」の「表句(評句・評区=郡区)」であると同時に「裏句(里区・理句=陸)」なのだ。・・・ふざけているわけではない、もし、『アリストテレス』の「形而上学」を読んで、踏まえていたとしたら・・・多分、「現存・古事記」の作者の意図は「裏句」は「一(位置=異字・意地・意字・医事・維持・遺児)」である、とシグナル(鉤・鈎・匂)を送っているのだ。スナワチ、「鉤」=「金+句」=「禁句」である。  さて、ここでワタシが何を云ってもハジマラナイから読者が直接、古本屋にでも行って『アリストテレス』の「形而上学」を買い求めるか、立ち読みで、あるいは「図書館」で読んで貰いたい。 最期に「(15・十五・壱拾伍)」の「相関的(相対的・相似的)なもの」のヶ所の部分を抜粋してみる。 ・・・  かくて、すべてこれらの相関関係は数的関係として語られ、数の様態といわれるが、またさらに「等」、「似」、「同」なども、別の意味ではしかりである。〔なぜならこれらはすべて「一」とのかかわりにおいてかたられるからである。すなわち同とはその実体が一つであるものであり、似とはその質が一つであるものであり、等とはその量が一つであるものである。しかも「一」は数のはじめであり尺度であるゆえに、すべてこれらの関係は数的関係といわれるのである。とはいえそれは同じ意味においてではない〕 ・・・  これらは、「既成の日本史」が、「壱」との「相関関係」で、「数(かず=和=倭=話・スウ)=年月日」、「等(ひとしい・など・ら・トウ)=均しい」、「似(に・ジ)=爾・尼・丹・煮」、「同(おなじ・ドウ)」の「同音漢字」で語られていることを「亞立斯度徳(哲学者、西周の『百一新論』に記されているアリストテレスの漢字の当て字)」が、  亞・・・ア=Y亜吾唖雅鴉呼嗚娃烏乎・蛙(かえる)・・Y(ワィ=倭・話意)  立・・・リ  斯・・・ス  度・・・ト  徳・・・テ=手弖・弟戴載出      ↓↓↓↓↓↓↓     レ=麗例霊戻禮例齢      ↓↓↓↓↓↓↓     ス=州笥州棲諏守素  「蛙〈ア・かえる=変える・換える・換える・還える・代える・帰る・買える〉リスト照霊素)」を示唆しているのだ。 「ソクラテス(曾虞刺鉄・東海散士の『佳人之奇遇』に記されている漢字当て)」の弟子は「プラトン(伯拉多・西周の『百一新論』)」であった。「プラトン(伯拉多)」の弟子は「アリストテレス(亞立斯度徳)」であった。「アリストテレス」、「十七歳」の時に「プラトン」の「アカデミア」に入学したのである。「十七歳」である。  「アリストテレス」は「十三歳」の「アレクサンダー大王」の「家庭教師」でもあった。「十三歳」の「大王」とは・・・『陳寿』が記録した『魏志・倭人傳』は、『魚豢』の記録したと謂われている『魏略』を下敷にしたと謂われているが、『魏志・倭人傳』にある『壱与』も『十三歳の宗女』であった・・・これは偶然なのであろうか?・・・ならば、「日本書紀」に記されている「ツノのアリシト・ツヌガのアリスト」を当然にも疑ってみるべきだろう。そして、現存する「ある記録」は「書き写されてきたモノ」であることも・・・「不比等」であることも・・・等しくは比べることは出来ないことも・・・ふじわら=「普字話羅(拉)」=藤原=トウゲン・・・唐源、桃原・問う源、答源、訊諺、統言、当元・・・なかとみ=「名化渡身(三)・長登美」=中臣=チュウシン・・・中心、忠心、衷心、忠臣、中震、注進、忠信、重臣、重心、獣心・・「丑神」、「柱槙・柱榛」であることも・・・  「哲学」とは幕末に西欧諸国へ「留学」し、明治に活躍した『百一新論』の著者『西周(にし・あまね)』が「発明」した「言葉」であった。「百」は「もも」とヨム。「100」はギリシャ語で「エカトン(εκατον)」であり、英語では「ハンドレッド(hunddorange)」で、「村落(cunty)の小区画」である。ローマ数字では「C=100」である。「一〇〇」とは「一の○○(二零・似霊・『似齢=似た年』)」である。そして、「∞(無限)=○+○」とは「○」と「○」が接合した記号である。何故、従来の「形而上学」を敢えて「テツガク」としたのかは「テ・ツ・ガ・ク」、「テツ・ガク」の「同音異字漢字」をしらべてみればイイだろう。  『形而上学・写本』の原題が『メタピュシカ・十一巻』、『タ・メタ・タ・ピュシカ・十巻』であるなら、これに漢字を当てるとするならば、  メタピュシカ  ↓↓↓↓↓↓  女多比喩史家・・・十一巻  タ・メタ ・タ・ ピュシカ  ↓ ↓↓ ↓  ↓↓↓↓  為  多 々 比喩史家・・・・壱拾巻  太 眼侘 拿 日由志賀(滋賀)  「古事記」は、「選考(先行)」した「字撚学(自然学)」の「後(メタ=女多=おんな、おほい=音名、嗚補意)=ゴ・語・誤・悟」に『形字上学(形而上学)』が出来た故の『ゲンダイ(原題・現代)』であった・・・。


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