「史記・書」(2)・(46b) 「暦書・第四」
「史記・暦書」の記録から順次、抜粋していくので「古事記」と重なる「漢字」を発見してもらいたい。 次の文章と字句は「現存・古事記」を成立させている「基本的な思想」にもなっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「日と月の運行で{一年が}成立ち、{日と月なので}『明』である。 ・{昼の}明は<孟>{長ずる}であり、{夜の}幽は<幼>である。 ・{長幼の順によって昼の明が先行する}幽と明とは、雌雄{日月}は交 ・互に現れて、正しい法則を踏んで行く。日は西に沈み東から出る。月は ・東に沈み西から出る。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「黄帝は、暦を制定し、陰陽五行の法則を立ててその動きを知り、閏月 ・を置いた。そこで、天地の神々から万物に至るすべてを支配する官が定 ・められ、五官と称した。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これを踏まえて「五官」、「五行」を検討すれば、 ・・・・・・・・・・・ ・ 五官 =(語幹・互換・語感・五感) ・ ・「『春官=青雲』」=あお ・いろ・くも=亜(阿)将 ・伊呂・句模 ・ 蒼=碧 ・「『夏官=縉雲』」=うすあか・いろ・くも=碓(臼)亜化・意芦・句模 ・ 薄垢=有珠赤 ・「『秋官=白雲』」=しろ ・いろ・くも=芝芦(代) ・違葦・句模 ・ 代=城=史路 ・「『冬官=黒雲』」=くろ ・いろ・くも=区芦(玄) ・異濾・句模 ・ 苦路=句賂 ・「『中官=黄雲』」=き ・いろ・くも=記(紀) ・移絽・句模 ・ ↓ ↓ ↓↓ ・・・・・・・・・・・ 姫(比賣) 色 琥 母 妻 ひめ つま たま も つま 鬼(秘) 柘磨 霊 喪 具=交 比女(目) 津間 多真 模 菜・海藻 「中官=古事記・中巻(中換・那珂姦)」の「黄雲=王運=規矩母=起句模」である。 「姫(ひめ・キ)」の同意文字は「媛(ひめ・エン)」で、「古事記」では「比賣」、「毘賣」の漢字が使用されている。「ひめ」は「秘(ひめる)」でもある。どのように考えても「比賣」は「比べ賣る」で、「古事記」の「姫=ひめ」を訓じる「漢字」としては不適当で怪しいと、私は思うのだ。もし、感覚的に「萬葉仮名」で、あてるなら「日女」だろうが、と、思うのだが、そうにはなっていないのだ。何故か・・・?・・・また、ヒツコク云ってしまうのだが・・・自分ながらクドクドシイ(口説く・土・思惟=九度・垢怒私意)・・・ナッ。 この「比賣」には「姫・媛」以外の別な「秘め」としての意味があるからだ。当然、「字形の『比』較・『比』喩・『比』肩・『比』例・『比』況・『比』興・『比』擬」で、『売買=賣買=交換=トレード』で、『比翼連理』されている「文字の交換」と「意味の交換」である。『比律賓』は「フィリピン」の漢字名だ。『比國』は「ベルギー」で、「隣國」の意味だ。「比」は「中国・周代の五家を一組とする制度・五人組」のことだ。 さらに「毘賣(ビバイ)」である。北海道に「美唄(ビバイ)市」がある。何故、「蝦夷の北國」に「美唄」なのか・・・だが漢和辞典を調べればその「謎」は解ける。 毘=田+比・・・ヒ・ビ・厚(あつい)・増(ます)・援助(たすける) 明(あきらか)・廃(すたれる)・はげ落ちる 剥(はげる)・悶(もだえる) 臍(へそ・ほぞ)・蔕(ほぞ・へた) と、記されてあるのだ。これを見てあなたは「美唄の謎」を解き、腹を抱えるほど笑えるだろうか?・・・まだ、無理かも・・・無理に笑う必要もないのだが。・・・ポイントは「ヘソ」である。「ヘソ」であることが判って、はじめて「ヘソ」のコトワザに目がいくのだから回りくどいのだ。国語辞典には「ヘソで茶を沸かす」、「ヘソの宿替え」は、「おかしくて『仕方が無い』ほどに、腹を抱えるほどに笑える例え」と説明されているのだ。「仕方が無い」は「支方(四方・司法・至宝・私法=ム邦)が内(乃・拿意・名意・那葦)」のだ。「ヘソ(臍)」は「腹(ハラ)の真中(まんなか)」で、「中央(チュウオウ)」で、「ハラのヘソ(中)」から声を出して「美唄=ビバイ(毘賣)」するのだ。唄(歌)には腹筋と声量が必要だからね。とすれば、「オペラ」、「カンツオーネ」の、「歌姫」である。 「鼻場=岬」、「尾場=星座紫薇台の尾宿」、「火場=鍛冶場=火山」の「ヒメ」の「イ」である。・・・ツカレルナァ・・・モゥ・・・ さらに「ヘソを曲げる」は「機嫌を損なう」である。「期限・起源・紀元」を損なうだ。そして、「機嫌=木幾女兼(鬼気女牽=危機女権=記紀序牽)=ハタきらい=秦嫌い」だ。・・・「秦氏」が「嫌い」なのか、「秦氏」を「嫌う」なのか・・・「伊賀越え」で有名な忍者の頭領、「服部半蔵」にその真意を尋ねてみたいのだが・・・タシカニ、忍者は「曲者」だ・・・ たぶん、「経素(糸又土主糸)=教祖=景祖=形措=硅素(珪素・タマゴ)=鶏蘇=雛=復活」を「曲解=真外留」で、「紀元を損なう・起源を損なう・期限を損なう」の意味掛けの「ヘソ=毘」なのである。 ついでに「毘」の熟語は、 毘佐 =助ける・補佐 毘沙門天=多門と訳し、四天王の一。北方を守り、財宝をつかさどる。 毘補 =助け補う 毘盧遮那=光明偏照と訳す。仏身の尊称。「天台宗」では「法身仏」、 「華厳宗」では「報身仏」、「密教」では「大日如来」 「盧=虎+田+皿」=「寅(斗羅)、國の方位を拾う、早羅」 =薇留舎名=生時を機軸に据える
「紫薇斗数(占い)の舎の名」 紫薇=サルすべり、サルの腰掛け 薇=蕨(ヨモギ)、ぜんまい(薇・発条・わらび) カラス(鴉・烏)のエンドウ豆 である。「毘」は「田+比」で、「タヒ」とよむならば、「他比・多比・太比・他日・多日・太日・侘卑・詫非(非をわびる)」で、「侘比=ヨコシマを比べる」である。「たび」ならば、「旅・度・足袋」であり、「たい」ならば、「台・鯛・胎・対・碓・腿・対・太・帯」であり、「古事記」使用の象徴的漢字である。 台 鯛 胎 対 碓 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 邪馬台・竜宮城の鯛・胎中天皇(応神)・対馬(つま=夫妻)・小碓(倭建) ↓ ↓ ↓ 対馬=嬬=褄 ↓ ↓ 腿 太 帯 亠(音の略字)のメの寸(はかる) ↓ ↓ ↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 立日田各ウ子目 ソン 長髄毘古 ・太安萬侶 ・帯(多羅斯) 建比多較宇視女 尊 龍尾多角得支目 龍妃建客宇締女=竜田姫 ↓ 劉被侘郭得次女=持統天皇 ↓ ↓ ↓ 郭務悰(忄宗) 劉氏(劉仁軌・劉仁願・劉徳高) 更に漢字分解すれば、 毘=田→囗(国・囲・國・『圀』・『圍』)+十(四方・東西南北の方位) + 比→上(卜+一)+匕(メス=女・牝・雌・・) ↓ ↓ ↓ 牛+字(あざ)=牸(めうし) ↓ 牛の痣 、斑点(ハンテン) ↓丑の亜座の反転(半天・冲衝) ↓ ↓ めす ↓ 未(羊)=南西 ↓ =牛+建=去勢された牛 召 ↓ 丑=チュウ=紐(糸の牛)=うし ↓ ↓ ↓ 中=沖=冲 主 ↓ ↓ 午 支の次 未支 ↓ ↓ ↓↓ ↓ 馬史の字 ↓ シ ↓ 己(キ) ↓ 私=ム ↓ ↓ ↓ よこしま(邪・横島) ↓ で、「国の四方、東西南北を占う初めの位地、七支=午支(馬史=司馬遷の史記)=夏」
「午支」の次の「八支=未支=ヒツジのヒ=日辻の支」である。 「古事記」の 「『御中』主神=みなかぬし=皆華主=未拿加奴支=未「卯」亥 ↓↓↓↓↓ =診泣かぬ支・・・・・・・・・・・・・卯=兎=宇佐 =みなかぬし=診、那珂(那賀・名賀・長)の主 巳拿加主・・・・・・・・・巳「酉」丑=三合会局金 酉=鶏=軽=稽=景 酉の日の恵=熊手=箒 鳥居の形=幵 「オンチュウシュ」は 『音紐(おとひも・オンチュウ=音柱=音注)』=「御大・温帯」の 『アルジ(主)=有時・或地・在字』の 『カミ(神)=加味・加美・髪・上・祇・紙・香美・咬み・噛み』、 『ヒ(さじ)』=匙=日一卜人ヒ =スプーン=洲不運=素浮雲=諏俘運 =些事=此の貳のコト=止二一口ヨ亅 ↓ ↓ ↓↓ コ ジのコト =故 事の古都・・・長安・洛陽・平城・平安 =古 字の琴 ・・・箏・瑟 =古 寺の古都・・・飛鳥・法隆寺 =固 辞の言 ・・・大化改新時の皇位の辞退 =固 持の異 ・・・持統天皇の吉野行き =子 時の弧斗・・・夜中・十二月 =孤 児の呼賭・・・みなしご・おやなしご =居 士の去途・・・蘇我氏の在家仏教徒・唯摩 =誇 示の虎徒・・・姑の徒・藤原氏 =コ シのコト =古 史 ・・・旧辞・国辞・史記 =枯 死 ・・・枯葉・落葉 =古 詩 ・・・萬葉集 =古 志 ・・・古志の國 =腰・輿・濾・漉・超・越 =ゴ シ =互 詞・誤史 =互 市 ・・・商売 =五 指 ・・・五本の指 =五 支 ・・・辰=竜=龍=劉=隆=笠 =呉 史 ・・・孫氏 =ゴ ジ =誤 字 ・・・互示・后辞 =護 持 ・・・護國護持 ・・・大仏=おさらぎ =長 羅義=長羅記 =譯語・伎(記) =訳語羅甸 =訳語拉丁 ・・・御国語辞=音国語示=遠国字 である。・・・「ラテン語(羅甸語・拉丁語)」は「ローマ・カトリック教会」の公用語である。と同時に、「コウヨウゴ=甲陽期」は「甲斐・武田の甲陽年鑑の年号史」なのだ・・・「信ジテ貰エナイ」のは当然、「信・時・テ・貰・重・名・異」、「神事手模羅重名異」からだ・・・ さて、「古都(コト)」の筑紫で「琴・箏・瑟」の占いで「死(殺)」んだのは「神功皇后」の夫であった「中哀(チュウアイ)天皇」である。どうみてもこの天皇は状況から暗殺されたのだ。側近は「竹内(建内・武内)宿禰」であった。この人物の子供が「男子七人」、「女子二人」である。 戦国時代ならば「他家(タケ)の中(うち)の宿(やどり)音(ね)」は、「竹中半兵衛(重治)」だ。「竹内宿禰」と「竹中半兵衛(重治)」は名前が類字、示唆しているが時代も業績も違う・・・だが、彼は「天文十三年生・天文七年六月没」である。美濃の「斉藤道三」に仕え、「織田信長」が「永禄十年」に「斉藤龍興」を滅ぼした後、「信長」の配下、「木下秀吉」の参謀となって「黒田官兵衛(如水)」とともに活躍。「中国(毛利)攻めの時に播州三木城、攻略時に発病し、死亡」した人物なのだ。日本の『中国』地方は「長州」とも言われたのだ。 ・・・何故か「長」も「たけ」と訓じるのだ・・・「竹」、「建」、「猛」、「武」、「丈」、「嶽(岳)」、「茸」、「炊」、「焚」、「他家」の『共通項』が「たけ」だなんて・・・ふざけんな、何が『キョウツウ・コウ(共通項)』だっ!・・・数学、算数で、「甲府藩主・徳川綱豊(家宣)」に仕えて「西の丸・御納戸組頭」になった『関孝和』が考えだした「高等数学」、・・・「点竄術」、「解伏題之法(行列式・方程式論)」、「円・多角形の面積の算出法」等・・・「発微算法」、「大成算経」、「括要算法」の中にも記されているんじゃぁナカろうか?・・・「きょうつうこう」・・・彼は「寛永十九年」に生まれ、「宝永五年」に没しているのだ・・・「数学者」とは「かず(和)」にこだわった人物だ・・・怪しいのは「数の論理」で、「虚数」と言うものだ・・・彼の周辺の人物が「現存・古事記」の作者、改作者かも・・・。 もちろん、「新井白石」先生も「甲府藩主・徳川綱豊(家宣)」に仕えて「幕閣」となって「鬼」と呼ばれた人物なのだ。 とにかく、「歴史的事件」の「共通項」は「中国攻め」、「水攻め」、「水、海没」だ。 さて、「中国=唐」攻略時(663年)に「白村江・熊津」、「水城=御津岐」で死亡したのは誰であったか・・・ また、「卑弥呼」の時代に「戦没・海没」したのは誰であったか・・・ また、「神代」で「海没」したのは誰であったか・・・ また、「壬申の乱」で「湖没」したのは誰であったか・・・ また、「諏訪湖」の領主で「暗殺」されたのは誰であったか・・・ また、「随・唐」への「派遣」で「難破」したのは誰であったか・・・ また、「出雲の國譲り」で「海没」したのは誰であったか・・・ また、「相模の海」に「海没」したのは誰の「妻」であったか・・・ また、「屋島・壇の浦」で 「幼い天皇」を抱いて「海没」したのは誰であったか・・ また、「厳島の戦」で「敗北」したのは誰であったか・・・ また、「石山・本願寺」を攻めて「海没」したのは誰であったか・・・ 等々・・・「西に海没」する「天体」は「太陽」で、「東に海没」する天体は「月」である・・・去っていくのは「歳月日時分秒」のカコ(水主)、やって来るのも「歳月日時分秒」のミライ(壬羅委)で、今現在を軸(ジク)にした「トキの間」だ。 また、「世界史の各時代」で「海没」したのは誰と誰であったか・・・ また、「エジプト神話」で「海没」するのは誰であったか・・・ また、「ギリシャ神話」で「海没」したのは誰であったか・・・ ・・・「カイボツ」は「甲斐・没」で、「武田家の没落」である。 「他家(タケ)の中(うち)の宿(やどり)子(こ)」ならば、「東邦の三博士」に祝福された「キリストの誕生」か、女性なら「たけとり」の「かぐや姫」だ。 「仲哀(チュウアイ)天皇」の同音異字が「中相」なら、殺された「中合(チュウアイ)=中会」、「中宗(チュウソウ)」、「中號(チュウゴウ)=中号」、「沖合=丑合(子)」、「重合」、「長合」、「那珂・那賀・名賀の郷」である。「会津・高松」の地名由来は「古代・崇神天皇紀」の「大毘古命」とその子供、「建沼川命」が「出会った所」だからと、「古事記」は言っているのだ。よくも、よくも「ヒント」を「随所」にだ・・・九州、「長崎・島原」周辺の地図をみよ、「相津」が有りはしないか・・・と。 「折衷(セッチュウ)」と云う言葉もある・・・「中」は「中大兄皇子=天智=転地の天皇」・・・「號」は「号虎(ゴウコ)」で「大海部人皇子=天武=添附、添付、、貼附、伝(傳)分(文聞)=転赴、転婦の天皇」かも・・・「合古(ゴウコ)=舎(舎人)=宿」・・・「號」、 號=コウ(カウ)・ゴウ(ガウ)・・・皇后・飼我鵜 =さけぶ・怒号・呼号・なげく・なく・鶏が鳴く・虎が吠える・呼ぶ 呼び寄せる・名ずける・となえる・言いふらす・名・名称・国号 呼び名・別名・住地、書斎にちなんだ雅号・おくりな(諡)・うわさ 評判・名聞・合図・しるし(記号)・いいつけ・命令・号令・な 数量の順番に付ける字・・・(鉄人28号・哲人弐拾八号) 悲しみのために鳴き叫ぶこと・呼号 である。 ここは「怒号・呼号・なげく・なく・鶏が鳴く・虎が吠える」を注目されたし。「奴合・度合・土郷」、「姑郷・弧合・古郷・古豪」、「嘆く・投げ句・名解句・拿外句」、「鳴く・泣く・哭く・無く・亡く・名句」である。 それで、「鶏が鳴く」のは「朝(あさ・旦)=安佐(西の長安を補佐する東の洛陽)=厚狭(コウキョウ・公共・好況・口供・広狭)」で、「字(あざ)」である・・・「共にするオオヤケ(公)」、「好況」とは「『景気』がいいコト」だが、「女の子が好きなのは水(御津・蜜・密・瑞・視ず)の兄(阿仁・王仁・経・景・軽・恵)の教」なのだ。「口をソナエル(供)」、「広く狭く」は「廣(广黄)」と「狭=山と山の間」で、「狭斜」は「長安の遊里、遊廓」である。「狭(キョウ・コウ・せまい)=獣(犬)+夾=けものせまい(毛・気・家も載せまい)=いぬせまい(委奴世間遺・慰奴世真意)・・・「カイ」の強攻、強行、凶行、恐慌、強硬、「教皇の施米」・・・「施妹・世妹・瀬妹・背妹=脊真意」・・・真意に背くのは「妹」だ・・・「妹背山の女庭訓」とは何を言いたいのか・・・ 「虎(コ)吠(ハイ・バイ・ベイ)」は、「虎(寅)場位(売・買・狽・倍・煤・唄・培・貝・苺・賠・媒=女甘木)、子買(売)、姑皿(さら)、弧米(方位の弧)」、「子部の縊」なら「壬申の乱」の功労者、尾張の「小子部」の自殺である。「翼をつけた虎」とは「天武天皇」であった。「虎の巻」とは「六韜三略(リクトウサンリャク)」の「周の兵法書」であった。 それよりも先ず、この「コ=『虎』」を「売買」したのは誰か? 『丑=牛=うし』は『うし(ぬし)=主』であり、十二支の『丑(うし)支』の対角(冲)は『未(ひつじ)支』であり、その中心(本気)は「土(己)旺」なのだ。凹凸の形はカルデラ火山だ。窪みである牝で、雌、女だ。 『司馬=しば=芝(艸+之=くさか・これ=日下・之)=し』で、『し=子(ね)=音(おと・おん)』であり、「羊(未)使い」は「さまよえる『子羊』を神のもとへ導く牧師」である。イエス・キリストは漢字では『移鼠』である。「子が移動(異動・異同・医道)」するのである。 ・・・キリスト(耶蘇)教の宣教師(遷京史=遷都始=戦況史=遷橿姿)で、神父(申赴=新府=新婦)である。 ヨミガ(カ)エル、ヤマタイを、コクを、教えるのは、センキョウのシ、シンプである・・・シンプ(振譜・針婦=案針の妻女?)はカンフ(漢譜・鑑敷・換府)、カムフでもあるのだ。 スナワチ、「武帝」に「去勢(宮刑)」された「司馬遷」が「獄中」から「召還」されて「史記」を「完成」させたこと、これに「対(文寸)比(上匕)=対毘=戴比=鯛妃=台比=他意比」させた「史記=しき=『敷=日本史』」の「戦況史」である・・・しかも、「日本戦国時代」の「キリスト教伝来史」は「古代邪馬台」の「センキョウのシ」が懸けられていると云うわけだが・・・ヘソ(毘)がワラウ(倭羅有・環裸卯)って、ワラウ(話・得)、ハナシを『・=うれしげに見る・詳しくみる・ついで(序)にみる・・縷』のだ・・・まぁ、馬鹿(莫迦)、場(婆・芭・罵)橿移と思わないで、漢和辞典を調べて笑って欲しいのだがネッツ・・・ファワッ、ハッ、ハハハハッ・・・?!・・・トサ ・・・まぁ、とにかく(菟似角=耳=茸)、私の話をツイデに聞いてくれ。 「『毘盧遮那』=大日如来」とは奈良の「大きくて御堂に納まっているモノ」と、鎌倉の「小さくて御堂に納まっていないモノ」の「二体(対)の大仏」さんだ。 「御堂=おんどう=音導」で、同音異字を導けば「怨導=恩導=穏瞳=遠道」で、「将、無道」である。 「毘沙門天」の「物ざし=旗」を風に翻したのは「上杉家」の家臣であった「長尾景虎=上杉政虎=上杉輝虎=上杉謙信」である。 「下剋上」の『虎(とら)』である。 「甲斐の菱形紋」と「風林火山」の旗を翻した「武田信玄(晴信)」の父親は「武田信虎」であった。 「追放」された『虎』である。 「天文十年(1541年六月)」に「武田信玄(晴信)」は父親の「武田信虎」から家督を奪って追放したのだ。 「天文十六年(1547年六月)」に「武田信玄(晴信)」は、「甲州法度之次第」を定めた。この同年同月に、「邦人のヤジロウ、ゴアで洗礼を受ける」の記録があるのだ。日本人の「ヤジロウ」がキリスト教の洗礼を受けて、「キリスト教徒」になった、と云うことなのだ。・・・日本人、最初(?)のキリスト教「洗礼者」であったのだろうか?・・・違う。最初の「キリスト教徒=『景教』の徒」は既に、「古代日本」に存在したのだ。 とにかく、「天文二十二年(1553年八月)」は最初の「武田」と「上杉=長尾」との「信濃川」、「川中島の合戦」であった。最も激戦になったのは「永禄四年(1961年九月)」の合戦だ。 これらの「事件=じけん=字懸」を「数字の占い」をも重ねながら検討してみよう。 「天文十年」・・・・天文(天分)を重ねるネン(撚・ネム=合歓)=壱拾年 ↓↓ 天問=典問=天紋=点紋=星座 てんぶん=転文=典文 てむぶむ=出六部務=写経した法華経を全国の 六拾六ケ国の霊場(寺)に
一部ずつ納めること・諸国行脚の僧侶=雲水 てんぶ =典部=添部=顛文=天武=填部 あまわけ=鴉間羽毛=海女訳=海部和気=尼訳 (1541年六月)=1+5+4+1=十一 =壱拾壱(位置中位置・位地重位置)の六(陸奥六) 「天文十六年」・・・天文を重ねる陸奥の執史=壱拾六年 (1547年六月)=1 +5+4+7=17・・・・6 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 壱 伍 肆 七 壱拾七・陸=位地・互・誌・牝・裏句 位置 語 しめす 吏句 =17(1+7=8)=位置が重なる史地は頗地(ハチ) =壱拾七=位置を拾う七(誌地・史知・示知・始地・姉治) ↓ 三国志・魏書・巻三十
烏丸鮮卑 東夷伝・倭人 「甲州法度之次第」=熊(コウ)の州の頗(よこしま)の津、 渡る乃(すなわち=素名倭地)の 時代(事大・次代・地代・字題・史題) 「同年同月」 =おなじとしおなじつき =将名字執詞雄名字津紀 「邦人」 =ほうじん =方 陣 =法 人 「ヤジロウ」 =耶字賂得=八字路得=夜璽路卯=哉示芦烏 「ゴア」 =語亜=胡娃=娯娃=互蛙(かえる=換える) 「洗礼」 =先例 =あらうれい=阿羅烏(卯)霊=娃裸宇励(猿女の踊り) 「天文二十二年」・・天文は二重に似せてネン(撚=よる=捌)=弐拾弐年 (1553年八月)=1+5+5+3 =14(1+4=5)=位置を拾って讀む語=壱拾四の語 「最初」・・・・・・祭処=サイショ=さいしよ =妻 子与・才子譽 祭 司与 歳 所 哉 姉與 =西 支輿(神輿・見越・御 輿) ↓ ↓ 音は地理 =最初=日+取 +衣 +刀 =ひ ・とる ・ころも ・かたな 比 斗留 股路模 方名=北斗七星柄杓方位 日 渡流 去路模 化他拿=十二宮二十八宿 毘 採る 姑芦母 潟 那=毘沙門の旗=長尾 斐 採る 虎鷺模 形 名=甲斐の旗 =武田 卑 執る 古路母 家侘名=卑弥呼の邪馬台 ↓ 琥賂母 ↓ ↓ ↓ ↓ よこしま 横島 卑弥呼 琥珀の玉名冒(日+目)=よこしま 「信濃川」 =しなのがわ=示名乃掛倭 「川中島の合戦」 =かわなかしま=掛罠鹿島=化倭那珂志摩 換倭那珂(那賀=長)示真 「永禄四年」 =洩録を讀む・輿(與=壱与)と武(天武)を撚(よる) (1961年九月)=1+9+6+1 =17(1+7=8)=位地を重ねる七(質)=壱拾七 ↓ 七夕姫・織り姫 「史記」は「敷」であり、「武帝」は「天武」であり、「甲斐・武田」であり、九州の「竹田」と「長田=那賀田=名賀侘」、「長尾=上杉」に懸けられているのだ。甲斐武田の歴史物語(?)・・・これは「甲陽軍鑑」らしいのだが。
「史記・書」(2)・(46bx) カケられているのは『長崎のバッテン(×)』である。スナワチ、『X=×=エックス=英語のアルファベットの第二十四字=ギリシャのアルファベトの第弐拾弐字=未知数の符号=予測し難い力』(ロウマ文字・X=ギリシャ文字・x=掛け算の記号・×=しめるの記号・〆=カタカナの文字・メ=ギリシャ文字・Xの発音、『ヒ・フ・キィ』=漢字の十=ナナメにした十=草を苅る、おさまる、こらす、いさめるの漢字のガイ・乂=たすきがけの×=カタカナのナの字の変形)なのがわかったかな・・・? 「五」の解字は「五=X+二」である。 十字架 ・+ 記号牝の下 ・♀ ロウマ文字 ・X、x ギリシャ文字 ・Χ、x 掛け算の記号 ・× しめるの記号 ・〆 カタカナ文字 ・メ 漢字用数字 ・五 ギリシャ文字「X」の発音は、『ヒ・フ・キィ』。 ローマ数字の「X」は十(ジュウ・とお・たり)である。 漢字の十を「ナナメ」にした十。「ナナメ」は「七女」で「七夕津女」である。 刀(かたな・トウ)を交えているように見える「乂」の訓は、 草を苅る=草刈鎌 おさまる=治まる・収まる・納まる・修まる=長丸=長円 こらす =懲らす・凝らす=姑羅洲=虎羅州 いさめる=諌める・勇める・・める で、漢字の音は「ガイ・ゲ」とよむのだ。「たすきがけの・×」は「カタカナ(片仮名・掛侘仮名・掛多仮名・形仮名・方掛名)」の「ナ」の字の変形である。 英語辞典で「X」を調べれば、「Xanthein」は「黄化色素」だ。「Xanthippe(ザンチィッピ)」は「口やかましい女・山の神・悪妻」でギリシャの哲学者「ソクラテス」の妻である。「Xen=Xenophon(クセノホン)」と言えば「BC・355年没」のギリシャの歴史・哲学者である。「xyst(ジスト)」は古代ギリシャの「雨天用の屋内競技場」だ。「Xroad」とは「十字路」のことで、もちろん、「Xm.,Xmas」はクリスマスだ。「Xn」はクリスチャン。「Xt」はキリストである。「XP=ΧΡΙΣ=ギリシャ文字によるキリストの票号で、最初の二文字」である。「XXX=triple X」は「ale(ビール)のアルコール強度を示す記号」だ。そして古代エジプト文字の「○の中に十」は町(都市)である。 ・・・決定的なのは日本にやってきた「スペイン=イスパニア=『西斑牙』」の、イエズス会の宣教師、「Xavier(ザヴィエル)=St・Francis」である。 ダレがこの「X文字」の「字形の同類型」と「異なった発音」、「異なった意味」、そして「歴史の共通項」を「掛けるモノ」として知り得たであろうか・・・「五=×+二=X+Ⅱ=十二」の漢字をサエモである・・・? ・・・「ヤジロウ」に関係する「バテレン=宣教師=せんきょうし=先教師=戦況史=船橋師」でしか有り得ないと、私はヨコシマに考えるのだが・・・そして、その知識を「伝承」されたか、知った人物だ・・・ さて、「姫」は中国の「黄帝」の「姓」であり、彼の母は「長い足跡」を踏んで、彼を妊娠(はらむ=胎)したのである。 「黄帝」は「軒轅氏(ケンエンシ)」であった。 「轅=媛=エン」の同音異字は、 遠(とおい)・・・・十位=壱拾位(ジュウイ)・・・重囲・獣医・中遺 ↓ 酉支・・・・・・・・・・・・・鳥・鶏・禽・鳳・捕り 西=爾志=螺 延(のびる) 伸びる=之毘留(シビル)・・・支日(備・尾・火)留 淵(ふち)・・・・・不知=不治 不知火・不治火 沿(そう)・・・・・宗=僧=嫂=争=捜=総=總=草 垣(かき)・・・・・化黄=化紀=化記=花期=華記・柿・加記 園(その・かき)・・陵墓(みささぎ)=祖野・・・・曾野・蘇廼(乃・埜) 燕(つばめ)・・・・津婆女=乙鳥・・・・・・・・・音調 怨(うらみ)・・・・恨み=宇羅見・・・・・・・・・コン=金・艮・坤・痕 縁(えにし)・・・・重西 艶(つや)・・・・・通夜・津哉 圓(つぶら)・・・・螺羅・津武羅 「猿(エン・円=丸)=申(南西・上海)=去=さる」で、「古事記」では「猿田彦」と「猿女=宇受女」である。「宇受女」は音のみの漢字ではない。「宇」の意味は「宇宙」であり、「空(そら・クウ)=虚=食(おす)」と、「天(あま・あめ・テン)=高(たかい・コウ=高井・他界・熊=北斗七星)=海部=海女=尼=娃魔=阿真」を「授受」された「オンナ」=「ムスメ」なのだ。 ・・・「壱与=壱與」である。 すなわち、「音名=音拿=音納」は「六州女・武洲女」=「陸奥の国の女」=「睦の那の女」=「武蔵の国の女」である。 「音名=音拿=音納」であるならば、「五行の音」をヨンでみれ、だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ 五行 =(語行・語形 ・琥暁・呉行 ・互仰) ・ 角 ・徴 ・宮 ・商 ・羽 ・ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ・「『角・徴・宮・商・羽』」=かど・きざし・みや・あきなう・う(はね) ・ 化努・記座視・魅夜 明氣拿盂・宇(般値) ・ 過度・吉舎支・未夜・亜紀名得・胡(葉音) ・・・・・・・・・・・・・・・ 角 ・徴・宮 ・商 ・羽 カク ・ キ・キュウ・ショウ・ウ・・・「しょう」は「セウ」とも発音 各 記 旧 称 得 較 記 旧 姓 得 書 紀 旧 照 得 掛句 記 究 将 得 九 世 得・・九世之讎(仇)=斎の襄公が紀を滅ぼ 急 逝 芋・・いも(妹) して九世の仇を報いた 九 星 得・・九曜星 (公羊・荘公四) 描 基 九 霄(天)烏=卯 掴 紀 球 章 得 羊=艸+キ=芋(いも)に類似 ↓ 羊質虎皮=見かけだおし 球磨=熊(ユウ)=隅(すみ)=隈(わい)=久万(求萬) ↓ 酉 角 環緯=倭委=和夷=輪囲 九州 熊本 住 我意=話意 「『五行=木・火 ・土 ・金・水』」=き ・か・つち ・ごん・みず もくか ど こんすい ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 母久賀 奴 坤 出 気 化 土 魂 未頭 陸 艮 遂 紀 化 椎 言 三柘 杢 家 怒 昏 睡 帰 化 津治 権 垂(スイ) 目 掛 図 金 出 幾 何 図知 根 推 ↓ ↓ 妾(めかけ)怒って金(鐘)を出す=卑弥呼、義父の童を出す 岐阜の話羅邊 干 支 ↓ ↓ 『木=甲乙』 → コウイツ(オツ)=皇位都(柘) ↓ ↓ 甲=焉逢・・・寅=摂提格=設定核(接帝化句) ↓↓ エンボウ=遠謀・遠望 ↓ 円・燕・怨・厭・圓・園・艶・媛=姫=軒袁(黄帝)・縁 乙=端蒙・・・卯=単閼(タンアツ) =探斡はカエルをサガス ↓↓ 斡(ワツ・ワチ・カン) タンモウ=旦望・探孟・探猛 は柄杓の柄 ↓ 誕・耽・胆・丹・淡・反・担・端(はた=旗・幡・秦・機) 『火=丙丁』 ヘイチョウ=並重 ↓ 丙=游兆・・・辰=執徐 =始柘序(質女・嫉女・室女・七女) ↓ ユウチョウ=酉朝・夕重・熊重・又調・邑塚 ↓ 邑=又・雄・熊・酉・尤・遊・右・幽・友・由宇・結・由 丁=疆吾・・・巳=大荒落=代行螺句(題考・句・台皇絡) ↓ タンゴ=端午・単語・丹後 ↓ 端・担・反・淡・丹・胆・耽・誕・探・旦・椴・炭・堪 タム=詫無・侘武・太霧 『土=戊己』 ボキ =簿記・母鬼・姥姫 ↓ 戊=徒維・・・午=敦羊(爿+羊=牝羊)=トンショウ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 舟つなぎ=杭 ↓ トン・タイ・テイ ↓ あつ・さかん・せまる・いかる・うつ・た ↓ だす・たむろする・うらむ・おさむ・たい ↓ ・つとむ・つる・のぶ トイ=問=樋=戸井=都井=土肥=徒夷=斗移 ↓ 斗・渡・図・土・都・戸・登・砥・妬・杜・兎・菟・途 己=祝犁・・・未=協洽=キョウゴウ=強豪・競合・京合 ↓ ↓ =経合・教合・橿合 ↓ ↓ =鏡合(鑑合) ↓ ↓ ↓ ↓十三力 歴史を合わす ↓壱拾参の地掛羅 ↓位置重纂(傘)の治下羅 シュクレイ=祝霊・宿霊・主琥玲 ↓ ↓ ↓ 犁 =レイ・ライ・リ・リュウ・ル・からすき 宿・叔・淑・縮・粛・夙・卆 おののく 種句=主句=珠琥=諏句=首工 小野之句 『金=庚辛』 コウシン=更新=功臣 ↓ 庚=商横・・・申=トン灘=トンナン・インナン・もどす名だ ↓↓ ↓ =遁 難 ・寅 難 ↓↓ ↓ =東 南 ・音 何 ↓↓ ↓ ↓↓ トン・イン・吐く・戻す・大きい ↓↓ 水が巡り流れる ↓ ↓ ↓ ↓↓ ↓ ↓ ショウ・オウ 戻す名だ=もどす 灘 ↓ ↓ あきない・よこしま(横島・邪・冒・・・侘・私・自) ↓ 「穐・秋・安芸・安岐・空き・飽き・明き・亜紀」の名の意 辛=昭陽・・・酉=作橿=サクタン・つくるかし ↓↓ =册 誕 ↓↓ =朔 旦 ↓↓ =索 湛 ↓↓ =詐 担=サタン=悪魔=鬼 ショウ・ヨウ=商用・称揚 ↓ 将・姓・生・小・章・照・少・笑・正・省・承・咲・鍬 鍾・象・衝・薔・嘗 ↓ なめる(名女留・拿女留・那目留) ↓ 呉越の戦い=臥薪嘗胆(ガシンショウタン)・会 稽 山 ↓↓ ↓ ↓↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 語閲の選(旋) 我志武賞 嘆 甲斐掛意 纂 賀辛 勝 譚 甲斐家遺産 賀=加貝(甲斐・海・開・魁・改) 『水=壬癸』 ジンキ =神記=壬記 壬= 横 艾・・・戌=淹茂=エンモ・ ↓ ↓ 遠 模 ↓ ↓ 媛 喪 ↓ ↓ 猿 母 ↓ ↓ 怨 母 オウガイ=よこしま・よもぎ ↓ 横 島 預模擬 艾=ガイ・ゲ・よもぎ・もちぐさ・としより・五十歳、 七十歳・久しい・経る・過ぎる・年の数・よわい ・年齢・大きい・美しい・みめよい・養う・報い る・つきる・やむ・たえる・到る・視る・こらす ・苅る・鎌・おさめる・おさまる・安らか 艾虎(ガイコ)=端午の節句に頭に載せるヨモギで作った虎の人形 ガイコ =我意顧(かえりみる)、単語(丹後)の接句(説句)に歌詞 ら(歌誌ら・あたま=亜霊)に乃(スナワチ・之・廼・埜・ 野)競る(施留)与(世・預・予・余・誉・夜・代)模擬で 作った図羅(斗羅・兎裸=因幡、稲葉のシロウサギ=史郎詐欺) カイコ =懐古・回顧・解雇・甲斐虎・戎胡・海姑(海女姑) =蚕=天中ム=天冲のヨコシマ=海沖の横島 =開子=開化天皇の子供は「日子座王」 艾人(ガイジン)=ヨモギで作った人形で
端午の節句に門戸の上にかけて毒氣 を払うのに用いる =外人=夕卜人=ユウボクジン=遊牧人=喩得姥工人 熊 睦 尋(訊) 結 牡琥神(丑寅・東北)=雄北の人(陣) 酉 木 神=西の一の鬼神(申=南西) 艾節(ガイセツ)=陰暦の五月五日 =寅(イン・音・允・隠・引・因・とら=虎)歴の語臥柘の語彙 ↓ ↓ ↓ 允=允恭天皇 天武天皇・・・則天武后 =概説(外接) 即転部交 艾安(ガイアン)=世の中が平和に治まっていること =我意案(雅慰安=烏慰安・卯慰安)=餓慰安 =害安・・・安康天皇の害 =劾鞍・・・蘇我鞍作(入鹿・島大臣=志摩廼人)の弾劾 =縞代人=伊都交台尋 癸=尚 章・・・亥=大淵献=ダイエンケン ↓ ↓ 太 円 圏=太陽軌道 ↓ ↓ 台 媛 圏=邪馬台連合国 ↓ ↓ 退 猿 軒=猿田毘古 ↓ ↓ 侘異沿 見=横島をつなぎ見れ ↓ ↓ 他意延 縣 ↓ ↓ 帯 延 縣 コウ・ショウ=交渉・公称・公傷・公証・考証 口承・工匠・鉱床 ・・・子=困敦=コンアツ =根圧・艮娃津・坤鴉津 =魂亜津=霊魂はアマネシの津 玉名は海女子姉の都 ・・・丑=赤奮若= セキフンジャク ↓↓↓↓ ↓ ↓ ↓↓↓蹟 墳 雀 ↓↓↓石 憤 若 ↓↓↓昔 文 借=積分尺 あかふるいたつわか ↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 亜化譜留意侘都話化 ↓ (和歌・若=日下右) 海女子詩の変えた譜を留、意味は横島の宮古の変えた話 『一年=365日と4分の1』=『四分暦』=肆分歴=支歩歴=姉文歴 ↓ ↓ ↓ 詩文暦=史文歴=史分歴 3+6+5=14(1+4=5) ↓ =壱 拾 四(肆=つらねる)・・・シ=施 ↓ ↓ ↓ 位置を拾うシ(位地と史=始・姉・姿・芝=柴=司馬) ↓ 施=『西施』は『呉越の戦』に登場する美女 ↓ 私=ム・之・氏・司・旨・次・糸・使・思 ↓ 学 罘 姓 馬 意 韻 毫 役 惟 ↓ 子=柿・試・指・師・死・視・示・志・諮 落 金 示 匠 傷 聴 唆 学 問 石 『十九年』=『一章』=(6939×3/4)日=壱拾九 =位置を拾う九 =位地を重ねるキュウ(究) =ハジメのアキラ(章=上奏文) 『一章の四倍(76年)』=『一・(イッカイ・イカイ)』 ↓ ↓ ↓↓ 一 介 位階 何時甲斐 異甲斐 逸 海 以下位 異 家意 意掛意 ↓ 逸 桧=ヒノキに逃げる(逃れる) ↓ ひのき =日の端数が全く無くなる周期 =一・=一山鬼 =初めの纂記 =始めの傘(加佐・笠=リュウ=龍)姫 =木花之佐久夜姫 =神阿多都姫 =(76)年=7+6=13 =壱拾参 =(27759)日=2+7+7+5+9=30 =参拾 (29×490/940)×12=354×(348/940)日 干支一巡=60干支・・・・・・・・・六拾の環視(漢詩) (354÷60)=5...余り(54)日・・・甲子日からかぞえて53干支 (365÷60)=6...余り(5)日 『大余』=『日』・・・他意代 『小余』=『時』・・・証 預 「神武天皇」は「磐余毘古」であった。スナワチ、 「神(ジン =人・壬・陣・訊=たずねる)」 「武(ブ =部・分・わける)」は、 「磐(いわ =異話)」の 「余(あまり=海女里・海部里・海士里・尼理・亜間李)」の 「毘(へそ =経祖)」を 「古(ふるい=婦留意)」 である。もちろん、「天武天皇」も 「天(テン =点・転・典=のり=則)」 「武(ブ =分・部=すべる・きつ・もと」 ↓↓↓ ↓↓ ↓↓ 統べる 記柘 模図 である。 「『五常=仁・礼・信・義・智』」 「『五色=青・赤・黄・白・黒』」 「『五方=東・西・中・南・北』」 ここは漢和辞典で、「五」のページをあなたが調べて欲しい。
「史記・書」(3)・(46) 「史記のつづき」 さて、季節の区分は地球から観た太陽の位置であり、「春夏秋冬」であるが、これを肌で感じる現実的な「温暖」、「寒冷」で区分したモノが「二十四節季」と言われ、日常生活の、特に農作業には欠かせない「年間」の季節「区分」の「名称」である。これを漢字転換してみよう。あなたが「古事記」、「日本書紀」を読み込んでいるなら・・・「年・間」の「同音異字漢字」は、 「撚(ネン・デン・よる・ひねる・より・こより)」 「燃(ネン・もやす)」 「念(ネン・ねがう・おもう・となえる)」 『念』は漢数字の「二十=廿」の代用で、「宋の代(西暦960~1279年) 」から代用した、と「諸橋轍次」先生監修の漢和辞典にある・・・まさかウソではあるまい・・・とすると、、怪しいのだ・・・『念』が。「960年」とは日本では「天徳4年」であり、天皇は「朱雀天皇」の後を継いだ「村上天皇」の時代であった。「宋」が滅びた「1279年」とは中国の「元」の将軍「夏貴」、「范文虎」の使者として「周福」、「欒忠」が日本に来たときである。「北条時宗」が「元寇」来襲を受ける序章であった。 で、「宋代(北宋・南宋)」とは、「建隆元年(690年・庚申年)・『趙匡胤』が『太祖』として建国し、『祥興二年(1279年・己卯年)』に『元の将軍・張弘範』によって崖山を襲撃され、『宋の陸秀夫』が『衛王』を背負って海に沈む」までの期間である・・・「海に没すると言う歴史的事実、物語、天体」の共通項・・・そして、ここに記されている人名、年号名、年号数、事件と場所等の「漢字」そのものが「現存・古事記」への示唆(ヒント)である、と言う意味がわかってもらえるだろうか。 ・・・少なくても「念=二十=廿=弐拾=二重」の漢字の意味で使用されているならば、「古事記」が「960年以降の産物」であることの示唆であることを。そして、ここの人物名と、王朝、年号、年代、西暦、干支である。あなたが「古事記」を研究したいなら先ずは「言・部の付く各漢字の意味」と「干支の意味」を知って、その年月日時の干支が「古事記」の如何なる処に記されているかを注意すべきである。他の「ネン」は、 「捻(ネン・ひねる・つまむ・ねじる)」 「稔(ネン・みのる)」 で、「ネン」と発音しないが類字に『=言+念(シン・いさめる=諌)』がある。日本の地名なら九州の「諌早」だ。「魏志・倭人傳」ならば「告喩」である。 英語なら、 「warn・advise・adomonish」 ギリシャ語なら、 「προειδοποιηση(プロイドロイズ=府呂倭奴芦移洲) ・δυμβουλη(ジンボイル=尋母意留・字務簿意留) ・νουθεσια(ゴイセシア=語彙施詞亜)」 だろうが、 「προσεχ-ω(フロセコ=譜賂世故)」 ・προσεχ-α(フロセカ=風炉施掛・附賂施化)」=「注意する」 「διδασκ-ω(ジダスコ=字出素句) ・διδασκ-α(ジダスカ=字出諏掛)」=「教える」 で、漢字の「ニュアンス」は違うが「教え諭す」だ・・・? 「粘(ネン・ねばる)」は「米(マイ・こめ)=八方位」と「占(セン・うらない)=卜」の合字だ。 「自然・天然」の「然(ネン)」には「しか・・・」の用法が「七つ」記されている。 然=①しかり②しこうして③しかして④しかるに⑤しかれども⑥しからば ⑦しかれば これは、「色々(種々)」、「様々」と漢字をあてれるが、取りあえず「シ=史」とすれば、「①史家吏(リ・理・裏・李)、②史項(施行・思考)仕手、③史仮仕手、④史家留貳(ニ・児・尼・似・字)、⑤史仮例土模、⑥史空場、⑦史苅齢場(史唐場)」である。 「シ」と発音される全ての「漢字」で試行してみろ、だ。「シカ」の単語、熟語も「鹿・詩歌・志賀・滋賀・市価・歯科・紙価」で、同様に「私行」は「史交」の「詞行」を「嗜好」で、「思考」し、その意味を「伺候」で「志向・指向」し、「始考」して「私行」を「敷こう」とするのだ。 「鹿」は「鹿、中原に戦う」で、「覇者=王」のことである。 「然」の訓は、 然=すなわち・かつ・か・や・もやす・やく =熟語に「重然諾」・・・これは「十全諾」か「従前濁」、 「長全拿句」、 ↓↓↓↓ 「超(越)前拿句」、「肇前濁」 =解字は「火で犬の肉を焼く」意味・・・「卑狗、似狗、訳(役)」 ↓ ↓ ↓ ↓ ヒ ケン ジク ショウ=日建軸照 ↓ ↓ ↓↓ ↓ 比 肩 字句 証 「カン」には、 「綸(カン・いと・太い糸)」 「緘(カン・口を閉じる)」 「緩(カン・ゆるい・垂れる)」 「簡(カン・ケン・ふだ・ふみ・書き物・より分ける・おこたる ・えらぶ・あなどる)」 「揀(カン・えらぶ・わける)」 「諌(カン・いさめる)」 「鑑(カン・かがみ・歴史書)」 「貫(カン・つらぬく・毋)」 「カン(糸+丸)=練った白絹」 「姦(カン・よこしま・おかす・みだら)」 等がある。そして「換金・官金(金官)・監禁」の「カン」だ。 これらの「ネン・カン」をも含めて「ネン・カンの『全て』の同音異字」を「サガシテ」、「変換」させ、「区分=句分=区別=句捌」させ、「名将・名匠・名勝」の「名称」を措定させるだ。 そして、『音律』と重なるこの「二十四・節季=にじゅうよん・セツキ」の「同音漢字」は、 「弐(貳)拾 四・洩記」 「似るを 拾う史・昔記(接記=『石器』=摂記=摂政の記録・摂津の記録)」 「字の 中の詞・折(枝折=栞=案内=手引)の記」 「撓(しおり)」は国語辞典には俳句の巨匠、「松尾芭蕉」の「さび・しおり・ほそみの俳諧理念」だそうだが・・・わかったような、わからないような「抽象」的な言葉よりも、漢字の意味を追求した方が、彼の思想が解ると言うものではないのか・・・「さび」は「寂・錆・差日・狭毘・・・唆毘」、「しおり」は「潮理・汐理・塩里・史折・詞檻・詩織・・・萎える」、「ほそみ」は「細身・補祖見・ほぞ(へそ・中心)見・・・圃蘇診」だ。「バショウ」は「場所得」、「ハイカイ」は「俳回・放浪」である。 彼は「伊賀上野・藤堂家」の郷士、「与左衛門」の子として生まれ、「侍大将・藤堂良忠」の小姓となったが出奔。その出奔理由は不明(?)だそうだ。 「藤堂家」には「藤堂高虎」が存在した・・・父親の名前は「虎高」で、「藤堂高虎」の名前とは逆字。彼は通称、「与吉」、「与右衛門」。近江犬山郡に「弘治二年」に生まれ、「浅井長政」、「阿閑偵征」、「磯野秀家」、「豊臣秀長」、「豊臣秀吉」と主家を転々とし、「大坂夏の陣」では「徳川家康」に組し、「長宗我部盛親」と戦い、「伊賀・伊勢三十二万石」の領主となって「寛永七年」に「没」した人物である。「伊賀」は「忍者の国」であった。 「松尾芭蕉」の生涯は「寛永二十一年=正保元年(1644年)生」から「元禄七年(1694年)十月(五十一歳)没」である。 幼名(用命)は、 「金作・半七・藤七郎・忠右衛門」、「甚七郎」。 「俳号(配合)」は、 「宗房」、「桃青」、「芭蕉」。 「別号(捌合)」は、 「釣月軒・泊船堂・夭々軒・坐興庵・栩々斎・華桃園・風羅坊・芭蕉洞」 である。 作品には「芭蕉・七部十二集」の「冬の日」、「春の日」、「曠野」、「ひさご」「猿簑」、「炭俵」、「続猿簑」と、「奥の細道」がある。弟子が記録した「芭蕉」の「聞書」である「去来抄(向井去来著)」、「三冊子(服部土芳著)」。 とにかく『松・尾・芭・蕉』で、主家は「伊賀の領主」であった・・・「隠密忍者=俳諧師」の頭領ではなかったか?・・・「俳諧理念」などとは「俳句・暗号解読の奥義」で、「虎の巻」である。「芭蕉十哲」などの門人は彼配下の「間諜X壱拾」のスパイ網である。「猿面間者」とはよく云ったもんだ・・・「洒落」がモットーなら、「サルベージ(salvage)」は「海難救助」で、救われなかったのは「猿田彦」だ。「サルタン」は「回教国(甲斐峡谷)」の皇帝だ。「武田家」は「甲斐強国」にナゾらえるとは・・・ね。 サレ(然)ども、苦心三嘆、「フルイケや、カハヅ、トビコム、『みづ』の音」。「閑カサや、岩にシミイル、『蝉』のコエ」・・・診ずの音、全の声、繕え、であるカナ・・・ ・・・これらの「年号・年号数」、「漢字」等をみて「歴史の謎」に重ね、「古事記」の意図に気が付き、漢和辞典を調べて診る人は、私と「同類」なのは言うまでもない。 「ニジュウヨンセッキ」であった・・・「弐拾四節季」 「字重・『髟』・接木(方位の角地=丑辰未戌=艮巽坤乾)」=長い毛羽の痕 ↓ =鶉の頭首=未 南西・・分野「秦」。天体「鬼宿・二度」 「天文星図の方角、『鬼宿・二度』」の暗示は「鬼は二度、南西に現れる」と言うことだ・・・「同音の重なる異なった漢字、違った言葉の意味」で歴史の、事件、時期、場所、人物を発見する要の・・・「観音さま」になる、と言う仕組みなのである。とにかく「中国の天文星図」をみよ・・・精密な「天文星図」は日本にもあるのだが、残念ながら「古墳の中」である。 ・・・「観音菩薩」とは「姦怨母殺」の供養の「タスキ懸け」である。 ・・・「母」を殺したのか、「母」に殺されたのか、「カンジ」そのものが、「もろこし」そのものが「カ・ラ・ク・リ」の秘密なのだ。 スナワチ、「弐=貳」は九州「太宰府の次官」で、「大工の頭梁」だ。 その「縦史」の「緯史(秘密の歴史)」を「漏らす記録」なのだ。 「石器」は「イシのウツワ」で、「遺志、得柘和(数)」、「石臼=セキキュウ=関仇(籍究・世紀糾=日本書紀第三十巻)」か、「いわうす=磐得(宇・卯・烏・鵜・・・羽)諏=委倭得洲=祝祖」、「瀬戸モノ=陶磁器=トウジキ=問う時期」で、それに「接する昔(シャク・セツ・むかし)の記録」である。「古事記・崇神天皇」が語る「美努村(陶の邑)」は「意富多多泥古」の居場所で、「御諸山(三輪山)」であった。 そして、「ニ、ヒロウ、四つのイシ(医師・意思・遺志・意志)、得る柘の話」で、『緯史=緯書』なのである。あなたが漢和辞典で「緯(イ・ヰ・よこいと・いと・おる・みち・ととのえる・おさめる・『つかね』)」を調べれば、「緯経(イケイ)」、「緯車(イシャ)」、「緯讖(イシン)」、「緯武経文(イブケイブン)」、「不恤緯(フジュウイ)」の熟語を発見するだろう。ちなみに「緯象(イショウ)」は「天文」のことである。しかも「緯」は「南北に対する東西、前後に対する左右の方向、上下に対する平面」である。とすれば、「現存・古事記」とは「過去未来に対する『現在』の記録」だ。「現在」とは「記録したその時点」のコトである・・・「次点・辞典・事典・字典・自転」である。 『肆』の漢字は「辞典」では次のようによまれている。 『肆』=「シ・ほしいまま・わがまま・きわめる・こえる・度をすごす ・のべる・殺して晒す・屍をさらす・つらねる・店 ・市場・ならび・おく・ついに・とうとう・故に・まことに ・いま・ゆるめる ・大きい・長い・速い ・棄る・量る・突く ・犯す・正しい ・つとめる・やどり ・金銭などの数字の誤りを防ぐ為に「四の字」に代用する」 「犯す」が「正しい」とはまったく「背反・矛盾する意味のコトバ」だがヌケヌケと 『肆』の説明に当てている漢字辞典学者とは何者だ・・・これは、「現存・古事記」に重なる「カンジ」の象徴的なコトバの「ホトンド=ほとむど」だ、と言ってイイ・・・ しかも、これは「戦場」に於けるコトバだ。 『肆(シ)』の意味は、 ほしいまま・わがまま・放肆・極める・極まる・こえる・度を過ごす・伸びる・のべる・殺してさらす・屍をさらす・殺す・連ねる・連なる・陳列・イチ・突く・犯す・・・などで、「よん・よむ」である。 「長(ながい・おさ・たけ・チョウ)」 と 「聿(ついに・とうとう・みずから・述べる・ともに・したがう・はやい・修める・イツ・イチ)」 の 「合字」で、「秦の蒙括」によって最初(ハジメ・始=女+台)て竹冠を使用された「筆の源字」である。 「秦の始皇帝」の「蒙括」である。 類字の「髟」は私の漢和辞典には無いがワープロ漢字(JIS)にあり、 「彡(サン・あと・筆や刷毛でなすったアト・毛の長い様・毛で作った髪飾り・揃った毛髪)」の「合字」である。 あるいは類字、 「肄(習う・ほねおり・しらべる・改める・若い枝・ひこはえ・余り・殺しさらす・イ・シ)」 は 「ヒ+矢(シ・や=+一+人)+聿」・・・比べてカミサシのイチの人を述べる である。「矢」は「誓う・施す」の意味があるが、同音異字は「ヤ=耶・邪・家・弥・夜・哉」である。「卑弥呼」の「邪馬台国」である。 そして「肇(チョウ・ジョウ・うつ・はじめる・はかる・正しい・はやい・ながい・ホコ=鉾、矛、鋒)」は 「肇国・肇始・肇秋=陰暦七月(文月・暴文月)」 の熟語があり、「肇国(チョウコク)」は「第十一代・崇神天皇」=「御間城入彦五十瓊殖」の倭号につく「肇国(はつくに)」であった。しかも、「崇神天皇」は「三輪山の大物主」に祟られた天皇であった。理由は「肇(撃つ・討つ・欝・鬱・蔚)」だからだ・・・敵対した種族に・・・「大物主」は「大国主」との「出雲国」の国家建国の共同経営者であった。 「御間城入彦五十瓊殖」は 「おん(音・怨)」の 「あいだ(間)」の 「しろ・キ(詞賂・記)」は、 「いれる(入れる)」、 「ひこ・ゲン(比拠=比句・言=源)」と 「いそ(意素)」の 「たま(他真・多魔・拿真)」を 「うえる(得重留・殖=拓殖=生殖)」 である。 とにかく、「二十四節季」の同音異字は、 弐 拾 四 節 季 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 弐 拾 四 節 季 ニを ヒロウ、 ヨツ の セッキ 似るを拾う、 与えられた柘の説 記 ニ ジュウ シ セッキ 貳 重 視 世月(三十年間の月) 二 重 史 施柘記 節=竹即 ジ ジュウ シ セツキ 季=ノ 木子 字 を重ね 詞 接 紀 ↓ に たり よむ ふし ノ すもも 時 多利 読務 伏史(臥・父子)乃洲母模 に たり よつ ぶし 尼 足利 代都(預柘) 武士 守母喪 ↓ ↓ ↓ あしかが・義満将軍の五人目の妻、「日野富子」は、 尼将軍の違名をとった「日野重子=裏松重子」と策謀して 「今参局(いままいりのつぼね)」を琵琶湖の「沖の島」へ流罪し、 暗殺した。「富子」は諸大名にを金貸し、米相場を握り、暴利 をむさぼった女性で「応仁の乱」の元凶(?)。 である。歴史上の「女(おんな=音名)」が要なのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 音律 二十四節季 同音漢字変換 ・ ↓ ↓ ↓ ・「『黄鐘』=夏至・冬至」=口承・考証・工匠・公称・交渉 ・ ゲシ・↓ =(下支・解詞・外史・懸詞) ・ トウジ=(当時・当字・答辞・湯治・杜氏) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 既に「故事付け」の説明をしたが、もう一度これを再度確認してから展開していこう。 国語辞典には 「こじつけ=無理に理屈をつける=附会(曾)」、 「あてつけ=わざとらしく振舞う、 見せつける=出鱈(たら)目な理屈をつける 当(當)て擦(こす)り=当付け」として「現代の言葉の意味」 で説明されている。 だが、ここでは、「附曾(こじつけ)=歴史的な故事(古字)を付けてアル物事を説明する」、「當擦(あてこすり)・當附(あてつけ)=歴史的な故事(古字)をアル物事に『割り当て』て説明する」と考え、「現存・古事記」の作者の「あそび」を「歴史的な産物」として、私自身は「真面目に検討」してきたし、していくのだが、あなたにとっては・・・アホらしいことカモねッ・・・マァ、時間があるならボケ防止、時間潰しの「知的なアソビ」である、として考え、カルク、ヨンでくれればイイのだ。 とにかく、「あてつけ」は、音読で「附曾(会)=フカイ」。 「同音異字」とは、「音」を、「不改」で、「異字(維持)」とする、で、 深井(ふかい・シンセイ=親政・神聖・申請 新制・新星・真性 新生・新政 心性・真正) 不快(フカイ)・・・・・こころよからず・・・・不カイ 婦戒・・・・・・・・・・婦人、女子のまもるべき戒律 怖戒・・・・・・・・・・恐怖の戒律・・・・・・戦陣訓 フカイ ↓↓↓ 附加意・孵化意・賦課意・不可意 ↓↓↓・府 下位・・・・・・・・・・・・・赴海(十卜人卜 水・母) ↓↓↓ ↓ ↓↓ 重睦人模句垂換母 ↓↓↓ フ カイ・・鱶=鮫畏 ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓ ↓ ↓↓ 従僕人模句酔漢簿 譜(賦・普・臥・伏・符・扶・敷・府) ↓↓↓↓↓↓↓↓ 『甲斐』 中北陣模句出換模 「『府下位』は九州の『太宰府』の下位」か、あるいは「府は『甲斐』」で、『甲府』だ。どちらも「竹田」、「武田」の「他家拿」で、「嶽拿・焚拿・炊拿・丈拿・長拿」である。「拿(ダ)=合手(又)=郷主」である。 これを「日本史」に読み込めば、「甲府=武田家」の事情らしく、「甲斐武田家の歴史」を調べれば「親政=親の政治」が面白くなく、「武田信玄」が「親(武田信虎)」を「今川家に追放」したことを知るだろう。さらに「武田信玄」は「神聖」な「諏訪大社大祝」で、「刑部大輔」、「武田信虎の三女を娶って同盟関係」にあった「諏訪家の当主(諏訪頼重)」を陰謀で「暗殺(天文十一年)」した。・・・「武将の婦女子」は「政略の道具」として「婚姻=人質」させられたのである。「結婚」しても「実家の利益を守ること」、これが、「婦戒=婦女の戒律」だ。そして、「怖戒」の「甲州法度之次第(天文十六年)」を定めたことだ。 「古事記」には「開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)」が「丸迩臣の祖、日子國意祁都命の妹、意祁都命比賣」と関係して出来た子供が「日子坐王」と記されており、この「日子坐王」が「建國勝戸賣の女、名は沙本の大闇見戸賣を娶して生める子(生子)」に「①沙本毘古王、次②袁邪本王、次③沙本毘賣命、『亦の名』(亦名)佐波遅比賣、次④室毘古王」がいた、と記録されてある。 「建國勝戸賣の女」は「建国の升(益)都(尚古)の婆葦(場位)」か「鐘鍍(衝鼓・称呼)の媒」で、「混同坤都(金堂艮都)のワラベの奴」、「商都(証拠)の売」か「照渡(將子)の吠」、「焦土の煤」か「焼土(照奴)の狽」・・・のオンナで、ムスメだ。それが「大安(長安・西安)・対案」か「代案・題案・第編・弟(乙・五・音)編」、「台娃武」、「岱唖務」、「大鞍(大蔵=蘇我)の御津(美都・水戸)の狽(媒・吠・梅)」である。 「徳川光國=水戸黄門」は「大日本史」編纂の「梅里」先生であった。 この、「③『亦の名』佐波遅比賣」の「亦名」は単なる別名に対する接続詞ではなく、「③である佐波遅比賣」の「特別な地位」、「作和字=『俣=水俣』の女の王の名=俣・股・又=女の垂=女の足=女の脚=女の髄=葦(芦)の女王」を懸けているのだ。「佐波遅比賣」は「皇后」ではなく、「女王」なのである。 「マタ(俣・股・足)」は同時に彼女が存在した「地名=水俣」を示唆し、「地形=股=直角三角形の長い方の一辺」を示唆し、その「左輪地=阿蘇の左(西)の横島」、「早頗地」、「差羽地=諏訪地=曾我地=狭窪地=甲斐地」だ。さらに「地名=火の葦(芦)北」を示唆し、さらには「天球盤二十八宿の足(目盛り)」と、「佐本=イナエ本=伊那江の本=委名重の本=違拿会本」、「査和知=作話致」を示唆しているのだ。 モハヤ、「712年」などの「年号」ではなく、「七+一+二=十=壱拾」、「七百壱拾弐撚」の漢字に「イミ」があるのはアキラカ(明化・亜紀羅化・安芸裸化)だろう・・・「史地・珀(琥珀)・位置・重似・撚」、「質・伯(白)・住・丹(丹波・但馬・淡路・飛騨・契丹=遼=くまざさ=熊座作)・渡使(姉・柿)=念(根夢・禰武)」・・・「現存・古事記」の作者は「天武天皇」は存在しなかったのではないか、と推理、示唆しているのだ・・・「柿本(カキのモト・コケラのホン)」・・・ そして、「①沙本毘古王」が「日下部連、『甲斐國造』之祖」と小さく注記として記録されているのだ。 「①沙本毘古王」は「妹(いも)=女王」、「③沙本毘賣命」を巻き込んだ「反乱・反逆」の「兄」であった。しかも、「日子坐王」が産ませた子供は「凡(おおよそ)、并(あわ)せて十一王なり」と、おまけの記録まで書かれているのだ。 スナワチ、「日(火)の子(北)に坐(います=葦麻洲)の王=火の北の芦」で、『火の芦北の王』である。そして、「肥後の居間州王(縊麻王=遺升王=緯升王=委升王=帥升王)=伊万里(州)王」で、「後漢書」の「57年」の記録、「光武帝から『金印』を賜った倭王」で、「107年」に記録されてある「安帝に生口を献上した」とある「倭国王」の『帥升』の懸けでもあるのだ。その子ども達が「十一人の王」であるならば「146年」の「魏志・倭人伝」にある「卑弥呼・壱与」に絡んで重なる「十一(壱拾壱・位置重囲地)の連合国の人々」で有るに違いない・・・のだが・・・ 「亜・凡」は「あまねし」とも訓む。まさに、「海女子史(あまねし)」である。「あまねし」と訓じる音の漢字は他にも多数ある。 「并」は漢和辞典には「ヘイ・ヒョウ・あはす・かねる・ならぶ・よりそう・ともに」とよみ、「中国古代の十二州の一。河北省と山西省にかかる地方」で、「并州之情(『賈島』渡桑乾詩)」と云う故事がある。意味は「嫌な所に長く住んでもその場所を離れると故郷のように懐かしい」で、日本的に云えば「住めば都よ」であろう。 『賈島(カトウ)』は「唐の詩人で、字は浪仙(ロウセン)、一時望みを絶って僧となったが、後に『韓愈(カンユ)』に認められて還俗して『科挙の進士』に合格。『推敲』の故事で有名」とある・・・「かとう」とは誰か?・・・日本人の姓ならば「加藤」である・・・武将ならば「韓国・朝鮮」での虎退治で有名な「加藤清正」・・・「賈=西目人=西女人=爾志女人=細目訊=西のカイ」の「島(志摩・縞)=嶋=山鳥=纂周=纂集=簒長」で、「簒(サン)」は「位を奪う」ことだ。 「カンユ」とは誰か?・・・もちろん、これは「修辞・換喩法」で、「諌喩」、「姦喩」、「関喩」、「神喩」、「勘喩」・・・「武田信玄」の「二十四家臣団(團)」の一人、「片目(隻眼)でビッコ」の「山本勘助(介)」だ。「第一次・川中島の戦」は「天文二十二年(1553)八月」、「第二次・弘治元年(1555)七月」、彼は「永禄四年(1961年)の九月」、「第四次・川中島の戦い」で、「キツツキ戦法」によって「上杉の陣」、「妻女山」を攻撃するが失敗、切り死にした、と「甲陽軍鑑」と言う本に記録されている・・・らしい・・・どうやら「現存・古事記」の「あしなえて、ダギ、タギしとなって「三重」で死亡したヤマト・タケル」は・・・扇子を叩いて「三=参」を掛けて「九=旧=仇」を噺す「講談師」の「講談本」カモ、ネッ。イヤ、一カラ九までモ。 「講談本」でも特異な「講談本」かも・・・「隠れキリシタン」を対象にしたものカモ・・・「洗礼」には「聖水」が必要だが「水」は漢和辞典ではコッソリと「なか」とも訓じられているのだ。シカモ「みず」は「瑞」である。 「官諭」、「東の軍に勧誘された姦雄」・・・キリスト(耶蘇)教徒として洗礼を受け「ドン・シメオン」の名を得た「黒田官兵衛(孝高・如水)」である・・・彼は「天文十五年」に「小寺職隆」の子として「播磨姫路」に生まれた。初め「播磨『御箸』城主・小寺政職」に仕えた。「天正三年」に「織田信長」の家臣となり、「天正六年」、「荒木村重」の謀叛に対して単身赴任で説得にあたって捕虜となったのだ。翌年、救助された時は拷問による「跛(あしなえ・びっこ・ちんば・かたよる・よりかかる・ハ・ヒ)」となっていたのだ・・・彼も、「ヤマト・タケル」に懸けられている・・・。「天正十五年」に豊前『中津』の「十二万五千石」の大名となり、「天正十七年」に隠居。「関ヶ原の役」では九州の「西軍諸城」を陥落させて「天下」を取ろうとした人物である。・・・策謀家の「黒田官兵衛(孝高・如水)」こそは、「現存・古事記」では「ヤマト・タケル」に懸けられているのだ。 だとするならば、「かとう」は「熊本城主」で「朝鮮の役」で渡海し、「咸鏡道」を進軍、「蔚山」に篭城した人物、幼名が「虎」であり、通称が「虎之助」、「豊臣秀吉」の生母の従姉妹を母として、「尾張中村」で生まれたと言われている「加藤清正」だ・・・まさに、「現存・古事記」は「虎をワナ」に填(ハ)めているのだ。 「渡桑乾詩」は「桑の乾に渡るときの詩」である。 「桑=又又又木=三又のキ(十八)=水俣の位置が重なる頗(よこしま)の地」で、その「乾(北西)」に「渡(航)る」である。 水俣→北西→横島→長崎→平戸島・・・ 「三又」は「参十」で、「三重の横島」は「阿蘇山の東西」に存在する「熊本玉名郡・横島」↓「大分南海部郡・横島」↓「愛媛南宇和郡・横島」、「乾」は「十早(日十)乞(・乙)」で、「重なる『早』=日拾=比重、・(髪挿=かんざし=『諌』座視)」の「イツ(壱・伍・逸・溢・何時)=委津=移都=違都=葦都=緯度」・・・三重・時岐・『諌早』・①横島・大津・阿蘇山頂・②横島・③横島・・・『賈島(カトウ)』は、西(螺・爾志)の貝(海・倍・媒・賣・陪・苺)の島に五島列島の若松島 ・・・→東支那海→会稽山→東台・・・ 「扶桑(普蘇烏)国」とは「日本国の別名」である。その國の「乾(カン・いぬ、い)」の方角とは北西である・・・何処がその方位の中心、中央なのか?・・・その中心(毘=へそ)は時代によって移動するのだが・・・九州ならば阿蘇山である。その北西は巾を採って、 久留米・鳥栖→糸島→壱岐→対馬→巨済島・長承浦 釜山(任那)・・・→木浦・仁川(百済)・平城(高句麗)→遼東半島(公孫淵・燕)→朝陽(烏丸)・北京 「詩(シ・うた)」はもちろん、「シ」の同音異字と、「うた=歌(カ)=唄(バイ)」の連結、「う・た」である。「芋(ウ・いも)」と「他(タ・ほか)」か、多数の「う・ウ・た・タ」の同音異字のことである。
「史記・書」(3)・(46x) 「史記のつづき」 さて、「日子坐王」の子供の数は「十一人」で、「并十一王(あわす、たり、はじめ、きみ)=(ヘイジュウイチオウ)=(ヒョウ・ジュウ・イチ・オウ)」で、「並縦位置黄=黄道=太陽の軌道」、「彪獣位地王=虎=寅支」だ。 あわす 阿波(安房・淡・泡=シャボン玉=写凡=写梵=写本=粟・沫・亜倭 =あぶく=うづ=宇土)州 阿波・縮(あわ ・ちぢみ)は阿波特産の木綿 ↓ ↓ 亜倭 地字診 縮小=シュクショウ=宿将・宿升(星宿の柄杓) =シュクセ ウ=粛正・粛清・宿星・夙成 たり ↓ 足(多理・垂・樽=木尊=既存=鬼存=木曾武) はじめ=はしめ=卑女(卑弥呼)=箸女 初(葉字目・肇・始・一・哉) きみ ↓ 黄身(気味・記診・紀診・軌観・期観・鬼魅・岐診・祁診・其診・姫診) ↓↓ 黄卵(往乱・王乱・応乱・姶乱・横乱・邑乱・欧乱・央乱・奥乱・凹乱) =往覧 「ヘイ・ジュウ・イチ・オウ」で、①「柄・獣・位地・旺」、②「兵・従・位地・王」、③「平・重・位置・追」、④「瓶・充・市・往」、⑤「閉・住・居・地・逐」、⑥「並・字由得・意知・負胡」、⑦「併・似喩得・遺・一・姶」で、①「柄・獣・位地・旺」は、「天体・十二支宮(獣名)」を示す「北斗七星の柄杓の柄の方角」で、「方位の旺」、 柄=北斗七星 獣=十二支の獣 位置の王(旺・横・鴨・鴎・桜・央・凹・往・欧・邑・負・逐・追)=一応 ↓ =位地の女王は鳥(酉=西)の市の女王 ↓ =おう、「宗女(掃女)の『壱与』、女王の『卑弥呼』を」 ↓ 東(卯・兎・麒麟) 西(酉・鳥・白虎) 南(午・馬・朱雀) 北(子・鼠・玄武=亀と蛇) である。 「現存・古事記」は、「天文配置」と「地理史(輿)」、「魏志・倭人伝(中国歴代史書の殆ど)」、「日本書紀」、「人物史」、「物語」、「史記」、そして「萬葉集」、「武田戦国史」、「キリスト教・宣教史」、「諺存=源尊=玄尊=言存=元存・古事記」の重なりである。 さて、「あてこすり=トウサツ」は、 當(当)擦=トウサツ=透察=洞察=統冊=問う冊=答冊 =謄冊=倒錯=唐察=頭殺=島殺 =統薩=逃早津 東殺=逃(北)殺 トウ サツ 渡烏(芋)早津 渡菟 狭津 渡宇 佐都 盗 作柘 である。九州の歴史的な地名(諌早・芦北・宇佐・薩摩)に重なる漢字だ。 「当て付け=あてつけ=トウフ」は、 當(当)付=トウフ=諮譜=統譜=唐府=島敷=陶譜=都芋府=斗宇譜=豆腐 である。 「豆腐」って、「大豆(ダイズ・おおまめ)」を「腐らせ」て造る、あの「白い豆腐」のことなんだが・・・「邪馬台国・大好き」ならば、漢字は「壱」、『壹』、「臺」の「類字、異字」論争が江戸時代からある「豆」だ・・・とにかく、「とうふ」は「坊主」が「精進料理」として発明したモノだ。「坊主」だったのは幼名が「万吉(萬吉)」、姓が「小寺」だった「黒田官兵衛」である。 「黒田家」を調べれば「宇多源氏・佐々木流」領地、「筑前・福岡」、「五十二万石」、「家紋=黒餅紋」、「江戸城詰所=大広間詰」である。隠居した「黒田官兵衛(孝高・如水)」の「長男」で、「永禄十一年生」の「甲斐守・従四位下・筑前守」の「長政(吉兵衛)」だ。「朝鮮の役」で「金海・昌原・黄海道」を進撃して「小西行長」を救出。その後「文治派の石田三成」と対立。「1600年・関ヶ原の合戦」で「東軍」についた人物である。その「長政」の「三男(次子)」が「長興」で「筑前秋月藩主(夜須、下座、嘉麻・五万石・家紋=黒田藤紋・江戸城詰所=柳間詰)」である。「四男」が「高政(筑前東蓮寺藩主)」であり、「長政の二代目」の「黒田忠之」の時代に「倉八十太夫」と「栗山大善」による「黒田騒動」が起こったのだ。 「黒田家」は別に「上総・久留里・黒田家(三万石・家紋=石地抜木爪・江戸城詰所=雁間詰)」が存在する。この「黒田家」は元は『武蔵七党丹党』の『加治(カジ)』氏の族、「中山」氏流・・・ダ、ソウだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 『加治(カジ)』の意味は「『和銅六年(西暦713年)』・『五月』・ ・の地名を『二字』の『佳字』に改めよ」の「カジ」ではないのか・・・だ・ ・とするならば、「加治木」氏の、「フランス語」じゃぁないだろう・・・・ ・「仏語」の「加持・祈祷」の「カジ」で、「護摩」を焚いた残り「粕・糟・ ・」じゃぁないのカナ。「菩薩」は「薩摩」の地名漢字、「鹿児島」と言わ・ ・れるのは「王の児の島」でもあるが、「蟹(可児・掛似・佳字)」でもあ・ ・り、「蟹座の位置=陰暦の六月=未支月=朱鳥(巳午未の方位)」を知っ・ ・ていた人物の「佳字」の「変更」である。「卑弥呼の溢死」、「姥殺」、・ ・母殺は「模冊」、「模作柘」で、「随の末裔・陽侯氏」の産物カモだ。 ・ ・。国語辞典の「かじ・カジ」、あるいは「かし・カシ」を診たほうが「コ・ ・ジキの作者のイト」と、彼の「ヤマタイ国」がみえるかも。原田氏の「化・ ・説」がコロコロと変化するのは当然で、当り前と言うもので・・・非難す・ ・るにはあたらない・・・仮説、仮設、架設。とにかく、漢和辞典です。 ・ ・ ・ ・ 搗・柁・梶・舵・楫・家事・鍛冶・火事・・・・嫁・・下・・嘉 ・ ・ 橿・樫・歌誌・歌詞・菓子・下賜・仮死・・・・貸・・掛・・化 ・ ・ ・ ・ 「可視」で、ついでに「カシオペア座」の相対位置と「W」の字形モ、・ ・その星座の主人公「エチオピア=えち・お・ひあ」の王妃の名前モ、そし・ ・て、「Cassiopeia」なら「Cassandra=トロイの女予・ ・言者」モ。ついでにインド、カシミール産の山羊の毛で綾(彪)に織った・ ・「カシミヤ」モ、イタリア語の「カジノ」モ・・・・も・母・毛・模・モ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いままで展開してきた「歴史的人名」とその「事績内容」の資料の殆ど(スベテではナイ)は、雑誌「歴史読本・日本人物総覧(新人物往来社・昭和四十八年発行)」を参考にした。以下も同じだから・・・記録されたモノを鵜呑み、丸のみするのはゲンキンものであるからして、あなた自身が厳密に調べるベキだ。 さてモ、さて、さて、「黒田家」の各人の「名前」と「地名」、「江戸城の詰所」、「数字」、「家紋」をみて、あなたが「現存・古事記」の漢字と意味を推理出来るなら、コウか、フコウか、私と同類のヤカラではある・・・ナッ。 さらに、歴史上の人物で「トウフ」と云えば「小野道風(元慶陸年生・康保参年没)」で、「三蹟(サンセキ)のひとり」で「名筆家」、その「筆蹟」は「野蹟(ヤセキ)」と呼ばれ、位は「正四位下・内蔵権頭」であった。そして彼の祖父「小野篁(たかむら)」は、「子の字を十二字連ね書いて、『猫之子、仔猫、獅子之子、仔獅子』=『ネコのコ、コネコ、シシのコ、コジシ(?)』」と読んだ歌人と言われているのだ。昔、どこかのバカな大学が試験に出したような気がするのだが。私には、何故、「小野道風」の「祖父」がこのような「逸話」を持っているのかに興味があるのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・子子子子子子子子子子子子=十二字の子=十二次=壱拾弐字 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これは、「十二ジ(壱拾弐シ)」の「始め」から「終わり」まで「子」の漢字を「①異音同字」でよむ。「②同音異字」でよむ。「③部首分け」でよむ。「④類字を交換」してよむ。そして、「⑤十二支の子から丑寅卯辰巳午未申酉戌、亥」までの全ての各漢字も同じようによむ。この「シのヨミ方」は、 子 ↓ シ=史(ふみ) =詞(ことば) =『子』=了(おわり)+一(はじめ)=終始 ネ=音(おと) =値(あたい) こ=古(ふるい) =顧(かえりみる)」 で、「現存・古事記」の「よみかた=ヨミカタ」の示唆でもあるからだ。 「小野道風」は「位」が「三議・従三位」の「小野篁(たかむら)」の「孫(まご)」であった。この「孫」は「天孫降臨」の熟語でもあるが、「孫=まご=馬子」で、三代目の「子孫」である。これを漢字転換すれば、 子孫=シソム=思姐毋 =詞蘇務 =使姐務=使蘇務=蘇因高=小野妹子=遣唐使=遣島子 =始姐袤・『袤』=ボウ・モ・ム・ながさ・たて(縦)・ひろさ である、と云うことだ。「ン」の発音は「ン=ム」で、「毋(ブ・ム・なかれ)=女が犯されるのを拒否する意味」があるが、だとするならば、 「思(始・示・止・試・嗣)姐毋」は、 「姉(姐)、娘が犯されるのを拒む」を、 「想う」か、 「始まり」、 「示す」、 「止める」、 「試みる」、 「嗣がせる」だ。 「姐=姉」は 「卑弥呼」か、 「壱与」か、あるいは 「十市皇女」か、 「織田信長」の「妹」の 「お市」か・・・だ。 この「毋(ム・ブ)」の類字に「母(ボウ・ボ・モ・はは・かあ)」と、「毋(貫・カン・つらぬく・銭さし)」がある。「毋(カン)」ならば、「237年」に「遼東太守」の「公孫淵」に敗北し、「244年」に「高句麗」を壊滅させた「魏」の「幽州刺史」、「毋丘倹(カンキュウケン)」である。 「始姐袤」の『袤』は「ボウ・モ・ム・ながさ・たて(縦)・ひろさ」とよみ、意味は「衣の帯から上の名称」で、これは、「ころも=子(北)の芦の模=衣」の、「たらし=多羅斯=侘羅嗣=帯」、「から=掛螺(羅)=かけるニシ」、「うえのめいしょう=上之名称=嬢の名称=城の名匠・名将=譲の名の勝」で、「芦北の帯懸け、西の上(北西)の名称」だ・・・九州の「芦北の上」は「田浦」、「田浦の西」・・・→天草諸島の「上島の横浦島の西」・・・→『横島』・・・→「普賢嶽」・・・→「下島の天草」・・・ 『横島』は「阿蘇山・山頂を中心」にして東西に存在することは既に述べてきた。 その西の延長には「会稽山」が存在し、「東台」が存在することモ。 『袤』は「南北の『長さ』」で、「東西の『広(廣)さ』」と対の言葉が重なる、だ。とするならば、南北に存在する「長(なが・たけ・おさ・チョウ)」の地名。東西に存在する「廣(ひろい・コウ=熊)」の地名。その十字に交わったマトリックスの場所・・・は、 熊本 ↓ 長崎→ 十 ・・・→諌早 である。 さて、この「小野篁(たかむら)・(延暦弐拾年生・仁壽弐年没)」は父親の「小野岑守(みねもり)」が「陸奥」に任地したのに従って、その「陸奥」で「騎馬」に夢中になってしまい、「嵯峨天皇」に諌められて学問に発奮した、と言われている人物だ。後に「遣唐福使」となるが「正使」と衝突して、「遣唐船」に「乗船」することを「拒否」して「隠岐」に「流罪」となった人物でもあるのだ。これは、「検討するは伏史(複史=普句詞=譜駆使=府串)」の・・・「生死(整枝・誓詞・正視・製糸=生糸=鬼伊都=生史)」を、「検討せん」、「嬢(娘・姫・譲・城)の遷(遷都)」、その「拠(据・虚・挙)は斐(甲斐・海・開・魁・会・改)」・・・「将(武将)記(起・鬼・姫・紀)=(沖剋・冲・衝突)」に「名を臥す詞の柘を診べる」である。 とにかく、「くさるトウフ」は「小野道風」である。彼は「柳に何度も跳びつくカエル(蛙)を観て発奮した人物」と言われている。それよりもオイチョカブの「花札」に描かれている「雨傘をさして柳の下の蛙を観察している人物」と云えばわかるかな。 この「小野さん一家」の「姓名」と生年没の「年号」、「漢数字」、「位」、「事績」の「同音漢字」、「異音同字」で「導遠の監事(幹事・鑑時・真名字=漢字)」をあらゆる「音訓」と、「類字」、「部首分解」して「可能な限りの『音』」で読んでみてもらいたいのだ・・・「オン」は「カギリなく叶(カナ)えて」くれる筈(はず)である。 小野・道風・・・・・・・同封・同風=同風邪・導風・道普烏・動風・洞風 どうふう=怒烏負卯・度得敷卯(烏) みちかぜ=未知風邪・路かせ=関所 元慶・陸・年生・・・・・元軽・里九(武柘)・撚記(捌紀) 康保・参・年没・・・・・候補・纂(御津)・・撚簿柘(合歓母都) 三蹟(サンセキ)・・・・御津跡・山積・参席・纂籍・山関 名筆家・・・・・・・・・・・名婦出委江・拿譜出意重 筆蹟・・・・・・・・・・・・・府出亜都・婦出亜都 野蹟(ヤセキ)・・・・・・乃亜都(スナワチのアマネシのミヤコ) 位・・・・・・・・・・・・・・・鞍意・九羅威・蔵威 正四位下・内蔵・権頭 柳に何度も跳びつく・・・耶拿議に南土(納戸・拿武努)も塗備柘句 耶曾=耶蘇教の祇、ナンド(難怒)も都美突く 「柳(木・卯)」に何度も跳(足・兆・美)つく 「柳=やなぎ=楊(楊貴妃)」 「劉(唐の海軍提督)」に何度も飛びつく 「劉(漢王朝の姓)」 「笠(古事記記載の『加佐』)」 「粒=つぶ=螺=にし=爾志・西」 「粒=米+立=姑女立=虎女立=八方位を建てる」 「龍(龍田姫=持統天皇)」 この「劉」は頗(すこぶ)る怪しい漢字である。ここに「劉」の漢字の意味と、「劉姓」をもつ人物をあげていくからあなたは漢和辞典を診てくれ。 劉=リュウ・リウ・ル ころす (殺=サツ=冊) はもの (刃物=やいばもの=野射場者) まさかり(鉞=真作掛裏・斧=おの=小野) かつ (勝) つらねる(連) ならべる(並) しく (敷=史記・詩句) めぐる (回=カイ=改=甲斐・魁) あまねし(亜・凡=ボン=品・盆・本) =葉が落ちてまばらな様・葉がまばらに残っている草木 劉姓の人物=劉安・劉禹錫(夢得)・劉希夷(劉廷芝)・劉義慶・劉向( 子政)・劉キン(音+欠)(子駿)・劉備玄徳・劉細君(烏 孫公主)・劉秀(文叔)・劉宋・劉知幾(子元)・劉邦(高 祖)・劉伶(伯倫) 「日本書紀・天智天皇」に登場する「劉」は、「白村江の海戦(天智二年・秋・八月・壬午・朔甲午・663年)」での敗北の後の「天智三年・夏・五月・戊申・朔甲子・664年」に記録されている「百済鎮将・『劉仁願』」と、「天智・四年・九月・庚午・朔壬辰(665年)」の「朝散大夫・沂州・司馬・上國柱・『劉徳高』」である。『劉徳高』の記録には「季節」が抜けているのだが。 中国(旧唐書・巻八十四・列伝三十四)の記録では「帯方州・刺史」の『劉仁軌』と、「百済・熊津(公州)都督」の『扶余・隆』が存在している。『隆(リュウ)』である。『隆』の弟が『扶余・勇』であり、『勇』は「倭に逃亡していた百済王子」で、『扶余・豊(豊璋)』に従っていたのだ。「倭海軍・白村江」の敗戦の一端は『豊』が彼の良將、『佐平・鬼室・福信』を他の臣下、『糺解(キュウゲ・クカイ)』の「誣告(ブコク)」と、『達率・徳執得』の「そそのかし=教唆(キョウサ)・示唆(シサ)・使嗾(シソウ・シシュ)」で殺してしまったことである。 『劉仁軌』は「いき一郎編訳」著の『中国正史の古代日本記録』の注釈には次のように書かれている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・中華書局版「旧唐書」列伝三十四の筆頭にある。華文約四千字。高宗・ ・(唐)の信頼あつい総指令として660年代、白村江の戦いや百済、・ ・新羅との関係を処理する。則天武后にも仕え、685年没する。その・ ・死には三日間、朝儀を廃し、開府儀同三司などを贈り、乾陵に倍葬し・ ・た。 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これらの記録にある「全ての漢字」と「数字」を注目して欲しい。 そして、『帯・方』、『刺・史』、『隆(リュウ)』、『勇(ユウ)』、『豊(ホウ)』、『鬼・室・福・信』、『糺・解=糾・解』、『誣・告』、『達・率・徳・執・得』、『教・唆』、『示・唆』、『使・嗾』の漢字に興味を持てない人物は「日本書紀」の裏をヨメないであろう。 「現存・古事記」の記録者はこの漢字のウラを充分すぎる程に知っていた人物であるはずだが・・・ さて、美人で、才女の「小野小町」じゃぁなくて、「小野道風」だが、 カエル(蛙) を観て発奮 ↓↓↓ ↓ ↓↓↓↓↓ 「替(変・換・代)」えるを観て発憤(憤怒) 「返(帰・還) 」 るを診て頗柘文(捌分) ではないのか・・・?・・・もちろん、「古事記」の「改作」だ。 「雨傘(唐傘=蛇の目傘)をさして柳の下の蛙を観察している人物」は「海女の加佐を挿して、ヤナギ(耶名疑)のシモ(史模)のカエル(掛重留)をカンサツ(観察・監察・鑑札・鑑査柘・鑑差柘・巻察)している人物」だ。 小野篁・・・・・・・・・たかむら=高村 延暦・弐拾・年生・・・・述べる歴史・二重(尼従)・念記 仁壽・弐年・没・・・・・ひとことぶき=一言武器・尼捻・姥柘 比都古都部記 父・・・・・・・・・・・ちち=遅々・フ=府 小野岑守・・・・・・・・みねもり=三根漏り 岑(シン・ジン)守=壬主・訊主・陣主・神主 陸奥・・・・・・・・・・りくおく(う)=裏句緒句・陸王・理句緒得 騎馬・・・・・・・・・・きば=牙・木場・騎罵・紀罵・記場・鬼婆・鬼場 夢中・・・・・・・・・・むちゅう=武中 嵯峨天皇・・・・・・・・さが=佐賀(左賀=早賀=走駕=諌早)=狭賀 諌められて学問に発奮した 遣唐・・・・・・・・・・検討(見当・拳闘・献灯・建読・巻頭) 副・使・・・・・・・・・そえる・つかい=祖重留・柘甲斐(伏史・譜句詞) 正・使・・・・・・・・・ただしい=太拿思惟・柘甲斐(正史・背遺志) 衝突・・・・・・・・・・ぶつかる=物借る・部柘掛留 ショウトツ=書得都柘・照得都都 隠岐・・・・・・・・・・おき=将記 インキ=寅記(引起・允記・音氣)=虎記 流罪・・・・・・・・・・ながすつみ=長洲柘見 ルザイ=留在(婁斉) 子の字を・・・・・・・・音乃示、緒、 壱拾弐字連ね書き・・・・位置を拾う、似字、柘裸音掛記(つらねかき) 違地、披露、虹 『猫 之子、仔猫、 獅子之子、仔獅子』 ねこのこ、こねこ、ししのこ、 こじし ↓↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓ 音呼之故 胡音呼 史詞之顧 故事詞 値子乃拠 己音呼 姉史之拠 孤児使 根子之古 姑禰拠 嗣子之胡 古史字 虎音之拠 顧音糊 史詞之虎 固辞詞 歌人・・・・・・・・・・うたびと=得旅人 カジン=佳人 位・・・・・・・・・・・くらい=句裸意 三議・・・・・・・・・・みつぎ=御調・密議・三ツ木・貢 サンギ=纂欺 従三位・・・・・・・・・したがうみつくらい 史違う三蔵夷(蘇我蝦夷) ジュウサンイ=重纂意 「口承」されたのは「古事記」で、それを「記録」する為の「下敷」には「外国の歴史」のコトバを「懸けた」のだ。その「詞(ことば)の意味を解く」に、「当時」の「湯王の政治」であり、「杜氏」であり、これら「同音異字」と、その漢字そのものの「字形=部首」を「応招」することが「答辞」なのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『応鐘』=大雪・小寒」=王将・応招・王章・皇照・鴨翔・横照 ・ ・ ダイセツ=(台説・題説・第接・弟屑・代説) ・ ・ ショウカン=(召還・償還・召喚) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「現存・古事記」の記述は「推古天皇」で「終って」いる。何故、中途半端なところで終っているのだろうか・・・ 「日本書紀」が「持統天皇・第三十巻」で終っているのならば、「古事記」も当然にも並行して記録されるべきではないのか・・・ この解答は「古事記」が「上中下・三巻」であり、「常駐解・参観」、そして、「推古(スイコ)」の漢字そのものが明らかにしているからだ。「いにしえ」と「コ・虎・姑・子・胡・虚」を「推理」せよ、である。 この「推古天皇」の記事を診てみるならば、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・推古天皇 ・ ・ 妹、豊御食炊屋比賣命、小治田宮に坐しまして、天の下治らしめすこ ・と、三十七歳なりき。(戊子の年の三月十五日・丑の日に崩りましき) ・。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長の大きい陵に遷しき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ とある。これが「現存・古事記」の「謎」の「問う字」の「解答」であり、「答辞」である。 この記録にある「最初」の漢字、「妹(いも)」、僭越で、誠に失礼とは思うが、これは言語学者の「大野晋」先生への「芋(いも)」の研究に対する「意」の「味」の「母(も)」と「毛(も)」への「私(ヨコシマ)=『ム』」の「別な解答」でもあるのだが・・・ ・・・「まことに申し訳がない」とは、この「誠=真(まこと)」の、「申(さる)」の「訳(わけ)=譯(ヤク・エキ)」なのであるのだ、と・・・スナワチ、「誠=言+成」、「真=十+目+一+ハ」、「申=口+十」、「訳=言+尺」、「譯=言+四(口八)・网(冂メメ)+幸(一辛)」である。 ・・・言語学者としての「大野晋」先生の「姓名」からして、「私」はその「名前」の由来系譜の宿命(?)に不思議に思い、イト的なモノではないか、と疑義すら抱きたくなるのだが・・・「大・野・晋(晉)」・・・しかも「日本語の世界(中央公論社)」の著書名には「丸谷才一」氏の名前も併記されている・・・古典ギリシャ文学(神話)を日本に紹介した人物は「呉吾一」氏であった・・・まったく、考えすぎてしまうと「横島」が「暮れ」てしまうのだ。 とにかく、これから検討していく「同音異字」の「漢字」は全てではないが参考になるだろう。暇な人は漢和辞典を広げるか漢字ワープロで試してみたらいいだろう。 妹=女は未・・・・・いも=芋(ウ・兎=卯=烏=宇) 未=羊 ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓↓ 薯 ↓ ↓ ↓ ↓ 日辻=ひつじ ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 日下(玖沙訶) ↓↓(日下署)↓ ↓ ↓ 宇宙=天空=虚 くさか ↓↓ ↓ ↓ ↓ 鴉=雅(みやび・宮 美) 艸 ↓↓ 藷 ↓ ↓ ↓ ↓ キュウビ ↓↓ ↓ ↓ ↓ ア ガ(賀) 球 未 ↓↓(日下諸) ↓ ↓ ↓ 九州・球磨の南西 ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ からす(韓羅州) ↓↓ 鋳模↓ ↓ ↓ ↓ 帯(多羅斯) ↓↓ 委母 ↓ ↓ 太陽(日)の三本脚(足・髄) たらし ↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓↓ 移母 ↓ 月 脚本=葦本 ↓↓ 菟狭(宇佐=大 分) 熊本県=芦北 ↓↓ ↓ ↓ ↓↓↓ ↓↓ 台 分=壱人和気 肥後懸 ↓↓ 鍍金(めっき) 訳=わけ=おさ(譯) ↓↓ ↓↓↓ ↓↓ 女津鬼(姫)=女柘記=女月=女好き ↓↓ 月経 ↓↓ 意模・位模・異模・移模・伊模・囲模・夷模・緯模 意母・位母・異母・移母・伊母・囲母・夷母・緯母 意毛・位毛・異毛・移毛・伊毛・囲毛・夷毛・緯毛 このマトリックスを診て、「いも(い・も)=イモ(イ・モ)」の理由(道理・訳・譯)が理解出来たカナ(仮名)・・・理解できる人はカナリ、「日本・古代史(誇大詞)」、そして「日本・古代地理=輿」に詳しい人物で有る筈(ハズ)だ。 とにかく、「日本古代史」の「原典(原点)」は「中国(中華)」の「歴史書(暦詞所)」にあるのだ。それは、記録された「帥升(スイショウ)」、「卑弥呼」と「壱与」の「漢字」である。 「和人」は、おのれの「過去=加古=水主=帥升」を知りたかったのに違いないのだ。「知識」を、「文字」を、「経典=本」を「命」を賭けてでも渇望したのだ。だが、「帥升」の「文字=記録」には多くは語られていなかった。費やされていたのは「三国志・魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人」の「邪馬台國」の「卑弥呼」であった。
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