「史記・書」(3)・(46y)
「史記・書」(3)・(46y) 次の記録は「隋書・巻八十一・東夷伝・・國」の「姓は『阿毎』・字は『多利思比弧』・号は『阿輩鶏彌』」であった。 「遣随使・小野妹子」の派遣は「日本書紀」では「推古天皇十五年・西暦607年・七月」だが、「隋書」では「推古天皇八年・600年」である。 607年-600年=7年・・・この七年の差の意味はナンダロウ? ・・・ナナネン=奈々念・名拿撚・茄納捻 ・・・シチネン=志知念・死地念・質捻 「ネン」には「鮎(あゆ・なまず)=魚+占」と、「(いさめる)=言+念」がある。 「小野妹子」は自ら「ショウ・いもこ」と名乗ったのを「随の人」が聴いて、その音を漢字の「蘇因高(ソインコウ)」とあてられて呼ばれた、との説があるが・・・これを聞いた「後の日本人」は「逆のヒント」を得たのに違いない・・・スナワチ、「蘇因高(ソインコウ)」を「訓よみ」で、「ヨミガエる・モト・タカイ」とよんだのだ。「音よみ」ならば、 「ソ=蘇(甦・素・遡・姐)」の 「インコウ=咽喉(音熊・『因興』・姻皇・寅甲・引敲)」。 あるいは、 「ソイン=素因(訴因・疎音)」の 「コウ=広(考・項・交・庚・甲・皇・后・高・降)」 である。 「小野妹子」を「音よみ」で、「ショウ・ヤマ・イシ」とするならば、 「ショウ ヤマ イシ」 「妾は 耶麻の遺子」 「姓は 邪馬の遺子」 「称は 山 の遺使」 「照は 病 史」 「コ ヤ マイ シ」 ↓ ↓ ↓ ↓ 「己の 家は毎 の子」 「オヤマ イシ」 「小山 石 」 「尾山(女形)=美山=鼻山の遺使」 「ショウ ヤ マイシ」 「庄 屋の米 子」 「薯 得 家 麻衣子」 「藷 芋 家 舞 子」 「声 也 真為史」 である。 「小野妹子」は「安珍・清姫」の「庄屋の目子姫=愛子姫」と言うことになる。とするならば、「帥升(スイショウ)」は「素委将烏=水升(みずます)=水増の障=水鏡・増鏡の章=御津の大将」である。「応鐘」は「増水の警鐘」だ。 遣随使=ケンズイ シ =建 堆(台 =たい)使 =犬 瑞 使 =腱 髄 子 =乾 図為 支 遣唐使=ケン トウ シ =建 投(投馬=たま)使 =献 灯 支 =犬(戌)東 支 =検 討 詞 =懸 陶 詩 =見 当 史 =絹 投 資 =賢 投 資 遣欧使=ケン オウ シ・・・天正10(1582)年1月 「大友・大村・有馬」の 大名がローマへ少年使節 遣欧使=ケン ブツ シ・・・文久1(1861)年12月 「竹内保徳」等を派遣 文久3(1863)年12月 「池田長発」等を派遣 「遣唐使」とともに中国へ渡った人々は「商人(あきんど・ショウニン)=承認・昇任」としても莫大な「金額」を投じ、あらゆる「経典=景典=教典=鏡顛=鏡匣(キョウコウ・キョウガフ)」を「売買=場移婆移=媒介=媒海」して「倭」に招来(将来)したのである。・・・幕末には「武器・戦艦」であった。 そして「唄(バイ=婆移・うた=得多)」に掛けたのである。 ・・・あなたは「黒田節」をご存じであろうか?・・・「日の本一の黒田節」は「肥の本、一の玖(王宮)を賂(まかなった)、黒田武士」であり、石垣を基礎にする築城の名人(匠=たくみ)の長であった人物は「加藤清正」である。 「火の元、壱の句賂、拿、部史」である。 豊御食炊屋比賣命・・ゆたか・おん・たべる・ たく・ や・くらべる・ うる ↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓ ↓↓ ↓ ↓↓↓↓ ↓↓ 喩多寡 音色 多部留 他句 也 句裸部留 芋留 ・・ゆたか おん しょく たく むね 豊 音 色 託 旨 ・・トヨ ゴ ショク タク ヤ 台与 語 殖 拓 哉(かな・はじめ・サイ) ↓ ↓ ↓ ↓ 詁(コ・ク・とく) 邪(手+邪=邪揄=ヤユ) 詒(イ・タイ・ダイ・のこす・つたえる・あざむく) 都与 誤 殖 拓 覆い 問与 音 多部留 拓 也 小治田宮・・・・・・おわりだ=尾張拿 ショウジタ=証自他・章事他・照地侘・招字多 =書得字多(他)=將時他 =まさにトキは他 =将、土岐の蛇(巳・まむし)=将、時岐の妥 おじた=伯父(叔父・小父・怖じ)侘(おごる・佗) こじた=故事詫(あざむく・かこつ・わびる・託) 侘(おごる)・佗(よこしま) ・詫(わびる)・託(よる) 坐・・・・・・・・・います=意真素 ザ=座・挫 天下治・・・・・・・あまのしたおさむ=海女の史他、長の務 あまのゲジ=海部の解示(外字・外姉・外史) 三十七歳・・・・・・参を拾う七の祭(纂は重ねる七夕祭) 3+7=10=壱拾=十(重・四方位の酉・たり) 戊子年・・・・・・・つちのえのね=津、茅野、重、乃、音、都、姿 ボシネン=母子撚 三月十五日・・・・・纂解柘重互似地・惨禍、津、壱、拾、互、尼地 賛歌、柘 壱、重、胡、似示 傘下 津 位地重 互 迩字 参加 柘 位置獣 語 二次 癸丑日・・・・・・・みずのとのうし=美津濃都得氏似地・忌中日 崩・・・・・・・・・・・みまかる=診真掛留・くずれる=句ずれる 御陵・・・・・・・・・おんりょう=音量・温良・遠領・怨霊 大野岡・・・・・・・大野のオカ(丘・阜・峻・崗・母・将掛 ・苧掛=いもけ=妹家) 上にありしを・・・・得柄(うえ)・迩(に)・亜里(あり)・支尾(しを) 後・・・・・・・・・・・のち=乃地・あと=跡・蹟・うしろ=得史賂 ゴ=語(互・・・・) 科長・・・・・・・・・とがのなが=都賀の那賀(名賀・たけ=竹・他家・武) カチョウ=花鳥=花蝶=家長=嫁喋 =掛+鯛 ↓ (寵・町・朝・丁・弔・塚・張・調・重・肇・喋) 大陵・・・・・・・・おお(ほ)ささぎ=大佐詐欺・将補佐詐欺 タイリョウ=大漁(大量・拿意両) 遷しき・・・・・・・うつしき=写し記=宇津敷(史記) セン=戦・旋・先・選・・・・・・ 『応(應)鐘』の漢字分解 「广(まだれ・いえ・ゲン)」の 「イ(にんべん・ひと・ジン・ニン)」の 「隹(ふるとり・ふふどり・きじばと・スイ・サイ・セ)」の 「心(こころ・シン)」ならば、 「まだれ=(真妥励・真拿戻・摩惰例・魔唾蛎・真垂)」の 「ひと」、 「ふるとり(婦留都理)」 「ふふどり=府敷奴里」 「きじばと=記事場兎=記事場鍍(メッキ=女就き)」の 「こころ=(古頃・虎頃・姑頃)」は 「金(キン・コン・かね)」の 「童(わらべ)」である。 あるいは 「雁(かり・ガン)」の 「心(こころ・シン)」は 「キム(鬼務・記務)のワラベ(倭羅部)」である。 「応ずる金(キム=記務)」の 「童(ドウ=同・ワラベ=倭羅部・話裸邊)」なら 「応神天皇」と、「宇受女」と、「壱与」である。 『応鐘』が「応神の招来(将来)」なら、「応神天皇」が招いたのは「手人韓鍛の人、卓素(たくそ)」、「呉服の人、西素(さいそ)」であり、「千字文一巻・論語十巻」、「併せて十一巻」をもたらしたのは「百済」の「和迩(王仁)」である。 しかし、私の「説」も「チン説(?)」だが、これらの人物を記述とおりの人物だ、と鵜呑みにしてはいけないのだ。その、「文字」の「イト」は、「一貫」して「イト(糸・意図・異図・伊都・葦都・委都・移兎・遺鍍)」を貫くことだ。 千字文一巻 =せん・じもん・いっ・かん ↓ 戦 時問 一 関(巻・貫) チ ジブン イッカン 地 治分 一 諌(簡・貫) 知 地文 一 鑑(観・貫) ち ちぶみ いっ かん 秩 父未(南西)一 貫(一環) 置 示文 位置(位地)観 せん・あざな・ふみ・はじめ・まき ↓ 亘 亜座名 富美 葉字女 真記 践 字 付診 頗字目 間軌 ↓ ↓ ↓↓ ↓ 摩鬼(姫) ↓ ↓ ↓↓ ヨコシマ(邪) 句践=(勾践) 登美の長髄毘古 コウセン ↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 春秋戦国地代の「越王の名前」。 呉王、夫差(フサ)=闔廬(コウリョ)に 破られたが茫蠡(ハンレイ)を用いて 呉を破り諸侯の盟主となった 「会稽山の戦」。場所は「浙江省」の「紹興」 論語十巻 =賂務語述換・魯務語述換 論語 =乱後 =論後 =論互 =侖語=おもう・すじみち・まるい 書物の簡を集めて順序てる =倫語=たぐい・ともがら 道理・木目・並べる 比べる・撰ぶ 『倫敦』=英国の首都、ロンドンの当て字である =綸=太い糸・天子の綸(青帯) =崙=崑崙山 =淪=しずむ(沈=チン=陳)・衰退・滅びる 併せて十一巻=合わせて、重一貫 上話施て、中一環 亜(あまねし)の輪(話)を 世(三十年間)、重一貫 百済 =口拿羅=句拿螺=供堕裸=珀祭=伯宰=履採=伯斎=白菜 和邇(王仁)=話尼・倭字(国字)=おうじん=応訊=王陣=幕府 「オウジン」はまさに「オウ(オ・ウ)を訊ねよ」である。「誰が訪ね」、「誰」に「誰が尋ねた」のか?・・・「漂着した外人」の「訪問者」に「王」が「訊ねた」のである。 「手人」は「主任」か「他人」で、「多人=おほ・ひと=太人萬侶」。 「韓鍛」は「歓談(間断・閑談)」で、 「唐を掛る字」か「空の嫁の地」、あるいは 「掛羅、掛時(事・字・地・治・似)」である。 「卓素」は「拓句措(匠祖・侘工姐)」か、 「机の本・晦矩柄の基=甲支」だ。 「多口祖」、「多久蘇」、「多長訴」ならば、 「古事記」を講義した人物、 『多人長』である。 「呉服」は「語伏」か「互譜句」。 「西素」は「作意訴」で、 「出人、樺羅、火地(鍛冶・火事・家事・舵・梶・柁)の人」は、 「木花之左久夜姫=古之話索依る秘め」である人物、 「多供(大友・大伴)の祖」、 「鐸祖=銅鐸の祖=鐘」、 「護符句の人、祭の祖」、 「横(ヨコシマ=邪)の人」である。 「応鐘(オウショウ=王将)」の 「大雪(ダイセツ=台説・第世柘・題説)」、 「おほゆき(将保喩記)」、 「小寒(ショウカン=召喚)」、 「こさむ(姑佐務)」、 「をさむ(治=長務=訳務=譯務)」 「緒作務」ならば、「端緒を作るに文武に務めた」である。 歴史の原点は、「武王」を「諌め」、「宮刑の恥」を受け「監獄」に下り、「史記」を「著作」した人物、再び返り咲きして「武王」を「文章」で「補佐」した「司馬遷」である。 そして、この「類似する事件」は「魏志・倭人伝」の「邪馬台國」を出発点とする「日本國」での「多数の類似する事件の重なり」である。 すなわち、「失権」と「復権」、「滅亡」と「復興」、「死亡」と「蘇生(甦生)」の循環なのだ。 「応鐘」は「所行、無常の鐘の声」、「沙羅、双樹の華の色」、「盛者必衰をあらわす」である。「平家物語」、「異題」が「治承物語」である。しかも、グリコのオマケじゃないけれど、作者は「信濃・前司・行長」とも、従兄弟の「葉室時長」、「源光行長」とも・・・これらの「漢字」を「同音異字」に転換して、理解出来れば、あなたは、「私の意図」が少しはわかってくれるだろうかな・・・ ①は「応(王)将の補佐、金の童(立里)、喩す姫の子」で、 「卑弥呼と壱与、張政」の「告喩」である。補佐は「都市牛利」だ。 ②は「召喚」された「王将(豊璋)」を、 「喩」し、「諌」めて「百済」で殺されたのは 「鬼室福信」だ。 「さとし=喩子」=里姉=沙都姉 =左土支 ↓ =ヨコシマの椎(津地・坤=南西)の子(支)」の場所は 「いさめ=諌女」で、 「九州の諌早の女」である。「諌め、喩として」その「地位」を追われた歴史上の順をザぁーと追えば、 ③は「追将」の「蘇我」氏、 「負将」の「物部」氏 ④は「追将」の「蘇我」氏、 「負将」の「山背皇子」 ⑤は「追将」の「中大兄皇子」、 「負将」の「蘇我」氏 ⑥は「追将」の「孝徳天皇・中大兄皇子」、「負将」の「古人大兄皇子」 ⑦は「追将」の「斎明天皇・中大兄皇子」、「負将」の「孝徳天皇」 ⑧は「追将」の「大海部皇子」、 「負将」の「大友皇子」 ⑨は「追将」の「持統天皇・藤原」氏、 「負将」の「大津皇子」 ⑩は「追将」の「聖武天皇・藤原」氏、 「負将」の「長屋王」 ⑪は「追将」の「橘」氏、 「負将」の「藤原」氏 ⑫は「追将」の「孝謙天皇・道鏡・弓削」、 「負将」の「淳仁天皇・橘」氏 ⑬は「追将」の「和気・藤原」氏、 「負将」の「称徳天皇・道鏡」 ⑭は「追将」の「桓武天皇・藤原」氏、 「負将」の「早良親王・ 大伴・佐伯」氏 ⑮は「追将」の「大伴・坂上」氏、 「負将」の「蝦夷」 ⑯は「追将」の「平城天皇」、 「負将」の「伊豫親王」 ⑰は「追将」の「平城天皇」、 「負将」の「藤原薬子」 ⑱は「追将」の「藤原」氏、 「負将」の「菅原」氏 ⑲は「追将」の「平」氏、 「負将」の「源」氏 ⑳は・・・もはや、「清和・源」氏と、「桓武・平」氏の繰り返しで、ごちゃ混ぜ、「鎌倉幕府崩壊」、「応仁の乱」と「戦国時代」への突入、「1600年」の「関ヶ原」の決戦である。 ・・・そして、「現存・古事記」の意図は「沈没」して「復権」を果たした「人物」のアッピールが「要」なのだ。 「こさむ」は、 拠作務=作る務めの「本拠・拠依・拠久・拠守・拠点・拠有・拠拠然」 故差武=「故事」の「武王」の「差配・差次・差別・差遣・差使・差人・差異」 「差」=「垂(スイ・たれる)」が意符 「左(ひだりて)」が音符 古査務=「古き・旧記」を「考査・査察」するに務め 姑佐務=「舅・宗徒・主は宇土・拾度(酉)・州都・集胡土」の補佐の柘図女 子佐務=「壬子」の補佐(壬申・壬辰)、嗣子の補佐を努める 弧差務=「円弧」の「差異」を務める 虎佐務=「天武天皇」の補佐(持統天皇)を務める 故作部=「故事」の「索部」 虚差務=「嘘」の「よこしま」の「つとめ」 庫査務=「蔵(鞍)=蘇我氏」の「考査・査察」するに務め 「こかん=股間=股の間」は「又、亦、俣」の「カン」で、「九州・水俣」の「俣」は「国字」である。この字を敢えて「イト的」に「国字」として造ったのは理由があるからだ。「俣=イ+口+天=ひと・く・ち・てん」で、「卑が説く地点」であり、「日疾く致点」で、「比べ得る地点」である。「倭人伝」にある「邪馬台国」の「卑弥呼・壱与」に「告喩」させた「張政」の「ヶ所」であり、場所である。そして、「こかん=虎の関=虎の巻」は「日本書紀・天武天皇」の「記録の関」と、「関ヶ原」の「戦陣の関」である。オマケは「股間の試練」をうけたのは「漢の高祖の十一年、『呂后』に殺された准陰の『韓信』」であった。彼は「張良」、「蕭何」と共に「漢の三傑」と言われた人物だ。であるなら、オマケのオマケは「韓」と「張」と「蕭」の漢字を調べることだ。 日本史、「1332年(元享二年)」に「元享釈書」を撰進したとして登場する「虎関師錬」などは、友人の「名・探偵・明智小五郎」に依れば、その実体は「怪人・二十・面相」であろう、と言うことだ。当然にも「1372年(文中一年)・真福寺本・古事記の書き写し」などは、その「年号」と「寺」の名前をみれば「シン伏字本」そのものなのだ。だが、「国宝及」の「貴重な骨董品」でもある。 ・・・「712年」・・・ワタシの説が「本当」なら、よくも、まぁ、カケたもんだよね・・・? 「甲斐・武田家」の事情を知っている人物、少なくても「1600年」以前の「世界史的事情=記録」を知っている人物の「作品」が「現存・古事記」なのだ。マッタク(全く)、「古代エジプト史」まで含めた「全世界史」である。 これらのコトは「現存・古事記」を記録した人物の「立場の考察」を私が「チン説」で推理しているだけで、私自身、これが、「日本史の真実」かどうかはアズカリ・シランし、そんなモンを鵜呑みにするモノじゃぁナイのは、あなたは百も承知であろうがね・・・特に受験生なんかには絶望的な説なんだから・・・ 「二十四節季」だから「現存・古事記」が「重ねる話」は「二十四・説・記」である可能性が大きいが、もう、いいカゲンにしたいから・・・やめた・・・。
史記・書(4) 他の「二十四節季」の考え方も同じである。(47) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『無射』=小雪・大寒」=武射(武蔵)・武者・矛差 ・ ショウセツ・ =(小説・小節・詳説・章節) ・ ダイカン=(代官・代換・台諌・第換・題観) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『南呂』=立冬・立春」=難路・南慮 ・ リットウ・ =(律等・立唐・率唐・栗東・里津島) ・ リッシュン=(律舜・立瞬・立順・葎順・里津隼) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『夷則』=霜降・雨水」=意速・夷足・伊足・意蘇句 ・ ソウコウ・ =(草稿・奏功・装甲・走行) ・ ウスイ=(碓井・碓氷・臼井・薄) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『林鐘』=寒露・驚蟄」=臨床・臨唱・隣象 ・ カンロ・ =(甘露・換呂・諌路・鑑賂) ・ ケイチツ=(景秩・稽地津・鶏地津・軽地津) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『生賓』=秋分・春分」=正賓・製品(製本・正本) ・ シュウブン・ =(醜聞=スキャンダル) ・ シュンブン=(舜文・瞬文) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『仲呂』=白露・清明」=中路・沖路・丑路 ・ ハクロ・ =(葉句賂・頗区路) ・ セイメイ=(姓名・生命・声明・盛名・清明) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『姑洗』=処夏・穀雨」=虎占・胡占・古戦 ・ ショカ・ =(初夏・書家・書架・緒掛) ・ コクウ=(虚空・虎食・胡句得・拠空・故九迂) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『夾鐘』=立秋・立夏」=協商・鏡象・鏡承 ・ リッシュウ・ =(裏柘集・履都州) ・ リッカ=(履都掛) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『太蔟』=大暑・小満」=台足・太族=太安萬侶 ・ タイショ・ =(対処) ・ ショウマン=(衝満・章萬・照真務) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『大呂』=小暑・芒種」=退路・帯路 ・ ショウショ・ =(詔書・証書・消暑) ・ ボウシュ=(傍首・冒主・亡珠・某主・卯主・暴主) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一応、同音異字を掲げておいたので、あなたが自分で「歴史上」の時代的な事件、人物、場所等を、類推、推理して欲しい。 特に「古代史」に関しては「古事記」の作者自身が「知っている」と確信しているか、「・・・だろうと、思っている」ことを伝えたいはずである。もし、「作者」が「1600年以降」にその「古代史」に関心を寄せた人物なら原点は「邪台国」の「女王・卑弥呼」と「宗女・壱與」であるのは云うをまたない。 そして、私たちと同じようにその「場所」を推定、確定したい願望に駆られたのに違いないはずだ・・・「地理」である。「壱與」の「與」に類似の類字が「輿」であるが、「鳥」をてっぺんに飾り載せた「お御輿」である。この漢字の意味は「地理・地図」のことである。「みこし」である。西洋に於いても、東洋に於いても「大航海時代」の真っ盛りで、「旧大陸の未知の場所」、「未知の新大陸」への冒険の時代であった。もし、あの「装甲鉄板の巨大な戦艦」を造らせた「革命家」で「冒険児」の「織田信長」が生きて権力を握っていたならば「徳川家康」とは違った「日本」を「世界地図」をにらみながら建設したのに違いない。 もちろん、「家康」も「世界地図」を見せられていたのに違いないのだ・・・見せた人物は「三浦案針=ウイリアム・アダムス」だろう・・・彼は「世界地図」を指し示して英語で「atlas(アトラス)」と発音したのだ。「アトラス」である。私はアメリカに行ったことがあり、アメリカ人との英会話の経験があるが、相手の「appreciate(感謝する)」の「a」が全然聞き取れないことがあった。「a」が抜けて、「・プリシエイト」と聞いてしまうのである。さて、老人の「家康」の耳に「ア」の発音が聞き取れたか、どうだかだ。そして「ス」の部分も聞き取れたかは疑問である・・・「a・トラ・s」だ。 スペルは違うがギリシャ神話の「Aterus(アトラス)」は「ミケーネの王、Agamemnon(アガメムノン)とMenelaus(メネラス)」の父親である。日本語で「崇め奉る(アガメタテマツル=あがめむのん)」と云うのは偶然だろうか。海底に沈没したと云われる「Atlantis(アトランティス)」大陸はギリシャの哲学者「プラトン」が祖父「ソロン」の話を記録したモノだそうだが・・・その大陸にあった都市国家の王城は「三重の運河」に囲まれていたとも・・・。 さて、「史記」の記録に戻ろう・・・ 「史記・暦書」 「『少皋(ショウコウ)』氏の勢力が衰えると、南方の『九黍(キュウレイ)』族が乱を起こした。」の記録が「古事記」に重なる暗示は『少皋』と『九黍』である。「ショウコウ」氏は、 商工・将校・昇降・症候・焼香・消光・商港・小康 の「シ」である。「キュウレイ」氏は、 急冷・旧戻・球玲・究例・九礼・及令・求鈴・宮霊・舅励・扱隷・泣令・丘麗 救霊・久伶・仇戻・臼嶺・弓齢・鳩戻・厩令・球蛎・給礼・吸戻・窮令・糾礼 汲澪・朽齢・笈苓 である。これはスベテ、「玉=球磨=熊=久万=隅=霊=珠=多摩=弾=丸=円=輪=和」である。 次に「史記・暦書」から抜粋したモノを展開するから、あなたも「現存・古事記」と「照らし併せ」てみてくれ。 ちなみに、「テラシ・アワ・セル」は「寺詞(史)・安房・競る」かも・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 「『而+頁・王+頁(センギョク)』はその後を継いで、『南正の重』 ・に命じて天のことを担当して神を次第させ、『火正の黍』に命じて地のこ ・とを担当させ人民を次第させ、旧態に復して互いに侵略したり、冒涜した ・りせぬようにした。その後に、三苗がまたも九黍と同じ様に乱を起こし、 ・{南正・火正の}二官も職を失い、閏月は出たら目となり、正月を置くと ・きも分からず月の置き方も乱れ、暦の法則も乱れてしまったのである。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「織田信長」だが「朝廷」に「暦」の「改暦」を迫った。「尾張で使用している暦の閏月」と同じモノにせよ、としたのだ。その時代の「朝廷」の存在価値を認める唯一の重要な仕事と言えば「天子が制定する暦」であったのだ。彼はこれを「乱す存在」であった。甲斐の武田を滅ぼした時、「恵林寺」の僧を焼き殺したのも「信長」であった。 「『南正の重』」とは「南西・南勢」が「重なる」で、「九州の南西」か「南朝の勢力」で、「後醍醐天皇」と「楠正成」の示唆である。天皇を裏切って敵対したのは「足利尊氏」であった。 「『火正の黍』」とは「加勢・家政」の「吉備」で戦国時代ならば「毛利」であろう。と同時に「家政」は「主婦(女)の仕事」で、「北条政子」か、漢字の暗示は「徳川家康の政治」だ。 「三苗(サンビョウ・みつなえ=箕綱重)」なら「傘彪(サンヒョウ)」で、「加佐(笠=龍・劉)の彪(兵)」である。「蚕猫(かいこ・ねこ)」なら「海子の祢(禰・音・値・根)の虎」である。とにかく、「サンビョウ=纂表(日本書紀)」には「簒彪(奪われた虎・奪った虎)」の記述がある。「則天武后の比喩が『鼠(子)』」で、彼女に「殺された皇后と淑妃が『猫』」である。「ねこ」は実際には「ねずみ」に殺されたのだ。そして「ねずみ=則天武后」は「ねこ=淑妃」に「のど=咽喉=能都」を締め付けられる悪夢にうなされ、都の「長安」から「洛陽」に逃げるように遷都したのだ。 ここが考え何処である。「日本書紀」では「鼠」は「蘇我氏」の比喩で、「山背大兄皇子」の追撃時、「鼠穴に伏して生き、穴を失ひて死ぬ」と「蘇我氏」を諌めたのは「古人大兄皇子」であった。また、彼は「大化改新」の「中大兄皇子」の「蘇我入鹿(鞍作・林臣・豊浦大臣)」暗殺を目撃して「『韓人』、鞍作臣を殺しつ」と云って「私宮」に逃げ込んだ人物だ。 この『韓人』とは誰か・・・歴史的には「日本書紀」が記録する「南朝鮮」の「三韓」の「馬韓・辰韓・弁韓」だが、「韓(カン・から)」は戦国時代(BC403~233年)の間に「晉=晋(シン・すすむ・おさえる・つつしむ・あき・くに・ゆき)」から独立し、「秦(シン・ジン・はた)」に滅ぼされた国である。ここは漢和辞典辞典か、歴史辞典で「国家」としての各時代の「韓」、「晉」、「秦」を調べて欲しい。 さて、次には「漢字」そのものだ。「韓(カン・ガン・いげた・から)」の同音漢字は無数にあるが、「韓」は「十早(日十)韋」の合字で、「韋(イ・なめしがわ・そむく・かこい)」の解字は、「舛・足・背」を「そむけあう」、「囲=めぐる」である。「舛(ます=升)・足(あし・葦・髄)=(たり・垂・帯)=(ソク・則・速・息)・背(せ・世・瀬・施)」の漢字は何度も何度も腐るほど説明してきた。「帥升」、「垂仁」、「息長」は「日本古代史」に登場した人物の「名前」である・・・「から」も「重複・軽重」の「カル・い」になまっている。「軽」は「キン」ともよまれる。 「囲」は「かこむ」だが「国」と同じ意味で、「井(セイ・い)」で、井戸の「囲桁」や、田圃の畔による区分である・・・「水(御津・参・密・『蜜』)を囲む国」だが、「神と約束、契約」をし、『蜜の国』を追い求めた「民族」が「聖書(バイブル)」の「申命記」に記されている。 「蚕(サン・かいこ)=天(二人)虫(中ム)」は「天誅(天中)のヨコシマ(ム)」で、「生年不明」、「出自曖昧」、「存在不明」の「天武天皇」の示唆である。当然、その背後には「唐」の「則天武后」と「劉仁軌」が存在した。 「壬申の乱(亂=爪又ム又冂・)」で「淡海(おうみ・近江・青海=西海・あわみ=阿波診)」で殺されたのは「中大兄皇子=天智天皇」の息子、「大友皇子=弘文天皇」だった。「壬申の『乱』」であるから「既成の権力」に対する「反乱」であった。 「申支(猿史・晋史・秦史)の覧=猿田彦・猿女・遠史・媛周・豊臣秀吉」は、その「対冲」の「寅支(虎史・院史・隠史・允史・咽史・姻史)の覧=古史・古詩・越・輿・大海皇子」なのだ。注意すべきは同音の「壬辰の歳」をもである。 「九黍(ショ・きび)」なら「旧所・仇所・玉所・急所」か「及の鬼火・姫毘・穐美・吉備」か「究及・宮・汲・救急の吉備」である。 「吉備島姫王」は「天智・天武」の祖母で、「皇極女帝(天豊財重日足姫)」と「孝徳天皇(天萬豊日・軽皇子)」の母親である。 「吉備真備」は「持統九年生~宝亀六年没」の人物で、母親は「楊貴氏」だ。後に「宝字称徳・孝謙女帝」の「右大臣」となり、「参議・中衛大将」であった。「宝字称徳・孝謙女帝」は「邦字(法事・方字・朴事)=国字・和字」を、「生得(詳讀=サイドク=再読=歳読=差異読=哉読=再解=再釈)」し、「後見=あとみ=痕(かさぶさ)診・跡診・蹟診」、「貢献=みつぐ=密愚・蜜具・三虞・御津倶」、「公権=おおやけ=大焼」、「高見=たかみ=多家診・多寡診・侘家箕」、「効験=ききめ=鬼気女=危機女=機器女」を新たにするだ。 「皇極女帝」の旦那は「舒明天皇(息長足日廣額・高市天皇=たけいち)」で、「十三(壱拾参)年・十(壱拾)月」に死亡している。「高市天皇=たけいち天皇)」なら「たけ=他家・多寡・多可・尭・嵩・高・竹・丈・長・鷹・猛・建・孝・武・隆」の「いち=位置・位地・弌・壱・一」天皇である。 「キュウ・ク・ここのつ」の「きび=稷(ショク・シキ)」なら「給食・休職・求職・球飾」、「旧式・旧辞記・旧識・球色」だ。 「稷」は古代中国の農業を司った「尭の臣」で「周の祖先」である。天体なら「明けの明星=暁=金星」である。「金星」なら「金生・禁制・謹製・均整・金(キム)姓」で、「鬼務世」だ。「軽皇子(孝徳天皇)」や、「軽宮」の「軽」は既に云ったが「キン」とよみ、漢字分解すれば「軽=車又土=くるままたど=繰る侭(間々)多度」である。「稷」の熟語で「稷狐(ショクコ)」は「五穀神社の稲荷の狐」で、「護国(吾国)の神社、い(異・慰)な(名・拿)り(璃・理)、き(記・鬼)つね(常・恒)」「王の側にいる悪臣」である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 「『尭』は{天子となると}再び南正の『重』、火正の『黍』の後裔で、 ・旧制を忘れてなかった者を登用し、再びその仕事を担当させ、『羲和(ギカ ・)』の官(暦法の官)を置いて暦を明かにし、天度を正しくした。それで陰 ・陽の氣は調和しし、風雨も季節に合い、和気が盛んとなって、人々のあいだ ・に夭折もなく病疫もなくなった。尭は老年となってから、舜に天子の位を譲 ・ったが、その時に始祖の廟で丁寧に訓戒して述べた。『天象の秩序を正しく ・保ってゆくのはお前の責任であるぞ』。『舜』も同様のことを次代の『禹』 ・に訓戒している。以上の事から判断すると、暦法はまことに王者が重視する ・ものであることが分かる。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「その時に始祖の廟で丁寧に訓戒」は「祖之解、似史、蘇之描出、帝長似、君甲斐」、あるいは「姐、乃、時岐(土岐=朱鷺=朱鳥)、爾志(尼子・西・螺)、措(甦・曾・遡・素)野、病(猫=ネコ・錨=いかり・秒=能義・平)、守都、艇長、似、勲階」だ。 『舜(シュン・あさがお)』は「有虞氏」で、「華のあさがお(朝顔)」である。「あさがお=亜・佐賀・尾(将)」で、「シュン=隼(はやと=早都=諌早)」だ。 『禹(ウ・むし)』は「四本足の虫類」で、「史本則の衷類」。「よつあしのムシ」とは「爬虫類」のことで、「与・都・葦・牟・姉」の「頗(よこしま)・沖(おき)・留(とめる)・囲」。「ウ=宇・右・烏・卯・兎・芋」。 「亜(あまねし)佐賀(さが)尾(お)」は「海女子の始は佐賀の尾(お・び)」で、「長崎の鼻」の「はな(頗那)」、「び(毘=ほぞ=浦姐)」である。 古代世界史で「海女子史」なら「女性戦士(戦死・戦史・先史)=女丈夫」の「アマゾネス(Amazon)」だ。 古代ギリシャの中心は「『Αθηνα(アシナ)』=Athens(アテネ)=Attica(アチカ)」、すなわち、漢字転換の「アテネ(亜手音・亜出禰)=アテナイ(亜手拿囲・阿出那葦・娃出拿委)=アシナ(亜支那・葦那・芦名・椎名)」であった。その「守護神」はもちろん、「アテーネ女神」である。 「暦法」は云うまでもなく「歴史の法」である。「重視」は「重ねて診る=循環させて診る」ことだ。
史記・書(4)・(47x) 「二十四節季」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『夏』は年の始まりを一月とし、『殷』は十二月とし、『周』は十一 ・月としていた」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古代中国の国家、「『夏(カ・ゲ)』・『殷(イン・オン・アン・エン)』・『周(シュウ・チョウ)』」は、 『夏(カ・ゲ)』・・・カゲ=影・蔭・陰・嗅げ =可解・掛解・化解・華下・禍外 『殷(イン・オン・アン・エン)』・・・インオンアンエン=引音案円 ↓ ↓ ↓ ↓ イン(ム)=韻・引・咽・允・姻・隠・院・寅・陰・・医務・忌む オン(ム)=音・御・恩・遠・温・穏・怨・・・・・・将武 アン(ム)=案・安・鞍・餡・杏・按・庵・闇・暗・・編む・阿武 エン(ム)=円・媛・淵・沿・猿・遠・怨・垣・艶・・笑む・重武 『周(シュウ・チョウ)』・・・シュウチョウ=酋長・拾長 で、「可解(影)・寅(虎)・酋長(宗長)」、「華(中華・中国)の因襲・家の因習」で、「掛(懸・化・加)・音(韻)・調(喋・聴)」である。 スナワチ、音のみを採って日本語にしてみれば、 「夏(なつ=那津・拿津・名柘)」 「ゲ=解(とく・カイ) =外(そと・ガイ) =下(した・カ )」 「殷(さかん・おおきい・ゆたか・ただしい・いたむ・あたる・ねんごろ・ はなはだしい ↓ 頗名裸足意 鼻歯拿思惟(ハナシを併せて思惟) 花肌 思惟(私意・椎・四囲・強・支意)」 「おおきい=大きい・多紀伊・・・多忌意・多奇意・・・・ ↓↓↓ 多貴意=瀧の意=水の漠布=美津濃縛布=水野、幕府」 ↓ ↓↓ ナイル河 の漠 布 ↓↓↓↓ ↓↓↓ 地震 禍倭 場区普(馬句譜) 萎える皮 博 怖 「古事記=乞食=『コ・ウ・ジ・キ』=乞時期(七月七日・七夕)=姑得時期=孝時期=湖有時期=胡得時期=虎・時期=子得時期=后時期=甲時期=考自棄=庚時季=康時期=光時期」・・・ 「徳川家康・徳川光圀」の「時期」・・・ 幕閣に参加した「沼津・山形」の「水野家」の事情だが・・・「水野忠邦(於菟五郎)」は、「徳川家慶」が将軍であった期間の「老中職(五年~十四年・西暦1834~1843)」で、この期間「天保八年(西暦1837年)2月~3月」に「大塩平八郎(中斎)の乱」が「大坂」で起こった・・・前年の「天保七年」には自分の「蔵書」を売って「窮民の命を救った」のだ・・・彼は「陽明学者」と言われるが、「与力」の時代に「隠れキリシタン」を検分しているのだ。しかも、束縛した「キリシタン」を即座には「処刑」してはいないのだ。・・・「陽明学」と「隠れキリシタンの教義」・・・「生臭坊主」を「糾弾」した彼の内部で相通ずるモノがあったのではないのか・・・ 「神戸大震災」の時に二人の権力者、「多数派党」に担がれた「日本国首相(ムラヤマ・大分出身)」と「女性国会衆議院議長(ドイ・神戸出身)」は一体何をしたのか・・・その行動は「役座・渡世の親分」の足元にも及ばなかった・・・のだ。 そして、いま現在「私腹」を肥し、かっては「唐」であった国の「女性を囲い」、「売国奴」にならんとしているのは「倭」に住付いた現在の「劉」と「郭」の象徴音を名前に持つ人物であるかも・・・ とにかく「大塩」の漢字は「大円(ダイエン)」、あるいは「大潮=タイチョウ(退庁・隊長・体調・体長)=ダイチョウ(台帳・大腸)」、「大汐=タイセキ(体積・退席・堆積・滞積)=ダイセキ(大石・台石・題籍・大昔・大関・台跡)」、「大鹽(鹵)=タイロ(退路・他意賂・鯛魯・台櫨・太路・帯絽・対炉・替路・苔蕗)」とよめば、その「各歴史的事件」を「『アマネク』知ってる歴史学徒」にはその「『カク』時代の事件」を重ねて推理することが出来るのだが・・・。 「大志雄」の「併八狼」、「並波地芦得(右)」である。「新潟の八郎潟」の名前の由来はどこにあるのか・・・「長崎の諌早の干拓湾」では「睦五郎」の存在危機が懸念されている・・・この名前由来は何か・・・「南総・里見・八犬伝」は「南を捜」して、「聡美」を「発見」し、「伝」えたかった・・・ 「大塩平八郎の乱」の理由は「全国的な窮民の飢饉」に対して「無策な江戸幕府に対するモノ」であった。幕閣が「窮民の餓死者」を救済しなかったばかりではない。「平八郎」は「老中」が「大坂商人」と結託して「無尽講」で暴利を得ていたことを「知った」からである。 「糸割付」での利害関係でも私腹を肥したのは・・・江戸幕府中枢と「商人」達であった。 ・・・「現存・古事記」、幕末も近い時期の作品なら、「水野忠邦(於菟五郎)」が押し進めた「天保の改革(天保十二年~十四年)」の「御政道」批判が根底にあるのではないのか・・・ とにかく、各年代の「事件の類似と年号の類似」を検討せよ、である。 「水野忠邦(於菟五郎)」は、「寛政六年(西暦1794)生」で、「嘉永四年(西暦1851)没」であった。 この「嘉永四年(西暦1851)」には「和気清麻呂」が「護王大明神」の号を得て「正一位」が贈られた・・・いまさら、何故か? ・・・「天保三年(1832)五月」には「徳川光圀」が「従二位・権大納言」を追贈・・・ そして、「八月」には「義賊」と言われた「鼠小僧次郎吉」が死刑になっているのだ。 ・・・それじゃあ、「伊賀忍者」で、大盗賊の「石川五右衛門」の「釜煎」は何時か・・・「文禄三年(1594年)」であった。 ・・・「大友皇子=弘文天皇」は「伊賀皇子」と言われた。「壬申の乱」では「滋賀・近江・大津京」で敗北した「天皇」であった。 ・・・右大臣「蘇我倉山田石川麻呂」が殺されたのは・・・「大化五年(649年)・三月」だ。左大臣は「阿倍内麻呂」で、内臣は「中臣鎌子(藤原鎌足)」だった。 「水野忠邦」が生まれた「五年後」の「寛政十年(1798)」の「六月」に「本居宣長」の「古事記伝・全巻」が完成したのである・・・「古事記原本」があったのか、どうか・・・あったとして彼は「騙されていた人物」か・・・なかったとしたら「騙した大嘘付きの大詐欺師」である。「現存古事記」はその存在意味からも「根元的に騙す意味を持たせた記録」なのだ・・・「偽書」ではなく、「義書」として・・・ さて、「周」だが、「周(まわり=真倭里・魔話理・間割・磨話裏)=廻り=回り」の「シュウ=拾(ひろう・ジュウ=重)・集(あつめる・ジュウ)・宗(むね・ソウ)・州(くに・ス)」、「チョウ=長(なが・たけ)・鳥(とり)・張(はる)・鯛(たい)・聴(きく)・喋(しゃべる)・肇(はじめ)・兆(きざし)・・・」である。 「見回り同心」とは「鎌倉・室町」時代の「幕府の下級役人」であった。「江戸時代」には「同心」とは「町奉行(警察)の与力配下の下級役人」だ。 ・・・江戸時代の悪人、怪物であった「町奉行」は「鳥居耀蔵(忠耀)」だ。「水野忠邦」の配下に組し、彼を裏切った人物、「鳥居『甲斐守』・耀蔵(忠耀)」・・・彼はその罪にトワレて幽閉蟄居となった。桜吹雪を肌に彫る金さん「遠山『金』四郎」は大喝采・・・「殷(エン・はなはだ・おおきい)」で、「厭(エン・いや=嫌)な奴」だから。 「金(かね)」の合言葉は「壬申の乱」では「大友皇子」の軍勢が使用した。しかも「天武天皇」の軍勢の兵はその衣の上に「赤印」をつけたのだ。「赤い旗」の象徴は誰であったか・・・海没した「平家一族」である。下野した「桓武・平氏の血筋」は返り咲いて「天皇」になったが、「白い旗」の「清和・源氏の血筋」は「将軍」どまりだ。 「水野忠邦」失脚後、「阿倍政弘」が実権を握って「日本の進路」を模索したのだ。 ・・・「御津の中心の国」の後は・・・「甲斐守(山梨)・『鳥居耀蔵』」と、「備後(広島県)・福山藩・深津・『阿倍政弘』」だ・・・ ここは「甲斐国=開国=海国=回国=戒告」、「解雇苦の鳥居耀蔵」。 「備後=紊期(ビンゴ・乱れる時期)」、「福山の『阿倍政弘』」=「吹山=吹負(ふけひ=壬申の乱の将軍)」だ。 ついでに「陸奥・棚倉の『阿倍』」は「他名九羅(多名九羅・店蔵=天蔵)の阿倍」、その後「丹後宮津に移封」・・・・「単語・反語」、「端午(五月五日)」=「はしうま(頗司馬=羽柴)」の「宮(診夜)図に遺封」である。 ・・・これは、「日本古代史」と重なってはいないか・・・ 「一月」は「位地(位置)の都の鬼(姫・岐)」。 「十二月」は「壱を拾う弐の賀の都」で、「位置を重ねる似る国の都」。 「十一月」は「壱を拾う壱の柘記」で、「肇を重ねる位地の多紀(瀧=ミズのリュウ)」である。 「リュウ」・・・ 「龍」は「青龍・辰巳の方角」だが、「龍田神社」は奈良の「西」に存在する。この名前からするとおかしいのは明白だ・・・この神社は「唐の駐留軍の司令所」だったのだ。「唐の洛陽、長安・九州の対馬」からの北緯三十五度あたりの「東」に存在したのである。当然にも「奈良の北西」に線を引けば「韓国の平城」。北緯三十三度あたりの「横島・諌早・長崎」からの「北西」は「天津・北京」が存在する。「真西」は「東台」だ。 「劉」は「劉仁軌」、「劉仁願」、「劉徳高」の姓である。「笠」は「加佐前の岬」、「花笠音頭」、「雨傘」、「唐傘」、「蛇の目傘」。「隆」は「たかし」、「興隆」。「流」は「流沙」、「流年」、「流月」、「水流」。「粒」は「つぶ」、「砂粒」。「留」は「とまる」、「留泊」。「溜」は「ためる」、「溜池」。「琉」は「たま」、「琉球」。「柳」は「やなぎ」、「柳腰」の美人で、「やなぎ」は「楊」の「貴妃」である。「榴」は「ざくろ」、「榴火」。「瑠」は「たま」、「瑠璃(ガラス)」。 「瘤」は「コブとり爺さん」の「こぶ」で、邪魔な「虎武=古府=姑府」だ。「白虎」は「西の聖獣」である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『周』の『幽王』、『蛎(厂萬)王』以後は勢力が衰え、 ・陪臣が政権をとり、史官も正しい季節を記録せず、 ・天使は朔日の祭を行わないようになった。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「『周=鯛=たい=他意=台』の『幽王=ユウオウ=又王=雄王=酉王=熊王=結横=結ぶ横島』」、「『蛎(厂萬)王』=レイオウ=禮王=例将得=齢往=戻横=戻り与る古史の間」だ。これは「邪馬台國」の「俣(亦・股=髄=足=葦)」と、「雄略天皇」、「随王の時」の「鶏王」、「球磨王」を「ヨコシマに往復させて結ぶ前後の歴史」である。 「陪臣」とは「貝臣(海臣=阿倍)・賣臣・梅臣・場異晋・場葦真」である。ちなみに「梅里先生」とは「徳川光圀」であった・・・とすれば、「徳川光圀=水戸黄門」が「大日本史」を編纂させた周辺のヤカラである。 ・・・「水戸学派」とは「尊皇攘夷」であった。だが、「武士(武史)の思想」とは相反する「思想」なのだ。「黄門」とは「カンガン」の「思想」である。・・・各人の聴覚は「音」を同じ音声で聞いても、その「意味」することを「同じモノ」としては「理解」しないのである・・・特に「日本語」は「誤解」される要素を初めから有していた「宿命(星)の言語」なのだ・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「周の『襄王・二十六年』の時、 ・『三月を閏月』としたが、 ・『春秋(左 伝)』では『三月を閏月』とすることを ・非難している」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「『襄王・二十六年(BC626)』の時」とは、「女得王・弐拾六撚」で、「西暦626年(推古三十四年)5月」には「蘇我馬子」が死んだ年である。もちろん「蘇我蝦夷」が「大臣」になったのだ。「6+2+6=14」、「1+4=5」・・・ 「『三月を閏月』としたが、『春秋(左伝)』では『三月を閏月』とすることを非難している」とは、「卯月=纂(簒)外柘」の「得留鵜(・・卯)=持統天皇」を「金春秋=新羅王(左伝・早傳・ひたり、つたえる=卑の足り、晦耐える・都太得る・柘絶える)」は「非難(避難・火難・日難・卑難)」である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『鄒衍(スウエン)』というものがいて ・『五行の変化』の仕方をいい ひろげて、 ・諸侯の間に名を知られた。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「『鄒衍(スウエン)』」に関係する漢字であるなら「吉備真備」がもたらした「大衍(エン)暦」があった。 「吉備」と言えば「播磨・兵庫県」から「長門・山口県」までの「八ケ国」の総称で、山陽道地方である。 「敷衍・布衍(フエン)」と云う言葉もある。 「鄒・魯」とは「孟子・孔子」の生国で、「趨舎」はモノゴトの取捨であり、「雛」とは「鶏(にわとり・ケイ)の卵(たまご・ラン)から孵化した雛(ひな)」で、「反趨」とは口に戻して繰り返し噛み砕くことだ。 「隋の煬帝」が聞いた「・国の王」は「姓が阿毎(アマイ)」で、「字は多利・思・比孤(弧)」、「号が阿輩・鶏弥(彌)」であった。この名前は「天文盤」の用語を意識して音と漢字を用いている。「国の王」は「隋の煬帝」に「上奏文」を送っているのであるから王の周辺の側近、使者は「漢字・漢文」は読み書きでき、また意図的に「阿毎・多利・思・比孤・阿輩・鶏弥」の漢字を使用したのだ。 さて、「反趨」の同音異字、「半数」は「ナカバのカズ」であり、「版数」なら「木版のカズ」、「板数」は「イタのカズ」で、何故か「大分(おおいた)」とよむなら、「分(いた・わける・フン・ブン)」は、「ワケルのカズ」である。「和気清麻呂」と云う人物が「大分・宇佐神宮」に行って「孝謙・称徳天皇」の怒りをかって「汚麻呂」とされてしまった。彼は「吉備真備」のライバルでもあった。 「磐数」なら「イワのカズ」で、「磐余」は「神武天皇」で、「キイシ・カガヤク・日本」の「建国記念日」は『二月十一(壱拾壱)日』である。「盤数」なら「天文盤の目盛り数」である。「晩数」ならば「月の形の数」だ。「盆崇」なら「お盆の先祖供養・命日」だ。 「梵数」なら「インド数学」だが、漢字分解すれば「木木凡の数=鬼姫、あまねし、和」である。もちろん「記紀の凡(あまねし)の和」で、「凡数」ならば『合計』である。 「本数」ならば「頁(ケツ・ページ・おおがい)数」。「品数」は「シナ・スウ」で「支那の数=支名(拿・納・茄・菜)」で「中国の年号数」である。 「芻」とは「十二支が象徴」する「草食動物の家畜」で、「芻豢(スウカン)」は宗廟を祭る時の「イケニエ」である。 「魚拳(豢)」とは「卑弥呼」を記述した「魏略」の著者であった。 「数(かず=和)」、「スウ(崇・枢・嵩・吸・素得・洲芋)」と「円(まろい=麿彙)」、「つぶら(螺羅・粒羅・津分羅)」で、「丸(ガン・まるい)」である。国語辞典に「おもちゃ(玩具)」は「おもて遊びの転」とあるが、もし、転であれば「表(面)の阿蘇・毘」、「玩具(ガング)=王元・目・一人(日取り)」なら「王様のオモチャ(主智夜)」だ。「古事記」の「独神(ひとりかみ)」の意味も解ろうと云うものだ。 ここは歴史上の「暦の改暦」時を「推し広げて詳しく検討」すればいいだろう。重大な事件が重なっている・・・ハズ(筈=竹舌)だが・・・ まさか、かっての「言語明瞭、意味不明」と言われた人物の「国(島根)のハナシ」・・・じゃあ・・・
史記・書(4)・(47y) 二十四節季 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 「『秦』は五徳の推移を究明して『水徳の運』を ・持つものであると解し、黄河に徳水と命名し、 ・十月を正月とし、 ・色は{水につながる}黒を尊んだ。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「『秦』は五徳の推移を究明して『水徳の運』を持つもの」とは、 「秦」氏が語を釈く・・・解釈 「語行」のゴトク(如)・言語の行は女の口のごとく 「出す意」を・・・・・・出=山山(サンサン)=編纂・算出・簒奪 ・・・・・・意=立(たつ)日(ひ)心(こころ) 「スイイ(推移)」・・・垂意(たれる・い)・垂仁天皇の意味 ↓ ↓ 垂れる人は「二(尼=海女)」 水 囲=帥囲=帥升の国 水 葦(みつあし)・・・水の方位=北・子支 芦北の垂=たれ・たり ↓ ↓ =誰 ・足 (脚・脛・腱・髄=随=瑞) 垂 足 「キュウメイ(究明)」・究(きわめる) ↓ =ウ+八+九=ウ(得)る八(ヤ)と九(ク)=得る訳 ↓ ↓ ハチ ク 頗地 句 捌八 九梟 ↓ ↓ わかれる あつめる やつ ここのつ 奴 箇々の津 究・・・(ウ+八+九)-八=ヨコシマ ↓ 明(あきらか)=日+月 =キュウメイ=旧名・糾明(糺明)・救命 糾(糺)=あざなう・なう・よる・あわせる あつめる・まつわる・からみつく みだれる もどる・ただす・あばく 糾=糸+爿・・・爿は「十手」のように見える 糺=糸+・(・・乙)=糸の鉤(鈎・かぎ) =糸の金の句・・・イト(伊都)の禁句 =糸の金を勾(勾引・勾留・勾玉・勾検) (勾践・勾当・勾配・勾欄) =糸の鍵・・・・・糸の金建(金権)=記務謙 伊都の「鬼建姫・武」の兼懸 ↓ 基祁岐箕揆軌 「水の位」の「推移」とは、何が掛けられているのか?・・・「河川の氾濫と干上がり」・・・雨量の増減である。もちろん、「一揆」で、最大規模の「一揆」は「島原・天草の乱(寛永十四年・西暦1637年十月)」であった。その中心人物は「原城」にこもった「益田四郎時貞」である。 長崎に原爆が投下されたのは「1945年8月9日」であった。 「1+9+4+5=19(1+9=十=壱拾)」 「8+9=17(壱拾七)」 「1+7=8(八・捌)」 これは偶然か・・・? 「一期=初期=書記=所期」、「逸機=五木=伊月=厳=斎=何時記」、「乙姫」は「竜宮城の姫」・・・ 「大化改新・唐・太宗帝・貞観十九(壱拾九)年」は「西暦645年」であった・・・ 「6+4+5=十五(壱拾五)」・・・ その歳の「六月・丁酉日・朔甲辰」実行、「蘇我入鹿・誅殺」・・・ 「十三(壱拾参)日後」の「己酉日・蘇我蝦夷・誅殺」・・・ 「六月庚戌日・孝徳天皇即位・大化元年」・・・ 「八坂神社・祇園祭り」は「蘇我蝦夷の死後」の翌日の「陰暦六月十四日(戊戌日)」である・・・ 「葬式」が「戊(ボ)戌(ジュツ・シュツ・シュチ)の日」なのだ。スナワチ、 「ボ(母・姥・牡・暮・墓・模・簿」の 「ジュツ(述・術・受都・嬬都・呪晦・授柘・鷲津・綬柘)」 「シュツ(出・主都・守都・首都・諏津)」 「シュチ(主地・諏地・種地・首治・珠地・蜘蛛・守地)」 である。 「推移」だが、「スイイ(垂意・出意・垂異・出異・水葦)」で「水葦(みずあし)」は「水足=水又=水亦=水股=『水俣』=御津亜史」だ。「推移」の部首分解は「手(て)隹(ふるとり)禾(のき)タ(ゆう)タ(ゆう)」である。 てふる とり ゆう ゆう ↓↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓↓ 出古 都里 熊 酉(くまとり=隼・猛禽=球磨都里) 手振る『止利』、 由宇、結 手府留 鶏(鳥)、熊 邑(都) 出降る 酉 夕 邑(皇太后、皇后、公主の領地・洛陽) ↓↓ 出=山山(サンサン=燦々・参々=Sun、Sun)が降りる西の夕の都 ↓↓↓↓ ηλιοs(イリオス)=太陽 ↓↓ 西 表(島)=沖縄 「多」=タ・おおい・おおの 「て」=手(シュ)・又(ユウ・ウ・右手)・・(氏一)・弖(弓一) =弟(テイ・ダイ)・出(シュツ) 「ふ」=府・敷・普・譜・振・付・婦・夫・負・扶・符・釜・富・賦 「る」=留・流・琉・瑠・婁・屡・流・・・・ 「と」=都・渡・斗・途・図・屠・登・・・・ 「り」=里・離・理・璃・裏・吏・利・李・利 「ゆ」=由・結・輸・愉・諭・喩・油・・・・ 「う」=得・迂・烏・兎・鵜・芋・羽・・・・ 「とり」=採り・捕り・取り・執り・盗り・ 「ゆう」=憂・邑・酉・熊・雄・猷・由宇・又・友・結う 「止利」とは「止利仏師・鳥仏師・鞍作止利・鞍作鳥」のことである。父祖は「司馬達等」で「中国・南梁」からの帰化人。父親は「多須奈」である。しかも、「止利」の初めの記録は「推古天皇・十三年」にあり、「飛鳥の興福寺」の「丈六」の「釈迦如来像」を「二体、制作した」である・・・「推移」は「推古・壱拾参撚」の記事を読み証すこと・・・だ・・・「比長の降伏時」の「擾武」の「借掛如(序・助・汝・女)寄贈(記造・記挿・鬼相・鬼嫂・揆増)」・・・「釈迦如来像」の「一体」は不明らしいのだが・・・「一帯(一対)=初めのタラシ」は不明なのだ・・・その不明の「壱与のタラシ」の「スイイ(推移)」だが・・・「止利(シリ)」を何故「トリ」と訓だのか・・・ここはあなたが漢和辞典で「止」と「利」をじっくりと調べれば氷解するだろう・・・ まったく、「止める利」とは・・・「シリ」に「トドメをサス」とは・・・「熊襲建」がアマリニモ「可哀想(可愛想・河合争・掛相争・掛姶争・禍亜縊姐鵜・仲哀天皇の喪)」じゃぁないのか・・・オンナのアラソイである。 「スイイ=素違葦(スイロ)」は「水路」になってしまう。「洲葦芦(ミズの国のアシのアシ)」は「水の国の亜子(海女士の子)の足」である。 「垂の葦(阿子=阿児=阿字=阿毎=阿倍)国の王=垂仁天皇」で、「推移」を字面とおりに「推古(天皇)」、「イニシエ(古・昔)」を「推理」する、とすれば、中国の記録「後漢書・光武帝・中元二年・丁巳(西暦57年)」の「奴国王」と「107年」にある「帥升」の古事である。書物、人物、年号、干支、西暦年号をジックリと考えればイイのだ。 「推古」すれば、「帥(ひきいる・かしら・おさ・スイ・シュツ・シチ・ソツ・ソチ)」の「故(ゆえ=結え)」で、「帥」は「太宰府の長官」であり、「将軍・元帥」である。 「帥顧(スイコ)」は文字道理、「太宰府の長官・将軍・元帥」を顧みれであり、「奴国王」の「帥升」の推移、移動を究明(旧名・球名・旧盟・糾明・宮名・救命=救いのミコト)」し、「水徳(スイ・トク)」は「簾威の徳(説く・釈く・解く・読・篤・涜)」で、「則天武后の政治」の「有無」を「持つモノ=持統」であるとし、「黄河(横臥=王臥=王賀)」を「釈(説・読・解)出」し、「命名=ミコトの名前」としたのだ。 「十月=壱拾月(位置重月・神無月=神無都姫=神武津紀)」を「照臥柘」。 「十月=壱拾月(一重月=睦月=陸奥柘記) =六月=水無月=御津武都紀) (一重月=十一月=霜月=史模柘紀) =雨相(ウソウ)=鵜嫂=嘘有 =雨木目=天姫女=海女鬼女 =仲冬(チュウトウ=中東) =人那賀謄(問) =人長、問う=『多人長』、問う」 ↓↓↓ 「多人長」は「日本書紀」の「講師」であ るのだが・・・「古事記」の存在が浮上し たのは彼によるらしい・・・何故「人長」 であるのかは「ひと=ゐと=いと」は「長 =たけ」であるからだ。しかも「朝臣」だ。 「色(妹=妻)」は「水(御津・密=日曜日)」につながるとして「黒(クロ=句呂=九芦)」であるのだ・・・「黒田武士」とは、ねっ。しょっとすると代々の「黒田藩主」は幕末まで「隠れキリシタン」ではなかったのか・・・「如水」、その「洗礼名」は「ドン・シメオン」・・・? 漢和辞典では「九」が大きいと訓じている。そうであるならば、「九芦=九葦」は「大芦=大足=大股=大脚=大亦」で、「大迹(男大迹)」は「第二十六代・継体天皇」だ。「大迹(男大迹)」を「尊んだ=盗、富んだ=唐、跳んだ=唐、飛んだ=藤都、武拿=唐都、武拿=東都、務拿=統都、無駄」・・・ トンデモナイ奴・・・と、云うことらしいのだが・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 「漢の世が来て、高祖は『北方の神を祭る祭壇は、 ・自分の時になっては じめて設立されたのである』と述べ、 ・漢も『水徳の運』を得たとみずから 考えていた。 ・そして、暦をよく研究している者や、 ・『張蒼』らまでもそれを肯定した。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 漢の世が来て・・・カン(諌・姦・干・乾・関・官・桓・韓・換・甲・寛・艦) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 早 淫 害 漆 門 宦 武 国 氣 府 永 隊 高祖は・・・・・・・コウソ(控訴・公訴) 北方の神を・・・・ホクホウ(補句方・北邦・帆駆法) 祭る・・・・・・・・・サイ(差異・斎・哉・歳・再・採・西・殺) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 名 耶 星 度 用 洋 傷 祭壇は・・・・・・サイダン(裁断) 自分・・・・・・・ジブン(時分) 暦・・・・・・・・レキ(歴) 研究・・・・・・・ケンキュウ(兼球) 張蒼・・・・・・・チョウソウ(長想・聴想・鳥葬・肇嫂) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『孝文帝』の時に『魯国』生まれの『公孫臣』が ・陰陽五行の循環論を上奏したが、 ・『漢は土徳を得ている。だから年号を改め、暦を改正し、 ・服色も改めるがよい。やがて吉兆が現れようが、 ・それは黄龍の出現である』 と述べた。 ・丞相の『張蒼』はこの意見を却下した。 ・ところが、『成紀の地』に黄龍が出現した。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 孝文帝・・・・構文綴 時・・・・・・・・字 魯国・・・・・・露告 公孫臣・・・・孝尊臣 陰陽五行の循環論・引用・語行・隼官芦武(順巻露務・楯干路無) 上奏・・・・・・上層・情操・擾争・嬢争・丈争・場捜・・・譲嫂 漢・・・・・・・・巻・関・姦・諌・鑑 土徳を得・・・度説、迂(烏・卯) 年号を改・・・撚合、甲斐、海、魁、回、皆・・・開解 暦を改正・・・歴・回生、開成、海姓・甲斐姓・解姓 服色・・・・・・復職・副食・服飾・伏書句・覆書句 吉兆・・・・・・既知重・貴地肇・基地長・危地諜 黄龍・・・・・・邑流・凹溜・姶留・央留・横留・押劉・奥留 出現・・・・・・水源 丞相・・・・・・譲嫂 張蒼・・・・・・長早・長嫂 意見・・・・・・異見・遺賢・違憲・葦懸 却下・・・・・・客禍 成紀地・・・・世紀知 出現・・・・・・水源 次からの文章は各人が検討してくれ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 「『新垣平』は『雲氣』を『観望』する術 ・を知っていると言うことで 天子(孝文帝)に謁見したが ・後に詐偽を謀ったので彼の意見を廃棄した 。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 「今の天子(武帝)が即位されると、方術使の『唐都』を招致して、 ・まず天の『二十八宿』を観察させた。 ・また『巴郡』生まれの『落下広(門ナム)=字は長公』は ・天象を計算して暦を作ったが、その結果、 ・天体運行の『度数』は(一月を年の始めとする)『夏』の場合と ・同じになった。そこで改元して官名も改称し、『泰山』で祀り、 ・そのとき御史に次のような詔が下った」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「近ごろ役人は天体の運行がまだ決定していないと述べた。それでおお ・くの学者を召集して問いただし、意見を聞いて天象を研究させたが、まだ ・一致していない。昔、黄帝は暦を作って不朽の名をのこし、四時に名付け ・天の巡りを調べ、音律を定め、五行の考えを立てて、節季などの暦数を決 ・めたが、それはまことに古いことである。そして今では暦書はなく、音楽 ・の法則もなくなっている。自分にはこのことが大変心配である。かといっ ・て自分にはまだこれをはっきりさせることができないのであるが、日の運 ・行を調べると、永遠に勝つもの(土徳)に応ずる兆しがみえる。今や日は ・夏至である。そこで、(夏至に)黄鐘音を(配当して)宮階として、以下 ・は林鐘音を徴階、太蔟音を商階、南呂音を羽階、姑洗音を角階に定める。 ・こうするとこの後には子の日の冬至に到るまでに二十四節季も音律に従っ ・て正しく移ってゆき、羽階の音も(清音から濁音、そして)さらに清音に ・戻ることとなり、音階もまた正声に戻ることになる。こうして陰陽の変化 ・が正しく行われることにもなる。そこで、今年の十一月甲子の日の朔旦は ・冬至に相当するから(元封)七年を改めて太初元年とせよ。そして、年に ・は『焉逢(甲)摂提格(寅)=エンボウセッテイカク』と命名し、月には ・『畢聚(前十一月)=ヒツスウ』と命名せよ。日は甲子であり、夜半の朔 ・旦が冬至(の正北)に当たるわけである」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・「『大余』はそれぞれの年の冬至にある十一月の朔日。 ・『小余』はその日の朔の時刻で、 ・分母を940とした時の日の端数。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大余・・・・・・・台与・代与・第与・題代・岱預・醍世・・廼輿 替代・替与・替与・替与・内預・拿彙与・・輿 大海女里 多亜間裏 小余・・・・・・・証輿・升代・照代・証代・詳予(序) 鐘与 妾代 将誉 賞与 「アマルガ(カ)=余留臥=余留日=娃磨瑠化・・・娃=月の天女 ↓ 蛙間琉化・・・蛙=月の天蛙=雨蛙 亜間流禍・・・亜=あまねし=凡 「月暦」とは「陰暦」の「暦=歴史」のことだ。 「アマルガム(amalgam)」は「水銀」と他の金属の「合金」である。「水銀」は「金の採取」に使用すると同時に「鍍金(トキン・めっき)」する時に使用されたのだ。比喩的に「混合」を意味する・・・金剛仏・・・ 「アマ(amah)」は「乳母・子守・阿媽」である。 「アマルナ文書」は古代エジプトの「アケト・アトン(エル・アマルナ)王宮文庫遺跡」から「1884年」に発見されたモノである。この文書には「アメノフィス四世(イクナートン=アクナトーン)」によって行われた「宗教革命」が記されている。「アモン(太陽神)の神官」の影響を排除するために「アケト・アトン=エル・アマルナ」に新都を建設し、「アトン神」を崇拝した。 ・・・幕末、「1861年(文久一年)十二月」に「イギリス軍艦・オージン号」に乗船、出発し、翌年の「1862年(文久二年)三月」にフランスで「ナポレオン三世」に謁見した人物が存在した。「1683年(文久三年)」にもその航海途中、「エジプト」を訪問して「ピラミッドを仰ぎ、スフィンクスの前肢に上って写真まで撮った」のだ・・・遣欧使節は「竹内保徳」、「松平康直」で、後の「鎖港談判使節」の「フランス(仏国)」派遣団の「池田長発」等である・・・まさか・・・まさかの仰天人物・・・筑台補説・・・証閉硬直・・・知多挑発(長髪・調髪・徴発・挑撥)じゃぁ・・・?! ・・・たいへん、おつかれサマでした・・・
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