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「新井白石」と「古事記」・(1)・(52) 「白(曰)」と「石(巖)」の、 「参(參)」と「考(土ノ于)」の資料・史料・飼料・死霊・思量


 博学多才、「蘭学者」の原点      「政治改革」の挫折者「白石」

 「新井・白石」を「検討」する「前」に、『参・考』としての「予備知識」を踏まえておきたい。これから展開する個別的な「漢字」は「次の章(新井白石と古事記・②)」でワタシが問題とし、「展開する漢字・数字」であり、「新井白石」が「古史通」、「古史通或問(ワクモン)」の著書の中で「使用している漢字」の「主要」なモノである。それらの個別的な「漢字『X』と『数字』の謎カケの発見」は読者であるアナタに任せたいが、「新井白石」は「自説」で、「古代日本語」を「考察」するのに「記録された漢字」そのものの「意味」ではなく、「漢字」を「借りた音(おん・おと)=古代日本語の音声」の「記録」として考えるべきだ、と云っている。そのヒントが彼の時代に知られていた「地名」と「歌謡」にコソあるとした。  私は「記録」された「漢字音」も「日本語ヨミの訓」も、そして「漢字字体」の「意味」も、「高察」し、「高札」され、「絞殺」された者に思いを馳て、「考察」したい、との立場である。  「駕篭目、駕篭目、駕篭の中の鳥は、何時何時、でやる。後ろの正面、誰?」は何時の時代の「童謡」なのか?・・・「謎掛けの童謡」として巷(ちまた)の研究者が色々著作しているが、「日本上古代の唄」ではなく、多分、江戸時代、「幕中」、「幕末」のモノであろう。だが、「ユダヤの秘密のウタ」でも、「宝捜しのウタ」でもなく、「秘密を委(ユダ)ねたウタ」とは、  『高(たか)・(ら・螺・累)=多寡羅・他から』、  『佐賀(さが)視(し)=業死・性死・相施・祥し・険し・賢し・杓子・尺示・佐餓死     =さがみ(相模)』の      『胡(う・西洋人)       汰(水+太・タ・       ↓       にごる=似語留・       なみ=名見・       おごる=尾語留・       すぎる=素義留・       はなはだしい=葉名葉拿思惟・       あらう=亜羅得・       あらい=新井・       うるおす=得留尾州・      淘汰=盗多・読他・問多・答多)』、       ↓      「胡(ウ)=古+月=陰暦の月齢」と      「汰(タ)=水+一+人+ゝ=海没寸前の大きい太陽」、            「水・(さんずい=纂髄・讃瑞)」、            「水(みず=見図・御津・密・蜜・診柘・瑞皐)」、            「太(タ)=太陽暦」  と云うワケである。当然、「蘭学者」は「旧約聖書・新約聖書」には興味を持ったハズだ・・・  「かごめ、かごめ、かごのなかのトリは、いついつ、でやる。うしろのしょうめん、だぁぁれ?」  ・・・囲芽(かごめ=國の日の下の記場)、日拠目(かごめ=緯度・経度)、掛語芽、過去女、水主目、加古眼、加護女、過誤女、禍己目(盲人の厄)=禍虎眼(トラメの災い=トラコーマ=悪性眼病の慢性結膜炎)・・・「駕篭」で「護送」された「罪人(牢人)」の「鳥(チョウ・長)=斗理(とり・理屈・論理)」、「移都(江戸に移る)=出雲(出石)=伊豆(下田)=異都(外国へ密航)=移津(萩の野山獄)=遺柘(留魂録)=医柘」、「出やる」とは、取り合えず、『佐久間象山』に入門、出藩して『宮部鼎蔵』と東北視察、『金子重輔』と共に「アメリカ艦船」で海外へ行こうとし、捕まり、許され後「久保氏」の『松下村塾』で門弟を育て、「安政の大獄」で獄に下った  『吉田松陰(1830年・天保一年八月四日生まれ・寅次郎・矩方・長州藩士・毛利家・萩藩主により幽閉・江戸に護送後、斬首=1859年・安政六年十月二十七日・享年三十歳)』は・・・討ち首、死刑であった。そして、「1804年・文化一年五月五日」に「岩手・水沢」で生まれ、「十七歳」で「吉田長淑」に「蘭医学」を学び、「1824年・文政七年」に長崎「鳴滝塾」の「シーボルト」に師事し、「1838年・天保九年」に「イギリス(英国)艦船モリソン号事件」で『夢物語』を執筆し、『蛮社の獄』で獄に下った  『高野長英』は・・・牢獄に火を付け逃亡(1845年・弘化二年)し・・・何時何時出やって、放浪した後、江戸で『高柳之助』、あるいは『沢三伯』と偽名をつかい開業していたが密告、逮捕され、護送途中に撲殺(絞殺)された(1850年・嘉永三年十月三十日)のだ。「自刃(自殺)」ではなかった・・・  「新井白石」の政敵は「儒学の『林』家」であった。『高野・長英』、『小関・三英』、『渡邊・華山』等「尚歯会・蘭学者」の天敵は「老中『水野・忠邦』」と、『林・述斎』の「次男」で、「鳥居家」に養子となった  『鳥居耀蔵(1804年・文化一年生~明治七年死没)』であった。役職は「目付(天保八年)・江戸町奉行(天保十二年)・勘定奉行勝手方(天保十四年)」であった。彼も失脚後(弘化一年)の翌年、『讃岐・丸亀藩』に預けられ幽閉された。「養子」は「とりこ(鳥子)」とも云うのだが・・・  カゴのナカのトリ・・・「過誤(掛語)の名加(拿歌)の斗理」・・・「新井白石」に尋問された「密入国」者の「イタリア(伊太利亜)」人、「シシリー島」出身の  『シドッチ』は「長崎・出島」から「駕篭」で護送され「江戸」の「小石川・宗門改所(切支丹屋敷)」で、その最期を遂げた(餓死・1715・正徳五年十月二十一日)。彼の故国の首都は『伊都(ローマ・羅馬・羅罵・太秦)』であり、「東海散士」の「佳人之奇遇」によれば、法王庁は『和地関(バチカン)』で、同音異字は『場置換・罰諌・罵恥巻・鉢澗・撥感・八寒(地獄)・初神・葉置換・捌巻』である。  かごめ=過誤女  かごめ=加護眼  かご  =掛語  の   =野・廼・ 乃・ 之・埜(木+木+十+一)=記紀、壱、拾、壱  なか  =中・仲・那珂・那賀・名賀(名+加+目+人)・長(ながい=名臥意)  の   =野・廼・ 乃・ 之・埜  とり   =鳥・禽・ 酉・ 鶏・採・捕・盗・取・執・撮・酉(ユウ)=西+一  は    =葉・頗・ 端・ 把・爬・波・羽・歯・播・簸・杷・巴・琶・芭  いつ  =一・壱・乙(おつ・おと)  いつ  =伍・逸・溢  で    =出・弖・・(氏+一)  や    =哉・矢・耶(耳+邑=みみさと=見三郷)  る    =婁・留・流・琉  うしろ  =得死賂・胡詞賂・羽(奥羽)視路         得白・有代(鵜代)・兎白(因幡・稲葉の白菟)・鵜城(白鷺)  の    =野・廼・乃・之・埜  しょう  =照・抄・昌・少・庄・称・升・梢・賞・焼・召・性・障・将・姓         小・肖・昭・商・章・生・鍾・咲・摺・装・衝・詳・薔・昇・唱         摺・象・嘗・証・招・症・章・賞・消・床・妾         『尚(歯会)』  めん   =面・免・綿・麺・緬・棉・メム=女のヨコシマ  だぁぁれ?=誰・垂れ・足れ・拿例・楕例(随例=瑞蛎=螺)・妥禮・陀霊          拿阿礼=「古事記序文」に記されている『阿礼』                「弐拾八歳」の「舎人」、                「稗田・阿礼」をアワセ(拿)た  「後ろの正面」とは「反対側にあるモノ」だ。子供が遊びで手を繋(つなぎ・津奈木)、輪の円をつくって、図にすれば、「背後に居る子供(鬼=おに=将尼)の正面」は、その「対面に居る子供」である。「十二支」の「対冲・対衝(タイショウ=対象・対照・対称・大将・大勝・大賞)」で、「他意照・載証」である。スナワチ、   ○   シチュウ イン ボウ シン  ミゴビ  シン ユウ ジュツ ガイ   ↓↓   ↓  ↓  ↓  ↓↓↓  ↓  ↓ ↓  ↓   子丑   寅  卯  辰  巳午未   申  酉 戌  亥   (支柱  音  望  審  診語備   晋  友 述  害)   ↓↓   ↓  ↓  ↓  ↓↓↓   ↓  ↓ ↓  ↓   (市中  陰  謀  親  身護備   親  友 述  外)   史中  音  望  新  見語比   深  憂 儒 ツガイ(番・対)   ↓↓   ↓ ↓  ↓  ↓↓↓   ↓  ↓ ↓  ↓   鼠牛   虎  菟  龍  蛇馬羊   猿  鳥 犬  猪   ↓↓   ↓ ↓  ↓  ↓↓↓   ↓  ↓ ↓  ↓   冲冲   冲 冲  冲  冲冲冲   冲  冲 冲 冲   ↑↑   ↑ ↑  ↑  ↑↑↑   ↑  ↑ ↑  ↑   馬羊   猿 鳥  犬  猪鼠牛   虎  菟 龍  蛇   ↑↑   ↑ ↑  ↑  ↑↑↑   ↑  ↑ ↑  ↑   (語尾  唇 有  述  外詞中   音  剖 審  診)   (悟備   深 憂   述  我意志中 因  防 進  身)   午未   申 酉  戌  亥子丑   寅  卯 辰  巳   ↑↑   ↑ ↑  ↑  ↑↑↑    ↑   ↑  ↑ ↑   ゴビ  シン ユウ ジュツ ガイシチュウ イン ボウ シン ミ   ★  ○(子・鼠)に対する★(午・馬)の関係である。「酉・鳥」に対しては「卯・菟」である。そして、それらの逆も「背後に居るモノ(鬼宿・巨蟹宮・未)の正面(牛宿・磨羯宮・丑)」は相対する「冲支(衝支)」で、出て来るモノは「己(キ・土の弟・おのれ・よこしま)」である。( )の中の漢字はワタシがイト的に「十二支の漢字音」を他の同音漢字に充てたモノだ。「童謡(わらべうた)=ドウヨウ(動揺・同様)」であるからだ。「漢字の和音(訓)」はアナタガ試みてくれ・・・例えば、「鼠(ねずみ)」は「子罪」とか「音柘見」とか・・・「現存・古事記」の「下敷」は「西暦年号」、「十二支・十干」の「暦」と「陰暦=月齢」を踏まえた「天文月齢占い」の『宿曜経=二十八宿星座』である。「712年(和銅五年)」のモノではない。スナワチ、  七百壱拾弐=七+一+十+一+ワ+匕+手+合+弐(弍・貳)         =七(7)の一(はじめ)の白(いわく)、          士(十一・重囲地)の          ワ(和・倭・羽・琶・輪・環・窪・吾・我・話)の          匕(めす)のイチを拾う、ニ」  「和銅=ワドウゴネン=禾+口+金(言)+同+五(語)+年(・ヰ・カミサシのイ)=能義の句置、言同(混同・『近藤重蔵・守重』を調べよ!)、語を撚(ネン・ネム=音務・合歓・よる=捌=念=二十=似重)=手(て・た・シュ・又)の然(しかり=史借り・しかるに=詞加留似・しからば=死加・場・しかれども=始借例奴模・しこうして=思考始出・なり=名理・のり=規矩、廼理、埜裏・か=化、掛、懸・や=耶、埜、哉、矢、夜、八、家)」をアソンダモノである。「1712年2月」には「新井白石」が「オランダ人」に「西洋事情」を聴聞、「徳川家宣」に『読史余論』の「進講」を始めた年である。少なくても「現存・古事記」は「白石以後のモノ」だ・・・作成『改作』年代は「幕末」から「明治初年」・・・カモ。  「白石」の前     『參』  考=宿・曜・経の「漢字」の分解        ↓      ↓    ↓          ↓        さき(を)  みッつ  かんがえる  井←參→觜 八刀角刀牛        ↓      ↓    ↓        ↓ ↓ ↓↓↓↓↓        ↓      ↓    土の5=于   ↓ 葉の掛多名        ↓      ↓    ↓        ↓ ↓ 都濃の主        ↓      みつ   ↓        いど  けづの・とろき        ↓      ↓    ↓        井戸 毛角   吐露記        ↓      ↓    ↓        緯度 懸都濃 登呂記        ↓      ↓    ↓        伊都 みづわた        ↓      ↓    ↓        異図 御津話太(他意)        前      三柘  漢臥重留(漢字に伏せ重ね留る)        ↓      ↓ ↓        左記     密 頁(一ノ目人)・・・人=ハ=足=又        先 纂    項(うなじ=得る名の地=名古屋=尾張        ↓      ↓  ↓       名護屋=筑前        ↓      ↓  ↓    =得る名の字        まえ      みつ こう         ↓        ↓      ↓ ↓   ↓        磨重     見柘  荒(あらい)=  新井・新居・洗い=洗濯        ↓        ↓        ↓↓ 咬(かむ・噛) ↓せんたく        説き重ねる   択(多久=多句)   ↓↓      ↓        ↓        ↓↓  ↓     ↓↓       ↓   太安(麻)侶=安萬侶の拓本(古事記)を診る「新井白石」の    選択      ↓          ↓    ↓         ↓      ↓          ↓    衝=ショウ=尚 ↓      ↓          ↓    ↓    「尚歯会」の 「蘭学者」のメンバー      ↓          ↓    ↓     ↓        ↓      ↓          ↓    ↓     尚=こいねがう=乞      ↓          ↓    ↓      老人への尊敬↓ たかい・くわえる      ↓          ↓    ↓             ↓ ひさしい・なほ      ↓          ↓    ↓             ↓ なか・なり・ます      ↓          ↓    ↓     ↓ =尚方は薬師      ↓          ↓    ↓     ↓      磨重         見柘  控(高橋景保)=作助(日本国地図)      ↓          ↓    ↓          ↓      ↓          ↓    拘          ↓      ↓          ↓    皐(高野長英)=譲・悦三郎・卿斎・瑞皐      ↓          ↓    ↓ 暁夢楼主人・驚夢山人      ↓          ↓    好(小関三英)=貞吉・好義・篤斎・鶴州      ↓          ↓    厚(渡邊華山)=渥美半島・伯登・子安      ↓          ↓    ↓ 厚美=後尾=語尾      間会        診柘  皇(交・稿・敲・拠得・虎兎・姑・・古有)      真得         三    公(周代の大師・太傳・太保      ↓          ↓    ↓    司馬・司徒・司空)      ↓          ↓    ↓(漢代の 丞相・大司馬・御史大夫)      ↓          ↓    ↓(漢以後は太尉・司徒 ・司空)      ↓          ↓    ↓(日本の太政大臣・左大臣・右大臣)      ↓          ↓    ↓(徳川家の紀州・尾州・水戸)      ↓          ↓    ↓      間柄(事柄)     三   光(明智光秀・石田光成・徳川光圀)      魔重         御津  控     (真重)        (音信)(ひかえ)      ↓          ↓    ↓      左記         密 行(空海・イタリア人、シドッチ等)      左記         密 航(吉田松陰)      ↓         ↓ ↓      ゼン         サン コウ      然          纂 合(鹿留=蘇我入鹿に編纂し、合わせ留る)      全          山 合(間の柘、多くの句、纂合)      ↓           三   合(帝王の子・墓の 辰・長生の申)      ↓          ↓ ↓    ↓     ↓   ↓      ゼン         サン コウ   鼠      龍   猿      ↓          ↓ ↓    イエス    悪魔  去る=作留      zenith・       sun co  =county      Zend        sum co  =care of      zenana       sum co   =carried over                  cow =牝牛                  core=髄・芯・核心                  cor-=corner=角・曲がり角                     =cornet=小冠・馬蹄                     =correct=正確・直す                     =coroner=検死官      sent(送った)      send(波の縦揺れ)      sem=Seminary=女子の学校・神学校        =Semitic =セム語族      semanteme =言語の意義素      semiology =記号学      pre   ・sun・Cor(corona)              =冠・太陽のコロナ・光環  zenith=天頂  sun   =太陽  co    =郡(共通の・余・補)  co=the point       in the sky directly overhead  co=the highest point  co=peak  Zend   =古代ペルシア語・・・・ゼンド=全土・前途・遷都・泉都  sum    =和・合計・総和 サム =査務・纂・算・讃  care of =注意 ケァアブ=懸阿虻(阿武・将武)  zenana=婦人居室(ハーレム)=寝屋(音哉=あ・ア)  sum  =sub(副、次)  cow  =牝牛  co   =carried over=繰り越し・持ち越し品(ホン)  pre- =以前・あらかじめ  sun =太陽・日  Cor(corona)=金冠食に見えるコロナ(黄幡・黄尾=虎の尾)  宿(シュク・やど・やどる)  =「宀(ウ)+イ+  一+   白 ( ノ+  日  )」    ↓   ↓    ↓    ↓   ↓  ↓    う   ひと   はじめ  しろ  へつ いわく    ↓   ↓    ↓    ↓   ↓   ↓    有  人    初     白 (経柘+ 日  )    ↓   ↓    ↓    ↓   ↓   ↓    得   日途  位置   施賂( 辺晦  移枠 )    ↓   ↓    ↓    ↓   ↓   ↓   「胡   人   歯字目  誌賂  べつ  いわく」   「或    彼図   把字目  史路( 捌柘  岩区)」   「或    比柘   葉字目  詞呂( 別    巖句)」=佐久間洞巖の句   「或    肥土  頗地目  史賂(分別 移枠)」               ↓    別途               ↓       必+見               横島・北緯33度線必見  曜(ヨウ・かがやく)   =「日(曰)+羽+隹」=耀  経(キョウ・みち)    =「糸+又+土」 =教典  「宿曜経」=「文殊師利菩薩及緒仙所説吉凶善悪宿曜経」の「二十七宿」の象徴意と「歴史上の人物(福島祐著・『銀河宿曜占星術』から参考史料として抜粋させて頂きました)」の「星宿」を挙げて行くが、私の手持ちの資料ではその「生年月日」の正確さが判らないが、参考の資料の「同音異字」は「死霊・飼料・思量・史料」であるから、「宿曜経」の研究者である「福島祐」氏を信じて、トリアエズ、抜粋引用させていただく。  ・・・だが、「福島祐」氏に対して勝手な妄想、想像で誠に失礼センバン御容赦してもらいたいのだが、疑い深いワタシは「福島祐」氏が以下の「歴史的人物」の「生年月日」をご自分で調べ、それを踏まえて「暦(陰暦)」を検討し、各人の「宿曜星」を出した(?)とは思えないのだ。それに、「性格傾向」や「疾患傾向」、「競馬の予想」はイイとして、「SEX形態」や「マグアイ形態」に「宿曜経」に「則」した、あるいは氏の「経験的実見データ」があるとはとても思えないが・・・それにしても、何故、「福島祐」氏はこれらの「歴史的人物」を選択したのであろうか?ランダムに、偶然に「選択」したとは思えないのだが・・・ワタシにとっての「興味の対象」は「占い」ではなく、『宿曜経』に託して「歴史的な共通項」を「誰かがイト的に『古事記』、『日本書紀』に重ねたのではないのか?」、そして、「その理由とは何なのだ?」と、云うモノだ・・・既に誰かが調べてあったモノをそのまま「書き写し」、ご自分の著書に記録したのではないか?・・・もし、これらの人物を選択した理由があったとしたら、何処にあったのだろうか、機会があれば、氏に伺(窺)いたいモノだ。  「誕生・死没の時期」の参考には「世界人名辞典・日本編(佐藤直助・平田耿二偏・東京堂出版・昭和56年5月10発行)」を使用した(これも印刷ミスなのか、校正ミスなのかカナリ、いい加減な数字が頁の中で踊っているシロモノなのだが)。・・・「年号(西暦・和号・干支)」、「姓名・字名・雅号・諡・諱」、「官位」、「死亡年月日時(陰暦・太陽暦)」、「地名」、「歌謡」、「故事」、「歴史的著作(本)」等々と、その「歴史的な内容」の「共通項」を・・・「星宿の象意」と「歴史的人物」が「何を共通項」としているのかを「乱学・アソビナガラ」探っていきたい。   角宿(スピカ=悲運の女王)・・・水難  「角」=「かど・つの・ます(枡)・はかる(量)・くらべる・すみ・かく」、      角度の意味である。     =「矯角殺牛(玄中記)」とは僅かな欠点を直そうとして全てをダメに       してしまうことである。  ①「清少納言」=「正暦年間・990年~994年」の一条天皇の「中宮」、藤原「定子」に仕えた定子の死(1000年)の後は出仕はやめた。  (清原の女=清原=水+主+月+厂+白+小=かこ(水主・過去・加古)+つき(月・柘記)+まだれ(厂・真誰)+しろ(白・死濾・史賂)+こ(小・拠・虎・古・弧・胡)=きよはら(寄与葉・)、の(廼・埜)、おんな(音名)(正暦=西暦)(990=九百九拾)(定子=綴音)(1000年=壱千撚)  ②「源頼政」=「1105年・長治二年~1180年・治承四年死没」。「保元の乱(1156年保元一年)」、「平治の乱(平治一年・1159年)」で生き残り、後に「平氏追討」が発覚し自刃。「信西(藤原通憲)」は自刃。  (頼政=余里間差)(長治二年=弔辞・長地の似撚)(治承四年=事象死撚)(保元=補言)(平治元年=並地・併字・平字)(追討=追悼)  ③「真田信幸(信之)」=「1567年・永禄十年~1658年・万治一年死没」。幼名は「源三郎」、号は「一当斎」。「文禄の役」に従軍し、「名護屋(福岡)」にも在陣した。1594年(文禄三年)従五位下伊豆守。上州沼田城領主。「関ヶ原の戦」では父親「昌幸」、弟「幸村」が荷担した「西軍」と対立「東軍」に属した。「1601年(慶長六年)」に「九万五千石」、1622年(元和八年)信州松代城主となり「十万石」、1656年(明暦二年)引退。  ④「島津久光」=「1817年・文化十四年十月二十日~1887年・明治二十年十二月六日死没」。「島津斉興」の「五男」。1858年(安政五年)藩政の実権を握る。1862年(文久二年)、「寺田屋騒動」、「生麦事件」。翌年「薩英戦争」。1864年(元治一年) 「禁門の変」で「長州藩」を破る。1874年(明治七年)「左大臣」に就任。  亢宿  (キッファ・ボレアリス=反逆者)・・・火難・・・火珠・風神  「亢」=「のど・くび・あげる・あたる・ふせぐ・おおう・むね」である。     =「亢龍有悔」とは「昇りつめた龍は後悔することがある(いきば賀な       く転落あるのみ」の意味だ。  「日蓮」=「1222年・貞応一年~1282年・弘安五年十月十三日死没」。字名は「蓮長」。1260年(文応一年)に「立正安国論」を著作。1261年(弘長一年)に「伊豆伊東」に流される。1268年(文永五年)に「元」からの国書が届き、執権「北条時宗」に「四箇格言」を述べる。1271年(文永八年)讒ににあって「滝の口」で切られようとしたが救われ、「佐渡」へ流された。「三年間」で許され、その後「九年間」著作と弟子の育成にあたった。死にあたって「六弟子」を「六老」とした。  「真田幸村(信繁)」=「1567年・永禄十年~1615年・元和一年五月七日死没」。幼名は「源次郎」。1600年(慶長五年)の「関ヶ原」では「西軍」に属した。  「石田三成(宗成)」=「1560年・永禄三年~慶長五年十月一日」。通称は「治部少輔」。1572年(元亀三年)に「十三歳」で「豊臣秀吉」に仕えた。1585年(天正十三年)に「佐和山城主」となって「十八万六千石」に封じられた。1598年(慶長三年)に蟄居。1600年(慶長五年)の「関ヶ原の戦(天下分け目・転嫁、転化、添加、点火、天加、典加の分け目)」で負け、京都の「七条河原」で切(斬)られた。  「豊臣秀頼」=「1593年・文禄二年八月三日~元和一年五月八日死没」。幼名は「拾丸」。豊臣秀吉の第二子。1600年(慶長五年)の「関ヶ原の戦」以後は「摂津・河内・和泉の六十万石」の大名。1603年(慶長八年)、「内大臣」となり「千姫」をメ(娶=耳+又+女)とる。1611年(慶長十六年)に京都で「徳川家康」と「二条城」で会見。1614年(慶長十九年)、「方広寺」の「釣り鐘の銘文」、「国家安康・君臣豊楽」にイチャモンをつけられて、これに反発して「大野治長」等の進言によって「家康」と戦った「大坂冬の陣」。翌年の「大坂夏の陣」で母親「淀君」と共に自殺、滅亡。  「武市半平太(瑞山)」=「1829年・文政十二年九月~1865年慶応一年閏五月十一日」。名は「小楯」。1856年(安政三年)藩命により江戸の「桃井塾」に学び「塾頭」。1860年(万延一年=萬侶の延長のはじめを撚(捌)九州を遊歴。翌、「万延二年」に「土佐勤皇党」を結成。1862年(文久二年、藩主に従って上京。1862年(文久三年)「八月十八日」、逮捕下獄。二年後の「文久五年」に切腹。

 抵宿(本来は手偏が無い漢字で「=氏+一」の合字)  (キッファ・アウストラリス=奇襲の勝負師)・・・牛の角・・・戦神  「抵」=「て・もと・ふもと・ね・いたる・やしき・ふせる・たれる・とも・      いやしい(卑)」である。     分解すれば「氏の一(氏のはじめ)」である。「チッベット族の一」、     「五胡族の一で南北朝時代に江北に建国」     「て」は「弖」も同音で分解すれば「弓のはじめ、弓矢の名人・弓と     りは武士の頭領」である。「日本列島」は「弓形」でもある。    =「テ(氏+一)」は「国字」。「弖」の「異体」で、「助詞」として「借用」し     た。「弖(て)爾(に)乎(を)波(は)」は「助詞」。  「源義経」=「1159年・平治一年~1189年・文治五年死没」。源義朝の第八子。幼名は「牛若・九郎」。「七歳」で「鞍馬山」に入る。「1187年・文治三年」、「陸奥・藤原秀衡」に頼った。「1189年・文治五年」に「藤原泰衡」により「衣川の屋形(館)」で自刃。  (義経=義兄・疑経)(文治五年=文字語念)(牛若=得史話化)(九郎=句賂胡・繰ろう)  「平重衡」=「1156年・保元一年~1185年文治一年六月二十三日」。「尾張守・左中将」。1183年(寿永二年)に「安徳天皇」と「西国」に逃げ、「源義仲」を「備中の水島」で撃破。翌年、「一ノ谷」で敗北し、「木津川」で斬られた。  「織田信長」=「1534年・天文三年五月~天正十年六月二日」。「尾張古渡」で出生。「小字」は「吉法師・三郎」、法名は「天徳院」。1549年・天文一八年、十六歳に父親死亡。1553年・天文二十二年に「平手政秀」の「諌死」。1560年(永禄三年)「桶狭間の戦」で「今川義元」に勝利。1562年(永禄五年)「徳川家康(松平元康)」と「同盟」。1567年(永禄十年)「斉藤龍興」を岐阜「稲葉山城」で破る。「天下布武」の「朱印」の使用。1568年(永禄十一年)、上洛し「三好三党」を破る。「従五位下弾正忠叙」。1573年(天正一年)将軍「足利義昭」を河内に追放し、「浅井、朝倉」を滅ぼす。1575年(天正三年)「長篠の戦」で「武田」を撃破。1580年(天正八年)に「石山城」を包囲、和睦。1582年(天正十年)に「武田勝頼」を滅ぼす。その後「本能寺」で「明智光秀」の反逆にあい、自刃。  「伊達政正宗」=「1567年・永禄十年八月~寛永十三年五月二十四日死没」。伊達家「第十七世(十七代目)」。幼名は「梵天丸」、通称「藤次郎」。十九歳、「葦名・佐竹」等の「七将」の「連合軍」を撃破。1589年(天正十七年)に「葦名氏」を滅ぼす。1600年(慶長五年)の「関ヶ原」では「東軍」に属し、「上杉景勝」を「白石城」で撃ち破り、「刈田郡」を得た。1603年(慶長八年)に「仙台城」に移った。1613年(慶長十八年)に「支倉常長」を「ルイス・ソテロ」とともに「ローマ法王」、「イスパニア王国」に派遣。  「千姫」=「1597年・慶長二年~寛文六年二月六日死没」。「家康の孫」、「二代将軍秀忠の長女」。母は「浅井長政」の娘「達姫」。「大坂城落城」の時に「坂崎出羽守」に助けられた。後「本多忠刻」に再嫁。「吉田御殿」で乱行しまくり、自殺。  「徳川綱吉」=「1646年・正保三年一月八日~宝永六年一月十日死没」。「第五代」将軍。「三代将軍家光」の「第四子」。幼名は「徳松丸」。諡号は「常憲院。「犬公方」。1653年(承応二年)に元服。兄「家綱」死後、1680年(延宝八年)に将軍となる。1690年(元禄三年)「上野・忍ヶ岡」の「林家」の書院「弘文館」と「公子廟」を「湯島」に移して「昌平學」とした。1687年(貞享四年)に「生類憐みの令」。1692年(元禄五年)に「柳沢吉保」を「老中」にし、1695年(元禄八年)に「勘定奉行」の「萩原重秀」に「貨幣改鋳」をさせた。  房宿(ブラキウム=二重国籍者)・・・転落・・・腕・長布(ミトラ)・珠貫  「房」=「ふさ・へや・ねや」である。「垂れ下がったモノもフサ」である。      スナワチ、「左右のオッパイ」である。「房」は「安房(あわ・現在      の千葉県)」に使用されている漢字である。「ア・ワのカ・ミ」。  「福島正則」=「1561年・永禄四年~1624年・寛永一年七月十三日死没」。「尾張の人」。幼名は「市松」。号は「馬斎」。1578年(天正六年)から「豊臣秀吉」の配下。1583年(天正十一年)「賎ヶ岳の戦」で「七本槍」の武将の一人と言われた。1585年(天正十三年)「伊豫・今治」の城主「十万石」。1592年(文禄の役)で「尾張・清洲」城主「二十四万石」。1617年(元和三年)に「従参位参議」。1619年(元和五年)に「広島城修復」によって「越後・魚沼郡、二万五千石、信濃・川中島、四万五千石」に移封。  「宇喜多秀家(浮田・雨期多)」=「1573年(天正一年)~1655年・明暦一年十一月二十日死没」。氏家。1594年(文禄三年)に「権中納言」。「五大老の一」。「関ヶ原敗北」後、「八丈島」に流される。  「徳川光圀」=「1628年・寛永五年六月十日~1700年・元禄十三年十二月六日死没」。「第二代・水戸藩主」。「第一代藩主・中納言頼房」の「第三子」。「水戸・三木之次」に生まれる。幼名は「千代松」。字名は「子龍・徳亮」、号は「日新斎・常山人・率然子・梅里・西山隠士」。諡号は「義公」。古代中国の「伯叔伝」の故事に感激。1661年(万治四年)に藩主。1657年(明暦三年)に「史局・彰考館」開設し、「大日本史(379巻・三大特色は南朝正統論、大友皇子即位、神功皇后)」編纂開始。1665年(寛文五年)に「明」の遺臣、「朱舜水」を「召聘」し、更に「吉田静二」に「宗源神道」を学。1677年(延宝五年・延ばす他から語撚)に「扶桑拾葉集(三十巻)」を編纂し「後西院上皇」に献上。「万葉集」も研究し「下河辺長流」の推挙で「契沖」を「召聘」し、「万葉代匠記」を著述させ、「安藤為章」に「釈万葉集」を編纂(1733年・享保十八年完成)させた。1690年(元禄三年)に「太田郷・西山」に隠居。公家の「中院通茂」と親交。  「春日局」=「1579年・天正七年~1643年・寛永二十年九月十四日死没」。名は「福」。1604年(慶長九年)に「徳川家光」の乳母。「斉藤利蔵」の娘。1628年(寛永五年)、「後水尾天皇」の「紫衣事件」に翌年寛永六年に「三条西実枝」の「猶子」となって参内。「従三位」、後に「従二位」。「湯島」の地を得て「天沢寺」を建立。  「徳川慶喜(刑期・契機・継起・計器)」=「1837年・天保八年九月二十九日~1913年・大正二年十一月二十二日死没」。幼名は「七郎麿・昭致」。水戸藩主「徳川斉昭」の「第七子」。1847年(弘化四年)に「一橋家」を相続。1866年(慶応二年)に「第十五代将軍」。1868年(慶応三年)十月十四日に「大政奉還」。翌、明治一年に「徳川家達」が家督を嗣いで「駿府・七十万石の領主」となる。1880年「正二位」。1903年「公爵」。  「吉田松陰」=「1830年・天保一年八月四日~1859年・安政六年十月二十七日死没」。  「久坂玄瑞」=「1840年・天保十一年~1864年・元治一年七月十九日死没」。名は「通武」。通称は「義助」。妻は「吉田松陰」の妹。1862年(文久二年)「回瀾条議」。1863年(文久三年)に「品川」の「英国公使館」を焼討ち。1864年「松野三平」と改名し「禁門の変」で「鷹司邸」で自刃。  「伊東博文」=「1841年・天保十二年九月二日~1909年・明治四十二年十月二十六日死没」。名は「俊輔」。1862年(文久二年)に「井上馨」と「英国」へ密航。1909年「ハルピン」で『安重根』に暗殺される。  心宿  (アンタレス=二面性・両面)・・・大火・火・赤星・豊年星  「心」=「こころ・もと・きよ・ご・ごり・さね・なか・み・むね」である。      「必然」の「必(かならず)」に似ているが「ノ(右から左の意味で、      ヘツ、ヘチ)」がない。心=・(りっしんべん)・・(したごころ)      =「滅却心頭火亦涼」       「杜旬鶴、夏日題悟空上人院詩」の「安禅不必須山水、滅却心頭火亦        涼」・・・「快川禅師」が唱えた句  「源頼家」=「1182年・治承六年~1204年・元久一年七月八日死」。幼名は一幡、萬寿。鎌倉幕府第二代将軍。 (頼家=便り意重・裸医科)(元久=言及)  「松尾芭蕉」=「1644年・天保一年~1694年・元禄七年十月十二日死没」。幼名は「金作」。元服後は「甚七郎」。号は「桃青・釣月軒・泊船堂・夭々軒・風羅坊・羊角」等。「伊賀・上野城主・藤堂良清」の家臣で、「良清」の子供「主計良忠(おもに計〈言十〉る、白衣の中の心・重荷を計る、量の柱)=蝉吟(是武義務・施診名句)」に仕えた(近侍=キンジ)。「北村李吟(記他夢羅理疑武)」に俳諧古典、「北向雲竹(記多務海運地区)」に書、「許六(拠録・胡録・古録・虎録・故録・姑録・弧録)」に「絵」、「仏頂禅師(分柘重全死・武津調全史・六柘帳全誌・陸奥長是無死・物長前史)」に「参禅(纂繕)」、「本間道悦(翻真同重柘・叛勘当重柘・補夢磨同重柘・保務魔道娃都)」に「医学」を学。1666年(寛文六年)四月、「脱藩」。1672年(寛文十二年)江戸に下り「貝おほい」を「出版」。1680年(延宝八年・延ばす侘から)に「西山宗因」の「談林」の「百韻」に参加。1682年(天和二年)芭蕉庵が「類焼」。「甲州」へ「一所不住の沙門」として旅。1683年(天和3年)「虚栗」。1684年(貞享一年)「野ざらし紀行」。1686年(貞享三年)「春の日(古池や蛙飛び込む水の音)」。1687年(貞享四年)「鹿島紀行」。1689年(元禄二年)「奥の細道(将苦、邑久、尾久〈比丘〉の細身知〈補蘇未知〉)」。1690年(元禄三年)伊賀の「石山の奥」で「幻住庵の記」。1691年(元禄四年)「落柿舎」を訪ね「嵯峨日記」、「猿蓑」。1694年(元禄七年)「炭俵」。「五月八日」長崎へ出発。その旅の途中、大坂で発病、「十(壱拾=いちひろう)月十二(壱拾弐=いちひろうに)日」、「客死」。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」。  尾宿  (レサート=毒針使いの狩人)・・・剣難・獅子の頂毛(尻尾)・蠍の毒針)  「尾」=「お・おっぽ・しっぽ・うしろ・しりえ・すえ・さき・おわり・そこ       ・つるむ」である。       「愛知県は尾州、尾張」と言われた。       「明里」は「尾宿」である。  「羽多久市」は「曵尾塗中」である。  「尾生之信」は「摩由魅唆務」かも。  「藤原純友」=「?~941年・天慶四年六月二十日死没」。「伊豫掾」。「日振島」を根拠地に海賊となる。「939年・天慶二年」に備前介・藤原「子高」を殺した。940年の「小野好古」、源経基と戦い伊豫から太宰府に逃げ、「小野好古」に筑前博多で殺される。  (純友=墨友・隅友・洲見渡模)(天慶=天恵・典型・天経)(伊豫=壱与=位置与)(子高=試行・思考・指向・志向・施行・伺候・史項)  「日振島=被布里・皮膚裏・日府里」は「九州大分と四国愛媛」の間の「海峡」に存在する。  「源義仲」=「1154年・久寿一年~1184年・寿永三年=元暦一年」。別名「木曽次郎」、幼名は駒王丸。征夷大将軍。旭将軍。  (久寿=句授)(寿永=嬬営・儒栄・鷲衛・樹影)(征夷大将軍=誠意代償郡・勢威大小郡・声位代象群)(旭=朝日・旦日・阿娑卑・安佐比・厚狭比・麻比・字比)  「平知盛」=「1151年・仁平一年~1185年・文治一年」。「平清盛」の「四男」。1180年(治承四年)「仁王の乱」を鎮圧。翌年、「治承五年」に「参議・中納言」。1183年(寿永二年)「源義仲」に破れ、「壇の浦」で「安徳天皇」の入水を見届け、自分も入水。  「足利尊氏(高氏)」=「1305年・嘉元三年~1358年・正平十三年〈延文三年四月三十日〉死没」。法号は「等持院仁山妙義・長寿院」。1333年(元弘三年・正慶二年)に「隠岐」から「伯耆・船上山」に脱出した「後醍醐天皇」に味方し「六波羅」を陥落させ「三位参議」となる。1334年(建武一年)「建武中興」の中心人物。「是円玄慧」に命じ「建武式目」を制定。  「浅井長政(賢政)」=「1545年・天文十四年~1573年・天正一年八月二十八日死没」。幼名は「新九郎」。1568年(永録十一年)「近江・六角義賢」を破る。1570年(元亀一年)「織田信長」と同盟。妻は「織田信長」の妹「お市の方(小谷の方)」。  「上杉謙信(検診)」=「1530年・享禄三年一月二十一日~1578年・天正六年三月十三日死没」。姓は「長尾」。幼名は「虎千代」。元服して「景虎」、その後「政虎・輝虎」。入道し、号は「謙信」。1536年(天文五年)、「七歳」で僧となったが元俗。1543年(天文十二年)「下越後」を制覇。1548年(天文十七年)家督を嗣ぐ。1552年(天文二十一年)「従五位下弾正少弼」  「井伊直弼(言い直す懸、家)」=「1815年・文化十二年十月二十九日~1860年・万延一年三月三日死没」。1850年(嘉永三年)「十四代・彦根・藩主」。号は「埋木舎」。  箕宿(アル・ナスル=勇猛戦士)・・・矢尻(耶史理)・藤箕星・竹見星         ・結亡・戦死・大酒・大食  「箕」=「みの・ざる・み・ちりとり」である。     =「三野・美濃・味野・簑」である。     =「箕帚妾」は人の妻となること。     =「箕伯」は「風の神」である。     =「継箕裘」=「糸+ 乙+ 米+ 竹+ 其+ 求+  衣」           いと いつ  こめ  たけ それ もとめる ころも           意図 何時 小女 他家 組例 本 女留 拠賂喪(毛・母・模)  「源為朝」=「1139年・保延五年~1170年・嘉応二年死没」。源為義の第八子。「十三歳」の時に父によって「鎮西」に追われた。「強弓の名人」。「保元の乱(1156年)」、「白河」殿の「西」川原表門で敗北し「伊豆」大島に配流。 (為朝=多女娃作・他女阿娑・立眼旦・名素字)(保延五年=補重務語音務・歩円・保炎・補画夢)(嘉応二年=掛奥似撚・化歐似音務・加将有似禰武)(伊豆=委図・医頭)(配流=葉意留)  「平教経(国盛)」=「1160年・永暦一年~1185年・文治一年死没」。「正五位下」。  「巴御前」=「?」。「図模重音磨恵」  「北条時宗」=「1251年・建長三年~1284年弘安七年四月四日死没」。幼名は「正寿」、「相模太郎」。「七歳」の時に将軍「宗尊親王」から「時宗」の名前をもらう。八代鎌倉幕府執権。1274年(文永11年)「第一次・元寇」、1281年(弘安三年)「第二次・元寇」を撃退。  「酒井忠次」=「1527年・大永七年~1596年・慶長一年死没」。幼名は「小平次・小五郎」。号は「一智」。  「加藤清正」=「1562年・永禄五年~1611年・慶長十六年六月二十四日死没」。生国は「尾張」。幼名は「虎」。「七本槍の一人」。1588年(天正十六年)「肥後熊本城主・三十万石」。1592年(文禄一年)「渡韓」。  「柳生宗矩(痩躯・草句)」=「1571年・元亀二年~1646年・正保三年三月二十六日死没」。名は「新佐衛門・又右衛門」。1594年(文禄三年)徳川家康に仕えた。1629年(寛永六年)「総目付」。  斗宿  (ルクバト=カリスマ大王)・・・舵星・人馬の足  「斗」=「モノ事」を「計」る意味である。     同類の漢字は「量る・謀る・図る・測る・諮る・墓留・秤・葉狩る・葉借る」である。              謀略・頗(よこしま=邪)掛留」でもある。  「天智天皇」=「626年・推古二十四年~671年・天智十年死没」。「中大兄皇子・葛城皇子」。  「源義家」=「1039年・長暦三年~1106年・嘉承一年死没」。幼名は源太。「七歳」の時、「岩清水八幡宮」で元服し、「八幡太郎」と称した。騎馬での射矢の名人。  (義家=輿視移重・与詞意重・代史異重)  (長暦三年=名臥意歴算撚)  (嘉承一年=仮称・過小・歌唱・河床・火傷)  「毛利元就」=「1497年・明応六年~1571年・元亀二年六月十四日死没」。「松寿丸」。元服後は「少輔次郎元就」。  「徳川家康」=「1542年・天文十一年十二月二十六(寅)日三時~五時(寅刻)~1616年・元和二年四月十七日死没」。  「山鹿素行(耶麻賀素行)」=「1622年・元和八年八月二十六日~1685年・貞享二年九月二十六日死没」。名は「高祐」。字名は「子敬」。通称「甚五左衛門」。号は「素行・隠山・」。「九歳」で「林羅山」の弟子。「三十一歳」で「赤穂藩主・浅野長直」に仕え、「九年」で辞す。1665年(寛文五年)に「聖教要録」で「朱子学」を批判。1666~75年(延宝三年)まで赤穂藩に「幽閉」された。  女宿  (アルタイル=天空の命令者)・・・飛ぶ鷲・相続争い  「女」=「おんな(音名)・め・むすめ・なんじ」である。       「くの一(句のはじめ・苦のはじめ)」である。     =「女郎花」は「もくれん・こぶし・おみなえし(秋の七草)」と訓じ       る。「模句連・虎武士・拠分死・胡分史・将皆絵師」  「空海」=「774年・宝亀五年月十五日~835年・承和二年三月二十一日」。姓は「佐伯」。幼名は「真魚」。804年(延暦二十三年)「渡唐」。806年(大同一年)「帰国」。816年(弘仁七年年)「高野山開檀」。824年(天長一年)「少僧都」。828年(天長五年)「綜芸種智院」。  「以仁王」=「1151年・仁平一年~1180年・治承四年五月二十六日」。「三条宮・高倉宮」。「後白河天皇」の「第二子」。  「源頼朝」=「1147年・久安三年~1199年・正治一年一月十三日死没」。源義朝の「第三子」。幼名は「鬼武者」。「伊豆の『蛭(ひる・シツ・ジチ)島』」に流される。  (久安三年=句按纂撚)  (正治一年=政事壱子務)  (蛭島=古事記の「蛭子」=質子・七拠・地知=字地・執事                  =漆地=漆塗=能登・能都                 =越しの国=古志・古詩・古史・輿                   ・腰・超しの国=越前・越中・越後)。  「北条時政」=「1138年・保延四年~1215年・健保三年一月六日死没」。  「後醍醐天皇」=「1288年・正応一年十一月二日~1339年・延元四、暦応二年八月十六日死没」。「第九十六(96)代天皇」  「山本勘助」=「?。六十九歳」で死没。  「本多忠勝」=「1548年・天文十七年~1610年・慶長十五年十月十八日死没」。名は「平八郎」。「十三歳」で初陣。  「徳川家斉」=「1773年・安永二年十月~1841年・天保十二年閏一月三十日死没」。1787年(天明七年)「十一代将軍」。幼名は「豊千代丸」。号は「文恭院」。  「近藤勇」=「1834年・天保五年~1868年(明治一年四月二十五日)」。「武蔵・多摩郡・石原村」で出生。名は「昌宜」。「新撰組隊長」。1864年(元治一年)「池田屋事件」。1867年(慶応三年)「甲陽鎮撫隊」。「甲斐勝山」で斬首。  虚宿  (アルゲテイ=厄介者)・・・・・小山羊・飛鳥・鳥  「虚」=「むなしい・ない・から・すくない・よわい・すきま・うつろ・あな       ・あき・こころ・そら・やむ・あと・はかない・しぬ」である。      =漢字分解は「虚=虎が並ぶ・卜の皮の七の並び」である。       類字には「處=虍+処」があり、「虎のところ」である。      =「虚字」とは「前置詞・接続詞・終尾詞・感動詞」などで、       これら「同音異字」は             ↓           「前置史・接続視・愁眉師・勘当士」           「繕致死・切族死・囚毘死・換同死」           「撰知歯・摂賊歯・拾備歯・鑑同歯」・歯=齢・歳=年           「遷地誌・説則史・修秘史・関東司」       「虚字」とは「実字」の            「名詞・代 名詞・形容 詞・動詞・副 詞」で、  「同音異字」の 「名士・他意名詞・掲揚 詞・同志・伏 詞」            「名刺・待 命死・恵与有死・道死・訃苦死」            などに対するものだ。  北条政子=「1157年・保元二年~1225年・嘉禄一年七月十一日死没」。「平政子」。「尼将軍」。「北条時政」の長女。1175年(安元一年)に「伊豆国代・平兼隆」に嫁したが、1177年(治承一年)に夫から逃げ、「源頼朝」と結婚。1180年(治承四年)、頼朝挙兵で「湯山」へ隠れる。1199年(正治一年)に「頼朝」が死没(落馬?)して「尼(あま)」となる。1203年(建仁三年)に第二代将軍「頼家」に関東二十八カ国を「一幡」に、西国三十八カ国を「千幡(実朝)」に譲らせ、「頼家」を「修善寺」で殺した。1219年(承久一年)、「実朝」が「公暁」に暗殺さると「九条頼経」とした。「貞観政要」を「菅原為長」に「翻訳」させて学んだ。  武田信玄=「1521年・大永一年~1573年・天正一年四月十二日死没」。甲斐の守護の「左京大夫信虎」の子。幼名は「太郎」。後に「晴信」。号「徳栄軒・法性院・信玄」。1542年(天文十一年)「信濃」制圧。1543年(天文十二年)「武田・今川・北条」の「三国同盟」。1568年(永禄十一年)「駿河侵入」。1572年(元亀三年)「三方ケ原の戦」。1573年(天正一年)「信州下伊那」で死没。  大谷吉継=「1559年・永禄二年~1600年慶長五年九月十五日死没」。「紀之介」。「豊臣秀吉」に仕え「越前・敦賀五万石」。  淀君=「1567年・永禄十年~1615年・元和一年五月八日死没」。「豊臣秀吉」の子供を妊娠、出産。初子、1589年(天正十七年)「鶴松」。次子、1593年(文禄二年)「秀頼」。を産む。  明治天皇=「1852年・嘉永五年九月二十二日~1912年・明治四十五年七月三十日死没」。1867年(慶応三年)「十六歳」で「第122代天皇」。名は「睦仁」。1868年「3月」に「五か条の誓文」。「9月」に「年号」を「明治」。「一世一元制」。1869年(明治二年)「江戸」を「東京」とする。1881年(明治十四年)「軍人勅諭」。1889年(明治二十二年)「大日本帝国憲法」。1890年(明治二十三年)「教育勅語」。  危宿  (サダルメリク=百毒の医者・薬師)・・・散財・火難  「危」=「あやうい・あぶない・あやぶむ」である。       「あや=綾・彩・絢・彪・文・亜矢」の       「うい=有為・初・得意」である。       「あぶない(阿武名位・虻名帷=則天武后)       「あやぶむ(絢文・彪文=虎のハケ〈刷毛・吐・履・掃・噴・捌〉)」       である。      =「危機一髪」      =「危急存亡之秋」(諸葛亮・出師表)=字名は「孔明」=諡号は忠武                   ↓ ↓                   所轄領=書活漁・誰始評=水死漂                   書掛柘・推史彪      =「危若朝露」      =「危如累卵」      =「見危授命」(論語・憲問)      =「見危致命」(論語・子張)  「源実朝」=「1192年・建久三年~承久一年一月二十七日」。幼名は「千幡」。「1203年・建仁三年」に「十二歳」で第三代将軍となる。彼は「源氏の孤危、今日に極まる。故に身、高官を累(かさ)ねて以って家声を顕わさん」と云った。  (実朝=日重・字柘重)  (建久三年=懸句纂音務)  (承久一年=章句位置撚・詳句一念・尚苦市寝無)  (千幡=撰盤・箋蛮・撰磐・撰晩)  源氏の孤危、今日に極まる。故に身、高官を累(かさ)ねて以って家声を顕  ↓  言辞(現時・元字)・埜(廼・乃)・古希(虎記・古記)・経・似・記・倭間(和漢・和換)・留・胡(西洋)・親交(親好・信仰・進講・新港)・換(鑑・間・艦・巻)・重ね盛って化声を荒話纂)  「北条氏康」=「1515年・永正十二年年~元亀二年十月三日」。名は「新九郎」。  「板垣信方」=「?」

 室宿  (マルカブ=大魔王・ペガサス=天馬)・・・  「室」=「しつ・へや」である。       「しつ(史柘・詞柘・始津・支晦・漆・蛭・失・叱)」等の同音であ       る。  「平清盛」=「1118年・元永一年~1181年・養和一年閏二月四日死没」。実父は「白河法王(?)」。「淨海・靜海・平相国・太政入道・六波羅殿」  「豊臣秀吉」=「1536年・天文五年一月一日~1598年・慶長三年八月一八日死没」。幼名は「日吉丸」。あだ名は「さる・針鼠」。1558年(永禄1年)「織田信長」に仕える。  「柳沢吉保」=「1658年・万治一年~1714年・正徳四年十一月二日死没」。名は「房安・保明」、通称は「主税・弥太郎」。1688年(貞享五年)に「徳川綱吉」の「側用人」。1694年(元禄七年)「老中格」。1704年(元禄十七年)「甲府十五万一千石」。1709年(宝永六年)「致仕」。  壁宿  (アルレスカ=人魚の手品師・奇術師・二匹の魚を結ぶ紐)・・・  「壁」=「かべ・かき・とりで・がけ」である。「へき=日置・碧・璧・僻」     =「壁経」=壁の中から出た「古文尚書」     =「壁有耳」(博聞録)  「靜御前」=「不明」。「源義経」の側室。「白拍子」。  「後白河法王」=「1127年・大治二年九月十一日~1192年・建久三年三月十三日死没」。1155年(久寿二年)に「第77代天皇」即位。名は「雅仁」。「行真法王」。「鳥羽天皇」の「第四子」。1177年(治承一年)「鹿ケ谷事件」。1179年(治承三年)「幽閉」。  「毛利輝元」=「1553年・天文二十二年~1652年・寛永二年四月二十七日死没」。「長州」。「毛利元就」の「孫」。幼名は「幸鶴丸・少輔太郎」。号は「宗瑞」。1571年(元亀二年)「元就」の家督を継ぐ。1576年(天正四年)「大坂・石山」の「本願寺・光佐」を助け、「織田信長」と戦う。1578年(天正六年)「尼子勝久」を討つ。1580年(天正八年)「足利義昭」と結ぶ。1582年(天正十年)「備中・高松城」で秀吉と対持していたが「本能寺の変」で和睦。1587年(天正十五年)「秀吉」の「九州征伐」に荷担。1588年(天正十六年)「豊臣秀吉に謁見」。「従四位上」。1591年(天正十九年)「安芸・城島城」を築き「百二十万石」。1598年(慶長三年)「五大老の一人」となる。1600年「関ヶ原・西軍の大将として敗北」し、「木津の別邸」を追われ、降伏後「七ヶ国」を削られる。1604年(慶長九年)「萩城」に移る。  奎宿  (ミラク=魔法使いの王姫・腰)・・・短気・枡形星・とかき星・小舟  「奎」=「また・またぐら」である。      「十六」星から成る。      アンドロメダ座      ↓ ↓↓↓↓↓      安 堵路女拿作=些)。      =「奎運」とは「文運」である。  「紫式部」=「978年・天元一年~1016年・長和五年死没」。「三人の兄」と「姉」がいたらしい。「十九歳」に父「藤原為時」と「越前」へ。帰京後「藤原宜孝」と結婚、「賢子(大弐三位)」を出産。結婚「二年後」夫と死別。「三十歳」で「宮中」に入り「上東門彰子」に仕え、彼女の父「道長」、母「倫子」の知遇を得た。「白氏文集」を「彰子」に進講。「源氏物語(前半三十三帖は1001年・長保三年~1006年・寛弘三年迄、以下書き継いで全編五十四帖=54-33=21・弐拾壱)」を「一条天皇」から賞賛。「日本紀(日本書紀)」の「局」とも呼ばれた。  「徳川家光」=「1604年・慶長九年七月十七日~1651年・慶安四月二十日死没」。1623年(天和九年)「第三代将軍」。幼名は「竹千代」。諡は「大猷院」。1633年(寛永十年)「六人衆」。「御朱印船以外の海外渡航禁止」。「訴訟の法」制定。1634年(寛永十一年)「老中職」。1635年(寛永十二年)「最高裁判」を「伝奏屋敷」で行う事の決定。「軍役の制度」。「武家諸法度」を『修正加除』して『二十一ヶ条』とした。『参勤交代(纂今交替)』。「巡検使」を派遣させて「諸国の『絵図』」を作成させた。1638年(寛永十五年)「大老職」。1637年(寛永十四年)「島原の乱」。1639年(寛永十六年)「ポルトガル人の追放」。1641年(寛永十八年)「オランダ商館」を『長崎・出島』に移(写)す。  「勝海舟(掛柘改修・回収・改宗)」=「1823年・文政六年一月三十日~1899年・明治三十二年一月十九日死没」。名は「安芳・義邦」。通称は「麟太郎」。号は「海船」。1855年(安政二年)「蕃書翻訳御用出役」。「海軍伝習生」1860年(万延一年)「咸臨丸・艦長」。太平洋横断。1864年(万延五年)「軍艦奉行」。1868年(明治一年)「江戸城・平和開城」。明治維新後は「参議・海軍卿・元老院議員・枢密顧問官」。  婁宿(シェラタン=陽気な道化師・馬頭)・・・火難・印・合図・                       ・たたら(鋤星)・うまの守  「婁」=「ひく・つなぐ・ちりばめる・しばしば・むなしい」       「たたら」=踏鞴=ふいご・ふいごう             足踏みの風送器(風霜期)・換気扇       「たたら」=「力余って的が外れ空足を踏む」である。  「ル」の同音異字・・・留・流・瑠・屡       「ロウ」の同音異字・・楼・浪・漏・蝋・聾・狼・『滝』・牢  「ルビ 」=「ruby」は「漢字の振り仮名」  「ルビー」=「ruby」は「紅玉・珠玉・あかたま」  「平徳子(建礼門院=建例文音)」=「1155年・久寿二年~1213年・建保一年十二月十三日死没」。号は「真如覚」。「平清盛」の次女。「高倉天皇」の「中宮」。母の「平時子(二位の尼)」は「平清盛」の妻。1171年(承安一年)「後白河法王」の「猶子」となって「従三位」。1178年(治承二年)「安徳天皇」を出産。1185年(文治一年)「壇の浦」で「入水」したが救われる。  「武田勝頼」=「1546年・天文十五年~1582年・天正十年三月十一日死没」。「信玄」の「第二子」。幼名は「伊奈四郎」。1573年(天正一年)「武田家」の家督を嗣ぐ。1575年(天正三年)「長篠の戦」で敗北。1582年(天正十年)「天目山」で自刃。  「明智光秀」=「1528年・享禄一年~1582年・天正十年六月十三日死没」。通称は「十兵衛」。1582年(天正十年)「本能寺の変」。「山城国・山崎の戦」で討死。  「出雲阿國」=「1572年・元亀三年~?」。松江の鍛冶屋「中村三右衛門」の娘。「出雲大社の巫」。「名古屋山三」に取材して「流行歌」を「舞踏化」した。  胃宿  (メタラ=女裁判官・判事・三角形)・・・陰部・女陰・バーガー・Δ  「胃」=「いのふ・こころ」である。「胃=田+月=たつき」である。  「胃」=「田(口十)+月(几二)」=龍記・辰記・他月・多月  「閻魔(ヤマ)」=「?~?」。「閻魔(エンマ)大王」  「平将門」=「?~940年・天慶三年二月十四日死没」。「相馬小次郎」。936年(承平六年)「承平の乱」。939年(天慶二年)「新皇」。940年(天慶三年)「天慶の乱」。  「柴田勝家」=「1522年・大永二年~1583年・天正十一年四月二十四日死没」。通称は「権六」。「修理亮」。「賎ヶ谷の戦」で敗北。「北の庄」で自刃。  「西郷隆盛」=「1827年・文政十年十二月七日~1877年・明治十年九月二十四日死没」。通称は「吉之助」。号は「南州」。「入水自殺」するも「救助」される。1877年(明治十年)「西南戦争」で敗北、「城山」にて自刃。  昴宿(スバル=女戦士・火神)・・・剃刀(弟刀刀=おとかたな)・親子喧嘩 ・色難・むつら星(六連星)                  ・主星=トーリ・一等星=アルキオネ  「昴」=「すばる」である。       「昴=日+卯」である。「いわく、宇佐の欺(伎)」である。「女王       が騙された(宇佐に跳んで騙されたヒトだ)」  「天武天皇」=「?~686年・天武十五年死没=朱鳥一年」。「第四十代天皇」。諱は「大海部皇子」。672年(天武一年)「壬申の乱」。  「武田信虎」=「1494年・明応三年~1574年・天正二年死没」。「一四歳」で家督を継ぎ「従五位下」。1541年(天文十年)「追放」。  「小早川秀秋」=「1582年・天正十年~1602年慶長七年十月十八日死没」。幼名は「辰之助」。通称は「金吾中納言」。「二十歳」で死没。  「佐久間象山」=「1811年・文化八年二月十一日~1864年・元治一年七月十一日死没(暗殺)」。名は「啓(ひらき)」。字名は「子明」。通称「修理」。  「岩倉具視」=「1852年・文政八年九月十五日~1883年・明治十六年七月二十日死没」。号は「対岳」。「明治維新副総裁」。『廃藩置県』の立て役者。「第十五銀行」を創設。  畢宿  (アルデバラン=ヒディアス、V字形の武術師)・・・車・赤星  「畢」=「おわる・おえる・ことごとく・ついに・つくす」である。     =「畢生」とは生まれてから死ぬまでの「一生涯」のことだ。  「最澄」=「767年・神護景雲一年八月十八日~822年・弘仁十三年六月四日死没」。姓は「三津」。幼名は「広野」。諡は「伝教大師」、「(比)叡山大師」、「根本大師」、「山家大師」。788年(延暦七年)「根本中堂」。797年(延暦十六年)「一切経書写」の発願。804年(延暦二十三年)「唐の明州」に上陸。「天台」の「円教」、「円戒」に直伝。805年(延暦二十四年)「七月」に帰国。866年(貞観八年)「伝教大師」の諡号を得た。  「平重盛」=「1137年・保延三年~1179年・治承三年七月二十九日死没」。号は「証空」。「清盛」の長子。  「常盤御前」=「?」。「源義朝」の子供「今若(阿野全成)」、「乙若(阿野円成)」、「牛若(義経)」の三人を産む。後に「清盛」の「妾」となって「一女子」を出産。  「楠正成」=「?~延元一年=建武三年五月二十五日死没」。幼名は「多聞丸」。1333年(元弘三年)「元弘の変」  「島津斉杉」=「1809年・文化六年四月二十八日~1858年・安政五年七月十五日死没」。「第二十八代」薩摩藩主、七十七万石。名は「邦丸・又三郎」。「兵庫頭・豊後守・修理大夫・薩摩守」。号は「惟敬・麟川」。1857年(安政四年)「集成館」設立。  觜宿  (リゲル=傭兵隊長・源氏星)・・・水難                  ・鹿頭(しかのかしら・志賀頭・滋賀                  の頭・史家の頭・歯科の頭・月神)  「觜」=「けづの・とろき・みづわた・つの・くちばし」のことである。      「毛角」とはミミズクの尖った頭である。(診みず句)      =「觜距(シキョ)」=口バシと毛爪=武器。(死去)      =「觜瞼(シケン)」=とがった顔。醜い顔。(私見・試験・私権)      =「觜鼻(シビ )」=尖った鷲鼻。醜い鼻。(死日・史備)  「小西行長」=「?~1600・慶長五年十月一日死没」。通称「弥九郎」。和泉堺の豪商「小西隆佐(寿徳)」の子。キリシタン大名。「関ヶ原の戦」で敗北し、「六条河原」で斬首。  「千利休」=「1522年・大永二年~1591年天正十九年二月二十八日死没」。姓名は「田中与四郎」。法号は「宗易」。号は「不審庵・抛筌斎」。  「二宮尊徳」=「1787年・天明七年七月二十三日~1856年・安政三年十月二十日死没」。通称「金次郎」。実名は「尊徳(たかのり)」。「相模国足柄下郡栢山村(小田原藩)」出身。  参宿  (ベデルギウス=革新者)・・・・巨人の脇の下   白い帯をした羊の脇の下   三大星・柄鋤(からすき)星   鼓星・平家星  「参・參」=「まいる・まじえる・あずかる」である。         原義には「女の髪差し、髪飾り」とある。ならば「冠(かんむり)」         か、「櫛(くし)」である。       =「參」=ム+ム+ム+一+人+彡       =「参署」=諸種の意見を参考材料として記録する       =「参道」=神社の道       =「参商」=西と東の星。別離。       =「参差」=似ている様。       =「參 」=「ムムム」は「品(ホン・ヒン)」。「ム=シ・よこしま」       =「参考」=「何(?)」を「参考」にするのか・・・「虎の巻」  「柳生三巖」=(?)。  「高杉晋作」=「1839年・天保十年~1867年・慶応三年四月十四日死没」。1862年(文久二年)上海で「太平天国の乱」を見聞。  井宿  (ポルックス=双子のカストルの弟の名)・・・夫妻宮・夫婦星  「井」=「いど・いげた・いどわく・おきて」である。       「砂漠の井戸の水」は「掟(おきて)」によって守られている。       「井」は「田圃・水田・村」の意味であるが、「緯度」は「航海する       海士には地図、海図に必要なモノ」である。  「源範頼」=「?~1193年・建久四年(研究死年)」。源義朝の「第六子」。蒲冠者。  (建久四年=研究死年)  (蒲冠者=鎌換邪・蝦間鑑邪・掛磨換邪・禍痲患者)  「平宗盛」=「1147年・久安三年~11185年・文治一年六月二十一日死没」。  「福沢諭吉」=「1834年・天保五年十二月十二日~1901年・明治三十四年二月三日死没」。「中津藩」出身。  「三条実美」=「1837年・天保八年二月八日~1891年・明治二十四年年二月十八日死没」・  鬼宿  (プレセペ=放浪の武器屋)・・・Yの逆字、「λ(ラムダ)」       魚火・人魂  「鬼」=「おに」である。  「藤原秀衡」=「?~1187年・文治三年十月二十九日死没」。  「足利義満」=「1358年・正平十三年~1408年・延文三年八月二十二日死没」。室町幕府「第三代将軍」。幼名は「春王」。法号「道宥」。  「黒田長政」=「1568年永禄十一年~1623年・元和九年八月四日死没」。幼名は「松寿丸」。  「竹中半兵衛」=「1544年・天文十三年~天正七年六月十三日死没」。名「重治」。通称「半兵衛」  「坂本龍馬」=「1835年・天保六年十一月十五日~慶応三年十一月十五日死没」。名「直柔」。変名「才谷梅太郎」。  「中岡慎太郎」=「1838年・天保九年~慶応三年十一月十五日死没」。変名「石川清之助」。  「大村益次郎」=「1824年・文政七年三月十日~明治二年十一月十五日死没」。名「永畝」。旧姓「村田蔵六」。  柳宿  (アルファルド=孤独な帝王・孤独な蛇の王・多頭のヒドラ)  「柳」=「やなぎ」である。「リュウ」である。       「やなぎ(哉名疑・邪納岐・耶名記)」     =「柳」=「木+卯」  釈迦=「?」  白河院=「1053年・天喜一年六月二十日~1129年・大治四年七月七日死没」。1072年(延久四年)「第七十二代天皇」。1096年(永長一年)「上皇・院政、北面武士の初」。名は「貞仁」。法号は「融覚」。著作「後拾遺集」、「金葉集」、「続本朝秀句」。  斉藤道三=「1494年・明応三年~1556年・弘治二年四月二十日死没」。別名「松波庄九郎」、「西村勧九郎」、「長井新九郎」。岐阜美濃「稲葉城主」。油売り時の屋号「山城屋」。「山城・乙訓郡・西岡」出身。  「新井白石」は次章をみよ。  星宿  (レグルス=王)・・・・・・・・かみつくもの・樋星  「星」=「ほし」である。  源義朝=「1123年・保安四年~1160年・永暦一年死没」。相模の人。  今川義元=「1519年・永正十六年から1560年・永禄三年五月十九日死没」。  お市の方=「1547年・天文十六年~1583年天正十一年四月二十四日死没」。幼名は「いち」。別名「小谷の方」。  徳川吉宗=「1684年・貞享一年十月二十一日~1751年・宝暦一年六月二十日死没」。「第八代将軍」。幼名は「源六・新之助」。初名「頼方」。号「有徳院」。  徳川秀忠=「1579年・天正七年四月~1632年・寛永九年一月二十四日死没」。「第二代将軍」。幼名は「長松・竹千代」。号「台徳院」  張宿  (シェルタン=科学者)・・・ウル・グルラ(大犬座)・人歩・善神  「張」=「はる」である。  和泉式部=「?」  前田利家=「1538年・天文七年~1599年・慶長四年閏三月三日死没」。幼名は「犬千代」。  山田長政=「?~寛永十年」。「六昆(リゴル)王」  水野忠邦=「1794年・寛政六年六月二十三日~1851年・嘉永四年二月十六日死没」。幼名は「於菟五郎」  翼宿  (アルケス=カップ・杯)・・・ナイルの水かさの最高位・執念深い  「翼」=「つばさ」である。      「翼=羽+異」は「左右の羽根は異なる」だ。  持統天皇=「645年・大化一年~大宝二年十二月二十二日死没」。「・野讃良皇女」。「高天原広野姫尊」。  藤原鎌足=「614年・推古二十二年~669年・天智八年十月十六日死没」。「中臣鎌子」。644年(皇極三年)「神祇伯」を辞退し「摂津三嶋」に退いた。  加藤清正=「1562年・永禄五年~1611年・慶長十六年六月二十四日死没」。幼名は「虎」  大石内蔵助(良雄)=「1659年・万治二年~1703年元禄十六年二月4日死没」。  軫宿  (ギェナ=五星剣法師)・・・カラス(烏・雅)座・手(ハスタ)               ・四星・帆かけ星(スパンカー)  「軫」=「めぐる・まわる・うごく・もどる・まがる・いたむ・うれえる・み       ち」であり、「車の後部の横木」である。「横(よこしま)・木(き)       」で、「オウボク」である。  菅原道真=「845年・承和十二年~903年・延喜三年死没」。幼名は「阿呼」。別称は「菅公」。887年(仁和三年)「阿衡の紛議」。893年(寛平五年)「参議・勧解由長官」。895年(寛平七年)「中納言従三位」。897年(寛平九年)「大納言」。901年(延喜一年)「太宰権帥」に左遷。  藤原道綱の母=「936年・承平6年?~995年・長徳一年死没」。「藤原倫寧の娘」。著作「かげろう(蜻蛉)日記」。  杉田玄白=「1733年・享保十八年九月十三日~1817年・文化十四年四月十七日死没」。名は「翼」。字は「子鳳」。  ・・・名前、生死没年号、著書名、場所、数字の基数「1、3、5、7、9=13579=一(壱)・万(萬)・三(参)・千(チ)・五(伍)・百・七(漆)・十(壱拾)・九(仇)」等、および、偶数「2、4、6、8、10=246810=二十(念)・四(肆)・万(卍)・六(陸)・千・八(捌・鉢・蜂)・百(桃・腿・股)・十(足・X・×・〆)」等の共通項、「同音異字・同意異字」を踏まえ、次の章へ進みたい。

 これから展開する「新井白石」に関することも前述した「方法」とまったくウンザリする程、同じやり方である。彼の「歴史的事績」や「著書」、そこに記述されている「漢字」の「音」や「訓」、「字形」を検討し、さらに「同音異字」を「現存・古事記」に重ねてみる、と云うことだ。  私の「結論」は「蘭学の原点」は「宣教師(バテレン)」にあると考えるが、その体系的な出発点は「1600年」に日本にやってき、「徳川家康」の顧問となった「英国人」の「ウィリアム・アダムス=三浦案針」であると確信するものだ。「三浦案針」こそが「玉手箱」の中に「現存・古事記」を「押し込めた人物」であるハズだ。ではその「鍵」を握って開けようとした人物は「誰」か?・・・『新井白石』である。「白石」を単なる「儒学者」であるなどとは思っちゃぁイケナイのだ。  だいたいからしてが、第一に「古事記学者」は「新井白石(君美=クンミ・キンミ)」と云う「名前(名は君美、通称は勘解由、字は在中・済美、号は白石)」を疑ってかかるべきである。「あらい・はくせき(くんみ=訓診)」である。  「自叙伝」の「折りたく柴の記」に記されていることだが、「白石」は「明暦三年二月十日(陰暦・柳宿日)午前八時頃(1657年)」に生まれた。「西暦XY57年」の全てを調べろ、である。この年二月に「徳川光圀」が『史局・彰考館』を開設し、『大日本史』編纂を始めたのだ。正月には「明暦の大火」と呼ばれる「大火事」があり、「白石」は幼少時「三歳頃」から「藩主」に『火の子』と呼ばれて可愛がられたらしい。そして「七歳」には「天然痘」にかかり「ウンカフル(ウニコール・一角獣)」と云う薬をのんで助かった、と云う。「三歳」で「上野物語」の「字」を写し書き、「六歳」で「七言絶句」の『三タビ市虎ヲ伝エテ人皆従ウ』と、朝鮮の「七歳の子供」が「太閤秀吉」の前で作ったと言う「詩」、「自休蔵主」と言う人物の「詩」を暗記した。「九歳」の時には「手習い」で眠気をもようしてくると眠気覚ましに「二度」も「水」をかぶった。「十歳」で「庭訓往来」を勉強。「十一歳」で「関」と言う人物に「剣術」を習い、「十六歳」の「神戸某の次男」と「三度」試合して「完勝」した。「十三歳」からは「藩主」の「手紙」の「代筆」をした。「十七歳」には「中江藤樹」の「翁問答」を読み、「江馬益庵(玄牧)」から「小学」と「四箴」を聞かされ講釈される。「韻会」、「字彙」を独学。「冬景即事」と言う「七言律詩」を作る。  彼の父「正済」は「上総・久留里藩主・土屋利直の臣」であった。だが、「二十一歳」、藩主没後、父と共に牢人生活を経験余儀なくされた。この時期に「対馬の国の儒者」の『阿比留(西山順泰)』と知り合う。「二十六歳」、「朝鮮使節」の人々とあって「詩百篇」をみせ、その「詩」の「序文」を作ってもらう。「堀田・筑前守・正俊」に出仕。「三十歳」で「木下順庵」と出会う。  「白石」、「三十七歳(元禄六年十二月十八日・1693年)」の時に「甲府藩主・徳川綱豊」に仕えて、「宝永元年十二月五日(1704年)」、「四十八歳」の時に藩主が「第六代将軍・徳川家宣(綱豊)」を継承されることに及んで、「西の丸御側衆支配七人」の一人に選ばれた。「宝永六年一月十日(1709年)」に「第五代将軍徳川綱吉(犬公方)」が死没し、「意見書・三ヶ条」を提出。「第六代将軍」となった「徳川家宣(綱豊)」は「生類憐みの令」を禁止したことが記されて、その余談記事にはこの「罪」で「何十万人」も牢に入れられ、裁決されずに「獄死」し、「塩漬け」になっているモノが「九人」もいたことが記録されている。そして「殉死の禁止」は「第四代・徳川家綱(厳有院)」が決めた、とある。「宝暦六年(己丑年)七月三日」に「五歳」で「第七代将軍」となる「徳川家継・軫宿(世良田)」が生まれた。「干支」は「己丑年・牛年生まれ」である。彼は「六代将軍・徳川家宣」と「月光院(輝子・お京の方)」との子供で、「第四子」であった。  「五十九」歳の時「従五位下・筑後守」となった。そして「幕閣」であった「白石」の理解者『間部詮房(あきふさ)』は「越前守」であったことをも疑って診るべきだ。彼の「事績」ではなく、「白石」に関しての上述した「記録された文字自体」を・・・である。コレは「現存・古事記」に重ならないか?  「白石」の名前(雅号)に関しては仙台藩の「佐久間洞巌」に答えて彼自身が「古人の姜白石、黄白石、沈白石とあるのをみて、面白い文字だと思ったまでのことです。それを、ふと詩稿にかきつけた・・・『涅(そ)めても涅めても黒くならず、磨(と)いでも磨いでも薄くならず(論語・陽貨篇)』と云う意味にとるのか、などと言われることもありますが・・・ただただ面白い字とおもって付けた」と語ったらしい(「日本の百科全書家新井白石・白石と私」桑原武夫・「日本の名著・新井白石・中央公論社」)。・・・彼がそう云ったのは事実かも知れないが、他人はヤハリ、『白石』は『涅(そ)めても涅めても黒くならず、磨(と)いでも磨いでも薄くならず(論語・陽貨篇)』の意味にとったのであろうし、「別の意味」にもトッタのは云うをまたないであろう。「涅」の漢字は元来「釈迦」が入滅した「陰暦二月十五日」の「涅槃(ネハン)=解脱・安楽寂滅」の熟語に使われる漢字である。他には「涅歯(デッシ・ネッシ)」があり「歯を黒く染めるコト」である。「涅」は「デツ・ネチ・ネ・ネツ・くろつち・どぶどろ・くろ」と漢和辞典にある。私も「別な意味」で『白石』を考えたのだ。スナワチ、  姜=キョウ・しょうが =羊+女・・・・・ヒツジのオンナ  黄=オウ ・き    =艸+一+田+ハ・クサのハジメのタのヒト(アシ)  沈=チン ・しずむ  =水+宀+儿・・・ミズのウのヒト  涅=ネ  ・くろつち =水+日+土・・・ミヅのヒのツチ  磨=マ ・とぐ =广+木+木+石・マダレのキのキのイシ  論=ロン ・あげつらう=言+侖・・・・・イウのオモウ(マルイ)  語=ゴ  ・かたる  =言+吾・・・・・イウのアレ  陽=ヨウ ・ひ    =阜+昜・・・・・オカのアガル  貨=カ  ・たから  =化+目+ハ・・・バケルのメ(マナコ)のヒト  篇=ヘン ・ふみ   =竹+扁・・・・・タケのフダ  の文字を  石=いし (医師・意思・遺志・意志)  ↓    ↓   ↓  ↓   ↓  石=いわ (岩 ・巖 ・磐 ・遺話)  石=セキ (施記・斥 ・籍 ・関 )  石=ゴク  (語句・獄 ・国 ・極 )  が  白=イワク (岩区・謂わく・委話句)  白=ハク (履く・把句 ・泊=吐)  白=しろ (城 ・代  ・詞賂)  であると・・・。  「白石」は「しろいし」ともよむが、「日本自動車地図」を参考にして「地名」で云えば「宮城県」の「蔵王山」の南東梺(ふもと)に位置する「白石市」である。「仙台市」から南下して順に「①仙台 ②村田 ③白石」であり、「白石蔵王」から「西」にそれたところに私の祖父以前からの代の親戚である「日下一族」が住んでいる「七ヶ宿」がある。私の母の話しでは、この「七ヶ宿」は「藩主」が「参(參)勤交替」の折りに必ず宿泊する「陣屋」が存在したらしい。  ここの「七ヶ宿」の地名の由来は知らないが、『七宿』とは「真言密教」の開祖である「空海・女宿(弘法大師・真魚)」が「唐」からもたらした「二十八・宿曜経」の「代名詞」であり、「七宿×四方位(天空の東西南北の七星座)=二十八宿」である。「占い」では「人の宿命」を「二十七宿」の「星座」で判断する。  「七」が意味するところは「なな・ななつ・なの・かず・シツ・シチ」で、私の「漢和辞典(諸橋轍次先生監修)」の「七=一+L(乙)」の「字解・解字」には「七」を「ち」に似ているような字で説明し、「横の一は地平線」、「縦の|(L=乙)は地中の陰氣のでるさま」で、「一説には古くは『七』を『十』と書いた」とある。これじゃァ、読むものにとっては当然にも「七=十=×=X=メ=〆」ではないか?・・・「X(エックス=重柘句素)」の次は「Y(ワィ=倭委・話遺)」で、次の次は「Z(ゼット=説斗・絶途)」で、前は「W(ダブリュ=拿分柳=柳宿)」、前の前は「V(ブィ=部位・分彙・武威)」、前の前の前・・・「UTSRQPONM・・・」だ。この「漢和辞典」の「一説」が、「日本書紀の『一書にいわく』」と同じように、ワザトらしく怪しいのだ。「一説」であるから当然にも「一説の下敷」があっての記述であるハズだ。私が「いっしょにいわく(一書に謂わく)」をワープロで漢字変換すれば、「壱書、似委(謂・彙・意・移)倭句」か「壱與(与)二位倭貢」で「邪馬台の壱与」で、「三国史」の「魏志倭人伝」である。あるいは「逸書似異話句」、「一所似委話句」、「位置処似由枠」、あるいは「一緒に、委話句(磐句=磐余=神武天皇)」、「一緒に委ねる倭の句(苦・虎=天武天皇)」等々と・・・「位置(位地・市・井知・遺児・医治・異字)セツ」である。「一説(セツ・とく)」の「セツ」の音は、「アダム」と「エバ」の子供の「なまえ」であり、「カイン」に殺された「アベルの代わりの子である」と「バイブル(創世記・第四章)」に記されている。しかも、「三人目(三番目)」の子供だ。そして、丁寧にも「セツ」は「エノス」を生んだ、とある。「重の素(エのス)」は「柄の栖=北斗七星」、「枝の棲=鳥・酉」、「江の洲=中国江西省九江・滋賀県、近江の国・楊子江、大江、長江の洲=呉淞、上海、崇明島・江戸の洲=墨東、墨田の東」、「娃の諏=美人の諏訪(問いはかる・相談・たずねる)」・・・「美人の相談」の「美人」とは?、そして「誰に相談」したのか?・・・カミである。「カミ(カマ・カミ・カム・カメ・カモ)」の同音異字と「咬む・噛む」の「活用形」に於てである。「娃」は「天女(海部の羽衣)・月女=かぐや姫(竹取物語・他家盗り模廼方里)」であった。  「娃(え・ア・アイ)」の類字、文才、文運の「奎(ケイ・ケ・キ・またぐら・アルマラク=腰=こし・古志・古史・古詩・輿=地理)」なら、「奎の素=経典のもと・文章のもと・ト書きのもと(脚本にある俳優の動作の指示、注意書き)」で、「得之(埜・廼・乃)素」、「恵の素」である。「奎宿」とは「西を守護」する「アンドロメダ座」の「β星(ミラク)」で、インドでは「魚宮」、アラビアでは「バトン・アル・フート(魚の腹)」であるらしく、星の象形は「小艇・枡形」である。「紫式部」、「徳川家光」、「勝海舟」の「命宿」で、しかも「奎宿」は「占い」では、  「奎宿」に隣接する「前後」に位置する「二宿」  「婁(ロウ・ル・馬頭)」    =「ふいごう=付意合・留(酉+田)                   ・七夕津女・織姫・卑弥呼(?)                   ・たたら=鋤(からすき)・鞴                   ・シェランタ=合図・印」  「壁(ヘキ  ・立竿)」    =「かべ=化邊・日置・べき=糸・可                   ・たてざお=他出佐将・里津官・律柘換」  「奎宿」から前後に数えて「九番目」の「二宿」  「尾(ビ・獅子項毛)」     =「お=緒・将・琵・尾張・備調                   ・鼻=岬・毘=へそ(田比)・中央                   ・おとどい=兄弟・音問・音土肥                   ・レサート=蠍の針」  「鬼(キ・瓶・壷)」      =「おに=将貳・びん=紊・便・罠・貧                   ・つぼ=津母・柘模・都保・津浦                   ・基・紀州・既習・鬼道・記紀                   ・うおび=魚火(まなび=真名毘)                   ・ひとだま=人霊(日渡拿間)                   ・プリハススパテイ=芯利訶馭撥底                    ↓↓↓↓↓↓                   審理加給既定」  「奎宿」から前後に数えて「十一番目」の「二宿」  「星(セイ・牆=ショウ」    =「どべい=土塀・かきね=垣根・下記音                    ・つきじ=築地・付く字                    ・ほし=干・補詞・補死                    ・といかけ=樋かけ                    ・蛇の頭・かみつくもの                    ・レグルス=王                    ・バシリスコス=王                    ・シヤア=毘舎  「房(ボウ・長布)」      =「ふさ=敷差・付作                   ・ちょうふ=調布・貼付                   ・ふんどし=分年」                   ・バラキウム=腕(ワン・うで・かいな)                           ↓ ↓↓ ↓ ↓                           湾 得出 改 名                           話夢 有載 会 那                   ・ミトラ=密多羅・水戸羅(・)=子宮                   ・ミ-トラ=診虎(寅=イン=韻・音)                      トラ(τωρα)=現在・今  と「相性」がいいらしいのだ。「奎宿」から数えて「十番目」の「柳宿(海蛇の頭・新井白石の宿)」は「業胎の関係」というヤツである。「賄賂の陪臣」、「柳沢吉保・室宿(飼犬=狗)」の姓の漢字が「柳」であるならば、「徳川綱吉・・宿」の生母は「桂昌院」で、「奎(足・股)」の示唆だ。「畜生の帝王(獣王)」、「徳川綱吉(館林・常憲院)」が「犬公方(戌年生・狗生・獣・狼・瘻)」なら「婁宿の定位置」である。だが、「婁(口十中女)=ロウ・ル・ふいごう)」で、「ふ・いご・う」ならば「府以後」とは「徳川綱豊」が「甲府藩主以後」の「六代将軍」になった「以後」である。「徳川綱豊・四月二十五日生・婁宿(文昭院)」の母親は「保良方・長昌院」であった。・・・府異号=甲斐、付異号=名前、付意合で、不意の御(おん=恩・音)、有(う=得・迂)だ。  そして、「新井白石・柳宿」は「幕閣」に「鬼」と呼ばれ、「伊太利亞(イタリア)人(シドッチ)」を「尋問」したのだ。彼にとっては「αρχη(アルヒ)」であり、「τελοs(テロス)」の「ギリシャ・ラテン語」の習得と「音」の聞き分け、その「語彙(語意)」に於ける「西洋事情」と「世界地理」であった。ならば同僚の「間部詮房(猿楽師、西田喜兵衛の子供・高崎藩主・越前守・越後、村上藩主)」は、「猿(申支)」の「井・参・觜」等の「宿」で、「酉支(西)」なら、「畢・昴・胃」の「宿」である。  とにかく「X+圭」が付く字は「月桂樹(オリーブ=緒理遺附・尾理慰撫・将吏威武・将里遺武)」の類(たぐい)で、「月世界」に存在するモノだが、鍵は「X+圭(ケイ)=土(ド)+土(ド)=十一(壱拾壱)+十一(壱拾壱)=二十二(弐拾弐)」の「造り」とその「分解」の「音」である。そして、「七」の「字」だ。「七宿」は「命宿」から数えて「七番目の宿」で「安壊」の関係と言われるモノである。「太安万侶(古事記)」を「壊す」のだ。そしてツイデに言えば「万葉仮名」を「侶(イ+呂=意の背骨=イロ=色=いろは)する」のだ。「七支」は「午(馬=メ・月精)月・陰暦五月」であるが、「七月」は「未支(陰暦六月・八支)」である。「未艶」とは「景教(唐時代のキリスト教)の聖母マリア」の漢字訳である。最近、「宿曜経占い」の本はポピュラーで古本屋で簡単に手に入れることが出来るから興味のある人は買って調べてみるがイイ。大概は歴史上の人物の「生年月日(陰暦・月暦)」を調べた「宿曜星(宿命傾向)」が述べられている。「宿曜師(占い師)」ならば、「歴史上の人物のホシ(命)」を調べ、その人物の「傾向の正否」、「経歴、履歴」の「正否」を調べたくなるのは当然であろう。「宿曜師(占い師)」にとって「生年月日(陰暦)」と「死没年月日(陰暦)」を「知るコト」が先ず第一条件である。であるから「宿曜師(占い師)」は「月の軌道位置=白道」を研究せねばならない「天文学者」でもある。コレを「商売」にする「ヒト」は「カミひとえ」で「詐欺師」にもなるのだ・・・「ワクセイ等円のジテン」を再発見した「コペルニックス(1473/2/19~1543年/5/24)」、「ワクセイ楕円の三法則」を発見した「ケプラー(1571/12/27~1630/11/15)」も(?)。そしてコレラ(虎列刺)大流行で帰郷し、1666年「林檎の落下」で「万(萬・蛮)有(結・友)引力(音慮句)」を発見したのは「ニュートン(1642/12/25~1727/3/31)」であった。・・・「似る友の遁」・・・  「七」の熟語には「七擒(ななたび、トラう・シチキン)」があり、「七」そのものの意味は「辞賦」の一種。「楚辞」の「七諌」、「七発」等々とある。  「七つ」は「寅(虎)の刻(午前四、肆時)」であり、「申(猿)の刻(午後四、肆時)」で「寺が鐘を七回突いて鳴らす音」である。「4(直角三角形に相似する)=四(四つ足・獣・卯支=柳の類字)=肆(つらなる)=長+聿」。「柳(やなぎ)宿」の対(他意)冲は「女宿(おんな)」。「卯(ウ・菟・兎)」の対冲は「酉(ユウ・鳥・禽)」である。尾張名古屋大須の「大須観音」の近くには「七つ寺」があるのだが・・・「大須文庫」もある。モチロン、「古事記」の「現住所」で、節分には「福はウチ」とは言うけれど「鬼は外」とは決して言わない。コレを私に教えてくれたのは元「大須ういろ((株))」の会長、故「山田昇平」氏であった。  私の「漢和辞典」では「七七五分」は「みつづき・みつわた」とヨマせ、「七五三」を「しめかけ」、「七生」を「はぶ」、「七種」を「さいぐさ」とヨマせているが、その理由は何か?  ・・・「七七五分」が「775年(乙卯)を分ける」ならば「宝亀六年」の事件を「ブン・フン・わける」ではないのか。ス・ナ・ワ・チ、  「三月、『蝦夷』の争乱。五月、『陸奥(むつ)』に『綿(わた)』を送って『襖(うわぎ・あを=裏のある狩衣)』を作らす。六月、遣唐大使に『佐伯今毛人』が任命される(七七七年四月に出発)。十月、初めて『大長節』を行う。『吉備真備』の死没・石上宅嗣が図書館、藝亭(うんてい)を公開(773年頃とも)」  と、日本史年表にあり、『佐伯今毛人』とは「空海」の「伯父」である。「佐伯」の姓は「日本書紀」、「645年(乙巳)・大化改新」に登場する「蘇我入鹿」暗殺に荷担した「佐伯連子麻呂」が記録されている。そして「地名」に九州・大分県『佐伯市』が存在する。「サエキ」とは「差益・差役・左亦・詐重記」でもアルナっ・・・ついでに江戸時代、『1775年(安永四年・乙未)』はどうか?  ・・・「人馬賃銭を七年間増す」、「石灰所を二ヶ所増設し、八王子石灰・野州石灰・牡蛎殻灰を扱わせる」、「宇治川洪水で桂橋が浮く」、「恋川春町の金金先生栄花夢が刊行」、「長久保赤水の日本輿地路程全図の完成」  と、ある。・・・「石灰」は確かに  「白色(whait color=ホワイト カラー=ασπροs・アスプロス)」だ・・・「as(ごとく・のように)」、「pros(前へ・の方へ・おまけ・韻律学、詩形学、作詞法)」・・・「ass(ロバ・羅馬)・ask(尋ねる・尋問)・associstion(連合・組合・連想)・assort(類別する)」  ・・・フザケルナッ!!、であるが・・・何かを伝えたいのカモ・・・類別した  「ホワイト(補倭異図)・カラア(掛羅阿)」の「人」、「馬」、「七」、「間」、「増」、「八」、「石灰」、「野」、「州」、「牡」、「蛎」、「殻」、「桂橋」、「金」、「先生」、「夢」、「長」、「久保」、「赤」、「水」、「日・本・輿・地・路・程・全・図」の漢字の「秘密」を・・・  「みつづき(七七五)=三月(弥生・彌生)=蜜月(日月・御津付き・診柘図記)=ハネムーン(honeymoon)=アマい一ヶ月・新婚旅行・8、∞(メビウスのワ)の旅行=葉知の慮考(控)・眼美有珠のワ」で、「三月=弥生・彌生=彌月(月をわたる・翌月にまたがる・その月を終わる・月を重ねる)」で、漢和辞典の「字解」に、「弥=彌」は「弓の偏は長の字に造る時も同字」とあり、「診、続き」で「彌=長+爾(チョウジ=長字・長時・重字・弔辞・調字)」となり、「弔辞の月=死亡の月」である。「彌」は「あまねし(遍)・わたる(互)・きわめる(窮・究)・つくろう(繕)・ぬう(縫)・ゆるむ(弛)・おわる(終)」とヨメ、とある。「蜜」は「蜂蜜(はちみつ=葉致密・葉置診柘・頗地密)」で、「みつ=密(日)=御津=参(三・サン)=參(ムムム一人彡=三つの横島がハジメのヒトのハケのアト)」、「海女の壱を懸ける月」だ。そして「地図(輿)の御津(おんしん・音審・音申・音信)を調べろ」 である。  前述したが『佐伯今毛人(養老三年~延暦九年)』とは「弘法大師(空海・真魚)」の伯父にあたる人物で、記録には「大和介・摂津大夫兼造東大寺長官・築怡土城専知官・営城監・造西大寺長官・肥後守・因幡守」等を歴任、「造長岡宮使・参議・太宰帥」となって退官した人物で、当時、「蝦夷=毛人」を「監察・監督」した人物である。「佐伯石湯」は「征越後蝦夷将軍(和銅二年・709年)」であった。「佐伯全成」は「陸奥鎮守副将軍(天平宝勝一年・757年)」であった。

 『佐伯今毛人』の漢字を分解すれば「佐(人左)・伯(人白)・今・毛・人」である。これ、スナワチ、「熟語の漢字」でヨメば、  伯(伯林=ベルリン)=ドイツ(独逸)・プロイセン(普国・普魯西)の首都  伯(伯耆)=鳥取県にあった古名)  伯(伯爵=五等位の三位)  伯(神祇伯=禰宜(ねぎ)=神官(シンカン)=宮司(ぐうじ)  伯(詩伯・画伯・医伯  伯(首長・長兄・長子)  伯(伯父・伯母)  伯(伯夷=孤竹君の二子の兄、弟は叔斉)  伯(伯仲=長男、次男)  伯(伯楽=天馬の星座、祖神・馬喰)=名君、賢相  伯(伯方=はかた・四国愛媛・伯方島・愛媛・今治は波方と朝倉の間に存在し、              「伯方島」は「波方」の北東に存在する       はかた=博多(長津)・・・「歯形」とは「噛(咬)んだ痕」だ  伯(伯労=鳥類のモズ)  伯(太伯=三国史に記録されている「呉の始祖、太伯(周の文王の伯父)」      =金星=美人=タイハク             ↓ ↓↓            鯛 吐く=釣針=魚+更=咽喉に刺さった骨(コツ=虎柘)                        ↓↓↓↓↓↓↓↓ 乞・忽・葱                        能登に作詐柘多ほね                                            補音                                            浦子(裏音)・・・ウラシマタロウ・「山幸彦、海幸彦」の釣り針の行くへはタイの咽喉                                            輔根                                            保音  を   佐(補佐する)=次官、佐官。副官=佐弍。左官は漆喰、かべぬり職人   佐(佐理する)=政治を補佐する   佐(佐命を受ける)   佐(佐幕)=幕府を助ける   佐(佐本)=「古事記」、「日本書紀」の「佐本彦・佐本姫」  は   今(現在・トラ)   の   毛人(蝦夷=東北・蝦夷人)   毛人(西洋人・毛唐)   毛人(毛薔=西施と並ぶ古代中国の美人)   毛人(羽毛人=奥羽人   モウジン=盲人=網訊=亡人=妄人(ヨコシマなヒト・妄想の人)  あるいは、「ヒト(イ)のヨコシマ(左)なヒト(イ)は、白いイマ(今=トラ=寅=東北=虎=コ=胡)の毛人(モウジン)=夷人」で、「白人種=西洋人」のことである。・・・東北奥羽の人と、西洋人が懸けられているのだ。  「みつづき=三づき      =サンヅキ(参つき・纂月・算月・蚕月・讃月・撒つき=巻附き)」  「編纂の柘紀(記)」  「計算(会稽・加減乗除)の柘記」  「蚕={天+中+ム(よこしま・武・む)     =天智(中大兄皇子)・天武(海部皇子)}の柘紀」  「讃=・野讃良(持統女帝)の柘紀」  「撒(まく・まき)つき=巻(日本書紀)月=分散」  「みつわた=密話他(秘密の話は多=秘密の話は、太=タイ(山田長政が渡航したシャム・タイランド・六昆王)=鯛(竜宮城の乙姫のタイ・古事記山幸彦)=台(邪馬台・紫薇台・弾正台・司天台・天文台・仙台)=他意=帯(たらし・多羅斯・古事記序文)=太良施=たいらし=平の歴史・他国の歴史=他意・シ)」  で、コレの「カケ」の意味ではないか・・・  当然、「七五三(しめかけ)」が「753年=天平宝勝五年」の事件であるならば、  「一月、遣唐大使、大伴古麻呂が唐朝に於て席次を争う。九月、摂津国御津村、津波に襲われる」  であり、  「しめかけ(史目化懸・志女嫁家・始女耶懸・師妾・姉女掛・姿女賭・始妾=卑弥呼・壱與・聖母マリア・マグダラのマリア・アダムの妻エバ)」  である。当然、「しめかけ」は「しめなわ(注連縄=丑恋情=彦星と織姫・七夕津女・婁宿=ふいごう(鞴)=扶イ号)」にも懸けられているのだ。では、ついでに江戸時代、「1753年(享保二十年・癸酉)」の記録はどうか・・・「唐人参座(長崎屋源右衛門)を設ける」、「青木昆陽の蕃薯考の刊行」、「丹羽正伯が製造した中風の薬、烏皐円を希望者に与える」である。  「七生(はぶ・ハブ=破布(石+皮+ナ+巾)=まむし=真無死・間無視・磨無私)」は「へび=大蛇=巳=経備」の「脱皮」のタグイで、「葉分(言葉わけ)・歯分(年齢=歳年わけ)・頗分(ヨコシマの部分)」である。  「頗」は、  頗=ハ・かたむく・かたよる・すこぶる・やや     ・かなり・おびただしく・はなはだ  とヨミ、そして「頗」を「よこしま=横島・邪=頗(皮+頁=ヒ+ケツ)」とヨマせているのだ。「新井白石」は「古史通」で「古代の記録文」は「音」を重視してヨメといった。だが、確かに「音(ことば)」が「先にあった」が、「記録する時(712年代)には漢字は既にあった」のだ。「漢字の意味(造り・形)」を知らずして「漢字の音だけ」で「記録するハズがない」のも自明である。「観音さま」の有難さの「意味」を知らずしてダレが「仏像(造形)」の「素晴らしさ」を記録しえようか。「御経の声(音)」を「耳」で聞(聴)いて意味もなくアリガタガルのとは違うのだ。「目(視覚)・形」で有難がるヒトは「文字の意味にもこだわる必要がある」のは云うまでもない。「頗の意味」を知っている者には、「ヨコシマなモノ」は  「頗=皮+頁(ケツ・こう・おおがい)     ↓ ↓    =秘 訣・否決=肥結・比結・肥懸津(長崎)・日懸津=日結(太陽の結)=飛行」  となるのだ。当然「日(太陽)の道を結ぶヨコシマ(横縞・邪・横島)」である。  『横島』は「九州・熊本・玉名」に存在する地名であり、「阿蘇山頂上を東西」に横切る「緯度(北緯)=三十三度線上」にある。のみならず『横島』の地名は、その東進した九州「佐伯市」の南西につき出た岬「観音崎(観音左記)の南」に存在し、その延長の土佐「宿毛市」に至る手前の「西海町」の沖合いにも『横島』、その北で、愛媛「宇和島市」の沖合い「日振島」の東にも『横島』は存在し、さらに、その「宇和島」の真北の広島・「呉」の「倉橋(ソウキョウ=叢経・叢教・叢今日)島」の沖合いにも『横島』の地名(島名)が存在する。そればかりではない、九州「天草下島」の東に『横島』、長崎「平戸市」の東と「北松浦半島の田平町」の沖合いに『横島』は存在する。「平戸島」の「簿香湾岸」には『三浦按針(案針=ウィリアム・アダムス)』の「碑」があるとも地図には記されている。四国愛媛の「宇和(うわ)島」に関して云えば、「新井白石」は「古史通或問」で「『倭』の字音は『烏和(ウワ)』の『反切(漢字を二つ用いて一つの漢字の音を表すこと)』であり、中国(支那・中華)の音で呼んだものである」と叙述している・・・もはや、偶然などではなく、この「地名」は「イト的なモノ」であると云わざるを得ないだろう・・・そもそも「白石」の「古史通」、「古史通或問(わくもん)」の「古事記」、「日本書紀」に関する叙述の中には「参考文献」として・・・、  「釈日本紀」・・・卜部兼方(吉田?神祇権大副)  「古事記裏書」・・卜部兼文(平野神社の神主・文永六年、1269年に  神祇権大副。文永十年、1273年に「古事記                   裏書」。「兼文宿禰勧文」  「旧事本紀」・・・聖徳太子  「史記」・・・・・司馬遷  「漢書」・・・・・班固  「爾雅」・・・・・周公(古代中国の魯国の人)が作った「字書」  「古語拾遺」・・・忌部広成  「万葉集」  「春秋」  「弘仁私記」・・・「日本書紀講義の覚え書き」  「日本書紀纂疏」・一条兼良(日本書紀神代巻の注釈書)  「続日本史」・・・菅野真道等が編纂  「類聚三代格」  「職原抄」・・・・北畠親房(興国元年・1340年)  「神代巻抄」・・・荷田春満  「准南子」・・・・漢の劉安が編纂  「三五暦紀」・・・呉徐整  「後漢書」・・・・茫曄  「魏志」・・・・・陳寿  「北史」・・・・・李延寿  「倭名抄」・・・・源順(最初の分類体辞書)  「新唐書」・・・・宋祁(宋)  「旧唐書」・・・・劉句(五代晋)  「隋書」・・・・・魏徴(唐)  「晋書」・・・・・房玄齢(唐)  「説文解字」・・・許慎(漢・・・六書=字形、字義の六法則で記録)  「宋書」・・・・・沈約(シンヤク・梁)  「元々集」・・・・北畠親房   等々からの「引用抜粋」されたモノが記録されているのだ。これだけのモノを読むとなると「図書館(紅葉文庫)」が必要である。「白石」は学者で、学問好きの将軍の側近であったから必要とする「読書本」には困らなかったであろう。だが、「白石」の著書を読んで、その「著書の中に引用された著書」を「追体験」するとなると、それなりの「環境」に存在した人物でなければならないだろう。しかも「御禁制の本」は江戸城内の図書館(紅葉文庫)にあったはずだ。江戸城の「帝鑑の間」に詰めた大名は、「阿部家(備後福山藩)」であった・・・だが、「帝鑑の間」を詰め所としていた大名は大勢いる。江戸城の「詰め所」は「大広間」、「柳の間」、「溜の間」、「雁の間」、「菊の間」、「大廊下の間」、「雅の間」等があったのだが・・・文書、記録、書記、書庫係りは古今東西「政治のカギ」を握るのだ。とにかく「江戸時代」の「新井白石」以後の「蘭学者の誰か(?)」が、彼の「著書」を読みあさっての「地名作成のイト(?)」なのだ。  歴史のナガレで怪しいのは  「徒然草(つれずれくさ=柘例、ずれ戦・トゼンソウ=斗宿の前走は弓宮、人馬宮のアル・ナスルの矢尻、水神の箕宿と、レサートの蠍の毒針、尾宿である)」  で有名な隠遁者、「吉田兼好」が「卜部=吉田」の姓名でつながっているコトだ。「裏部(うらべ)、義拿(よしだ)、兼る女(おんな)の子(ね)」である。「弓宮=射手座・人馬宮」である。人名辞典には  「吉田意安(医者)」、  「吉田兼佑(神主)」、  「吉田兼倶(神主)」、  「吉田勘兵衛(豪商)」、  「吉田篁(医者)」、  「吉田定房(公家)」、  「吉田重氏(弓術家)」、  「吉田茂氏(弓術家)」、  「吉田重賢(弓術家)」、  「吉田辰五郎(人形使い・くぐつ・かいらい)」、  「吉田玉造(人形使い・くぐつ・かいらい)」、  「吉田経房(公家)」、  「吉田東伍(歴史地理学者)」、  「吉田東洋(土佐藩士)」、  「吉田稔麿(長州藩士)」、  「吉田長叔(蘭学医師)」、  「吉田秀升(天文学者)」、  「吉田文吾(人形使い・くぐつ・かいらい)」、  「吉田文三郎(人形使い・くぐつ・かいらい)」、  「吉田光由(和算家)」、  そして「吉田松陰(思想家)」が存在するのだが。弓矢と医(醫=匚矢几又酉)者、ここは「射手座」の「ケンタウロス(健太迂路州)」と名医の「ケイロン(景論・経論・掛論・毛異論・祁意賂夢)」である。  ヨコシマなヨシダには「随筆家・医者・神主・豪商・公家・弓術家・傀儡師・輿学者・天文学者・数学家・思想家」等々が重なっているのだ・・・イカガ仮名・・・それとも既に「712年」にはコレラの「地名」が存在していたのか、ヨコシマ、ヨコスガ、ヨコハマ、タソガレ・・・レレレッツ?・・・邪島(嶋・縞・志摩)=耶始間=埜史間=哉(或)詞真・・・福音書(聖書)・・・エデン(重伝・恵典)の東(比餓死)・・・  「七」の類字は「匕(メス)」で、「七生=匕生」とするならば「女(牝・雌)生」である。「匕生報告」である。「オンナ(音名)の執念(執事)」は「大蛇(ダイジャ)の様」であるとは、「安珍・清姫(めごひめ=目護媛・愛姫=いとしいヒメ=伊都思惟、意図私意の秘め)の物語」にある「清姫」が「日高川」で「大蛇」となってワタリ、「道成寺」の「鐘楼の中に隠れた安珍」を「鐘楼=(金+童+木+米+女)=ショウロウ(章婁・尚狼)=かねやぐら=掛音耶具羅」そのものに巻きついて、とろ(熔)かした時代以前からのモノなのだ・・・火山の噴火で熔岩がソの裾野に流れていくようで、オッソロシイ(緒の蘇を賂う思惟=四囲)コトだがやぁ・・・渡邊華山(登)・・・の裾野・・・?  私がここで問題にしているのは「おんな=音名・御名・音拿・韻名・寅拿(虎拿)」の「しゅうねん=周年・終年」そのもののことだ。「パフ(puff)」なら役者や、「おんな」が「白粉」を「顔」に塗る「化粧」道具ではあるナ・・・シロ(白)の米(八方位)を分け=西(酉方・白虎)、彦(山幸彦・海幸彦)の頁(ページ・おおがい・ケツ・ゲチ・コウ・シュ・ヨウ・エフ)を塗(水のアマリの土)って米の庄(广の十一)と化す・・・である。  「七種(さいぐさ)」とは「采草=歳具作(年貢差・歳苦佐・細工唆・差異愚詐・査意虞証)」で、長崎オランダ医官の「プロシャ人」、「本草(植物)学者」の「シーボルト(フォン・ジーボルト=符音・辞意簿留図=扶音字意簿留土・侍医慕留徒)」を助け、彼の周辺に結集した「若(青)い蘭学者」の「採草作業」だ。そして「尚歯会」とは成熟しつつあった「蘭学者」のサークルであった。その人たちは「医者」を兼ねる者が多数存在したのだが・・・「地理(輿)測量学者」も存在し、「蛮社の獄」で窮まったのだ。  「七音」、「七去」、「七竅」、「七星」、「七夕」等々・・・「七難」、「七牢(牛羊豚の御馳走=音地相)=匕牢=牝牢(女郎?)=女廊=遊廓=花魁(おいらん)=姉女郎=太夫(たゆう)」の意味は「自分」で漢和辞典をタグッテ調べてみてくれ。  そして「旧約聖書(バイブル)」の「七」である。「第7日」は「神の休息日」であり、「ユダヤ教」では「土曜日」である。ダとするならば「第1日」は「日曜日(蜜曜日・密曜日)」である。「キリスト教」では「休息日(第7日)」が「日曜日=蜜(密)曜日」であるならば「第1日」は「月曜日」だ。  「バイブル(旧約)・創世記・第7章」には「ノア」が地上の清い動物を「七種」、汚い動物を「二種」、鳥類のうち「七種」の対の雌雄、「ノア」と「妻」、子供の「三組の夫婦」を箱船にのせて生き残るように神に命じられた。乗船、「七日後」に大雨で地上は「水没」したとあるが、どういう訳(わけ)か、その「大雨が降り注ぐその日」の記述には「地上の息をするあらゆる動物の雌雄が箱船に入った」とある。神は先の命令、「七種・二種」だけの救済にはこだわらなかったようだ・・・とにかく、それは「ノア」が「六〇〇(六百・陸百)歳・2月(弐月・如月)十七(壱拾七)日」のことだ、とされている。「水」は「150日間」地上を覆い、その後、減水して「七月十七日」に「アララテ山」に留まり、「十月一日」に山々が現れた。「四十日後」に「カラス(烏)」と「ハト(鳩)」を「箱船」の外に出して偵察させたが、いまだ「水」は退かず、その「七日後」に「ハト」が「オリーブ(月桂樹)の葉」をくわえて「箱船」に戻ってきた・・・「タバコ」の「ピース(平和)」の絵柄ではあるな。「ノア」、「六〇一歳」の「二月二十七日」に地上の「水」は「乾いた」と、ある。ここはト・リ・ワ・ケ、「七の数字」に注目してもらいたい。  「創世記・第二十五章」には「イサク」が「アラム人のラバンの娘」を妻にし、その妻「リベカ」が「双子」の「兄弟」を生んだことが記録されている。重要なのは「神」が「リベカ」に「弟(おと・と)」が「兄(あに・え)」をしのいで、「弟(おと・と)」が権力を握るであろう、と預言したことである。江戸を凌ぐ都(宮古・宮城)である。そして、「弟」は「兄」の「長子の特権」を狩猟からかえった来、腹ペコの飢えた兄に「レンズ豆(赤いモノ)」を食わせることで、それと交換して得たのだ。ここは、山幸彦(弟・弓矢)と海幸彦(兄・竿、糸、釣り針)と重なっているようだ。参考の諺、改稿の元である。 「創世記・第二十六章」には「イサク」が「ペルシテ人」の地で「アブラハム」がかって「井戸」を掘って埋められていた所を再び掘り返して「水」のトラブルがあったことが記録されている。  「創世記・第二十七章」には「イサク」が「双子の息子」の兄「エサウ(毛深い人=毛人=蝦夷)」に「相続の祝福」を与えようとしていたが、「イサク」の妻「リベカ」はその「相続の権利」を弟の「ヤコブ(踵をつかむ人・カカトを掴む人・キビスを掴む人・クビスを掴む人)」に与えようとして夫の「イサク」を欺く策(子山羊の皮を手と首に巻いて毛深い兄と思わせる)を「ヤコブ」に与え、「子山羊(音哉真比柘字)の肉(字句)」を「鹿(史家・詩歌・歯科)の肉(字句)」と偽って父「イサク」に食わせ、「相続の権利の祝福」を「ヤコブ」のものにさせてしまうことが記録されている。当然、兄の「エサウ」は怒って弟の「ヤコブ」を殺そうとするが「ヤコブ」は「ハランの地」にいる「ラバン」の所へ逃げ出す。・・・これは「ヤギ(八木・耶義)」を「シカ(史家・市価・詩歌・詞掛・志賀・歯科)」と偽ったハナシに掛けられ、「蘇我蝦夷(毛人・盲人)・入鹿」のハナシの下敷にしたのだ・・・「尚歯会=拿緒史(詞)改=名緒始甲斐=納将歯(年・齢・歳)改」である。  「創世記・第二十八章」には「ヤコブ」が「ハラン」へ向かう途中に野宿し、そこにあった「石」を「枕」にして「夢」を視た。それは「神の使いが天と地に架かった梯子を昇り降りしている夢」であった。そして彼はその「枕とした石」を「柱」とし、「油を注いで神の家」とした、とある。「天=あま=海部=うみべ=海辺」とヨミカエルならば、「船」が「岸壁」に「梯子」を降ろして「船乗り=海士(あま)」が昇降している「夢」である・・・「・・夢」、「夢・・」のタイトルの著作はフロイドなんかじゃぁ~ないのだ。  「創世記・第二十九章」には「ヤコブ」が母の兄「ラバン」の二人娘の美人の妹「ラルケ」に恋をし、その為に「七年間」伯父の「ラバン」に仕え、騙されて「目の弱い姉」の「レア」と関係し、更に「ラルケ」を得るために「七年間」、「ラバン」に仕えた話しがある。  「創世記・第三十章」には「ヤコブ」の妻となった「レア」と「ラルケ」の夫、「ヤコブ」をめぐっての確執である。そして抜け目のない「ヤコブ」が財産持ちになっていく話しである。  「創世記・第三十一章」には「ヤコブ」と伯父「ラバン」の確執が記されている。そして「ヤコブ」の帰郷である。  「創世記・第三十二章」には「ヤコブ」が「神」と「相撲(角力・レスリング)」をとって勝ち、「ヤコブ」の名前を「イスラエル」と名乗れとされた。  「創世記・第三十三章」には「ヤコブ」が兄「エサウ」と無事なかよくなって「カナン」の地、「シケム」に着いたことが記されてある。  とにかく、ここではこの「創世記」の部分と「日本書紀の二十五巻~三十巻」を重ねてヨミ、「双書の共通項」を「数字」と「 」の中の「文字」に発見してもらいたい。スナワチ、「新井白石」とライバルの「林家(林信篤・幕府御用儒学者)」、「高野長英」と幕吏の「水野忠邦」や「鳥居耀蔵」との関係を踏まえて・・・さて、問題の「七」である。  「創世記・第四章」に戻って検討すると「エデンの園を追放」された「アダム」と「エバ」の間に「カイン(農夫の祖)」と「アベル(牧者の祖)」の兄弟が生まれ、兄の「カイン」は弟の「アベル」を殺害した事件が語られている。そして「カイン」は「神」によって追放されるが、彼は「罪」の為、自分を殺すものが現れるに違いない、と「神」に訴える。「神」は「カイン」を殺すものはその「七倍の復讐」を受けることになるだろ、と云って彼の「命」を保証する「印」をつけた。そして「カイン」から「六代目の子孫」である「レメク」は自分に危害や殺すものがあれば「カインの七倍の復讐」を越えた「七十七倍の復讐」を受けるであろうと、彼の「二人の妻」である「アダ」と「チラ」に言った、とある。・・・「7×7=49」の数字は「死後、四十九日目に行う法事」である。「7+7=14(壱拾四)」は「イチを拾うシ」である。「4+9=13(壱拾参)」は「イチを拾うサン」である。「1+4=5(伍)」は「ゴ・いつつ」である。スナワチ、「シジュウクニチ(始終ク似知)」、「イチジュウシ(一重視・位置重視・市中死=死刑場)」、「イチジュウサン(一重纂・位地重纂)」、「ゴ(語)」の同音異字漢字の示唆である。ちなみに「四」は漢字で「肆(つらなる・シ)=長+聿」で「よつ」と言えば「けもの(獣)」であり、「アメが降り始めて連なってノアの箱船に入ったのはあらゆる獣、鳥、虫(巳)」の中の「獣」であった。これは東洋、西洋の「十二支・十二宮」の「星座」に描かれている「獣帯」のコトでもある。その「七支」は「午(馬)支」である。  「創世記・第三十七章」からは「十七歳」の「ヨセフ」の「夢」の話しから始まる。そしてエジプトの「監獄」につながれた「ヨセフ」の苦難と、「出獄」後の栄光が「数字」の「3」と「7」と共に始まる。「創世記・第四十一章」は「王の夢の解きあかし」である。「七年間の豊作と七年間の飢饉の予言」で「ヨセフ」は「エジプトの宰相」になるのだ。「創世記・第四十七章」ではエジプトにきて「ヤコブ(イスラエル)」が「十七年間」生活し、その生涯を「147歳」で終わったことが記されている。「第五十章」には死んだ「イスラエル」が「四十日間」薬を塗られ、人々が「七十日間」泣いた、とある。  「出エジプト記・第一章」には「水の中から引き上げられた(水難、海難から救助されたヒト)」と言う意味で、かの有名な「モーゼ」の物語が始まるのだが、「七の数」はここでも重要なポイントになっている・・・「ミデヤン」の「七人の娘」、「第七日の聖会」、「七日間の家の中へパン種持込むコトの禁止」、「なつめヤシ七十本」、「奴隷の七年目の解放」、「七十人の長老」、「七週の祭」等々。  さて、「七月」は、「文月(ふみつき)」で、「暴文月」、「愛合月(めてあひつき)」、「迎鐘月(むかひつき)」、「女郎花月(をみなえしつき)」、「商節(ショウセツ)」、「中元(チュウゲン)」、「蘭月(ランゲツ)」とも云い、「夷則(イソク)」とも云うのだ。「蘭」は「阿蘭陀(オランダ)」で、「夷」は異国(西洋・東北)の「夷狄(蝦夷)」で「則」は「のり=約束=ルール」である。あるいは幕末下級武士のスローガンであった「尊皇攘夷」と云うことだ。  「七」の類字は「ヒ(ひ)」、「匕(めす・牝(ヒン・ビン)=雌()=(シ・ジ)=女素・女州)」で、  =牛+字=(ノ-)+(十)+(ウ)+(一)+(了)      丑の時 カミサシの足、宇宙のハジメとオワリ      牛の耳=うし(主)のミミ(耳)  「牛の耳」とは「執牛耳(牛耳る・左氏・定公八)=会盟、同盟の中心人物で、首領」である。「牛耳」に関するギリシャ神話ならばヘラの嫉妬によって牛になった「イヨ」の「耳」に「虻(アブ)」を入れられて苦しみながら諸国を遍歴し、ヘルメスによって援けられ、エジプトに落ち着いて「女王」になった話である。牝の記号なら「♀」で、これは古代エジプト文字の王権の象徴である「♀(アンク)」である。「西洋占星術」では「♀」は「女性」であると同時に「金星」の記号である。「金星」とは「九星学(氣門遁甲の九星-八門・九宮-八神)」の「天柱-驚門・七赤金星-九地」の定位地(西・酉・白虎)である。類字の「ヒ(さじ・匙=箸)」ならば「箸墓(大市古墳)」に眠る「女王」である。コレ等が「現存・古事記」の何と関連しているか・・・「おんな(オンナ=音名)」であると云うコトである。

話しは「白石・柳宿」から随分ととんだが、「仙台市」から南下して順に「①仙台 Ⅱ村田 Ⅲ白石」であり、仙台を北上すれば  ①仙台  ②泉  ③大和  ④築館  ⑤若柳金成  ⑥一関  ⑦平泉前沢  ⑧水沢  である。⑥の「一関」は「杉田玄白・軫宿」の養子となった「杉田伯元」の出身地で、⑧の「水沢」は「高野長英・星宿」の出生地であった。「新井白石」を「漢字音」でヨメば「シンイ・ハクコク(把句虎句)」か、「シンセイ・ビャクコク(備耶句拠句)」等・・・と。そして、「新しい井の戸、白(いわく)、石(いし・いわ)」である。  私の云いたいことは「甲斐・甲府藩主」であり、後に「六代将軍」となった「徳川家宣(綱豊)」の幕臣となった「新井・白石=Ⅲ白石」と、「蘭学者」であり、「尚歯会」の「主宰者」であった「高野・長英=⑧水沢」が「地名・地理=輿」でつながっていると云うことだ・・・しかも「江戸城」を中心にしたならば「白石」は江戸城の「西の丸」で藩主と初めて謁見し、「シーボルト=鳴滝塾」門下の「高野長英」、「渡邊華山」、「小関三英」は江戸城の「西の丸・外堀」場外にあたる所に「三角形」を形成するように住んでいたのだ・・・彼らは「尚歯会」の主要メンバーであった。  「蛮社の獄」、事件の発端は「1828年8月・文政一年八月」、「シーボルト」が持ち出そうとしていた禁制の「日本国の地図(輿)」が発見されたことが原因である。トバッチリを受けたのは「天文方」の「高橋景保」で、連座、下獄し翌年の「1829年2月」に獄死したことである。彼の死体は「刑が満期」になるまで「塩漬け」にされ、「一族、家族」はすべて「処刑=赤族」されたらしい。  「高橋景保(作左衛門・子昌・蛮蕪・観巣)」の父親は「高橋至時(子春・梅軒・東岡)」で、「間重富」と「寛政暦」を作り、「1799年」には「伊能忠敬」を指導して「北陸・蝦夷地南岸」の「実測地図」を完成させた人物である。「高橋景保」も「伊能忠敬」を助けて「日本沿岸地図」の完成にあたり、自身は幕府の命によった「新訂万国全図」、「日本辺海略図」を作成したのだ。・・・「高橋家」は私の遠縁の親戚らしいのだが・・・「高橋虫麻呂」は「万葉歌人」で、「常陸地方に赴任したこともある下級官吏」であるらしいが「真間処女・菟原処女」や、「浦島太郎(日下の浦部)」の伝説をうたいあげた人物だが・・・因縁、あるとしたら、明里君、不思議だな。  「1828年11月」には「水野忠邦」が「西の丸老中」になっているがこの年は「大雨・大洪水の年」であった。  そして、彼ら「高野長英」、「渡邊華山」、「小関三英」は「蛮社の獄」に関連した、としていずれも「死」んだのである。  「夢物語」を著した「高野長英」は「天保十年五月・1839年」に捕らわれ、「永牢(十二月)」。その「七年後」、「弘化二年三月・年1845年」に江戸「伝馬町の牢獄」から逃亡、「嘉永元年四月・1848年」には「宇和島藩主・伊達宗城」にかくまわれて「蘭書」の翻訳。その逃亡「六年後」に江戸の「青山百人町」で町医者となって隠れていたところを発見され幕吏に「撲殺(嘉永三年十月三十日・1850年・四十七歳)」された。  「尾張渥美半島」の小藩、田原藩家老の「渡邊華山(登)」は「真機論」で「閉門蟄居(1839年12月)・切腹(天保十二年十月十一日・1841年)」。 「出羽庄内」出身で仙台藩医学館の講師で、「和泉岸和田城主・岡部家」の藩医となり、後に幕府の「司天台」の「漢方医」となって「耶蘇(キリスト)伝」を翻訳執筆した「小関三英」も「自殺(天保十年五月・1839年)」であった。しかも「三英」の主著には「拿烈翁(ナポレオン)伝」、「輿地誌」がある。  「蛮社の獄(1869年5月)」の前年(1868年)の「3月」には「徳川家斉」が居住していた江戸城の「西の丸」が「焼失」しているのである。  コレラ、三人と、「正徳の治」の立て役者、「折たく柴の記」、「三巻」を遺した「白石(1657~1725・明暦三年二月十日~享保十年五月十九日)」が結び付いているのは「偶然」ではない、「イト的な必然」であろう、と「私」は考えるのだが・・・  しかも「尾張藩・大須文庫」に存在(現在は名古屋市博物館)した、最古のモノと言われる「現存・古事記」の「作者」はこの「著書」に巧妙に「漢字(司馬遷の『史記』・旧約聖書の物語の人物名の音)=真名字=訓よみ・音よみ」を駆使して事件(蛮社の獄)を「葉隠れ」させ、更には「日本史の叛乱の歴史」を「邪馬台」~「現代(江戸幕末)」まで「重ねた」のだ・・・「オリタク・シバ(司馬・遷)ノキ」、「緒利他駆使罵廼記」・・・「尾の里の拓、史の場、之、キ(記紀)」・・・イカガ・・・?  「新井白石」が著作記録したハズの「史疑」には何が記録されていたのだろうか?・・・この「史疑」だけが「ワタシたち」の「左右の眼(目)」から「カクサレ」ているのだが・・・アルハズである・・・。  「強調文字」にしたところはすべて「音と訓」が重ねられて「現存・古事記」の「作者(?)」が読者に「シグナル」をおくっていると、私が考えているモノだが・・・その「真意」をあなたはどの様に考えるであろうか・・・「あそび(アソビ)」であろう・・・阿蘇尾(毘=へそ・毘娑門天は越後上杉家の旗)。  先ずは彼の系図を「日本の名著『新井白石』(中央公論社)」からあげてみると・・・                |・・正信(郡司)養子  |・・きよ(寄与)六歳                |     (軍治)    |                |           |                |・・まつ(沫)三歳未満  |・・明卿                |           |  |・ ・ ・・・邦孝                |・・よね(米)三歳未満  | 朝倉景長の娘                |           |  ・ ・                |・・てい(鵜)十九歳    |・・ます(鱒・桝・升)  勘解由某・・正済 |                |          |     |            |・ ・ ・・きち(貴地)三歳          |・・・・・ |・・・白石・六十九歳    |          |     |    |       |          |     |    |・ ・ ・・・・・・・ |・・三郎次郎・一歳         千代      |    |       |         (坂井氏)  |  朝倉長治の娘   |・・宣卿               |            |・ ・・やす(安)三歳                |・・まで(迄)十八歳    |・・むら(邑)二歳                            |・・べん(弁)  「白石」の「長兄」は「養子」であり、後に実家を継いで「軍治(郡司)」の「姓」を名乗った。・・・グンジである。  「白石」の「妻」は「朝倉(長治)氏」であり、子供の「明卿」の妻も「朝倉(景長)氏」の娘である。「家系図」にこだわった「白石」ならば「朝倉氏」とは「織田信長」に「姉川の戦(1570年・元亀一年)」で滅亡させられた「越前の一乗谷」城主の戦国大名「朝倉義景」や、「分国法(十七ヶ条)」の「朝倉敏景」を意識していたに違いないだろう。「朝倉」は「九州」にも、「四国愛媛」にもその「地名」は存在し、「愛媛」の方は「伯方」、「波方」、「今治」、「朝倉」とその地名の位置は示唆深く「三角形」になっているのだが、前述した「佐伯今毛人」と関連させて考えて欲しい。「朝倉氏」は「越前・日下部庄」での「下剋上」が始まりである。「日下」とは私の姓でもあるのだが、「古事記」では「押木(おしき)の玉葛(たまかつら=他真加柘・)」事件で、「坂本の臣(さかもと・はんほん・さかほん=嵯峨本・佐賀本・詐加本・茶菓本)」に騙され、ハメられ、挙げ句には「安康天皇」に滅ぼされ、妻「長田姫」を天皇に略奪された「大日下王」。その「大日下王」の「七歳の子供、眉輪王(目弱王)」が、「安康天皇」を暗殺し、「圓の臣(つぶらおみ)」の家に逃げ込み、「雄略天皇(小長谷・尾鷲)」に殺されてしまうのだ。しかも暗殺された天皇の後を継いだ「雄略天皇」は「大日下王」の妹である「日下王」を「后(妃=キサキ・ヒ)」としまうのだ。  「日下」の「姓」のヨミ方は「古事記・序文」では「玖沙訶(くさか)と謂い」、「名」の「帯」の「字」を「多羅斯(たらし)と謂う」と記録されている。これはいままで何度も私が云ってきたコトの繰り返しの指摘であるが、「日下」のヨミ方は、  ①「くさか(草加・句作化)」、  ②「ヒさか(久加・比作化)」、  ③「かさか(加佐賀・掛作加)」、  ④「くした(久下・句詞多)」、  ⑤「ヒした(肥下・比史多)」、  ⑥「かした(樫田・歌詞多)」、  ⑦「クげ(公家・句解)」、  ⑧「ヒゲ(卑下・比解)」、  ⑨「かゲ(影・陰・陰・化解)」、  ⑩「にちさか(日坂・似地作加)」、  ⑪「にちした(似知詞多)」、  ⑫「クした(駆使多)」、  ⑬「にちゲ(似治下)」、  ⑭「ジツさか(実佐賀)」、  ⑮「ジツした(字柘詞多)」、  ⑯「ジツげ(時柘解・字注・時告)」、  ⑰「ジッカ(実家・実科・事束)」、  ⑱「ビか(美化・備加・尾加・毘家)」、  ⑲「ビさか(鼻佐賀・備佐賀・薇沙香)」、  ⑳「ビした(毘下・鼻下・備下・尾下)」  等々・・・とヨメばヨメる。( )は私がイト的に充てた漢字であるがまだ無数に「他の漢字」を充てれる。一般的に私が他の人に自分の「名刺」を差し出すと、「ヒのシタさん・・・ヒのモトさんですか」とヨマれるのだが、ここは⑰の「ジッカ」とヨメることにも注目して欲しい。「実家」、「実科」である。  さて、「越前・若狭(わかさ)・小浜(おばま)」の出身者で有名な医者は「蘭学事始(八十三歳)」や「解体新書(ターヘル・アナトミア=クルムスの解剖学書・1774年・安永三年)」を翻訳著作した「杉田玄白」である。人名辞典には「十七、八歳の頃に幕府医官の『西玄哲』に外科を学んだ」とある。彼は「蘭学の祖」とも云われているのだが、「蘭学」とは「医学」のみを意味しない、当時の日本人が「鎖国の中」で、「長崎・出島」を窓口に「オランダ(ダッチ)語」を媒介にして学んだ「西洋の学問全般」を意味する。まさに「百科全書的学問」であり、「ラン学」と音を採れば、「卵學(メスの生殖細胞に関する学問・タマゴの細胞分裂に関する学問)」、「濫學(氾濫學・河川の治水に関する学問)」、「嵐學(台風・季節風・暴風に関する学問)」、「爛學(皮膚病に関する学問)」、「乱学(亂學・叛乱に関する学問)」である。文字通りの漢字の「蘭學」であるならば「植物学」に於ける「華の蘭(ふじばかま)の學」である。そして「欄學(書物・新聞・広告・記事の編集学問)」であり、「欄學(架橋の学問)」であり、「闌學(天文学)」で、「RUN學(走行・マラソン=魔羅尊の学問?)」である。  ダとするならば、「鎖国以後」の「蘭学者」とは「ウイリアム・アダムス(三浦案針)」を顧問にして彼から「西洋の知識全般」を学んだ「徳川家康(1542~1616・天文十一年十二月二十六日~元和二年四月十七日)」と云うことになるハズだ。さすが徳川三百年の基礎を築いた苦労人間で、「慎重な軍治家」で、「現実的な政治家」であった「家康」は「好奇心旺盛」で「博学多彩」な人物で、無類の「本草(薬草)学者」でもあった(?)ことは有名である。  そして時代は徳川「六代」将軍に仕えた「白石」こそがイタリア(伊太利亜)人、「シドッチ」と「千載一遇の好機」を有した「蘭学中興の祖」と言えるかも知れない。・・・「千載・一遇・之・好機」の「同音異字」の漢字を全て「漢和辞典」であなたは調べてみるべきである・・・「潜在・位地宮・廼・光輝」等々。  さて、「白石」の「家系図(TREE=十字架も意味している・トリィ=鳥居・ツリィ=釣り意・津里伊・柘理意)」に記録されている「名前」は何かを示唆してはいないか?・・・( )内の漢字は「女性、十人のナマエ」に私がイト的にあてたモノである。「・・歳」は死没の数字である。とにかく、ほとんどが「妖逝(若死)」しているのだが、昔は子供を産んでも「疫病」等で「一人前」に育てるのがいかに大変だったのかがわかる・・・さらにコレラの名前に「記録・文書・作文・書物」に関連させた「同音異字の漢字」や、「古代史に関連」させたモノを採ればドウナルのか?  まつ・・真柘(拓本)・・魔津・魔都・・・邪馬台  よね・・預音(音訓)・・余禰・与子・・・神武・壱余  てい・・綴 (文章)・・帝 ・鵜・底・・持統・猿田彦  まで・・真出(磨手)・・間出・魔出・・・間皇女・卑弥呼  きよ・・記余(序文)・・畿代・鬼与・・・磯城帝・卑弥呼、壱与  ます・・真素(事実)・・升 ・鱒 ・・・帥升・漁豢(漁巻=魏略)  きち・・既知(記紀)・・基地・貴地・・・新羅・鶏林  やす・・哉諏(諏訪)・・靖 ・夜須・・・安康・耶州・耶蘇・埜楚(記紀)  むら・・務・(詳細)・・武羅・牟羅・・・武帝・鵡帝                        邑・邨・群・軍                        郡・桑折・氷(日高)・元正  べん・・便 (弁解)・・部務・采・娩・・部務(部民)・皇極・斉明・経務  「古代歴史」のみならず、これに連続する「日本歴史」の各時代区分、そして「戦国時代」を「関ヶ原」、「冬、夏の大坂の陣」で終演させた「徳川家康」の「江戸開幕」までの事件と人間を・・・  これをサラに「江戸時代の事件」と、特に「蛮社の獄(天保十年五月・1839年)」や「大塩平八郎の乱(天保八年三月・1837年)」の事件を重ね、その事件に関わった「人間達」を見るのだが・・・「夢物語」の「高野長英」、「ナポレオン伝(拿烈翁傳)」、「耶蘇伝」の「小関三英」、「真機論」の「渡邊華山」等の「尚歯会」の「蘭学者」、そして彼らを弾圧した「水野忠邦」や「鳥居耀蔵」等の「幕閣」を・・・重ねていくのだが。  「新井白石」、彼の出生は、「武田勝頼」の侍大将であった「土屋右衛門尉昌恒」の子孫で、「天目山の戦い」によって武田家滅亡後、徳川家康に仕えた「土屋家」の家来であった人が「白石」の父親であった。「白石」は父親、五十七歳、母親、四十二歳の出生であったとは、先ずは「折りたく柴の記」である。世の子供達は「親の年齢」を気にする必要はないが、「白石」が「折りたく柴の記」で云っているように、「時代を踏まえ」ても、彼ら(親)の「生き方」を「キ」にするべきである。歴史好きならば、歴史上の人物の「生死没年」の「日本年号」、「西暦年号」、「寿命年」の「数字」は「キにする必要」がある。何故ならば、ワタシには余りにも、アマ理ニモ、アマ裏にも、漏りにも・・・「現存・古事記」と「日本史」には「全世界史」の「イト的な重なり」があるように思えるからだ。「カミのイト」なのか、「ヒトのイト」なのか判断はアナタの範疇(ハンチュウ)の枠内であるが、答えは「漢和辞典」の「カンジ」や「英語・オランダ語・ギリシャ、ラテン語・韓国語・古代エジプト、古代インド語」の「音」にあるハズだが、私が展開してきているのは「古代語・文字」と云うよりも、これらの「文字」が現在的に「発音・発声」されているところで考え、「推理」しているのだ。だが「数字」に関してはどのような「記号」が使われようともその「意味」するところは不偏である。  さて、「古事記」に関してだが、「白石」の「古史通」や、「古史通或問」には「正徳六年丙申三月上旬・筑後守・従五位下・源朝臣君美しるす(撰ぶ)」とあるから「1716年」のことである。この年の四月三十日に「第七代将軍・徳川家継」が「八歳」で死亡している。ダカラ年号は「正徳六年」と「享保元年」はダブッているのだ。  コレラを検討してみよう。確かに「古史通」や「古史通或問」には「日本書紀」や「古事記」のことが検討されているのだから間違いもなく、「日本書紀」や「古事記」は彼「白石」が生存していた時期には「現存のモノ(?)」が存在していたと思われる。特に私が問題にしている「現存・古事記」の「序文」も彼がこの「古史通」で記録しているのだから「序文」も存在したハズであるのだが・・・「漢字」は「イト的に改字」された・・・いや、漢和字典の「漢字の和訓をイト的に増やしたダケ」か?・・・あるいは「白石」が云っているように、ある人を「泥棒」であると思い込んでしまったら、サイゴ、彼の動作、行動、言語、言辞、態度等すべてが「泥棒」の様に見える、思える、と云う事かも知れない。「泥=水+尼(尸ヒ)」と「棒=木(十八)+奉(三人十一)」、これが「私の前提的立場」であるから「学問的」な、探求などとはおもわないでヨンでくれ・・・「アソビ」であるからサッ・・・「現存・古事記」作成の「年代的」な「学問的追求」ならなば、「大和岩雄氏」のモノでも読んでくれ。  「新井白石」の「『古史通』に於ける『読法』」を「私」が私流に「ヨン」だら「古志通・古詩通・越通・輿通・腰痛」の「解く方(法)・説く邦・説く豊・獨邦(ドイツ・独法・プロシア=普国)・疾く冒」となってしまうのだ。私も年で、長い時間、椅子に腰掛け「地図」ばかりミていると、「腰痛」がこたえるのだが・・・。江戸時代であり、「白石」自身が「ライバル批判」や「歴史上の人物批評、批判」はしているが、「書物ジタイ(日本書紀)の年号」がどのような「イト」で、その「時代の作者」によって「記録」されたのか、に対する「批判」が欠けているのは仕方がないだろう。彼が信じていたかどうかは知らないが、「古史通」に於ける「漢字・伝来・使用・時期」の「基準」は「日本書紀」の「紀年」である。「上古の天皇の年代」を「記録」したモノは「古事記」、「日本書紀」しかないのだから「仕方」がなかった。彼は、「漢字伝来の初めは『第十六代・応神天皇』で、百済の『阿直岐』が伝えた」、「漢字使用の初めは『第十八代・履中天皇』である」等と云い、しかも「『釈日本紀』には『上宮記』の『仮名(万葉仮名)』は『先代旧事本紀』以前にあった」と記述されているところを前提にし、「上古の日本人の漢字使用は漢字音を仮(かり)ただけのモノ(借音)」としているのだ・・・私の考え方は「万葉仮名(真名仮名)」は「借音」のみならず「意味としての漢字」も当然にも「混用して使用(記録)」したハズである、と云うことだ。使い方は古代エジプトの「ロセッタ石」の「神聖文字」の使用の仕方(意味自体の字と、音自体の字を混用して記録されている)と類字するが、「真名仮名」での「表意漢字」は「阿=阜+可」、「伊=人+尹」、「宇=宀+于」、「江=水+エ」、「緒=糸+者」の「偏・旁・冠・脚」に「分解された箇々の漢字の意味と結合」の「意味」である。「文字=意味の音」が「出発点」である。最初、アルファベットの一文字には意味(意音)があって、後、表音文字となったのだ・・・「白石」のこれって、「文献主義(文権・分権、分懸・分家武・文気霧主義)=亠+メ+南(ナ冂羊)+犬(一人ゝ)」?・・・私なら、『第十八代・履中天皇』は  「十八(壱拾八)」  「十(じゅう=重・たり=足・とお=徒緒)」  「八(は=葉・把・頗・はち=蜂・鉢・葉治・頗地・端地・やつ=奴・耶津)」  「履」=「リ・はく・はきもの(履物)・くつ(靴)・ふむ(踏む、践む)       ・ふみ(踏み、践み)」  「履」=尸+復(彳・日夂)=しかばね+もどる=屍の甦生・蘇生=キリスト                  =始耶馬禰 母土瑠                  =施連 尼母渡留                  =史家馬子に戻る(模採る)                  =詩歌葉根似茂土留                  =志賀場音にもとる                  =歯科罵音似基図留                  =試掛葉音似模図留          彳(テキ・チャク)       =左足・たたずむ・道路          ノ一(かんざし)       =櫛・髪挿し=神指し          日(ジツ・ニチ・ひ/いわく)          夂(チ・スイ・おくれる/ゆく)=両足・両脛(腱・髄・股)  で、コレラ(虎列刺)の同音異字はトリアエズ(砥理重図)、                     ↓                     磨涅  裏 (リ   =理・・・・・・・・・・・・《痢》)  剥 (はく  =白・把矩・葉苦・・・・・・《吐く》)  杷木(はき  =葉記・把記・破棄・覇気・・《剥ぐ》)  履物(はきもの=把記模廼・・・・・・・・・《萩の者》)  句柘(くつ  =沓・屈・窟・掘・躯柘・・・《具図・玖珠=薬師=医者》)  譜務(ふむ  =婦務・普武・府六・・・・・《腑六》)  文 (ふみ  =符診・府未・婦診・・・・・《腑診》)  である。そして、「履歴書=経歴書」、「履霜之戒=前兆をみて用心、警戒せよ」、「履端=暦の初め・正月元日」で、その全ての意味が懸けられていると考え、「中」も「チュウ・なか・うち・ぢゅう」で、「チュウ=註・注・柱・虫・丑・衷・沖・昼)」、「仲=次・弟」で「履」と「同様(ドウヨウ=動揺・童謡)=おなじさま(御名字差間)」にその意味が掛けられている「イミ名」と考えるのだ。「『第十六代・応神天皇』」も「阿直岐」も同じように考えるのだ・・・「壱拾六代」、「おうじん(横尋・邑訊・姶神・歐人・奥羽人)」等々、「あちき(阿地基・娃知記・阿時期)=蛙(月の虫)捗伎」等々・・・と  私も若い頃に友人と「論争」し、「そんなコトは彼の著書には書かれていない」等と、私が尊敬する「著者」=「記録されたモノ(本・著作)」=「真実・事実」であると浅はかにも「絶対視」していたコロがあった。「白石」が偉いのは「聖徳太子」も人間だからその「記録」したモノには間違いもあるのだ、と云っている、ところだ。だが、「太安萬侶」の「序文」に対して「批判」や「疑問」も呈せず「元明天皇(四十三代・四拾参・肆拾参)の勅命の立場」や「天武天皇(四十代・四拾・肆拾)の『緒家』に伝わる『帝紀』、『本辞』は既に真実と違い、多くの虚偽を加えている」と云う「立場」を「素直に解釈」しているだけだ。どんな「立場」であったのか、「仮に用いた漢字によって、異端荒謬の説が唱えられるようになった」からではない。「白石」も「読史余論」で「因果応報的」に「天武の血筋はわずか『七代』百年あまり玄孫、称徳天皇をもって断絶してしまった」と云っているように、彼は「叛(反)乱者」の「天皇」で、「支配者」であったのだ。そして、「白石」は「年代的」な「イト」も疑ってはいない。「記録自体」は「ある立場の人間」がするモノだ。「製本自体」は「本屋」がするモノである。「記録されたモノ(本)」は「読者」が「各々勝手な立場」で「ヨムもの」なのである。「ケンちゃん」が演じる「バカ殿さま」の勝手な読み方でイイのだ。私が「コンピュータ」で「占いのプログラム」を作ってヒトに見せると、「ああ、コンピュータ占いですか、あまり、コンピュータの占いは信じていないんですよ、所詮、機械ですから」等と言われる。逆の場合も「ああ、コンピュータ占いですか、じゃあ、正確で間違いはないんですよね」等とも云われる。「コンピュータ」はイマのトコロは単なる「道具」で、「コンピュータ」の中で機能する「プログラム」は私自身が造ったモノである。「コンピュータ」が結果として「正確」か「イカレポンチ」かは、私自身の「頭脳と作業の結果」にあるのだ。  それを、ドウ思おうと、アンタの勝手である。  それにしても「時代を超えて『新井白石』の歴史書に対する立場は偉い」のである。「疑問は疑問としておいとく」と云う立場である。そして日本語の文体は「本文」の「形容詞」として「発語」、「諷詞」、「枕詞」がある、と云っていることだ。「白石」の時代には「枕詞」と言う「言葉」が既にあったコトだ。だが「枕詞」の意味するところは「白石の枕詞」と私の考えとは違うのだ。それは、「本文を飾る単なる形容詞」ではない。だから「諷詞(ほのめかす・たとえる・諌める・告げる・空んじる・馬鹿の一つ覚えのように説く)」、「枕(軫)詞=ねる・みおろす・重なりあった死体・車(輪)の後部の横木」なのである。そして「諷詞」は「風刺」、「風姿」、「封詞」、「扶胡師」である。「枕詞」は「夢の言葉=お告げ=預言」、「沈思」、「沈死(溺死・水難死・海難死・海戦死・洪水死・津波死)」、「診死(死体検分)」、「朕死(珍死)」、「陳詞(陳列史)」、「鎮詞(鎮魂詞・偲び言)」、「砧詞(記奴侘・絹をなめす台・斬刑台)=イシの占いの言葉」。そして「乙女宮(からす座=烏座のギェナ=右の羽根・手)」の「軫宿の詞」である。原典には「物事を成すに風の如く疾く、緒宝物業を有す。州郡に遊歴。稟性は嫉妬。性は裏なり。病少なし。能く功徳を立て喜捨し、車上を愛す。遠行し、外国に向い象取り、象調、技術を学び、女を求め、衣裳を服着し南行するは吉」とある。「風林火山」である。これを意味通りに採ると同時に「仮名」にしてその「音」を「維持」し、「異字」に転換するのだ。  「軫宿の星(命)」には「小塚原で『女囚』の死体解剖を参観」した「杉田玄白(享保十八年九月十三日生・1733年~文化十四年四月十七日死・1817年)」がいるとは「宿曜占い」の「小峰有美子」氏の著書に記されていた。彼は「若狭小浜藩」の「典医」で、「通訳」の「西幸作」、「蘭医」の「バブル」を通じて「西洋医学」を究めていったのだ。彼の養子に「杉田伯元(宝暦十三年生・1763年~天保四年五月二十一日死・1833年」が存在した。彼は「文化六年」に翻訳した「オランダ地理書」を幕府に献上した。そして末っ子に「眼科医」の「杉田立卿(天明六年生・1786年~弘化二年十一月二日死・1845年)」が存在した。「メ医者」、「マナコの医者」であった。・・・「古事記・安康天皇」に登場するのは、暗殺された「日下王」とその子供「七歳」の「目弱王(眉輪王)」の仇討である。彼は「弱視」か「盲目」の子供だったから「天皇」の「諷詞(ほのめかす言葉・ヒソヒソ話し・しのび言)」にも「聴覚」が敏感であったのだ。・・・「杉田伯元」は『青地林宗』と共に幕府の翻訳係となった。・・・『青地林宗』の娘は「高野長英」の「妻」なのだ。  「まくらことば=真蔵言葉・磨句・言葉」が「麻倉言葉(朝倉子渡場=越前一乗谷)」なら「朝倉氏(景長)」は、「享保六年」に「白石」の息子「明卿」に娘を嫁がせた「婿筋」である。「白石」の娘「べん(宝永三年生)」は、「享保八年」に「書院番士」、「石谷清寅」に嫁いでいるのだ。  ギリシャ語で「ホ(ο)」は「男性定冠詞」で、「ブラキュス(βραχυs)」は「短い」であった。「ビオス(βιοs)」は「人生」であった。「ヘー(η)・デ(δε)・テクネー(τεχνη)」は「女性定冠詞(η)・接続詞、そして(δε)・芸術(τεχνη)」で、「マクラー(μακρα)」は「長い」であった。この「音」の漢字転換を試みて欲しい。  ・・・人の生(いのち)は短く、そして、芸術(技術・占術)は長し・・・が「白石」と「神学者」、「蘭学者」と「現存・古事記」を結ぶモノだ・・・

    音訓、同音異字の歴史的「五W・一H」の「カケ・年表」・(1)・(53)


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