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音訓、同音異字の歴史的「五W・一H」の「カケ・年表」・(1)・(53)


 五W=who・when・     where・what・ why =語+ダブリュウ       ↓   ↓        ↓    ↓     ↓        ↓↓↓ ↓↓       フウ  フエン     フェァ  ファワト  フワイ     拿分理 由↓       富得 赴遠      府江亜  扶阿波渡 負話意     妥武裏喩有       婦有 扶重武     埠江亜  訃吾話都 夫歪     雫部龍(劉)       ↓              ↓          ↓      ↓↓ ↓↓       ↓             バ          曲        ダブル       ↓              ゲメ         ↓         ↓  ↓       夫=斧(小野)     ↑↑         二重・重複   =double       父=釜(窯・蒲・臥真・蝦蟆・鎌)   泥水に突っ込む  =dabble       ↓    ↓ ↓ ↓↓ ↓↓ ↓     出彙諏意似津柘拠務  ↓ ↓       ↓    ヨウホ ガシンカマ レム                  ↓ ↓       ↓    容 保 臥薪 餓間 励務=松平容保?         ↓ ↓       フウ フエン      フェァ  ホワット    ホワイ→→→道楽・面白半分      ↓   ↓        ↓    ↓        ↓       封  不縁      宇重亜 保話柘図  保話意       風  赴燕      胡重亜 補倭津斗  補倭意       夫  婦縁      芋娃吾 蒲羽柘兎  浦話惟       楓  敷衍      雨恵蛙 捕琶柘徒  捕倭委       誰が 何時     何処で  何を      何故       ↓   ↓       ↓    ↓        ↓      (タレ)(イツ)   (ドコデ) (ナニヲ)  (ナゼ)=(ドオシテ)       ↓   ↓       ↓    ↓        ↓    ↓       足れ 壱・伍    奴姑出  名似男    名是   土押(推)して       垂れ 逸・乙    度弧出  拿尼苧    納世   努将史手  一H=how{ハウ=巴得・葉得・頗有・波得(浪得・並得)・生う      ↓        這・派得・琶得・葉得}=位置・エッチ(aitch)      ↓         aitch      ↓ a itch(英知・愛知・越地)      ↓        ↓↓↓↓↓   ↓ a・itch=掻く・痒い・渇望      ↓        ↓↓↓↓↓   ↓       かく=『郭-務宗』      ↓        ↓↓↓↓↓   ↓          =『塙-次郎』      ↓         ↓↓↓↓↓   真名  ich    =魚(まな)      ↓        ↓↓↓↓第八  漢字  eight   =8(葉知)      ↓         ↓↓↓第三 算纂山讃蚕 ait   =湖沼の小島      ↓         ↓↓↓           亜伊都 呼称(故章)故唐     どの様に      ↓↓第二十    漢字 age    =年歳    (ドノヨウニ)    ↓第九        音訓 edge   =刃・端      ↓        第一番目の   double-edge  =両刃・表裏      ↓ アルファベット                edh   =音標文字б      ↓      努之世胡似・・・努めよ、「之=故の例」、「胡似=西洋に相似」の世      努(女又力=音名・真詫・知可羅)      怒(女又心=音名・麻田・箇々賂)      ↓      奴乃輿有貳・・・奴(国)、「乃=州名和知」、「輿=地理」、太宰府      土埜与得尼・・・土(国)、「埜=鬼気壱拾壱」、与え、海女を得る      度之夜得迩・・・度数、之、夜の迩(璽・瓊)を得る      度廼輿得似・・・旅(度・  足袋)、地理、西から及んで、似るを得る                  ↓   ↓↓                他毘(比)↓ふくろ(付句賂・復路)=袋(題意・代位)                たい    あし(葦・芦・脚)=亜史・娃史・阿史                他意=台            蛙詞・亞施・雅支  マァ、「ハジメのH」は大変かも・・・  「5W」はギリシャ語では、  誰が      何時    何処で   何を    何故  ποιοs    ・ποτε    ・που   ・τι?   ・γιατι?  ピオス     ピオテ    プ      テ ヤ   ティ                      (ποιοs?)・(που)  「1H(how)」は、ギリシャ語で、  「どのように=πωs(ポス)」で、  「5W(英語)=5Π(ギリシャ語)」。  「5」は「πεντε(ペンデ)」で、  「5+Π(パイ)」。  数字の「1」は「εναs(エナス・男)」、  「μια(ミヤ・女)」、  「ενα(エナ・中性)」と区別され、  「5W=5Π(パイ)」と  「1H=1Π(パイ)」で、  「5W・1H」は、  ギリシャ語では  「6Π(パイ)」だ。  ・・・では「漢字」ではどうなるのか?・・・  スナワチ、  「Π(π・パイ)」は、漢字の類字、  「兀(ゴツ・ゴチ・コツ・たかい・はげる・あやうい」であり、  「あしきる=足切りの刑」  である。「几(キ・つくえ)」にも類似する  私のワープロには無い漢字だが、漢和辞典には「月+刀(リ)・足+月」とある。これを「式化」すれば、  ゴ(5)+兀(ゴツ・ゴチ・コツ         たかい・はげる・あやうい・あしきる)=足切りの刑  である。これらの「訓」の「一音」に「一字」を当てて考えて欲しい。  また、「Π(π・パイ)」は、漢字の類字、「几(キ・ひじかけ=肱掛、肘掛、菱懸け、日出加計、秘事懸け)」であり、「6Π(パイ)」は「六几=ろくき=むつき」で、「ろくき(録基・録記・録紀・漉紀・『肋規=月力夫見』)」は「むつき(睦月・陸奥記・陸奥鬼・武柘記・鵡柘記・矛晦氣・夢都鬼)」であるのだが・・・  「Π(π)」は「円の面責・体積」を求める時の「円周率=3・1416」だ。この数字を加算すると(3+1+4+1+6)=15=「壱拾五」で、「位置重語」・・・「遠州(エンシュウ)の里津(リツ)」とは「清水の次郎長」、配下の「森の石松」等の「渡世人」が居た・・・東海道(地方)である。もちろん、『徳川家康』の居た「静岡の駿府」が存在した。  さて、「Π(π)」の数字を掛けると(3×1×4×1×6)=72=「七拾弐」で、この数字は季節区分の「七十二候」である。  「五日=一候」であるから「72×5=360」の数字は「円周の360度」。  「十五日=三候=一氣」で、「72÷3=24」は「弐拾四氣」で、季節の「二十四節季」である。「360÷15=24」。だが、「一年=365日」で、「5日」が「アマル(余る)」のだが・・・「ゴヒ(呉妃=『西施』・語意・語彙・悟異)がアマ(海女・尼・亜真・剰)る」のである。  「ニジュウシキ=『二重史記』・二重式・二重死期・二重始期・二重色・二重敷・二重識」である。  「六候(5×6=30)=二氣(2×15=30)=一月=睦月」である。  スナワチ、「72=七十二=七拾弐(シチジュウニ)=史地重尼(似・貳=太宰府)=ななじゅうに=那名重爾=七重似=拿名重似」で、「7+2=9」である。もちろん始まりは「中国の九州」と「日本の九州」の「九=9」なのだ。その中心は「中原(中元・忠言)」であり、「中津(名賀津・那賀津・那珂津・長津)」である「阿蘇山頂」である。陥没した「阿蘇山・カルデラ」の「内輪・外輪・噴火口」の形は「女性の股間」に隠れているモノだ・・・  「9」と「6」は「巴(巳)」の「勾玉の形」で、「蛙の子」の「おたまじゃくし=北斗七星」の形である。「999」の逆字は「悪魔の666」で、「ダミアン」・・・「円」に納まれば「巴紋」である。・・・ミズ、エンにシタガウ・・・「随円」であり、「隋苑」とは「隋王朝、文帝の第二子、『煬帝』が造った江蘇省江都の西北区の『上林苑』、『西苑』」のことである。  「楕=隋(タ・ダ・スイ・ズイ)」、「隨=随(ズイ・スイ)」の「漢字」を詳細に調べてほしいのだが・・・さて、私の云いたいコトがわかってくれるカナ?  「6パイ」とは女性が「3人」ではあるが・・・失礼・・・。  「かけ・カケ」の同音異字は「カケ」と「カ・ケ」であるから多数、その組合せが考えられる。「カゲ」、「カ・ゲ」、「ガケ」、「ガ・ケ」、「ガ・ゲ」と濁音を加えて増せば、サラにである。  「掛=手圭卜」、  「懸け=県系心」、  「嫁家=女家ウ豕」、  「加家=カ口ウ豕」、  「迦祁=加辷示邑」、  「駆け=馬区」、  「架け=加木」、  「駈け=馬丘」で、  「加計(かけ)」を「カケイ」とヨムならば、  「家計=家系=家兄=加経=火刑=筧(竹見)=樋(木通)」となり、  「書け=聿日」、「描け=手苗」、「欠け=勹人」、「掻け=手蚤」で、  「化家」は「国際的な各時代の諸権力者の変化」であると同時に、  基本的には「華家」は「中国王朝」の  「賭(貝者=目人十一ノ日=海者)」である。  「目=眼=『女』」を踏まえて・・・ネッ。  もちろん、「十字架」にハリツケ(桀架・張り付け)られたのは「イエス・クリスト」と、彼に「殉教」した「切支丹・耶楚・耶蘇・邪蘇」教徒である。  とにかく、以上を踏まえて「現存・古事記」と私の「カケ・世界年表」にある「五W」と「一H」のすべての「同音異字漢字」を当てて、「現存・古事記」の意味するところと、この「古事記」を書いた作者の「時代的日本史」の状況を推理し、考えてホシイのだが・・・。  参考にした「年表」は「世界史年表・地図(吉川弘文館・発行・1997年四月一日)」である。   西暦  紀元前   3000~・・・・・ギリシャ文明に関して  ・ ヘラディック・キクラデス  ・・・・ ミノワ・クレタ  ・ ミケーネ  ・ クノッソス宮殿  ・ テッサリア・エオリア・ドーリア  ・ イオニア(ドデカポリス)  ・ スパルタ  ・ アテナ(アシナ)  ・ ホメロス(イリアス・オデッセイア  ・ アガメムノン  ・ アキレス  ・ ヘシオドス  ・ オリンピア  ・ アミクレ  ・ メッセニア戦争  ・ イソップ寓話  ・ アルキロコス  ・ メガラ(トラキア)  ・ ペロポネソス  ・  ・    ローマ文明に関して  ・ エトルリア人  ・ ナクソス・シラクサ・ヒメラ  ・ セリヌンテ・マッシリア・カプア  ・ ドラコン法  ・  ・ トロヤ文明に関して  ・ アラチャ・ヒュユクの王墓  ・ アリシャル二世  ・  ・ エジプト文明に関して  ・ メネス王(ナルメル)  ・ メンフィス  ・ ゾゼール  ・ クフ  ・ ケフレ  ・ メンカウレ(ミケリヌス)  ・ ギゼー  ・ テーベ  ・ ヌビア  ・ アメネムヘット三世  ・ ヒクソス人  ・ ツトメス三世  ・ カルナック(アモン神)  ・ アメンホテプ四世(イクナトン)  ・ アマルナ  ・ アケトアテン首都  ・ ハッチ戦争  ・ ツタンカーメン  ・ ラムセス二世  ・ モーゼ(BC1230)  ・ ラムセス三世  ・ タニス首都  ・ シェシェンク一世  ・ バブスチス首都  ・ ヌビア人  ・ ナバタ首都  ・  ・ エチオピア王朝に関して  ・ ピアンキ一世  ・ クッシート人  ・ タハルカ  ・ プサメティク一世  ・ アッシリア人  ・ ナウクラチス市  ・ ネコ二世  ・ カルケミッシュの戦  ・ ネブカドネザル王  ・  ・ ヒッタイト王国に関して  ・ アニッタス  ・ クスサル首都  ・ ラバルナス  ・ ハッツサス首都  ・ トロヤ戦争(BC1200)  ・ ヘレン  ・ 木馬  ・  ・ フリギア王国に関して  ・ トラキア人  ・ キベレ信仰  ・  ・ リディア王国に関して  ・ キンメリア人  ・ ギゲス  ・ サルデス首都  ・ メルムナード王朝  ・  ・ シリア王国に関して  ・ フェニキア  ・ ミタン人  ・ シドン市  ・ アラム人  ・ チルス王  ・ アラヒム一世  ・ アッシリア  ・ カルタゴ  ・ キレネの戦  ・ ニネヴェ  ・  ・ バビロニア王国に関して  ・ バビロン  ・ ハムラビ法  ・ カッシート人  ・ ムルシュリス一世  ・ ネブカドネザル一世  ・ エラム人  ・ マルドウバラトシュイグビ  ・ ナボポラッサル  ・  ・ ミタンニ王国に関して  ・ フルリ人  ・  ・ アッシリア王国に関して  ・ アッシュル・ウバリト一世  ・ サルマナッサル一世  ・ ダマスクス  ・ ウラルツ  ・ アダニ・ニラリ三世  ・ セミラミス  ・ チグリス  ・ チグラトピレゼル三世  ・ サルゴン二世  ・ センナヘリブ  ・ ニネヴェ首都  ・ アッサルハッドン  ・ アッシュルバニバル  ・  ・ ヘブライ王国に関して  ・ モーゼ  ・ サウル  ・ ダビド王  ・ ソロモン王  ・ ユダ・イスラエル  ・ ヨラム  ・ アタリア  ・ アハブ  ・ アハズ  ・ エヒウ  ・ ホセア  ・ イザヤ  ・ ヨシア  ・ エレミア  ・  ・ メディア王国に関して  ・ キャクサレス  ・ アルメニア  ・ スキタイ人  ・ ゾロアスター  ・  ・ 中国文明に関して  ・ 夏  ・ 桀王  ・  ・ 殷=商  ・ 湯王  ・ 安陽  ・ 盤庚  ・ 紂王(帝辛)  ・  ・ 周  ・ 武王  ・  ・ インダス文明に関して  ・ ハラッパ  ・ モヘンジョダロ  ・ アーリアン  ・ バーラタ戦争  ・ リグ・ヴェーダ  ・ ガンジス  ・ バラモン(ヒンドゥ教)  ・ カースト  ・  540~491・・・・・・・・・ゴウタマ・シッダルタ(釈迦)  ↓  463~383(一説)  ↓  ↓  この間の「現存・古事記」の作者が知り得たすべての「世界史を網羅」  ↓  ↓ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ↓ ・コレラの「片仮名」を「同音異字」で当てて診る・  ↓ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ↓ ・・・・・・・・・・・・  紀元 元年十二月二十五日・・・・・イエス・クリスト誕生  ↓                ・紀元前六年(一説)・その他の年も

・ ・・・・・・・・・・・・  ・  「骨時期(白骨になる死没の時期)」は「火葬の時期」で、「仮装・仮想・家相・下層」の「ジキ」だから・・・

      「新井白石」と「古事記」・(2)・(54x)      音訓、同音異字の歴史的「五W・一H」の「カケ・年表」   日本史=「中国文献」、「高句麗碑文」で知り得る記録     ・    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    ↓    057・・・・・・・・・・・倭委奴国王、後漢の光武帝から金印    ↓          (ワイヌ=アイヌ国王?)  ・ 107・・・・・・・・・・・倭国王、帥升、安帝に「生口」を献  ・ 146・・・・・・・・・・・邪馬台国、女王、卑弥呼が立つ  ・ 220・・・・・・・・・・・後漢滅亡、「魏呉蜀」の「三国時代」  ・ 239・・六  月・・・卑弥呼、帯方郡に使者    ↑    十二月・・・親魏倭王の位を魏の明帝から賜う    ↓  ・ 240・・・・・・・・・・・帯方郡大守の使者が倭国に来る  ・ 243・・・・・・・・・・・卑弥呼が再度使者を送る。狗奴国と不  ・             不和・和、内乱・卑弥呼死没  ・ 265・・・・・・・・・・・「魏」滅亡、「西晉」が興る  ・ 266・・・・・・・・・・・倭の女王、壱与が「晉」に朝献  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・ 316・・・・・・・・・・・・「西晉」滅亡、「五胡十六ヵ国時代」  ・ 391・・・・・・・・・・・・「広開土王(好太王)」碑文に「倭」  ・                 が百残(百済)、任那、新羅に派兵  ・ 399・・・・・・・・・・・・百済と倭が同盟、高句麗に敵対  ・ 400・・・・・・・・・・・・高句麗が新羅を救援、倭が撤退  ・ 404・・・・・・・・・・・・倭、帯方郡の故地に侵入  ・ 413・・・・・・・・・・・・倭王、「東晉」の「安帝」に朝献  ・ 421・・・・・・・・・・・・倭王讃、「宋」の「武帝」に修貢  ・ 425・・・・・・・・・・・・倭王讃、「司馬曹達」を「宋」に派遣  ・                 し、「表」を奉じ、「方物」を献じる  ・ 430・・・・・・・・・・・・同上  ・ 438・・・・・・・・・・・・「讃」王が死没。弟の「珍」が立つ  ・ 443・・・・・・・・・・・・「済」が使者を「宋」の「文帝」に派  ・                 遣し「安東将軍倭国王」の位を賜う  ・ 451・・・・・・・・・・・・「済」が「宋」より「特持節都督・倭  ・              新羅・任羅・加羅・秦韓・慕韓六国  ・              諸軍事」を加授される  ・ 460・・・・・・・・・・・・倭王、「宋」の「孝武帝」に使者、貢  ・ 462・・三月・・・・・・・「済」王死没。世子の「興」が「宋」  ・              の「孝武帝」に使者、「安東将軍倭国  ・              王」の爵号を賜う  ・ 476・・・・・・・・・・・・「西ローマ帝国」滅亡  ・ 477・・・・・・・・・・・・倭王、「宋」の「順帝」に使者、貢  ・ 478・・・・・・・・・・・・「興」王死没。弟、「武」が立つ。使  ・                 者を「宋」に派遣し「上表」する  ・ 479・・・・・・・・・・・・「武」王が「南斉」の「高帝」より「  ・                 鎮東大将軍」を授けられる  ・ 502・・・・・・・・・・・・「武」王、「梁」の「武帝」から「征  ・                 東将軍」の号を賜う  ・ 527・・・・・・・・・・・・筑紫国造・「磐井」、「火・豊」の国  ・                 で反乱  ・ 529・十一月・・・・・・・・筑紫国造・「磐井」、筑紫御井で斬  ・ 607・・ 七月・・・・・・・・小野妹子が「遣随使」  ・ 608・・ 四月・・・・・・・・小野妹子が随使「裴世清」を伴って帰  ・                 国する  ・       九月・・・・・・・・再度、小野妹子が「遣随使」となって  ・                 「随」に航る  ・ 614・・ 六月・・・・・・・・犬上御田鍬が「遣随使」  ・ 615・・ 七月・・・・・・・・犬上御田鍬、帰国  ・ 618・・・・・・・・・・・・・・「随」滅亡  ・ 630・・ 八月・・・・・・・・犬上御田鍬が「遣唐使」  ・ 632・・ 八月・・・・・・・・犬上御田鍬が「唐使」、「高表仁」を  ・                 伴って帰国  ・ 645・・ 六月・・・・・・・・「大化改新」  ・ 647・十二月・・・・・・・・新羅の「金春秋」を人質とする  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・ 660(唐号は嗣聖七年)・『庚寅・(周号は載初・天授)元年』、  ・ ↓             『則天武后』が即位し、「唐」を「周」とする。  ・ 663・・八月・・・・・・・・「倭」、「白江村の海戦」で「唐  ・ ・               新羅」連合軍に敗北  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・  ・ これらの「歴史的事件の裏=真実」が「源・古事記」に懸けられている  ・  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・ ↓  ・ 664・・五月・・・・・・・・「唐」の「百済鎮将」の『劉仁願』  ・                「朝散大夫」の『郭務宗』が「倭」  ・                に来朝(龍朔三年)。唐(周)の総  ・               司令官は『劉仁軌』。十二月『郭務  ・               宗』が帰国。  ・               660(嗣聖七年・『庚寅・(周号  ・                載初・天授)一年』)~705の間  ・                「唐(周)」の女帝は『則天武后』  ・                で、「四十五年間」の時世。  ・ 665・・九月・・・・・・・・「唐使」、「朝散大夫沂州司馬上柱  ・               國」の『劉徳高』、「百済将軍朝散  ・               上柱國」の『郭務宗』が九月来朝、  ・               十二月帰国。『郭務宗』の帰国は不  ・               明。  ・                『守大石』を唐に派遣  ・ 668・・一月・・・・・・・・「天智天皇」が即位(天地七年)  ・      二月・・・・・・・・「大海人皇子」が「皇太弟」となる  ・669・十二月・・・・・・・・『郭務宗』等、二千餘人が来朝  ・670・・ 一月・・・・・・・・唐の『李守眞』等が来朝。七月帰国  ・671・・ 十月・・・・・・・・「大海人皇子」が出家して「吉野」  ・    十一月・・・・・・・・『郭務宗』、「送使」の『沙宅孫登・  ・                』等、二千人、船「四十七隻」にて  ・               「比智嶋」に停泊。「四拾七?」  ・    十二月・・・・・・・・『天智天皇(天命開別天皇)』死没  ・672・・六月・・・・・・・・「壬申の乱」  ・673・・二月・・・・・・・・『大海人皇子』が即位して『天武天  ・↑             皇』となる  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・  ・  この上の事件は「日本書紀」に記録されているモノだが、「日本書紀」  ・ は、「事件」は「記録」したが、ここに「登場する人物」の「実体」は、  ・ 「中国・唐」の「高宗」の皇后となって実権を握り、皇帝の死後、「唐」  ・ の国号を『周』とし、新しい『漢字』まで創作した『則天武后』とその配  ・ 下の将軍、『劉仁軌』、さらには「倭国」に派遣された『郭務宗』等の「  ・ 占領政策・策謀」企画として、それに従った「中臣・藤原」一族、「倭人  ・ 官僚=『舎人親王』」達による「書物」なのだ。「中臣=忠臣(蔵)?」  ・  操られたのは  ・ 「持統天皇=『ウ(盧+鳥・鵜)・野讃良』=胡廼沙羅=得之纂・=有埜産  ・ 羅=宇篦叉羅」で、「兎乃算裸」は「菟(うさぎ)=日下の免」と「鮫(  ・ さめ)=魚が交わる」で、「有・詐欺」から「醒め・冷め・覚め」よ、の  ・ 示唆として、「いみな(諱)」に「漢字」の  ・ 『ウ(盧+鳥・鵜)野讃良』を当てたのだ。  ・  『ウ(盧+鳥・鵜=弟+鳥)・野讃良』を分解すれば  ・ 「盧」、「鳥」、「里」、「予」、「言」、「賛」、「良」  ・ 「弟」、「鳥」である。「おと」、「とり」=「ダイ」、「チョウ」  ・ ここは「盧生之夢」の「盧」を調べろ、である。  ・  それ故に「日本書紀」には「不可解」な「記録」が伏線として記録され  ・ ているのである。  ・  幕末の水戸藩に『鵜飼吉左衛門』なる「欽皇派」の人物が存在し、『間  ・ 部詮勝』に逮捕(安政五年)された事件があり、「後醍醐天皇」が「笠置  ・ 」を落ちて「隠岐」に流される時に救出しょうとした人物に『児島高徳(  ・ 本姓が三宅・通称、備後三郎)なる人物が存在したらしいのだが・・・  ・   「源・古事記」があったとすれば、その「真実」を「漢字音訓の裏」に  ・ 隠して記録したものなのである。もちろん、「同音異字漢字」に託した、  ・ と云うことに尽きるのだ。  ・  日本人=倭人としての「天武天皇」は存在しなかったのである。  ・ 多分、「天武天皇」なる人物は  ・ 『郭務宗』が「オモテ」の人物で、『則天武后』が「ウラ」のヒトであ  ・ る。天武天皇の漢字が記されている「木簡」が出土したらしいが。  ・ ここは『郭・務・宗』の漢字、特に『郭』を調べたし。  ・  だが、この「手法」は後代の「記録するモノ」にも伝統として遺された  ・ のだ。それは「写経(写巻・記録の書き写し)」する度に、その時代の権  ・ 力者への「批判」を込めて「漢字を選択」し、選択した「漢字」の「訓よ  ・ み」を増やし、その「訓」に「裏の意味」を託していったのである。  ・  その託されたモノは基本的には「漢和辞典の中の説明文と訓よみ」にで  ・ ある。『虎の巻』とは「兵法書」と一般的に考えられているが、基本的に  ・ は「辞書・辞典」である。「歴史の虎の巻」とは、スナワチ、「漢和辞典  ・ のことなのだ。そして、この「歴史の虎の巻」を補足するモノが「モノガ  ・ タリ」なのである。  ・ 物部氏=蘇我氏の「モノ述べ」、「我ヨミガエル」の意味を考えるべきである。  ・ 滅びたモノの事件はダレが語り述べ、記録するのかを。  ・ 「物語」をカタル人物は「盲目の琵琶法師」と謂われる人々である。  ・ スナワチ、「虎の巻」が「平家物語」の「平報(方・法)書」である  ・ ことも謂うをマタナイであろう。・・・アンマさんが鍵を握ったのだ。  ・ ・・・「メクラのアンマ」さんが「鍵=key=キイ=「記意・紀伊・  ・ 貴意・姫移・鬼意・飢意・氣意・期意」と『希彙=ギリシャ語の語彙』の  ・ 「基意・来意」の「几(キ・つくえ・柘句重)意=『Π・π・パイ』の軌  ・ 移の「貴意=円周率」を握ったのだ。「メクラ」が「歴史的概念」で、そ  ・ の「最高位」は「倹佼」であった。  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・  ・↓・勅令711年       ・ ・・太安磨侶(タイアンマリョ)  ・↓・(和銅四年九月十八日)  ・・・    ↓↓↓↓↓↓↓  ・ ・    712・「源・古事記」 ・       ↓↓↓↓↓↓↓  ・ ・(和銅五年・正月 廿八 日 )・     台↓按↓摩侶(旅)  ・ ・・↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓ ・    ↓↓↓↓↓↓  ・ ・話同呉撚 証臥柘重葉置似知・・・・・・・他意編武間慮  ・ ・倭同語捌                 ・ 鯛  案 眞虜  ・ ・和同互斗支・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 対  案 魔呂  ・ ・頗動護渡示・和=数・銅=亜掛化音     台 編 真絽  ・ ・把道後合歓・7+1+2=十(壱拾・位置重)載 鞍 真慮  ・ ・・・・・・・  ・  さて、歴史の材料を「西暦712年」以前の「世界史」を漁(あさ)っ  ・ た人物が存在し、その「歴史的物語」を「古事記」に重ねたハズだが、少  ・ なくてもこの「世界史」を作者に教えた人物は「日本人」ではないであろ  ・ う。  ・  「盲目の偉人」と云えば「天平勝宝・三年(754年)一月」に、『大  ・ 伴古麻呂』とともに来朝した人物で、難破、遭難を繰り返し苦難の末に日  ・ 本に渡来し、「律宗」を伝え、「砂糖」をもたらし、「天平宝字・三年(  ・ 759年)八月」に「唐招提寺」を創建した『鑑真』である。  ・  「鑑」は「かがみ(鏡・香我美)」と読み、「大今水増(だいこんみず  ・ ます)」と暗記した「歴史書」は「・・・鑑(かがみ)」である。「真=  ・ 十目一ハ」、あるいは「眞=ヒ目・ハ」は、「真田幸村」の「さな」であ  ・ り、「まこと」とヨムのだ。「かがみモノ」は「日本の歴史」を「物語風  ・ に記録展開させているモノである。どの様な時代の「歴史の記録者」も必  ・ 然的に「歴史の原点・始点」、「時間の原点・始点」、「出発点」、「は  ・ じまり」を意識せざるを得ないのだ。それが、「中国=中華」の歴史書に  ・ 記録された「倭委奴国」、「帥升」であり、そして「邪馬台国」であり、  ・ 「卑弥呼・壱与」なのである。  ・  そして、江戸時代には「かがみモノ」と云えば「甲陽軍鑑」である。  ・  私には『鑑真』の日本渡来への「執念」が「何」であったのか知る由も  ・ ないが、『鑑真』が「日本」を意識した時、当然のこと、「日本=倭」と  ・ は「何」であろうか、と考え、その「ハジマリ」は「ナニ」であろうか、  ・ と考えたであろうことは想像するに難くない。思慮深い「インテリゲンチ  ・ ャ」は「コトの原因」を極めたがり、その「原因」が事実として判らなく  ・ ても、「理屈の可能性」として「・・・に違いない」と「推量としての結  ・ 論」を出すのだが、その弟子達は「・・・だ」、「・・・である」と断定  ・ 断言してしまうのだ。「エピゴーネン(重比強合歓)とはよく、云ったモ  ・ ンだ、と思うが・・・「倭」とは「アイヌ(倭委奴)の人々?」である。  ・  彼、『鑑真』の寺自体の名前が「唐招提寺」であり、彼が生きて存在し  ・ た以前的時代の「世界史」に通じていたのは明白だとは思うが、同時に彼  ・ の「名前」と「事績」を「後代の歴史好きな人物」が意識的に、イト的に  ・ 「現存・古事記」の中に「同音異字」として潜り込ました可能性が大でも  ・ ある。「伊都」、「意図」、「異図」、「糸」の「冖(ベキ・わ)」で編  ・ む、である。  ・  ・・・時の天皇は「孝謙女帝」であり、その側近は「道鏡(道教)」で  ・ あった。「コウケン」の同音異字は「効験」、「高検」、「公権」、「高  ・ 検」、「貢献」、「後見」である。「孝=十一ノ一了」で、「謙=言兼」  ・ である。推して知るべし、である。  ・  「孝謙女帝」の血筋とは『則天武后』につながるのではないのか(?)  ・ コレが彼女が「暗殺されるカモ」の原因の一つではないのか・・・「唐王  ・ 朝」は「新羅」に存在した「女帝」の退位と、その支配者を「唐の一族で  ・ ある男」に交代することを要求した。「新羅」はこの要求を退け、独立国  ・ としての「新羅女帝の主権」を護り、「唐」への妥協策として「新羅王朝  ・ 血縁の女性」を「唐」に腰入れさせたのだ。その後の「新羅」の「武烈王  ・ (金春秋)」即位は対「唐」としての名目的なモノではなかったのか?・  ・ ・・「白江村の海戦」敗北後の「倭国」は「ドウシタ」であろうか?・・  ・ ・「妥協」したのだ、「唐」と・・・だが「新羅」とは違う妥協の仕方で  ・ ある・・・スナワチ、「倭の主権」は「唐(周)」の『則天武后』に操ら  ・ れるモノとなったのに違いないのだ。その「証拠物件」が「日本書紀」そ  ・ のものなのだ。「証人」となるべき人物は「宝亀元年(770年)一月」  ・ 「唐」で死没(七十歳)した『阿部仲磨呂』であったハズだ。  ・  ・・・何故なら『孝謙女帝』は『阿部(あべ)』と記録されているから  ・ である。そして「草壁皇子」の妃であった『元明女帝』も『阿閇(あべ)  ・ であった。「斎明女帝・七年」生まれ、「慶雲四年七月即位」、「養老五  ・ 年十二月死没。在位「九年」・・・これは何を意味するのか?  ・  ・・・「姓名学」の研究者が「草壁」は「異国の王」とされている根拠  ・ はナニか?・・・江戸時代の「備後・福山藩・阿部家」の江戸城の詰所が  ・ 『帝鑑間』であった。これは「天皇に関する記録・書庫の部屋」であろう  ・ か?・・・さらに「陸奥・棚倉藩・阿部家」の詰所は「雁間」で、「大彦  ・ 命」の子孫と自称しているらしいのだが・・・事実か(?)。  ・  「あべ」は「随書・・国傳(伝)」に記録されている『阿毎』の王様で  ・ はないのか?・・・「唐王朝」と「随王朝」は血縁関係にあった。  ・ ・『孝謙女帝』は七夕祭りを最初に行った人物であり、「天武天皇」以前  ・ の歴史と、その後の「日本書紀」の「謎」を背負った人物でもあったハズ  ・ だ。そして、その系統・家系は「暗殺」されるカモ知れない「宿命」を自  ・ 覚していた、知っていた人物に違いないのだ。事実はどうなのか・・・「  ・ 天武・持統」系の菩提供養は「女帝死後」、ズーット疎外されているのだ  ・ が、理由は『龍・劉・笠・流』、『郭』の血統だから・・デワないのか?  ・  『鑑真』が「唐招提寺」を創建したこの年「天平宝字・三年(759年  ・ 八月」には「万葉集(萬葉集)」が『大伴家持』によって編纂されもした  ・ のだ。もちろん、一般的には「万葉仮名」と呼ばれている「漢字」で記録  ・ されているモノである。そのヨミカタには「学者・研究者」も手を焼いて  ・ いるシロモノだ。理由は「真名=漢字」でヨマないからである。  ・  『大伴古麻呂』と云えば、「750年」に「遣唐副使」として大使の「  ・ 藤原清河」と共に唐に渡り、「753年」に唐の朝廷で、「新羅」と「席  ・ 次」を争った人物であった。  ・  とにかく、「源・古事記」が存在していたとするならば、その裏には上  ・ 述した「世界史」と「古代日本史」が隠されていたのに違いない。  ・  もちろん、「日本書紀」にはあらゆる「文字伎(ギ・わざ・わさ=技・  ・ 業)」が駆使されたて「別な歴史」が隠されているのだ・・・話作だ。  ・  さて、それ以後の「日本史」に於いてはドウナノか?・・・もちろん、  ・ 「権力の策謀の罠にはまった人物」の「側近」はこの「記録の手法を駆使  ・ したのだ。理由は云うまでもなくその時点での「時代的状況の真実(?)  ・ ・事実(?)」を「記録者・書き写した者の立場」で、彼にとって「不合  ・ 理な表の記録」の「裏」に託したかったからだ・・・  ・

     音訓、同音異字の歴史的「五W・一H」の「カケ・年表」・(3)・(54y)  ・  ・ 「古事記(712年)」以後の、「日本書紀(720年)」以後の「日  ・ 本史」は「書き写(寫)されて残されたモノ」である。ワレワレが目にす  ・ る「カミ」に「カカレ」た「ムカシ」の「モノ」の殆どは「書き写(寫)  ・ されて残されてきたモノ」なのだ。  ・ 「大同二年(807年)二月」には『斎部広成』が「古語拾遺」を撰上  ・ した。既にこの時点で、「記録されたムカシの言葉の意味が判らなくなっ  ・ ていた」のだ。  ・ 問題にしたいのは「記録→『書き寫し』→記録→『書き寫し』」する人  ・ 物の「立場」である。  ・ 『卜部兼方』が「文永十年(1273年)」に「古事記裏書」、翌年の  ・ 「文永十一年(1274年)」に「釈日本紀」を撰している。  ・ 「日本書紀」は「弘安九年(1286年)」に「吉田本・日本書紀・神  ・ 代巻」が完成と歴史年表にあるから「異本」が複数あるのだ。  ・ 「現存・古事記」の最古のモノは『北朝年号』の「応安五年(1372  ・ 年)」の『賢瑜』の「『書き寫し』た古事記」である。彼の時代的背景は  ・ この本文の「序」に既に述べたが、「応安五年」は『北朝・年号』であり  ・ 、『南朝・年号』では「文中一年」である。「文中・一撚(捌)」だ。  ・  この前年の「応安四年(1371年・南朝の年号で建徳二年)」には『  ・ 小島法師(?)』の「太平記」完成である。この(?)は「古問・故読・  ・ 古唐・孤島・湖東・姑頭・胡訪・誇藤・虎渡卯」で、「こじま=児島=小  ・ 嶋」は「虎の縞」なのだ。   ↓  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・応安五年(1372年)・・・「賢瑜」の「『書き寫し』た古事記」・  ・・文中一年(1372年)・・・同上    「安に応じるゴネン(御念・語撚)」    「文の中のイチネン(一念・位置撚)」    とは「巫山戯」てはいないか?  ・・・しかも「1+3+7+2=13=壱拾参=位置拾う纂   ↓  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ↓  ・  ・ 当然にも「賢瑜」の「『書き寫し』た古事記」には「南北朝の対立」が  ・ その「漢字の中=同音異字漢字」に反映されているのだ。  ・ この「1372年」以後はドウナノか?・・・「バテレン」の日本渡来の  ・時期から過去を振り返ったのだ。スナワチ、室町時代末期に渡来した「南蛮  ・(西洋)人の視点」から「古事記」、「日本書紀」を観たのだ。当然にも「  ・日本の『神々』の存在」が「彼ら『切支丹の神』」と比較され、研究された  ・ハズである。同時に彼らは「イソップ物語」も印刷出版しているから「ギリ  ・シャ神話の『神々(カミガミ)』」との比較に於ても「日本の『神々』」を  ・研究したハズ・・・だが(?)。  ・ 時代は「応仁の乱」を経て「戦国時代」に突入していくのだ。将軍は「足  ・利家」であるが、その実権は「下剋上」によった「陪臣・臣下」の時代であ  ・る。  ・ 戦国時代が終演に向かうのは「織田信長」の登場、「豊臣秀吉」の「天下  ・平定」、「慶長五年(1600年)九月」の「関ヶ原の戦い」での「徳川家  ・康」への権力移行、そして、「大阪冬の陣(慶長十九年・1614年・十一  ・月)・夏の陣(元和一年・1615年・五月)」での権力の確立であった。  ・ このプロセスは「鎖国」への道であり、「慶長十七年(1612年)」に  ・は日本全国に駐在した宣教師は「二百五十人」も存在し、時の権力者に「重  ・宝」がられた「南蛮人=切支丹」にとっては、この年の「三月」、「岡本大  ・八」の「火刑」を皮切りに「寛永十五年(1638年)二月」の「島原・天  ・草の乱(天草四郎時貞=益田四郎の乱)」を区切りとするまで「弾圧」への  ・プロセスの「序曲」でもあったのだ。  ・  ・ ・・・だが「隠れ切支丹」は存在し続けたのだ・・・「現存・古事記」の  ・存在価値は彼らにとっての「同音異字漢字」を前提とした「隠れバイブル」  ・ではなかったのか・・・『魔鏡』と云うモノも・・・  ・  ・ 「慶長十八年(1613年)三月」には『神龍院梵舜』が徳川家康に『続  ・日本紀』を贈っている。「八月」にはイギリスの使節「ジョン・セーリス」  ・が家康に駿府で謁見してイギリス国王『ジェームズ一世』の書簡をわたした  ・との記録がある。翌年の「慶長十九年(1614年)」には全面的に「切支  ・丹禁令」を施行したのだ。このイギリスの使節以前には「1600年」に既  ・にイギリス人『ウィリアム・アダムス(三浦按針)』が渡来していた。  ・「彼の名前」は一体ナニを示唆しているのか?これを考えない歴史家は「歴  ・史の科人(罪人)」であるカナ(?)。  ・ 「寛永七年(1630年)七月」には『山田長正』が「シャム国(タイ)  ・の「六昆」で毒殺されているが、この年の年表には「漢字訳のキリシタン関  ・係書籍の輸入禁止」と記録されている。・・・「漢字訳の聖書」が存在した  ・のだ・・・何処かに保存されてあるのか、無いのか、私は現物を見たことが  ・ないが、現在台湾在住の梶田真莉子さんが贈って下さった「漢字・英訳の聖  ・書」を数冊持っているが、当時の「漢字訳聖書」とはかなりの隔たりがある  ・かも知れない。・・・が、そう、違ったところは無いであろう。  ・ 「正保一年(1644年)」には「オランダ風説書」が提出され、『林羅  ・山』が「本朝編年録」を編纂した。  ・ 「幕藩体制」の確立で「日本の歴史」を顧みる機運は水戸藩の『徳川光圀  ・であった。「明暦一年(1655年)」に「修学院離宮」の造営がはじまり  ・翌年の「明暦三年二月」には「大日本史」の編纂が始められたのだ。この年  ・は「明暦の大火」と云われる江戸の大火事があった。  ・ 「寛文十二年(1671年)」に『徳川光圀』は「史局」を「彰考館」と  ・名付けたらしいが、この「同音異字」は「私曲・支局」で、「ショウコウ・  ・カン」の意味するところは「小康・商港・消光・焼香・症候・昇降・将校・  ・商工・章項・照勾・嘗頁・照后・升稿・・・・・」等で、誰の入れ知恵なの  ・か、「お笑い草」である。  ・ 「貞享一年(1684年)二月」に『竹本義太夫』が大阪道頓堀に『竹本  ・座』を創始。「六月」には『井原西鶴』が『一日一夜・二万参千五百句を独  ・吟』した。  ・ 「元禄六年(1693年)十二月」は注目すべき人物、『新井白石』が『  ・甲斐』の『徳川綱豊(家宣)』の「侍講」となった年である。  ・ 「元禄十五年(1702年)三月」に『新井白石』が『藩翰譜』を幕府へ  ・提出。「十二月」にはご存じ、『忠臣蔵・四十七士の吉良邸への討入』であ  ・った。「吉良家」とのトラブルの原因が「塩(鹽・鹵・潮・汐・しほ)」に  ・あったなら、まさに「シホ(史保・詞補・支舗・志保)」である。  ・ 「志保・志雄」とは誰であったのか?・・「忠臣蔵」の『大石内蔵助』、  ・「魏志」の『曹操』か、あるいは「『イ』国の人物」、『伊太利』の人物?  ・ 「宝永五年(1708年)八月」、イタリア人宣教師『シドッチ』が「大  ・隅国・屋久島」に「密入国」したのだ。翌年の「宝永六年(1709年)十  ・一月」から『新井白石』は彼を尋問するのだが。ここは、この『新井白石』  ・に関しては彼の「事績」や「著書」を本文中に記したので、本文を参考にし  ・て欲しい。  ・ 「享保三年(1718年)」には将軍『徳川吉宗』が江戸城に「測天儀」  ・を設立した。「享保五年(1720年)十月」には水戸家が「大日本史・2  ・50巻」を幕府に献上した。  ・ 「享保十年(1724年)五月」に『新井白石』が「六拾九」歳で死亡。  ・ 「69(六九・六十九=6+9=一五・十五・壱拾五)」とは「エロチッ  ・ク」だが、「69」とは「蟹(かに)座」のマークである。「蟹=解+虫(中  ・・ム」である。『新井白石』は城中で「鬼」とも仇名された人物だった。  ・ 「享保九年(1723年)(歴史読本日本人物総覧・新人物往来者)」、  ・あるいは「享保十一年(1725年)6月(中央公論・歴史年表)」に『中  ・井竹山』が大坂に『懐徳堂』を創立した。  ・ 『三宅石庵』は初代学主であり、この『懐徳堂』に参加していたのが・・  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・ その『三宅』の血筋(?)、「西医略論」の著者『三宅艮斎』の子供『三  ・宅復一(秀)』16歳が「1864年4月4日(元治元年2月28日)」の  ・エジプトスフインクスを背景に写真を撮っているのだ。  ・彼は明治3年10月に「東京大学」の「中教授」になっている。そして明治  ・21年に日本での初めての「医学博士」の称号を得た人物でもあった。  ・江戸時代の  ・「三宅奇斎」・「大日本史」編纂の「彰考館」総裁  ・「三宅尚斎」・山崎闇斎門下。武蔵忍藩「阿部氏」に仕えたが「禁獄3年」  ・「三宅観瀾」・「懐徳堂」初代塾頭  ・「三宅薫庵」・「種痘術」を成功させた  ・「三宅瓶斎」・「砲術師範」。著書に「北越七奇考」、「国語律呂考」  ・そして明治の「三宅雪嶺」  ・コレラの「三宅」姓の人物はナニを示唆しているのか?・・・調べよ、である  ・ ・ 「延享一年(1744年)」に江戸神田に「天文台」の設置。「出雲  ・ ・大社本殿」の完成。  ・ ・   ↓ ・・・・・・・・・  ・・・・『富永仲基』・・・・「延享三年(1746年)死没   ↓ ・・・・・・・・  ・  ・である。『富永仲基(とみなが・なかもと)』は「1715年~46年」  ・に生存した人物で、大坂の商家に生まれた。著書に「説蔽」があるが現存  ・しない。仏教研究の「出定後語」は「1745年」に刊行されている。こ  ・れはこの本文の「ホトケと古事記」で若干触れた。「1746年」には「  ・翁の文」を刊行し注目された。「道の道」と云う倫理思想は彼の生きた時  ・代に望んだ考え方であった。「大乗仏教」は「釈迦の説では無い」とも主  ・張し、「中国仏教の教相判釈が間違いである」ことを主張した。  ・ 「延享三年(1746年)」の死亡の原因は明かではないが「暗殺」さ  ・れた可能性が強い。注目してもらいたいのは彼の名前が『富永仲基(とみ  ・なが・なかもと)』であることだ。そして著書の「翁の文」である。「富  ・永仲基(府営衷本・符衛注記)=登美・名臥・那珂模徒」、「翁の文」は  ・「将記名の富美(登美比古=ながすね比古)」である。  ・ 「宝暦五年(1755年)」に熊本藩、『熊本藩校』として『時習館』  ・を創立(一体、何を教えるのが目的であったのか『時・習・館』)。  ・ 「寛延一年(1748年)八月」に「仮名手本忠臣蔵」が「大坂竹本座  ・で初演。『谷川士清』が「日本書紀通証」を刊行。  ・ 「明和三年(1766年)」、『竹本半二』、『本朝二十四孝』を大坂  ・「竹本座」で初演。  ・ 「安永四年(1775年)三月」、『長久保赤水』、『日本輿地路程全  ・図』を完成。  ・ 「安永七年(1778年)」、『本居宣長』、『古事記傳・上巻』を刊  ・行。  ・ 「天明七年(1787年)十二月」、『本居宣長』の『玉くしげ』完成  ・ 「寛政五年(1793年)七月」、『塙保己一』が『和学講談所』を設  ・立。  ・ 「寛政十年(1798年)六月」、『本居宣長』の『古事記傳』完成。  ・ 「寛政十一年(1793年)六月」、『中井竹山』、『逸史』を幕府に  ・献上。  ・ 「享和一年(1801年)九月」、『本居宣長(72歳)』死亡。  ・ 「文化一年(1804年)二月」、『中井竹山(75歳)』死亡。  ・  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・ 「文化一年(1804年)」、『奥州水沢』で『高野長英』誕生・  ・ ・幼名「悦三郎」、「譲」、号「瑞槹(ズイコウ)」、後藤氏の出。・  ・ ・『十七歳』で江戸に出、『蘭学』を修め『文政八年』長崎に遊学。・  ・ ・『シーボルト』の『鳴滝熟』に学。『天保四年』、江戸で『尚歯会・  ・ ・を起こし、蘭書の翻訳普及に勤める。『天保九年』の『モリソン』・  ・ ・号渡来風説に『夢物語』を執筆。『天保十年』の『蕃社の獄』に連・  ・ ・座。『弘化一年』、獄舎の火事にて逃亡。『宇和島』をはじめ各所・  ・ ・に隠れて訳述に専念。顔を薬品で焼き『沢(澤)三伯』と称し、江・  ・ ・戸青山で開業中に捕吏に囲まれて「自刃」。著書に『蕃社遭厄小記・  ・ ・ 「嘉永三年(1850年)10月」が彼の「自刃」した年月だ。・  ・ ・著書に『蕃社遭厄』がある。『渡辺華山』、『小関三英』も自刃。・  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・ 「文化十一年(1814年)九月」、『滝沢馬琴』の『南総里見八犬傳  ・』刊行。  ・ 「文政二年(1819年)」、『塙保己一』の『群書類従正編』を刊行  ・ 「文政四年(1821年)七月」、『伊能忠敬』の『大日本沿海輿地全  ・図』を完成。  ・ 「文政九年(1827年)十二月」、『岩垣松苗』の『国史略』。  ・ 「文政十年(1827年)五月」、『頼山陽』の『日本外史』。  ・  ・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ↓・ ・・・・・・・・・  ・「天保一年(1830年)」、長州長門東松本村で・『吉田松陰』・・   ↓誕生。通称『寅次郎』と呼ばれた。 ・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・ ・・・・・・・・・  ・ 「天保八年(1837年)二~三月」、・『大塩平八郎』・、大坂で幕  ・府に対して『反乱』。 ・・・・・・・・・  ・  ・ 「天保十三年(1843年)六月」、絵草紙等の出版統制、人情本の禁  ・止。『為永春水・柳亭種彦』が処罰。「七月」、『柳亭種彦(六十歳)』  ・死没。翻訳書の出版物を町奉行の許可制とする。   ↓  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・「文久一年(1861年)」、『宇佐八幡宮』造営。・   ↓ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・  ・ 「弘化一年(1844年)一月」、『天保暦』の使用。「二月」、『間  ・ 宮林蔵(七十)』死没。「三月」、フランス船、琉球に来航。  ・  ・  「嘉永一年(1848年)」、『本木昌造』等が「鉛活字」をオランダ  ・ から購入。  ・  「嘉永三年(1850年)三月」、幕府、『佐久間象山』の「荷蘭(オ  ・ ランダ)語彙」の出版を禁止。「九月」、無許可の舶載洋書の訳書売買を  ・ 禁止する。 ・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・「壱拾月」、・『高野長英(47歳)』・の「自刃」。  ・ ・・・・・・・・・・・・・  ・  「嘉永四年(1851年)三月」、『和気清麻呂』に「護王大明神」の  ・ 称号、「正一位」を追贈。  ・  「安政六年(1859年)」、『村上英俊』の「仏蘭西詞林」刊行。  ・  ・ ・・・・・・・・・・・・・  ・・『吉田松陰(30歳)』・が「壱拾月」、江戸で刑死(安政の大獄)。  ・ ・・・・・・・・・・・・・  ・  ・  「万延一年(1860年)一月」、『咸臨丸』、「浦賀」からアメリカ  ・ へ出帆。「五月」帰港。   ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・ 「文久一年(1861年)十二月」、 ・  ・  遣欧使節、『武内保徳』、『松平康直』等、イギリス軍艦「オージン・  ・ 号」に乗船、品川から出発。「三月」に『ナポレオン三世』に謁見。・  ・ ・ ・  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・  ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・ 「文久二年(1862年)九月」、幕府、オランダに留学生を派遣・  ・。『榎本武揚』、『津田真道』、『西周』等。 ・  ・ ・・・・・・・ ・  ・ 「壱拾弐月」・・・・・・『塙次郎』・「廃帝史実」調査の疑いで・  ・尊皇攘夷派に暗殺される。・・・・・・・ ・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   「江戸時代の末期」から過去を振り返って診るとどうなるか?  「歴史」を考察する方法論は「現在の時点」から「過去のある時点」への時間を遡る「認識論」である。そして、「歴史を記録展開」するには「過去のある時点」を出発点とした「現在の時点」までのプロセスとしての「歴史的存在論」である。もちろん、歴史を叙述、記録する人間の立場としての時代的背景を背負った「価値観・世界観=主観」が前提的に存在する。  一般的に図式化すれば、     ① 記録者の立場(価値観=モノの見方、考え方)     ↓     ② 現時点から「ある時点」へ過去的に遡る       歴史的事件の「事実」としての確認       「五W」として        誰が、何時、何処で、何を、どおした        歴史的事件の分析        何故・・・その原因の理由は?        諸状況の関係と、        事件を背負った人々の行動を規定している        「考え方」と「心理的・感情的」な        「推理・推測・類推」・・・「歴史を診る主観的」立場        「一H」として        歴史的事件の記録展開     ③ 過去の「ある時点=出発点」から       「②」を踏まえ、プロセスを経て現在まで戻る     ④ 記録展開・・・「記録者の価値観」を踏まえた     ⑤ 「歴史的な叙述」  で、あろう。  この方法を踏まえても、尚かつ、「現存・古事記」の記録者はどのような「方法」をその記録に展開したかったのか?  ・・・確かに『本居宜長』は「安永七年(1778年)」に、『古事記傳・上巻』を刊行しているのであるから彼は資料としての「現存・古事記」に「類するモノ」を手にしていたのは事実であろう・・・が「712年のモノ」ではないであろう。  ここに展開した「カケ・年表」を観て、すでに気が付いている貴方には云うまでもないであろうが、「歴史的時間」としての「日本年号・西暦年号」と「月」の「1(壱)・2(貳)・3(參)・4(肆)・5(伍)・6(陸)・7(漆)・8(捌)・9(玖・仇)・0(零)・10(十・廿・拾・足・プラス)・20(念・廿)」の『数字の複数の訓み』と『意味』に於て共通項があり、『同音がカケラレテ』おり、そして『呉音・漢音・唐音としての複数の同音異字』、「歴史的人物」の「名前(姓名・字・雅号・師号・諡号・諱)」、「出生、死没年月日」、「事績」、「著作の題名(タイトル)」、「場所(地理・輿)」等が、『天文学(宿曜経・紫微斗・淵海子平・鬼門遁甲=方位学・西洋占星術)』の「二十八星宿・108足・目盛・九宮・十二座宮・星座」が納まる「円球=天球・天体」の「定位置と動的位置」、そして、それらの「配置関係(幾何学的図形)」等の「全ての規矩」としての「言葉」を基盤として『同音・共通項』が『懸られて』いるのだ。モチロン、「倫敦」、「ロンドン」、「龍動」はイギリスの「ロンドン」で、「論呑」である。  「主要な時代」は「天智天皇」、「天武天皇」と「持統天皇」であり、「大化改新(645年六月)」、「白村江の戦い(663年八月)」から「壬申の乱(672年六月)」である。特に「伏線」が懸けられているのは「甲斐の武田(甲陽軍鑑)」である。そして「府(フ)」は日本に幾つあるのか「太宰府」、「別府」、「駿府」、「甲府」等、地方の「国府」が置かれた場所だ。  そして、さらに云うまでもなく「古事記」に記録された「漢字」そのものの『同音異字』と、「訓(日本語読みをした『コ・ト・バの一音一字』)」としての『共通項』である。  「何故か(?)」・・・「記録者」の「記録時点の時代的権力機構」を「過去の歴史」に重ねて「批判」したかったのだ。もちろん、「言論の弾圧」を免れる為の「方法・方便・仕方」としての「記録作法」に則ったのだ。  ・・・マァ、どんな「記録文書」も「漢字」でカカレテいる限り、アテハマルのだが・・・ネっ。 「盲目(めくら)」になってしまった「歴史的な人物」は「オトの世界」だけがタヨリだが、死ぬ間際まで「嫁」に自分の「口述小説」を「記録」させたのが『滝沢馬琴』である。「嘉永壱年(1848年)壱拾壱月」の死没であった。「学者」は「メアキ」、「メキキ」でも「カンジ」がヨメなくてはカケないワケだ。  深刻に考えなくてもイイのだ・・・タンなる「コジキ」で、「乞時期(水蒸気となって乾く時期)」で、「骨時期(白骨になる死没の時期)」は「火葬の時期」で、「仮装・仮想・家相・下層」の「ジキ」だから・・・

     「現存・古事記」と江戸時代の知識人・「蛮社のコジキ」・(1)・(55)

 ・ ・・・・・・・・・・・・  ・  「骨時期(白骨になる死没の時期)」は「火葬の時期」で、「仮装・仮想・家相・下層」の「ジキ」だから・・・


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