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「現存・古事記」と江戸時代の知識人・「蛮社のコジキ」・(2)・(55x) 「ヤン・ヨー(ウ)ステン=(耶楊子)」


 「ヤン・ヨー(ウ)ステン=(耶楊子)」  英国人の彼の名前は現在の東京「八重洲口」にとどめている。  Jan・Joosten・Lodnsteyn(1557?~1623)。  オランダ人船員。日本では「耶楊子」と云われた。デルフト市の名家の出。  オランダ船「リーフデ号(Liefde)」で「1600年(慶長五年四月)」にW・アダムス等とともに豊後に来着。以来、日本に留まり江戸や長崎に宅地を賜り、幕府の渉外事項の諮問に応じてオランダ、イギリス両国人が平戸に商館を開設後、貿易を斡旋し、また自ら「朱印状」を受けて「シャム」、「パタニ」、「交止」、「カンボジャア」、「トンキン」などに商船を派遣。後年、幕閣の信頼を失い、帰国の許可を「東インド総督」に請い、許されて「1622年6月」に一旦、バタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、結局、目的(帰国)を達成することができず、翌年、日本に帰国する途中、乗船がプラセル(Pracel)の浅瀬で難破して水死(溺死)した。  「三浦案針」も、「耶楊子」も、ここでは彼らの名前に使用している「漢字」に注目してもらいたい。「三・浦・案・針」、「耶・楊・子」である。もちろん、「カタカナ」の名前と同時に「英語の発音」も、「 」にククった「文字」のすべてを「漢和辞典」で調べて欲しい。  「徳川光圀」  「大日本史」を編纂。「水戸黄門」、号は「梅里」として知られている。 彼も別なところで既に説明したが、彼の名前に使用されている「圀」は、「唐」の国号を「周」とした「則天武后」が造った「新漢字の一つ」である。「徳川光圀」が何故、この「圀」を名前に使用したのか、その「事情」を明かにするコトは現在的に無理であるが、私の説で推理するならば「徳川・松平」は「天武天皇」の「血筋(?)」を意識しているからに違いない。スナワチ、「天武天皇」とは「則天武后」の血筋であることを「知っていた」か、「吹き込まれた」かのどちらかである。吹き込んだのは「漢学者」で影響力を有した「ハヤシ(林=木木=キキ)」かも・・・あるいは当時、日本に帰化した中国人の「隠元」、「朱舜水」かも。「徳川光圀」は「1657年(明歴三年)2月」に「大日本史編纂」を開始した。この年の正月に「林羅山」が死没しているのだが。  「新井白石」  とっても、怪しいのだが・・・密入獄したイタリア(伊太利亜)人宣教師、「シドッチ」を尋問。「古事記」の「かみがみ」の名前は「訓の音」こそが要であると指摘した人物である。彼の著作である「西洋紀聞」にはイタリアは漢字訳では「意太里亜」、「意多禮亜」と言うと記録している。しかもこの「西洋紀聞」には彼が「シドッチ」から聞き及んだ「世界的な地図、地理(輿・アトラス)」の地名、国名が「漢字とカタカナ」で記録されている。  彼が江戸城内の幕閣から「鬼」と「あだな」されたことは別項で述べた。  「富永仲基」  暗殺されたらしいのだが・・・彼の名前は「とみなが・なかもと」と読むのだが「トミのナガ・ナカのモト」で、「フエイ・チュウキ」なら「府営注記」で、「譜(附)英・注記」である・・・これは「英語の注記」であるハズだが・・・「イングルシュ・エングルシュ」である。  「尾藤二州」  彼は「西暦1745年生~1813年死没」の間の人物で、江戸時代の「朱子学者」であった。名前は「孝肇」、字は「志尹」、通称は「良佐」、『二州』、『約山』と号した。伊豫の国(愛媛県)川江に生まれ、父は船を操る人と言う。スナワチ、「船頭」である。五歳で足を病み、病弱であった。大阪に出て「片山北海」について、いわゆる「復古学」を学んだが同学の「頼春水」から「程朱の学」をすすめられ、これを「孔孟(もう)の正脈」とした。「懐徳堂」の「中井竹山」、「履軒」と親交した。「寛政の聖堂」付きの儒者となり、二百石を与えられた。「紫野栗山」、「古賀精里」と同僚となり、「寛政の三博士」、または「三助」と称された。  「朱子学アカデミズム」を代表する一人で、著書には「素餐録」、「正学指掌」、「称謂私言」、「論孟講旨」、「靜寄軒文集」等がある。  「本居宣長」  「古事記」の解釈は彼によって明らかにされたもの。「古事記伝」を著作。 彼の「説」に惑わされては「現存・古事記」は見えないし、「歌の心」もミエはしないのだ。  「高野長英」  彼の消息を詳しく知っている人物が「現存・古事記」の「改作者」かもしれない・・・。  長崎でプロシャ(プロイッセン)人の「シーボルト」に師事した蘭学者。  「蛮社の獄」で老中「水野忠邦」の配下の「鳥居耀蔵」によって獄につながれ、  牢獄に放火し逃亡。  逃亡生活でかっての「蘭学者」仲間によってかくまわれて援助された。  逃亡の途中、生国の「陸奥」で「実母」と再会を果たした。  宇和島・伊達藩主の誘いに依って当地にて隠遁するが発覚。  その後、江戸に潜入し、「顔面」を「薬品で焼き」、町医者として開業。  幕吏に発覚、殺害される。  「関孝和」の周辺  彼にとっては「数学の問題」である。私にとっては「関・孝・和」の名前と、「スウガク」、「ス・ウガク」、「スウ・ガク」、「スウガ・ク」、「ス・ウ・ガ・ク」、「スウ(吸・雛・崇・枢・趨・嵩)ガク」で、特に「素得賀句」の「問題」であるのだが。  百科事典から彼に関するモノ、「数学者」を抜粋すると、  中国の「元」の「朱世傑」の「算学啓蒙(1299)=天元術(未知数Xを天元の一と云った)」が日本で復刻(1658)され、これを参考にした高等数学(高次方程式)を「沢口一之」が「古今算法記」として著(1671)した。これは「未知数の指数、X」が「整数」に限られた。  「関孝和(?~1708)」は「発微算法(1678)」を著して「立方根」の問題も解答した。 彼の門弟「建部賢弘(1664~1739)」が「発微算法演段諺解」を緒して「関孝和」の「方程式」をさらに明確な「式」とした。  「数学」は既に奈良時代以前に中国から伝えられ、「大学」で教えられていた。平安末期から鎌倉、室町時代には「かけ算の九九」は「一般人が暗記」せねばならない「必須の常識」であった。  「算盤(そろばん)」が輸入され、その計算法を著したのが「毛利重能」の「割算書(1622)」であった。彼の門弟「吉田光由(1598~1672)」が中国の明の「程大位」の「算法総宗(1593)」を参考にした「塵劫記」がある。  と記述されている。数学の問題集としては、  「榎並和澄」の「参両禄(1653)」  「初坂重春」の「円方四巻記(1657)」  「山田正重」の「改算記(1659)」  「磯村吉徳」の「算法欠疑抄(1661)」  「佐藤正興」の「算法根源記(1666)」  がある。  「和算」は「赤(正数)」と「黒(負数)」の「算木」を使用し、記録するときには「黒(負数)」の算木の形に「斜めの線」を書き加えた。  記録しながら「代数計算」する「筆算」は「点竄術」と云われ、文字の使用によって「係数計算」が出来た。「行列式」は「伏代」と呼ばれた。  関孝和の教科書にある例題  一つの直線上に互いに接した二つの「円」が載っている。「大円」の「直径」は「9寸」、「小円」の直径は「4寸」。二つのの円が直線に接した「点の間」の距離を「子」としたとき、この「子の長さ」を求めよ。  答え・・・「子」は「6寸」  解・・・・「子」を未知数とすると、  (大/2)ー(小/2)=勾(鉤・こう)  「勾・股・弦(玄)」は「直角三角形の3辺」で、        「直角を挟む長いほうの一辺」が「股」で、        その部分が「子」である。        「2乗」すると       {(大/2)ー(小/2)}=勾       {(大×大)/4}ー{(2×大×小)/4}+(小×小/4)       =勾(こう)×勾       {(大/2)+(小/2)}=玄(弦・げん)       {(大×大)/4}ー{(2×大×小)/4}+小×小/4+(子×子)       =玄(げん)×玄  「ピタゴラスの定理」       (玄×玄)=(勾×勾)+(子×子)       {(大×大)/4}-{(2×大×小)/4}+小×小/4+(子×子)        -{(大×大)/4}-{(2×大×小)/4}+小×小/4       ={玄(げん)×玄}-{勾(こう)×勾}       =空数=0       子=√大×小=√9×4=6          「巾」はベキ(乗)で、          「冪(ベキ)=冖+幕(艸日大巾)」の略である。          この「冪」の「漢字」に注目されたし  「和算」は図形を「代数」的に使用した。「円や多角形」を接触させる問題を「容術」と呼び、複雑な問題も解きあかした。  もし、江戸時代の「和算」学者が「古代の塚」と「漢籍」に記録された「前方後円墳」や、「方墳」、「円墳」に興味を持ったならその「形態」の「大きさ」、「高さ」、「長さ」、「勾配」、「容積」を「計算」し、「数字」を明らかにするに違いない。特に「前方後円」は「平面図」が「円形」に「二等辺三角形」が突き刺さっている「形」、あるいは「円(璽・玉)」が「台の上」に載せられた「形」である。周壕は「円形」と「長方台形」の組合せで、「アーチ形」だ。この図形は「銅鐸」の形でもある。「側面図」は「沓(靴)形」にも見える。  私の興味はここでも「 」にククッた「漢字」の「同音異字」であり、「同音維持」、「字形異字」である。  「前方後圓(円)墳」がいつから使用された「概念」なのかは勉強不足だが、「全方向円分」である。「二等辺三角形」は「似唐編纂較経」となるのだが・・・そして「円形」は「延の継」、「縁の系」である。  算学者の「毛利重能」の門弟、「今村知商」は「賢亥録(1639)」の著作者で、それには「円弧」を求める問題がある。同じような問題は「塵劫記」にも記録されているらしい。「円の計算」は「関孝和」がその端緒をつくったが、門弟の「建部賢弘」は円弧の長さを「無限級数」で求め、「円理」と呼んだ。さらに門弟の「松永良弼(1694~1718)」は「方円算経(1739)」で円計算を説明した。  他に「久留島義太(?~1757)」、「山路主住(1704~72)」が存在し、山路の門弟に「筑後・久留米藩主・有馬頼童(1714~83)」がいて「点竄術」を説明した「拾幾算法」を著した。これに続いて「藤田貞資(1734~1807)」が「精要算法(1781)」を著した。藤田の友人の「安島直円(1724~98)」は「不朽算法(1799)」を著して「円弧の長さを求めるのに弦を等分し、等分点を通って平行線を引き、その弦を等分する数を無限にする方法」を考えた。「会田安明(1747~1817)」は「最上流」をたてて「算法天生法指南(1810)」を著した。同じ年に「坂部広半(1768~1824)」は「算法点竄指南録」を出版した。「長谷川寛(1782~1838)」も「算法新書(1830)」を出版した。  私の親類筋(?)の「日下誠(1764~1839)」は「長谷川」の師匠で、藤田の門弟であった。「日下」の門弟の「和田寧(1787~1840)」は「円理計算」の表を作成した。さらに「日下」の門弟には「内田五観(1805~82)」が存在した。  どの部分が「現存・古事記」の「漢字」と重なるか興味のあるヒトは検討して見てほしいのだが・・・例えば、  関 「孝和」・・・・「関(カン・せき)」は「不和の関」、「関ヶ原」で、            「孝和(コウワ・たかかづ)」は「講和・講話・興和」            で、「関講和・籍交話・世記講話」。「十一の子の和」  日下 「誠」・・・・「日下」は「日下王・若日下王・草壁皇子」で、「誠(            セイ・まこと)=言成」。「日の一の卜」  長谷川「寛」・・・・「長谷(チョウコク・はせ・ながたに)・川(セン・か            わ)」は「長谷部皇子(雄略天皇)」  とか。モチロン、「円周」は「○」であると同時に「遠州・燕州・猿州・圓州・演習」で、「円周率」は「π(Π)=パイ」で、漢字の「几」や「兀」であるとして「古事記・日本書紀」や、通説の「日本史・世界史」に重ねてみるのだが、「江戸時代の現在の事件」をも重ねて推理してみるのだ。  不思議であった・・・私に関してだが、百科辞典を調べた次の日に「大須観音」の南門の横(本殿南東方向)の交番前の古本屋で「小野寺公二」氏の「算学武士道(文芸春秋1989年発行)」をみつけて、200円で買ったのだが・・・人間心理の葛藤描写が面白かった・・・タンタンと乾いた語りだが、「思うようにはイカナイ人生」、「カイリする心情の表裏」、「サン額にカケる算学バカ」のハナシが・・・親不孝で「ヤクにもたたない(?)『歴史馬鹿・漢字痴漢』」の私と同類で、ハナシの結末と言えばフカいナラクに落ちて逝くようで、クライ・・・歌手の「井上陽水」じゃないけれど、「人生が二度あれば」なぁー、と・・・とにかく、スッキリぶっこわしてヤッタッゼ、の「正義(?)の『ダイハード』」のハナシじゃぁーないョ、なッ。  「小野寺公二」氏に関して著書略歴に「大正9年(1920)『岩手県』生まれ。中央大学経済学部卒業」とある。私の母親と同年輩の人物だ。青春期は「戦争の真っただ中」にいた人物だろう。この本の「百五十年後の仇討」には「尚歯会」の面々、「高野長英」等が獄に下った「蘭学者」弾圧の「蛮社の獄事件(天保十年・1839年5月)」がその小説の背景支柱になって書かれていた。  「蘭学者」とは「数学者=言語学者=天文・地理学者=土木建築学者」、そしてモチロン、「医者=薬学者=草本学者」で、「海洋学者」で、「兵法」に於ける「戦略・戦術」学者であった。まったく、「百科騒乱」の「乱学」の「カケ」ではあるな。  とにかく、江戸時代の彼らは未知なる学問への渇望を満たすため「世界の玄関」である「長崎・平戸」まで「ワラジ」を履き、「ながタビ」をして「遊学」し、「鳴滝熟」に通ったのだ。時代を遡れば「学問」とは全て「寺」が「高等教育」の「場」であった。江戸時代の庶民の学問の場も「寺小屋」である。仏教以前の「マツリの場」であると同時に「学問の場」であったハズの「神宮・神社」と重なっていったのが「寺」である。  この古本屋では以前にも「高野長英」に関して書かれた「吉村昭」氏の「長英逃亡(毎日新聞社昭和五十九年発行)」を手にいれていたのだが・・・そんなに「懐疑的」にビクビクして逃亡していたのか「高野長英」は・・・「コジキ」として、楽天主義的になって他人の迷惑ナンのソノ、図太く居直って自己本意に逃亡してたんじゃぁなかろうか・・・「牢名主」となって「賄賂」をシコタマふところ(懐中)に、ヒトの好意、善意を裏切ることナンのソノ、ヒツケ逃亡、生きるため、信念(?)のためには「顔面の整形手術」も辞さない、じゃぁーねッ。彼のしたたかさは「スパイ」まがい(?)の「シーボルト」や、親分の「水野忠邦」が不利とみるや、政敵にコロっと寝返った「鳥居耀蔵(忠耀)」と同類・・・キモッタマの小さい「遠山の金シロウ」、自殺した「渡邊華山」とは雲泥の違いがあると思うのだが。「華山」は「活火山」でないところが気弱であったカモ・・命を賭けるにしても「佐倉宗五郎」は偉いのに・・・  とにかく、この古本を手にしたのは私が伝染病の「コレラ」がオランダ語で、漢字では『虎列刺(これら)』であることを辞典でハッケンし、「日本史=世界史の『カケ年表』」を作ったすぐ後のコトであった・・・「大須・観音」様と観音様に隣接する「大須文庫」の守護神で、「宿曜経」をお書きになられたかも知れない「文殊・観音菩薩」の導きカモ、とは思うのだ。  「目的」はどうであろうと、ドイツもコイツも能力と探求心のある日本人ならば誰彼問わずに「蘭学者」に育てたあげちまったオランダ商館付きの医者であった「『ドイツ(独逸・プロシャ)』人のフィリップ・フランツ・『フォン』・『シーボルト』(1796年生~1866年死没)」先生の偉大さである。彼には日本人のカミ(楠本タキ)さんとの間に娘の「イネ」がいた。この「イネ」が滞在した「愛媛県・宇和島市」には「高野長英」が「伊東瑞渓」と偽名を使用して潜伏していたのだ。現在も彼の住んでいたこの場所には「庄屋・清水甚左衛門」の屋敷があるそうである。  ・・・彼が牢獄にあったときに親しく文通をしていた人物が「旧南部藩士」の「斉藤三平」であったとも、逃亡後の身を隠した場所の一つが「浦和」、「大宮・土呂村」、「福島県」では「油屋・藤兵衛」のもとであったとも・・・その後、「長英の娘」が「遊女屋・稲本楼」の「遊廓の遊女」となって「安政の大地震」による火事で「焼死」したとも、「吉村昭」氏はこの小説の後書で書いている。とにかく、氏の「長英逃亡」は「小説」としてより「現存・古事記」の「資料」として読書を勧めたい。  「大・地震」と「大・火事」で、「大地・震」と「大火・事」である。  ムスメが「女郎(序漏)」、「オイラン(華魁)」とは・・・哀れにも、悲しき、「はなしのぶ、多年の想」の「ハナ」と「シ」ではあるナァーッ・・・  「現存・古事記」には「火事」と「カジ」に関連するトコロは「重要」な「ポイント」ではあるのだがネッ。  私にとっては彼に関係する「事件」、「人物名」や逃亡経路の「場所の地名」が「現存・古事記」と「重なる部分」が興味のあるところであるのは今更云うまでもない・・・「712年(古事記)」からは遥かに遠く、推理したとて「夢物語」なのだが・・・「呉」と「魏」の狭間にあった「卑弥呼」と「壱与」、「張政」の「喩女模之形(型・方・掛他・過多)理」なのだ。  「高野長英」は、とにかく現在の「岩手県・『水沢』市」、かっての「『陸奥国・水沢』」で生まれ、「藩主」は「留守」氏と言う姓であった。「蛮社の獄(1839年)」で捕らえられ、牢獄に火を付け逃亡し、そして「江戸青山・百人町」の「御数寄屋・坊主・大沢清次郎」の父祖「源四郎」の「借家」で抵抗の末、「十手」でしたたか打ちのめされて束縛され、「南町奉行所」に護送されている内に死亡(1850年十月)・・・殺されているのだ。  「偽名」は「『尾張』・名古屋」では「沢(澤)三圭」、「江戸」では「沢(澤)三泊」と名乗った。「サワ」とは「古事記」では「佐波・遅・比賣」の「サワ」であり、「稲城」で火中で死んだ「亦の名」が「『佐本』毘賣」に「懸けられている」ところの「作話字」、「差倭時」、「佐和字」、「叉羽地」、「作話事」の「作の本の備える場の意」で、  「沢(水尺)=澤(水网幸=スイモウコウ=素意模烏虎宇                 =みずあみゆき=診図亜壬喩記)」  である。  「沢=澤」の類字は「訳=譯」で、「譯語田(ヤクゴタ・おさだ)」して「茶話」、と云うワケだ。幕府老中の「水野忠邦」の「井の中のカワヅ(蛙)」を「参詣」し、「山系」の「纂葉句」で「さとし(喩)」たかったワケだ。  「元禄十年(1697年)」に生まれて「明和六年(1769年)」に死んだ「賀茂真淵」なんどが酒のツマミ(肴)や茶話にゴチャゴチャと「ますらお家政夫会」でチョット「古事記」の「序文」は違うじゃないのか、と噺していたコトをまたギギした奴が、安全パイよろしく「古事記」にカコ付けて 「蛮社の獄(天保十年・1839年5月)」をコソコソ、ヒソヒソと囁いて噂さしていたんじゃァなかろうか。「本居宣長」の「古事記伝」の完成は「寛政十年(1798年6月)」で、「古事記」も「古事記・序文」も「蛮社の獄」以前に存在していたハズなのだが・・・カキ写すトキに、書き換えられた(?)あるいはウがって考えれば「歴史改作」、「文章改作」は「日本史官・御用学者」の常套である。  「高野長英」、「幼名」は「悦三郎」であった。「高野」家の娘、「千越」の婿養子として入って「高野長英」を名乗ったが「夫婦」の関係にはならなかった。彼は出奔して「蘭学者」を目指したのだ。  「高野」は当然にも「高野・山」にかしこまっている「『真言』密教」の開祖、「空海=弘法大師」の場所に懸けてあり、「現存・古事記」の「記録文字」は彼が招来した「ウラナイ」の「宿曜経」を念頭に置いている、と云うワケである。「四国・讃岐」出身の「空海」の姓は「佐伯」で、幼名は「真魚」であった。「佐伯子麻侶」と云えば「蘇我入鹿」を暗殺した人物だが、「645年」の「『大化』改新」の「漢字」を踏まえ「蘇・我・入・鹿・暗・殺」の場面をよく讀んでみることだ・・・大家、退化、滞貨、大過の改新である。  とにかく、「『高野』の名前が付く天皇」が誰かを調べてみれば「現存・古事記」の作者の意図も見えて来るだろう。「道鏡」を愛した「女帝」である。すなわち、「阿倍」の名前を有し、「高野天皇」の名前を有するのは「宝字・称徳・孝謙女帝」である。  モチロン、ライバルの「『天台』密教」の開祖、「最澄=伝教大師」も「比叡・山」で「空海」の招来した「ウラナイ」の「宿曜経」を借りてまで研究に没頭執着し、「空海」に返すのをためらった(?)人物でもあった。その実家の姓は「三津」で、父親の名前は「百枝」、母親は「妙徳」である。「百枝(ももえ)」なら「山口百恵」じゃぁなく、「夜麻登登母母曾毘賣(古事記)=ヤマトトモモソヒメ=倭・迹迹・日・『百襲』・毘賣(日本書紀)」と言う女性はナニモノか?、と云う詮索が「古代史学上」あったのだが。  「夜・麻・登・々   ・母・々・曾 ・毘(比)・賣」・・・々=同  「倭  ・迹・迹・日・『百   襲』・毘(比)・賣」・・・百=一+白  の「各漢字」の意味を踏まえて、サラには日本語の訓の音がナニを意味するモノかを踏まえ、「偏旁冠脚」に「バラバラ」に「分解」し、研究した学者はいなかった(?)のは残念だが。「毘(田比=囗十上匕=たひ)」で、その意味は「へそ(臍)・ほぞ」である。「ほぞ=木+内(柄に類字)」は木材や石材の端に「凹凸」を造って接合する「突起=凸」の部分で、「ほぞ=蔕」は果物や「瓜」の「ヘタ」である。「ほぞ=筍」は「竹の子」であり、鐘や磬を吊す「横木」である。「ヨコシマのキ」だ。  この「三津氏」は「後漢・『孝献』帝」の末裔であるらしいのだが・・・「孝謙→(コウケン)←孝献」と「共通項」で結ばれていると云うわけだ。なるほど、「つちのこ(孝=土ノ子)」とは「へび・まむし・はぶ」の類で、「謙遜」、「謙譲・美徳」と「献上」の「黒田藩・博多織」の「独鈷紋」で、「喧擾」ではあるな。  とにかく、「最澄」は「神護景雲一年(767)誕生~弘仁十三年(822)没(五十七・五拾六才)」、あるいは「天平神護二年(766)誕生~弘仁十三年(822)没(五十六・五拾七才)」に生存していたとする「説」がある。「和算」を極め、「歴史」に興味ある人物なら「数字」に注目するだろう。  「最澄」の幼名は「広野」であり、「滋賀郡・『古市(布留知)』郷」の出身なのだ。「『広野』の名前が付く天皇」は「大海部皇子(天武天皇)」を愛し(?)、姉の息子「大津皇子」を殺し、「草壁皇子」の母親(?)で、「文武天皇」の「ババ(祖母)」であった女性、すなわち、「持統女帝=高天『広野』姫天皇」であった。「持統女帝」は「比叡山の南東」、「琵琶湖湖畔」の「大津京」に遷都した「天智天皇」の「娘」でもあった。  「三津(みつ)=サンシン=山神」で、「山の神」、「古市(ふるち)」で「卑弥呼」の宗女であった「壱与」の場所である。眠っている場所は「箸墓古墳=大市古墳」である。「山の神さん」とは「女房・主婦・妻女」で、「カカァ」、「カミさん」である。「カミ」とは「オンナ」で、しかも「ははオヤ」になったヒトのことである。「オトコ」じゃぁナイのだ。  「カカァ」が抱くのは「赤子・赤ん坊・幼児」で、「母子(カカ・シ)」だ。仏教では「鬼子母神・母子観音」、キリスト教では「聖母マリア」が「聖なる幼子キリスト」を抱いている様である。  「古事記」では「大国主」と一緒に協同して国造りをした「かみさま」は誰か?と、スナワチ、「笠」を被って「十字架」に張り付けられているような「一本足」の「山田の案山子(かかし)」が、「鵝(蛾・鵞)鳥」の羽毛で作ったジャンバーを着ていた「少名毘古那神=証明美弧拿訊・正銘備胡名尋」の「名前(秘密)」を知っていたとは、   案山子(アンザンシ=安産子・暗算詞=九九・かけ算=八拾壱)         ↓ ↓↓   久延毘古(救援・球圓・求円)・・・・・「ひさしく ・のばす」   ↓  ↓                  比差史句・廼場州   崩 彦(くえびこ・ホウゲン=方言)・・・「崩壊・抱懐の諺」          ↓↓ ↓ ↓   ↓↓          ↓↓ 方 弦    句諺      彦=立(たつ)+ノ(わける・はらう・掠=略奪)+彡(刷毛の痕・毛羽の跡)      崩=山(サン・やま・△)+月(つき・○)+月(じく・字句)  彼、そのものの「名前」が「謎解き」の「鍵」を握っているのだ。漢和辞典を調べれば、  「鵝(鵞)」は水鳥で、「雁」を飼い慣らしたモノ。口ばしの付け根に「瘤」があり、飛ぶことが出来ない「ガチョウ」のこと。  「鵝(鵞)毛」は「雪・柳の綿」に例えられ、軽い意味。  「鵝(鵞)掌」はガチョウの水掻きで、美味しい食べ物。  「鵝(鵞)黄」は「黄色で美しいモノの例え」。  「菊・柳・酒」を形容する。  「鵝(鵞)湖」は山の名で、「江西省・鉛山県」の北方の山。  「宋代」に「朱子」、「陸象山」等が学問を論じた場所で、後に学校が建てら れた。  とある。「菊(キク・コク・あき・ひ)・柳(リュウ・やなぎ)・酒(シュ・さけ)」の同音異字は「規矩・起句・聴く・聞く・効く・・」、「龍・劉・笠・粒・流・留・・・」、「種・珠・株・取・首・主・朱・手・諏・・・」である。「柳に跳びつく雨蛙」の図は「小野道風」である。そして「蛾毛」なら「蚕(かいこ)」の「繭(まゆ)」から紡がれた「絹の糸」で造った上着であるのだが。  すなわち、「円・弧・方・角・弦・勾(句)・股」の「和算」の「数学の規矩」であり、コレラの「同音異字漢字」の「和学」、「輪(環)学」であり、「倭学」で、「羽(葉)学の起句」なのだ。  「和学の規矩」とは文字とおりの『葉隠れ』で、「西欧」の「サンタ(山田)=聖(セイント)」は「十二月(子・鼠の月)の降誕祭」に「八匹のトナカイ(大鹿)」の曵く「ソリ(橇・毳・反り)」に乗ってプレゼントを子供達に配る「サンタクロース」なのだ。「毳」は北方民族の「匈奴の服」であり、「真言宗の僧衣」である。なるほど「北の十二支」の「子支」が「イエス・クリスト(移鼠)」なのもわかろうか。スナワチ、「山田」の「クエビコ(久延毘古・尾弧=崩彦=方眼=方丸)」、「九重美子(尾弧)」で、「苦渋・苦汁・久住・九拾」の「美の子」にカケてあるからだ。「美(ビ)」を「美子(よしこ)」と訓ませているのには「漢字」そのものに深いワケがあるからなのだ。「よしこ」は姓名判断では「良子・佳子・喜子・善子・吉子・芳子・義子・葦子・由子・禎子」、そして「好子」をあてる。ギリシャ語では「美」は「カラス」である。「日本書紀」で、「よしこ」は「・野讃良」の「持統天皇」。「魏志倭人伝」で「好子」は「壱与」である。「エジプト(埃及)」では、「パピルス」の「葦子」は「クレオパトラ七世」で、「アレクサンドル大王」の配下であった人物の王朝「プトレマイオス」の血筋を受け継いできた女性なのである。その「七世」の彼女の夫となったのは「ジュリアス・シーザー」であり、ラテン語では「カエサル」であった。そして「カエサル」が暗殺された後は彼の腹心であった「アントニウス(人物はことなるが、紀元161年~180年在位のローマ皇帝=マルクス・アウレリウス・『アントニヌス』の漢字名は『安敦』。166年にはペストで人口激減」が「クレオパトラト」のパートナーになったのだ。「女王」を中心に「二人の男」が「睦んだ」のである。そして、「コブラ=毒蛇・ハブ・まむし」に噛まれて死んだのだ。この物語が日本史に重なる「女性」は誰なのか・・・さらに世界史を遡れば「旧約聖書・申命記」の「羊使い」で、「出エジプト記」の「モーゼ」である。  前述した人物名の「カタカナ」を意図的に漢字変換すれば、  カラス・・・・・・・掛羅素・耶羅州・火羅州(火の芦北)  ハヒルス・・・・・葉比留諏・頗比留州(横島が比肩し留める国)  クレオハトラ・・工励麻葉鍍裸・呉医将歯砥羅         ・・・句例将葉虎(句の例はまさに言葉の虎=寅=イン=音)         ・・・句例尾葉留裸(言葉の語尾に留める葉拿掛)  アレクサンドル・亜麗句纂努留(あまねし、麗句の纂につとめとどめる)  フトレマイオス・附留例真意将素(例としての真意、まさにもとにとどめ附)  カエサル・・・・・替え去る  アントニウス・・・編務留似胡州(編纂は西の句似に似せ留めるを務める)   ↓  「安敦」  モオセ・・・・・申せ  などと。  「美=羊(未)の一の人」で、「未艶」とは「景教(唐代のキリスト教)」の「石文(積分)」に刻まれた「聖母マリア」であった。「子(鼠)=一から終了まで」とは「イエス(移鼠)・クリスト」であった。  「くえびこ」は「句重備古」、「句柄日弧」、「句海老拠」、「狗蝦虎」で、「イヌ・蝦夷・トラ」で「蘇(よみがえ)る我(われ)」で、「耶蘇教」のキリスト、「蘇我」であるからだ。「蘇我入鹿(イルカ)」が、海棲の「イルカ(海豚)」であるならば、船乗りを救助してくれる友人で、「海の神」である。  「エビ」で「タイ」を釣っているのは「エビス(夷・戎)」さん、「大黒=大国主命」である。  「三津(美津濃)=みつ=水(水野)」であれば、「徳川家康」の母親である「伝通院」の「出羽・山形・水野家」の実家の姓である。この地は「出羽三山」と言われる山がある。そして、この「水野家」の出発点は「『尾張』・春日井郡・山田荘・『水野』」の住居であった。「尾張・愛知」と言えば「大須観音」に付随する「大須文庫」と、現在はパチンコ屋の裏に椎の木の大木が繁る「有蓋脚付壷」が出土した「那古野古墳(前方後円墳)」と、かっては「清寿院」と呼ばれた寺の中に「浅間神社」、「亀尾の清水の井戸」が存在する。「尾張・名古屋(名古那・名古野・名顧哉・名護耶)」、豊臣秀吉が「朝鮮出兵」の時に築いた「九州・名護屋」と同音の地名である。もちろん、「春日井・水野」は「天保の改革」を推進した老中「水野忠邦」の実家筋であり、彼の手足となって「蛮社の獄」を実行したのが「鳥居耀蔵(忠耀)」であり、この「事件の獄」につながれたのが「高野長英」であった。・・・「長英(チョウエイ・ながふさ・おさふさ)」とも、「ナガイ・ハナ」ともヨムのだが。  「高野山」、特に「比叡山」が「日本の歴史上」で「天皇政治」においても、「藤原貴族政治」においても、「武家政治」においても厄介な「宗教(法王=座主=坊主=学術文化)・学問」の一大拠点であったのだ。しかも「比叡山」自体も「山門」派と「寺門」派に分裂し対立し続けたのだ。「蘭学」を極めた「高野長英」にとっては「和解」の「翻訳」には「真言」が重要であった。  「高野長英」の実母は「みや」、彼の妻の名前は「ゆき」であった。「沢(澤)三泊」の妻としての「偽名」は「しら」。  子供は「三人」で「長女」の名前は「もと」、次女は「融」、「末子」の男子の名前は「理三郎」であった。彼が権力に殺害された後、娘達は「身を賣って『遊廓』」で働かねばならなかった。「郭(廓)務宗」に身を賣った天皇は誰だったのか?  妻の実家の姓は「松木」であった。 彼の「旁訳洋文解」は「オランダ(蘭)語・フランス(仏)語・イギリス(英)語」を兼ねた「和解」であった。これを「金子・五両(?)」で買い受けて貰ったのがかって、彼に「蘭学」を教授してほしいと願いでて果たされなかった「佐倉藩」で「医学塾熟」を開校していた「佐藤泰然」であった。  その弟子に「高橋柳助」がいた・・・なるほど、「高橋柳助」とは「口供流女(コウキョウ・リュウジョ)」で、「古事記・序文」の「公共留序」、「広狭笠如(鳥追い笠)」、「好況劉女(スキ=素記、イワンヤ=水の兄、リュウのムスメ=劉の娘)」とはネッ。・・・「公共要理」とは「カトリック」の簡単な「祈祷文」である。

 「劉(リュウ)」とは「漢王朝」の「姓」であり、「白村江の海戦」で指揮をとった「唐(則天武后の周)」の「劉仁軌」将軍配下の「劉徳高」、「劉仁願」の「姓」である。サラにその配下に「『郭』務宗」が存在した。漢和辞典には『郭』とは「楼郭(廓)」であり、「遊女=『売(賣)』春婦」のいる場所で、「くるわ」である。古代オリエントでは結婚前の「処女・乙女」が「神殿奉仕の義務=巫(みこ)」として「参拝にくる男性に身を任せる」と言う慣習があった。日本では「神社の祭の催しモノの出店、芝居」を取り仕切る親分は「役座の頭領」で、「賭博場=鉄火場」と「遊廓=くるわ」の「ごかいちょう」の「総支配人」でもあった。・・・そして、『郭公』とは「くぐつ(傀儡)=あやつり人形・でく」のことだ、とある。「郭」の本来の意味は「都市を囲む城壁」のことだ。「カク」の「同音異字」は多数あるが、「比較」の「較」、「・(カク・キャク)=①周代の国名。西・は陝西省宝鶏。東・は河南省栄沢。北・は山西省平陸。②『虎の爪痕』」と、「塙(カク・キャク・はなわ)=土が硬い。土が高い。石が多い痩せ地。山の差し出たところ。山のかど。姓氏で『バン』」がある。  「姫=媛=毘賣(毘売)=比賣(比売)=秘め」で、「姫」は「母親が巨人の足跡を踏んで生まれた」と伝説されている「黄帝=軒轅氏」の「姓」である。


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