top of page

「古事記」と「古代インド」・(1)・(56)


    「古事記」と「古代インド」・(1)・(56)  さて、「現存・古事記」と「古代インド」との関連をまたもや、「同音異字漢字」から追求してみたい。  前提的にインド社会は言語学的に「インド・アーリアン語族」と呼ばれている人々が住んでいるが、現在的には「諸先住民」との混血を重ねていった人種である。地理的にはヨーロッパ、特に古代ギリシャと古代中央アジア・オリエント諸国との接点をインド北西部のインダス川を境に持って、暫時「侵入=外来『帰化』民族」としての「アーリア人」がインド北部、中央、そして南部へと侵入南下(紀元前1600~1200年頃)して「先住インド人」と同化混血を重ねていった社会である。だから「インド・アーリアン語族」と云っても系統の違う別個な「語族」が多数存在するわけだ。言語学者である大野晋先生は日本語のルーツは文法的にも単語的にもインドの「ドラヴッダ族」にあるのではないかと研究なさっていらしゃる方であるが、言語の文法的なモノは別にして「単語」的なモノは「エジプト」、「ギリシャ」、「オリエンタル」、「ペルシャ」の重層的な伝播影響があって、北方陸路、あるいは南方海路によって日本語の中に採り入れられたモノなのではないだろうか。日本の古代語と言っても紀元前3000年代には既に「文字」として記録された古代世界史からみれば「日本の記録文書」は高々712年(?)の「現存・古事記」であり、720年の「日本書紀」である。世界史の流れから観たら日本の記録は中国随王朝、唐王朝がギリシャ、中央アジア、インドの影響を受けた以後のごく最近の「記録文書」なのだ。  この「アーリアン民族」の「インド侵入」は「古代日本列島先住民=縄文古代人」の住居に「侵入=外来」してきた「弥生人」に類推、例えることが出来るかも知れない。「侵入=外来人種」と「先住民」との摩擦と「戦争」、「融和」は「先住民」との「混血同和」が必然である。  それにしても「アーリアン(Aryan)=高貴なもの」と云う概念は何時の時代のモノなのか知らないが、被征服「先住民=ダーサ(ダスユ)」と区別して「自らアーリアンと自称」したらしいのだ。  「朝鮮語」の哀歌(?)の「アーリラン、アーリラン、アーラーリーヨー」は何を謡ったモノなのだろう?・・・「峠を越えて行く人物」とは誰なのか?。そして、「Ally(συμμαχοs・στενοs συνεργατηs)」は英語(ギリシャ語)では「①同盟・縁組」で、他意は「②大理石(μαρμαρο=マルマロ)・③雪花石膏のハジキ玉」・・・ギリシャ語の「まるまろ(μαρμαρο)」とは「圓(円)磨呂=丸真炉=真瑠間芦=摩婁真鷺=麻留(流)魔侶」、「おほ=牡補(神としての牡牛を補う)=尾舗(二十八宿の尾宿星・あしたれ星の宿)=麻帆(帆船)=太(太陽・太陰=月)」の「(安)萬侶(麿)=磨呂」で、古代の日本人が名前に多用した「・・・麻の侶(イの呂=背骨)」と「古事記」が語る冒頭の国生みのタラァリ、タラァリの「鹵(ロ・しお)鹽(ロ・しお)塩(エン・しお)」ではないのか。英語で「ソルト(salt)」、ギリシャ語で「アラティ(αλατι)」である。すなわち、「古事記」に記録されている「円(圓・つぶら」は「月(牡歩)」と「太陽(隼・熊鷹)」で、「都夫良意富美」、「粒(螺)=眼・目・瞳=繭(蚕)=眉輪・目弱王=球(玉)=球磨」の「『大理石(ally)』建築、石工の技術者」だ。当然のこと「石材建築」の原点は「イシス女神」を母とし、妻とした「ホルス(オシリス)」の国、「眼=ウジャト=ホルスの目=隼(熊鷹)」の神聖文字を刻んだ「古代エジプト」である。  英語の音で「アリー」、「アレー」に関連するモノを挙げて行けば、「area(エリア・地域・地帯)」、「ariel(アリィアル・かもしか)」、「Ariel(アリィアル・空気、水の精気)」、「Aries(アリィス・羊座・白羊座)」、「array(アレイ・配列・陳列)」、「arrear(アリィア・しんがり・遅滞)」である。「唖鈴(アレイ)」は「dumbbell(ダムベル)」なのは既に別なところで展開したのだが・・・。  しかし、この「しかし(ながら)」と言うギリシャ語の接続語が「アラ(αλλα)」なのである。「シカシ・ナガラー」は古代インドの「国名」のようなニュアンスの響きであるが、「ヴェーダァ」のインドなら「詩歌しながら」で、歴史好きな私なら「史家詞乍」で、「志賀史那賀羅」、「滋賀史拿賀羅」で、「高野長英」近辺の蘭学者なら「歯科師拿画羅」になるだろう。  そして、決定的なのがギリシャ語の「アリィア(αλιεα)」である。その意味は「漁業」である。「魚を採る業(なりあい)」である。「舟に乗る人」である。  ・・・キリストの時代は「漁師(アリィア)の時代」で、「まな(魚・真名)」を「採(捕・執・取・盗・撮)る時代」なのだ。  「Alien(αλλοδαποs・ξενοs・οχι ντοπιοs)」は「外国人・異邦人」ではあるなッ・・・カミュの「異邦人」、アメリカ映画の「エイリアン(異星人)」だが・・・きっと、これは「葦聖人・縊逝人・惟聖人・異性人・異聖人・以西人・医聖人」か、「伊勢・偉人」ではアルナ。  私の青春時代に「エリアン」と云う懐かしい名前の喫茶店が名古屋の河合塾の近くにかってあったのだが。  ・・・とにかく、「縄文古代人(4000年)」の出発点はどこなのか?・・・最近はっきりしたのは青森県の「鯨の骨」も出た「山内丸子山古墳遺跡」と「十三湊」周辺の遺跡であり、「沖縄=琉球」の「海底遺跡」である。縄文・・・なるほど、「城門」、「定紋」、「乗文」・・・名和の富美である。  古代インドで記録された二種類の文字は「セム語族系」の「ブーラフミー文字」=「梵字」で、「梵=キキ、あまねし」であり、「分・胡羅・文意」。そして「カローシュティー文字」=「驢唇文字」で、「驢(うさぎうま・ロバ)=馬の盧」+「唇(くちびる)=辰の口」で、「掛漏・朱帝・意」である。  「アーリアン語族」がインドに侵入し、インド社会を構成し、「ヴェーダ」時代を築き(紀元前1200~400年頃)、「仏陀」が登場、死没(紀元前480年頃)した後、「紀元前327~26年」に「アレクサンダー」大王の遠征があった。これによってギリシャ文明に影響された「ガンダーラ美術」と言う特異の美術文化があるが、これに限らず「アレクサンダー」大王遠征以後、インド社会は結局の所、「古代ギリシャ文明」の影響を最大限に受けたところなのである。そのインド文化の影響は北方からの「西域」、「中国」、「朝鮮」、「日本」へ、南方からの「インド」、「東南アジア」、「フィリピン・南方諸島」、「台湾」、「琉球」、「日本」への「仏教文化」とし伝播してきたのだ。  ・・・そして、詰まるところ「ギリシャ文明」と云えば、「古代シューメール文明」、「古代エジプト文明」に影響されたのだ。・・・では「古代インド先住民=ダーサ」の出発点はどこなのか?  私の手元に佐藤圭四朗氏著作の「世界の歴史6・古代インド・河出文庫(河出書房新社・1989年25日初版印刷)」があるので、これを基本的な参考文献として「漢字」を重ねてみていきたい。「古代インド史」の説とその抜粋した部分はそのほとんどが佐藤圭四郎氏の著書からのモノである。  インドのインダス河畔にある古代遺跡は「モヘンジョ・ダロ」と「ハラッパー」である。「モヘンジョ・ダロ」が廃墟となった後の遺跡には仏教の「スットーバ」が存在している。この地名を「インド・ペルシャ系」の仏教徒、あるいは知識人が「日本人」に教えていたならば「模編序(女)・拿呂」か、「母編如・拿理(足り・垂り・陀理)」と記録するだろう。「ダリ」はスペインの有名な画家だが、「ダリ・タリ」は「アレクサンダー大王」に滅ぼされたペルシャ帝国の「ダリウス(ダレイウス)大王」の「ダリ(ダレ)」であり、日本語の王「たれ(たり)」で、「たらし」である。「ウス」は「臼・碓・有珠・渦」で、「大碓・小碓」とは「ヤマトオグナ」である双子の兄弟の弟、「ヤマトタケル」なのだ。「現存・古事記」は「ダリウス大王」を下敷にしているらしいのだが・・・  「ドラヴッタ語族」の「ドラ・ヴッタ」は、「虎」か、軍楽隊、あるいは仏教で使用する「鐃抜(ニョウハチ・ニョウバツ)」であり、「鐃(ドウ・ダウ・ニョウ・ネウ)」の「ドラ」で、銅製皿型の「シンバル」か「鑼(ドラ)」で、「美太(毘侘)」である。  インド語の「カラー」は「技芸・芸術」を意味し、「カル」が「技芸の習得」を意味する言葉なら「カラー」は「可裸(螺)」、「華羅」、「仮羅」、「日羅」、「韓」、「殻」、「~」であり、「アーリアン(白色人種)」が支配した土着先住民は「ダーサ(黒色人種)」の「カースト制度」の原点としての色の区別であり、「空(から・そら・あき)」と「色(color)」の日-英語混在の「色即是空」の意味であり、「カル」は「古事記・日本書紀」に登場する「軽王子」か「珂瑠王子」である。ちなみに「軽(ケイ・キン)」は漢字では「戦車」を意味し、日本語では「羽毛の如くカルイ」の意味である。  インド語の「ニーラ=ニール=ニーッル」は「水」の意味だが、「みづ」を踏まえ、「日本史」の「水・雨・露・出水(泉・和泉)・沼・渟・湖・瀛・海」に関連させて意図的に漢字を充てれば、  「ニーラ(ニイラ)」・・・・・似意羅  「新居羅(新羅)」・・・・・・朝鮮の新羅  「ニール(ニイル)」・・・・・似囲留  「新瑠」・・・・・・・・・・・新しいタマ(珠・球・玉・霊・多摩・弾)  「邇移流(迩々藝)」・・・・・神武天皇の父、あるいは本人  「丹意琉(朱珠)」・・・・・・種々の赤玉、あるいは丹波の人々  「爾意瑠(玉璽)」・・・・・・王位の玉  「荷葦婁(になう芦北の婁)」・九州の「火の芦北=肥後の水俣近辺」  「貳委留(太宰府長官)」・・・「貳(弐)」は太宰府の                   建築土木の頭領(梁領)  「兄留(流)」・・・・・・・・「兄(え・陽)」と「弟(と・陰)」関係の                 「兄(え・陽)」、あるいは「干支」の「壬                 ・癸」の「壬の流れ」を、「留」る  「尼移流」・・・・・・・・・・「比丘尼」の流れ、あるいは「アマ」の移動  「二位留」・・・・・・・・・・官位の「二位に留る」人物  「ニーッル(ニイツル)」  「似意都瑠(琉・留・流・婁・屡)」・・「首都の王」、あるいは「巫」  で、「二位の尼」と言えば「順徳天皇」と屋島の海に沈んだ女性と、もう一人は鎌倉幕府創設者の「源頼朝」の妻であった「北条政子」の位である。  「ニイ・ツル」の「ツル」は「水脈」、「鉱脈」で、脈筋の「澪(みを)」である。深読みすれば航海者が「ワタリ」の知識として学ぶ「海流・水流」である。当然にも「鶴」は渡り鳥で、「都留」。「蔓」は植物の「藤のツタ」の類。「敦」は「敦賀」の地名。「釣る」は「山幸彦」の「魚釣り・釣針」。「吊」は「鐘吊り」か、「刑事罰」の「くびり」か、「圓野姫」の「山城のさがり木」の「縊死」で・・・「溢死」なら「乙橘姫」や、「大国主」親子の「溺殺」の「溢殺」か、「斎明女帝・天智天皇(中大兄皇子)」が「白村江(熊津)」で「唐(周)」の「則天武后」と将軍「劉仁軌」指揮下の「唐・新羅」の同盟海(水)軍と戦った「海戦」の「倭水(海)軍の溺死者」である。あるいは「遣唐使」の海難溺死で、「壬申の乱」で「琵琶湖・大津」に敗北死した「天智天皇(中大兄皇子)」の子供「大友皇子」とその勢力である。  「天智天皇(中大兄皇子)」以外に「兄」の付く人物は「大化改新」で「蘇我入鹿」暗殺を目撃した「古人大兄皇子」が存在する。  「ニライカナ」は沖縄の言葉で「海の彼方」の「浄土」か、「海の彼方」からやってくる「訪問客(まろうど)」、「来訪神」であるらしいのだが。「帆船」に乗って海からやってきた「訪問客」が「まろうど」ならば「円・圓(エン・イン)の形の意味のヒト」である。インドの「ラーマ王子」の伝説では悪魔の「ラーヴァナ」は王子の妻「シータ」を奪って本拠地の「スリランカ(セイロン島・ランカー)」に帰ってしまうが、王子は「猿(エン・さる)族の王」とその大臣「ハヌマト」の援軍を得てインド大陸と「セイロン島」の海峡に「大橋」を架けてもらい妻の「シータ」を救出するのだ。このハナシは「因幡の白ウサギ」や、「七夕」の「織り姫」と「牽牛」の話しに似てなくもない。「大橋」の建設部分が「サル(猿)」が「ワニ(鰐)」や「白サギ(鷺)」になっているのだが・・・「サル」と言えば「山王神・比叡山」のお使いで、「豊臣秀吉」は「サル」、あるいは「ハリネズミ」と呼ばれた人物である。「セイロン島」が何時からそのように呼称されたのか知らないが、確かに「釈迦」の教えである「小乗仏教」は「セイロン(正論)」ではある。しかもイギリス人、「ウイリアム・アダムス(三浦案針)」が日本(大分)に漂着来訪(1600年)した航路の寄港地でもある。ここには「大足(大迹・大股・将浦間侘・嗚補磨多・麻帆又)の窪地の磐=神の足跡」が存在もするのだ。  徳川家康に謁見し、その後、政治、学問の顧問となった『三・浦・案・針』がこの漢字変換の日本名の「姓名」を意図的に充てたとするならば、この漢字の意味そのものの示唆と「み・うら・あん(む)・じん(む)」の同音異字漢字の示唆であり、「みつ・うら・あん・はり」、「サン・ホ・アン(ム)・シン(ム)」の同音異字漢字の示唆である。  「漢字(真名字)言葉の音のウラ」を診れば、日本の「記録」は「1600年代」を基準にし、「1600年以前の歴史的知識を知っていた人物のモノ」らしいと懐疑の念が湧くのだが・・・まさに「1600年」は「天下分け目=転化訳(譯・和気)目」の「関ヶ原の合戦(活栓・割線)」で、「関」は「壬申の乱」の「カッセンのワケメの要所」でもあった。  インドの「カースト制度」は「割賎の職業的な身分制度」で、日本で云えば「士農工商+賎民」の「制度化」である。「賎民(センミン)」とは「エッタ・ヒミン」と歴史概念として呼ばれたが、「閲他・秘民」、「越える侘(よこしま・太=太陽・太陰)・卑(卑弥呼・肥・火・飛・避)の民」、「謁見・拝謁」に「詫・託」し、「比べる民」である。  「アヤス」は「銅(あかがね)」で、「綾州」、「彪(小虎)州」、「亜八洲」、「文素」は「金の同」であり、日本語の「あやす」は「幼児・赤子」を「なだめる」の意味である。  「シュヤーマ・アヤス」は「鉄(黒銅・くろがね)」であるから「シュヤーマ」は「朱冶亜磨」、「狩耶亜摩」、「守山(諏纂・取讃)・亜矢(文・彪・綾・絢・彩)州」である。  「リグ・ヴェーダ」は「理句・部重拿」で、「陸(陸奥)・植田(九州)・上田(上州)」の地名と姓名に重なる。「陸奥」は東北奥羽で、「植田」は熊本菊池近辺、「上田城」は「真田幸村」の父と兄の根拠地であった。  「古代イラン語」の教典は「アヴェスタ(ゾロアスター教典)」と呼ばれ、その王朝は「アカイメネス王朝」であった。ならば「アヴェスタ」は「阿倍州多」か「阿倍素侘」で、「阿倍比羅夫」は「倭の水軍の提督」であった。「アカイメネス」は「赤目子素」で、「ウサギ・ヘビ(ヤマタのオロチ)の赤目」であり、「亜甲斐(海)女子洲」、「亜(凡・あまねし)・甲斐(左右対称・効き目)・目(計る・目盛り)・音・諏(言葉を採る)」で、海と航海、帆船に関すれば「アカ(舟底に溜る水)」、「イ(位)」、「メ(目は目盛り)」、「ネ(値)」、「ス(守)」で、「船底を守って水(あか・淦水)をかきだす人」である。スナワチ、「水主(かこ)」で、船乗りである。海部族や、綿積族、阿曇族、そして日本に漂着した人々の流れを懸けているのだ。  「ダレイオス大王(一世)碑文」は既に述べたが、「誰(ダレ・足・脚・股・芦・葦)に・委(ユダ)ね・推(オ)す」とは「アレクサンダー(亜麗句讃拿亜)」だろう・・・ならば「亜麗句讃拿吾」は「あまねし、高句麗、賛辞、あわせ(拿)、あれ(阿礼・われ・吾)」、と云うワケである。「ペルシャのダレイオス大王の物語」を知って日本語訳した人物・・・多分、「江戸時代の戯作者」近辺に存在するハズである・・・そして、既に「ペルシャ(波斯)」人の渡来は「斎明女帝」の時代には存在していた。出身地は「トラの国(?)」である。  「アーリーヴァルタ」とは「アーリア人の住居・群居」の意味だが、これは「イランの語」が語源らしい。「吾の阿の里、婆が留る侘(よこしま)」である。「阿蘇山山頂」を東西に「横切る北緯・参拾参・度」に並ぶ複数の「横島・邪」の地名は腐るほど言って来たが、地理(輿=御輿)上の『横島』の地名は「酉(西・鶏)」を戴く「鳳鴎(法王)」としての「イト(意図・異図・糸・伊都=委奴の都・伊達の都・イタリアの都)」的なものなのだ。  「カ-スト制度(種姓制度)」は「職業別身分制度」とも言われるが、その発生は「アーリア人種」のインドへの侵入、侵略に始まった征服民(白肌)と被征服民(黒肌・奴隷)がその始源であろう。滅びた「モヘンジョダロの遺跡」の発掘現場には殺傷された痕を有する遺骨が多数発見された。「戦争」で生き残った種族は逃亡するか、支配されるか、である。  身分制度、職業制度が変化して「カースト制度」が確立したことを踏まえて、漢字に充てれば「化亜素兎」、「化阿洲都」か、「禍娃洲渡」・・・「カァ・棲渡」なら「黒いカラス(烏=太陽)の棲み替え」で、「カァ、カァ、嫁娃」と「鳴きながらのワタリ」である。出雲と紀伊に存在する「熊野神社のシンボル」は「カラス」であった。「カラス」は「太陽」のシンボルであった。古代エジプトの絵にある「船先」には「鳥」が描かれていた。日本では九州の「珍塚古墳」、「鳥塚古墳」に描かれているモノと全く同じ絵である。「赤目」の地名が「熊野」に存在する。もちろん実権は「白いウサギ(卯・菟・兎=月)=宇佐岐(祇)」へ移行した、である。「チャンドラグプタ」と言う名前の王様は漢字訳されて「月護王」と記録されたのだ。月をかすめてワタル鳥は「雁(かり・ガン)」である。なるほど、「カーリー」とはインドの神名ではある、ナッ。  「古代カッパドキア」とは「ヒッタイト王国」の土地だが、そこから発見された「粘土板(ミタンニ王国との同盟契約)」に記録されている神々は「古代インドの神名」と共通するらしいのだが・・・奇巌で水の不毛の地、「カッパドキア」なら「河童の怒気、亜(あまねし)」だろう。とにかく、神名は、  「ミトラ・ウルワナ・インダル・ナシャティア」・・・ヒッタイト    ↓   ↓    ↓    ↓  「ミトラ・ヴァルナ・インドラ・ナーサトヤ」・・・・インド  と、共通するのだ。インドの場合(リグ・ヴェーダ)には、これに「火の神=アグニ」が加わる。神々の世界的な伝播は「御利益」が在る限り、名前が少々ナマロウとも、交易物が無くても、陸路、海路にせよ、その思想は在る地域の従来の土着の神に重なって信仰され、さらに重なったモノが他地域に伝播されるのが当然である。  「アマルナ文書」は「中部エジプト」の「テル・エル・アマルナ」で「アッカド王国の国語」で発見されたものらしい。私が言わんとするところは「テル・エル・あまるな」で、「照・重留・余る名」の意味である。「余磐」とは「古事記」が記録する「神武天皇」である。「クメ族」は彼の支配下の部族であった。「クメール」とは「カンプチャ国」の種族だが、「一年360日+5日」の「アマルナ」の「五日」、あるいは閏年の「6日」である。「アマルナック(almana)・(cπανδεκτηs)」とは「暦」を意味するが「アマ・ルナ(ルーナ・lunar)」で、「海女・海部の月」、ギリシャ語で月は「φεγγαρι(フェンガリ)」、「σεληνη(セリニ)」で、「月」の意味は海の潮汐にも人間の精神にも異常を来す、「気違い」なのだ・・・「赤いクメール」の仕業はまさに「気違い」であった。「古事記」に記録されている「久米族」の仕業も同類の「はなし」ではある。  英語の「ana(アナ)」とは「語録詩集・逸話集」で、「ana-(アナ)」とは「上・後・再」である。「あなどる(侮る)」が懸けられているとしたら、「穴とる」は「墓堀」か、宇宙に存在する「天体=太陽・月=アナ」を採る、で、「亜(あまねし・凡・梵・盆・本・品)の名を採る」で、ある。「梵語」とは「インド・サンスクリット語」である。  「カッシト人」は古バビロニアのハムラビ王没後にアッカド王国に侵入し約500年間にわたって(紀元前1746~1180年ころ)バビロニア全土を支配した種族で、彼らの「神」は、  「太陽神=シュリアス=スルーヤ(サンスクリット語)」         ↓ ↓       =首 里亜洲・素留烏耶  「風 神=マリタス=マルタス(サンスクリット語)」         ↓     ↓       =真理他素・魔留侘棲  に共通し、  「雪山の女王=シマリア=ヒマラヤ(サンスクリット語)             ↓    ↓          =始摩里亜・氷摩羅耶          =ジマ(イラン語)=雪」  に共通するらしい。「ジマ」とは「シマ=島・嶋」で、日本史では「シマの大臣」は、「蘇我氏」である。「止利仏師」の娘は名前が「シマ」で、日本で仏教の「比丘尼」となった最初の女性である。「シマ」は「島・嶋・志摩・糸間・縞」で、「ジマ」は「璽磨」、「地摩」、「字間」、「蒔麻」、あるいは「治魔(悪魔退治)」、「治摩(按摩の治療)」で、「盲の座頭の市さん」とも考えたくなる・・・「あぁ~、イヤな渡世だなぁ~」。  「ダーサ=ダスユ」は「誹謗・罵る・敵」の意味で「先住民(男性)」を意味し、「ダーシー」は「先住民(女性)」である。「ダアサ=拿・亜・作」、「ダスユ=妥(拿)・洲(諏・素・守)・喩」、「ダアシイ=拿・足・委」は訓で読めば理解できるだろう。  「バニ」は「敵・けち(吝=文+口=亠乂口=音交わる口)」の意味である。「葉似」で、言葉の似たモノならば「婆似・罵尼・場似」で「巴(ともえのタマ)に似る」である。「ハニー」なら「蜂蜜」である。「蜂王子」とは「山形懸」に存在した修行者である。  「ヴリヒ」は「米(こめ)」で、「葉理非」、「婆理非」、「罵理非」を「混め」、「子女」、「虎眼」、「虎女」・・・「米(マイ・ベイ)」で、「八方位」の「戌亥(乾)」と「丑寅(艮)」、「未申(坤)」と「辰巳(巽)」の一つ、「虎(天武)の女(むすめ)」の「十市皇女」の示唆ではあるな。

 「古事記」と「古代インド」・(2)・(56x)

 「古事記」と「古代インド」  「インドラ」は本来、「ウシの主・オウシの貸し主・ウシの増加者」と言う意味だが、牛は「エジプト」では「イシス女神」の変身で、「中国」でも「孔子」が論述している「神に捧げる番柴」であった。  そして「現存・古事記」が意図しているのは「インドラ」そのもので、「変身の神」で、漢字の変化は「印・度・羅()」、「寅(イン)・虎(とら)」であり、十二支の「寅」と猛獣の「虎」で、西の方位の神獣は「白虎」である。  「ゴー」は「牛・牛乳」で、「号」が虎の叫びなら牛の鳴き声は「牟」、漢字の「口+牛」なら「吽(コウ・ク・イン・オン・ゴウ・グ・ウン)」で犬の吠え合い、噛み合い。「ゴウ=語得」で「郷=壕=濠」は「囲い」である。これには次の言葉が関連しているのだ。  「ゴート」=「男係血族集団」  「ゴートロヨ」=「血族集団」  「ゴートラ」=「牛(ゴー)を入れておく柵(トラ)・姓」  「ウシュトラ」=「ふたこぶラクダ(二瘤らくだ)」  「ゴートラ」=「牛柵・姓」・・・牽牛・彦星(肥後母子)  「姓」は名乗り、呼びかけるモノだが、英語で「ゴット」は神である。「ゴータマ」は「釈迦」であり、その教えの「語の得の霊(たま)」であり、そして、「ゴート族」はヨーロッパを席巻した民族であった。  「マナー」は「黄金(古代バビロニア語)」だが、日本語の「マナ」は「魚(さかな)」で、「真名」と言えば「漢字」である。「魚座(双魚座)の時代」とは「イエス・キリストの時代」で、「漁師(宣教師・パウロ・ペテロ)の殉教と布教との時代」ある。  「ミナ」は「黄金(ギリシャ語・フェニキア起源)」であるが、「味名(ミメイ・あじな)」は「あまい・からい・にがい・しょっぱい・すっぱい」で、「身名(シンメイ)」、「診名(シンメイ)」、「皆(カイ)」である。「古事記」には「味鋤高日子根命」と言う人物が存在するが、彼は顔姿が似ている死んだ「親友」の「天若日子」に間違われて、怒って彼の「喪屋」を「岐阜の山奥に蹴っ飛ばしてしまった人物」であるのだが・・・「相似するモノ(地名)」を岐阜(美濃)に移動させたコトなのだ。岐阜、愛知県に散らばっている「同音の地名」あるいは「異字同音の地名」である。  「グリタ」は「バター・チーズ」の類なら「醍醐」の「味」で、「醍醐、後醍醐天皇」が存在した。「場を・侘(ヨコシマ)に・蛙(かえる)」とは・・・とにかく、示唆していることは「チイズ」=「地位図」のことらしいのだ。  「ガヴァ」は「牛群・地区」である。「賀場亜」で、「牛(丑)と君と羊(未)」の「地区」である。「うし(主)」、「きみ(君・黄身・気味)=くん(訓)」、「ひつじ(日辻・筆字・弼治=大臣)」である。  「ピトゥリ」は「父」で、「ヒトウリ(日通り=太陽の黄道)」で、「妃渡烏里」、「肥土有里」は、「肥の国と、土佐の国」に「ある里」で、「横島」の「一賣(位置の女)」である。  日本語で、「トトさん」は「父」の呼称だが、古代エジプトでは「トト神」は実権を握った「書記・記録係りの神」で、その姿は「猿」であったり、「口嘴(くちばし)の長い朱鷺(鴇)」である。「トト」は「太陽神(オシリス=ホルス)」の「母親」であり、「妻」であり、「妹」であった「イシス女神」と愛人関係にあった。そして「イシス女神」は「息子(ホルス)」に疑われ、果てには「頚」を切られてしまうのだが、「トト神」が「イシス」の「頚」に「牛の頭」をすげて助け、「牡牛(オウシ)」の「星座」にしてしまうのだ。「オウシ」は「横死・王死・姶死・鴨死・皇雌・黄支=旺支」に懸けられてしまったのだが・・・。  とにかく、「父親」は、  「ガニタール」(サンスクリット語)・・・賀似他亜留                      ・・・賀に侘(よこしま)在る  「ゲニテール」(ギリシャ語   )・・・解似出位留                      ・・・解(甲斐)似ている  である。  「インドラ」は一般的には「台風=季節風=風(かぜ・風邪)と雨(あめ・あま)の神」である。私の説ならば「インドラ」は既に述べたが、当然にも「寅(イン)虎(トラ)」で、「虎に翼を付けた天皇」は「天武天皇」であり、「大海部(おお・あま)皇子」に重なり、天文星座の「翼宿」や、「斗宿」、そして北斗七星が示す方位の現実的な地名(場所・分野)の「隠(胤・音・韻・允・引・移矛・イム)・斗羅(図・・徒拉・トラ)」とも重なるわけなのだ。「日本書紀」では「トラ国」の人々が日本に漂流、漂着した記録があるのだが、日本から遠方の「トラの国」は古代ギリシャ北東の「トラキア国」であり、七世紀頃はインド北西の「ス-ドラ国」と「吐火羅(トカラ)」、マレー半島の付け根の「隋和羅(ドワラ)国」である。そして「・・・トラ」、「トラ・・・」はインド語の特徴である。  「インドラ」が「アメの神」だが、漢和事典には「雨」の説明に何故か「友人(ユウジン)」とある。「アメのメグミ」が「ユウ人(?)」であるらしいのだが、「熊(くま)」も「酉(とり)」も「邑(むら)」、「又(また)」も「佑(たすける)」も、「憂(うれえる・愁える)」も「夕(ゆうべ)」、「遊(あそび・あそぶ)」も「ユウ」であるのだ。もちろん、九州の「阿蘇部(分・部)」である。  「ヤマ」と言えば「カワ」だが、「ヤマ」は「閻魔大王」のことだ。死後の国の「裁判官」であるが、エジプトでは死後の「裁判官」は「猿」あるいは「朱鷺」の姿の「トト神」である。「ヤマ」は日本語では「山」で、「トト」は「父」であった。「鶏(とり)」に餌をやるときのかけ声は「トォートット、とぉーとっと」である。「天台宗・比叡山」と「日吉・山王山」は同じ場所に重なって存在する。もちろん、先に「神の山」で、「神のお使いの猿」が棲んでいた所に後に「仏の仏閣」が重なって行ったのだ。  「リン」は「霊能者」と言う言葉である。日本語の「りん」は「鈴(すず)」であるが、「すず」は「珠洲」であり「錫」でもある。「リム」で、「卜占の巫・イタコ」ならば、漢字を充てるなら「裏(うら)の務(つとめ)」か、「離(はなれ)て無になる」か、「易詫呼・潮来・分姑」のことだろう。とにかく、「仏壇のリン」は「死者」に対する合図の音響道具ではある。 「マガダ王国」は私のイメージで漢字を充填するならば、「摩(摩天楼)の賀(国)の拿(合併)」であろうか。  「クシャトリナ王朝」は「句写鳥(酉・渡里・止利・都里)名」で、まさに古代エジプトの「トト=朱鷺(とき)」の姿の「書記・記録の神」であり、「宮舎鳥名」は「南方の朱鳥」か、鳥に関連する「翼宿」、「尾宿」である。  「ブラーフマナ時代」に於いては、君主の重要な職務は祭祁と軍事であった。「祭祁」は「『ラージャスーヤ』と云って、儀礼服をまとい、司祭によって塗油され、『虎の皮の上を歩き』、乗馬して襲撃する模擬演習に参加し、弓矢をたずさえて四つの方位のそれぞれへ征服者として歩む」儀式である。  「マヌ法典」は、「マーナヴァ・ダルマシャーストラ」と呼ばれ、その法(ダルマ)による「サピンダ親族」とは「家長を中心とした上下各三世代、父、祖父、曾祖父の直系尊属三代と子、孫、曾孫の直系卑属三代を含む七世代の男系親族」、スナワチ、「七親等」であるらしい。「三・参・3」と「七・漆・7」の意味は既に述べたが、ここでは「纂(3・餐・産)」の「質(7・執・室)」なのだ。  ならば、私が意図的にカタカナの部分に漢字を充てれば、  「巻穴場亜=(マァナバァ)」、  「拿留真・舎吾(舎人親王はワレ)       ・写娃(写したのはヨシ)       ・写蛙・写しカエル)・諏・虎=(ダルマシャァストラ)」  で、「作品拿(サヒンダ)」ならば、「拿(あわした)仏典=品(ホン・ヒン)」の「作(差)」。文字通り作品(日本書紀・古事記)は外国の諸経典を合併した、である。もちろん、「ヒン」は「牝(めす)・賓(嬪=妃・きさき=娃)・斌(彪・絢・文・あや)」である。  そして、このダルマ(法)には「現家長は曾祖父までの上三代に米飯でつくった団子(祭菓・ピンダ)を供え、故人となれば曾孫までの下三代から祭菓を供えられる。」と記録されているらしいのだ。  「サマーノーダカ(水をもつもの)親族」は「上下六世代を含む十三世代の男性親族」に水を供えることで、「十四親等」の供養を定めたモノである。日本ならさしずめ、「ミツを持つ姓名の親族・ミツの地名を有する親族」となろう。「水供養」で、英語の意味を採るならば、「サマー・ノー・ダ・カ」は「サマー(夏)ノゥ(無・否)・ダ(da=父あるいは、damn=呪い・dear=高価)・カ(calm=おだやか・しずめる)」である。あるいは日本語をコジツケて考えてみるならば、「サマ(沙間・娑魔・浅間・座間)」、「ァ(亜・蛙)」、「ノ(乃・スナワチ=沙の和知・砂窪地)」、「ゥ(雨・得・烏)」、「ダカ(蛇嘉・雫河・唾寡・多寡・鷹)」。示唆は「木花之佐久夜」の「火の燃え盛る八尋殿」での怒りの出産であり、「飢饉・渇水」である。  そして、「御津・水野・美津濃(美濃)」の姓名か、地名である。江戸時代の「水野」と云えば「徳川家康の母方の親族」と「尾張春日井、出自の水野家(有名なのは忠邦)」である。「古事記」に関して漢字変換させれば、  「作巻亜之将他化(サ・マ・ァ・ ノ・ォ・ タ・カ)」              ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓              作 真 亜 之 男 他 化              沙 間 娃 乃 夫 鷹 (高・孝・隆=龍・劉・留)              座 間 吾 廼 将 多 可              娑 魔 阿 野 雄 侘 嫁              ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓              様   あ の 織 田 か(?)  である。比叡山を焼討ちにしたのは「織田信長」である。ここは、「タカ・たか」に関連する「漢字」の意味を「ミズ・みつ」と関連させて推理するのだが・・・江戸の大火には「め組」の水だ・・・そして、水の多寡は水害か干ばつであり、「隆(たか)」は「リュウ(龍・笠・流・留・劉)」とも・・・「船火事」は海に沈没である・・・ちなみにギリシャ語で「水」は「ネロ」であり、英語では「ウォータ(アクァ)」だが、経験的に私の耳は「わたぁ」と聞き取ってしまうのだ・・・「わたつみ」とは「ウミ」のことなのだが・・・とにかく、インド語の「音」に固執して漢字変換をしてみたい。  「プラーフマナ(祭司階級)」=「婦の羅、亜の婦、真名」  「ブラフマン(神権階級)」=「武ら不満・府の羅の不満」  「クシャトラ(王権)」=「句写虎」  「クシャトリヤ(貴族)」=「句写図裏也・宮舎鳥野(天球分野鳥の方角)」  「ヴィシュ(平民)」=「武異種・夫(婦・父)意趣・賣(倍・梅)種」  「ヴァイシャ(土地所有の平民・後に商工業者)」=「婆医者・歯医者」  「医者」は「巫」であり、「匠」であり、「土木建築の長官」でもある。いわゆる、「科学技術者」なのだ。江戸時代に「蕃社の獄」で弾圧された「渡辺華山」や「高野長英」などが中心となった「尚歯会」と言う「蘭学者」の組織があったのだが・・・  「ヴァリア」は「賎民・皮革業者」であるが、「婆(バ・葉・言葉)、亜(ァ・あまねし)、裏(リ・うら)、蛙(ア・かえる)」である。  階級の身分秩序は「①バラモン ②クシャトリヤ ③ヴァイシャ ④シュードラ」と「ダルマ(法)」に記録されているが、これを日本語に重ねるならば、  ①バラモン    ②クシャトリヤ ③ヴァイシャ   ④シュードラ   葉羅揉む(文)  句写図裏也  葉亜慰謝州   土羅(虎・都羅)                           医者   奴羅(拉)                          石 屋   度等  「理想的な都城(ナガラ)」の構造は「①三重の堀 ②城塁 ③楼塔 ④楼門 ⑤三本の王道を東西南北に通じさせ十二門を構える ⑥都心の北方に王宮 ⑦方位別に官庁、倉庫、市場の設定 ⑧職業別に住居を設定 ⑨都市執政官による行政」であったらしい。「長柄(ながら・乍=もっぱら・那賀羅・名賀羅・那珂羅)」は「北斗七星の長い柄」の部分だが、「紫薇苑(園)」とは北極星を中心とする天体星座の「王城の配置」である。「長柄」は「大化改新」の「孝徳天皇」の都であった。「乍」の漢字は「邪馬台国」に到る道程、方角として「魏志・倭人伝」に記録使用されているモノである。  「バヒナガラ(城外)」は「場・比・長柄」であろう。  「ヴァルナ(サンスクリット語)」は、「カースト(英語)・カステー(ポルトガル語)」で、「白い皮膚の色」の意味する。「婆(葉)・亜・留・名」で、「白人の記録」なのだ。もちろん、「インド・アーリアン」はもともと「白人種」であった。  「サンヒター(本集)」は「ヴェーダの根幹(賛歌・祭詞・呪詞)」であるならば、ストレートに「纂・比・他・亜」である。  「プラーフマナ(本集説明の散文)」は「ヴィディ(儀義)」、あるいは「アルターヴァーダ(釈儀)」である。「府羅(太宰府)・亜・付・真名」、「吾・留・他・亜・婆仇」である。  「三ヴェーダ」は「リグ」・「サーマ」・「ヤジュル」の構成で、「バラモン主義」の「アグニ(火神)」、「ソーマ(酒神)」の称賛を記録している。  「アタルヴァ・ヴェーダ」は「民間の呪文・医薬、星占い」  「アーランヤカ」は「森の書」と云う意味だ。「モリ(杜・守・漏・洩・模理・母里・喪里・藻里=海苔・乗・憲・矩)のショ」で、「吾吾蘭家化=我々は蘭学者のカ」である。  「ウパニシャド」は「奥義・ある人の側に座る・秘密の奥義」で、「哲学」の意味である。「甘煮は煮度」とはネッ・・・「西周(にし・あまね)」の「テツガク」ではあるナッ。「得・葉・似・写・奴」である。  「ターイティリーヤ・プラーフマナ」、その発展した「カータカ・ウパニシャド」は「魂の本性」を扱ったモノだが、「大抵、入り、文」の「府羅吾付真名」で、「化吾多寡」が「たま・し・い」である。  「シュルティ(天啓文学)」は「バラモンの根本経典」である。「種留帝・朱留帝・珠留帝」、「株留出意」ならば「株に突っかかってコロリ、コロンだウサギをまちぼうけ」する狩人だ。「ゴッドーを待ながら」の預言文学だとはネ。  「クル」は「ジュムナー(ヤムナー)河上流の地名」で、「来る・句留」、「樹務名亜(病務名亜・家武名亜)」だろう。「パンチャーラ」は「ガンジス(ガンガー)河上流左岸」で、「番茶粗・搬茶開羅・飯茶亜羅」の「元字素・元賀亜」の「詐元・差元・左のキシ」である。  インドには多数の種族が混在する。  「パラタ族」  「クル族」  「パンチャーラ族」  「プール族」は「パンチャ(5・五・ゴを意味する)」  「クリヴィ族」  「トゥルヴァシャ族」  「プール族」  「トゥヴァシャ族」  「ヤドウ族」  「アヌ族」  「ドルヒユ族」  「ヴァシャ族」  「ウシーナラ族」  「スリンジャヤ族」  「サラスヴァティー」は「水を有する川」であるが、どうやら「カワ」とは元来「干上がっているモノ」らしいのだ。雨期に小さい川に「水が流れ、溢れる」のはめったにないインドかも・・・。  「コーサラ」、「カーシー」は「部族国家の一」である。  「アーンドラ族」は「種姓(カースト)外の者」で、「ヴァィシャ(自由民・一般平民)」である。  以下、のカタカナの漢字変換はあなたの推理と遊びにまかしたい。  「①プローヒタ(王室司祭)」  「②スータ(王の戦車馭者・式部官・吟遊詩人)」  「③セーナーニ(軍隊指揮者)」  「④グラーマニー(村長・軍官)」  「⑤サングラヒートリ(会計官)」  「⑥バーガドゥガ(徴税官)」  「アヤス(銅)」  「ナクシャトラ(月宮)」  「マナージル(アラビアの月宮)」  「リンガ宗」  「シク教」=「イスラム+ヒンズー」  「ジナ(ジャイナ)教」=「マハーヴィラー」=「ニーガンタ・ナータブッダ」  「タバス(苦行)」  「シャカ」の教えは、  「①正見 ②正思 ③正語 ④正業 ⑤正命 ⑥正精進 ⑦正念 ⑧正定」  である。  「サンガ(僧迦)」は「仏教教団」で、日本国内に存在する「山族のサンカ」はコレが語源で、「草加・日下」も関連するカモ。  「サカ族(カピラヴァストゥ人)」は「インド・スキタイ人」=「サカブッタ(釈迦子)」である。サカ、サカモト・・・「シャキャムニ(釈迦牟尼)」は「古事記」にある「大日下王」を罠に填めた「坂本の臣」ではないのか。  「アートマン」が「我」なら、「蘇我氏」で、仏教をもたらした「吾吾・渡帆(幡・搬)」である。  「ペルシャ」の「ダレイオス大王」の影響だが、「タレイオス」は「垂(帯・足・亦・又・たり)移将州」で、古代天皇の「たれいおす」を充てたモノに違いない。  「マハーバーラタ物語」で、その意味は「バラタ族の大軍記物語」である。物語をカイ摘んでハナセば、  クルクーシェートラの都、ハスティナーブラにバラタ王の末、ドリタラーシュトラとバーンドゥの二人の王子がいた。兄は盲目。弟が王。弟が死んで、兄が王となった。兄には百人の王子(カウラヴァ=クルの末)、弟には五人の王子。その後ヴーンドゥの長男のユディシュティラが王位を継承者にしたがクルの王子達が焼き殺そうと企てて五王子は逃亡。バンチューラ王国で五王子のアルジュナが弓試合で王女ドラウバディーの婿となる。帰国して盲目の王ドリタラーシュトラから国を半分与えられて、クル国王と並んでバーンドゥ王国として五王子のユディシュトラが王位につく。だが賭博で国を失い、十二年間の追放と一年の隠遁生活を科せられる。五王子はヴィラータ王のマツヤ王国に逃れ、その後、百王子がマツヤ王国を侵略するが五王子はマツヤ王を助けて撃退。そして五王子と百王子の十八日間の大戦争で五王子が勝利。クル族は滅亡。ユディシュティラは盲目のドリタラシュートラと和解してハスティナープラの都で王位に就き馬祭りを行って国を治めた。  と云うモノだ。・・・「高野長英」の逃亡に似ていなくはない・・・。  他の話しでは「貞女サーヴィトリー」と「ナラ王」が有名らしい。  「ラーマーヤナ物語」は、  コーサラ国の王ダシャラタにはラーマ、バラタ、ラクシャマナの三人の王子がいた。ラーマはヴィデーハ国の「ジャナカ王」の娘シータを妃として衆望があった。国王はラーマに国を譲りたかったがバラタの母「カイケーイー」が反対し、バラタが皇太子となり、十四年間ラーマとラクシュマナはダンダカの森に追放される。だが国王の死後バラタは王となることを拒み、ラーマを迎え入れようとするがラーマはこれを拒否。バラタはラーマの「靴」を王座に据えて政治をする。ラーマは森の悪魔を退治したが悪魔の大王ラーヴァナは怒ってラーマの妻シータを奪ってランカー(セイロン島)に行ってしまう。その後ラーマは「猿王」とその大臣ハヌマトに援助されてシータを取り戻そうとする。シータは救出されて、ラーマは故国アヨードヤに帰り王位に就く。一万一千歳になって「ヴィシュヌ神」の姿となる。  と言うハナシである。「猿王」なら「豊臣秀吉=木下藤吉郎=日吉丸」で、「大臣ハヌマト」は「頗(よこしま・ハ)・奴(やつ・ド)・磨(みがく・マ)・徒(やから・ト)」で、「横島・奴・球磨・徒」は九州に領地を有していた「加藤清正」か、「黒田如水」だ。「狸王」は「家康」だが、どっちにしても「狸=獣の里」で、「田ヌキ」の「ハ・ヌマ・ト」なら「ヨコシマな沼(田沼)の徒(やから)」である。  他には「ヴィシュヴァーミトラの物語」が有名であるそうだ。 「プラーナ」は「対話形式の古伝承」である。「対話」と言えば「プラトンの国家編」である。・・・「アトランチス」は「アトラスの国」の意味ではないのか・・・英語で「アトラス」は地図であり、「アトラクション」はイベントであり、「アトランダム」は手当り次第にバラバラに選択、「アトリエ」は芸術家の仕事場である。「・・・トラ・・・」で、「おとらサン」が生息する「インド大陸の東・東南・東北」のハナシかも・・・  「ピージャ」は「種子・たね」、「クシェートラ」は「土地・領土」、「ムレッチャ」は「夷荻」で、野蛮人(異邦人・違法人)の国である。「シバ神」、「ヴィシュヌ神」、「カーラ(黒色)」、「カーリー(黒女)」。  ・・・「クリシュナ」は牧人の間に成長し、「牛の番人」で「誘拐略奪」する「半神半人」であった。  インド北西で国境を有した「ペルシャ」に眼を転じれば、  「ゾロアスター教典」は「アヴェスタ」と呼ばれる。  「アフラマツダ」は「悪=闇」と戦う「善=光」の神で、漢字の「熊」は「光」を意味する。「球磨・隅・久万」で、「たま」と云うわけだ。「サルフワターイ(君主権)」は「七つのヒンドゥーカン」である。  「メディア王国」とは「女・出・意・亜」の王国だ。英語で医者、医学、医薬とは「medicine・medical・physic」である。「mediaeval」とは「中世(5~十六世紀頃)」である。  「アカイメネス王朝」は「キュロス」が王位に就いたのだが、「ダレイオス大王(紀元前522~486年)」の時が最盛期であった。「インダス地域の征服」は「紀元前518年」である。アレクサンダー大王と戦った「ダレイオス三世」は「紀元前330年」に滅亡した。数字の「33」にも拘りたい。  「リュディア王クレスス」が「貨幣制度」を制定したらしいが、「ダレイコス金貨」が有名である。


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page