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歌・詩・百人一首・(1)-163-


     「小倉百人一首」と「現存・古事記」  和歌・・・三十一(参 拾壱)文字・・百 人一首        ↓↓   ↓↓  ↓   ↓↓↓↓↓  話掛・・・十三 (壱 拾参)文字・・・模母人壱句備        ↓↓   ↓↓  ↓   ↓↓↓↓↓  倭懸・・・重纂 (位置披露)文字・・・珀尋位地取        ↓↓   ↓↓  ↓   ↓↓↓↓↓  輪華   揉散 委地比賂胡問字・・一白人意知種  「小倉百人一首」を撰した『藤原定家(1162・応保二年誕生~1241・仁治二年八月二十日死没』は、父親が「藤原俊成」で、母親が『若狭守藤原親忠の娘、美福門院加賀』であった。彼は「京極『中納言』」、「京極『黄門』」とも呼ばれ、法名は『明靜(メイセイ≠名声、みょうじょう=明星)』であった。彼の時代の政治的な最大イベントは『承久の変(1221・承久三年七月)』で、その中心人物は幕府執権『北条義時』に敗北し、「隠岐(おき)」に流された『後鳥羽上皇』であった。「鎌倉幕府」が「朝廷」から名実ともに「武家」として「国家の実権」を奪った事件であった。  その彼『藤原定家』が撰集したと言われる『小倉・壱百人壱首(百人一首)』を「現存・古事記」と関連させて、ここで考えて見よう、と云うわけだ。例のごとく「・・」、(・・)の中の漢字や、名前、カタカナ等は「同音異字」に変換し、数字の共通項を踏まえながら・・・  彼が「京極『黄門』」と云われたのなら、同じく『黄門=中納言』と云われた人物に天下の「副将軍」と云われた『水戸黄門(水戸光圀)』が存在した。講談とTV番組では「葵の御紋付きの印篭」を見せびらかして悪人をやっつけるスパー老人、「水戸黄門」である。號を『梅里』と称し、『大日本史』編纂の中心人物で『弘仁天皇即位論者』で『水戸学派』の総裁であった。ついでに『光圀』の『圀』は唐(周)の『則天武后』が創った『則天文字の一つ』であった。同じく「天下の副将軍」と云われたのは『伊達政宗』であった。彼の分家子孫は「愛媛宇和島藩」の『伊達宗城』で、『弘化元年』に藩主となり、その號を『藍山』と称し、明治時代には『修史館副総裁』にもなった人物である。彼らには「和歌」を嗜(タシナ)むと言う「共通項」もあるのだが・・・  上々、下々を問わずチョットした日本人なら「万葉の時代」から「和歌」は誰でも作ったのだ(?)・・・だがその歌を貧しい東国の「防人(さきもり)」が「万葉文字で記録」したか、どうかは疑問だよな。「記録」していたとしたら当事の農民、庶民の教養レベル、「万葉カナ(漢字)の識字率」はたいしたモノと言うことなのだが・・・「防人の心情」をインタビューしていた記録専門係りのジャーナリストが居タンダロウさ・・・庶民が娯楽遊技として「小倉百人一首」を「カルタ」とし、身近なモノとしたのは江戸時代からであった。田舎でも普及した「小倉百人一首のカルタ」を子供達が遊びの道具として「そらんじ」ていたらしいのだ・・・意外と日本の支配権力者は「支配意図」があったとしても、昔から「よみかき、ソロバン(算盤)」を一般民衆のモノとすることに努力をしていたようなのだ。しかも下じもの人々も「よみかき、ソロバン」を身につけることを好んだようだ。日本に来た「外国人(宣教師)達」はどの時代の人であっても一様に「日本人一般」がその「教養レベル」の高いことと、「知識欲」が旺盛であることを本国に知らせている。とにかく、「娯楽遊技」としての「学問」ならばなおさら一般人はそれが「ヨシ」であったろう。しかも「王城」との接点が誰彼差別なく自作の「和歌」によって開放されているとしたならば「ことば」と「文字」を勉強するに違いない。だが、「学問」や「教養」が社会的に「ことば」として「娯楽・遊技」化するのは「余裕」があるか、逆に「余裕」がないからだ。ヒトはアソビ心なくしては生きて行けない存在である。独りではツライ(辛)ことが多いから・・・多くの人々の中でもツライ(辛)ことが多いから。  では、アソボウか・・・「小倉百人一首」に現代共通するコトバは「小倉アンパン(小倉トースト)」であるが、何故「小倉+アンパン」なのだろう?コレをすべて漢字にすると「小倉+餡麺麭(アンの入ったパン・アンメンパウ)」である。漢和辞典をを調べれば「餡(アン・カン・コン・あんこ)」は「餅の中に入れるモノで、その多くは肉類を用いる」とある。日本語の「あんこ」とは「煮た小豆をすりつぶして砂糖を混ぜたモノ・くずだまり・くず粉に酒や醤油を加えて作った調味料」とあり、トロリとした『あんかけ』のことだ。類字には『餡』の『刀』の部分が異なる、  「むさぼる(食+爪+臼)=トウ・カン」があり、  「爪+臼」の造りの類字には「とりだす、ぬく(手+爪+臼)=トウ・タウ」、  『諂(うたがう・たがう・トウ・タウ)』、  『蹈(ふむ・あるく・わたる・おこなう・したがう・まもる・あしぶみする・こおどりする・うごく・悼む・トウ・ドウ)』、  『稻(稲)』、『滔(トウ・タウ・はこびる・ひろがる・大きい・広い・長い・集まる・動く・怠る・侮る)』や『六韜三略(戦略戦術の兵法、虎の巻)』の  『韜(トウ・タウ・つるぎぶくろ・ゆみぶくろ・つつむ・おさむ・ゆるやか・寛い・正しい)』  がある。『韜晦(トウカイ)』は「才能、才知を外に現さないこと」で、「能ある鷹は爪を隠す」のタトエである。「稻=稲」の「臼」が「旧」に置き換えられているのは「音のキュウ」が同じであるからだ。「トウ」の同音異字には『溏(トウ・ドウ・池・泥・ぬかるみ)=・+唐』がある。「ぬかるみ」は「糠留実」か「額留美」とするなら『額田姫王』で、「渟(ぬま・テイ・チョウ・留める・渟泊=碇泊)」、「汎濫渟蓄(柳子厚墓誌銘・韓愈)」は「博学多才」の意味である。「渟」は『天渟中原瀛真人』に使用されている漢字で、「天武天皇」であり、『大海人皇子』であった。「瀛」は「おき」とヨム。  「麺麭(麪麭・メンハウ)=ぱん・パン」の「麺(ベン・メン)=麦+面」は「麦粉・うどん粉・メリケン粉・」で、「麪(麦+丐)」の俗字とある。「丐(カイ・乞う・願う・与える)」は「乞食(こじき)=丐子・丐児・丐戸」の意味であり、「助命嘆願(丐命=カイメイ)」の意味である。ヤッカイなことに「丐」の類字の『丐(ベン・おおう・ふさぐ)』が「麪(麦+丐)」の漢字の造りとなっているのだ。そして『・+丐(・+面・ベン・メン・おぼれる・耽ける・沈む)』の漢字がある。私のワープロには無い漢字であるから漢和字典で調べてくれ。「麭(ホウ・ハウ・ヒョウ・ヘウ)=麦+包」は「粉餅・団子」である。「麭」と同義の漢字には「麸(麩・フ)」がある。「麸」は「餃子(ギョウザ・【食+交+一+子】=【行・業・凝・仰・形・暁・尭】+【座・坐・挫】)」の「皮(かわ・ヒ)」である。「麭」は「むぎ(牟岐・武儀・武記)+面」と「むぎ(牟岐・武儀・武記)」、そして「包(つつむ)」だ。「古事記」での「牟岐」や「武儀」は「何を意味」するのかは「大国主」の別名「大穴牟遅」や「本牟田和気」、「神武」、「天武」や「文武」、そして「桓武」の「武」である。「武(戈+止)」の本来的な意味は「矛(鉾・牟)」を納めるで、「和平・平和」、「平凡・常世・床世」と云うことだ。なるほど「床屋」は「乱れたカミ」を切ってサッパリしてもらうところだな。「パン(pan)」は「底がヒラタイ鍋・天秤の皿・サラ状の窪地・沼地・頭骸骨」で、「savor of pan」とは「本性を現す」で、「shut pan」は「沈黙」である。そして「・・・を罵る。・・・に難癖をつける」とある。「パン・アメリカン(航空)」のサーヴィスが「他国(異国)人」には悪い、と云うワケだ(?)ナ。「Pan」はギリシャ神話で「オルフェ(Orpheus)」に従う「角があり足は山羊に似て笛を吹く牧神・自然界の精」である。「オルフェ(Orpheus・緒留附重)=デオニッソス(出緒似晦組素)」とは古代ギリシャの「酒の神」であり、「幾何学に於ける数理」を研究した『ピタゴラス教団』の崇拝神であった。「ピュタゴラス」は「ピュタゴラスの定理」や「円周率のΠ・π(パイ)」で有名である。「pan-」は「全、汎・汎用」で、「panacea(パナシィア)」は「万病薬」である。  これはどうやら真面目な「歌人」、「詩人」、「研究者」には申し訳ないが・・・「小倉」+「アンパン」が「小倉百人一首」のスベテを説明しているらしいのだ・・・ダイタイからして「小倉」と言えば、  「小豆(あづき・めづき・こまめ・おまめ・ショウズ)」の  「こし(濾=ロ)アン、つぶ(粒=リュウ)アンのパン」  で、「アンパン」=「百人一首」である・・・ならば、「古詩の按配(塩梅)の判」で、「柘分(柘文・拓文)の案唄(安倍)の版」である。「こまめ」の「コシ」の同音異字は「虎魔女・虎間女・胡真女」の「輿・枯死・古史・古志・越し・超し・漉し」で、「ショウズ」の「コジ」なら「照頭(かしらをてらす)=則天武后」の「孤児・故事・誇示・固持・固辞・古事・虎時・胡似」、「おまめ」の「ゴシ」は「悪魔女」の「五指・語施・悟詩・誤史・御死」、「ゴジ」は「誤字・護持・互字」で、  小倉・「アン+パン」=編む+汎(版・班・犯・絆=きずな)      ↓↓ ↓↓  小倉・「百  人+一  首」=ヒャク ニン+イチシュ      ↓   ↓  ↓  ↓      比訳 人  壱  主(委値主)=壱与      秘訳 人  位置守      秘薬 尋  医智種      非役 任  夷地主      飛躍 訊  異知取(位置趣)  である。「小倉(おぐら)」=「あんこう(暗紅・暗馨・暗号・暗合・鮟鱇)」=「つばき(唾気・椿・都婆鬼・柘場記・津場記・晦端起〈基、槻=月〉)」=「だえき(唾液・拿重記・拿役)」=「たれる(垂れる・足れる・誰流・拿例留)」=「小倉(おぐら・こくら)」=「はかた(博多・伯方・波方・墓多)」=「葉過多・歯(年齢・歳年)過多」・・・三日遅れの便りをのぉ~せぇ~て~、アンコ~ゥ、ツバキは~・・・「三原山」や「波浮(はぶ)港」の場所を「ミヤコはるみ」さんに聞いてみなくチャぁ、ネッ・・・伊豆半島下田の東・・・大島、その南東に三宅島・・・あったカナ?「おぐら・アンパン」島、「御蔵(みくら)島」が「北緯33度45分」ぐらいの位置に・・・その先の南東(辰己)は「八丈島」で罪人の島流しの場所ダ(拿)。これらの島々はほとんど「三浦半島の南」にある。ついでにアンパンの『安八(町)』は岐阜県「大垣」と「羽島」の間で西には「関ヶ原(不破の関)」でラインは「北緯35度22分」あたりダ。茨城県の『水戸』は「北緯36度22分」あたりに存在するが、西に「結城」、「大田」、『伊勢崎』、このラインにあるアンコの『安中』は群馬県『高崎』と長野県『軽井沢』の間にあり、さらに西には「小諸」、「松本」、「加賀」で、そのズゥ~ト西には『隠岐諸島』が存在するのダ。『伊勢・鳥羽』のライン「34度28分」の東に『鵜渡根島』、西に『明日香』、『御所』、『和泉』、『淡路島』、『小豆島』、『広島(安古市)=安芸』、『津和野』、『阿武(34度30分)』、そして『対馬』が存在する。  あんこ・・編む拠=阿武子=案(山)子=カカシ(加賀司・加賀子)       アン(安・案・鞍・按・暗・闇・庵)拠  とは・・・鳥羽・採葉・吐葉・永久・永遠・度場  煮・・・・に・似・丹・尼・児・貳・爾・迩  た・・・・多・他・太・侘  小豆・・・あづき・めずき・こまめ・をまめ・コトウ=孤島・小島  ショウズ=秤図・照頭(てらす阿多麻、可視羅=歌詞裸、菓子等)  可視螺(にし・爾志・西)  を・・・・緒・尾・将・雄・男  摺・・・・す・刷・擦・素・簾・研磨・州  り・・・・理・里・裏・履・利  潰・・・・粒・螺・柘分・潰=(水・さんすい)+ 中+一+貝(目+ハ)                    ↓        ↓  ↓  ↓                   御津・水戸・密、 中、一  見  して・・・詞で・詩出・史出・始出・氏出・仕手・紫出・死出  砂糖・・・サトウ・差等・左党・左藤・佐唐・作読・                         『アーネスト・サトー』  を                        ↓  混・・・・ま・真・麻・摩・魔・磨        日本名は『薩道懇助』  ぜた・・・是多              文久二年幕末日本に来た英国人  モノ・・・模之・母野             横浜領事館の「通訳」  くず・・・葛・屑・玖珠・樟・楠・薬・句頭  『伊藤博文』に英和辞典を贈  だまり・・黙り・拿真理  くず粉  に  酒・・・・さけ・鮭・裂け・割け・避け・作懸  や・・・・哉・埜・耶・邪  醤油・・・ショウユ・象喩・照諭=武照愉・醤油=将+酉+あぶら(阿武羅)  を  加えて  作った  調味料・・弔未了・長魅了  トロリ・・吐露理・瀞理・図賂里  とした・・渡史多・年多  『あんかけ』  である。「小豆」とは「赤飯」の食材で「乙女の初潮」や「メデタイ時」に使用されるモノだ。平たく云えば「アンパン」は「アンコの入った饅頭(まんじゅう)」か「アンコロ餅」で、スナワチ、「萬重、萬中(萬葉集・太安萬侶)」の「案語賂(濾・漉)」である。例外は「伊勢神宮」の近辺で売られている「赤福」だが「アンコロにくるまれているのは白い餅」である。『壬申の乱』では「天武天皇」が「伊勢神宮」に向かってその勝利を祈願した。「天武方の軍勢」は同志打ちを避けるために「腕に赤きれの目印」を付けた。「大友皇子」の軍勢は、出会いでの暗合合図を「金」とした。「アンコ」とは「赤」の象徴で「平家一門の赤旗」であり、「赤族(ジェノサイド・一族皆殺し)」なのだ。ポロリと花くび(首)から落ちる「赤い椿の花」は「打ち首、斬首」の象徴でもあった。赤飯、セキハン・・・「関叛」、「背紀(記)版」の「処序の書調」、「女(おんな=音名)が出す他意」である・・・「麺麭(麪麭)・饅頭の皮・餅・餅の皮」とは「白」の象徴で、「白(あきらか・もうす・せりふ=台詞=科白・つげる=告白・かたる)・いわく(曰)」とは「言辞・元字・現時」で、「源氏」である。ここは漢和字典で「白」の意味と熟語をすべて調べてみることだ。「白虎」とは「西の聖獣」でもあった。これを動詞化すれば「虎(とら=耽羅・コ=古・子・小・雇・拠・弧・去・胡=古+月)=寅(イン)、いわく=虎を申す、虎を云えば」ともヨメる。「白」が包む「秘密の赤モノ」、「赤」が包む「秘密の白モノ」。ここでは「包まれた秘密=赤・朱=あんこゥ=暗紅」で、「垢=皮膚の汚染、衿(襟)の汚染=十一の皇后」である。「十一支=亥(猪)・北西」で、「三支=寅(虎)・北東」とは「支合」の関係である。「古事記」では「ヤマトタケル」が「伊吹山」で遭遇したのは「白猪の神」であった。『藤原定家』の時代はまさに「源平合戦・壇の浦の戦」後の「鎌倉幕府・執権、北条時政、『政子(尼将軍)』、義時、泰時」の確立期で、その要は「承久三年六、七月(1221)」の事件であったのだ。  ある「言葉(和歌)」がある「時代的状況」に填められる時にはその時代の暗喩、寓意となるのは当然である。「イト的」ならばまさに、それを「意図」しているハズだ。  「承久(ショウキュウ・ジョウキュウ・ショウく・ジョウく)」      ↓   ↓    ↓   ↓   ↓  ↓  ↓  ↓      承    仇    場   求   承  句  帖  句      証   究   常   究   譲  句 常  句      照   句得  城   扱   妾  苦 畳  句      章   求   靜   扱   擾  苦 冗  句  の  「三年=さんねん(纂撚・纂念・算年・散念・惨念・懺念)、  六 =ろく(陸・賂句)、  七 =しち(漆・詞知)、  月 =がつ(臥柘)=合掌、合唱の「がつ(合)」    =げつ(解柘)    =つき(柘記・図記・頭基=首、枕・付・槻・尽)」  「紅(平家の赤旗)白(源氏の白旗)」とは「黄白(金銀)」で、「侯伯」、「厚薄」、「幸薄」の「弘把句」、「広博」でもある。まったく「廣漠」としている「文字砂漠」の「バグ(bug)」で、はあるナ。  さて、「和歌」だが、その「歌う人物」が「置れた立場」と「歌われた主題」をタトエ知っていてもスンナリ理解するのは難しい。一つの「和歌」に対し種々に「異なった解釈」をする学者や、研究者が「たくさん=沢山(澤山)=・(水・スイ・ズイ・みつ=御津=水戸・美都)+尺(睾・シャク・ジャク)+山(サン・ザン・やま)」存在するのを見ても「ヨン」ですぐ理解できるシロモノではないコトがワカるであろう。ヤマをカケル、アタリをつけるとはどう云うことダ・・・かね。「譯(訳・おさ)」は「澤(沢・さわ)」に似ているし・・・  先ず、①「三十一文字」の古語であるコトだ。そして、②物名、③折句、④沓冠、⑤文字鎖、⑥回文、⑦懸詞、⑧縁語、⑨序詞、⑩枕詞等が散りばめられており、更に⑪本歌(本家・本懸)取りと云う他人の歌の部分も重ねられている。だからこれらの言語的な「技術」をアラカジメ知らなくては「和歌」そのもの「言葉自体の意味」を理解することは難しい、と云うことである。「写実的な具象絵画」を感性的に鑑賞理解するのとはチョぉット違うのだ。そして、「言葉自体」を理解しても、これらを駆使して表現されている「内容」は「隠されている別なモノ」なのだ。その理解は、レベル的に同じ共通の「教養」を有したモノで、その歌が作られた環境や状況、歴史事件を知っているモノでなければ難しいのはアタリマエである。敢えて云えば「三十一文字」に凝縮された真意を理解し得るのは「作歌本人」だけである・・・他者が「理解」し得るのは「和歌の文字」を媒介にした「憶測」と「推測」に尽きるのだ。もちろん、「作品」をとおしての「誤解」や「曲解」は「作家の思惑する意図」である。  「作者(意図)」→「作品」←「観賞」←「享受者(憶測・推理)」  そして、それでイイのだ。ナゼなら「アソビ」であるからだ。理解してもらいたいダケならナニも「三十一文字」でなくてイイのである。「5W・1H」での詳細な論述で理解してもらえるハズなのだ。だが、それであっても、「基礎的な言語の理解」を前提にしなければ理解は困難なのである。辞典、辞書、「虎の巻」、教えてくれる「先生」が必要なワケだ・・・「晦(三十・つもごり=柘模語理=つごもり=積後模理)日」も「次の日、翌月一(朔=ついたち=積意起置)日」もワカはクラクて、深刻な「哲学者」のアソビになっちゃったのだろう。  英文試験に於て問題提起の「設問自体が英文」で記録されてあるのはナンセンスであるカナ?・・・二重の「問題」を設定しているようなモノである。英文の設問が理解出来ない限り、本来の問題を解くのは困難であるカラ・・・「設問自体」が理解出来ないモノにとってはコタエを偶然の神意(?)にまかす「サイコロ」を転がす楽しみもナイのだ。こんなテストは意味がない。タノシクないガクモンは人生に余りヤクにたたないモノだし、ヤクにたてないものだ。ワカってくるプロセスがタノシイのだ。そして結果、ワカラなければタノシクないのだ。  だが、「かるた」は「和歌の内容」を理解しなくても子供でさえも「言葉の記憶(暗記)」とゲームルールのみで遊びが出来るのだ。似たものに神聖な神義を問う「タロット」が「トランプゲーム」なっていった。「花札」には「書かれていない暗黙の和歌の文字」が「絵」で示されているハズだ。あるいは神聖な神義を問う「サイコロ」が「博賭」の手段になっていった・・・要はそんなモノで「神の真意を問う必要」がなくなったワケだ。だが、遊びであっても「和歌(言語)」の「意味」を結果的に理解させしめるモノとして、あるいは「和歌(意図・異図)」の「内容」を「思考(試行)」させ、「言語能力」を養うものとして「カルタ」にしたところがすごかったのだ。  すなわち、カルタはゲームであるが、ゲームとなった「ワカ」自体が「ことばアソビ」としての「謎懸け」であり、「謎問い」であり、その「謎解き」であり、「謎答え」である。そして、「思考アソビ」であるから観賞者の結果の理解度は様々で、ドウでもイイのだ。「?」に対しては問題を出した人物が正解を示してくれるハズだ。だが、それがなければ、「ナゾ」の「トウ」、「トキ」もその場の関係当事者でなければ、場外にいる第三者が後からヨンで理解するのにはチョぉ~ット難しいワケだ。「手品の種」が明らかなものと示されていない限り「憶測」と「推理・推測」でオワルのだ。しかも言語の在るモノは時代的に変化していくモノであるから  「トウ(問う・読・諮・訪・訊・盗・当・逃・討・透・闘・踏・倒・統・謄      橙・塔・陶・塘・桃・刀・頭・東・藤・唐・島・等)」  や、  「トキ(解き・釈き・説き・溶き・疾き・時・時岐・斗企・鴇・穐・朱鷺・辰      土岐・土器・土記・怒気)」  は各個人によっても、時代のズレによっても、その「解釈」は複数、沢山出て来るワケだ。だから更にも増して「アソビ」になっていく・・・これは人間が「言語」を有した時からの宿命的な必然である。  「ことば」→「秘密」→「理解」→「実行・実践」→「秘密」→「コトバ」  である。「言葉の秘密」とは意図的に隠される場合と、言葉が伝達される空間的な広がりと、時間の流れの中で当初の真意が「ワカラなくなってしまう」と云うことだ。そして、その「ワザ」の学習がその「秘密」を明らかにしてくれるのだ。「言霊(ことだま)」を「霊力・呪術」のようなモノとばかり考えるから「コトダマのナントカ」の作者は逆にコトダマがワカラなくなるのだ。状況にもよるが「ことば」にこそ「意図(異図)的な力」があるのは自明ではないか。しかも「古事記」には「伊都(伊豆・医頭・慰柘・伊図=『伊能忠敬』=日本地図=輿=御輿)的な力」も秘められているのだ。とにかく、「言葉の構造」自体が、ある事態を説明させしめるモノとして「合理的」なのだ。「合理的」でないのは「言葉の構造」ではなく、「言葉で説明された内容」である。そして「音声言語の実体化」されたモノとしての「文字」があり、さらにはその「記録言語の現実化・実体化」サレる、あるいはサレたモノとして「文化・文明」があるのだ。「文化」=「文(記録文字)の実体化」であり、「文明」=「文(記録文字)に明確化」である。「言語設計」によって「実現・現実化」されないモノはその「内容」を「非合理=夢=虚実=嘘」と云うのだ。「科学技術理論」とは「言霊=言語(音声・文字・数式記号)で合理的に説明されたアルモノのカタチ(存在のあり方)」である。「コトバをモノにする」とは「モノに対する理屈の現実化・物質化」である。「催眠術」に懸かる人間は「言霊」によったのではないのか?実現しそうもない「呪術」に惑わされるのも「言霊」によったのではないのか?・・・そして「言霊」は日本独自のものでは有り得ないのだ。言語を有する種族、人種であるならば必ずその「言霊」を有し、その「言霊の内容」は「合理性」と「非合理性」に分岐し、その双方で「力」を有し、発揮するモノとなるのだ。「近代合理主義」の原点は「ルネッサンス」にあった。この「ルネッサンス」は紀元前の「ギリシャ古代文明」の「アリストテレス」や「ヒッポクラテス」等の「自然」に対する「合理的な観察と思想」、そしてその「合理的実践思想」の「文芸復興、再興」であった。にもかかわらず、「自己存在=宇宙存在の根源」を説明出来ないが故に「神を否定」したわけではなかったのだ。『新井白石』が理解出来なかった「処女懐胎」、「奇跡」、「キリストの非業の死と蘇生」は、西洋の「合理主義(科学)=非合理主義(神)」としての「人間精神」の甚だしい乖離の落差であった。ならば、彼にとっては「初発の神」も「神功皇后=胎中天皇」も「物語」であったハズだが、何故か娘の縁談を気にして「占い師」を訪ねているのだ。ルネッサンス、『流値晦(三十)産素(一)』、そして「留音図差務素」で、「留値柘作務素」である。中国「前漢時代」の朝鮮北方の古墳は「黒海沿岸」の様式と類似し、しかも「黒海沿岸」で制作された「ガラス玉(とんぼ玉)」が出土しているのだ。人間の移動は「文化の移動」でもある。日本言語の「文字文化」はたかだか「紀元712年(?)、720年(?)」ではあるが、「言語伝播」と「思想伝播」は「風林火山」のゴトクである・・・だから「アル単語」に於て「日本語(和語)=中国語(支那、中華、漢語)=ギリシャ語(希臘語)=ラテン語(拉典語)=イギリス語(英語)」には共通な接点が存在する・・・だが、何故「大和語」を「日本(ニホン)語」とするのか、何故「ブリテイッシュ・イングルシュ」を漢字で、『英』の語としたのかを考えてみるべきである。「古事記」や「日本書紀」が書き写され、「改竄」されてきた可能性のあることも・・・古代ギリシャに於いても、古代中国に於いても、古代日本に於いても事物を説明するモノとしての「言語構造」は「合理」そのものなのだ。「合理性のモノ」も「非合理性のモノ」も「言葉」で「合理的に説明」されてきたのだ。しかも「非合理性のモノ」と「非業理性の者」にこそ「人間のタマシイ」を動かす「チカラ」があったのだし、現在も発揮するモノなのだ。「アルモノ→不理解→未知→不思議(∞=無限)」であるから「気持ちが動く」のだ。「種」がわかれば「アタリマエ=合理=常識」になるのだが。だが「種の構造とその変化形態」を知ったとしても「存在自体」の説明は遥か未来に於いても無理と云うモノであろう。人間(考える葦)である限り「非合(業)理性のモノ(それ自体が存在すること)」はなくなりはしないのだ。そして「異霊(ことだま)」も、「文字霊(もじだま)」も増殖しつづけるのは間違いない。「ことばの欠落=知識の欠落(焚書坑儒)」の例は「合理的な『始皇帝』」を手っ取りばやく、即、「神=仙人」に直結させた。ヴァージョンアップし、「マニュアル」化した「単純操作手順知識」だけの「コンピュータ社会の人間」は「コンピュうた」そのものを自分の手で造らなくなるカモ。人間を「原始人以下」にすることを保証しているのだ(?)。だから幸か、不幸か「ワ・カ・(ラ)」ないことも考える必要はなくなるのだ。  「隠し味」の効いていないアンコゥはアンマリ「面白くない・旨くない・オイシクない」ネっ・・・ならば、「面赤い・旨い」、「面黒い・美味しい」のがワルイのだ。これって、まだ「生きてる奴の面の皮」だな・・・赤椿は視るモノで、白椿は香りを嗅ぐモノらしく、古語の「おもしろし」は「花鳥風月・山」や「音楽」の美しさの「感嘆」にモチいられるそうだがチガウだろうサッ?・・・「家長封解柘・纂」、「音臥句(怨臥句)」、「明白(命薄・名把句・女易把句・女医葉句)なモノ」はシロイのだ。  ・・・「メリ」は「食神・尾」だからポチャっとして面白いカナ。「出雲の神様」に感謝、感謝・・・

歌・詩・百人一首(2)

 出来上がった「和歌」は私、君、彼、彼女、誰彼のレベルを基準にして主観的にいかようにも解釈がナされても異義や、モンクは云わない。「和歌自体」があるだけである。「解釈」はその「既存の和歌」をヨム人の数だけフエ続けるワケだ。モチロン、時代の「寓意」を帯びて・・・  「和歌」は例えれば、「絵画」でも「隠し絵」的、あるいは「ピカソの抽象的な絵画」のようなモノで、鑑賞者に「視覚」即「感性」、「感情」、あるいは「直観」による「美醜」に対する「好悪」それ以上のモノを、サラには「作家の制作意図」や「時代性」なんかはまったく無視し、はるかにソレ等を越えて「絵自体」が「描写の意図的意味を言葉で理解せよ」と要求してくるのだ。ヤッカイな「思索」を「絵自体」から要求されたと「感じる者」は逃げるワケにはいかなくなるのだが、自分の知識の枠内で理屈をこね、「合理的(?)=非合理的(?)」な結論を出さざるを得ないのだ。出来上がった「絵画」が「言葉の説明」を要するなら、そんなオモシロクナイ絵画と出会うのは後免こうむりたい。だが、「和歌」は「ことば」である。「ことばにコトバが隠されている」ならバ、その「コトバ」を捜し出さねば「単なる三十一文字」で、全くオモシロクもナントモないのはアタリマエだ。「表面的な文字」から即、「感性的」なリズム感や情景のイマジネーションを喚起出来たとし、その「好感度」を得たとしても、それでオワルワケにはいかないのだ。ちなみに「三十一」とは「壱与」の年齢「一十三歳」の逆数字である。  「ワカ」とは、その「文字音の重層性」、スナワチ、  あ=阿・亜・亞・吾・窪・痾・襾・矮・娃・唖・鴉・蛙・ア・A・a  と、使用「漢字字体の造作構造」、スナワチ、  阿=阜+可=ノ+呂+丁+口  そして「文字使用のワザ」を踏まえ、その「裏の複数の異図」を読み取る「アソビ」なのだ。作る人も読み取る人も「和歌」に対しては「言語学習」による「共通な教養」と「特殊なワザの知識」が必要とされる・・・言ってみれば、「異義言語」の「変換」とその「翻訳」と考えればイイのだ。「ワカ」とは特殊な地理的環境と、歴史的な「異言語渡来人」がフキダマル言語環境によって形成されてきたモノに違いない。「日本語」の形成環境そのもののが「ワカ」を生み出したと言える。  とにかく、「和歌」に於ける言葉上の「約束」と「一般的に理解」されている「ワザの意味」を確認しておこう。  ①三十一文字(みそひともじ)・・・詩の字数を三十一文字におさめる  ②物名(もののな・ブツメイ)・・・同音異義の別なモノの名を重ねる  ③折句(おりく・セック)・・・・・あるモノの名を和歌のある部分の中に織り込む。                    例は5、7、5、7、7の五節句の頭の一文字をつなぐとある名となる  ④沓冠(くつかぶり・トウカン)・・5、7、5、7、7の五句の頭と尾の一文字をつなぐとある意味の言葉となる  ⑤文字鎖(もじくさり・ブンジサ)・数種類の歌の頭の一文字をある言葉で連鎖してつないでいく  ⑥回文(まわしぶみ・カイブン)・・とまと、しんぶんし(新聞紙)の類  ⑦懸詞(かけことば・ケンシ)・・・松=待つ、箸=恥じ等の類  ⑧縁語(エンゴ)・・・・・・・・・雨=降る、川=流れる、目=見るの類  ⑨序詞(ジョシ)・・・・・・・・・主なる言葉を導き出す為の前置きの言葉  ⑩枕詞(まくらことば)・・・・・・四、五音節の決まった言葉をある言葉に対して定めて使われる言葉。                    例、あしびき=山  ⑪本歌取り・・・・・・・・・・・・既存の歌に使用されているある言葉の部分を借用する  である。これらの「技法」が「三十一文字の和歌」に施されているのだからチョットやソットで「素人」がソレを発見するコトは難しい・・・「みそ(味噌・晦)の一(はじめ・ひとつ=比図柘・イチ=位置)」は「大豆(大頭・大唐・代図)と朔(柘意他知・追絶ち・遂質・対太刀・対経・対建ち)」等と・・・そしてその技法と意味を踏まえた上で歌の内容を理解せねばならないのだ。しかも「本歌取り(本家の鳥=養子)」である「基礎(木曽・起訴)の歌(掛)の意味」も重なっているのだから「立体=三次元」的投影と「過去の時間的な別な情景・出来事」を「ことば」でオバーラップさせる「映画的手法」なのである。映画はスクリーンを見ていればすべてを視覚的に理解させてくれるが、「和歌」は「ことば」であるから、ソオはトンヤがオロサナイのだ。しかも「百首×三十一文字=参千壱百文字」として連鎖の塊(かたまり)になっているのだから、その「仕掛花火の玉」は並のモノではないハズだ。「有機物質の化学分子式の様な連鎖構造図」である。「弾力性のあるサッカーボール(蹴球)の様な球体面(五角形+六角形)のつながり」とその「空間に詰まっているモノ」である。蹴られれば空中に舞い上がりその落下位置を変えるのだ。そして、この「蹴球構造の分解解明」、これこそが「現存・古事記」解読の方法でもあり、これらの「和歌の技法」そのモノの読み方が鍵なのだ、と・・・もちろん、「萬葉集」もであるが・・・そして「ある共通項を持つ複数の異なった歴史的事件」が「連鎖的」に重なっているのだ。現在的に「⑥回文(まわしぶみ・カイブン)」とは「回覧版」のコトではないのか・・・「暗号文の回覧版」ならば「文字解読の虎の巻」がなくちゃぁ無理と云うものだが。  「百人一首」は『藤原定家』が『宇都宮蓮生』の主宰する「京都の西にある山荘」で催された「歌会」に招かれ、『宇都宮蓮生』からその「山荘の襖(ふすま)に飾りたい色紙に書き込むモノとしての和歌」を撰んで欲しいと依頼を受け、彼『藤原定家(仁治二年八月・1241死没・八十歳)』が「嵯峨小倉山の山荘」にこもって「各百人の一首を選択(嘉禎元年六月・1235)」した「私的な歌集」であると言われている。「小倉」は「おぐら・こくら」ともヨマれ、音ヨミなら「ショウソウ」で、同音異字の熟語には「ショウソウ(少壮・尚早・焦燥)」がある。濁音を加えるならば「ジョウソウ(情操・上層・上奏)」である。そして「障子(ショウジ)の装い」や「襖(ふすま)の装い」ならば「障装・襖装」で、「賦すマ・伏すマ・臥すマ」の「よそおい」である。「小倉」の「小」は「ちいさい・お・こ・さ・ささ」ともヨム。「小夜(さよ)・小男鹿(さおしか)」のヨミである。ならば「さよ」は「査輿・作代・詐与・唆予(序)・叉世」、「さおしか」は「作将(緒)詩歌」である。そして「小倉」は「さくら」である。なるほど「嵯峨の地」は「さくら(桜・櫻)の名所」である。別意の「さくら」とは「大道商人が客寄せする為の偽(にせ)の客≠大唐承認(上人)ガ、脚与施素留、意、之似せの記訳」であり、「芝居小屋・見せ物小屋」では「タダミの見物人・無料の見物人」である。いわゆる「詐欺・疑似・虚偽」であり、「只見・多拿見」の「見物(実物)の人(ジン=尋・訊・神・壬・仁・甚・塵・陣・侭)」であるナ。  「蓮生(レンジョウ)」とは「ハス(荷=に・カ)がウマ(生=き・ショウ)レル」であるな。とにかく同音異字を採って考えてクレ・・・。  「古事記」はその「序文」を信じれば『太安萬侶(養老七年七月・723年・死没)』が『天武天皇』の「勅」を受けて『稗田阿礼』の「そらんじ(暗記)ていたモノ」を「公的に記録(和銅五年一月・712)」したもの(?)である。「ドウワ(話同)・ゴネン(語撚)」である。「日本書紀」は「720年」であった。  「(720)-(712)」=8 (ハチ・やっつ・捌)  「(723)-(712)」=11(十一・壱拾壱・とおアマリひとつ)  「(723)-(720)」=3 (サン・みっつ・参)  「723年」、「7月」、「23日」、「7(漆)・2(貳)・3」、  「7+2+3=12=十二=壱拾弐」、  「7×2×3=42=四十二=四拾弐=肆拾弐」  「七月二十三日」の数字が「壬申の乱」の『弘文天皇(大友皇子・伊賀皇子)』自刃の「月日」に懸けられているのは別項で述べたが、「7月23日」とは『玄宗皇帝』が「安史の乱(天宝十四載・755年11月9日~宝応二年・763年)」の勃発の翌「天宝十五載六月十三日」に「長安」を脱出し、「馬嵬(バカイ)」で『楊貴妃』を失い、「粛宗」に譲位して「成都」に帰還した「月日」であった。  そして「コウ(弘・こう=皇・恋・考・乞)」、「コ・ウ」のすべての音の「漢字」も既に別項で検討した。  「百人一首」が「六月、嵯峨小倉山の山荘の中院障子に書写された」とは「年表(日本の歴史・中央公論社発行)」にある記事で、同年(1235)の三月の年表記録には、  「盗賊、天武天皇陵をあばいて宝物を盗む」  とある。そして七月の記事には「春日山の神木2400本枯れる」とある。要は「百人一首」が出来た年に「古事記・序文」に登場する「天武天皇」と、「春日山の神木、弐千四百本、カレ(枯=木+古=キコ記古・記虎=借)る」なのだ。「同年の事件」と云ってもこれらの出来事に関連性があるとは思えない・・・が、「年表作成」に示唆はないのだろうか?「神木」はとにかく、「盗賊」の記事を敢えて載せる必要があったとは思えないのだが。  春日山=カスガサン=化す我の纂  ↓↓↓  シュンカサン=俊(峻・竣)の加算・・・「俊」の類字は「陵・凌」  はるびやま=葉留(張・貼)る琵(尾・備)の耶麻(哉魔・埜磨)  神木=ジンボク=訊(尋)卜・・・・・・・・・・訊(尋)    =ジンキ =壬記・・・・・・・・・・・・・壬    =シンボク=申僕=親睦=審模句・・・・・・申    =かみき =加味記=上期=上記=神記    =カンキ =漢記・・・・・・・・・・・・・かれる=借れる  「春 日 山の神木、弐千  四百本、枯れる」   ↓   科す我の纂、官記を似せん、史訳本、借れる   掛州臥 纂、漢記を偽 務、施約本、加例留   ↓   蝦(カ・鹿)・蘇我の纂、壬記を似選、代武史(読む史)、夜句、借れる  『壬申』・・・弐千 四 百 本         ↓↓ ↓ ↓  ↓         ニセンヨンヒャクホン         尼撰 肆 比訳 本(品)         ↓↓ ↓ ↓  ↓         ニセンシ ヒャクホン         似撰 史 比訳 本(翻・叛・奔・凡・盆)         にせんよんもも もと         似撰 ヨム模母 模図         爾撰 讀む模喪 基  『壬申の乱』・・・とにかく、「百人一首」には「天武天皇の和歌」は選択されてはいない。「天武天皇」は「百人の拉致外のアマリ人」である。理由は『藤原定家』がタダタンに「天武天皇の歌」を撰ばなかったダケのことである。だが、彼の「和歌」はマズかったのだろうか?「天武天皇」が人妻になってしまった(?)かっての愛人「額田姫王」に贈った「反歌」は誰かには「不味(マヅイ)」が、私は「旨(ウマ)い歌」であると思うのだ。  ・・・「萬葉集(雑歌)」の、  茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  (巻一之二十)                        額田姫王  紫のにほへる妹をにくくあらば人妻故に吾恋ひめやも(巻一之二十一)                        天武天皇=大海人皇子  の「歌」で「相聞歌」ではなく「雑歌」で並んでいる・・・独立した「歌」ならば「贈答歌」ではないハズ。「語彙の懸詞」はモチロン、この「巻一之二十、巻之二十一」の数字にも意味があるのではないのか?・・・「天武天皇(大海人皇子)」の歌番は、  巻  一  之  二十   一  ↓  ↓  ↓  ↓↓   ↓  カン イチ シ  ニジュウのイチ  ↓  ↓  ↓  ↓↓   ↓  古事記序文 詞 弐拾  の壱・「シ」のすべての同音異字       ↓  ↓ ↓     ↓  ↓    女+台=始 二重  の位置=子(了+一=終始)・生死(甲子)          司 二重  の位地=二従位(尼従位)    女+市=姉 二重  の市=似拾の壱=似、獣医(重囲)、治(地)  である。「の」とは「之=シ・これ・ゆく・いたる」であり、「の・ノ」の同音異字には、  「ノ=野(ヤ)・乃(すなわち)    =廼(ダイ・ナイ・すなわち・なんじ・廴+西)    =埜(の・木+木+十+一)    =幅(はば)    =能(よく・ム+月+匕+匕)    =納(おさめる・糸+内)」  があり、「納」は「ナ・おさめる・ノウ」である・・・「名(拿)」を「納める」、「能(脳・悩)」は「芸能に納める」で、「能芸・農芸」にも納める「名」である・・・「ひたい(額)の中には脳」があるワケだ・・・「額田姫王」は「十市皇女(大友皇子=『弘文天皇』の嫁)」の母でもあったのだが、ここに詠まれている場所は「標野(しめの)=立入禁止」の「染料、薬草農園」である・・・「ぬかだ」と訓ませているのも怪しいが・・・  「吾懸音作素(あかねさす=赤音指す・赤子刺す・朱音挿す・朱根砂州・茜さす)、選良、占領」で、「貫懸拿(ぬかだ)」カモ・・・本来は「ひたいだ」であるはずだ。  紫   のにほへる妹 を にくくあらば人 妻 故 に吾 恋ひめやも  ↓  むらさきのにほへるいもを にくくあらばひと つまゆえにわれこひめやも  ↓                 ↓           ↓  務等左記埜似補経留意模を 似句供娃拉場比等 柘真由重似話例虎比女家母        ↓             ↓              ↓        ↓   にく=肉(じく・字句)=宍・月・舟     ↓        ↓                 ↓          都間癒重荷吾励子姫  武羅   埜=キキ十一(記紀重位置) じく=字句  肥土図磨結重似話齢拠比目埜模                          軸・竺(印度=磁区=地区)  「ぬかだ=濡華田(嬬寡妥)」・・・母(額田姫王)=娘(十市皇女=大友皇子のヨメ)ではないのか。詠嘆、反語の係助詞「やも(め)」、古語の文法は微妙ダナ。コヒ、メ(むすめ)の「後家」、「八面(八方)」・・・「紫(シ=死)」=止+匕(牝)+糸(幺小)?  それよりも「額田姫王」の「和歌」は『萬葉集』の「巻一之二十、巻之二十一」の数字に関係するものだが、「皇極天皇」時代(大化四年・648)に天皇の代作歌として「巻一之七の歌」があり、「斉明天皇」時代(斉明四年・658)に紀伊の温泉随行時に「巻一之九の歌」、「斉明七年三月望月頃」に有名な「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の「巻一之八の歌」がある。「斉明天皇」は同年「七月」に死亡であった。「天智天皇」時代(天智六年三月・667)の近江遷都の時に「三輪山鎮魂歌」を詠んだ「巻一之十七、十八」、そして翌年(天智七年五月五日)に詠んだモノが前述した「蒲生野の薬草採取時」の「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。「天智十年十二月」に天皇死没した時に「巻二之百五十一の歌」を歌い、翌年六~七月二十三日(蟹座の終わり、獅子座の始まり)の『壬申の乱』期間に「天智天皇を埋葬」した「巻二之百五十五の歌」を詠み作った。その後「持統四年五月・690」に「明日香京」で『弓削(ゆげ)皇子』との「贈答歌」がある。整理すると、  大化(孝徳)四年・・・・ 648・・・・・・巻一之七の歌(詩・唄)  斉明四年・・・・・・・・・・658・・・・・・巻一之九の歌  斉明七年三月・・・・・・ 661・望月頃・・巻一之八の歌  天智六年三月・・・・・・ 667・・・・・・巻一之十七、十八の歌  天智七年五月五日・・・668・・・・・・巻一之二十の歌  天智十年十二月三日・671・・・・・・巻二之百五十一の歌  『壬申の乱』・・・・・・・・672・・・・・・巻二之百五十五の歌  持統四年五月・・・・・・ 690・・・・・・『弓削(ゆげ)皇子』との「贈答歌」  である。「歌(うた)」は「詩(シ=史・死・歯=年齢)」、「唄(バイ=倍・売・媒・楳・梅・毎・妹)」でもある。「巻二之百五十一の歌」、「巻二之百五十五の歌」とは何を示唆するモノなのか(?)は「漢字(幹事・監事・桓子・間児)施、壱百五拾壱」と、「壱百五拾五」の同音異字である。「百」は「百済」であるならば「五十一代天皇」は「桓武天皇(山部皇子)」の子供の「平城天皇」か「嵯峨天皇」である。「五十五代」は「文徳天皇」か「清和天皇」である。これは「天智」の子供「弘文天皇(大友・伊賀皇子)」を「三十九代天皇」として認めるかどうかで彼以後が一代ズレるのだ。「光仁天皇(白壁王子)」と「桓武天皇(山部皇子)」は「天武系」から「天智系」の転換点であった・・・当然にも歴史は「武を桓(墓穴の四隅に立てた目印の柱・カン=貫・陥・換)」して「纂の部」は改作、「改竄」されるのだ。  記録された「古事記(712)」も「萬葉集」も「日本書紀(720)」も、その「天智・天武のメイン事件」の時代は「初唐三代(李王朝の高祖・太宗・高宗=則天武后)」で、「645年」前後、「663年」前後、「672年」前後である。『額田姫王』と『弓削(ゆげ)皇子』との「贈答歌(ゾウトウカ)」とは、濁点を省くなら「ソウトウカ」で、  相当化・総統下・争闘禍・掃討蝦(鹿・蚊=虻=阿武)・想到(華・家)  となり、「蝦夷・入鹿」=「阿武・中華」で「総唐化」ではないのか?・・・明治時代なら「修史館の総統の下」であるかな・・・『伊達宗城』は幕末「文久二年」に「幕府参与」で「大政奉還建白」の中心メンバーで、後には明治政府の「大蔵卿」、「修史館の副総統」であった・・・『弓削(ゆげ)の道鏡』とは「称徳・孝謙女帝(749年7月即位~宝亀元年・770年8月死没・五十三歳)」の側近で「法王」でもあった。そして「十六歳」で「唐」に渡ったとされる『阿倍仲麻呂』は女帝と同年に「七十歳」で死亡しているならば、「698年」に誕生して「714年」頃には唐にいた。彼の中国名は『朝衡』で、『玄宗皇帝』にも仕えた。帰国を試みるも船は『安南』に漂着してしまったのだ。  さて、「1235年」の年表記事「盗賊(トウソク)、天武天皇陵を暴(アバ)いて、宝物を盗む」を  「盗賊(トウソク)、  天武天皇   陵を暴(アバ)いて、宝物を盗む」  「盗賊(トウソク)」が「天武天皇」の「陵を暴(アバ)いて、宝物を盗む」  「盗賊(トウソク)」の「天武天皇」、「陵を暴(アバ)いて、宝物を盗む」  「が」、「の」の意味と、「ゝ」のある位置によってはまったくその意味が異なってくる。「の」であるならば、主語の「盗賊」は「天武天皇」ともなってしまい、「宝物」を盗まれたのは『弘文天皇(大友皇子=伊賀皇子)』である。「天武天皇」の病は「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」のタタリであったとの説もある。また、この「剣」を「新羅の僧」が盗んで捕まったとの記録もある。「源平合戦」で「壇の浦」に沈んでしまった「剣(ケン)」が、何故か現在的に「尾張名古屋」の「猿田彦」も祭られている「熱田神宮」にあるのだが・・・「replica=レプリカ(例譜理掛)」・・・「つるぎ(都留義)」を「佩(はいて)=吐・矧・履・噴・掃)」、「ケン」を「懸ける」である。これは地名である「県(縣・懸)」である。「相模」、「筑波」での「ヤマト建」の物語に於ける地名である。  しかも「陵暴」の熟語は「人を凌ぎ乱暴するコト」である。また「陵国之変」、「桑滄之変」は「詩経」にある「十月(神有月=カンウツキ・神無月=カンムツキ)之交」の編にある「世の中の変化の激しいこと」である・・・「観鵜(・=持統)柘記」、「桓武柘記」・・・?・・・「盗賊」が、  陵(リョウ・みささぎ)=はか=墓             =おか=丘・・・ゆるむ=緩             =たか=高・・・のぼる=登・こえる=越             =しのぐ=凌・・おとろえる=衰             =あなどる=侮             =おかす=犯・・おそれる=恐・せまる=迫             =とぐ=磨・・・けわしい=険しい  陵墓(リョウボ)=みささぎ=味差詐欺=あま(甘)い、から(辛)い=曖昧                    =にが(苦)い、す(酸)っぱい                    =しょっぱい(鹽辛・塩辛)     みささぎ=三朝議(サンチョウギ=山頂祇・纂重義)     竜  母  みささぎ=観座鷺=鷺(鷲=アルタイ)座を観察     劉  母       =御坐前=ミササの前(咲)・・・迩々藝命                 =おんささき=音叉詐欺・音差作儀           みささぎ=巳座叉輝=蛇座に交叉する輝き                  神医のエスクラピウス、予言者ラオコーン          =ミサ(sissa=彌撒・祈祷書・キリスト教の祭式)            +            + 賛美歌=ベートーベン作曲、ミサ曲123番           サギ=ミサ作議=鎮魂の祭礼儀式          すべての漢字の「ヒ」=「比文の番」=ひふみつがい                        「秘文のつがい(双)」  の「宝物」を盗むならナラバ、「宝物」とは「皇極=斉明女帝(宝姫・財媛)」で、「蘇我蝦夷・入鹿」にとっても、「天武天皇」にとっても、「孝徳天皇」とっても、『古人大兄皇子』にとっても「盗賊」とは「愛人」を盗み、「母」を盗み、「叔母と妻」を盗んだのは「天智天皇(中大兄皇子)」と「中臣鎌子」となるのダガ。しかも似ている話は「安康天皇」と「雄略天皇」のハナシである・・・日本語は「ゝ(点・テン)の位置」がかわるだけで微妙になってしまう言語である。モチロン、同音異字漢字を充て、「トウゾク(等続・等属・唐族)」で「唐即・唐則」の『天武天皇』ならば、『唐(周)の則天武后』になって、私の「妄想」である「天武(天無・空夢・典務・虚無)転之胡」にピッッタンコ(比柘図単語・比柘都耽子=日本書紀記載の『耽羅皇子』=とら(寅)皇子=虎の往事、往時)であるのだが・・・  「百人一首」を分類すれば、  恋歌・・・・・四十三(四拾参)首・・・よそ余りみっつ  四季歌・・・・三十二(参拾弐)首・・・みそ余りふたつ  併せて・・・・七十五(七拾五)首・・・ななそ余りいっつ  残り・・・・・二十五(弐拾五)首・・・はたち余りいっつ  合計・・・・・・・・・・壱百 首・・・もも  親子の関係・・三十五(参拾五)首・・・十八(壱拾八)組  「親子の関係が三十五首」とは、「親・子・孫」の関係での「三(参)首一組」があるからだ。  親・・・「源経信(つねのぶ)」・・・祖父  子・・・「源俊頼(としより)」・・・父親  孫・・・「俊恵(シュンエ)法師」・・子  この「百首の分類別」はまだまだ出来る・・・人物の職業、地位、男女別には、  天皇・・・・・・・・・七(漆)首  親王・・・・・・・・・一(壱)首  女帝・・・・・・・・・一(壱)首  内親王・・・・・・・・一(壱)首  母親・・・・・・・・・二(弐)首  官吏・・・・・・五十八(五拾八)首・・・伍足捌・・・いそ余りやつ  女官・・・・・・十七(壱拾七)首・・・足漆・・・・とお余りななつ  坊主・・・・・・十三(壱拾参)首・・・足参・・・・とお余りみっつ  合計・・・・・・・・・・壱百 首・・・・・・・・・もも  男性の歌・七十九(七拾九・漆足余り仇)首・・・・・ななそ余りここのつ  女性の歌・二十一(弐拾壱・廿壱・念壱)首・・・・・はたち余りひとつ  合計・・・・・・・・・・・・・・壱百 首  である・・・「古事記」で「伊邪那岐」と「伊邪那美」が、  「なりなりて、なりアマルもの(凸・♂・+)=成成而成餘處一處在」と「アワセ=胡以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而」  「『子』を産もう=以為生成國土。生奈何)」  と言っているカ所は「シーサイドホテル」で「ベットイン」して「サカナ」になるダケのことではないようだ。しかも「子を産む方法」が間違っていたために生まれた子供は「蛭子」であった。この「方法」を正しくすれば「五体満足な『子』」が生まれて来る、と言うワケ(訳)だ。その「間違いを正す」とは、「天の御柱」を「男は左旋(我者自左廻逢=太歳星・木星の対冲にあるとする虚星)」し、「女は右旋(汝者自右廻逢=太陰星、月=太乙星、実星の木星)」して出会い、「男(おとこ・ダン・ナン)が前(先)に声をカケ、その後に女(おんな・ジョ・ニョ)が声をカケル」と云うモノであった。カケ声とは「あなにやし、え、をとめを(阿那迩夜志、愛、袁登賣(乙女)袁」、「あなにやし、え、をとこを(阿那迩夜志、愛、袁登古(甲男)袁」であった。この意味は何か?・・・各漢字の意味と、ここは古語字典で「あな・・・」と、「に」、「やし(よし)」のすべてを調べて欲しい。多分「天文学上での暦の年歳(太歳・太乙・太陰)サイクルの調整」である。  そして「をとこを」を、  「を・とこを」、「をと・こを」、「をとこ・を」、「を・と・こ・を」  として、「をとめを」を、  「を・とめを」、「をと・めを」、「をとめ・を」、「を・と・め・を」  として、同音異字漢字でその意味を採ってみろ、である。「天の御柱」は「尼(海部・海人)の御中(恩忠)」であり、「顛の音の中(なか=名化・名掛・名懸け)」、「典(添・転・纏・辿・殿・甜・槙=まき=巻)の音注」の操作、「転音の抽(出)」で「左右の旋回(浅海)、回旋(改選・会戦・海戦)」をタダセ、である。「古事記」では「御柱」とは「生まれた子供」の「人命」を数える「数詞」で、「名前」であった。『嵯峨天皇』の謎掛、「十二の子」を  子(ね)子(こ)の子(こ)・・・猫の子・・・描の詞・病の死  子(こ)子(ね) 子(こ)・・・子猫・・・・史描・・死病  子(シ)子(シ)の子(こ)・・・獅子の子・・字詞史・四肢の股・宍の股  子(こ)子(ジ) 子(シ)・・・子獅子・・・故事詞・始詞史・嗣子の志  『子(ね・こ・シ・ジ)』の音訓で、その読み方を解きあかし、「三十一歳」に「令義解の『序文』(承和二年・835)」を書き、「ボロ遣唐船」に乗船させられそうになって「遣唐副使」の役目を拒否して「隠岐」に流される(承和五年・838)ハメになった人物、「弘仁期の漢音直読」の学風人、「百人一首」にも「十一番目の歌」  わたの原、八十島かけて、漕ぎいでぬと、人にはつげよ、あまの釣舟  として選ばれ、後に「参議」にもなった少年時代の『小野篁(たかむら=多掛務・・コウ=考・クワウ=加わう)802~852』であった。もちろん、御先祖は「推古天皇」時代の『小野妹子(蘇因高)』である。「現存・古事記」をヨムには「小野家の系図と各人物の経歴、履歴」を知るべきである。ちなみに「小(ショウ・こ・を・ちいさい)」の漢字を分解すれば「小=八(ハチ・やっつ)+亅(ケツ・カチ・クワチ・かぎ)」である。「鈎」にひっかけて「ハチ」の「野=里+マ+ア」を釣り上げるのだ。彼の歌は勅撰の「古今集」にも、  思ひきや、鄙のわかれに、おとろへて、あまのなはたき、いさりせむとは  がある。幕末ならば「海女の名はタキ」とは誰か?・・・「シーボルト」の妻になった女性であった。「いさ(ざ)り=い・さり=いさ・り」、「せむ(施務・世務・背務・瀬霧・施夢)」とは何か?、それに「古事記」で「十一柱(人)の子ども」を有したのは「開化天皇」と「日子國意祁都比賣」との間に出来た息子の『日子坐王』であった。「意祁都比賣」は「おきつ(隠岐津)ヒメ(秘)」である。『日子坐王』には「建國勝戸賣の女、沙本の大闇見戸賣」に産ませた「沙本毘賣=佐波遅比賣」がいた。「開化」とは「明治の散切り頭の文明(文名・分明・聞迷・蚊名)開化」の示唆ではないのか?・・・江戸時代では「散切り頭」とは「囚人(罪人の死体)」をあつかった「非人(比人・卑人・氷人・悲人)」のことであった。  「百人一首」の「数(かず・和)」にコダワ(拘)レバ、読み込まれている「動物」は「しか・ほととぎす・かささぎ・ちどり・やまどり・きりぎりす」の「六種」。「花」は「うめ(梅)の歌一首」、「さくら・やえさくら・やまさくらの歌六首」、「しろきくの歌一首」で、読み込まれている「桜」は「六(陸・リク・むっつ)首」で、理句、裏句、履句、「狸、莉、梨、鯉、璃、裡」の句で、「痢苦(リク)」は「ゲリ(解理、外理)の句」、「蹴り句」で、「李句」で、「むつ」ならば「陸奥」と『武都』である。「唐王朝」は「李氏」であったし、国号を「唐(トウ)」から「周(シュウ・チョウ・まわる・あまねし)」に変えた『則天武后』は『武照』であった。『玄宗皇帝』の后は『武恵妃』であった。そして医者の「江仲遜」の娘であった『梅妃』も後宮の愛妃であった。唐時代には有名な「歌人」の『李白』や『白楽天(白居易)』も存在した。「月」が「十一(壱拾壱)首」で「風嵐」も「十一(壱拾壱)首」である・・・重壱、重位置、重位地、重市である。「紅葉の歌六首」、「鹿の歌二首」で、・・・揉み字、史家、詩歌、市価、紙価、志賀、歯科、詞掛である。  「分類」に拘れば切りがなくなるが「他のモノ」も検討して調べる価値はあるハズだ。一般的な「和歌」の自然観は「花鳥風月」で、「山紫水明(纂詞御津名=纂史水戸命)」であるらしいが「存在するモノのスベテ」を読み込んで「何」かをイイタイのであろう・・・「命(いのち・みこと=尊)=メイ=名」のアリ方、トリ方にツキるコトをコウ(乞)、である。  そして「百人一首の一番目」は『天智天皇』であった。「カルタとりの冒頭」では「百人一首以外の歌」を「ヨムならわし」になっているそうだ。「誰の和歌」をヨンだのであろうか・・・番外、拉致外は「天武天皇」・・・?  「天皇」を「すめろき・すめろぎ・すめらぎ・すべらぎ」と云うのだが・・・「音」をとるなら言語学者は「漢字=真名字」で採ればイイものを・・・「素女賂基」、「諏女賂伎」、「素女羅祇」、「素部羅祁」等と。  「壱百首」。  もし、あなたが「ワードプロセッサー」を持っているなら先ずは「各一首の歌」をすべて「ひらがなで入力」して「一括変換」をし、その「変換文章」をヨンでみるがいい。歌の平仮名には「濁点(ゞ)・半濁点(〇)はナイ」ので、これも「だくてん(拿句典・拿句転)」、「はんだくてん(版拿句典・藩抱く天・叛諾天)」の「内(乃・亡・名意)」と考慮する。次に「歌の意味内容」がとおるかどうかを試し、次には「歌の頭の一文字」だけを任意の同音異字に変換し、他の全体の文字がどのように漢字に変化するのかを検討してみよう。もし文意がとおれば、それは従来の「歌の意味」とは異なったモノになっているハズだ。文意がとおらない場合は「次の文字」を最初の文字との関係で文意がとおるように変換し、残る他(多)の文字もそれに関係して文意がとおっているかどうかを検討してみるのだ。この繰り返しを最後の「三十一文字」までやってみて、異なった文意を採っていくのだ。いくとおりにも「同音漢字」の置換、変換で「歌の意味」は異なったモノになる・・・あとは、あなたの教養と知識範囲での歴史的事件を踏まえて意味を採っていけばイイ。「三十一文字」はアッチコッチにテレポーションしていく・・・あとは推理と憶測の「・・・ダロウ、カナァ~」があるのみである・・・

    「小倉百人一首」と「現存・古事記」(2)  さて、カルタ遊技の開始は読み手が「カラうた」を歌ってカラなされる。だから「歌」は「一〇一(百一・壱百壱)首」が歌われるのだ。「101(一〇一)」の文字句パターンを「回文」と言う。「一〇一(イチ・丸・イチ)」の形状は「東の海平線(水平線・地平線)からの夜明けの太陽の上昇と、西の海平線(水平線・地平線)沈降、沈没」である。そしてこれを漢字にしたモノが「亘」である。音訓で示せば、  亘=タン・セン・カン・ガン・コウ    わたり・もとめる・めぐる・のべる    つらなる・通ずる ・・・・・・・・・・    きわまる・きわめる・・あまねし・・ひろがり    のぶ ・・・・・・・・・・  で、姓の『亘理(わたり)』、『亘尾(あさお)』の「亘」である。そして、「亙(コウ)の俗字(二+舟・二+月)」である。ならば「亘の本字は亙」である。「亙の類字」は「互(たがい・ゴ)」と「瓦(かわら・かわらけ・ガ・グワ・ゲ・)」である。「瓦」は重さの単位の「g(グラム・gramme)=ジィ」の当て字であった。音を採れば「g(ジィ)=辞意・字意・字異・事異」である。「瓦」の当て字なら「瓦斯(ガス)」である。『瓦解氷銷(旧唐書・李密伝)』、『瓦解土崩(准南子・泰族訓)』の諺(ゲン・ことわざ)は「崩れ落ちて飛散霧消」することだ。ならば「一〇一」は太陽の「落日・落陽・洛陽」の様である。 「一〇一」  「亘(タン・セン・カン・ガン・コウ     わたり・もとめる・めぐる・のべる・つらなる・通ずる・きわまる     きわめる・あまねし・ひろがり・のぶ)」  『亘理(わたり)』・・・度会(神道)・綿里(棉積・海部族)  『亘尾(あさお)』・・・麻生(魔性)  「亙(コウ)の俗字(二+舟・二+月)」=「亘の本字は亙」  「亙の類字」・・・「互(たがい・ゴ)」=相互(総語)          ・・・「瓦(かわら・かわらけ・ガ・グワ・ゲ)」  河原(川原・香春)=河原乞食=瓦誇示記(こじき)                      ↓              ニュース=情報誌=瓦版=新 聞 紙                 ↓               回覧版=回文=しんぶんし           「瓦」は重さの単位の「g(グラム・gramme)」                     「瓦斯(ガス)」  『瓦解氷銷(旧唐書・李密伝)』       ↓      銷(ショウ・とく・とける・とかす・ちる・つきる・ほろぶ・消す        消える・そこなう・へらす・ちいさい・おとろえる        スキ=田畑を耕す鍬、鋤        ハリ=布を広げる針)                         きたすじ やすとき  『瓦解土崩(准南子・泰族訓)     記他素字 安 解(靖朱鷺)               ↓        ↓           「泰(タイ・やす)」は「北条泰時」の「他意の訓」  「崩れ落ちて飛散霧消(ヒサンムヒョウ=比纂務表・比算務表・日残務表)」                  ↓                ヒサン   崩 落=豊落、宝絡・悲惨 武兵・・・・「豊落」=豊臣の落ち武者        ↓       比(毘=「備州、尾州、琵州」纂の夢漂・毘=へそ)        ↓        補得羅苦・豊酪・法楽(方角・法学・邦楽)・方落  「日本書紀」、「古事記」に於て無視されている『コウ=弘=弓+ム=弘文天皇』の「音の漢字」が「水戸学派・明治政府」にとって重要なモノとして「懸けられている」のは既に述べたが、「弓」の象徴は「武士の頭領=日本一の弓とり」である。だが、「日本一の剣(つるぎ)とり」とは云わない。謂われたとしても、せいぜいレベルは「宮本武蔵」の類、剣術の名人である。天下を動かす人物のコトバではない。「弓形」とは「日本の地形」であった。この「弓形=日本の地形」が確実に確認されたのは江戸時代の『伊能忠敬』によってである。「武士の頭領=日本一の弓とり」とは近世以降の言葉ではないのか。  『伊能忠敬』の経歴  彼は「1745(延享二年一月誕生)~1818(文政一年四月十三日死没)」、享年、「74歳」であった。初名は『神保』、號は『勲解由』であった。「十八歳」で下総『佐原(さわら)』の酒造伊能家の養子になり、五十歳で隠居した後、『高橋至時』に西洋歴法、天文学、測量法などを学び『寛政十二年四月(1800)』に『蝦夷地』を測量、その後日本全土の『大日本沿海輿地全図』の作成を指揮、死後弟子達によって完成。著書に『測量日記』。死亡した「1818年」の同年、「五月」には「イギリス(エゲレス)船」で『ゴルドン』が貿易通商の交渉に来て幕府に拒絶されている。「十月」には『司馬江漢(72歳)』も死没している。  また『伊能忠敬』は、天文測量機器の改良や『高橋景保(至時の子供)』と共訳した『ラランド暦』がある質屋の『間重富(十一屋五郎兵衛・長涯・耕雲)』と親交した。  『間重富(はざましげとみ)』は大坂人で『宝暦六年(1756)~文化十三年(1816)三月二十四死没』期間の人物であった。そして『麻田剛立(あさだゴウリュウ・本姓は綾部。名は妥彰)』の門人であった。「綾部」とは「小野郷戸田」に住んだ「萬葉歌」と「柿本人萬呂」を伝承した語り部の姓ではあるナ。彼は「豊後・杵築の藩医」でもあった。著書に「算法孤矢索隠」がある。彼の門下生が『高橋至時』と『間重富』であったのだ。  『伊能忠敬』周辺の人々の「名前」、その時代の年号と年数、生死没の月日の数を注目されたし・・・そして『地理』である「地名」と、その「位置」である。 『伊能忠敬』・・異之得多拿他掛いのうただたか・・・・・・意納中継イノウチュウケイ  「1745(延享二年一月誕生)・・・・・・・・延長、享受、似撚   ~1818(文政一年四月十三日死没)」・・・一八一八・十三  享年・・経年・「7+4=十一・歳」・・・・・・七拾四(漆重史)  初名・・書名・諸名・『神保』・貫捕・漢模・・・加味、保つ  號・・・語得・『勲解由』・諌悪・伊佐将・・・・訓の解の由来  「十八歳」で下総『佐原(さわら)』・・・・・・早良・佐波羅・茶話等  「酒造」の伊能家の養子・・・・・・・・・・・・水+酉+造る・鳥子  「五十歳」で隠居・・・・・・・・・・・・・・・語重差異・音拠  『高橋至時』・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋家文書=膳部・指示  『寛政十二年』・・・・・・・・・・・・・・・・乾性(いぬい)壱拾弐撚  『蝦夷地』を測量・・・・・・・・・・・・・・・蘇我蝦夷・諮(はか)る  『大日本沿海輿地全図』・・・・・・・・・・・・輿=御輿=鶏=鳥=酉  『測量日記』・・・・・・・・・・・・・・・・・素句利用・足領・足陵  「五月」・・「イギリス(エゲレス)船」・・・・英国船(下総の國洗)  『ゴルドン』が貿易通商の交渉に来て幕府に拒絶・語留図務・語留呑  「十月」には『司馬江漢(72歳)』も死没・・・司馬=歴史=史記  『高橋景保(至時の子供)』・シーボルト事件・・掛補・懸捕・・・獄死  共訳した『ラランド暦』・・・・・・・・・・・・羅蘭(乱)土歴史  「質屋」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人質=虜=とりこ  『間重富』・・・・・・・・・・・・・・・・・・観重符・鑑重普  「十一屋」・従位地也・中一也・獣位置也・・・・十一・壱拾壱=位置重壱  「五郎兵衛」・・<>・・・・・・・・・・・・・・・語賂有経意重  「長涯」・おさがけ・訳懸け・・・・・・・・・・長害・調外・訳害  「耕雲」・たがやすくも・多賀也素句模・・・・・好運・幸運・紅雲・弘云  「大坂人」・おおざか・将捕座懸・・・・・・・・一人重位置反人  『宝暦六年(1756)・・・・・・・・宝歴、史、務撚(無念)   ~文化十三年(1816)・・・・・分化・十三・壱拾参・撚   三月二十四死没』・・・・・・・・・・・・・・御津(水戸)記二重史簿柘  『麻田剛立(あさだゴウリュウ)』・・・・・・・吾佐多合流・字多号留  本姓・綾部・・・・・・・・・・・・・・・・・・文部・彪部・彩部・甲斐部  名・・妥彰・だきょうあきら・妥協の安芸羅・・・拿章の彡(刷毛痕=葉懸後)  「豊後・杵築の藩医」・文語・記付の範囲(犯意・叛意)  「算法孤矢索隠」・作務法「虎屋」搾蔭・・・鎖無法「虚也」索音  「トラ屋の羊羹」であるな。『寛政十二年四月(1800)』に『蝦夷地(毛地=渡島)』を測量した同年の年表記事には「昌平坂学問所落成。諸士の入学を許可」、そして「富士山」に「女人に登山を許す」とある・・・「アマに(爾=時、字・似)トザン(図纂・屠纂)をユルス(諭留素)」・・・とは・・・?・・・「富士山」を歌ったのは『山部赤人』であった。「百人一首」の「第四番目」の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」と。  「姓名(セイメイ)」の同音異字が「生命・声明」で、その他(多)が、  『清名・盛名』・平「清盛」  成名・整名・・・成る名(鳴る名)・整える名(調える名)  再名・差異名・歳名  静名・・・・・・・・しづか=白拍子で、「源義経」の愛妾  斉明・・・・・・・・斉明女帝  清明・・・・・・・・阿部清明・中国の国号である「清」、「明」  西名・・・・・・・・「西施」=城傾の美女  螺名・・・・・・・・つぶ=都舞・「柘武」・晦分  星名・・・・・・・・天体の星  聖名・・・・・・・・聖人の名  青名・・・・・・・・藍名=伊達「藍山」  成盟・・・・・・・・攻守同盟  施意女位・・・・施す意味はオンナ(音名)のクライ(句拉意)                            ↓                         泣く・哭く・叫び  ならば、『山部赤人(やまべのあかひと)』の姓名は「サンブセキニン」か「サンブセキジン」とはヨメる。「纂部責任」か「三部籍人」、「壬申の乱」の「山武関陣=不破の関」ではないのか。『山部赤人』≠(=?)『山部王(桓武天皇)』+『あかひと』≠(=?)『天武天皇(赤布)』≠(=?)『平清盛(赤旗)』=『赤族=一族皆殺し』である。すなわち、彼の歌は「滅亡氏族」の「挽歌」、あるいは「惨歌」である。しかも、「第・四(シ=死・ヨム・肆=長+聿=長のハジメ=訳のハジメ)・番(バン・つがい=対)・目(モク=模句・め=女・まな=真名=漢字・まなこ=真名虎=愛子=清姫)」である。「清姫(蛇・おろち)」の懸想した相手は『安珍』であった。  殿子之廼捕尼(児) 得地 遂出弖水霊場  ↓  デンシノホニ  ウチ スイテミレバ  ↓  田子の浦に   うち 出でてみれば  ↓  他語の裏爾(似・丹)、得知(討ち・家・内・中・雨血・有地)意出て見れば、  ↓  薄     命   之 武士 之  ↓  ハク    ミョウ  ノ フシ ノ  ↓  白     妙    の 富士 の  ↓  詞賂(呂)、多恵(絶え)の、不時(不二・譜似・臥詞・伏史・武士・節)の、  荒    霊 迩 背都者 皇 都柘  光(熊) 例 似 説 葉 交 星々  (コウレイ=恒例・高齢・好例)  ↓  コウ   レイニ   セツハ コウツツ  弘例・皇例・后例  高    嶺に    雪 は 降りつつ  孝例・考例  ↓  多(他)兼ね似(爾=字)、諭記葉、振り柘図  「考例」は「赤たま(霊)=太陽(日)=烏(ウ)」と「白たま(霊)=太陰(月)=兎(ウ)」の確執である。太陽と月が重なるのは「新月=晦日(三十日)・朔日(一日)」である。そして、文字音で重なるのは「烏=ウ=兎」である。「陰暦」では有り得ない「太陽暦の三十一日」の「付詞(不死)」である。だが、『藤原道真』はその日記に「曜日」を記録していた。当時の貴族階級の人々はハイカラ好きであったから「西洋暦」の知識はあった(?)カモ・・・  「和歌」、「百人一首」の「第四番目」の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」・・・トクに別項で前述した「小倉百人一首」のヨミ方を踏まえて「現存・古事記」を「同音異字」でヨムとするならば、「歴史的な事件の下限」は「幕末・明治の事件」の「海抜0地点」から上陸し、一合目の麓(裾野)を出発点にし、二合目、三合目の各時代への「螺旋的な重なり」へと登っていくのだ・・・もちろん、「上限」の『富士(ふじ=不治・不時・不二・不次・扶持・武士・武事・父子・節・蕪辞・無事・藤・五倍子)』の山頂は「3776メートル」で、「空気が気薄」・・・「白江村の海戦敗北(663年8月)・壬申の乱(672年7月)=赤印の勝利」である。そして、この「白江村の海戦・壬申の乱」を頂点として「幕末・明治の事件」へと降って存在論的に展開してある、と云うわけだ。  「白江村の海戦・・(663 年 8月)」  「壬申の乱・・・・・・(672 年 7月)」  「弘文天皇死没・・(672 年 7月23日)」   ↓  「額田王死没・・・・(668 年   )」  「古事記・・・・・・・(712 年 1月)」  「萬葉集・風土記」  「大伴家持生死没・(718 年   ~785年)」  「日本書紀・・・・・・(720 年 5月)」  「藤原不比等死没・(720 年 8月)」  「太安萬侶死没・・・(723 年 7月7日)」  「舎人親王死没・・・(735 年11月)」   ↓  「承久の乱・・・・・・(1221年 7月)」  「北条政子死没・・(1225年 7月)」  「土御門上皇死没・(1231年10月)」   ↓  「小倉百人一首・・(1235年 6月)」   ↓  「後鳥羽上皇死没・(1239年 2月)」  「藤原定家死没・・(1241年 8月)」  「順徳上皇死没・・(1242年 9月)」   ↓  (明暦3年=1657年)   ↓  「千姫(天樹院)」が「将軍家綱」に「百人一首」を贈る1月  「林羅山死亡・・・(1657年 1月)」  「水戸光圀が大日本史編纂開始・・2月)」  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・「弘文天皇即位公認(1870年7月23日)」=明治3年7月23日  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  「すべての数字」に関しては「奇数=半=記の話は叛」、「偶数=丁=寓の話は帝」、「基数に還元するモノとしての加減乗除(+|×÷)」、「和積商」、「∥・=(等・同等・equal=イコォル・異句折・異虎悪留・異姑将留)=二・Ⅱ・2・弐」、「・・・=三点(参天・山点・山槙・纂典)=余り数=尼理の和」、「分数=和気の和・訳の話」、「音(ね=根、値、寝・オン=恩、怨・遠=遠流・隠=隠岐)」と「漢字数字」としても考えてもらいたい。  「西暦1870年=明治3年7月23日」は「弘文天皇」の即位が公に認められた記念すべき(?)「年月日」であった。スナワチ、『水戸光圀(水戸黄門・梅里)=中納言』編纂の『大日本史』が認められたと云うことである。「日本史=水戸学派」となったのだが・・・これの「裏面」が「日本史=似本史=似本詩」ともなっているワケなのだが・・・「漢字」こそがその「裏面の鍵」なのである。「現存・古事記」に於いては「裏面の鍵」は「英語・希臘語」をも重なっている。では、「梅里(水戸黄門=梅里)先生」である示唆の歌は「百人一首」のどこかにあるはずだ・・・「梅花」が歌われているのは一首で、「第35番目」の『紀貫之』の歌である。この同音異字は、  「第35番目」   ↓   ダ          イサン          ジュウ ゴ バンメ   ↓           ↓             ↓  ↓ ↓ ↓   拿(柁・舵・楕・妥)違算(遺産・意纂・異纂)重  語 判 目(反目)   ↓   拿(打)意、合わせる、イサン(伊纂・位山)、語を重ねてハンメ(反女)  『紀を貫く之(シ=詞・史・使・師・氏・市・死)』である。「紀」とは「日本書紀(?)」である。彼『紀貫之(貞観十年・868~天慶九年・946)』は「女性に仮託して仮名文字で書かれた『土佐日記』」の作者と謂われ、「延長八年・930~承平五年・935」まで「土佐守」として赴任していた。「天慶三年・940」に「玄蕃頭」、その後『従五位上・木工権頭』となった人物である。「木材の産地」である「紀伊国」が「和歌山県」と言われている由来に疑問を感じない「歌人」は「ペケ」であるな。そして「唐(周)」の『則天武后(武照)』の父親が「木材商人」であったことを踏まえない「唐代・歴史」の「研究家」は「ペケ」であるな。「クリント・イーストウッド」をみない映画ファンは「ペケ」である。さて、「35」の数字にこだわれば、「第三十五代天皇」とは「推古二年」に生まれ、後家になって夫の後を嗣ぎ、在位三年間を務めた『皇極天皇(女帝・宝姫・財姫)』であった。そして更に重祚して「第三十七代」の『斉明天皇』となり、在位七年後の「百済救援、唐ー新羅(斯盧・鶏林)同盟軍打倒」の途上「斉明七(661)年七月」に「九州博多朝倉宮」で亡くなった女性である。「第37番目」の和歌は『文屋朝康』で、  「白露(つゆ=梅雨)に風のふきしく秋の野は貫きとめぬ玉ぞ散りける」  は「フカイ(深・付会・府会・不快)重なり」なのである。「和銅五(723)年七月七日」に死亡したのは『太安萬侶』であった。「7月」とは「文月(文つき)=july(シーザー=かえさる)・嬬頼・呪禮・事諭拉意(伊)・字由来=ふくみ月=質臥柘=納名賀津」であった。「紀(記)の面行き」ならぬ「日本書紀の司死(嗣子・獅子・司詞・屍師・姉始・史歯=年歳)を貫く」である。もちろん、ここでの「紀」とは「日本書紀」の「日本年号」を「西暦紀元」に於ける「換算」で貫いたと云うことである。また、「市」は死刑場でもあった。だがこの『紀貫之』の「35蕃目」の「百人一首」のこの歌には直接的に「梅花」の「文字」はないし、「つゆ」の文字もない・・・  人はいさ、心も知らず、ふる「里」は、「花」ぞむかしの、香ににほひける  この「花」が「梅(楳)」である、と言われているのだ。私にはこの「花」が「梅(楳)」であるかどうかの「資料」はないし、歌そのモノの表面からも「梅の花」である、とヨミトルのは難しい・・・だが『古今集』のこの歌に添えられている『詞書(ことばがき)』にはあった。「・・・そこに立てりける梅の花を折りて詠める」と・・・小さい頃、髪結いさんと写真屋さんを兼ねている「長岡紀子ちゃん」に桃の節句に呼ばれて、「梅の花の花の匂い」を嗅いだことはあるハズだがその「香」をアマリ思い出せない。「梅(楳)」に関しては「梅干し」か「梅漬け」で、「ウメ」と聞いただけで「酸っぱい味」は「唾液」がにじみ出るほどに強烈に記憶からヨミガエル。そして、「アマ酸っぱい匂い」である・・・当時、欧米には「梅」は存在しなかったので、英語のタンゴ(単語・端午・丹後)は日本語の音である「ume(ウメ)」そのものである。似たものには「アプリコット(apricot・あんず=杏子)」があるらしい。梅の産地は「丹後」の東に隣接している福井県の「若狭」で、「三方五湖ミカタゴコ=見方語故」のある周辺であった。『シーボルト』は「梅干し」を試食して、とっても喰えたモノじゃぁない、と云ったそうだが、航海中の常備の果物には同じ様な味覚の「レモン」があり、そのヴァイタミンCの摂取は「壊血病予防」に必須であったハズだ。しかも直接的に食べた時の表情は「クラッシュ(crash・しかめっ面=a sour face)」である。レモン紅茶か、アマイ砂糖の入ったレモンの炭酸(ソーダ)水ならば話は別だ。「レモン(檸檬)=例文」と比べられる果物は「甘いピィーチ(peach・もも)」であるが、ピィーチには「告発、密告」の意味がある・・・さて、この「和歌の花」だが、『詞書(ことばがき)』がないとしたら「梅花(華)」はどこかに示唆されているハズだが?「古今集の春上」・・・「赤色」・・・「apricot=あんず(杏子)=杏(コウ・キョウ・アン・銀杏=ぎんなん)」は、「否(ヒ・ビ・フウ・フ・いな・しからず・いやしい・いさ=不知・拒否・否認・とじる・ふさぐ=否塞=逼塞・いなや=即)」に似ているのだが、「木」の「頭が無い字が不」だ。「安否」・・・「あんず」であるカナ?  他(多)の  人は、  いさ(諌め・どうなんだかサッ?)・・・・「否」≠「杏」  こころ(気持ち・箇々賂)も(母・模・藻=海藻=海草=あまくさ=天草)  知らず(不知)、 回漕=回想=会葬=改装  ふる(譜留・振る・降る・古・二留・夫流・婦留・訃留・負留・符留・班留  賦留・敷留・府留・経留・麩留)、  さと(諭・聡・悟・聰・郷・里≠理・叉斗・査図・鎖戸・作都・佐渡)は、  はな(葉名・把名=字)、  ぞ (素・蘇・組・礎・訴・ソにテンテン、ソにニテン)、  む (務・武・牟・夢=梦=木+木+タ=危機多、機器他、鬼気詫)  かし(可視・掛詞・懸史・歌詞・華氏・仮死≠餓死・菓子=アンパン)  の (埜・野・乃・廼・之)、  か (禍・科=罪科、科目・懸・蝦)、  ほ (補・捕・蒲・穂・浦・歩・保)  に (尼)  に (似・爾=字・迩・荷=蓮、蓮華・璽=玉・丹=赤)  ほ (補・捕・保)、  ひけ(比家・比懸・引け・退け・曵け・弾け・挽≠挽歌・比企・悲喜)  る (流・留・婁・琉・瑠・屡)」


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