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「小倉百人一首」と「現存・古事記」(7)・-169-


    「小倉百人一首」と「現存・古事記」(7)  やっとこさ「十四番目」の歌を検討し終ったが残りが「八十六首」もある・・・ウンザリしてきた。「カルタ」を全部「挽歌」としてヨメと、『藤原定家』が示唆(?)しているようなのだ。人生の最大のイベントは「生死(セイシ)」であり、「セイシ」の「同音異字的事件」が連なっているラシイと、「自己本意な都合」でそれらの「和歌」を私の頭が「勝手に理解」しようとしているラシイからなのだが・・・それにしても「和歌」を作るのもイイが、「小倉百人一首」を選択した『藤原定家』もイイカゲンな奴であった。ダイタイ「歌」で政治的に出世するなんてのはドウ云う了見なのか。そして一体全体「和歌を数える数詞」を何故「首」としたのカ。国語事典には「首(くび・シュ・頚=ケイ)」とは、  アタマとドウとをツナグ細長い部分  首の部分に似た形・徳利の首、手首、足首  クビから上の部分・アタマそのもの  首を切って殺されること・打ち首になること  とあり、「人形芝居が済んで人形の首をはずす意味から転じて解雇(カイコ)・免官(メンカン)・免職(メンショク)する意味となった」、とある。要するに「使いモノにナラン奴はクビ」と云うことだ。  「カイコ」の同音異字は「蚕・甲斐湖=諏訪湖・海子=海士・海虎=鯱(さかまた=逆叉)・甲斐湖・回顧・懐古」であるな。「尾張の『古事記』・神代」の話は「養蚕(ヨウサン)産業」に務めていた奴が「解雇」され、その「懐古」の「回顧」であるらしいナ・・・「養蚕産業の地場」とは明治時代に急速に発展した「諏訪湖湖畔」あたりだ。  「繭(まゆ・ケン)」の意味には、  ①蚕虫が糸を吐き出して造った巣  ②手や足の底に生じるタコや、マメ、イボ  である。「まゆ・ケン」の同音異字が「まゆ(真喩・真諭)」と「ケン(懸・縣)」ならば、「蛸・鮹・凧・多古・多語・他語・侘語(よこしまな語)・詫語(わびる語)」や、「豆・魔女・磨眼・間女(観女・巻序・漢字与)」、「疣・異母・揖保・意模」等だ。「懸(ケン・かける)=縣・県(あがた)」ならば行政区画の都道府県の「県」である。これを最初に用いたのは「秦の始皇帝」の「郡県制」からであった。日本では「皇室の地方御領地・国司の任地の国」の意味であり、行政区画の「県(縣・懸)」は明治以後である。「県・縣・懸」の解字・字源は「首を木に逆さまに吊す・首を空中に吊す」であり、「あがた・さと・とう・むら」と訓じている。「古事記・垂仁天皇」には「円野(まどの)比売=真土野肥培」が「首をククろうとした『懸木』の場所」を「相楽(さがら・ソウガク=操臥句)=相、楽しむ」としたとあり、「峻(ふかき)淵に堕ちて死んだ『堕国』の場所」を「弟国(おとくに)=京都乙訓郡」とした、とある。「懸」の漢字は「県+系+心」である。「和歌」の「数詞」を「首」とした理由は「首を木に逆さまに吊された人物の心を懸けてヨムもの」ではないのか・・・これは同時に、  「首(くび・シュ=主・守・朱・種・株・諏・手)を   木(記・紀・企・基・箕・葵)に逆さまに吊す」で、「首=ハ一ノ目」  「くび」の逆字は、「具(そなえる・グ・具備)」に類字し、音逆は、  「びく=比丘・備句・尾句・薇句・媚句・梶句・日句・薇句・美句・鼻句・毘      句・梶句」  等である。ならば音の逆字は、                              誰の姿か?                                ↓↓   ぬし (主)≠しぬ(司奴・偲奴・死ぬ) ・・・・・・・姿濡   かみ (守)≠みか(三河・美香・見懸) ・・・・・・観蝦   あか (朱)≠かあ(懸娃・掛唖・掛鴉) ・・・・・・蚊娃   たね (種)≠ねた(禰詫・音他・寝た)  ・・・・・子他   かぶ (株)≠ぶか(部下・部課・武蚊・武懸)・・歩掛   き  (樹)≠ジュ(嬬・鷲・竪・壽・儒・呪)・・・・・需=雨而   はかる(諏)≠るかは(留掛葉・流河) ・・・・・・流川   よめ (娵)≠めよ(女与・女代・女世) ・・・・・・目代   めとる(娶)≠るとめ(留都女)・・・・・・・・・・・・・留図眼   て  (手)≠て≠2・・・・・・・・・・・・・・・テ・弖・出・載                               ↓ ↓                             小野道風  等である。ならば「養蚕(ヨウサン)」は「山陽・纂要・算用・三洋」である。「養蚕」に関して云えば、  扶桑(フソウ=伏そう・臥そう)  蚕虫(サンチュウ=纂中)  繭玉(ケンギョク=懸極・けんだま(懸多摩・懸霊・懸珠)  で、その「繭玉」に熱湯をカケて中の幼虫を殺し、「絹糸(ケンシ・きぬいと)を紡ぎ」、その糸を「ハタ(機)で織る」・・・の原材料とその生産プロセスである。「古事記」に記されているのは「機織姫」の災難である。誰がこの災難を作り出したかは、「須(ひげ)・佐(たすける)・之(の)・男(おとこ)」=「素(もと)・戔(そこなう・多い・僅か・少ない)・嗚(嘆く・悼む)」であった。そして「八拳髭」の「本田牟遅和気(品牟都和気)=本拿無知訳(支那武、科務の都、津、図、都の分)」だ。「卑下(ヒゲ)」は「卑弥呼を補佐する廼の男」で、明治代に流行った「髭(ひげ)」とは「カイザル風の髭」か「ビスマルク風の髭」では、有るナ。ならば、「千円札の顔にある髭」じゃぁないのか?  「繭糸(ケンシ)=silk(しるく=知る苦・汁苦=苦汁)」のコトワザ(諺)とは「マユの糸を引き出すように人民から次々と税金を搾りとるコト」である。また、「繭」の意味には「①蚕虫が糸を吐き出して造った巣」、「②手や足の底に生じるタコや、マメ」であった。「シルクの光沢」とも云うが「光沢(コウタク)」の「沢(さわ・澤・佐波・茶話・多い)」とは『佐波遅姫』の「沢(澤)」で、「艶(つや・エン)」だ。「つや」とは「通夜・通埜(通+キ+キ+土)=通記紀土(十一・ジュウイチ≠重位置・中位置)・通機器壱拾壱・通危機土・通鬼気奴・痛忌木戸(木戸孝允・桂小五郎)」では、ある、ナ。  「綿(棉)官」とは「ワタ作りの官吏(監督)」が「免官」された奴だ。ワタは「インド産」だが、「免官」されたのは「南北戦争終了後」のアメリカ南部の『リー将軍』配下の白色人(コケージョン・ホワイト)官吏の奴だろうサッ。「リー」とは「李王朝」の『李』ではあるな。「黒色人(ニグロ・ブラック)」を奴隷にするなんてのは「古代西欧史」には無かったことだ。「奴隷」とは「色」には関係なく「戦争に敗北した種族」で「捕虜となった奴」である。「スパルタクス(?~71)の乱」は「ローマ帝国」の「奴隷の乱」で、首謀者の『スパルタクス』は「シラルス河」で敗北した「奴隷解放の英雄」であった。「イロ」には関係なかった。『スパルタクス』の名前からすれば「ギリシャ(ギリシア)人」の象徴であったろう。「古代ギリシャの都市国家」には「民主政治家、哲学者の範疇外」に「奴隷」が存在したのだ。「古代インド」には「アーリアン」が南下して原住民(黒色・土色)を疑似(カースト制度)的な「奴隷」とした。「奴隷」とは「人間の家畜化」である。奴隷解放は「旧約聖書」にはあるのだが・・・  「面職」とは「能面」が旨い具合いに造れなかった「お面職人」の「免職」であるな。先ずは「面」を必要とする「猿楽(申楽)」、「田楽」、「能楽」の「楽士」がいたワケだ。「能楽」の大成の元(鼻)祖は室町時代の「伊賀結崎」出身の『観阿彌(清次・三郎・元弘三年・正慶二年・1333~元中一年・至徳一年・1384)』、その子供の「花伝書」を著作し、佐渡に流刑になった『世阿彌』であるらしい。だが、古流は『世阿彌』の娘婿、「金春流」の『金春禅竹(七郎氏信)』で、その遠祖は「山背葛野」の『秦の河勝』であった。「日本書紀」等には彼は「大和朝廷(推古~皇極)」に仕え、「冠位十二階」の「大仁(似)位・大花(華)位」を賜ったともあり、この「大仁位・大花位」自体がアヤシイカンジ(漢字)なのダ。彼は「推古十一年十一月(603)」、「聖徳太子」より仏像を授かり「広隆寺=蜂岡寺」を建立したと記されている。後には「新羅渡来の仏像を安置」したとも。「皇極三年七月(644)」には「大生部多」が「不盡(富士)川」のほとりで「常世の虫」を祭って人民を惑わしたとの理由で、『葛野・秦造・河勝』が彼を討った記録がある。「常世の虫」とは「橘(たちばな・キツ)」、「曼椒(ほそき・マンショウ)」に生息する「緑色で黒點」の「蚕に似た虫」であったらしいが、「蚕」そのものではなかったのか?・・・絹の原材料である「養蚕産業」の「大生部多(繭糸生産者)」と「服部(機織加工業者)」の「秦氏」の利害上の対立だ。  大生部多(おほふ   べタ   ・おほい  きべた         おほイキ  ブタ   ・だい    キブタ)         ↓↓↓↓  ↓↓   ↓↓    ↓↓↓         ↓↓意気  付他   ↓↓    ↓↓↓         多↓慰記  部詫  ・覆(被) 記部他         将捕委棄  憮詫             ↓↓            拿息(隠岐)  ではないのか?・・・「拿せる、活き豚(慰記札)」とは?・・・この事件には謎めいた「俗謡」も添えられて記録されている。  ウヅマサハ、 カミトモカ   ミト、キコエクル、  トコヨノカミヲ、  ウチキタマスモ  ↓↓  雨図間佐波 加味渡模掛 水戸 記胡重句留 図胡与埜掛見尾 雨稚気詫間簾模  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓  天図間作話 髪  図模懸 御津 基胡絵区留 何処与埜神  乎  雨和歌記珠州模  と。「うづまさ」には「太秦」の漢字が当てられている。翌年(645)は「大化改新」の年であった・・・明治の「養蚕産業」は「化学繊維ナイロン」の出現で廃れていったのだが・・・「秦造祖・漢直祖・酒造祖(仁番=にほ=須須許理)」は「古事記(応仁天皇)」に渡来した記録があり、『秦酒公』の名前を有する人物の記録も「日本書紀」にある。十三歳で即位した「秦始皇帝(政)」の子孫、「百済」の「弓月君」の孫で、父親は「普洞王」で「仁徳天皇」に「絹糸」を貢いで『波陀(ハタ)』の姓を賜った人物との記録だ。「雄略天皇」の時代に「秦(うづまさ)」の姓を賜った。「弓月」とは「半月」で、国旗の象徴は「トルコ(ダッタン・タタール)」である。「弓月君」と似ている姓は「弓削(ゆげ)氏」である。『道鏡』は「弓削」氏の出自であった。「ゆげ」=「喩解」?  「緬(麺)職」とは「ラーメン屋」の親父の失業だ。すなわち、「餡パン」、「餃子」、「麺食」の調味加減と匂いで失敗した「中華料理の調理長」の「免職」である。失職して慌てたのが「膳部(かしわで)」の長官であった「高橋氏」だ。食い物の「恨(怨)み」ではあるな・・・「地図」による塩漬けの非業死は、『高橋景保』であった・・・  15(光孝天皇=孝行・航行・港口)=壱拾五  君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ  ↓↓  君・・・訓・組む・酌む・きみ=気味・黄身(卵黄)・記診・紀診  が・・・賀・画・臥・蛾  ため・・多目・他眼・拿女・女・打女・侘女・詫女・・・女=おんな=音名  春の野・俊埜・駿野・貼る埜・張る廼  に・・・爾・似・尼・丹・荷  いでて・意出(氏一)・射出弖(弓一)・異出載・医出載  若菜・・和歌名・若名=幼少名=稚名=地名・倭禍那・話掛拿・若(狭)名  つむ・・柘務・柘夢・・・(お)つむ=頭     ・・都務・都武  わが・・話臥・輪賀・窪賀・羽賀・琶賀・倭賀  衣手に・意出似・異出尼・虎賂母出似・胡露模出尼  雪は・・喩記婆・往き場・逝き場・説把・・・雪=雨+ヨ  降り・・付理・不離・不利・振り  つつ・・柘図・星  「壱拾五番目」の「光孝天皇(時康・小松の帝・天長七年・830~仁和三年・887)」は「884」に「太政大臣」の『藤原基経』によって即位。『藤原基経』は初めての「関白」であった。スナワチ、「関」の「白」である。同音異字ならば「籍」の「曰(いわく・ゆわく=逝枠)」である。「源義経」が東北逃亡をはかって「安宅の関」でヒッカかったのは有名な話である。「白紙」の「勧進帳」を読み上げ、さらには主人の「義経」を棒でしたたかに殴りつけ、その「安宅の関」を無事通過した後の「弁慶の泣きどころ」とはここの場面である。その「場所」は「北緯36度22分」ぐらいにある石川県の「金沢」と「加賀」の中間、「金沢」の南西の「安宅」に存在した。この「北緯36度22分」の東には「薬師岳」、「浅間山」、「小諸」、「安中」、「高崎」、「伊勢崎」、「前橋」、「足利」、「栃木」を通過してその果ては茨城県の『水戸』、「那珂湊」である。もちろん、西の日本海には『隠岐諸島』が存在するのだ。地理上の正確さをハッキリさせたのは江戸時代の『伊能忠敬』であった。  「コウコウ天皇」、「コウコウ=弘皇・孝行・航行・考行・交高・港口」等で、すべての同音異字「コウ」の重なりである。そして「十五番目」は「壱拾五=初めを拾う語・位置を重ねる語」の示唆である。  きみかため、はるののにいてて、わかな つむ、  わかなつむ  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓↓↓↓↓  記実掛多女 把留之廼似意出手 話仮名積務・・・・和歌納柘務                            摘む   若捺務=若狭  わかころもてに、 ゆきはふりつつ        ゆき  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓        ↓↓     奇跡  倭加古賂模出似 諭記葉付理付柘・・・・・・・・・喩姫=喩記  ↓                               逝き=死没=鬼籍=軌跡  16(中納言行平=公平・幸平・康平・熊表・公表・好評・講評)=壱拾六  立ちわかれいなばの山の峰におふるまつときしかば今帰り来む  ↓↓  立ち・・・経ち・裁ち・建ち・発ち・質・達・起ち・断ち・絶ち・太刀・多地  わかれ・・和歌例・話掛例  いなば・・異拿場・意名場  の・・・・野・埜  山の・・・埜真の・家間の・邪馬の・夜間の・哉真の・纂の  峰に・・・診音似  お・・・・将・悪・嗚・緒(最初)・尾(最後)  ふる・・・振る  まつ・・・末・抹・沫・松  とき・・・解き・辰・朱鷺・鴇・穐・土岐・怒気・土記・度記  しかば・・シカ場  今帰り・・意真返り  来む・・・込む・混む・記務・紀務・虎武・胡武  『中納言行平』とは「阿保親王」の第二子で、母は「桓武天皇」の娘「伊都内親王」であった『在原行平(弘仁九年・818~寛平五年七月十九日・893)』のことである。この和歌は「三十八歳」の因幡守として赴任した時の歌と言われている。「天長三年(826)」には「在原朝臣」、「貞観十五年(873)」の「文徳天皇」の時に「太宰権帥」となったが「須磨」に流され、これが「源氏物語(須磨の巻)」の下敷にもなっている、と言われている。要は「源氏」が「流刑」になったことをイイたいワケだ。また、彼は藤原氏の「観学院」に対抗して「奨学院」を設立した。既に「中納言『藤原定家』」に関しては述べたが、「百人一首」の人物で、この「官職名」に重なっている人物は「権・前」が付いているのを含めて『八人』である。「八」とは「蜂・鉢・椀・把地・頗地・恥・波地」に懸けられ、「捌(はつ・ベツ・よりわける)」、「初・髪・発・發・溌・醗・撥」、「別・蔑・瞥・経柘」等にも重ねられているのだ。「ゆきひら」は「喩姫比良(卑羅)・逝忌避等」で、「コウヘイ」ならば「公平・幸平・康平・熊表・公表・好評・講評」である。「2×8=十六(壱拾六)番目」とは「位置が重なる陸奥(睦)の藩(伴・幡・範・藩・叛・磐・蛮・晩)の眼(女)」である。明治には「和歌山県」出身で「海援隊」の『陸奥宗光(弘化一年7月7日~明治三十年8月24日)』がいた。「第二次伊藤内閣」の「外務大臣」で「日清戦争後」の下関条約の全権であった。ネコ(猫・音故)=ニャンコ(似家武虎)がいなくなったときにこの下の句を戸口に貼っておけば帰って来るらしいのだが?  たちわかれ、 いなはのやまの、 みねにおふる、   たち  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓↓↓↓    ↓  多知話仮例 意名葉之埜間之  見音似将付留・・・・・龍=絶つ  まつときしかは、  いまかへりこむ          しか  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓         ↓  間付図記詞掛葉 意真加重理拠務・・・・・・・・・・鹿=王・史家・使嘉  17(在原業平朝臣)  ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは  ↓↓  ちはや・・知葉埜(記紀)・知把家・知頗(よこしま)也・地頗哉(はじめ)  ぶる・・・振る・部留・武流・分留・歩流・古・降る  神代も・・甚大模・寝台母・身代喪・神余模(神武天皇)  きかず・・帰化図・気化酢・幾何図・基数・貴家図・奇禍頭・紀掛洲  龍田川から・「タツ・ツタ・カ・ワ」掛羅・龍多蚊(虻・阿武)羅=唐  くれなゐ・繰れない・暮れない・呉ない・来れない・句例内(拿意)  に・・・・似・尼  水・・・・御津・密・蜜・三・水戸  くくる・・句矩留・繰句留  とは・・・図葉・渡波・徒刃・鳥羽  『在原業平朝臣(天長二年・825~元慶四年五月二十八日・880)』は前述した『在原行平(弘仁九年・818~寛平五年七月十九日・893)』の弟で、「阿保親王」の「第五子」であった。一般的には『伊勢物語』の主人公と言われているのだ。『平城天皇』の孫であったが、プレイボーイの彼は「藤原高子」と駈落ちしたことが問題となってその位は「蔵人頭右近衛権中将」であった。「藤原高子」は『清和天皇』の婚約者であったのだ。一般的に「源氏」の始祖は『清和源氏』と言われているからこの天皇である。「業平」は「強兵」か。  この和歌は「びょうぶ(屏風)」に描かれた絵を観て作ったモノであるらしい。その絵は「赤い紅葉」が「竜田川」を流れているモノであった。これを「絞り染め(くくる)」に例えたと言われている。「赤」は「平家の旗」で、「血=戦死者の流した血」を意味しているのだ。ならば「竜田川」、「竜田神社」のある場所に伺いを頻繁に参詣させたのは誰か・・・「日本書紀三十巻」に記録されている『持統天皇』であった。しかもこの「竜田神社」には「まつられた人物」の素性がハッキリしていない『龍田ヒメ』だ。彼女は誰か?この「竜田神社」こそ「大唐進駐軍の指令部」ではなかったか?・・・「龍+詫(太・侘・多・他・蛇・蛇・汰)」である。「龍田」は「たつ・たち」に懸けられる「枕詞」であった。「タツ・タチ」の同音異字漢字である。「びょうぶ(屏風)」は空間を仕切り、風避け、人目を断つモノであった。「龍多=唐」の「風」を遮断(社団)するためのモノである。『藤原定家』の時代を踏まえれば「竜田神社」は「六波羅探題」にあたる場所である。「源氏」の「京都」に於ける「監視所」である。『在原業平』が「プレイ(無礼)暴威」であったとは「武家」の暴行に対しては「京都女」は注意せよ、である。  ちはやふる、 かみよもきかす、 たったかわ、   たつ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  千葉家付留 懸見代模記掛素  多付他掛話・・・・龍=唐=断・絶つ  からくれなゐに、 みつ くく る とは       くれ みつ  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓       ↓  ↓↓  掛羅句例名意似 御津苦句留鳥羽・・・・・・・・呉  水戸=密  18(藤原敏行朝臣)  住の江の岸による波よるさへや夢のかよひ路人めよく(ぐ)らむ  ↓↓  住の・・・墨・・・・素診・・・・・・訴申  江の・・・絵の・・・重埜・・・・・・調之  岸に・・・雁に・・・記(紀)史・・・願児(尼・爾)  よる波・・夜名観・・因る名診・・・・預留(輿留)納実  よるさ・・選る差・・代留(流)差・・世留鎖  へや・・・部屋・・・経也・・・・・・衛也(邊哉)  夢の・・・務の・・・喩女之・・・・・諭目之  かよひ・・加代意・・掛世異・・・・・禍世比  路・・・・字(鷺)・賂・・・・・・・診治  人・・・・訊・・・・事務・・・・・・尋(仁・神・壬・甚・靭・塵=地理)  め・・・・目・・・・模句・・・・・・女(目) 尽・陣  よく・・・選句・・・与句・・・・・・欲(浴)・与愚・輿具  らむ・・・務・・・羅(拉)務・覧・乱(爛)  『藤原敏行・朝臣』は「按察使(アンサツシ)・藤原富士麿」の「子(こ・シ・ジ)」で「太政大臣・藤原武智麿の孫(まご・ソン)」、「藤原不比等の曾孫(ひまご・ソウソン)」で、「仁和二年六月(886)」に「右近衛少将」、後「左近衛中将」となった。この年の記事に「光孝天皇」が「芹川野で『放鷹』をする」とある。翌年の「887年」には「伊豆国、新生島の図を献ずる」の記事がある。「888年」には「阿衡の紛議」、「初めての五位蔵人を置く」、「889年(寛平一年)」には『高望王』等に『平・朝臣の姓を与える(桓武平家)』とある。『藤原定家』の時代と同時に、問題にしたいのは、  「子(ね・こ・シ・ジ)」・・・音故指示(根子支持・音雇施字)  「比真語(ひまご)」  「真語(まご)」  「敏行(としゆき・ビンコウ=便交・紊考・罠考・閔后=閔妃=朝鮮王妃)」  「朝臣(あそん・アサシン=暗殺)」  「仁和(ニンワ=認話・尼武話)   二年(ニネン=似撚・尼念)   六月(ロクガツ=賂句臥柘・録臥柘・陸奥賀付)」  『鷹(たか・ヨウ=葉・要・用・様)』  『伊豆(イヅ・イトウ=伊藤・伊東・以東・厭う)の地図』  の「同音異字」の示唆から何をヨミトルかである。  江戸時代、江戸城の「雁(ガン・かり)の間」ではない『鷹(たか)の間』を詰所としていたのは「陸奥・棚倉・藩主」の「古事記」、「日本書紀」に登場する「大彦命」の子孫と自称している「阿部家」であった。「家紋」も「鷹の羽」である。「宝永七年(1710)」より「阿部正邦」が居座った「備後・福山藩主」の詰所は『帝鑑の間』であった。「家紋」は同じ「鷹の羽」である。『弘化三年二月(1846)』には『孝明天皇』が即位し、同年「水野忠邦」後の幕政を担ったのが『安政四年六月(1857)』に死没した「伊勢守」の『阿部正弘』であった。彼は「日米和親条約十二ヶ条(安政一年三月・1854)」、同年五月には「日米和親条約付録十三条」を結んだのを皮切りに西欧列強諸国と次々と日本にとって「不平等」な「条約」を締結していった人物で、老中在位(1843)から死没(1857)した期間まではまさに「与愚覧」であった。  「村上天皇」が「三蹟」の一人である『小野道風』に古今で「書筆の達人は誰か」と問われた時に『藤原敏行』と『弘法大師・空海・真魚』である、と応えたそうである。だが、「弘法も筆の誤り」と言われた『空海』、『嵯峨天皇』、『橘逸勢』は「三筆」と言われたが『藤原敏行』はアマリの人で「三筆」の拉致外である。『弘法大師・空海』とは日本に「宿曜経」をもたらした「高野山・真言密教」の開祖であった。姓は「佐伯(さえき)」である。  秀才の『藤原敏行』は「二十七(二重史知・似重視治)歳(差異・殺)」で死没したと言われている。「百人一首」で「朝臣(あそん・アサシン)」が付く人物は「八人」である。これって、「暗殺者八人」・・・?  すみのえの、 きしによるなみ、 よるさへや、  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  諏見之重埜 記史似代留名見 与留差重家  ゆめのかよひち、  ひとめ よく らむ  ↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓  諭女之掛代意知  比斗女与苦羅務  19(伊勢・?~天慶二年・939)  難波潟みじかき葦のふしの間も逢はでこのよを過してよとや  ↓↓  難波・・・難破  潟・・・・過多  みじ・・・診似  かき・・・禍記  葦の・・・脚之  ふしの・・怖使の・臥之・伏廼・怖死之・父子の・武士の  間も・・・真模  逢はで・・豊端出(豊後出=国東半島)・阿波出・安房出  このよ・・故之輿  を・・・・尾  過・・・・掛・素語  して・・・死出・示出  よと・・・余徒  や・・・・家  『伊勢(?~天慶二年・939)』は「伊勢守・藤原継蔭」の女(娘)で「七条皇后」に仕え、皇后の兄「藤原仲平」と結婚、後に「宇多天皇」の寵愛を受けて『桂宮(かつらのみや)』を産み、その後「敦慶親王」と関係し女(娘)の「中務」を産んだ。彼女は「テンケイ(天恵・典型)」の「ニネン(尼念)」に死没した。「壱拾九番目(イチをヒロウ、キュウバンメ)」・・・「位置を拾う宮(十二支)の磐目」ならば「申支」である。「市の疲労、泣晩女」なら「お市(織田信長の妹)の三人娘」か、「十市姫(天武天皇の娘)の疲労、救伴女」。「壱の披露、朽婆務女」なら「卑弥呼」である。「意地を披露、救の蛮の女」ならば「シーボルト」の妻「楠本おたき」か、娘「おイネ」、「唐人お吉」だ。「位置を拾う晩目」なら「天文学上」の星座の位置で、「位地を比賂烏、九盤目」なら「九州(全国地図)の緯度・経度」だ。地名の「伊勢」は「三重県」であり、「志摩半島」の「緯度・34度30分」、「東経・136度45分」あたりに存在する。その東には「鳥羽」があり、さらに東には「天城山・下田」を有する「伊豆半島先端」の「石廊崎」だ。西は「淡路島」、「呉」、「厳島」である。  なに はかた、みちかき  あしの、ふしのまも  ↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓↓↓  名似 葉掛多 見知掛記 吾詞之 武士之間母  ↓↓  納迩 博多 道 掛記 足 乃 富士の間模  あは    て この よをす  こしてよ とや  ↓↓    ↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓  吾葉    出 古之世将諏 古史出代斗家  ↓↓  阿波(安房)出 故之輿尾洲 古史出与図野  20(元良親王)  わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ  ↓↓  わび・・・話備  ぬれ・・・奴例・塗=ト・濡=ジュ  ば・・・・場・婆・馬・罵・芭・把  今・・・・意真  はた・・・葉多・葉他・頗汰・破舵・把詫・覇打・秦・幡多・将  おなじ・・将納字・尾那寺(尾張尾州の寺=真福寺)・将無し・将拿死  難波・・・難破・浪速  なる・・・納留  みを・・・見尾・三尾・澪・・・・・水深を測る棒杭・「難波の枕詞」  澪標(みをつくし)・・・・・「船の道しるべ」  つくし・・筑紫・尽くし・衝く史・着く使・就く子  て・・・・・出  も・・・・・模  逢はむ・・安房矛・阿波武・娃話武・蛙話務  と・・・・・徒・渡・登・屠・斗・塗・図  ぞ・・・・・遡・蘇・甦・祖・姐・楚・組・措・鼠・訴・狙  思ふ・・・面怖・主府・尾模付  「第二十番目」の撰歌は『元良親王(寛平二年・890~天慶六年七月・943)』のモノで、彼は『陽成天皇』の第一皇子。「大日本史」に「なうての好き者」であったと記録されている人物で、この歌は『京極の御息所(みやすどころ)』に懸想してバレた時のモノと言われる。  彼が生まれた「寛平二年・890」は銅貨「寛平大宝」が鋳造され、はじめて「四方拝(シホウハイ・元旦に天皇が諸神、諸陵を礼拝する儀式)」が行われた。死亡した「天慶六年七月・943」には「穀倉院の倉が焼失・山陰道諸国司に封事を早く出させる」の記事が年表にある。「天慶一年・938」~「天慶五年・942」の間には、「承平五年二月・935」に『平将門』が伯父の常陸大掾の『平国香』を殺したことから始まった「承平・天慶の乱」のプロセスの終演であった。同年(承平五年・935)に『紀貫之』が「土佐日記」を書いた記事がある。「939年」には『平将門』が下野、上野を占領し「新皇」を自称した。伊豫では『藤原純友』が反乱。「940年二月」に『平将門』は下野の「幸島」で殺され、「941年6月」には『藤原純友』が『小野好古』に殺された。その他の捕捉されたり殺されたりした海賊は、  『紀 文度』・・・記(紀)、文の度(旅)・岐の分度(緯度・経度)  『佐伯是基』・・・差益、是が基・佐伯は豊後の地名で、「空海」の姓  『桑原生行』・・・句の話の場羅(ばら=茨=茨城)、壱岐、隠岐・慰記  『藤原文元』・・・付字(事)話拉、文の元  であった。『藤原定家』が『元良親王』の和歌を撰んだのは「好き者」の「歌」としてではなく、この「百人一首」をヨム特定の人間に彼の生存した時代の事件と「承久の乱」を重ねて考えて貰いたい意図があるからだ・・・?  「第二十番目」の和歌・・・・二十・念・弐拾・廿・二重・似獣・尼重  『陽成天皇』・・・・・・・・「悪君之極」、「乱国之王」                「清和天皇」の第一皇子  第一皇子・・・・・・・・・・「打意意地殴事」・「討つ意の一、欧示」  『京極の御  息所 (み やすどころ)       ↓↓ ↓↓  ↓ ↓↓↓↓       ↓↓ ↓↓  診、康 (家康)       ↓↓ ↓↓  見 安 (安倍・安部・阿倍・阿部)       ↓↓ ↓↓  観 野洲       ↓↓ ↓↓  未 靖 (靖国)・・・・いまだ靖らかならず       ↓↓ ↓↓  観 夜須(夜の髭)・・・須=シュ・ス・ひげ・あごひげ       オンいきショ  ↓↓             =待つ・待ち受ける       音 域 処    彗星・帚星         =願う・望む・求める       怨 壱岐所』に「懸想」            =用いる・必要         ↓↓                     =すべからく・・・べし         意気島                   =是非・・・したい         遺棄島                   =ゆるくする         沖の島                   =おそく         隠岐島                   =とどまる・やすむ         逝き死間                  =しばらくして  「京極」は『藤原定家』の住まいの場所で彼も「京極中納言」と呼ばれた人物である。「御息所(みやすどころ)」で有名なのは、「源氏物語」に登場する無意識な「怨み、嫉妬」の「自分の生き霊」に悩まされた『三条の御息所(みやすどころ)』であった。「息」は「意気」とも使用される漢字で、「新羅」を執拗に攻めたがり、「仲哀天皇」を暗殺してまでも実行したのは『息長帯比賣』こと、「神功皇后」であった。子供は『大鞆和気(おほともわけ)命』で、マタの名は『品陀和気(ほむだわけ)命』であった。「応神天皇(胎中天皇)」である。その臣下が「竹内(武内)宿禰」であった。この「たけうちしゅくね」を異字漢字にすれば、「逐名異種組(チクナイイシュクミ)」か、あるいは「部内主組(ブナイシュクミ)」である。なるほど、「朝鮮・韓国」を侵略したのは明治維新を担った幕末の「薩摩・長州・土佐」等の「欽皇の志士」である。だが、「征韓論」に於ては内部分裂した。その強行論者は『西(にし)・郷(ゴウ)・隆(リュウ)・盛(セイ・もる)』だ。日清戦争で「朝鮮」の実権を握ったのは「大日本帝国」で、その「総監」になったのが『伊藤博文(イトウハクブン)』であったのだが・・・すると「現存・古事記」とは「朝鮮支配」を正当化する「後代の改作物」デハ、ある・・・ナ(?)  「寛平二年・890」・・・・「貫き並ぶ・貫き併せる」二年(ネン・ネム)                                    ↓↓↓↓                                   「似撚(合歓)」                                    ↓↓↓↓                            アマの念仏=尼念=海人二重  「銅貨・寛平大宝」が鋳造・・「同化・官併」の「大砲」の鋳造  「四方拝(シホウハイ・・・・・「東西南北の配」、「死奉(褒)牌」          よもハイ・・・・・「世模、代模、与母」の「廃、背、牌(位牌)」                  =元旦に天皇が諸神、諸陵を礼拝する儀式」  「天慶六年七月・943」・・「典型・典係・天恵・転経・添刑・槙掛」  「穀倉院の倉が焼失」・・・・「国葬陰(寅)の苦羅」=吉田松陰(寅次郎)  「山陰道諸国司に封事を早く出させる」とは「纂音(陰・寅=虎)同書国史」に「封じ、葉訳出させる」では、あるな。  「天慶一年・938」~「天慶五年・942」  「承平五年二月・935」  『平将門』・・・・・・・・・「載羅(・拉)証文(姓問・照文)」  「常陸大掾」・・・・・・・・「上陸大将(大勝・対照・対象・対称)」  『平国香』・・・・・・・・・「他意羅国臥」  「承平・天慶の乱」・・・・・「将兵・典型」、「帖併・典型」の「覧」  『紀貫之』が「土佐日記」・・「紀を貫く史(死・歯=年齢、歳)」  「939年」は「9+3+9=21」で、「939」、「ABA」のパターンを和歌の技法で「回文」形式と言うのだ。「百人一首」に撰ばれている人物の「和年号・西暦の生年」、あるいは「死没年」を注意してミヨ、である。この「回文」形式は偶然とは思われない、イト的なものである。「怪聞・海文」・・・「船史の恵尺」とは「國紀」を燃えさかる「蘇我蝦夷」の邸宅から持ち出した人物であった。  『平将門』が下野、上野を占領し「新皇」を自称  「伊豫」・・・・・・・・・・「位置輿」、「壱与」  『藤原純友』・・・・・・・・「巡遊」  「幸島」・・・・・・・・・・「格子間」、「公私間」、「公使間」  『小野好古』・・・・・・・・「尾野交拠」  「海賊」・・・・・・・・・・海部族・海女族・海人続(糸売=糸女)・尼属  『紀文度』・・・・・・・・・紀の文の度合  『佐伯是基』・・・・・・・・佐(人左)ける伯(人白)、是(日疋)が基礎  『桑原生行』・・・・・・・・区和場羅性向(精巧・成功・政綱・性行・性向)  『藤原文元』・・・・・・・・文の元・文源・分言・聞諺・蚊(虻=阿武)言  わひぬれは いまはたお なし  なにはなる   わひぬれ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓↓↓↓  話比奴例葉 意真葉他尾名死 拿似話納留・・・・我彼奴霊  みをつ く して も  あはむとそ おもふ      あは むと  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓     ↓↓ ↓↓  診尾柘句詞出模 蛙葉務図楚緒模付・・・・・・泡(沫)務屠  「女(おんな)」にあいたいバッカリに「死」を賭けるのは「澪」である。「水に濡れる」のは沈没して溺死することだ・・・「我意」の「海軍」・・・海ゆかば・・・海底の藻屑こそあはれなれ、苦しきイキはアワジの果て・・・ナ。  21(素性法師)  今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな  ↓↓  今・・・恨・坤・艮・根・魂・紺・昏  こむと・「込む・混む・姑務・虎武・胡夢・湖夢」、「図・斗・屠」  いひし・「意比」「詞・史・使・死」  ばかり・「秤・計り・測り・量り・図り・諮り・墓埋」  に・・・似・爾・尼・丹・荷・迩  長月・・調月・帳月・弔月・重柘記・・・・・陰暦九月  の・・・埜・之・乃・廼・野・能  有明・・有名・有命・・・・・・・・・・・・月齢の二十日、午前零時ころに  の・・・埜・之・乃・廼・野・能 出る月  月・・・解津・下津・外柘  を・・・緒・尾  まち・・真知  いで・・意出  つる・・柘留  かな・・仮名  『素性法師(そせいほうし・良峯玄利)』は『僧正偏昭(良峯宗貞・良少将)』の子供。「仁明天皇」死没に際して出家した父親を訪ねて、彼もまた「十一歳」の時に出家。『僧正偏昭(良峯宗貞)』は『良峯安世(延暦四年・785~天長七年・830)』の子供。『良峯安世』は『桓武天皇』と母親「百済氏」の皇子で、「延暦二十一年・802」に『良峯朝臣』と姓を賜った人物である。  系図を整理すれば、①『桓武天皇』、②『良峯安世』、③『僧正偏昭(良峯宗貞・良少将)』、④『素性法師(そせいほうし・良峯玄利)』で、「桓武平家」の流れである。スナワチ、「赤旗」系統だ。  何時になったら来るんかいな、まちぼうけて居る間に夜更けの月が出てしまったじゃないか、とは「今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな」の「長月の有明の月」で、「月齢の二十日、午前零時ころに出る月」ではあるが、地名、地理に軸をシフトするなら「陰暦(インレキ)九月(ツキ)、有明のツキ」は「隠す胡読み(齢記・歴史)、九州の賀津(築・筑紫)、有明海の柘記」ではある。「長州のツキ」が「薩摩のツキ」を待っている、と云うわけだ。  いまこむと いひしはかりに なかつきの    こむ  ↓↓                          ↓↓  意真姑武徒 異比死刃刈 児 納禍都記之・・・・虎武=胡武  ありあけのつきを まちいてつるかな      ありあけ  ↓↓                           ↓↓  蛙理娃懸埜柘記尾 真知意出柘留仮名・・・・・・在り安芸(挙げ・吾解)  ↓↓  蟻蛙懸=義を変える懸け  アリアの華=独唱の華  22(文屋康秀)・弐拾弐  吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ  ↓↓  吹く・・・付句  からに・・唐似・加邇(爾・字)  秋の・・・亜紀埜・安芸之  草木の・・句差記之  しをる・・史尾留  れば・・・例場  むべ・・・武部  山風・・・纂封  を・・・・将  あらし・・新史・荒史・・・・嵐(あらし・ラン)=山+風  とい・・・問い  ふ・・・・付  らむ・・・羅武・乱・覧・蘭・藍  『文屋康秀(ふんややすひで・生死没は?)』は、字(あざな)は「文琳」、「天武天皇」の子供、第四皇子「長親王」の末裔と言われている。「ブンリン(文琳)」は学識、学芸者のサークルだが、「分林・聞林・蚊臨」で、「訳は林」、「聞くは囃し」、「蚊(ブン・か)、虻(ボウ・あぶ)に臨む」である。「林家」とは「江戸幕府」の「儒学者」の名家で、「鳥居耀蔵」の実家、「伊藤博文」の実家の姓であった。「長(チョウ・なが・たけ・おさ)」で、「チョウシンオウ」とは「調進往=調べ進み往く・長針押=長い針を押す」、「聴診謳=聴いて調べる謳歌」、「弔申謳=弔いを申うすウタ=挽歌」、「長津王=那賀津、名賀津、大津の王」である。何故、彼の名前は「文屋」なのだろうか。「文筆・文章・記録・史」に係わった人物だったからではないのか・・・まさか、俗に云う「ブンヤ(新聞屋・記者)」ではあるまいナ・・・「文屋」の姓を有する人物には、いずれも「天武天皇」の子供「長親王」の血統である。  『文屋 大市(慶雲一年  ・704~宝亀十一年      ・780)』  『文屋 浄三(         ?~宝亀 一年      ・770)』  『文屋 康秀(         ?~?              )』  『文屋綿麻呂(天平神護一年・765~弘仁十四年四月二十六日・823)』  が存在した。  『文屋大市(大市王)』は「天平勝宝四年・725」に『孝謙女帝』の命によって「文屋真人」の姓を賜った。『吉備真備』等が『孝謙女帝』死後皇太子に推したが「白壁王(光仁天皇)」に破れた。だが「位」は「大納言・従二位」となった人物だ。以後の天皇は「天智天皇系」と言われているが、「百済系」なのかも知れない。じゃぁ、「天武天皇(赤)」は何系なのか?・・・「赤旗」は「平家」の象徴であった。ならば「新羅系(白)」ではなく、「大唐(周)系+(百済系+新羅系+高句麗系+隋系)」の「ごった煮」なのだ・・・「大唐(周)系」とは何かオカシイと思うのは当然である。こんな系統区分けはナンセンスであるが、「神功皇后(息長帯姫)」、「聖徳太子(蘇我)」、『孝謙女帝』の時代まで「現存・日本書紀(?)」と「続日本紀」は「新羅討伐」を念願としているのだ。唯一「朝鮮」を支配下(?)に置いたのは「神功皇后(息長帯姫)」である。これも単なる「ハナシ」カモ。ダガ、それは『豊臣秀吉=豊聡耳厩戸皇子(聖徳太子)』の「朝鮮征伐」に重ねられているからだ。「李氏朝鮮」の背後には「明国=唐」が存在した。「朝鮮」と友好を保ったのは「江戸幕府」であった。「新羅討伐の念願と実行」の「日本史の基準」は「明治維新政府の政治的意志の変遷」=『伊藤博文』にあるからだ。「古代史」を「征韓論=朝鮮」、「清国=唐」、「ロシア=白=新羅」にナゾらえているからである。「徳川幕府」が「源氏(白)」ならば、「豊臣秀吉」は「平家(赤)」、「明智光秀」は「源氏(白)」、「織田信長」は「平家(赤)」、「足利幕府」は「源氏(白)」、「北条執権鎌倉幕府」は「平家(赤)」、「源頼朝征夷大将軍鎌倉幕府」は「源氏(白)」、「平清盛」は「平家(赤)」である。この論理の循環ならば、「江戸徳川幕府」が「源氏(白)」で、当然「朝鮮=新羅」と友好するのはアタリマエ、と云うことになるのだが・・・当初、薩摩の『西郷隆盛』の「征韓論」に反対であった人物とは、  髟(ヒョウ・たてがみ)  髢(テイ・ダイ・かもじ)  髣(ホウ・似る・倣)  髦(ボウ・バウ・モウ・ム・さげ髪・たれ髪・長毛・たて髪・優れる    西方の異民族の名前)  髯(ゼン・ネン・ひげ・頬ひげ・顎ひげ    髯鬚=記録文書係    髯奴=下男、下僕・西洋人に対する卑下、罵倒の言葉    髯虜=西洋人に対する卑下、罵倒の言葉)  髫(チョウ・テウ・ジョウ・デウ・うない・たれ髪・おさない子供・わらべ)  髮(ハツ・かみ・・・ヘヤー=hair≠hare≠hear)  髴(フツ・フチ・似る・かすか)  髱(ホウ・ハウ・ビョウ・ベウ・ひげむしゃ・たぼ・たぶ・婦人)  髷(キョク・コク・まげ・わげ・ちぢれ髪)  髻(ケイ・キツ・キチ・もとどり・たぶさ・みずら・びんずら)  鬆(ショウ・シュ・ソウ・ス・乱れ髪・あらい・ゆるい    す=大根、ごぼう等の芯に細かく透る穴)  鬘(バン・マン・かづら・かつら)  鬚(シュ・ス・ひげ・あごひげ=mustache・beard    whisker=虎鬚=コシュ・虎ひげ・動物のひげ)  鬟(カン・クワン・ゲン・わげ・まげ・召使の女・下女・みづら・びんづら)  鬢(ヒン・ビン・びんづら・耳ぎわの髪の毛)・・・・ビン=紊・罠  鬣(リュウ・レフ・顎ひげ・髪の毛・たて髪・魚のひれ・鳥の頭の毛    蛇のうろこ・箒=ほうき・松葉・鬣尾=リュウビ・たて髪と尾)  「髭(ひげ・シ)=須」のオッサンは『大久保利通』と『伊藤博文』で、二人とも暗殺された人物だ。『伊藤博文』はハルピンで「赤」に染まって『安重根』の弾丸に倒れたワ・ケ・ダ。「ヒゲとカミ」の文字転換である。  「イトウハクブン」を赤字国債「650兆円」も抱えた「ニホン政府の政治屋」と「税金取り立て屋」、「オオクラ省」、「金貸し屋の元締めニホン銀行」が結託して、アメリカのドル札に似せた「仟(人+千=訊撰・尋撰・神撰・妊撰)円札」の似顔絵にしたんじゃぁ、いずれは重なって破綻するのサッ。  『文屋浄三(智努王)』は『文屋大市(大市王)』の兄であった。やはり、『孝謙女帝』の命によって「文屋真人」の姓を賜った人物である。  『文屋綿麻呂』は「三諸朝臣大原」の長子で、『文屋浄三(智努王)』の孫。「大同四年(809)」に姓を「三山朝臣」と改め、さらに「文屋真人」を賜った。「薬子の乱」に荷担して禁固の罪を得たが『坂上田村麻呂』の嘆願によって許され、後に「参議」、「弘仁二年(811)」に「征蝦夷将軍」になり、「弘仁九年(818)」には「中納言」となった人物である。彼らが天皇から各々賜った「文屋真人」とは「文屋・真人」の官位だが、「天武天皇」にも『真人』の漢字が付いている訳が解るカナ?「仙人(センニン)」で「間人(間者)」だ。  『文屋康秀』は「貞観二年(860)」には「刑部中判事」になった、とある。「判事」とは「司法の裁判官」ではあるな。明治憲法に係わった人物は「伊藤・伊東・金子」組であった。鎌倉幕府では「御成敗式目」を作り上げたのが『北条泰時(やすとき・タイジ)』であった。「律令制度」をなんとかコネ上げたのが「藤原不比等」達であった。「資治通鑑」を勉強したのが『北条政子』だ。  ふくからに  あきのくさきの  しをるれは    ふく  から  覆苦禍羅似 安芸埜句差記廼 司男留例葉・・・・覆す句 唐  むへやまあらしを   あらしと いふらむ     あらし  夢経哉魔蛙裸視悪  新 司徒 意付拉武・・・・・嵐=ラン=山風=纂封  23(大江千里・おおえちさと)・弐拾参  月みちればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど  ↓↓  月・・・付き・解柘・外津・下津  みち・・未知  れば・・例葉・例場・例馬・例婆・例把握  ちぢに・知事似・地字似・血治尼  物・・・者・模埜(記紀)・模之(史)・模乃(砂輪地=阿蘇)・模廼(西欧)  こそ・・胡措  かなし・仮名詞  けれ・・懸例  わが身・話賀診  ひとつの・比図柘野(埜)  秋・・・亜紀・安芸・安岐・穐・      空き=唐記・飽き=飽田・明き=明記・開き=開岐=開港・下田  には・・似葉・尼頗  あら・・阿羅  ねど・・音度  『大江千里(ダイコウ、センリ・チリ)』の祖先は「土師(はじ)氏・垂仁紀」である。「ダイコウセンリ(代行撰理・地理)」ダナ。彼は「宇多・醍醐天皇(887~930)」の時代に活躍した人物である。父親は「参議」の「大江音人」で、その「第二子」であった。これも「ダイコウオンジン(代行音尋)」だ。「元慶七年(883)」に「備中大丞」になり、「延喜三年(903)」に「兵部大丞」となった。この「803年」の年表記事には「渤海使の入朝・太宰府守が群盗に殺害される・備前に群盗が蜂起・大安寺で林邑楽人、百七人に調習させる」とあり、「903年」には「院宮、王臣が唐物を私に買うことを禁ずる・唐人が羊や白鵝を献じる」とある。この示唆は何か?  この和歌は漢詩「白文集」の「燕子楼中霜夜月、秋来只為一人長」を翻訳したモノだが「古事記」に関して云えば「人長」なんて云う人物がいた。  燕  子 楼 中   霜 夜 月、  秋  来  只為一  ↓↓ ↓  ↓ ↓   ↓ ↓ ↓   ↓↓ ↓↓ ↓↓ ↓  エン シ ロウチュウ ソウヤ ゲツ、ジュウキ、 シギイチ  ↓↓ ↓ ↓ ↓↓   ↓↓  ↓↓  ↓↓ ↓  ↓↓↓↓  延  史 老 中   操 也 解柘  中  記  思議位置        ↓ ↓                    試技        弄(もてあそぶ)        ↓        牢(牢屋)=廊(楼閣)=漏(もらす)  つきみ ちれは ちちに ものこそ かなしけれ  ↓  柘記未知例葉 遅々迩模之虎措 仮名詞懸例  わかみひとつの   あきにあらねと  ↓  話掛見比図柘野  亜紀似阿羅音図  24(菅家=菅原道真・承和十二年・845~延喜三年903)・弐拾四  このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに  ↓↓  この・・・胡之  たびは・・多備葉  幣も・・・経意模  取り・・・斗理  あへず・・合えず  手向・・・多(他)務(武)懸  山紅葉・・参考葉・纂考葉・散弘葉  の・・・・埜  錦・・・・西紀・西木・似詞記・尼史記・記務  神・・・・科診  の・・・・之  まにまに・間尼魔似  『菅家(カンケ)=菅原道真(すがわらのみちざね)=菅公(カンコウ)』は「承和十二年・845~延喜三年903」に生存した人物である。幼名は『阿呼(アカ)』である。「菅公」とも云われた。「菅原是善」の子供であった。「菅(カン・ケン・すが・すげ)」は「茅(チ・ちがや)」の一種で、「苫」を編む「ふじばかま・あららぎ」の借用文字である。「管(くだ)」に似て、「よこしま(姦・邪)」とも訓じられている漢字である。「菅原」は「カン・バ・ラ」とヨムならば「カン+ケン=官憲・換券・巻顕・漢懸」と「ハ+バ=幅・芭葉」の同音漢字は腐るほどあるが、「ラ」はそんなに多くはない。  カンバラ  ↓↓  「換葉拉(換える言葉、拉典〈ラテン〉語)」で、  「貫葉拉(貫く言葉を拉致)」  「鑑歯拉(歴史の年齢歳は拉典)」  「巻葉(葉巻を逆にして詳しくみる)」  「款葉拉(借款の言葉は拉典)」  等で、「菅(すげ・すが)」とは「首をスゲ替える」の語源で、姓に関しては、  「神原(天原)・蒲原(かまの原)・関原(関ヶ原)・甘原(海の部の原)」  等とオキかえ、トリかえられる。同音異字は、  「貫歯(貫く年齢歳を詳細にみる)」  「艦腹(船の中腹)」  「姦頗蘿(ヨコシマ、よこしまなサルオガセ〈猿将画施・猿男臥世〉)」  「甲(甲乙の兄弟)葉・干把」  「幹場(みきば=美樹場・三木把・美紀婆・神酒場)」  「観(鑑・姦)薔薇」とは「観察(歴史)する英国(薔薇の象徴)」カモ。  「冠茨」とは「キリストが頭に載せられた茨の冠」  「鑑茨」は「歴史(鑑)は茨城(水戸)」  「桓派螺」は「桓武天皇の派閥の累」  「諌、原」は「諌(いさ)める原」なら次の人物達を調べてみるのも面白いだろう。  『原市之進』1830~1867年8月14日没             ・水戸藩士・弘道館舎長・幕臣に暗殺  『原 狂斎』1738~1793年4月20日没・阿波藩家老  『原 玄豕』1631~1718年没・隠岐島生まれ・植林の功労者  『原 在中』1750~1837年没・原派の絵師・障壁画が多  『原 双桂』1718年10月13日~1767年9月4日没・唐津藩侍医  『原田甲斐』1619~1671年3月11日没             ・伊達仙台藩宿家老・酒井忠勝の邸宅で斬殺  『原  敬(さとし・たかし)』1856年2月9日~1921年十一月4日                 ・「中岡艮一」に暗殺  『原田嘉右衛門』生死没?・1592、93年に豊臣秀吉の命を受けて                    フィリピンとの貿易を尽力、促進  『原田孫七郎』生死没?・『原田嘉右衛門』の手代  『原坦山』1819年10月18日~1892年7月27日没  「多紀安叔」に医学を師事する・京都白川「心照寺」の住職  『原ドン(鈍)・マルチノ(丸知野)』生死没?  「1582(天正十年)」の「天正遣欧州使節副使」の一人で「十余歳」で渡欧。ラテン語に秀でており、帰途「ゴア」に於て「ラテン語」で演説した。「1616(元和二年)」に豊臣秀吉によって「マカオ」に追放  『原南陽』1753年~1820年8月16日没・水戸藩に仕えた医者  『原主水』1587~1623年没・元「徳川家康」の小姓・洗礼名「ジョアン」・キリシタンとして江戸高輪で殉教者47名の一人として「火刑」  等の「原」、「原田」の姓名を有する人物である。「百人一首」が示唆する「弐拾四番目」の歌番号、『菅原道真』の名前と彼の経歴は「現存・古事記」に重なって、さらに「江戸時代」の「事件」に重ねられているのだが・・・重なっている部分は「和歌山県」、「樹林・植林」、「隠岐」、「海」、「渡航」、「ラテン語」・・・「非業」等である。  『菅原道真』の経歴を追うと、  「貞観四年(864)」に「文章得業生」  「元慶一年(877)」に「式部少輔・文章博士」を兼ねた  「仁和一年(885)~仁和二年(886)」には「讃岐守」となった  「仁和三年(887)」に「宇多天皇」即位。             「『阿衡』の紛議」が起こり『藤原基経』を諌めた  「寛平五年(893)」には「参議」、             「式部大輔・左大弁・勧解由長官」を兼ねた             娘「衍子」を「女御」  「寛平六年(894)」に「遣唐大使」に任命されるが、在唐僧「中瑾」の書             を見て「遣唐使派遣廃止」を申請し認められる  「寛平七年(895)」に「中納言・従三位」  「寛平八年(896)」に「民部卿」  「寛平九年(897)」に「大納言・右大将」、「氏長者」  「昌泰二年(899)」に「醍醐天皇」即位ご、「右大臣」  「延喜一年(901)」に『藤原時平』に讒訴されて「太宰権帥」に左遷  となる。「九州筑紫太宰府」左遷三年後で死没。後に、彼は「北野天満宮」に「文学・学問の神」として祭られたのである。受験生は祈願すべし、人物だ。  「左遷」とは、「テイのイイ流刑」であった。『藤原定家』の時代を踏まえれば『後鳥羽上皇』の「隠岐島流刑」と重ねられているのだ。「歌番号二十四」とは「二重ヨム」で、「尼が重なる史」である。そして「似重死(重視)」だ。  この「弐拾四番目」に撰ばれた和歌は「朱雀院=宇多上皇」がある十月、奈良に「十二日間」の旅にお供した時に作ったモノとされている。「朱雀」の示唆とは「南」で、「朱鷺=天武天皇(大海人皇子)の死亡時の年号(686年9月)」  朱雀(あかすずめ・シュジャク     ↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓     証  す図女 主 弱=首若                      ↓                    首惹・主寂)                     ↓                     惹=若+心=和歌の心  朱鷺(あかさぎ・ とき・ シュロ      ↓↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓      蛙掛詐欺 解き 主 賂=主露・主路・首櫨・首櫓)      ↓↓      かえる 解き 種 魯(魯斯亜)             ↓↓   ↓↓             ↓↓ 魚(まな)+日(ひ)=真名意=真名比=学び            禾(のぎ)+重(かさなる)=「能義・野木・野義」              ↓↓             「乃木」とは誰か?  に重なるのだ。「乃木」とは「日露戦争」で活躍した「乃木将軍」の名前であった。「日清戦争」後に「ロシア・ドイツ・フランス」の「三国干渉」があり、その合言葉は「臥薪嘗胆」であった。そして、その「十年後」に「ロシア」は「白旗」を掲げて降伏したのだが・・・「百人一首」のこの「和歌」が「日露戦争」に引っかけられているとはとても思えないが・・・後代の誰かがヒッカケようと思えば、それは、  この たひ はへい もと  り あへ す て むけ やま  ↓↓ ↓↓ ↓↓↓  ↓  ↓ ↓↓ ↓ ↓ ↓↓ ↓↓  胡廼 多備 派兵    元 李 合重 洲 出 務華 邪魔  ↓↓ ↓↓ ↓↓↓  ↓ ↓ ↓↓ ↓ ↓ ↓↓ ↓↓  虎之 他意 頗並   本 裏 阿倍 守 出 武家 居間(哉魔)  邪蟆(よこしまかえる)  もみ  ち の にしき  かみの まに まに   の  ↓↓ ↓ ↓ ↓↓ ↓ ↓  ↓ ↓↓ ↓↓  ↓  模診 字 埜 似史記 上  埜  間似 磨似・・・之(シ=史)・埜=記紀努  ↓↓ ↓ ↓ ↓↓ ↓ ↓  ↓ ↓↓ ↓↓  模観 治 之 尼士気 加味之 間尼 真似  ↓↓  喪未 知 乃 似死期 禍美濃 間に 魔似  25(三条右大臣=藤原定方・873~932)・弐拾五  名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知らねでくるよしもがな  ↓↓  名に・・・拿似  しお・・・詞緒(尾)・史緒(尾)・死将・志雄・・・おわば=尾和場  はば・・・把場・幅  逢坂山・・報叛纂・奉藩纂  の・・・・埜  さね・・・佐音・実・種・・・・・・・・・・・差音・作音・鎖値・叉寝  かづら・・掛柘羅・下図羅・数螺(匹=挽)・・和拉・桂・・科面・葛  人に・・・比図似  知ら・・・示羅  ねで・・・音出・禰出・子出・根出=株=かぶ=歌舞・下部・蕪  くる・・・句留・来る・手繰る  よし・・・世史・代史・与史・余史・輿師(地図作りの師=伊能忠敬)  も・・・・模・喪・藻・裳・母・・・毋(カン)=貫(つらぬく)  がな・・・仮名・臥名・賀名・蛾名=蚕(かいこ・サン=懐古・回顧・解雇)  『三条右大臣』とは「藤原定方(873~承平二年八月・932)」のことである。「勧修寺」の祖と言われている。「醍醐天皇」の「延長三年(925)」に「大納言」から「右大臣」になった。女(娘)は「宇多天皇」の「女御」になった。幕末明治には「太宰府」に左遷された『右大臣・三条実美』なんて云う公家もいた。「延長三年(925)」には諸国に「風土記」を勧進させる記録があり、その前後の年、「924年2月」には「新羅明神」を「比叡山山麗に祭る」、「926年4月」には「豊受大神宮の境界を定める」とあり、何故か「深紅色を禁ずる」とある。これは「917年(延喜十七年)」の『三善清行』の奏請の結果であった。『三善清行』とは「淡路守の三善氏吉の子供」であり、字(あざな)は「三耀」、号は「居逸」であった。「経史」を学び「900年(昌泰三年)」に「酉辛革命」を上奏して拒否され、これをテコにされて『菅原道真』の失脚の要因をつくった人物である。「科学的根拠(?)」のない「深紅(シンク・真紅)色」を嫌った人物なのだが、同音異字が「シンク(辛苦)」であるからダろう。『藤原定家』の時代を踏まえれば「平家の赤旗の色」であり、「新羅明神」は「新羅の神=源氏の白旗色」であり、「豊受大神宮」は「伊勢外宮」で、「壱与を祭った場所(?)」である。「内宮と外宮の境界線を決めた」との「外宮(げくう)」とは「解空・解寓」ではあるな。ならば「内宮(ないくう)」とは「名意寓」である。「寓意・星座の座宮」を理解せよ、である。この和歌には「掛け言葉」が充満している。しかも「歌番号」は「二十五番目」で、「似重語判目(女)」である。旧暦(陰暦)の「一月二十五日」は『弘法大師・空海』の「宿耀経」が「二十七宿」であるならば「女宿」であった。起点(中国式)の「角宿」からは「9番目」、「昴宿(インド式)」からは「20番目」である。「牛宿」を加えた「二十八宿」ならば起点の「角宿」からは「10番目」、「昴宿」からは「21番目」である。  「さね(種・実)の葛(かづら)の蔓(つる)を引っ張れば、阿武の業(サガ・佐賀・嵯峨)の邪魔之、人、似新羅、音出、ゾロゾロと句留(来る・繰る)、代史模掛(与死母科)、仮名」なのだ。「葛城皇子」とは「天智天皇(中大兄皇子)」であった。「日本書紀」によれば「葛木襲津比古(葛城曽都毘古)」とは「武内宿禰」の子供である。「神功皇后五年」に人質の「新羅皇子の『微叱許智』」に逃げられ、その従者を「焚刑」にし、新羅の「草羅城」を陥れた人物なのだ。人質の『微叱許智』とは、   微          叱         許         智  「わずか(和図科)・しかる(史科留)・ゆるす(諭留州)・とも(図模)」   ↓↓↓↓     ↓↓↓       ↓↓↓       ↓   話束        詩歌留       喩留素       共(友・徒模・伴)   ↓    「ビシ・ツキ・ョチ=日誌 柘 余事(予示・余字・予知)    ↓  ↓  ↓    備後 就 余地=備える後に就く尼(アマ)利の地   ↓↓   毛利元就の領地(備後・安芸・周防)            毘幟柘記余地=毘娑門天の幟(旗)の拓、尼子に置            ↓↓            上杉謙信(長尾景虎)の旗・「毘=田比」はヘソ・中心            尾誌柘記予知 タヒ=多比・他意            ↓↓            尾張の「古事記」にある「序(予・預・余・輿)の知」            ↓↓               ↓↓ ↓↓            ↓↓     ヒシツキヨチ=秘史月予知            尾張の背後=箕=美濃=味野=三野            ビシツ・   キョチ            ↓↓ ↓↓ ↓↓            日失(室)  挙 知=日食・岩戸隠れ=岩国            美漆    挙 地=輪島・宇和島            ビシ ツキヨチ            美姉 就 与地            比七  虚 置=比較「漆・櫛・室・嫉・質・蛭・執」                          ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓                          器 雨 人 妬 料 虫 筆  である。「薇(ビ・さるすべり)」は「中国の占い」の『紫薇斗数命』に使用される漢字で、「天体星図」であり、「人の宿命(業)・運命」を判断するモノで、「薔薇」の漢字でもある。「応(廣)神十四年」に「百済の『弓月君』」が渡来するときに「新羅」の妨害にあったのを救助、護衛して日本に連れてきたのも「葛木襲津比古(葛城曽都毘古)」であった。「葛木襲津比古」とは、  葛       木・襲          ・津     ・比   ・古  ↓↓      ↓ ↓          ↓       ↓    ↓  かづら(くず)・き・おそう(かさねる)・都(柘・晦)・比べる・いにしえ  ↓       ↓ ↓          ↓      ↓    ↓  カツ      モク・ソ          ・シン     ・ヒ    ・コ  掛柘     模句 素           診(振・申) 秘    拠  「活目の素、審(つまびらやかにする)、比(比較する)拠(ヶ所)」である。これを更に検討すれば、  「葛城=艸+日+勾(勹・ム)+土(十・一)+成」        ↓       「日の下、加賀武(句はヨコシマ)の国の名留」  「葛木=艸+日+勾(勹・ム)+木(十+八)」       ↓     「句の差、比、引く(句の邪)、記(壱拾八=位置重把)」  である。とにかく「葛木襲津比古」とは「新羅(斯盧・鶏林・朝鮮)」の最もイヤな人物ではある。「日下の庄」とは「朝倉義景」出自の越前だ。  なにしを  は(わ) は  あふさかやまの さねかつら  ↓↓↓↓ ↓↓↓ ↓  ↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓  拿西 雄  和(話) 把  大 坂 山 乃   実 桂・・・大 坂=他意叛                  ↓ ↓       ↓                  大 伴 纂 埜  字柘経(掛)他意伴=尾補作臥                  大 藩  ひとにしらねて くるよしもかかな  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓  人 に知らねで 来るハズもないか  26(貞信公)  小倉山峰のもみじ葉心あらば今ひとたびのみゆきまたなむ  ↓  小倉・・小椋・邑久羅・奥羅・悪供等・尾久等=比丘等・焦燥・尚早・少壮  山峰・・纂報・纂奉・纂邦・纂豊・蚕奉・産蜂  の・・・之・野・乃・廼・埜  もみじ・模診字  葉心・・把診  あらば・荒場・新場・蛙(かえる)羅場  今・・・意真  ひと・・比図  たび・・多備・他尾・詫日  の・・・之・野・乃・廼・埜  み・・・診  ゆき・・喩記  また・・真詫  なむ・・拿務  『貞信公(藤原忠平・元慶四年・880~天暦三年八月十四日・949)』は兄「藤原時平」の死亡後(909)「醍醐天皇」を補佐し『朱雀天皇』、「村上天皇」等の摂政を「十二年間」、関白を「八年間」も務めた。  「藤原時平」等の子供や兄弟が次々と死亡した原因が『菅原道真』を太宰府に流したタタリであるとされ、「右流(道真)」、「左死(時平)」と言われたらしい。「左右」は大臣の位置である。その弟が四男『貞信公(藤原忠平)』であった。「藤原時平」は「王朝の中央集権制度維持」の厳格な保守主義者と謂れ、『貞信公(藤原忠平)』もその政策を継承した。「小倉山」とは『藤原定家』が「小倉百人一首」を撰んだ「山荘」があった場所だ。「紅葉」の名所であった。その場所は「京都市右京区『嵯峨』」で、「小倉=嵯峨(サガ)=業」である。「さが(業)」とは「人の宿命」であった。この「和歌の意味」は一般的には「宇多法王がサガのモミジをみて、子供の醍醐天皇にもみせたいモノだ」との言葉を受けて「もし、紅葉に心があるならば醍醐天皇がもう一度、モミジをみにくるまで散らないで待っていて欲しいモノだ」と理解されている。多分、撰んだ『藤原定家』の意図は、「隠岐の家(後鳥羽天皇)、間、報之、模して診る字の葉、こころ荒罵、意真、彼吐他意、之、御幸(怨癒記)を待っていて欲しいのですが」との異図ではないのか・・・「高揚・紅葉」と「洛陽・落葉」は相互に立場が入れ替わった人物だ。と同時に「尼将軍」への「媚び」とも採れる。時代が変遷していても「和歌」は「二股を懸けてヨマレルことが出来る様に仕組まれている」のだが、その真意は「敗者(歯医者=虫歯を直す)の立場」であろう。  おくらやま みねのもみちは こころあらは おくら  尾句八磨 診音埜模診地葉 個々賂蛙羅場・・・奥羅=陸奥=奥州=欧州  いまひとたひの みゆきまたなむ なむ  意磨比図他意之 診諭記真他名務・・・・・・・・難=楠=南=三波=産婆  27(中納言兼輔・藤原兼輔)・弐拾七  みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ  ↓↓  みか・・診掛・美香・三掛  の・・・之(シ)  原・・・葉  わきて・話記出・和気出(訳出)・脇手・腋出(月夜出)  流る・・名賀留・名臥留・名蛾留(蚕)・長留流  る・・・婁(七夕津目・たたら)  いづみ・意図診・泉・和泉・出水・伊豆実・・・・・木津川  川・・・撰・線・占・船・旋・仙・銭・箋  いつ・・何時・意図・伊豆・・・・・・・・・・・・出水・和泉・泉  みき・・診記(紀)・幹・三記(纂紀)・神酒・・・積木・罪着  とてか・図出掛・土手架・度出懸  恋・・・故意・虎意・請・濃・乞(+乙=かみさし+おつ=神指音)      鯉(魚+里=真名+作図)  しか・・詩歌・史家・志賀・滋賀・鹿(覇王)・死禍・歯科  る・・・留・流  らむ・・羅務・裸夢・螺夢・拉武・拉夢・拉矛・ラン=乱・藍・嵐・覧・蘭  『中納言兼輔(堤中納言・藤原兼輔・元慶一年・877~承平三年二月十八日・933)』は「延喜五年」に「参議・従三位中納言」。「紫式部」の曾祖父(ひいじじい)であった。「堤中納言物語」は「女房・小式部」が「天喜三年(1055)」に書いたモノらしい。この和歌の「いづみ川」には「弘法大師(空海・真魚)」が修行中に咽が乾いて杖で地面を衝いたら水が湧き出した、と云う伝説と、もう一つは「昔々に瓶を埋めたので、その瓶(壷)に川の水が流れ入って湧き出した」と云う伝説ダ。「瓶(ヘイ・びん)」の同音異字は「平・兵・併・並」で、「罠(わな)・紊(みだれる)・便・貧・閔・秤(はかり)」等だ。「ヒン」なら「牝・匕・嬪・品(ホン=本・叛・翻・奔)」である。  みかのはら わきて なかるる  いつみかわ   いづ みかわ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓  ↓↓↓↓↓   ↓↓ ↓↓  診科之頗拉 話記出名懸流留  意罪科話・・・・・伊豆・三河   いつみ  き とてか  こいし  かる らむ   こいし かる   ↓↓↓ ↓ ↓↓↓  ↓↓↓ ↓↓ ↓↓   ↓↓↓↓↓    慰罪   着 都出禍 姑意志 科流 乱・・・・・虎意志 借る                          ↓     ↓                          拉務    虚意思 蚊留                          蘭(学)  胡意志 狩る                          乱     子意志 刈る                          濫     小石 河流                          藍(山)  呼医師 穫る                          螺ム    雇遺志 懸留  28(源宗于朝臣)  山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば  ↓↓  山里・・纂理・纂裏  は・・・把・葉・歯・頗  冬・・・問・答・唐・盗・統・藤・東・島・陶・桃・頭・等・当・倒  ぞ・・・訴・素・祖・鼠・組・楚・蘇・措  さびし・作備史  さま・・様・作真  さり・・作理・叉理・左理・鎖離  ける・・懸留・華留・毛留・仮留・祁留・家流・気流  人・・・比図  めも・・女模・女母・女喪・メモ  草も・・句佐模・相模(そうも・さがみ)  かれ・・掛例・借れ・狩れ・穫れ・駆れ・渇れ・枯れ  ぬと・・奴都・・奴徒・・・・・・・・・・・・奴=女+又=陰(ほと)  思へ・・主経・尾模経・緒母柄(ヘソの緒)・面重  ば・・・場・罵・婆・馬・芭  『源宗于朝臣(みなもとむねゆき・?~天慶二年・939、天慶三年・940)』は「光孝天皇」の皇子で「是忠親王(南院宮)」の息子であった。彼が死亡した「939」には「文章博士」の「大江維時」が「十月・大学北堂で『文選』の講義」の記事と、「八月・尾張守が領民に射殺される」の記事がある。『藤原定家』が狙っているモノは確実に「人物名」と「人物の事績」、そして「その人物が生存していた期間の主要な歴史的事件」を『承久の変』に重ね、「百人一首」として撰した「和歌の表、あるいはその裏の意味を『心あるならば・・・を推察し、知って欲しい』」との意図デハなかったのか。翌年の「天慶三年(940)」には『平将門』が殺された年である。『平将門』は朝廷に反旗を翻して「新皇」を自称した人物である。その意味では「鎌倉幕府創設者・源頼朝」や、その「執権・北条氏」の立場と同じである。と同時に『平将門』は朝廷の軍隊に鎮圧され殺された人物なのだ。だが、「尼将軍・執権・北条一族」は「源実朝」亡き後に確実に『承久の変』で「朝廷の実権」を奪ってしまった。これらの「和歌選択」の意図は「本来の歌の意味を超え、文字裏の意味を推察してくれることを期待し、衰退した朝廷権力の再興の願望を表明」しているのだ。江戸幕末なら「海防開国の蘭学者の弾圧」、明治の事件では「203高地」の示唆ではあるな。  やまさとは  ふゆそさひしさ  まさ りける   山里 そ さひしさ  ↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓   ↓↓↓↓↓  ↓↓ ↓ ↓↓↓↓  邪魔里 は  付喩ぞ作秘史鎖 真作裏懸留・・・纂裏 姐 作比示唆  歳=さい=際  佐卑(一・妃)  ひとめもくさも   かれぬとおもへは     ひとめ  ↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓    ↓↓↓  人 目模句佐喪 掛例奴徒主 重ば・・・・・・一目=壱女=市女=比図目  29(凡河内躬恒)  心あてに折らばやをらむ初霜のおきまどはせる白菊の花  ↓↓  心・・・個々賂・診・振・申・矧・辰・薪・審  あて・・宛・当て・充て・蛙(かえる)出・雅(鴉=烏=う=卯)出・婀出  に・・・似・爾・尼・丹  折ら・・緒羅・説裸・窃拉・接羅・洩拉  ばや・・婆家・罵家・馬家・場家  をら・・将等  む・・・務・武  初霜・・把津市模・書相  の・・・之・埜  おき・・沖・置き・起き・お気・隠岐  まどは・真度葉  せる・・競る・背留・施留・世留・セ留  白菊・・史規矩・史賂規矩・死賂規矩・詞賂聴く・詩賂起句  の・・・之・埜  花・・・葉名・華・華・塙・把拿・頗那=ヨコシマの那  『凡河内躬恒(おほちこうちみふね・生死没?)』は「寛平時代(889~898)」頃には「甲斐少目・御厨子所」の役人であったらしい。西暦の年号のパターンは「898」で、「トマト」や「山本山」の上からヨンでも、下からヨンでも同じ「山本山」式の「回文」であるナ。とにかく、「古事記」には「天津彦根命、是、凡河内国造等祖也」とある。『紀貫之』や『小野忠岑』等と共に「古今集」の撰者の一人であった。まず「白菊」である。「梅」は「長谷寺」詣での時に作った『紀貫之』の「和歌」の所で既に述べたが、江戸徳川幕府の時代ならば『梅里(徳川光圀)』の象徴で、「弘文天皇即位」の立場であった。さらには「明治天皇」が「明治三年七月二十三日」に公認した立場でもあった。そして、「梅」と同じく「白菊」が歌われたのはこの「一首」だけであった。「菊」は「天皇家の家紋」である。ならば「百人一首」の撰者『藤原定家』の「中納言」の立場であるならば「天皇家」に対する「・・・(?)のモノ」であるはずだ。  こころあてに  おらはや をらむ はつしもの  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓  姑虚賂娃出似 折ら婆哉 折ら武 捌 史模埜  胡虎路充て爾 織羅婆也 尾羅務 把柘詞模埜  箇々露亜出似 将等破也 雄羅武 破津死者之  おき まとわせる  しらきくのはな  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  隠岐間度話施留 使等聞くの葉納  沖 惑  わせる  斯露企供之破那

    「小倉百人一首」と「現存・古事記」(8)  30(壬生忠岑)・参拾壱  有明のつれなくみえし別れよりあかつきばかりうきものはなし  ↓  有明・・有名・祐名・幽名・右名・雄名・優名・友名・憂名・邑名・融名  の・・・之                      ↓  つれ・・釣れ・吊れ・連れ・都例・柘例    大友皇子・大伴・大朝  なく・・名句  みえし・三重史  別れ・・和歌例・捌  より・・選り・依り・寄り・頼(朝)・因り  あか・・赤・垢・朱・紅  つき・・付き・衝き・突き・就き・尽き  ば・・・場  かり・・借り・駆り・苅・仮・雁  うき・・有記・得紀・浮き・雨期・雨季  もの・・模之・喪之・母之・物・者  はなし・話・噺・離し・放し  『壬生忠岑(ただみね・生死没?)』は「藤原・右大将・定国」の随身で、「御書所」、「右衛門府生」、「御厨司所預」、「摂津大目」等を歴任し、著書には「和歌十体」がある。「岑」は『小野岑守』にも使用されている。  「壬生」とは「ミズのエの生まれ」で「壬申」の「壬」である。「忠岑(ただみね)」は「チュウ+シン(ジン)」と音読みするなら、「中心・忠臣・衷心・忠信・注進・忠心・中震」で、「柱壬・注申」である。示唆するモノは『壬申の乱』である。漢字分解ならば「忠岑」=「中+心+山+今」で、「忠臣の纂、いま(意真)」、「注進の纂筋」の「三十番目」である。「第参拾巻」とは「日本書紀」の「巻数」であり、「持統天皇紀」であった。彼女の「忠臣」は種々存在したとは思うが、「持統六年三月三日(692)」に農作期に「伊勢御幸決定」を諌めた『中納言・直・大貳位・三輪・朝臣・高市麿』であろう。彼が「諌めた(直言)」ことは「持統天皇」に無視されてしまったのだが、『高市麿』は後世も「忠臣」と評価されたのだ。『大津皇子』を殺してしまった「持統女帝」は「大赦・褒賞」も盛んに行った。『藤原定家』はこの記事を読んでいたなら「尼将軍(貳位の尼)」と「御鳥羽天皇(法王)」の二人に懸けた「諌め」と「許し」を「乞う立場」ではないのか・・・?  ありあけの つれなくみえし わかれより  あけ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓  在り朱 之 連れ亡く見重死 和禍例預理・・・・朱=朱鳥=天武死没の年  あかつきはかり う きものはなし      あか  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓     ↓  吾禍晦紀謀 り 得紀母之話 し・・・・・・・・阿胡行宮(持統六年五月)  31(坂上是則・さかのうえのこれのり・?~延長八年・930)・参拾壱  朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれる白雪  ↓  朝・・・阿差・娃叉・唖作・蛙作・安佐・厚狭・麻・字(あざ)  ぼら・・模羅・簿拉・母等・姥羅・暮(くれ)  け・・・掛・懸・毛(蝦夷)・気(隠岐)・華(中国)・家  有明・・有名  の・・・之  月・・・付き  と・・・図  見る・・懸留  まで・・間出  に・・・爾・貳・似・尼・児  吉野・・記知埜  の・・・之  里に・・作図似  ふれる・振れる・触れる・降れる  白雪・・葉句施柘、柏説・白説・博説・伯説  『坂上是則(バンジョウゼソク)』は『坂上田村麻呂』の「四世」の「孫」で、「坂上好蔭」の子供である。「醍醐天皇」と「嵯峨天皇」に仕えた。「延喜十七年(917)」に「少内記」、「921年」に「大内記」、「延長二年(924)」に「加賀介」となった。「蹴マリの名人」で、「二〇六(弐百六)回」も連続(連足)して「マリ(真理・魔理・麻理・間理・馬里・磨理)」を蹴り上げた人物と言われた。「坂(ハン・十+一+反)・上・是・則(ソク・目+人+リ)」とは「位置が重なる叛、上、是、則天武后」であり、「サッカー」と「大樹」で結び付いたのは『天智天皇』と『中臣鎌子』であったのだが・・・「蘇我氏」を蹴っとばした「大化改新(645)」であった。研究者、学者は「日本書紀」の「大化改新(645)」が決行されたと記録されている「月日」を注意深くヨンデみろ、である。その「日(六月丁酉日・朔甲辰)」の策謀から始まって、『蘇我入鹿(鞍作)』暗殺決行は「十二日目」の「三韓調進=三朝議(みささぎ)?」の「戊申日」で、その翌日、「十三日目」は『蘇我蝦夷』が「漢直」に裏切られて自殺した「己酉日」であった。「六月朔日(一日)」が「甲辰日」ならば「己酉日」は「六月六日」であるはずだ。「十四日」に拘れば「六月十四日(陰暦)」とは「祇園祭り(京都八坂神社の祭)」であった。しかも「七月十六日(陰暦)」の「大文字焼き」はその「祭」のシメッククリの最大イベントであった。  朔  日目   1  2 3  4 5 6  7 ⑧  9  10  11 12 13 ⑭       ↓  ↓ ↓  ↓ ↓ ↓   ↓ ↓  ↓  ↓   ↓  ↓ ↓ ↓  干    丁  戊 己 庚 辛 壬 癸 甲  乙  丙  丁  戊 己 庚  支    酉  戌 亥 子 丑 寅 卯 辰  巳  午  未  申 酉 戌       ↑  ↑ ↑ ↑ ↑ ↑  ↑ ↑  ↑  ↑  ↑  ↑ ↑ ↑  小月日 23 24 25 26 27 28 29 ↑ ↑  ↑  ↑  ↑  ↑ ↑ ↑  大月日 24 25 26 27 28 29 30 ①  2   3   4   5   6  ⑦  「みささぎ」とは本来的には「陵墓」のことである。「庚戌(コウジュツ・コウシュツ・コウシュチ)」とヨム・・・「口述・講述・後述」、「敲出・孝出・弘出・控出・皇出・后出・考出」、「項主知・頁諏知・交首知・後首知」等々・・・であるな。「祇園祭(ギオンサイ)」ならば「擬音採・疑音差異・欺恩載」等々である。  『坂上田村麻呂』とは「延暦二十年(801)」には「蝦夷征伐」の「征夷大将軍」であった。東北の「多賀城」から「陸奥胆沢城」に「鎮守府」を移した人物で、当時「従三位」である。「延暦22年(803)~延暦23年(804)」には再度「征夷大将軍」、「参議」、「中納言」、「右近衛大将」、「侍従兵部卿」、「三位」に昇進し「薬子の乱(弘仁一年・810)」には「嵯峨天皇」によって「大納言」となり「従二位」を賜った。この結果「藤原薬子・仲成」に組した「平城上皇」は捕らえられてしまうのだ。そして「平城上皇」は剃髪し「弘法大師・空海」について坊主になり、「弘仁十四年(823)」には追号「先太上天皇」を贈られた人物であった。この「乱(ラン)」の中心人物の名前が、「薬子(ヤクシ)・仲成(チュウセイ)」ならば「訳詞・約詞(バイブル)・厄死」で、「忠誠・中正・中世」である。「サガ」も「ヘイジョウ」も「業(作賀・叉賀・挫臥)」、「平常(閉場・併帖・併條)」である。  『坂上田村麻呂』御先祖は「帰化人」の「阿知使主(あちのおみ)」であった。何故、この漢字「阿知使主」を使用しているのか・・・「東漢氏」の祖で、「日本書紀・応神二十年」には子ども「都加使主」、そして一族が「十七県の民」を率いて渡来、「応神三十七年」には中国の「呉」に派遣され「縫工女の兄媛、弟媛・呉織、穴織」等を連れてきたらしい・・・そのまま「阿・知・使・主」とは「阿を知る、使いの主」である。では「阿」とは誰か?・・・「阿武」か「阿倍」、「阿閉」、「阿毎」である。似たような名前には「応神十五年」の「百済帰化人」の「阿直岐(あちき)=阿知吉師」で、「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の師となった人物の記録がある。彼は「阿直岐史」の祖であるらしい。「菟・道・稚・郎・子」の「稚(わき)」は「チ・わか」とも読む。ならば、「ウサギ(菟・兎・卯)の道=月の道=白道」の「知・和歌」、「漏(郎)・史(子)」である。そして「菟道稚郎子(トドウチロウシ=図同地漏詞・都道知弄詞)」である。「百人一首」の撰者『藤原定家』の立場を踏まえるならば、「白道=月の軌道(鬼道)」とは「源氏」である。「歌番号」は「参拾壱番目=サンジュウイチバンメ・みつ、ひろう、いち、つがい、め」であった。  あさほ らけ ありあけのつきと みるまてに  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  安佐補羅家 在り朱  の付き図 診留魔出尼  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  字 補等懸  蛙理吾懸之月  斗 観流磨出迩(邇)  よし ののさとに ふれるしろ きゆき  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓  義 之埜作図似  触れ留史賂記諭記  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓  余史之埜叉屠児 付例留死路記諭記  32(春道列樹・はるのみちのつらき・生死没?)・参拾弐  山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり  ↓  山川・・・纂撰・蚕選・参戦・纂箋・・・「箋」は短冊、辞書  に・・・・・似・爾・丹・尼  風・・・・・封・夫・付胡  の・・・・・之・埜・廼  かけ・・・掛け・懸け・加計・描け  たる・・・足る・樽・多流・他留・侘留・詫留  しがら・・志賀羅・滋賀羅・歯牙累・史臥羅・死殻・始賀拉・姿裸・信楽  みは・・・診葉  流れ・・・長例  も・・・・・模・喪・母  あへぬ・・阿閉(阿倍)奴  紅葉・・・高揚・公用・効用・向陽・港陽・甲陽・乞うよう  なり・・・・名理・名吏・名里・名李  けり・・・・懸理・掛理・華里・華吏・毛里  『春道列樹(シュンドウレツジュ)』は「従五位下・雅楽頭」の『新名宿禰』の長男であった、と言われている。出自は「奈良の春道村」であるらしい。「延喜二十年(920)」に「文章生」から「壱岐守」に任ぜられ、後に「出雲守」に転じた。「壱岐」、「出雲」ならば次に並ぶモノは「隠岐」である。この「920年」には「醍醐天皇」が皇子「高明」等に「源朝臣」の姓を賜った。いわゆる「醍醐源氏」である。同年には「能書」により『小野道風』が昇殿を許されたと年表記事にある。既に述べたことを繰り返すが『小野妹子(蘇因高)』とその『小野一族・係累』が「現存・古事記」や、「日本書紀」のカナメになっているコトを踏まえたい。すなわち、「遣唐使」と「海士・海部」族の流れで、その「既存の歴史の裏」や「和歌の裏」を示唆しているのだ、と云うことを。『春・道・列・樹』=「つらき(辛き)」が『新名・宿・禰』の長男であるとは「駿道(駿河)=(凌道=陵道=しのぐ道・墓道)の列記」、「診名の宿の祖音」ではないのか。  やまかわに かせのかけたる しからみは      か  わに  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓     ↓   ↓  邪魔蝦鰐  加背之駆け足る 死絡 身は・・・・・蝦夷  鰐≠白兎     ↓     世  賭      ↓↓         蚊(虻・阿武)     蝦夷   枷   架け    史唐 申頗         新=矧     ↓                  辰(龍)=秦=審=薪(まき=巻)     かえるワニ(王邇・話尼)=オニ=鬼  なかれもあへぬ もみちなりけり        もみち  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓        ↓ ↓  納臥例模蛙娃奴 喪道 納裏毛留・・・・・・・・・模診字=揉診事                              母道 拿理祁理  33(紀友則・きのとものり・?~延喜五年・905)・参拾参  久方の光のどけき春の日にしづごころなく花の散るらむ  ↓  久方・・・句謀・苦謀・供望・玖亡・倶旁・公方  の・・・・之  光・・・・考・交・皇・孝・弘・后・高・更・庚・康   ・・・・コウの全ての漢字・ひかり=比掛理・肥懸里  のど・・・咽・喉・咽喉・能登・能都・・・・・・・の努華記=廼度懸紀  けき・・・懸紀・祁記・毛記・華記・・・・・・・・・・・・・埜土懸記  春・・・・葉留・俊(凌ぐ)・頗留・把留  の・・・・之・埜  日・・・・比・妃・卑・一・陽・肥・飛  に・・・・似  しづ・・・示図・示頭・示豆・死頭  ごころ・・語雇賂  なく・・・名句  花・・・・葉名  の・・・・之  散る・・・智留・茅留・蜘留・薙留・地留・纂留  らむ・・・羅務・螺務・拉武・蘭・乱・藍・覧  『紀友則(キユウソク=記喩得素句)』は『紀有則(キウソク=気宇措句)』の子供で、『紀貫之(キカンシ=機関誌・帰還使)』の「従兄弟」、あるいは「甥」と言われている。彼は「土佐掾」、「大内記」を歴任した。「百人一首」の中にはピンク(桃)色の『桜(オウ・さくら)』は「六首」歌われている。  『ひさかたの(久方)』は「光・天・日・月」に懸けられている「枕詞」であるが、「枕詞」に意味が無いと考えている「歌人」や和歌の「研究者」は「ペケ(×)=バツ」であるナ。「真句(拉)言葉」である。「チンシ(枕詞)」である。「マクラー」とはギリシャ語で「長」であった。「鎮死言葉」、「沈思言葉」、「陳史言葉」なのであるのだが、「久(ク・キュウ・ひさしい)」とは、  長い・長い時間・変わらない・古い昔の・長く延ばす  とどめる・待つ・遅れる・つね・なが・ひこ・ひさし  である。私の漢和事典には「久方(くば)」、「久地楽(くちらく)」、「久住(くじゅう)」、「久来石(くらいし・久羅遺志・久来史)」、「久里(さか)」、「久所(くぞ)」、「久留米(くるめ)」、「久迩(くに)」と漢字を充ててヨマさせている。そして「久=ノ+ス=ク+ゝ」の「ク」は「人」で、「ゝ」は止めるとある。ならば「久=+人」のほうが理解しやすいのではないのか。すなわち「(髪差し・かんざし)+人(ひと)」で、「カミさしの人=女・娘」である。「かんざし」は「女性の髪飾り」ばかりではない。「古事記」では「須佐之男」も「出雲」で自分の頭の「角カミ(髪)」へ「櫛名田比賣(くしなだひめ)」の姿を「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変えて刺した」のだ。「湯津爪・櫛(ゆつつまぐし)」は「櫛(くし)」であることはわかるが、「湯津爪(ゆつつめ)」とはどんな「形(何)」であるのか?・・・「温泉の津女」カモ。変身した形ではないから「頭の髪の毛」に挿すものではないだろう。「古事記の翻訳者」には意味不明であるらしい。漢和事典で漢字の音と意味を採れば、            ① ② ③ ④ ⑤ ⑥・⑦   ⑧・⑨・⑩            ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓   問  湯(トウ)・・・・・唐・唐・頭・統・答・投・東  答            ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓   ↓  津(シン)・・・・・審・臣・辰・申・申・身↓  進・・・辰=龍=劉仁軌            ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓・・・申=猿女            ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓  爪(ソウ・ショウ)叢・操・宗・操・喪・捜・焼・・・心+宗=郭務宗            ↓ ↓  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓  櫛(シツ・シチ)・質・室・執・室・失・嫉・死地  である。「湯津爪櫛(ゆつつめくし)」は「喩柘詰琥史=卑弥呼、壱与」、あるいは「諭星女倶詩=七夕津女に倶(供)える詩=称徳、孝謙女帝」。「湯・津・爪・櫛(トウ・シン・ソウ・シツ)」ならば「(持)統」、「頭(目)」、「唐(朝)」、「(打)倒」、「桃(蜜)」、「陶(村)」、「島(大臣)」、「(不比)等」、「東(国)」、「(的)当」の「シン」+「ソウシツ(ショウシツ)」か「ショウシチ(ソウシチ)」の同音異字である。「湯=水()+昜(日一勿)」は古代中国「殷(商)」の「湯王」であった。「湯」は「煎薬(せんじくすり)」であった。「湯」は「蕩(ほしいまま・放蕩)」である。  『湯顕祖(1550~1617)』は中国「明」代の人物で、字(あざな)は「義仍(ギジョウ)」で、号は『若士(ジャクシ≠弱視・わかし≠和歌詞)』、書室は「玉茗堂(ギョクメイドウ)」であった。「萬暦の進士」で戯曲家。「紫釵記・環魂記・南柯記・邯鄲記」は「臨川の四夢」と言われているモノだ。  模範的な名前の人物は『湯若望(トウジャクボウ・1592~1666)』である。ドイツの『耶蘇会』の宣教師で『アダム・シャール(Joames Adam Schall von Bell)』の中国名である。字(あざな)は『道未』であった。「1622年」に「明」にやってきたらしい。『アダム・スミス(三浦案針)』が日本に漂着したのは「1600年」であった。ちなみに「湯武」とは「殷の湯王」と「周の武王」のことだ。「現存・古事記」、「現存・日本書紀(?)」は「唐の則天武后」の事績を「唐進駐軍」の『郭務』が操った「記録」ではないのか?・・・それを又誰かが後世、「粉飾、改作」したのだ。  ひさかたの ひかり のとけき はるのひに   ひさかたの  ↓↓↓ ↓ ↓ ↓ ↓↓↓↓ ↓↓ ↓↓↓  ↓↓ ↓  比座方 廼  比仮り之解け記  貼る之比尼・・・長方野(国)=半島                               長崎・長野・朝鮮・イタリア  しつここ ろなく  はなのちるらむ      しつ  ↓↓↓ ↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓     ↓ ↓  詩柘箇々賂名句 葉名之置留覧 ・・・・・・・漆=7=七≠匕=牝=≠ヒ                     ラ務=乱・蘭・藍・嵐・卵  34(藤原興風・ふじわらのおきかぜ・生死没?)・参拾四  誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに  ↓  誰・・・拿例・拿嶺・拿霊・拿齢・拿戻・だれ=垂れ・足れ・舵澪・打令  を・・・緒・尾・嗚・汚・雄・夫・将  かも・・掛模・蚊模・蝦模・華模・科模・家喪  しる・・知る・詩留・史留・歯留・死留  人・・・尋・訊・似務・尼武・似夢・神・塵・壬  にせむ・偽務・似せ武・尼世務  高砂・・交差・考査・較差・甲佐・・・高さ  の・・・之・埜  松・・・照・将・姓・称・庄・昇・升・咲・鍬・章・象・薔・証    ・・・末・沫・抹・待つ・磨柘  も・・・模・喪・母・藻・裳・茂  むかし・務可視・借・尺・赤  の・・・之  友・・・鞆・供・屠喪  なら・・奈良  な・・・名  くに・・句似・句似・句爾・苦児・玖児・琥璽・句爾=久慈(クジふる)  『藤原興風(トウゲンコウフウ・トウゲンキョウフウ)』は「正六位・相模掾」の「藤原道成」の子供で「管弦の名手(琴)」であったらしい。「延喜二年(902)」に「治部少丞」、「延喜十四年(914)」には「下総権大掾」となった。「902年」には「荘園整理令」、「班田は十二年に一度とする」の記事があり、「914年」に「三善清行」が「意見封事十二箇条」を献言した、とある。  『藤原興風(コウフウ)』は「后封・孝封・康封・高封・弘封・皇封・交封」で、「頁封」、「港封」等である。もちろん、「隠岐の枷(封)」だ。「相模=相似+模倣」、「管弦(カンゲン)」の「琴(こと・キン)」で「異・虎渡・姑屠・虚塗・遡途・湖都=大津・古都・事・言」、「還元・甘言・換言」である。  たれをかも  しるひとにせむ たかさこの   たれ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓ ↓  ↓↓↓   ↓↓ ↓  誰 を掛模  知る人 似せむ 高 佐古之・・・・垂簾=水練                    ↓         ↓   水蓮=荷=尼                    高野        足=帯(オビ・たらし)                    多可=多寡=鷹     =十=脚=葦  まつ もむかしの ともなら なくに    とも  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓    ↓  磨柘模務可視之 屠模奈良名苦児・・・・鞆=応神天皇(胎中天皇)                                    ↓↓                                    他意沖天皇                                       ↓                                      おき=隠岐  35(紀貫之・貞観十年・868~天慶九年・946)・参拾五  人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける  ↓  人・・・・訊・尋  は・・・・葉・把・歯・頗・波・破  いさ・・・諌・・伊佐・位座  心・・・・箇々賂・審  も・・・・模・母・喪・藻(海藻=海草・海苔・規・朔)  知らず・・知らす・白砂・白州  ふるさと・振る作図  は・・・・葉  花・・・・葉名  ぞ・・・・措・組・訴・素・楚・蘇・姐・鼠・・・そむかし=背かし  むかし・・務可視 叛 歌誌=伴歌詞・反華氏  の・・・・野・埜・之 ↓  香・・・・交・頁・皇・后・康・孝・高・カ=科=罪科 摂氏  に・・・・似・爾=字・尼・児・丹=牡丹≠釦(ボタン)   ・・・・荷=蓮(はす)=蓮華(レンゲ)=水蓮≠垂簾≠水練  ほひける・補意懸留・菩位       茅=むしろ=艸+部  ひとはいさ こころもしらす ふるさとは  菩薩                           ↓  はなそむかしの かににほひける・・・・・ほひ=(天の菩位の神)  36(清原深養父・きよはらふかやぶ・生死没?)・参拾六  夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ  ↓  夏・・・名図・名豆・名逗・拿柘・拿頭  の・・・之  夜は・・「与・代・預・予・輿・世・代・余」葉・・・余波  まだ・・真打  宵・・・預位・酔い・好い・酔い・良い・佳い・善い  ながら・名臥拉・乍・長柄・名賀羅・那賀羅  明け・・開け・朱・飽け・空け・安芸・挙げ  ぬる・・奴留  を・・・悪  雲の・・句模之  いづこ・何処・何時拠・伊豆子  に・・・似  月・・・柘記  やどる・宿・夜度留  らむ・・覧・乱・藍・嵐・蘭・卵・乱  『清原深養父(セイゲンシンヨウフ=誓言信用敷・制限信用譜)』は「舎人親王」の末裔と言われ、「筑前介・房則」の子供であるらしい。「従五位下」となり「内匠大允・大蔵大允」となった。孫に「清原元輔」、曾孫には『枕草子』の「清少納言」がいる。「山城國愛宕郡の「小野」に『清原深養父』の建立した「補陀洛寺」があった。  『清原深養父(きよはらのふかやぶ)』の御先祖が『舎人親王』ならば、『舎人(とねり)親王(天武五年・677~天平七年・735)』とは「日本書紀」編纂の総裁で、「天武天皇」の第五皇子(第三皇子の説もある)であった。「舎人(シャジン)」とは字面どおりならば「厩の係・豚小屋の係・家畜係」である。何故「とねり」と云うのか?・・・「日本書紀・編纂総裁」であるならば、「日本語」としての「歴史的概念」はすべてこの「日本書紀」から始まったのだ。しかも「和製漢文」的なモノであった。「訓」ではなく「漢字本来」の意味で記録されたモノなのである。「舎人」の言葉もこの記録の中にあるモノだ。ならば本来は「図練」、「図音吏(理)」の「記録担当係」ではないのか。すなわち「漢字を日本語に翻訳、訓ヨミする係」である。そして「写人(シャジン)」である。「天武天皇」の若い側近連中は本来は「学問(担当)生」か、「記録係り見習い生」、「漢字書類の翻訳係見習い生」だろう・・・そして彼『舎人親王』は『崇道尽(盡)敬皇帝』の称を贈られた人物である。皇帝でもなかった彼に「皇帝」とは「おくりな」としても「奇妙な贈号」である。  『崇(たたる・たたり・スウ)・・・・崇=(山+ワ+示)・吸・数・雛・枢   道(みち・ドウ)・・・・・・・・・・・・道=(首+辷)   尽(つくして・ジン・シン・盡)・・・尽=(尺+〃)・盡=(聿++皿)   敬(うやまう・ケイ)・・・・・・・・・・敬=(艸+句+夂)   皇帝』  であるとするならば、「たたるモノ」とは何なのか、誰なのか?・・・「須藤(スドウ)」、「簾道(スドウ)」で、「多々里(理・裏・吏・履)の道」である。「意富多々泥古」は「トウ(陶)の邑」に居た。問題は「尽(盡)」である。  ①つきる・つく・・・・月留・柘句  ②なくなる・・・・・・・名句拿留  ③むなしくなる・・・・武拿史句名留  ④へる・・・・・・・・・・経留  ⑤とぼしくなる・・・・・図母子句成る  ⑥おわる・・・・・・・・・尾羽留  ⑦きわまる・・・・・・・紀話真留  ⑧死ぬ・・・・・・・・・「姉・始・姿・柿・歯・士・司・師・使」の「奴」  ⑨つくす・・・・・・・・・・柘句素  ⑩むなしくする・・・・・務名示句素留  ⑪なくする・・・・・・・・名句諏留  ⑫きわめる・・・・・・・・紀話女留  ⑬おしきわめる・・・・・尾史極める(尾史=尾張大須にあった「古事記」)  ⑭皆殺しにする・・・・・診名語賂史似素留  ⑮ことごとく・・・・・・・・湖都後読(説く・解く・匿・釈く・徳)  ⑯みな・・・・・・・・・・・診名  ⑰すべて・・・・・・・・・素邊出  ⑱まかせる・・・・・・・・真華世留  ⑲まま・たとい・もし=間々・多問い・母史  ⑳つごもり・・・・・・・・・柘語母履(理)  私の漢和事典には次のようなコトワザも記録されている。すなわち、「書経(漢籍・書籍・司書)」の記録を全部そのまま信じるならば、そんな「書物」は初めっから無いほうがマシである、と・・・  「尽信書則不如無書(孟子・尽心下)」=ことごとく書を信じれば、   ↓               ↓↓↓   スナワチ、書無きにしかず   ↓                  ↓↓↓ ↓↓↓  「書籍を読むのには批判力が必要である(モウス・壬申の解)」  である。  なつのよは またよひなから  あけぬるを  あけ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓  ↓ ↓↓↓↓ ↓ ↓  奈津の代は 真多輿比名唐   安芸奴留尾・・朱  くも のいつこに つきやとらむ      いつ  ↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓       ↓  雲 廼伊豆拠似 柘記埜虎 武・・・・・・・何時  37(文屋朝康・ぶんやあさやす)・参拾七  白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける  ↓  白・・・・史賂  露・・・・梅雨  に・・・・似  風・・・・科世・風邪  の・・・・之  吹き・・・付記  しく・・・示句  秋・・・・安芸  の・・・・之  野・・・・廼・埜・乃  は・・・・葉  つら・・・面  ぬき・・・貫  とめ・・・止め・富め・泊め・図目・都女・斗目・説女  ぬ・・・・奴・濡  玉・・・・珠・多摩・球・球磨・霊  ぞ・・・・訴  散り・・・地理・塵・散・置理  ける・・・懸留・毛留(蝦夷に留=北海道の地名)  『文屋朝康(ブンヤチョウコウ≠文哉聴講・分野兆候)』は「文屋康秀」の子と言われている。彼の和歌は現存されて記録されているものは「三首」のみ、であるらしい。「寛平五年(893)」の後宮の歌合わせなどで活躍した人物でもあるらしいのだ。名前の「文屋」ならば、前述した「文屋真人(大市・浄三・康秀・綿麻呂)」系統で、この人物も「天武天皇」の「長皇子」の末裔カモ。「893年」の年表記事には在唐の僧侶「中瑾」が唐王朝衰退の兆しを報じた、とあり、「新羅の賊」が「肥前・肥後」を襲った、とある。同年の九月には「菅原道真」が「新撰萬葉集」を撰進である。前年(892)には「三代実録」、「類聚国史」。そして僧侶「昌住」が『新撰字鏡』を著作した、とある。しかも一月に「渤海使」が出雲に来着し、六月に「『牒』を二通与えた」とあり、一通は「藤原敏行」、もう一通は『小野美材』が書いたモノ、とある。『新撰字鏡』とは何か?・・・辞書。『小野美材』とは「小野妹子」の係累に違いない・・・  しろつゆに  かせのふきしく   あきののは   あき  ↓↓↓↓↓  ↓ ↓↓↓↓↓  ↓ ↓↓↓↓   ↓  死路梅雨似  枷  之付記死句  亜紀之埜葉・・・安芸・安岐・空・明  つらぬきとめぬ  たまそちりける       ちり  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓      ↓↓  柘拉貫記留めぬ 多真訴置理懸留・・・・・・・地理=輿≠塵・散  ↓↓↓↓  貫之  紀  38(右近)・参拾八  忘らるる身をば思はずちかひてし人の命のをしくもあるかな  ↓  忘ら・・・亡羅  るる・・・流・留・婁  身・・・・診・審・臣  をば・・・悪婆・伯母・叔母・小母・汚婆・将婆  思は・・・重葉・主は・面は・緒模葉・尾模葉  ず・・・・図・豆・頭  ちかひ・・誓い・治下位・地階  てし人の・「弟子人」、之  命の・・・「意之血・名・冥・盟」、之  を・・・・男  しくも・・詩句模  ある・・・蛙留  かな・・・仮名・華名  『右近(うこん・交野少将)』は「醍醐天皇」の「七条の后・穏子」に仕えていた。父親は「右近衛少将」の「藤原季縄(すえなわ)」であった。彼女は「藤原敦忠(トウゲントンチュウ≠唐源屯駐)」と恋愛関係にあって、後に彼に裏切られて別れた女性であった。男女の恋愛感情での裏切った、裏切られたは「恋愛」が「相思相愛」を意味しているからだ。「片思いの恋(戀)」とか「一方的な恋」は「恋愛の部類の拉致外」なのだろうか?・・・「恋愛=(恋+愛)」、「(恋愛-愛)=恋」で、「恋」に「愛」が付かない「恋」とは何なのだ?・・・「恋(レン)」は日本語で「こい・こう」で、その別な言葉では「慕(したう)」、「心がひかれる」である。「乞う」は「お願いする」で、「乞食の修行」である。ならば「こじき(古事記)の修行」であるな。私の脳裏に浮かぶイメージで「したう(師多有・使多有」、「したう(姿多雨・死多有・漬多雨・志太有・下得・舌有)」とは、「花札」に描かれている「雨の中で傘をサシ、柳に跳びつくアマカエルをミテイル『小野道風』の姿の絵」である。「こいしたう」とは、どうやら「恋=(亦+心)」、「戀=(糸+言+糸+心)」にその原意はあるらしい。「亦の名は」の「亦=また=又・俣・股=脚(あし)・足(たり・たれ=帯・垂)・髄(すね)」である。  わすらるる みをはおもはす ちかひてし みを   おも  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓   ↓  話素羅流留 診尾葉面 葉素 置科比出死・・澪  主=しゅ=首                                面=綿=棉  ひとのいのち を しく もあるかな     いのち  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓     伊野地  人 の命    惜 しく もあるかな・・・・・・意之地  医之知  慰之埜  39(参議等・さんぎひとし・源等・元慶四年・880~天暦五年・951)     ・参拾九  浅茅生の小野のしの原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき  ↓  浅・・・撰・箋・朝・戦・船・占・潜・泉(いづみ=伊豆診)  茅・・・事・字・地・血・馳・知・値・稚(わかい=和歌意)  生・・・有・得・有・雨・迂・宇・胡・鵜(う  =・有)  の・・・之・埜・野・乃・廼・納・能・悩(なやむ=名埜務)  小野・・尾野・麻野・御野・将之・嗚之・緒之  の・・・之  しの・・篠・死の  原・・・腹・波羅・把・薔薇・茨(茨城・茨木・とげ=図解・斗解)  しのぶ・死之武  れ・・・例・礼・齢・霊  ど・・・努・度・土・怒・奴  あまり・海部理・海士里・海女浬・尼吏・余・・・・あまりて=耐えきれない  て・・・出(山+山=サンザン=讃纂・三山)  など・・等・名努  か・・・掛・歌  人・・・ヒト  の・・・之  恋しき・故意死期・請い識・乞い史記式・虎意示記・姑委死記  『参議等(サンギトウ≠纂疑唐)』は「嵯峨天皇」の曾孫で、父親は「中納言・源希(ゲンキ)」であった。「天慶一年(940)」に「参議」になり、その後「七十三歳」で亡くなった。年表記事には彼の誕生した「元慶四年(880)」に「因幡・伯耆・出雲・隠岐」等の警備を厳重にさせる、とある。その理由は記されていないが「後鳥羽上皇」の流刑地「隠岐島」の示唆であろう。幕末なら「長州藩の動向」に対するモノだ。年代を「1000(壱千)年」加えるならば「1880年(明治十三年)」の「日本人による最初の二等砲艦・磐城の竣工」等の同年スベテの事件である。「天暦五年(951)」には「和歌所を梨壷にオキ、藤原伊尹を撰和歌所別当とさせる」、「残菊宴を十月十五日とする」とある。『藤原定家』の時代を踏まえるならば、この「残菊宴」とは「菊=天皇家の御紋」の示唆で「惨菊・残規矩・纂聴く」で、「纂起句」は「懺記句」の示唆であろう。「纂義=算木=算盤」が「等しい」である。  「百人一首」の中で「参議」を冠する人物の歌は「三首」であった。  あさち うの おののしのはら しのふれと   ふれ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  朝 治宇野 悪埜之史之葉等 史の付齢斗・・・触れ・振れ=婦令=命令                     死  あま りてなとか ひとのこ いしき      あまり  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓       ↓  尼  里出拿屠禍 比徒之故意死期・・・・・・・余理=磐余(神武天皇)                      記  40(平兼盛・たいらかねもり・?~正暦一年・990)・肆拾  しのぶれど色にでにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで  ↓  し・・・死  のぶ・・述部・述分・允・惟・延・伸  れ・・・例・霊  ど・・・努・怒  色・・・意賂・慰路  にでに・「爾出・字出・似出・尼出」、「似・貳・荷・尼」  けり・・懸理・毛里・蹴り  わが・・話臥  恋・・・請い・故意  は・・・葉  物・・・模之・者  や・・・哉・埜・也  思ふと・主有屠・重有途・念う徒・想う徒  人の・・悲途之・比途之・卑都之  問ふ・・等・答・頭・唐・倒  まで・・真出・間出・迄(乞+辷)  『平兼盛(ヘイケンセイ≠併懸姓・併憲政)』は「太宰少貳・平篤行」の子供で、『赤染衛門』は彼の女(娘)であった。「天元二年」には「駿河守」になった。この和歌は「村上天皇」の歌合わせの時(天徳四年・960)に『壬生忠見(みぶのただみ・ジンセイチュウケン≠仁政中堅・人生沖懸)』と競った歌であった。優劣の判定がつかず、「天皇の口ずさんだ歌」が彼の歌であったが故に、彼の歌は勝利したことになったらしい。  「娘」が『赤染衛門』とは字面どおりの「赤染=平家の旗色」である。「平家=赤」が勝って、「御厨司所・定額・膳部」であった『壬生忠見(みぶのただみ・別名は忠実・幼名は多々・壬生忠岑の子供)』が負けたとは・・・「壬生」は「源(水+原)=白」の示唆で、地理的には「栃木県・宇都宮の南西・栃木市の北西」にあり、ほとんど「北緯36度22分」の「茨城県・水戸」のライン上にある。もちろん、この西への延長には「隠岐島」が存在する。幕末で「壬生浪人」とは「京都壬生」に屯所を構えた「新選組」であった。しかも「壬生=水の兄の生まれ」で「壬申の乱」の示唆でもある。勝利したのは「天武=大海人」で敗北したのは「弘文=大友」である。実際には「天智=中大兄」が敗北したのだ。  「赤」が勝つ、との願望は『藤原定家』の願望であったのに違いない。  しのふれと  いろにてにけり わかこひは    しのぶれと  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓    ↓  死のフレと  慰路にて似懸理 話臥請い葉・・・・死の武(撫)霊徒  ものやおもふと  ひとのとふまて  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  模野也主 有途 悲途の島  迄                 唐  41(壬生忠見・みぶただみ・別名は忠実・幼名は多々・生死没?)・肆拾壱  恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか  ↓  恋・・・故意・請い・乞  す・・・諏・素・簾・州・守・・・・・・・・・すてふ=・・・と、云う  てふ・・ちょう・調・長・重・帳・寵・脹・吊・町・庁・眺・帝・弔  わが・・話臥・倭賀・羽賀・琶賀・輪賀・窪賀  名は・・拿葉・拿頗  まだ・・真拿  き・・・記  立ち・・達・質・絶ち・断ち・起ち・発ち・太刀・建ち・経ち  に・・・似  けり・・懸里・毛里・華里・家離  人・・・比途・一  しれ・・史例  ず・・・図  こそ・・拠素・雇組・姑素・虎素・湖素・胡素・故楚・子訴  思ひ・・主悲・主妃・主肥・面皮・尾模・緒母  そめ・・初め・措目・組目・蘇女・遡女・素女・訴女  しか・・史家・志賀・歯科・詩歌・市価・鹿  『壬生忠見』は「醍醐天皇」の時の「蔵人所」に仕え、「御厨司所・定額・膳部」、「摂津大目」を歴任し、「六位」であった。そして「壬生忠岑」の子供であった。既に経歴は「四拾番目」の『平兼盛(たいらかねもり)』の所で前述したが「村上天皇」の歌合わせの時(天徳四年・960)に『壬生忠見(みぶのただみ)』は彼と歌を競った。その結果、負けて悔しさのアマリ、病に倒れて死没したのだ。歌合わせの座席は右方に『壬生忠見』、左方に『平兼盛』が座した、と言われる。「左目から生まれた」とは「天照大御神(日読)=平家」であった。ならば、「右目」は「月読命=源氏」で、「中央の鼻」は「判定者」の「須佐之男(素戔嗚)=天皇」である。「出雲」に流されたのは「判定者」の「須佐之男(素戔嗚)=天皇」である。『藤原定家』は「百人一首」の「判定」を「隠岐に流刑になった天皇」に委ねたい、と云うことだ。「判定」の意味は「ご判断あれ、定家の想いを・・・」である。「四=肆(連続する・連なる)」だ。  こひすてふ わかなはまたき たちにけり    たち  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  故意捨て譜 和歌名は亦  記 質 似懸理・・・「たち」の枕詞は「竜田」  滝 達=「鳴滝塾の生徒達」=裁ち  多紀=多岐=多伎=多気=焚き=炊き(推古天皇)  ひと しれすこそ おもひそめ しか   しか  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓   ↓  比図知例諏故素 想 い初め志賀・・・・鹿=王  滋賀=史家=歯科(尚歯会の罪科)  42(清原元輔・きよはらもとすけ・延喜8年・908~正暦一年990)    ・肆拾弐  契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは  ↓  契り・・知己理・遅疑理・経理・刑里・ちきり=女が男を励まして被る頭巾  きな・・記名・紀名・姫名・鬼名・箕名・葵名・岐名・忌名・危那  かたみ・形見・肩身・方見・潟見・片診  に・・・似  袖・・・素出・蘇出・遡出・措出・訴出・楚出・組出・姐出・鼠出  を・・・将・緒・尾・悪・御・麻・汚・雄・牡  しぼり・思慕里・私募裏・史簿理・施姥理・死墓里  つつ・・筒(竹+同)・星・津津・柘柘・都津・晦図・逗頭  末・・・州重・州絵・素重・守重・簾娃・据・須恵・吸え  の・・・之・・・・・・・・末の松山=宮城県宮城郡の名所海岸  松山・・証算・象纂・章纂・升纂・鍬纂・称纂・薔纂・証残  波・・・名診・葉・把・破・頗・歯  こさじ・古些事・古匙・虎差字・胡作字  とは・・斗葉・図葉・鳥羽  『清原元輔(セイゲンゲンホ≠制限言補・誓言言保)』は「梨壷の五人の一人」。「清少納言」の父親であった。「村上・冷泉・円融」の三天皇に仕え「和歌所寄人」となり、「河内権少掾」、「肥後守」を歴任した。彼は「萬葉集」の「訓点」を施した人物であるとも言われている。ならば『萬葉集』が「日本語で訓読み記録」されたのは一応、彼の生存期間(908~990)であった、と言える。『萬葉集』もこの時代には「日本語」でヨムのは難しかったのだ。「四(肆)拾弐番目」の和歌である意味は「漢字の同音異字」の重ね掛けの示唆である。「四=肆=長+聿」である。「肆」は漢和事典の説明には「欲しいまま・我がまま・極める・超える・述べる・罪人を殺してシカバネをさらす・殺す・陳列・市場・つらなる・並び・故に・まこと・今・ゆるむ・おおきい・長い・速い・捨てる・量る・突く・犯す・正しい・務める・やどり」等とある。「肆」=「殺す≠正しい≠犯す」等の日本語訳の説明を関連させて理解するには無理があるハズだ。だが、「単字」でなければ、前後の文章の関係で「理解し得る理由」はあるハズだ(?)。それにしても日本人(?)の「漢字の理解の仕方」はコレでイイのか?「肆」は「シ=死」の記述の説明ならば「漢和事典の説明」はOKだが。  彼のエピソードは賀茂祭り参拝の時に「馬から落ち、同時に被っていた冠が頭から落ちたコト」である。「落馬で死亡」したのは「源頼朝」でもあったのだが。  ちきりきな かたみにそてを しほりつつ    ちきり  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  知己力 拿 形見 爾素出尾 施補裏都柘・・・女が男の勇気を励ます為に                              頭に被る頭巾  すえのまつやま なみこさしとは  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  素重の真柘哉真 拿診虎作史図葉  43(権中納言敦忠・あつただ・藤原敦忠     延喜六年・906~天慶六年・943)・肆拾参  逢い見てののちの心にくらぶればむかしは物も思はざりけり  ↓  逢い・・相・合・会・愛・哀・間・藍  見て・・懸出・顕出・謙出・拳出・建出・瞼出・兼出  の・・・之  のち・・埜知・地・乃地・廼智・・・・ちの=茅野・稚(わか)之  の・・・之  心・・・診・審・申・新  に・・・似  くら・・句累  ぶれ・・振れ  ば・・・葉・場  むかし・武華氏  は・・・葉  物も・・模之喪  思・・・主・面・尾模・緒母  は・・・葉 ユウ・イウ・ウ=異なる  ざり・・座理 →  けり・・懸理・蹴=(足+就+リ)=足+京+尤(尢・オウ・ワウ+ゝ)  『権中納言敦忠(藤原敦忠・本院中納言・琵琶の中納言)』は「右大臣・菅原道真」を陥れて「太宰府」に左遷させた「左大臣・藤原時平」の三男であった。彼はこれに批判的であった。実際は「時平」の伯父の「藤原國経」の実子であったらしい。ある女性が妊娠中に別れて、別な男に嫁ぐハナシはよくあることだ。「キリスト」を産んだ「聖母マリア」や、「中臣鎌子(藤原鎌足)」が「孝徳天皇」から払い下げられた妻が産み落とした「定慧(恵)」、「豊臣秀吉」と「淀君」の間に出来た「豊臣秀頼」、「徳川秀忠」の子供であった「保科正之」等。「古事記」では「木花之佐久夜比賣」の産み落とした三人の子供達、実際は「父親」が誰かワカラン、と云うのはいくらでもある。生物界でも人間界でも「母親」は確実であろうが、「父親」は「母子」を護ってくれるなら誰でもイイのだ。「無責任な母親」の例外は「ホトトギス」の類だが。将来、共同体構成員になるべく子供達には先ずは「幼少時期」を身近で護ってくれる「母親」の存在こそが大切なのだが、これも「実母」でなくても「養母」でイイはずダ。南極のペンギン社会は「集団生活」をするが、子育ては「雌雄両親の責任」である。しかも「自分の子」にしかケァしない。他のペンギンの子供に対しては冷酷で非情である。「人間の母親」とたいした変わりはないが、「ヌウ(野牛)の集団」や「ペンギンの集団」には「リーダー」は存在するのだろうか?その母親も「集団のトップ」に立つと「我が子」だけをエコひいきにするワケにはいかない。逆に「利用」もする。「母親」になれなかった『孝謙、称徳女帝』は「政治家」として、彼女の「後継者」をかなりの目で洞察していた女性であった。「則天武后」の「長女」は政治的な陰謀の手段として殺され、「男子」は「政治的無能者」として「実権」からは遠ざけられた。「則天武后」の「政治目的」は何であったのか?・・・単なるエゴからとも思えない。「定慧(恵)」も「遣唐留学僧(孝徳天皇・大化四年五月・648)」となったが、「乙丑年(天智四年九月・665)」に『劉徳高』の船で帰国した後に暗殺された。この前年(647)には「新羅」の「金春秋(676年に新羅統一)」が人質となって日本に来ているのだが。また後に「有馬皇子(斎明天皇四年十一月・658)」や「大津皇子(朱鳥一年十月・686)」も殺された。「草壁皇子(持統三年四月・689)」も暗殺された可能性が大である。「菅原為長」の訳した『貞勧政要(唐の呉競の著作・十巻・唐の太宗と群臣との政治に関する議論を四十門に分類して記録されている)』を勉強した「尼将軍(北条政子)」は明らかに「武家社会の確立を自覚したプロセス」で結果として「子供達」を殺し、親の「北条時政」すらも排除していったのだ。  「庇護」されるべき時期の子供達には「自立、社会規範に対する信念と状況批判・臨機応変な柔軟性による自己防衛」を「武装」させて飛び立たせる「親自身による教育が必要」ではあるナ。「殺したり、殺されたり」しないが為に・・・そして「女性」の「卑弥呼」が「権力を握った意味の政治的原点」を考えるべきである。「平和」を願い、「平和」であるコトの実現の要であったからだ。大国の「庇護」や「武力」でしか「平和」を維持出来ないとの「理由」は何なのか。「武力」の「武」とは「矛(鉾)を納めるコト」であった。日本が「1945年」から現在まで「戦争」をしなかった、あるいは出来なかった「理由」とは何なのか、「憲法」、「金の使い方」、「人間関係のあり方」、「企業のあり方」を・・・「1945年」を原点に考えてみるべきだ。  「肆拾参(4+3=7=七)番目」とはまさに象徴的な「漢字」であり、「数字」である。  あいみての のちのこころに  くらふれは  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  相診 出野 之知埜箇々賂爾 句羅振例場  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  蛙意味出之 埜知乃心  似  蔵 降れ場  ↓       ↓          ↓  ↓       記紀十一     ↓  ↓          重位置    ↓  カエル=変える      くら=蔵(大石内蔵之助)                   =鞍(鞍作・蘇我射鹿)                   =暗(岩戸隠・天照大御神)  むかしはものも  おもわさ りけり  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  務歌詞葉模之喪 面 話去 り蹴り  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓ ↓↓↓↓↓↓  武華氏把者  母 主 話差理懸理  ↓          ↓    ↓  ↓          ↓    作理=佐理=左理=査理=砂里=鎖理  ↓          尾模(尾張の模倣)  支那中華 緒母(端緒の母)  崋誌(渡辺崋山)  44(中納言朝忠・あさただ・藤原朝忠・三條中納言・土御門中納言・     ?~康保三年・966)・肆壱肆・四拾四  逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をもうらみざらまし  ↓  逢ふ・・合・会・遭・姶・阿婦・阿夫・阿父・阿武  こと・・言  の・・・之  絶え・・多重・妙・多恵・耐え・堪え  て・・・出  しな・・施名・品・科・支那  く・・・句  ば・・・葉・婆・罵・馬・場  な・・・納  かな・・仮名・掛拿・歌拿  か・・・禍・科・蝦・蚊・華・嫁・鹿  に・・・似  人・・・一  をも・・主  身をも・診面・身重・三尾模・見尾模・澪模・身重  うら・・得羅・有螺・宇裸・浦・裡・裏  みざら・診座・診更・診皿・診沙羅・診讃良=持統天皇  まし・・真史  『中納言朝忠(藤原朝忠)』は「三條中納言・土御門中納言」とも呼ばれた。「天暦六年」に「参議」、「応和三年」に「中納言」となり、「笙の名人」でもあったと言われている。『右近』とも関係があった。彼が死亡したのは「康保三年(966)」で、この同年に京都は大洪水となり、『源高明』が「右大臣」に、そして『小野道風』が「七十一歳」で死没している。『藤原朝忠』は体格のいい人物で相撲とりの様に「太っていた」そうだ。痩せたくて医者に相談したところ「冬は湯漬け」、「夏は水漬け」を食べればイイと言われ、「何杯」も食べたとのエピソードがある。「唐は諭(楡)付け」、「(罪)科は水頭家」だ。  「44番目」の「四四・四十四・四拾四」は日本では一番嫌われる数字であるのは同音が「シ」にあるからだ。東南アジアの「タイ」では一番縁起のイイ数字であるらしい。「ヨンじゅうヨン」なら「読む重、読む」である。  あふこと の たえてしなくは なかなかに   なか  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓   ↓↓  あふ言  の 多重出品 句葉 納仮名掛似・・・中・仲・那珂・那賀・長  ひとをも みをも うら みさらまし  ↓↓↓ ↓↓↓ ↓  ↓↓↓↓↓  一 面 三尾模  裏  診沙羅増し     ↓       ↓     主   有羅=胡羅・鵜羅・卯羅・烏羅・雨螺(あまがえる)                                 尼 変える  45(謙徳公・藤原伊尹・これただ・延長二年・924~天禄三年     十一月一日・972)・肆拾伍  あわれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな  ↓  あ・・・蛙(かえる=変える)  われ・・話例  とも・・供・共・鞆・智・友・斗模・図模  いふ・・意譜・意譜・異父・畏怖  べき・・可・部記・邊記・日置・僻・碧・壁・璧・癖・経記  人・・・比斗  は・・・  おもほ・主保・面補・面歩  で・・・出  身の・・診之・美濃・審埜  いた・・意多・板・伊多・委多・慰詫・異多・意汰  づら・・面・頭羅・晦羅・逗羅・柘拉  に・・・似  なり・・名理・名里  ぬ・・・奴  べき・・可・部記・邊記・日置・僻・碧・壁・璧・癖・経記  かな・・仮名  『藤原伊尹(トウゲンイイ)』は「一條摂政」とも言われた。「天暦五年(951)」に「和歌所別当」、「美濃介・蔵人頭・伊豫守・参議・権中納言・権大納言・右近衛大将」を経て「天禄一年(970)」に「右大臣」、叔父『小野宮実頼』の後、「摂政」、翌年「太政大臣」に任じられた。『謙徳公』は死後のおくり名(諡号)である。  彼の名前「伊・尹」を分解して考えれば、「伊」+「?」は  伊(都)・伊(東)・伊(藤)・伊(那)・伊(奈)・伊(井)・伊(豆)・  以(東)・伊(能)  「以東」、「厭う」  等の「尹(長官・監督)」で、「伊藤博文」の名前は「朝鮮」では忌名だ。  あわれとも いふへきひとは  おもほえで   元、土佐藩の武士  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   鳥羽伏見戦の大隊司令  阿波例図模 意譜経記比図葉 将模補重出   征韓論者で変節論者令  安房令とも  意譜経忌避図葉 面 保重出  相撲興業の親方      →  みのいたつらに  なりぬへきかな     いたつら(板面=板垣退助)  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓     ↓         乾 猪野介  診野意多柘拉爾 納里濡日置仮名・・・・・板津羅=大分懸の対面は土佐  美濃委多面 似  拿理奴辺岐科名  46(曾禰好忠・そねよしただ・あだ名はソタン・生死没?)・四拾六  由良のとをわたる舟人梶をたえゆくへもしらぬ恋の道かな  ↓  由良・・諭羅・故良・結え領・・・・・・・由良=由良川河口(京都宮津)  のと・・能都・能登 紀淡海峡  を・・・緒・尾・将  わたる・話多留  舟・・・付音  人・・・比図  梶を・・「掛字」嗚・「圭字」緒  たえ・・多重  ゆくへ・結句重  も・・・模・喪・母  しらぬ・施螺奴・白奴・新羅奴  恋の・・故意之  道・・・未知  かな・・仮名  『曾禰好忠(ソミコウチュウ≠素御子有沖・素御子宇宙)』は「丹後掾」であった。「曾禰」は「饒速日命」の六世後の孫「伊香我色雄命」が祖先であるらしい。アダ名が「ソタン(曾丹)」ならば、「素探」の「そに(素丹)」、「措尼」である。「饒速日命(迩藝速日命・ニギハヤヒのミコト)」とは「古事記」に於いては「神武天皇(磐余毘古)」に荷担し、土着民の「登美の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ・長髄彦・登美彦)」を裏切った人物である。「にぎはやし(似議林・爾義把哉史・尼議葉也示)」である。「林の家」とは江戸幕府の「儒家」であった。また『伊藤博文』の実家の姓でもあった。もちろん『鳥居耀蔵』の実家の姓でもあった。「林=木木=記紀」である。「六世後の孫」とは「陸奥(奥羽)施、後(野地)、存(村?)」で、「伊香我色雄命」とは「イカ(伊賀)・ガシキ(臥識)・ユウメイ(有名・友命)」で、「異化・易化・医科・五十日」で「イカ(烏賊・凧)」の「色」の「有名(ある名)」は「白(しろ=史賂・詞賂・歯賂・示路・使路・師路・死路)」等ではある。「陸奥宗光」は土佐藩出身、もと「海援隊員」であったな。  ゆらの とを わたるふ ねひと かちをたえ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  諭羅之徒将 話多留付音比斗 掛地将多重  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  湯羅乃途尾 羽多留譜音比途 価値将多恵  ゆく へもし らぬ   こひのみちかな  ↓↓↓↓↓↓↓   ↓↓↓↓↓↓↓  喩句経模史拉奴   古比之未知仮名(金・哉・香奈)  ↓↓↓↓↓↓↓   ↓↓↓↓↓↓↓  湯区辺模示羅奴   故意乃道 掛名  47(恵慶法師・えぎょうほうし・生死没?)・四拾七  八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり  ↓  八重・・哉重・家重・野重・耶重・夜重・埜重・矢柄・爺重・冶重  む・・・務・武・牟・矛・霧・夢・鵡・六  ぐら・・句・具裸・倶羅・虞羅・区等・愚等・蔵・倉・鞍  しげ・・史解  れる・・例留  宿・・・朱句・主句・首句・守句・諏句・種句・手工・やど=夜度  の・・・之  さび・・作尾・作備・錆  しき・・識・織・色・敷・四季・磯城・始期・死期・磯城・史記  に・・・尼  人・・・比斗  こそ・・雇楚・拠蘇・虎鼠・胡姐・故素  見え・・三重  ね・・・音・根  秋・・・安岐・安芸・亜紀・蛙義  は・・・葉  来・・・記・紀  に・・・似  けり・・懸理・懸里・毛里  『恵慶法師(えぎょうほうし・ゑけいほうし)』は「第六十五代・花山天皇」の「寛和(985~986)」時代に活躍した人物らしい。「985年」の事件とは「源信」が「往生要集」を撰し、「宇津保物語」や「落窪物語」が出来た時代である。『恵慶法師』は播磨國で「仏典・経典」を講義していたらしく、この歌は「河原左大臣(源融)」死後およそ百年後の彼の荒れ果てたあばら屋になった邸宅「河原院」を訪ねてヨンだモノと言われている。そこには彼の友人の「源融四第目の孫の『安法法師』」が住んでいた。また、この「河原院」は「紫式部」の「源氏物語・夕顔の巻」の舞台としてモノガタラれ「夕顔」がこの「河原院」で妖怪に殺されてしまうのだ。「ゆうがお(夕顔)」と「源のユウ(融)」が音で重ねられているのだが、『藤原定家』は「源氏」の「栄枯盛衰」を踏まえて、彼の時代の「源氏=北条執権・尼将軍」の衰退をこの「和歌」に託し、願ったのではないのか・・・その本意を「後鳥羽上皇」に知って貰いたかった(?)。  『恵慶法師(えぎょうほうし・ゑけいほうし)』の名前の振り(ルビ)であるが、「重行奉伺(芳志)」、「重刑放資(褒詞)」であるだろう。  やえむ くら しけれるや との さひ しきに   や  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  家笑む供等 施懸例留爺途之 差秘史紀似・・・家=爺=定家自身(?)                   史  ひとこそみえね あきはきにけり  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  人 こそ三重音 亜紀葉記似懸理  48(源重之・みなもとしげゆき)  風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物を思ふころかな  ↓  風・・・譜有・封・楓・夫・怖有・婦有  を・・・尾・緒・将・悪・汚・嗚・牡・麻・雄  い・・・意・異・伊・慰・遺・・・・・・・・・いたみ=伊丹・悼み  たみ・・他診・多診・詫診・侘診・蛇診・太診・民・多美・旅  岩・・・意話・遺話・委倭・磐・夷羽・慰我・伊話  うつ・・討つ・打つ・伐つ・撃つ・蔚・欝・有津・雨柘・得晦・鵜柘  波・・・名診・那診・拿診・納診・奈診・葉・把・歯・頗・破  の・・・之  おの・・小野・斧・雄之・尾野・将之・各  れ・・・例  の・・・之  み・・・診  くだけ・句拿懸・管家・苦拿家・倶岳(嶽・他家・焚け・炊け・丈)  て・・・出  物・・・模之  を・・・将・尾  思ふ・・重付・重怖・主譜・主婦・面付・面怖  ころ・・頃・古賂・胡賂・姑賂・虎路・虎鷺・転  かな・・仮名・香奈・金・哉  『源重之(ゲンジュウシ≠言重視・現重視・現重史)』は「清和天皇」の皇子「貞源親王」の孫で、「源兼信」の子であった。「康保四年」に「左近衛権将監」で、「長保」年間には「陸奥掾」となった人物だ。友人の「藤原実方」が宮廷で「藤原行成」に暴力を振るって「陸奥守」に左遷され、『源重之』は彼を追って陸奥で死んだらしい。暴力沙汰の原因は「藤原実方」の愛人であった「清少納言」とのコトらしい。この在任中に友人の「兼盛(?兼信)」が「みちのくに安達が原の里塚に鬼こもれり」と云うはまことか、との文を送ったらしく、この「安達が原の鬼」が謡曲になったらしく、「鬼」は「女」の意味であるそうだと「北原白秋」は記しているが、「鬼ババ」であるから女であるのは当り前だろう。  『藤原定家』が問題としたいのは「源・重・之」の名前で、「みなもと」の「ジュウシ=重視・拾死・中施・重死・獣死・重なるシ」ではあったろう。「666」は「聖書」の「獣」である。果して「従死・十死」である・・・が。  かせをいたみ いわうつなみの  おのれのみ  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  風邪将痛 み  詑我有柘並 之  小野例之診  枷 を  悼 み  慰我欝成実 之  己    のみ  くたけてものを  おもふころかな  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  句多懸出模之尾 面 付虎鷺仮名  苦長けて者  を 主 普頃  科納  49(大中臣能宣朝臣・延喜二十一年・921~正暦二年八月・991)     ・四拾九(肆拾仇)  御垣守衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつ物をこそ思へ  ↓  御・・音・穏・怨・遠・恩・温・診(み)・見(み)・語(ご)  垣守・書き守(洩・漏)・欠漏・・・・・・垣=土+亘=十+一+一+日+一  衛士・詠史・衛視・影詞・重詞・重字  の・・之  たく・多句・他句・詫句・侘句・・・・・・焚く=木+木+火=記紀の比  火・・比(ヒ)・懸(か)・科(カ)  の・・之  夜・・代・余・預・与・世・夜・輿  は・・葉  もえ・模重・萌・燃(火+然)=ネン≠年・歳・齢・歯≠念・  昼・・比留・・・・・・・・・・・昼=晝(書+一)≠畫(ガ・画)  は・・葉  消え・帰依・記重  つつ・筒・柘津  物・・模之  を・・将  こそ・故措  思へ・主重  『大中臣能宣朝臣(おほ・なかとみ・よしのぶ・あそん)』は伊勢神宮祭主の「大中臣・頼基」の子供。はじめ「蔵主所衆」、後に「神祇大副」となって「祭主」となる。「梨壷の五人の一人」。「梨壷の五人」とは、「村上天皇」が任じた(951年)人物達で「後撰和歌集」の撰者のことで、「梨壷」とは集まった役所が「昭陽舎」と言われた場所で、その庭先には「梨の木」があったからだそうである。「ナシのキのツボ」だな。その五人とは、  『大中臣能宣朝臣』・・内中心納撰聴診  「清原元輔」・・・・・・・誓言現保  「源順」・・・・・・・・・・言順  「紀時文」・・・・・・・・記事分(聞・蚊=虻=阿武)  「坂上望城」・・・・・・斑状棒状(暴状)・・・判帖亡星・叛擾暴政  であった。  みかきもり えじのた くひの よるはもえ  ↓↓↓↓ ↓ ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  診欠き漏  重字之他句比之 与留葉模重  ひるはきえつつ  ものこそおもへ  ↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓  比留葉紀重柘図 模之故蘇主経  50(藤原義孝・ふじわらよしたか・天暦八年・954~天延二年・974)     ・五拾     君がためをしからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな     ↓     君・・・訓(よむ)・薫(かおる)・勳(いさお)・勲・釧(くしろ)         きみ=記診・紀巳  がため・固め・堅め・片目・形目・型目・方目  を・・・緒  し・・・施・詞・史・使・死・歯  から・・唐  ざり・・座裏  し・・・示  命・・・名・冥・銘・鳴  さへ・・作重・査重・差重  ながく・長句・那賀駒・名賀貢・名臥句  も・・・模・漏・喪・母・藻  がな・・臥名  と・・・途・徒・渡・塗・都・屠  思ひ・・主比  ける・・懸留  かな・・仮名  『藤原義孝(トウゲンギコウ)』は「謙徳公」の子供であった。「二十一歳」で若くして死んだのは仏教を崇拝した「菜食主義者」であったからカモ(?)。エピソードには「フナ(鮒)にフナの卵をあえた生酢を出されたモノを拒否して食べなかった」と云うモノだ。「双子の兄(挙賢)」と同じ日に「痘瘡」にカカッテ死亡したらしい。この歌の「君(クン)」は「女性(おんな)」であると解釈されているから「音名」である。「フナ(鮒=魚+付く=真名柘句)」×「フナのラン(卵=たまご=詫真語)」をアエタモノの拒食である。  きみかためを  しからさ りし いのちさへ  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  黄身方  女を  死からさ りし 委後 作重  気味  紀診可多女将 始唐 去り使 威之治佐重  なかくもかなと  おもひけるかな  ↓↓↓↓↓↓  ↓ ↓↓↓↓↓↓↓  中 句模仮名斗  重 比懸留仮名  永 苦喪科納屠  主 妃蹴る哉  ヤットこさ「五〇番目」でした。あと「五拾(いそ)」もある「三十一文字×50」とは「壱千五百五拾文字」と「字余り」カナ・・・私の「イト」を理解してくれるとはオモワナイが・・・「漢字の遊び」にはなったのじゃぁナイカイな・・・


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