top of page

歌・詩・百人一首・4・-166-


歌・詩・百人一首*4

 「フ(麩・ふすま)」の同義異字を調べれば「小倉アンパン=アン菓子」で、そのアンコを包むものが「麺麭(麪麭・メンポウ)」であった。同音異字の「ふすま(襖・からかみ・ふすま障子)」は云うまでもなく『藤原定家』が『宇都宮蓮生』から依頼された「百人一首の色紙」が飾られるべき『山荘のふすま(襖)』であった。また「ふすま(衾・被)」は「ヤグ(夜具)」で「フトン(布団)」である。「神話」に於いては「ふすま(衾)」は天降った「天津日子番能迩々藝命」がそれに繰るまってオッコチ(漏もれ・洩・盛)て来たモノであった。多分、「天津甘栗」を背負った「中国天津技芸、曲芸団の一座」がやって来たのだろうサッ。漢和事典には「衾(キン・コン)=夜着・きょうかたびら(経帷子)・死体の上にかける衣服で黄色い表、白い裏地のモノ」とある。国語事典には「きょうかたびら(経帷子)」は「死者に着せる白い着物」とある。熟語に「衾枕(キンチン)」と「衾簟(キンテン)」がある。「簟」は「たかむしろ・すのこ・ござ」とある。「同衾(今+衣=コンイ=懇意=異真意、今の意、今頃模)」するとは一つ布団に一緒に寝ると言うことだ。「ふすま」とは「臥す真(魔・麻・間)・伏す真(摩・磨・痲)」の掛けである。半月(三日月)形の「餃子(ギョウザ)」のカワの材料は「麩(フ)」であった。強烈に匂う「にんにく(葫・大蒜)=忍辱」と「しし(宍・肉=ジク=字句)=志士・嗣子・獅子・死詞・詩詞」の混ぜたモノを包む皮(ヒ=比・否・干・緋・卑・稗・妃・かわ=懸環・日輪・掛話)である。占いに「梅華(花)心易」と言うものもあるが・・・「古事記」も「小倉百人一首」も「文字うらない(裏名異)」である。ヨム者にはアソビで、ヨマセル者には「暗号通信文」であるか、その双方である。事実、出来上がってしまったモノは解釈が多数出来るのだから、これは記録された「ニホン(ワ)語」そのものの「宿命」である。研究者や、歌人が「純粋芸術」として「純粋文学」として勝手に、いかように解釈しても構わない。だが、これを政治的に関わっていた立場の「編集者」や「撰者」が「政治的」な異図に利用するのはアタリマエだ。  「明治維新」は「文明開化の時代」であった。「和歌」も「古事記」も「日本書紀」も「維新の思想」に添った「解釈」がなされるのが当然で、既にアソンダ『アンコゥ思想』ならば・・・明治の元勲であり、朝鮮総督(総監)となって、その後ハルピン駅前で『安重根』に暗殺された『伊藤博文(1841~1909)』と、その周辺の人物達の「経歴・履歴」も調べてみろ、である。『伊藤博文(利助)』の実家はの姓は『林』であった。いわゆる父親の『林十蔵』は、仲間の「水井某」の下で働いた後、「佐波(サハ)郡」に資産を有していた『伊藤武兵衛』の養子になった・・・「佐原(さわら)」は『伊能忠敬』の出身地ではあったナッ・・・いわゆる『伊藤博文』は「鳥子=養子」となって毛利藩の「足軽」となったのだ。「足軽」とは「徒歩(かち)の下級武士」である。有名な物語は『豊臣秀吉(木下藤吉郎)』の「足軽・草履取り」である。「徒歩」で日本全土を測量し「日本地図」を作ったのは酒屋の隠居『伊能忠敬』で、その手始めは東北、蝦夷地=毛人の国であった・・・「蛮社の獄」で「蘭学者」弾圧の指揮をとったのが老中『水野忠邦』配下の『鳥居耀蔵』でもあった。彼の実家の姓は『林』でもあった。江戸時代の「林」家は儒家の本流であった・・・とにかく、「歴史上の人物の名」に付く「足」と「軽」の意味が判ろう、と云うものだ・・・『林十蔵』は「林本家」下役の小作人であった。「林家」は美濃國の「林の庄」の『林淡路守通起』で、後に「周防熊毛郡束荷村」の「目代」となった人物の子孫であり、『林十蔵』はその「十一代目」。遠祖は「壇の浦」で源氏に味方し、四国伊豫国守護となった伊豫水軍の『河野四郎通信』、その血族『河野通有』は「元冦」襲来時、『文永十一年十月(1274)』、『弘安四年七月(1281)』に活躍した『鎌倉武士』であったと言われている。その「伊豫河野家」が豊臣秀吉に潰されてしまい、毛利家を頼ったらしいのだ。ならば、『伊藤博文』は「林家の十二代目」である。そして彼は「名前」を腐るほどコロコロと変えた。「利助・利輔・俊輔・春輔・春畝」等々・・・幕末の「志士」は「暗殺の時代」に生きていたから「本姓(本性)」以外の「仮の姓名・氏名」を必要とした。彼は盲目の学者であった『塙己保一』の息子で、四男の『塙忠宝』の暗殺下手人でもあったらしいのだが・・・「暗殺(アサシン)」をした者の末路が「アンサツ」に倒れた、と言うワケだ。占いの「鬼門遁甲」に「暗剣殺」と云うモノがある。彼はかなり、事業家で占い師でもあった『高島嘉右衛門』にイカレテたらしいのだが。  幕末、明治に於いては「海洋商船」、「海洋戦艦」の拡充なくしてその「国家の未来」はなかった。「現存・古事記」には歴史的な「海戦」や、「軍船(水軍・海軍・戦艦)」による外敵襲来の事件はすべて「漢字の同音異字」として懸けられているのだが(?)。『柿本人萬呂』の歌には「海人」、「白水郎」、「泉郎」の文字使用がある。古語事典には、  「蜑(タン・ダン・あま・漁夫・海人・中国南方の異民族)」  とあり、類字には、  「蜒(エン・やもり・ゲジゲジ・うねうねと長いさま)」  とある。「虫+廷」は「とんぼ・かげろう(蜻蛉)」である。「白水郎」も「泉郎」も「あま」と訓じるらしい。雅楽の曲名には「武官の姿で、巻纓(けんえい)、老懸(おいかけ・糸+委)、笏(しゃく)を持ち白絹を張った厚紙製の特殊な面をかぶって二人で舞う『案摩(あま)』」があるらしい。何故、「白水郎」や「泉郎」が「あま」なのかは『柿本人萬呂』がその和歌に「海」に関する「浜辺」や「漁村」、「漁港」、「漁労」や「船乗り」の状況を歌った、  あらたへの藤江の浦に鱸釣る白水郎あまとか見らむ旅行く吾を(二五二・覊歌)  浜清み磯に吾が居れば見む人は泉郎あまとか見らむ釣もせなくに(一二〇四・古歌)  ウタの言葉の中に、その文字があったからであろうが、「白水郎(ハクスイロウ)」、「泉郎(センロウ)」である。これは「白村江(はくすきのエ・ハクソンコウ)」や「新羅・斯盧」、「出水・和泉・泉・泉州・井戸見・何時見・伊豆見」の「郎」に懸けられてはいないか・・・彼は「新羅人」で、「白村江の海戦」当時の捕虜となった人物ではないのか。それとも「あいつらは、私を新羅人と疑っているのではないのかな?」、あるいは「あいつらは、私を同類の新羅人と思ってくれているのだろうかな?」カモ・・・「紀伊」の「吉野」は「古人皇子」、「大海人皇子」、後には「源義経」が関係したところだ。「蘭学者」を「泉」に例えている「碑文」が九州の「那珂津なかつ」にあるのだが・・・湧泉とは漢方医学で「圧せば命の泉、湧く」の元気が出る足裏のツボだ。  とにかく、「あま」と云う日本語音の共通性と、その異義の示唆、そして「類字漢字」でのその意味の示唆を「歴史事件」に重ねてイイたいらしいのだ(?)・・・これを踏まえた「古事記」使用漢字の「歴史的な海士、水軍、海軍の事件」の重複記録で、「トラトラトラ(虎・耽羅・寅)」である。もちろん、『伊藤博文』は『吉田松陰=寅次郎』の弟子であった。  『伊藤博文』の二番目の奥方はもと芸者であった「梅子」であった。このカァちゃんは『鹿鳴館』では語学堪能、博識多才の「トップ・レデイ(淑女)」でもあったのだ。「ロクメイカン(賂苦盟姦・録名鑑)」の目的は、列強との「不平等条約の改正」にこそにあった・・・「しか(詞化・詩歌・史家)、なく(名句・拿句・泣く)、やかた(耶化他・埜過多・哉科多)」である。当然にも「しかなくや、かた=師が哭く也、禍(過誤)、多」は『吉田松陰=寅次郎』をおもんばかってのことだろう。  さて、「小倉・百人一首」を検討しょうか・・・「5・7・5・7」なんて云う文節にもトラわれずに勝手にヨコシマ(邪)にヨンでみるのだ・・・当然にも『藤原定家』の  百(もも  =桃・腿・股・模喪    ヒヤク =比役・比厄・比訳・比家苦)  人(ひと  =比斗・比徒・比途    ニン  =任・認・忍・妊・仁・ジン=尋・訊)  各(おのおの=小野・斧・将之    カク  =郭・画・隔・較・赫)  一(はじめ =恥目・波地目    イチ  =市・位置・位地)  首(くび  =頚・苦日・句備・句尾    シュ  =主・守・種・取・朱)  をマトメあげた「撰集の目的」は「参拾壱文字×壱百の塊(かたまり・十+一+鬼)のウラ」にこそあるハズだから。時代は『承久の変』後の「朝廷権力の衰退」と「鎌倉幕府執権北条氏(尼将軍=政子)の権力確立期」である。「政治家」の「歌集」が単なる「ヤワなウタ」でないのはアタリマエダ・・・もちろん「現存・古事記」の「内容」もである。ここは「百人一首」の「和歌」を添えて「古事記」、「日本書紀」、「日本史」を追究しているので既に述べたことを踏まえ、『承久の変』の事件近辺と、各「一首」が「まと(的)」を外れて何処の時代、何処の地理的場所へ飛んでいくかを検討してみよう。  1(天智天皇=中大兄皇子・葛城皇子・参拾九代天皇)=壱・位地・位置  秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手に露にぬれつつ  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓  ↓  ↓ ↓ ↓  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓  ↓  ↓ ↓ つつ=星・筒・柘晦  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓  ↓  ↓濡れ=塗れ・奴例・  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓  ↓つゆ=梅雨=柘楡(諭・喩)=賂  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓衣手=転子出・頃=比喪出・去賂模出  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓    語呂模・呉絽裳  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   ↓   =いで=意出・委出・伊出  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ ↓   倭賀=話臥  ↓ ↓  ↓    ↓  ↓ 阿羅見(阿蘇國・阿羅漢・荒見・新見・蛙螺観)  ↓ ↓  ↓    ↓  苫=とま(斗真)・トマト=赤橙(赤代々)・日下+占  ↓ ↓  ↓    庵=いほり(意補理)・アン=案・安・按・鞍・杏・暗・餡  ↓ ↓  刈穂=加理補・掛裏輔・懸李甫・禍里浦・我里歩・仮保・借補  ↓ 田=國+十=國の重、國の方位(東西南北)  秋=西=白=酉=鳥=鶏=禽=取り・採り・盗り・写(寫・撮)り・捕り  ↓  蛙技 白虎・麒麟(キリン)=鹿其鹿米舛=史家反れ詩歌込めます  ↓                        滋賀反れ志賀込めます  ↓                        市価組齢始家姑女魔州  かえるワザ(変える伎、業)・・・ジャンプ=飛躍(比訳)=邪武婦  ↓  吾記の他(多・太)の  仮補の意、  小野(小野妹子=蘇因高の家系)の途が真、将、吾等視、和掛、  故賂模出爾(字)柘、  諭尼(天神=菅原道真・北条政子・大海人皇子・天草四郎時貞)奴、  烈(列)頭(島)  ↓  あきのたの、かりほの いをの、とまをあらみ  ↓  安芸埜多之 掛理保埜 伊輔之 都間緒阿羅見  ↓  安芸キキ(危機・記紀)、重る位置の史、  掛る理を保持する基記、  伊輔の、渡間の雄(悪・将)を吾等診  わがころもてに、つゆにぬれつつ  ↓  和賀拠賂模出似 梅雨似奴例柘図  ↓  亜記之多之仮 補之意補之図間を阿羅見、倭賀拠、賂模出似柘、似奴列例柘  ↓   現 視他史掛理補詞意補氏斗真緒阿羅診、話臥拠、賂模出似梅、喩奴似例柘  「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手に露にぬれつつ」は「天智天皇」が「貧しい人民の立場を思ってヨンだモノ」らしい解釈が一般的であるが、それは「歌」をヨミトル人の単なる「政治的願望」ではあるな。「天智天皇」が「生殺与奪」を有する時代の支配者である限り「権力維持」や、「年貢」、「恋人」、「家族」を思っても、「民をおもふ」などと云うことがあろうハズがない(?)。ここでは「民をおもって」の立場かどうかではなく、この「歌」を何故『藤原定家』が「百人一首」の「第一番目」に配置したのか(?)、である。彼のこの時代に於ける「立場」こそ「百人一首」の「撰歌基準」そのものなのだ。  どのような立場の人々であろうが「政治的状況」から逃げてその「生活」はありえないのだ。ましてや、「撰歌」する人間は「歌人」であっても「政治に関わってイル」のである。単なる「歌の主題」を設定して「コトバの芸術のみの作品」を選択するワケがない。また、「和歌」そのものの「三十一文字」に制約された「イト的な創作技術性」は「撰歌の時代的」な意味を有する「隠しコトバ」にピッタンコで、時代を越えれば「コ人的」な主観的カンショウ、「精神分析」に於ける『ロールシャハの絵(コトバ)』となるのだ。  『藤原定家』の時代を踏まえれば、カルタとは「色紙(絵札・読み札)」に書かれた『上の句の文字(5・7・5)』を読み手がヨミ、「白紙(字札・取り札)」に書かれた『下の句の文字(7・7)』を取り手が取るモノである。「上句(かみク・ジョウク)」と「下句(しもク・ゲク)」の「歌合わせ」のゲームである。和歌の単純な「文節の文字数」ならば、「5・7・5=5+7+5=17」と「7・7=7+7=14」の「文字数の合体」である。問題は「字余り」の「和歌」は「三十一文字」にはならない。この「字余り」の「文字」、あるいは「字余りの和歌」は何かを示唆してはいないか(?)・・・「示海女理=治海人理=天武、持統」、「治尼理=尼将軍=北条政子」・・・数字の操作は「クワエル=加える(+)=桑、鍬、句和、重留」ばかりではなく、「カケル(懸ける・掛ける・×・メ=め)=書ける・欠ける・描ける・掻ける・駆ける・駈ける・架ける・賭ける・陰る」ことも出来るのだが・・・「文字数」の「加減乗除」は「和歌」の「寡言乗除」、「掛元定如」であり、「月」の「下弦定如(新月)」、「下元浄如(陰暦十月十五日)」、そして「船」の「下限場如(船底)」、「身体」の「下元浄所(腎部)」である。「科元浄如」とは「罪科(とが)人の罪の浄化」であり、「科源常如」とは「源氏の罪科は常のごとし」ではあるナッ。  5(ゴ)+7(シチ)+5(ゴ)=17・十七・壱拾七・壱拾漆)  5(ゴ)×7(シチ)×5(ゴ)=35(参拾五)×5(五)                 =175・・・1+7+5=十三・壱拾参                 =百七十五・壱百七拾五・壱百漆拾伍  7(シチ)+7(シチ)=14・十四・壱拾四・壱拾肆  7(シチ)×7(シチ)=49・四十九・四拾九・肆拾仇  である。「十七(壱拾漆)」は「初めに重なるシツ(室=側室・質=人質)」である。モチロン、「始めの材質(木器)に重ねて漆(うるし=有留死)塗り」にした「艶(つや=通夜)のある漆器(死柘記)」の暗示と示唆である。「ウルシにカブレタ奴はミニクイ」である。「三十五」は「みそゴ(晦後・密語・味噌壷)」か、「みそいつ(見背何時・診祖、見姐の伊豆)」である。「みそ」の「そ」は古語では「禁止の助詞(ジョシ=女史・女子・序詞)」であった。「四十九」は「仏教に於ける死者の四十九日目(中陰)」で、「もがり」である。「もがり(殯)」とは「古代に於て埋葬するまでに棺(ひつぎ・カン)に入れて安置する場所、その葬儀までの期間」である。「あらき(荒城)」とも云う。他に「もがり」を当てた漢字に「虎落(竹を筋違いに組み合わせた册・竹垣)」とあり、「染物屋が用いた枝のついた竹を立て並べ、物をカケて干すもの」、そして「強請(もが)り」は「ゆすり」、「たかり」とある。この「もがり(強請)」の訓は古語辞典には「近世語」とあるから江戸時代だ。同音異字なら「模臥理・模賀里」である。「地名」に「伏して有る」のだ。そして、「カモ(鴨・神)がネギ(葱・禰宜)を背負ってくる」の「かも(鴨)リ」の逆を洒落(サン随、sun図移、ミズ(山水・纂帥)が西に落ちる=しゃれ・謝礼・写例)たモノだろう(?)。「葱(ソウ・ス・ねぎ・がま=蒲・あおい=蒼い)」の熟語には仏教の別名「葱嶺教(ソウレイキョウ)」がある。「葱嶺(ソウレイ)」とは「ヒマラヤ山脈一帯(パミール高原)」のことらしい。「長葱(ながねぎ・チョウソウ・チョウス)」は「ユリ科で葉、白根も食用」とあるのだが、「チョウソウ(長想・張捜・鳥葬・弔葬・調喪)」等で、「チョウス(長州・調素・肇諏・弔簾)」等である。「長(おさ)を労(ねぎら)う」カモ。「四十九(肆拾仇)」は「連続(肆=長+聿=四=シ=四・肢・獅・嗣・子・志・士・史・死)して重なる仇(句・苦・球・臼・宮・糾)」であるハズダ。スナワチ、「肆」とは「おさ(長)のはじめ(聿)のシ」である。朝廷の「長(おさ)」は「天皇」である。『藤原定家』のその時代の「天皇」とは、                                 代数     流刑地                                 ↓      ↓  『後鳥羽(元暦一年 七月即位~在位十五年間)』(81・八二)・隠岐  『土御門(建久九年 三月即位~在位一三年間)』(82・八三)・土佐阿波  『順徳 (承元四年十二月即位~在位十一年間)』(83・八四)・佐渡 (算用数字は「弘文天皇を39代」として数えたもの。漢数字は「天武天皇を   三九代」としたモノ)  で、「流刑」になっった「三天皇」である。『後鳥羽天皇』の前代の『81代(八十代)天皇』は『長門壇の浦』で『二位の尼(平清盛の妻、時子)』と共に『入水(溺死)』した『安徳天皇』であった。彼の母親は『平清盛』の女(むすめ)である『建礼門院』であった。まさに「赤族一門」の「平家」である。  『後鳥羽天皇』(81・八二)の母親は『藤原殖子』。皇后は『九条任子』、女院に『源在子』と『藤原重子』がいた。祖父は『後白河天皇』(76・七七)であった。彼女達の「名前」が何を意味するのかをシラベテミヨ、である。とにかく、『藤原定家』の時代背景は「源平の興亡(攻防・弘法)」と朝廷に於ける  『後三条天皇(71・七〇)』の武士団の登用                 享年四十歳  『白河天皇 (72・七一)』の「院政(天皇三代、五十七年間)」                 享年七十七歳  『鳥羽天皇 (74・七三)』の「院政(天皇三代、二十八年間)」                 享年五十四歳  『崇徳天皇 (75・七四)』の「保元の乱」での「隠岐」への流刑                 享年四十六歳  『後白河天皇(77・七六)』の「院政(天皇五代)」                 享年六十六歳  『二条天皇 (78・七七)』の「平治の乱」                 享年二十三歳  『六条天皇 (79・七八)』の「安元二年七月十七日死没」                 享年十三歳  『高倉天皇 (80・七九)』の「平清盛」と「後白河院」の確執                 享年二十一歳  『安徳天皇 (81・八十)』の「長門壇の浦での入水」                 享年八歳  『後鳥羽天皇(82・八二)』の「承久の乱」での「隠岐」への流刑                 享年六十歳  「上皇院政」の混乱衰退の時期であった。  ある時代に限定しても、しなくてもその「はめ込まれた配置」によっては「和歌」を鑑賞(観賞・感傷・干渉・観照)するもの(個人)に『本来の歌の意味』とは異質な意味をもってシグナルを点滅させ始めるのだ。「和歌」が「点滅させるシグナル」をカンジない奴は「ウタ」に鈍いのではなく、その生きている「政治的な場所や時代の感性(慣性・官制)に鈍い奴」なのだろうサッ・・・ さて、「小倉・百人一首」の「二番目」は「持統天皇」である。すべては『藤原定家』の時代的背景を踏まえ、「作家本人の時代」と、「カルタ」を製作出版として商売をした江戸時代の「版元の意図」を重ねて考えていこう、と言うのが私のアソビの立場である・・・しかも『藤原定家』の「藤原(トウゲン)」、「定家(テイカ)」の名前も踏まえながら。「トウゲン」は「唐源・唐言・唐玄」で、「テイカ」は「帝家・低下・艇下・綴加」等であるから・・・  2(持統天皇=鵜野讃良=広野=四拾壱代天皇)=弐・似・尼・爾・丹・荷  春過ぎて夏来にけらし 白妙の衣干すてふ天の香具山   ↓   ↓    ↓    ↓ ↓      ↓  ↓   ↓   ↓    ↓    ↓ 意観州鯛 海部 薫(クン=訓)   ↓   ↓    ↓    ↓ 易巻素重     ↓   ↓   ↓  毛羅史   白=西酉=鳥 かぐ=匂(句ヒ)具纂   ↓   ↓  蝦夷史     似史    懸具(家具)   ↓   なつ(奈津・名津)=南=赤   掛句纂   春=東=青緑 名柘   ↓ 把留素基出 名柘記似家 裸視死路多重之姑 賂模補素 出普海女之化句耶摩   ↓   はるすきて、なつきにけらし、しろたえの、   ↓   ころもほすてふ、 あまのかくやま   拠賂模補素出付 海部之化句埜間                     木戸日記                     ↓               木木土=キキド=鬼気怒=基記土=記木戸               林十一=危機度=企記度(たび=旅・足袋)                     ↓              「林の姓、家」の重位置、従位地  うそつき                     ↓               儒家・・・はやし=生やし・囃し・把椰子  何故「持統天皇=鵜野讃良姫=広野姫=四拾壱代天皇」の歌「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」が「百人一首」の「第二番目」に設定されたのかは「持統天皇」が「北条政子」と類似しているからではないのか?「弐・似・尼・爾・丹・荷」。そして、「二(貳=背任・二心=裏切り)」の意味の漢字であるのは「亜・次・副・添・with(ウィズ)」で、二番目に位置する「文字」は「123」の「2」、「ⅠⅡⅢ」の「Ⅱ」、「いろは」の「ろ(3に類字)・ロ」、「あめつち」の「め・メ」、「あいうえお」の「い・イ」、「甲乙丙」の「乙」、「子丑寅」の「丑」、「上中下」の「中」、「左央右」の「央」、「ABC」の「B」、「αβγ」の「β」、「абв」、「б」である。それらの「音」と「意味」を事典で確認し、「持統天皇」と「北条政子」とを比較してみるならば、    持統天皇          北条政子    ↓               ↓  ①「天武天皇」の「妻」・・・・・「源頼朝」の「妻」    657年(斉明3年)     1177年(治承1年)    「妃・嬪(?)」        「再婚」  ②「壬申の乱」・・・・・・・・・・・「平家追討源氏挙兵(庚子~壬子)」    672年・・・・・・・・・・・・・・1180~1192年「鎌倉幕府」  ③「後家=尼(あま)」・・・・・・「後家=尼(あま)」    称制              後見人  ④「女帝(天皇)」・・・・・・・・・・・「尼将軍(二位)」  ⑤「天智天皇」の「娘・次女」・・「執権、北条時政」の「娘・長女」    母は蘇我越智(遠智)姫     養母は「牧の方」  ⑥「大津皇子」を殺害・・・・・・・「頼家・一幡・比企一族」を殺害  ⑦「草壁皇子の死」・・・・・・・・・「実朝の死」

歌・詩・百人一首*5

 「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」の「白(しろ)」の象徴は「承久の変」を踏まえれば「源氏の白旗」に違いない。「壬申の乱」を踏まえるならば「赤布」は「大海人皇子(天武天皇)」の象徴であった。ならば滅亡させられた「大友皇子(弘文天皇)」の象徴は「白」である。当然にも彼の父親の「天智天皇」の象徴も「白」であるハズだ。「持統天皇(鵜野讃良)」は微妙な「色」である。彼女の父親も「天智天皇(白)」であった。夫は「大海人皇子(天武天皇)」で、その軍隊の目印が「赤(赤布)」ならば、  赤=あか   =セキ=施記、関、蹟、夕、汐、石、籍、跡、昔   =シャク=釈、尺、借   =ジャク=弱=よわい・・・・溺(溺死=出来詞)   =寂=さびしい   =着=きる(着衣・着意・着席=摘籍)   =雀=ささぎ(陵墓)   =惹=ひきつける(惹起=釈記)   =若=わかし(和歌詞)  であった。ならば、「白+赤」は「桃(もも・トウ)=(木+兆=基調・記帳・忌弔・几帳・帰朝・機長)=唐」色の、  「てふ(出符・チョウ=丁・貼・蝶・帖・張・釣・鯛・潮・挺・頂・眺・朝・鳥・蔦・聴・諜・跳・吊・脹・肇・長・寵・凋・塚・重・弔・超・調・徴・懲・町・庁・澄・牒)」  等の  「天(あま・海女・海士・海人・尼)=テン・テム=典・出務(出武)」  の  「香具山(かぐやま・掛具耶麻・カクサン=かくさん、隠す惨・懸句纂)」で、「郭纂・撹讃」であるワケだな。唐の「朝散大夫」とは『郭務宗』であった。なるほど「水戸黄門」さまの配下は「カクさん」ではあった。  「符丁」は全て「帳尻」が合うように「チョウの漢字音の熟語」にあるわけだ・・・「豆腐(とうふ)」や「和本」を数える数詞は「丁」である。「貼付」が「符牒」とは「道風(とうふ)」で、「小野道風」であった。「豆腐」は「白」で、原料は「大豆(ダイトウ=大唐)」であるな。「白タエのコロも、ホす」である。「小野」の姓名を有する人物で「百人一首」に撰歌されているのは第九番目の「小野小町」、第十一番目の「小野篁」の歌である。歴史に最初に登場する「小野」は『小野妹子(蘇因高)』であった。コジツケもハナハダしい「荒唐無稽(不稽)」とは私(わたくし・よこしま・ム)な説であるカナ(?)・・・「毘(ビ・へそ=臍=ハラの中心)」を弄(玩)もてあそぶ遊び、あそび、アソビダカラ、アソヒタカラ、「阿蘇毘拿加羅(等)」さッ・・・「古事記」が語る「三個の桃の子」は「伊邪那岐命」を助けた「意富加牟豆美命」で、「畏怖(威婦・異父)、加、務、唐、美(備・毘)の命」であった。「桃(木+兆=キチョウ=貴重・機長・帰朝・記帳・基調・忌弔・几帳)」は女性の妖艶で豊満な「桃尻」の象徴である。これは字面とおりならば「意を富(符・渡務)に加え、務めよ図の診の拿・異付、咬(噛・懸・掛)務、済み(澄・罪・積み・摘み)」である。また「宇都志伎(写すワザ・疎始期・宇土始期・欝死期)、青人(聖人・成人・清人・西人・施異人・施偉人)の草之(草紙・草子・創始・相思・壮士)」を助けるべき「神(カン=観、巻、桓、鑑、艦、貫、患、諌・カム)」でもあった。「書生(てかき・ショセイ)」とは、「写経生」、「経師(てし・キョウシ・ケイシ)」で、「お経を写す技術職人」であった。ならば「宇都志伎(写すワザ)」の「セイジン(清人=清書の人)」とは単に「文字をカキ写す清(整)人」だけではなく、「翻訳者(本訳者・叛役者・叛厄者・梵訳者)」でもあった。それだけではない「写経」が「オリジナル」どおりになされるとは限らないのも真理である。「改作」も「改竄」もされる可能性もあるのだ・・・ちなみに幕末、明治の「清人」とは「中国清王朝(西太后支配下)」の人々ではあるナ。  推理が許されるならば、彼女「持統天皇(・野讃良・広野姫)」は「異母弟(大友皇子)殺し」に「荷担」し、また「夫(朱=赤=垢=十+一+后=天武)」を「暗殺(?)」し、「同母姉、同夫の妻の子供(大津皇子)」を殺したのだ。「荷担」の「荷」は池に浮く薄紅色の「蓮華・水蓮・はす(蓮)」の花であった。なるほど、「はす(傾)」は「ななめ(七女)・すじかい(筋改)・はすかい(葉素改)」の「はず(筈)」であるナ。「赤+白=桃色」の「妙(たえ)=女(ジョ)+小(ショウ)+ノ(ヘツ・ヘチ)」は「他重・多重・太重・多恵・耐え・堪え・絶え」の重なりである。「たつ(達・断つ・絶つ)・たち(太刀・質・絶ち)」の「枕詞」は「竜田」であった。「持統天皇」の時代は「大唐」、「新羅」との関係は微妙で、その関係は「斉明天皇・大兄皇子」の「百済救援」に発し、「唐、新羅」同盟軍に『白村江の海戦』敗北の「結果」の『壬申の乱』であった。私の説は「持統天皇」は「大唐=則天武后(武照)=劉仁軌=大海人皇子=郭務宗」の占領下にあった、と云うモノであるから、当然にも「大海人(天武)の死没=朱鳥元年」は「持統天皇」が直接的な「大唐」から「解放された時期」と考えるワケなのだ。そして「衣(ころも)干(ほ)すてふ(チョウ)」の「衣干(イカン)」とは「意(イ・威)を補(ホ・干)す」、「遺憾・移管・偉観・異観・如何」の重なりであるハズだ。  ならば、『藤原定家』が「持統天皇」の和歌を「第二番目」に配置した「イト」は「白=源氏=尼」が「絶える」ことの示唆、あるいは「恐れ」、または「願望」であるカモ。「北条家」、「北条時政(四郎)」はもともと伊豆に流刑された「源頼朝」の「監視役」であった。彼の父親は「北条時方」で、「血筋系図」は「赤=北条=平家(母は伊豆掾伴為房の娘)」である。当然にも『尼将軍(北条政子)』は「白ころもを着た赤」である。もちろん、彼女の夫は『源頼朝』であった。彼は「源義朝」の第三子で、母親が「熱田大宮司・藤原季範の娘」、幼名が「鬼武者」、「平治の乱」で「美濃」で捕らえられて「六波羅」に送られ「池禅尼」によって死罪を許され「伊豆蜘島」に流され、その後「以仁王」の平家追討の令旨を受け、ついには鎌倉幕府初代将軍となった。「源頼朝の死」に関しては「落馬」であると云われている。武士の頭領が「落馬死」するとは不名誉なことで疑問視されているが、「落馬死」の漢字を検討すれば「暗殺」が見えて来るだろう。「絡婆刺(ラクバシ=絡む優婆夷=在家比丘尼=尼=北条政子、刺殺)」である。もちろん、「持統天皇」の夫は「洛婆司(洛陽の則天武后の司)」で、「拉琥婆刺(拉致した王虎を鵜野讃良が刺殺)」である。『北条政子』も『持統天皇』もその「夫」と「父」は「紅白の敵対関係」で、彼女等双方は「紅白の中間色」、すなわち、「桃色」なのだ。「武家政権」のサイクル「源氏(白)」か「平氏(赤)」かは戦国末期か、江戸時代の「思想」である。紅白歌合戦なら「紅=赤」は「女(おんな)」、「白」は「男(おとこ)」と決まっている。その中間色は「司会」であり、カルタトリのゲームならば「ヨミ人」である。とにかく、「あか・べに・もも・だいだい」には歴史的な「女の権力者」が重複して「懸けられて」いるハズだ。その日本史に於けるトップは「卑弥呼」で、二番目は「卑弥呼の宗女、十三歳で女王になった壱与」である。では世界史的には「二番目=二対女」で、「壱十三=位置重三」に重なっている「女権力者」は誰であったか?・・・ちなみに、「秦王朝」の「始皇帝」も「十三歳」で即位した人物であった。・・・とにかく「オンナのチカラもち(権力者)」は、  新羅の女王で百済に「独山城(636)」、高句麗に「七重城(638)」を奪われた「①善徳女王(632~647)」、「②眞徳女王(647~654在位)」、「③眞聖女王(887~897)」。  エジプトの女王は「イシス」であり、「イヨ」である。そして「プトレマイオス十三世」と共治した第七代女王「クレオパトラ(BC51~BC30)」は夫「カエサル」死後、「アントニオス」と再婚。イエーメンには「ソロモン」を訪問した「シバの女王」が存在した。中央アジアのパルミラには反ローマの「ゼノビア女王(268~272)」が君臨していた。古代ギリシャの都市国家「アシナ」の守護神は「アテネ(アシナ)女神」だ。そして中国の女権力者は「漢の『呂后』」であり、二番目は「唐(周)の『則天武后』」であり、三番目は「清の『西太后』」であった。ヨーロッパに於ける女性権力者は、  アンゴラ王子の「フェルナンド」とカステイリ女王であった「イザベラⅠ(1451~1504)」は結婚し、その「三年後」に二国を合併しスペイン統一を果たし、その国内の実権を握った。  プロテスタント三〇〇人を処刑(1555)したイングランド女王は「メアリー(1553~1558在位)」だ。  スペイン無敵艦隊を撃破(1588)し、「東インド会社」を設立(1600)したイギリスの「エリザヴェスI(1558~1603)」。  フランス王になった息子達(フランソアⅡ・シャルルⅨ)の摂政となって「聖バルテルミー虐殺(1572)」を行った「カトリーヌ・ド・メディチ(1519~1589)」は「アンリⅡ」の妻であった。  スペイン継承戦争に絡んで北米植民地でフランスと戦ったイギリスの「ウィリアムⅢ」の娘「アン(Anne)女王(1702~1714在位)」はスチュアート家の最後の女王である。戦争終結は「ユトレヒト和約(1713)」である。  オーストリア継承問題で七年戦争(1740)を起こした「マリア・テレジア(1717~1780)」は「三権(治安・徴税・軍隊召集)」を握った。  ドイツ生まれで後にロシアの「ピョートルⅢ」の嫁になった「エカテリーナⅡ(1762~1796)」はクーデター(1767)で夫を廃し実権を握って女帝となった。  等々。カトリック教会での信仰対象の主軸はいまや、キリストの生母である「聖母マリア(メリー・メアリー・マリー・マリリン)」である。「マ+リ+ア」=「予里(理)・豫・預(あづかる)・与(ヨ)=世(世界)・輿(地図)」=「アマリ」=余・剰=「磐余=神武天皇」。  ちなみに現今の「太陽暦」を制定(1852)したのは「ローマ法王・グレゴリオ十三世」であった。時代はフランスで「ルイ・ナポレオンⅢ」が「第2共和制」を廃して「第二帝政」を開始した時期である。日本では「明治天皇誕生」、「オランダ風説」、「アメリカ軍艦来航計画」が噂された年であった。「写真」が初めて「上野彦馬」によって使用された。そして、この「皇帝」に謁見したのが幕末に渡欧(文久二年・1862)した「竹内保徳」、「松平康直」等であった。  3  (柿本人麿=シホンジンマ=資本人間)=参・産・纂・算・散         =こけら(木+市)本、之、認間(尋真)・桾(木+遷)  あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む  ↓  あしひきの、やまとりのをの、しだりをの、  ↓  悪死比企之 哉間斗理之小野 視拿理小野  ながながしよるを、ひとりかもねむ  ↓  那賀名賀視代留将 比途理掛模音務  『柿本人麿』は「萬葉集」の「和歌の聖人」である。「和歌」ばかりではなく「日本語」の最初(?)の「記録者」で、「漢字=真名字」を「駆使」した「ジャーナリスト=文学者」であったカモ。当然、「漢字」の「音」も、その「意味」も知っていた。時代は「大唐文化」真っ盛りだ。そして、それを踏まえて「和歌」を「真名仮名(漢字)」で記録したのだ。『太安萬侶(?)』が「漢字の意味」と「漢字の音」を駆使して「古事記」を記録したように。  学者や研究者は「純粋な歌ヨミ歌人」として、「芸術家」として彼の「歌」を解釈したいようだが、どんな人間であろうともその「政治的」な「状況」から逃げ出すワケにはいかないのである。ましてや彼は「皇族の為に歌を作った人物」で、「朝廷の下級官吏」であったらしいのだ。にもかかわらず、その「立場云々」の状況下にあっても、「うた」が「ウタ=芸術」であるかぎり、「歌のワザの名人」であった。「言語表現技術の名人」であったのだ。「うたのウマイ人物」とはその人格や道徳性、倫理性、思想性を超えて、「表現内容」に関わりなく「三十一文字」の「文字技(わざ)」に於て「ウマイ奴」は「うまいハズ」である。誰かが「即妙」で「軽薄」である、などと批評している「歌」であってもその「ワザ」は「ウマイはず」だ。ソコは高尚な世界観などはいらない「ワザの世界」である・・・しかし、私は「歌人」ではないからどの様な歌が「ウマイ」かどうかは「アンパン」のアンコの味ぐらいにしか判らない。それも「アマイ砂糖」の甘さが主体で、微妙な隠し味まではワカラン。とにかく、ヨンでみた「和歌全部」がなるほど、と「ウマ」そうに思える・・・出来上がったモノは「形式=表現技術」と「内容=思想」は「一体化」されているモノではあるが、言語芸術に於て「世界観」や、「立場」と、それが表現創造された「ワザ(技術)=かたち=みため」の甲乙は区別して考えるべきである。「日本人(?)」はその中身よりも箱や風呂敷や包紙、それに本などの表紙に異常な「美意識」をもっているらしいのだ(?)。外見上の「みえはる」とは日本人的な思想らしい(?)。チンケな「内容」でもアジティーションのうまい奴はその「ワザ」に於てその「内容を飾る」のが旨いのである。逆に「チンケなワザ」に乗った「内容の濃い世界観や立場」もあるだろう。それが理解されるか、どうかは別問題である。汚い箱に宝物が入っているのはママあることだ。古新聞紙に包まれた一億円を拾ったヤツもいる。これは区別して考えるべきである。だが、ウルトラCクラスの「ワザ」を「駆使」した「コトバ」はその「内容」に於て甚大な「政治性」を発揮するのは当り前で、ある「状況」下に於て鑑賞者の「喜怒哀楽」の心(感情)を呼び起こし、「気持ちよく(爽快)」にも、「気持ちわるく(憂欝)」にもさせるのだ。先ずは「作家」がそのどちらかの自分のイトを「鑑賞者」に「感情的」に「ウ~ンゥン」とうならせ、あるいは「情景的」な「心象」をココロの中に喚起させたならば、それでヨシである。要するに「文字ワザ」による「共感的」な「感性的」、「官能的」、「雰囲気的」なモノを喚起させればイイわけだ。そして「鑑賞者」はそれから更にその「内容の共感性」を「理性的(論理的)」に自分のレベルで考えるカモ(?)知れない。それに関してはもはや「作家」の預かり知らぬコトだ。「政治的」に解釈しようが、「芸術的」に解釈しようが、「情緒的」に解釈しようが、「叙情的」に解釈しようが、「情景的」に解釈しようが、「心理的」に解釈しようが、あんたの勝手である。ここで云う「共感性」とは作家と鑑賞者の「感性」での共鳴だが、内容の共鳴には「解釈」が必要で鑑賞者の立場と知的レベルの問題である。これに困った作家は自分の歌を相手に「理解」させる為に丁寧にも『詞書(ことばがき)』なども添えざるをえないワケだ・・・「参考書」であるこの『詞書(ことばがき)』が「和歌」に必要なモノなのかどうなのか。まったく、「必要とさせた(?)意図」も考えなくちゃぁならなくなるワケだ。『詞書(ことばがき)』は「異図」されたワナ(罠=网+民=ボウミン=暴診武・謀診六・横の目+民)かも・・・「ヘレンケラー」が「音」を聴覚で、「文字」を視覚で理解出来ないとしても、「歌(song)」が嫌いな人はまず、イナイだろう。では、  「San」・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖者  「Sam」・・・・・stand Sam・・・おごる  「son」・・・・・・・・・・・・・・・・・・人類  「sin」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・罪  「Sing Sing」・・・・・・・・・・・・刑務所(アメリカ)  「singsong」・・・・・・・・・・・・・単調な詩歌  「single」・・・・・・・・・・・・・・・・独身  「singular coincidence」・・不思議な暗号  「sing the same song」・・繰り言  「singe」・・・・・・・・・・・・・・・・・表面を焦がす・失敗する  「①singer」・・・・・・・・・・・・・・歌手  「②singer」・・・・・・・・・・・・・・毛焼き人・パーマ屋さん  「③Singer(1811~1875)」・・ミシン(縫い機)の発明家  「Sino」・・・・・・・・・・・・・・・・・・中国  「sun」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太陽  「sink」・・・・・・・・・・・・・・・・・・沈む・陥没  「sinker」・・・・・・・・・・・・・・・・井戸堀・おもり・彫刻師                     沈没させる人・ドーナツ  等はどうか?・・・「ウタ」の始源とは、「三十一文字」で記録された「歌(詩)」とは、一体何なのか?・・・日本言語の「5・7・5・7・7」の「語呂」の問題だけじゃぁあるまい、「語呂(比・頃・虎賂・姑賂・転子・車+鹿・木+害)合わせ」・・・「芸術」だって!?・・・アソビを超えて「プロ」になったら、そんなモノは「換金商品」にすぎないのだ。私の漢和辞典によれば「芸術」とは、  芸術・・・・学問・技芸「後漢書、安帝紀」・卜筮(ボクゼイ)の技術        特殊の材料、技巧などで美を創造し、表現すること        芸(藝)・ゲイ・わざ・はたらき・才知・才能・学問・技術・学芸        植える・種をまく・草木を植える「園芸」・くさぎる「農芸」        きわまり・はて・限り・限度        のり(則)・きめ・さだめ・標準        き・ぎ・すけ・のり・まさ       「藝(ウン)=艸+云」=「香草(コウソウ)の名前」とは別字        である  芸文志・・その時代に存在した古今の書物の目録、「経籍志」とも呼ばれた  芸文類聚(ゲイブンルイジュウ)・・・書名「百巻」・唐の欧陽詢が勅命                       によって編集したもの・四十八部門に                       分け、事実を前に述べ、詩文をあとに                       記した事典  芸林(ゲイリン)・・・書物の多くが集まっているところ・学者、芸術家仲間  遊於芸(ユウオゲイ)・・・学問・技芸を学ぶ  と、ある。芸術とは「卜筮(ボクゼイ)の技術=ウラナイ(占い・得・名異・有拉名意・裏内・裏乃)の技術」でもあった。「うらない」は古代「国家」の「安否」を問う重要事項であった。『萬葉集』編纂の目的は単なる近代的な意味での「芸術としての歌」ではなかったハズだ。「古代の和歌」は、ただ単に「感性的」、「官能的」なモノを人々に喚起させればイイわけではないのだ。その「感性的」、「官能的」なモノを「政治的意図」にヒキよせるモノでなければ「意味」がないのである。そして、「歌人」であった『柿本人麿』はその雇用者の「政治的意図」をヨイショと「表現」すると同時に、その「政治的意図」をツッパネル自己の「裏現」をも、その「わか(和歌・分掛)」に記録したのだ。  『柿本人麿』は「自分の言葉=日本語」を表現する手段として「都合のイイ漢字(真名文字)」を手にし、それを「駆使」したのだ。時代は「大唐文化」にドップリと浸かりつつあった時代である。彼の時代の「唐」の「有名詩人の立場」を知らぬハズがない。「唐王朝」に寄り添う詩人もいれば、批判的な詩人もいたハズである。おおむね政治の場から疎外された「インテリゲンチャ」や「詩人の感性」は「反権力・反国家」となるのが必然と云うものである。「科挙」などの国家試験を定めた「随唐」の「詩人」は先ずは「文字知識・記録文字」の「教養人」であった。彼らにとってはアマリにも「権力者」は「理不尽(非合理)」な「非業」を押し付けるのだから当り前だ。  いま現在、それらの「和歌」を「鑑賞」研究する人間はいかようにも「解釈」が出来る。だが、『柿本人麿』が「共同幻想(?)」としての「古代神」や「古事記」に登場する「神々」、あるいは「天皇」を「現人神」などと「マジに純粋な立場」で「ヨムワケ」がない。また、社会が「奴隷(専制)社会」であったとか、いや少しは「自由」があったからこそあの時代の「芸術=表現創造技術」は素晴らしいとかの論議は不毛である。すべては「人」と「人」、「人」と「自然」の「理不尽な関わりの中」ですべての「技術(わざ)=芸術」は結果として「表現創造」されてきたのだ。「理不尽な関わりの中」とは言葉の誤解があるが「生きている自己存在」を「妨害」するすべてモノは「理不尽」なのだ。「共同社会が祭る所の神」、その「神的な思想的枠内での生活」、コレがあってもまったく異義はナシである。だが、古代であろうが現代であろうが自分を意識しない存在は有り得ない(?)のではないか。「滅私奉公」なんてのは「滅私」じゃぁないからそんな言葉も出来るのだ。『柿本人麿』だって実体としての身体に「キズ」つけば、自分の「痛(傷)み」を「カンジない」などとは有り得ない。その「イタミ」から解放されたく思うハズだ。自分の身体でなくても「家族」の誰かが「キズ」つけば、心的な「イタミ」は狂わんばかりになるだろう。「家族」と「家族」の拡大化したものがある「共同体」であるならば、そのリーダーの「イタミ」は当然にも各「家族」や各「個人」の心的な「イタミ」に影響するのは当り前だ。  「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」の「あしびき・あしひき」の「枕詞」は別な所で既に展開したが、「古事記」に於いては「ヤマトタケルの最期」に尽きる。そして「ヤマ(耶麻・山)」とは「サン(纂)」である。漢字音が「日本語でない」と考えるからその「ウラ」も理解できなくなるのだ。ならば「アシ(足=ソク=則・たり=十=壱拾)ひき(びき)」とはその同音異字で、その意味である。『藤原定家』は「執権北条家」に滅ぼされた「比企一族」と「源頼家」の子供の「一幡」の滅亡の悲劇をこの歌と、「配置番号」で「他(多・詫)の意味に重ねて」イイたいのは自明(?)ではないか。「山鳥の尾」とは「山頂(三長・三帖・三朝・讃重・惨弔)の将」であり、「纂重の将(夫・麻・嗚・悪・雄・緒)」である。「しだりおの」は「史拿理小野(緒埜)」で、「小野一族の歴史を併せる」だ。先ずは国語事典か古語事典、そして漢和事典、英和事典で「おの・をの・あの」をすべて調べて「考えてミロ」、「on」、「onomancy」の、「Annam・Anne」、「anals・annex」である。「ながながし=名賀那珂(那賀・中)史」の「世(代)」を「比採り掛模念(撚=捌・年・合歓)」である。  このように「百人一首」を「解釈」してきたが、日本における「意識(意図)」された「言語芸術」の「基本」がコレであるならば、すべての「日本の文献・書籍・地図・絵画」は、コレ(同音異字・同音異義)を踏まえて「ゴカイ」して考えてミルのも時間つぶしにイインじゃぁなかろうかネッ・・・確かに世界の何処かで発生した「アダムの一つの言葉」はその場所での歴史時間と他地域への伝播で、「音声が訛って」の意味を同じくした「系統化された音韻変化」もあるには違いないし、事実そうであろうが、スベテではない。時間経過、伝播のプロセスで「カ」が「ア」に、「キ」が「イ」になる可能性は大きいが・・・そんなモノにだけシガミツクと世界中の言語は「意味の同じモノ」が、すべて母音の「ア・イ・ウ・エ・オ」だけに還元されて「理解」されてしまうだろ。ソンなことはナイ。同音異義の「ア」の「漢字」は無数にある。「リンゴ=林檎」が「アップル=APPLE」、「アップル=APPLE」が「リンゴ=林檎」と「オナジモノ」と理解されるにはその意味が「耳(音声)・目(文字)で確認され→思考分析」によって「概念規定された後」であるのは自明である。「音」の「関連性」からダケではない。世界各地の人種、地域の各々の音声言語、記録言語は「意図された実体に対するオリジナル音声の付与」と「意図された実体を絵(文字)で示すモノ」が始まりで、ソレが他地域との接触、接点における「言語交易・言語交換」され、「自らの言語を増殖」していくのである。  そして、人間の思考、思索はあるモノに命名された「音声言語」の「音の類似」する別なモノへの形態を「連想」させ、喚起させ、その意味の区別性、分別性をし、同時にその意味を踏まえた「関連性のあるあらゆる複数の言語(漢字も含めた)」を「連鎖的に検索分岐」させていくモノなのだ。  「人名」は「概念規定」としてのその人物の「履歴のすべて」である。「名はヒトをアラワス」である。モチロン、「歌人」たる人物の「人名=実名・号・字」は「彼の履歴のスベテ」を「凝縮」させた「概念規定」である。  スナワチ、タトエレば『紀貫之』とは「紀・貫・之」の漢字の意味を含めた「彼のスベテの履歴」である・・・その「履歴部分」は「日本書紀、之を貫徹するモノ」である・・・「日本書紀」へ「貫徹」されている「之」とは「梅の花」である。コレが連鎖反応していくモノは「梅里の化」である。「梅里の号」が連鎖していくのは『徳川光圀』である。「光圀」の「圀」が連鎖してしていくのは「唐=周」の『則天武后(皇后)』が創作した「則天文字=圀」である。『則天武后(皇后)=武照』の「皇后コウゴウ」が連鎖していくモノはスベテの「側転・測点・測天・即槇=即巻」の「交合・校合・光合・乞う合」等である・・・「即巻」とは「日本書紀三十巻」と「古事記三巻」であるのだが・・・「三十巻」とは「十三」の逆で、正確に記せば「壱拾参=一十三」で、この逆数字「三十一」とは「和歌の文字数」であった。

     「小倉百人一首」と「現存・古事記」(6)  4(山部赤人=纂部責任・山武関人・三部籍任・三部籍尋)=四・肆・史・死  田子の浦にうちでてみれば 白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓筒・都津・星=宿命  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓付理柘図・不離、不利、振  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  背柘葉・説、折、節、窃、接、摂  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓恒例似・好例、高齢  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  不時埜・不治・藤・不知・縁・淵・付置・布置  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓史賂多重埜・屍路堪え・歯賂多恵・師路絶え  ↓↓↓↓↓討ち出て見れば  ↓↓↓補爾中・補字内  他語埜・多語廼・蛸=鮹=凧=多古之・他誌埜・足埜(木木十一=記紀重位置)  ↓  多氏、乃、捕尼、討ち出てみれば、源氏多恵、武士の考、励尼説、頗婦理都津  既に「四番目」の『山部赤人(サンブ・セキジン)』は前述したが「山武関人」とは「天武天皇」が吉野を脱出して構えた最初の陣地が「不破の関」であった。そして「三部籍尋」ならば「三巻上中下」の「古事記」を尋ねよ、である。「纂部」の「籍尋(昔訊)」である。テーマは「武士(ブシ)」の「シ・よむ」のすべてで、「ブシ」は猛毒である「トリカブト=鳥兜」の異名でもあった。そして「公家(クゲ)」の「シ・よむ」のすべてで、「クゲ」の同音異字は「供花・久下・久家・日下」ある。この「シ」の同音異字の漢字と熟語は、  次+位・数+次・施+政・遣+使・国+司  示+唆・志+士・国+誌・刺+殺・死+亡  屍+体・師+弟  品詞・序詞・助詞・枕詞・冠詞・名詞・動詞・形容詞・副詞・感嘆詞  詩歌・六国史・歯(歯科・歯痛・犬歯・年齢)・干支  旨(うまい)・始(はじめ)・姉(あね)・姿(すがた)・祇(かみ)  主+旨・四+肢・脂+肪・資+質・獅子・嗣子・氏+姓  思+考・偲・紅+紫・視+覚  斯+盧・五+指・弛+緩・此・枝+葉・無+私(ム)・砥(研・磨)  糸+針・和+紙  止・仕+様・賜・自(私)・試+合・諮+問・匙・羊+仔  伺・孜・雌+雄・飼+育・柴檀・芝居・笥・覗・髪髭・弓+矢・辰+巳  梓+弓・茨+刺  柿+本・只・漬+物・嗜+好  祇+祠・機+幟・泗+川  等である。これを「よむ(ヨム・よん=四)」のだ。「よつ」は当然、「余都=尼の都=鎌倉」である。また「よつ」の俗語は「非人=落ち武者=否認」であるワケだ。  『藤原定家』の時代は執権「北条氏」の台頭確立時期であった。  「建久九年(1198)一月十三日」に『源頼朝』が「相模川の橋」で落馬し、翌年の「正治一年(1199)」に死亡し、「源頼家」が家督を嗣ぐが、その政治権力は『北条政子』によって「北条時政(第一代執権)」等の「13人の合議制」となって分散されたのだ。彼が将軍になったのは「建仁二年(1202)七月二十三日」であった。「七月二十三日」に重なるのは「明治三年七月二十三日」で、「大友皇子(弘仁天皇)」の死没の月日である。『比企能員』の女(むすめ)は「源頼家」の妻であり、その子ども達が「一幡」と「公暁(善哉)」、「禅暁」、「千手」、「栄実」等である。「源頼家」は家督を弟の「源実朝(千幡)」に譲るが舅の『比企能員』は「一幡」と共に「北条時政」に攻め滅ばされてしまうのだ(建仁二年・1203)。そして「北条時政」は翌年の「元久一年(1204)七月」に「源頼家(二十三歳)」も殺してしまった。その後も将軍となった「源実朝」を妻の「牧の方」と共謀して『平賀朝雅』を将軍擁立しようとしたが失敗して出家した。「承久一年(1219)」に「源実朝(二十八歳)」が甥の「公暁」に暗殺され、その「公暁(二十歳)」も「時政」の長男「北条義時(第二代執権・妻は伊賀守朝光の娘)」に殺されたのだ。「承久二年・1220)」には「公暁」の弟「禅暁」も殺され、「源頼朝(愛妾は亀御前)」の血筋は絶えたのである。「暗殺の時代」である・・・同じ様な時代は「幕末」の「佐幕欽皇」双方の「下級藩士」がメッタやたらと「天誅!」で暗殺しまくった時代である。『伊藤博文』は盲目の学者(塙=はな・コウ)まで暗殺したらしい。「はな」も「コウ」もその音を「姓名」に有する人物は「歴史を貫いて非業死」したのである。政治権力を巡っての歴史は「暗殺」に貫かれているのだ・・・そして「承久の変(1221)」である。  世界史でのビック・ヒット・イベントは「ジャコバン党」の「フランス革命(1789年8月4日)」、「バスティユ襲撃」であった。そして「1792年8月10日の蜂起」、「1793年1月」国王の処刑、民衆の「パン」の要求を蹴った『マリー・アントワネット』の「落首」であった。「1794年の3月」の「エベール」、「4月」の「ダントン」の処刑、女暗殺者に風呂場で刺された「マーラー」の死から始まったその後の『ロベスピエール』の恐怖政治はギロチン台での対立者の連続処刑と、「7月28日」、「革命暦熱月(テルミドール)9日」で最後の「露(つゆ)」と散ったのは沈黙の彼自身であった。さらにはエジプトの女王「クレオパトラⅦ」にうつつを抜かした「シーザー(カエサル)」暗殺事件であったのだが、もっと、もっとの世界的で最大なイベントは「十三日の金曜日」に殺された「ウルトラ・super・スター」であった。「p」がもう一つ加われば「supper」は「夕食」であるな。「配膳係」は「かしわで(柏手≠柏木)」で、『高橋氏』の係累だが、誰が知り得ようその「秘密」を・・・『有馬皇子』の歌をミヨ!だ。「スパイ・暗殺者」は常に身近な隣にいるものだ・・・『間宮林蔵』・・・国家、幕府の為の「命は毛の如く軽いナ」。  「治承四年(1180)十月」は『源頼朝』が『平維盛』と『富士川』で対陣し、合戦に勝利した場所であった。そして同年に『橘忠兼』が『伊呂波字類抄』を撰したと私の日本史年表にはある。「イロハ字類抄」である。翌年の「養和一年(1181)二月」に『平清盛(六十四歳)』が死亡だ。九月には『源義仲』が越前の『水津』で『平通盛』を破り、十月には「東大寺大仏の螺髪を鋳始める」、『鴨長明集』が成った、とある・・・私のイイたいことが判るかな?・・・くどいが、「古事記」や「日本書紀」、「日本歴史(幕末、明治)」の異なった事件が「ある共通項」でククられていると云うことなのだ。それが「日本年号」、「名前」、「地名」、「建物」、「イロ」、すべての「物名(ブツメイ=仏名・武都・部柘・沸津・布津・払)」等の「漢字の音」や「数字」である、と・・・そして、それは「ドウシテナノか?」と云うことを・・・メリチャンはどう思うかナ。  「承久の変(承久三年・1221)」では「宇治川の戦」は「王朝(上皇・西)」と「幕府(執権・尼将軍・東)」の実権がどちらかに移るメルクマールであった。「政子」の演説に発憤した鎌倉「北条泰時(第三代執権・妻は大部禅尼)」の軍が勝ったのである。一方の「後鳥羽上皇」は乳母「藤原兼子」の策に操られ敗北した、との説があるらしいが・・・イクサの影に「女同士の確執」があったカモ・・・むしろ男達が関係する「妻や女、愛妾の名前」の示唆である。  翌年の「貞応一年・1222)」には「スイセイ(彗星・水星・水性・水生・衰勢・ほうきぼし(尾長星)=箒木星・法規母子・芳紀母子・放棄牡子・法忌簿誌・蜂起模詞)」が現れた年であった。濁音を加えるならば「ボウギのボシ」である・・・「謀議の母子」ではあるな。「源氏物語」の「第二帖」に何故「帚木(ははき・ホウキ)」の「タイトル」があるのか?何故「伊藤博文」は「遊廓」で遊んでは奴は「ほうき」と云われたのか?サッ。「帚木」が使用されている歌には「園原や伏家におふる帚木のありとはみえてあはぬ君かな(新古今集・坂上是則)」がある。この「園原」とは「長野県・信濃・伊那郡」にある地名である。あなたナラバはこれをどのような「漢字」に「転換・置換」するだろうか・・・私ならば「怨(うらみ)源家、伏施哉、尼、尾振る、把頗(よこしま)記之、蛙(かえる)里(理・裏)、図葉(鳥羽)、診重出、合わぬ、訓(君・郡・群)、仮名」等であるが・・・「坂上是則」は「斑状是則・判帖是則・叛定背息(いき≠意気=遺棄=委棄=異記=域=隠岐)」である。また古語辞典には「園女(1664~1726)」とは「江戸中期の女流俳人」で、「三重県・伊勢の人物・元禄四俳女」と云われた。句集に「菊の塵」があると記され、医者「斯波一有」の妻、後に出家して「智鏡尼」となった、とある。「キクのチリ」である。とにかく古語辞典で「帚(ほうき)」や「園(その)」を調べてミヨ、である。そして分解した「帚=ヨ(コ一)+ワ+巾」、「園=囗+袁」の意味も推理してみてクレ、である。  「嘉禄一年(1225)七月」には「尼将軍」、「二位の尼」と呼ばれた『北条政子(六十九歳)』が死亡したのだ。六月には『大江広元(中原の姓を1216年に改姓)』も死亡している。翌年には「政子・義時」の弟「北条時房」がこの姉「尼将軍」の為に「大慈寺に三重宝塔」を建立したのだ。『藤原定家(八十歳)』が死亡したのは「仁治二年(1241)八月」で、ババ将軍が死亡してから、  (1  2  4  1・8)  -    (1  2 2  5・7) =  1  6・1  ↓  ↓  ↓  ↓ ↓   ↓     ↓  ↓ ↓  ↓ ↓   ↓  ↓  ↓ ↓  一千二百四十一・捌  引(減)  一千二百二十五・漆  等  壱拾六・壱  の「十六(重なる陸)年(歳・齢・歯=死・偲=念)と一(壱・ヒ)ヶ月後(懸けるツキのゴ)」であった。スナワチ「一ヶ月」がアマったわけだ。そして、  80(八拾)-69(六拾九)=11(壱拾壱)  で、「位地(市)重位置」である。  ハチ (覇地・破地・頗地・波地・羽地・端地・恥・把知・葉知・椀・鉢)を  ひろう(拾う・疲労・披露・尋得=比鷺烏(卯・兎)=広=弘得  ↓↓  妃婁=七夕(柵端)津女・機織姫  ↓↓  秘漏  卑老=卑弥呼  ↓↓  一葦(芦・あし=足・脚・股=また=俣・亦・又)有  ↓↓  彼侶有=彼、太安萬侶、有  皮呂得=カワ(川)の呂(背骨=橋)を得る・・・比「太安萬侶」  ↓↓  日狼=日路烏=天照大御神  比狼=オオカミに比べるモノは同類はイヌ、異類はトラ、ライオン  ↓↓  比弄=比べて、もてアソブ・・・上+匕(牝)+王+廾(こまぬく)  ↓↓  比廊=遊廓の比較・・・廓=郭・掴・客・獲・各=おのおの  ↓↓                            ↓  秘漏=秘密を漏らす                  ↓(斧・鉈=なた)      日賂得=日毎)、                小野・尾野(埜)                                    ↓  ↓                                    ↓木+木+土  ゲンジ(減・源氏・現時・言辞・元字・諺事・原地)     ↓   ↓  ↓                                 ↓  記紀努  ↓                                 ↓  る (留・流・婁・琉・瑠)、 ・・・現存古事記の所在地→尾張、尾州  ロクジュウク(賂苦渋苦・露苦汁苦・侶句重句・呂久住句・陸重矩)  である。まったく、骨折りでありんす、ナッ、互換、変換、転換、置換は。  「壬申の乱(672)」では「大海人皇子」が『紀の阿閉麻呂』を「第一軍」の将軍、『第二軍』は「村国男依」、「和珥部君手」、「書首根麻呂」の三人を将軍とし、この『第二軍』が「赤布・赤旗」を使用したのだ。一方、「大友皇子」の軍中では内部対立から『山部王』が殺され、『蘇我果安』が自殺してしまったのだ。『山部王』が殺されたと言うことは・・・『山部赤人』の名前が象徴していると云うことだナ。「壬申の乱」の決着は「瀬田川」の『唐橋の戦』であった。「七月二十三日」に「大友皇子」は「山崎」で自殺したのである。勝利した「大海人皇子」はその戦後処理で「大友皇子」配下の将軍であった『中臣金』を斬刑、「蘇我赤兄」や「巨勢人」を流刑、「紀大人」は無罪であった。『中臣金』のみが殺されたのだ。氏姓名からすれば「中臣」とは「藤原氏」で、「金=西=酉=白=新羅(斯盧・鶏林)」とは『金春秋』にも重なるのだが?・・・当然にも生き残った奴は「内部通報」した「間諜(スパイ)」であるハズ。「承久の変」では『藤原定家』は「鎌倉幕府=アマ(尼)将軍=赤」に組して生き残り、実権を失った朝廷の「中納言」にもなった。いずれにしても双方の勝敗は「川(宇治川と瀬田川)=セン・かわ」で決着をみたのだ。こんな「日本書紀」の「壬申の乱」を鵜()呑みには出来るハズがない。朝廷内部では真相を隠しているらしい(?)のだが「日本書紀」のウラ文字、スナワチ「漢和事典」の「音、訓よみ」で、それを暴露しているワケだ。  「富士山」に関しては日本最古の物語と言われている「竹取物語」で、その最後に出て来る「場所」である。すなわち「ジジ」と「ババ」、「ミカド」が「かぐや姫」から貰った「不老不死の薬」をその山頂で燃やしてしまうと言う場面の場所である。しかも「かぐや姫」の難問にはすべての「王朝貴族」も「天子」も負けたのだ。その難問に応えるべく、彼らは「かぐや姫」を「偽物」で欺いた。だが、すべカラク「姫」に見破られてしまったのだ。そしてヒメは「つき(月・就・尽・付・槻=木+規=木紀=年輪の目)」の世界へカエっていった、トサ・・・「アマ蛙(かえる)の世界」へ・・・ワカ(和歌・若、狭)・留・仮名?  たこのうらに、 うちててみれば、しろ たえの、  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  多拠之得羅似 得地出テ見例場 史賂多重埜  ふちのたかねに、ゆきはふりつつ  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  付置之多懸音似 諭記葉付理図柘  「タコ」は「ゆで」れば「赤く」なるさ。「ヒト」も「おこる(いかる)」と赤くなる。「多胡」は「喩出」れば「赤く(関区)・朱く(宿・首句)・紅く(経似句・くれないク)・垢く(考句、交句、公句・庚句・弘句)」なる・・・海に生息する「赤いタコ(鮹・蛸)」は長い足が八本、天空に昇る「奴たこ(凧)」は長い足が二本であるな。「タコ」に似ている「白いイカ」は長い足が十本である。「多語」を「易化・異化・伊香・医科」す、で「石原の祐チャン」である。  ・・・to take to take a gare to be to be ten made to be in a gare    tag no Urania  「英(はなしべ)」の「ゴ訳文」は次の通り「トォ(図緒)、タケ(多懸)、トォ(都尾)、タケ(他懸)、アガレ(蛙賀例)、トベ(戸部)、トベ(図部)、テンマデ(典満出)、トベ(図部)、イン(音)、アガレ(吾賀例)」だ。  『山部王』と重なるのは『山部親王=桓武天皇』である。「三部姶・纂部桜・讃武将得・山舞桜・散悔桜・惨部逐」。「大友(伊賀)皇子」敗北に重なる仇敵は「大伴吹負の家系」ではある。  5(猿丸大夫=エンガンダイフ=沿岸台敷=延元多有)=伍・語・後・互  奥山に紅葉ふみわけなく 鹿の声きくときぞ  秋はかなしき  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓始期・死期・史記・士気  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓仮名識・懸名施記・金磯城  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓明葉・安芸把・亜紀頗  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓規矩解き素・起句朱鷺遡・記句辰姐  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓乞え・超え・越え・肥え(太=太安萬侶)  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓史家之  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓名句  ↓↓↓↓↓↓↓訳・和気・湧け・分け  ↓↓↓↓↓文  ↓↓↓揉み字・模実字  ↓↓似・爾・丹・尼  将句纂・尾久纂=比丘山=比叡山・高野山・邑久耶麻・屋纂  ↓  おくや   ま に、もみち、ふみわけ、なく しか の、  将苦家   間、尼、母道、 不実訳、 納句、示禍 之  ↓  悪供家   魔 尼、喪道、 父身話懸、哭く 子禍、之、鹿野(狩野)  汚垢也 真 似 模実知 文 訳 拿句 滋賀 埜  鹿野(狩野)  こえ きく ときそ、あきはかな     し       き  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓     ↓       ↓  虎重記句朱鷺素 亜紀頗金(欽・仮名)史(死・使・死)記  『猿丸大夫』とは歴史上正体不明の人物であるらしいのだが、「五番目」の一首で、『猿(さる・エン)・丸(まる・ガン)・大夫(たゆう・だいふ・タイフ)』である。「埜=記紀重位置=野(里予)」の「古事記」、「日本書紀」に登場する「猿」は「猿田毘古」と「猿女=宇受賣(宇受女・うずめ)」である。「うずめ・うづめ」とは「埋め・渦眼・討つ女・宇土女・欝女」で、「猿田毘古(猿田彦・さるたひこ)」とは「エンデンガン」である。しかも「そこどく(底度久)・つぶたつ(都夫多都)・あわさく(阿和佐久)」であった。これを  底度久・・・・テイトク=提督(水軍の将軍)・そこどく=姐孤独・蘇孤独  都夫多都・・・ツブタツ=都府発(渡武断つ・津武発つ・斗分建つ)・螺  絶つ  ↓  ↓      ↓ ↓                           ↓   ↓  柘二つ     都二つ           龍=竜=辰=リュウ=劉  ニシ 立  ↓  ↓      ↓ ↓                           ↓   ↓  記紀 たつ=達・起・発・絶・建・龍=リュウ=理由・理結う=柳    似史 経               溌 懸 ↓                   ↓    西 達              ↓                        ↓  阿和佐久・・・アワサク=阿波割く(蛙話作句=小野道風=花札の絵を観ヨ)            カエル=変える・やなぎ=家名議・笠(傘)=加佐  では、「丸」とは何か?・・・「まる=円・○(。・半濁音の印・叛拿苦怨の隠)・真留・摩留・磨留・間留・魔留・麻留」で、「満=萬」、一人称の「まろ(麿=自分・私・吾・我・己)」で、古語事典には、  「人の名や、名作の器具、犬、船などに添える語」  「日本紙を数える助数」  「城郭、城郭の内部」  「スッポン(鼇)の異名(甲良が○に類字)=泥亀」  「金銭」・・・キンセン(今撰)・かなせん(仮名撰)・コンセン(混戦)  「紋所の名・家紋」                     ↓  「重さの単位で50斤=30キログラム」        恨撰・混線・根釧  とある。「ふね(舟・船・付音・セン)」、「日本シ」、「スツホン=素柘本(翻・叛)」で、「月とスッポン」とは「比較にならないほどの雲泥の差」と云うことだが・・・何の比較かは「ジョウ郭(カク)」である。「日本書紀」には『郭務』と云う人物が存在した。「キンセン(琴占・琴線=王+王+今+糸+白+水)=コトのセン)」、「もんじょ(紋所・問所・文書・文序・悶女・門女・問序・蚊渚・聞処)」の同音異字の示唆である。「紋所」とは「旗(指物・物差し)」、「羽織・紋羽二重(もんはぶたえ)」や「正装」の着物に着ける「家紋」で、「問注所」とは「鎌倉幕府の機関」で、「政所(まんどころ・建久二年・1191)」が政治中枢であった。「重さの単位で50斤=30キログラム」の「訳」は何時の時代の意味か?、モチロン、「30㎏=纂嬬記賂(日本書紀三十巻)」は「フランス(仏国)の単位」で、「幕末」であるハズだが。  「猿丸大夫(エンガンダイフ・沿岸大風・沿岸打畏怖)」、「サル丸」とは「サル船(去る船)」ではあるな。「朝散大夫」とは唐の軍船に2000人の兵隊を乗せてやってきた『郭務』であった。確実に九州に上陸した彼の目的は何であったのか?・・・「白村江の海戦」では「倭の水軍」が唐の『劉仁軌』配下の海軍提督『劉仁願』、『劉徳高』によって撃沈、壊滅され海の藻屑となったのだ。この海戦の責任を取るべき「倭水軍の提督」は誰であったのか?・・・「阿倍比羅夫」・・・「比羅(比良・比等・平)、夫」・・・である。  「船旅」の日記とは文体を女性に仮託し、仮名(かな=金)文字で記録した『紀貫之(貞観十年・868~天慶九年・946)』の書いた「土佐日記(延長八年・930~承平五年・935)」であった。彼の一首が「三十五番目」に撰ばれているのは既に述べた。「土佐の幡多郡南端」の「東経133度」には「足摺岬」が存在する。この「足摺岬」の逸話は何であったのか・・・この「足摺岬」の「北緯32度45分」の「東西の延長」の地理をミヨ、である。地球の緯度、経度を日本人が知識として一般化したのは「江戸時代」である。  『藤原定家』の時代を踏まえれば「去る舟」とは「平家の戦船」か、「隠岐」、「土佐」、「淡路」、「佐渡」に流された人物が「見送る舟」か、「見送られた舟」であろう。「去る船」が江戸時代の長崎「出島」からであるならば「阿蘭陀(オランダ)」船である。「遠島」ならば、伊豆諸島の「八丈島」である。幕末の「欧米派遣使節の船」であるならばアメリカに渡航した「咸臨丸(萬延元年・1860)」、そしてヨーロッパに渡航した「イギリス軍艦オージン号(文久元年・1861)」であった・・・当然、渡航と言う日本歴史上での記録は、古代の「西暦57年(後漢書・光武帝)」と「西暦107年(後漢書・安帝にある倭国王の帥升)」であった。この「数字」と「人名」に留意しない「歴史家」や「研究者」は「ポセイドン号」の転覆、沈没した船倉の中で溺死するのが運命で、「誇大日本茨(茨城・茨木?=シギ=仕儀・死儀・史欺・史戯)」を決して「理解出来ない奴」であると断言出来る・・・「古代日本史」を年号暗記勉強をさせる教師は自己批判して「受験生」に謝罪しろ、ダ。  おくやまに、もみちふみわけ、 なくしかの、  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  尾久家間似 模実地付実倭懸 名句史家之  こえき く ときそ、あきはかなしき  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  虎重起句斗記素 吾記葉仮名詞記  もう少しこの歌を私流に変換してみれば、「尾張(真福寺写本古事記)の句の山(編纂)に、模した未知の文の訳、名句(拿句)、史家廼、胡の重の規矩の解き、ソ(素・甦・姐・蘇・鼠・遡・禁止のソ)、亜紀(現存・古事記)は仮名の識」。更にモウ一転、「お悔やみに、喪の道、踏みわけて、無(亡)く鹿(滋賀・王)の、虎(天武)が重る時を蘇、阿(阿倍・阿閉)の記は金磯城(悲しい記・仮名思惟記・仮名詞紀)」。「鹿」の象徴とは「中原に鹿が争う」の「鹿」で「覇王」であった。単に「メス」を呼ぶ鹿ではない、戦うシカなのである。  そして「尾(ビ・お)」と言う漢字に拘って「尾張=愛知県」とするならば江戸時代は「御三家の一」である。「古代」ならば「尾張氏」の祖先は「火明命」であった。そして「継体天皇」の后は「尾張連草香(くさか・日下)」の女(娘)の「目子媛」であった。他には「美夜受(みやず)媛」、「世襲足(よそたらし)媛」、「大海媛(おおあま)」等の尾張氏出身の后妃がいる。そして「熱田神宮」の存在である。ここの「春敲門」の扁額は『小野道風』の書いたものらしいのだ。「桶狭間の奇襲」をした『織田信長』は出陣前に「熱田神宮」に戦勝を祈願したことで有名だ。  江戸時代、尾張の初代藩主は『徳川義直』で、親父『徳川家康』から譲られた書籍を『尾張家文庫(蓬左文庫)』とし「大須の『真福寺』」を名古屋城下にそっくり現在の「大須観音」の地に移転させ、「大須文庫」を設けたのだ。まさにここには「『序文』が怪しい『現存・古事記』の最古の写本」であると言われているモノが存在したのだ・・・私は「古事記」そのものが別な意味で妖しいと考えているのだが。二第目は『徳川光友』であった。「名古屋城」の別名は「蓬左(ホウサ)城」とも云ったらしい。この時代に「明王朝(中国)」から渡来した  「陳元贇(チンゲンピン)」、  「張振甫(チョウシンポ)」、  「曹数也(ソウスウヤ)」  などの知識人が尾張藩に召し抱えられたのだ。彼らの名前の漢字に注目して欲しい。妖しげな名前ではあるナ。「享保十五年(1730)」に「七第目」の『徳川宗春』が藩主になったが名古屋城に入るときの行列も服装も唐絡みの派手な服装であったらしく、参列者には藩主の長い喫煙「キセル」を『小野田玄格』なる人物がかついでいたそうだ。彼の尾張藩に於ける「文芸政策」は幕府『徳川吉宗』に批判対抗するものであったらしいのだが・・・  6(中納言家持=大伴家持=台番家事)=陸・理句・理苦・裏句  かささ ぎのわたせる橋 におく 霜の白きを見れば夜ふけにける  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓似懸留  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓夜深日・代福家・余賦懸  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓診れば  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓死賂記将  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓史模埜  ↓↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓似緒句  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓葉詞  ↓↓↓↓↓渡せる・航せる  ↓↓↓↓廼  ↓↓詐欺・佐義・作記・左記・差義・鎖疑  科作(罪科・科目)・量(リョウ)・傘(サン)・笠(リュウ)・加佐  ↓ ↓ ↓ ↓  とがつくり 漁・綾・陵・了 纂・讃・惨 劉・龍・柳  『中納言大伴家持(養老二年・718~延暦四年・785)』は「天平十八年(746)」に「従五位下越中守」となり五年間越中に赴任。「兵部少輔」となったが「天平宝字二年(758)」に左遷されて因幡守となった。その後「中務少輔」、「相模」、「上総」、「伊勢」の国守と歴任し、「宝亀十一年(780)」、「光仁天皇」の「参議兼右中弁」となり「東宮大夫」となった。「延暦一年(782)」に「氷上川継(塩焼王の子)」の謀叛事件(伊豆三嶋に流刑)に連座して官位を剥奪された。後に『陸奥・按察使兼鎮守将軍』、『中納言・持節征夷将軍』となったのだ。著書には「族をさとす歌(巻二十)」がある。叔母は「坂上郎女」であった。  以上の経歴を見れば「六番目」に彼の歌が撰ばれた理由は『陸奥・按察使兼鎮守将軍』の地理的な場所の「陸奥」にあるらしいナ。彼の政敵は常に「藤原氏」で、左遷や陰謀による官位剥奪はすべて「藤原氏」が絡んでいる。  現存する『萬葉集』には『中納言大伴家持』の和歌が「五〇〇首」が納められ、巻の「3、4、8、17以下」は彼の「家集」らしいとも言われている。  彼の生きた時代的背景(養老二年・718~延暦四年・785)を年表で見てみると、  「養老四年(720)五月」に「日本書紀」の撰上。二月「隼人」が「大隅国守・陽侯氏(隋王朝の帰化人)」を殺す。この「隼人反乱」を「大伴旅人」が征伐。九月には「蝦夷」が「按察使」を殺す。これを「多治比県守」が征伐。  である。この「アンサツシ」、「タジヒ・ケン・まもる」とは「暗殺・鞍殺・案薩(薩摩)」、「多字比(比較)=詫慈悲・県(懸)・磨模留」ではないのか(?)。「隼人」と「蝦夷」が重なって問題を起こしている。幕末こそ「九州・隼人」と「北海道・蝦夷地」の問題を抱えた時代であるハズだが。  「天平勝宝一年(749)七月」に『孝謙天皇(阿倍皇女)』が即位。  「天平勝宝五年(753)一月」に『大伴古麻呂』が唐王朝で「新羅」と「席次」を争って名をあげたが、この『大伴古麻呂』は 「橘奈良麻呂の乱」で死刑。前年(752)には「渤海使節が佐渡に来着」。  である。この事件から「新羅征伐」の記事と「渤海使節来日」がヤタラ目につくのだが・・・明治政府の思惑が重なろうと云うものだ・・・  「天平宝字二年(758)」に『大伴家持』が左遷され「因幡守」となった年には「淳仁天皇=大炊王」が即位し、「藤原仲麻呂」が『恵美押勝』の名前を賜った。そして渤海使『小野(朝臣)田守』が「安禄山」の反乱を唐の現地で実見し『孝謙天皇(阿倍皇女)』、あるいは「淳仁天皇(大炊王)」に上奏した。この『小野(朝臣)田守』は『小野妹子』の血筋係累だろう。  「天平宝字八年(764)」には『称徳女帝(孝謙天皇)』が重祚。  「宝亀一年(770)八月四日」とは『称徳女帝(五十三歳)』が死没し、『道鏡』が「造下野薬師寺別当」に左遷され、十月には『白壁皇子=光仁天皇』が即位した年でもあった。一月には『阿倍仲麻呂(朝衡・晁衡)』が唐で既に死亡している。彼は唐王朝、『玄宗皇帝』の「秘書監(図書館長)」であった。  「宝亀四年(773)一月」には『山部親王』が立太子となった。  「天応一年(781)四月」には『山部親王』が『桓武天皇』として即位。  「延暦一年(782)」には「氷上川継(塩焼王の子)」の謀叛事件で六月には『左大臣・藤原魚名(六十三歳)』が免職され、翌年七月に死亡であった。  これらの事件はもちろん、『藤原定家』の時代的状況と重なっているのだ。『桓武天皇』の母親は「百済系(韓)帰化人」の女性と言われているが、一般的には「天武系」から「天智系」に代わったのだとの説が通説である。既にこの時代以前から「血筋」で考えれば「天皇家」は単純ではない。国際状況からすれば、「百済滅亡」が更に「天皇家」を複雑にさせた、と言える。「倭国」とは「卑弥呼以前の時代」から「朝鮮半島」と「琉球列島」の南北から「縄文人=蝦夷原住民」の領域へ流れ込んで来、結果、それらの種族の混交、混血した地である。極東にある島であるから大陸や半島で動乱、混乱がある度に、その逃亡、逃避先は「日本列島」の何処かになるハズである。「倭王朝」の記録に残る支配層のほとんどは「帰化人」であった。「帰化人」が「帰化人」でなくなるのは子供か孫の代である。彼らが「王朝のトップ」にたって支配者になっても文句は云わないだろう。「山水」が豊かで「四季」がはっきりとし、青々とした巨木の「森林」が豊富で、狩猟の「犬」をも友達として、その墓まで作り、その沿岸には食べ飽きるほどの海の資源に恵まれていた「自由(?)な土地=縄文人の住んでいた土地」にやってき、「古代国家的な形態」を整えていったのが、波状的にやってきた当時の「先端技術と知識を有する渡来人(帰化人)」であったのだ。当然にも「既得権利」を有する「従来の渡来人」と「新技術、知識を有する今来の渡来人」の確執は起こるべきして起こるのだ。「古事記」が記録している「神武」と「長随彦(登美比古)」は同じ問題である。現在的にも「今来の外国人」は「自国の不安定な生活」から脱して「日本」に来ているわけだが・・・日本人から得るモノはあるのか、日本人が得るモノは何か・・・当然、問題は起こるし、起こっている。先ずは「コトバの問題」でハ、あるナ・・・。  秦王朝・・・・・・・・・敵対・・・漢×楚王朝・・・・・・秦敗北  楚王朝・・・・・・・・・敵対・・・漢王朝・・・・・・・・・・楚敗北  呉×蜀王朝・・・・・敵対・・・魏王朝・・・・・・・・・・呉・蜀敗北  隋王朝・・・・・・・・・敵対・・・唐王朝・・・・・・・・・・隋敗北  ↓  倭国×百済・・・・・・敵対・・・新羅×唐・・・・・・・百済滅亡    唐×百済残党・・敵対・・・新羅×高句麗・・・唐敗北    唐×倭国×百済残党・・・敵対・・統一新羅・冷戦  「敗北した王朝貴族」は流れてきたのだ、「倭人の領地」に。  そして、「白村江の海戦」に敗北した「倭国」は「大唐」に駐留占領されていたのだ。「天武天皇の死亡」まで。「日本列島」は当然にも「唐人」と「倭人・百済帰化人」の「混血・血族支配」下であったハズ(?)である。  かささきの、 わたせるはしに、おくしもの、   かさ  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  懸差詐欺之 話多施留葉詞似 尾句視模之・・・笠=リュウ=劉=龍=中国  し ろきをみれは、よふけにける        しろ  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓        ↓  視賂記尾実例葉 与付懸似家留・・・・・・・・斯盧=新羅=鶏林=源氏  かささきの、わたせるはしに、おくしもの、   おく   しもの  加佐前 之  渡 せる橋 に  将供使者の・・・臆    し者                    ↓↓        ↓  ↓↓↓                    ↓↓        将駆 使模埜                    「尾久・奥・邑久・隠岐」施模之   しろきをみれは、よふけにける ろ よふけ   ↓  使炉器を診れば 余福家似懸留・・・・・・・・炉=八尋殿 徐福懸             ↓                       ↓             アマル=尼留・海人流          徐市  これは「古事記」に於ける「木花之佐久夜(神阿多都)姫」で「このハナシ、作求選る比女・乍仇選る秘め」で、「かみ合った図の秘め」ではあるナ。であるならば「迩迩藝命」は「辷+爾+辷+爾=字字進進の芸名」である。まったく何がかみ合ったのかは「七夕津女(織り媛)」と「牽牛(彦星)」、「白サギ(詐欺)」のオハナシである。「七夕」は物語としては「カワ」を「ハサンデ」の「オトコ」と「オンナ」の「逢う瀬」の物語であるが「アメ」が「フル」と悲恋になるのだ。ウラ(恨・怨・羨・裡・浦・裏)マレルべきは「アマ」であるナ。  『白楽天(白居易)』の「長恨歌」は「人間=男女」の「非業」を星座に託して歌ったモノであった。だがその奥はフカイのである・・・そして次の「七番目の和歌」に連鎖していくハズなのだ。  7(阿倍仲麿=朝衡=兆候=徴候=聴講)=漆・室・質・失・疾・死地・史知  天の原ふりさけ みれば春日なる三笠の山にいでし月かも  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓掛模・鴨・加茂・賀茂  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓付記・晦記・柘記  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓意出詞・移出使・委弟子・異手使  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓似・爾・丹・荷・尼・児  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓参・纂・算・讃・蚕  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓埜(記紀十一)  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓診加佐・診笠(リュウ・龍=劉)・診傘(纂)  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓名留  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓葉留比  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓把・場・婆・馬・罵・芭  ↓↓↓↓↓↓↓↓例  ↓↓↓↓↓↓↓実  ↓↓↓↓↓↓懸  ↓↓↓↓↓作・差  ↓↓↓賦理  ↓↓↓  海女の腹・尼の葉・海人の頗羅  「七(漆)番目」にあるのは中国名を『朝衡(晁衡)』と名乗った『阿倍仲麻呂』の歌であった。彼は云うまでもなく「遣唐留学生」で帰国することの出来なかった日本人(?)で、「大唐」の「高級官吏」になってその生涯を閉じた人物だ。何故、「唐王朝」の側近になれたのか?・・・いくら『則天武后』や、『皇帝』が文学や学術に理解あったとしても、彼の才能だけで「側近」にしたワケではあるまい。「血縁関係」があったのだ。ここは、既に別項で述べたが「阿倍(阿部=あぶ・安部=あぶ・安倍=あばい・アンバイ)」の名前を追求してみるべきである。『則天武后』の姓名は「武」の「照」であった。ライバルの「蕭淑妃」を陥れたときに彼女に罵られたコトバは「阿武(アブ)」であった。「清の趙翼撰二十二史剳記巻十九」には「唐女禍」と云う記録があり、『武韋の禍』とも言われている。スナワチ女性権力者であった「高宗」の皇后で「聖神皇帝」ともなった『則天武后』と、「中宗」の皇后となって『武三思』との密通をバレるのを恐れ夫を毒殺した『韋氏』の弊害を云ったものだ。  後はご存じ、『長恨歌』の主人公である『玄宗皇帝』の愛妃『楊貴妃(玉環)』の「禍」である。二十六歳の『楊貴妃(玉環)』は皇帝の「十八番目の皇子・寿王瑁(ジュオウマイ)の妃」であった。それを六十歳の父親が奪ったのである。「爪楊子(つまようじ)」とは「妻(嬬)要事(用事)」、「柘迷う字」だナ。『阿倍仲麻呂』はこの皇帝にも仕えていたのだ。「755年」は「胡人」であり、「節度使」であった『安禄山』が反乱し、洛陽を陥落させ「756年」には国号を『大燕(ダイエン)』とし皇帝を称した。『安禄山』は「757年」に第二子の『安慶諸』に殺され、「759年」に『安慶諸』は武将の『史思明』に殺され、「761年」には『史思明』が子供の『朝義』に殺されたのだ。この一連の事件を『安史の乱』と云っているワケだ。まったく、『あんこ』の「ラン」ではあるナ。「七(漆)番目」に『朝衡=阿倍仲麻呂』の歌を撰んだ『藤原定家』はこれを意識しないではおられようか?、配膳係の『高橋氏』も・・・?  あまのはら、ふ りさけみれは、かすかなる、  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  阿摩之把羅 付里差懸実例把 仮州仮名留  みかさ のやまに、いてしつきかも  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  見変差之家間似 意出史晦記加模  あまのはら、ふりさけ みれは、かすかなる  ↓    ↓  ↓  ↓   ↓  尼 の原   不利避け 診れば 微 かなる  海人の頗羅 不離作懸 実例場 懸素禍納留  み かさ    の    やまに、いてし つき  かも  ↓ ↓↓    ↓      ↓     ↓    ↓   ↓  診 懸差   埜(之)  家魔似 異出史 柘記 掛模(母)  箕 笠(劉)   廼      邪魔尼 意出使 都来 蚊母  「阿倍仲麿=朝衡」・・・大唐歴史書の「改纂(改竄)」の張本人カモ?  8(喜撰法師=キセンホウシ=機先、基線方示)=捌・別・蔑・瞥・経付  わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ 山と人はいふなり  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓名理・納理・拿理  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓意付・異父(夫・婦)・畏怖  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓葉・頗・波・破・覇・把・琶  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓比斗・卑都・妃徒・秘図・日渡  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓山登・山渡・山斗・山図・耶麻門図  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓サン(sun・son)・纂・算  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓氏・宇治・家・内・中・討・得字  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓将・緒・夫・尾・嗚・雄・悪・麻  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓代・余・与・預・輿・予=序  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓素武・須牟・守務・簾武  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓素・楚・蘇・甦・姐・狙・鼠・遡  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓史家・詩歌・志賀・滋賀  ↓↓↓↓↓↓起つ身・絶つ壬・建つ診・発つ身・辰巳・辰己・龍蛇・断つ巳  ↓↓↓↓宮古之(シ=史)・宮子乃(すなわち=砂輪地)  ↓↓アン・案(針)・按(摩)・安(倍)・暗・闇・鞍(作)・杏(子)・餡  ↓↓意緒葉・異将把・伊将覇・夷将覇  話臥・倭賀・輪賀・羽賀・和画  『喜撰法師(キ・セン・ホウシ)』が何故「八番目」に撰ばれたのかは、「ハチバンメ(八幡女・波地の幡の女)・バチバンメ(罰の伴の女・場知の盤の目)」、「ハチのツガエのメ」と、既に彼の「名前の音」が示唆しているのだ。一般的に「ひらがな」で記された「和歌」には「濁点」や「半濁点」を使用しないが、  「よ       ろ         こび  え ら ぶ   余(あまり)を賂(ま かなう)、姑備、重、羅の武     ↓       ↓ ↓ ↓    ↓↓    ↓ ↓     尼 利     魔 叶 う   周止め   裸 舞     海女理    真 仮名得  備      螺 部     ↓       ↓ ↓ ↓    ↓     ↓     与、      賂       媚び、娃 等 武」  等で、「キセンホウシ=ギゼンボウジ」を同音異字で重ねてみれば、「偽善謀示(爾・字・次・事)」か、あるいは「記羨望字」、「機先謀事」などだが・・・「キセンホウシ」、「ギゼンホウシ」、「ギゼンボウジ」・・・等々で、「偽善放恣(放肆)」である。  「祈箋奉伺(七夕の竿の先の短冊・乞巧奠=荊楚歳時記≠刑遡殺似記)」  「貴賎放恣(放肆)=貴くも卑しくも勝手気ままに流れる」  「基線方示(地図上の緯度線、経度線の方角)」  「汽船放資(汽船に資本を投資すること)」  「記撰褒詞(記、紀、企、キを撰んだ事に対するほめ言葉)」  「葵戦奉仕=義戦奉仕(徳川の戦に尽くす)」  「亀占奉祀(占って神をお祭りすること)」  「輝線放子(物質の光のスペクトル)」  「木繊胞子」  「偽善芳志(偽物の志し)」  「記宣褒詞=古事記序文?」  「紀撰法嗣(紀貫之?の撰んだ方法を嗣ぐ)」  「紀詮邦史(日本書紀、日本の紀年を詳しく詮索する)」   8・八=捌(よりわける・ベツ=別・蔑・瞥・経付)=撚(ネン)  わかいほは、みやこのたつみ、 しかそすむ、    たつ    しか  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓     ↓     ↓  和解 保葉  実也語之多柘見  詞懸素守務・・・・龍(中国) 鹿=王  話懸意補葉 見家虎之多柘見  視加組素武  よを うちやまと、 ひとはいふなり       を  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓       ↓  預尾有地家真徒 秘図葉意付名理・・・・・・・・尾=尾州・尾張真福寺  与尾有地家間途 比斗把意付名理          現存古事記の所在地  「和訓の解、保つ言葉の実なり、語、これ多くの拓本を見、言葉を懸け、本を守り務める、尾州に有る地の家に真徒、秘図の言葉の意味を付け、名をことわる」  9(小野小町=庄屋象徴=証家消長)=仇・扱・給・久・求・球・究・旧  花の色うつりにけりないたづら  にわが身世にふる ながめせしまに  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓背島 似  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓名賀女  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓似付留  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓与  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓和賀診  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓尼  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓意多津羅  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓名  ↓↓↓↓↓↓↓懸理  ↓↓↓↓↓↓似  ↓↓↓得柘理  ↓↓意賂  ↓之  葉名  『小野小町(ショウヤショウチョウ)』の歌は「仇番目」である。「9」は極まった「基数」である。「小町」は美人の通称であった。「ビジン」とは「尾人」か「備人」、「鼻人」、「毘人」である。「古事記」には「尾人」が登場するが、「尾っぽ・尻尾のある人」などと考えては「小町」が可哀相である。「庄屋象徴」とは「メゴ姫」のことだ。すなわち「清姫」で「安珍」に懸想した女性なのである。もっとも「大蛇」になって「日高川」を渡った執念と情熱の乙女なのだ。彼女を振った東北伊達男、「安珍」はオトコではないナ。カネの中でトロケテしまうとは。抱いてやればヨカッタのにサッ。蛇の匂いは臭いが寿用にはなるだろうがトンでもないメにあうのは「邪」だからだ。ニンニク臭い女も吸血鬼(ドラキュラ=怒拉舅羅・バンパイヤ=幡廃家)からは嫌われそうだな。「証哉消長」とは「証す哉(はじめ)の消(消された)長(おさ)」である。「おさ」とは「長官・頭領・かしら」で、組織、氏族の「長」である。「おさだ」とは「訳田(訳多・訳他・おさ拿=訳を合わせる・族長を併せる)」の意味である。ナラバ、行き着くところは「倭国政府」はじまって以来の正規の「派遣、遣隋使」の「長官」は『小野妹子』であった。中国名で彼は『蘇因高』と呼ばれた。『蘇因高』とは怪しいカンジ(漢字)ではあるナ。「蘇我氏」の最初の名前であろうが・・・「聖徳太子」の存在は「?」だが、確実に『小野妹子』は「国」の「阿毎王朝」から「隋王朝」の『煬帝(ヨウダイ)』に派遣された人物であった(推古十五年七月・607)。おまけに翌年の「608年4月」には『煬帝(ヨウダイ)』は「文林郎」の『裴世清』を「国」に派遣してきたのだ・・・彼があったのは『多利思比孤』であった。それ以前の「開皇二十年(600年)」の「隋王朝」の『文帝』に使者を派遣したのは「妥()国」の王様で『阿毎(姓)』、『多利思比孤(字)』、『阿輩鶏彌(号)』と云う人物である。その妻の名が『鶏彌』と云った。太子の名前が『利歌彌多弗利』であった、と「隋書・巻八十一・東夷伝(魏徴)」に記録されているのだ。「八十一=8+1=9=九」ではある。そして、  九=仇・扱・給・久・求・球・究・旧・・・究極  である。「国王」の『阿毎』が住んでいたところに「阿蘇山」あった、とも記録されている。しかも太子の名前が『利歌彌多弗利』であった。これをチョット考えてみれば、  利・・・リ  ・きく・とし・たくみ・もうけ・もとめる・かち・とみ・かず  歌・・・カ  ・うた・さえずる  かるた(歌留多・骨牌)  歌枕(かつらぎ)=うたまくら=歌に読み込む名所  彌・・・ビ・ミ・あまねし・ひさしい・わたる・ひろい・きわめる・おわる  いよいよ・いや・や  月日を重ねる・縫(ぬ)う・繕(つくろ)う・弓の弦が緩む  ミサ(彌撒)=カトリック(キリスト)教会の儀式  ミロク(彌勒菩薩)=慈尊=未来救済の仏  多・・・タ ・おおい・おほしおほく・厚い・ほめる・いさお(功)・かず  今タ+明タ=無限に重なる夕方+夕方  多武保(たんば)  多武峰(とうのみね)  弗利・・フリ ・振り・不利・振り・降り・・・武利・分利・歩里・・・賦理  である。「歌の漢字」が挿入されている『利歌彌多弗利』から「歌」の意味を連想しない歌人はいないであろう。トウゼンにも『利・歌・彌・多・弗・利』の各「漢字」は意味に於いても「音訓」に於いても「歌」に関連させてあるモノなのだ。「隋書・巻八十一・東夷伝(魏徴)」が「隋書」であるカラと言って、「隋時代」に作られたモノと思ってはイケないのだ。これは「唐の時代」に作られた歴史書なのである。とするならば、「唐」の時代の「人間の立場」が怪しい、となる。『魏徴(?~643)』とは何者であったのか?  唐代の名臣。字(あざな)は「玄成」・諡号は「文貞」・しばしば「太宗」を諌めて「上書二百以上を上奏」した。後に「鄭国公」に封じられた。  と私の漢和事典にはある。示唆する漢字は多いが、彼が死亡した「643年」は「645年」の「大化改新」の二年前の年であった。ならば『魏徴(?~643)』が怪しいワケではなく、彼の著書「隋書・巻八十一・東夷伝」を手にした奴がアヤシイわけだ・・・倭人でこれを最初に手にして見たのは『小野妹子』である可能性はあるな・・・「蘇因高」、更には『安倍仲麻呂』の「朝衡」である・・・いずれも「語学堪能(当時の中国語がペラペラ)」で、「和歌」を嗜(たしな)んだ人物で、そして、その家系であった。  『藤原定家(トウゲンテイケ≠唐源綴懸)』は当然、彼らの事績と経歴を知っていた人物のハズだ。もちろん、『小野家』とは何であるのか?を調べてみる必要があるのは云うをまたない。「小野」は何を秘密としたのか・・・『小野小町』の墓がアッチ、コッチに存在するらしいが、ある「研究家」は「小野・・・」を伝承して歩く「一族」がいたらしい、と云っている。「小野一族の歌」には「何かの裏の意味」が秘められていたのではないのか・・・その噂を有した姓を持つ人物が『綾部』であったらしいのだが。『伊能忠敬』や『高橋景保』と関係があった『間重富(十一屋五郎兵衛・長崖・耕雲・宝暦六年・1756~文化十三年・1816)』の師匠・・・である「豊後・杵築藩」の藩医『麻田剛立』の本姓が『綾部妥彰』であったのだが・・・江戸時代ならば「蘭学者」の系譜だ・・・  『間重富』・・・・カンジュウフ・・・・・・巻重譜  まかさなるとみ・・・・・磨重なる図見  十一屋・・・・・・ジュウイチヤ・・・・・・重位置哉・獣医知家  たりのはじめのいえ・・・足の初めの異重  五郎兵衛・・・・・ゴロウヘイエ・・・・・・語賂得経異重  いつやっこひょうまもる・何時の奴、彪、磨洩る  長崖・・・・・・・チョウガイ・・・・・・・調劾  ながいがけ・・・・・・・名賀異臥懸  耕雲・・・・・・・コウウン・・・・・・・・公云  たがやすくも・・・・・・他臥耶素句模(侘臥埜宿毛)  宝暦六年・・・・・ホウレキロクネン・・・・補得暦録撚  たからこよみむつとし・・多唐暦務柘図史  文化十三年・・・・ブンカジュウサンネン・・文化重纂撚  もんばけるたりみつとし・問場懸留多里御津図史  「豊後杵築藩」・・ホウゴキヅキハン・・・・邦語記図句判  ぶんごきねきづくはん・・文語基音基図句判  『麻田剛立』・・・マダゴウリツ・・・・・・真妥合理柘  あさだつよしたつ・・・・阿(吾・蛙・娃)沙汰柘与史龍  『綾部妥彰』・・・リョウブダショウ・・・・両部妥章(拿障)  あやぶあわせるあきら・・文分合わせる安芸羅  はなのいろ、 うつ りにけりな、いたつらに、 はな(塙)・塙保己一  ↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓   ↓  華 乃意賂   得柘理爾懸理名 板 面 似・・・・ 華=崋・・・渡辺崋山  把名之意賂  得柘理似家理名 意多柘等似  中華料理=中華膳                                         ↓                                      かしわで                                高橋・・・・膳部臣                                 ↓  わかみよにふる、なかめせしまに     よ しま  ↓  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓    ↓ ↓   高橋氏  倭賀見与似振る 名賀目背縞 爾(似)・・夜・・縞=糸+高   天文学者  話掛見世似付留 名掛女施詞間尼    高島易断・高野長英・至時・景保  「華(渡辺崋山)、乃(すなわち=砂輪地=阿蘇山)、意を賂(まかなう)、得る柘の理(託す理=拓殖、柘植の地図の理)、爾(字)に懸ける理の名、板(バン=反・版・伴・幡・盤・蛮・晩・板・播・判・番・萬)の面(メン・津羅)に、似せる。倭(我)の賀(画)、御(音)を与え似せて、振る。名賀の目の背、縞(しま)の爾(字・似)」・・・「バン」の「メン」にニセる、である。  10(蝉丸=せみまる=ゼンガン=前巻)=足・誰・垂れ  これやこの行く もかえへる も別れてはしる もしらぬ も逢坂の関  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓籍  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓之・埜  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓邦叛・法反・方盤  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓模・母  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓施拉奴・施濡  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓模・母・喪  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓誌留・詞留・史留  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓葉  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓捌例出  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓模  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓経留  ↓↓↓↓↓↓↓↓変・懸重・化絵  ↓↓↓↓↓↓↓模  ↓↓↓↓↓意句  ↓↓↓胡之・古之・姑之・虎之・子之  故例哉・拠齢也  『蝉丸(せみまる・ゼンガン)』が「十番目」である。「せみまる」とは「背実真留・背診真留」である。「ゼンガン」とは「仏教」に関すれば「善願」、「禅ガン」の「ガン」の同音異字であろう。「古事記」に関しては「前願・前巻(前鑑)・前神」、「日本書紀」に関しては「全貫・全桓(全鑑)・全漢」で、「斬元」である。「前漢」ならば「漢書」である。「膳巻」、「膳部」とは「配膳係のカシワデの臣のカン」で、「膳願・膳貫・膳諌」の『高橋氏文(延暦8年・789)』である。『高橋氏文』とは「天武天皇」の時代に「膳臣(カシワデのおみ)」がその姓を「高橋」と改め、その子孫が「安曇(あずみ)=海部部」一族との「膳部」のポジションをめぐって、その確執を「上奏」したモノであった。「背善」に「アマ族」がデシャバッテきたことの抗議である。「十(とぅ≠唐)」とは「壱拾≠位置重」で「たり(足=ソク≠測≠即≠則≠息≠捉≠促=措句=あし)」とも云う。「たり」は「誰・垂」である。「垂簾の政治=則天武后」の「垂(すい)」である。そして「餡(アン)かけ」の「たれ」だ。  これ やこの、いく もかへるも、わかれては、  ↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  古例哉拠之 意句模変重留模 話加齢出歯  しる もしら ぬも、あふさかのせき  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  史留模新羅奴模 阿武作加之施記  「蝉」の鳴き声は「ミーン、ミーン、ミーン」であった。「診音、診因、診隠」で、「診寅(虎)」である。虻(阿武)は「ブーン」であるが、「武運」だ。  11(参議篁・おのたかむら=小野篁)=壱拾壱  わたの原八十島かけて漕ぎいで ぬと人にはつげよあまの釣舟  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓柘理付音・長州  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓チョウソウ・テウソウ  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓長挿・朝操・弔葬  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓調宗・重相・周捜  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓之・埜・乃・廼・野  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓海部・尼・娃間  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓代・与・預・余・輿  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓柘植・継・嗣・接・次・訃・注・告  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓似葉・爾葉・丹葉・尼頗  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓比徒・卑都・妃都・一都・日渡・秘図  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓屠  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 意出奴(怒・絎・帑・弩・駑)・遺出怒・異出濡(嬬)  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓義・疑・偽・欺・宜・祇・犠・技・戯・擬・祁・儀  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓コ・拠・故・子・虎・姑・古・胡・去・孤・虚・小  ↓↓↓↓↓↓↓掛出・懸出  ↓↓↓↓↓↓志摩・縞・島・嶋  ↓↓↓↓家祖・耶楚(キリスト教)  ↓↓之頗拉(シは横島の羅・これ、ヨコシマ=邪な拉致)  話多・話他・倭詫・輪太・倭侘・和田  わたのはら、やそしまかけて、こきいてぬと、 わた  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓ ↓  話他之葉 家祖氏真加懸出 古希意出奴徒・・・・・和田=綿・棉=海  ↓ ↓↓  詳しくみる 七十歳  ひとにはつけよ、  あまのつりふね  ↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓  比斗似葉柘懸世  尼 之都理不値  『藤原定家』の時代を踏まえれば、鎌倉幕府内での確執で『源頼朝』死後、『北条義時』と『尼将軍(北条政子)』に謀られて死亡した「侍所別当」の『和田義盛(久安三年・1147~建保一年五月三日・1213)』の事件があった。彼は『三浦義宗』の息子で、一族は『相模国三浦郡和田』を根拠地としていた。「相模三浦郡逸見村」には「英国人」であった『ウィリアム・アダムス』が帰化し、「徳川家康」の顧問となって和名を『三浦按針(案針)』と名乗った人物が領地を貰って住んだ所である。まさに『ウィリアム・アダムス』は「ヤソ(八拾)島」を「帆船(リーフデ号)」で駆け、遭難して豊後大分に漂着したのだ。同僚に『ヤン・ヨーステン(耶楊子=やようす)』がいた。その時代は「1600年(慶長五年)」の「天下の分かれ目」であった「関ヶ原の戦」であった。そして彼は「命」を「徳川家康(日本一の弓取り)」に賭け、「二隻の西洋型帆船」を造船してこの地で全うしたのだ。「エゲレス人」の「顧問」が必須、必要としたモノは何か?・・・『英和事典』に尽きる。  「遣唐副使」であった『小野篁』は自分の乗船するべき船を「船底に穴が欠いていた長官の一番船」と「交換することを拒否」し、その役目を蹴って『嵯峨天皇』の怒りをかい「隠岐」に流された人物であったのだ。欠陥の遣唐船で唐に行け、とはムチャクチャな話である。だが『小野篁』は「船乗り」であると同時に「語学に秀でた家系の一族」であったのだ。後に許されたのである。  「十一番目」に彼の歌が撰ばれたのは以上の理由である。事績には「和田」氏も「三浦アダムス」も懸けられているのだ。  「相模」は「ヤマトタケル」が「蝦夷」を平定する為にイヤイヤながら「東征」した国である。妻「乙橘姫」を海の暴風雨で溺死させた場所でもあった。「あづまはや」と嘆いたのは「東であろうか、イヤ違う」と云うことだ。では「西」であるハズだ。「壇の浦」と、「島原半島」での事件、その周辺の地名を診ればその意味が理解されるであろう。  まさに「相模」とは「佐賀診」、「嵯峨診」、「業診」である「相似」、「模倣」を示唆している漢字なのである。「古事記」に於いて「天照大御神」と「須佐之男」の戦いで「サガミニカミテ」とは、「十拳剣」が生み出した「多紀理毘賣(奥津島比賣=隠岐柘施真)」、「市寸島比賣(狭依毘賣=作選)」、「多岐都比賣(多義柘)」であった。また「五百箇御統珠」からは「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳」、「天之菩卑能」、「天津日子根」、「活津日子根」、「熊野久須毘」が生まれたのだ。いずれも「さガミにカミ」て生み出したのだ。「佐賀見(嵯峨診・業身)」の地名の分散である。物語は「同盟」したのにもかかわらず、「須佐之男(上皇)」が「天照大御神(尼)」の領地を荒す、と云うものである。「弟(帝)=夫」が「狼藉」したのである。怒ったのは「姉=志」である。結果、「須佐之男」は「出雲」に流刑となったのだ。「隠岐之島」は目の先に存在する。  そして「三人姉妹」の象徴は「織田信長」の妹「お市」と「浅井長政」の娘達「長女・ちゃちゃ(茶々・淀君・永禄十年~元和一年)」、「次女・はつ(常高院・?~寛永十年)」、「三女・おごう(於督・崇源院・天正一年~寛永三年)」の各々の「人生」であった。権力を握ったのは豊臣家で「ちゃちゃ」、徳川家では第二代将軍『秀忠』の妻となり、第三代将軍『家光』の母となった「おごう」であった。「はつ」は「若狭=わかさ=和歌作(叉・差・佐・左・鎖」の大名『京極高次』の妻であった・・・「京極中納言」とは『藤原定家』であった。「はつ」は「捌=わける・初=はじめ・髪=かみ・発・撥=キ・溌=はねる・鉢=金+本=キンホン」の同音異字であるナ・・・子は「出雲・隠岐」を領してその子孫は「讃岐丸亀」に移封され、その分家には「多度一万石」がある。そして「シーボルト」が乗船してきたオランダ船「三人姉妹号」の懸けである。  「わたのはら、やそしまかけて、こきいてぬ」とは「海の原、多くの(家祖・耶楚=キリスト教・弥祖・邪訴)の島、嶋、縞(死の間)を懸けては、己は希して、遺出ぬ」と「イヤダ(ぬ=否定)」、と云っているのだ。「人には告げよ」とは「船出の決意」ではなく、彼の置かれた「立場」である。沈没するような「船」に誰が乗ろうか、と云うことだ。「殉教者」にとっては「死」は「覚悟の上」であるハズだが。「幕末・明治」の「海士」ならば「国の存亡を賭けた決意」ではあるな・・・その本意は何処にアレ、「和歌」とはいかようにも解釈できる「都合(都の権力者に合わせる)」のイイモノなのでゴザルよ・・・  12(僧正偏昭=創世編章=相乗編上=早世返上)=壱拾弐  天つ風雲の通ひ路ふきとじよ 乙女のすがた しばしとどめむ  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓詞葉誌図土目務  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓州賀多  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓音目埜  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓図字与  ↓↓↓↓↓↓↓↓付記  ↓↓↓↓↓↓比字・秘字・卑字・一字・日字  ↓↓↓↓↓加代・佳代・嘉代  ↓↓↓↓之  ↓↓封云  天津・海部津・尼都・海士柘  『僧正偏昭(弘仁七年・816~寛平二年一月十九日・890)』とは「比叡山天台宗」の坊主であった。別名は「花山僧正・中院僧正・良僧正」。「六歌仙の一人」である。俗名は「良峯・定貞」で、『良峯安世』の息子で、「桓武天皇」の孫であった。「仁明天皇」の死亡後、「斉衡十二年・855」に出家して『円仁』の弟子となった人物である。「サイコウ(斉衡・再興・再考・採光・採鉱)」の「壱拾弐年(イチひろうニのネン)=位置拾う似、尼の撚、捌)」である。「エンジン(円仁・円陣)」である。ならば時代は「再考、再興の似るアマのより分け」で、「八百五拾五(捌、白、語、重、悟=后・呉・後・胡・互・期)」ではあるな。「エンジン」とはピストン運動をする機関の心臓部である。  「ソウジョウ・ヘンジョウ」の同音異字は「相乗・層状・総状・叢帖・曹丞(曹操)・葬上」の「編帖」でもあるな。漢字の造りで云えば「偏」を「昭(あきら)」かにする、である。歌番は「十二番目」である。「トあまりニのツガイのメ」である。  あまつかせ、くも のかよひち、ふきとちよ、  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  尼  都 枷  苦喪之家世比知 付記斗置代                  ↓↓ ↓↓↓                  卑治 土地輿  おとめ  のすかた、 しはしととめむ  ↓↓↓ ↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓  音  目 之素掛多  視葉詞斗図目務  ↓↓↓  ↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓  汚徒女  之守科多  施把死  「尼将軍の鎌倉の枷、葬儀の喪、これ家の苦しみ比べて知る、付記するものは代数を置いてはかる音の目、これ、女のモト、シのモトを多く懸けれ、診よ言葉のはかる目安として務める」である。  13(陽成院=ヨウセイイン=要請印=溶性音=養成寅)=壱拾参  筑波嶺の峠より落つる みなの川恋ぞつもりて 淵となりける  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓図名里懸留  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓付置・布置・不知・不治  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓柘模理出  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓素  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓古意・故意  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓懸話・掛倭  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓診名之  ↓↓↓↓↓↓↓↓柘留  ↓↓↓↓↓↓↓将・緒・尾  ↓↓↓↓↓輿理・与理・依り・寄り・因り・選り  ↓↓↓↓図得解・問解・唐下・統下・藤下・討外  ↓↓↓之  ↓↓診音  ↓↓  柘句把  「13番目、十三番目、壱拾参番目」の「五十七代天皇の陽成天皇」で「立太子」は「貞観十一年(896)」で、天皇即位は「貞観十八年(876)」であった。譲位して『陽成院(ヨウセイイン・貞観十年・868~天暦三年・949)』となったのだ。ここで「年号の数字」に注目してもらいたい。彼は『清和天皇』の第一皇子で、母親は「藤原高子」であった。彼の性格は「凶暴」で、「狂操」、「乱行」の人物であったらしい。そして「悪君之極」、「乱国之王」と言われたのだ。その末裔は「清和源氏=白旗」であった。『藤原定家』が「十三番目」に撰んだのは「源氏」に対する隠れた批判をこの『陽成院』とその「歌」で象徴したかったにのに違いない・・・「十三」も「三十」もその象徴的な意味は腐る程に展開してきた数字である。日本史に関しては「倭人伝の卑弥呼の十三歳の宗女、壱与」である。西洋史に関しては「アリストテレス」が教師になった時の「アレクサンダー大王の十三歳の年齢」である。キリスト教では「イエスが架り付けになった十三日の金曜日」である。現今の「太陽暦=西洋暦を制定した法王、グレゴリオ十三世」等々である。「宗教」と「政治」に関するものだが「十三」は日本の「四」と同じく嫌われた「数字」で、「十三階段の道」とは「死刑台に架けられた階段の数」であった・・・「陽(太陽)、成、院(太陰=退隠)」であり、「ヨウゼイイン」ならば「政治屋」も「財界金貸し屋」も渇望する「用(要)税隠」だ。「ヨウセイイン」の同音異字は「要請印・溶性隠・養成寅(虎)・楊姓因・耀生允・葉生音」等々である。病で云えば「結核患者=労咳」の「ツベリクリン反応の陽性」であるな。「のどに血反吐(ちへど)見せて狂い鳴く鳥」は「ホトトギス」であった。「ホトトギス」のアテ名にされている「漢字」は既に別なところで展開したので思いだして欲しいが、「カッコウ」も同類の鳥であった。とりたて「郭公」の漢字を「壬申の乱」にある人名の記録に重ねて考えてミヨ、だ。彼が「第五十七代天皇」であれば「西暦57年」には「倭奴国王」の「金印」を「後漢」の『光武帝』から賜った記録があるのだが・・・  つ くはみねの、とを  けよ りおつる、 みなのかわ、  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓  ↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  付句葉診音之 図緒  懸世 理置柘留  見名之掛話  ↓↓↓↓↓↓ ↓↓  ↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  突 く刃 嶺之 徒将  懸預 裏悪都留  実名の禍話  ↓  ↓       ↓              実拿  衝く頗        悪             家頼 離将津流    ↓        ↓              ↓   実朝?    ↓        隠 気(岐)=尾記=尾張、尾州の記録=古事記(?)  よこしま=邪悪  こい そつもりて、ふ ちとな りける  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  故意素付模理出 付知図名理懸留  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  乞  遡積喪理テ 武地徒なり蹴る           ↓           テ=氏+一=氏の初め           ↓           弖=弓+一=弓の一番           ↓ キュウボウ(仇望・宮亡・糾冒・舅暴)           弟=八+弔(弓・|/窮乏)+ノ=波地の弔いの経柘  14(河原左大臣=源融・みなもとのとおる=加減差大尋)=壱拾四  みちのくのしのぶもじづり誰  ゆゑに みだれそめにしわれならなくに  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓句似  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓名・拿  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓奈良・  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓例  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓話  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓西・螺・爾志・尼施・似詞・似史・似死・似誌  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓そめ=初め  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓め=目・眼・芽・雌・女  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓遡・素・姐・蘇・楚・訴  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓誰・垂れ・足れ・・・拿例・妥例・打例  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓診・実・身・壬・巳  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓似  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓喩重・諭重・故・結え  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓誰  ↓↓↓↓↓↓↓文字刷り       ↓↓↓↓↓↓  ↓↓↓↓↓  ↓↓↓  史允                  未知の句之        診誰=みだれ=ラン=乱・蘭・覧・欄・卵・藍・濫・嵐・爛  「壱拾四番目」は『河原左大臣=源融(みなもとのとおる・弘仁十三年・822~寛平七年・895)』は「嵯峨天皇」の皇子で、母親は「大原全子」であった。「大原全子(タイゲンゼンシ)」とは「大言・体言・体現」の「全紙・前史・全姿・前肢・繕史・繕死」ではある。「承和七年(841)」の「相模守」をかわきりに「嘉祥一年(848)」に「右近衛中将」、「斉衡三年(856)」に「参議」、「貞観十二年」に「大納言」、「貞観十四年(872)」に「左大臣」になって、その在位は「二十四年間」にも及んだ。「宇治平等院」は彼の別荘であった。全く、「加減差大尋」であるのは彼の別荘である「河原院」であった。「河原院」とは東北地方の名所「塩釜海岸」に模した庭園を造り、その池に難波からの潮水(海水)を毎月運ばせて潮を焼いて贅沢を尽くした邸宅である。「しのぶ(偲・忍)」とは東北の「信夫」と云う地名に懸けたそうだが、「コイ」の歌として「百人一首」の「壱拾四番目」に撰んだワケではないだろう・・・?  みちの くの、しのふ もちつり、たれゆゑに、  ↓↓↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓  見知之句埜 史之付 模知柘理 他例諭重似  未知の苦の 死の怖 喪地津里 多霊結重爾  みたれそめにし、 われならなくに  ↓↓↓↓↓↓↓ ↓↓↓↓↓↓↓  見他例素女似始 話例奈良名句爾  診垂れ箋女尼史 倭例納羅納国  「河原院」の大邸宅の末路は同じ「百人一首(第四十八首)」に撰ばれた「恵慶法師」の親友であった『安法法師』が住んでおり、その邸宅は「ボロボロのあばら屋」になっていたそうである。『安法法師』は「源融(みなもととおる・ゲンユウ)」から数えて「四代目の孫」であった。

-169-へ


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page