朝衡(晁)・・・阿倍仲麻呂
ここは小説作家「陳舜臣」氏の「九点煙記(中国十八景)・講談社・発行昭和五十五年十一月二十五日」の「朝衡小考」を参考資料にして「阿倍仲麻呂」と「現存・古事記」を考えてみたい。 以下、「・・・」から始まる文章は「陳舜臣」氏の「九点煙記(中国十八景)」の「朝衡小考」からの「抜粋」である。 「同音異字」と「妄想的」叙述はワタクシのモノである。混同しないように区別されたい。 「陳舜臣」氏は次のように述べる。 ・・・公平さでは「大日本史」は合格といわれている。 だが、 ・・・論賛の部分で、「朱子学思想」の大義名分が強く出すぎている。 ・・・遣唐留学生になった「阿倍仲麻呂」に対して「大日本史」の筆は手きびしい。 ・・・是レ祖先ヲ蔑(ナイガシロ)ニシ、而シテ本ヲ二ニスルナリ。豈(キ・ケ・カイ・ガイ・あ)ニ聖賢ノ道ナランヤ。世、徒(イタズ)ラニ才藻ニ眩シ、其ノ唐廷文士の推奨スル所と為ルヲ、キンエン、スルハ過テリカナ。 ・・・「藤田東湖(水戸藩)」も「阿倍仲麻呂」に対しては、 ・・・・阿倍の仲麻呂なんどが、から国になびきつつ、てる日の本を忘れて、「李隆基(玄宗皇帝)」の大臣となりしたぐいは、かたちこそ、をのこ、ならめ、心は、をうな、にもはるかに、劣れるこそ、いまわしき。 と言っていた、らしい。これは、 ・・・「宋」へ渡る僧「成尋」にその「母」が与えた「歌」 もろこしも、天の下にぞ、あると、きく 照る日のもとを、忘れさらなむ を「東湖歌話」に収録し、「オンナ(女)ながらも、ますらをに、はぢざるべし」とほめたのはよいが、ことのついでに・・・・ 前(・・・・阿倍の仲麻呂なんどが、から国になびきつつ)の文を記したモノであるらしい。ワタクシはこの「宋」、「成尋」と「オンナ(女)」と「母(ボ・モ)」、「歌(カ)」の漢字に注目したい。「成尋」は「尋ねれば成る」で、「ボ・モ(簿模)」、「おんな(音名)」の「うた(得多・有他)」である。 「徳川光圀」が「人材」を結集し、「豊富な資料」を蒐集させて「大日本史」を編集記録したのである。連中が記録するにあたって、「阿部仲麻呂」の「履歴」を知らなかったとは思えない。が、その「履歴」を端折って「裏切り者(いまわしき者)」に仕立てる(した照る)には「時代的」に都合がいい人物だからだ。理由は「阿部中麻呂」の同姓の「阿部正弘」はこの時期の江戸幕府、幕閣の家系筋で、ペリー来航以来、「米・英・露・蘭」の各国と「和親条約」を締結した「いまわしき」人物であるからだ。だが、「望郷の念にカラれた安倍仲麻呂」に対する「いまわしき」は本音ではあるまい。 「藤田東湖」は「藤田幽谷」の次男、「文化三年三月十六日(1806)~安政二年十月二日(1855)」の人物で、幼名は「武次郎」、通称は「虎之助」、「誠之進」、名前は「彪」。「東湖」は「號」であった。 武次郎・・・武、次、郎・・・・・・・武の次の郎 虎之助・・・虎、之、助・・・・・・・虎、胡玲を助ける 虎、「シ(史・使)」を助ける 誠之進・・・誠、之、進・・・・・・・真人(まこと)、之、将(すすむ) 彪・・・・・・ 虎+彡・・・・・・・・・・文(あや)・・・虎の刷毛(はけ) 東湖・・・・・吾妻・我妻(あづま)、湖=水(さんずい)+胡(コ・ウ・えびす) 號=号+虎(虍儿) ダレでも持ちそうな名前の、幼名(ヨウメイ=陽明)の「武次郎」だが、この「武・次・郎」を「阿部中麻呂」の時代に近い「古代史」に重ねて個々の漢字を考えてみたい。「武」は「桓武・聖武・文武・天武」の各天皇の名に付随する漢字で、唐王朝では 「武照」こと「則天武后」 が有する「武」であった。ちなみに唐の「武宗」の即位は「辛酉年・841年」で、日本では「仁明天皇」の「承和八年」で、「藤原緒嗣」等が「日本後紀」を撰上である。「武宗」は「道教」以外を禁止し、弾圧した人物である。 「次(ジ・シ・つぎ・ついづ・ならび・やどる・とまる・うち・たび)」 は「二番目」のことだが熟語には 「次韻・次舎・次序・次席・次善・次官」 等と、 「次第(順序・由=よし・理由=わけ・由来・即刻、即時=ただちに・まにまに)」 がある。「郎」は、 春秋時代の魯の地名・山東省 官名=秦の時は宿営、 漢の時は侍従、 唐の時は次官、 明と清の時は下級官吏 で、「郎中(ロウチュウ)」は「唐以後は各部の長官」で、江戸幕府の「ロウジュウ」は「老中」であった。尾張名古屋中区の銘菓「大須・ういろ」の「ういろ」は、元、「外郎(ういろう=漢字の発音は唐音)」からの由来である。江戸時代には「痰きり飴」の通称のことだ。「日本書紀」での「郎」の漢字を有する人物は「ダレ」か?。「いらっこ(郎子)」、「いらつめ(郎女)」と何故、「日本語」ではソウ「郎」の漢字をあてたのか? 『郎』の官職名は唐代では大臣の『次官』 唐の『太宗・高宗の郎』、あるいは『太皇后の郎』 「郎子(いらっこ)」は男子、「郎女(いらつめ)」なら女子 『太宗の妾郎』ならば『則天武皇后』、あるいは彼女自身の配下の『郎将』 『郎将』の肩書きを有するのは・・・日本に来た『劉仁願リュウジンガン』 彼は「668年」に『姚州(雲南)』省に流刑になった記録がある。 同年には「高麗」滅亡。平壌に「安東都護府」の設置。 天智天皇が「称制」から正式に「即位」した年で「天智七年」であった。 『天武天皇』は朱鳥元年、『686』に死没。その差は十八年 「668」と「686」の西暦年号、「壱拾八」の差・・・アヤシイ。 「686」は唐の年号は「則天武后」が「垂拱二年・丙戌年」で、 「中宗」が「嗣聖三年」である。 この時期、中国年号がダブって存在する。 「690」は「則天武后」を名乗り、国号を「周」としたのだ。 ワタクシの「妄想的推理」は「郎」とは「唐」の「郎将(劉仁願)」で、「郎子」、「郎女」はその「子供達」の示唆である。「異羅津子(いらっこ)」で、「異羅津女(いらつめ)」である。 「藤田東湖」は文政十年(1827)には水戸藩「彰考編修」、「総裁代理」となった人物で、「海防」を唱えた藩主「徳川斉昭(諡号は烈公)」を助け側用人として「弘道館」を設立、「尊皇攘夷」を立場として兵制整備にあたった。コレが原因で幕府の忌諱により「弘化元年(1844)」に藩主とともに謹慎、蟄居幽閉された。この前年「1843年」の幕府閣僚の中心となったのが「公武合体・雄藩合議制」を先導した福島藩藩主「阿部正弘」で、「水野忠邦」罷免後の「老中首座」となった人物である。この「水野」の復活(1844)、失格(1845)する中で、「阿部正弘」は対外交政策に専念した。この「阿部」に外交意見を述べた(1846)のが、「1844年十一月(1849年・嘉永二年)」に謹慎を許され、顧問格となった「徳川斉昭」であった。 「藤田東湖」は「1846年十二月(弘化三年・中央公論の年表)・1849年(嘉永二年・東京堂人名辞典の説明)」に蟄居を免ぜられている。「藤田東湖」の先の文(東湖歌話)はこの「幽閉期間」に記されたモノだろう。彼は1853年六月「黒船」の「ぺりー来航」を見、蟄居を許された後「斉昭」の補佐(七月)となる。だが、「1855年一月」に「日米和親条約本書批准交換」がなされた後、同年の「安政大地震・十月」で死亡している。「尊皇攘夷」の彼は墓の中でもアタマに来ていただろう。 そして、同年「十二月」、萩藩の「吉田寅次郎」こと「吉田松陰」の出獄、蟄居であった。 「藤田東湖」に支えられた「徳川斉昭(諡号は烈公)」の政治的方針は、条約推進派の大老「井伊直弼」の就任(1858・安政五年四月)によって挫折したのだ。彼は同年六月の「日米修好条約」を憤慨、「井伊直弼」を面責した後、謹慎幽閉され、「1860・万延元年八月十五日」に死没したのである。 この流れでみると、尊皇攘夷の「藤田東湖」と、公武合体、雄藩合議の備後福島藩「阿部正弘」は政治的に対立していたのだ。 「阿部」は「阿部」でも別系統の陸奥棚倉藩の「阿部家」は「大彦命」の子孫と称していた。 先の「藤田東湖」の「阿部中麻呂」に対する批判文だが、かってにワタクシが「文字」を改作して 「かたち(形・容・身体・肉体)=華性質 蚊(中のムな文)多知 ↓ 中のヨコシマな文の多を知」は 「をのこ(男)=小野子・尾野拠・小埜虚」で、 「緒之胡」、「将に之、虎」である。 「心(魂・精神)=個々賂・此処賂・珠四囲・多磨思惟・多真史意」は 「をうな(女)=オンナ」にも 「劣(レツ)=おとる=音留」=レツ=「列・烈・裂」 「いまわしき(忌まわしき)」=異真話私記・意真把史記 以上のようにヨムのだが・・・ 何時のころから「女(をうな・をむな)」は「オンナ」と発音されるようになったのだろう・・・「をうな」が訛って「オンナ」の音声になったとは思うが、「方言」で「オンナ・ヲンナ」と発音していた特定の地方は無かったのだろうか? 古語辞典では「おんな(嫗)」は老婆で、「おんな・おみな・おうな」の音便、撥音便とあり、「枕草子(清少納言)」には「おんな(老婆)」と記されている、とある。「おんな」は平安時代から老婆の存在として使用されていたワケだ。「をんな」は「成人した婦人」とあり、「紀貫之」の「土佐日記」に「をんな」の記録がある。他には「徒然草」、「源氏物語(夕顔)」にも使用されている、とある・・・「お(オ)」と「を(ヲ)」の撥音は、どう違うのか?・・・区別して発音をしていたのだろうか。あるいは「文章上だけの区別」であったのだろうか。もはや文字での違いでしか確認できないのだが・・・ オンナ(音名=オンメイ インメイ=隠名=陰名 =寅名=とらめい=虎 名) の発音である。 とにかく、「陳舜臣」氏は、結論的に、この「大日本史」の記述の中の「阿倍仲麻呂」の手厳しい批判に対して、当時の「歴史的状況」を調べて「仲麻呂」の立場を弁護をしているのだが・・・。 ワタクシは、なぜ、「大日本史」の編纂者、追従者が 「祖先(ソセン)を蔑(ベツ)に」したと「阿倍仲麻呂」を批判し、 「而(ジ)して本(もと)をニ(ふたつ)にする」と非難し、さらには 「豈(あに・キ・ケ・カイ・ガイ・なんぞ・いずくんぞ・なんと・かちどき・たのしむ・やわらぐ)に聖賢の道ならんや」 としたのか、を、「同音異字漢字」を重ねて「陳舜臣」とは違った視点、観点から考えてみたいのだ。 スナワチ、ワタクシの言いタイコトは「和歌の技法」をヨクした「尊皇攘夷」の先鋒者、「藤田東湖」が「阿部仲麻呂」に託(かこつ)けた、老中「阿部正弘」批判ではないのか?、と言うことだ。「藤田東湖」の著作物は尊皇攘夷派の人々にヨマレ、「おおやけ」になっていたハズである。「御政道への直接批判」はヤバイ・・・。 「現実的な歴史的事件」を「批判」するのに江戸時代の「戯作者」がやったように、「過去の時代」を舞台に仮託して「今現代」を批判する、と言ったヤリカタで、常套である。その典型は「忠臣蔵」である。「戯作者」の「文章」は、「和歌の技法(戯法)」が駆使されているのだ・・・もちろん、「現存・古事記」、「現存・日本書紀」もそうである可能性が大である。更には「中国の歴史書」も例外ではあるまい。 このペンネーム「陳舜臣」・・・「本名」かも知れないが、 「陳(ならべる)」、 「舜(あさがお・むくげ・もくげ)」、 「臣(おみ・君に仕える家来・見張っている目、監視の目)」 ではあるな。 「祖先=ソセン(素線・措撰・素撰・蘇先・蘇戦・蘇船)」を 「蔑=ベツ(捌・別・瞥・経拓)に」と・・・ 「而=ジ(字)」して 「もと(母賭・模途・許・元)」を 「ふたつ(附他途・普多拓)」にする・・・と。 「豈(あに・キ・ケ・カイ・ガイ)」は片仮名の音を聴くと、 「兄、阿仁、阿児、阿尼、阿爾、きけ、海外、亜(あまねし)」と聞こえるのだが。 「豈=山+豆=サントウ(サンヅ)=纂唐・山東・参津・三途・参図」、 「やま(邪馬・邪魔)・まめ(耶麻・真女)」 である。ワタクシのワープロに無い漢字の 「(音+欠)+(豊+盍)=キンエン・コンエン」の意味は 「キン=神が祭事に満足して供えモノを受ける・もてなしを受ける」で、 「エン=艶・みめよい・あでやか・いろ・つや」 「豊満、豊かな色(妻女・愛人・恋人・妾=めかけ)」である。「妾(めかけ)」の漢字分解は「立つ女」である。「女帝・女王」だ。彼、仲麻呂の生きていた時代は唐では「則天武后」、日本では「推古」から始まって、「皇極、斉明」、「持統、元明、元正」、「称徳・孝謙」の女帝の時代であり、極論すれば「男の天皇」は霞(かす)んでいるのである。日本だけではない、朝鮮半島の新羅も「真平、善徳」の「女帝」の時代なのだ。 「キンエン」、「音を欠く」、「豊の盍(コウ・ゴウ・カフ・ガフ・覆う・おおう・合う・なんぞ・・・ざる)=曲(よこしま・くせ)の豆(まめ)、去(さる)る皿(さら)」、「キョクトウ」の「キョベイ」・・・「極東・虚句唐」の「拠併・虚併」である。 古代史に於いて「アベ(阿倍・安陪・阿部・安倍・阿閉・阿閇・阿毎)」の「姓」を有する人物の「現存・日本書紀」に記録されている連中は一体、「何者?」であったのか、と言うことである。「現存・日本書紀・巻第廿八」の「壬申の乱」に「高市皇子」が引き連れてきた従者に「膽香瓦(いかご)・臣・安倍」、「紀・臣・阿閉麻呂」が記録され、終息時に「天武天皇」の場所的移動を記している。「膽香瓦(いかご)」だが、 膽(タン・きも・い・胆の旧字)・・・旦は夜明け・女形 ↓ 膽の類字≠憺(タン・デン・やすらか) ↓ 檐(エン・ひさし=軒) ↓ 月(肉・じく・つき・ふね) + 危(あぶない・あやうい・キ)-卩(セツ・セチ・割符) or 刀+厂(かたな+がんだれ)⇔(トウ+カン、ガン) + 唐 宦 官 ハ(8・捌) + 言(ことば) で、「臥薪嘗胆」の「胆=膽」である。「月」は「肉偏(ジクヘン)」で、「旦」は「女形(おやま・ジョケイ・ニョケイ)=オンナ・ガタ」である。「字句の偏の音名の化の他」・・・「膽香瓦(いかご)」の古語の意味は何かを古語辞典はアキラカにしていない。音を採るなら「如何語・以下語・易化語・異化語」で、漢字の意味ならば「キモ、かほる、カワラ」である。類字の「檐(エン・ひさし=軒)+香(コウ・かほる)+瓦(ガ・かはら)」ならば、「瑠璃瓦職人」で、「瓦職人の臣」か?・・・「膽」は漢字分解では「月=舟=肉(ジク・ニク・ジウ・しし)」の「トウ・宦官、汗顔」の「ハ(8・捌)の言」である。「唐の宦官」は「汗顔」で、「汗」は「胡族の王」の「顔(彦のページ)」である。確かに「黄門」は「宦官」の意味である・・・水戸黄門(徳川光圀)だ・・・「イカ・ルガ=斑鳩・飛鳥」を妄想すれば「鳥類」だが、「烏賊(イカ)」も「飛び魚」のように「空中を飛ぶ」が、関西では「凧(たこ)」を「イカ(紙鳶)」ともいう。そして「烏賊(ウゾク)」とはその皮膚も変化させる生き物だ。「烏賊語=ウゾクゴ=胡族の語」である。英語では「烏賊(cuttlefish・squid)」は「いかがわしい、あやしいモノ」で食わないそうだが、「スルメ烏賊(いか)の臭い」は「女の発情の体臭」を示唆しているのカモッ。忍者の里と言われた「伊賀(いが)」には「阿拝(あべ」)」の地名があった。江戸時代の「伊賀」の藩主は「藤堂高虎」であった・・・「唐同多可徒等」?・・・「イカ・ル・ガ」で、「怒る我」かも・・・。 「九月」 己丑朔丙申、 伊勢・桑名に宿 丁酉、鈴鹿に宿 戊戌、阿閉に宿 己亥、名張に宿 庚子、倭京に詣(いたりて・もうでて)、「島宮」に御 癸卯、「島宮」より崗本宮に移・・・「崗(コウ・カウ・岡の俗字 小山・山の背・峰・岑・峯・坂)」 「イセ・くわ名」、「すずシカ」、「阿閉」、「名ばり」、「ワキョウ」、「シマみや」の移動「地名」も謎的象徴であるが、この「九月」の「日の干支」も示唆的である。 「己(ツチのト・おのれ・よこしま)の丑(チュウ・うし)」・・・よこしまな主 桑名=くわな・ソウメイ=句罠・僧名 「丁(ヒのト・てい・ちょう)の酉(ユウ・とり)」・・・・・・・・・・帝、綴、訂を採る 鈴鹿=すずか・レイカ=素図化・例加 「戊(ツチのエ・ぼ)の戌(ジュツ・いぬ)」・・・・・・・・・・・・・姥、母、簿の述、術 阿閉=あへい=蛙併(かえる、あわす) 「己(ツチのト・キ・よこしま)の亥(ガイ・い・いのしし)」・・紀、記、邪の害、意、猪 名張=なばり・メイチョウ=謎調 「庚(カのエ・こう)の子(シ・ね・こ)」・・・・・・・・・・・・・・・項、講、交・行・考、校、 乞うの史の詞 「癸(ミズのト・き」の卯(ボウ・う・うさぎ) 「癸(ミズのト=水野の徒・水野忠邦の徒党?)の卯(ウ=有・得)」、「トウ(島)キュウ(宮)」より「コウのホンのキュウ」に「うつす」だ。「島の大臣」とは「蘇我氏」であった。「よみかえる・われ・うじ」である。「島」は「トウ」と発音する。同音異字は「唐・藤・等」で、「読」の「問う」の「答」ではあるな・・・ 「現存・日本書紀」の記録する初期の「遣唐留学生」のほとんどは「帰化人の子弟」である。「唐人(からびと)」をどういうわけか学者、研究者は「韓人(カラビト)」としたい傾向があるらしい。「種族」としての純粋な「中国人」などはいないであろうが、「唐人(からびと)」は「唐人(漢人・中国人・支那人)」である。時代的に朝鮮半島経由した「韓人=唐人=漢人=中国人」であるが、その時代の「今来=新来」の「唐人=漢人=中国人」である。唐土(もろこし)の人物で、「母賂胡司・模露虎子・諸虎視・諸故氏」である。「あや(漢)人」、「はた(秦)人」である。「訳語田(おさだ)」と言う名を有する人物達である。 別項(小説・メリちゃん)でも記したが「阿倍」氏は元、「冨制(フセイ)」、「布施(フセ)」の姓であったのが「阿倍」になった、と「日本書紀」には記録されている。この漢字の同音異字は、 「不正・父性・不整・負性・腐生・斧正・不省」・・・フセイ・・・「斧」は「岑」に類似 祖先(ソセン)を蔑(ベツ)に 「伏せ・臥せ・付せ・附せ」・・・・・・・・・・・・・・・・・フセ である。ワタクシはこれらの「漢字」に対して妄想をタケざるを得ないのだ。特に「斧(おの)・正(ただしい)」の意味を考えるときに膨張する。漢和辞典には「斧」は、 斧(ふ・おの・をの)・・・まさかり・キを切る道具(斤斧=キンフ) いくさにモチイル武器 罪人を処刑する道具 これは、目をつぶって音で聴けば、将に「記・紀・祁・軌」をキル、導句である。斧の熟語には、 斧鉞(フエツ)=重刑・征伐 文章の字句などを 削ること。修正 斧柯(フカ)=斧の柄・政権 斧斤(フキン)=おの・まさかり 斧鑿(フサク)=斧と鑿(のみ) 大工道具 詩文、絵画などに 小手先の技巧をこらすこと 斧質(フシツ)=首切る斧と首切り台 処刑の道具 斧辟(辟+力)=フヘキ・中国の山水画の 岩石などを描く画法 があり、「文章の字句などを削ること。修正」、「詩文、絵画などに小手先の技巧をこらすこと」があるのだ・・・「首」とは「和歌」の「一首」でもある。「岩石=磐石=ガンセキ」の「磐」は「現存・古事記」では、 「磐余」として使用されている名前の持ち主である。 「神武天皇」である。 「彫刻」するために「素材の磐」をクリヌイた「岩石」の「小片(かけら・欠片)」である。スナワチ、 「張告・長国・兆国・兆石・超克・チョウコク」するため 「違和・イワ」を「庫裏・句理・繰り・クリ」貫いた 「岩」の「石」 「意思・意志・遺志・頤使・遺子・李氏・縊死・医師・イシ」の 「アマリ」で、 「掌編・小編・章編・小変・ショウヘン」の 「ガン・セキ」=「雁・鴈・贋・含」の「籍・席・関・積・昔・蹟」 である。「斧」の漢字分解は、「父」は「斤(キン・キム)」である。美男子の「キムタク」ではあるまい。「キン・キム」の同音を有する者に違いない。 キン=金武・禁(裏)・筋(書)・訓(辞)・欽(明)・勤(皇) 軽(挙妄動)・禽(獣)・欣(喜雀躍)・錦(糸)・今(昔) 軽皇子=カル王子 同音の「カル」は「天智天皇十年春正月己亥朔庚子・・・ 丁未、高麗、上部・大相・可婁等の遣、調進」の名がある 歴史に登場する最初の「遣隋使」と「遣唐使」であり、その系列化の人物の存在である。「おの」とは姓では「小野」か「尾野」、あるいは「小埜」である。「小野妹子」と、ソレに連なる子孫達である。「小野妹子」の中国名は「蘇因高」といわれた、と中国の記録にも「現存・日本書紀」にも記録されている。「蘇(よみかえる)・因(もと)・高(たかし)」である。しかも「小野妹子」は「隋書」に記されてある「阿蘇山」が見える「阿毎王朝」と密接な関係がある人物であったのだ。 実際に「小野妹子」の子孫は「海人(海士・海女・海部)」につながる「遣唐使」の家系であった。彼「小野妹子」に関して「現存・日本書紀」には不可解なことが記されている。「隋王朝」からの「国書の紛失事件(推古天皇十六年六月壬寅朔丙辰)」である。この「推古」と「16年・6月・壬寅・朔・丙辰」の漢字そのもの示唆的意味は」 いにしえ=古 おしはかる=推し量る 16=壱拾六=壱拾陸 6=六(亠+ハ=音略の葉)=陸=陸奥=むつ=武都 みずのえのとら=壬寅=水の江の虎 さく=朔月(一日・新月=しんじく) ひのへのたつ=比の経の龍・ヘイシン=併進・兵進 である。 「阿倍仲麻呂」の「履歴」と、その政治的、歴史的を「陳舜臣」氏の記録から拾っていくと、 阿倍仲麻呂は「中務大輔船守」の子供だった。 大宝元年(701)に誕生。 元正天皇・「霊亀二年(716)」、 十五歳の時に遣唐留学生に選ばれた。 その時の遣唐大使は 「多治比県守(たじひ・あがたもり)」であった。 同期の留学生は「吉備真備」で 六歳年長(当時二十一歳)。 入唐は翌年霊亀三年(717)。 長安の「太学」に入学し、 「科挙」に合格し「進士」となった。 その後「太子左春坊」の「司経局」で 「校書」の職に就いた。 「司経局」とは「経書」の 正本、副本を「筆写」、「校正」をするところであった。 定員四名、官位は「正九品下」。 仲麻呂入唐後の16年目 開元二十一年(733)に遣唐大使の 「多治比・広成」の遣唐船が来た。 仲麻呂の官位は「左拾遺」、「左補闕(欠)」、「従七品上」。 「李伯」、「王維」と同年に生まれ、 「杜甫」と同じ年に死没。 帰国を許されず 玄宗皇帝の 第二十四子である「義王比(王+比)」の 「親王府」の官職、「友」となった。 と、ある。 「親王府」の機構 長官・・・傳(フ)・・・従三品官 次官・・・諮議参軍事・・・正五品上 ・・・・友・・・従五品下 「衛尉寺」の 「兵器庫管理」と「宮門衛屯事務」の 「衛尉少卿」に昇進。 「衛尉寺」の機構 長官・・・卿・・・従三品 次官・・・少卿・・・従四品上 「秘書省」、 「禁中図書秘記」の「秘書監・従三品」に昇進 「秘書省」の機構 著作局 太史局 「唐王朝」の「歴史的記録」の「管理者」で「実権者」であった、と言うことはそれらの「記録」を「自由」にする立場の人物であった、と言うことにつきる。「自由」とするならばナニを自由にするだろうか?・・・「日本に関する記録」であるに違いない。 どのように?・・・ 仲麻呂「52歳」の時、前回の遣唐使から「十九年後」の「天宝十一載(載=年)・752」に遣唐大使「藤原清河」と副使の「大伴古麻呂」、「吉備真備」が入唐。コレとともに「帰国」することになる。 ここでは「阿部中麻呂」は「唐の役人として日本の遣唐使を送る者」、すなわち「答礼使」として帰国許可を得る。もはや、「日本人」ではないのである。事実、「本国・本籍」は「唐」なのだ・・・だが日本人としては「唐系二世・三世・四世」等としての「あいの子(混血児=コンケツジ=混結字=恨結辞?)」であったのに違いない。この彼の立場は微妙で複雑である。・・・「日本に関する記録」はどうするであろうか? 元々、彼の親や祖父の血縁、「阿部」氏は「唐王朝」の縁戚者か、「隋王朝」の縁戚者であった可能性が高いのは当たり前である。「617年(丁丑)」、「隋」を滅ぼした「唐の李淵(高祖として618年・戊寅・武徳元年に皇位に就いた)」は元々「隋王朝」の臣下の将軍である。「唐王朝」の后は「隋王朝・煬帝」の血縁であった。しかも「隋王朝」の使者「裴清世」は既に「608年(推古十六年)」に「日本」に来ている。そして「隋王朝」の滅亡である。この王朝の滅亡(617・推古二十五年)は「日本への亡命」である。日本書紀「推古天皇十年十月(602年)」に「百済僧・観勒」に「陽胡史(やこふみびと)・祖(おや)・玉陳(たまふる)」が「暦法」を習う、とある。この「陽胡氏」は大和王朝に仕え、「大隈の国司」であった「陽侯氏」と同族であろう。彼等は「隋王朝の貴族末裔の日本への帰化人」であった。だが、隋滅亡が「617年」で、「玉陳」が「暦法」を学んだのが「602年」ならば、彼は「隋滅亡時の亡命帰化人」ではないハズである。「隋書」には日本から隋への遣隋使(名前不明)の記録が「600年(推古八年)」にある。「607、8年(推古十五、十六年)」に「小野妹子」の「遣隋使」派遣である。ならば、「陽胡史の祖、玉陳」とは「600年」に来た「隋人」か、それ以前に来ていた「隋人」か、その「隋二世、三世」であるハズだが・・・。 名前が「たまフル」である。学んだのが「暦法」である。ここの記事はあやしいのだ。多分、 「言霊=文字霊」に 「振る=ルビを振る=漢字、真名仮名のヨミ」、 そして 「暦法=歴史方法」の「操作=紀年」 の示唆である。 「阿部」氏は「海軍・水軍」の頭領であった。しかも「日本書紀」の記録では「斎明天皇の時代(658年・斎明四年~663年・天智二年八月まで)」が、派手な「東北・蝦夷征伐」の活躍の時代で、その海軍の凋落は「白村江の敗北」からであった。だが、「阿部」氏は「大和王朝の重鎮」として存在していた。 仲麻呂の時代の天皇は「元正(715)~聖武(724)~孝謙女帝(770/8)」であった。 阿部中麻呂は「701年」に誕生し、「716年」に遣唐留学生となり、「752年」に帰国することになった。その後、帰国船が難破し、「帰国」出来ずに「770年一月」に唐で死没である。同年の八月に「孝謙天皇=阿部皇女」が死没しているのだ。 帰国に際し、その時に作詞したのが、 天のはら、ふりさけみれば、春日なる 三笠の山に出でし月かも の歌であった。 親友の「王維」が仲麻呂に送別の宴会で「送秘書晁監還日本国」の「五言排律詩」を贈る。これは「唐詩選」にも収録されている、らしい。以下の各漢詩のすべては、「陳舜臣」氏の「九点煙記(中国十八景)」の「朝衡小考」からの「抜粋」である。 「送秘書晁監還日本国」・・・王維 → ← ↓積水不可極↓ 安知倉海東 九州何処遠 万里若乗空 向国惟看日 帰帆但信風 鰲身映天黒 魚眼射波紅 郷樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 ↑音信若為通↑・・・音信、ワカを通して為す → ← ・・・「包佶」も「送日本国聘賀使晁巨卿東帰」の詩を作り、これに和して仲麻呂も「五言排律詩」を作った。 「送日本国聘賀使晁巨卿東帰」・・・「包佶」 → ← ↓ 銜命将辞国↓ 非才添侍臣 天中恋明主 海外憶慈親 伏奏違金闕 非驂去玉津 蓬莱郷路遠 若木故園鄰 西望懐恩日 東帰感義辰 平生一宝剣 ↑ 留贈結交人↑ → ← ワタクシはこれらの仲麻呂の「和歌」、彼の友人の「漢詩」を 「横にも、縦にも、斜め」にも、「回しても」ヨミ、そして 「同音異字の漢字」にしてヨミたいのである。 ・・・「天宝十二載(753)」、帰国遣唐使船の難破で「安南」に漂着。翌年、長安へ帰還。 ・・・この難破で仲麻呂は溺死したとの報告を受け、「李白」は「哭晁卿衡」という「七言絶句」を作った。 「哭晁卿衡」・・・「李白」 日本晁卿辞帝都 征帆一片遶蓬壷 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧 「安禄山(安史)の乱」の勃発 仲麻呂は 「左散騎常侍(従三品)」 「鎮南都護(従二品)」等を歴任 「大暦五年(770)」に死没。 「路(水+路)州大都督」を唐王朝より追贈 日本朝廷も「正二位」を追贈(日本詩記) 唐時代の学校教育は「国子監」と言うところが役所。 「国子監」の長官は「祭酒」と呼ばれ、「文部大臣」であり、「国立大学総長」であった。 国子監の機構・・・六学の講義、教授 国子学・太学・四門学・律学・書学・算学(暦学) 大経(礼記・左氏傳) 中経(毛詩・周礼・儀礼) 小経(周易・尚書・公羊傳・穀梁傳) 孝経・論語・老子 「国子学」の入学資格条件は「三品」以上の文武官の子弟、国公の子、及び孫、「従二品」官以上の曾孫。 「太学」は「五品」以上の文武官の子弟。郡県公の子、及び孫。「従三品」官の曾孫。 「四門学」は「七品官」以上の「侯伯子男」爵、及び「庶人」の子供で俊英な者。 これら「諸学」の「二経」以上を習得した者に「科挙受験」の資格を与えた。 「進士科」の科挙は「経学」が要であったが「玄宗皇帝」のころからは「詩学」を重んじるようになった。 「詩文」のテキストは「文選」であったらしい。 外国から留学生は「太学」に慣例的に入学。 阿倍中麻呂の同期の友人に六歳年下の「儲光羲」がいた。彼は「開元十四年(726)」に十九歳で「進士」に合格。「監察御史」までなった。仲麻呂に与えた詩が残っている。 「旧唐書」によれば仲麻呂は入唐後、名前を「朝衡」と改めた。 ・・・其ノ偏使朝臣仲麿、中国ノ風を慕イ、因ッテ留リテ去ラズ。姓名ヲ改メテ朝衡ト為ス。 「偏使」とはヒラの随員。 ・・・「儲光羲」が仲麻呂に与えた詩のタイトルは「洛中贈・朝校書衡」で、「朝・校書・衡」の「校書」は職名で名前の「朝・・衡」に挟んむのは中国の古くからの習慣である。 「洛中贈・朝校書衡」・・・「儲光羲」 → ← ↓万国朝天中↓ 東偶道最長 吾生美無度 高駕仕春坊 出入蓬山裏 逍遥伊水傍 伯鸞遊太学 中夜一相望 落日懸高殿 秋風入洞房 屡言相去遠 ↑不覚生朝光↑ → ← ・・・「伯鸞」は「後漢」の人物「梁鴻」の「あざな」であった。「梁鴻」は「太学」に学び「博覧」の人物であった。「扶風平陵」の人で、父「梁譲」は「王奔」の時の「修遠伯」に封じられた。 「儲光羲」は「仲麻呂」を「梁鴻」に例えた・・・・ナゼ?・・・陳舜臣氏は「できるだけ他人の世話にならないという姿勢だったのであろう」と推測している・・・・堅物の頑固者で「けったいな人物」。ワタクシは「国家機密の使命を背負った人物」だったからと妄想するのだが・・・「唐王朝の歴史記録の改竄」である。 ・・・「なお阿倍仲麻呂の経歴に関しては『旧唐書』日本伝のほうが、『新唐書』のそれよりはマシである。『新唐書』のほうでは、彼がいったん帰国して再び入唐したように書かれているし、上元年間(760~761)に、安南都護となったとしるしている。『旧唐書』には鎮南都護になったとある。安南都護は、すでに至徳二年(757)に鎮南都護と改名されている。あとから編まれたのに、もとのものより杜撰になっているのはどうしたことだろうか。 その理由はあるに違いない、とワタクシも思うのだが、ソモソモ『旧唐書(二百巻)』と、『新唐書(二百二十五巻)』が「二書」あるのはドウ言うワケなのか・・・「『新唐書』のほうでは、彼がいったん帰国して再び入唐したように書かれている。」のは「杜撰」がその理由なのか?・・・「帰国の事実」の可能性があるとしたら・・・ワタクシの妄想だが、その「可能性」は「現存・古事記」、「現存・日本書紀」、「続日本紀」の「文字・文面」にあるハズだ。『旧・唐書』と、『新・唐書』の歴史的事実の「詳細正確」を「旧」と「新」の文字に求めるのはナンセンスで、当てにならないからだ。「比較資料」があろうとも、未だ「可能性」の次元である。 「安倍仲麻呂」は唐王朝の「図書館長」であったから・・・後晋時代の 「劉?(『日+句=ヒク)=旧唐書の執筆者」 であろうが、宋時代の『新唐書』の編纂執筆者の 「欧陽脩(オウヨウシュウ≠応用集・鷹揚州)」、 「宋祁(ソウキ≠想起・総記・僧記)」 であろうが、ワタクシの漢和辞典が教えてくれる『唐(トウ・ドウ・タウ・ダウ・から)』の漢字の意味は 「おおぼら・大言・とりとめもない」で、 荒唐無稽・唐突 と言うことだから・・・しかもこれら(新旧の唐書)を編纂執筆した人物の「姓名」の漢字の示唆には、独り合点で、わらチャウのだが・・・笑われるカモ・・・