ジョン万次郎と「現存・古事記」
幕末、明治維新と言えば、地名学、言語学に関して、ワタクシ的には 「松浦武四郎」・・・ショウホブシロウ⇒正保(元号)、武の史郎 ↓ ↓ ↓ 1644~1648年 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 那波活所:正保五年(1648)歿、 ↓ ↓「倭名類聚鈔・卷1-20 ・源順 著作」を ↓ ↓ 那波活所が校正 ↓ ↓ ↓ ↓ 江戸前期の儒者。姫路「播磨の人」 ↓ ↓ 名は方、のち觚、字は道圓(円)、 ↓ ↓ 通称は平八郎。 ↓ ↓ 藤原惶窩に師事し、 ↓ ↓ 林羅山・堀杏庵・松永尺五とともに ↓ ↓ 惶窩門四天王と称された。 ↓ ↓ 和歌山・紀州藩主徳川頼宣に仕えた ↓ ↓ ↓ オランダ(阿蘭陀・和蘭)風説書 ↓ 本朝偏年録 ↓ 紅葉山文庫勤番創置 ↓ 諸国郷村高帳・国郡諸城の図作成 ↓ ↓ 背負う補部詞漏・・・証輔、武士の労 と 「ジョン・万次郎=中濱万次郎=字ヨム・萬字 賂胡 ↓ ↓ ↓ ↓ 蒔読む・卍 ロウ ↓ ↓ ↓ ↓ 巻 肆 真務治 Low(安い・低い・卑しい) ↓ ↓ ↓ ↓ 漢 史 真務字賂得 環 視 万事 漏 干 死 万死 糧 諫 止 万治 労 万治(1658~1661) ↓ 大雨大洪水・大火事=凶作 ↓ ↓ ↓ ↓ 漢 詩 満耳 漏 Law(法) 生者必滅の掟・・・the law of mot-ality Row(歯列・列・行) Row(漕ぐ・騒動)」 である。彼等は「蝦夷地=北海道」と言う場所にも共通項を有している人物である。 とにかく「John 万次郎」が注目されて日米双方の人々から人気を得ているのは小説、書籍もさることながらインターネットのドメインの多さを見れば歴然としている。「ジョン万次郎」と言う名は「井伏鱒二」の小説(ジョン万次郎漂流記・1938年直木賞)で使用されてからのモノであるらしい。 井伏 鱒二(いぶせ ますじ)、本名満寿二.1898年二月十五日~1993年七月十日没。広島県深安郡加茂村に生まれ広島県立福山中学校卒業。 ↓ 井=セイ・ショウ・い・ゐ・いげた=本来は「丼(タン・トン)」で井は枠で点は釣瓶 「どんぶり」は井戸に落ち込むモノの音 厚手の陶器の鉢 丼は職人の腹かけで、 前かくし、臍(毘)、キン(近・今)隠し 伏=フク・ブク・ふせる=イ+犬・・・人の狗 鱒=ソン・ます=魚+尊・・・・・・・・・真名を問う途意 ・・・・・・・・・ます(升・桝・舛・増・Mass) ↓ ↓ ↓ よみ ↓ タ+ヰ=他意 ↓ 国字で相撲、芝居の観覧席の仕切り 二=ジ・に・つぎ・つぐ=弐・似・・・・ジ=字・事・治・示・辞・次=氷+欠 ↓ ↓ 二心・疑う ならび・くらい・とき・やどる・あいだ・うち・たび 並び ・位 ・ ・宿る ・間 ・中 ・度 楢美・句羅意・説き・夜斗留 奈良備 「井の伏、鱒の二」の漢字の示唆を踏まえて思考してみよう、か・・・ナっ、「萬次郎」君=「万字弄」訓(クム・組・汲・酌・句務)を。 以下は例の古本屋(大須観音・交番前)で百円で手に入れた「中浜博」氏著の「私のジョン万次郎(1991年小学館発行)」を参照抜粋しながら例のごとく、尾張藩(名古屋)に多くの弟子がいたらしい本居宣長が研究刊行したと言う「古事記伝(1778・安永七年)」の原本らしい「現存・古事記(712年?)」を考えていきたい。ちなみに新井白石は(1725・享保十年・乙巳)に死んでいるが「現存・古事記」をみたのであろうか・・・ 文政10年(1827年)1月1日 「ジョン万次郎」こと「中浜(中濱)万次郎」は四国の土佐「足摺岬」に近い小さな漁村、「中の浜」で漁師の子として生まれた・・・四国の「足摺岬」である。既に「足摺=足+手+習」の地名由来は「百人一首」の処で述べたが、古語辞典(旺文社)には「伊勢物語(六)」の 足摺をして泣けどもかひなし や、「万葉集(五・九百四)」の 立ち踊り足摺り叫び伏し仰ぎ が例示されている。物語を踏まえれば、その意味は「孤島に置き去りにされ一人ぼっちにのこされて地団駄フンで泣き叫ぶこと」だ。そして、ワタクシにとっては「足(あ・し)」の同音異字と、「ア・ジ(阿字・味・鯵・鰺・庵治)」の重なる暗示の、 按字、 按志、 安子・・・あんず=杏子・案図 晏子(晏嬰・晏平仲・莱=ライの夷維の人)、 阿志 である。「万次郎」の時代を考えれば「阿志」とは「阿倍(正弘)の志」だろう?・・・「按志」ならば「三浦按針(ウィリアム・アダムス)の志」である?古代ならば「阿倍仲麻呂の志」で、同時に「阿倍皇女=孝謙天皇・称徳天皇」の志である。そして、「隋書(倭)人伝」の「阿毎王朝」の「多利思比孤・阿輩鶏彌」と、その太子「利歌彌多弗利」の「志」である。 大体からして「隋書(随所・随処)」をヨコシマに読めば、 「阿毎=阿倍=海部・海士・海女・尼・阿媽=中国内で外人に雇われている中国人の女中」、 「多利思比孤=多くの利(理)、孤(孤児・孤独・孤国・孤負・孤臣)を比較して思え」、 ↓ ↓ みなしご 背く・違背 コジ=故事・古事 「阿輩鶏彌=阿倍の輩、計見」、 「利歌彌多弗利=歌の利(理)、見、多くの振り」 である。妄想をタケレバ、「隋書(倭)人伝」の改竄、改鋳、会稽である。その犯人は唐人官吏となった図書館長の「阿倍仲麻呂」である・・・?・・・唐人となった「阿倍仲麻呂」は孤独だったのであろうか?・・・孤臣であったのカモ。だが、日本語を話す妻子や日本人の友人、同僚は居なかったであろうか?・・・イタはずだ。勿論、その子孫も・・・。 阿呆鳥の「島人」となった「ジョン・萬次郎」にも仲間はイタ。「鳥(bird ・πουλι=ギリシャ語はプリ、日本語は振りか、付利・不離・降り・鰤=魚+師)」がヤケに記録されている「古事記・日本書紀」ではあるが・・・大雀とは 仁徳天皇 ↓ 大鷦鷯(ダイショウリョウ)・・・鷦=さざき・さざい・巧雀・女匠・桃虫・韈雀・ 鷦鷯巣於深林不過一枝(荘子・逍遥遊) ↓ 渉猟諏、措いて、親臨付会知恵 鷯=みそさざい・刀鷯(よしきり・吉原スズメ)・鷯鶉(うずら) 大雀(ダイジャク)・・・・・・・・・廼事役・対字訳 ↓ おほさざき=於、補佐、座記 ↓ 大作詐欺 であった。 仁徳天皇の子供に「允恭(雄朝津間稚子宿禰=男浅津間若子宿禰)天皇」がおり、その「允恭天皇」を父親とし、母親が「忍坂大中媛」とする子供に仁徳時代(聖帝の世)を壊す古代戦国時代の発端とも言うべき 「第二十(弐拾・念)代・安康(穴穂)天皇」と、 「第二十一(弐拾壱・念拾壱)代雄略(大泊瀬幼武=大長谷若建)天皇が存在した。 ↓ ┏ ・・・はせ・ ↓はじ・はせ・はぜ=枦・櫨・鯊=+八+亅+ノ+魚 ↓ 鯊=水+少+魚 ↓ 水少のマナ(摩名=高山名) ↓ 水晶の真名=crystal=石英 ↓紫水晶・紫石英=amethyst ↓アメシスト=ギリシャ神話 ↓ダイアナの使い女 ↓酒の神バッカス配下の ↓虎(ピューマ)に襲われて ↓紫水晶になった乙女 ↓紫水晶は酔い止めの御守り(mascot) ↓亜米史棲人(アメシスト) ↓阿女治州都=阿毎の示国都 ↓ 阿倍=水将の真名=比羅夫 ↓ 隋の纂、ハの引掛ノ真名 ↓ 枦・櫨は国字 木+戸(木戸孝允?) ↓ 孝允=十一の子、ヨコシマ(ム)人(儿) 「安康(アンコウ)」の同音異字とは「魚(ギョ・まな・さかな・うお)」の 「鮟鱇(アンコウ)=魚+安(アン) + 魚+康」・・・康煕字典 ↓ ↓ ↓ ↓ 真名の 行、 胡緒のヤスシ(たのしむ) で、「体(カラダ)が平たく(併託・標拓)、頭と口(当行)が大きく、ウロコ(鱗=リン=麟=臨)が無い(名意・那意・那依・内)」・・・暗号・・・ 暗號=ヒ(日=Sun=サン=纂)の音(立+日)、号(口+丂)の虎 ↓ 號=虎がホエル(吼・吠・咆)・・・ぁ、ホエール(a whale=鯨)? 鶏が鳴く whale back=甲板 叫ぶ・歎く・称える・言いふらす 名・名称・国号・呼び名・別名・雅名・おくり名・噂 合図・記号・命令・号令・順位、等級を示す 号(口+丂) ↓ (コウ)=内に結ばれている気が口からアフレ出る ことを示す字。 悲しみのタメに泣き叫ぶコト は万(萬)に類字 とら=寅(イン=印・允・蔭・引・韻・音) タイガー(Tiger)=台賀亜・他意臥亞 ジャガー(Jaguar)=邪賀亞・字也臥亜 コウガー(Cougar)=甲賀亜・康臥亜・府中賀阿 ピューマ(Puma)=比喩馬・比喩魔・比喩摩(山) 寅(イン=IN=中 Inn=宿) ・・・「虎・トラ・トラ」の「暗號」の「ぁ、ホエール(a whale=鯨)」である。 「鮟(アン・魚+ウ+女)」は、 「なまず=鯰(ネン・魚+念) =鮎(デン・あゆ・魚+占)」 の異称だが、「鮟鱇」は琵琶の形に似て「琵琶魚」とも言われるソウダ。「魚(ギョ)」の同音異字は「制御・制禦・禦者=馬丁」の「ギョ=御・禦」である。「漁色(ギョショク)」の意味は「女色(ギョショク)をあさるコト」である。「おんな(音名)のいろ(意賂)」ではあるな。 「国家安康」、「君臣豊楽」とは徳川家康が「方広寺」大仏殿の鐘銘文、棟札にイチャモンをつけ、大坂冬の陣、夏の陣発端の銘文の文字である。この「梵鐘」は三条釜座の鋳物師、「名越(名護屋)三昌」らによって慶長17年・壬子=ジンシ(1612)に、制作されたそうである。地震で崩壊した方広寺は1609(己酉=キユウ)年に再建開始、1914(甲寅=コウイン・キノエのトラ=虎)年11月大坂城の攻防。 ・・・前年の1913年(慶長十八年・癸丑)八月には英国使節「ジョン・セリーヌ」が駿府で家康に謁見しイギリス国王「ジェームズ一世」の書簡を呈した時期であった。 1599(己亥=キガイ)年に勅版「日本書紀」出来る 1600(庚子=コウシ)年に関が原の戦い。 三月「ウィリアム・アダムス」豊後に漂着 1601(辛丑=シンチュウ) 1602(壬寅=ジンイン) 1603(癸卯=キボウ)年に江戸開幕府 1609(己酉=キユウ)年に方広寺再建開始 1612(壬子=ジンシ)年に梵鐘製作 1613(癸丑=キチュウ)年に英国使節「ジョン・セリーヌ」 1614(甲寅=コウイン)年に大坂冬の陣 どうあっても幕末の「ジョン・万次郎」と、家康の顧問になった「ウィリアム・アダムス=三浦按針」には「英語辞典・英和、和英字典」と「漢和辞典」が必要だと思うのだが・・・ツイデ(序)に干支の片仮名を同音異字に転換して欲しい。 ところで、「現存・古事記、日本書紀」に於ける「葦原中国」の「アジスキタカヒコネ」は、漢字=真名仮名では 味耜高 彦根命 ↓ 彦根藩の命=井伊直弼(桜田門外の変・1860年・万延元年三月) ミジコウ・・・・・・・・・・見事項・視字項・短じこう 未治府中(こう・駿府)=未だ治まらず府中 ↓ 三字扶註 讃辞府中 惨事不忠 ミシコウ・・・・・・・・・・・味嗜好・壬試行・未思考・深四港・未施行・未施工 ↓ 耜(シ・ジ)・・・・・・・・・すき=鋤・鍬・数寄・数奇 ムチ(無恥・無知・鞭・笞=竹+台=筑紫の台) アジシキ ↓ 味師木高比古根命 阿遅志貴高日子根 阿治志貴高日子根 と記され、この神は「葦原中国=出雲・長州藩(聴衆・徴集・兆周・重周)=毛利藩=モウリハン=望離反・模売吏版」に派遣され、その地で懐柔されていた「天若日子」が「天孫族」に殺された時に登場する。しかも「天若日子」の両親親族が見間違えるほど「阿治志貴高日子根」と瓜二つに似ている神であった。そして「阿治志貴高日子根」は死んだ「天若日子」の両親(天津国玉夫婦)に間違われたことに怒り、「アジスキタカヒコネ」は「天若日子」の喪屋を「大量=神度釼(シンドケン=秦土巻=漢土巻=震旦本=漢籍)」で切り伏せて壊し、美濃国の「藍見河」の川上へ蹴っ飛ばしてしまった(蹶=足+厥)カミであった。「厥(ケツ・カチ・クツ・掘る・暴く・垂れる)」は六~八世紀に活躍した「突厥(トッケツ・トルコ=土耳古族の一)」である。 足・・・・・タリ=王・帝王・皇帝・頭領 厥・・・・・ケツ=突厥・・・・類字は「蕨(わらび)」 土耳古=十+一+耳+十+口・・・・・トルコ そして「重周」とは大陸中国王朝の「重る周」である・・・「則天武后の周」?・・・この物語の示唆は何か?・・・「天津国玉命」と言う人物はその名前から素直に考えれば「天津国=大陸中国天津・添清」の「玉=王」である・・・そして「天津橋」とは「煬帝・隋王朝のシンボル」であった。「古事記」に記されている「隋天神・隋命」は「レ点無し」でヨンだらどうか・・・ 「アジスキタカヒコネ」と「天若日子」だが、生きている人間(活人・生人・政人?)と、死んだ人間(屍・死人・私人?)の区別、しかも容姿が相似て、生前の二人の関係は「愛(ウルワしき=得る和史記)友」であった。 ・・・何故か漢和辞典(大修館漢和辞典・昭和五拾五年四月一日=April fool=肆・四・葉月バカ発行)の「雨」の説明文の意味に「友人」とある・・・April shower ( weather )とは降ったりやんだりの雨天・泣き笑い・・とあるが、日本語的に言えば「キツネ(狐・fox・アレプ=αλεπου)の嫁入り」の日が照っていても雨がフル天気だろう?・・・多分、七色の「にじ(虹)」も出て視えるよ・・・二児=双子(ふたご・ソウジ)の叢字、総字の相似は二字で、弐の次は「サン(参・纂)」ではあるな。エッセンシャル英和辞典(旺文社・昭和十五年壱拾月壱拾日初版発行)には Apriori とか Apriority とかは単語( April )の次ぎに並ぶ単語だか・・・先天的とか先験的で・・・原因より結果への演繹的推論だな。すると更なる次ぎの単語は Apron で,禦者の雨よけの前掛け、坊主のひざ掛けで、膳夫(かしはで)・膳部(かしはべ)のエプロンと言うわけだよ、タカハシくん。まさにハラを抱えての「なきわらい(名・記・和・羅・意)」だぜ。「apropos」か、どうか、は、ネッ・・・Apropos of dogs・・・「イヌ(スキロス・σκυλοs)」か・・・僕は幼いころ貰って飼ってたイヌにヤツアタリしてイジメタけれど、君のイヌには優しく大切にネッ。 偽物(穢き死人・詩人・士人・私人)を「美濃」へ追いヤッタ、と言うことだろうか。あるいは本物(穢き死人)を「美濃」へ蹴っ飛ばして追いヤッタ。「死人=屍(しかばね・カバネ)」は「臣・姓」も「かばね」と訓む・・・似ているが「生死(セイシ=正史・正視・正使・誓詞)」を区別するモノ・・・セイシ(施医師)?・・・「西施」とは中国春秋時代の「越」の傾城の美女であったが、この「西施=西子」の病になって胸に手をあて、シカメ面する仕草がファッションになった(西施棒心)とは「荘子・天運」に記されていることだが・・・「西史(西洋史)」の「棒心」ではないのか・・・シ・カ・メ・面をするのは「セイシ」を真似るオンナである。「葦原中国」から「美濃」へ蹴っ飛ばした「天若日子(典字訳の秘詞)の喪屋(模耶・模哉・靄=雨+謁=雨+曷)」とは何か?・・・「謁(エツ・エチ)」とは「名札、名刺、告げる、まみえる(拝謁)、訪れる、もとめる(請求)、取次ぎ」と漢和辞典には記されている。「雨(ウ・あめ・あま)に謁(エツ・取り次ぐ)」、「羽越(ウエツ)」とは奥羽、越前、越中、越後であるが、「靄(もや)」とはこの地方の旱魃、飢饉の時の「雨乞い」であろうか?・・・「もやい(催合)」、「もやう(催合)」は共同で事を起こすことだ・・・江戸の「天明(1781~1786~1788)・天保(1831~1837~1843)」の飢饉・・・「一揆」である。 「天保十二年(1841年・辛丑=シンチュウ)」の「一(壱・睦・丑)月五日」とはジョン・万次郎が「鳥島」に遭難した年であった。しかも、この年の七(漆・文・未)月七日の七夕祭りは奢侈を禁止されたのだ。 ・・・で、神の同母妹である「高比賣命(請う比較、陪名)」はこの事件の彼「アジスキタカヒコネ」を讃えて歌った歌は 「夷振り=ひなぶり・・・斐名分裏・・・鄙振り・・・雛型=見本・手本・模型 =比名振り =イブリ=胆振・意振り=燻る=炙る・焙る =蝦夷の振り =エゾのフリ・重蘇の振り =絵措の地名振り・・・松浦武四郎の蝦夷地名の振り =重蘇のフリ」 であった。 日本語 万葉仮名 万字路胡 邪馬台国 ↓ ↓ ↓ ↓ 天なるや・・阿米那流夜・・・・・亜米利加の国に流れ与けられ、 阿毎の那は夜の流れ 海人の那は夜空の星座の流れ 弟棚機の・・淤登多那婆多能・淤於= +於=纂隋に於ける 預斗、於図、多くの国の婆(波+女=葉音名)、
多能 算に於いて、由宇由宇の国に登り、言葉は多能 泥土に有結うの国に登り、那美の海女、多能 うながせる・宇那賀世流・・・・・国の四方の果ての国々の世の流れ 宇受女の国、加える女の人の世で流れ 促がせる 玉の御統・・多麻能美須麻流・多く字(麻)の能美は鬚(須=彡+頁)の字の流れ 多くの摩の能美は、磨の流れを求(須)める 御統に・・・・美須麻流邇・・・美を求め、字の流は邇言(解かり易い) 美の求め、字の流れは爾(なんじ=何字)を進める 美しさ、すべからく、月の磨(麻)の流れに 邇来(爾来)すべし 穴玉はや・・阿那陀麻波夜・・・オモネル(阿)国、険しい字の葉は闇夜のごとく 阿国(出雲)のナナメ(陀)はマナミ(麻波)の夜 阿毎の国の陀(邑+ウ+ヒ)、摩の那美は夜 み谷・・・・・美多邇・・・・・美しい多くの字は邇言(爾を運ぶ) 美しい多くの爾来 二渡らす・・布多和多良須・・・布告の多さは、和の多くを求めるに良し ふたたび来航す 多くに分布させ、多くを和親、求めるに良し 阿治志貴高・阿治志貴多迦・・阿の治めるこころざし、問う説き多く、加え進む 阿毎の政の治、こころざし訪う時、多寡 日子根の・・比古泥能・・・・彦根の能・比べる古の纂の髄の海部の能 「能」は 「三本足の亀(カメ)・足が鹿(シカ)の足に似た熊」 「参本の則(足=十)の記(亀=キ=穐=禾+亀=鬼)」 「纂本の亜詞はカメ(日目・鹿目・蝦女=蝦夷の女)」 タリ(足)は王(鹿)、タリ(足)はクマ(能) 卑の拠、奴の路をアタフ(能=熊=球磨・隈・久万) 神ぞ・・・・迦微曾也・・・・・迦(出会い)は微(かすか)に曾(かさねる)=スナワチ 加え、進み、微(卑しい・秘密)の曾孫 で、この「アジスキタカヒコネ」は大国主のまさに危急存亡の時には登場してこないのである。忿(分+心=ブンシン=分身・文審・文秦・文晋・文清・文信)=怒って飛び去り、その後何処へ行ってしまったのか?・・・「葦原中国」は大国主と息子の一人「八重言代(事大)主」は服従し、もう一人の息子「建御名方」は信濃(科野)国の諏訪(州羽)に逃げ込んでしまった。 八重ー言代=現代・元代・原題 事大=時代・字替・字他意 建ー御名方=立てる女の方 =たてる音名の方 四国の「足摺岬」・・・アシ(足=口+ト+人)の手習い(摺=手+習)を参考(岬=山+甲)・・・ 治承元(1177)年、「僧都・俊寛」は「鹿ヶ谷の陰謀」-「後白河法王」の密命により平家打倒を画策し、「平清盛」の怒りにふれ、「丹波少将成経・平判官康頼」の2人とともに「鬼界ヶ島」へ流罪となった。翌年、「高倉天皇」の「中宮徳子」の安産祈願の大赦が行われ、俊寛らの待つ鬼界ヶ島へも赦免の船が出されるが、清盛に憎まれた「俊寛」の名前だけがなかった。乗船を願う俊寛をおいてけぼりに、赦免船は沖へ・・・一人ぼっちになった「俊寛」は・・・足摺(足磨・足摩)・・・北緯32度43分24秒、東経133度1分12秒・・・その北西に「宿毛(すくも)」、西には「母島の妹背山」があり、姫島、母島の南に沖ノ島。結構地図上に散らばっている「沖ノ島=隠岐島」とは流刑地の示唆であろう。横島・・・「宿毛」の西は「愛媛の横島⇒大分佐伯の横島⇒阿蘇山⇒熊本の横島⇒長崎の諫早⇒中国大陸の会稽」の存在である。 父「悦助」は万次郎が9才の時に病死、兄の時蔵は病弱で一家を支えたのは母の「しほ(潮・汐・塩・志雄)」で、幼かった万次郎は庄屋に米つきの手伝いなどをして家を助けていた。 天保12年(1841年)年1月5日 14才(数えで言えば13歳)の万次郎は西浜「宇佐浦」で、 スズキ(鱸=ロ・淡水魚・ ↓ 幼魚(せいご)⇒生長魚(ふっこ)⇒成魚(すずき)の ↓ 成魚=成る真名) ≠すすき=芒(日下+亡)=鈴木・珠洲記」 ↓ 煤記・楳記・梅記・・・梅里(徳川光圀)の記=大日本史 ↓ 光圀の学芸振興=水戸学を起こす。 この学芸振興で藩の百姓、領民の年貢負担を 「八公二民」とし、領内では一揆、逃散が頻発。 1674年(延宝二=仁=弐)年には、 父方の祖母お万の方、准母お勝の方の 三十三回忌供養で鎌倉に詣で、 その期間の日記のタイトルを 『甲寅(コウイン・キノエのトラ=虎)紀行』、 『鎌倉日記』とした。 1679(延宝七=漆)年 名を光国から「光圀」に改める。 1683(天和三=参)年に改名の説あり。 1684年=甲子革令で改元(貞亭元年) 1690(元禄三=参)年 63歳 10月14日に隠居。 翌日、権中納言。 1700(元禄十三=壱拾参)年 73歳 西山荘で死没。 贈位 1832(天保3=参)年3月5日、従二位権大納言 1869(明治2=弐)年12月25日、従一位 1900(明治33=参拾参)年11月、正一位 を捕る船に乗り組んだ。「鱸=魚+盧=すずき」は「淡水魚(浅海魚)」であるから「魚の生息場所」は「魚の成長過程」で違うのだ・・・とにかく、「水戸黄門」との関連がわかってもらえるかな?・・・「大日本史」のタメに「一揆・逃散」を起こさせてしまう領主が「天下の副将軍・葵の印籠」を見せびらかす「水戸黄門(宦官)」だったのだ。物語の主人公は事実と裏腹の人間像を願望した水呑み百姓、長屋に住む下層日雇い職人・工人、宿場下層住人の幻想だったのだ。だが願望を託す根拠はあったコトにはあった・・・・・・ケモノヘンの干(カン・ひ)である。 いぬ ↓ 犬=ケン 戌=ジュツ =(豸+干)=カン 狗=ク 生類憐れ身の令(1687・貞享四年~1709・宝永六年・流人・入牢者3800人の釈放)からの「解放」である。だが実行したのは徳川家宣側近の「新井白石」であった。 仲間は5人で、その中で「万次郎」は最年少だった。 出航して3(参)日目の「一月(正月・睦月)七日(漆日)」、嵐に出遭って漂流し、14(壱拾肆)日目にアホウドリ(阿呆鳥=信天翁)の棲息する「鳥島」に漂着上陸。 「鳥島」は本土から八丈島への距離の2倍以上もある小さな「火山島」である。この島に辿り着いて約5ヶ月後この島の近くにやってきたアメリカの捕鯨船「ジョン・ホウランド号」のホイットフィールド船長に救助。船はハワイ=サンドゥイッチ諸島(現.ハワイ諸島)オアフ島のホノルルに寄港して、他の4人はハワイに残り万次郎は船長に従いアメリカ(アメリカの独立宣言は1776年七月四日・十三州・1777年6月星条旗制定)へ上陸(1843年)、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州・ニューベットフォード)へ渡った。万次郎は「フェアヘブン(Fairhaven・定期市の港・公平な安息地・天国・極楽)」の船長の家族と共に生活をする。 万次郎は、船長によって学校に行かせてもらい数学、航海術等、高等教育を受けた。もちろん、「米国語」も。 時代は黒船ペリー艦隊が日本に来航する前年であった。 万次郎の帰国後、土佐藩の絵師、河田小龍が万次郎と生活、その中で小龍が西洋事情を聞き書いたものが「漂巽紀客」であった。小龍はその西洋事情を坂本龍馬に話していたらしい。その知識で龍馬は商社「亀山社中」を長崎(おさざき=訳語座記)につくったらしいのだが・・・。 万次郎は代官「江川太郎左衛門」のもとで蒸気船を造ったりするうち、幕府直参にとりたてられ、許されて「中浜(中濱=チュウヒン=註品)」の姓を名乗った。その一方、有名な「ボーディッチ(姥有出委地・模緒出一致)」の航海学書の翻訳をしたり、アメリカ語会話書 「亞美理加合衆国航海学書」・・・アマネシ、ウツクシイ、 ↓ 阿毎子史、有筑紫四囲 理 加 合 衆 国 航海学書 ↓ 理を加え合わせる衆の国の更改学書 「英米・対話・捷径(ショウケイ=近道)」・・・ハナシベ、コメ、タイワ・ショウケイ ↓ 噺し部、込め、大和、承継 を作ったりした。「捷」は「ぶんどる=略奪・勝ち戦=聞採る・分採る・文採る・蚊捕る」であり、「捷径」とは「必ずしも正道によらない手近な方法・早道」である。 安政4年(1857) 万次郎は軍艦教授所の教授に任命された。 「中浜博」氏著の「私のジョン万次郎(1991年小学館発行)」には万次郎が示現流、居合い抜きの達人「岡田以蔵」に護衛されていた、と記している。当時の水戸学派=尊皇攘夷からみれば暗殺されるべき国賊が万次郎であった。そして「岡田以蔵」と同名異人の「岡田井蔵」が咸臨丸の教授方手伝(機関士)として万次郎と渡米した(安政七年・1860)、とある・・・「アジスキタカヒコネ」と「天若日子」とダブっているように思われるのだが・・・? 万延元年(1860年)・・・井伊直弼の暗殺・・・言い直すケ(懸・卦・掛・毛・家) 万次郎は遣米使節の通訳として、木村摂津守・勝麟太郎(海舟)・福沢諭吉らと「咸臨丸」で渡米。 この渡米に於いて帰国時に「ミシン(縫製機械=マシン(麻疹・摩審=高山を審査せよ・摩人・魔人・間人・真人))・カメラ(写真機=「三本足の亀(カメ)?」)・ブック(書籍・叢書・本)」等を持ち帰った。その本類の一は、 ウェブスターの英語辞書 であった。 その後、万次郎は薩摩藩主島津斉彬に呼ばれて鹿児島に行き、海軍開成所で航海術等を教え、また長崎では後藤象二郎らと土佐藩のため「上海(申)」へ船の買い付けに出向いた。 明治にはいると「東大」の前身である「開成学校」の教授に任命された。 明治3年8月 「普仏戦争」視察として「大山巌」と共に洋行。プロシア=プロイセン=普国・・・中国晋国とはその「晋書・武帝紀」に記されている「倭人」が使者を派遣した(泰始年間265~274)中国王朝であった。また姚思廉の「梁書」には「晋の安帝」の時に「倭王の賛(讃)・弥・済・興・武」のことが記されている。 明治31年11月12日・・・明るく治める参拾壱撚、壱拾壱解通、壱拾弐比 脳溢血のため71才でその生涯を閉じた。 万次郎は帰国後、時の老中主座(大老に当たる)「阿部正弘」に召され、アメリカ(米国)の先進文明や国情についての事情を披露した。 1854(甲寅=コウイン)年3月31日 「日米和親条約」締結 万次郎は勝海舟(麟太郎)・坂本龍馬・福沢諭吉・後藤象二郎等と交際し、英語を教えながらアメリカの先進知識を紹介した。
西暦年齢略記事
1827 文政十年0土佐の国幡多郡中浜村谷前の漁師、悦介・母汐の次男として生れる。
1840139才の時父死亡、10才で、中浜浦老役、今津嘉平宅の下働きに出る。
1841 天保十二年14正月5日宇佐浦から筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門などと出帆、足摺岬でのアジ、サバ漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島(鳥島)に漂着、わずかな留水と海草、海鳥を食して143日間も生きながらえる。
1841 184215 16米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受ける。 漂流仲間とはホノルルで別れ、万次郎1人捕鯨船員として、太平洋へ乗り出す。
1843 1844 184616 17 19ニューベットフォードに寄港。船長の故郷マサチューセッツ州、フェアーヘブンに帰港。 オックスフオード校(初級)。スコンチカットネックスクールで学ぶ。 バートレット専門学校(上級)で、英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受ける。
1846 184919 22米国一流の捕鯨船フランクリン号の航海士として乗船し、大西洋から喜望峰をまわり、インド洋、更に大西洋での捕鯨航海へと、文字通り「7つの海」をかけ巡る。グアム、ホノルルにも立寄り、仲間と再会する。1848年7月一等航海士副船長となる。
185023アドベンチャー号を購入し、伝蔵(筆之丞)、右衛門の3人で母国へ帰る便船、サラボイド号の人となる。
1851 嘉永四年 24沖縄本島(琉球国・天摩文仁海岸、間切小渡浜)に上陸。
1852 嘉永五年25那覇-翁長-島津藩鹿児島-長崎奉公所(白州での尋問18回に及ぶ)土佐藩主山内豊信公の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受ける。 実に11年10ケ月ぶりに中の濱に帰着。母汐との再会がかなう。(わずか5日間)
185225土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。 この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。
1853 嘉永六年266月3日、ぺりー艦隊の第一回来航 老中首席阿部伊勢守からの召喚状が土佐藩の万次郎に届き、江川太郎左衛門の手附(秘書位)を拝命に、ご普請役格としての「幕府直参」となる。 この時、生れ故郷の地名を苗字として「中浜万次郎」を名のる。
1854 嘉永 七年 1855 安政二年 1857 安政四年 28 30洋式船建造開始 安政2年(1855)わが国最初の航海学書・年表(アメリカ合衆国航海学書)を筆書し、つづいて安政6年に英会話書(英米対話捷径)を編集する。 ●西洋型帆船を伊豆で建造(直接指導)に当る。 ●安政4年4月、軍艦教授所教授を拝任 ●安政4年10月、捕鯨術教授のため箱館へ出発 (箱館奉行所与力次席) 捕鯨伝授の為、函館へ赴任
1859 1860 安政七年 1860 万延元年 32 33日米対話捷径を著作 批淮使節団の一員として、浦和港から「咸臨丸」に乗り組む。艦長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎他総勢96名、後の慶応義塾大学長福沢諭吉(当時26才)も同行し、共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。 井伊直弼(桜田門外の変・1860年・三月)暗殺
1861 文久元年 34 35●外国奉行水野筑後守忠徳に同行し、小笠原諸島(父島、母島)の調査と図面造りをする。 小笠原諸島で捕鯨を試みたり、薩摩藩・土佐藩の船舶購入に漢詩助言を与えたりした。
186437●文久2年7月(1862)妻鉄病死(病死)
1866 慶応二年39●薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授する。土佐藩主山内容堂公の依頼により、後藤象二郎等と藩校「開成館」の設立に寄与する。また二人は上海に渡り、土佐藩船を購入する。
1866 明治元年 1869 42土佐藩に戻る ●明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり明治3年には、中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立つ。
187043●普仏戦争視察の一員として、ヨーロッパ出張。
1871 ~ 1898 明治三十一 年44 ~ 71●ロンドンから帰って間もなく、軽い脳溢血を起して倒れ、程なく全快するが、以後政治の全面には出ず、波乱万丈の半生に比べて誠に静かな晩年を送る。その間、中浜にも数度帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞った。 ●東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山・医・学校・教授)宅で71才の生涯を終える。
明治31年とは・・・「明るく治める参拾壱撚」で、「明示、銘字、名字」の「纂を拾う意の知の値の務」かな? 年表は「土佐(十+一+イ+ナ+工=拾う壱の人は名のタクミ) ↓ 清水市のHP・ジョン万次郎の歴史」をお借りし、 ↓ ↓ ↓ 清=+主+月=サンズイのアル字はジク ↓ 水=>+亅+<=句の逆を釣るカギの句 ↓ =ゝ+亅+く=典の鍵の句 土=十+一=壱拾壱=重一 佐=イ+左=イ(ヒト・比図)はヨコシマ(横島・横嶋・邪) 中浜博氏の著作年表を参考にし、ワタクシが勝手に余分なモノを加えて記しました。「文字学の学問上」のこと、アシカラズ、ご容赦下さい。