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「価値=價値」とは・・・何か?


       「価値=價値」とは・・・何か?         價値=人+襾(西)+貝(目人)+人+L(乙)+ナ(十)+目  價値・・・あたい・値段・価格・ねうち・資格・評判・・・價=イ+賈(商人・あきんど)     ・・・人間の欲求を満足させる物事に対して認められるねうち     ・・・「襾=一+凵+冂」・・・ア・カ・ケ・・・覆い被せる  「價値」は漢字分解では人が暗箱(一+凵+冂)の中に入れている「貝=おかね」であるようだ。「おかね」の意味が覆い隠されているらしい。「襾」は「西」にも似ている。よみが「ア・カ・ケ」で、「亞(亜)化気」や「銅気・閼伽気・垢気・赤毛」、「蛙化気」だったりなんかして・・・「値=イ+L(乙)+ナ(十)+目」の「L(乙=イツ・オツ)」は、かがまる、まがる、第二番、魚(まな)の腸(はらわた)、魚(まな)の鰓骨(あごぼね・えらぼね)、そして「燕(つばめ)=乙鳥」である。  魚(まな)の腸(はらわた)・・・腸=肉(ジク)の昜(ヨウ・ヤウ)=太陽                  ・・・昜の漢字は「易(エキ)=カエル・交換」に類字  魚(まな)の鰓骨(あごぼね・えらぼね)・・魚(まな)を思う、ホネ(補音)  なるほど、「まな(真名)」は漢字のコトで「真名仮名」である。ここでは「真名」は文字コトバで漢字である。そして、「仮名=假名=仮字」は「仮の文字コトバ」である。人間が実体の有る認識対象物に与えた文字コトバである。だから対象物そのものではない。対象物に意味を与えた「コトバ=字形→仮名(假名)=イ+反(・厂+又)+タ+口」である。カメイならば「課名(割り当てた名)」か「科名(科挙に及第した呼称)」で、類別、区別、分類された名前である。「課程は物品に対する税金の程度」で、「課税は割り当てられた税金」である。「価名」ならば「あたえられた名・アタエの名・ネウチある名」で、「値段・価格」である。  仮=人+反(くつがえす・かえりみる・もとに戻す)    =イ     +     厂(カン・ガン・がんだれ・がけ・いわ)     +     又(ユウ・ユ・みぎて・さらに・ふたたび・たすける       おなじく・ならびに・しかしながら       又貸し、又聞き)  L=(乙=イツ・オツ)     ↓  まな(真名)+はらわた(腸=肉+昜)・・・文字の「はらわた」とは意味内容である  まな(真名)+あごほね(鰓=魚+恩)・・・文字の「あごほね」とは音声である  L=乙(イツ・オツ)の変形漢字=L(鈎=カギ=科技=亅)・・・類字は「し・ι・レ=欠」  L=乙(イツ・オツ)とは、結局「まな(真名)の釣り針(L・乙)、鍵針=金建+金十」で、「金を建(定める)」と「金の十(重ねる)」で「文字コトバの鍵」である。  漢和辞典の「仮借」のところには、  「音義を借りて用いる(号令をかける人物・・・県令・長官)」、  「同一の発音の漢字を借りて、その意味に用いる。燕=エン=宴(たのしむ)。仮=カ=暇(ひま)。  なるほど、「タケトリのジジイ」が竹の中から金を発見し、かぐや姫を得た「竹取物語」、その「子安貝」はツバメが持っているハズの宝だ。古代、貝は貨幣=おカネであった。ならば、「かぐや比売(ヒメ・毘売・姫・姫)」は「貨(幣)が具える哉(はじめ)=化愚也、比べ売り」だったり・・・「邪馬台国」の好きな私自身は「掛句夜秘=歌具耶秘」とか「可句耶(邪)秘」でも考えたいが・・・ここでは「価値」と言うコトバを考えて見たいから、「貨(幣)が具える哉=化愚也、比べ売り」としとこう。  「L(乙=オツ・イツ)」がアルファベットの「L(エル)=l(小文字のエル)=Л(パイ)=Р(ピィ)=р(小文字のピィ)」ならば、「L」の象徴は「Libra=天秤=はかり=Scale・重量の単位・通貨換算表・英国通過単位ポンド=£=12オンス」である。「l =Л=Р=р」は漢字的、象形的なイメージは、  l (いち・1)=ハジメ・ひとつ・イチ=位置=市  Л(キ・つくえ・几)=パイ=円周率=胚=牌(位牌・遺灰)=拝=配  Р(はた・旗)=ハタ=葉多・葉拿・秦(シン)=中国=支那=品  р(ピ・ビ・ヒ・比・毘)=比備費=秘卑備  であるなっ・・・  「L(える)」を発音でとるならば、日本語では「える=得る・選る・獲る=とる=捕る・盗る・撮る・採る・録る」で、「恵留・重留」かも・・・そして、「ウル(売=女=おんな=音名=怨拿)」かも・・・「金」の「價値」とは、「怨拿」はウラミをアワセルで、「恩納」は、恩い=「(原)因の心(知情意の本体・赤心・感情・意志・思慮・道理・意味)」をオサメル・・・なるほど、カネの価値は可知(知るべき)であるな。・・・「位牌」とは死者の戒名を書いて仏壇に祭るモノである・・・と言うことは、もはや遺骨、遺灰は埋められ、死んで存在しないヒトの名前と言うことだ。実体は存在せずに「名前」だけが残ったのだ。「麻雀牌」なら遊びの道具であるが「麻雀」とは「スズメ」である。ゲームを開始する時の「麻雀牌かき混ぜる音=雀のウルさい鳴き声」からの名前だろうが、同音異字ならば「錫(金+易)の目」かも。「麻(マ・あさ)」は「しびれる」の意味がある。「麻薬」の意味もある。確かに「金(おカネ)」はその社会的人間関係が創り出した観念的な最高級の「麻薬」ではある。  コトバとは第一に感知された実体の「象形・形象」に与えられる「具象としての思考化された意味=観念」である。「名詞」と言われるモノだ。「名詞」には「固有名詞」とか「普通名詞」がある。ようするにコトバとは「実体物」の分類化された意味の音声化、文字化された「観念」である。頭の中に浮かぶ図形、イメージも「観念」である。  ①「青森リンゴ」は「リンゴ一般」の    ↑↓特殊、個別な「②リンゴ」である。    ↑↓  ②「リンゴ」は「くだもの一般」の分類化された    ↑↓特殊、個別の「③くだもの」である。    ↑↓  ③「くだもの」は「植物果実一般」の分類化された    ↑↓特殊、個別の「④植物の果実」である。    ↑↓  ④「植物の果実」は「食べ物一般」の分類化された    ↑↓特殊、個別の「⑤食べ物」である。    ↑↓  ⑤「食べ物」は「モノ一般」の分類化された    ↑↓特殊、個別の「⑥モノ」である。    ↑↓  ⑥「モノ」は「この宇宙に存在するあらゆるモノ」である。  現実に実体を有し、「感知」できるのは「リンゴ」だけである。「くだもの」も「モノ」も実際には「実物存在」しない「コトバ」なのだ。「実物存在」するモノは「リンゴ」だけである。  「弁証法」とは「弁・証・法」で、「事物にコトバを与え、弁(分別・分類)=わきまえて」、事物のあり方を「コトバで証明する」、「方法=やり方」である。しかも、事物の対象理解を原則的にはある状況、環境条件の中での「五W+一H」のコトバの理路で説明せねばならない「論法」なのである。  5 W= ・誰( WHO )       ・何( WHAT )       ・何時( WHEN )       ・何処( WHERE )        ・何故( WHY )  1 H= ・どのよう( HOW )  そして、「唯物弁証法」には「止揚・揚機・アウフヘーベン」とかのコトバがある。事物の対象理解の更なる「高次元の理解」と言うコトである。  ①→②→③→④→⑤→⑥のプロセスで、何が「高次元の理解」が得られたのか?・・・①「青森リンゴ」が、単なる⑥「モノ」である、と言うコトである。⑥「モノ」とは、それ自体では存在しない、実体のない、観念的に抽象化された「一般名詞=コトバ」となったのだ。  しかも、⑥「モノ」は、①「青森リンゴ」ではない。⑥「モノ」とは「分類化され特殊個別化された実体、事物の、一般化された、抽象化されたコトバ自体」である。  コトバは第二に「実体の観念化=名詞化」されたモノに与えられる「形容詞=修飾観念」がある。  「形容詞」それ自体が「抽象的なコトバ」であり、実体、事物として存在していない観念自体の中で創り出されたコトバである。特に人間の「感情」を動かす「観念としてのコトバの意味」は何なのであろう・・・  「喜び」、「悲しみ」、「怖れ」、「怒り」、「怨み」、「諦め」  等のコトバは人間感情の「状態」を意味し、その殆どが「人体的な表面的な表情変化」を伴う「コトバ」である。しかも「よろこび」は「かなしみ」と表裏の「対」の「コトバ=概念」である。  「喜び」・・・笑い声・微笑の顔  「悲しみ」・・流涙・泣き声・嗚咽・しゃっくり  「怖れ」・・・顔のひきつり、顔色の変化・眼の瞳孔変化・声や身体の震え  「怒り」・・・顔のひきつり、顔色の変化・眼の瞳孔変化・声や身体の震え  「軽蔑」・・・眼、口の表情・薄ら笑い  「怨み」・・・眼の表情・無表情  「諦め」・・・無表情・溜息  これらの「感情表現・表情」はヒトがある事物、事件に遭遇し、その内面反応の状況によって外面的身体部分に「複数の表情が重なって」現れる。  すべてが「人間関係」での「感情を表現するコトバ」で、主観的な「心の状況」を説明するモノだが、「社会的人間関係=共同体」で相手の「感情的立場」と重なって「共有出来る、共感、共有するコトバ」でもある。またこれらの「感情表現」は「意図的」に「駆け引き=演技=見せかけ」にも利用される。  「社会的人間関係」で「感情的に共有出来ない、違和感の人間」が生じれば、「社会的人間関係=共同体」は混乱し、その人間は共同体からは「排除・遺棄」される場合がある。  では「感情」とは何であろうか?・・・  第一に個人の肉体的な「生存・実存」に直結して「生理的本能=食欲・性欲・健康機能」に反応する「快=不快」である。飢餓、性欲遮断抑圧、身体各部分の外傷、内傷の「生理的な苦痛」とその「快復」に反応するモノである。  第二に「家族、共同体の幸=不幸の出来事」に重なって共感反応するモノなのだ。  第三「自然の変化」そのものに対峙しても「個人の感情の起伏」は反応する。  その「感情の本質」とは、  「①個的肉体の感性的な快=不快の感知反応」であり、  「②個的精神の信条的立場としての好き(認・快)=嫌い(不認・不快)の観念的反応」である。  だが  「②個的精神の信条・信念」とは  「③人間共同体の利害観念=共同観念=共同規範=共同幻想=共同体構成員としての相互承認」が重なったモノである。  この「②個的精神の信条・信念=③共同利害観念=全体の存在利害」と「①個的で肉体的な実存の快=不快」とは「対立」する時がある。「③共同観念=全体の存在」は「①個的実存の存在=生存」を「否定し、犠牲を強いる」場合があるからだ。  その状況とは共同体内部での「疫病・流行病」によるもので、罹患した個人の隔離、排除である。そして、「共同体間の戦争」、共同体外部からの「暴力的攻撃、略奪、侵略」では自己の属する共同体の防衛を拒否すれば、その個人は排除、抹殺されるのが必然である。そして「③共同体利害の幻想=運命共同体」から「拒否」されると「②個的人間の感情」は自己存在の置き場を喪失したモノとして「恐れおののき、怒り、泣いて悲しみ、怨み、諦める」のである。「運命共同体から排除」されると言うコトは「共同体の構成員」としての対等であるコトの資格喪失なのだ。  そして「怖れと悲しみ、諦め」・・・「人間の実体としての死」が人間にとって単なる「肉体の消滅」でないのは「死」と言う「コトバ=観念」が「③共同体構成員からの最終的な分離・排除」を意味しているからだ。だから「個的肉体」が消滅しても「共同体の幻想」は共同体に回帰訪問する「死後のタマシイ=霊魂」なる観念も創り出し、その「霊魂の居所=天国・煉獄・地獄」をも差別して創り出すのである。  男女の関係に於いても、母子の関係に於いても、家族の関係に於いても、種族共同体に於いても、地域共同体に於いても自己の属する「人間関係」を拒否されるコトは「③共同観念=個的観念に刷り込まれた恐怖の共同幻想」なのである。共同社会に於いては「個的人間」はその生長に於いて「人間相互関係の段階的必要性」が問われるのだ。「段階的必要性」とはかって属したモノの保護、依存関係からの分離であり、新たな関係の始まりである。この段階では常に「不安、躊躇、葛藤の恐怖」がつきまとうのは当然である。共同体にとって「個的人間」は「最後の段階」では「使いモノにならない不必要な存在」となっていく。  だが、最後の段階で過去的に「必要」とされたモノと、「不必要」にされたモノに対する「③共同体からの評価と、蔑視、差別は歴然」である。  どの段階でも「不必要なモノ」とは「②共同体の特殊個別構成員」から「差別され、排除、否定されていくモノ」である。「共同体が要求する構成員としての各段階への教育と訓練の修了」であるからだ。そしてその段階を乗り越えたモノは「②共同体が必要とする新たな段階の特殊個別的な構成員」となっていく。乗り越えれなかったモノは役立たずとして「蔑視」され、「差別され、排除、否定され、時には抹殺」されていくのだ。  ③共同体全体=②個々の構成員=①個人の「悲しみ」、「怖れ」、「怒り」、「怨み」、「諦め」等の感情観念はこれが基盤である。  逆に「よろこび」は「共同体員としての必要性の承認、相互確認」がある時である。  共同体内での個的生活者は「全体的存在を維持するタメに普遍的共同利害」としての「③共同観念=共同幻想」を「②個的精神の信条・信念」として「個的な自己犠牲を自己納得」せざるを得ないのだ。それは「自己存在」としての「観念的生死の葛藤=悩み」と、その結果の「実存としての肉体の置き場所の決断=よろこび」を要求される。「個人の苦痛」、「自己犠牲、死」は「自己納得したよろこび」になるのだ。共同体維持に於ける個人の「自己犠牲」は讃美され、本人個人にとって生きながらでは決して経験できない「他人の死」は美化され、名誉となる。もちろん共同体維持のタメに「死に赴こう」とする個人は賞賛されるのだ。  その逆の場合もある。「③共同体利害の幻想=運命共同体の信念・信条」を「①個的人間が自ら拒否」し、それとは別個の「信念・信条幻想=反運命共同体幻想=思想」を有し、その「共同体への反逆」をする場合である。  「③共同体への隷属」か「共同体からの分離、孤立」か・・・いずれの選択であったとしても、その意味枠内で、ソレでヨシとする人間は「悲しみ」、「怖れ」、「怒り」、「怨み」、「諦め」の「観念」からは解放されるハズである。それらは社会共同体に属する「自己犠牲のよろこび」に変化する。また、新たな共同体創造への「挑戦としてのよろこび」になって行く。  共同体の枠内に存在する限り、「理不尽」であろうが、「事実、真実」であろうが、共同体に身を置きながら「悟らない、悟れない者」は生きていること自体の意味を「愚痴りながら消極的にアキラメル」のである。あるいは「既存の共同体観念」とは「相反する自己の信念」を秘密にしながら未来的な「共同体の承認」を期待して生きていくのだ。  男女の関係、親子の関係で相手に「相互関係の必要性」を否定されて・・・「その否定を自己納得=悟ったモノ」が幸福なのか、どうなのかは・・・ネッ・・・自己納得を出来ない結果、「ストーカー」になって自分も相手も破滅させる奴もいる。切っても切れない「親子関係」を切る奴もいる・・・家族の関係で「一家心中」などと「社会相互関係からの必要性の拒否=自己存在の不必要性=家族全員の不必要」と思い込んでしまう人間もいる・・・諦め切れない、悟り切れない・・・個的人間の怨み、辛み・・・これらはかっての「③共同体利害の幻想=運命共同体観念」の歪んだモノ(不平等・階級特権・特殊利害)に対して「②個的精神の信条・信念」が「怨み、辛み」に変化して重なった特殊性である。  「生物」は生きている限り、その「全体としての生命を維持」し、「全体を死に至らしめる部分を排除する」のが鉄則である。「群生」に於いても「未来的な種を維持するタメ」には「部分的存在・個的存在」はその犠牲となる。これは「観念感情・感情観念」に支配されていない自然界の「生死」の必然である。  だが、人間の「共同体間の戦争」は「諸共同体間の利害」が無くなれば、その「③個的共同体の維持防衛の幻想観念」は無くなるハズである。そして、人間社会での「意図的な詐欺・略奪・殺傷」が無くなれば、「怨み、辛み」、それに重なる「②個的人間精神の信条・信念=観念=価値」も・・・この場合での「陰湿で暗い感情表現」も無くなる・・・ハズだ・・・が・・・「限りある生、その終わりである死の観念を有した社会的人間関係での個的人間」に於いては「悲しみ」、「怖れ」、「怒り」、「怨み」、「諦め」の「感情観念」からは解放されえないだろう。それらは「価値、相互関係での価値と言う観念=生きている自分自身の価値は何か?」を常に問いかける観念的人間の宿命である。  コトバは第三に「事物、実体として現実存在しないモノ」を、「観念自体の中でコトバとして擬似的な、虚偽としての実体を創り出す」のだ。  「具象」とか「抽象」とかのコトバは、「心の中の象(対象物の象形)」であるから、すでに「心の外にある具体的なモノの心的領域=観念の中で創り出された象」であり、「心=観念の中で抽出されたモノの観念の中の象」である。いずれも「実体」を離れた観念の中のコトバである。その頭の中では「意味を有する音声コトバ自体」であったり、「意味を有する形や絵のイメージ」であったりする。  そして、そのコトバは「社会的人間関係」の人間相互の共通言語として理解されているコトが前提である。だから既にある「コトバ」であっても、社会の中では「コトバ」を知らないヒト、「コトバ」を学習しないヒトには通用しない。  ときたま、偉(イ+韋=ヒトがナメス皮=革)らそうに「コトバを知らない奴だなッ」と、言う人間がいるが、「共通言語」、「共通幻想=共同幻想=共通観念」を共同社会の中で個人が獲得するのには「経験的学習時間」が必要なのだ。だから共同社会であっても「言語コミュニケーションでの相互理解」には「相互に知的な同レベル」が必要とされるのである。・・・まぁ、そうであったとしても、特に「コトバの意味の表裏」を考えねばならない日本語は「誤解」や「曲解」は免れ得ないのだから気にする事もないだろうが・・・精神の悩みの殆どはこのへんにある。  ちなみに「幻想」とは実際にありもしないモノをあるかにのように思うこと、であり、「幻」の漢字解字は「予」の漢字の与えるの意味を「逆」にしたもので、「与えるマネをして与えず、ヒトを惑わす意味」、とある。別な言葉では「詐欺」とか「だますコト」である。  とにかく、「文字コトバ=真名仮名」とは、人間が① 五感=感性で捉えた「実体的対象物」に、② 観念で考えて、その意味を与えた音声コトバを、③ 漢字文字にしたモノである。  そして「コトバ」は「実体的対象物」でないモノ、観念そのもの中で考え出したモノを「虚実的対象物」として意味を与え、「音声コトバ」としたり、「文字コトバ」としても創り出す。  また、具体的実体を有しない「抽象的なコトバ」も創り出す。  重要なのは創り出された観念による「コトバ」や「数字・記号」と「図面」を駆使して、かっては決して現実的に「存在し得なかったモノ」を創り出すコトである・・・これは「観念」による「物質化」である。人間によって「発明された道具類」はすべてソウである。  「唯物論」とか「唯心論」の問題ではない。すでにこれら双方は「・・・論」であるから「コトバで説明されたモノ」である。  あえて私が「新たなコトバ(概念)」で、「唯物論」と「唯心論」をモノと心の認識関係として統一し、「止揚」させて言えば、これを「心的唯物論」と規定したい。               「心的唯物論」  「唯物論→存在論」              「唯心論→認識論」          ↓                        ↓  「存在(実体の構造機能・形態機能)論=認識(実体の構造分析・形態分析)論」  で、この関係はコインの表裏の関係で、切っても切れない関係にあるのだ。  「認識」とは「物」と「心」の「相対的関係」にある事実であり、そのコトバでの観念的な知識なのだ。「認識」とは結果的な「モノ=事実・事物・事件」の認識完了であり、その「認識活動」とは「感知」し、「感知したモノ(事実・事物・・事件)」をどのように「既存のコトバで考え=思考」し、「整理した意味」に「新たなコトバ」を「与え」て、その「本質観念=概念」とするのか、と言うコトである。  認識者の周囲に存在するモノ   ↓  ↑  「感知形象」   ↓  ↑  「形象感知したモノ」   ↓  ↑  分析  ↑   ↓  ↑  「モノの側面・部分構造、機能を考えるココロ」   ↓  ↑  「モノの側面・部分構造、機能にコトバの意味を与える」   ↓  ↑  「コトバの側面・部分構造、機能を一つのコトバに統一」   ↓  ↑  「意味を与えた一つのコトバの記憶」   ↓  ↑   ↓ 社会的共通概念(コトバ)としての相互理解   ↓  ↑  「意味規定されたコトバ=概念・カテゴリー・範疇」   ↓  ↑          基本的存在形式  「社会的なコトバ」  モウ少し云えば「文明=文+明=文を明らかにする」、「文化=文+化=文を変化させる」の漢字文字そのもの意味である。  「文明」は「文字コトバを明らかにしてその観念的所産の設計図を合理的に物質化」したことである。「観念」によって「新たに存在させしめられたモノ(実物・実体)」と、その「機能性」はその「コトバの合理性と一致」せざるを得ない必然性を有するからだ。「対象(事物)観察」によって「観念化」されたコトバの意味は「事物の存在の仕方と一致」するモノでなければならない。「科学観念(認識)=事物のあり方(存在)」の一致である。  「文化」は「文字コトバを変化させてその観念的所産の設計図を三次元的、立体的に物質化」したモノである。すなわち、ある文字コトバを「別のコトバ(観念)に置き換え、その意味の側面を緻密に理解し、物質化」したモノである。「ひとつのコトバ」は、他のコトバに置き換えられて(置換=翻訳)され、個々人の「特殊個別レベル」でその意味が理解され、社会的にも「一般レベル」で共通理解される。  ほん=ホン=本=書物=書籍=書簡=書記=書巻     =叢書=帳簿=書冊=書経=記録物     =BOOK  「科学的観念」とは「観念」によって「既存、あるいは新たに存在させしめられたモノ(実物・実体)=発見・発明」と、その「存在構成性と機能性」がその「コトバの合理性と限りなく一致」せざるを得ない必然性を有するからだ。  人間は存在し得なかった「過去」の「夢・幻想・観念」を「実物存在」として実現させるコトが出来るのだ。  飛行機も自動車もかって過去には存在しなかったモノである。在ったとしたら「空想・妄想」の中で存在した。だが、この「空想・妄想」を二十世紀には「合理的精神=科学的観念」を基礎、基盤として物質、実体化し、現実化したのだ。「自動車」とはその実体の本質概念である。「エンジン」とはその動力源である「実体構成の実体部分のコトバ」である。そして、「エンジン回転」の機能性は、路面上を走行する「自動車」の状況存在の「位置変化=速度」を意味する。「エンジン」の機能性は「コトバと設計図=観念」で説明され、「モノ=材料」があればコレを創り出すことが出来るのだ。  自動車の「エンジン=実体」     →構造機能←「エンジンの意味説明=観念」          ↑∥↓           ↑∥↓  自動車の「エンジンの設計説明=観念」→製作生産→自動車の「エンジン=実体」  この「コトバと実体、実物の合理性の一致」が証明されない段階を「哲学=思想=仮の考え」と言っているのだ。もちろん「観念的に思考されたコトバと、コトバでの説明が、現物実体の構造、構成と、その機能性の一致」をみるモノを「科学」と言っているモノである。「合理科学」は「コトバ=観念」で説明される。「(物)+合+理(論)」として。  だが、人間は未だに「生命体の存在とその機能」を「科学」で説明できるが、その「生命体自体」を創り出してはいない。そして、「モノ=物質」の「存在形式」を未だに「科学的に解明」してはいないのだ。もちろん、「モノ自体が存在するコトの意味」をアキラカには出来ていない。人間が知る事が出来るのは「存在のあり方を観念的に知るコト」だけである。その「観念的存在=認識的人間」が発生して「モノの存在の意味」があるという事だけである。  そして、「科学」も「科学観念」なのである。「モノ=実体=現物」そのモノではない。  そして「観念の物質化=実現」出来ないモノ、「科学観念」以外のモノを「空想観念・妄想観念」、「非(物)+合+理」と言うのである。  そして事実でない「ものがたり」を「虚構されたモノ」と言うのである。ある出来事、事件の「因果関係」をあらゆる側面から立体的に明らかにしたモノを「実証事実」と言うのだ。人間が起こす社会的事件が複雑であるのは、その「因果関係」が眼に見えない人間の「感情・精神=観念的観念=非合理性」に絡み憑かれて含んでいるからだ。人間は「合理性的存在のあり方」を追求するが、同時にその観念思考に於いて人間関係で「非合理性的存在」であり続けようとする存在だからだ。  「価値がある」とか「価値がない」と言うが、あなたは「価値」と言う「コトバ」は何か、を考えたコトがあるだろうか?・・・「価値」はそれ自体で実体(モノ)として存在しないコトバである。「抽象概念(コトバ)・抽象名詞」である。それは誰かにとっての「何かの有用性」を意味するコトバである。「有用性」のないモノは「人間にとって価値が無い」のだ。「価値」とは「何かの価値」なのだ。殆どの場合は「誰かとって何かの使用価値」である。五W一Hでは「主体(主語)」の「説明文にくる名詞」である。  「抽象」とは「個々の物事や観念に共通する性質を抜き出して一つの新しい観念にまとめるコト。具象の対のコトバ」である。「性質」それ自体も実体が存在しないコトバである。  しかも「価値(カチ)」とは「音声」か「文字」であらわされる「コトバ」である。問題はその「抽象」される意味であるが、その「価値」と言う「抽象されたコトバ」とは、誰かにとっての、「何かの具体的な共通の有用性の意味」を説明しているらしい・・・人間はこの人間社会で、「ヒト」と「ヒト」の関係で、その殆どが「コトバ」を利用して、自分と相手の「意思疎通」を行って生活している。「相互理解・相互観念」をしているかどうかは別だが。  では、「コトバとは何か?」  ここで「コトバの意味」を音声であれ、文字であれ、人間が作り出した「観念」であると、決めておこう。  では、「観念とは何か?」・・・漢和辞典には「仏教用語では、真理、または仏体を観察思念すること」とある。「国語では、あきらめ、または覚悟」とある。そして「哲学用語では、対象を表示する心的形象」とある。  ここでは、「観念」をこの哲学用語の「対象を表示する心的形象」を採用したいが、「対象を表示する心的形象」とは何だろう?・・・漢和辞典の説明だけではワカラナイところに問題があるよな。理解するには段階的なコトバとしてのその意味の学習知識が必要だ・・・   「対象」とは自分の周りに存在する「スベテのモノ」である。  ①      対象          ↑     対象←自分自身→→→対象          ↓         ↓         対象         ↓                     ↓                   心的形象                     ↓         ② 自分自身の心の中の形や表象                     ↓                     ↓                    対象                     ↑              対象←自分自身→→→対象                     ↓                   対象                     ↑                     ↑         ③ 心の中の形象を考え、            意味を与える心の中の自分自身の観念=コトバ                     ↓                     ↑         ④ 自分と他人との共通な意味を有する            「社会的な人間関係のコトバ=観念」

 この「対象」を②自分自身の心の中に形作る」と言うことだ。だが、感性的な視覚で「形」は解かっても、これではまだ「対象」が何であるのか、その「意味」が解からない。視覚で得た自分自身の「心の中の形」を理解するのには「心の中での形」を考えねばならない。考えている自分自身は「心の中の自分」である。だから心の中には③「自分自身」と「対象」、そして、それを「考えている自分」を「自分自身の心の中に形作る」こともしなければならない。  で、「考えている自分自身」の「考えをなさしめる材料」は既に経験的に過去に得た「ある対象のコトバ=知識」とそれを踏まえた「新しい言葉=新概念」で考えねばならない。しかも、それは「自分自身だけがその意味を理解しているコトバ」であっては「コトバの意味を成さない」のである。④「コトバ」とは「社会的人間関係の相互理解のコトバ」となって、はじめて「コトバ」となるのだ。  考えすぎると混乱して難しい・・・考えないと理解できない「シロモノ(白物)」である。  「観念的」とは「国語では、実際の経験ではなく、頭の中でえがいているさま」とある。  「観点」とは、「物事を考えたり観察したりする立場。見る立場」とある。  「観」そのものは「細かい所まで注意して見る」で、「観察」であるが、「考え」、「意識」、「思う」で「思考力を巡らして考えるコト」である。  私自身、自分自身にとって「ありがたいコトバ」であるらしい「価値」の抽象的意味自体が理解できないのは、それ自体を「思考観念」をする「材料のコトバ」が無いからであるなッ。いまのトコロは「価値」とは「有り難いコトバ」である、と抽象的に考えておこう・・・  先ず「価値」とは抽象的な「観念的抽象的なコトバ」である。具象的なコトバではない。その実体はソレ自体で存在しない物である。実体そのものではなく実体に対する「何か」である。「愛」、「信念」、「名誉」、「美」等と同じで、観念の中で観念された観念自体のコトバである。  「抽象」とは「(人間に認識される感性的対象の)個々の物事(や、出来事・事件)や、観念(的に考えられた対象)に共通する性質を(観念の中で)抜き出して一つの新しい観念(コトバ)にまとめるコト。「具象」の対のコトバ」であった。  「抽象」とは、具体的実体や観念的虚体の共通する性質を抜き出し、具体的実体や観念的虚体に一般性の意味を付与する「観念的規定」そのものの「コトバ」である。  で、「抽象的なコトバ」とは先行的に「具象的なモノのコトバ」が前提的になければ「発明」され得ない。  「果物(くだもの)」とは、「固有名詞」としてつけられた「リンゴ」、「オレンジ」、「もも」、「ナシ」、「ブドウ」、「バナナ」等の実体を「一般的抽象概念」としたモノである。「リンゴ」、「オレンジ」、「ナシ」、「ブドウ」、「バナナ」等の共通する性質を抜き出して「くだもの」としたのだ。  ではその「共通する性質」とは何であるのか・・・「果物類」とは「草木の果実で食用となる物。果実。水菓子」である。「くだもの」とは「抽象化されたコトバ」で、「類」とは「多種類を共通項でまとめたコトバ」と言うことである。ならば「共通の性質」とは「類・分類基準」の内容説明だ。  実体であるリンゴは「くだもの(果物)」であるが、「果物」それ自体は存在しない。「くだもの」には色々なモノが存在し、リンゴはその「くだもの」の一種類で、「特殊固有に具象化」された「コトバ」である。「くだもの」は一般概念で具体的な「形態」を有していない観念的で抽象的な類似傾向の実体に対するコトバである。「リンゴ」はその「果物類の具体的実体を有する特殊な種類」である。  リンゴ・・・観察対象が具象的、具体的な実体を有するコトバである。すなわち現実的に物体として存在する物の「コトバ=観念」である。だが、「リンゴ」はその形態を有する具体的な固有名詞だが、「一般固有名詞」で、まだ観念的なコトバである。「くだもの一般」の種類として「特殊」なのだ。「リンゴ」とは「リンゴ一般」の観念的な一般的なイメージと観念的なコトバの意味は「丸い形」と「赤い色」と、「甘酸っぱい味・匂い」と「張りのある歯ごたえ」と「水っぽい舌の感触がある」等の共通性である。この説明は「リンゴ」でなくても、その性質傾向は他の「くだもの」にもあてはまる。細密には「リンゴの植物種、発生、生長、生成、各構成成分のパーセンテージ」もその性質として説明せねばならない。それが「リンゴ」の厳密な意味規定だからだ。  だが、個々人が思い浮かべる「リンゴ」はかなりその対象観念としては違うはずだ。そして「リンゴの価値」も個々人によって違うし、自分自身が手にしている「現物対象のリンゴ」自体でなくてもイイ。とにかく、悪魔(へび=蛇・まむし=蝮)にそそのかされてアダムが食った「リンゴ」はコトバとなって、その置かれた諸状況で「特殊個別のモノとしてリンゴの価値」の意味が問われるのだ。確かに「へび」は商業高校、商業大学の「徽章」で「商売」の象徴だ。「カミ」がどうして「リンゴ(ビワの実)」を「知恵の実=悪の実」としたんだかネッ?・・・「価値」に秘密がありそうだ。  「リンゴ」はここでは一般的なコトバである。  「リンゴの種類」としての現実対象とする「青森リンゴ」は、リンゴとしての青森県産の「特殊個別性」を有するコトバである。  「一個の大きな青森リンゴ」はその「青森リンゴ」の「特殊個別性」のコトバである。  その「リンゴ」に対する評価は形容詞が付随する。「・・・のようなリンゴ」である、と。そして「価値あるリンゴ」とか、「リンゴの価値」とかも言われる。  この「リンゴの価格」は「リンゴの商品市場」で初めて「需要(使用を欲する人)と供給(貨幣交換を欲する人)」の相互、相対関係で「リンゴの値段=金銭価格」として決定され登場する。だが「価値」は「使用を欲する人の主観的なモノ」である。だから「価値」は手にしたその人自身の「使用価値=有用価値」でしかあり得ない。  「リンゴの価格」は「くだものとしての有用なモノ」として「需要=供給関係で価格決定された数量としての貨幣で市場交換」されるから一見客観的である。その「リンゴの価値」は、それを手に入れた個々人の「使用性」によるから「価値」とは「使用価値」のことでしかありえない。  「リンゴの有用性・使用性」と、リンゴそのものが「何か」との「交換性」がない限り「リンゴの価格」は存在しないが、その「何か」が「貨幣=おカネ」である。  「貨幣」は「使用価値物(需要物)」と「使用価値物(供給物)」の交換市場で「媒介物(交換価値)」として登場するのである。「交換価格」とは需要者と供給者の「合意価格」と言うことで、「価値自体」ではないし、「価格」はそれ自体で決定されない。リンゴの価格は「二者間の相互関係の合意」で決定されるのだ。  何にでも交換できるモノ、すなわち「貨幣」が「交易市場」に登場して「使用物=交換物=使用物」は「価格のついた商品」となる。  抽象的な「商品」自体と言うコトバは「交易市場」が出現し、「貨幣」が登場しないかぎり、その「商品」と言うコトバは発明されないし、その「商品価値」、「商品価格」と言うコトバに「尺度基準」を与えるコトバも登場しない。  モノ自体の「価値」は「使用価値・有用価値」があるのみである。そして「価値」自体はすこぶる主観的な観念的欲望としての所有欲としての意味でのコトバである。  マルクスの価値論・・・とは・・・(他のHPから以下は拝借)  ある物の有用性(なんらかの種類の人間的欲求を満たす性質)は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。  この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値または財である。使用価値の考察にさいしては、1ダースの時計、1エレのリンネル、1トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている。  そして使用価値は、ただ使用または消費においてのみ、実現される。  使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしており、同時に交換価値の素材的担い手をなしている。  交換価値は、さしあたり、1つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち比率として現れる。それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。  それゆえ、交換価値は、なにか偶然的なもの、純粋に相対的なもののように見え、したがって、商品に内的な、内在的な、交換価値(固有価値)というものは、一つの「形容矛盾」に見える。  ある特定の商品、たとえば、  1クォーターの小麦は、x量の靴墨、                y量の絹、                z量の金  などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の商品と交換される。だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。  しかし、  x量の靴墨も  y量の絹も  z量の金  なども、どれも1クォーターの小麦の交換価値であるから、  x量の靴墨、  y量の絹、  z量の金  などは、互いに置き換えうる。または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。  それゆえ、  第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。  しかし、  第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。  さらに、それらのものの交換比率がどうであろうとも、この比率は、つねに、ある与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置される一つの等式、たとえば、  1クォーターの小麦=aツェントナー  の鉄によって表されうる。  この等式はなにを意味するか。  それは、同じ大きさの1つの共通物が二つの異なった物のなかに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、実存するということを意味する。  したがって、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもないある第三のものに等しい。両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第三のものに還元されうるものでなければならない。  この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。  そもそも商品の物体的諸属性が問題になるのは、  ただ、  それらが商品を有用なものにし、  したがって使用価値にする限りでのことである。  ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけるものは、  まさに諸商品の使用価値の捨象である。  この交換関係の内部では、一つの使用価値は・・・それが適当な比率で存在していさえすれば・・・他のどの使用価値ともまったく同じものとして通用する。  そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、  諸商品体にまだ残っているのは、  一つの属性、  すなわち労働生産物という属性だけである。  しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。  もしもわれわれが  労働生産物の使用価値を捨象するならば、  われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。  それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。それはまた、もはや、指物労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。  労働生産物の有用的性格とともに、労働生産物に表されている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。  かくして、これらの労働生産物に残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働力が堆積されているということだけである。  それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値・・・商品価値である。  したがって、  商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物、すべての商品のなかに共通にある「一つの共通物」とは、  商品の価値なのであり、  価値の実体は、商品に対象化されている抽象的人間労働なのである。  そして、商品の交換価値は、価値の表現様式、または現象形態にほかならない。  価値の実体は、  商品に対象化または物質化されている抽象的人間労働なのであるから、  商品の価値量は、その商品に対象化されている抽象的人間労働の分量によって決定されることになる。  そして、労働そのものの量はまた、労働の継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分によって度量される。  ところで、ある労働者が怠惰あるいは不熟練であるために、その労働者がある商品を生産するのに普通よりよけいに労働時間を費やした場合、その商品の価値量はそれだけ大きくなるのであろうか。  価値の実体をなす労働は、  すべて同等な人間的労働であり、  同じ人間的労働力の支出である。  だから、商品の価値に表示されるかぎりでは、社会の総労働力は、無数の個人的労働力からなりたっているとはいえ、同一の人間的労働力とみなされるのであり、またこれらの個人的労働力は、いずれも、それらが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、  したがって、  ある一商品の生産においてもただ平均的に必要な、  または社会的に必要な、  労働時間だけを必要とするかぎりで、  他の労働力と同じ人間的労働力なのである。  それゆえ、  商品の価値量は、  その商品を生産するのに  社会的に必要な労働時間によって規定されることになる。  社会的に必要な労働時間とは、  「現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するのに必要な労働時間」である。  マルクスは「価値論」で何をイイたかったのか、ネッ?・・・ワタクシの「リンゴの価値」と比べて見て、若干違いがあるようだ・・・リンゴを食って味わうか、匂いを嗅ぐか、色や形を見るか、触って硬さを感じるか、個人によって「使用価値」は色々である。アナタだったら腐った「リンゴ」をどうするか・・・もったいないけれどゴミ箱に捨てるか・・・まぁ、結果は「肥やし」にでもなればイイけれどねっ。どの道、「チリ」に分解されるのさ。  「使用価値」=「交換価値」=「使用価値」=「市場商品価値」=「人間的労働力=価値」=「貨幣=お金=価格」・・・当分、使い道が無いから「貯金」でもスル・・・何のタメ?・・・使い道が無くなったら、ダレかに「貸す」か・・・何のタメ?・・・「利子」が付くから・・・それ以前的問題だな、貧乏人にとっては・・・  「コトバのモノの認識論」と、「コトバによるモノの存在論」   ・・・  「特殊個別(具象)論」と「一般(抽象)論」   ・・・  「実体の有る特殊個別的なモノ」は、最後には単なる「モノ」として観念的な「コトバ」として「一般的抽象化のコトバ」になってしまう。  「一般的抽象化のコトバ」は「実体の有る特殊個別的なモノ」が前提にして創り出されるのだ。  新たに発見、発明された「モノ」は、既に過去的に獲得された「社会的共通観念としてのコトバ」によってその意味が思考され、認識され、新たな「コトバ」を与えられ、「社会的共通観念」となっていく。  「実体の無い特殊個別的なモノ」も、「虚実=仮称=仮象=虚構」な「モノ」として共同社会の共通観念的な「コトバ」として創り出され、最後には「実体化されるモノ」になってしまうコトがある。人間は「虚構観念」としての「コトバ」を「実体化=物質化」してしまう場合があるのだ。  ただし、共同社会では「虚構観念」として「実体化、実現化されないモノ」もある・・・それは市民社会では「虚偽・詐欺」であり、「利害関係での特殊化された幻想=観念」である。  アンタはどんな「観念」でいきているのかネッ・・・?


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