「国家」をどのように考えるか?(4-a)
健康で文化的な最低限度の生活とは 第二十五条(憲法)・・・クリックすればリンクします。 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、 社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 で、最低限度の生活とは、如何なるモノなのか?健康で文化的な最低限度の生活とは、「飢えからの解放」だけではないらしい。日本的な「最低限度の生活」とは、 「生活保護法・・・クリックすればリンクします。 (第1条 この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする)」 が基準である。その実行基準の「具体的な判定認可をする役人」にも「認可される人間」にも疑問も残るが・・・多くの日本国民がこの法律で救われているならば幸いである。 だが、今現在の「日本政府=国家」の「国民年金の改正」は、「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進」をめざしているわけではないヨ、ナッ。「社会保険庁」の官僚が徴収した「国民年金」を自分達のタメに湯水のように億単位で使っていた。外務省の官僚にいたっては外務省組織ぐるみでその「裏金」を飲食に、博打に、高級マンション購入に使っていた。「C型肝炎」、「エイズ入りの血清」を放置したかっての「厚生省官僚」は今現在からの人間的反省も自覚もなく、自己保身の「法的身分立場」を強調する弁明があるのみである。過失であっても日本人は頭を下げる人種であったハズなのに・・・? これらの「官僚腐敗」を監督、コントロールする「監視、告発する組織」をいかにしてつくればよいのか・・・国家体制の種類を問わず、この「監督、告発組織」が必要なのだ。さしずめ、江戸時代なら「目付け」である。戦前であるなら「特別高等警察(特高)」であった。 「民主主義社会」では「多数を占める人民階級=市民・国民」に責任を負う「内部調査機関」と、その「内部調査公開裁判所」である。この機関自体も懐柔される危険があるし、「警察社会」のように息苦しくなる・・・が、「人々の意識教育」の問題である。 とにかく、日本国の「法律」でまもられうべき「国民」とは政治家と「国家公務員、地方公務員」のコトらしい。すなわち、「国家官僚・地方治自体官僚」とその家族、縁者である。その腐敗ぶり、かっての「ソ連・東欧諸国」や、現在の「中華人民共和国」の「官僚腐敗」とどこが違うのか・・・自分自身で「商売=私的な富の蓄積=儲けるコト」ができない奴は「賄賂」以外に余禄の道はない。商品を扱う人間が政治家、官僚に贈る「賄賂」の等価は「特殊利権」の獲得である。江戸時代の幕府の幕閣官僚の「賄賂」も同様であった。 「資本主義諸国」であろうが、「社会主義諸国」であろうが、「立憲君主国」であろうが、「国家官僚」と「政治家=資本家」が、「労働者・農民の剰余生産物」の殆どを掠め取っているのだ。 「資本家の利潤=儲け」、あるいは「国家企業=国営企業の儲け」の殆どは諸経費を省いても労働、勤労者に配分されるべき賃金である。だがこの賃金は不当な低賃金として支払われ、更にこの賃金から「税金」として掠め取られているのだ。しかも、自国民の「賃金」と「税金」には「国家間の枠を超えて」の原材料、商品を媒介にした「原産諸国の階級収奪」の部分が含まれている。 「民族解放」、「民族自立」などとの言葉にだまされてもイケナイのだ。この「コトバ=概念」も階級的社会の人間関係が観念的に創り出した「思想=イデオロギー」であることを忘れてはイケナイ。「民族解放・民族自立」の本質はその「民族国家内」の「階級収奪」を前提にしているからだ。現今のアフリカ諸国の民族対立、人種対立は先進諸国の資本家、投資家、財閥が絡んだ原材料、資源獲得と、それを媒介する「原産国の政治家・官僚」の利権維持の「国際的階級対立、階級収奪」が原点であるのだ。アンタの「賃金」には「原産国の労働者・農民」が「収奪された汗」が含まれているのだ。 驚くことにアフリカ諸国の「民族対立」、人種対立には「アメリカ軍・OB」が軍事顧問会社を設立して、その同じ企業の「元アメリカ軍人」が民族対立、人種対立で武力衝突している双方前線に「企業員」として雇われて、人々を殺しているのだ。アメリカの「傭兵会社」はまさにアメリカ軍の失業対策の下請け会社とし殺しをビジネスとして利益をあげているのだ。日本史で「失業軍人(武士)の失業対策云々」を近頃言っているヤツは、歴史的反省の基準を客観主義者ヨロシク「支配階級(武断主義・文治主義)の立場」でしかモノを言っていないのだ。その歴史的「事実関係を推理」しても、コトが起ったら単なる「傍観者」か、国家のタメに自分の手に銃もとらない支配権力の走狗になるのに違いない。 「官僚の腐敗=贈収賄、賄賂」は「階級」を前提にした「民主主義的な国家」でどのように防げるのか? かって、敗戦後、日本国の「公務員」は国民の「公僕」と言われた。「公務員」も「戦後民主主義」を信奉し、一般国民に対し、その立場での能率化、効率化、「全国民的な生活水準の均一化」のリードをしたのである。「資本主義的生産」をベースにしたが、日本国官僚は企業、農業に対しても、そのような立場を一応取ったのだ。公務員は民間企業のスタッフより安い報酬に甘んじた。敗戦後の日本国家は貧しく、国際的な三等国で、後進国。日本の「資本家」もボロボロであったのだ。そして、かっての支配階級も官僚も「全国民的生活水準」のレベルアップをめざし、「日本国民」として労働者、農民にその「民主主義」の解放を条件に未来的結果としての「収奪の余裕」を願ったのだ。もちろん、日本の資本家、技術労働者と一般労働者、農民は国際関係での「冷戦」と「アメリカ政府」の援助、「朝鮮戦争」、「ヴェトナム戦争」、「韓国・台湾・東南アジア諸国との平和条約と、その戦後賠償金(日本国民の税金)」を日本に還流させるコトをテコにして富の蓄積をしてきたのだ。 戦後の「日本資本主義」はエリートとしての国家官僚、企業官僚を育て、コレを頼りにしてきたのである。そして、そのプロセスで「日本的な民主主義」は育ってきたのだ。労働者であろうが、農民であろうが意識は「中流意識」としての日本人であった。日本官僚は日本人を「中流階級」として育てようとしたのである。事実、そうであったのだ。 だが、日本に冷戦中に蓄積された「資本」は「アメリカ資本」を脅かし始めたのだ。「金融自由化」と「日本資本主義の構造改革・農地改革=減反」は一体である。日本国民の蓄積して来た「膨大な貯金=資本」をアメリカ国際金融資本の運用に組み入れ、アメリカ資本に吸い上げさせるコトであった。日本は従来の金融の日本独自なシステムを解体し、アメリカ式の金融システムを導入したのだ。国際金融資本は勤勉で、貯金好きな「日本低所得層」の「庶民の貯金システム」を壊し、壊そうとしているのである。「資本回転」に「国境」は無いのだ。だが「国際金融資本の牙城」である「アメリカ国家」はまもられねばならない。「国際金融資本」を操っているその殆どの「資本家」がアメリカ国籍の人間として存在しているからである。現在の日本の政治家、国家官僚は「日本国家の自立・独立維持」を言いつつ、自己保身のタメに「日本国家資本」と「国際資本」のジレンマに陥りながらも「国際資本=国際階級収奪」強化にその役割を担っているのだ。 「民主主義の賂い」、これを相対的に比べてみたら、アメリカや、西欧の民主主義よりは、はるかに資本主義諸国家の中で戦後日本は現実的な「民主主義」としてはソレをまもってきたのは歴然としていた。もちろん、「社会主義諸国家」などよりは遥かに「資本主義的民主主義国家」として育て、保障してきたのである。 「民主主義」の根幹とは「全国民的な生活水準の均一化」と、それを果たすべき政治行政に「秘密」が無い、と言うコトである。政治的な立法議論、決定、実行、施行、その情報に「秘密」がない、と言うコトである。国家権力を握った支配階級と、その官僚が腐敗するのは「秘密」、「機密」を武器にしているからだ。 「立法された法律の文言」は「あいまいな解釈を許さない言語の範疇が明確化されたモノにするコト」である。 憲法の根幹は ①殺すな ②盗むな ③だますな ④差別するな である。日本の最高裁判所とその裁判官は「憲法違反訴訟」を故意に避けてきた。しかも「司法長官、司法行政官僚」にその「憲法違反である法を勝手に解釈」させてきたのだ。どこが「三権分立の裁判所」であるのか。 「憲法違反特別独立裁判所」の設立 国家・・・憲法・・・・・・・・・・・・・・・・基本法 ↑ ↓↑ 憲法違反審査、調査会→反憲法的な法律チェック ↓ 違憲行為、違憲立法法律の告訴 ↓ 憲法違反公開裁判所→違憲の是非判断 ↓ 憲法警察→検査監督取り締まり 日本には「憲法警察」に関する参考にすべき法律と組織機構がある。 「公正取引委員会」である。
1.私的独占の規制に関すること。 2.不当な取引制限の規制に関すること。 3.不公正な取引方法の規制に関すること。 4.独占的状態に係る規制に関すること。 5.所掌事務に係る国際協力に関すること。 6.前各号に掲げるもののほか、 法律(法律に基づく命令を含む。)に基づき、 公正取引委員会に属させられた事務 ↓ 法文参考、改作 ↓ 憲法違反行為の取り締まり、 及び 憲法違反として立法された法律のチェック 第28条 公正取引委員会の委員長及び委員は、独立してその職権を行う。 第37条 委員長、委員及び命令を以て定める公正取引委員会の職員は、 在任中、左の各号の一に該当する行為をすることができない。 1.国会若しくは地方公共団体の議会の議員となり、又は積極的に政治運動をすること 2.内閣総理大臣の許可のある場合を除く外、報酬のある他の職務に従事すること 3.商業を営み、その他金銭上の利益を目的とする業務を行うこと
国家をどのように考えるか?(4ーb) 各国、「国家」事情 アメリカ いかに、アメリカがその憲法で「自由・民主主義・人権」を誇ろうとも「秘密・機密」と「銃」なしでは、彼等の「資本主義的民主主義」をまもれない社会であることは歴然としている。巨大産業財閥、巨大金融財閥を握る閨閥は国際的閨閥関係を結び、そのアメリカ政府機関を牛耳って、さらに諸外国の政府機関に影響を与えているのだ。資本主義に於ける経営実体には「私有財産法」さえ守る人間ならば、出自の人種、民族、階級、階層は関係ないのだ。その閨閥と、その配下がダレであろうと「資本主義的人間」でありさえすればイイのだ。 アメリカ農業もいまや農家と言われる家族は殆ど存在しない。存在するのは巨大資本の下に雇われている機械化された「農業労働者」である。現実的な「自由」も日本人が映画やマスメディアで幻想しているアメリカにはない。アメリカでは金がない人間は自分の人権を守ってくれるはずの「弁護士」も雇えず、命を守ってくれる「医者」にもかかれないのだ。自分自身や家族の問題で弁護士や、医者にかかればアメリカの中産階級は一家離散の憂き目に会うのだ。ましてや下層階級は夜逃げである。また「男女差別」、「人種差別」は現実的には「法」があろうとも歴然として存在する。 ハリウッド映画が時たま犯罪映画の中で賞賛するかにみえる勧善懲悪的なストリー。その展開でアメリカの民主主義、人権法が守られているのだ、とし、最後に「THE END」の「字幕」が出る。これは、アメリカの法が機能していないコトの暴露であり、諸外国とアメリカ自国民へのプロパカンダであり、アメリカンドリームと同じ、ハリウッド願望の裏返しである。「悪人」はたいてい「私欲なカネ」に絡んだ人間か、「略奪されるカネ持ち」か、あるいは「人種差別」する人間で、最後には「殺される」のが相場である。だが、「殺し」の事実は数の上で「逆」である。 アメリカ映画は確かにアメリカ国内の社会的矛盾を反映し告発しているのは事実である・・・最近では「依頼人」とか、「陪審員」、「ハリケーン(ルービン・“ハリケーン”・カーター(デンゼル・ワシントン)」とか・・・だがこれらの映画は「民主主義と人権」を「アメリカの法」がアメリカ市民個人をまもってくれないことをハッキリと示した作品であった。 民主主義と人権が守られているハズのアメリカ市民社会では世界一、殺人犯罪が多いのである。これは貧困者の殺人犯罪の数ではないのだ。もちろん、経済犯罪、公務員の汚職は最高である。その犯罪人を法の盲点を突いて弁護し、その処理をする弁護士の数は世界一でもある。弁護士の数の多さは法的社会秩序が安定しているコトの証ではない、その逆である。そして、何をまもっているのか。 ダレのタメの「アメリカ民主主義」かを象徴した事件は機関銃を持って銀行強盗をした「ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst、1863・4・29~1951・8・14・カリフォルニア・サンフランシスコのアメリカの新聞出版者」、新聞王の孫娘の事件であった。 この新聞王の孫娘パトリシアが、1974年に左翼グループSLA(Sinbionese Liberation Army 共生解放軍)によって誘拐され、その後同組織に加わり、のちに銀行強盗の容疑で逮捕され有罪判決を受けたのだ。「パティ・ハースト誘拐事件」である。だが保釈金を何万ドルも積んで無罪になった。 この新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの生活はオーソンウェルズの映画「市民ケーン」の中で描かれ、これに怒ったハーストはこの映画の製作と公開に妨害圧力をかけたのだ。映画「RKO281」はハーストが映画「市民ケーン」製作公開の妨害を描いたものである。 「新聞情報」の記事を何でも「正しい」なんて思うのはイカレポンチである。もちろん、「ワタクシのモノ」も含めて、どんな「情報」にも懐疑的であるべきだ。 ソ連、東欧 ソ連、東欧は共産党官僚がその「労働者、農民の民主主義」を圧殺し、粛清と暴力、それらの行為を「秘密」とし、偽の情報を垂れ流し、その「経済的ノルマ体制」を労働者、農民に強制し、「官僚支配」を守ろうとして、結果、その体制を破綻させた。宇宙に飛び出すほどの技術科学官僚もいたのに「官僚の計画経済の破綻」が問題だったのか?・・・ソレもある。原因は「高級官僚の特権乱用と私服腐敗」である。高級官僚の特権とは資本主義社会の「会社法人の役員特権=資産管理、使用特権」と同じようなモノである。他と区別されるところに高級官僚の特権があり、特権があるところには秘密と腐敗がはじまるのだ。ソ連共産党指導部は「社会主義の経済的豊かさの幻想」を軸にした政治権力闘争に於いて「粛清」できる権威と能力を失ったのだ。何故か・・・その第一原因は自然災害による「穀物不足=食料不足」であった。食うものの分配に支障をきたしたのだ。衣食住の原点である「食の不足」である。そして、それに比較して「西側資本主義国家の民主主義とその食料的な豊かさ」を知ったからである。第三世界への援助とかで技術官僚、人員が派遣された場所で西側諸国との接点を持って、その情報はソ連邦、及び東欧諸国の国内に広まったのだ。その城壁は鉄のカーテンでは無くなったのである。しかも、かってのソ連共産党書記長のニキータ・フルシチョフは「アメリカ映画資本で建設されたディズニーランド」を視て感激賞賛したのだ。手塚治虫も夢中にさせ、全世界の子供に夢を与えたそのディズニーはハリウッド映画産業界に関係し、活躍していた「民主主義者・自由主義者」を告発する「レッドパージ」に加担していた人間だったのだ。また、「キューバ危機」以後、フルシチョフはケネディのアメリカ・マフィヤに対する悩みも訊いてやったのだ。「アメリカとの平和共存」などと言いながら「第三世界」に兵器をばら撒いて「世界中の共産主義者」を「ソ連=民族主義国家の楯として利用した」のだ・・・そして「秘密」にすべき「ソ連国民が崇拝していたスターリンの暴政」を暴露したのである。「ソ連の国家幻想=非社会主義」を壊してしまったのだ。ソ連高級官僚や、インテリゲンチャ、芸術家、作家、スポーツマン等の西側への亡命は「私的所有財産」を前提にする「自由」へのアコガレだったのだ。そして、ソ連高級官僚はこれを許し、逆に官僚保身、下級官僚締め付けの国内逆プロパカンダに彼等亡命者を裏切りモノとして利用し、更にソ連、ソ連邦国民を秘密警察で締め付けたのである。だが、西側の「豊かな経済情報」は確実にソ連国民に流れていた。生活物資が不足すればはびこるのは「闇市=自由市場」である。だが、仕切るのは腐敗官僚とマフィヤである。 実現しない「理念・思想」は「幻想」である。その「幻想」は人々を動かす激烈なエネルギーを秘めているのだ。だが、その「共同幻想」が「幻滅」になった時には人間の殆どは「現実的な利己主義」に陥るのだ。 「官僚の計画経済」は「社会的生活水準の均一化」ではなく、「民主主義」を封殺したところで「経済的裕福の効率性」が目的とされたからである。そのレベル目的で、効率性、合理性に於いて、人間をも商品化し、利潤・利益を追求する「資本主義的生産・市場競争」に勝てるわけがないのだ。 とどめの「チェルノヴィル原発・メルトダウン」が起っては最早手の打ちヨウがなかった・・・百万本のバラの花が咲いても、描いてもダレが救われようか・・・ 「企業間の自由競争」の無いところでの「上意下達の官僚の計画経済」はその手続きがオッソロシク非能率的で、非効率的である。「消費者に対するサービス精神が皆無」なのだ。官僚ならば「公僕精神の皆無」である。そして実行が始まるとその臨機応変な「融通性」は皆無である。「計画の中に相互情報交換とそのチェック機能」が無い、と言うコトである。 私達が記憶するかってのソ連、東欧諸国の人々がパンを買うために雪の降る中で行列をつくって何時間も待つ姿である。彼等にとってソレが「社会主義的な現状のシステム」である、と納得されているならヨシである。行列をつくらずに食料を手に入れるヤツが存在する、とするならば、社会は崩壊するのが当たり前である。日本での米騒動、百姓一揆は食える物の不平等分配であったのだから。これはどんな「国家体制・共同体」であろうとも「自然災害」や「経済的インフレ」のプロセスと結果時に起こる現象である。 災害結果時の「最低限の生活と命を平等にまもれない国家・社会」は混乱崩壊するのだ。日本に於ける「関東大震災」の「秩序混乱」は「朝鮮人」と「赤」を「敵対視」することでその秩序を維持快復した。国内インフレは「満州」に向けさせる事で乗り切ろうとした。最近の「石油ショック」での「トイレットペパー買占めの大衆パニック」は「偽情報」に煽動され、「的確情報」によって収拾した。 第二次世界大戦の戦争中には「日本帝国の国民的社会秩序」は「維持」されたのだ。原爆を落とされても・・・何故か?・・・殆どの日本国民が「日本帝国の戦争と、その社会秩序維持を納得」していたからだ・・・天皇の国民として。社会的「無秩序」は「敗戦直後」であった。その「秩序快復」は「マッカーサー元帥」による「民主主義・憲法(?)」によってであった。だが、「回復」は「新憲法」があろうが、なかろうが、したハズである。「闇市」も敗戦国民の「秩序」であったのだ。それにプラスアルファー、衣食住、とりわけ「パン」は占領軍政策によってなんとか日本国民に「均等分配」され、衛生秩序も施行されたのだから・・・この「思想」はヴェトナム戦争にも現在の「アメリカ」にも無い。 「社会主義社会」にも「労働生産物の均衡分配」を前提にした「生産・市場競争、個人的競争が必要である」・・・この「競争の報酬」は「不平等な格差賃金」や「不平等な政治的特権」であってはならない・・・古代オリンピックの各種競技に於ける「月桂樹」でなければならない・・・「物欲競争」では無く、「名誉欲競争」である。プロでなく、「アマチヤ精神」である。そして、「教養教育」と、「思想教育=倫理・道徳=社会教育=名誉欲教育」である。その根幹は社会共同体に於いての「①殺すな」、「②騙すな」、「③盗むな」、「④差別するな」の徹底化である。 翻って現代の資本主義国、日本の国家事業としてのダム建設や道路建設をみれば「官僚組織」の税金の驚くような無駄遣いと、その実行、進行段階での「非融通性」が理解できるであろう。官僚に公僕意識が無くなれば体制の如何を問わずに「官僚自体の保身目的」に身を費やすのだ。 そして法律が煩雑になればなるほど、その専門知識を有する者の特権となる。そして「官僚手続き」は遅くなる。更に言えば村山内閣の時の「阪神大地震」だ。ぐずって、もたつき、5,000人もの死者を出した対応である。いち早く、その地域の被害住民に食料を無料で配ったのは国家組織ではなく、任侠道の大親分であった。当時の「日本社会党」が「自民党」と手を組んで「自衛隊」の存在まで認めたのだ。その、かっての「女党首」はボス交で「立法府」である衆議院議長にふんぞりかえっていたのだ。今現在は、「北朝鮮問題」に口をつぐみ、議員秘書給料をくすねさせた問題を頬被りし、凋落した「社会党の残党」としてマジナイのように「護憲」を称えている。こんな「イカズ○○・石○」に日本女性である、お婆ちゃん、お母さんの大勢がダマサレテいたのを忘れちゃぁイケナイのだ。 ソ連とは一線を画くした多民族国家としてのユーゴスラヴィアの「社会主義」は「企業の自主管理体制」などと、ヨーロッパ資本主義諸国と関係を持ちながらその「民主主義理念の無い独自な社会的システム」を採っていた。だが、英雄=独裁者のチトー大統領の死後はその連邦制までが破綻し、小民族国家の独立対立として矮小化されてしまった。ここでは本質的な「階級対立」は「人種・民族対立」に埋没させられてシマッタのである。本来的にはソ連軍に対峙するべき国際資本の武装暴力連合機関、NATO軍のコソボ空爆、それによる和平結果は「民族国家」としての国境線引きであった。「ユーゴスラヴィア型の社会主義」を讃美していた人間は自己批判しろ、である。 国際裁判にかけられたユーゴの下級一兵卒は戦闘地域での「村民」を虐殺した、として有罪判決を受けた。戦場での上官の命令遵守は軍人の使命である。国家に徴兵され、兵士となった人間の「命令拒否」は「国家反逆罪=死刑」である。市民社会で犯した罪と同じように「非人道的、非人間的な犯罪」として国際裁判は裁いた。だが結果を如何に裁こうと、その判決論理の正統性は無い。裁く相手は「民族国家」と言う得体の知れない「責任不在」の存在に対してであるべきだ。これを可とするならば、現在、イラクでイラクの市民、住民を虐殺しているアメリカ兵士達は、将来、この国際裁判からは遠い存在であるハズがない。 ソ連の衛星国化していた東欧諸国の「労働者」も「社会主義人民共和国」である「国名」がなんたるものかも追求することも無く、資本主義的な枠内での「民主主義・自由」を求め、「階級」としての立場を「民族国家」に埋没させてしまったのだ。 「社会主義」の目的は国家の経済的豊かさでは無く、「労働者、農民、庶民の民主的なルールによる社会的生活水準の均一化」であるハズである。モノは少なくても「人民に限られたモノを均等分配するルールを確立」すると言うことだ。 また、EU連合(ヨーロッパ諸国連合)が出来ようとも、「私的財産権」を根本とする連合である。資本主義は地域によって「不均衡に発展」するのだ。当然、資本も「不均衡に蓄積される」のだ。EU連合を牛耳る「官僚」によって階級矛盾を包み隠しながら「連合諸国家間の民族対立」を拡大していくのに違いない。かってのユーゴスラヴィア連邦が分裂崩壊していったように・・・ フランス、ドイツ 現在のフランス、ドイツに存在する「アフリカ・アラブ(イスラム)」系人に対する「差別・区別」は「宗教・民族・人種・地域」の問題ではなく、「資本主義的生産に於ける階級問題」である。ヨーロッパに於ける「アラブ・アフリカ」系の存在は歴史的にはかっての植民地のエリート階級の人間に宗主国の市民権を与えたコトにはじまり、ドイツ、フランスが「高度成長期」に低賃金労働者としての彼等を自国に「出稼ぎ」として招いたコトである。資本法則の目指すところは「能率的、効率的」な「利益・利潤」である。「労働者」は己の労働力を「商品」として売っている存在なのである。機械化によって合理化されれば、その「商品価値」は無くなり、賃金カット、解雇、リストラはその必然条件である。解雇の圧力順位は「異教徒・異人種・異民族」である・・・逆に日本資本主義の中国進出は「低賃金の労働収奪」を当てにしているのだから、早晩、日本企業に対する「民族対立」として噴出するのに違いない。いや、既に起きているのだ。・・・とりわけ、崩壊した東ドイツの労働者が「統一ドイツ」としての労働者となったコトで、「ドイツ民族」としての「労働者」として排外主義的に煽動され、「自国民族優先のワナ」にはまるのだ。「階級対立」を「他民族、他人種、他宗教対立」にスリ換えるのは国家権力を握った人間が摂る常套手段である。 中国 現在の大陸中国政府は、私企業を解放し、優遇援助して育て上げ、その莫大な富を蓄積した一部の資本家を「共産党員」として加入させ、その「共産党」の官僚組織に抱え込んでしまっている。「赤い大富豪」が「共産党員」として存在するのだ。その「思想」とは裏腹に将来的には「官僚支配」を維持しながら「台湾化」、「アメリカ化」としての「多民族国家」を目指しているのだ。しかも国際商品取引での日本との貿易は2004年現在、「22兆2千億円」である。中国の平均的労働賃金は日本の十分の一。中国共産党政府は法人税の優遇措置で「外資誘導政策」で、国際的、あるいは日本の「資本」で、中国労働者農民を「国際搾取」の中に投げ入れている。 最近の中国の「地方労働者・農民」の暴動の根拠は、中国はもはや、「労働者・農民階級の国家」を言う資格さえもないと言うことだ。いや既に「共産党」が毛沢東や彼周辺の追随党員によって「愛国=民族主義」として「国家」を「独裁専制国家」と牛耳られた時からだ。鄧小平の「鼠を獲るネコがスベテ善い」とは論理の「弁・証・法」を詭弁にしたモノである。かっての「中国共産党指導部」は「人民」に赤いニンジンをぶら下げ、将棋の駒のように扱ったのだ。その「共産党」の体質は今もお変わりナシである。「赤いコーリャン」を原料にした酒の味は「小便」を混ぜると旨くなって酔わすのにはうってつけらしい。しかも流れ者の盗人男は酒屋の旦那を殺して、主として居座り、「小便酒」を売ってぼろ儲け。オマケに殺した旦那の女も自分のモノにしてしまったからなッ。やっぱし「マルクス」、「反帝国主義・反日本帝国主義」、「愛国民主」をお題目のように称えても「匪賊根性」が抜けないのさ。「愛国民主」はどこの国だって同じだろう。 再度言うが、「社会主義」の目的は「国家の経済的豊かさ」では無く、「労働者、農民、庶民の民主的なルールによる社会的生活水準の均一化」であるハズである。「共産」とは「共生産・協生産→←共配分・協配分」のことだ。もちろん「ユートピア」は理想を想定したモノで、現実的には未来的にも存在し得ない。「ユートピ」の語源自体がギリシャ語で「存在し得ないモノ」だが、現実が現実社会=階級社会であるからこそ「マルクスの未来社会」はその意義を持っているのだ。 問題なのは実現されるべき「未来社会」ではなく、今現在の個々人が生きて生活している「現実の階級的人間関係の社会」をドウスルか、である。 歴史的現実は資本主義的産業市民社会制度の下部構造を担う理論的なプロセス、段階的に出現する「階級=産業労働者」を待ってはいられないのである。階級国家、階級社会であるからこそ、抑圧される階級は常に時代的に存在し、存在するのだ。奴隷、農奴、小作人・・・被支配者階級=被抑圧階級は各歴史的時代に搾取されるモノとし存在し、かつ己の「社会的存在の意味」を自覚し、大勢の人々を組織化し、支配権力に暴力的に対峙する限り「革命的」存在であった。だが、自己存在の「主体的救済」を自覚させしめる対象はまさに、マルクス以前は「神」であり、「君主」であったのだ。その対象は「社会的人間主義的関係」ではなかったのだ。その被抑圧階級が「革命」に成功しょうが、失敗しようが、「回帰」するところは「社会的階級人間関係からの自己解放」ではなく、「神=天国」であり、「君主=忠誠名誉」であり、「封建的家父長制度=権威」であり、「国家=私的所有保護の立法」への救済お願いシステムへであった。 中国革命の本質は貧農小作人、農奴の解放から始まった。食えるコトで餓えない人民のレベル均衡化にあったのだ。もちろん、「革命の担い手」は「貧農小作人・農奴」であった。この時点で「都市工場労働者」は少数で、「近代化=ブルジョワ資本」に期待をよせる「階級」で、その賃金が保障され、食えた存在であったからだ。だが、これは「労使の賃金契約を結んでいた労働者のコト」である。現実には1939年代の中国農村で人身売買された十歳前後の「少年少女」が上海の工場(真空ガラスビン・絹糸)で重労働させられていた。子供達は死ねば簀の子に包まれて工場裏のゴミ捨て場に捨てられたのである。その死体は一晩に二、三体であった、とアメリカ人ジャーナリストが報告している(歴史の探求・上・セオドア・H・ホワイト・株サイマル出版会・1981年発行)。 今現在、中国共産党に沈黙、無視されている「毛沢東」が、キタルベキ「階級存在」と、現実的な解放されるベキ「階級存在」を「意識=理論」に於いて区別したのは当然であった。あの時点で解放されるべき存在とは貧農と農奴であったのだ。事実、階級抑圧されていたのは国際階級(資本)関係の枠内にあっても、国内階級(資本)関係にあっても貧農と農奴が大多数であったのだ。当然、革命の担い手は「抑圧されている存在」である。そして、革命の担い手とは「無自覚に抑圧されている階級存在そのもの」ではなく、「階級存在を意識し、自覚した存在」なのである。現実的な階級関係に存在している人々ではないのだ。その担い手は出身階級、出自に関係なく、「階級関係を自覚し、その関係を否定する人々」である。「カンボジアのクメールリュゥジュ」の狂気の沙汰は300万人にもの人々を無垢な少年少女を利用して殺させた。「中国文化革命」では、「毛沢東語録」を持たせ、無垢な少年少女を煽って、「中国革命を担った人民」を一体、何万人を殺させたのか?・・・しかも毛沢東は「紅衛兵」を影では「ひよっこ」と呼んでいたのだ。「文化大革命」は毛沢東自身の実権としての凋落挽回の謀略か、人々の命をもてあそんだ「革命ゲーム」でしかなかったのだ。人々は「思想を食って」生きて生活しているわけではないからだ。「パンのみで生きるにあらず」だが、「パン」は生活の絶対条件である。同じ「紅衛兵」を名乗る若い人々の中から、その状況に対して主体的、自覚的に振り回されている己の立場に気が付いた者は「毛沢東を崇拝、絶対視する造反有理」に対する「造反有理」として分裂、対立もしたのだ。革命は「上品でもなく、優雅でもない階級転覆の暴力」だが「生きている人間の命を虫けらのように粗末には扱わない」のが「マルクス思想の根幹」なのだ。「階級からの解放」とは「抑圧する支配階級」も「その疎外状況から人間として解放」すると言うことだ。「階級転覆の暴力」は暴力的な人間の抹殺ではない。かって、「中国人民の階級意識と社会主義秩序を教育させたシステム」、敗戦日本軍の捕虜に「社会主義的な再教育」を施したシステムは何処にヤッタのか。 ・・・「非社会主義の非階級教育操作」・・・一度目(1976年)、二度目(1989年)の「天安門事件」は何であったのか?・・・「非社会主義専制高級官僚の秘密情報操作」・・・中国人民も学生も「社会主義システムでの近代的な生活の豊かさ」を望んだわけではない。高級官僚の特権腐敗に抗議したのだ。 学生は驚くことなかれ「憲法遵守」のスローガンを掲げたのだ。「中華人民民主主義共和国の憲法」とは何ぞや?・・・まもられるべき「人民憲法」とは何であったのか?・・・「日本国憲法」と「中国人民共和国憲法」との違いは何か?・・・書かれている「中国憲法」は「人民主体の憲法」だったのか?・・・「憲法遵守」はされていなかったのだ。どんな国家であろうが、その「国家の政府権力」は「憲法」をまもらないのだ。特に権力を握った「共産党国家政権」が「人民」を裏切るのは「革命の原則」を忘却するからだ。「前衛気取り」じゃぁ、人民はタマランのだ。 だが、権力奪取の構想を有しなかった中国人民と学生は、根本的な富の分配の「民主主義な法システム制定とその実行」を望んで、「共産党幹部」にオネガイしたのだ。腐敗官僚は「官僚ブローカー」と呼ばれ、その特権を利用して莫大な賄賂と、親族親類縁故の生活基盤に便宜をはかっていたから、彼等の不正をヤメサセルように、処罰するようにシテもらいたいと、お願いしたのだ。 この「中国官僚ブローカー」と日本国の「シャブシャブ高級官僚」とどこが違うのか!? オネガイの結果、「共産党」に「幻想」を抱いた人民と学生の末路は人民広場で「人民軍」に血で染められる虐殺であった。「反革命も鉄砲から」であった。彼等は「国家権力の暴力(鉄砲)」を甘く見ていたのだ。自然発生的な「一揆・オネガイ」では権力によって多くの血を流さざるを得ないのは必然である。ヴェトナム戦争時、1970年5月4日、「アメリカ・ケント大学」での反戦集会の学生に州兵発砲。学生死亡・・・古くはロシアの「血の日曜日」をみよ・・・歴史が教える「抗議・請願」、「革命」であれ、その端緒に於いて「合法的秩序の枠内」で始まるのだ。だが「人民軍」を味方に組織化出来ないような「一揆」では弾圧されるのがおちである。「革命」の成就には時間をかけた「意識的組織化」が必要なのだ。「毛沢東(持久戦・遊撃戦)」も「ホーチミン(ベトミン)」も「情報」と「鉄砲」の扱い方は充分心得ていたのに。占領した陣地は圧倒的防衛武力が無ければ陥落するのだ。しかも「ハンスト」は目的の手段でしかない。三島じゃあるまいし、「死を美化し、死を覚悟したハンスト(首都高校自願・絶食宣言・1998年ビラ)」はナンセスなのだ。「戦術的」に勝てない時は逃げるのさ。 いずれも「権力」を握った人間は自分自身を絶対化し、「被階級的立場=社会的自己存在の解放=命の尊厳」を忘却し、その人間の組織化を見誤り、自己保身のために技術的駆け引きを自己目的化し、大勢の人々を巻き込んで、最後は自己破滅の立場をとるのだ・・・だが彼等の自己破滅の時間的スタンスはそうは問屋がおろさないのだ。 かっては「買弁、買弁資本」と言うコトバあった。外国資本の手先となって私利私欲をはかり、中国、自国の利益を忘れる「中国人」の意味に使用された。これに対置させられる概念は「中国民族資本」であるだろう。そして強調したのが「愛国中国」である。既に「愛国中国民族資本」は「階級関係概念」をすっ飛ばした概念である。同時に「国際資本」を導入するコトによって確実に中国の「官僚+資本家」と「労働者+貧農」は「国際階級収奪関係」の最中に存在するのだ。 靖国問題などでも中国共産党政府とその追従中国人は「階級視点」を欠落させて「中華民族国家」として「日本民族国家」に対峙し、「日本人一般」、「日本民族一般」として批判しているのだ。現在の「日本国家」は現在の「中国国家」なんかよりも遥かに「民主主義的な資本主義的階級国家」なのである。かっての「毛沢東」は抑圧された階級としての立場から「日本民族」と「日本階級」を明確に区別して、「階級支配の頂点に存在する日本政府」を批判していた。「靖国問題」でかっての「日本軍の残虐」を、ことさら現在の「生き残った日本人子孫一般」に重ねて「鬼族」と煽られては「日本人」はどうしょうもない。だが煽っている「中国人=共産党」は中国内戦で「国共合作・国共分離」によってどれだけの「中国自国民同胞」を残虐に殺し合ったのかを踏まえて問題にしているのか・・・。戦場で殺し合ったのはいずれも「洗脳教育され、組織化された下層の人々」であったのだ。かって中国には「球籍論争=地球人類としての戸籍論争」があったと言うことだが・・・「愛国=愛漢民族」では考え方が小さいエゴイストなヤツである。 だが、ジジイになった「毛沢東」は蒋介石の「中華民国政府」との内戦で、何故「中国紅軍」が「中国人民」に圧倒的に支持され、その解放区を人民自らが建設し、中国革命として勝利したのかを忘却してしまった・・・「毛沢東」自身、体力的にも精神的にも消耗し、ボケた独裁者となって、かっての「同志」を「スターリン」と同じ方法で葬り去り、アゲクの果てには「若い革命経験の無い追従者」にその理論を疎外され、死んで「個人崇拝」される対象になってしまったのだ。「中国共産党」は自分達のヤッタ過去の国家的犯罪を「資本主義的民主主義国家」よりも自己反省をしない「中国国家・官僚独裁支配」の連中である。一体全体、「大躍進(1958~1961年)時代」の中国人民(農民)の「鉄鋼産業」への組織化の裏で中国に大飢饉が起こり、およそ「3000万人(?)」もの人々が餓死、困窮したとの情報がある・・・人々は「鉄」で食えなくなったのだ。この歴史的現実には無反省で、無責任の立場をとっている。また、自国民に対するこの隠蔽は今現在も変わらない。「中国共産党」には中国人民の社会がまさに「階級社会」であることの視点を欠落させているのだ。 だが、時代はコンピュータ、携帯電話のボーダーレス( border less)の時代である。現在的な情報の「中国共産党」の隠蔽はすぐ露見してしまうに違いない。 そして、「階級的意識教育の革命」であるべきハズであった「文化革命」を、ナチス同様の「街頭人間狩」にしてしまった。「国家権力」を握った中国人に操られ、一体全体、自国民である「中国人」に三角帽子を被せて何万人を撲殺、抹殺してしまったのか。「民族主義者」としても失格である。 1966年「文化革命」で失脚し、1974年、しぶとく権力闘争に生き残った「老練な中国人(鄧小平)」は、「毛沢東」を否定するコトも無く、それをテコとして利用し「中国民族資本主義」へと導いたのだ。 「中国国家」に「解放経済特別区=資本主義経済地区」があるとはドウいうことだ?・・・かって1960年~80年代の日本と同じような状況である。大挙して都市の建設を担った貧乏な農村の人々が日雇い賃金に群れたのだ。結果、仕事にあぶれてルンペンプロリアートの哀歌なのか、讃歌なのか「山谷ブルース」なんて言う歌が流行った。暴動まがいの事件も日本では頻繁に起ったのだ。「中国官僚主義+資本主義」は同じような経験をするに違いない。 中国にはアメリカのハリウッドにあるような豪邸が立ち並ぶ住居がTVで紹介されていた。「温州」には高級外車を乗り回し、上海の高層高級マンションを買い漁っている「中国人」も居る。農村での資本主義的な合理化を成功させた村民は近辺の農民を日雇い、自らは地主としてふんぞり返り、儲かった金でアメリカのホテルを買い漁っている「中国人」も居る。とにかく一番儲かっている「中国人」は「金融業」と「不動産屋」であるらしい。そしていまや中国産業資本の電気メーカーはアメリカの産業を買収しているのだ。もちろん、軍事産業、宇宙産業には膨大な諸経費と人件費が投入されている・・・中国国家+中国資本家に収奪された税金は「中国人民・労働者・農民」に還元されること無く。しかも中国国内の情報は隠蔽されながら。 そして、炭鉱労働者が6000人以上も炭鉱事故(2005年現在)で死亡している。これが「社会主義国家」であるはずがない。さらに「エイズ感染者」が八十万人・・・これらの感染者の多くは中国政府が絡んだ「血液採取」に於ける「不衛生な注射針」からのモノだと言われている。かっての日本政府厚生省が「エイズ感染者」を発生させたモノとドコが違うのか・・・ 現在、大陸中国政府は台湾中国を「資本主義的階級支配国家」として捉えることなく、武力威嚇し、脅しながら「中国民族資本国家として統一」するゾ、との立場を取っている。台湾国家の資本が大陸中国へ大挙上陸しているにもかかわらず。 このコトは「共産党宣言」を読んだ事の無い、階級存在の意味も知らない「民族主義的キョウ産党員」が中国大陸歴代「王朝」政府のような官僚として跋扈しているからなのだろう・・・漢字国家の中国の辞典には「共産党」と言う概念があるのか、どうなのか・・・多分、それは「共産党官僚=中国民族=民族資本=国家」として理解されているに違いない。 かって毛沢東は中国国民を共産党支持と人民引き締めのタメに「台湾」は統一せず敵対緊張関係にして置いた方が得策である、と言っていたらしい(毛沢東の私生活・主任医師・李志綏著・文芸春秋)・・・なるほど、「戦略戦術家」ではアルなッ。 そして、TV(NHK)での「ある中国(大陸)の一般労働者」に対するインタヴューで、その「労働者」は「オレ達、労働者が一番、偉いんだよな」と、素朴に応えていた・・・確かに・・・「エライ」・・・はずだ。この国自体が今やマルクスが資本主義生産様式によって生産される「商品の秘密」を解き明かしたその「商品形態の価値」、「生産現場での労働者の汗の結晶」を「搾取できる階級社会」になってしまっているのだから・・・。 国際スポ-ツ(オリンピック・ワールドサッカー)もその精神を疎外し各国支配階級に最大限利用されている。もう少し言えば国際的資本に利用されているのだ・・・かってのローマ帝国がその帝国維持の為に「市民」の関心をひくために剣闘士、奴隷同士の殺戮をゲームとしてコロッセウムで興行していたように。そして、「階級的視点」を欠落させた「中国民族主義者」は、コレを若い人々に「中国愛国心」を強調するコトによって、結果、「民族対立」としてあおっているのだ。 「民族」と言う概念が如何なるものかを現在の「反日中国民族主義者」は知らないらしい。「民族概念」で結束する時に「民族」を意識しない人間は、その「民族同胞支配階級」から抑圧、排除されるのだ。「史記」に登場する「秦の始皇帝」、「漢の劉邦、楚の項羽」、そして「三国志」が大好きな日本人はその物語の登場人物の英雄としての生き様に憧れると同時に、彼等支配者が「人民」を虫けらみたいに万、十万単位で酷使し、殺したことも理解している。日本人の殆どは日本史で「日本戦国時代」の武将の業績と同時に彼等が被支配階級に対してとった残虐に弾圧搾取した事跡も知っている。そして日本明治国家が日本国民を「日本民族=明治民族」として組織化し、中国「清王朝国家」と戦争し、その清王朝の賠償金で国家資本主義的重産業を建設し、辛亥革命後の中国人民を侵略、略奪をした歴史的事実も知っている・・・そしてアメリカの独立戦争も、南北戦争の根本的な理由も知っている。国家内戦争、あるいは国家間戦争の現場でダレが何のタメに死んでいったのか・・・双方の死者の殆どが国家内の「被支配階級」で、彼等は「民族」と「愛国心」でその精神を洗脳され、組織化されて殺し、殺され、殺し合ったのだ。 「国家」とは「支配階級の暴力と殺人の思想(イデオロギー)」を一般化し、「美化」する存在なのである。 歴史を観る立場は虐げられてきた人々の立場で観なければ意味が無い。それは「民族国家」では無く、「階級社会・階級国家」を観る立場である。 確かに「第二次天安門事件」の時には学生達は流行の「西洋ロック」と同時に「インターナショナルの歌」をまだ歌っていた・・・国際人=地球人=無国人=無国境人・・・2005年には彼等は何を歌っていたのか?・・・聴こえなかった。 中国王朝史に「匈奴・高麗・モンゴル」が絡んできた時に「中国王朝領土内に生活していた人民」は「王朝」に何を望んだのか?・・・平和な生活を望んでの北方他人種の侵入、侵略の阻止であった。だが、「阻止」するために漢民族自体が階級分裂し、その同胞民族に属する被支配階級を搾取、弾圧、虐殺していたのだ。ダレのタメの「阻止」だったのか・・・被支配階級人民のタメではない、自らの支配階級としての王朝組織をまもるタメであった。モンゴルの元王朝は中国を征服した。モンゴル人種をその支配階級のトップに置いて「人種差別」したが「漢民族(?)」を奴隷にしたわけではない。かっての「隋・唐王朝」や、「清王朝」は自らの「人種(文化民族)」を被支配文化に同化させ、その中国文化を形成支配していった。「モンゴル人種」であろうが、「漢民族」であろうが、権力を握った人間はその「階級システム」に「スベテの人種」を繰り込んで自らの「階級支配組織」を維持し、まもったのだ。「征服王朝」と言われる中国本土に居座った北方人種の「人民支配」と、「漢民族」の「人民支配」は共にその国家領域内で「階級支配」したのである。「漢民族(?)王朝」がつぶれるのは「天命」らしいが、つぶれる末期に決まってその「漢民族(?)王朝」を内部から裏切るのは「同胞の漢民族」であった。「被支配階級の人々」は支配者が「人種、民族」がダレであろうが、戦争、内乱で混乱した「秩序の快復」を望んだのだ。そもそも、太古の昔から「漢民族」と呼ばれる「純粋人種」などは存在しなかったのだ。あえて言うなら「漢民族」とは複数の混血された地域人種の混合で、その「国家(階級社会)権力」の及ぶ領域に生活する「漢字文化」を共用している人々のことだ。 敗戦で情報が「自由」に知る事が出来るようになった「民主主義的な資本主義的階級国家に存在する日本人」は深くその「中国史が、東洋史として、日本史、世界史と関連している」のを理解している。かって「日本帝国主義国家」に組織化された日本軍が、日本人が日本周辺諸国に住む人々、そして中国の人々に非道残虐な行為をした事実を知っている。そして、同時に、今現在「反日・中国民族主義者」には違和感を持つのが当然である。「階級概念を包み隠す民族」で歴史を理解するのを殆どの「日本人」は拒否し、ソレを超えているのだ。 そして「日本支配階級」は、現在的にこの「民族心=愛国心が気薄な日本人」に、「反日・中国民族主義者」の言動、行為を「日本民族の自覚高揚」として「教育の場」で逆手に利用しようとしているのだ。 「反日・中国民族主義者」は「日本民族(国家)主義者」を自分自身の言動で「育成、組織化」しているコトを忘れるなッ。「資本主義的民主主義日本国の人々」は、その殆どがその意識に於いて「日本民族(階級)主義者」ではないのだから。批判、批難するなら、「日本資本主義」と「国際資本主義」にターゲットを絞れ!・・・そして自国民の立場をかっての「中国解放区」が如何なる立場で解放区となっていったのか、「階級的視点」で考えろッ。現在の「中華民族資本主義」に毒されて、その立場のレベルを「日本、アメリカ、ヨーロッパ等の国際資本主義」と同じように貶めるなかれ。 「中国人民」を「階級国家」から解放したいならば、「愛国」とか「日本製品の不賣」とかのチンケなスローガンを掲げるのではなく、「全世界規模」の「階級支配の解放」を前提に「生産現場の組織化」を考えろ。今や「中国国家」は全世界の「国際産業・金融投資家」の世界の工場であり、国際商品市場である。世界の生産手段の集中しているところである。国際階級闘争の最重要な要となりつつある場所なのだ。「中国の階級闘争」を「民族国家」に歪曲し、臆病で、殆ど「民族国家」に無自覚である「一般日本人」に敵対、歪曲するコト勿れ。 「一般日本人」は敗戦で「中国残留孤児」となった「日本人」を育ててくれた「中国人の両親」に「人種・民族」を超えた立場に感謝し、歴史的事実として、その「中国人の立場」を決して忘れることはナイのだから。 いずれの「国家」も「階級支配国家」である。一億の「中国国家内」のコンピュータ・メイルを操作できる中国インテリゲンチャ、学生、労働者・・・諸君のアッピール先は・・・諸君と同じ立場、「階級社会の根絶」を願う「日本のインテリゲンチャ、学生と労働者」である。そして「全世界の被支配階級」に対してである。 国家民族支配者間のボス交渉の走狗となる勿れ。 「愛国有罪」である。一括、「小さい日本人」を相手にするのは「小さい中国人」である。「大人」は「無国無罪」である。 「日本人」は「アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、インド、アジア、アフリカ、南米」、そして、もちろん、「中国文化」を、地球上のあらゆる「文化」を「文化」そのものとして学ぼうとしているのだ。ただし、この「日本人」からは「資本主義的思考人間」と、ソレに組する人間を省くのは言うまでも無い。 北朝鮮 「北朝鮮」が「社会主義国」でないのは世界各国が知る常識である。「閨閥的な軍事独裁階級国家」である。「思想と現実」が極端に乖離する「国家の例」である。だまされているのは「人々」であると同時に、「将軍様自身とその側近の主体思想が階級疎外された脳ミソそのもの」である。 「朝鮮人民共和国=非社会主義国家」であるのは当然である。国家の冠する「名称」はその実体を現しているモノでは無いのは当然である。「将軍様崇拝」は、かっての「スターリン崇拝」、「天皇崇拝」と同じパターンである。その国家経営の根幹は「閨閥的な軍事独裁」で「情報の独占」と「秘密」と「将軍様崇拝教育」である。もはや、穀物不足、飢餓から脱北者が続出している北朝鮮は「国家機密情報」を維持できないところに来ているのだ。 また「国家機密」であった「日本人拉致」を「将軍自ら認めた」のだから。「墓穴」のハジマリであった。彼は「階級的存在」を自ら問う環境を与えられなかった過保護に育てられた「ロマンチスト」なのだろう・・・外国映画の視過ぎで、その映画の中にもぐりこんでしまったモグラかも? にもかかわらず、「北朝鮮の国家指導者とその国民」は「東西臨戦体制」の「最前線」で「国家」として戦争を、武力衝突をしてきたのである。そして、かっては支援してくれたソ連も中国も資本主義的に変質し、変質しつつあるのだ。北朝鮮は孤立しているのだ。だが、孤立しながら冷戦を引きずりながら戦争を継続しているのである。「休戦中」なのだ。「休戦中」とは武力衝突が無い戦争の一時中断、休憩中で、「連合軍と戦争真っ最中の国家」なのである。「日本国家」の「政府」も「政治ヤ(与野党含めて)」もこの根本的なコトを忘れてきたか、忘れているフリをしてきたのだ。水面下では「在日朝鮮人の企業・商社・金融機関」を媒介にし、資本主義的に金とモノとのヤリトリをしながら利権を懐に入れてきているのだ。もちろん、「日本国民」には沈黙してきたか、「秘密」にしてきたのだ。「商売」とはどんな「国家体制」であろうが、売れて儲かるモノがあれば「商売=交易」をするのだ。タトエ、「敵対国家」であっても・・・如何なる国境線引きがあろうとも「国家法の枠外」で商売人は需要があれば供給するのだ。そして一国家内に於いても対国家間に於いても「国家官僚+商売人=贈収賄=秘密取引」が一番手っ取り早い「私的財産の蓄積」となるからだ。 今次の「国家間の平和条約締結」とは、戦争を止めましょう、と言うことだ。戦争は国家外交の暴力的な最終解決手段である。これが締結されていないと言うことは「戦争中」なのである。 韓国 北朝鮮と直接国境対峙しているのは「韓国」だが、資本主義経済が安定して来た「韓国政府=韓国資本家」は「統一ドイツ」をみながら現在的に「朝鮮半島の統一」を望んではいないのが本音であろう。北朝鮮が崩壊したならば「韓国資本主義」はその「労働市場・労使関係」で、「国際商品市場」で混乱するのは眼に見えているからだ。現在「韓国政府=韓国資本家」にとって、「北朝鮮」は単なる被援助国の地位を保って欲しいのに違いない。「韓国人民」は朝鮮戦争の現実の中で李承晩独裁政権を倒し、その後の軍事的独裁政権(1961~1988)の弾圧を受け、ソレを跳ね除けて、国民の直接大統領選挙で「資本主義的民主主義」を克ち取ってきたのだ。彼等の「民主主義の獲得」は多大な「血」を伴っているのだ。「日本人」がコロッと敗戦の翌日に疑問する事も無く手にした「民主主義」とは違うのである。そして、資本主義国家の親分であるアメリカに対しても、その民族主義的立場でモノを言う「国民」となったのだ。敗戦国の日本政府が占領後のアメリカに卑屈なほどにスリ寄ってきたのとは違うのである。そして、1965年の日韓基本条約を契機に「韓国資本」は「日本の経済援助金」を基礎に「日本資本主義型国家」を見習って行政、技術官僚教育で、官僚主導の技術立国として生長してきたのである。1970年代には自国での米主食を制限し、ソバとウドンで我慢し、観光客日本人には「遊びの場」として接待し、外貨を稼がざるを得なかったのだ。そして1980年代にはかっての「日本資本主義」が経験した産業汚染を地域住民におしつけ、労働者から搾取しながらその「階級対立」を深めてきている。 韓国政府=韓国資本主義は日韓基本条約の議事録が公開され、「国民に保証金を配分していない」ことが暴露され、その国内問題を「対日本問題」に反らそうとしている。「国家」が国内的に「民族の痛み、利益」を主張し、「他国家=日本」をスケープゴートにするのは常套手段である。「冬のソナタ」は韓国のどの階級を扱ったモノなのか・・・ だが、「朝鮮半島統一」と言う願望があっても、国際状況の中ではアメリカ国際金融資本に翻弄され、「韓国ウオン」が「国際資本市場の枠で揺れ動く国家であるコト」には変わりが無いのだ。 日本の企業、土木建築業者、商社の「北朝鮮との平和条約締結」を見込んだ北朝鮮現地へのスタッフ派遣の素早い動き、そして結果的に物笑いになってしまった派遣中断・・・その目論見は当然、かって日本政府が対韓国、対東南アジア諸国にした国家賠償金(日本国民の税金の一部)の日本資本主義への還流であった。還流のカラクリは「日本政治家+日本企業・商社+被補償援助国家の現地高官」と結びついたその利権と儲けの分け合いだったのだ。日本国民はその税金で日本資本主義を太らせたのである。特に「日本商社」はその日本企業の生産した商品援助で手数料を膨大に儲けたのだ。もちろん、日本資本家の個人資産も蓄積された。「北朝鮮との平和条約締結」とはその底流に「日本資本」の利権獲得がウゴメイテイルのだ。日本企業、資本家と結びついた日本政府の北朝鮮に対する歯切れの悪さはおして知るべしである。 だが、現在的に北朝鮮は孤立して資本主義的国際市場との接点をネジレさしてしまっているのだ。ドルの偽札、麻薬取引、ミサイル、「原爆」・・・だが日本には蟹も昆布もシジミも売っている。買うモノ・・・北朝鮮の一般庶民が食料を買うカネが無くても闇では高価なポルノビデオを買える人も存在するらしい・・・たしかに、如何なる人々にも種を維持させるタメには興味のあるシロモノだが・・・それだけじゃないところに「商品価値」があるのだろう。 「日本人拉致事件」は敵対的な国家に対して戦争の戦略的戦術的な延長としてアタリマエなモノとして行われてきたのである。第二次世界大戦に於けるアメリカ国家は敵対国の日本国家を出自とするアメリカに存在した全ての日本人(永住権・市民権を有していた日系人も含む)を沙漠の強制所に収容した。国家権力が戦争に臨んでは当然にもトル手段である。かっての帝国日本も対戦国の兵士、民間人を捕虜にしてその命を奪ったのである。現在のアメリカ国家、イギリス国家のイラク、あるいはアフガニスタンに於ける捕虜問題は当然に起るべきモノとして起こった。現在、アメリカ合衆国国内に於いても「出自が回教国の人々」に対するアメリカ政府の処置は「人権無視」どころのハナシでは無い。「国家間戦争=人権無視」とはこのコトである。 日本 さて、日本国家。時代の「国家権力=政府」とその「国民」は「日本国憲法」を化石化しつつ、再度巧妙に「戦争」を準備しつつあるのだ。「兵器輸出三原則の緩和」などとは「日本兵器産業」の国際的な市場獲得のナニモのでもない。既に日本企業はオーストラリアに「軍事衛星」を売っているのだ。マスコミはホンの少しニュースにしただけであった。政治家は日本企業の思惑を代弁して、その「軍事兵器輸出品」の規格選別を言い出し始めている。売れるものは何でも売るのが商売である。ウラン濃縮機械も既に売られていた。商売に国境は無いのだ。既にコンピュータネットは情報商品として国家、国境を取り払っているのである。また、日本の「非核三原則」などはウソであるコトが日米政府間が取り交わした「アメリカ側の覚書の暴露」で明らかになった。元々、アメリカ政府が日本に「原水爆」を持ち込まないなどとは、日本寄港のアメリカ空母、原潜が戦略核兵器そのものを塔載しないではオモチャである。日本政府とアメリカの外交「秘密・機密」はアメリカで発見され新聞記事にもなったが、日本人は重大な問題として社会問題化にもしなかった。 「普通の国家になる」などとは「国家」が何か対外的にも国内的にも「一般市民=私民」を護ってくれるようなイイ方だが、どんな「国家」であれ、古今東西、過去から現在、未来までも「一般市民=私民」を護る「国家」などは無いのである。国家は「秘密」と「機密」と「国家暴力」、「民主主義の装い」で「国民の秩序」を守っているのだ。 ナゼなら、あらゆる「国家」は「特殊利害」を維持存続させる「幻想」と、それをベースにした階級支配システムで機能しているからだ。 さあ、あなたは「国家」をどうするつもりか?