「改竄」と言う漢字分解と音訓の考察
淡路島(あわじしま・タンロトウ→タンラトウ(耽羅島?眈羅島) ↓ ↓ ↓ ↓ 耽美 ↓ ↓ 虎視眈眈 ↓ 探賂賂等(当・唐・頭・統・筒・藤・読・問・答) ↓ 賄・賂(ワイ・ロ)=まいない・まかなう ↓ 倭入路→倭に入る路 等しく賄って探る
「改竄」=己++乂+宀+八+臼+爪+:: ↓ キのカミサシ(髪刺し)、 クシ(櫛) 刈るウのカンのムリ、
ハチのウスはツメのアマのミのズ
タロットカードの「ⅩⅡ」 ・・・「吊るされ人・THE HANNGED MAN」である。 ・・・だれでも「吊るされたくはナイ」だろう、なッ。だが、人はそれぞれの理由で「吊るされる時」があるもんだ。そして、危急存亡、実存的立場の覚悟が出来ている人間・・・覚悟し、覚悟した人間、覚悟さえ出来ていれば、その時期は乗り越えていくらしい。「覚悟」とは「観念しろ」ってコトだ・・・何を「観念しろ」って言うんだろう?・・・「今の心を観ョ」ッ、て・・・「生きる事の諦め」・・・「区分(區分)、分類、品評の明らめ」じゃぁないよナッ・・・「め=メ=目」って、「目盛り」の「目(ま・め・モク・ボク)」であるけれど・・・度量器衡の目盛りで、キザミ(刻み)である。そして、人間の人生は生まれてから死までの生涯を「時間」で刻んでいく、と言うコトである。
・・・番号の「十二」を「十二支」に重ねると「子支」である。
六十干支 音 訓 順番・序列 時間帯 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 子(シ ・ ね) =1・Ⅰ・23~0~①の子の時間帯 丑(チュウ・うし) =2・Ⅱ・①~②~③の丑の時間帯 寅(イン ・とら) =3・Ⅲ・③~④~⑤の寅の時間帯 卯(ボウ ・う) =4・Ⅳ・⑤~⑥~⑦の卯の時間帯 辰(シン ・たつ) =5・Ⅴ・⑦~⑧~⑨の辰の時間帯 巳(ミ ・み) =6・Ⅵ・⑨~⑩~⑪の巳の時間帯 午(ゴ ・うま) =7・Ⅶ・⑪~⑫~⑬の午の時間帯 未(ビ ・ひつじ)=8・Ⅷ・⑬~⑭~⑮の未の時間帯 申(シン ・さる) =9・Ⅸ・⑮~⑯~⑰の申の時間帯 酉(ユウ ・とり) =10・ X・⑰~⑱~⑲の酉の時間帯 戌(ボ ・いぬ) =11・ XI・⑲~⑳~21の戌の時間帯 亥(ガイ ・い) =12・XⅡ・21~0~23の亥の時間帯 ↓ 子(シ・ね)=13・XⅢ・23~0~①の子の時間帯 ↓T 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥 ↓ シ・チュウ・ イン・ボウ・ シン・ミ・ゴ・ビ・シン・ユウ・ ボ・ガイ ↓ 詩・中・・・・音・・望・・・新・・見・語・備・深・・憂・・・簿・外 死・中・・・・陰・・謀・・・新・・見・後・尾・深・・憂・・・募・害 史・中・・・・寅・・暴・・・審・・診・誤・備・清・・有・・・模・害 市・中・・・・陰・・謀・・・新・・見・悟・尾・神・・佑・・・母・我意 ↓ ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い ↓ 音・有詞・捉・う・多通・診・有埋比・通字・作留・採り・允・意 ↓ 鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・亥 ↓ ソ・ギュウ・コ・ト・リュウ・ダ・バ・ヨウ・エン・ケイ・ケン・ガイ ↓ 蘇・祁有・ 言 ・立 ・拿・葉・用 ・円 ・形 ・懸 ・画意 ↓ ・・・・他の同音異字漢字は御自分で試みる・・・
中国に伝わったキリスト教分派のネストリュウ派は漢字で石碑には「景教」と記され、「イエス・キリスト」を漢字で「移鼠・移子」と記された・・・
鼠(ソ・ショ)=ねずみ=子(シ・ね・こ)
である。「鼠」に類字するのは「改竄(カイザン)・竄改(ザンカイ)・竄入(ザンニュウ)」の「竄(サン・ザン)=ウ+八+鼠」である。
ボクの文字分解の解釈だと、「竄」の「ウ+鼠(ソ)」の「鼠」とは、 鼠=臼(うす・キュウ)+爪(つめ・ソウ・ショウ)+::(雨水=ウスイ・うすい・あまみず)」 である・・・「::」が「雨水・うすい・あまみず」であるとするのはボクのかってな妄想だが・・・漢和辞典の解字には「雨」の漢字の「一」はテン(天)、「冂」はクモ(雲)、「:|:」は雲の間から降るアマミズとある・・・「雲」が「雨」と「云う」の合字なら、「クモ」とは「天の言葉」であるかな・・・ とにかく、イエス(移鼠・移子)・キリスト、バテレン、「切支丹・耶蘇教・邪蘇教」に関係アリやナシや?・・・「豊臣秀吉=木下藤吉郎=日吉丸」は「はりねずみ(針鼠)」とか、「さる(猿)」と呼ばれた、のだが。奥方は「北の政所」で「ねね」と呼ばれた。側近に、軍略、兵法家の「黒田官兵衛(如水)」と、「竹中半兵衛」がいた。 ここでは「淡路島ー明石ー白鷺城」の「古事記」や「日本書紀」の「神話=カミサシ・カムサシ」と「歴史的背景のハナシ」が重なるモノとして「黒田官兵衛(如水)」のモノガタリのサワリを探っていくことにする。 __________________________ 「黒田官兵衛(如水)」が「姫路城=白鷺城」に関係。 1600年、関ヶ原の合戦で「黒田官兵衛=(如水)」は九州から覇権を競おうとした。 1511年、官兵衛の曾祖父である高政は備前国邑久郡福岡郷に定住し、黒田家伝承の「目薬(玲珠膏)」を売っていた。 高政亡き後、祖父重隆も「目薬」を売っていたが、「浦上則宗」の侵入で福岡郷を逐われ、播磨の姫路へ移住し、そこの百姓、「竹森新右衛門」や「広宗大明神」の神主、「井口太夫」の援助で「目薬」が大繁盛、「金貸し」も兼ねて勢力を得た。 天文十二年(1543年)、重隆は、嫡男の職隆に家臣団を与え、近隣の豪族、香山重道を攻め滅ぼし、職隆は小寺家の家臣となった。 職隆は明石城主である「明石正風」の娘を娶って家老となり、姓を小寺と改め、姫路城の城主となった。 天文十五年(1546年)11月29日、姫路城で「万吉(萬吉)」=「黒田官兵衛(如水)」が生まれた。 永禄四年(1561年)万吉は 十六(壱拾六)才で御着城主、小寺政職の近習となり、父の職隆に従い近在の土豪を討伐し、 十七(壱拾七)才の初陣で官兵衛と称し、名を万吉から「孝高」と改めた。 二十二(弐拾弐)才で政職の姪で有る播磨志方城主、「櫛橋」氏の娘を娶って、家督を継ぎ、姫路城の主となり、小寺氏の家老となった。父の職隆は、四十半ばで官兵衛に家督を譲った。 永禄十二年(1569年)、播州館野城の「赤松」氏が姫路城に攻め入って来た。黒田官兵衛(如水)の兵力三百足らずで戦い、赤松勢を撃退した。 天正三年(1575年)、織田信長に味方すべきか、毛利に従うべきかで官兵衛以外の重臣達は、毛利に従うべきとした。しかし官兵衛の進言により織田に味方する事になり、官兵衛は羽柴秀吉の取次で、織田信長に謁見する。 織田配下の「荒木村重」が、石山本願寺に加担し、官兵衛の主人、小寺政職も荒木村重と立場を同じくして毛利方に通じ、官兵衛が織田側に味方することを小寺政職と荒木村重に説得しに行くが、村重に有岡城の牢に幽閉されてしまった。 幽閉された官兵衛からの連絡が途絶えた信長は、人質の官兵衛の息子、松寿丸(黒田長政)を殺せと命じたが、「竹中半兵衛」の助命により、助かることになった。 天正七年(1579年)十月、有岡城は遂に陥落し、主家の小寺氏は滅亡し、幽閉されていた官兵衛は救出されたが足を病んでいた。 *・・・・ヤマトタケル(倭男具那王・小碓命=をうすのミコト・倭建御子)の「息吹山」の「白猪の神」と戦い、「三重にタギタギしく足ナエ」たカタリ・・・和歌に歌った「命の全けむ人は、たたみこも、平群の山の、熊白檮が葉を、髻華(うず)に挿せ、その子」・・・后、御子の歌った「濱つ千鳥、濱よは行かず、磯傳ふ」・・・の場面・・・そして「八尋白智鳥=白鳥=白鷺」なって「河内国の志幾」に飛んでいった・・・の重なりだろう・・・。 歩行困難となった官兵衛は秀吉から授けられた「陣輿」に乗って参謀司令官として軍兵の指揮をとることになる。 織田信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺され、秀吉の「中国大返し」に黒田官兵衛は秀吉軍を病死した竹中半兵衛に代わって采配を振るった。備中高松城の「水攻め」は、黒田官兵衛の戦術であったらしい。官兵衛は信長の死を知ってビビッた秀吉に即刻、毛利と和議を締結させ、「中国大返し」を敢行し、山崎の戦いで明智軍を撃破。 秀吉の死後、如水は、西軍影響下の天下をねらい、関が原の戦いを前後して所領近辺の九州全土を影響下に制圧するが、西軍が関ヶ原で敗北し、九州の制覇した領地を東軍勝利の家康に東軍の立場であった、として差出した。 「うすい・うとう」が「笛吹(ふえふき・テキスイ・ヂャクスイ)」の漢字に当てられて訓まれているのはナゼか?・・・「笛=竹(チク・たけ)+由(ユ・ゆう)」で、一般的には「竹の管に七つの穴」が開けられた楽器で、この穴は「五ッツ」とか「三ッツ」のモノもある。同音異字で、「竿(カン・さお)」に似ているが「ウ=竹+于」があり、「盗賊の頭」の意味もあり、「笙(ショウ)・尺八(シャクハチ)」と同様に「ふえ」と呼ぶ。「笛吹」が「うすい」とヨマレル理由は、 うすい=薄い・臼井・薄井・碓井・碓氷・臼居・・・雨水(ウスイ)・・・→笛吹(うすい) であるのか?・・・ 如水(ジョスイ・にょスイ・ミズのゴトク)=女+口+水 ↓ 女水(あまみず) ↓ 雨水(あまみず)」 ・・・「雨水(ウスイ)」と「笛吹(うすい)」・・・「笛吹き」は「盗賊の頭」でもあった・・・・「臼居」に似た人名漢字は「琵琶行」や、「長恨歌」の作詩者である白楽天の「白居易」である。「白」は親指と爪の形の合字であるらしい。「兎に角」、「うとう」とは同音異字では「卯等・鵜等・討とう・善知鳥」で「ウサギ」や「ウ」に等しい・・・「善知鳥(うとう・ゼンチチョウ)」とは「海雀科の小鳥」で北方の海にいるらしい。「烏兎(ウト)」とは太陽(金烏)と月(玉兎)のコトである・・・まったく、鬱陶しく、疎うしい・・・「ウトウ(右党)」とは政治思想の右翼だが、酒が飲めないボクのような「アマイ(甘い)モノ」が好きな奴で「下戸」と云うことだ。ならば「サトウ(左党)」は酒飲みの「大虎」であるな・・・「上戸」と言うわけだ。 鼠=臼(うす・キュウ)+爪(つめ・ソウ・ショウ)+::(雨水・うすい・あまみず)」 ↓ 「渦(ウズ)の津目(ツメ)、笛吹(うすい)の海女(あま)の巳(み)の頭(ず)」 で、 「渦の津の眼を手首にした「人差し指の形」は「淡路島」のその「爪の先」は、 真北に「明石=あかし=証し」。 「淡路島」は左の手を握って人差し指を指しているように見える
「明石」が「証すモノ」とは「日本標準時間の基点の東経度(135度)」である。 「明石」の真北延長に京都府の日本海側の「磯(キ・いそ・イソ・ISO-)」が存在する。 「iso-」は接頭語の「同等」で、英語の発音は「アイソ」である・・・「相磯・合い素・哀訴・愛想」・・・? 参考 ↓ 明石の城は室町時代中期当時の豪族、明石氏がその拠点として造った、現在の神戸市西区にある「枝吉(しきつ)」城。 後に、豊臣秀吉が天下を統一し、キリシタン(切支丹)大名の「高山右近」が領主となる。 1886(明治19)年7月12日に、明石市を通る東経「135度」の子午線を、日本の標準時子午線とした。 1888(明治21)年1月1日午前0時より、明石の地方時間=日本の標準時間となった。 (明石市のHPから) まさに、この日から「帝国明治の日本」は始まったのさ・・・モチロン、古代史である「古事記」も「日本書紀」の「国産み」の原点とした、のさ。「淡路島」・・・ 「シゴセン」って「死後線」、「史悟線」、「詞語撰」、「史誤撰」じゃぁないだろうか、なッ。 徳島県と淡路島に挟まれた「鳴門海峡の渦の海人、海士、海女(津メ)、天女の(うすい=笛吹)」・・・「爪の先」を指し示す方角、北東には 兵庫県の「多聞」、「名谷」、「三田」、 京都府の「丹波・日吉」、 福井県の「名田庄」、「小浜・三方五湖」 ・・・オバマ(緒葉真)、あるいは、ショウヒン(商品・小品=ショウホン)、ミカタ(観方)、ゴコ(語古)・・・ 「鳴門海峡」は徳島県の島田島北東部の「孫崎」と淡路島南西部の「鳴門岬」の間に位置する部分。峡間は約 1km。鳴門海峡では瀬戸内海と外海の潮位の差により起こる天然記念物の「鳴門の渦潮」を四国寄りの部分で見ることができる。 「淡路島」は、国産みの神話で 『古事記』では「淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)」、 『日本書紀』では「淡路洲」と記録され、最初の「水蛭子(ひるこ)」、「淡島(あわしま)」の島産みに失敗した後 男:伊邪那岐命(古事記) 伊弉諾 尊(日本書紀) と 女:伊邪那美命(古事記) 伊弉冉 尊(日本書紀) の男女神が最初の「水蛭子(ひるこ)」、「淡島(あわしま)」の島産みに失敗した後、男カミが「天の御柱を左より廻り」、「あなにやし、えをとめを(阿那邇夜志、愛哀登賣哀)」、「天の御柱を左より廻り」、女カミが「あなにやし、えをとこを(阿那邇夜志、愛哀登古哀)」と出合った所で言って産んだと語られている。 あなにやし、 えをとめを 阿那邇夜志、愛哀登賣哀 ↓ 亞名似香具師、得音目緒 (夜詞) あなにやし、 えをとこを 阿那邇夜志、愛哀登古哀 ↓ 亞名似香具師、得音故緒 (夜詞) ・・・亞の名の似の夜の侍、・・・・孔、穴の夜の十二星座の十一の心・・・ 江戸時代には、徳島藩の知行地。明治維新期の廃藩置県によって、徳島藩は名東県に改組されたが、庚午事変(稲田騒動)が遠因となり、1876年8月21日に名東県が分割されると、淡路島は兵庫県に編入された。 (参考:淡路島のHP) 淡路島は戦国時代の末期は「蜂須賀家」の所領。 蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ、大永6年・1526年~天正14年5月22日・1586年7月8日)は羽柴秀吉の家臣。 蜂須賀正利の子。 蜂須賀小六(ころく)として有名。 後に「彦右衛門」。 秀吉を主人とした後、美濃「墨俣」築城の一夜城は有名。 1585年、秀吉から「阿波一国(淡路島も含む)」を与えられたが、正勝はこれを子の蜂須賀家政に譲った。 「蜂須賀(ハチスカ)」を名乗る一族は愛知県の海部郡にもいる・・・のだが・・・葉の智の素の掛・・・ 「蜂須賀家の子孫」が「明治天皇」に吊るされた・・・?・・・阿波踊りじゃぁなく・・・CIGARETTE(シガレット)の盗みで・・・で、「古事記」には「太閤・古事記(?)」とか、「秀吉・古事記(?)」とかがあるらしぃ、と以前、何かの本でヨンだんだけれども、ボク自身は、いまだにみた事はない。 とにかく、「殉教者」の古代ローマ式「磔刑」は「秀吉の時代」からだろう・・・ TAROTカードの「吊るされ人」の絵柄はT字形に右足を吊るされ、左足は曲げて右太ももに重ねられた下にあり、両腕は背後に縛られている。青い服、赤いタイツ、黄色い靴を履き、頭部には後光が輝いている・・・ 一般的には「自己犠牲・殉教」の意味であるが・・・法を破ったものに対する「磔刑」である。 キミはハリゥッド映画の「アンタッチャブル」・・・みたか・・・ナッ。あの駅での階段の上から乳母車に乗せられた幼い子供がカタコト、ガタゴトと銃撃戦の中を降りていく・・・「戦艦ポチョムキン」のロシア革命の「血の日曜日」のシーンの再現・・・監督「セルゲイ・エイゼンシュタイン」は日本の「和歌」や「連歌」を研究していたらしい。映画制作の一カットと次の一カットの繋ぎ目の発想にはまさに「連歌」的な発想が要求された、のカモ。 戦艦ポチョムキン、1905年のロシア革命で士官に対して船員が反乱を起こした。 この事件を劇化したのが映画『戦艦ポチョムキン』である。第一次ロシア革命の内のひとつの事件であった「ポチョムキンの反乱」は、「血の日曜日事件」の影響から1905年6月30日にクニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー艦上で起こった。 事件は1925年に映画『戦艦ポチョムキン』(監督セルゲイ・エイゼンシュテイン)に描かれ、この実際の反乱船員のほとんどはウクライナ人であったらしい。映画では黒海艦隊全体が叛乱ポチョムキンに賛同を表する形でフィナーレが描かれている。 (参考:ウィキペディア) 「戦艦ポチョムキン」の「映画」は「事実」もあるが、スベテが「事実」ではない、「歴史的事実」を「物語・シナリオ」として「竄改・改竄」して「フイルム」とし、その「映像」をボク達は観たわけである。「事実」と「虚構」が重なっているものである。観賞する側の立場はどんなものであってもイイが、つくられたモノがどんな意図の立場で作られたのかを踏まえねば「事実」は見えてこないであろう。映画のみではない、文字で「記録」されたモノ、書籍類はコトバとしての「本当=真実」ではないコトを・・・「本能寺の変」とは、「本(品・叛・反・奔・翻)」の「能(埜・廼・乃・之・野)」の「字」の「変」・・・・で、疑って観ることだ・・・ダ、ナ。 1930年代のシカゴ、「アル・カポネ」と「エリオット」の戦い。 製作:アート・リンソン 監督:ブライアン・デ・パルマ 脚本:デイヴィッド・マメット 撮影:スティーブン・H・ブラム 音楽:エンニオ・モリコーネ 編集:ジェリー・グリーンバーグ ビル・パンコウ 美術:ウィリアム・A・エリオット 出演:ケヴィン・コスナー :ショーン・コネリー :ロバート・デニロ 「禁酒法」をアメリカ議会が成立させ、そして廃止した期間の物語である。確かに「AMERICA合衆国」は現在も本質的には「事業家=カポネ」と「国家官僚=エリオット」の「資本主義国家」ではアルなっ。カポネは「権力」である。エリオットも「権力」である。この双方の「権力の基盤」を支えているモノは人々から掠め取った「上納金」と「税金」の「膨大なカネ」である。カポネが掠めたカネは「130億ドル」だったらしいが、エリオットが雇われた「国家」の「税金」からみればどォって言うことの金額じゃない・・・「ジパング」も本質的にはこの「くに」とたいした変わりはない・・・最近、世間のニュースでは感覚的にマヒするような「億円単位の金」が個人の儲けや、宝くじ、役人のネコババ、あるいは政治家の贈収賄で飛びかっている。100万単位、1000万単位なんかは目も無く、当たり前・・・ 「ショーン・コネリー」が演じる老警察官・・・「警察官の義務は生きて家に無事戻るコト」・・・踏み切りで自殺未遂の女性を助けようとして電車にはねられて「殉職死亡の警察官」・・・本当の「お巡りさん」・・・ハナシだけでも涙がでる。 「デニロ」が演じる事業家・・・「野球の攻撃は打者の技術としての個人プレイ、点をカセがなきゃ・・・だが守備はチームプレイである」・・・まさにドンな組織であろうが「組織を守るタメ」には「ルール」に基づいた「チームプレイ」が必要である、なっ。ギャング組織であろうが、国家組織であろうが背信行為や裏切り行為があれば「組織崩壊」する。 カポネを裁く「裁判官」、「陪審員」がスベテ「買収」されていた。ちょっと違うけれど日本の「検察官・裁判官」が「裏金」を告発しようとした「元検事(三井某)」にマルで「吊るん」で(?)、実刑、罰金の判決を言い渡した・・・ようなのだ。 「ケヴィン」が演じるエリオットの任務を終えた時に「禁酒法」が無くなった・・・「家に帰って一杯やるさッ」・・・ ・・・「法」って、ナンダロウかね?・・・特に「禁酒法」なんて言う人間の食生活に欠かせなくなってきたモノを「公法」で「禁止」する・・・この法律で莫大な財産を築いたのは「ケネディ兄弟の父親」もその一人だった、とか、とも言われている・・・のだが・・・当時、黒人スラム街の存在すらも知らなかった「ケネデイ兄弟」はかってのアメリカの「救世主」だったのだろうか・・・「吊るされニン」・・・ 「淡路島ー左手の人差し指を指差すように握った形ー爪の真北、東経135度上ー明石ー磯ー指先方向は東北ー三田ー丹波ー小浜」・・・「小浜」、あるいは「小浜出身者」にはどのような「人物」が存在したのか・・・江戸時代は「蘭学者」達であった。 「現存・古事記・三帖」は最古の日本書籍とされるが・・・応安四・五年(1371~1372)に真福寺の「賢瑜」が「写本」したモノで、「尾張藩・名古屋・大須観音・大須文庫」・・・に存在している。 ・・・「応・安・四~五年」とは疑わしい・・・「欧案の史の語の練(錬)」か、「歐行の詞、語念」だろう・・・。