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論理学・範疇論・概念論・・・心的唯物論


   論理学・範疇論・概念論・・・心的唯物論

                視覚                 ↓↑               実物、実体

  心的領域に獲得された「ハコ」の形象、観念の措定                  ↓↑   経験として「既得した形象、概念」の使用による           頭脳領域での言語・観念活動                  ↓↑           形象構造の構成要素、部分の分解、分析思考      抽象化、一般概念化

 頭脳領域での言語規定                  ↓↑                 「箱」                  ↓↑        特殊個別的観念規定=固有名詞化                  ↓↑            モウ君の「おもちゃ箱」等  一般概念の「コトバ」としての「ハコ」はどのような「認識思惟活動」として、その結果規定としての「箱」として説明されるか・・・この「箱の構造」を見えるところから「構造部分、要素分析」すれば、   「①②③④⑤⑥⑦⑧⑨」は「辺・縁」である。   「ABC」は「面」である。   「abcdefg」は「角」である。   「A」の「一面」は、「⑤①⑥⑦」の「四縁=四辺」の「関係」からなっている。   「⑤」と「①」の縁は「a」の「接点」を有し、その「角度」は「90度」である。   「①」と「⑥」の縁は「d」の「接点」を有し、その「角度」は「90度」である。   「⑥」と「⑦」の縁は「e」の「接点」を有し、その「角度」は「90度」である。   「⑦」と「⑤」の縁は「g」の「接点」を有し、その「角度」は「90度」である。   「A面」は「正方形」である。   「A面の色」は「深緑」である。   「A面」は片開きの蓋である。   「スベテの面」の「素材」は「ブリキ」である。   「B面の色」は「薄緑」である。   「C面の色」は「紫」である。  等などで、この「箱」は見えないところも「推理」判断すれば、  色分けされた「六面の正方形」と、「十二辺」の「関係」から成る「立方体構造」で、内部は「空間」である。  「A面」は片開きの蓋である。「素材」のブリキ自体の諸要素、ペンキ自体の諸要素等、この「箱」の「分解分析の構成諸要素」はとてつもなく出て来る。  そして、これらの「構成諸要素の総合観念=一般概念=コトバ」として「箱」と言う。  「ハコ」には色々様々な「ハコ」があるが、色々とは人間生活に於いて「使用目的=利用目的」に於ける種類別に特殊、個別で、更に独特な構造を有した「ハコ」も造られる。  では「箱」とは「何か?」と自問すれば・・・観念=コトバの説明は「道具=使用目的物」としての何物モノかを入れる空洞体の容器である。一般的な意味説明は「入れモノの一」であると言われるモノである。  そして実物の「ハコ」を「コトバ化された系統」とするならば、一般概念の「範疇」は「道具」の部類である。  「浦島太郎」は「日下太郎」だった、らしい・・・「おと姫=乙姫=音秘め」さまのくれた「玉手箱(筥=キョ・コ・円形のハコ)=(笥=シ・ス)」には「ケムリ(紫雲三筋)」が入っていた・・・ケムリ(懸務理・懸ム里=懸私里・懸鵡理・化無理)=煙=エン=縁?・・・相聞歌では・・・  乙姫  會者定離ゑしゃぢゃうりのならひとて、逢ふ者は必ず別るゝとは知りながら、とゞめ難くてかくなむ、日かずへてかさねし夜半の旅衣たち別れつゝ〔立つと衣を裁つとかけた〕いつかきて見む〔來てと著てとをかけた〕

 浦島返歌、

 別れゆくうはの空なる〔うはの空であるから空虚の意で、からと唐をかけた〕から衣ちぎり深くば又もきてみむ  (『お伽草子』・校註日本文學大系19 國民圖書株式會社 1925.9.23・・・HPより拝借しました)  「多(他)真出葉拠=たまてばこ=筥(キョ・コ・円形のハコ)=笥(シ・ス)」・・・ナルホド、「合うモノは離れるのが理屈」ではある。「別離するモノは空虚」で、「また、キテ(帰出・企弖・記)、みん」である・・・「竜宮城」で太郎が滞在していた「時間」は「現実の時間」よりも速かったのか?・・・確かに「心理学」で言われている「夢」に於ける「時間感覚」である。「丹後国風土記」の浦島太郎は「与謝郡・日置町・筒川村」の生まれであるらしいが、若狭湾の西岸に沿って、丹後筒川には、「宇良神社」が存在し、南に下ると、       /久住  伊根→日置→籠神社→天橋立→阿蘇海→宮津→大江山→皇大神社」       \大宮売神社      ↓↑                  ↓↑  がある。            ↓↑                  ↓↑                  ↓↑  /筑後川・・・博多湾  九州・・・旧州・旧宗・吸収→→→阿蘇山ー大野川・・・ 別府湾                     \五ヶ瀬川・・日向灘  「奥丹後=オクタンゴ=置く単語」の「与+謝(言を射る)・郡(君の邑)」=ヨサ・グン=「予作・具務」とは・・・?・・・この辺りの地名は九州の阿蘇山を中心にした三筋=三川=三河の、  博多湾にそそぐ筑後川  別府湾にそそぐ大野川  日向灘にそそぐ五ヶ瀬川  に沿った周辺の地名が重なっている。  三筋(みすじ)=三・・・・参・參=サン(纂)・シン=審・晋・振   筋=竹     +     月(獣扁=ケモノ扁=・ジク扁=字句変)     +     力(リキ)     ↓     リキ=利器・理記・里記・履記・裏記  とにかく、長野県の山中の「寝覚めの床」にも浦島伝説があるらしいが、この謎を解くもっともらしいモノのは同じ伝説を有した人々の移動、移民である。とにかく、「ウラシマ」を同音異字で採れば、「裏の使の真」か、「ウラ(有等)・シマ(思眞)」か、「ウラ(得拉)シマ(揣摩)」、「裏の史の眞」か、「裏の詞の真」で、「得(ウ)(ラ=楽しげに見る)の誌(シ)の真(マ)」等で、裏の真実の謎は「白いケムリ=ハクエン=履く縁=履歴の縁」のようなモノらしい。「太郎=太+郎」と言う名前も意味深長である。「太安萬侶」は「古事記編纂の立役者」だったが・・・「ケムリ=紫雲三筋」は「紫=此+糸=此れイト」の「雲=雨+云(二+ム)=アマの云う=アマの次ぎのヨコシマ」、「三つ」の「筋=竹のジクのチカラ」で、「紫雲」とは、「筑紫」と「出雲」の「参筋=纂筋」の意味だろう・・・「参勤(交替)=纂筋交替」かも・・・  横道に反れてしまった・・・とにかく、一般的な漢字文字では「箱・函」である。「箱」は「竹+相」であるから、「箱」の素材はムカシは竹だったのだ。「函」はイメージ的には「凵+了+水」であるから「水を入れる容器と蓋」を象形したようにも思えるが「凵」の中には「豕(ブタ・ゐの子)」が入れられているようにも思える。俗字の別字には「凾」があり、「凵+口+了+又(右手)」である。「又」は「叉(刺す叉)」の類字がある。旧字では「=凵+マ+羊」で、意味は「矢を入れる容器である」らしいが、「マ」は漢字ではハッキリとその意味するモノが判らないが、「マ」は字形の「ム(シ・ボウ・モ・よこしまの源字)」を70度に角度を変え、反転させた漢字である。    ム→→25度→→70度→←反転→→マ

「予(あたえる・あずかる・ヨ・与)=マ+了」、  「豫」=予+象  「矛(ほこ・ム・鉾)=マ(ムの反転、シ・ボウ・モ・よこしま)               +               了(リョウ)               +               ノ(ヘツ・ヘチ)」  などの漢字の構成部分で、「予=マの終了・マを与える・マを預る=ム(シ・ボウ・モ・よこしま)の70度を変化させたマを預かる」である。「矛=マの柄」だとするならば、「マ」は「両刃の剣(鉾)、武器」である。ならば、「函」はハコに入れた「羊(ひつじ・食料・生活必需品)」を「鉾=武器」で守ると、言うことらしいのだが、ならば「函」の中身は「豕(ぶた)」であるかも。「武=戈+止」は「鉾で戦乱を防ぎ止める」の意味である。「予=鉾の了=ホコを収める」で戦いの終了のことらしい。そして「武」は「一足の長さ、半歩。わが国の一歩で、三尺」である。  「予」の異字が「豫」であるならば「あずかるモノ、与えられるモノ」は「象」である。「預言(神からあづかった言葉)」と「豫言(未来予測する言葉)」は異なるのだが、  「預=予+頁(書物のページ=旧約聖書)」で、  「予=豫=予+象(象形・像・観念の象徴       =表象       =抽象的な精神内容を         具体的な事物によって連想させるコト)       =認識された観念のカタチ(象形)」  ならば、まさに「漢字=象形文字」である。面白いことに「象嵌=象眼」の漢字熟語は、私の漢和辞典では「金属板に模様を刻み込み、そのキザミに金銀をはめ込むコト」とあり、他の説明には「印刷で鉛版の中の修正部分切り抜いて別の字をはめ込むコト」とある。「象眼」とは「文字を別な文字に取り替えるコト」なのだ。そして、「象(ぞう・ショウ)」とは「鼻(はな・ガン)」が長く、「耳(みみ・ジ)」が大きく、「牙(きば・ガ)」を有する哺乳類である・・・ショウ・ガン・ジ・ガ・・・省・含・自・我・・・自我を含めて省みる・・・  とにかく、一般的には「ハコ」は中身を保持、保存する「使用目的・利用目的」のモノ(道具)である。  ここで図で示した「ハコ」は、一般的な「ハコ」ではなく、現実的に私の家にある「特殊個別的」な「箱」で、ワタクシの飼いネコである「モウ君のオモチャ箱」に使用されているモノである。  人間が、その「対象物」に対して、「分解、分析」し、その「部分要素」の意味をハッキリさせるのだが、その「分解、分析の対象物」を厳密に区別するならば、  ①、構造分解、(分析)・・・岩鉱物、機械的人工物                ・・・無生物=カラクリ人形                ・・・部分品に分解し、                  全体再構成の部品に出来る  ②、形態分析、(分解)・・・動植物、生物的自然     生態分析、(解剖)                ・・・生態物=生き物                ・・・諸器官を解剖分析出来るが                  一旦バラバラに分解し、                  器官の細胞活動が停止すると                  「生きた器官」としては                  全体再構成の部分器官に使えない                  部分器官の欠如は                  全体活動を不安定にする                  他の細胞が欠如器官を甦生したり                  他の器官がその機能性を                  兼ね併せる場合もある  の二つがある、としておこう。  それ自身が「①、無生物」である部分品から「全体構成、構造」されているいるモノは人工の内燃機関の部分を持たない限り、それ自体も全体も活動しない。・・・「腐食・酸化」で変化はするかも。  それ自身が「②、動植物=生態」であるモノは全体が生きた細胞による部分器官の関係相互諸作用=エネルギー変換作用(電気・化学・熱)によって部分=全体=部分として活動している。だが、人類は「生命活動の根源的相互作用」を未だに解明出来てはいない。生物の単一のタンパク質形成は、それ自体では「形成」されず、他の複数の「タンパク質(シャペロン)」が形成を促す関係で「形成」されていくらしい。受精卵による細胞分裂に於ける増殖形成の初期段階で「ホックス遺伝子」と言うものが動物の五体構造の各器官部分を決定していくらしい、のだ。  要するに自然的な外的環境の中で生物体は「部分と部分、部分と全体、全体と部分、部分と部分」が同時進行的に連携作用するコトで「生命活動」をしているらしいのだ。だから「部分要素」を解明したからと言って、その「要素の生命活動」は明らかにはされないのである。これが、  「②、形態分析=生態分析=生態物の要素と諸要素関係、関連作用の動的分析」  である。  機械論的な「①、無生命体の構造の一部分の固定(静的)分析」と、生態論的な「②、生命体の形態諸部分の相互関連作用(動的)分析」の区別性である。・・・「②」に於いては、当然にも「分析概念の意味」は「諸要素と、それらの全体的な諸関係」となるから複雑になってくる。  「哲学」、「論理学」などの欧米モノの翻訳が難解なのは、見慣れぬ漢字とカタカナをゴッサリ使用し、「屁理屈」のように思える「論理展開」しているからだ。「弁証法」とか、「質と量」、「対立物の統一」とか、「否定の否定」とか、「止揚」とか、「非連続の連続」とか、「正・反・合」とか・・・これらのコトバはハッキリとその意味が「規定」されていなくては論理展開の合理性は望めない。アイマイ、漠然では困るのである。しかもこれらの「コトバ=観念」は「抽象化された観念・概念」であるから、思考文脈には対象の実体、虚体であるところの  「何か=コトバ化された事物」を  「主語=コトバ」として、  その  「何か=コトバ」を  「他の何か=コトバ化された他の事物」との  「動的諸関係の作用=コトバ化された事物の反応作用」のプロセスとして、  そして、  その結果の「変化完了のコトバ」  での説明が必要である。  「諸物質」は「時間の枠内」での「諸関係」で「諸変化」するのであるから、その「諸物質」の「コトバ」での説明は「変化進行形」で、その「物質諸変化作用」の「始点時間」と「完了時間」の「プロセスの枠内」での説明となる。そして「時間」とは「諸物質」の「変化」の「抽象概念」なのだ。ついでに言えば「空間」とは「物質」と「物質」との関係(間隙)の「抽象概念」である。・・・「モノ」は「絶対的な単体」としては存在せず、「モノとモノ」との「相互諸関係」で「動的に存在」するのだ。ここで述べているワタクシの「相互諸関係」とは、一般的に言われているあの偉大な人物の「時空の特殊相対論」とは異なるのだ。ワタクシ的に考えれば「時空」と言う概念は「物質の概念」を「抽象化」しているモノではないからだ。「時空概念」は「思考自体の概念」であるから「純粋な観念論」である。  その「モノとモノの諸関係・諸作用」のうごめいている変化プロセスと変化の段階をスベテを含んだ一般的な抽象概念が「宇宙」である。      変化・・時間・・モノとモノの諸関係の作用     /         ↓  モノ・・・・・・・・・・・・・モノの質的と量的な始終としての段階的変化形態     \         ↑      変化・・空間・・モノとモノの間隙諸関係の作用  である。「時間」自体や「空間」自体が実在すると考えてはイケナイのだ。あえて言えば、「空間=間隙」とは物質諸作用の「諸エネルギー」の「媒体」である。それは「A物質とB物質」の「遠近距離の位置関係」で「物質変化の媒体」ある。「空間」が存在しないモノは「変化しない」のだ。「空間」は「存在変化の絶対条件」である。「空間」は「諸物質の諸関係に於けるあらゆる変化の要」である。  「物質変化の遠近距離の位置関係(AとBの間)」とは「物質変化の相転移の境界点(←・→)=(氷←・→水←・→蒸気)」である。       相転移の温度境界点→+←相転移への変化境界近接距離間=密度          ↓    ↓            ↓    ↓         0度  100度       物質間密度による衝撃点での力      (氷←・→水←・→蒸気)       ∥    ∥    ∥       個体  液体   気体  物質の存在に於いて「密度空間」が無いモノは存在しないのだ。と言うことは「密度空間」を有するモノが「物質存在」のあり方である、と言うことに尽きる。  そして「空間密度」とは「熱=温度=エネルギー変化の位相(異相)」である。  「 水分子   = H +2O」・・・「  氷←・→H2O=水(分子)←・→蒸気    」  「 水素原子 = B + C 」・・・「- C電子←・→H=水素(原子)←・→ + B陽子」  としてのみ存在できるのだ。ここでの記号「+」は「空間」である。「分子」は原子結合(空間位置関係)によって、それ自体が「安定物質」であり、その「分子」は「温度=熱=物質間の密度」によって「相転移変化」する。  物理学では「温度=熱」とは金属原子や分子の「運動=振動」であるらしい。これは別な言葉に置き換えれば「運動=振動」とは、ある場所的状態に於ける「多数の物質と物質の空間密度差の位相状態」のコトだろう。  「原子」としての「安定物質」は「B」も「C」も、それ自体では安定存在し得ないのだ。あらゆる存在は「B」と「C」の部分から成る、「原子としての構造形態」としてのみ「安定存在」し得る。原子構造を分離した「+ B陽子」も「- C電子」も「単体」としては「不安定物質」である。「+ B陽子」と「- C電子」は「プラズマ」と言われるモノだ。ワタクシ的に考えれば「不安定なプラズマ」自体が、「他物質」を変化させる「エネルギー」そのもののように思えるのだが・・・  電圧(V)=電流(A)×抵抗(Ω)  電流(A)=電圧(V)÷抵抗(Ω)  抵抗(Ω)=電圧(V)÷電流(A)  電流(電磁波)がある物質内の抵抗にあうと「熱」が発生する。電熱器の電気がニクロム線で「熱」に変換されるコトや、電磁調理器の電磁波を「鉄鍋」が「熱」に変換等は電流、電磁波の流れがそれらの「金属内」の抵抗を受けた結果であるらしいのだ・・・「電流(電磁波)」は電流物体の抵抗を受けて「熱」に変換される。  ある金属物質に電流が流れれば必ずその物質の周りに「電磁場」ができる。  「絶対温度0(℃-273.15)」で「電気が通る物質」の存在が確認されているらしい・・・「超伝(電)導」と呼ばれているモノだ。この「絶対温度0」では二つの説があった。すなわち、「物質」は「絶対温度0度」では「運動」しないと言う説(電気抵抗が無限大になって電子運動が停止する)。逆に「絶対温度0度」では電気抵抗が「ゼロ」になって電気が通ると言う説で、現在は電気抵抗0で電気が通るということらしいのだ・・・金属内の電気(電子の流れ)抵抗物が、その抵抗をゼロにする、と言うモノだ。  金属内の「+の格子」とその格子の周りを飛び交う無数の「- 自由電子」が存在し、その「+の格子」と「- 電子」が電気的中性の調和を保っているコトで、スナワチ、「安定」だから、このバランスを崩す電圧をかけると「電流(- 電子の移動)」が流れ出す、その電子の流れを妨害するモノが、「+の格子」=「抵抗」らしいのだ。  -      -        -     -・・・- 電子   \   /\   /\   /  +↓+↑+↓+↑+↓+↑・・・・+の格子=抵抗   +↓+↑+↓+↑+↓+↑・・・+の格子のズレ=振動     \/    \/    \/       -       -     -  結論的には「-B電子(電気)に対する抵抗」とは「+の格子の振動」にあるらしいのだ。だが、何故に「+の格子」がそれ自体で「振動」しているのか?・・・この「振動」は物質内部が、外部からその構造的部分に影響を与えている関係であるハズだが?・・・すると「- 電子の移動」そのものが「+の格子を歪ませてしまう」、これが「+の格子の振動」の原因であるらしい。「温度=熱」とは金属原子や分子の「運動=振動」であるから低温度(高密度)にすれば運動が鈍くなり、電気抵抗は小さくなる。高温度(低密度)にすれば運動が速くなるので電気抵抗は大きくなる、と言うわけだ・・・だが物質の有する性格(+の格子の振動)=電気抵抗は変わらないから「超伝導」はありえない?  ・・・だが「絶対温度0」では「電磁誘導」が「超伝導」を可能にする・・・難しいネッ。「BCS理論」・・・?・・・「-A -B 電子(電気)」が二つの対のペァで流れ、一つの「-B 電子(電気)」が「+の格子」に衝突して抵抗にあっても、もう一つの「-A 電子(電気)」が「+の格子」の抵抗を受けずに流れていく・・・?・・・「+の格子」の方は「+C +Dの格子」のペァにはならないのか・・・ネッ?  -A     -        -     -・・・「-A 電子」は無抵抗で流れる  -B     -        -     -   \   /\    /\   /\  +↓+↑+↓+↑+↓+↑・・・「+の格子」は「-B 電子」に抵抗    \ /    \ /   \ /      -       -     -      -       -     -  とにかく・・・「超伝導状態」とは「物質を絶対温度0(℃-273.15)で冷やしただけで、物質そのものに「電磁場」が無くなってしまう相転移現象」であるらしいのだ。  リング状の超伝導の電磁場(+ -)が「0」になるとどうなるのか?・・・電気抵抗が無くなれば電気(電流・電子)は永久に流れ続ける・・・「マイスナー効果」・・・  現在、超伝導とは「電気抵抗ゼロ」と、「マイスナー効果」で理論的に説明されているらしい。「マイスナー効果」とは金属物質が超伝導状態になると磁場がその中に進入できなくなる現象である。超伝導体を強力な磁石の上に置くと、「反発力」のため浮きあがる現象である。この「反発」とは「超伝導体」が「磁力の磁場」を拒否反応するコトであるらしい。永久磁石の「N極←*→N極」の反発、「S極←*→S極」の反発と同じような現象。  結果、「超伝(電)導」とは「温度・磁場・電気」のある限定された条件、「臨界場」でしか起らない現象であるコトが理解されるようになったらしい。そして、現在的には「超伝(電)導」と「常伝(電)導」の重なる状態での理論ができているらしい、のだ。  「超伝(電)導」も「常伝(電)導」も  「物質の密度」が「電子」を動かす、である・・・「密度」とは物質変化のあらゆる条件を含んでいる?  イヤァ~、私自身がどこまで理解しているんだか・・・現実的事象の現象を「整合性のある論理」で説明すると言うことは複雑で難しい。もちろん、「理解」するコトも。  当然、「論理学」に於ける事物、事象の存在と変化は「コトバ(観念)の論理」として、これを「近似値的」に合致させて説明するモノである。  すべては「観念領域」での「事物をコトバ化したコトバでの思考と、その諸事物の存在、存在過程、結果の変化をコトバ化」した説明なのである。もちろん、「観念」とは「イメージ化された図形・記号」も含むモノである。  漢字的に考えれば「弁証法」とは「弁+証+法」で、「弁えて証明する方法」である。熟語として「花弁」、「弁似」、「弁別」、「弁論」、「弁識」、「弁護」、「弁合」、「弁理」等がある。「弁」には同意、同義の「辧」、「辨」、「瓣」の異字があるが、区別して物事をハッキリさせる意味である。そして「文体の名。言行の是非・真偽を論断する目的で作るもの」とある。「弁証法」は漢字の熟語には無く、明治の日本人が「哲学用語」として創り出したモノであった。  「弁」とは区別、分別するの意味なら、  ⑧生物  ↓↑  ⑦植物・・・・・・生物一般としての特殊な植物  ↓↑  ⑥樹木・・・・・・植物一般としての特殊な樹木  ↓↑  ⑤落葉樹木・・・樹木一般としての特殊な落葉樹木  ↓↑  ④落葉低木・・・落葉樹木一般としての特殊な落葉低木  ↓↑  ③バラの花・・・常緑低木一般に咲くバラの花一般  ↓↑  ②赤いバラ・・・バラの花一般の特殊な赤いバラの花  ↓↑  ①彼氏が私にくれた特殊で、個別=固有の独自な赤いバラ一本  この「・・・一般」と言う「コトバ」の実体は存在しない。①~⑧への概念は事物の「共通項」を有する「分類、弁別」上の「概念=観念=コトバ」である。「①特殊で個別、固有で、独自な赤いバラ一本」だけが私の現実現前に存在し、その存在の共通項の系統を「コトバ化」したモノが「②~⑧」である。この「①赤いバラ一本」を抽象化していけば、「生物=生き物」と言う大枠の「範疇」にある。この「①バラ」は、コトバ=観念で「⑧生物」の系統分類されたモノである。このコトバの「①~⑧」は経験的な過去の学習に於ける記憶された知識のパターンでもある。そして人間の「脳活動」は既に得た経験的に記憶された知識を導引、検索して、「事物=コトバ」の分類、分別の一般性と特殊性、個別性、独自性の系統的な関連性を「直観的」に思考、判断する。「直観」の中身は「再思考・再確認」であるが、その判断時間は短い。そして、その結果判断の意味を主観的に自己納得している場合は日常性では「客観的で系統的な論理」は省かれたり、アバウトであまり問題にしない。日常的なコミュニケーションに於いては「赤いバラ一本」の説明を「①~⑧」であるなどとは説明しない。「自明の常識」であるコトが前提だからだ。論理に不整合な部分があると気がついたときにはソレを再思考し、修正、訂正をして記憶にしまい込む。疑問が残ればそれ自体を「疑問」として記憶に貯蔵するのが一般的であるからだ。  「疑問」に整合性のある「解答」を与えるモノは「推理・推断」の「思考方法」の検討、再検討である。「物事の事実と一致しない場合」が「疑問」であるが、「既得した論理的な思考による仮定設定」が「事物のあり方」と一致しない場合は、「考え方を変える」のだ。  「論理学」はその漢字の通りに「論理・理窟」の「学問」ならば、「コトバの叙述方法の学問」である。と同時に「コトバの認識理解の仕方の学問」で、「コトバ自体の意味の規定理解の学問」で、更に言えば「言語コミュニケーションの相互理解の学問」である。  「あるコトバ」は「ある時代性」に影響規定されて発生し、しかも既得した「歴史性のコトバ」を基礎に同系統のコトバを派生、変遷、変化させ「独自なコトバ」となるのだ。もちろん、共同体の諸個人の「共通観念=相互共通理解語」となって、はじめて「コトバ」の機能性を有するコトになる。  一般的には「五W・一H」による現前にある「事物・事件」の他者との相互理解の説明の仕方である。「五W」が具体的で相互共通のモノとして設定が無ければ、その伝達情報は混乱を招くに違いない。ある「事物、事象」を共通言語を有する複数の人間が現前現実に確認し、その「五W」が一致しないならば、誰かは別な「事物、事象」を見たか、ウソを言っているのだ。  「論理学」は単純に言えば、ある「コトバの歴史性と、その意味の説明性」を明らかにし、既に得たそれらの「コトバ」を駆使、使用して、ある「事物・事件」の意味を事実に沿って「コトバ化」して、その意味を明らかにする学問である。日常生活では当たり前の「観念活動」である。そして個人に於いての「共同体のコトバ」の獲得性も彼個人の「履歴性」と合致し、今現在の状況の中での彼の「観念活動」を規定するのだ。  すなわち、「事物・事象」の「コトバ」とは、  「一般的なコトバ」、  「特殊的なコトバ」、  「個別的なコトバ」、  「独自なコトバ」  に区別され、その「範疇と関連性」に於いて「頭脳の領域」で、その「意味」が「言語観念」として「理解、納得されるモノ」であるのだ。  「ヘーゲル」だ、「マルクス」だ、などと彼等の「翻訳された本」を「難解に理解」する必要はない。つまるところ、この二人の違いは一般的に、  ヘーゲル・・・「観念論」・・・「唯心論」  マルクス・・・「唯物論」  として、理解されているが、「ヘーゲル」は単なる「観念論者」でないし、「マルクス」は単なる「唯物論者」では無い。「唯物論」は「史的唯物論」とも言われているが、日本人のこれらの思い込み「観念・論」、「唯物・論」や、「既存の翻訳」にとらわれてはイケナイのだ。「論」は「モノの道理をコトバで説くコト・非理を弁じあうコト」で、「論証」である。「史的」とは「時間の始点と過程と終点」である。「時間」とは「モノの変化」のコトである。「史的唯物・論」とは「モノの変化をコトバで論述」したモノである。  「観念論」なら対立概念として「観物論」とすれば理解されやすかったハズだが・・・「唯物・論」とは誤解も賂苦解もする。  ・・・「観念論」+「観物論」=「心象(心的)唯物論」=「観念把握された事物の認識論=存在論」である。  「観念把握」とは、「事物、事象の認識の仕方」と「事物、事象の存在のあり方」を「コトバの論理」で考え、推理予測し、ハッキリ(推断)し、合致させる、と言うコトである。もちろん、「事物、事象の認識の仕方」と「事物、事象の存在のあり方」はどんなに細密に観察、思考しても「完全には一致しない」のだ。「近似値」としての位置関係にあるのだ。当然である。「事物、事象」は、「五感認識」、「観念認識」と「既存観念の媒介作用」で、時間的プロセスで思惟、思考され、結果として「観念記憶」されるモノだからである。人間がとらえて考えているモノは「事物、事象」そのものではなく、「観念としての事物、事象」であるからだ。アンタは「座頭の市」さんの立場になって、「心象の論理学」を考えて見るべきだな・・・序でに「市さんの居合い抜き」は彼個人が習得した「技能・才能」であり、「技術」そのモノではない。「技術」は「伎=技(わざ)」を「一般化」したモノで、「伎のやり方(方法)を実際に応用する理論(理屈・観念)」である。職人さん個人の「わざ」は「理屈ではない」のだ。身体そのもので得た経験的な「彼自身の特殊的技量」である。「感」といわれるモノである・・・何が「技術・論」であるんだか・・・職人ワザ(匠)とは「個人が親方から習得した特殊な感覚的技能、技量」のコトで、単なる「理屈=技術理論=方法論」の観念的範疇には入らないのサッ。だからこの分野範疇はサバンナや、ジャングル、自然界で狩をして生息している生き物の「動物的な感」と言われるモノなのだ。  「マルクス」の「論理学」は、  現前にある対象物(モノ)に  既得の観念(コトバ)を駆使、使用し、  その対象物の意味を考え、規定性を与え  その意味説明の統合、統一された  新たな「コトバ(観念)」を創り出し、  時代の社会的な  「共通相互理解」される「コトバ(観念)」とする、モノである。  それらは、  対象(五感の対象物)  ↓↑  五感の媒介  ↓↑  頭脳(観念領域・心象領域)領域内での対象設定  ↓↑  頭脳活動(観念思考)  ↓↑  意味分析(観念による要素分解)  ↓↑  対象に対する概念の付与  ↓↑  共同体に於ける共通言語としての相互承認  ↓↑  言語観念を駆使した設計による  新たな「道具、機械類」の「生産手段」発明  新たな「生活手段」の相互交換  言語観念を駆使した事物、事象の  推理、予測による仮説の実現性  そのあらゆる「対象(事物・観念的虚物、虚実、虚構、仮想も含む)」を「観念(コトバ)」で考える、と言う「論理学」なのである。  生物の「生態=形態論」の生命活動の「全体=部分=全体=部分=全体」としてのエネルギーの「伝達」と「相互変換、転換」としての「生体化学変化・生体電気学変化・生体熱学変化の反応作用」とその「変化」を踏まえるならば、「人間社会共同体」の「観念の情報伝達=言語の情報伝達=コトバの情報伝達」と、その受け取る側の「理解・誤解・曲解」こそは人間諸関係相互の個々人に影響し合い、行為、行動へ駆り立てていく「社会科学的反応作用」と「変化」を喚起する部分である。  この「論理学」は、ある「静的構造物」の対象分析(分解)された「要素部分のコトバ化された実体」を「組織的に実体構築」すれば、一つの「構造物」をモトのように創り出すことが出来る。「論理」と「実物」の一致である。これを一般的には「合理的」と言うのだが、「静的な構造物の要素還元」で、その「再構成」である。  だが、人類の対象分析の手本となるのは始原的には「動的な生物の形態=生態形」であったろう。自然自体の存在変化を含めて、特にその自然界の生きたモノの「形態分析・形態観察」が、人間の、人工の「物理的な構造物」の創造へと駆り立てたのに違いない。人間は「物の構造」を理解し得ても、「生物の生命形態」を理解できなかった・・・時代的な枠内で「生物の死体、死骸構造=モノの構造」としてしか理解できなかった・・・現在的に「染色体遺伝子」の「配列の存在形態」を「構造」と、その若干の「動的相互要素の機能作用」としてしか理解できてない。染色体遺伝子のあり方と、その機能、生物の部分器官発生の「設計図」のあり場所を判っても、まだ「生物」そのもの「命」を創り出せないでいるのだ。生物の細胞や種をもとにしてクローンとして再生できているだけである。その細胞の「構成要素成分」を知り得ても、その要素成分を混合させても「生命」は発生しないのだ。  諸物質の混合体が「自ら動的なモノ」になるのは、その「宇宙的存在環境の中でのあらゆる作用、反作用」が要求されるハズだ。そして、ある決定的時点での「相転移」によって「自ら動的なモノ」になるに違いない。  物理的相互作用・・・電磁気、熱、光、近接空間                ↓  化学的相互作用・・・諸元素の分子結合体と他の分子結合体                ↑         諸物質が動的に相転移する内的、外的な決定的状態  だが、「人工合成」としての生命の発生、発現は今のところ実現していないのだ。  始原的生命体として自然発生し、細胞分裂のプロセスを経て出来上がった「生物形態の各部分器官、各細胞」は全体と部分の連動、連携、媒介作用として自然環境の中で「物理的・化学的・電気的・熱量的エネルギーの転換連動作用の細胞変化(新陳代謝)のプロセス」で生きているらしい。「胚発生」に於いては全ての細胞が初期の段階で「十三回」までは同時に等分的分裂するらしいのだ。「十四回」からは各細胞は異なった速度で分裂し、そのなるべくモノとしての「五体の部分」として増殖形成されて行くらしい。(ヴィクトリア・エリザベス・フォー博士が1980年代に発見・アメリカ、ワシントン大学研究員)。  余談になるが「十三」は世界史、東洋史、日本史的に於いて「歴史上で記録された人物」の「十三歳」の時期の事件が符合する。日本に於いては「邪馬台国の壱与(與)」である。ギリシャに於いては「アレクサンダー」が「アリストテレス」から学問を習った時期である。もちろん、「十三日の金曜日」は「イエスがゴルゴダの丘で磔刑になった日」である。生物学的に「十三夜の月」はどのような影響があるのか・・・「十三」の逆数字、「三十日」は月の周期である、が。  とにかく、人間の「観念」はこの「生物の生きた形態の要素分析とその関連、作用の変化」を完璧に認識できるようになれば、その「コトバ=観念」を駆使、使用して「合理的なコトバの論理性」を更に緻密に深めていくのに違いない。  「生物形態」を基礎に「仮想された構造物」の設計図と、諸要素とその諸要素の関係接合部分を数字観念で合理的な数量計算されても、「生命体ではない物理的構造物」は出来上がる。「生命体」ではないが、構造物として自動車の「エンジン」等も「合理的」に創り出すことが出来る。動力エネルギー源としての「ガソリン→爆発→エネルギー→伝達→駆動」の化学的変化とその物理的動力駆動の合理的な「計算観念」で、「自動車製造=構造物」として可能である。「合理的説明」とは、  「物+合+理+的」で、  「実在物の存在のあり方と、その変化が、理屈(コトバ)と合致」する、  と言うことだ。「化学的」ばかりではなく、爆発点火回数とそのタイミングの「電気エネルギーの変化」も計算せねばならない。もちろん、車体の重量とそれを載せて駆動する車輪の回転数やその車輪と路面の関係も計算も・・・すべては「構造設計=コトバ・図形・記号=観念」の実体化である。だが、「構造設計=実体化」されたモノは例えコンピュータ頭脳を有し、動くモノであったとしても「生態物=生物」ではない・・・心の痛みを有する「鉄腕アトム」でもないカモ・・・漫画家、手塚治虫は完璧な「ロボット(アトム)」を「人間の心」を有するモノとして想定していた。だが、物語に登場させる敵役に言わせるのだ・・・完全なロボットとは「善の心」のみならず「悪の心」を有する存在だ、と・・・そして、作者は「アトラス」も「電光人間」も人間のエゴによって破壊されてしまう存在として描いた。鉄の腕を持つ「善の心」だけを持たされた「アトム」は「ピノキヲ=人間」にはなれなかったのだ。そして太陽に向ってその存在を終わらされてしまったのだ。  人間が獲得した「善悪観念」の根源は「自然=生成=破壊=物質のうごめき」そのものであり、その「人間社会共同体」を大枠で包んでいるモノが「自然」である。だが、「自然がもたらす災害」に対しては「悪」ではなく、如何ともしがたい「怖れ・恐怖・畏怖」である。「祈る」しか術はないのだ。「自然がもたらす恩恵」に対しては「善」ではなく、「喜び・歓喜・感謝礼賛」があるのみである。「祭る」のだ。そして、この「自然に対する感謝と畏怖」は、「人間社会共同体の枠内」では人間が人間を制裁するルールに「変化」する。個人的人間相互の生活諸関係では「共同体全体の維持と機能をまもるコト」が「善=安定・安心」となり、その「共同体全体の破壊、障害するコト」は「悪=不安定・恐怖」となるのだ。共同体のルールとして個人の「善の行い」に対しては全体からの「賞賛」であり、「悪の行い」に対しては「刑罰」である。共同体にとっての個人の「悪行」は「自然がもたらす災害、恩恵」にも関連、影響をもたらすモノとされ、「隔離」あるいは、「排除・追放・殺害・生贄、燔柴」となるのだ。「古事記」に於いては「天照大御神」の「岩と隠れ」の事件である。  人類は経験的に獲得した前の世代の「コトバ=観念」なしでは、時代、時代の共同体を支えることは出来てこなかった。だが、今現代、時代の新たな「コトバ=観念」の必要性は「共同体生活の現実性」が要請したモノであったのだ。だから時代の「事物・事象」はその意味を「歴史性」と「論理性」で合理的に明らかにされるべき「観念」とならざるを得ないのだが、複雑な現代社会の諸状況では「仮説」としての時間が必要である。そして、それは「共同体全体の個々人」が相互関係する生活に於いて必要であるが、アイマイな「共通観念」として社会的な不安をひきずりながら闊歩するであろう。  「論理学」とは、ワタクシ的に考えれば、「心象唯物論=心的唯物論」、あるいは「観念把握された事物の存在論」なのである。  この「①事物・事件」はすべて  ②五感を媒介に「コトバ(観念)とカタチ(観念形象)」として「頭脳領域」にとらえられ、  ③「頭脳領域の活動」で「既に歴史的時間的に獲得した既存のコトバ(観念)」で    その「意味を考え出され」、  ④その「意味を確定」された後、新たな「コトバ(概念・抽象化された観念)」となる  と言うことだ。五感を媒介にした「事物、事件の情報」を「頭脳(観念)」で考え、その「意味」を「記憶認識(観念保存)」し、その「客観性=共通認識」を他者との関係で確認していく「論理」である。  しかも、その「コトバの論理性」は「事物、事件の事実性と合致」せねばならない、というコトである。そして、この「論理学」は「コトバ(観念)」の発生が「社会共同体の人間生活の諸関係とその作用」に基盤を有する、としているモノなのだ。


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