top of page

論理学・範疇論・概念論・・・愛の現実論(1)


  論理学・範疇論・概念論・・・愛の現実論(1)  「観念論」の出発の原点は「カミのコトバ(観念)」か、「コトバ(観念)が初めにアリキ」である。西洋的な「カミ」を人類は未だその存在を「解明」できてはいない。と言うよりも「神」は人間の五感認識を禁止されたモノとして存在するのである。コレは実在としては「存在」しないも同然である。  だが、「旧約聖書の十戒(出エジプト記・二十章)」に語られている「神の言葉」は人間共同体内で必要欠くべからずの「コトバ」である。要約すれば、  ①殺すな、  ②騙すな、  ③盗むな  に尽きるのだ。ホトケも「五戒」で言ったようだが・・  ①不殺生戒 殺さない  ③不偸盗戒 盗まない    不邪淫戒 不倫しない  ②不妄語戒 嘘をつかない    不飲酒戒 酒を飲まない  「現代市民社会」の基本原則もこれに尽きる。「人間社会の共同体の論理学の帰結」も、この概念化された、抽象化された「コトバ」に事実として、その現実的な「生活形態」が合致せねばならないのは言うまでもないだろう・・・そして「③盗むな」が「論理の要」で「盗むコト」が「他のコトバ=観念=観念」に置き換えられて、その意味がアイマイにボカされているのだ。そのサイたるモノが「私的所有=疎外された富の蓄積」、「資本=疎外された労働」、「自由=疎外された選択」と言うコトバの肯定である。そして「②騙す」も「①殺す」も、生きている人間が「③盗むため」の手段である。  「新約聖書」に語られている「愛」はどうか?・・・「愛」と言う概念の歴史的発生とその論理性は、「①殺すな、②騙すな、③盗むな」の共同体の原則破綻から発生した「コトバ」である。人間にとって「愛」と言うコトバが必要とされる「人間社会」は「論理学」からみれば「人間の疎外された社会」である。当然にも「愛」は「天国」と言う観念幻想に止揚されてしまうからである。「愛」は、漢和辞典には、  「愛=爪+冖+心+夂(夊)」の合字で、「爪」は「掴みとる・衛る」、「冖」は「覆う」、「心」は「こころ」、「夂・夊=すいにょう」は「夂=チ・ついていく」で、「夊=スイ・ゆっくりといく・やすらかにゆく」である。  「愛」は、  ・・・「キ=既(皀旡)+心」=感歎、悲喜  ・・・「アイ=旡+心」=元気のない足取り  が変形したモノとある。「皀」は食べ物で、「旡」は喉につまる、むせぶ、息が詰まるの意味である。「皀」の上下の文字交換したモノが「旨(うまい)」である。また「旡」はたらふく食って後ろにのぞけっている象形、とある。食べるものが充分に確保されているコトだ。「愛」の本義は「食える・食わせる」と言うことらしい。なるほど、デートには食事に誘うのが常道であるなッ。「旡」は「牙(ガ・ゲ・きば)」にも「无(ム・ブ・無い)」にも類字し、「牙」は「武器」であり、「象牙」であり、「歯牙(ことば)」、「毒牙」であり、「仲介料、手数料をとる者」であり、「植物発生時の芽生えるコト」であり、「牙籤(ガセン・書名分類の象牙の札)」である。「无妄(ムボウ)」は「真実でいつわりの無い象」である、と記されている。  また、「愛」は、  仏教では「異性や物をむさぼり求めるコト・十二因縁の一」で、  キリストの「愛」は「神が人類に幸福を与えるコト。また、人類すべてを兄弟としていつくしむコト」  とある。仏教では「愛」は「欲望」と同義語である。キリスト教では幸福の場所は「天国」か、未来的な「千年王国の蘇生」に於いてである。そして「人類すべてを兄弟としていつくしむコト」の延長には「汝の敵を愛せ」と言うことだが、自分自身に対して「①殺す、②騙す、③盗む」者として存在する「敵」を「愛」しては、やはり行き場所は「天国」しかないのは自明である。  そして「愛」は抽象観念であるから、人間諸関係の事象を基礎として、その「心的観念」、「心情的観念」として意味説明され、語らねばならない言葉である。  「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(新約聖書、マタイによる福音書、5章44節)  「敵を愛するコト」は理解できる。その諸能力と知恵が優れているならば、「敵」であっても「学ぶためにその長所を愛する」だろう。「迫害する者のために祈れ」とは、「何を祈る」のか?・・・「祈れ」は「呪え」ではないよな・・・「迫害しない者」として「神への回心を祈るコト」なのか・・・当然である。だが、一般的に理解するならば「迫害する者」であっても、「祈れってヤレ」である。その現実的な「迫害」は「祈る者」に対してなされているハズである。「迫害されて祈る者」には救われて「死後の天国」があるからだ。「迫害した者」には「天国」はない。あるのは「死後の地獄」である。だが生きている両者にある「関係」は「迫害と被迫害の現実」があるだけである。  「愛=現実的に迫害を許す」と言う「被迫害者」の「観念」は、現実社会に於いては「諦め=死後の天国」と言う「観念」に止揚されるのだ。  ?・・・パウロ(サウル・キリキア地方タルソスに生まれたユダヤ人)は「キリストの教え」を引き継いで、自分の手紙の中で次のように書いているらしい・・・愛・・・  「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(新約聖書、コリント人への第一の手紙、13章4節-7節)  「すべてを信じ」との「主語」も「愛」なのか・・・?・・・俗世間での人間諸関係での「すべての出来事を信じ」・・・なのか。多分、「キリストの受難(神が下した試練)」を重ねて「キリストの愛=あなたの愛=信者の愛」として信者に説明しているのだろう。  だが、「すべてを望み」とは、他のコトバをすべて否定するモノだが、この「主語」は「信者」なのか、「キリストの受難」なのか、あるいは「神の施し」なのか・・・?  ・・・「すべて」とは「全部」で、「あらゆるモノ」の「一般的な統一、総合概念」である。「旧約聖書」の「カミ」は「私はねたみの神である」と神自らが言っているのだが、「ユダヤのカミ」の「ねたみ(envy・jealousy・ζηλια・ζηλοτυπια)」は「カミの特権」らしいのだが。とにかく、この「・・・」の部分は、あるどこかの「HP」に紹介されていたモノだが、・・・私の持つ中央出版発行の「新約」には、  「愛は堪忍し、情けあり、愛は妬まず、自慢せず、たかぶらず、非礼をなさず、己の為に謀らず、怒らず、悪を負わせず、不義を喜ばずして真実を喜び、何事をも包み、何事をも信じ、何事をも希望し、なにごとをもこらふるなり」  とあって、「主語」は「カミの愛ではなく」、「ヒトとしての人間関係での規範としての愛」のようなのだが・・・「主語」を「受難者のキリストの愛とは」を補足すれば理解できそうだ。「悪を負わせず」も「主語」を補足すれば「誰かが、ダレかに対して悪を負わせず」であろう。相手に「罪」を犯させない、と言うことだ。全人類=アダムの初犯の「原罪を負って磔刑」に処せられたとは・・・「ローマ人(ポント・ピラト)+ユダヤ人(パリサイ人)」の「罪」も含めてのコトらしいのだが・・・処刑を免れなかった「キリスト」は裁判判決者、処刑者に「悪(殺人)を負わせてしまった」のだ・・・自らの手を汚さない「愛」とは「罪つくり」ではあるな。「キリスト」は彼等に「悪を負わせず」に逃げ切れなかったのか?・・・逃げる余裕は充分にあった。シエクスピアなら主役に言わさせるであろう・・・逃げる(生)か?、逃げない(死)か?・・・それが問題だ。  ワタクシ的には「キリストの受難」とは「ねたみの神のいじめ」でしかないように思える。「新約聖書の事実」によれば、「キリストの受難」とは「ローマ帝国のポント・ピラト+ユダヤ・パリサイ人」による「ローマ法」による「ローマ裁判判決」による磔刑であった。「神の裁き」ではない。「人の裁き」である。だが、「モーゼの律法の裁き」ではない、「判決の理由」は・・・「ローマ帝国に対する騒乱罪・反乱罪」である。  そもそも「愛の根源的発生」は何か?・・・それ自体、単独では「発生」し得ない「観念」である。「女性」を実体として軸にすえて考えて見ると、  「母性愛」→自己と同一体の胎児の保護と、産みの苦しみでの分離と、その育み  「自己愛」→妊娠、出産時に於ける自己の実存的な健康維持の欲求  ・・・であるだろう・・・いずれもそれ自体としては成り立たない「相対的な関係」に於ける「自己(妊婦)と他者(分身=胎児)」の「母子相互の命の維持と育み」である。しかも、人間にとっての大枠は「人間社会の中」での「母の子供に対する自己犠牲としての施し」であり、その状況の中での「自己の精神的、肉体的な余裕維持の欲求」である。これが人間諸関係の中で疎外されると自己のあらゆる対象を拒否、排除するだろう。自己一体の「胎児」に対してさえも・・・自己阻害する「デキモノ=腫れ物」として「疎外物」として扱うに違いない・・・「男」にとっては「父性愛」となるが、生物学的には「種付け」以外は、「メス」の「護衛役・餌運び」でしかないのカモ・・・「自我」も「自己愛」も「母性愛」にまるっとくるみこまれた・・・「オンナ」の凄さには敵わないのサッ・・・「音名(おんな)」・・・?  ところで、「すべてを望み」と、「何事をも希望し」の翻訳の意味の違いは何か?・・・このコトバの本義は「神」に対する「ねがう・お願い」であろうか・・・?・・・「すべてを望み」とは「愛の範疇」ではないような「欲張り」のように思えるのだが。  アイマイで淡い願望、ビジョンが視えている希望、ヨコシマな野望、目的実現、アンヴィシャスとしての志望・・・そして、絶望・・・「切望」とは日本語の漢字熟語ではあるが、「望みを切る」字面とは反対の意味だな・・・熱心に望むコトだ。「一切合切(合財)」はスベテのコトだったな。  とにかく、「愛」のコトバの意味は色々あってイイが、おおまか、「パウロの愛」とは「あらゆる感情観念」の抽象化された「統一概念」であるらしいが、「感情」としての「愛(好き・快)」と「憎(嫌い・不快)」の対概念ならば、  「愛 X 憎 → 統一概念 → 和合の理性」  である・・・「愛・憎の混用」は人間諸関係での日常生活では当然である。理屈で言うならば「人間社会のルール=共同観念」を「まもる=肯定=善」、「まもらない=否定=悪」に対する「抽象概念」である。そして「寛容」と言うコトバもある。状況次第で「人間の愛・憎」を含めて認めてヤル、と言うことなのか・・・「愛は愛憎」の熟語としての範疇観念なのだ。自分自身の「わがまま」が通るのは相手の「余裕次第」である。  人類は「愛憎」を「愛」のみに「止揚」されるモノとすることができるのか・・・?  ・・・ここで「キリスト教」のことを少し言っておこう。戦後に「クムラン文書」なるものが死海の洞窟で発見され、初期の「キリスト教団」が如何なるモノのであったかが明らかになると期待されたが、既に何十年も経っているのにその内容は曖昧にされてきているらしい。関係文書も日本では出版されているが、その「クムラン文書」を巡っての謀略的なモノが多い。「クムラン文書」の内容を明らかにしたく無い人種が存在しているらしいのだ。  「キリスト教」とはその「新約聖書=福音書」が「日本語の翻訳」と言う限界が有ったとしても、読んでみてもワタクシ的にはその「論理性」には納得のいかないシロモノである。何が「福・音(おと)・書」であるものか・・・  ハッキリ言えるのは、「新約聖書=福音書」の「キリスト教」とは、  歴史的に当時ローマの支配下にあった  「モーゼの一神教を信じるユダヤ人」であった「キリスト」の言動、行動を  「ローマ市民権を有したパウロ(サウロ)」が  彼の立場でとらえた  「パウロの思想」である、  と言うコトである。  まったく、「国民」ではなく、「民族=一神教(宗教文化)の人々」と言う「範疇概念」は「ユダヤ人」、あるいは「ユダヤ人の利害関係」にのみピッタリと当てはまる。しかも「モーゼの一神教の律法」とは「①殺すな、②騙すな、③盗むな」のあらゆる共同体の社会生活上での普遍性を有する「ルール」であった。にもかかわらず、この「カミの律法」は「ユダヤ人」だけの独占物であり、現在も彼等の「民族枠内=同胞=隣人」の独占物だと考えているらしいのだ。他民族(非隣人)に対しては「①殺す、②騙す、③盗む」コトは「旧約聖書(ヨシュア記)」ではあからさまに記録されている。これじゃぁ~当然にも他民族からは「うらまれる」よなッ。  ワタクシ的には、「キリスト」の教え、実践とは、  「ローマ帝国(多神教)」→占領地政策→懐柔・弾圧→「イスラエル・ユダヤ王国(一神教)」   ↓  ↓占領国 ↑妥協   ↓ 「イスラエル・ユダヤ王国」=「ユダヤ支配階級(金持ち・司祭者)」   ↓                    ↓   非妥協                 対立   ↑                    ↑   「イスラエル・ユダヤ被支配階級(貧乏人・困窮者・戒律厳守)」  の構図である、と考えざるを得ない。非妥協、対立は「ユダヤ律法厳守=思想」に関するものだが、現実としてその実行実践は「ユダヤ民族内の階級対立」であり、「ローマ帝国」との「対外民族(階級)対立」の一極であったのだ。  「キリスト」は、  「ユダヤ・イスラエル国家の民族主義者」として  「ローマ帝国(多神教)」に懐柔され、  「律法」を堕落させていた  「ユダヤ支配階級(司祭階級・金持ち)」に  対立していた  「ユダヤ被支配階級(貧乏人・困窮者)」の  世俗的、且つ宗教的な  「リーダー」  であったのに違いない。「ユダヤ一神教の律法厳守」とは「ユダヤ民族国家内での人々の利害の公平化」を意味するモノで、その延長に対ローマ帝国があったからだ。  「パウロ」はこれを「ユダヤ律法厳守」ではなく、「キリスト信仰」で「国際化」しようとしたのだ・・・「ユダヤ律法=排外主義」では国際化できないが、「物語の信仰と、その儀式化=諸人種・諸階級の融和化=愛」では国際化できた・・・現在なら愛=金(国際通貨)・・・「パウロ」が「ユダヤ民族主義者」ならば、その「キリスト信仰の国際化=愛」は「ユダヤ民族(国家)維持の戦略」であっただろう。  だが「パウロの思想」は「本音の民族主義」を「骨抜きにされ、信仰観念の天国」へ昇華されてしまったのである。苦難苦渋、喜怒哀楽に生きる人間は「死後を夢見るコトが出来る観念的存在」でもある。生きて未だ現実経験できない「天国観念」を妄想するコトは人間観念の選択の自由である。  「キリスト信仰」は現実の「生活=階級諸関係」からの解放ではなく、「階級諸関係」を「現実の死=天国」へと解放したのだ。もちろん、「殉教死」は生き残っている人間に「美化」されたのだ。世俗支配階級がコレを利用しないハズがない。「キリスト」が言ったらしいから・・・「カミのモノはカミへ、王のモノは王へ」と・・・  「旧約聖書」に沿って考えれば、一神教とは、  ①「エジプト文明のアモン(アメン)多神教を否定した    一神教(アトン=太陽崇拝・紀元前1372年・第18王朝・アメンホテプ四世)」であった。  ②そのエジプトの「一神教」を経験し、    更に「多神教(偶像神)」崇拝のファラオ(倉庫の町、ラメセスを建てた)に抑圧、弾圧されたのは、   「一神教のユダヤ人   ・イスラエル・ユダヤ民族の始祖と言われる   ・一遊牧民族(一家族・一血族)の、   ・ヤコブの子供、   ・エジプト・パロの執政官となった   ・ヨゼフの子孫達」  であった。旧約によれば「ユダヤ人」はエジプトに「ヨセフ(110歳で死亡)」の時代から「モーゼ」の脱出まで「430年間もの寄留者」として存在したことになる・・・「エジプトの寄留者=ユダヤ人」である。エジプトに「430年間もの寄留」し、そのエジプトの権力者・執政官となった「ヨセフ」の一族の子孫が単に「ユダヤ人」としての枠内で生活を維持していたとは考えられない。エジプト社会の権力の官僚になったであろうし、エジプト人として同化していった人々も存在していたのに違いない。極論すれば「430年間のエジプト寄留者」とは、日本流で言えば「エジプト人に帰化した人々」と同じであろう。しかも「ヨセフ」の一族は未だ「国家」を有せず、家族、部族単位でエジプト人に寄留者として認められ、優遇され存在したのである。エジプトを脱出し、ユダヤ国家を建国し、「国家存亡の危機」でバビロンの捕囚となっていた時代よりも遥か昔のコトである。豊穣の土地であるハズのエジプトにユダヤ人王朝として、そのエジプト領土内に「モーゼ」は何故留まらなかったのか?・・・時期はエジプト領土内の飢饉であった・・・飢饉=内乱=弾圧、排除=エジプト脱出=難民=放浪・・・  ③紀元前1225~30年頃・ラムセス二世の弾圧を逃れてエジプトを脱出したのは    「モーゼ」に率いられた「ユダヤ人+エジプト人」である。  ④エジプト脱出の「ユダヤ人」は、「モーゼ」が神と約束した土地をめざした。  ⑤脱出した放浪「ユダヤ人」にとっては    世俗的な「ヤハウエ神のルール=モーゼの律法」をまもることなくしては    「生活の場所=神との約束の地上の乳と蜜の国=カナン・パレスチナの生活地」    はあり得なかったのだ。  「ユダヤ教」とは、  「現生での生活ルール(律法)厳守=実現されるべき現実→地上の生活圏」である。  「キリスト教」とは、  「現生での信仰=あの世の天国(死後の国)」である。  その「信仰」とは「イエスの生涯と奇蹟の物語」を信じるコトである。  「モーゼ」は地上の生活圏、「キリスト」は(観念的な)死後の国・・・目指す目的地が違うのである。  ところで、「モーゼ」に率いられた「ユダヤ人+エジプト人」の脱出は「ユダヤ人」が民族的に迫害されたコトであるが、「モーゼ」自身が「エジプトのファラオ」に対して「神」の仕業としたコトは、今日の科学的常識から考えれば「自然災害」である。一見、エジプトの人種的なユダヤ人の人口増加を口実にした「エジプト人自国民」と「ユダヤ人異邦人(寄留者)」の対立のように記されているが、これは自然災害時=飢饉による、  「エジプト人=食える者」  と  「ユダヤ人+エジプト人=食えない者」  の対立である。モーゼの律法は「ユダヤ自民族の律法」であるが、基本的には「貧困者救済の律法」である。「キリストの思想」も「貧困者救済の思想」である。旧約のエジプトの執政官となった「ヨセフ」のエジプトでの国策は「飢饉=自然災害=神の仕業」に対するモノであった。飢饉に対する準備万端の政策であった。  ワタクシ的には「神の仕業」を捨象すれば、「モーゼの出エジプト」の根本原因はエジプト内での飢饉による「階級対立の激化」である。現在的な「難民の原因=自然災害+戦争=生活の困窮」と同じである。  ヘロデ・ユダヤ王国・キリストの時代はどうであったろうか?・・・飢饉がなくてもユダヤ王国とローマ帝国からの二重の「重税」であった。ユダヤ司祭階級も貢物で生活していたのに違いない・・・しかもユダヤ人の内乱=盗賊集団(熱心党)の暴力は頻発していた・・・かっての中国に存在していた「匪賊」のような政治的な地域的武装組織=暴力団の存在である。トバッチリを被るのは一般的市民であり、農民である。そして「余裕の無い貧困、困窮者、孤児達」は死ぬか、生きるためにドロボウに組するのだ。  ひもじさに徘徊し孤児であったアフガニスタンの「タリバン少年兵」にとって「石の仏」も、「偶像のキリスト」も、「アラー」も意味がないのだ。餓えた孤児にとって銃を握る時に「その日のパン」がある。アフリカ内乱の少年兵も・・・「その日のパン」のために銃を握るのだ。握らせているのはダレか・・・アンタやオレ・・・かも。  彼等が必要としているモノは・・・「銃=憎しみ」などではない・・・ましてや「愛」や「同情」なんかでもない・・・「パン」をクレッ、である。  日本・・・「ひったくりの強盗少年」は「ゲーム代金」に、「援助交際の売春少女」は「ブランドモノ」に・・・ホームレスになっても「2000万円」の貯金通帳を持っている奴もいる・・・1945年敗戦直後の日本人孤児もヒモジサのためにヒッタクリや売春をした・・・そして都市部では殆どがバラック、ホームレス同然の場所で寝ていた・・・明日・・・日本居住のアンタやオレの家族、息子や娘の姿であるカモ・・・


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page