現存・古事記・漢字源の世界(1)
現存・古事記・漢字源の世界(1)
コジキのキリちゃん、砂漠で蜃気楼を追う
すべてのキイ・ポイントは 「古事記・序文」の 「日下」と「帯」の 読み方にあり、 それが、訓で 「日下=くさか」、 「帯=たらし」と ヨメ、 としていることである。 では、「くさか」と「たらし」の 日本語の意味は 何(ナニ)か? ・・・「日下」は「ニッカ=日課・日華・日貨」、「帯」は「タイ・おび」ともヨミ、「帯」の漢字分解は「山+一+ワ+巾」である。しかも「山+一=廿廿廿=サンジュウ」である。
この「くさか」は更に「漢字」で、「音」を採って、
「玖娑訶」くさか=王+久+沙(水小ノ)+女+言+可
と記され、漢字分解では「王宮、沙の女、言う可(べき)」か、「王、久しく、水の少女、言うべき」、「王の長、水の将の序言(助言)、権化(言化)」とヨメる。 「たらし」は
「多羅斯」たらし=タ+タ+网(冂メメ)+糸+隹+其+斤
と記されているのだ。「重なる夕、編み目のイト、旧(古)の鳥、其れ、斤(をの・きる・のり・目方・はかる)」である。 「网あみ・モウ=冂まきがまえ・けいがまえ・ケイ・キョウ+メ+メめ・しめ+メ・ペケ・ばつ」だが、「メ」の漢字は「乂かる・こらす・いさめる・ガイ・ゲ」である。「まきがまえ・けいがまえ」の音をよく聞いて漢字をあてたらどうなるか・・・本来の意味は「牧の構え=牧場の柵の構え、国境の砦の構え」であるが、「巻きが前・巻きガマ重」、「経が前・景が前」等のスベテの「マキガマエ」、「マ・キ・ガ・マ・エ」、「マキ・ガ・マエ」、「マキ・ガマ・エ」、「ケイガマエ」、「ケ・イ・ガ・マ・エ」、「ケイ・ガ・マエ」、「ケイ・ガマ・エ」、「ケイガ・マエ」の同音異字へ転換、置換、変換である。 「日下(くさか=玖娑訶)」も「帯(たらし=多羅斯)」も「元々からそうヨンできた」と云って、当然のコト、当たり前のように(?)、その意味を記していない。「日下(くさか)」に「玖娑訶」の漢字を当てているのは「音のみ」を漢字から拾ったとは思えない。「意味」も拾ったのだ。別に当て字は「草香」、「孔舎衛」、「孔舎衙」がある。「孔舎」は子供を授けてくれる「燕」の「巣」か、「孔子の舎」、「諸葛亮孔明の舎」の暗示と示唆である。「燕国」とは三国時代には遼東半島、中国東北部、「帯方郡」一帯を支配した「公孫氏」の領地であった。しかも「燕の国王(爵位)」の称号は「呉国」から賜ったものであった。「帯」は日本語で「帯紐を垂らすヲビヒモをタラす」があるから理解できそうだが、ヤハリ「多羅斯」は漢字の意味も採っているのだ。 「多羅(タラ)」は「多くのツラナッタ国」だが、漢字の「羅(ラ)」は「網(あみ)・列ねる・紗=薄絹(うすぎぬ)」で、「斯」は「この・これ・ここ・かく・かかる・すなわち・さく・ひきさく」とヨム。「多くを列ねた国々にカカル」である。帯とは「天体の獣帯」でもある。「羅」の当て字は「羅馬(ローマ)・羅典語(ラテンゴ)・羅針盤(ラシンバン)・羅漢(ラカン)」等である。 古語辞典にも国語辞典にも音が「日下(くさか)」での項目は無い。だが、漢和辞典には「日下(くさか)」ではなく、「日下(ジッカ・ニッカ)」として「太陽の照らす下。天下。全世界。みやこ。国郡」、「遠いところ。遠方」、「東方の果てにある国」。国語では「くさか」とヨンで、「地名」、「姓氏」とあるが、その説明はナイ。同音の「日華(ニッカ)」は「日光」、「唐の宮門の名」、「日本と中国」。国語では「紫宸殿(シシンデン)=紫薇苑(シビエン)の門の名」で、「紫薇薗シビエン」とは「天体の星座」であり、「王宮」である。「日課」は毎日の割り当てた仕事。「日貨」は「日本の貨幣・通貨」と思っていたら「輸出された日本製の商品」であった。だが「日下」は「太安万侶」を信じれば「くさか=日下」の意味である。コレに引っかかっては「アミのメの罠のトリコ」なのだ。「日」の類字は「曰(いわく・のたまう)」と「白=百」である。記録文書では同じ意味に使用されるコトがある。 「knickersニッカー」、「knicker-bockersニッカーポッカー」は「ヒザの下でくくるゆったりした半ズボン。運動用ズボン」で、「婦人用パンツ」、そして「オランダ系のニューヨーク人」である。「ニューヨーク」の漢字をアテレば「紐育」だ。とにかく、ニッカーは「さるまた=猿股」、「ももひき=股引」、「すててこ」のたぐいに似て、「下半身の両足をとおして着る上着」だ。「ステテコ」の当て字は不明だが「ステ躰股」、「素手梃子(?)」カモ。 北海道(蝦夷)余市の「ニッカ・ウイスキー」の「ニッカ」の由来は何だろう?・・・「nick」は刻み目、掛け目で、動詞ならダマス、盗む、サイコロを振ってそのサイの目を言い当てることだ。そしてアメリカ貨幣の5セントの白銅貨である。「NICK」は「Nicolas」のあだ名、愛称であるが、「悪魔(Devil)」のことだ。 ついでに「サントリー・ウイスキー」の由来は何だ?・・・明治の初期には「赤玉ポートワイン」の老舗であった。 先ず、
「太安萬侶」おほのやすまろ
「ふとい、あんまんりょ」とか、
「ふとい、あまり」、
「タイ、アンバンリョ」とは
ヨマまれてはいない。
ヨンではイケないのか?・・・イヤ、「対案、万慮」タイアン バンリョであって、「大安、伴侶」タイアン ハンリョであり、「代案、煩慮」ダイアン ハンリョである。マッタク、煩わしいとはコノことである。
名前の読み方は色々あってイイのだ。
事実、ワズラワシクも、イロイロあるのだ。
「こじき」を書いた奴は、まさに、図太、盲目、按摩づぶとい、めくら、アンマの渡世人トセイニン
「座頭ザトウの市いちさん」
だったんじゃナイのかネッ?
・・・盲目、目に障害を持つ人々のことだが、 「めくら」と言う言葉を 「差別用語」としてではなく、 「歴史的概念」として使用させていただくことを許して欲しい。 「盲目の人」も、「めくら」と発音されるコトバと、そのコトバがどのような「時代的背景」の中で使用され、どのような「人間関係」で使用されたのか」を、その意味をハッキリ知っておく必要があるのだ。「差別用語」が「使用された事実」を。「抹消」ではなく、「不可使用」ではなく、「使用禁止」ではなく、それを踏まえて「歴史的概念」として「必要な時」には使用すべきなのだ。
「帰化人」を「渡来人と云いましょう」等とはオナジように馬鹿げているのだ。「帰化人」と「渡来人」の「概念」が根本的に異なっているからだ。
かって、私がアメリカに滞在した時に「ジャップ」と言う「蔑称ベッショウ」を巡って、「日系アメリカ人」と、1970年代頃に新たに渡米した「日本人」との間で問題が起こったことがある。明治時代から第二次世界大戦前までに移民した「日系アメリカ人」は「日米開戦」で「アメリカ政府」によって「人種差別」され、財産を没収され、そのほとんどが砂漠の収容所に収監されたのだ。一部の若い日系人はアメリカ国家に「忠誠登録」をし、ヨーロッパ戦線で戦い、そのほとんどがアメリカ人として戦死した。砂漠に収容された日系人は「ジャップ」と云うコトバをハッキリと「日本人に対する蔑称」ととらえていた。だが、新たな「渡米日本人」は「ジャップ」を「日本人の単なる別称ベッショウ」と単純に考えていたのだ。
「蔑称」と「別称」である。漢字は違うが、発音はドチラも「ベッショウ」である。前者の意味はある人に対する「軽蔑的で、差別的な呼び方」であり、後者は「同意的で、異なった呼び方」である。
私のホームで展開する「古事記・漢字源」は「同音異字漢字」、「同音類似のコトバ」の研究であるから「蔑称」で使用されてきた「コトバ」も「歴史的概念」であることを念頭にヨンで下さるようお願い致します。
さて、「盲目の按摩」さんを統括する「長官」をムカシは「検校ケンギョウ」と云った、のだが、「寺社の事務や、僧尼を監督する職名」でもあった・・・この漢字の読み方は「ケンギョウ」と「ケンコウ」があり、「ケンギョウ」は日本語の読み方であり、「ケンコウ」は中国語としての読み方である。漢字は同じだが読み方も意味も異なるのだ。中国語の意味は「取り調べる検察官、監察官」である。「検校」の「検」は元来が「検査」、「検束」、「封印」、「草稿」であり、「木箱にしまって、封印」することだ。スナワチ、一般人は中身をミちゃぁイケナイものなのだ。
「イヤナ渡世だなぁ?・・・お天とうサンがまぶしいナァ?」
と、盲目の「座頭の市」さんは「空の太陽を見上げ」て台詞せりふを吐くのだが・・・ 「めくら」なのに、視ているとはドウ云うことなんだ・・・? 「肌の触感」で視ているに違いない。そして、彼の周囲の「音」で「視覚」しているのだ。かの有名な「奇跡の人」と云われた「ヘレン・ケラー」は「目」も見えず、「耳」も聞こえなかったのだ。とにかく、彼女の先生、「サリバン女史」が偉大で、「奇跡の存在」であったのだ。 「あきめくら」と云うコトバもあるのだが。誰に対するコトバなのだろう・・・ 江戸時代には「塙己保一はなきほいち」と言う偉大な盲目の学者がいた・・・その系列の「塙次郎」は「文久二年(1862)」に「尊皇攘夷」派に暗殺されたのだ。理由は「盲目」であったからではない・・・「廃帝史実調査」の疑いなのだ・・・「音」をキク「耳」が特別に敏感だったからだ・・・実行犯は「伊藤博文」であったらしいのだが・・・同年には「高杉晋作」、「久坂玄瑞」等が江戸品川の「イギリス公使館」を襲って焼き討ちをした。当然、「伊藤博文」も加わった実行犯の一人であった。 そして、この事件のあった同年には「遣欧使節」の「竹内保徳」等が長い航海を終えて帰国したのである。
数字考=河圖(図)思考
「太安萬侶」おほのやすまろ
「太安萬侶」は
「養老七年(西暦723年)」の「七月七日」に死亡していることになっているが「怪しい」とも「不思議」とも「古事記」研究家の人々は考えないらしい。まさに「777」である。しかも「723」の数字には「歴史的意味(欺瞞)」と「謎解き」の数字になっているのだ。 西暦「672年」は「壬申の乱」であった。この西暦年の「7月23日」は「干支歴」に換算すれば「壬申年・丁未月・庚辰日」である。「庚辰」は「17番目の干支」であり、「弘文(構文・行文・後文・公文)天皇=大友皇子」の首が捧げられたのは「乙卯日」で、「52番目の干支」であった。この「60干支」を「乙卯」から順旋すれば「26日後」、逆旋すれば「36日前」である。「大友皇子」の「左右大臣」が捕らえられたのは「癸丑日」の「50番目の干支」である。当然「弘文天皇(大友皇子)」もこの日に殺された可能性がある。 普通「大友皇子」は「おほとも皇子」と訓じられているが、 「タイユウ・タユウ・ダイユウ」とヨメば「他意有」、「太夫・大夫」、「拿異有」の「往事・往時」であるのだが・・・ そして「明治3(1870)年7月23日」に「大友皇子」が「弘文天皇」として即位したことを明治政府と「明治天皇」が公認したのだ。 「干支歴」では「庚午年・癸未月・庚申日」であった。ちなみに「庚申」は「57番目の干支」である。「庚申講信仰」とは「腹の虫、三尸虫(サンシチュウ)が天帝に本人の悪口を告げに行く日」で、これをさせないために「庚申の日」には寝ずに徹夜して起きていることだ。「天帝」とは「帝釈天」、「青面金剛」、「猿田彦」であり、これを祭って夜明けを待つ行事である。 同年の「3月11日」には「神武天皇の祭典」の施行であった。 ヨーロッパではフランスの「ナポレオン三世」がセダンでプロシア軍に敗北して降伏した年でもあった。ここは「3」と「十一」に注目してもらいたい。
777=3×7=21=弐拾壱 222=3×2= 6=六(陸) 333=3×3= 9=九(仇)
111=3×1= 3=三(参) 7+2+3+1=13・十三(壱拾参) ↓ 「13日の金曜日」はキリスト(クリスト)磔刑の日 「13日は特に陰暦の12月13日の煤払い日」 「13日」は「じふさ?にち・じふさんにち」と訓む 「13夜の月は陰暦『じふさんや(9月13日の夜の月)』」 ↓ 栗名月=クリ名月 「13月は正月の異称」 「13」の逆置換は「31(参拾壱)」 ↓ 「31」は「和歌の三十一文字」 「31」は「日本書紀30巻と系図1巻」・・・系図一巻は行方不明? 「31」は「陰暦には存在しない日」 「31」は「太陽暦の1,3,5,7,8,10,12月の最終日」 ↓ 1+3+5+7+8+10+12=46・・・4+6=10(壱拾) ・・・4×6=24(弐拾四・念肆)
「13=壱拾参」
とは
「卑弥呼」
の後を継いだ
「女王・壱与」
の「年齢」
であることを知っているよなッ(?)。 「13=壱拾参」は世界史的なキイワードであり、古代倭国のキイワードでもあるが、いま現代の日本人の最大事件の「キイワード」になっていることを「日本人」は肝に銘じておく必要がある。現在、ハッキリしている「北朝鮮に拉致された日本人の数」である。「13人」である。しかも「横田めぐみ」さんが拉致されたときの年齢が「13歳」であったと言うことだ。これは報道機関、政府機関などが発表している「数字」である。これは「国家」の問題なのであろうか、「人類」としての問題なのであろうか。単純に考えて前提的に「国家」がなければ「国家的な拉致」は無いハズである。全世界的な「人類」は「全世界的なサバンナ」に存在する「野獣的な弱肉強食」の「国家間」で右往左往している。「国家」を護ろうとしている「人間達」は何故に「国家」を護ろうとしているのか・・・その護ろうとする根拠は何か・・・「非人間的な拉致」、「非人類的な拉致」は「非国家的な拉致」とは古代国家から近代、現代までの国家も言わない。「国家は国家である限り拉致」するのである。そして「拉致されたコト」にも「拉致するコト」にも責任を負わないのだ。 「北朝鮮」は「戦争」をしているのである。「日本」は「国家」であることをアイマイにし、ボケを装いながら「戦争」を仕掛けられ、継続させられているのだ。「北朝鮮」に。 そして国家間の戦争は「個々の人間、人類の命」を護らないし、「拉致」も否定しない。「国家」そのものは「個々の人間、人類の命」を護らないのである。だから「国家」としてではなく、「人間」として「人類」として「拉致」を拒否、否定すべきなのだ。 アフリカのサバンナの動物達はそれでも尚且つ「ルール」の中で日常的な命を懸けて生きている。イヤ、「人間」以外の動物はドコに生息していようが、すべてソウである。 そして、
7×5=35・三十五(参拾伍)と
「4(四・肆)」 と 「7(七・漆)」 と 「8(八・捌)」、
「10(十・壱拾・足)」 と 「20(二十・弐拾・念)」 と 「30(参拾)」
等のスベテの数字である。 とにかく、
「古事記」 「日本書紀」
は誰かが
1、2、3 4、5、6 7、8、9 10
の数字に 謎を 託して 記録され モノで あるには違いない。 「7」、「2」、「3」、実は「7月23日」は私自身の誕生日でありまして、不思議に思うわけですよ。「2001年7月23日」は私のホームページが、その日が初対面と言う二人の「天女(岡田さん+友人)」に無理強いして、開通した日でもありました。「天女の羽衣」を奪ったワケではありません・・・が。 「古代史の最大のイベント」は「壬申の乱」と云うヤツであって、インターネットを開ければ学者、学生、一般人、そして私みたいに興味を持って調べているヤカラが腐るほどいる。そして、それが結構、面白いときている。理由は単純明快で「歴史観」は別にして、「記録」された「歴史的事実」はホンの少しで、しかも「記録」そのモノも曖昧で、暗号のような「漢字」でチリばめられており、それを「歴史的物語」として空想、妄想の世界に無限に広げていくことが出来るからであるらしい。 「壬申の乱」ならば、60年周期の「壬申」の他の年号に起こった事件、人物も調べてみるがイイ。例えば、 「西暦紀元前289年」は 中国「戦国時代」の 「壬申年」で、 「孟軻」 「孟子」 「荘園」 「荘子」 「告子(性悪説)」 等の死んだ年らしく、同音異字漢字の示唆するものは、 「モウカ、ソウシ、モウシ、ソウエン、ソウシ、コクシ」 ↓ 「盲家、 宗史、 模有史、桑園、 総史、 国史」 「毛、仮想 し、申し、 総 得ん、相思、 国史」・・・等で、 「西暦紀元前169年」は 「前漢」の 「文帝の二年」の 「壬申年」で、 「賈誼(カギ)」が死んだ年で 「新書」 「治安策」 とある。「文綴(ブンテイ)」の「字撚」・・・「鍵(カギ)」、「審処(シンショ)」・・・「治安策(事案作)」等である。「新書(親書・清処=真所=真人=女真人)」の「治安策」の示唆であるならば、時代は近世、近代の「治安策=事案作」かも。 「西暦312年」は 中国「西晋王朝」の 「懐帝」の 「永嘉六年」の 「壬申年」 であるが、「改訂」の「洩掛」の「録年」・・・これは更に年表をみれば 「郭象」が死んだ年で、 「荘子注」 とある。これが示唆するのは「日本書紀・壬申の乱」前後に登場する「郭務宗」と言う名前の人物である。共通項は、 郭象・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・郭の象 郭務宗(本字はリッシンベン+宗)・・郭の務、 リッシン(立身)の 偏(編・篇・変・弁)+宗(総) 「郭」の漢字で、その説明である。そして「ソウシチュウ」とは「総史」の「注(註・中)」である。 できれば他の「壬申年」も調べてみるがイイ。日本史を示唆する人物や事件が重なっているハズだ。 日本人にとって、「漢字」とは凄く「合理的」な記録手段であり、と、同時にマッタク「非合理的」な記録手段であると、考えているのですがネッ。「バラの名前」と云う小説があるけれど、「薔薇文・波羅門」の秘密らしい。それに加えて「キクの名前」にコソ「全宇宙の言語記号」のナゾを説いてくれるとワタクシは考えているのだが・・・。
スウジ・・・素有字・主氏・諏胡事 ・・・数(かず)の字(あざ・生うむ・牝めす) ・・・「かず・下図・和」の字 ・・・河図洛書=河圖洛書カトラクショ ↓ ・・・カズ等句処
「河図洛書」を漢和辞典で調べれば、「河圖(図)」は中国古代の伝説で、「伏羲(古代聖王の名)」の時、黄河から出た龍馬の背中に現れた図で易の原点となったものである。「洛書」は「禹(古代聖王の名)」の時、洛水(川の名)からでた神亀の背中あった文字で、書経の洪範の本になったモノ、とある。 ・・・(易繁辞上)・・・役判事情(時定・事条)=訳判事情(字帖・治定)?・・・「河出図、洛出書、聖人則之」 「スウジ」と云う言葉の同音異字漢字の熟語は「数字」、「数次」であり、私が勝手に妄想する漢字と、その漢字分解は、 「雛時(ヒナのトキ)」・・・・・・「芻+隹+日+土(十一)+寸」 ↓ 芻(吐き戻して噛む)、 ↓ 古鳥(ふるとり・旧鳥=キュウチョウ) ↓ 日(にち)、土(ド)、寸(はかる) 「崇事(タタリのコト)」・・・・「山+宗(ウ示)+事」 「嵩字(カサのアザナ)」・・「山+高+ウ+子(了一)」 「趨時(ハシルのトキ)」・・「走+芻+日+寺」 「枢字(キクのジ)」・・・・・「木+区+ウ+子(了一)」
のコト等々である。この分解された「漢字」をアナタはドノヨウにヨムだろうか?
「古事記・序文」の「要」の「数字」とは「稗田阿礼」の「年齢」の「廿八」と、「古事記」の「上中下」の「三巻」、「詔旨」の「年月日」である「和銅四年九月十八日」、「献上」した「年月日」の「和銅五年正月廿八日」、そして「太安萬侶」の「位階」の「正五位上勳五等」である。 スナワチ、「28」、「3」、「4・9・18」、「5・1・28」、「5・5」である。
現存・古事記・漢字源の世界(2)・再三考
コジキのキリちゃん、砂漠で蜃気楼を追う
「絵」に関しては「渡辺崋(華)山」が「ギリシア哲学者(医者)」の「ヒッポクラティス」の「肖像」を「模写」している。彼の画題は花や、鶏、寺小屋の写生等、多岐にわたっている。だが、何故「ヒッポクラティス」なのか?彼の格言は「医学」を追求するモノとしての 「人生は短し、芸術は長し」 であった。ここでは医者で、彼の記録した「青草人」を対象にした「後輩医学生」育成の「医学書」の中での格言であるから「芸術」とは「医療技術」のコトである。みずから(自・己)医療用器具の「鉗子(カンシ)・鋏(剪み・ハサミ)」や、「ピンセット・セッシ」を造ったに違いない。それに、「包帯巻き」の技術も・・・だが、彼は絵や、彫刻、建築、音楽、詩文、文学、演劇、武術もコナス人物だった、のかも・・・古代ギリシャの人間だったから・・・その才能はマルチであった、カモ・・・ 「現存・古事記」はトテモ、とてもの「乱学者」の「仕業の産物」であるとしか思えないと妄想をタケル・・・七百壱拾弐年の代物ではナイ・・・なッ?
そして、オイチョカブの「花札」である。ナゼカ、箱の絵には「天狗」の絵もあるが、「ナポレオン・ボナパルト」が描かれているモノもある。何時の時代からなのか?・・・そして、「アメ」の「小野道風」の絵の示唆である。チャンスがあったら絵柄の構成をよく見て欲しい。
「一大」発見!!?
☆星♂♀金星
火星水星♪・×;;* 音符点懸雨粒○⊥日杭С月 ∽※∽相似方位 ■※■大海八方大地 ▲#▼Д▲三角井戸逆参角台3角
地図・緯度・地理史
古事記に展開されている「場所」は何処であったのか? 下の地図を診れば中国大陸「会稽山」の近くに「東台」の地名がある。 会稽山・東台
会稽山-中華人民共和国-浙江省紹興市南部に位置する山 行政区画名. 会稽郡-紹興市一帯に設置された郡(前233年~758年) 会稽県-紹興市の旧称。→商港・小経・正慶 ↓ ↓ ↓ 日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用 された。 ↓ 元徳の後、元弘の前。 ↓ 1332年から1333年5月25日までの期間を指す。 ↓ 壱千参百参拾参→肇(始初)の選る纂は模擬、模倣の算を拾う纂 ↓ 13=一三=いざ(伊邪)→伊邪那岐・伊邪那美の33=参拾参 ↓ 三=さ・ざ・さぶ↓ ↓ ↓ ↓ さむ・そ・そう↓ ↓ ↓ ↓ ↓ イザ ↓ ↓ 十三 ↓ ↓ とさ ↓ ↓ ↓ 十六(いざ)夜 ミソあまりミツ ↓ 旧名を 壱参参参→位置(位地)は三山の算のネン→3×3=12→壱拾弐年(念・撚) ↓ ↓ ↓ ↓ 参=參 壱が重る地(路・似・爾・邇・璽・蒔) ↓ 參=ムムム∧(人・イ・合)彡 ↓ ↓ ↓ ↓ 仝(ドウ・ズ・ヅ)=∧+工=同=々 ↓ 三ム(シ)=三の「よこしま」・∧=人・イ・合(会・山)・彡(サン)=刷毛跡=長い毛 ↓ 5月25日→ゴガツ・ニジュウ・ゴ・ニチ→語合似重語似知(比) ↓ 茅山、→茅沼は「孝徳天皇(軽皇子)」の父親は「茅渟王」 別名を→捌=「8・八」の名→英語では「エイト(ッ)=eight」 ↓ ↓ ↓ 「H」の横倒し「工=え・エ」 ↓ アルファベットの8番目→H(エイッチ)→工(たくみ) ↓ 重(絵)一致 多句見 ↓ H鋼(エッチコウ)・H=水素・英土 工=コウ→乞・請 ↓ 畝山と称す。→「畝傍山」は奈良、三山の一←耳成山・天香久山 ↓ 「傍(そば・ボウ)」とは漢字合体造りの「右側の字」→「畝」の右字は「久」 ↓ ↓ ↓ 畝(うね・せ・ボウ・モ・ホ)
↓ =亠(音の略字)田(た・デン)久(ひさしい・キュウ) ↓ 畝=地積の単位「歩(6尺4方)の百倍」・30歩(約1アール) ↓ 中国周王朝の一尺は「約22.5センチメートルが歩」。百歩が「畝」 ↓ 訳弐拾弐点五先知目重取るが符 ↓ 夏朝→なつあさ→名通字→カチョウ→花鳥・可聴・華頂・科長←奈津字 ↓ 夏=一+ノ+目+夂(チ・スイ・すいにょう)→壱(始)の女は水女 禹(ウ)の時代に→ウ→烏・鵜・卯・兎・宇・迂・有・得・菟・羽・雨・胡・右・得 ↓ 雅・鸕・東・亀・佐・回・無・損・於・毛・音・人・左・点 ↓ 禹=乃(すなわち=砂、沙の輪の地)+中(央)+冂(まき構)+ム(よこしま) 会稽山の名称が使用され、 禹が死去した地でもあり、現在も禹を祭った「禹(ウ)王廟」が位置する。 地名の由来は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業績を計ったことから 「会稽(会計)」と称された。→計算を合わせる←滑稽・酷刑・国系・国景・告鶏・語句形 ↓ ↓ ↓ 計=言を拾う 刻計→時計→字形 ↓ 会=八+亠(音略・鍋蓋)+ム→八+二(次・爾・邇)+ム ↓ 計=言+十(拾) ↓ ∥同義異字 ↓ 稽=禾+尤+旨(七日)→能義の異なる旨さ(小刀・とうす) ↓ 禾(のぎ)のモットモな旨さ・退きの夕の比の日 ↓ ↓ ↓ 乃木希典の甚だしい七日→二〇三高地 ↓ ↓ ↓ ↓ 妻の名は「御七=静子」 念 残の高知 ↓ 明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 壱(イチ)を拾(ひろう) ↓ ↓ 壱(イチ)通記(つき) ↓ ↓ 漆(うるし)の爾(ジ)を知(しる) ↓ 明治37年(1904年)6月6日、乃木は「塩大澳」に上陸した。 ↓ このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙。 ↓ 第3軍は、6月26日から進軍を開始し、 ↓ 8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、 ↓ 11月26日に第3回目の総攻撃。 ↓ また、白襷(たすき)隊ともいわれる決死隊による突撃 ↓ 五鎮名山の中の南鎮→五鎮名の纂→鎮星(金眞日生)→土星→鎮(魂)星 ↓ 何時陳(列)名参(考)→五瀬命→神武(磐余)の兄 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 古事記・中巻日下の楯津(蓼津・隼都)で戦死 ↓ 真木和泉・来島又兵衛←日下玄瑞←蓼=丱+参=たで ↓ ↓ ↓ マキ=「巻・真紀・磨記」・イヅミ=泉・出水・伊豆見・緯度視 ↓ ↓ ↓ 医学所・好生館で学←名は通武・義助・号は江月斎 ↓ 汚なきヤツ→黒→九=玖(王+久=王宮・長)=黒曜石=石器→節季 ↓ 記他(北=玄武=黒色・虚宿)名記夜通→ヨゴレるヤツ=輿呉列留埜通 ↓ 北鎮-幽州・医巫閭山(遼寧省・北寧市)→医者・巫覡(フゲキ・かんなぎ) 東鎮-青州・沂山(山東省)→沂(キ・ギ・ギン・ゲ・ゴン・畔・辺・淵・縁・隈=垠)→熊 ↓ ↓ ↓ ↓ 沂=氵(水)+斤→「沂水」は河で、汶水(河)と合流 くま=曲がる 西鎮-雍州・呉山(陝西省・隴県)→呉→ゴ・くれ→暮れ・黄昏→繰れ 中鎮-冀州・霍山(山西省・霍州)→霍→ジャク→弱・若・字訳→すずめ=珠洲目 南鎮-揚州・会稽山(浙江省・紹興)→紹介・昭光・小経 ↓ ↓ ↓ 正慶 ↓ ↓ ↓ 正慶(しょうきょう、しょうけい)年号は、→正教・承継・象形・小計・小景 ↓ 1332年~1333年5月25日まで→壱千参百参拾参・壱参参参 ↓ 語画通・二重(念)語 ↓ 持明院統(北朝)で使用された。→字名音統一 ↓ 1331年9月1日(元徳三年八月九日)、 ↓ 鎌倉幕府は ↓ 後醍醐天皇→語体語・語対語 ↓ (大覚寺統・南朝)の→難聴な大學の字の統一 ↓ 「元徳から元弘」の改元を認めず、→言解く・原稿・言行 ↓ 執権 ↓ ↓ ↓ 北条守時は光厳天皇→修辞・巧言 ↓ (持明院統・北朝)を即位させ→字妙音の統一 ↓ 1332年5月23日 ↓ (元徳四年・元弘二年四月二十八日)に→言解く思念・言行字念 ↓ 詞画通・二重葉値比 ↓ 光厳天皇は「正慶」に ↓ 代始改元した。→台詞改言・太子戒厳・大師開眼・題詞解言 ↓ 1333年5月25日→壱千参百参拾参「撚」語付記弐拾五似知 ↓ (正慶二年/元弘三年七月七日)→言行残念タナバタ→多名葉多 ↓ 後醍醐天皇が還幸し、光厳天皇は退位、鎌倉幕府は滅亡。 ↓ 「正慶」の元号は廃され、 ↓ 翌年 ↓ 1334年3月5日(元弘四年一月弐拾九日)に→イザ(伊邪)ミヨ、纂の語 ↓ 「建武」と改元。→建武の中興→倭建・天武・文武・若建・則天武后 ↓ 後醍醐天皇は、光厳天皇の即位と、 ↓ 「正慶」の元号の無効宣言。 ↓ 春秋時代には越の国都として発展していた。→シュンジュウ=主無自由 呉と越がこの地域において対立していた。→呉(くれ・ゴ)=繰れ語・ 越王 勾践は→クセン=句選(撰) 越(こえる・エツ)=声留・曰閲 呉王 夫差に敗れて会稽山に逃げ込み、→フサ→譜差 夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、 ↓ クツジョク→句通序句→古事記序文 ↓ クツジョク→沓(くつ・トウ・ドウ)字輿(与)句→沓合・沓潮・沓至 助命された(『史記』の越王勾践世家)。→ジョメイ=女名・女姪・序名 ↓ 鋤名・除名・舒明→舒明天皇 後に勾践は夫差を討って呉を滅ぼす。→苦戦・負さ・互→互換→語幹・後漢・五巻 ↓ 勾=勹+ム・践=足+戔→素戔嗚=素盞嗚=素戔呼(素戔烏・素戔雄) ↓ ↓ ↓ 須佐之男→彡頁イ(人)左之田力→ソセン(祖先)は烏 ↓ ↓ 烏丸 ↓ ↓ 烏桓(烏丸) ↓ ↓ 前漢から南北朝時代の北方遊牧民 ↓ 須佐之男の妣(はは・ヒ・女比)の國は ↓ 「根の堅州國」→中国・契丹(キャセイ)=Cathay→カタイ→堅塩姫→蘇我 ↓ 契丹(きったん、キタン、キタイ、英語: Cathay・Khitan・Khitai・ピンイン: Qìdān)は、 ↓ 4世紀から14 世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した ↓ 半農半牧の民族。 ↓ 10世紀初頭に 現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。 ↓ ↓ ↓ 羈縻政策(キビセイサク)とは→吉備→備前・備中・備後→黍→吉備真備→阿倍正弘 ↓ ↓ ↓ 中国の唐王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対してとった統御政策の呼称。 ↓ 古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。 ↓ 周辺の異民族・諸国家に対し政治的・軍事的・文化的に従属関係をつくりあげたが、 ↓ これらの具体化が領域化(内地化)・覊縻・冊封などであった。 ↓ 領域化は支配地に内地と同じ州県を設置し、唐朝から官僚を送り込んで、 ↓ そこの住民を唐の国法下に置いて直接支配することであり, ↓ 冊封は周辺民族・国家の首長に
↓ 唐の官爵を与え唐王朝の支配秩序に組み込むことである。 ↓ 天下りシステム日本!! ↓ この話から、敗戦の恥辱や他人から受けた辱めを 「会稽の恥」という故事成語が生まれた。 前210年 始皇帝による会稽巡幸が行われた。 前漢 漢初、会稽郡は呉郡と称された。 前202年 劉邦は韓信を楚王に封じ、秦代の 会稽郡、 東海郡 泗水郡 薛郡 陳郡 楚国 を設置した。 129年(永建4年)、会稽郡北部の 13県に呉郡を設置→13=「壱拾(足)参・壱参・十三」に懸ける 192年(初平3年)には 新安県→新案 長山県 を、 →訳語(おさ)の纂(サン)を懸ける 195年 興平2年)には 呉寧県を、 196年 建安 元年)には →懸案(ケンアン) 松陽県 建安県 漢興県 南平県を、 200年(建安4年)には 豊安県を、 →豊国の安倍→大分豊後の阿毎王朝→三浦按針の漂着 205年(建安10年)には 建平県を、 218年(建安23年)には 遂昌県及び 定陽県を新設 袁術の部将の→袁世凱 孫策が揚州に侵攻すると、 会稽太守であった 王朗はその攻撃に耐えられずに降伏、 以降は 孫策が会稽太守を自称した。 孫策は後に袁術から自立し後漢朝に帰服を申し出たが、 中原の戦乱に苦しむ後漢朝の支配は揚州方面にまでは及ばず、 孫策の死後は弟の孫権に会稽太守の地位が継承された。 孫権は 208年、 曹操(魏の武帝)を →草々・怱々・草創・早々・葬送・錚々 草壁→日下の部→久坂玄瑞 赤壁の戦いで破り→関日置(セキヘキ)→赤璧(あかだま)姫 呉の創始者(大帝)となる。 隋唐589年(開皇9年)、 旧会稽郡は呉州に改編、山陰、上虞、始寧、永興4県を統合し 会稽県、 余姚、?、?3県を統合し 句章県が設置された。→ 余は女の兆 605年 ( 大業初年)に呉州は 越州と改称、→越前・越中・越後 607年(大業3年)には会稽郡と改められ、 会稽、句章、諸曁、?4県を管轄した。 →曁→既に旦(朝陽・旭日) 唐朝 が成立すると 621年(武徳四年)、 会稽郡が廃止となり 越州を再設置、 会稽、諸曁、山陰3県を管轄した。 742年( 天宝元年)、越州は会稽郡と改称、7県を管轄した。 758年 乾元元年)に再び越州と改編し会稽郡の行政区画は消滅 東台(東臺=Dōngtá・ドンタイ)市(トウタイ-シ)は 中国江蘇省 塩城(鹽城=Yánchéng・イェンチェン)市に ↓ 中心座標 ↓ 北緯33度23分秒 東経120度7分秒 ↓ ↓ ↓ 1)ホクイ参拾参ド弐拾参フン 2)トウケイ壱百弐拾ド七フン ↓ ↓ ↓ ↓1)補句意纂拾う算渡(図)二重山分(雰=雨分)→阿蘇山の外輪内輪 ↓2)闘鶏壱百(珀=王白)二重都史地府務→「闘鶏」は阿毎王朝の壱与 ↓ ↓ ↓ 隋書俀(イ+妥)人伝→随処(随所)にイを妥-協、合-掌 ↓ 開皇二十年、→開港念(20の漢数字)撚(捻) ↓ 倭王姓阿毎、→阿毎は「阿部・阿倍」 ↓ 字多利思比孤、→字(あざな)は「多の利を思い比べる弧(天体12区分)」 ↓ ↓ 太の歳を想い比較する円弧 ↓ 號阿輩雞彌、→「奚+隹+弓+爾」→爪幺一人隹弓爾→奚(ケイ)+隹(スイ) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ケイスイキュウジ ↓ ↓ ↓ 系垂旧事(旧字・給仕・給餌) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓號=号+虎・阿=阜+可・輩=非+車 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 輩=ならぶ・列・車の列 ↓ ↓ ↓ 奈良武 ↓ ↓ ↓ ↓ 同輩の年齢順序 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 津女は幼い壱の人、隹=旧(舊)鳥、球の地(児・字)←球磨(くま) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ミミズク(木菟、木兎、鵩、鶹、鵂、角鴟、鴟鵂、耳木菟、耳木兎)は、 ↓ ↓ フクロウ科のうち 羽角(ウカク、いわゆる「耳=ジ」)がある種の総称。 ↓ ↓ 古名はツク。ズクとも。フクロウには 含めることと含めないこととがある。 ↓ ↓ 羽角とは、哺乳類の耳(耳介)のように突出した羽毛 である。 ↓ ↓ ↓ ↓ 遣使詣闕。 梟(ふくろう・みみずく=木菟=owl・アウル)の意味 ↓ 上令所司訪其風俗。 ↓ 使者言倭王 ↓ 以天為兄、→夜空の天体観測 ↓ 以日為弟、→昼間の太陽観測 ↓ 天未明時出聽政、 ↓ 跏趺坐、→足+加+足+夫→あぐら(胡座)=結跏趺坐 ↓ ↓ ↓ ↓ 日出便停理務、 胡=「西洋・中東」の座→星座 ↓ 云委我弟。 ↓ 高祖曰→高祖→高御産巣日・高木神 ↓ 「此太無義理」→太(おほの)→太安萬侶→はなはだ無義理 ↓ 於是訓令改之。 葉名頗(皮頁・よこしま)拿 ↓ ↓ ↓ 壱(イチ=はじめ・元・始(女+台)・位置・位地)は百(モモ=ももそ媛) ↓ 位置する県級市。 塩城市は江蘇省東北部の海岸部に位置し、 黄海、海岸沿いには広い 砂浜や 干潟が広がり、 野鳥や魚介類の重要な生育地。→夜鳥(梟・ふくろう)・家鳥(鶏・にわとり) ↓ 魚貝類→魚(まな・ギョ)と貝(かい・ハイ・バイ)の類 ↓ 真名に介在、介入・介錯(カイシャク) ↓ ↓ ↓ ↓ 真名仮名=漢字 解釈 ↓ ↓ ↓ 介鳥=雉(きじ)→生地・記事・木地 ↓ 北は連雲港市、→連雲→連なるアメの云々→八雲 西は淮安市、揚州市、→揚(あげる・ヨウ)=「扌(手)+易」の州(くに) 南は泰州市、南通市に隣接。→何通の詞 ↓ 塩(鹽・盬・鹵)城は後漢末期の 「献帝時代」に→献=南の犬の帝→卑弥弓呼 「建安の七子の一」の文人 「陳琳」、南北朝時代の名医である 「徐道度」、清代の治水家 「憑道立」、その他明代・清代には詩人の 「呉嘉紀」や 「孫玉樹」、書法家の 「宋曹」、書家の 「萬嵐」、講談師の 「評書」の創始者 「柳敬亭」が輩出した場所である。 ↓ 塩城付近は 周以前は淮夷の住む地域の土地であり、 周代には 青州に、 春秋時代には 呉、 戦国時代は 楚に属していた。 秦代には郡県制導入の結果、東海郡となった。前漢の初期に「射陽侯・劉纏」が封じられ、漢の武帝四年(紀元前119年)に「塩涜(瀆=氵+賣)県」が置かれた。 これが塩城に県が置かれた最初である。三国時代は魏の一部となり県制度は廃止。西晋が県制を復活。東晋の「義熙七年(411年)」に「塩城県」と改められたのが「塩城の名の始まり」。南北朝では「塩城郡」であった。 隋王朝初期には「塩城県」となったが、隋末期に「韋徹」が塩城に本拠を置き王を称し、「新安県」と「安楽県」に分割した。唐王朝に「塩城県」が「復活」し、宋代には楚州に、元代には「淮安路」に、明代には「淮安府」に属した。清王朝初期に江南省の一部となった。「康熙六年(1667年)」に江蘇省の一部となった。 中華民国初期、江蘇省第十行政督察区の一部。1946年「葉挺市」と改名。後に元の塩城県に戻された。塩城県以外の県は、清の「雍正九年」に「阜寧県」が、「乾隆三十三年」に「東台県」が、日中戦争時に「台北県」・「塩東県」・「阜東県」・「建陽県」が建てられている。1966年、新たに「響水県」が誕生した。 1983年に塩城県が廃止され、新たに塩城市となり、その下に城区・郊区と響水県・浜海県・阜寧県・射陽県・建湖県・大豊県・東台県の七県が置かれた。 1987年には前後して「東台県」と「大豊県」が市となり、 1996年には郊区が廃止され「塩都県」となった。 2004年には城区が「亭湖区」に、「塩都県」が「塩都区」に改められた。 ・・・「塩」である・・・「エンジョウシ」の周辺、一円の「地名」とそこに登城した歴代の「人物名」と「履歴」である・・・「懸けられている」のである・・・ 「カケ」である。算数の掛け算ではない。 「文字同音のカケ産・化卦算」である。そして、「炎上死」したのは「垂仁天皇の妃、佐本媛=沙和遅媛」 ↓ かけ・カケ→懸け・賭け・欠け・駆け・架け・翔け 書け・描け・画け掻け・駈け・加計・斯け で、「か・カ」と「け・ケ」の「音声文字」のスベテである。そして、「稲城で炎上死」したのは「品牟都和氣(気)命=本牟智和氣(気)命」の母で、「垂仁天皇の后=きさき=妃、佐波遅比賣=沙本毘賣」であった。いずれもこの母子の「二つの名前」が「異字の漢字」で記されている。カケられている「キイポイント」は「本=書籍」である。「蘇我馬子・蝦夷・入鹿」の「島大臣の館」が「乙巳(いつし・いつみ・おつみ)の変(645=陸肆伍=六百四拾五年)」で「炎上」し、「天皇記・国記(旧事=舊事本紀・帝紀?)」が燃えた(?)記事は曖昧である。翌6(六・陸)月13(壱拾参)日、蝦夷は舘に火を放ち「天皇記」、「国記」、その他の珍宝を焼いて自殺。「船史恵尺」が「国記」を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上。「船史恵尺」とは名前からして「航海日誌の恵みの尺度」である「海図・地図」である。江戸時代では「シーボルト事件」である。そもそも「大化=たいか=大火→他意化・鯛化・対価→太化」の「改新」である。 「天皇記(てんのうき、すめらみことのふみ)」は、620年(推古天皇28年)に「聖徳太子」と「蘇我馬子」が編纂したとされる歴史書である。 「日本書紀・推古弐拾八(28)年の是歳条」←「28」とは「稗田阿礼の年齢」であり、「宿曜経の二十八宿の星座数」であった。「20の数字」には「念」の漢字が「宋王朝」から使われだしたらしい。「8」は「ハ(言葉)」であり、「捌(ベツ・仕分ける・分別・区別)」の漢字があてられる、である。 ↓ 「皇太子・嶋大臣共に議はかりて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。 ・・・古代国家、奈良時代から戦国時代、そして江戸時代末期まで、多くの歴史上の「楼閣、砦、城、館、寺、宿場、町並み」が戦(いくさ)で「炎上」した。 「蘇我氏の館(645年)」、 「白村江での軍船(663年)」、 「不破の道(関)にある家(壬申の乱・天武元年(627・六百弐拾七年)六月弐拾四日(七月弐拾七日)」、 「七」は「漆(うるし)」で、「氵(シ・水・サンズイ)+黍(きび)」ある。「きび」とは「吉備」であった。 「不破の道(関)の美濃国の多品治(おほの・ほんじ)の蜂起、占拠は天武側への加担であった」、 「東大寺大仏殿(平重衡が南都を攻め、この兵火(治承四年・1180・12月弐拾八日)、東大寺も大仏殿、伽藍の大半を焼失」、 「三好松永の乱(永禄十年・1567・十月十日)で東大寺の大伽藍を再び炎上灰燼」、 「御所は・ 1159(平治元)年12月9日から、江戸時代、宝永大火(1708年月8日、天明大火年月日 火事での蔵書書物は甚大である・・・「本・書籍・記録の火災での焼失」である・・・ 「・・・寺院(ジイン)・京都(キョウト・京師)、町並・石山本願寺・本能寺・安土城・大阪城・江戸城・江戸町並・吉原の廓(郭・くるわ)・会津若松城・榎本武楊の軍艦・蝦夷函館・五稜郭」等が炎上した。・・・「京都」は「京師(ケイシ)」ともきろくされ、同字異音漢字の「京師(キョウシ)」は戦前の教師の育成学校、「京都師範学校」の略である。今現代の「教育大学」である。ナニを教えてきたんだか・・・? ・・・漢字の「本」と言う文字が記録されているのは「石山本願寺・本能寺・榎本武楊」である・・・「本」である。そして「多品治(おほの・ほんじ=本字)」の「品治」で、「多(おほの)」は「太(おほの)安萬侶」の「おほの」である。 ・・・アマ・リ・ニモ、フ・ザケ・テ・イ・ル・・・が、これが「二本文化」と、云うものである。 算数の掛け算の「カケル記号」が「×」であるならば、文字は片仮名の「メ」であり、類似するのは「〆」である。「×」は拒否、否定、不可の「ぺけ・ダメ・バツ」であり、「十」をナナメにした文字で、ローマ数字の「10」である。「10」そのものは「アラビア(亜剌比亜)数字」で、「十」とは「足(たり)」であった。象徴的なのは「十字架」で、金星記号の「♀=○+十」で、「エジプト(埃及)王の杖」の「アンク」であった。更には甲骨文字は「七(一+L)」と「十」が曖昧である・・・「L」とは「乙(オツ・ツ・イチ・きのと・おつ・おと)の略字」で、しかも英語の「エル(L)」であった。「エル(L)」とはアルファベットの「12字」で、数字の「50=五拾」である。英和辞典では象徴的な「L」とは「高架鉄道(elevated railroad)」で、「家の翼、袖(そで)」とある。「La(ラ)」は音階の「ドレミファソラシド」の「弟6音」である。「ロクオン」とは「録音」で、音の記録である・・・現在コンピュータで使用されているのは「ログオン(logon)」、「ログイン(login)」である。「log」「とは「丸太・航海日誌・測程儀」である。「logarithm」とは「対数」である。すべて「logic」で、「Logos」である。 なんで、カミの言葉が「丸太」なんだか、「イエス(神の子→父と子と聖霊の三位一体の二位)」は大工の息子だった、らしいが「太安萬侶(丸・円・○)」、丸太の安売りは「火事の前」が相場であるな。 丸太商人は ↓ 「紀伊国屋文左衛門(キのクニヤ ブンザエモン)である。 寛文9年・1669年?~享保19年4月24日・1734年5月26日」は江戸元禄期の商人。 元姓は「五十嵐」氏。 名は「文吉」。 俳号は「千山」。 略して「紀文」、 「紀文大尽」。 ↓ 紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町) 出身。文左衛門が「二十」代の頃、紀州「みかん(橘)」や「塩鮭」で富を築いた。元禄年間には江戸「八丁堀」へ住み、江戸幕府の側用人「柳沢吉保」や勘定奉行の「荻原重秀」、老中の「阿部正武」らに賄賂を贈り接近。上野寛永寺「根本」中堂造営で巨利を得て幕府御用達の「材木商人」となるも、深川「木場」を「火災」で焼失、材木屋は廃業。 また、幕府から十文銭の鋳造を請け負って造った十文銭は質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用停止。 晩年は 浅草寺内から「深川八幡」に移り、「宝井其角」らの文化人と交友。「千山」の俳号を名乗った。享保19年(1734年)に死去したとされる。「享年66才」。 紀伊國屋は2代目文左衛門が継いだが、衰退。八丁堀に広大な邸を構え、吉原での豪遊の逸話がある。 ハナシは、「乙=L=五拾=log」だった・・・「乙巳(いつし・いつみ・おつみ)の変(645=陸肆伍=六百四拾五年)」で「炎上」した「蘇我氏の邸宅にあった本」であった・・・「乙」と「巳」・・・つばめ(燕・津波目)」とは「乙鳥」と当て字され、「龍宮城」とは「乙姫」さまの「海神=海蛇(巳)=龍神」の城で、「乙訓」とは「おとくに」のコトであった。「乙夜」とは「午後十時過ぎ二時間」である。亡くなった人の火葬前の「お通夜」である。約440年前の「つばめ市の伝説」の濁流に流されてきた祠のハナシは「津波(つなみ)の目」だったカモ・・・約510年前に「水原憲家」という人(水原氏は鎌倉時代から白河荘の地頭の家柄)がその子の「景家」に出した手紙に、「おまえに津波目の土地を与える」ということが書かれてあるらしい(燕市広報ブログ)。「燕」は昔、「津波目」と書いていた。 カケラレテいるのは「現存・古事記」のスベテの「個々の漢字文字、合字された漢字を分解した漢字も含める」である・・・ そして 「北緯33度23分秒」、「東経120度7分秒」は、 「補(保)-句-意(違・異) 参・拾(足)・参・ 度(渡・斗・途・都) 弐拾(念)・参 分(和気・別け・訳・腋・和記・倭紀・輪軌・環徽・話記)」、 「東-経(問う稽・問う景・島形・当稽) 壱・百・弐拾(念) 度(渡・斗・途・都) 七(漆) 分(和気・別け・訳・腋・和記・倭紀・輪軌・環徽・話記)」 である。ついでに中国「上海」の「位置」と「別称、簡称」を挙げておくと、 北緯31度10分→31.166667度 東経121度29分→121.483333度 別称→申→シン・もうす→「網巣・亡子」→さる→猿女君=宇受女 簡称→滬→コ・ゴ・えり・あじろ→上海の東北、松江の下流にある川の名前。 「滬上」とも・「えり」は衿・襟 「あじろ」は竹網の仕掛け、魚獲りの罠 滬拼(コヘイ)→氵+扈+手+并→扈(コ・ゴ・つきそう・とも・家来・しもべ とどめる・禁止・蔓延・はびこる・おおきい) 扈従(コジュウ)→小舅・小姑→虎獣・虎従→付き従う 一々出典著作は個々に挙げないが、私が参照、参考にしたモノのホトンドは諸々の「現存・古事記」、「岩波文庫本・日本書紀」、諸々の腐るほどの「日本史関係書」、「世界史関係書」などの「歴史書本」、そして、ボロボロになった「大修館・漢和辞典」、「平凡社・百科辞典」、そして諸々の「旺文社・古語辞典+アルファ」、「英和・和英辞典+アルファ」、更には手っ取りバヤクてコピー、複写改作に便利な「ウイキペデア百科事典」等であるから・・・疑わしきは、読者が直接「コレラ(瀑瀉)」、「コロリ(虎列刺)」を調べて欲しい・・・危険か、安全か、有害か無害かは保障しない・・・原発事故、メルトダウン、放射能汚染は視えなし、一昔前のはガイガー機器は「ガァガァ」と測量音だけが頼りだった・・・毎年の伝染行事、「インフルエンザ菌」の感染は「平常体温36度5分」以上の高熱度、発熱度、そして「咳き込み」の激しさ、ゴホン、ゴホンと、泪と鼻タレの度合いが目安の判断である・・・地震、カミナリ、台風、突風、暴雨、洪水、豪雪、雪崩、噴火、貰った「受(授)命」、肉体(ジクタイ)はドウショウモない、ニッポンレットウ・・・それでも「天空」を見上げるのさ・・・ハヤブサはイトカワから帰還したのだから・・・キボウはチキュウを周っているのだし・・・ 何時の時代からあった地名かは不明だが、「東冶」と「東台」の違いは「冫」が「有るか無いか」である。しかもここは「緯度32度50分」、ほとんど「33度線上」に存在する。そして「邪馬台国は会稽、東冶の東に存在」したのだ。 「会稽、東台の真東、緯度32度50分」あたりには九州長崎、島原諫早、熊本玉名郡横島、阿蘇山頂、横島、四国土佐横島、八丈島が並んでいる。 「東台」→東→「邪馬台」→「32度50分」にあるとするならば当時の中国人は平面な地球ではなく、「球体」としての地球を知っていたのだ。傾いている地球を輪切りにした「緯度」の概念を明確に知っていた。 歴史上、日本ではその知識を確実に実測して有していたのは江戸天文方の 高橋景保→「カルデアン(天文地理・占星術師)」であった・・・ 「軽を、出す、案」・・・ヨルを観察するヒトは「塩漬け」 「古事記の島(秋津島・大八島)」は 「塩水の滴り、点滴」から形成 高橋景保の履歴は、 天明五年(1785年乙巳)から 文政十二年2月16日(1829年己丑3月20日)の生涯であった。 通称、 作左衛門。 字(あざな)は 子昌。 号、観巣 文化七年1810年庚午、 「新訂万国全図」銅版画制作。 伊能忠敬の全国測量事業を 監督→かんとく→寛徳 ↓ ↓ ↓ 寛徳(かんとく)は、年号 ↓ 長久五年十一月二十四日(1044年甲申12月16日)に改元 ↓ 永承元年(1046年丙戌5月22日)前までの三年間の年号 ↓ 後朱雀天皇~寛徳二年、親仁親王が即位し後冷泉天皇の時代 ↓ ↓ 巻得似撚 ↓ ↓ 足依 ↓ ↓ 語取座句→後首割 信認震央 測位 碁例線→ご霊前 ↓ ↓ 寛徳のコトバは「杜林」と言う人物の評判伝 ↓ (後漢書・杜林伝)の「上下歓欣、人懐二寛徳一」 ↓ 建武二十二年(46年)、光禄勲に再任。 ↓ 同年冬に、→同年問う 項録訓 再認 ↓ 「朱浮」が罷免されその後任として ↓ 「大司空」に任命された。 ↓ 「司空は『周礼』に記された六官の一つ、三公の一で、 ↓ 周代では「冬官」の長として灌漑、土木 工作を監督。 ↓ 『漢書』の注には水と罪人を主る(つかさどる)役人とある。 ↓ 全面的に援助。 忠敬の死後、彼の実測を基に→実測→字通素句→日足 「大日本沿海輿地全図」を完成。→輿(ヨ)=地図→与・夜・世 文化八年(1811年辛未)、→文化→文の変化は葉の知を念 「蛮書和解」→「蛮(バン)=亦+中+ム」の書の話(環・輪) 御用の主管。→おんよう→陰陽の主幹→音要の取換 「厚生新編」の翻訳開始。→構成→恒星→更正→光星 文化十一年(1814年甲戌)→文の変化はイチを拾うハジメ 「書物奉行兼天文方筆頭」就任。 文政十一年(1828年庚寅)の→文の所為は重(獣)の位置を撚る シーボルト事件に関与投獄、→ジィボルト→字意簿留(流)図(斗) 文政十二年(1829年己丑)二月十六日に獄死。→語句史・極視 享年四十五才。→四拾五→肆を拾う語→ヨム、カサネル、語の才能 遺体は→異体・意他意・意多意→意富→太安萬侶 塩漬け保存。シヲ→潮汐→朔望→新月-満月→円 その後、遺体は→意他意→意対(碓・態・鯛・帯・台・戴・太・胎・退) 引っ張り出され→引張出(弟=乙・音・手=又=右手)→索引され 斬首刑。→算珠計(稽)・参主形→オリオン座三星・台形・逆台形 斬(車+斤)首(具の逆字)→キルクビ→記留句備 であった。 「かる・カル」とは 歌舞伎(かぶき・カブキ→化武記)の 「仮(假)名手本・忠臣蔵」に登場する「おかる(お軽)・かんぺい(勘平)」の名前にもなっているのだが・・・知っているかな?・・・事件の場所は「赤穂藩」である。現在の「赤穂市は、兵庫県の南西端部に位置し、岡山県との県境に位置する市。 古代には赤穂は吉備の国に属していた。 ↓ 「桃太郎の黍(きび・ショ)団子の国」→氵+黍=漆(うるし・シチ・シツ)→七・7 ↓ ↓ 「黍糕(米+羊+灬)=ショコウ」→黍(もちきび)・禝(うるちきび) とすると、「鬼(おに・キ)」は「仇(かたき・キュウ・ク・玖=王+久=たま(黒曜石の球・球磨→熊)=イ+九」である。「玖=王+久」→「オウキュウ=王宮・応急」の示唆である。「吉良上野介」は名前からすると「吉良」で「綺羅」である、のだが・・・ 兎に角、 「赤穂浪士・四十七士の仇(敵)討ち(1702年壬午、元禄15年12月14日)」のハナシである。 「仮(假)名手本」とは「いろは四十七(47=四拾七=肆拾漆)文字歌」に懸けられたタイトルで、「四+七=11→十一=壱拾壱」である。歌舞伎での初演の配役は、勘平が五代目「市川海老蔵」、 お軽が三代目「尾上菊五郎」・・・ お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中の着物姿。この着物は「景事(所作、動作)」によっては振袖にもなるらしい。、勘平は黒の紋付の着流し、「東からげ(あづま絡げ)= 尻っぱしょり(尻端折り)=着物の裾を腰の両わきにからげて帯に挟むこと」で舞台に登場。 「五段目」では一人三役で登場人物を役者が早替わりで演じる。「火縄銃(ひなわじゅう)」で「猪(いのしし)」を二度撃つ「二つ玉」と呼ばれる場面がある。 「七段目」では「由良助が密書を読み、おかると縁の下に隠れていた九太夫に盗み見されてしまう」場面である。 上に記した浄瑠璃、歌舞伎の筋立て、台本の「文字、漢字、数字」、「シナリオ段取り文章」は時の「御政道」の権力を慮って、当時の江戸時代の事件を作家が「過去の時代の歴史的事件」に移(写・映・遷・ウツ)し、変(代・換・加重・買・飼・替・カ)え、重(笠・加佐・暈・傘・量・瘡・嵩・カサ)ねて、「脚色」したモノなのである。 これを踏まえ、ここは、主に「日本書紀」、「古事記」、「ギリシャ神話」に記されている人物と事件を歴史(暦史・轢死・例記詞・レキシ)の流れの中で拾ってイキタイ・・・ 更に 「幕末~明治」に登場する人物の名前や、その履歴傾向、彼等の事件があった場所等を重ね、時代が異なるのに何故、同じような物語展開がナサレテイルノカを、妄想、推理しながら追求してイキタイ。 *「→」は私が文字、文章、数字、を「同音異字」で変化させたモノで、 「合字」された「漢字」を文字分解して同音異義で読んだモノも含む。 *「↓」は関連させたモノへのツナギ方向である。 *「←」は関連示唆ではないのか、と思われるモノである。 *「干支六十(60・六拾)サイクル年」の重なりとして 同音異字を記し、漢字分解もしてヨンだが特に注目してほしい。 例(タトエ)ば、 「子=鼠=ね・こ・す・シ」、「子」=一+了=壱+了(ア・あ)=始終 1) 「軽」皇子とは「木梨軽」皇子(きなしのかるのみこ)で 第壱拾九(玖)代の 允恭天皇の→「允(イン)=ム+儿」→ヨコシマのヒト→木戸孝允 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 桂 小五郎=長州閥」の長(おさ) ↓ ↓ 天保四年六月二十六日・1833年八月壱拾壱日 ↓ ↓ 誕生 ↓ ↓ 明治十年1877年五月二十六日死没←胃癌? ↓ ↓ ↓ 充から「亠(音の字の略)」を除去した漢字 ↓ まこと=眞言・眞人・信・誠・実→承認・認可 ↓ 允文・允武→天子が臣下を褒め称えるコトバ ↓ 眞人は天武天皇→天渟中原瀛真人(まひと) ↓ ↓ 第四拾代天皇・明日香清御原宮(御宇)天皇(萬葉集) ↓ ↓ 在位は天武二年二月二十七日(673年3月20日) ↓ ↓ 朱鳥元年九月九日(686年10月1日) ↓ 国語では主殿寮第三等判官「允(じょう)」と訓む ↓ 第一皇子、皇太子であった・・・ 「軽」の漢字分解は 「車」の「圣(又+土)」で、車輪の「直径・半径・径行・圣→茎(くき)」 ↓ 小道・横路・横道・差渡し・径行 径(けい、diameter)とは、図形の差し渡しの長さのこと。 「軽(かるい・ケイ・キン)=車+又+十+一」は古代の戦車である。 ↓ ↓ ↓戦車に乗って ↓ 車の右手の壱拾壱→鞭か槍か弓の弦に番えた矢 ↓ 11=壱拾壱=イチひろうイチ=位置を拾う射置→鯱(魚+虎) ↓ ジュウイチ=重位置・獣位置 ↓ 十=と・たり・ そ・ はつ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 七 充 足 三十日 二十日 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 晦日(みそか) 念 ↓ 一=はじめ・はじまり ↓ ↓ ↓ 始初肇創元春本源甫基啓哉 ↓ 一日=ついたち→対他値→朔日(サクジツ) ↓ 月建(立) 昨日→差句字通 かるい=駆る・駈る・刈る・狩る→借る意 「かるい」は「狩る射(畏=くま=熊=大熊座・小熊座・北斗七星」)」で、 この「母子の熊、二頭の物語」は ギリシャ(希臘)神話に語られているモノである。 ↓ 主神の ゼウス(ユピテル)が→ぜうす→是-ウス(臼・碓・薄・有珠) ↓ ゆひてる→結い手瑠・唯出留・諭意輝(耀・照・瑛) ↓ ゼウスは稲妻の光、落雷の「雷電の神」で、 ↓ 来電→頼伝(傳)→人は専→伊藤博文 ↓ 落雷音→ラク・ライオン」は「殷(イン)→轟音→號(号・合)音 女神→おんなかみ→音名化視→めがみ→目加美 ↓ ジョシン→序審 アルテミス→あるてみす→在る出(弟)見素 侍女の→ジジョ→次女・二女・児女・爾汝・自序・自助・次序・字如 ↓ はべるおんな→葉辺(邊・部・経)留音名 乙女→おとめ→音目→いつめ→何時芽・逸目・伍目・溢目・意津女 ↓ ↓ ↓ 処女→ショジョ→書所→図書館・翰林館→坂本乙女→坂本龍馬・お龍 ↓ 「乙名=乙人」とは長崎出島の管理通訳役人でもあった。 ↓ 「乙名(おとな=乙人)部屋」もある。 ↓ ↓ ↓ 耶蘇会士「ジェロラモ・デ・アンジェリス」は ↓ ↓ ↓ 出・編む字絵利州 ↓ ↓ ↓ 「元和二年」に津軽に流されたキリシタンを慰問した。 ↓ その時に彼は津軽の深浦から出帆し、「蝦夷が島」に渡航。 ↓ 上国(かみのくに)付近に着き、徒歩で松前城下に入った。 ↓ この地では「乙人(おとな)」の待遇を受け ↓ 10日ほど滞在してキリシタン信徒の「告解」を受けて出羽に戻った。 ↓ 同僚の「カルワリオ」も「六年・七年」に蝦夷地に渡っている。 ↓ ↓ ↓ 「カルワリオ」の記録→軽・話・理・御→化留話理御 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ (緒・汚・悪・於・尾) ↓ 彼は金(キン・コン)掘坑夫に変装し蝦夷地に渡り、 ↓ 金山に存在していた隠れキリシタンのために ↓ ↓ 「8月15日」の「聖母昇天祭」を祝った。 ↓ ここにいた隠れキリシタン(切支丹)は→切(七刀)支丹 ↓ ↓ ↓長崎→ 七島視譚=横島 ↓ 寛永十四年(1637)の「島原の乱」があった後の寛永十六年に ↓ 蝦夷地の大沢、知内、石崎の金山に潜伏していたが ↓ 松前藩はこれら「106人」を捕らえて斬首にした。 ↓ 「正保元年(1644)」に「日高の様似」の金坑で ↓ 隠れキリシタンの「児玉喜左衛門」を捕らえて江戸に送った。 ↓ ↓ ↓ 字を漁る句(区・九)記、左(よこしま)に重る意(異)文 ↓ この時点で蝦夷の隠れキリシタンは絶滅した、らしい。 ↓ ↓ カリストと→かりすと→借素賭・仮州都・雁州渡・刈諏斗・化理素図 ↓ かるしと→軽視斗→北斗七星→大熊座、小熊座 関係し→カンケイ→環形・還啓・姦計 妊娠させ、→にんしん→認真・仁診・任審・人参・人身・人臣・壬申 カリストは男子→だんし→談詞・旦視・檀氏・檀紙・拿務史 アルカスを出産。→しゅっさん→出纂・出燦・出参・出讃・取津山 ゼウスの妻→つま→津間→サイ→歳・才・斎・差異・差意・差緯 ヘラ(ユノー)は→へら→箆・平良・経等・辺羅 その→園・苑・素埜(乃・廼・之・野・能) 事情を知って→ジジョウ→自浄・二乗・治定・字條 ことのなさけ→古都の名差懸(化) 激怒し→ゲキド→劇奴→解記度 ↓ カリストを 熊に→くま→球磨・久万・玖磨・曲・隅・隈→大隈重信 ↓ ↓ ↓ ↓ クマ=「宮間」の逆→間宮→間宮林蔵 ↓ ↓ ↓ 蝦夷渡島→樺太(からふと・サハリン)→間宮海峡(マミアのセト) ↓ 佐和(佐波)臨 ↓ ↓ ↓ 1808年(戊辰)間宮林蔵↓↑発見→松田伝(傳)十郎 ↓ ↓ 1809年(己巳)渡航↓ ↓↑ ↓ ↓ 北満州-沿海-ハバロフスク間の海峡=海人の背徒 ↓ ↓ タタール海峡→祟る海峡? ↓ ↓ お庭番←間人←間諜(スパイ)→密告→鳴滝(瀧)塾→蛮社の獄 ↓ ↓ ↓間人王女 蛮=亦中ム ↓ ↓ 真人=大海人皇子 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 忍者・変身→隠密・お庭番 ↓ ↓ ↓ ↓ 変身させてしまった。→ヘンシン→返信・変身・変心 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 「交・響・曲」・・・1808年12月22日に ↓ ↓ ↓ 壱千八百八撚壱拾弐ガツ弐拾弐比 ↓ ↓ヒビキ(比備記)が交わるヨコシマ(横嶋・邪) ↓ ベートベンが→邊(辺・部)重都弁 ↓ 「運命(第五番)」と→ハコブ(葉胡分)イノチ(亥の地=北西) ↓ ↓ 大悟の番(つがい・対) ↓ ウンメイのダイゴバン→有無名の代(拿意)語伴→第(竹弟)→題 ↓ 「田園(第六番)」を→デン(傳・伝)エン(円・苑・猿・媛・塩) ↓ タソノのダイロクバン→多祖の代録判 ↓ ウィーンで初演・・・アン・デア・ヴィーン劇場 ↓ ↓ ↓ 案 出亜 武意音(允・寅・蔭)→木戸孝允 ↓ ↓ 桂小五郎 ↓ 松下村塾→吉田松陰(寅次郎) ↓ アルカスは→歩かす (アレカス)→稗田阿礼→阿礼が化した州 狩の名手に成長し→メイシュ→名取・盟主・明主・姪主・命取 谷間で→たにま→他似眞・多爾間・太邇間 ↓ コクカン→国間・刻間・告奸(姦・翰・官)・弧区間 熊に変身させられた 母カリストを発見し 槍で熊を殺そうとした瞬間 大神ゼウスは、 アルカスを小熊に変身させ、 二頭の→ニトウ→二等・二島・似唐・爾当・爾問・次当→字問・時当 ↓ じとう ↓ ↓ 字問→「邇邇芸命」=天津日子番能邇邇藝(芸)命 ↓ ↓ ↓ ツガイの二字の解意明 ↓ 笠沙(かささ・リュウサ=龍座)の御前(みさき・音作記) ↓ 量の差 見左記 音叉器 ↓ 木花之佐久夜毘賣=記(胡)のハナシ作句依る備目 ↓ 泣く子も黙る地頭→名句胡摸拿眞留字答→時塔=時計台 ↓ 大熊と小熊を→大熊(ダイタイ)代替・大腿・大隊・大体 ↓ おおくま→大隈・逢隈→大隈重信 天空の→あまのそら→雨の空・海女の空・海部の素等・海士の空 ↓ テンクウ→転空・典句得・点空・添句宇 星座とした。→セイザ→正座・静座・静坐 だが ヘラの 怒りと→いかり・おこり→錨・猪狩・起こり・興り・熾り・瘧 憎しみは納まらず、→にくい→似句意→シミ=詞(史)視=染・凍・衣魚・紙魚・滲 両親の→リョウシン→良心→龍神・龍人→龍審 海神→あまかみ→天神 オケアノスと→おけあのす→尾懸亜名素 ↓ ↓ ↓ 尾張をかけたアマネシの名の本 その妻 テーティスに→てえてぃす→手重訂す→出(弟)重帝椅子(慰す) 二頭の母子熊の→丹(朱・紅・赤)等の星の熊 星座が 海中に沈まないように訴え 海中で→改鋳→天中→てんちゅう→典中→天誅→添注 休息するコトが出来ない→きゅうそく→球速・九速・九足・求測 北極星(ポラリス)の→ぽらりす→歩等理数 「周極星座」とさせた。紫薇苑(垣)の天皇皇帝=北極星 ↓ 小熊座の尻尾の星 その見上げた夜の天界の転回の天海の「展開図」である。 「見上げてご覧、夜の星をォ~ヲ~」である・・・ 「渦(カ・うづ)留(ル・とどまる)意(イ・音(立日)心)」=天体図 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 宇津・宇図 斗度〇 移 音(立つ日)の個々路 逗留 海流・潮流 潮汐の旋廻→迂通→迂回→鳴門→なると→月の朔望 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 渦とは旋毛(旋風)→「つむじ」の形の螺旋巻き→有頭の回転 ↓ ↓宇・雨・烏・兎・う=鵜(弟鳥・鸕)頭の廻添 ↓得=ウ→弟鳥→音取→乙酉 ↓「宇=ウ+于」は「字=ウ+子」に類字 ↓「宇受女=猿女」→目が丸い←古事記 竜巻・龍巻・辰巻→建巻き←乞事記 ↓ ↓ 「摘む字・詰む字・積む字・抓む字」 ↓台風←候時季 ↓ ↓秋=穐(禾亀)・空 現存・古事記→←大和(倭)建の命 ↓ ↓ 能義亀 垂仁天皇 ↓ 佐波遅比賣=沙本毘賣→差和字秘・査本備目 鼈甲→別項・捌考 ↓ ↓ 唖の品牟都和氣=本牟智和氣→大鷹(帝鳥)→阿藝登比=アキ ↓ ↓ ↓ ↓アキ=安芸→広島 ↓ 本(叛)無知訳 安芸問い(土肥) ↓ 高知←土佐・肥後→熊本 唖(おし・ア)の「建皇子(たけるのみこ」の履歴 (白雉二年・651辛亥~斉明天皇四年・658年戊午)→白雉→白知 「唖で語ふこと能はず(日本書紀)」 白きじ→白記事 天智天皇の第二子 ↓ 母親は落智姫(蘇我倉山石川麻呂の娘) 生地・木地→落智 斉明-皇極天皇は「萬歳千秋の後に、(建を)要ず朕が陵に合せ葬れ(日本書紀)」 と言って「建皇子」を一緒の墓に埋葬することを命じた。 建皇子享年、「数えで八才(歳)」、「満で七才歳」 ↓ 「目弱王=眉輪王」は「七歳」で 雄略天皇=「大長谷若建=大泊瀬幼武」に「都夫良意富美」と共に殺された。 父は「大日下王」、 つぶら(円) 母は「長田太郎女=中蒂(丱+帝=へた・臍・ね・棘・テイ・タイ・蔕)」 ↓ ↓ ↓ ↓ おさだ=訳語拿 へそ・ほぞ とげ ++ナ廿九ワ巾 2) そして、 「孝徳天皇=軽皇子 (645年7月12日・大化元年六月十四日即位~654年11月24日・白雉五年十月十日」 「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」であった。 大化元年十二月九日、都を難波長柄豊碕に遷した。 父親は「茅渟王」 母親は「吉備姫王」であり、 皇后は「間人皇女」であった。 妃は阿倍倉梯麻呂の娘「小足媛」 妃は蘇我倉山田石川麻呂の娘「乳姫」 3) もう一人の「軽」は 「珂瑠(かる)、軽(かる)皇子」で、 文武天皇(もんむてんのう、第42代天皇 (在位文武天皇元年八月一日(697年8月22日) ~慶雲四年六月十五日(707年7月18日)。 諱が珂瑠(かる)、軽(かる)。 和風諡号は 二つ、 「倭根子豊祖父天皇(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)」 旧字体:−豐祖父 と、 「天之真宗豊祖父天皇-『続日本紀』797年(延暦十六年)である。 父親は「草壁皇子=日下部皇子」で 母は「阿陪皇女」である。 そして 日本地図を作成した 伊能忠敬→「アトラスアン(地図製作者)」であった・・1820年文政三年死去 亜虎(寅・於兎)、州、案・・・異能のヒトで、 アルキづくめのアルキメデス 「足の軽い名人」だったかも・・・「軽度」なのか「緯度」なのか・・・?
「会稽、東冶の東」 「足軽」からの立身出世は「豊臣秀吉」と「伊藤博文」でもあった・・・ 日本列島、弓の形・・・ 伊能忠敬のおじいちゃん、スゴイ! アレキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης) ↓ ↓アレ・キメ・デ・ス→(稗田)阿礼・記目(決め)・出・諏(素・州) アルキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης) ↓アル・キ・メ・デ・ス→或る・記・女・出(弟)・諏(主・数) ↓ シラクサの→白草→城草→稲城→佐本媛(垂仁天皇) アルキメデス( Archimedes of Syracuse、 ↓ ↓ 紀元前287年~ 紀元前212年) ↓ ↓ ↓ 日本書紀の元の前、弐百壱拾弐 ↓ ↓ ↓ 次はモモ、壱(輿)が足(重)なる(東)冶 ↓ 古代ギリシアの数学者、 物理学者、技術者、発明家、天文学者 「シシリー島」で生まれ→シシリィ→獅子理意 「シラクサの戦い」において、→しらくさ→視落差→瀧の瀑布 共和制ローマ兵によって殺害→キョウワ=享和 鳴滝と幕府 ↓ ↓ ↓1801(寛政13-享和元年・辛酉)二月五日享和に改元 ↓三月. 幕府、伊能忠敬に伊豆等の 沿岸測量を命ずる ↓四月九日肥後国天草の百姓、 ↓ 熊蔵、田に現れた巨大な蟒と格闘(耳嚢). ↓ 本居宣長死去・七十一才→翻意、宜しく、訳語 ↓ 七拾壱=七(漆)を拾う位置 ↓1802年 ↓享和二年・十返舎一九「東海道中膝栗毛」刊行 ↓1803年 栗毛=西紀望・膝=月(肉・ジク)+黍(きび) ↓享和三年・前野良沢死去・八十才→米寿の差異→八方医のコトブキ(事部記) ↓ ナポレオン皇帝就任←虎 「蘭学事始・解体新書」 ↓1804年文化元年二月十一日文化改元 ↓ ロシア使節通商を求め長崎へ来航 ↓1820年:文政三年・伊能忠敬死去 ↓ ↓ ↓壱千八百弐拾→位置(位地)を知る頗(よこしま)、百の念の撚 ↓1828年文政十一年 ↓ シーボルト事件 ↓ 三条大地震 ↓ 享年、75歳→七拾五→史地を拾う語 「砂の計算」→スナのケイサン→州名の稽の纂 「幾何学理論(アルキメデスの無限小)」 「牛の問題」にはエラトステネスに宛てた 「序文」がある。 「Universal History」には 70年前のアルキメデスの死が記されいるらしい。 アトラース(Atlās)は両腕と頭で天の蒼穹を支える巨人。 名前は「支える者」・「耐える者」・「歯向かう者」を意味する。 地図帳を「ア・トラ・ス」と呼ぶのは、 「16世紀にメ-カル-トが→壱拾六(位置拾う陸)の正規、目得架留得図 地図帳の表紙としてこのア・トラ・ァ・スを描いたことに由来する」。 ↓ ↓ ↓ 阿・虎(斗等)・亜・州 「地図」は異称漢字で「輿(ヨ・みこし・神輿・御輿)=臼+車+一+ハ」で、 二本の担ぎ棒、方形の天辺、頂上、頭には 「夜明けを告げる鶏(にわとり)」が据えられている。 「一羽でもニワ鳥」とは、コレ、如何?・・・である。 「夜明けのスキャット」とは「ユキサオリ」・・・であった。 スキャット→ (Scat)とは、→「S字形のネコ」→すきゃっと→諏伽通斗? 古代エジプトでは「ネコが神様」で、王様の名前も「ネコ王」が存在した。 真面目な説明は「主にジャズで使われる歌唱法(カショウホウ)で、 意味のない音声をメロディーにあわせて即興的(アドリブ)に歌う こと」 で、 「同音異字漢字」は 「仮称法・加商法・寡少法・迦葉法」である。 ↓ 「嘉祥元年・戊辰848年 ↓ 七月十六日」とは→八百四拾八年七月壱拾六比 「豊後大分郡・寒川」で「白亀」が捕獲、献上され、 年号が 「承和」から 「嘉祥」に改元されたコトが「続日本紀」の記録にある。 「戊辰」とは 「明治の元年・戊辰戦争」でもあった。 「嘉承元年」とは 「長治三年」を→「長(おさ)」の「治(はる・ジ)」 ↓ 訳語の「水(氵・シ)+台(ム口)」 清水の次郎長(?) 改元した「1108年丙戌」で、中国では 「北宋・崇寧五年」、 「遼・乾統六年」、 「西夏・貞観六年」、 「大理国・文安二年」、 「李氏朝鮮・龍符六年」 であった。 そして、「信西」が生まれた年でもあった。 ↓ 「信西(しんぜい)」とは「法名」で、号は「円空」、 「藤原通憲(ふじわらみちのり)=高階通憲(たかしなみちのり)」 である。「高階」姓は「七歳の時に養子」に入った縁戚の姓である。 「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(月詣和歌集)と 和歌を詠み、表裏、本音を隠し、うわべの「策謀・策略」家で、権力を握った後は 「薬子の乱(870年)」以後「346年間」廃止されていた「死刑」を復活させた。 「天文知識・占星術」も極めた人物であった。 「保元の乱(1156年)七月」を経、 「平治の乱(1159年)十二月」で自害し、 その首は「西の獄門」のに懸けられた。 「西」とは「酉支」で「トリ」ある。「神獣」は「白虎・麒麟」である。 ハナシは「伊能忠敬」の「地図=輿」であった、 同義異称漢字の「輿(ヨ・みこし・神輿・御輿)=臼+車+一+ハ」の上に乗る 「鶏(にわとり・ケイ)」のハナシであった。 「地図」、「地理誌」とは地球、大地、宇宙を載せ、更に「鶏」を乗せる 「坤輿」とは ・・・「易経」説卦の「坤(未申)を地と為し、母と為し、大輿と為す」から「大地」を大きな「輿=乗り物・載りモノ→法(のり・則・矩・紀・憲・朔)」に譬(例えた・比喩)えた語であるらしい。仏教で言う「大乗の仏法」である。「乗り物」だが、「海苔(のり・カイダイ・うみコケ・うみゴケ)=海(氵+毎)+苔(丱+ム+口)」と、「糊(のり)=米+胡(古+月)」とは異質である。海苔は海草、海藻、「カイソウ」で「回想・改装・廻漕・廻送・階層・会葬・改葬・怪僧」と解そう。それに乾燥させたモノは「黒い紙」のようだし、元々は糊のような液状である。接着剤の「糊」は「説地訳西」の接着の座位で「米→八方の胡人、西方人」と考えよう・・・ 「坤輿万(萬)国全図」は 宣教師 「マテオ・リッチ=利瑪竇(リマトウ)」が作成した 漢訳版世界地図。 地球球体説を基にして 六枚一組にして、 卵型の図形の中心に中国を描き、他に 天文図なども含んだモノ。 1602年に北京で刊行され、日本にも輸入され、世界的な知識の吸収源とされ、リッチ死後に刊行されたものも含めて16種が知られているらしい・・・それで、「坤(未申=羊猿)」が「裏鬼門」の方角なのに何故、「地」で、「母」なのかは・・・その音が「裏の記文」で、漢字そのものの「坤(コン・ひつじさる)=土(十+一)+申(日+|)」である。「十一=壱拾壱(イチを拾う始)」、「申(日+|)」は日に立てる「|=棒」で「日時計」、同音異字の「コン」は「昏(たそがれ・黄昏)」である。「坤=昏」とは「昼夜=明暗の視界に於ける天地、天海の境目」であるからだ。 「昏=氏+日」で、 「氏」は「氐(テイ・タイ・もと・ふもと・ね・柢の古字→根本・根底)=氏+ー=木の根」の省略形で、 地底、海底、地下の意味である。地下は「黄泉(よみ)の世界」である。 「昏」は沈んだ日(太陽)の前後の夕暮れである。「氏(うじ・シ)」そのもの意味は 「結婚した女(おんな)の母の姓に付ける字」である。 女(おんな)の姓は変わらない、と言うことである。
ならば、「ひつじさる」は「比通字佐留」である。 「輿(ヨ・みこし・神輿・御輿)」とは祖霊を運ぶ二本の担ぎ棒に設置された箱である。 この「輿(ヨ・こし)=臼+車+一+ハ)」は ↓ 「與(ヨ・あたえる)=臼+与+一+ハ」 と類字で、類似である。 「邪馬台国の宗女」の 「壱与」の「壱(イチ)=士+ワ+ヒ(七)」は 「壹與」の「壹(イチ)=士+ワ+豆(一口ハ一」と 「臺(吉(十一口)+ワ+至)=台(ム+口)」 と類似で、類字である。 竜(龍・辰)宮城では釣り針が咽喉に刺さった 「鯛=魚+周」はムクチ(ム口)であった。 「現存・古事記」では 無口な人物は「本牟田和気」と、 「猿女(宇受女)」に口を裂かれた 「海鼠=なまこ」であった。この「海鼠」の漢字分解は 「海=氵+毎」+「鼠=臼+レ+冫(:;〃)+レ+冫(:;〃)+レ」 「鼠」=「ソ・ねずみ・ねず・ね」→「子」 「改竄」の「竄」とは「穴(あな・ケツ)の鼠(ねずみ・ソ)」 ↓ 「ウ+八+臼+爪(ノレ:レ:レ)+=+=」 歴史上、地球を輪切りにした「緯度」の概念を、その知識を確実に有し、実測し 明確に知っていたのは、 「伊能忠敬」 であった。 だが、上に記した日本史的(指摘)な歴史上の事件は 幕末から明治にかけて存在した「蘭学者・乱学者」である・・・ ・・・・テモ、トテモの「712年・和銅五年七月七日」・・・は ・・・「コジキ」には無理である・・・なッ、「カツラ君」・・・ 「邪馬台国」の「邪」は「よこしま」とヨムのだが・・・ ・・・九州で薩摩の邪魔な馬とは誰か? 土佐の龍馬だった、かも・・・西郷隆盛 邁志(にし)←爾志の合の龍星 邁進(マイシン)の号の流星 「邁志(マイシ)」を何故、にし」と訓むのか? 蝸牛=マイマイ→田螺→谷氏 ↓ 西郷軍から 熊本城を死守したのは 谷 干城(たに たてき・かんじょう) 天保八年二月二十二日 (1837年3月18日)~1911年 5月13日) 土佐 藩士。 通称は申太郎、守部。 号は隈山。 第2代 学習院院長。 官位は陸軍中将 正 二位勲一等 子爵→シシャク→支杓→柄杓 であった。九州、「西南」に幕末~明治にかけての「歴史的人物」の「事件」である。 「現存・古事記」から私が推理した「日本・古代史」は次のごとくである。 すなわち、「古事記」に展開されている「地理(輿)と人物(姓名)」は 1、地理的な場所は阿蘇山を中心にした東西南北の「九州」である。 理由は日本の九州は、中国大陸の「九州」とその「地名」が 「故事的」に「音」をとって日本の九州に重ねられたからである。 しかも、日本人にはおなじみの占ない、幕末から明治に活躍した 高島易断の「九星学」は3x3=9のマトリックスの魔法(方)陣で、 縦、横、斜の升目の合算が十五となる「方位学」の占ないである。 これは「気門遁甲・鬼門遁甲」とも呼ばれているものだ。 この占いの「年のサイクル」は 「9→8→7→6→5→4→3→2→1→9→・・・」として 「九から一」へと逆順、巡回する。 「九のサイクル」は太陽の黒点周期とも言われているが、多分、 「宿曜経」の「二十八宿」の「牛宿」を省いた「二十七宿」に合致させたモノである。 「9×3=27」・・・「九の乗除」・・・「9×4=36」→「9×40=360」 すなわち、升目は「縦並び3個、横並び3個、斜並び2個」で、並び方は「八・8」。 「9×3=27」
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九星学上の配置 現在的な北を上とした地図上の配置 南 北 鬼門 4 9 2 6 1 8 東 3 5 7 西 西 7 5 3 東 8 1 6 2 9 4 北 裏鬼門 南
↑ 北
6・六 (陸) 白1・一 (壱) 白8・八 (捌) 白
7・七 (漆) 赤5・五 (伍) 黄3・三 (参) 碧
2・二 (弐) 黒9・九 (玖) 紫 4・四 (肆) 緑
2、物語は九州・阿蘇山一円(圓)を中心にした 「北(子・鼠)=博多 =伊都=一白・水星・中男」 「西(酉・鳥)=長崎 =諌早=七赤・金星・少女」 「中央 =阿蘇山= 五黄・土星・主人」 「東(卯・兔)=大分 =宇佐=三碧・木星・長男」 「南(午・馬)=鹿児島= 九紫・火星・中女」 の地域、及び、九州周辺の島々と本州西南、四国、そして「朝鮮半島」での展開ある。 3、「古事記・神話」に展開されている人物は 「魏志・倭人伝」に展開された 「卑弥呼」、「壱与=壹與」 の歴史的「事実(?)」を下敷にし、中国の漢籍、書籍に記されている「故事」によって説明されている。 「壱与」が十三歳の少女であったとしたら方位の示唆は 庚辛→庚申→更新→後身→後進→高進→兌換 ↓ である。スナワチ、 ↓(金) 「西(酉)=長崎=諌早=七赤・金星・少女・庚、辛・兌」である。 「13歳(才)=壱拾参歳(才)」とは ↓ ↓ ↓ 才知・才能・才覚・才気・才度・才媛・才女→才=始めての意味 ↓ 霧隠才蔵←猿飛佐助=忍の者→真田十勇士の文庫本 ↓ 「十二支+一支=12+1=13」で、 「子~亥→子=13(一三・十三・壱参・壱拾参)支」、 「子」=「一+了」→始終 十二支一巡、子(ねずみ)~亥(いのひひ)、加える一支は「子」で、 子から拾って3番目の支は「寅=虎」である。 「子(ね・シ)」→「丑(うし・チュウ)=牛(うし・ギュウ・ゴ)」→「寅(とら・イン)」 ↓ ↓ ↓ ↓ 音 詩 度等 韻 「鼠(ネズミ)→ソ・ね=音」を獲(取・採)るのは「猫(ネコ)→ビョウ=拍描標表」である。 この「ネコ」は、「虎ネコ」か「縞文様(紋様・模様)のドラネコ」である・・・ 唐王朝の歴史では、 ネズミとは則天武后(武昭・阿武)であり、 ネコとは「蕭淑妃」+「王皇后」であった。 「四柱推命学」上の数理では 「ネズミ=子」と 「ウシ=丑(牛・愛し・憂し・うし→主)」の「支合」を 「害」するのは 「ヒツジ=未」である。 ↓ 「ネコ(根子→彦根→井伊直弼)」は ↓ 根=木+艮(丑寅・鬼門)→東北・主虎・記文 キコン=鬼魂・既婚・己恨・季根(白桃の根) ↓ 季根(白桃の根)→李氏の恨(怨) ↓ 季今→スモモ(判事)のコン(今・魂) ↓ リシ(裏支→裏鬼門=未申(羊猿) ↓ 呪文(ずもん・じゅもん)は密教の専売 「未だにネズミ(子)を害せず」で、 「八番目の羊(未)」と→「捌(ハチ・わける)判目」 「七番目の馬(午)」の関係「支合」を→「漆(シチ・うるし)判目」 邪魔し、「害(そこなう)」モノである。「捌判目」か・・・ ここは歴史的な「李さん一家」の姓名と履歴を調べれば一目瞭然である。 ちなみに、三国史(呉蜀魏→誤植義)の「魏志倭人伝」によれば、 「卑弥呼」は長生きした「鬼道の老婆」であった。 「老婆・養母・母」の示唆の方位は「二黒・土星」の 「裏鬼門・未申=羊猿=南西」である。 「老爺・養父・父」の示唆の方位は「六白・金星」の 「戌亥=犬猪・乾・西北」である。 「壱與(七赤・金星)」は 北西「帯方郡」からやってきた。 「帯の方」とは天体の「獣帯・黄道」である。 「壱與(ヨ・与)→位置の夜」 夜の位地の余(あま・ヨ)りは天理である。 夜明け前・明け方・早朝→宵の明星=金星 李世民→理性視 酔いの味余剰とは二日酔 「張政(六白・金星)」と「対・ペァ」の関係で、いずれも「金」であった。 カラクリの張本人は「阿倍清明→姓名・盛名・声名・生命・声明」で 唐王朝の図書館長「阿倍仲麻呂(麿)=朝衡(晁)」である、 「アベ・マリア(毬亜・真理亜)」はシューベルトが28歳の時の作品であった。 「赤球」と「白地」の「日の丸」の関係である。 九州の地図を広げて「阿蘇山」を中心に東西南北の地名を観て欲しい。 4、「邪馬台国の都=女王国=斎宮」は 「九州内の各地域」に時代的状況によって移動=遷都した。 「遷都」したのは「邪馬台連合国」の「宗主国=斎宮=西宮」で、 「宗主・女王国=斎宮」である。 その場所は九州に現在も地名として残されている 各「横島よこしま」 「横島」を意図的に結ぶと「逆台形」になる。この「台形」はナニを意味しているのか? である。 九州の政治権力は「卑弥呼」の死後、「三分(?)」されていた。 西は「日=左目=烏=鴉=阿=肥の国」 東は「月=右目=卯=兎=宇=豊の国」 北は「時=中鼻=子=鼠=禰=筑紫国」 南は別格の隼人、薩摩の国、「句奴国」である。 九州とは別個に「出雲の国」、「安芸の国」、「四国」、「大和の国」、「東北、蝦夷の国」が存在した。 「卑弥呼」は先ずは中国三国時代の「呉国」、朝鮮半島の「公孫淵・燕国」と関係があり 「台湾・沖縄琉球・九州南西」に影響力を持つ海女族の「女王(?)」であり、 「長崎半島・島原・天草半島」に存在した。 「壱与」は 「帯方郡派遣」の「張政」と縁籍の者(?)で「人質(?)」であったが、 「卑弥呼」殺害後(?)、「玉名・横島(?)」に存在し、その後、 「豊国」の「宇佐」に遷都した(?)。 そして、この「三つの権力」の影響を受けた人々は縄文・蝦夷族の地山陽、山陰、西海、東海、北陸、東北へと移動、移民した。 「白村江の海戦」後に「志賀・長津」から「滋賀・大津」に遷都し、伊勢内宮に遷宮したのは「壱与・百済」系・・・? 「壬神の乱」後に「大和」に遷都し、 伊勢外宮に遷宮したのは「卑弥呼・新羅(唐)」系・・・? 「ヨコシマ(横島)」と読まれる漢字は「感冒」の「冒」をはじめに よこしま=(宀+九)=横・邪・姦・干(カン=諌=甲)・佞・漢 よこしま=侘・差・左・ム・私 よこしま=(宀+九)=侈(シ)・佻(チョウ・ジョウ)・犯 よこしま=毎・曲・奸・淫・自・己 「宀+九=キ・よこしま」は「邪悪・姦・・悪者・盗人」と諸橋轍次先生の「大修館・新漢和辞典(改訂版)」にはあり、「究」の「八」を欠字させた漢字である。 「菅原(すがわら)」の「菅」も「よこしま」と訓れている・・・漢和辞典を注意してみないと「よこしま」とヨマれている漢字を見落とす事になる・・・もちろん、太宰府に流刑された「菅原道真」の「菅」である。 現存する「横島=ヨコシマ」と呼ばれている地名の場所は 弟一番目の地理として挙げたいのが 熊本県玉名郡「横島」は 江戸時代の1605年乙巳(慶長10年)に 中国明王朝万暦三十三年 初代 熊本藩藩主→熊本→大熊座・小熊座 加藤清正の命により、→加藤・清正 可等(加等・華唐)・清が正しい 現在の 外平山に→ガイヘイザン→ゲヒョウサン 画意 柄算 解標 纂 あたる島 (横島)と 本土の間の 海を→海=うみ・カイ・あま=海=氵(シ)+毎 宇美・界(貝)・天 纂隋→視→阿毎王朝 干拓して→カンタク→間の度 陸地とし、→理句知 それ以後 江戸時代から 明治時代中期にかけて干拓を繰り返し、 南側に陸地が伸びている。 1889年 明治22年己丑年4月1日 町村→チョウソン→兆孫 制度施行により、 横島村と 大園村が 合併して→ガッペイ・ゴウヘイ→傲(模倣)並 横島村が 発足。→ホッソク→歩測 同年同月同日には 「市制施行、弘前市・横浜市・久留米市など 「31都市」が選ばれる」→「31巻」は日本書紀・「13歳」は「壱輿」 ↓ 13歳も31日も「変わり目」で、 ↓ 「三十日+一日」も「変わり目」である。 ↓ 「30+1、晦日、朔日」 ↓ 三十比=みそか・一日=ついたち 戦後の 1967年丁未(昭和42年)に国により 横島町としては最後の干拓が実施された。 ヨコシマ黄昏→横浜タソガレ→横須賀タソガレ �熊本県玉名郡「1)横島」 �大分県南海部郡「2)横島」 �愛媛県南宇和郡「3)横島」 �愛媛県「日振島」に隣接する「4)横島」 �長崎県北松浦半島、田平沖北方に存在する「5)横島」 �広島県、倉橋沖南方の「6-a)横島」と、 ・呉市の南方に存在する「6-b)横島」 �天草諸島を東西に横切り、西に天草、その東に存在する「7)横島」 各「横島」を結ぶと逆「台形」である。 �長崎県「諌早=伊 邪 早(日 十)」 ↓ ↓ ↓ ↓ 伊の邪(よこしま)の 日の十(叉=交差) この現存する「よこしま」は単なる偶然ではない ・・・もちろん、「イト的」なモノである・・・「古事記・神代の七代目」に登場する「伊邪那岐いざなぎ」、「伊邪那美いざなみ」の「邪(よこしま)」である。「日本書紀」の「伊弉=(壯+廾)=奘(壯+大)諾尊」、「伊弉=(壯+廾)=奘(壯+大)冊尊」の「弉=邪悪」の「漢字」とは「イト的」に異なるのだ。 伊邪那岐 ↓ 伊弉諾 尊・・・諾=言+若 ↓ 弉=(壯+廾)=奘(壯+大)=ソウ・ゾウ・大きい・壮ん・健やか 伊邪那美 ↓ 伊弉冊 尊・・・冊=册=几(冂)+几(冂)+一 ↓ 几(キ・おしまずき・ひじかけ・机・台)=きにょう→パイ・π・Π ↓ ↓ ↓ ↓ 円周率 ↓ 記・渡島好き=於島図記=御島津記 記似様・記二様 ↓ ↓ ひじかけ→日出架=秘事懸=比字掛 ↓ 蝦夷(毛人)=北海道 ↓ 冂(ケイ・キョウ・国境・牧)=まきがまえ・けいがまえ→坰(土+冋) ↓ ↓ 経・教 巻構(が前)・景構(が前) 叵→匚+口 ↓ 形・景・刑・系・馨・稽 向≠叵≠冋≠同 ↓ コッキョウ→国教・古句経・刻響 ↓ ↓ マキ→巻き・眞記・魔記・摩記 不可・出来ない 弉=(壯+廾)=奘(壯+大) 「砂=いさ=諫」で、「くじら=鯨=いさな=勇魚」、「寝覚め=いさめ=伊邪女」、「いさは=斑葉=石和・井沢・胆沢・伊沢・井澤・胆澤・伊澤」、「いざり=漁り」、「イザ、ナギ」へ、「イザ、ナミ」へ等の「誘い」である。
他の「数字」を拾っていけば、「二霊」、「百王」、「萬神」、「番仁岐命」、「高千嶺」、「伏仇」、「大八州」、「六師」、「三軍」、「歳時」、「六合」、「八荒」、「二氣」、「五行之序」、「一光宅」、「三亭育」、「或一句之中」、「或一事之内」等である。 私の「古事記」に対する立場は、これらの「漢字」の「同音異字」を捜して、「古事記」を別な意味で考えてみる、と云うワケである。