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現存・古事記・漢字源の世界(2のb)


現存・古事記・漢字源の世界(2のb)・再三考

 コジキのキリちゃん、砂漠で蜃気楼を追う 

  明治の教育者に  「伊沢修二」  (嘉永四年六月二九日・1851辛亥(かのとい=彼の問い・過の問い)

大正六年五月三日・1917・丁巳(比の斗見・調の辺備)」と言う人物が存在した。  「伊澤修二」の姓名の同音異字は

「いさわ=胆沢・石和・井澤→意査倭・異差話・違さわ(多)」で

「しゅうじ=習字・修辞・周次」である。     ↓     伊=イ+尹→人(イ=にんべん→任務弁・壬武弁)は長官(尹)

                  →壬申の乱の分別(弁・ワキマエ)     澤=沢→佐波・佐和・茶話→タク=度・焚・拓・卓・多久・托・擢・択・託→多句・他句     ↓ ↓    さわ・タク→「さわに」とは「沢山に・多くに」である。

     「タク」は「たくす・任せる」である。  「古事記」には「聾唖(おし・ロウア)」の  「品牟都和気命・本牟智和気」を火の中で産んだ  「垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命=いくめいりびこいさちのみこと)」の  妃(后・皇后)である  「佐波遅比賣・沙本毘賣」の  物語がある。「佐波遅比賣」は「たすける・なみ・おくれる・くらべうり」であり、「沙本毘賣」は「水の少ない所のタビ(田比)の売り」で、オリジナルは「砂漠・砂丘の国の女性」である。  「沙流」とは「砂漠の干上がった河川の流れの跡」である。「河童の国」とは「頭の髪の毛を円形に剃った修道僧の国」である。 「沙悟浄(沙和尚)」が日本人のイメージ、「河童」であって当然である。「隠れキリシタン」の宣教師は「河童」にならざるをえなかったのだ。  以下は「ウイキペデア」からの抜粋・・・「蟠桃会」のおりに、天帝の宝である玻璃の器を手を滑らせて割ってしまった罪で天界を追われた。鞭打ち800回の刑を受けて下界に落とされ、さらに7日に1度は鋭い剣を飛ばして脇腹を貫くという罰を受け続け、飢えと寒さから三千里もあるという弱水の「流沙河」で人を喰らう妖仙となった・・・とある。  伊澤修二は「長野県=信州・信濃(しなの)」生まれで「大学南校(東京大学)」に学んで米国の「ハーバード大学」に留学し、「師範学校長」、1881年明治四年(辛巳=歌の度美・架の斗観)「文部省編集局長」、「日本最初の国定教科書」を編纂、その後に「東京音楽学校長」、民間人として「国家教育社」、1903年「吃音矯正」事業の「樂石社(学石社)」を起こし、「東京盲唖学校長」などを暦にし「盲唖教育」にも尽力したとある・・・  「ハーバード」とは怪しい人物ではあるな。    ↓  「ハ-ア-バ-ア-ド」  「葉-亜(Y・?・唖・女+阿・女+亜・吾・阿)       場-雅(鴉・蛙)-度(努・奴・土・怒))」  ・・・「The President and Fellows of Harvard College(1636年寛永13年丙子・創立/明王朝崇禎九年・後金王朝天聡十年・清王朝崇徳元年・李氏朝鮮仁祖十四年)」  カタカナで音をトレば、、「ハーバー(harbor)」とは「港・津」で、「バードbird」とは「鳥・鶏・酉・とり、とる」である。「ハー」とは「彼女(her)の、彼女(her)に」である。そして、「ハァ(hare)」は「ウサギ(兎・兔)」で、「ヘァー(hair)」とは「かみ(髪)」で、同音異字は「神・紙・加味・守・上)」で、「噛み(噛む)・咬み(咬む)」である・・・「harvard」・・・?  ・・・サラには怪しいのは

 「伊沢蘭軒(安永六年・1777・丁酉?文政十二年・1829・己丑・中国清王朝年号は道光九年)」である。  姓名の「伊-澤-蘭-軒」と、年号漢字、干支、数字が、「ある歴史的事件・物語」に重っている、と言うことだ。スナワチ、重なるとは複数の「同音異字漢字」と、それらの「漢字造作字形を分解」した「同音の音・訓」読みでの「他の複数の歴史事件・物語」の重なりの示唆である。  「福山」に存在する「8)の横島」である・・・  伊澤蘭軒とは  「歴史書研究」をし、  長崎遊学後に  「福山藩医」  を兼ねて「儒官」となった人物であった・・・これを「文字操作」で「歴史・長崎・遊学・福山・藩医」に重ねてみる・・・と、        ↓      福山藩とは  「備後・深津郡・十一万石」   (びんご)       ↓  深津郡       ↓   ↓       十一万石」       ↓   ↓        ↓       ↓  シンシングン  ジュウイチマンゴク       ↓  身心訓云    重  位置 萬語句→太安萬侶       ↓   ↓       ↓        多夜須満路       ↓  ふかず     たりはじめよろずいし       ↓  附加事     足 肇  夜路図意思        便  語→ビゴ           ↓                 卑          備互=(毘・美・火・日・薇・微・彌・鼻・琵・媚・眉・梶=尾語              ↓           (弥)          ↓              (古・景・山・曜・苑・光・ 呼・腔・琶・態・毛・取)・張               ↓    毘(田+比)・琵(王+王+比)琶(王+王+巴)・眉(巴+目)    梶(木+尾)→きび→黍・機微・驥尾・記備→吉備→かじ=化字・加地    張(弓+長)→弓矢の長、伴う鞆(とも)=革丙→カクヘイ→(改)革兵                        ↓                        かわ ひのえ→化話の比の江                        渦輪 ヒ(匙・七)の柄→天体図の目数                七→牝・雌・♀(金星記号)・メス→手術用執刀小刀                                  ↓            「西(酉)=長崎=諌早=七赤・金星・少女」←九星学=鬼(気)門遁甲                        七→北斗七星  「宝永七年(1710年・庚寅)」に→      ↓     ホウエイシチネン→訪英志知念・訪英(七年=漆年)→失念  「阿部(正邦)家」の領地となったところで、        ↓       正邦=セイホウ→西方・栖鳳・正方・制法           ただしくに→忠国→正鵠           ただすくに→糺(糾・質)す句似(句字・句辞)  江戸城の詰め所は  「帝鑑の間」であったのだ。      ↓      帝の      鑑(かがみ・加々見・加賀見・各務)=歴史の        鑑(金+監)→近刊・金柑・金管・金冠      間(カン→巻・奸・姦・翰)・(あいだ→合拿)・(ま→眞・間・磨・魔・摩)        間(門+日)→もんひ→文比・聞比・悶彼・問秘  岡山県  笠岡市にも→「笠」の音ヨミは「リュウ」である。  「横島」がある・・・  阿蘇山、熊本、玉名、ヨコシマに、登場したのは  「阿毎王朝(隋書の煬帝の随処)」と           ↓         「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」、         「大業三年(607年丁卯)、皇帝(煬帝=楊広)激怒した          「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言  「裴世清」、  「小野妹子=蘇因高→素咽喉→音声、発声の本(もと)」、     子供に「毛人・広人」     ↓    ↓  ↓     ↓    蝦夷・煬帝=楊広は文帝楊堅の次男、名は広     ↓                母は独孤伽羅     ↓                王子時代は北方の「晋王」     ↓                腹心に「楊素」と「張衡」   「日本書紀」(巻第弐拾弐・22)には、   「十五年…秋 七月戊申朔庚戌   大禮   小野臣妹子(冠位大徳冠)→中国の冠位十二階の大禮(示+豊)   遣於大唐   以   鞍作福利、   為通事」   開皇二十年(600年・庚申・推古天皇八年)   倭王   姓   阿毎→アマイ・アブ・アベ→阿部   字   多利思(北)比孤   號   阿輩??(鷄)彌   遣使詣闕。   上令所司   訪其風俗。   使者言   倭王   以天為兄   以日為弟   天   未明時出聽政   跏趺坐   日出   便停理務   云委我弟。   高祖曰   「此太無義理」   於是   訓令   改之。   王妻   號   ??(鷄)彌   後宮   有   女六七百人。   名   太子為   利歌彌多弗利。   「推古天皇、五年(607年丁卯)          鞍作福利と隋王朝、大唐に渡る」           ↓          鞍作太郎とは蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿          鞍作止利(鳥)は「司馬達等」の孫、                    「鞍部多須奈」の子                     子供は「福利・人足・眞枝」                     法隆寺の釈迦三尊像を制作。                     制作様式は                     杏仁形の眼、アルカイックスマイルの微笑                       ↓               「仁」とは種子(シュシ)→趣旨・主旨・諏詞・修史・終始                ↓                ↓三輪氏の祖→三輪山の祭神は「蛇」               たね→意富多-多泥古(古事記)                      大田-田根子(日本書紀)                     大直-禰子(大神神社大和一宮、                            真清田神社尾張一宮)                     大田-田根子(兵庫県美方(みかた)郡                           多他神社  観方                            (美方郡は明治に出来た郡名               おほ た た ねこ               意富 多多 泥古→意味の豊富で多い音の呼               いとみ  タ タねコ               意斗見 多、他音呼→多=(夕+夕)→夕暮れ・黄昏               いとみ タ  タ  どろ いにしへ               意図見、タのタ、太の度路、異西辺→太=うず→渦               杏  仁形の眼                 ↓               キョウニン→漢語音・「杏(あんず)、杏子」の種               あんにん→唐語音・「銀杏・アーモンド」の種(禾重)               喘息の治療薬→苦み強い「苦杏仁」               薬膳、嗜好食品→苦み弱の「甜杏仁」              「杏仁」=アンジン→三浦按針=ウイリアム・アダムス  「日出処天子」とは、  「聖徳太子」らしいのだが・・・?・・・別名、異称もどっさり、多くある。「十二個」も・・・?     ↓   「厩戸皇子」、→厩(キュウ)=厂(がんだれ)+既(艮の牙)→うまやど→午宿               九・球   Lの逆字・元誰 キ・昏の解  宇摩夜斗   「厩戸王」、→戸(とだれ・と・へ・コ)=一+尸(屍・シ・しかばね・形代)→潟代              頭誰 都 辺 胡  肇     史 示華場音 兄弟                        位地    視 氏 臣  真人=大海人皇子   「上宮王」、→上(うえ・かみ・ジョウ)=ト(うらなう・ボク)+一(壱・イチ・はじめ)                         占う   姥宮   「豊聡耳」、→豊(とよ・ホウ)=曲(くせ・よこしま・くま・キョク)

                  +                   豆(まめ・トウ・ズ)                   横島・邪      熊  極

                    間女 島  頭   「上宮之厩戸豊聡耳命」、→聡(さとし・ソウ)=耳+ハ+ム+心                  訓   双   字 葉 務 個々賂   「法主王」、→法(のり・おきて・きまり・ノリ)=?+十+ム→ノリ=海苔               沖出  記眞理     水 足 武   「豊耳聡聖」、→聖(ひじり・セイ)=耳+口+王             比字理 姓   時 候 追   「徳豊聡耳法大王」、徳(トク)=彳+ナ+?+心=悳=直(ナ目L)+心→L=乙               解 行人編 名 阿見 個々賂   「上宮太子聖徳皇」、→太(うず・おほ・タイ)=一+人+ゝ                   太秦 尾補 他意・対 壱の人は天・点・店・転                                  手務→織姫   「厩戸豊聰耳聖徳法王」→耳=みみ・ジ                 みみ→見観・身診・実味・巳未・三視                    壬看→水野(美津濃)の看護                    ジ→辞・字・時・児・時・地・璽・次・自  そして、  「阿部」である・・・そして、「正邦」である・・・  「阿部の姓」→「阿部御主人」の祖、「日本書紀」には元「布施」であった、とある。  ・・・「乞食(こじき)」や「坊主」に施すコトを「布施」と言うが、    犬に「伏せ」と命令コトバや、    漢字に「ルビ」を「附せ」と言うことはカタ仮名や平仮名である。    「病気」になった時は「臥せ」である。

 現在の広島県福山市は  尾道市と  岡山県・  笠岡市に隣接する。  この地にある。   「宇治拾遺物語(大納言の名は隆國)」には   「吉備国」の「備中」を場所にした「夢取りの物語」がある。   「備中の国に郡司ありけり。それが子に、ひきのまき人(吉備真備)・・・」云々     この人物は夢占いの女から     「他人の夢を買(取)って、貰って、大臣」になった・・・と言うもの     この物語本は     侍從・俊貞(隆国六世の孫)と言う     人物が所有していた、らしいと「序(文)」に記されている。     全百九十七話から成り、十五巻。古い形では上下の二巻本     1213年(建保元年)~1221年(承久三年)ころに成立     伝本20数種、流布本は「万治二年板本」で、「挿絵入り」  「鞆(とも)の浦」は風待ち、潮待ちの港として→「とも」の同音コトバを調べよ、である。  「万葉集」にも詠まれている。  「鞆(とも)」は  最澄により静観寺、  空海により医王寺が  創建されている  天台宗、  真言宗の  布教拠点となった。  「吾妹子(わぎもこ)が見し  鞆の浦の  むろの木は  常世にあれど  見し人ぞなき  (大伴旅人)」  や  「鞆の浦の  礒のむろの木  見むごとに  相見し妹は  忘らえめやも  (大伴旅人)」等、  759年(天平宝字三年)→唐王朝は乾元二年                  乾(カン・かわく・いぬい)                  いぬい=戌亥=犬と猪                  カン=乾燥・乾草→観想・観相・換装                  干支年は「己亥」→ヨコシマなガイ                  武将・「李嗣業」死亡                       ↓                  木埜子の継嗣の生業                  記之音の軽視、廼正業                  燕の第二代皇帝・「安慶緒」死亡  に編纂された               万葉集には  鞆の浦を詠んだ歌が  八首残されている。  「天平宝字三年」とは「天の平(ヘイ=併・柄・ひょう=表・標・彪)    た・い・ら=多(他)意の等(羅・螺・裸・?)                           ↓         覶(ラ)=爪+マ+冂+ム+ヌ+見         爪=つめ・ソウ         マ=ま→矛の先刃         冂=まき構え・けいがまえ・ケイ・キョウ         ム=私・シ・コウ・ボウ・己・よこしま         又=また・ユウ・イウ・ウ→類字は叉           マタの同音は亦・俣・股・復                     ↓         津女(爪)の保護(補語・矛・鉾)先は         巻き構え=「景・教・経」が前の         ヨコシマ(支・交・棒・期・邪=蛇)のマタを見よ                     ↓         覶(ラ)=楽しげに観る→類字は亂(乱)・辭(辞)      「宝字=ホウジ→邦字・法事・報時」           タカラのアザ→他(多)化等の亜(あまねし)の座           宝(財)姫→皇極、斎明天皇→天武天皇の母                 ↓                 光極・歳名天応                 紅玉・際名天応      「三年=サンネン→纂念・纂撚・燦燃・算念・蚕撚」          みつどし→光度視・光利・密(日)度支  鞆町(ともちょう)とは、  広島県 沼隈郡にあった町である。  1956年に福山市に編入された。  観光地として  鞆の浦が有名  古代より瀬戸内海の  潮待ちの港とし繁栄、  江戸時代の  備後福山藩の領内では  城下町の  福山に  次ぐ規模の町であった。  備後福山藩  最大の  商都であった。  沼名前神社(延喜式に記載の神社)  伏見城から  移築の  豊臣秀吉ゆかりの  能舞台、  石鳥居があり、  京都  祇園神社の本社に当る→ギオン=擬音  1889年(明治22年)の  市町村制施行で  沼隈郡→ぬまくま→ヌマクマ→濡眞熊        ショウイ→象意・小異  鞆町となり  郡役所が→郡(君+邑)→群(君+羊)→軍(ワ+車)  置かれた。  戦国時代、  備後地方は  毛利氏と  尼子氏との  拠点争いの地となった。  安土桃山時代、→あんど→安堵             ∩(積集合)             &(アンパサンド)             ∧(および・合接)  備後国は  毛利氏の所領となり、  「鞆」には  毛利氏の庇護の元、  足利義昭が→足+利+義+昭(日召)        タリの理義はアキラカ  滞在した。  関ヶ原の戦い以後  福島氏の所領  鞆に支城が置かれた。  1619年(己未・元和五年)、       中国明朝・万暦四十七年=洪武元年        後金朝・天命四年       李氏朝鮮・光海君十一年  福島氏の  改易により  徳川家康の  従兄弟である  水野勝成が  備後国東南部・備中国西南部の  10万石を与えられ、  福山藩が成立。  勝成は  元和八年(1622年・壬戌)  干潟であった臨海部の  深津郡野上村に新たな  城(福山城)と城下町を建設し、  この町を福山と名づけた。  1698年(元禄十一年・戊寅)に        五月十二日・青木昆陽の誕生        七月十日・「佐々宗淳」の死亡                 ↓        水戸黄門の「佐々木助三郎」  五代藩主  水野勝岑死去。  無嗣除封となり、  一時的に福山藩領全域が  天領(幕府直轄領)とされるが、  1699年(元禄十二年・己卯)に       長崎奉行を四名に増員       一月二十三日・木下順庵が死去                ↓              新井白石の師匠  松平忠雅が→ただまさ    中心はカラス(鴉・烏)=太陽  転封するが  1710年(宝永七年・庚寅)に       セント・ポール大聖堂完成       九月十九日・藤堂高治誕生       11月22日・バッハ誕生       一月一六日・第113代東山天皇死去   伊勢国  桑名藩に移封。  替わりに  阿部正邦が  福山に転封した。  以後、  阿部氏が明治維新まで続く。  関ヶ原の戦い(1600年10月21日・慶長五年・庚子)          明朝・万暦二十八年          十一月十七日→朱瞬水誕生          李氏朝鮮・宣祖三十三年          二月十七日天文学、哲学者ブルーノ死去          九月一日天文学、医学者ハーイェク死去          四月二十九日・リーフデ号          大分・豊後沖に漂着              ↓          ウイリアム・アダムス=三浦按針、日本上陸          九月八日鳥居元忠死去  以降、  後に福山藩となる  備後国は  安芸国と共に  福島正則によって  領有。→リョウユウ→僚友・良友・両雄  しかし、  正則は  広島城  無断修築の  咎で→とが→斗画・途雅  元和五年(1619年己未)に  改易。→カイエキ→解亦(腋=月+夜・肉+夜)  領地は  分割され、  安芸→アキ・アギ・アンゲイ→按針の芸→三浦按針の技芸  及び  備後→びんご→便語・紊語  北部・西部は→北西部→戌亥=犬猪→軒意・建位  浅野長晟に与えられ、→長(おさだ=訳語田)の晟(日成)  徳川家康の  従兄弟で  大坂の陣では  後藤基次を→ゴトウモトツグ・ゴトウキジ        語当基字・語等記字・誤答記事・呉等記事  破った  水野勝成が、  大和国  郡山藩(六万石)から  四万石の加増を受けて  十万石で  入封。  勝成は  福山城を  四年近い  歳月を費やし  元和八年(1622年壬戌)に完成。  寛永三年1626年丙寅)には勝成の  従四位下昇進により  福山藩領は  相模国  愛甲郡  厚木村(現在の神奈川県厚木市)に  飛び地壱千石の  加増を受け計十万壱千石となった。  寛永十五年(1638年戊寅)  島原の乱において、  勝成  及び  子の  勝俊、  孫の  勝貞は九州の大名以外で  唯一幕府軍として  参戦。  翌  十六年(1639年己卯)に  勝成隠居。  慶安四年(1651年己卯)の  勝成の死後、  勝俊、勝貞、勝種と続く。  元禄十年1697年丁丑)        四月二十四日加茂眞淵誕生        8月6日神聖ローマ帝国・カール七世誕生  勝種の急死により  跡を継いだ  五代・  勝岑が  元禄十一年(1698年戊寅)に  二歳で死去し  水野家は  改易となった。  だが  水野氏は  勝成の  孫・水野勝長が  能登国→のと・ノウト(ノート)→能(熊)生斗  西谷藩壱万石として存続。 →にしたに・サイヤ→西夜  水野家の断絶により福山藩領は  一時  天領となり→天界の領域→紫薇苑(垣)  代官   ↓  代官→廼艦・大冠・       台奸(よこしま・姦・菅)→邪馬台国の卑弥呼       太環・耐乾・対艦・対観・大観       戴冠・大鑑・耐寒・大患・大旱       鯛患→龍宮城の咽喉に刺さった鯛の釣り針       帯巻→12獣帯→黄道       弟漢→漢皇子の弟≒→大海人皇子=天武天皇                      間人皇女                      中大兄皇子→天智天皇                       ↑      母親は天皇位を重祚した宝(寶・財)王女=皇極、斎明天皇                     天豊財重日足姫尊             あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと                      ↑           宝姫の母親は吉備姫王  皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、  第三十五代天皇  皇極天皇元年一月十五日(642年壬寅2月19日)~        四年六月十二日(645年乙巳)                  「乙巳の変」                   「蘇我入鹿」暗殺              十三日「蘇我蝦夷」自害        四年六月十四日(645年7月12日)。  重祚して  第三十七代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇)。  斉明天皇7年7月24日(661年辛酉8 月24日)  百済救援二月十日        二月十二日・備前大伯海に停泊                大田皇女、大来皇女を出産       二月十八日・伊予の熟田津(にぎたづ)に寄港                     ↓                    二義多事(ニギタヅ)                    邇邇芸(ににぎ)→神武天皇            額田王が熟田津を歌う→額田=客+頁+囗+十                                ↓                   客=ウ(宇)+各→宇宙の各頁を囲み重ねる       四月二十九日・筑紫の大津に到着       五月「白村江の戦い」→ハクソンコウ→剥ぐ孫の項(公→降)            白  木  寸 ?   エ         ↓           いわく、記の図る纂隋の技      天孫降臨             新  羅の素武 蚕誰の匠(たくみ)            岩区、摸句寸 山水の拓海→海の干拓→陸+横島       六月「金春秋=武烈王」死去       六月11日・天皇「朝倉宮」に布陣       八月二十四日・天皇崩御       十一月二十日・天皇遺体が難波に到着       十二月三日・殯の儀を飛鳥川原宮で行う  中国唐王朝・顕慶六年・龍朔元年   ↑  タイカン=碓巻→替巻→小碓の巻→古事記→乞う自記(時季)       他意漢(字)       多意巻→太安万侶の「古事記」       蛇居巻→ヤマタノオロチ八俣遠呂知            八岐大蛇、八俣遠呂智・              ↓↑            素戔嗚尊=須佐之男       台官→「天文台・紫薇台」の役人       替翰→書翰(書簡)を替える  三人が派遣された。→山神・参神             宗像(宗方・宗形・棟方)三姉妹             三姉妹号→シーボルト  代官所は→タイカンショ→袋缶の黍=きび→吉備         退官の書→辞令  城下  東端の→トウタン→当旦  三吉町に置かれ(三吉陣屋)、  福山城の  城番は→ジョウバン→常磐・常盤・定番・状晩・杖番  讃岐国  丸亀藩の  藩主  京極高或(縫殿)が務めた。  元禄十三年1700年庚辰、         1月26日米国北西部の         カスケード沈み込み帯にて         大規模地震・日本にも津波襲来         3月1日丁抹・諾威・独逸で              グレゴリオ暦の採用         京都所司代の「松平資訓」誕生         十月二日禅僧「鉄牛道機」死去         十一月二十六日尾張藩             第二代藩主「徳川光友(みつとも)」死去  出羽国  山形藩の  松平忠雅が十万石で入封することになった。  忠雅は受領から  九年後の宝永六年(1709年・癸丑)に福山に入るが、  1年後の  宝永七年(1710年・庚寅)に        九月十二日藤堂高治誕生        2月15日フランス王ルイ15世誕生  再び  伊勢国  桑名藩に  転封となった。  その後  下野国  宇都宮藩(10万石)から  阿部正邦が  十万石で入封する。  以後、  阿部氏は この間  老中を4人、  大坂城代を1人輩出する。  特に  七代藩主・  阿部正弘は  二十五歳で  老中首座に就任し、  1853年癸丑・  五月二十六日・嘉永六年年黒船那覇に来航  七月八日・浦賀へ来航  七月十四日・ペリー「久里浜」に上陸  八月二十二日露西亜プチャーチン軍艦四隻で           長崎に入港  一月十二日「太平天国の乱」→武昌を占領  三月二十日南京占領  1854年甲寅・3月31日  嘉永七年三月三日  日米和親条約を締結=神奈川条約。  日本國米利堅合衆國和親條約  (にほんこくめりけんがっしゅうこくわしんじょうやく)   日本全権は「林復斎・大学頭」   「メリケン=米利堅」は東印度艦隊司令長官   「マシュー・ペリー」  天明の一揆。  嘉永五年1852年壬子)には  阿部正弘が江戸城  西の丸造営を  指揮した功により1万石が  加増され  石高は計十一万石。  このとき加えられた領地は  水野家  廃絶時に  天領とされた  安那郡・  神石郡、  後月郡の  それぞれ一部である。  阿部氏は教育の面においては  天明六年(1786年)4代・  阿部正倫が  藩校  「弘道館」を開き、  阿部正弘は  嘉永六年(1853年癸丑)に  福山と江戸に新たな  藩校  「誠之館」を開くなど  目覚しいものがあった。  このため幕末までに福山藩から  菅茶山や  頼山陽が輩出された。  元治元年(1864年甲子)  清王朝・同治二年十一月二十二日~  福山藩は  幕府に  長州征伐への参加を命じられ、  藩主  阿部正方は広島に進軍するが  幕府と長州藩との間に  和睦が成立して引き返した。  慶応元年(1866年丙寅)末には  第二次長州征伐に参加のため  山陰を目指して出陣したが体調不良で  指揮を  家老  内藤角右衛門に委ねた。  そして  翌年(丁卯)六月十七日  福山藩は  石見国  益田において  大村益次郎率いる  長州軍との戦闘で敗走。  7月23日に福山へと帰還。  慶応四年一月九日(新暦1868年戊辰2月2日)、  福山城が  杉孫七郎率いる  長州軍によって攻撃を受ける。  今津(松永町)に  進駐した長州軍は部隊を  三手に分け  北、西、南からそれぞれに福山を目指した。  これに対し  福山藩は  恭順の意を示すが長州軍は  北本庄の  円照寺を占拠し  大砲による砲撃、攻城を開始しようとする。  しかし福山藩の  実質的な  首脳であった  関藤藤陰らの  奔走により(藩主阿部正方が直前に病死し、藩主不在)、  長州軍は福山藩の恭順を認め備後から撤兵。  福山は戦火から免れることになった。  この後、  西国外様大名を中心とした  新政府軍の尖兵として  榎本武揚率いる旧幕府軍と戦うことになる。  明治元年1868年)になると新政府から  伊予国松山、  播磨国西宮、  大阪府  天保山と  矢継早に出兵を命じられる。  こうした中、  正方の死去を隠蔽し  安芸国  広島藩から  藩主  浅野長勲の  弟  阿部正桓が  正方の  養子として  10代藩主に迎えられた。  正桓は藩主就任直後に  蝦夷  箱館への出兵を命じられ、  藩兵約500人が新政府軍に加わり  箱館戦争で戦った。しかし、  福山藩兵は  七重村の戦いで  榎本軍に撃退され青森まで敗走する。  その後再び戦列に加わり、  箱館総攻撃では  千代ヶ岡砲台を攻略した。  明治二年1869年(己巳)  正桓は  版籍奉還により  福山知藩事に就任し、  明治四年(1871年辛未)  旧福山藩領は  廃藩置県により  福山県となった。  明治九年1876年丙子)に  備後地域の  旧福山藩領が  広島県へと  移管された。  岡山県(ゴウサンケン)・・・合の纂を懸ける・・・岡山県(おかやまかける)→尾の渦の夜の間を懸ける・・・  笠岡(リュウゴウ)・・・龍(リュウ・辰)の轟(ゴウ・號)・・・笠岡(かさおか)→加佐尾加→傘(暈・傘)の備(微・美・毘・日・火・薇)を加える・・・  リュウ(龍=たつ=建・辰=リュウ=立・隆・劉・柳・粒・琉・流)→リユウ=理由  「辰」の象徴意→「木・長女・東南・入る・股・四月・陰」・・・「股=また=脚・又・叉・復・俣・亦」である・・・脚立とは「足」を乗せる「踏み台」である・・・  ゴウ(剛=おか=オカ=丘・邑(ユウ)=?→阜→岐阜(美濃・蓑・箕の)・・・  笠岡市→タツのゴウのシ=辰の合の支(いち・シ)・・・  「横島(邪)」の「道」は「蛇(ヘビ)=中+ム+ウ+ヒ・蝮(まむし)=中+ム+ノ一+日+夂」  ・・・である。  「へび」とは「巳の巳支=辰巳(巽)の南南東・鶉の尾」であり、「トグロを巻く爬虫類」であり、天体星座の方角、「玄武」であり、「玄武」とは「蛇と亀の図柄の北神」であり、「北方」である。北斗七星(大隈座)の「四角形の升一辺の六倍の位地」を示す「北極星」であり、小北斗の小熊座の七星の「尾=北極星・ポラリス」であり、「北」も「升」も「背反、裏切り」であり・・・「阿部正邦」である、なッ。  阿(ア・Y)→くま(隅)=大曲(おおまがり・タイキョク=大局・対極・太極・大巨躯=オリオン座)→大隈→大熊  部(べ)→辺(あたり・ほとり)→当り・中り→ブ→武・歩→分(わける・フン・ブン)→文・分・聞」・・・


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