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668年の南北半島情勢・・・本日ミサイル・・・

2022/1/5・水曜日・・・追加添文・・・

 ↓↑

 半島

 新石器時代の土器

 幾何学模様が線で描かれ

 北ヨーロッパから

 シベリア

 北アメリカにかけて分布する類型の土器

 ドイツ語でこの種の土器を

 「Kamm Keramik」

 とよばれ

 1930年代の和訳

 「櫛目文土器」

 と呼ばれる

 粘土紐

 押印文

 による装飾のも存在

 朝鮮半島

 最初の人類の痕跡

 平壌市力浦区域の洞窟で発見された

 「力浦人」

 原人に近い特徴を持つ「旧人」

 平壌市周辺の洞窟からは

 「新人」の化石が発見

 ↓↑

 旧石器時代の最古の遺跡

 京畿道

 漣川郡

 全谷里遺跡

 から発見された石器

 アシュール文化の

 ハンドアックス(手斧)の特徴を持っている

 ↓↑

 13,000年前頃

 ヴィルム氷期が終了

 気候が温暖化し

 海面は上昇

 8000年前頃

 日本海に対馬海流が流入

 ↓↑

 朝鮮半島で

 最古の土器

 済州島

 高山里遺跡で発見

 平底鉢

 土器片

 出土層の上層から

 鬼界アカホヤ火山灰

 (6300年前の鬼界カルデラの噴火火山灰)

 が発見

 旧石器時代~新石器時代への移行は不詳

 新石器時代の土器

 幾何学模様が線で描かれ

 北ヨーロッパ

 シベリア

 北アメリカ

 にかけて分布する類型土器と同系統

 ドイツ語で

 「Kamm Keramik」=「櫛目文土器」・・・

    「𠂉=髪挿し・櫛・笄」・・・

 粘土紐

 押印文

 の装飾土器も存在

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 紀元前1000年頃

 無文土器が出現

 青銅器の使用

 磨製石器

 稲作開始

 無文土器時代

 紀元前300年頃を境に

 前期と後期に分類

 中国

 東北部(満州)の青銅器文化が流入

 青銅器文化は

 銅剣の種類によって時期区分され

 無文土器による前期・後期の区分が対応

 前期

 「遼寧式銅剣」

 中国遼寧省を中心に分布

 後期

 「韓国式銅剣」

 ↓↑

 遼寧式銅剣が伝わった

 上限年代

 紀元前8世紀頃

 下限は紀元前7、6世紀頃

 一部の刀剣類は

 西周時代(紀元前10~9世紀頃)に遡る

 無文土器時代前期末頃

 青銅器の鋳造生産が始まった

 (出土した鋳型で判明)

 米の生産

 支石墓が多数建造

 2000以上の遺跡が発見

 全羅南道が分布の中心

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 朝鮮半島南部

 日本列島と人的交流

 「勒島」から

 弥生時代中期(紀元前100年)

 と推定される73基に及ぶ墓

 甕棺墓

 弥生土器

 西北九州との関係・・・

 ↓↑

 文献に登場する最初の国家

 「箕子朝鮮」

 「衛氏朝鮮」

 が成立・・・

 「衛氏朝鮮」

 前195年頃

 「燕人」

 「衛満」が

 箕子朝鮮の王

 「準王」を追い出して建国・・・

 「衛氏朝鮮」三代

 「衛右渠」の時

 漢の武帝に滅ぼされ

 領地は

 楽浪郡

 真番郡

 臨屯郡

 玄菟郡

 の漢四郡として400年間支配

 最後は

 「楽浪郡」

 のみが残った

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 4世紀中頃

 満州

 鴨緑江付近の

 高句麗が南下

 楽浪郡北部を征服

 百済は

 楽浪郡や帯方郡の一部を征服

 4世紀末

 高句麗が朝鮮半島北部を制圧

 南西部には百済・・・扶余

 南東部には新羅・・・秦の亡命難民

 が割拠

 ↓↑

 高句麗

 4世紀

 広開土王(好太王)の代

 南北に領土を拡大し最盛期

 満州南部~朝鮮半島北部

 ↓↑

 百済

 漢城(漢山城・ソウル松坡区)を都

 475年

 高句麗により落城し

 「熊津」

 に遷都

 高句麗の属国であった新羅に対抗

 倭国に人質を出して和通

 儒教や仏教を倭国へ伝えた

 南端部には

 諸小国雑居の

 伽耶(加羅、任那)

 は倭国の「支配下」

 釜山市近郊の

 金海礼安里古墳群

 4世紀~7世紀

 伽耶人の庶民層の集団墓地がある

 北部九州

 山口地方

 の弥生人や古墳人に近い

 ↓↑

 伽耶

 金官伽耶

 高霊伽耶

 伽耶諸国は

 西側が百済に併合

 東部も新羅により滅亡

 ↓↑

 中国大陸からの移住者、難民

 「陳勝などの蜂起

  天下の叛秦で

  燕・斉・趙の民が数万人が朝鮮に逃避

  (魏志東夷伝)」

 「辰韓は馬韓の東において

  耆老の伝世で

  古くの亡人が秦を避け

  馬韓がその東界の地を

  彼らに割いたと自言」

 秦や六国からの居住者が建国したように

 中国人

 北方異民族

 の難民移住があり

 新羅も

 『三国史記』等に記載された4代目の

 「脱解王」

 は

 倭国の北東の国の

 系譜をもつとされる王・・・

 ↓↑

 7世紀

 新羅は

 唐と軍事同盟

 百済・高句麗を滅ぼし

 統一「新羅」国家として朝鮮半島を統一

 唐は旧高句麗の地に

 安東都護府を設置

 新羅の

 「文武王」は

 「高句麗」復興支援を掲げ

 旧高句麗軍が唐軍を攻撃し

 唐・新羅戦争が開戦

 唐に圧勝

 高句麗遺民は

 ツングース系の

 「靺鞨」とともに

 「大祚栄」が建国した

 渤海国に合流

 ↓↑

 唐を朝鮮半島から撤退させた時

 唐の高宗に

 冊封を取り消された文武王は

 謝罪使を派遣

 冊封復活

 ↓↑

 10世紀

 新羅の地方勢力は

 後高句麗

 後百済

 を立てて後三国時代

 後高句麗を滅ぼした

 「高麗」が

 「新羅」を滅ぼして統一

 鴨緑江南岸

 豆満江付近

 まで勢力を拡大

 ↓↑

 高麗

 13世紀

 モンゴル帝国(元)

 の侵攻を受け支配され

 元の衰亡とともに失った独立と

 北方領土を回復した

 14世紀

 元が北へ逃げると

 親「明」を掲げる

 「女真」族と云われる

 「李成桂」

 が李氏朝鮮として

 朝鮮半島を制圧し

 明に朝貢

 建州女真を攻め

 半島北部の

 女真の大酋

 「李満住」が戦死

 建州女真は

 李朝の支配下に入った

 ↓↑

 433年 羅済同盟

 612年 隋の高句麗遠征

 642年 高句麗・百済(麗済)同盟vs新羅

 ↓↑

 645年 6月14日

    大化の改新(乙亥の変)

 ↓↑

 644年 唐の高句麗出兵

 ↓↑

 660年 3月~7月

    唐が百済を滅ぼす

 ↓↑

 663年 10月4日~10月5日

    白村江の戦い

 ↓↑

 668年 9月

    新羅使、調を貢進

    新羅の僧が

    草薙剣(天叢雲剣)を

    国外に持ち出そうとする

   (草薙剣盗難事件)

    10月

    唐が高句麗を滅ぼす

   旧高句麗に安東都護府

    旧百済 に熊津都督府

    を設置

    干支 戊辰

    天智天皇七年

    皇紀1328年

    唐 乾封三年・総章元年

      戌亥・・・総べての章

 ↓↑

 670年 唐・新羅戦争

 ↓↑

 672年 7月24日~8月21日

壬申の乱

 ↓↑

 ・・・「淵蓋蘇文=泉蓋蘇文」・・・「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥=いりかすみ)」・・・? ーーーーー  淵蓋蘇文(エンガイソブン)  ?~665年(宝蔵王二十四年)  高句麗末期の宰相・将軍  泉蓋蘇文・泉蓋金  とも記される  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)」  として記録  姓の「淵(泉)」は  高句麗語の  「いり(水源)」の意味  「蓋蘇文」は  高句麗語で  「かすみ」と発音したものを  漢字で当て字した・・・  姓は淵、or 泉  『旧唐書』『三国史記』  等が「泉」として  「淵」とは書かないのは  「淵」は  唐の高祖の諱(淵)を避諱した・・・  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌」とも書かれ  「漢字訳」はもともと便宜的なもの・・・ ーー↓↑ーーー  子息  泉男生  (センダンセイ   ヨン-ナムセン)  634年~679年1月29日  淵蓋蘇文の子  兄弟間の争いのために唐に服属  字は元徳  648年  中裏小兄・・・小兄は序列の職号?  651年  中裏大兄・・・大兄は序列の職号?・・・中「大兄」皇子  656年  中裏位頭大兄・・・大兄は序列の職号?  657年  将軍  661年  莫離支・三軍大将軍  数万の兵を率いて  鴨緑江で唐軍と対峙  契苾何力  に敗れて、身ひとつで逃亡  665年  大莫離支の位を加えられ  高句麗の国政を掌握  弟の  泉男建  泉男産  と不仲となり  泉男建が泉男生の子の  泉献忠を殺害  泉男生は弟たちを恐れて  国内城に逃亡し  契丹・靺鞨と結び  子の  泉献誠  を唐に送って援助を求めた  高宗は  泉献誠を右武衛将軍に任じ  契苾何力・龐同善らに  泉男生を援助  666年9月  龐同善  が高句麗軍を破ると  泉男生は龐同善と合流  667年  薛仁貴が  泉男建を破ると  泉男生は  薛仁貴と合流して  南蘇・木底・蒼巌  の三城を落とした  高宗は  西台舎人の  李虔繹を派遣し  泉男生  をねぎらわせた  668年  泉男生  は長安に入朝  特進  遼東大都督  平壌道行軍大総管  持節安撫大使  に任ぜられ  玄菟郡公に封ぜられた  再び高句麗におもむくと  李勣とともに平壌を攻め  僧侶を使って  高句麗の内部を離間し  宝蔵王を捕らえた  長安に凱旋したのち  右衛大将軍に進み  卞国公に封ぜられた  677年  詔を受けて  遼東の地の安撫にあたり  唐の州県を置き  流民を定住させ  賦税を公平にし  労役をはぶいた  679年  46歳で死没  并州大都督の位を追贈  諡は襄 ーー↓↑ーー  642年(栄留王二十五年)  北方に  千里長城を築造し唐の侵入に備えた  唐との親善を図ろうとしていた  第二十七代王  栄留王  伊梨渠世斯(いりこせし)  ほか180人を弑害  宝蔵王を  第二十八代王に擁立し  自ら  「大莫離支(ダイバクリシ)」  高句麗末期の  行政と軍事権を司った最高官職  に就任して政権を掌握  安市城の城主だった  楊萬春  が  淵蓋蘇文  への権力集中を認めず  淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて  安市城を攻撃  安市城を占領することができず  妥協し  淵蓋蘇文は楊萬春の職権を  楊萬春は淵蓋蘇文を執政者  として承認  淵蓋蘇文は対外強硬策を採り  高句麗に救援を  要請するために到来した  新羅の  金春秋(武烈王)を監禁  新羅と唐との交通路である  党項城を占領  644年(宝蔵王三年)  新羅との和解を勧告する  「唐の太宗」・・・・高宗?・・・唐の第3代皇帝            太宗の第九子・            母は鮮卑の拓跋を出自に持つ           「長孫無忌」の妹の「長孫」皇后  の要求を拒否  太宗が  「弑君虐民の罪」を問い  645年(宝蔵王四年)  17万の大軍を率いて高句麗に侵入  楊萬春が  安市城でこれを阻止  60余日間の防戦後  唐軍を撃退  その後  4回に亘って  唐の侵入を受けたが  楊萬春  はことごとくこれを阻んだ  643年(宝蔵王二年)  唐へ使臣を派遣  道教の道士八名と  『道徳経』を高句麗に持ちこむ  淵蓋蘇文は文化面でも功績  ↓↑  善徳(ゼントコ・ソンドク)女王  647年2月17日(旧暦1月8日)  新羅の  第27代の王  (在位632年~647年)  新羅初の女王  姓は金  諱は徳曼  真平王の娘  母は金氏の  葛文王  福勝の娘の  摩耶夫人  王配は  水月  葛文王  朴欽飯  3人姉妹(善徳  ↓↑  女王自らが任命した  上大等の毗曇らが  647年正月に女王の廃位を求めて内乱  上大等に代表される中央貴族に対抗して  金庾信  (『三国史記』    黄帝の子の少昊金天氏の子孫)  ら地方勢力の有力者が  女王を支援して乱の収拾に当たったが  同月八日  女王は陣中に死没  善徳と諡され  狼山(慶州市)に葬られた  在位十六年  金庾信らは  真徳女王  を立て、  正月十七日  乱を鎮圧  毗曇  ら20余名を誅殺  死後、唐からは  光禄大夫の号を追贈  ↓↑   善徳女王  仏教の保護  慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた  帰国した慈蔵法師の発願で  645年3月  皇龍寺の九層塔を創建  女王の時代に  芬皇寺や霊廟寺が完成  霊廟寺の建立と同時に  瞻星台(天文台)を築いた・・・  640年  王族の若者を留学生として  唐の国子監に派遣  ↓↑ ↓↑  善徳女王の  3つの予知  唐の太宗が  牡丹の花の絵と種を贈って来たとき  その花には香りがないであろうと言った  「花の絵には蝶や蜂が描かれていない。   どんな美女でもその色香で男たちが群がるので、   花に群がる虫がいないことから   香りがないと解った」  と答えた。  宮殿の西の玉門池に  蝦蟇がたくさん群がって鳴いたとき  西の国境付近に賊の潜んでいることを知り  角干の閼川(アルチョン)  らを派遣して賊を滅ぼさせた  「蝦蟇(蛙)の怒った目は兵士を表し   西の国境付近には   女根谷という地名があるので   玉門池に蛙が集うのは   女根谷を兵士が侵そう(犯そう)   としている」  と解ったと答え  金庾信や毗曇  ら家臣は昂奮した・・・  自分の死の年月を予測  忉利天の中に埋めるように  と言った  群臣は忉利天の場所がわからず尋ねると  狼山の南であると答えた  後に  毗曇の内乱が起り  女王は予測の月に死亡  狼山の南に葬られた  十余年後に  文武王  によって  女王陵の下に四天王寺が建てられた  ↓↑  家族  父は真平王  母は摩耶夫人  姉/妹は天明公主(金龍春の妻)  甥は武烈王(金春秋)第二十九代国王。  妹は善花公主(第三十代百済王 武王 (百済)の王妃)  甥は義慈王 第三十一代百済王。  妹は天花公主  夫は「朴欽飯」、「金龍春」、「乙祭」  いずれの夫との間に子は無し ーーーーー  ・・・「善徳・金春秋・文武・真徳」の時代の倭国の名前の重なる人物達は・・・???・・・

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