This is Your Life・・・This is X Life・・・
2023/2/21・月曜日・・・追加添文
本日は朝から異常とも思われるガンガンの天気でした・・・
8時から13時まで雪投げ、ガレージの屋根の雪降しでした・・・
・・・いよいよ2月の24日に迫って来たなッ!
・・・「ジ・ハード」、「ジ・ハァド」、「ヂ・ハ・ァド」、「ha!?=驚き・悲しみ・喜び・疑い・不満などのハ」、「G、Huh?、ad(G?、J?、なに?)」・・・「字、葉阿努」、「示、頗蛙土」?・・・「jihād」=義務行為の一・本来、努力、奮闘の意味」?・・・「ジ・エンド (The End)」・・・「字書=ジショ=辞書・自書・自署・地所」・・・「辞典=ジテン=字典・事典・時点・次点・自店・自転」・・・「ジ=二・尓・弍・尼・示・仕・次・寺・而・弐・地・自・字・耳・豸・㕝・叓・亊・似・児・事・治・侍・怩・ 兒・迩・持・峙・恃・茲・珥・時・除・貮・畤・痔・瓷・辝・滋・孳・貳・孶・蒔・鈶・塒・辞・慈・馳・誀・鉩・じ」・「ヂ=血・千・乳・散・ぢ」・・・ 「じ・ジ」と「ぢ・ヂ」・・・? ーー↓↑ーー 上代の「じ」 「/dzi/、/dʒi/、/ʒi/」 確定は? 「ぢ」との 区別が成されていた・・・区別していたのは官僚だろう・・・ 室町時代末には 「/ʒi/」と発音されたが、 江戸時代に入ると 「ぢ(/dʒi/)」との区別が曖昧になり、 仮名遣いの 混乱を生じた・・・「仮名遣い」の出版社だろう・・・ 上代の万葉仮名には 「し」の濁音専用と思われるものが存在した 古体の片仮名・平仮名が成立する頃には 仮名としての区別が無くなり、 「し」に濁点を付して濁音を示すようになった 「じ」の調音点は、 拗音の「じゃ、じゅ、じょ」と同じであり、 発音面では「ジャ行」に属する 「じゃ、じ、じゅ、ジェ、じょ」 は国際音声記号では、 [d͡ʑä/d͡ʒä] [d͡ʑi̞/d͡ʒi̞] [d͡ʑɯ̹˕/d͡ʒɯ̹˕] [d͡ʑe̞/d͡ʒe̞] [d͡ʑo̜/d͡ʒo̜] 「ヘボン式ローマ字」表記の 「ji」も、この発音に従った ザ行の中で 唯一調音点が異なっている 「ざ、ず、ぜ、ぞ」と同じ調音点で発音すると 「/zi/」となり 「ズィ」・・・・・・・「隋・随・髄・蕊・蘂・瑞」? と発音されるが、 これは日本語にはない音であり、 対応する文字もない・・・ 「ジ」は 「ザ」と同様に 英語の前置詞 「the」を表し、 「ジ・エンド」など一部例外を除いて、 本来「ジ」を用いるべきところを 「ザ」とする用例が 日本語化の 「ザ・ウルトラマン」 「ザ・インターネット」 などにある・・・ ーー↓↑ーー 二(一+一)尓(ノ一+亅+八)弍(弋+二) 尼(尸+ヒ)示(二+亅+八) 仕(イ+十+一)次(冫+欠)而(一+ノ+冂+I+I)弐(一+弋+二) 地(十+一+也)自(ノ+目)寺(十+一+寸)耳(二+I+二+I) 字(宀+了+一)㕝(古+又)叓(十+口+又)豸(爫+犭) 亊(十+八+彐)似(イ+丄+人+丶)児(旧+儿)迩(尓+辶) 兒(臼+儿)怩(忄+尸+ヒ)事(十+口+彐)治(氵+ム+口) 侍(イ+十+一+寸)茲(サ+幺+幺)恃(忄+十+一+寸) 持(扌+十+一+寸)峙(山+十+一+寸)時(日+十+一+寸) 珥(王+耳)除(阝+余)貮(一+弋+目+八)畤(田+十+一+寸) 痔(疒+寺)瓷(次+瓦)辝(ム+口+立+十)滋(氵+䒑+幺+幺) 孳(䒑+幺+幺+了+一)貳(弋+一+目+八+) 孶(サ+幺+幺+了+一)辞(舌+辛)誀(言+耳)鉩(金+人+亅+八) 鉨(金+尓)鈶(金+ム+口)塒(十+一+日+十+一+寸) 馳(馬+也)蒔(サ+日+十+一+寸)慈(䒑+幺+幺+心) 雉(矢+隹)輀(車+而)鉺(金+耳)磁(石+䒑+幺+幺) 爾(一+小+冂+乂+乂+乂+乂)餌(食+耳)辤(受+辛) 諉(言+委)鴙(矢+鳥)髵(髟+而)膩(月+貳)駬(馬+耳) 鎡(金+䒑+幺+幺)鴯(而+鳥)鮞(魚+而)邇(爾+辶) 臑(月+雨+而)辭(𤔔+辛)璽(爾+玉)轜(車+需) ↓↑ 亂=乱 辭=辞 覶=舌見 ーー↓↑ーー 覶=楽しげに観る・ラ・ラン 「ノツ・爪・爫」 「𤔔=爫マ冂ム又」=「𤔔」・・・「マ」は「又」か? 「マ」は「刀」か? 「令」=𠆢+一+刀 叩叨夘印 「命」=亼+叩=𠆢+一+口+卩 亼(シュウ)=集まるという意 「命」=いのち・みこと・メイ・ミョウ(ミャウ) ・・・ナゼ、「亼(𠆢一)+叩(口卩)」なんだか? 多分、重大な天災、人災の前触れを知らせる 警告の鐘、半鐘、鐸(銅鐸・木鐸)を 叩いて人々を 集める(集会する・集会させる→周回する) シュウカイ=取得掛意? 「叩」=たたく・軽く打つ 控える・引きとめる ぬかずく (ひたいを地につけて拝礼する) コウ 「々」=「ノ」+「マ」 「のま」?・・・「ドウ=同・仝・〃」? 爪の刀の「冂=ケイ・キョウ」のム(私)の又(右手) ツメのカタナの「マキがまえ」のヨコシマのマタ けいがまえ(冏構・冋構) まきがまえ(牧構) どうがまえ(同構) 康熙字典214部首・13番目・(2画の7番目) 「冂」の字は都市から遠く離れた 郊外の地、国境または城郭の形象 見=目+儿 覶=𧡓=事細かいさま=覼 𧡓縷(ラル)=順序立てて詳細に述べるさま 婉曲に分かりやすく述べるさま 𤔔・𡡗・𢿢・覶・辭・ 辞=舌(𤔔)+辛 𤔔=舌 ーーーーー ・・・舌禍・舌下・絶佳・・・
・・・今朝のTVは「ツタンカーメン」だったが・・・夜は「21:00・土曜プレミアム映画・マイノリティ・リポート(少数報告)・トム・クルーズ主演の近未来SF・西暦2054年、ワシントンD.Cで超能力者の予知により未然に殺人容疑者を逮捕するシステムが稼働した」だった・・・政治での多数決、で、「マイノリティ=少数意見」って云われてもネッ・・・「眞意之里(理)程」・・・邪馬台国・・・「魔女里程(理定)」・・・「minority=少数派」、「majority=多数派」・・・の事情、自浄、治定、自乗、字状・・・ 早くも6月4日(日曜日)ですか・・・以下のTV番組・・・ ーーーーー 15:00 世界の果てまでイッテQ!登山部アイガーSP(再) イモト極限の戦い!今回の山はスイスの名峰アイガー 標高3970メートル切り立った断崖絶壁 過去最大の“恐怖”との壮絶な戦い… 過酷な挑戦の全貌が明らかに! 15:00 先人たちの底力知恵泉選 邪馬台国はどこにある? 古代ミステリーを楽しもう(前編) 古代史“最大”の謎、 邪馬台国のミステリーを題材に、 歴史の楽しみ方の知恵を探る 九州説、畿内説、四国説、 沖縄にある 卑弥呼の海底神殿まで、 想像の翼を広げる・・・ ・・・両方のTV番組、同時刻で、チャンネル、バッチン、バッチンしていたけれど、ウツラ、ウツラで・・・ネテしまった・・・ 「シスター・Y」から電話・・・同類の風船持ちらしい・・・ 19:30 ダーウィンが来た! 「水が大嫌い!珍魚トビハゼ」 九州の干潟に暮らす 水が嫌いな魚トビハゼが主人公 一日中水に入らず、泥の上をはい回って暮らす 恋も陸の上、オスはジャンプを繰り返し、 情熱的なキスでメスにアピール 「トビハゼ」・・・面白かったけれど・・・「むつごろう」と異なるんだ・・・ 「ムツゴロウ(鯥五郎・Mudskipper・マッド-スキッパー)は、スズキ目・ハゼ科に属する魚の一種。潮が引いた干潟の上で生活する魚として知られ、有明海・八代海を含む東アジアに分布する。有明海沿岸ではムツ、ホンムツなどと呼ばれる」 「トビハゼの倍くらいに成長 体色は褐色から暗緑色 全身に白か青の斑点 両目は頭の一番高いところに突き出ている 威嚇や求愛のときには 二つの背鰭を大きく広げ、よく目立つ 植物食性で、 干潟の泥の表面に付着している 珪藻などの 底生藻類を食べる」 ・・・ 「ムツゴロウ(鯥五郎・Mudskipper・マッド-スキッパー)」 「トビハゼ (跳鯊 ・Mudskipper(マッド-スキッパー) (modestus Cantor)」 ・・・イズレも干潟の泥上を這い回る魚・・・「skipper=小商船・漁船・ヨットなどの船長、飛行機の機長、運動チームの主将、マネージャー、跳ねる人、跳ねるもの・skip-per(skípɚ)」・・・ 「スキップする魚」・・・ 「ハゼる・爆ぜる・罅(缶+虍+乎)ぜる」、 「はじけて、開く、破れる」の意・・・「罅=缶(午凵)+虖(虍乎)」・・・ 「罅=ひび・われめ・土器のわれめ・すきま・ひびがはいる・かける・われる・コ」・・・「缶(カン)のヒビ割れ」・・・ ーーーーー 㕝子=古+又+子=ことじ(古又子) 事(こと)=いろいろな意味をもつ形式名詞 事(ジ)=秦の碑にあるという異体字・亊は略字 㕝(漢辞海にある異体字) 亊=こと・シ・ジ・ズ・こと 一+ソ+ヨ+亅 事=亊=役職、役目 、個々の或いは細かい業務、 雑用 仕える、仕えて雑用をすること 動作・現象・状態など 形のないものは「事」 形のあるものは「物」 「事=一+口+ヨ+亅」=「一+口+肀」・・・ヨ→∋→Ψ =こと・つかえる・ジ・ズ こと・ものごと・ことがら・できごと しごと・つとめ・任務 こととする・しごととする。つとめる つかえる・奉仕する 㕝=事=亊=又の上が「事」から「尹(イン・監督)」を ↓↑ 除いた形のものが「事」の古字 ヨ→∋→Ψ=ψ(プシー・プスィ・プサイ ↓↑ 希臘語の「ψι=ψῖ・psi) アルファベット 第23字で 数価=700=Ψ=ψ 海王星(Neptunus・Neptune) 海王=海の王→須佐之男→大物主→隋王朝 1846年3月10日 (弘化三年二月十三日) 孝明天皇即位 1846年9月23日 (弘化三年八月三日) ユルバン・ルヴェリエ ジョン・アダムズ ヨハン・ガレ などに 太陽系8番目の惑星として発見 ポセイドン=ネプチューンの ↓↑ ↓↑ シンボル=Ψ=銛(もり・三叉矛)は トライデント(Trident) 精神医学で超能力を表す記号 ψ=量子力学で φとともに ↓↑ ↓↑ 波動関数を表す記号 ものごと、事象、出来事 異常な、重大な出来事 戦争、職業、仕事、関係がある まつりごと、仕える、という意味がある 「説文解字・巻三」には 「㕝は使の古文」 「職なり」 「倳=イ+事」と通じて「建てる」 「剚=事+リ」と通じて「挿入する」 「使」と通じて「使う」 ↓↑ という意味 「字形」 「史の上部に三又のような線が加わっている形 史に何かを組み合わせた字」・・・ 「説文解字」は 「形声で 史+之 を組み合わせた字」 「淵源」は上部は「吹流し」・・・ 「古代、使者が吹流しを立てた・・・ (春秋左氏伝・桓公十六年) 「其の旌を載せて以って先んず」 と使者が旌旗を車に立てた・・・ 「外に祭りを行うときはこれに吹流しを付け、 使者に持たせた」 「事=外で祭り事を行う意味・大事・まつりごと」 「使、史、吏、事」の 「金文での字形は同じ」で、 声義とも関係・・・ 「事宜・事業・事件・事故・事後 事象・事情・事前・事態・事大 事典・事変・事由・事例」 「叓」は「古文の事(玉篇)」 「吏の本字(説文解字)」 「㕝(漢辞海にある異体字)」 「事=亊・叓・㕝=こと・シ・ジ・ズ」 一+口+ヨ+亅=事 「争=爭=一+ソ+ヨ+亅 ソウ・ショウ・あらそう 争=ク(々)+ヨ+亅 事=一+口+ヨ+亅 互いに自分の方へ引き合う、奪い合う、戦う 優劣を競う、議論する 諌める ↑↓ 「辶=辵部(チャク・ブ)」 「辶(しんにゅう)」=「辵(チャク)=彡+ト+人」 康熙字典214部首の162番目、七画の十六番目、 酉集の十六番目 「辵」=行きつ止まりつしながら進むこと あるいは急いで行くこと 「道路」を表す「彳」の下に 「足」を表す「止」の会意文字・・・ 偏旁の意符は 道を行くこと、 歩くこと、 道、脚などに関わることを示す ↑↓ 1446年の 「壒囊鈔(あいのうしょう)」に 「辶」は 「之の字に非ず チャク(辵)の字を 四画に書く故に 四繞」・・・らしい・・・ ↑↓ ・・・ボク的には「辵」を漢字分解すれば、 「彡(サン・セン・さんづくり) + ト(ボク・ホク・うらなう) + 人(ニン・ジン・ひと)」 である。 「彡(サン・セン)」は 「傷痕、引掻き跡(痕)、 長毛、毛で造った髪飾り、 筆や刷毛で擦(なす)った跡」で、 「ト(ボク・ホク・うらなう・選ぶ・望む・期待する 与える・うらかた=占形)」 は「占いでの意味」である 「辶=辵」であるならば、 その「日本語」の意味は未来予測する 「神祇官の卜部の人」である・・・ 「占拠・占領」の熟語は 「占(し・セン・)=ト+口」める領域、領土であるが・・・ 「他国の領土を武力で奪い取って維持、保持」 するコトである。 「占領軍・進駐軍」・・・ ・・・現代に於いて「国際ルール(?)」を無視する厚顔無恥な不逞の輩の国家指導者と、その追従者達である・・・国家間の戦争に「国際ルール」・・・ダレがマモルんだか?・・・ 「占(セン)」とは 「専(セン・もっぱら)」の同音から「独り占め」の意味になった、と大修館辞典に記してある・・・ 「専守防衛=センシュボウエイ=占守防衛」・・・ 「法律」を作るなら「カタカナ」か「ひらがな」にすれば「政治屋」には都合がイかっただろう・・・ 「伊藤博文」・・・ 「博=十+専」の「文」・・・「占=ト+口」・・・
・・・ダレにカタロウか・・・「武殱視語訳=むつみごと=陸奥見事(己事)=秘め事(言・語訳)」?・・・「無罪事」・・・「告白=コクハク=酷薄・刻薄」・・・「快感の代償」・・・「密告」・・・「告発」・・・???・・・ ーーーーー 平仮名 真名仮名 「たちつてと=太知川天止・・・知る川は太く天に止まる ↓↑ 太洋・太平洋・太乙・天太・太陰・太陽・太極 ↓↑ 太安万侶 たち=太刀・性格・性質 ↓↑ 伊・起・縁・勃・気・御 たち=達・立・起・発・性・経 観・案・床・生・性・験 ↓↑ 断・凾・再・総・決 たち=絶・舘・建・裁・断 対・山・築・縫・絶 ↓↑ 片仮名 タチツテト ↓↑ 多→タ(多の上の部分)・・・夕方・夕暮・七夕 千→チ・・・・・・・・・・・干(ひる=蛭)・干拓 川→ツ・・・・・・・・・・・巛・氵・津 天→テ・・・・・・・・・・・亍(一丁)・弖・氐 止→ト(止の右上部分)・・・ト・・・朴 ↓↑ タチツテト=他知通弖(氐)訳」 ーーーーー ・・・問題は「何怒(なにぬ)ねの」だが・・・? ↓↑ 奈 → な 仁 → に 奴 → ぬ 祢 → ね 乃 → の ↓↑ 奈 → ナ(奈の左上部分)・・・名 二 → ニ・・・・・・・・・・・爾・似・邇・耳 奴 → ヌ(奴の右側部分) 祢 → ネ(祢の左側部分) 乃 → ノ(乃の左側部分) ↓↑ ーーーーー 天乙(テンイツ) 紀元前1600年頃) 商朝の初代王 名は履・・・履=くつ=沓・靴・堀・屈・掘・窟・九つ・九十 舃・舄・倔・崛 履歴=経歴 殷墟出土の甲骨文占卜に 大乙、 名は唐、成 湯王(湯) 太乙・・・タイオツ=太い乙(乚)→Z? 成湯・・・温泉?・・・沸騰は百度、湯気? 成唐・・・唐=广+肀+口・・・庚+口? 「肀=手の指の握(にぎる)・把握? 熊手・hawk」? でたらめ・から・もろこし・だしぬけ トウ 荒唐無稽・唐突・唐黍 「聿」=筆・はじめ(肇・始・初) 「肀」=「ヨ(∋)+I」 「肀」=「申」-「1(申の左側の1を除いた字) 尹or(丰+1)」 丰=すがた・フウ・ボウ 後唐(923年~936年) 十国の1つ 李昪(リベン)が建てた国 昪=日+弁(ム廾)・・・・日を弁える・日の弁別 南唐(937年~975年) 五代十国時代の「十国」の一つ とも呼ばれる ↓↑ 勢力を制圧し 中原の覇権を得、 「亳」に王都を築営・・・亳(高い丘に造った都・ハク) ↓↑ 亳=亠+口+冖+乇(ノ七) 乇=じっと定着 宅=家屋 托=手の平にじっと預ける 託=言葉で頼みじっと預ける あずける・まかせる チャク・タク ↓↑ 毫(細い毛・わずか・ゴウ) 毫=亠+口+冖+毛 狼毫笔=イタチの毛の筆 羊毫笔=羊毛の筆 毛筆 你敢动我一根毫毛!=指一本でも触れてみろ 毫可以指=角(貨幣) 角は粵語(エツゴ)=広東語 の稱呼で 貨幣の單位 ↓↑ 即、十分の一元 殷の建国者 ↓↑ 天乙は 夏の最後の 「桀」を追放し・・・桀(はりつけ)=磔刑 ↓↑ 磔=石+桀(舛木→夕ヰ十八) 舛=違う・背く・錯乱する 違える・間違える・悖る 違背する・乱れる・交わる セン 舛午(センゴ)=命令に背いて従わないこと 午=忤(さからう) 舛錯・舛駁・舛令・舛訛・舛謬 舛差(センサ)=食い違い 性命無舛差=性命ニハ舛差無シ(梅尭臣の詩)? 磔=張り付けて「窒息死」させ、 死の確認を槍で突き刺し確実にする ナゼ「石偏」なのか? ↓↑ 張り付けて、石打ちで殺した? ↓↑ 天草四郎(あまくさ しろう) 益田四郎(ますだ しろう)時貞(ときさだ) 元和七年(1621年)・元和九年(1623年)? ~ 寛永十五年二月二十八 日(1638年4月12日) キリシタン 「島原の乱」における一揆軍の指導者 本名は 益田四郎(ますだしろう)・・・舛田四郎? 諱は 時貞(ときさだ・ジテイ)・・・字綴? 洗礼名は当初「ジェロニモ(Geronimo)」 ↓↑ 島原の乱当時「フランシスコ(Francisco)」 夏(なつ・カ)を滅ぼした ↓↑ 桀は暴虐な政治をし 人心は 夏から離れ 夏の臣であった 「天乙」は・・・・・天乙(天音)貴人 「伊尹」・・・・・・「伊達の尹(おさ・ただす・イン・ 長官)」 の補佐を受け 桀を攻め、これを滅ぼした(鳴条の戦い) 書経に 桀を滅ぼす時に諸侯に向けての演説 『湯誓(トウセイ)』がある ・・・「トウセイ=統制・東征」? 天乙は 夏の禹(ウ)・・・・ナツのウサギ=捺-得詐偽(詐欺) 周の文王、武王 と並び聖王と崇められた ↓↑ 『荘子』記録 ↓↑ 「太=は至高を、 太一は唯一・・・太(ふとい・タイ)=一の人の全(ゝ) 根元を表す語」 ゝ=チョン=全 ゝ=あるじ・灯火 ↓↑ 壹の人、主(あるじ) 『荘子』天下篇に 戦国時代の諸子百家のうち 「道家」が軽んじたもの 『呂氏春秋』大楽篇では 「道」のこととし、・・・・軌道・黄道・白道・黒道 「道」は形がなく、 名づけることもできないが、 強いて名づけるなら 「太一」であるとし、 太一から始まって 太一、 両儀、 陰陽、 万物 という宇宙生成論を唱えた 1993年 「郭店楚墓」から出土した竹簡 『太一生水』に 太一から始まる 太一、 水、 天、 地、 神明、 陰陽、 四時、 倉熱、 湿燥、 歳 という「生成論」が見られる・・・ ↓↑ 『淮南子』 『淮南子』天文訓 「紫宮は太一の居」 としたり、 『史記』天官書において 「中宮-天極星、 其の一に明るきは 太一の常居」 とされ、天上世界における宮殿 「紫微宮」に位置する星とされた 『史記』封禅書で 「謬忌」が 漢の 武帝に 太一を祀ることを進言 太一を天神の尊きものとし、 太一の補佐を五帝とした 武帝は 太一壇を設け 天一・地一・太一 の 三神を祀った 以後、 太一は天の中心に位置する 「北極神」と解され、 天皇大帝 や 昊天上帝 といった 至高神と 同定されることもあった 後漢の 「鄭玄」は・・・鄭玄=酋(八酉)大(一人)阝(邑)亠幺 ユダ=湯田 ユダ(猶大)・イスカリオテ(加略人) 猶(なお)・猶子(ユウシ)・猶予(ユウヨ) 猶太(ユダヤ)・・・イスラエル=以色列 『易』の注釈において 太一を 北辰(北極)の神とし 八卦に配当された 九つの宮殿(九宮)を 順次めぐってゆく 「太一九宮の法」を記した ↓↑ 唐・宋代 太一・摂提 軒轅・招揺 天符・青竜 咸池 太陰 天一 の九神が支配する 九つの宮殿とし(九宮貴神)、 太一神が九宮を巡行し 禍福を占ったり、 九宮貴神壇を設けて祭祀を行った・・・ ↓↑ 「太極」 万物の根源 ここから 陰陽の二元が生ずる 『易経』繋辞上伝にある言葉で 「易有太極=易に太極あり 是生兩儀=これ両儀を生じ 兩儀生四象=両儀は四象を生じ 四象生八卦=四象は八卦を生ず 八卦定吉凶=八卦は吉凶を定め 吉凶生大業=吉凶は大業を生ず」 ↓↑ ↓↑ 「朱熹(シュキ)」=「朱子(シュシ)」 は 「周敦頤が太極の前に冠した 無極は太極に先行するものではなく、 太極の性質を形容するものであるとして 無極にして太極」 と解釈した ↓↑ 朱熹(シュキ) 1130年10月18日 (建炎四年九月十五日) ~ 1200年4月23日 (慶元六年三月九日) 中国南宋の儒学者 字は 元晦・仲晦 号は 晦庵・晦翁 雲谷老人 滄洲病叟 遯翁 など 別号は 考亭・紫陽・・・紫陽花(あじさい) 謚は 文公(ブンコウ) 朱子(シュシ) と尊称され 祖籍は 徽州婺源県(江西省) 南剣州 尤渓県(福建省)に生まれ 建陽(福建省)の 考停にて没 儒教の精神・本質を明らかにし 体系化を図った 儒教の 中興者で、 「新儒教」の 「朱子学」の創始者 ↓↑ 「朱熹」の祖先は 五代十国時代に 呉に仕えた 「朱瓌(シュカイ) 瓌は懐の忄(りっしん偏・立身)を 王偏に変えたもの 婺源(ブゲン・江西省婺源県)の 守備に当たったことから この地に籍を置くようになった その 八世の子孫が 朱熹の父 ↓↑ 朱松(シュショウ)・・・・あかまつ=赤松・赤枩 (1097年~1143年) ↓↑ 「朱松」 「周敦頤 程邕 程頤」 らの流れを組む 「道学」の学徒 1123年(宣和五年)より任官し 県尉(県の治安維持を司る)に任命 1127年(建炎元年)・・・建炎(ケンエン) 「十一・二十七」=壱千壱百弐拾七 拾壱・念 漆 タケルのホノオの願念 能褒野神社(のぼのじんじゃ) 褒める・たたえる 褒姒 褒詞・褒章・褒賞・褒美 褒貶 (ホウヘン)・過褒 (能煩野神社) 煩=わずらう=患 煩瑣 (ハンサ)・煩雑・煩多 煩忙・煩累・煩労 煩悶(ハンモン) 三重県亀山市田村町 祭神は三柱 日本武尊(やまとたけるのみこと) 建貝児王(たけかいこのみこ) 弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと). 「靖康の変」・・・・・「靖国・家康」の変? が起き、 北宋が滅んで南宋が成立 1128年(建炎二年) 南剣州-尤渓県 (ナンケンシュウ-ユウケイ-ケン 福建省三明市-尤渓県) の県尉に任命 翌年、辞職 1130年(建炎四年) 尤渓県で 「朱熹」が誕生・・・朱い熹・・・熹≠憙 ↓↑ 「憙」=喜+心=よろこぶ・よろこび うれしがる・楽しむ 「はァ」の感嘆の息づかい 「熹」=喜+灬(烈火)・キ たちのぼる熱気で煮炊きする 光や、炎が盛んに立ち昇る様 仄々(ほのぼの)と立ち昇る光 光がさわやかに射すさま 「仄=そばだつ(攲)・かたぶく(傾) ほのか・かすか(幽) かたはら・そば(旁)側に通ず いやし(陋) うらがへる=「反仄」 四聲の中にて平聲を除き、 上聲と去聲と入聲とに屬する字 ↓↑ 「朱松」は 南宋の朝廷に入り、 国史編纂の仕事に就く 宰相の 「秦檜」の 「金(族)」に対する講和策に反対し 中央を追い出された 1140年(紹興十年) 州知事に任命されるが、 辞退し、 祠官の職を希望して認められ、 以後は学問に専念 1143年(紹興十三年) 47歳で死去 ↓↑ 「朱熹」 9歳にして『孟子』を読破 病床の父から『論語』を学んだ 父が病死の後は父の遺言により、 「胡憲 劉勉之 劉子翬」 の三者に師事 ↓↑ 1148年(紹興十八年) 19歳 科挙に合格 席次は 合格者 330人中278番 高宗の信頼を受けた 「秦檜」が権勢を振い 「金(北方種属)」との講和に反対する者を弾圧 科挙にもその影響が出 講和に反対する者の 答案提出は点が低くされ、これが 「朱熹」の席次の低い原因の理由らしい・・・ 1151年(紹興二十一年) 朱熹は 左迪功郎を与えられ 泉州 同安県(福建省同安県)の 主簿(帳簿係)に任官 任官途中で父の同門の 「李侗(李延平)」と出会い、 その教えを受けた 「李延平」の禅宗批判を聞き その考えに同調し、 以後は禅宗を捨てて 儒学だけを志す・・・ 1156年(紹興二十六年) 主簿の任期である3年を過ぎたが、 後任がやって来ないのでもう一年勤め、 それでも後任がやってこないために 自ら辞した 1160年(紹興三十年) 朱熹は父親と同じように 祠官に任命されることを希望し、 認められ 李延平の元で学問に励む 李延平は朱熹に 「道学」の真髄を伝授し、 朱熹も李延平の教えを吸収し 李延平に 後継者と認められた 1162年(紹興三十二年) 高宗、退位 孝宗の治世 孝宗により 武学博士(兵法書や武芸の教授) への就任を命じられるが、辞退し 祠官を続けられるように望み、 地元の 崇安県に戻った 1170年(乾道六年) 崇安県に 社倉を設け、 難民の救済に当たった 「王安石」・・・宋(北宋)の 神宗の時の宰相 1070年に始まる 「王安石の改革」を主導 の 「青苗法」・・・宋代の農民への低利資金貸付け法 農民を高利から解放するためのもの 北宋の第六代皇帝の神宗に信任された宰相、 王安石が宋朝の立て直しのために 低利で中小の農民に金を貸し付け、 中小の農民の保護を図った法律・・・ 王安石の新法の一つ 煕寧二 (1069) 年施行 を参考にした・・・ 「社倉=収穫物を一時そこに保存し 端境期や凶作などで農民が窮乏した時に 低利で貸し付けるもの」 貸付は地主も行っていたが、 利率が 10割にも及ぶ過酷なもので、 これが原因で農民は没落・・・ 1175年(淳熙二年) 「呂祖謙」の誘いで 「陸象山」と 会談(鵝湖の会) 互いの学説の違いを再認識 「陸象山」の死に際し 朱熹は 「惜しいことに告子を死なせた」 と孟子の論敵になぞらえてその死を悼んだ・・・ 「告子」=戦国時代の斉の思想家 告は姓、名は不害 人間の本性は 善でも不善でもなく 人間の善悪は 環境によって 規定されるという説で 性善説の 孟子と論争した 1179年(淳熙六年) 南康軍(江西省。軍は州の下、県の上の行政単位) の 知事 朱熹は自ら教鞭を取って 民衆の中の 向学心のある者に教育を授け、 太宗によって作られた 廬山の・・・廬(いおり・ロ)の山(サン) 白鹿洞 書院を復興 税制の実態を見直し 減税を行うように朝廷に言上 1180年(淳熙七年) 凶作 主戸(地主層)に食料の供出を命じ、 貧民にこれを分け与えた もし供出を拒んで食料の余剰を 隠した場合には厳罰に処すると明言し、 受け取った側が 後に供出分を返還できない場合は 役所から返還すると約束 この施策により、 凶作にもかかわらず 他地域へ逃げる農民はいなかった・・・ 1181年(淳熙八年) 南康軍での手腕を認められ 提挙両浙東路常平茶塩公事に任命 朱熹は積極的に 官僚に対する弾劾を行った 1182年(淳熙九年)七月から始まる 知台州(台州の知事・浙江省臨海県)の 「唐仲友」に対する弾劾は激しく、 六回に及ぶ上奏を行ったが 朝廷の反応は冷たかった・・・ ↓↑ ・・・まるで、現在的日本の政府と議会だが・・・ ーー↓↑ーー 「唐仲友」は 孝宗によって軽い罪に問われただけ 偽学の禁 1189年(淳熙十六年) 孝宗退位 その子の 光宗が即位 1194年(紹熙五年) 孝宗の死後、 趙汝愚 韓侂冑 らが 光宗を退位させ 後に 寧宗が即位 ↓↑ 「趙汝愚」の与党だった朱熹は 「長沙の知事」から 政治顧問(喚章閣待制兼侍講)に抜擢 しかし功労者の 韓侂冑 と 趙汝愚 が対立し、 趙汝愚が失脚し 朱熹も罷免され 40日あまり 中央に出仕して終わった ↓↑ その後 「韓侂冑」が独裁的な権限を握る 1196年(慶元二年) 「韓侂冑」らは 朱熹の 「朱子学」に反対する一派を抱き込んで 「偽学の禁(慶元の党禁)」 で弾圧を始め 朱熹は官職を全て剥奪され 著書も全て発禁 1200年(慶元六年) 71歳で死没 ↓↑ 朱子の経書の整理 『論語・孟子・大学』 と 『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの) の 「四書」に注釈 後に科挙の科目となった 「四書」の教科書とされ 権威的な書物となった 以降、 科挙の科目は 「四書一経」となり、 四書が五経よりも重視された・・・ ↓↑ 「朱子学」 朱熹はばらばらに 学説や書物が出され 矛盾を含んでいた 儒教を、 「程伊川」による 性即理説 (性=人間の持って生まれた本性が すなわち 「理」であるとする)、 仏教思想の論理体系性、 道教の無極 及び 禅宗の座禅への批判と それと異なる 静座(静坐)という行法を持ち込み、 道徳を含んだ壮大な思想にまとめた そこでは 自己と社会、 自己と宇宙は、 「理」という普遍的原理を通して結ばれ、 「理」への回復を通して 社会秩序は保たれる、とした・・・ ↓↑ 「朱熹」の「理」 「理とは形而上のもの、・・・形而上・・・観念? 気は形而下のもの・・・・・形而下・・・物質? であって、 まったく別の二物であるが、・・・新井白石の 「形而下」とは? たがいに 単独で存在することができず、 両者は 「不離不雑」・・・・・・・弁証法? の関係である」 とする。 また、 「気が運動性をもち、・・・・・・気=変動物質? 理はその規範・法則であり、・・理=変化の法則性? 気の運動に秩序を与える」 とする。 この「理」を究明することを 「窮理」とよんだ・・・ ↓↑ 朱熹の学風は 「できるだけ多くの知識を仕入れ、 取捨選択して体系化する」 というものであり、 極めて理論的であったため、 後に 「非実践的」 「非独創的」 と批判された・・・ が、 儒教を初めて体系化した功績は大きく、 タイム誌の 「2000年の偉人」では数少ない 東洋偉人の一人と評価されている・・・ ↓↑ 朱子学 身分制度の尊重 君主権の重要性 「明王朝」によって 行法を除く学問部分が 国教と定められた 「元王朝」代に編纂された 「宋史」には、 朱子学者の伝を 「道学伝」とし それ以外の儒学者の 「儒林伝」とは別に立てている 13世紀に 朝鮮に伝わり、 朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられ 朝鮮はそれまでの 「高麗の国教」であった 仏教を排し、 「朱子学」を 唯一の学問(官学)とした ↓↑ 日本 江戸期 社会の支配における 「道徳」の規範として 「朱子学」に重きがおかれた ↓↑ ↓↑ 「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢・・・未だ覺めず、池塘(土手)春草の夢 階前梧葉已秋聲」・・階前の梧葉は已(すで)に秋聲 ↓↑ 階前=カイゼン=改善・海前・改前・甲斐喘・歌意前? ↓↑ 梧葉(ゴヨウ)=青桐(あおきり・セイドウ)の葉? ↓↑ 桐(豊臣)?「青銅のキリスト」? ↓↑ 秋聲=安芸(長州)の声? ↓↑ 上田秋成(うえだ あきなり) 享保十九年六月二十五日(1734年7月25日) ~ 文化六年六月二十七日(1809年8月8日) 読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人 怪異小説 『雨月物語』の作者 日の神論争(ひのかみろんそう) 1786年(天明六年) ~ 1787年(天明七年) 本居宣長 と 上田秋成 のあいだで書簡を通して交わされた 国学上の論争 具体的には「日の神」、すなわち ↓↑ 「天照大御神」をめぐる論争 ウイッキペデアの「日の神論争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%AB%96%E4%BA%89 ↓↑ という 「偶成」詩・・・たまたまできた、 ↓↑ 偶然に思い及んだ詩 春草夢=春草の萌える頃、 ↓↑ まどろみの中に夢を見、 は、「(明治の)日本人?」には 「朱熹の作」として知られていたが、 「朱熹の詩文集」にこの詩は無い ・・・彼(朱熹)の作ではないらしい・・・? ↓↑ ↓↑ ↓↑ ーーーーーーーーー ・・・随分と廻り道をしたカナ・・・ 「太乙・太陰・太陽・太極」・・・ 「太安万侶」・・・ ↓↑ ↓↑ 天地・万物の出現・成立の根元となる気 宇宙の本体 道教での 天を主宰する神の名 「太一星」の略・・・対極、太極の北極星 ↓↑ 「太一(タイイツ・tàiyī)=太乙」 古代中国における宇宙の根元を表す哲学的概念 天の中心に位置する星官(星座) その神格 「大一=泰一=太乙」 とも書く・・・ ↓↑ 殷の初代の帝王、「天乙」 「太一(タイイツ・tàiyī)」 「太乙神数(タイイツシンスウ)」 中国の伝説上の皇帝である 「黄帝(コウテイ)」 と 「蚩尤(シュウユ)」 との戦いの際に生まれた 「国家の大事」を占う占術・・・ ーーーーー ・・・???・・・
・・・イズレも干潟の泥上を這い回る魚・・・「skipper=小商船・漁船・ヨットなどの船長、飛行機の機長、運動チームの主将、マネージャー、跳ねる人、跳ねるもの・skip-per(skípɚ)」・・・ 「スキップする魚」・・・ 「ハゼる・爆ぜる・罅(缶+虍+乎)ぜる」、 「はじけて、開く、破れる」の意・・・「罅=缶(午凵)+虖(虍乎)」・・・ そうも、この「罅=缶(午凵)+虖(虍乎)」は「凵」に閉じ込められた「午=うま=馬」は「蘇我馬子」で、「虖(虍乎)=虎の雄叫び=天武天皇(大海人皇子)」の示唆のように思えるが・・・もちろん、「聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)=馬宿皇子」・・・蘇我、我(われ)、蘇(よみがえ)る、の「イエス・キリスト」の「重(襲)ね」である・・・「厩戸」の漢字も怪しい「厩=厂+白+ヒ」、「戸=一+尸」である・・・「午(馬)」が「忤=逆らう」なら「十二支」の対沖は「子(鼠)」であるが・・・「移鼠(イエス)」? 「午」は「杵(きね・ショ)」なら「臼(うす)に入れた穀物をつく道具・杵柄(きねづか)・つち(槌)・物をうつ道具・砧杵(チンショ)・臼杵(キュウショ)・杵臼の交わり(ショキュウのまじわり)」・・・「汻(ほとり・コ・滸→水滸伝)」、「烏滸(ヲコ)がましい・をこ=痴・尾籠」、「許(ゆるす)」・・・ 搗(つく・たたく・うつ・トウ)杵(きね)と、臼(うす)で「罅=ひび・われめ・すきま・かける・われる・コ」で・・・「罅=缶(カン)の虍乎(ヒビ割れ)」である・・・ ーーーーー ・・・「乱(亂)=ラン=蘭・覧」で、「覶(ラン・ラ)」=「楽しげに観る」である・・・「𧡓・覶=ラ・ラン=ノツ爪爫爫ワ冖又受目見𧡓・事細かいさま、同、覼・「𧡓縷(らる)=順序立てて詳細に述べるさま・婉曲に分かりやすく述べるさま・𧡔=肯見」・・・ 「覶=爫又禸(冂ム)又見(目儿)」・・・ ↓↑ 「禸部(ジュウブ)」 「康熙字典214部首で114番目に置かれ (5画の20番目、午集の20番目) 「禸」=獣の足跡を意味 『説文解字』には 「禸」=「蹂」の古文 「ム」が・・・・・「ム」は「私の源字」だが? 「獣の足」が地面を踏んだ象形 「九」が声符とする 通常は囲い(九・冂)の中は「ム」形だが、 上の偏旁から貫いているときは 1画目がまっすぐとなり 「⊥」に「点=(ゝ・ヽ)」の形となる 「瓜」の「ム」がそのまま2画 (日本の新字体では3画)であるの対し、 「禸」の「ム」形は 「⊥+点(ゝ・ヽ)」に合わせて3画と数えられ 明朝体のデザインによっては 3画を強調しようと 1画目の終端と 2画目の先端とのずれ具合を大きくするものがある 篆書などでは終端を輪状にした 一筆で書けるもので、 「瓜」と同様の変化である 3画と数えるのは 単に分類を目的とした画数順字書の性格上、 統一性をもたせたもの 「禸」を構成要素とした 「离(リ)」・「禹(ウ)」 「禺(グウ)」・「禽(キン)」 は新たな偏旁となって、 もっぱら 声符として使われ 「禸」を構成要素とする漢字は もっぱら 偏や冠に従って他の部に収められており、 「禸部」は 他の部に分類しきれなかったものを収めている ↓↑ 「禸(ぐうのあし(禺の脚) ジュウ・ニュウ・ジウ・ニウ」 部首の通称は 「グウのアシ(音がグウである 禺の脚であることから)」 ・・・「禺(甲+禸・甲+冂+ム)=おながざる・尾長猿・大頭で尾の長い猿」・・・「禺貙(グチュ)は東海の海神、禺彊(グキョウ)は北海の海神」って?・・・「海の神」は「貙(チュ)=獣(けもの)」と「彊(キョウ)=強=つよい・しいて・キョウ・ゴウ」・・・兎に角「禺=猿」であるが・・・「禺=甲+禸=甲+冂+ム」であるならば、「甲(きのえ・コウ)」は「冂(けいがまえ=冏構・冋構・まきがまえ=牧構・ケイ・キョウ)」の「ム=よこしま=横島・邪・与拠縞」・・・地理上の「横島」は九州、熊本県の玉名市の町名・・・「熊本県-玉名郡-横島町-大字-横島3644番地」である・・・「隋書・俀(イ妥)人傳」の「阿毎王朝」の所在地で「邪馬台国」・・・である・・・ 「都於、邪靡堆、則、魏志所謂、邪馬臺者也、古云、去、樂浪郡境、及、帶方郡、並一萬二千里、在、會稽、之東、與、儋耳、相近」 ↓↑ 「禺(甲+冂+ム)=ぐう=尾長猿・大頭で尾の長い猿」 「グウの音(ネ)も出ない」って?「押さえつけられて苦しい時に発する声」・・・証人、証拠が出ては「反論や弁解ができない」のはアベとカンだろう・・・それでも「加計」か、「会稽」か・・・ 「愚図(ぐず)・木偶(でく)・偶然(グウゼン)・偶数(グウスウ)・偶発(グウハツ)」・・・「偶々(たまたま)」、「遭遇(ソウグウ)」・・・「萬に一つ」・・・「太安万(萬)侶」・・・ ↓↑ 〔説文解字〕に 「獸足の地を蹂(ふ)むなり」・・・蹂躙(ジュウリン) 「爾雅・釈獣」を引いて 「狐貍貛貉醜。其の足は𨆌。其の迹は厹(九ム)」と、 「狐狸の類の足迹」とする 「説文」では 「厹」は・・・・・「其の迹は厹(九ム)」なら その俣(また)は「九州の横島」 見名萬太=みなまた=水俣 「禸」と同じ字とする 字形 「説文解字」 「象形にして九聲」 「足迹の象形」で、 「九」が声符 ほかに「足の爪の痕」の象形説、 「厹=九+ム」で 「二組の虫」を組み合わせた字・・・ 音訓 「厹=九+ム」=あしあと・ジュウ・キュウ 部首 「禸は部首、禸部を作る。脚に用いられ 禺(グウ)の足(あし) 獣に関する意符として使用 異体字 「説文」は「蹂」を篆文 「厹」は、「禸」字の説明で、禸と同じ字 「厹矛」のように 「三叉の矛」のことを 云うことがあり、 意味が必ずしも一致しない・・・一致するのサッ・・・ 「玉篇」・・・・「玉(たま・ギョク)竹の扁」 に載っている古文。 「叴(九+口)」は、・・・「口」は「くち」か、「くに」か? 「くに=國・国・圀=囗」である 九国=九州 「廣韻・集韻」などで 「厹」と同じとする・・・ 「獣が後ろ足を地につけ、 尾を垂れている」 象形から 「獣の足跡」を意味・・・ ↓↑ ならば、 「獣帯=黄道(zodiac)」だろう・・・ 地球上から天空を観て 「太陽が通る道が黄道」である・・・ 「天球上で太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星の7惑星(古典的概念における惑星)が 通過する帯域」・・・ 「黄道帯を春分点を起点として30度ずつ12等分してつけた名称」 「黄道(zodiac)の南北それぞれ8°、または9°ずつ、幅16°~18°の帯状の地帯・ここに位置する12星座 (黄道十二宮) のほとんどが動物名であることから獣帯(zodiac)」の名が生れた・・・ 「サインは古くは宮(キュウ)と呼ばれ 12のサインを合わせて 十二宮や黄道十二宮、12ハウス(house)」と言う・・・ 「サイン(sign) アストロロジカル・サイン(astrological sign) は、西洋占星術などの ホロスコープを用いる占星術において、 獣帯を黄経で12等分したそれぞれの領域」 ーー↓↑ーー 3月21日~ 4月19日・・・・・・・・参・弐拾壱・四・拾九 おひつじ(牡羊・羝・♈)座・・・尾比通字 白羊宮 Aries.svg(the Ram) ↓↑ 4月20日~ 5月20日・・・・・・・肆・念・伍・弐拾 おうし(牡牛・♉)座・・・・・・王氏 金牛宮 Taurus.svg(the Bull) ↓↑ 5月21日~ 6月21日・・・・・・・・伍・弐拾壱・陸・弐足壱 ふたご(双生児・双子・簠・♊)座・・・蓋語・亠語 双児宮 Gemini.svg(the twins) ↓↑ 6月22日~ 7月22日・・・・・・・陸・漆・弐拾弐(念貮) かに(蟹・蠏・♋)座・・・・・・可児・化似 巨蟹宮 Cancer.svg(the Crab) ↓↑ 7月23日~ 8月22日・・・・・・・捌・弐拾弐(念貮) しし(獅子・猪・獅・♌)座・・・史施・詞詩・示視・志士 獅子宮 Leo.svg(the Lion) ↓↑ 8月23日~ 9月22日・・・・・・・玖・弐拾弐(念貮) おとめ(乙女・少女・♍)座・・・音目 処女宮 Virgo.svg(the Maiden) ↓↑ 9月23日~10月23日・・・・・・・玖・弐拾参・拾念参 てんびん(天秤・♎)座・・・・・典備務 天秤宮 Libra.svg(the Scale) ↓↑ 10月24日~11月22日・・・・・・・十一・二十二 さそり(蠆・蠍・蝎・♏)座・・・作(詐)素理 天蝎宮 Scorpio.svg(the Scorpion) ↓↑ 11月23日~12月23日・・・・壱拾壱・弐拾参・壱拾弐・弐足参 いて(射手・♐)座・・・・・・・意弖・井出・井手 人馬宮 Sagittarius.svg(the Archer) ↓↑ 12月24日~ 1月19日・・・・・・・壱拾弐・弐拾四・壹・拾玖 やぎ(山羊・♑)座・・・・・・・八木・矢木・柳・野記 磨羯宮 Capricorn.svg(the Goat-Horned) ↓↑ 1月20日~ 2月18日・・・・・・・・壱・念・貮・拾八(足捌) みずがめ(水瓶・♒)座・・・・・自我目・瑞臥埋 宝瓶宮 Aquarius.svg(the Water-bearer) ↓↑ 2月19日~ 3月20日・・・・・・・・貮・壱拾九・参・念 うお(魚・♓)座・・・・・・・・得緒・宇緒・雨於・兎尾 双魚宮 Pisces.svg(the Fish) ーーーーー ・・・「生き物」でないのは「天秤」と「水瓶」の二つである・・・「はかり」と「かめ」・・・ 「SVG(Scalable Vector Graphics)」って?・・・ ーーーーー 「胎蔵界曼荼羅(まんだら)図」の 外縁部にその姿が描かれた ↓↑ 獅子宮 女(ニョ)宮 秤(ショウ)宮 蝎(カツ)宮 弓宮 磨羯宮 瓶(ヘイ)宮 魚宮 ↓ 羊宮 牛宮 婬(イン)宮 蟹(カイ)宮 の順・・・? ↓↑ 「宿曜経弐拾八宿」の図式 昴宿、畢宿、觜宿、参宿、井宿、鬼宿、柳宿 星宿、張宿、翼宿、軫宿、角宿、亢宿、氐宿 房宿、心宿、尾宿、箕宿、斗宿、牛宿、女宿 虚宿、危宿、室宿、壁宿、奎宿、婁宿、胃宿 ↓↑ 女宮 獅子宮 蟹宮 秤宮 夫妻宮 蝎宮 牛宮 弓宮 白羊宮 摩宮 瓶宮 魚宮 ーーーーー ・・・旧歴(陰暦)で、月の朔望の位置関係にある「連続性を無視」した「宿星」だけれど・・・? 兎に角、天体の「動物園(Zoo・a zoo; zoological gardens)」、「動物園の虎=a tiger in a zoo」・・・「獣帯(zodiac)」 「Zeus(ゼウス)」の「Zoo(ズゥ)」は怪物が多いが、「乙女の神」とは「Athens=アテネ・アテーネー=Athēnē・アシナ=Athína・アシネ=Athínai=アシナイ」である・・・「足が無い」って?「三重のヤマトタケルの足」・・・処女神、「アシナイ」を襲った「ヘーパイストスは足が不自由」だったが・・・ 女神「アテネ(アシナ)」の敵は三叉の槍(Ψ)を持つ「海の神ポセイドン」である。アテネは叔父であるポセイドンとアテナイ市の支配権を争い、ポセイドンはアクロポリスの丘に塩水が噴き出す泉を作ってそれを与え、「馬」を作り人間に与えた。アテナはオリーブの木を贈り市民はオリーブの木を選び、アテナをアテナイの守護神とした。アテナの聖獣は「ミネルバ(Minerva)=梟(ふくろう)=ミミズク(ツク・ズク・木菟・木兎・鵩・鶹・鵂・角鴟・鴟鵂・耳木菟・耳木兎・耳角毛)」・・・ポセイドンの聖獣は「馬・牡牛・海豚=イルカ=入鹿?」・・・ 「天照大神」の敵は「須佐之男(スサノオ)=素戔男・素戔嗚」であり、国譲りでは「オオクニヌシ」であった・・・ 「Z旗」とは大日本帝国海軍の「1905年(明治三十八年)日露戦争の際、旗鑑三笠に皇国の興廃コノ一戦にアリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号旗・・・最後のアルファベットは「Z」・・・ ーーーーー ・・・「Z(ゼット)→乙(おと・イツ・オツ)→乚(イン)」・・・「Zero(ゼロ)」・・・「全(ゼン)」・・・
・・・神戸・・・「前川清」の「そして神戸・(1972年・作詞、千家和也・作曲、浜圭介)」・・・「神戸地震(阪神・淡路大震災・1995年(平成七年)一月十七日5時46分52秒)」・・・ 1995年 甲戌(辛・丁・戊) 刑 01月 丁丑(癸・辛・己) 冲 17日 戊申(己・壬・庚)・・・18日丁未(丁・乙・己)? 05時 乙卯(甲・ ・乙) ーーーーー 神=ネ(示)+申→二+亅+八+申(猿・猨・猴・沙流・猱) 戸=一(壱・壹・聿)+尸(屍) イチ=位置・位地・逸・佚・市・鴪・鷸 軼=車+失=イチ・イツ・デチ・テツ すぎる・はなれる・それる 奔軼 すぐれる・まさる 軼材・軼倫 人に知られない 軼事・軼書 逸・うせる・散る・もれる・あふれる 超軼・奔軼 軼詩(イッシ) 軼事(イツジ) 軼=車が列から抜け出る・抜け落ちる 列から抜け出て前に出る・抜きんでる 陣列からぬけ出る 先がけて突撃をする ・・・「青春の蹉跌」・・・振り返っても視えるモノはナニもない・・・「足跡」も、「轍(わだち)」も消え失せるのが当然である・・・前をみても「走水の蜃気楼」・・・「走水神社(はしりみずじんじゃ)・神奈川県-横須賀市-走水・三浦半島の東端」・・・「日本(倭)武尊」と「弟-橘媛命(おと-たちば-な-ひめ-の-みこと)」を祀る神社・・・「三浦按針=ウィリアム・アダムス」・・・ ウィリアム・アダムス(William Adams) 1564年9月24日~1620年5月16日(元和六年四月二十四日) 1564年 甲子(壬・ ・癸) 1620年庚申(己・壬・庚) 支合 09月 癸酉(庚・ ・辛) 05月辛巳(戊・庚・丙) 冲 24日 己卯(甲・ ・乙)申酉 16日壬戌(辛・丁・戊) ーーーーー 慶長五年九月十五日 西暦1600年10月21日) 関ヶ原の戦い 1600年4月29日(慶長5年3月16日) リーフデ号 豊後 臼杵の黒島に漂着 乗組員は 臼杵城主 太田一吉 の出した小舟で上陸 太田一吉は長崎奉行の 寺沢広高に通報し アダムスらを拘束 船内の大砲や火縄銃、弾薬を没収 大坂城の 豊臣秀頼に指示を仰ぐ イエズス会の宣教師たちが オランダ人やイングランド人の 処刑を要求 五大老首座の 徳川家康が指示 船長・ヤコブ・クワッケルナックに代わり アダムス と ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン メルキオール・ファン・サントフォールト らを大坂に護送させ、船も回航させた 5月12日(慶長五年三月三十日) 家康が彼らを引見 イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船 と思い込んでいた家康だったが、 路程や航海の目的 オランダやイングランドなど プロテスタント国と ポルトガル・スペインら カトリック国との紛争を 臆せず説明する アダムスとヤン=ヨーステン を気に入って誤解を解く しばらく乗組員たちを投獄 執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺 引見を繰り返した後に釈放し、 江戸に招いた。 三浦按針を 家康は米や俸給を与えて慰留し 外国使節との対面や外交交渉に際して 通訳を任せたり、助言を求めた 幾何学や数学 航海術などの知識を 家康以下の側近に授けた・・・ 1602年(慶長七年)頃 日本橋 大伝馬町 の 名主で家康の御用商人 馬込勘解由の娘 お雪(マリア) と結婚 息子・ジョゼフ と 娘・スザンナ が生まれた 江戸湾に係留されていた リーフデ(愛)号が沈没 船大工として 西洋式の帆船を建造することを要請され 伊東に日本で初めての 造船ドックを設けて 80tの帆船を建造 1604年(慶長九年)に完成 家康は更に大型船の建造を指示 1607年(慶長十二年) 120tの船舶を完成させた 家康は アダムスを250石取りの旗本に取り立て 帯刀を許し 相模国 逸見に采地も与え 三浦按針の名乗りも与えた 所領は息子の ジョゼフが相続 三浦按針の名乗りも継承 1613年(慶長十八年) イギリス東インド会社の クローブ号が交易を求めて日本に来航 一行に付き添い、 家康らとの謁見を実現させ 貿易を許可する 朱印状を取りつけるなどの手助けをした 1614年(慶長十九年) クローブ号帰還の際 一緒に帰国できる許可が 日英両方から出たが、 同船司令官の ジョン・セーリス と馬(ウマ)が合わず、帰国を見送った セーリス は何事も 日本式を強要するアダムズが気に入らず アダムズは セーリスを 生意気で無礼な青二才として嫌った 後 オランダ商館から 母国イギリス商館の仕事を手伝った 1616年(元和二年)4月 家康が死去 徳川秀忠 と 幕臣たちの方針で 貿易を平戸のみに制限 按針の立場は不遇となり 以降の按針の役目は 天文官のみとなり 幕臣や次期将軍候補の 徳川家光らに警戒され 1620年5月16日(元和六年四月二十四日) 平戸で死去 享年五十五歳 平戸の イギリス商館付近にあった外国人墓地に葬られた ・・・「針供養」とはナニか?・・・「按針」に訊いてみたい! ↓↑ 12月と2月のどちらを 事始め、事納めにするかは 地方によって違う・・・ ↓↑ 事八日 (ことようか) の一環 針供養(はりくよう) 折れ、曲がり、錆びなどによって 使えなくなった縫い針を供養し 近くの神社に納める行事 主に 淡島神社(粟島神社・和歌山市) 淡島神を祀る堂(浅草寺の淡島堂・粟島堂) 走水神社(神奈川・横須賀毎年3月の第2土曜日) がある寺院で行われる 「針供養」・・・針=一つ目、一つ足 12月8日 2月8日・・・ハリセンボン=針千本 (河豚・鰒・鯸)が 海が荒れて 浜に打ち上げられるコトが多い? に行う地域がある 東日本では2月8日 西日本では12月8日 に行われる事が多い・・・ 東北地方の一部で 姑に 針山の針を盗んだと、 無実の罪を着せられて 海に身を投げて死んだ 嫁を供養するために 針供養を始めた・・・とか・・・ ↓↑ 「弟-橘媛命 (おと-たちば-な-ひめ-の-みこと) オト-タチバナヒメ」のハナシだろう・・・ 「橘=陰暦(旧暦)五月(皐月)の別名」 ↓↑ 「枸橘 (からたち)」 「橘=カラタチバナ(ヤブコウジ科の常緑低木 暖地に自生・葉は長くて先がとがり、厚い 夏、白色の小花を開き実は球形で熟すと赤い)」 「ミカン科の常緑小高木 枝に棘(とげ)をもち、葉は小さい 六月ごろ、白い五弁花を開く 実は小さく 黄熟しても酸味が強く苦みもあり 食用にはしない 日本たちばな・倭(やまと)たちばな」 ↓↑ 「橘=木+矞(矛)=大地を覆う木の象形 台座にたてた矛の象形 突き刺す・おどかす 「人を脅かすような 棘(とげ)のある、たちばな」 矞=あなをあける・穿つ・イツ・キツ・ケツ 矞=矛+冏 冏=あきらか・まど・ケイ・キョウ・ソウ 明りとりの窓(穴) 冏=冂+㕣=冂+八+口 ↓↑ 垂仁天皇の時代 田道間守(多遅摩毛理・多遅麻毛理) 天日槍の後裔で 三宅連(三宅氏)祖の 常世国の非時香菓は 橘(たちばな)=蜜柑=みかん=オレンジ=嗚連示 ーー↓↑ーー Orange=オレンジ=蜜柑(ミカン)の木の ↓↑ 棘(トゲ・thorn) 針(ハリ・縫い針=needle=ニードル 似意努留 爾意土留 耳意止留 注射針=hypodermic needle 磁石針=the needle of a compass 留め針=pin 釣り針=hook 計器針=pointer 魚の釣針=prickle 虫の針=sting 縫合針=stitch 時計の針=hand レコード針=needle・stylus ↓↑ オレンジ公ウィリアム・・・「阿蘭陀・和蘭」公ウィリアム オラニエ公ウィレム(ヴィレム) オラニエ=ナッサウ家 ↓↑ の英語名に基づく呼び方 ↓↑ 歴史上の該当人物 ウィレム1世 (オラニエ公)(1533年~1584年)=沈黙公 ↓↑ 関ヶ原の戦い(1600年10月21日) ↓↑ ウィレム2世 (オラニエ公)(1626年~1650年) Willem II van Oranje-Nassau ↓↑(1626年5月27日~1650年11月6日) ↓↑ 11月6日→十一(拾壱)・六(陸) 1600年4月29日(慶長五年三月十六日) リーフデ号 豊後(ぶんご)・・・・文語 臼杵の・・・臼杵(うすき・キュウゴ→九語・救護) 臼(うす・碓)と杵(きね・槌=つち) 黒島に漂着 1620年5月16日(元和六年四月二十四日) 平戸で死去・享年五十五歳 ↓↑ ウィレム3世 ウィリアム3世 (イングランド王)(1650年~1702年) ウィレム4世 (オラニエ公)(1711年~1751年) ウィレム5世 (オラニエ公)(1748年~1806年) ウィレム6世 ウィレム1世 (オランダ王)(1772年~1843年) ーー↓↑ーー 橘=古代の名族 708年(和銅一) 美努(みぬ)王の妻・・・・・美濃・尾濃 県-犬養(あがた-いぬかい-の) 三千代(みちよ・サンゼンダイ) が賜った 橘宿禰の姓を 子の 葛城王(諸兄)らが・・・かつらぎ王 臣籍に下って受け継いだ 諸兄らは 以後の 朝政に重きをなしたが 承和の変 842年(承和九年)に 伴健岑 橘逸勢 が謀反を企て流罪 恒貞親王が廃された 廃太子を伴う政変 で 「逸勢」が失脚し衰退 ↓↑ 漢の 蘇仙公が・・・蘇(よみがえる・ソ) 仙(僊・やまびと・セン) =イ+山(䙴=西一人巳) 䙴=高きに昇る・移るという意 公(おおやけ・コウ)=八+ム 死に臨んで母に遺言し 疫病流行のさい 庭の井戸水 と 軒端の 橘の葉を用いれば治ると告げ 治ったので 医者のことを 「橘井」と云う 昔、巴の人が橘の実を割ってみると 中で碁を楽しんでいる 二人の老人がいたとの伝説から、 碁を打つ楽しみを 「橘中の楽しみ」という・・・ ↓↑ 徳川家康が ウィリアム・アダムスを 外交顧問とした理由 自領の 関東 浦賀-湊(みなと・見名訳・港)に スペイン人鉱夫を招聘し スペイン領メキシコで行われている 金銀製錬法 アマルガム法を導入するためで その交渉に アダムスをあたらせた・・・ オランダとの通商が成立したのは アダムスの日本来航から 9年後の 慶長十四年(1609年)七月 母国イギリスとは 慶長十八年(1613年)八月 家康からの働きかけではなく、 両国の東インド会社の使節が派遣され アダムスの斡旋により成立 家康が浦賀湊の入港を指定したのは スペイン商船のみ 三浦郡浦賀邸 と 逸見村の 采地(領地・知行所)を与えた 浦賀湊にスペイン商船が入港する都度 西国から商人が浦賀に急行し 浦賀は国際貿易港として 賑わい、世界にその名を轟かせた・・・ ウィリアム・アダムスの マニラ(スペイン領)交渉により 浦賀フランシスコ修道院が建立 江戸の修道院とともに 関東における キリスト教伝播の起点となった ウィリアム・アダムスが 外交顧問として その本領を発揮したのは このマニラ渡海・・・ ーー↓↑ーー ・・・「須佐之男(スサノオ) 素戔 男尊 素戔 嗚尊 建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと たてはやすさのおのみこと) 須佐乃袁尊 神須佐能袁命 須佐能乎命」 は「啼(な)」いたのだ・・・「母の國へ行きたい」と・・・ 母とは「根国(ネのクニ)の伊邪那美(いざなみ)」である・・・ 長姉は「天照大神」、 次姉は「月読命(性別不明?)」、 第三子は「蛭子(死産?)」・・・ 第四子(末っ子)が「須佐之男」・・・ ーーーーー ↓↑ 泣いて(名意出) どう(同・如何)なるのか 神戸(甲部・頭・首・頭蓋骨) 船(附音)の 灯(あかり・灯火=ともしび・ヒ) うつす(比-写す) ↓↑ 夢(ム・牟・戊・武)の続き 見せてくれる 相手 捜すのよ(佐賀素予・相模州之輿) ↓↑ 神=ネ(示)+申→二+亅+八+申(猿・猨・猴・沙流・猱) 戸=一(壱・壹)+尸(屍) ↓↑ 呼んで(読務出) 帰る人か(替えるヒトか・変えるジンか) 神戸(甲部・頭・首・頭蓋骨) 無理に(武利似) 足(あし・脚・蘆・葦・趺)を運び ↓↑ 誰か(垂掛) うまい(旨い) 嘘(鷽・𪀯・宇曽・詐欺・詐偽→鷺)のつける 相手 捜すのよ(佐賀素予・相模州之輿) ーー↓↑ーー ・・・ウソのつけるアイテ(蛙意弖・丫意氐)、ソウシュ(双手・想種)・・・捜(さが=探・佐賀・嵯峨・性)す・・・ ・・・サガミにカミに(自ずから佐の下の六字は音を以って) 「佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音)古事記」 「佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之(古事記)」 ーー↓↑ーー 古事記では 「須佐之男」は 「伊邪那岐命(いざなぎ)」が 黄泉(よみ・コウセン)の国から帰還し 日向(ひうが)の 「橘(たちばな・キツ・イツ)」の 「小戸の 阿波岐原」・・・江田神社の宮崎市阿波岐原町? で禊(みそぎ)を行った際に 父親(伊邪那岐)が 「鼻(はな)」を濯いだ時に産まれた・・・ 「はな=花・華・塙・洟」 ・・・葉名(ハナ)は植物図鑑の「花(はな)」? 日本書紀では 「伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ) と 伊弉冉尊(伊邪那美命・いざなみ)」 の間に産まれ 「天照(左目)・月読(右目)・蛯児」の次に産まれた ↓↑ 統治領域 天照大神は天(高天原)=伊弉諾尊が 左の手にした白銅鏡から 大日孁尊(天照大神)を生んだ ↓↑ 月読尊は天、 「滄海原(あおのうなばら)の 潮の八百重=潮汐の流れ・・・海運」 「滄=ソウ・サウ=水の色が青々として広がるさま 滄-県(ソウ-ケン) 中華人民共和国 河北省 滄州市に位置する県 前漢 勃海郡郡治として設置された 浮陽県の前身 後漢で当初、 浮陽侯国とされたが、 浮陽県と改称 南北朝時代の北魏 487年(太和十一年)に 浮陽郡の郡治 598年(開皇十八年) 隋王朝は 清池県と改称 唐代に 滄州の州治 明王朝の 洪武初年に 清池県は廃止 管轄区域は滄州直轄とされ 中華民国 1913年(民国二年)の 州制廃止に伴い 滄県と改称」 「夜の食国」 ↓↑↓↑ 「月読尊=月弓尊・月夜見尊」 =伊弉諾尊が 右の手にした白銅鏡から 月弓尊(月読命)を生んだ 「白銅鏡=ハクドウキョウ=葉句道鏡」 から生まれた? 銅鏡を卑弥呼に与えたのは 「魏の明帝」である・・・? 239年(景初三年) or 238年(景初二年)? 卑弥呼に「親魏倭王」の称号、金印 銅鏡100枚を授けた 景初三年(239年)一月一日 明帝は病死・・・ ・・・なぜ、ココで「月読み」が問題となるのカナ?は・・・ ↓↑ 明帝の死亡日の記録が「旧暦238年1月1日の丁亥日」 ↓↑ 西暦239年1月22日(火)=旧暦238年12月1日の丁亥日 ↓↑ 西暦239年2月21日(木)=現在の旧暦239年1月1日の丁巳日? ↓↑ ボクの造ったコンピュータでは 「旧暦238年12月1日の丁亥日」の 西暦換算は ↓↑ 「景初三年正月初一丁亥日(239年1月22日)赤口・火曜日」 239年 戊午(丙・ ・丁)→弐百参拾九 01月 乙丑(癸・辛・己)→壱・壹 22日 丁亥(戊・甲・壬)→弐拾弐・貮拾貮・念貮 ↓↑ ・・・問題にしたかったのは「古事記・日本書紀」の編纂者も同じだったのカモ・・・暦(こよみ)の数字が合わない・・・しかし「干支歴の日」は「60干支のサイクル」で、お変わりなし・・・ ↓↑ ツクヨミは「日本書紀・第五段第十一の一書」で 穀物の起源として 「保食神」は饗応として口から飯を出したので 「月夜見」尊が「けがらわしい」と怒り 保食神を剣で刺し殺した・・・ ↓↑ 大宜都比売=大気都比売=大宜津比売=大気津比売 は「阿波国=大宜都比売神」 「古事記」では 素戔嗚に汚物を喰わされたと云って殺された 月読尊=大宜都比売・・・??? 素戔嗚尊は「夜の食国(よるのおすくに)」 「海原」の支配が縄張り領域 素戔嗚尊は記述が 月読尊 蛯児(蛭子)・・・「蛯=虫(中ム)+老(十一ノヒ)」 おいる 「蛭=虫(中ム)+至(一ム十一)」 いたる と重なる部分がある・・・「中とム(よこしま)」は重なる・・・ 古事記では 「建速-須佐之男命」は、その支配領域権を断り 母の 「伊邪那美 の 根之堅洲国」・・・根(ね)之堅(かた)洲の国 ↓↑ Cathay=契丹・キャセイの語源 10世紀 中国東北部(満州)の モンゴル高原東部で活動した 契丹人 遼=遼王朝=内モンゴルを中心に 中国の北辺を支配した 契丹人(キタイ人) 耶律氏(ヤリュート氏) の征服王朝 916年~1125年 まで続いた 東胡の後身 ↓↑ 後晋から 「燕雲十六州」=朔州・寰州・応州・雲州・蔚州 新州・武州・儒州・媯州・檀州 順州・幽州・薊州・涿州・瀛州 莫州の計16州 ↓↑ 「燕=燕京(幽州)」・・・北京 を割譲され 開封を占領し 947年 国号を 「遼」とし 1125年 金王朝と宋王朝 に挟撃され滅亡 キタイの複数形が キタン 中国語表記は 契丹 モンゴル系の遊牧民 モンゴル高原東部で ↓↑ 遊牧民 に行きたいと願い、 伊邪那岐の怒りで追放され 「啼(な)いた」・・・喚(わめ)いた・・・ ↓↑ 出雲の 鳥髪山(船通山) へ降った 建速-須佐之男命 八岐大蛇(八俣遠呂智)の 生贄にされそうになっていた 櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ) ・・・櫛=歯(棘)が並ぶ髪挿し→「ノ一」=(牛)-(十) 「ノ一」=(午)-(十) と出会い 建速-須佐之男命は、・・・・検束、素佐之於見語訳 櫛名田-比売の姿形を・・・・駆使名拿、比馬(秘め) 「歯(は→針)の多い櫛(くし)」 に変え 髪に挿し、 八俣遠呂智を退治・・・・俣は国字・・・水俣 八俣遠呂智の・・・・・・八イ口二人遠の呂の智 尾から出てきた 草那芸之大刀(くさなぎのたち、紀・草薙剣) を 天照御大神に献上 三種の神器の一つ (愛知県名古屋市の熱田神宮=猿田比古を祀る神社の御神体) 櫛から戻った 櫛名田比売 を妻とし 出雲の 根之堅洲国・・・・契丹人(中国人・遼)移民居住地 にある 須賀(すが)の地(島根県-安来市)・・・安木 で居住・・・ ーー↓↑ーー 「厩・廏・廐」 厩=まや・うまや・キュウ 厂+既 厂+旣 異体字=廏・廐・廄 繁体字=廄・廏・廐 「廏=康煕字典・大漢和辞典の親字 字形は唐代の楷書 から 「殳」が「旡」に変更 「殳=ほこづくり・るまた」 「殳=刃のない棒状の戈(『詩経』毛伝) 棒をもって人を殴り殺すこと(『説文解字』)」 「殳→部首漢字・・・投・骰・役・疫・設・股」 「殳=手で物を持っている形・手で行う動作」 「殳=るまた・ほこ・シュ・ズ 「殳=木や竹の先に装着する 筒状の金属製の武器{刀剣槍} 近寄る敵を突いたり叩いたりする武器」 ↓↑ 「广+旣(既)」←廏 「厂+既(既)」←廏 「广(まだれ)=崖の上の建物」 「厂(がんだれ)=崖 广=家屋の屋根」の象形 「良皀蔞=白+ヒ 艮皀蔞=日+衣=艮(コン)→東北 衣=亠+工+ノ+乀 =亠+イ+一+ノ+乀 =エ+戈 皀→昆(虫) 皍(つける・すなわち・もし・ソク) 即・卽・皍(異体字) 即=卽=卽=皍 「即=皀+卩(卪)」 「皀=食物(食→𠆢の下部) 「卩」はこれに向き合う様 物を食べようとする様子 「旣(既)=食べ終わって 食物から顔を背ける様」 是(正?→「一+ト+人」 昰=これ・シ・ジ・カ・ゲ・ゼ 昰=日+正=是=晸=夏(なつ・カ) 良=白+ヒ 艮=日+ヒ=「旨」の上下の逆字 白+丄+卜==食器に盛った食べ物の象形 「廏=厩」 「殳=手(又)に木(几=机)の杖を持つ」象形 馬小屋で馬を世話するさま 「馬小屋」=「厩」・・・? 「厩」は「廏=廐」の変形 「廏=廐」は 「厩」の旧字・・・? ・・・厂(がけ・カン・ガン→丸・磐・岩・巖・願・眼 がんだれ=雁垂れは既成?→臥懸のイ(人)は隹 厂(ガン・ゲン)は借りた既成のモノ ガン誰(だれ)は既(すでに)に既得? 推古天皇←古きを推理する 典弘(テンコウ) ・・・「テンコウ=転向・転校・天工・天候・・・」 「典弘(のりひろ・テンコウ)・・・弘法大師の経典?・・・ ーーーーー ・・・弘法大師、空海・・・「真魚」・・・ 「佐伯=さえき=差益・三枝木」・・・
・・・「脳ミソ」の記憶量が貧困だし、範囲を広げる目新しいコトも無いから、書き込むコトは同じようなコトの再確認の事象ばかり。しかも、ホトンドが「他人の記録」したモノを添付して、その添付した文字に更に「?」のイチャモンをつける・・・「出典を明らかにしろッ」って云われてもネッ・・・ホトンドが、お目当ての「文字」を即、インターネットで検索すれば、発見出来る・・・出てきたモノは、「オリジナル」なものではない?・・・文字に関しては、特許権があろうハズがない、と思うが、漢字文字、平仮名、片仮名、アルファベットとして「記録された文字、原文」が存在するから当然のコトであるが?・・・デザイン化された「文字」には特許があるらしい・・・イヤァ~ッ、政治屋と役人の茶番劇、彼らの生き方は「文化→文の化」であって、「文明→文の明」ではないらしい・・・「文部省の役人」、「舎人」、「秘書」は昔から「苦労」してきたんだろうな・・・ 「秘書=組織、上司の記録の書類における仕事、職務、職業。 またそれを行う人・共通項は、重要書類を扱う仕事・その他にも上司の身の回りの世話、メールや電話の応対、来客の接遇、スケジュール管理、書類・原稿作成など、総務のすべてを請け負う専門職」・・・ 「秘書」の漢字からすれば「秘密」、「書類」を扱う職種、職人である・・・なんで、「秘密」が必要なんだか、「アベちゃん内閣」、「監房長官のカン」・・・モチつくりには特別な秘密があるらしい?・・・ ーーーーー 「安倍川餅」・・・アベ姓の文字も色々あってねッ・・・ 元々は「布施(ふせ)」だって? 「和菓子・・・・・我餓死(河岸・賀詞)? の一種で 静岡市の名物 本来は つき(搗き)立ての餅に・・・搗=手+島・・・島大臣 黄な粉を塗(まぶ)し、・・・薄緑色に視えるけれど 塗し=まぶし=塗料は漆(七) その上から 白砂糖をかけた物。 現在では、 黄な粉を塗(まぶ)したモノと 濾(こし)餡を 絡めたもの・・・・こし=超し・越し・濾し・漉し・濃し 腰・枯死・古址・輿 虎視の案・・・虎視眈々 古史の行(アン)を絡めた? の二種類を 一皿に盛った物が一般的」 ・・・なるほど・・・意味深い・・・「コシアン」 「柔らかい餅に黄粉をまぶし 上から白砂糖を掛けた食べ物 徳川家康が 慶長年間 (1596~1615) に 笹山金山・・・井川湖の北東側の 笹山金山 今川時代の 享禄年間(1528~31)頃 この金山は 今川氏親の時代に 採金が高まった 梅ヶ島金山は 梅ヶ島村の 日影沢金山 関之沢金山 入島村の 湯ノ森金山 などの総称 井川村の 笹山金山を中心とする 井川金山も含めて 安倍金山・・・安倍の金(族)さん? と呼ばれる などの 御用金山に出向き 安倍川の 滸(ほとり・畔・邊・阿)・・・水滸伝・阿=おもねる で休んだおり 搗(つ)きたての餅を喰った」 ・・・「ウィリアム・アダムス=三浦按針」も喰ったのカナ、アベカワもち・・・「ミ(味)ウラ(有等)アン(編)ジン(壬・尋・訊・盡・陣)」・・・以下は前回、貼り付けたモノだけれど・・・ ↓↑ 徳川家康が ウィリアム・アダムスを 外交顧問とした理由 自領の 関東 浦賀-湊(みなと・見名訳・港)に スペイン人鉱夫を招聘し スペイン領メキシコで行われている 金銀製錬法 アマルガム・・・水銀と他の金属との合金の総称 ギリシャ語の「柔らかい塊り」 古墳時代以来、 奈良の大仏=毘盧遮那仏 Vairocana=ヴァイローチャナ =光明遍照 毘盧舎那仏=盧遮那仏 にも使われた 金鍍金(メッキ)の方法 「消鍍金(けしめっき)」法 アマ(海人・海部・海女・天・雨・飴・甘) ル(留・瑠・婁・盧・流・弄) ガム(臥務・雅武・我務)→噛む・咬む (amalgam)法 を導入するためで その交渉に アダムスをあたらせた・・・ ↓↑ 金山奉行は 大久保長安 (江戸幕府勘定奉行、老中) 天文十四年(1545年) ~ 慶長十八年四月二十五日(1613年6月13日) 別名 藤十郎、十兵衛 天下の総代官(渾名) ↓↑ 大久保長安は 猿楽師・・・・・猿の楽しい師 金春 (こんぱる) ・・・金貼→コンパク=魂魄 金春=キンハル=今春・恨張 七郎 喜然 の子 猿楽師の 大蔵太夫 十郎 信安 の次男 ↓↑ 武田信玄に家臣として 認められ 譜代家老 土屋昌続の与力に任じられ・・・土屋は「新井白石」の主筋? 姓を 大蔵・・・三蔵=Tripiṭaka=トリピタカ・仏典の総称 三蔵(経律論) 律蔵・経蔵・論蔵 衆経、三蔵を 北魏で「一切経」と呼び、 南朝の梁で「大蔵経」と呼んだ・・・ 隋、唐初に及んで両者の名称が確立し 写経の書式も 一行十七字前後と定着 大中小の蔵 から 土屋 に改めた ↓↑ 甲斐(かい)の・・・甲斐=かい=蝦夷・蟹・魁・掛意・解 歌意・回・会・改・繪 武田家家臣団の一 武田勝頼から疎まれ 天正三年五月二十一日(1575年6月29日) 長篠の戦い では生き残り 天正十年(1582年) 織田信長・徳川家康連合軍の 甲州征伐 天目山の戦い(1582年3月11日)で 武田氏は滅亡するが 大久保長安は 既に(?) 徳川家康に仕官して・・・ 大久保-忠隣の与力となり、 名も 大久保と変えた 天正十年六月二日(1582年6月21日) 本能寺の変 信長が死去し 甲斐が家康の領地となり 大久保長安が 旧武田領の復興整備をした ↓↑ 大久保長安事件(おおくぼながやすじけん) 慶長十八年四月二十五日(1613年6月13日) 江戸幕府の粛清事件・・・ 武蔵国の治安維持と国境警備で 八王子五百人同心の創設 旧武田家臣団を中心とした 八王子五百人同心が誕生 慶長四年(1599年) 八王子千人同心となった 慶長五年九月十五日(1600年10月21日) 関ヶ原の戦い 長安は忠次と共に 徳川秀忠率いる徳川軍の 輜重役・・・輜重兵(シチョウヘイ)は兵站の後方支援兵 戦後 豊臣氏の支配下にあった 佐渡金山 生野銀山 などが全て徳川氏の直轄領になり 長安は 同年九月 大和代官 十月 石見銀山検分役 十一月 佐渡金山接収役 慶長六年(1601年)春 甲斐奉行 八月 石見奉行 九月 美濃代官 全て兼任 慶長八年二月十二日(1603年3月24日) 家康が将軍に任命 長安も特別に 従五位下 石見守・・・石(岩・磐・いわ)を見守(みまも)る 違和・・・磐余=神武天皇 に叙任 家康の六男 松平忠輝(幼名は辰千代) の附家老に任じられた 七月 佐渡奉行 十二月 所務奉行(勘定奉行) 同時に 年寄(老中) 慶長十一年(1606年)二月 伊豆奉行 長安は家康から 全国の金銀山の統轄 関東における交通網の整備 一里塚の建設などの一切を任されていた 里程標、 一里=三十六町 一町=六十間 一間=六尺 という間尺を整えた 7人の息子を 石川康長、 池田輝政の娘と結婚させ 忠輝 と 伊達政宗 の長女 五郎八(いろは)姫・・・切支丹 の結婚交渉を取り持ち 松平忠輝・・・家康没後の元和二年(1616年)七月六日 ↓↑ 兄の秀忠は忠輝に改易を命じた 天和三年(1683年)七月三日 幽閉先の諏訪高島城(南の丸)にて死去 ↓↑ 92歳 の岳父となった 政宗とも親密な関係を築いた 長安の所領は 八王子8,000石(実際は9万石) 家康直轄領の150万石の実質的な支配 慶長十七年(1612年)七月二十七日 中風にかかり 家康から 鳥犀円(ウサイエン 牛黄、高麗人参、当帰、川芎 その他、 8種の生薬に蜂蜜を加えた漢方保健剤) を与えられた ↓↑ 佐賀藩・・・・「佐賀-美邇-迦美而」である・・・ 佐賀の乱である・・・相模に掛視し・・・ (サガのラン) 1874年(明治七年)二月 江藤新平(幼名は恒太郎・又蔵) ↓↑ 「人智は空腹よりいずる」が口癖 「戊辰戦争・東征大総督府軍監 西郷隆盛と勝海舟の会談で 江戸開城が決定するや 江藤は城内の スベテの 文書類を接収」 フランスの国法を讃え 「仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も其の法は美」 ↓↑ 「哲人不惑敗成痕 哲人は敗成の痕に惑わず」 島義勇 等の反政府闘争 江藤新平がスベテの文書類を接収したはなにか?・・・ ーー↓↑ーー ↓↑ーー 「佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音)古事記」 「佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之(古事記)」 ーー↓↑ーー ↓↑ーー の 烏犀圓=中国、宋代の薬方書 「恵民和剤局方」に記載 不老長寿、若返りの妙薬 処方は 佐賀藩において代々、 藩の施薬局にて秘薬として調製 寛政八年(1796年) 八代藩主 鍋島治茂公から 薬種商の野中家へ下賜された伝統薬 天明四年 大飢饉 佐賀藩主 鍋島治茂は 5人の他藩者に薬を作らせたが その中の一人が隠密と疑われ 他国者の製薬、売薬を禁じた 佐賀藩医 上村春庵、久保三圭、西岡俊益 等の願いにより、 藩主は藩民のため 寛政八年(1796) 一手製造、販売の特権を 佐賀市材木町の野中忠兵衛に与えた ↓↑ 大久保長安は 晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下 慶長十八年(1613年)四月二十五日 中風のために死去 享年69・・・六拾九・陸足玖 ↓↑ 長安の死後 生前に長安が金山の統轄権を 隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、 長安の7人の男児は全員処刑 縁戚関係にあった諸大名も 連座処分で改易などの憂き目にあった (大久保長安事件) ↓↑ 長安は、 家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、 政宗の幕府転覆計画に賛同していた・・・? ーー↓↑ーー↓↑ーー ・・・安倍川餅・・・モチに又もや、もどる・・・ ↓↑ 「焼いた餅を湯に浸して柔らかくし、 砂糖入りの きな粉をマブしたもの 安倍川餅 静岡市西部にある安倍川の茶屋の名物 ツキたての餅を小さく千切(ちぎ)って、 黄粉(きなこ)で包んだもの」 「あべかわ(安倍川) 静岡市を南流する川 山梨県との境にある 安倍峠に源を発し、 駿河湾に注ぐ 長さ51キロ」 「安倍川餅 焼いた餅を湯に浸し、 砂糖 をまぜた・・・佐藤を混ぜた一族?・・・岸・阿倍 岸は満州国総務庁次長、商工大臣(第24代) 元、金、清、満州一族 愛新覚羅-氏 (アイシンギョロ・あいしんかくら) 満洲(中国東北部) 建州の女真(女直・満洲)族 ・・・記録原文はフザケて掛けているのかも・・・ 黄粉(きなこ)を マブしたもの」 「静岡市の名物 柔らかい餅に黄粉をまぶし 上から白砂糖を掛けた食べ物 徳川家康が 慶長年間 (1596~1615) に 笹山金山などの 御用金山に出向き 安倍川のほとりで休んだおり ツキたての餅に 豆粉(まめこ・トウフン)を・・・Pules 、bean flour 豆→壹=士冖豆 粉=米+分 マブしたものを出された この豆粉を 金山からとれる・・・・・・・・・遠山金さん? 金の粉にひっかけて 金な粉 と称したのを大いに気に入り 家康が 安倍川餅 と命名した 以来 安倍川のほとりの 弥勒(ミロク)には・・・・・ミロク→味賂句 安倍川餅の 店が並ぶようになった」・・・・店=广+占(ト口) ・・・ナルホド、「金な粉=金粉」・・・デアルかな・・・ 「静岡市 西部 安倍川 河畔の茶店の名物として知られた餅 つきたての餅をちぎって 砂糖入りの 黄粉を塗(まぶ)したもので 慶安年間(1648‐52)にはじまる・・・ 東海道を 度々(たびたび) 往来したことのある 八代将軍 徳川吉宗 はよく知っており 当時の 御賄頭 (おまかないがしら) の 古郡孫太夫・・・・・古い郡の孫の太夫・・・ が駿河から もち米を取りよせて調進したところ 大いに嘉賞されたと 江戸南町奉行でもあった 根岸鎮衛(やすもり・1737~1815) はその 著《耳囊(みみぶくろ)》に書いている」 ・・・なるほど・・・「根岸鎮衛」の「耳囊」・・・ 「静岡市の名物、 きな粉餅 静岡市 葵(あおい)区 弥勒(みろく) の旧東海道(県道208号)が 安倍川にさしかかる所に 数軒の餅屋がある なかでも 石部屋(せきべや)・・・・・石の部の屋・・・ は 慶長年間(1596~1615)の創業で、 15代の暖簾(のれん)を誇る 安倍川餅の由来は、 東海道往還の旅人が、 安倍川の渡しで、 川越 人足 を待つ間に、 茶店で一服の際に供されたのに始まる 焼き餅を湯にくぐらせたうえ 黒蜜(くろみつ)に浸し、 きな粉をまぶして食べさせたのが評判をとり、 全国に伝えられた。 作り方が簡単なので 一般家庭に普及し、 いつしか、きな粉餅そのものを アベカワ と称するようになった。 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の 『東海道中膝栗毛(ひざくりげ・1809)』にも、 (ほなく 弥勒といへるにいたる。 ここは名におふ 安倍川餅の名物にて、 西側の茶屋、 いづれも きれいに はなやかなり) と繁盛ぶりが描写されているが、 現在の安倍川餅は、 餡(あん)餅や、 静岡名産の 山葵(わさび)を・・・山(やま・サン) 葵(あおい・ギ・キ) キカせた・・・・・・・キカ 醤油(しょうゆ)と 大根おろしの からみ餅も好評である」 ーー↓↑ーー ・・・以上はスベテは「コトバンク」や、「ウイッキペデア」、他人の「ブログ記事」からの抜粋添付・・・「アベカワ」をコンピュータで検索すれば、即、「原文」を眼にするであろうから・・・アシカラズ・・・ ・・・「・・・」内の「?」、イチャモン文だけはボクがカキコンダもの・・・
・・・昨夜は台風並みの暴風・・・今朝は晴れ・・・農協に買いモノに行ったが、ロスや名古屋並みのスーパーの混雑で、今まで見たことがない買い物客の数がスゴイ、カートが入口に無い・・・ポイントが5倍貰える日らしい・・・なるほど、家計に加計・・・昼のニュースも、なんか、ワラエチャウ・・・アメリカもジャポンも「嗤(わら)え」ない政治的状況だけれども・・・「トランプ&コミー」は「密談」で「見詰め合った」って?「睨み合ったん?」だろう・・・イギリスの選挙・・・「アベ-カン、カン-フジイ」は「見詰め合った」んだろうナッ・・・ ーーーーー 2017年6月8日 ロシアゲートに関し、 コミー前米連邦捜査局(FBI)長官は 米上院情報特別委員会の公聴会で証言 ↓↑ James Brien Comey,Jr. 1960年12月14日(56歳) ニューヨーク州ヨンカーズ James Brien Comey, Jr. 1960年 庚 子(壬・ ・癸) 12月 戊 子(壬・ ・癸) 食神-(正官) 14日 丙 子(壬・ ・癸)申酉=空亡 (56歳) ニューヨーク州 ヨンカーズで誕生 ・・・ナニコレッ!「三子」で、「申酉=空亡」・・・??? ↓↑ コミー前長官「捜査打ち切り指示と感じた」 (By Byron Tau) 2017 年 6 月 9 日 07:56 JST 更新 【ワシントン】米連邦捜査局(FBI)長官を解任されたジェームズ・コミー氏は8日、上院情報委員会の公聴会で証言し、ドナルド・トランプ大統領にマイク・フリン前大統領補佐官(国家安全保障担当)に対する捜査の打ち切りを求められたとされる疑惑について、それを「指示された」と受け止めたと述べた。 2016年のアメリカ大統領選にロシアが介入した疑惑をめぐり、連邦捜査局(FBI)元長官 のジェームズ・コミー氏が6月8日午前(日本時間8日夜)、上院・情報特別委員会の公聴 会に出席し、証言・・・ ↓↑ アメリカのトランプ陣営とロシアの関係を捜査していたFBI=連邦捜査局のコミー前長官 が議会の公聴会に出席し、トランプ大統領からロシアとの関係をめぐって辞任した元 側近について「この件は放っておいてほしい」と言われ、捜査中止・・・ ↓↑ 「ウソだ」トランプ氏を非難 前FBI長官議会証言 2017/6/9 0:01 (2017/6/9 1:10更新) ↓↑ 【ワシントン=川合智之】 トランプ米大統領周辺とロシアとの不透明な関係を巡る疑惑「ロシアゲート」に関し、コミー前米連邦捜査局(FBI)長官は8日午前(日本時間同日深夜)、米上院情報特別委員会の公聴会で証言した。トランプ氏から5月9日に突如解任されたことに触れ「(指導力不足などの解任理由は)ウソだ」と断言。 「政権は私とFBIを中傷することを選んだ」 と激しく非難した。 トランプ氏はコミー氏解任について 「いい仕事をしなかったからだ」 などと説明したが、コミー氏は公聴会で 「説明の変遷は私を混乱させた」 と指摘した。 コミー氏は2月にトランプ氏からフリン前米大統領補佐官(国家安全保障担当)の捜査中止を求められたとしている。 この要請について、 コミー氏は命令ではなかったものの 「指示だと受けとめた」 と述べた。 その上で中止の要請が大統領の弾劾につながりかねない 「司法妨害」にあたるかどうかについて 「妨害の試みだったかどうかは私が述べるべきでない」 と言及を避けた。モラー特別検察官の捜査に委ねる考えを示した。 ↓↑ コミー氏は大統領との会話内容の詳細なメモを残していた理由について「トランプ氏がウソをつくかもしれないと懸念していた」と強調。オバマ前大統領やブッシュ(子)元大統領と会話した際はメモをとる必要性を感じなかったという。 ↓↑ トランプ氏が1月の夕食の場でコミー氏に忠誠を求めた際は「当惑した」と説明。同氏に長官職にとどまりたいかとも尋ねた点については「留任の見返りを求めているように感じた」と述べた。 トランプ氏が5月にツイッターで「我々の会話を録音したテープが存在しないよう願ったほうがいい」とけん制した。コミー氏は「テープが存在することを願う」と自らの主張に自信を示した。 ーー↓↑ーー 見詰め合って=to stare at each other; to lock eyes with Their eyes locked together じっと目線を合わせる=steady eye contact 互いを見つめ合うことではなく Love does not consist in gazing at each other, but in looking outward together in the same direction. 愛とは、互いを見つめ合うことではなく、 ともに同じ方向を見つめる こと It is only with the heart that one can see rightly; what is ... 「星の王子さま」 サン=テグジュペリの名言 名言+Quotes 愛は、お互いを見つめ合うことではなく、 ともに同じ方向を見つめることである Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction. ↓↑ 睨み合って=睨み合う 目と目で glare at each other 反目する=be at daggers drawn be at feud. 睨み合い=にらむこと glaring at each other デモ隊と警察とのにらみ合いは もう 2 時間も続いている The confrontation between the demonstrat... 睨み=にらむこと a glare a sharp look にらみあう=目と目で glare at each other. 反目する=be at daggers drawn be at feud. glaring at each other confrontation standoff face-off glaring at an act of keeping a close watch on both ... 睨み合い=a standoff a confrontation glaring at each other 睨み合い=glaring at each other confrontation standoff face-off glare at each other be hostile to each other (両軍が)confront each other ↓↑ ↓↑ 命令=order ↓↑ ↓↑ 指示=direct ダイレクト・デレクト direct=案内する・命令する 映画を監督する オーケストラを指揮する direct=他動詞、 …を助言・手引き・指示などで導く 指導する 会社・仕事・職人などを 管理する,監督する,取り締まる,運営する direct (the) traffic 交通整理をする direct the conversation with dexterity 手際よく話を進める ダイレクト=direct=形動 介在するものがなく 直接であるさま direct「方向」を含む英単語 misdirect「誤った方向を教える 誤った指示をする 誤った知識を与える」 omnidirectional「全方向の」 ↓↑ ↓↑ 期待=hope・・・希望する・望む ーー↓↑ーー ・・・昨日は「あべかわ」の「モチ」だったけれど・・・ 「徳川家康」の「モチ」の「ベェショム=部重書務・邊重庶務(処務)」を引き受けていたのは「大久保長安」だったが・・・ ↓↑ ↓↑ 「motivation=モチベーション」 「動機付け」、「刺激」、「熱意」や「やる気」 「motivation=動機付け・やる気を起こさせる内的な心の動き」 「モチベーション(motivation)=意欲の源の動機」 「モチベーション=人が行動を起こすときの原因、動機」 「組織の中では仕事への意欲を指し 意欲を持つことや引きだすことは動機づけ」 「motivation=動機づけ」 「動機づけられている状態」も指す 「motivation=指示されたり 強制されたりしなくても 何かを、自分自身で・・・? ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ direct=(自動)案内する、命令する 映画を監督する オーケストラを指揮する (他動)~を管理する ~を運営する 人に~するよう指示(指図)する ~を…へ向かわせる(移動させる) 人を道案内する 人に~への道を教える 手紙などに宛先を書く コメントなどを人に言う(向ける) (名詞) 法律=direct examination (対)cross (形容詞) 進行方向などが「真っすぐな」 接触などが「直接の」 率直な、遠慮のない、単刀直入の 直々の、文字通りの 選挙が「直接制の」 「数学で関係が正の=direct proportion」 「天文学で運行が順行の」 惑星が太陽と同じく西から東へ動くこと 「関係などが全くの=direct opposition」 (副詞) 直接に、真っすぐに 発音=(動・形・副)=dərékt (形)=dáirekt(ダイレクト・ディレクト) 変化=(動)=directs・directing・directed di-rect ーーーーー ・・・哂ったカナ・・・
・・・「インデペンデンス-デイ」・・・寝ぼけて、混乱・・・深夜に「オーメン」があるらしい、が・・・ 13:00「こころの時代~宗教・人生・アンコール」 「人から人へ」(再放送)を観た・・・ 「近藤紘子氏」・・・ 「平和への願いを語り続けてきた」、 「生後8か月で広島にて被爆、 父は被爆者救済に尽力した牧師」 ・・・1月8日放送の再放送・・・ ↓↑ 近藤紘子氏 B29パイロットとの 出会いが変えた「復讐心」・・・ 父、 谷本清さんは 戦後の広島で 平和のために尽力した牧師として、 アメリカの作家 ジョン・ハーシー が書き、世界で ベストセラーになった 「ルポルタージュ・広島」 に登場する人物、 この本がきっかけで 広島の原爆について取り上げた アメリカのTV番組に出演した際、 「幸子(紘子?)さん」は、 広島に原子爆弾を落とした、 B29 エノラゲイ号 副操縦士のパイロットと対面 ↓↑ 爆心地から1.1km 10歳 「広島の25人のお姉さんたちが ニューヨークにある マウントサイナイ病院が 治療してくれることになり、 父は付き添ってアメリカに行った」 アメリカのTV番組 (This is Your Life)で 「これはあなたの人生だ」 という番組に出てもらう為に、 アメリカに来るようにとの話があり、 アメリカに出かける舞台に 知っている人が2人いた 父は神学校に学んだが、 アメリカでの同級生、 あと 白人の女性は・・・・・・パールバックにも会ったとか・・・ 日本で 宣教師をしていた人 もう一人いたが、 解らず聞いたが 躊躇したような感じだった あそこに立ってる人は キャプテン ロバート・ルイスといって 広島に原爆を落とした B29エノラゲイという飛行機に乗っていた 副操縦士だと教えてくれた ↓↑ 司会者が、 ロバート・ルイスに爆弾を落とした後に どう思いましたか、と聞いた 「天えんを出発して、 広島上空にいき、 8時15分に爆弾を落として、 そこを飛び去り、 しかし 落とした爆弾の威力を見てくるようにとの、 指示があり、 引き返して上空から広島を見た 広島が消えていた」 「神様、私たちはなんてことをしたんだと」 と飛行日記に記載した ↓↑ 彼の眼を睨みつけていたら、 彼の目から(涙が)溢れていたのを、 私はしっかりと見た はっと気がついた・・・ 7年間ずーっと憎み続けてきたが この人の涙を見たときに、 この人も苦しみ、悲しみがあると言う事が 心に伝わってきた 申し訳ないと言う涙に見えたので、 もうそれ以上その人を 敵としてということは、 人間としていけないと思ったのではないか その後 憎しみは薄れていったように思う・・・ 一番つらいこと 広島、長崎にはアメリカの政府の機関 ABCCという機関を作った 原爆が人体にどのように影響するかを、 研究する機関 私が対象になったのは、 子供からデータを取る事 全部脱いで、 木綿で出来た ガウン とふんどし見たいなもの それを付けるのが嫌だった 中学生になった時に、 検査室から検査室に回っていましたら、 どこどこに行ってくださいと言われたが、 そこは講堂だった いろんな言語が耳に入ってきた 舞台に上がるようにと言われて、 ガウンを脱ぐように言われて、 ふんどし見たいなちいさな 一枚しか付けていない 右、左と言われるままに、動かされて、 涙があふれてきて、 悔しくてしょうがなかった ↓↑ 何故、私はここまでしなくてはいけないのか、 中学生になれば、 子供の体から大人の体になってゆくところ、 悔し涙、屈辱感だった 同じ日本人ならば、 何故、助けてくれないのか、 と先ず思った 解った、 誰も助けてくれないのなら、 もういい、 もう私はこれで 広島とさようならをしよう もうたくさんだと思った 私が生きてゆく限り、 もう二度と広島にいたと言う事は ひとさまの前では言うまいと その時の出来事は 私には大きな大きな出来事だった 広島から離れたかったので 高校は東京に行った 大学はアメリカに留学する 奨学金が消えるので、 日本に帰らなければいけなくなり、 あのABCCの舞台のことを思い出す ↓↑ アメリカの留学先の大学の人と婚約する 一旦日本に帰るが、 彼から手紙が来る 彼の専門が、 放射能が人体にどう影響を与えるか という事で 「幸子(?)」は良くない、 まともな子供を産むことはできない人だから、 駄目だと家族会議で決まったそうだ 原爆乙女とは、 私はケロイドもないし、違うと思っていた 東京の外資系の会社に入って、 同社の人と結婚した 妊娠したが、 流産してしまったが、 或る日母と先生のところに言ったら、 母が実は 「幸子」ちゃんは小さい時から お医者さんに子供を授かる事は 無理だと言われていたんですよと言われて、 ショックだった ↓↑ 弟が結婚して、 弟のところに子供ができたと聞いたときに、 とめどもなく涙が出た 子供がこんなに欲しかったのかと改めて心底思った 人間て、涙はいいですね またそこを飛び越えられたような気がして、 また前に立って歩ける 父がずーっと理解できない人だった 小学校4年生のころ、 父の書いた本を書斎の本棚から取りだした 「ノーモア広島 広島の十字架を抱いて」 を読み始めた 或るページで、 父と母が広島の街で偶然に出会い、 父が高木さんはどうしたかと聞く 高木さんは あの日一緒に訪ねてゆく人だった 母が解りませんと言うと 父は凄い怒る、 この女は牧師の妻なのに、 教会員としての その人を見捨てて、 自分だけ逃げたことに対して 物凄い怒りを書いたページがある 自分の娘が助かっているのに、 私のことなんてどうでもよくて、 他人を大切にする この場面で本を閉じてしまった 後に、 教会で父の話を聞いて、 父はあの日 大切なものを リヤカーに乗せて田舎に持ってゆくが、 爆風で吹き飛ばされたが 体は大丈夫だったので、 街に入ってゆくと、 そこから聞こえてくるのは、 助けてくれ、助けてくれとの声、 家で挟まった人を引っ張りだすことはできない、 彼はやはり牧師で 人の役に立ちたいと思ったあの日、 私は、 彼曰く 自分の子供、 自分の妻、 自分の教会の人たち 自分の住んでいる町内の人たちのことしか考えなかった それは エゴ(えご)です、 物凄い悔いとなって残るわけ、 だからこそ 自分は広島のために役に立ちたいと思って生きてきた、 と言う事を聞いて、 それほどまでに私のことを想ってくれた 子供のころは、 自分のことを想っていてくれなかったと、 思っていたがそうではなかった、逆だった 父が歩んだ道を少しでも歩みたいと思っている 子供たちのこと、戦争、子供たちを犠牲にしたことは、 アメリカは謝らなければならないと、 父は言っているずーっと子供たちのことを心にあった、 だからまずは原爆乙女、 彼にとっては子供のような、助けたかった 与えられた命をどんなことがあっても、 奪ってはいけない ましてや戦争の犠牲に子供たちがなってはいけない 核廃絶はどんなことをしても無くしてほしい、 誰かが間違ってボタンを押したら あっちの国、こっちの国ではない ↓↑ 原点は 私は生き残っている 与えられた命を大事にしてほしい、 ひとの命も大切にしなければいけない 本当に、 ロバート・ルイス との出会いに感謝している この私 10歳の私を変えてくれた ずーっと アメリカ、 アメリカ人を憎んできたかもしれない 自分に非があれば、責められない 間違いがあってもいい、 その間違いを 踏み台にして歩めばいいと思っている 今の子供たちは捨てたものではない いろんな話を聞き、 きっと、きっと 私は信じている ↓↑ ↓↑ 71年前の8月6日は生後8カ月。 キノコ雲の記憶はない。 しかし、子供の頃に教会で遊んでくれた10〜20歳代の「お姉さん」たちは顔や手にひどいやけどを負っていた。父の本や大人の会話を通じ「あの爆弾のせいだ」と分かっていた。 「大人になったら、爆弾を落としたやつらを殴ってやる。 姉さんたちのかたきをとってやる」 と心に秘めていた。 ↓↑ 10歳の時、米国で父を紹介するテレビ番組の収録現場にいた。 1人の米国人男性が気になった。 「あの人、誰」。 母は一瞬ためらい、 「ロバート・ルイス。原子爆弾を落とした爆撃機『エノラ・ゲイ』の副操縦士よ」 と教えてくれた。目を見開き、にらみつけた。 しかし、ルイス氏の行動は予想外だった。 原爆投下後の飛行日誌に 「おお神よ、我々は何をしてしまったのか」 と記したことを明かし、目には涙があふれた。 ↓↑ 自分たちは被害者。原爆を落とした人は加害者で悪い人--。そんな思い込みは崩れた。「どうして私は会ったこともない人を憎んだのだろう。この人もずっと悩んでいた。悪いのは爆弾を落とした人じゃなくて戦争なんだ」。ルイス氏に近寄り大きな手を握ると、優しく握り返してくれた。自らの目で見て感じる大切さを知った。 ↓↑ 米国では被爆者が講演すると、退役軍人らを中心に「お前たちが先に戦争を仕掛けたんだろう」と反発も出る。それでもルイス氏との逸話は誰もが静かに聞いてくれる。「『憎い』という気持ちでは分かり合えない。戦争中を振り返れば日本だって謝らなきゃいけないことがたくさんある。謝罪は求めることじゃないと思うの」 ↓↑ 4月に広島であった主要7カ国(G7)外相会合では、 ケリー米国務長官らが平和記念公園を訪れた。 「核兵器なき世界」の実現に向けて各国が一致したわけではないだろうし、複雑な国際情勢も背景に透けて見える気もする。それでも--「原爆慰霊碑の前に立ったら、心に感じることがきっとあるはずです」 ↓↑ ↓↑ 谷本清さん 関西学院大学神学部を首席で卒業後、 渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。 沖縄中央教会牧師を経て、 1943年に広島流川教会の牧師に就任。 1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下の際に、 爆心地から3kmの 己斐町で疎開作業をしており直接の難を免れるが、 広島市内に引き返して救護活動に従事。 その後、原爆症により生死の境をさまようが奇跡的に回復。 ↓↑ 教会復興に尽力している最中、 1946年5月、 ジョン・ハーシー (ピュリッツァー賞作家) の取材を受けたことから、 谷本の被爆体験が世界中に紹介され、 著書『ヒロシマ』となって大きな反響を呼ぶ。 1948年10月に アメリカメソジスト教会の ミッション・ボードの招請により渡米。 15カ月間に渡り 31州256都市で講演を行ない、 広島の惨状と平和を訴えるとともに、 流川教会復興に奔走。 のちにアメリカ上院で開会祈祷を行うなど、 アメリカでは一躍時の人となる。 しかし国内では、 占領軍による メディア統制(プレスコード)のために、 原爆被害の実情も、 谷本の活動もよく知られていなかった。 また国内のキリスト教関係者の中には 彼の事を 原爆牧師とあだなして非難する人もあったという。 1986年に死去。 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ーーーーー rep=横畝織り・繰り返し repetition rap rep=うね織(布) カーテン・椅子の上張り repertory company repertory theater 販売外交員 representative 略語 republic Republican 略語 report reporter representative 代表する・代理の・代議制の representative body 代表団 代表者・代理人 〔for,of〕 delegate 会議などに出席する代表者 代議士・米国の下院議員 (congress) 販売代理人・外交員 代表物・見本・標本・典型 representatively は副詞 ーーーーー ↓↑ 湯王=(トウオウ・ゆオウ) 湯(氵+昜)→(氵日一勿)+「王」 情報=(ジョウホウ)・・・「情(なさけ)」に 「報(むく)いる」 情(忄)+主+月(肉) 報=幸(一+辛)→(一立十)+卩+又) ↓↑ アイオーン(古代ギリシャ語 αἰών ラテン文字転写 aiōn ラテン語 aeon or æon 英語 aeon or eon) 古代ギリシア語のある期間の時間 時代や世紀 人の生涯 ラテン語の Saeculum サンスクリットの kalpa 漢訳の「劫波(ゴウハ)」 アイオーン 紀元2世紀~5世紀頃 ローマ帝国内やその辺境地域で興隆した、 グノーシス主義における高次の霊 あるいは 超越的な圏界を示す ↓↑ アイオーン=「時代」や「ある期間」 「占星術における 魚座の時代」 水瓶座の時代」 魔術やオカルトにおいて 「テレマ」の概念と関係 特徴のある時間の期間があるという概念 「プラトンは アイオーンを 永遠の意味で使った」・・・ ギリシア神話は 抽象概念なども神と見なし 時間の神は、 クロノス 季節や秩序の女神は ホーラ アイオーン=神 永遠・永劫を象徴(背負)する神 時間の神 ↓↑ グノーシス主義 反宇宙的二元論 この世界は 悪であり、 別に、 善なる「至高者」が存在 グノーシス主義の創作神話で この神的存在を 「アイオーン」と呼んだ・・・ ↓↑ キリスト教グノーシス主義 人間に「本来的自己」を 認識させる啓示者・救済者=イエス イエスは「父なる神=至高者」の下から派遣され、 旧約聖書の「創造神=劣悪なる造物主」の束縛から 人間を解放するため、 「本来的自己の認識」を説く福音をもたらした・・・ ↓↑ 新プラトン主義(Neoplatonism) 3世紀に成立し、 西洋古代哲学の 掉尾を飾った潮流 始祖プロティノス(3世紀) プラトンのイデア論を徹底させ、 万物は一者から流出したものと捉えた ↓↑ 「新プラトン主義・独語 Neuplatonismus」 18世紀のドイツで生まれた造語で 19世紀に入って定着した近代用語 プラトン自身のオリジナルの教説 と 後世の追随者の思想 とが区別して捉えられた概念 プラトン思想とは異なる特徴、 それからの逸脱である、という意味で用いられる ↓↑ プロティノス(Plotinus) 205年?~270年 ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者 「プロチノス」とも 主著に 「エンネアデス」・・・ ↓↑ ↓↑ 一者 プラトンのイデア論を受け継ぎ その二元論を克服しようとしたもの プラトンの『パルメニデス』に説かれた 「一なるもの(ト・ヘン=to hen)」 を重視し、 語りえないもの=神 とした 万物(霊魂、物質)は 無限の存在(善のイデア)である 「一者(ト・ヘン)」から流出した 「ヌース(理性)」の働きによる 「一者=は有限の存在である万物とは別の存在 一者自身は変化・増減することはない 太陽自身は変化せず、 太陽から出た光が 周囲を照らし 光から遠ざかれば暗くなる 霊魂・物質にも 高低のレベル差がある・・・ ↓↑ 人間は 「一者」への「愛(エロース)」によって 「一者」に回帰することができる 「一者と合一」し、 忘我の状態に達することを 「エクスタシス(エネアデスVI・第11節)・・・六・第十一節 「エクスタシスに至るのは、少数の人間ができる」 「プロティノス自身は生涯に4度、体験」・・・ 高弟ポルフュリオスは 「プロティノスの一生と彼の著作の順序について」 で、自らは一度体験した・・・と記録 ↓↑ 美の根源は ロゴスの明るさの中心として 光に譬喩される神、 「超越美= to hyperkalon」=「一者=神」 「ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料」 という美の序列・・・ プロティノスの宗教的美観は 「汝自らの魂の内を見よ。 自らが美しくなければ、 自らの行いを清め、 自己のうちに美が見えるまで努力せよ。 神、すなわち美を見たいと欲するものは 自らを 神に似た美しいものにしなければならない」 ・・・ ↓↑ 「循環宇宙論の中で、 1つの宇宙(世界)が 誕生し消滅するまでの期間」 「劫波(劫簸)」=「イーオン (aeon)」 ↓↑ ↓↑ 『阿毘達 磨 倶舎 論』 (あびだつま くしゃろん) 『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』 漢訳本は 真諦による 『阿毘達磨倶舍釋論』22巻 玄奘による 『阿毘達磨倶舍論』30巻 サンスクリット本と玄奘訳は 『倶舎論』と略称 真諦訳は 『倶舎釈論』と略称 漢訳本の正式な原題表記は 『阿毘達磨倶舍論』 『阿毘達磨倶舍釋論』 『甘露味(カンロミ)論』・・・? ↓↑ ↓↑ ーーーーー 緒方 貞子(おがた さだこ)もスゴイ女性・・・ 1927年9月16日 - ) 1927年 丁 卯(甲・ ・乙) 09月 己 酉(庚・ ・辛) 16日 癸 丑(癸・辛・己)寅卯=空亡 ↓↑ ↓↑ 日本の国際政治学者 カリフォルニア大学バークレー校 上智大学名誉教授 独立行政法人国際協力機構理事長 国連人権委員会日本政府代表 国連難民高等弁務官 アフガニスタン支援政府特別代表 などを歴任 1927年9月16日 東京府東京市麻布区(港区)に 外交官 元フィンランド特命全権公使の 中村豊一 恒子 夫妻の長女として誕生 命名は 犬養毅 父の転勤で幼少期を アメリカ・サンフランシスコ、 中国・広東省、香港 などで過ごす 小学校5年生の時に日本に戻り 聖心女子学院に転入 聖心女子大学文学部英文科 (英語英文学科英語英文学専攻)を卒業 ジョージタウン大学 カリフォルニア大学バークレー校大学院 政治学の博士号を取得 曽祖父は 元内閣総理大臣の 犬養毅 祖父は外交官で 犬養内閣外相の 芳沢謙吉 母・恒子は 元共同通信社長の 犬養康彦 評論家の 犬養道子 エッセイストの 安藤和津 の従姉 夫・緒方四十郎(元日本銀行理事) 朝日新聞社副社長 自由党総裁、副総理をつとめた 緒方竹虎の三男 緒方姓は 竹虎の祖父 郁蔵(本姓、大戸氏、備中、岡山県)出身 が 緒方洪庵 と 義兄弟の盟を結び その姓を名乗らせた 息子の 緒方篤は映画監督 ーーーーー ・・・再度、記事抜粋、添付・・・ ↓↑ ↓↑ 近藤紘子(コウコ) 1944年甲 申(己・壬・庚) 11月乙 亥(戊・甲・壬) 20日戊 子(壬・ ・癸)午未=空亡 ↓↑ ↓↑ 父、 谷本清 母、 谷本チサ の長女 広島生まれ 牧師・平和活動家 谷本清の娘 生後八カ月 広島で被爆 爆心地から1.1キロの地点 母親と共に助かる 少女時代、 広島流川(ながれかわ)教会で過ごす 「子供心に、 B-29エノラゲイに乗っていた人を探して、 パンチしたり、蹴ったり、噛んだりしてやろう。 爆弾を落とした人間は悪い奴で、 自分は正しい人間だと、そう思っていた」 ↓↑ ↓↑ 1955(昭和30)年 アメリカの人気テレビ番組 「This is Your Life」 に父、 谷本清が出演 テレビ局が 妻サチ 紘子 ら子供たちを番組に招待 そこで エノラゲイの副操縦士 ロバート・ルイス と会わせた・・・ 当時10歳 ロバート・ルイスは 「広島が消えていた。そのとき、 Oh, God. What have we done? (神さま、私たちは何ということをしたのだ) と飛行日誌に記した」 と語り 彼の目から涙が・・・ 東京の高校を卒業後、アメリカの大学に入学 ーーーーー ・・・This is Your Life・・・This is X Life・・・
ーーーーー
・・・???・・・
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ももちゃん
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meriya kiri (キリチャン)
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と
虎関師錬
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