Twinの人と家畜と獣と・・・羊・山羊・馬・牛・豚・猪・狗・狼・猫・獅子・虎・狐・鶏・・・おとづれ・・・おんドリ
・・・「狛犬(こまいぬ)」・・・「高句麗・高麗」・・・高句麗、高麗からの帰化人・・・「狛犬」の起源、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いた。古代エジプトやメソポタミア、ギリシャでの神域を守るライオンの像・・・スフィンクス・・・ 「胡摩犬(こまいぬ)」 狛=貊 貊=ツングース系民族 貊や高句麗の訓読み「こま」は 「蓋馬国」の転化・・・ 中国の古書注に 「東海駒驪、扶餘、馯貊之屬」 云々とあり 『集韻』には「駒驪、國名」とあり 「駒」=子馬・・・ 犬について 隼人の狗吠 隼人は熊襲と同族 熊襲の国が狗奴国であった・・・ 「こま(駒)=子馬」 日向隼人の駒は評判 「狛」=狼の如く善く駆ける羊 土狛
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伽羅・御伽草子・御伽衆
訪れ・音擦(づれ)・音切れ 高句麗 別名を貊(はく) 日本語で 「高麗」=こま=「貊(狛)」 百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高麗(こま) 高句麗(句驪) 『漢書(地理誌)』 「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年) みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」 玄菟郡の首県 高句驪、上殷台、西蓋馬 驪は麗と同音で 漢人の蔑視による表現・・・? 白鳥庫吉は 「高」と「句麗」に分解し 「句麗はコル(城)」、「高はコ(大きい)」 原義は「大城」 李丙蝱は 「高はスリ(神聖な・首位の)」で 「首邑」、「上邑」の意味とした・・・ 高句麗=貊族 8世紀 突厥で造られたオルホン碑文には 「ボクリ(bökli)」という東方の国 ボクリが高句麗 「貊句麗」・・・ 「貊の国」・・・ 「貊」という種族は 周代から中国の史料に登場 なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に 「高麗」という国名で表記 隋唐代の史書でも「高麗」と表記 520年 正式名が「高句麗王」から「高麗王」となった 梁の冊封が最初 高句麗が意識的に高麗へと改名 国号の字数を二字に揃えた・・・ ーーーーー 「鶏鳴狗盗(ケイメイクトウ)」 「狐白裘(コハクキュウ)」=裘は動物の毛を外側にした毛皮の衣 狐白裘は狐のワキの下の毛を 集めて作られた裘 狐裘は黄色であるが 狐白裘は白色の珍品 と 「孟嘗君(モウショウクン)」・・・望史和得の訓? 孟(子皿・たける)は 君(尹口・インコウ)を 嘗(なめる)・・・?・・・臥薪嘗胆・・・ 田文(デンブン)・・・氏=田、諱(忌み名)=文 伝聞 田=狩猟地域 ↓↑ 「アヌビス(Anubis・エジプト語ラテン文字転写=inpu・古代ギリシア語=Ἄνουβις (Ánūbis)」・・・ ↓↑ 阿之美州(美作)・阿之尾州(尾張)・阿之備州(吉備) ↓↑ 「エジプト神話の冥界の神・リコポリスの守護神」 「聖地の主人(nb-ta- djsr)」 「自らの山に居る者(tpi-dju=f)」 「ミイラを布で包む者(imiut)」 などの異名、別名・・・ ミイラ作りの監督官 医学の神 瞬足な足で魂魄(霊魂)を冥界に運ぶ 天秤で死者の罪を量る 犬またはジャッカルが 墓場の死者を守っている神・・・ ジャッカル・ジャコール 胡狼・Jackal・犴(カン)、野犴(ヤカン)
アヌビス⇔ジャッカル⇔フォックス きつね・狐・キツネ・・・ 木常=キツネ=記通音⇔フォックス(fox) 「ずる賢い(sly)」 「鶏が好物・雄ギツネは dog fox 雌ギツネは vixen,bitch fox 子ギツネは cub 「ひどく変色している=be badly foxed」? 20世紀フォックス(20th Century Fox) 20世紀フォックス映画(Twentieth Century Fox Film Corporation) (William Fox・出生名=Fried Vilmos)・・・フックス(Fuchs) ハンガリー系アメリカ人 1879年1月1日~ 1952年5月2日? 1952年5月8日? 戊寅(己・丙・甲)⇔壬辰(乙・癸・戊) 甲子(壬・ ・癸)⇔乙巳(戊・庚・丙) 甲申(己・壬・庚)⇔戊申(己・壬・庚)⇔甲寅(己・丙・甲) 午未=空亡 フックス(Fuchs、Fucks、Fuks、Fux、Hooks) ヨーロッパ系の姓・Fuchs はドイツ語でキツネを意味 装甲兵員輸送車=軍用運搬車両 ↓↑ ハイエナ(Hyenas) ーーーーー 642年 百済国内で政変・・・? 「百済義慈王(武王の嫡男)」により 「百済武王(王妃は沙宅王后)」が潰され・・・?・・・ その息子である 「翹岐王」が島流しになり 日本亡命・・・ ↓↑ 百済 武王 武王(580年?~641年) 百済の 第30代の王(在位は600年~641年) 第29代法王の子 諱は璋 『三国遺事』王暦に 武康、献丙の別名 『隋書』に 余璋の名 武王=璋=武康=献丙=余璋 ↓↑ 義慈王(599年~660年) 百済の第31代 最後の王(在位は641年~660年) 諱は義慈 『旧唐書』などには「扶余義慈」 第30代の武王の嫡男 母は不詳 (新羅の真平王の娘=善花公主 百済貴族出身=沙宅王后)という説・・・ ↓↑ 百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう) ?~持統天皇七年(693年)正月 百済王族 名は 禅広王=余禅広 百済の 第31代国王 義慈王の子 冠位は 正広肆、贈正広参 「本田善光(ほんだよしみつ、本多善光とも)」 が 善光寺如来を 信濃国に持ってきた・・・? 科野国(信濃国)伊那郡若麻績里に住んだ 「伊呂波字類抄」では 若麻績東人(わかをみ の あずまんど)とも称される 子に本田善佐 ↓↑ 欽明天皇十三年(552年、一説に538年) 百済の聖王(聖明王)が献上した 天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が 疫病流行のために 物部氏によって 難波の堀江(大阪or奈良県明日香村)に捨てられた 推古天皇八年(600年) 本田善光がそこを通りかかると 阿弥陀如来像が水中から出現して背に乗った・・・ 信濃国に戻り家に安置し 後に 信濃国 水内郡 芋井郷(長野市) に移座し、如来堂を建立して祀った・・・ ↓↑ 王子の豊璋王 と 禅広王(善光王) は 人質として倭国に滞在 ーーーーー ひなもり・・・卑奴母離・夷守・・・防人(さきもり) 雛 母離?・・・ 隋書俀国伝 夷人(倭人) ・・・夷人 不知 里數 但計以日 ・・・倭奴=俀奴 隋書俀国伝=倭国伝 俀⇔イ+妥(爫+女) イは妥(おだやか・やすらか・ダ・タ) 妥協・妥結・妥当 妥=ダ・タ 拿・多・太・他・田・足・手 拿=合+手=拏(本字・女又手) 手を合わせ つかむ・つかまえる ナ・ダ・ナア とらえる・つかむ・ひく 拿獲(ダカク)・拿捕(ダホ) ↓↑ 都於 邪靡堆 則魏志 所謂 邪馬臺者也 古云去 樂浪郡境 及 帶方郡 並 一萬二千里 在 會稽之東 與 儋耳相近 ↓↑ 開皇二十年 俀王 姓 阿毎 (あまい) 字 多利思北孤 (たりしほこ) 號 阿輩雞彌・・・闘鶏国造 (あわけいみ)(つげのくにのみやつこ) 雞 鶏=鷄=雞=にわとり・ケイ ↓↑ ↓↑ 大和国北東部を支配した国造 都祁国造・都下国造とも 祖先は神八井耳命で神武天皇の皇子 綏靖天皇の兄 弟に皇位を譲り 神祇の奉斎者 ↓↑ 「闘鶏」氏 姓は直(あたい) 允恭朝に 忍坂大中姫皇后に不敬があったため ↓↑ 稲置姓に落とされた 大和国山辺郡都祁 (奈良県奈良市の旧都祁村近辺) 本拠は坐摩神社(大阪市中央区) 都祁水分神社 祭神は 速秋津比古命・大国御魂命 天之水分神・国之水分神 子孫 「闘鶏大山主(仁徳朝の国造)」 氷室の氷を初めて御所に献上し 氷室の管理者となった 闘鶏御田=猪名部御田? ・・・猪名部⇔「犭(犬・獣)の者」 の「名の部」? 雄略朝の大工・とび(鳶)の達人 楼閣上を飛行するがごとく走った ↓↑ 伊尼翼(冀?)=いなき=稲置?
遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王 以天為兄 以日為弟 天未明時 出 聽 政跏趺坐 日 出便停理務 云 委 我弟 高祖曰 此 大 無義理 於是 訓令 改之 ↓↑ 王妻 號 雞彌(けいび) 後宮有女六七百人 名 太子 為 利歌彌(りかみ)・・・カガうたび・・・足利 多弗利(たふり)・・・おほブリ・・・・夷振り 無 城郭・・・ 有 軍尼一百二十人・・・・イクサのアマ(海人・海部) 猶 中国 牧宰(ボクサイ)古代官職・国司の別称 八十戸置 一伊尼翼(イニヨク・イニョク) 如今里長也 十伊尼翼 屬一軍尼(クニ) ・・・ 無文字 唯刻木 結繩 ・・・木に何を刻んだのか? ・・・ 又東 至 秦王國 其人 同 於華夏 以為 夷洲 疑不能明也 ↓↑ ↓↑ また東の秦王国に至る その人は華夏(中国)の 夷洲と同じだが はっきりしたことはわからない ↓↑ ↓↑ また東して秦王国に至る その華夏に同じ 以て夷洲となすも疑うらくは 明らかにする能わざるなり ↓↑ ↓↑ 疑不能明也 疑=匕+矢+龴+疋 匕+矢+龴+乛+ト+人 うたがう・あやしむ・ためらう・しりごみする 迷う・とまどう 不能明也=明らかに出来ず(不可能) 華夏≠夷州=台湾(タイワン・臺灣・台灣)? 文明国≠夷州=未開で夷国・・・攘夷の対象 蝦夷 尊王攘夷 「礼記」王制篇に 「東方のことを夷という。夷とは根本の意である」 大業四年(608)中国から裴世清が派遣 林郎裴清=裴世清の見聞録・・・? ↓↑ ↓↑ 俀王 遣小徳 阿輩臺(あわたい) 従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮 哥多毗(うたび) 従二百餘騎郊勞 既至彼都 ーーーーー 魏志倭人伝 『三国志』中の「魏書」第30巻 「烏丸 鮮卑 東夷伝 倭人条」の略称 …始度一海千餘里、至對馬國、 其大官曰 卑狗・・・・・彦=比古・毘古? 副曰 卑奴母離・・・夷守・防人? ひぬもり 雛 守 ーーーーー 鵯=卑+鳥・「鵯越(ひよどりごえ)」、「鵯崎(ときざき)」 異体字、鹎・𨿵・𪂃 簡体字、鹎 鵯=ひよ・ひよどり・ヒ・ヒツ 鵯鶋(ヒッキョ)」は、鳥の名 カラス科の鳥 ひよどり・ひよ・ヒヨドリ科の鳥 ーーーーー ひなまつり・・・・鶵・卑の奴(女又)からの母離れ 雛祭り・雛祭・・・鶏の雛 旧暦の三月三日 「桃の節句」 江戸時代 九月九日 「重陽の節句」 雛人形をもう一度飾る 「後(のち)の節供」 香川県 三豊市 仁尾町では、雛祭りは行わず、八朔に雛人形を飾る 戦国時代に仁尾城が落城したのが 旧暦3月3日 兵庫県 たの市 御津町 室津地区 ひな祭りを旧暦8月1日 戦国時代の永禄九年一月十一日(1566年2月1日) 室山城主 浦上政宗の次男 清宗 と 小寺職隆の娘との間で挙げた祝言(結婚式)の夜 龍野城主 赤松政秀の急襲を受けて 政宗は清宗もろとも戦死し、花嫁も亡くなり 室山城は落城 室津の人々は非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために 3月3日ではなく、半年遅れの 八朔に雛祭りを延期し 町おこしの一環の「八朔のひな祭り」として復活 ↓↑ ↓↑ 「雛祭り」 雛祭り=「ひなあそび」 平安時代 川へ紙で作った人形を流す 「流し雛=上巳の節句(穢れ払い)」 として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」 江戸時代 女子の「人形遊び」と 節物の「節句の儀式」が合体 3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは 安土桃山時代の 天正年間以降・・・ ↓↑ 江戸時代初期 「立雛」 「坐り雛(寛永雛)」が作られ 男女一対の内裏雛を飾るだけの物 人形に身代りさせるという 祭礼的意味合いが強くなり 武家子女など 身分の高い女性の嫁入り道具の家財になった 時代が下ると人形は精巧さを増し 十二単の装束を着せた「元禄雛」 大型の「享保雛」などが作られた 金箔張りの屏風の前に 内裏の人形を並べた 享保年間から 江戸幕府が倹約政策のとり 大型の雛人形が一時禁止 『御触書宝暦集成』十五では大きさも制限 規制を逆手に取り 「芥子雛」と呼ばれる精巧な 小さな雛人形が流行した ーーーーー ・・・???・・・ 「羈縻(キビ)政策が適用された地域を羈縻州 羈縻州の長官は 唐に対しては一地方官吏で 部族内部から見れば 王または首長 一般に冊封と対比されているが 歴史的には 冊封と対立しておこなわれたのではない・・・平行、同時 羈縻の羈は馬の手綱 縻は牛の鼻綱のことをさす」 ・・・羈縻=キビ=吉備・驥尾・紀尾・・・ ーーーーー ・・・???・・・
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