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「645・乙巳」年・・・「665・乙丑」ねん

2023/2/1・水曜日・・・追加添文・・・

 泉=淵・・・蓋=ふた=亠=漢字の「音」の略字・・・?

    蘇=よみかえる=再生・・・読み替える・・・?


 ・・・「淵蓋蘇文=泉蓋蘇文」・・・「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥=いりかすみ)」・・・? ーーーーー  淵蓋蘇文(エンガイソブン)  ?~665年(宝蔵王二十四年)  高句麗末期の宰相・将軍  泉蓋蘇文・泉蓋金  とも記される  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)」  として記録  姓の「淵(泉)」は  高句麗語の  「いり(水源)」の意味  「蓋蘇文」は  高句麗語で  「かすみ」と発音したものを  漢字で当て字した・・・  姓は淵、or 泉  『旧唐書』『三国史記』  等が「泉」として  「淵」とは書かないのは  「淵」は  唐の高祖の諱(淵)を避諱した・・・  『日本書紀』に  「伊梨柯須彌」とも書かれ  「漢字訳」はもともと便宜的なもの・・・ ーー↓↑ーーー  子息  泉男生  (センダンセイ   ヨン-ナムセン)  634年~679年1月29日  淵蓋蘇文の子  兄弟間の争いのために唐に服属  字は元徳  648年  中裏小兄・・・小兄は序列の職号?  651年  中裏大兄・・・大兄は序列の職号?・・・中「大兄」皇子  656年  中裏位頭大兄・・・大兄は序列の職号?  657年  将軍  661年  莫離支・三軍大将軍  数万の兵を率いて  鴨緑江で唐軍と対峙  契苾何力  に敗れて、身ひとつで逃亡  665年  大莫離支の位を加えられ  高句麗の国政を掌握  弟の  泉男建  泉男産  と不仲となり  泉男建が泉男生の子の  泉献忠を殺害  泉男生は弟たちを恐れて  国内城に逃亡し  契丹・靺鞨と結び  子の  泉献誠  を唐に送って援助を求めた  高宗は  泉献誠を右武衛将軍に任じ  契苾何力・龐同善らに  泉男生を援助  666年9月  龐同善  が高句麗軍を破ると  泉男生は龐同善と合流  667年  薛仁貴が  泉男建を破ると  泉男生は  薛仁貴と合流して  南蘇・木底・蒼巌  の三城を落とした  高宗は  西台舎人の  李虔繹を派遣し  泉男生  をねぎらわせた  668年  泉男生  は長安に入朝  特進  遼東大都督  平壌道行軍大総管  持節安撫大使  に任ぜられ  玄菟郡公に封ぜられた  再び高句麗におもむくと  李勣とともに平壌を攻め  僧侶を使って  高句麗の内部を離間し  宝蔵王を捕らえた  長安に凱旋したのち  右衛大将軍に進み  卞国公に封ぜられた  677年  詔を受けて  遼東の地の安撫にあたり  唐の州県を置き  流民を定住させ  賦税を公平にし  労役をはぶいた  679年  46歳で死没  并州大都督の位を追贈  諡は襄 ーー↓↑ーー  642年(栄留王二十五年)  北方に  千里長城を築造し唐の侵入に備えた  唐との親善を図ろうとしていた  第二十七代王  栄留王  伊梨渠世斯(いりこせし)  ほか180人を弑害  宝蔵王を  第二十八代王に擁立し  自ら  「大莫離支(ダイバクリシ)」  高句麗末期の  行政と軍事権を司った最高官職  に就任して政権を掌握  安市城の城主だった  楊萬春  が  淵蓋蘇文  への権力集中を認めず  淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて  安市城を攻撃  安市城を占領することができず  妥協し  淵蓋蘇文は楊萬春の職権を  楊萬春は淵蓋蘇文を執政者  として承認  淵蓋蘇文は対外強硬策を採り  高句麗に救援を  要請するために到来した  新羅の  金春秋(武烈王)を監禁  新羅と唐との交通路である  党項城を占領  644年(宝蔵王三年)  新羅との和解を勧告する  「唐の太宗」・・・・高宗?・・・唐の第3代皇帝            太宗の第九子・            母は鮮卑の拓跋を出自に持つ           「長孫無忌」の妹の「長孫」皇后  の要求を拒否  太宗が  「弑君虐民の罪」を問い  645年(宝蔵王四年)  17万の大軍を率いて高句麗に侵入  楊萬春が  安市城でこれを阻止  60余日間の防戦後  唐軍を撃退  その後  4回に亘って  唐の侵入を受けたが  楊萬春  はことごとくこれを阻んだ  643年(宝蔵王二年)  唐へ使臣を派遣  道教の道士八名と  『道徳経』を高句麗に持ちこむ  淵蓋蘇文は文化面でも功績    善徳(ゼントコ・ソンドク)女王  647年2月17日(旧暦1月8日)  新羅の  第27代の王  (在位632年~647年)  新羅初の女王  姓は金  諱は徳曼  真平王の娘  母は金氏の  葛文王  福勝の娘の  摩耶夫人  王配は  水月  葛文王  朴欽飯  3人姉妹(善徳  ↓↑  女王自らが任命した  上大等の毗曇らが  647年正月に女王の廃位を求めて内乱  上大等に代表される中央貴族に対抗して  金庾信  (『三国史記』    黄帝の子の少昊金天氏の子孫)  ら地方勢力の有力者が  女王を支援して乱の収拾に当たったが  同月八日  女王は陣中に死没  善徳と諡され  狼山(慶州市)に葬られた  在位十六年  金庾信らは  真徳女王  を立て、  正月十七日  乱を鎮圧  毗曇  ら20余名を誅殺  死後、唐からは  光禄大夫の号を追贈  ↓↑   善徳女王  仏教の保護  慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた  帰国した慈蔵法師の発願で  645年3月  皇龍寺の九層塔を創建  女王の時代に  芬皇寺や霊廟寺が完成  霊廟寺の建立と同時に  瞻星台(天文台)を築いた・・・  640年  王族の若者を留学生として  唐の国子監に派遣  ↓↑ ↓↑  善徳女王の  3つの予知  唐の太宗が  牡丹の花の絵と種を贈って来たとき  その花には香りがないであろうと言った  「花の絵には蝶や蜂が描かれていない。   どんな美女でもその色香で男たちが群がるので、   花に群がる虫がいないことから   香りがないと解った」  と答えた。  宮殿の西の玉門池に  蝦蟇がたくさん群がって鳴いたとき  西の国境付近に賊の潜んでいることを知り  角干の閼川(アルチョン)  らを派遣して賊を滅ぼさせた  「蝦蟇(蛙)の怒った目は兵士を表し   西の国境付近には   女根谷という地名があるので   玉門池に蛙が集うのは   女根谷を兵士が侵そう(犯そう)   としている」  と解ったと答え  金庾信や毗曇  ら家臣は昂奮した・・・  自分の死の年月を予測  忉利天の中に埋めるように  と言った  群臣は忉利天の場所がわからず尋ねると  狼山の南であると答えた  後に  毗曇の内乱が起り  女王は予測の月に死亡  狼山の南に葬られた  十余年後に  文武王  によって  女王陵の下に四天王寺が建てられた  ↓↑  家族  父は真平王  母は摩耶夫人  姉/妹は天明公主(金龍春の妻)  甥は武烈王(金春秋)第二十九代国王。  妹は善花公主(第三十代百済王 武王 (百済)の王妃)  甥は義慈王 第三十一代百済王。  妹は天花公主  夫は「朴欽飯」、「金龍春」、「乙祭」  いずれの夫との間に子は無し ーーーーー  ・・・「善徳・金春秋・文武・真徳」の時代の倭国の名前の重なる人物達は・・・???・・・

 ーーーーー

 ・・・???・・・

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