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「かる=カル」のカンジ・・・軽・珂瑠・・・孝德(孝徳)・・文武・・乂(かる=刈る・狩る)・・・交(マジ)わる



「古事記、日本書紀」では

「キギシ」の名

桃太郎に御供(おとも)

 ↓↑

「木梨軽皇子(きなしのかるのみこ、生没年不詳)」

 允恭天皇の第一皇子、皇太子

 同母妹の「軽大娘皇女」と禁忌の関係になって四国に流刑

 二人の母方の叔母である

「八田皇女(やたのおうじょ)」は美しい女性で

「衣通姫」と呼ばれていた

「軽大娘皇女」もまた叔母に似て美しく

「衣通姫」と呼ばれた・・・伊通・意通・委(倭)通・異通・緯通?

 ↓↑

 小竹葉(ささのは)に

 打つや霰(あられ)の

 たしだしに

 率寝(ゐね)てむ後は

 人は離(か)ゆとも

 愛(うるは)しと

 さ寝しさ寝てば

 刈薦(かりこも)の

 乱れば乱れ

 さ寝しさ寝てば

 ・・・これを「政治的な歌」として詠む・・・とドウナルか・・・?

 雉=矢+隹

   ジ・チ・ヂ

   形は鶏に似て尾が長い

   きじ・きぎし・きぎす

   雉子(キジ)

   きぎす・すがね鳥

   野鶏(ヤケイ)・銀鶏(ギンドリ)

   山の梁(ヤマノウッパリ)

   一夫多妻

   異体字

   兕・垁・埃・搱・𨿘・鴙・𪁰・𪁩・鶨・𪅊

   𠒃・𠒅・𠒊・𠙃・𤉡・𧣶・𧤄・𧰽・𧱃・𩀅

 ↓↑

 薙=艸+雉・薙刀=なぎなた=長刀

 ↓↑

 雉始雊(きじ はじめて なく)・・・雊=句+隹

 ↓↑

 さよばひに

 吾が来れば

 たな隠り

 雪は降り来ぬ

 さぐもり雨は降り来ぬ

 野つ鳥

 雉(きぎす・きぎし)はとよむ

 家つ鳥

 鶏(かい)も鳴く・・・鶏(かい)=鷄・雞

 ↓↑

 万葉集巻第19

 ↓↑

 聞暁鳴雉歌二首

 ↓↑

 足引之・・・・・あしひきの

 八峯之雉 鳴響・ 八つ峰の雉 鳴き響む

 朝開之霞・・・・朝明(あさけ)の霞(かすみ)

 見者可奈之母・・見ればかなしも

 ↓↑

 雉はまたの名を「妻恋鳥(つまごいとり) 」

 鳴き声は「ケンケン」

 ↓↑

 十六年四月五日

 獨居 平城故宅作歌六首

 ↓↑

 鶉鳴布流之・・・・鶉鳴く古し

 登比等波・・・・・とひらば

 於毛敝礼騰・・・・おもえれど

 花橘乃・・・・・・はなたちばなの

 尓保敷許乃屋度・・にほしけのやど

 ↓↑

 武蔵国(むさしのくに)の歌

 ↓↑

 武蔵野(むさしの)の

 をぐきが雉(きぎし)

 立ち別れ

 去(い)にし宵(よひ)より

 背(せ)ろに逢はなふよ

 ↓↑

 春雉鳴・・・・春 雉(きぎし)鳴く

 高圓邊丹・・・高円(たかまと)の辺(へ)に

 櫻花・・・・・桜花(さくらばな)

 散流歴・・・・散りて流らふ

 見人毛我母・・見む人もがも

 ↓↑

 椙野尓・・・・・杉(すぎ)の野に

 左乎騰流 雉・・さ躍(をど)る 雉(きぎし)

 灼然・・・・・・いちしろく

 啼尓之毛将哭・・音(ね)にしも泣かむ

 己母利豆麻可母・隠(こも)り妻(つま)かも

 ↓↑

 大伴家持(おおとものやかもち)

 ↓↑

 薙=艸+雉・薙刀=なぎなた=長刀

 ↓↑

 キジ・(雉・雉子)・-・キジ目キジ科の鳥

            日本の国鳥

            Green Pheasant

            Japanese Pheasant

 ↓↑

 日本海軍

 水雷艇

 「雉」・(初代・1904年~1923年)・-・隼型水雷艇

 「雉」・(二代・1937年~1947年)・-・鴻型水雷艇

 ↓↑

 禽将棋の駒の動き・⇒・禽将棋 駒の動き

 ↓↑

 桃太郎の家来は日本の国鳥=雉(きじ・キヂ)

 ↓↑

 全長80cm(オス)、60cm(メス)

 尾の長いことが特徴

 オスは濃い緑色の体

 繁殖期に

 ハート型の赤い顔になり

 「ケーンケーン」と鳴き

 メスを誘う

 「焼野の雉(きぎす)、夜の鶴」

 子を思う親の愛情の深さを表わす鶏

 「朝キジが鳴けば雨

  地震が近づけば大声で鳴く」

 ↓↑

 国鳥だが狩猟が許されている

 全身緑色のものは

 日本キジ

 ↓↑

 父母の しきりに恋し 雉子の声 芭蕉

 ↓↑

 きじ=雉・雉子

 キジ目キジ科の鳥

 キギシ・キギス

 ケゲシ=勇み烈しいの言葉から・・・説

 ↓↑

 雉=真っすぐ矢のように飛ぶ

 中国には雌雉が蛇と交わって卵を産み

 その卵が土中で

 蛟になり洪水を起こすとの伝承

 ↓↑

 『古事記』

 「天稚彦」の所へ天つ神が

 雉を使いにやったところ

 「天稚彦」は雉を射殺してしまった

 「行って帰らぬ使者を雉子の頓使」

 ↓↑

 「白い雉」は瑞祥

 大化六年(650年)

 「白雉元年」と改元

 地震などの災害を予知する鳥

 野焼にあって身の危険も忘れて

 子を救う

 「焼野の雉子、夜の鶴」

 の諺

 ↓↑


 七十二候・雉始雊(きじ はじめて なく)

 ↓↑

 「朝雉が鳴くは晴れ

  夜鳴くは地震の兆(きざし)」

 「雉がしきりに鳴くと地震あり」

 「雉がつづけて三度叫ぶと地震あり」

 「雉、鶏が不時に鳴けば地震あり」

 「地震直後に雉が鳴かない時は

  再び大地震が来る」

 ↓↑

 「キジも鳴かずば討たれまい」

 「者岩時(ものいわじ)

  父は長柄の人柱

  鳴かずば雉も

  射たれざらまし」

 「長柄の人柱」

 ↓↑

 「古事記」

 仁徳天皇=大鷦鷯命(オオサザキノミコト)

 を呪い

 夫・速総別王(ハヤブサワケ)をけしかける歌

 「雲雀は天に翔る

  高行くや

  速総別

  さざき取らねば

  (ヒバリは

  空を高く飛ぶ

  さらに高く飛ぶ

  速総別(ハヤブサワケ・隼)よ

  鷦鷯(さざき・仁徳天皇)

  など狩ってしまいなさい)

  を詠んだ咎で処刑された

  「女鳥王(めどりのみこ)」

 「雉の雌鳥ゃ(ぎしのめんどりゃ)

     ・・・記事の面 執り也

  女鳥(おんなどり)」

     音 名取り

 「疑う余地もないほど

  誰が考えても当たり前なこと

  分かり切ったことである

  それが自明の理であることの喩え」

 というのがその意味

 「女鳥」は「女鳥王」のことを暗喩・・・?

 「鳴かずば討たれまい」

 ・・・鳴くことが不吉・・・

 「不吉な雉」の記載(古事記)

 葦原中国平定の折

 派遣した

 「天若日子(天稚彦)」

 がいっこうに役目を果たさない

 「雉名鳴女(きぎすななきめ)」

 を使者とし問いただす

 「天若日子」は

 「この雉は不吉だ」と射殺す

 ↓↑

 「雉(きじ)=葬式の哭女(なきめ)」

 ・・・「不思議」ではナイ読み方はどうか・・・?

 「頭かくして尻隠さず」の

 「雉(きぎす・きぎし)=記紀素・記義詞・聞義諏?

 「ケン(懸・兼・建)もホロロ(保賂呂)」?

 ↓↑

 年譜

 皇極天皇四年(645年)

 6月12日

  中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害

 6月13日

 蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺

 ↓↑

 孝徳天皇元年(645年)

 6月14日

 皇極天皇の譲位を受け

 即位した中大兄皇子を皇太子とした

 ↓↑

 大化元年(645年)

 6月19日

 元号を「大化元年」とした

 7月2日

 皇后(間人皇女)と

 2人の妃を立てた

 7月10日

 高句麗・百済・新羅の使者が朝貢

 任那の調を代行した百済の使者に対し

 調の不足を叱責

 7月14日

 尾張国

 と

 美濃国

 に神に供える幣を課した

 8月5日

 東国等の国司を任命

 戸籍の作成

 田畑の検校などを命じ

 朝廷に鐘を備え

 訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした

 良民と奴婢の子の別を定めた

 8月8日

 仏教の援助を約し

 僧旻

 ら10人の僧を選び十師とした

 9月1日

 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた

 9月3日

 古人皇子が謀反を企んだ

 9月12日

 中大兄が

 古人皇子を討った(11月30日、11月とも)

 9月19日

 土地の貸借を禁止した

 12月9日

 都を

 難波長柄豊碕に遷した

 ↓↑

 大化2年(646年)

 1月1日

 改新之詔を宣

 1月

 子代離宮に行った諸国に兵庫を修営らせた

 2月15日

 民の投書を受けるための櫃を設けた

 2月22日

 子代離宮から帰った

 高句麗・百済・任那・新羅の使が調賦を貢いだ

 3月2日

 東国の国司に訓戒する詔を発した

 3月19日

 東国の朝集使に対し

 国司の失政を咎め

 訓戒する詔を発した

 3月20日

 中大兄皇子が自らの

 入部と屯倉を天皇に献じた

 3月22日

 王臣と庶民の墓制を定め

 殉死を禁止

 祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた

 上京の途上での

 馬の飼育請負を登録させ

 不正を禁じた

 市司と要路の渡守に田地を与え

 渡し賃の徴収をやめさせた

 8月14日

 品部を廃止し

 旧職を廃して

 百官を設け、官位を叙する方針を詔した

 9月

 「高向玄理」を

 新羅に遣わし

 任那の調をやめさせた

 蝦蟇行宮に行った

 ↓↑

 大化三年(647年)

 1月26日

 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ

 4月26日

 皇子・群臣・百姓に対して

 庸調を与える旨を詔した

 小郡を壊して宮を造った

 有位の人の出仕の礼法を定めた

 「荒田井比羅夫」

 が誤って溝を掘って難波に引き

 工事がやり直しになったことを

 諌める者があったので、即日に中止

 10月11日

 有馬温湯に行った

 12月30日

 武庫行宮に行った

 七色十三階の冠を制定

 新羅が

 「金春秋(武烈王)」を遣わし

 「高向玄理」らを送った

 「金春秋」は人質としてとどまった

 渟足柵を造り

 柵戸を置いた

 ↓↑

 大化四年(648年)

 2月1日

 三韓に学問僧を遣わした

 4月1日

 古い冠を廃した

 左右大臣はなお古い冠をかぶった

 新羅が使を遣わして調を貢じた

 磐舟柵を治めて

 蝦夷に備え

 越

 と

 信濃

 の民を選んで初めて柵戸を置いた

 ↓↑

 大化五年(649年)

 2月

 冠十九階を制定した

 「高向玄理」

 と

 「釈僧旻」

 に命じて

 八省百官を置いた

 3月17日

 阿倍倉梯麻呂 死亡

 天皇は

 朱雀門に出て哀哭し、嘆いた

 3月24日

 「蘇我日向」が

 皇太子に

 「蘇我倉山田石川麻呂」を讒言

 「石川麻呂」逃亡

 3月25日

 「蘇我倉山田石川麻呂」自殺

 3月26日

 追討した軍が

 「蘇我倉山田石川麻呂」の首を斬った

 4月20日

 「巨勢徳陀古」を左大臣

 「大伴長徳」を右大臣にした

 5月1日

 「三輪色夫」

 「掃部角麻呂」

 を

 新羅に派遣

 新羅が

 「金多遂」を遣わして人質にした

 ↓↑

 大化六年(650年)

 1月1日

 味経宮に行って

 賀正礼を行い、その日のうちに帰った

 2月9日

 穴戸国司の

 「草壁醜経」が

 「白雉(しろきぎす、白いキジ)」を献じた

 ↓↑

 白雉元年(650年)

 2月15日

 白雉を観る儀式を行い、大赦し

 白雉(はくち、びゃくち)と改元

 穴戸国に

 「鷹」を放つことを禁じ

 同国の調を3年間免除

 4月

 新羅が使を遣わして調を貢いだ

 10月

 宮地にするために

 墓を壊されたり

 家を遷されたりした人に物を与え

 「荒田井比羅夫」

 に宮の堺の標を建てさせた

 「山口大口」

 が詔を受けて千仏の像を刻んだ

 安芸国に百済舶2隻を造らせた

 ↓↑

 白雉二年(651年)

 6月

 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた

 12月30日

 大郡から新しい宮に遷り

 難波

 長柄

 豊碕宮と名づけた

 (大化元年12月9日に同趣旨の記事)

 新羅の貢調使の

 「知万」・・・知萬?

 が唐国の服を着て筑紫に着いたので

 その変更を咎めて追い返した

 ↓↑

 白雉三年(652年)

 1月1日元日

 礼を終えてから、大郡宮に行った

 班田を完了

 3月

 難波宮に帰った

 4月15日

 僧

 「恵隠」を内裏に呼び

 『無量寿経』を講じさせ

 沙門「恵資を」論議者とし

 沙門1000人を作聴衆にした

 4月20日

 講じ終えた

 4月

 戸籍を造った

 百済と新羅が使を遣わして

 調を貢ぎ物を献じた

 9月

 宮が完成した

 12月30日

 天下の僧尼を内裏に呼び

 設斎、大捨、燃明した

 ↓↑

 白雉四年(653年)

 5月12日

 遣唐使を送った

 一船の大使は

 「吉士長丹」

 副使は

 「吉士駒」

 別の一船の大使は

 「高田根麻呂」

 副使は

 「掃守小麻呂」

 5月

 病中の「旻法師」の部屋に見舞いに行き

 直接優しい言葉をかけた(白雉5年7月とも)

 6月

 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた

 「旻法師」の死を知り

 使を遣わして弔問し、贈り物をした

 法師のために

 多くの仏像、菩薩像を造らせ

 山田寺に安置

 7月

 難破した

 遣唐使船(高田根麻呂)

 の生存者5人の内

 筏を作って助けを求めた

 「門部金」

 を褒め、その位を進め禄を授けた

 皇太子(中大兄)

 が倭京に遷ることを請うたが

 天皇は許さなかった

 皇太子(中大兄)は

 皇祖母尊(皇極前天皇)

 皇后(間人)

 皇弟

 を連れて

 倭飛鳥河辺行宮に行った

 公卿大夫・百官の人らが

 皆随って遷った

 天皇は

 恨んで皇位を去りたいと思い

 宮を

 山碕に造らせ

 歌を皇后に送った

 ↓↑

 白雉五年(654年)

 1月5日

 「中臣鎌足」に紫冠を授け、封を増した

 2月

 遣唐使を送った

 押使は

 「高向玄理」

 大使に

 「河辺麻呂」

 副使に

 「薬師恵日」(5月とも)

 7月24日

 西海使の

 「吉士長丹」

 らが、百済と新羅の送使と共に筑紫に着いた

 10月1日

 天皇の病を聞き

 皇太子が

 皇祖母尊・皇后・皇弟・公卿

 らを率いて難波宮に赴いた

 10月10日

 崩御元号

 「白雉」が使用されなくなった

 ↓↑

 孝徳天皇十年

 (654年

 (但し

  孝徳天皇十年十二月八日は

    西暦655年 01月20日))

 12月8日

 大坂磯長陵に葬られた

 ↓↑

 斉明天皇元年(655年)

 1月3日

 皇祖母尊が

 飛鳥

 板蓋宮で重祚

 ↓↑

 大化元年6月14日

 (645年7月12日)

 阿倍内麻呂

 蘇我倉山田石川麻呂

 中臣鎌足

 ↓↑

 大化五年3月17日

  (649年5月03日)

 蘇我倉山田石川麻呂

 中臣鎌足

 ↓↑

 大化五年3月25日

  (649年5月11日)

 中臣鎌足

 ↓↑

 大化五年4月20日

  (649年6月05日)

 巨勢徳多

 大伴長徳

 中臣鎌足

 ↓↑

 白雉二年7月

 (651年)

 巨勢徳多

 中臣鎌足

 ↓↑

 皇后 間人皇女

    舒明天皇皇女

 妃  阿倍小足媛

    左大臣

    阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)女

 皇子 有間皇子

 妃  蘇我乳娘

    右大臣

    蘇我倉山田石川麻呂女

 ↓↑

 小竹葉(ささのは)に

 打つや霰(あられ)の

 たしだしに

 率寝(ゐね)てむ後は

 人は離(か)ゆとも

 愛(うるは)しと

 さ寝しさ寝てば

 刈薦(かりこも)の

 乱れば乱れ

 さ寝しさ寝てば

ー↓↑ーーー

孝徳天皇

第36代天皇

在位期間

645年7月12日~654年11月24日

孝徳天皇元年6月14日~白雉5年10月10日

元号   大化

     白雉

先代   皇極天皇

次代   斉明天皇(皇極天皇重祚)

誕生   596年

崩御   654年11月24日

陵所   大阪磯長陵(大坂磯長陵)

漢風諡号 孝徳天皇

和風諡号 天万豊日天皇

諱    軽

↓↑

父  茅渟王

母  吉備姫王

皇后 間人皇女

子女 有間皇子

皇居 難波宮

↓↑

孝徳天皇系譜

↓↑

(27)安閑天皇

       石姫皇女(欽明天皇后)

(28)宣化天皇…上殖葉皇子~十市王

       ~多治比古王~(多治比)嶋


(29)欽明天皇~(30)敏達天皇

        ~押坂彦人大兄皇子

        ~(34)舒明天皇

           茅渟王~(35)皇極天皇

               (37)斉明天皇

               (36)孝徳天皇~有間皇子

        ~難波皇子~大俣王

              ~栗隈王~美努王~橘諸兄


      ~(31)用明天皇

         ~厩戸皇子(聖徳太子)~山背大兄王

         ~来目皇子

         ~当麻皇子

         ~殖栗皇子


      ~(33)推古天皇

      ~(32)崇峻天皇

      ~穴穂部間人皇女

 ↓↑

 敏達天皇の孫

 押坂彦人大兄皇子の王子

 茅渟王の長男

 母は

 欽明天皇の孫で

 桜井皇子の王女

 吉備姫王

 皇極天皇(斉明天皇)の同母弟

 天智天皇(中大兄皇子)

 間人皇女

 天武天皇(大海人皇子)

 の叔父

 姪の

 間人皇女を皇后

 阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の

 小足媛を妃

 子の

 有間皇子を儲けた

 蘇我倉山田石川麻呂の娘の

 乳娘(ちのいらつめ)を妃

 ↓↑

 中臣鎌子(藤原鎌足)

 軽皇子時代に接近

 (『日本書紀

   皇極天皇三年

       正月

       乙亥・・・・・何時意?

       朔条』)・・・朔望⇔策謀?

 ↓↑

 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)

 「乙巳の変」・・・変?

 翌々日

 「皇極天皇」は

 「中大兄皇子」に位を譲ろうとしたが

 「中大兄」は辞退し

 「軽皇子」を推薦

 「軽皇子」は三度辞退し

 「古人大兄皇子」を推薦

 「古人大兄」は辞退し出家

 ↓↑

 14日

 「皇極天皇」から譲位され

 「軽皇子」が

 「孝徳天皇」として即位

 「中大兄」を皇太子とした

 「阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)」

 を左大臣

 「蘇我倉山田石川麻呂」

 を右大臣

 「中臣鎌子(藤原鎌足)」

 を内臣とした

 「僧旻」

 「高向玄理」

 を国博士とした

 ↓↑

 孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)

 史上初めての元号

 「大化元年六月十九日」

 「大化六年二月十五日(650年3月22日)

 「白雉」に改元

 「白雉元年二月十五日

 大化元年~翌年

 孝徳天皇は諸制度改革

 「大化の改新」

 改新之詔4条のうち

 第1条

 第4条

 は、後代の官制で改革はなかっ・・・?

 ↓↑

 高句麗・百済・新羅

 からしばしば使者が訪朝

 「新羅」も人質送ってきた

 「任那の調」を廃止

 遣唐使を派遣

 「蝦夷」に

 渟足柵(城柵)

 磐舟柵(城柵)

 を越国に築き、柵戸を設置

 ↓↑

 難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)造営

 白雉四年(653年)

 皇太子(=中大兄皇子)が

 倭京に遷ることを求め

 大王がこれを退け

 皇太子は

 皇祖母尊

 大后(皇后・間人皇女)

 大海人皇子を連れて

 倭に赴いた

 翌年崩御・宝算59

 ↓↑

 年譜

 皇極天皇四年(645年)

 6月12日

 中大兄皇子が

 蘇我入鹿を殺害

 6月13日

 蘇我蝦夷が

 自宅に火を放ち自殺

 孝徳天皇元年(645年)

 6月14日

 皇極天皇の譲位を受け

 即位した中大兄皇子を皇太子とした

 大化元年(645年)

 6月19日

 元号を「大化元年」とした

 7月2日

 皇后(間人皇女)と2人の妃を立てた

 7月10日

 高句麗・百済・新羅の使者が朝貢

 任那の調を代行した百済の使者に対し

 調の不足を叱責

 7月14日

 尾張国と美濃国に神に供える幣を課した

 8月5日

 東国等の国司を任命

 戸籍の作成

 田畑の検校などを命じ

 朝廷に鐘を備え

 訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした

 良民と奴婢の子の別を定めた

 8月8日

 仏教の援助を約し

 僧旻ら10人の僧を選び十師とした

 9月1日

 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた

 9月3日

 古人皇子が謀反を企んだ

 9月12日

 中大兄が

 古人皇子を討った(11月30日、11月とも)

 9月19日

 土地の貸借を禁止した

 12月9日

 都を

 難波長柄豊碕に遷した

 大化二年(646年)

 1月1日

 改新之詔を宣

 1月

 子代離宮に行った諸国に兵庫を修営らせた

 2月15日

 民の投書を受けるための櫃を設けた

 2月22日

 子代離宮から帰った

 高句麗・百済・任那・新羅の使が調賦を貢いだ

 3月2日

 東国の国司に訓戒する詔を発した

 3月19日

 東国の朝集使に対し

 国司の失政を咎め

 訓戒する詔を発した

 3月20日

 中大兄皇子が自らの

 入部と屯倉を天皇に献じた

 3月22日

 王臣と庶民の墓制を定め

 殉死を禁止

 祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた

 上京の途上での

 馬の飼育請負を登録させ

 不正を禁じた

 市司と要路の渡守に田地を与え

 渡し賃の徴収をやめさせた

 8月14日

 品部を廃止し

 旧職を廃して

 百官を設け、官位を叙する方針を詔した

 9月

 「高向玄理」を

 新羅に遣わし

 任那の調をやめさせた

 蝦蟇行宮に行った

 大化3年(647年)

 1月26日

 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ

 4月26日

 皇子・群臣・百姓に対して

 庸調を与える旨を詔した

 小郡を壊して宮を造った

 有位の人の出仕の礼法を定めた

 「荒田井比羅夫」

 が誤って溝を掘って難波に引き

 工事がやり直しになったことを

 諌める者があったので、即日に中止

 10月11日

 有馬温湯に行った

 12月30日

 武庫行宮に行った

 七色十三階の冠を制定

 新羅が

 「金春秋(武烈王)」を遣わし

 「高向玄理」らを送った

 「金春秋」は人質としてとどまった

 渟足柵を造り

 柵戸を置いた

 大化4年(648年)

 2月1日

 三韓に学問僧を遣わした

 4月1日

 古い冠を廃した

 左右大臣はなお古い冠をかぶった

 新羅が使を遣わして調を貢じた

 磐舟柵を治めて

 蝦夷に備え

 越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置いた

 大化5年(649年)

 2月

 冠十九階を制定した

 「高向玄理」

 と

 「釈僧旻」

 に命じて、八省百官を置いた

 3月17日

 阿倍倉梯麻呂死亡

 天皇は朱雀門に出て哀哭し、嘆いた

 3月24日

 「蘇我日向」が

 皇太子に

 「蘇我倉山田石川麻呂」を讒言

 「石川麻呂」逃亡

 3月25日

 「蘇我倉山田石川麻呂」自殺

 3月26日

 追討した軍が

 「蘇我倉山田石川麻呂」の首を斬った

 4月20日

 「巨勢徳陀古」を左大臣

 「大伴長徳」を右大臣にした

 5月1日

 「三輪色夫」

 「掃部角麻呂」

 を新羅に派遣

 新羅が

 「金多遂」を遣わして人質にした

 大化6年(650年)

 1月1日

 味経宮に行って

 賀正礼を行い、その日のうちに帰った

 2月9日

 穴戸国司の

 「草壁醜経」が

 「白雉(しろきぎす、白いキジ)」を献じた

 白雉元年(650年)

 2月15日

 白雉を観る儀式を行い、大赦し

 白雉(はくち、びゃくち)と改元

 穴戸国に

 「鷹」を放つことを禁じ

 同国の調を3年間免除

 4月

 新羅が使を遣わして調を貢いだ

 10月

 宮地にするために

 墓を壊されたり

 家を遷されたりした人に物を与え

 「荒田井比羅夫」

 に宮の堺の標を建てさせた

 「山口大口」

 が詔を受けて千仏の像を刻んだ

 安芸国に百済舶2隻を造らせた

 白雉2年(651年)

 6月

 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた

 12月30日

 大郡から新しい宮に遷り

 難波長柄豊碕宮と名づけた

 (大化元年12月9日に同趣旨の記事)

 新羅の貢調使の

 「知万」・・・知萬?

 が唐国の服を着て筑紫に着いたので

 その変更を咎めて追い返した

 白雉3年(652年)

 1月1日元日

 礼を終えてから、大郡宮に行った

 班田を完了

 3月

 難波宮に帰った

 4月15日

 僧「恵隠」を内裏に呼び

 『無量寿経』を講じさせ

 沙門「恵資を」論議者とし

 沙門1000人を作聴衆にした

 4月20日

 講じ終えた

 4月

 戸籍を造った

 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた

 9月

 宮が完成した

 12月30日

 天下の僧尼を内裏に呼び

 設斎、大捨、燃明した

 白雉四年(653年)

 5月12日

 遣唐使を送った

 一船の大使は

 「吉士長丹」

 副使は

 「吉士駒」

 別の一船の大使は

 「高田根麻呂」

 副使は

 「掃守小麻呂」

 5月

 病中の「旻法師」の部屋に見舞いに行き

 直接優しい言葉をかけた(白雉5年7月とも)

 6月

 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた

 「旻法師」の死を知り

 使を遣わして弔問し、贈り物をした

 法師のために

 多くの仏像、菩薩像を造らせ

 山田寺に安置

 7月

 難破した

 遣唐使船(高田根麻呂)

 の生存者5人の内

 筏を作って助けを求めた

 「門部金」

 を褒め、その位を進め禄を授けた

 皇太子(中大兄)

 が倭京に遷ることを請うたが

 天皇は許さなかった

 皇太子(中大兄)は

 皇祖母尊(皇極前天皇)

 皇后(間人)

 皇弟

 を連れて

 倭飛鳥河辺行宮に行った

 公卿大夫・百官の人らが

 皆随って遷った

 天皇は

 恨んで皇位を去りたいと思い

 宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った

 ↓↑

 白雉五年(654年)

 1月5日

 「中臣鎌足」に紫冠を授け、封を増した

 2月

 遣唐使を送った

 押使は

 「高向玄理」

 大使に

 「河辺麻呂」

 副使に

 「薬師恵日」(5月とも)

 7月24日

 西海使の

 「吉士長丹」

 らが、百済と新羅の送使と共に筑紫に着いた

 10月1日

 天皇の病を聞き

 皇太子が

 皇祖母尊・皇后・皇弟・公卿

 らを率いて難波宮に赴いた

 10月10日

 崩御元号「白雉」が使用されなくなった

 ↓↑

 孝徳天皇十年

 (654年

 (但し孝徳天皇十年12月08日は

      西暦655年1月20日))

 12月8日大坂磯長陵に葬られた

 ↓↑

 斉明天皇元年(655年)

 1月3日

 皇祖母尊が

 飛鳥板蓋宮で重祚

 ↓↑

 大化元年6月14日

 (645年7月12日)

 阿倍内麻呂

 蘇我倉山田石川麻呂

 中臣鎌足

 ↓↑

 大化五年3月17日

 (649年5月3日)

 蘇我倉山田石川麻呂

 中臣鎌足

 ↓↑

 大化5年3月25日

 (649年5月11日)

 中臣鎌足

 ↓↑

 大化五年4月20日

 (649年6月5日)

 巨勢徳多

 大伴長徳

 中臣鎌足

 ↓↑

 白雉二年7月

 (651年)

 巨勢徳多

 中臣鎌足

 ↓↑

 皇后 間人皇女

    舒明天皇皇女

 妃  阿倍小足媛

    左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)女

 皇子 有間皇子

 妃  蘇我乳娘

    右大臣蘇我倉山田石川麻呂女

ーーーーー

 ・・・白雉元年(650年)二月十五日・・・

 白記事元念(撚)(陸陌伍拾念)似解通 壱拾語 比


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