「ふざける=巫山戯る=不山戯る=フサンギる→附纂記留?」の当て字
2023/2/17・金曜日・・・追加添文・・・
・・・おしえてほしい・・・ワンサカ・・・
・・・「救われし時」・・・生きているモノが危機的な生死の境目で彷徨っている時に、なんらかのコトで「延命」と云う梯子を手に入れた時だろう・・・それは、自力的の場合もあろうが、それらの殆んどは他力的にダレかに、ナニかに「スクワレタ」と云うコトだ・・・結果、アリガタイか、ドウカは別問題だが・・・生きている限り、先行き「確かなモノ」と云うモノは「ナニモナイ」が、生きている「確証」は自分自身の手で鼻と口を塞ぐだけで簡単に判る。30秒も経てば息苦しくなり、それに耐えられなくなるのは確実に実感できる。今現在、息をして生きているコトは確かであるが、「脆(肉+危・もろ)い存在」としてである・・・ ハルらしいけれど・・・まだ、サビィ、ッ・・・
再三考・・・前々回に「確実」の「確」の「隺(冖+隹)」と、「鶴亀」の「鶴」の「寉(宀+隹)」の考察が曖昧だったようである・・・単純にいえば漢字の部首の「ワかんむり」か、「ウかんむり」の相違(相異)だが・・・「ワカンも無理(ム里)」、「ウカンも無理(ム裏)」・・・「ム=わたくし=私=ム=よこしま=邪・横島・横志摩・横縞・与故揣摩」・・・ ーー↓↑ーー 「確=石の寉(宀+隹)」の漢字か? or 「確=石の隺(冖+隹)」の漢字か? ↓↑ 「隺」は、「硬い」という意味の 「確実」の「隺(冖+隹)で 「寉」は、「高く飛ぶ」という意味の 「鶴」の「寉(宀+隹)=鶴」で 別字・・・ 確実の 「確(石+冖+隹)=石+隺 =「石(いし・セキ)の 冖(ベキ・ミャク・ワかんむり 冪・ 布で物を覆うこと・被せる) 隹(小鳥)」 ならば、飛べないことの確実性だろう・・・ 「鶴=寉+鳥 =宀(ベン・ウかんむり 交差して覆う屋根の形象・家屋) 宇・宙・空・寓・宮・塞・安・憲・家、 宇宙空間を遮って包み支えているモノ(?) 「宀=ウ」は屋根で空を仕切るモノ(?)ならば 屋根の上、屋根の下(軒下)の 隹(小鳥・ふるとり・舊鳥・旧鳥) 鳥 つる・カク・鳥の名 長いくちばし、首、足をもつ大型の水鳥 羽毛は部分的に頚と尾は黒、 身体は白、 頭は赤 くちばし(嘴・喙)が細長く、全身が白く 千年生きるとされ、・・・実際の野生では30年位 亀とともに長寿のたとえ たず・白い・細長く痩(やせ)たコトのたとえ」 鶴嘴(つるはし)=先端を尖らせて 左右に長く張り出した頭部を ハンドル部分に直角に連結した道具 唐鍬の一種 固い岩石、鉱石、岩場の地面や アスファルトを砕くために使われる ピカクス(Pick-axe) 硬い土を掘り起こすのに用いる道具 鉄製で両端または片方だけを 鶴の嘴のような形に作り 柄をつけたもの pickaxe・mattock ーー↓↑ーー 「隹」は更に分解出来る 「隹=イ(人)+主+丄」 「隹=イ(人)+亠+圭」 「隹=い(人)+亠+十+一+丄」 ーー↓↑ーー 伊勢・・・伊勢津彦=建御名方(タケミナカタ)神? 語源は「伊呂 勢(=弟)」? 志摩・・・しま=島・嶋・嶌 =縞 =揣摩 志摩市・・・北緯34度19分41.5秒 東経136度49分46.8秒 の 大王町~志摩町 にかけて 英虞湾を囲む部分を 「先志摩(さきしま)半島」 三重県東部、志摩半島、南部の地域 奥志摩とも呼ぶ 先志摩台地は 隆起海食台地としては日本最大 志摩半島 小さな島・岬・入り江(溺れ谷)の多い リアス式海岸が発達した地形 平城京跡から発見された 和銅五年(712年)木簡に 『志摩国志摩郡手節里』、・・・手節里 養老七年(723年)木簡に 『志摩国答志郡和具』・・・・・答志郡和具 の文字がみえる。 ↓↑ 答志(とうし)島 北緯34度31分 淡路島 北緯34度30分 出雲大社 北緯35度24分 平城宮跡 北緯34度41分 平城京 朱雀大路跡 北緯34度41分 伊勢神宮内宮 北緯34度27分 伊勢神宮外宮 北緯34度29分 ↓↑ 『和名抄』でも、 答志郷・和具郷との名が記録・・・ ・・・ナゼ、「答(こたえ・トウ)を志(こころざす・シ)」で、「和(にぎ・やわらぐ・ワ)の具(そなえ・グ)」なんだか、「和名抄」=「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)=平安時代中期に作られた辞書・承平年間(931年~938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂 した」・・・源(みなもと)の順(したごう)・・・ 「勤子(いそこ・キンシ)内親王 延喜四年(904年) ~ 天慶元年十一月五日(938年 11月29日) 醍醐天皇の第五皇女・四品 母は更衣・源周子 女四の宮 夫は右大臣・藤原師輔・・・臣下として初めて 内親王と結婚した人物 密通(?)の後に正式に 皇族と結婚した最初の相手 時代は「931年~947年」の 「承平~天慶」 「平将門の乱・藤原純友の乱」 ↓↑ 伊勢志摩 律令制以前は 島津国造の領域・・・「島津藩」は鹿児島・・・ 令制国設置に伴い 伊勢国が成立し、 志摩は伊勢の属領域 7世紀後半~8世紀初 志摩国として分立 8世紀初めまで、 嶋国、志麻国とも記録 ↓↑ 飛鳥・奈良時代 代々 内膳司の 高橋氏などが・・・・・高橋虫麻呂・・・日下部の浦島子 国司であったが、 志摩に赴くことはなかった・・・ ↓↑ 志摩国 面積が小さく 平地もほとんどなく 稲米の収穫量が少なかった 伊勢国や尾張国の田を 志摩国の口分田とし、 国衙や国分寺の費用を 伊勢国・尾張国・三河国 が負担した。 海産物を贄として、 宮中へ貢ぐ 御食(みけ)国の一つとされた・・・ ↓↑ 平城京発掘で出土した木簡 伊雑郷・名錐郷・船越郷 などの表記 海産物を貢租していた 船越郷は、 名錐郷に隣接する船越とする説があるが、 現在の 度会郡 南伊勢町 船越とするのが一般的・・・ ↓↑ 志摩国の領域 三重県の 鳥羽市・志摩市だけではなく、 度会郡南伊勢町、 大紀町の錦地区、 北牟婁郡紀北町、 尾鷲市全域 までが 志摩国 英虞(あご)郡に含まれていた・・・英語? 国府は 志摩市 阿児町 国府に比定 ↓↑ 守護代所が、 室町時代に 答志郡泊浦(鳥羽市鳥羽)にあった ↓↑ 天正十年(1582年) 紀伊新宮城主の 堀内氏善 と 伊勢国司の 北畠信雄 が 荷坂峠を境として、 それぞれが 紀伊国 牟婁郡 と 伊勢国 度会郡 に編入したため、 志摩国は現在の 三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された・・・ ↓↑ 安国寺 - 三重県志摩市沓掛・・・沓掛(くつかけ・トウケ)?・・・長野県中軽井沢の地名・・・「くつかけ」の「くつ」は「朽ちる」、「かけ」は「欠ける」?・・・信濃国小県郡沓掛村・・・「沓掛の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた」・・・「沓懸(くつかけ)」=「旅に草鞋(わらじ)を履き替え、古いものを神社の松の枝などに掛け、旅の平安を祈る習俗があり、地名はこれらの習俗から起こった」・・・ 「沓」=「くつ(足を覆うように作った履物の総称」・・・一般的な漢字は「靴(くつ・革靴・軍靴)・履(ぞうり・草履・草鞋・足袋)」だと思うが・・・「沓=水+日」が「くつ」?・・・「舞踏会」の「踏(ふむ・トウ)」 「踏」=足 + 沓=口+ト+人+水+曰」 タリのクツ 口で占う人、ミズのイワク 拾 の沓・・・天智天皇の「沓」を拾った? 藤の木古墳の「沓」? だろう・・・ 「沓=くつ・はきもの・かさなる・かさなりあう・トウ・こみあう=雑沓・よくしゃべる=饒舌(冗舌)=お喋り・沓沓・むさぼる(貪る)」・・・「沓石(くついし)=礎石の上、柱や縁の束柱(つかばしら)の下に据える石・根石(ねいし)・礎盤(そばん)・束(床の下に使う束)の下に敷く石が束石、外の柱が腐らないように沓のように履かせる石が沓石」、「沓手鳥(くつてどり・ほととぎす=時鳥・不如帰・杜鵑)」・・・ 「郭公(かっこう)」は「ホトトギス」なのか? 「郭務悰」・・・郭(囲む廓)の務(つとめ)は悰(忄=立身弁の宗=ウを示す)・・・ 「ほととぎす」の異名、別名・・・ 杜鵑・時鳥・子規・不如帰・杜宇・蜀魂・田鵑 霍公鳥・霍公・郭公・杜魂・布谷・無常鳥 黄昏鳥・夕影鳥・菖蒲鳥・初時鳥・山時鳥 沓手鳥・山郭公 ・・・「沓の手の鳥」って?・・・ ーーーーー ・・・「沓」の漢字を上下に入れ替えたら「泉」・・・「泉水」の象徴は「蘭学」・・・「鳴瀧(滝)塾」・・・
・・・「海豚(hai-tun=ハイ-トゥン)=いるか=入鹿=dolphin(ドルフィン)=delphinus(デルピーヌス・デルフィーヌス)」の問題・・・「イルカ(海豚、鯆)は、哺乳綱鯨偶蹄目クジラ類ハクジラ亜目に属する種の内、比較的小型の種の総」・・・「英語での“Dolphin”と“Whale”の呼称の区別は、日本語の「イルカ」と「クジラ」の区別とほぼ共通する。例えば小型ハクジラ類のうちゴンドウクジラについては英語では“Whale”と呼びクジラとして扱う点で日本語と共通する。ただし、日本語で「イルカ」と呼ばれる種のうちネズミイルカ科のものは、英語では“Porpoise”と呼んでいて、“Dolphin”とは区別している。イルカやクジラに最も近い陸上生物はカバ類である」・・・「河馬=hippopotamus(hìpəpˈɔtəməs)」
・・・「魁罡(カイゴウ)=鬼(甶儿ム)+斗+罒+正(一ト丄・一止)」=「庚戌、庚辰、戊戌、戊辰、壬辰=河馬」 ・・・「河馬の神」・・・「邂逅=思いがけない出あい・偶然の出あい・めぐりあい」・・・「カイゴウ=改号・会合・皆合・開合」・・・「カイゴウ=解合・海合・回合・戎合・歌意合・甲斐合・蝦夷合」・・・「カイゴウ=化意合・下意合(古事記の下意の音?=此X字以音=自X下三字以音)」・・・ ーーーーー カバ(河馬) 古代エジプト タ・ウレト、タ・ウェレト ギリシア名 トゥエリス 別称・別綴り イミティ・ネヌン(ヌンの中にいるもの) イピ(後宮・気に入りの場所) オペト(天) レレト(雌豚) ネベトアケト(地平線の女王) 別称の 「イミティ・ネヌン」 「イピ」 「オペト」 役割を分担する十四人の「母なる女神」 十二の月の後見する「十二人の女神」 災いの五日間 (一年のどの月にも属さない。 ゲブとヌトの、五人の子供たちが誕生した日) を守護する「五人の女神」を統括する 王権との結びつきは薄く、 庶民の守護神に特化 北天の星座がカバに結び付けられたことから、 王家の谷ある セティ1世の墓の天井に 天の女神として描かれている 「カバ座」=「りゅう座」 カバ神 「トゥエリス女神」 「ライオンの足 ワニの尻尾を有する 妊娠しているメスのカバ」 エジプトのデンデラ神殿の天井に 紀元前千年頃に描かれた星図に、 カバの女神 ーーーーー 白イルカ Beluga whale white whale Delphinapterus leucas バンドウイルカ Common Bottlenose Dolphin Bottlenose Dolphin その仲間 ミナミハンドウイルカ Indo-Pacific bottlenose dolphin ブルナンイルカ Burrunan dolphin カマイルカ Pacific white-sided dolphin ーーーーー dolphin イロワケイルカ Commercon's dolphin カオシロイルカ white-headed dolphin カマイルカ Pacific white-sided dolphin コシャチイルカ Heaviside's dolphin スジイルカ blue-white dolphin シロハラセミイルカ white bellied right whale dolphin セッパリイルカ Hector's dolphin porpoise コハリイルカ Burmeister's porpoise whale ゴンドウイルカ pilot whale ヒレナガゴンドウ (long-finned pilot whale) コビレゴンドウ (short-finned pilot whale) セミイルカ Pacific right whale ーーーーー ・・・「(蘇我)入鹿=イルカ=射る鹿=射る猪(亥・豚)=海豚(いるか・ゐるか)」・・・袈裟襷文銅鐸、香川県出土の銅鐸の絵(繪)「猪を射る人」・・・
・・・4月7日(金)、19時00分~爆報!THE フライデーで、オバァちゃんになった「黛ジュン」をみたけれど。「イタコ」のお告げで「婚約=コンヤク=艮訳」を解消ですか・・・「ふざける」の当て字が「巫山戯る=不山戯る=フサンギる→怖算木留?」だから・・・「恋のハレルヤ(1967年)・愛がほしいの・愛の奇蹟・乙女の祈り・風の大地の・子守り唄・悲しみよ今日は・キャント-バイ-ミー-ラヴ・霧のかなたに・雲にのりたい・真赤な太陽」・・・この「雲にのりたい」が一番印象的・・・歌詩はほとんどが「なかにし礼」の作詞・・・「黛 ジュン(まゆずみ ジュン、1948年5月26日戊子・丁巳(戊・庚・丙)→沖戊←辛亥~)・本名、渡邊 順子(わたなべ じゅんこ)・作曲家の三木たかしは兄」・・・なぜ、「黛(代+黒)=まゆずみ=眉墨・黱=黱 」の芸名にしたんだろう?・・・「黛=タイ・まゆずみ・まゆ・かきまゆ・化粧品(まゆがき)・黛青・眉黛(ビタイ)・青々とした山や樹木・翠黛(スイタイ)・眉黛(ビタイ)・粉黛(フンタイ)・緑黛(リョクタイ)」、「濃い青色・黒青色・山や樹木の青黒い色の形容(姿・様子)」・・・「黛」=「イ(人)の戈(ほこ・矛・鉾・鋒・戞・戛」で、「里」が「灬(烈火・裂罅=裂けてできた隙間・裂け目・割れ目・ヒビ・罅隙(カゲキ)・罅裂(カレツ)・裂罅(レッカ)=燃え上がる」→「レッカ(劣化)」・・・「村里が焼き払われた跡=黛」・・・???・・・「上皇(白王)」、「上后(厂一口)」・・・「午後=午后=午(うまの刻)、正午・正午~夜の子(12時までの時間・―六時⇔午前・正午~日没までの時間=ひるすぎ・午後一=昼休みが終わって、午後の業務の始まった直後」・・・「后=コウ・ゴ・きさき・君主・后王・后妃=皇后 (こうごう)・三后・母后・立后・皇太后 (コウタイゴウ・うしろ・のち・午后 は午後と通用」・・・「天皇」、「天后」ですか・・・ 「チン=朕=チン=肉+关(笑)」の声符の漢字、「眹・𠗲・勝・塍・幐・滕・榺・縢・螣・賸・謄(肉誉・月誉)・騰(肉𠔉馬・月𠔉馬・月龹馬)」と「黱=肉+𠔉(龹)+里+灬」・・・ 「𢍏(𠔉=膝が曲がる意味)=ハ+二+人」、「ケン、カンの音声の形声説、𢍏+刀の会意説がある・音読みはケン、訓読みは、 わりふ(割符)」・・・ 「ワリフ」ならば、「魚拳」の問題だろう・・・逸文の「魏略」は逸聞の「魏略」か?、存在しないモノは「証明」できない「悪魔の証明物」である?、「カミの証明物」でも同じか・・・兎に角、隠滅・湮滅されたら「証明」は如何しょうもない・・・「『南スーダン陸自日報』『「ジュバで戦闘」明記』『「廃棄」一転開示 PKO停止危惧』8日付 東京新聞朝刊・防衛省が廃棄したと説明していた陸上自衛隊の南スーダン PKOの日報が7日開示」・・・無いモノは無い、だがアッタ・・・物証=ブッショウ=物象=仏性か?・・・「倭人自ら太伯の後と謂う」、「呉の太伯の子孫」が「天つ神・皇孫」?・・・「《說文》, 解釋、部居、相關異體は豢、以穀圈養豕也。从豕,𢍏聲。〔胡慣切〕 (197 / 195), 豕 ... 字庫統計; 常用頻次序表; 隨機漢字 · 最近被搜索的漢字 · 使用凡例; 常見問題; 製作單位 · 私隱政策 · 免責聲明 · 意見簿. (管理員). 在線人數」、「攷慮到楷書部件的「龹」有另一來源(來自「𢍏」、「卷」、「券」、「拳」等字的上部,或參「𢍏」、「灷」之例),若是不做區分的話在隸定」・・・挙手・・・「挙(擧・キョ)=あげる・あがる・こぞる・高く持ち上げる・挙手・多くのものの中から取り上げる・挙用・科挙・推挙・選挙・枚挙・列挙」、「事を起こす・起こした事柄・挙行・挙式・挙兵・一挙」・・・「豢」≠「拳」≠「挙」・・・?・・・ 「𨤜=釆+豕」、「豢㹖(カン・ゲン)=穀物を餌とする家畜(ブタや イヌなど)の飼育・穀物を与えて飼育・𢍏+𧰨(豕)=𨤜・䝏=豕+𧲕=ロウ・ル=牝の豕(いのこ)」・・・ 「漢書」は初めての 「断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)形式」をとった歴史書・・・? 「断代史」は、一つの王朝に区切った歴史書の意味なのか? 「班固が 『史記』と 未完の 『後伝』を整理補充して 『漢書』を制作。 ただし、その 八表と・・・・・・・「八表」ってナニ? 天文志は 未完であり、 和帝の時、・・・・・「和帝」ってダレ? 妹の 班昭 と 馬続・・・・・・・・「馬」が「続」って、「司馬遷」か それとも 「瑪拉基書=マラキ書」 「馬太福音=マタイ伝」 「馬可福音=マルコ伝」 「羅馬書=ローマ人への書簡・手紙」 「馬の続き」によって完成された、って? ーー↓↑ーー 古舘さん司会の「サイトウ」の「名字(みょうじ・苗字)」も面白かったけれど、「斎宮」=「いつきのみや」・・・「斉藤・斎藤・齊藤・齋藤・西藤」、判子屋は襤褸(ぼろ)儲け・・・ 「経済」の「済=氵(水・さんずい) + 斉 (斎=文丿示 | 齊=亠刀Yノレ乀丿二 | 齋=亠刀Yノレ乀丿示 |)」 「サイトウ=西塔・西東・賽等・歳等・祭等」の 「差異トウ」だろうが、 「判子(はんこ)」は 「漢書(かんじょ?ナゼかカンショではない)」 を編纂した 後漢の 「章帝」の時の 「班彪」の・・・史記は武帝で中断未完成 息子の 「班固」、 娘の 「班昭」 らのハンコ(印鑑・印章)が押印されたモノ? 「漢書」は前漢の歴史書 「二十四史」の一つ 「本紀・十二巻」、 「列伝・七十巻」、 「表・八巻」、 「志・十巻」 の計 「百巻」 から成る 「紀伝体」。 前漢の成立から 「王莽」政権までの記録・・・ 「王莽(オウモウ)」の 「莽=サ+一+大+廾」は 「𢍏(ケン・カン)=釆(とる・サイ)+廾=ノ+米+廾」に、 観た目が、似ている漢字?だと思うが・・・ 「奔放=ホンポウ=奔流・本邦・本俸」・・・本邦=日本 ーー↓↑ーー ピアニストの「上原ひろみ(1979年3月26日~)」さんもスゴイッ!のは既に記したが・・・ジャズに「音譜」があるなんてのも不思議だ・・・アレンジ(arrange)・・・「アラン字」だろう・・・ ーー↓↑ーー 「則天武后」はもっとスゴイッ・・・ 則天大聖皇帝 則天順聖皇后 ーー↓↑ーー 王朝 武周 在位期間 690年10月16日~705年2月22日 都城 長安 姓・諱 媚娘→武照(武曌) 諡号 則天大聖皇帝 則天順聖皇后 生年 武徳7年1月23日 (624年2月17日) 没年 神龍元年11月26日 (705年12月16日) 父 武士彠・・・武士を尋ね蒦(はかる・カク・獲得) 蒦=ワク・クワク・キャク・カクヤク・カク・ヤク はかる・ものさし・のり・はかり 〔方言・第五〕に「篗・榬なり」 〔説文解字〕の本字は「籆」で、 〔説文・巻五〕に「絲を收むる者なり」 〔玉篇〕には 「籆(竹隹又)=榬なり」 「籆=糸を巻き取る道具・糸巻」 「又州名・《篇海》漢宜春縣,隋置 袁州 又姓・《通志·氏族略》袁氏・嬀姓・舜後 陳胡公之後裔 胡公生申公 申公生請」 「榬・獧・辕・媴・猿・袁」 字形: 形声で声符は蒦 音訓: 音読みは「ワク(漢音)」 「蒦(わく)」の地名 福島県伊達市月舘町布川 字 蒦ノ内(わくのうち) 福島県伊達市月舘町布川 字 蒦ノ内山(わくのうちやま) 熊本県阿蘇市黒川 字 蒦引川原(わくひきがわら) 母 楊夫人 陵墓 乾陵・・・乾(十日十ノ一乙)=いぬい=戌亥・・・北西 ーー↓↑ーー 誕生 死亡 624 甲申(己・壬・庚) 705 支合 乙巳(戊・庚・丙)偏財 沖(己) 002 丙寅(己・丙・甲) 012 戊子(壬・ ・癸)印綬 干合(壬癸)・偏印-正官-正財 017 辛卯(甲・ ・乙) 016 支合 戊戌(辛・丁・戊)印綬 午未=空亡 ↓↑ 705 乙巳(戊・庚・丙) 012 戊子(壬・ ・癸) 016 戊戌(辛・丁・戊) ーー↓↑ーー 則天武后は「戊子(鼠)」ではなく、「甲申(猿)」の誕生?なら「サル年生まれ」となるが・・・「猿女=宇受女(渦目・臼目・有珠目)」と「猿田彦(提督)」が重なる、が・・・ ーー↓↑ーー 「上皇・上后」・・・「天皇・皇后」の初出の「皇后」の意味は「皇の后=あと=後」・・・「后=厂+石」喜咲=キサキ・きさき=記作(詐)紀・・・「启=戶口・户口」=ひらく・はじめる・ケイ=open, begin, commence, explain.」・・・ 「短い手紙=谢启礼状」、「開く、開ける=开启=開く」、「指導する、教える=启发」、「始める、開始する=启行=出発する」、「申し述べる=敬启者拝啓」・・・ 年号 光宅:684年 垂拱:685年 - 688年 永昌:689年 載初:689年 - 690年 天授:690年 - 692年 如意:692年 長寿:692年 - 694年 延載:694年 証聖:695年 天冊万歳:695年 万歳登封:695年 - 696年 万歳通天:696年 - 697年 神功:697年 聖暦:698年 - 700年 久視:700年 - 701年 大足:701年 長安:701年 - 704年 「曌」は「照」の則天文字。 ーー↓↑ーー 利州 都督 武士彠 と 楊夫人の間に 次女として生まれた 諱を 照 幼名を 媚娘 12歳 父が死去 14歳 太宗の後宮に入り 才人(妃の地位。正五品) 当初は 太宗の寵愛を受けていたが 宮廷に 「唐三代にして、女王昌」 「李に代わり武が栄える」 との流言が蔓延し 「武照の聡明さが 唐朝に災禍をもたらす」 と疑い 太宗は、 武照を疎遠にした 李君羨という武将が 「武が栄える」の 「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑 太宗は李君羨の処刑後もなお 武照と距離を置き続けた 太宗の子である 李治(高宗)が 武照を見出し、 太宗に殺害されることを恐れた 武照は李治を籠絡し、 李治は妄信的に 武照を寵愛した・・・ ーー↓↑ーー 太宗の崩御 出家 だが、 額に焼印を付け 仏尼になることを避け、 女性の 道士(坤道)となり 道教寺院(道観)で修行 太宗の後継者である 高宗の皇后だった 王皇后と、 高宗が寵愛していた 蕭淑妃が対立 王皇后は高宗の寵愛を 蕭淑妃から逸らす為、 高宗に 武照の入宮を推薦 武照が 昭儀(後宮における上から5番目の地位) として後宮に入宮 高宗の寵愛は王皇后の狙い通り 蕭淑妃から逸れ 同時に 王皇后自身も 高宗から疎遠となった・・・ ーー↓↑ーー 立后 永徽六年(655年)六月 昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を 新たに設けた 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、 宰相の 韓瑗と 来済の反対で実現はしなかった 中書舍人 李義府などの側近が 皇后廃立と 武照擁立の意図を揣摩し、 許敬宗、 崔義玄、 袁公瑜 等の大臣が結託し 高宗に 武照立后の上奏文を送った。 高宗は 王皇后を廃して 武照を皇后に立てる事の是非を 重臣に下問 ーー↓↑ーー 長孫無忌 朝廷の主な人間 太宗の皇后の兄 ↓↑ 褚遂良 高祖 李淵と同じ 北周八柱国出身の 于志寧 ↓↑ 太宗の下で 突厥討伐などに戦功を挙げた 李勣 ↓↑ の四人 ↓↑ 長孫無忌と褚遂良は反対 于志寧は賛成も反対もせず 李勣は 皇后の廃立を容認 ↓↑ 10月13日(11月16日) 高宗は詔書を以て、 「陰謀下毒」の罪 により 王皇后と蕭淑妃の二名を 庶民に落として罪人として投獄 同二名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪 7日後、 高宗は再び詔書を発布 武照を立后 諫言した 褚遂良を潭州都督へ左遷 11月初旬 皇后になった武照は 王氏(前皇后)と 蕭氏(前淑妃) 棍杖で百叩きにし 処刑 ーーーーー ・・・「嫉妬」って、オッソロシイ・・・
ーーーーー
・・・???・・・
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古事記字源
と
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