「オオクニヌシ」が担いだ袋
・・・「粋=米+九+十」は「粹=米+亠+人+人+十」・・・「裴粋」って?ナニ・・・「裴=非+衣」は「布袋=ぬのぶくろ・嚢・橐・囊・ナップサック(knapsack)・リュックサック(rucksacka・ rucksack)・ザック(Sack)・ランドセル(オランダ語の ransel・背嚢)」・・・「オオクニヌシ」が担いだ袋は頭陀袋(ずだぶくろ)?とは思えない大きな袋・・・「非+α」って結構あるけれど・・・「悲・斐・棐・蜚・翡・輩・裵」・・・「『日本書紀(巻第二十二)』・十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮-小野-臣-妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」、「推古天皇十五年(607年)、鞍作福利らと大唐(隋王朝)に渡る。推古天皇十六年(608年)に裴世清を伴って帰国。ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失。一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された」・・・「裴世清」・・・ 「裵=亠+非+𧘇(衣)・異体字は裴・裶・声符は非・俳・䩁・屝・ 排・痱・腓・誹・霏・𡌦・鯡・悲・㹃・𦋛・𧕿・𨛬・匪・餥・徘・斐・𥇖・菲・䠊・靡・婓・扉・琲・翡・䤏・厞・騑・悱・棐・緋・蜚・輩」・・・「吾輩は・・・デアル」・・・ ーーーーー 渤海国 振(震)国が成立 ↓↑ 698年 大祚栄によって政権が樹立 668 年 唐が高句麗を滅ぼした後 営州(遼寧省-朝陽)に 強制移住させられた 高句麗人や靺鞨人 たちが、 漢人都督を殺害し 営州を捨てて 元の(吉林省-敦化=渤海の初期の都)に移住 渤海 ↓↑ 712年3月9日・・・「古事記・序文」上奏(奏上) 和銅五年正月二十八日 ↓↑ 713年・・・・・・地誌(風土記)編纂の官命 大隅国を新たに設置 唐の 玄宗皇帝が・・・長安城内 化度寺の無尽蔵院(三階寺院)を破壊 大祚栄に 「渤海郡」王の称号を与えた ↓↑ 第二代王 大步芸(步王) ↓↑ 737年 第三代王 大欽茂 が即位 762年 唐は郡王から国王号を 大欽茂に与えた ↓↑ 818年 第十代 大仁秀 が即位 ↓↑ 一蹶不振(イッケツフシン)=再起不能 萎靡不振(イビフシン)=萎靡して振るわず 椀飯振舞(おうばんふるまい) 大盤振舞(おおばんぶるまい) 金声玉振(キンセイギョクシン)=全て整っているもの 振臂一呼(シンピイッコ)=自分自身を奮い立たせること 奮起歓声 立居振舞(たちいふるまい) 起居振舞(たちいふるまい) 発蒙振落(ハツモウシンラク)=極めて簡単なことのたとえ 竜驤麟振(リュウジョウリンシン)=勢力旺盛 ↓↑ 震恚・震怒・震域・震央・震撼・震駭・震悸・震恐 震悚・震慴・震懾・震怖・震驚・震懼・震眩・震源 震災・震死・震粛・震悚・震慴・震懾・震怛・震旦 震度・震怒・震恚・震悼・震蕩・震盪・震盪・震蕩 震動・震怖・震服・震幅・震雷・震慄・威震・遠震 ↓↑ 祚=礻+乍・示+乍 さいわい・しあわせ・ソ 天から授かった幸福 天子の位 年 初代の人が切り開き 後世に伝えた国の福運 祖先から伝わる王朝の君主の位 天からくだされる幸福 福祚 天子の位 皇祚・聖祚・践祚・重祚・帝祚 天祚・福祚 門衰祚薄=一族の勢いが弱くなって 幸運に見放されること 祚=示+乍 「乍=木に斧を入れた様・切り開くの意 祖先が切り開き伝えられた 君主の地位 強震・驚震・激震・軽震・地震・弱震・制震・大震 耐震・本震・微震・免震・余震・雷震・烈震・震霆 震天 震天動地・震天駭地・震天駭地・震天動地 ーーーーー 則天武后 (623~705.12.16) 武徳六(623年)~神龍元年十一月二十六日(705.12.16) 永徽二(651年)五月、再度入宮 入宮前懷孕、 入宮後生下兒子李弘(652~675) 永徽三(652年)五月、二品昭儀 永徽六(655年)十月 武則天皇后 ↓↑ 王朝 武周 在位期間 690年10月16日 ~ 705年2月22日 都城 長安 姓・諱 媚娘→武照(武曌) 諡号 則天大聖皇帝 則天順聖皇后 生年 武徳七年一月二十三日 (624年2月17日) 没年 神龍元年十一月二十六日 (705年12月16日) 父 武士彠・・・彠=尋(ヨエロ寸)+蒦(艹隹又) 母 楊夫人・・・楊=木(十八)+昜(日一勿・易+一) ↓↑ 「太平公主(タイヘイコウシュ・おほのたいら?)」 太(おほの)・平(たいら) 665年?~713年 唐の皇帝 高宗の娘 母は武則天(則天武后) 「公主」は皇帝を父に持つ皇女の命名 太平公主は父母ともに皇帝 『全唐文(清代1814年)』の記録では 本名は 「李令月」 麟徳二年(665年) 高宗の末の娘として生まれる 八歳 「太平」の号を授けられた 武則天は娘の太平公主を寵愛 吐蕃から公主の降嫁の願いを拒否 ↓↑ 681年 薛紹(城陽公主の息子で従兄弟) に嫁して二男二女を生むが 夫は皇族・李沖の謀叛に連座し獄死 ↓↑ 684年1月3日~2月26日 中宗(高宗の七男・母は則天武后) 即位後、54日で廃位、荊楚に流刑 当初は「周王」 後に 「英王」 に改封 姓・諱は李顕 諡号は「大和大聖大昭孝皇帝」・・・? 大和(やまと) 大聖(おほひじり) 大昭孝(おほあきたか)皇帝」 ↓↑ 孝昭天皇の上下逆配置文字 懿徳天皇五年~孝昭天皇八十三年八月五日 第五代天皇 (在位は孝昭天皇元年一月九日~八十三年八月五日) 「観松彦香殖稲天皇(日本書紀) (みまつひこかえしねのすめらみこと)」 「御真津日子訶恵志泥命(古事記)」 ↓↑ 同母弟の李旦(睿宗)が即位したが 684年2月27日~690年10月16日 ↓↑ 690年 武攸曁 に嫁いで二男二女を生む ↓↑ 母の武則天が垂簾政治 母の相談役として 武則天政権の一翼を担う ↓↑ 690年 母は皇帝に即位 武周王朝 母が病に倒れた後 母の愛人であった 張易之 張昌宗 兄弟が専横 ↓↑ 武則天・・・ 705年2月22日退位~705年12月16日死亡 武則天の寵愛者 張易之・昌宗兄弟を除くために 神龍元年一月二十四日(705年2月22日) 宰相 張柬之は 中宗(高宗の七男・母は則天武后) を 東宮に迎え 兵を発し張兄弟を斬り 武則天に 則天大聖皇帝 の尊称を奉ることを約束し 退位させた 中宗(高宗の七男・母は則天武后)が復位し 国号は唐 武則天自身は太后 太平公主 武三思 などは権力維持 706年(神龍二年)5月 乾陵に高宗と合葬 ↓↑ 武韋の禍 宰相 張柬之により 武則天は退位 唐王朝に復帰 張兄弟と組んでいた 従兄弟の 武三思が 張柬之を失脚させ 安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と結び ↓↑ 710年 不倫の暴露を恐れた 安楽公主・・・中宗の娘・母は韋皇后・本名を李裹児 武三思の子、 武崇訓に下嫁 武崇訓の死後 安楽公主は 武延秀と私通を重ね 後に武延秀へと嫁いだ が 韋后・・・・・韋=なめしがわ わらかくした動物のかわ 韋革・韋脂・韋帯 韋駄天・韋陀天 韋編(イヘン) 韋編三絶(イヘンサンゼツ) と組んで 中宗を毒殺・・・娘と妻に毒殺された・・・ 韋后が 温王 李重茂(殤帝)を擁立して傀儡としたが 太平公主は 甥の 臨淄王だった 李隆基(玄宗)と謀り 韋后・安楽公主とその一族を誅殺 ↓↑ 710年7月25日 隆基(玄宗)の父の 相王 李旦(睿宗、太平公主の同母兄)を即位させ 皇妹として 太平公主の権勢は頂点 万戸の封を与えられ 所生の男子3人もそれぞれ王に封ぜられ 一族も高位高官を占めた 宰相の 姚崇・張説 を左遷させ専権を極め 今度は 皇太子・隆基(玄宗)と対立 ↓↑ 712年9月8日・・・・和銅五年 睿宗が皇太子・隆基(玄宗)に譲位 皇帝(玄宗)と 太平公主の対立激化 太平公主は玄宗の廃立を謀るが陰謀が露顕 ↓↑ 713年=癸丑・・・・和銅六年 先天二年、開元元年 皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し 公主に死を賜った 玄宗の独裁体制が確立し 「開元の治」 へ・・・ ↓↑ 和思-趙-皇后(?~675年5月7日) ・・・和思=倭思う趙(走肖) 「趨(はし)ること趙(おそ)きなり(説文解字)」 遅いこと 「猶ほ超騰のごとし(穆天子伝・北征趙行の注)」 速いこと 超と通じ、超える・・・越える 形声で声符は「肖」 「肖=似る・象(かたど)る・ショウ」 中宗の皇后 中宗(李顕)の 英王時の正妃(后追、和思皇后) 父の 趙瑰は 括州刺史へ左遷 同時に 母の 常楽公主(高宗の十九番目の娘)も 随行厳命。 越王 李貞 挙兵謀反。 武則天は 常楽公主(趙瑰は夫・中宗の和思皇后の母) 承諾のもとの謀反と断じ 謀反は失敗 興に遭って弾劾 夫、 趙瑰は監禁され 常楽公主は 「虺(まむし・キ・カイ・ケ)=兀+虫」 と改姓され 公主夫婦は辱めに耐えらず獄死 ↓↑ 娘の 「和思皇后」趙氏は 「中宗の妃(和思皇后趙氏)」 京兆、長安人。 祖は趙綽、 武紱中以戰功 至右領軍衛將軍。 父は趙瑰 母は高祖の女、 常樂公主、 歷遷左千牛將軍。 中宗、為英王時、納后為妃。 既而妃の母、公主、得罪 妃亦坐廢 幽死於內侍省。 則天臨朝 瑰為壽州刺史 坐與越王 貞連謀被誅 公主亦坐死。 神龍元年 贈后謚為恭皇后 贈瑰左衛大將軍。 及 中宗崩, 將葬於定陵 議者 以 韋后得罪 不宜祔葬 於是 追謚后 為 和思 莫知瘞所 行招魂祔葬之禮。 太常博士 彭景 直上言 「古無招魂葬之禮 不可備棺槨,置轀鬻京。 宜據《漢書郊祀志》 葬黃帝衣冠於橋山故事, 以皇后禕衣於陵所寢宮招魂, 置衣於魂輿,以太牢告祭, 遷衣於寢宮, 舒於御榻之右, 覆以夷衾而祔葬焉。」從之。 ↓↑ 常楽公主 (?~688) 高祖の十九女 下嫁 趙瑰。 娘は 中宗李顕の 英王時、 正妃(后追、和思皇后) 趙瑰は括州刺史へ左遷。 同時に 常楽公主 随行厳命。 越王 李貞 挙兵謀反。 武則天は 常楽公主承諾のもとの謀反と見。 謀反は失敗 興に遭って弾劾 常楽公主の 夫、 趙瑰を 監獄。 常楽公主、改姓“虺(まむし)” 公主夫婦は辱めに耐えらず 獄中自殺。 ↓↑ 趙瑰 (?~688) 高祖の十九女 常楽公主の夫 ↓↑ 趙氏王妃(?~675)(崔漫莉) 母は高祖の第十九女 常楽公主(?~688) 父は趙瑰(?~688) 李顕(中宗)が 英王時の英王妃。和思趙皇后。 和思順聖趙皇后。 中宗(李顕)の趙夫人。 京兆郡 長安の人。 武后(則天武后)に 憎まれて幽閉 父の趙瑰は 括州に左遷 趙氏は牢に入れられ 護衛が煙突から数日煙が出ていないことを知り、 覗いたところ、死体がすでに腐敗 中宗が崩じたのち、 韋后が廃殺されたので、 趙氏が 皇后の尊号(和思)を 加えられて弔われた。 ーーーーー ・・・中宗の諡号は「大和大聖大昭孝皇帝」で、次男には「懿徳太子(李重潤)」の名前を有する人物も居る・・・ 李 重潤(リジュウジュン) 683年~701年 初名を「李重照」と称したが 武則天の諱を忌諱して 「李重潤」と改名 中宗と韋皇后の間に生まれ 誕生直後に 「皇太孫」に封じられたが 中宗が廃位され 「房州」に流されると、 「李重潤」も皇太子(皇太孫)を廃された 聖暦年間に中宗が皇太子に復位すると 「李重潤」は 「邵王」に封じられた・・・ 「701年(大足元年)・・・「大足=大迹」?・・・継体天皇? 永泰郡主 李仙螵、 魏王 武延基とともに 張易之、 張昌宗 に関し謀議を行ったとして 武則天により死を賜った」 「706年 中宗が即位 自殺に追い込まれた 李重潤を悼み 懿徳太子・・・懿徳天皇 綏靖天皇二十九年 ~ 懿徳天皇三十四年九月八日 日本の第四代天皇 在位 懿徳天皇元年二月四日 ~ 懿徳天皇三十四年九月八日) 和風諡号 「大日本彦耜友天皇(日本書紀) (おおやまとひこすきとものすめらみこと)」 「大倭日子鉏友命(古事記)」 と追封し、 皇太子の格式で改葬し 乾陵・・・「乾=十日十乞」? に埋葬 死去に際し、 正妃を娶っていなかったため 中宗は 国子監の 裴粹の早世した娘との 冥婚を行い合葬」・・・ 「裴=たちもとおる・ハイ・ヒ・ベ 衣服が長くひらひらとするさま 左に右にとそれて、歩き回る 衣服の長いさま・裴裴 たちもとおる・ぶらぶら歩く・裴回・徘徊」 「裴」は「long sleeve=長袖」ってコトだろう・・・ 「振り袖 a long (hanging) sleeve 着物 a long‐sleeved kimono」・・・ ーーーーー ・・・「裴・世・清」・・・ゴミ袋・・・
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