「カイ」のカンジ・・・
・・・午前中にシャーワーを浴びて「歯医者」さんへ行ってきた・・・先月(5月)の22日(金)の予約だったのにボケで日にちを間違えて、再予約してのコト・・・朝から「天気晴朗なれど風強し」・・・前回は失敗作の写真だったが、帰りの道でピンネッシリの頭がチョコッと観えるモノを撮ってきたが・・・
・・・帰ってきて屋根のペンキでも塗ろうかと思ったが、体調が崩れて暫く寝込んでしまった。あんなに好きだった風呂とシャワー。ここに来てからは体調が悪くなるようだ。当然、嫌いになるし、不潔になる・・・風も強いし、起き上がってからの仕事は洗濯だけ・・・それでも食欲だけはある・・・ココに来てからモモちゃんと一緒に「生きているコト自体」が「生き甲斐」になっているが、「甲斐」と云う程のものはないが、興味のある好きなコトはワンサカある。「イキ甲斐」とは「自己満足の世界」かも・・・「職人自身の繊細で精密な技術」は「自己満足」かも・・・「有名な・・・家」と云われる「専門家」は「自己保身」かもだが「有名になった後のハナシ」・・・いずれにしても「社会的労働」は結果、「他人の為の労働」でもある。好きなコトが出来るのは自分自身の時間的余裕があってコソのハナシではあるカナ・・・ 個々人の知識吸収の為の勉強も結果、「他人の為の勉強」ではあるハズだが・・・「詐欺師のワル知恵」も、「現実にはヤクに立たない地震学者の知識」も「専門家」ではあるナ・・彼らが「やり甲斐」を感じるのは、その「結果」であろうが・・・問題は「行政家=政治家」だが、「多くの人びと」を救えるかどうかは「?」である。最大の問題は「個々人の現実的な知識と知恵と実践行動」であるが、「お上(うえ)任せ」で「依存意識」ではあるカナ・・・ で、「生き甲斐・働き甲斐・遣り甲斐・やった甲斐があった・あんたの苦労の甲斐・我慢のし甲斐・甲斐性なしの男」の「甲斐(かい)」の漢字だが・・・ブログ辞典、記事を調べると、 ーーーーー 甲斐(かい・かひ・カンビ・コウビ・コウヒ) 甲斐=甲+斐 甲=口+十・・・「口の十」とは口を閉じるか、 口を重ねる・・・ きのえ・コウ よろい・かぶと カメやカニの体を覆う硬い殻状のもの こうら 「亀の甲より年の劫」 手や足のおもての面 手首から先の上側の部分(手の甲) 足首から先の、地面に接しない部分(足の甲) 十干の第一・きのえ 五行は木・陰陽は陽・大樹 甲星=木星・・・実星(左回り星)の ジュピター・ユピテル・ゼウス 乙星=太歳星・・仮(虚)の木星で暦上の 「年歳星(右回り)」・・・? 成績などの第一位 「甲種合格」 複数の物や人を区別するときに、 その名の代わりとして用いる 「旧制高校の文科甲類」 「甲が舎利になる」は 堅い鎧(よろい)が粉々に砕け、 火葬後の骨のようになる意で 滅多(めった)にありえないことの譬え 「甲に着る」は 他人の威光を借りたり、 自分の地位を利用したりして 威張(いば)ることのたとえ 「笠に着る・虎の威を借る」と同意 「甲乙・甲羅・甲板(かんぱん)」 「甲(かん)高い声」
「カピタン(甲比丹・甲必丹・加比旦)」
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「ポルトガル語で 「長・長官」 江戸時代 マカオ~長崎間の ポルトガル貿易に最高の権限者 マカオ滞在中は同地の最高の行政官 長崎では ポルトガル人の代表を務めた ↓↑ 「カピタン・モーロ(capitaõ‐mor)」 ↓↑ 「カピタンの名称は 他の外国人にも用いられ 中国人の代表は甲必丹(カピタン) オランダ商館長も (阿蘭陀甲必丹=オランダカピタン) ↓↑ 平戸商館時代(1609~40)には 長期間在任した オランダ商館長も多かったが 1640年(寛永17)11月 大目付 井上筑後守が 将軍徳川家光の密命を受け 平戸を視察し、 商館の一部の建物の取壊しを命じた際 日本人に キリスト教を広めないため 商館長の毎年交代を命じた」 ↓↑ 「Capitant, Henri 1865.9.15. グルノーブルで誕生 ~ 1937.9.21. アラニェで死没 フランスの法学者。パリ大学教授 1931年来日 主著はフランス民法の 最も基本的な教科書 『民法研究緒論』 Introduction à l'étude du droit civil (1929) 『民法講義』 Cours de droit civil (29,A.コリンと共著) 母校グルノーブル大やパリ大で教授 私法学をおしえる 昭和六年(1931) パリの「日仏会館」の要請をうけ来日 東京帝大、東北帝大で学術講演」
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↓↑ 斐=非+文・・・「文に非ず」とは 「模様」であるが、 模す様(様子) 左右対称の模様であるならば ↓↑ 「甲斐」とは「二枚貝」である 山で採れる「貝」とは 「化石化した貝」 あるいは 「貝塚の貝(淡水貝)」である 二枚貝の 「シジミ(蜆=虫+見)」 ↓↑ 淡水二枚貝の種類 ↓↑ セタシジミ マシジミ ヤマトシジミ ↓↑ ↓↑ イケチョウガイ イシガイ オグラヌマガイ オトコタテボシ(セタイシガイ) オバエボシ カタハガイ カラスガイ ササノハガイ ↓↑ ドブガイ トンガリササノハガイ ニセマツカサガイ マツカサガイ マルドブガイ メンカラスガイ タテボシガイ カワシンジュガイ ↓↑ 斐=あや・あきら・よし・ヒ 左右反対になった模様 模様や美しい飾り ↓↑ ↓↑ 動詞の連用形や 動作性の名詞などに付いて、 その行為をした効果・効験の意を表す 収穫・利益・儲け・得 主として人間関係を表す名詞に付いて、 その人間関係の効果を発揮する意を表す ↓↑ 行動の結果として現れるしるし 努力 した効果 期待できるだけの値うち ↓↑ 代償となるもの・対価・値打ち 「『万葉集 (天平宝字三年(759年)以後編集・・・?) 二十巻本万葉集は 延暦二年(783年)頃に 大伴家持により完成・・・? 延暦四年(785年)家持の死後 大伴継人らによる 藤原種継暗殺事件 で死亡した家持も連座し 万葉集の編纂事業は 家持の罪が許された 延暦二十五年(806年)以降完成・・・?』 では 「代」、 『日本霊異記(弘仁十三年(822年)頃)』では 「債」、 少し後には 「詮」 と表記 甲斐と書くようになったのは もっと後のことで、 もちろん 当て字ですから 国名の「甲斐」 とは無関係」・・・??? ↓↑ 旧国名の一・・・令制国の「甲斐の国」 東海道に属する 山の峡(カヒ=山の間)の国 (古事記伝・本居宣長) 東海道と東山道の連結位置の 「交ひ」の国・・・? 「甲斐」の国名は 平安時代の 出土文字資料からも 確認できる・・・ならば、 「甲斐の国」の漢字は 「代・債・詮」よりも以前にあった 「甲斐の国」が後の記録 「代・債・詮」の 漢字が重なる理由があったのサッ・・・ だがコレラの漢字は「かい」とは 訓(よま)ない・・・ 代=イ(人)+弋(杭・繳=いぐるみ) 弋=鳥をとる道具) 繳=いぐるみ 矢に糸をつけ、 射たときに 鳥を繰(く)るんで 落とすような仕掛け 債=イ(人)+責(主貝) 「イ(人)の 主(ゝ=ポチ・チョンの王) は 貝(目の人、八)」 債=支払うべき財貨 「投資元金+利子」の返済 債務・債権・国債 詮=言+全・・・コトバのスベテ なすべき手段・方法・せんかた 効果・価値・かい・ききめ 煎じつめたところ・結局 選択・詮議 物事の要点・必須・眼目 ↓↑ 甲斐国司には 十三人の名前が確認 『続日本紀』に 天平三年(731年)十二月二十一日条 田辺史広足 (たなべ-の-ふひと・ひろ・たり) に関する記事 (神馬貢献 身体が黒色で 髪と尾の白い神馬) が初見 ↓ 武田信玄 (大永元年十一月三日(1521年12月1日) ~ 元亀四年四月十二日(1573年5月13日) の国 ↓ 甲府徳川家の時代 ~徳川家宣(綱豊)→六代将軍 ↓ 享保年間(1716年~1735年)に 幕府直轄領化 甲府町方は 甲府勤番による支配、 在方は 三分代官支配となり、 幕末に至る 明治二年七月二十日(1869年8月27日) 甲斐府が甲府県に改称 十二月二十六日(1870年1月27日) 田安藩廃藩 翌年にかけて領地が甲府県の管轄 明治三年十一月二十日(1871年1月10日) 甲府県が山梨県に改称 現在の 山梨県全域 甲州 山梨県北西部の市 甲府盆地の北西部を流れる 釜無川の左岸に広がる 北部は山岳・丘陵地帯で 昇仙峡がある・・・ ↓↑ ・・・スベテの「かい・カイ」の同音異字漢字の掛けである・・・ ーーーーー ・・・ボク的には「当て字」だからこそ意味があるだろうとカンガエているのだが、「換臥重留(カンガえる)」かな・・・だからコソ、国名の「甲斐」とは無関係ではないだろう・・・ 幕末、明治の「甲斐(かい)の国」とは、「貝=かい・バイ→唄・歌意」、「貝=かい=目+八=掛意・化意・戎」。「貝=かい・バイ→売買→売→比売→姫・媛・嬪・比米→女子(おんな・めご)」等など・・・
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