「カイ」の同音漢字・・・
雨がシトシト。今朝から寒い日・・・八月参拾日・・・長い「段」だなぁ~・・・原文を貼り付けて・・・考え込んでしまう・・・「三百二十三段(323-124=199)」まで「壱百九拾九段」もある・・・上り詰めることが出来るのか、どうなのか・・・「蝦夷拾遺」は「青島俊蔵政教(�樊起・のりおき)」の関わった著書・・・ 以下はブログ記事からの抜粋で改作添付したもの・・・ ーー↓ 青島俊蔵の「蝦夷拾遺」 アイヌの民俗から自然、人文、地理などが詳しく報告され、ロシア人に関しても大部な報告がされ、ロシアの歴史やロシア語まで収録され、禁制のキリスト教、ギリシャ正教などを紹介。 この報告書は幕府からまったく無視され、後に彼が処分される理由となった。 青島俊藏は 松本伊豆守の家来 「平賀源内」の弟子 蝦夷探検の任務にあたっていたが、任務が中断され青島は最上徳内と松前藩に残務処理を行ったうえ、江戸にもどって御用御免となり探査に参加した部下もすべて浪人となった。 青島は、その後「蝦夷拾遺」を改訂し、より詳細な報告書をまとめた。数年後にクナシリでアイヌ人の暴動が起き、青島が再起用され、最上らとともに再び蝦夷地に現地調査を行い、暴動の原因や経緯を報告。 だが、松平定信に以前の蝦夷探検こそが暴動の芽を生み出したとし、青島と最上は牢屋に繋がれ、寛政二年(1790)八月五日、青島は「遠島」を申し渡され、その後に牢中で死亡。 ーー 当時の老中 田沼主殿頭意次(とのものかみおきつぐ)の指揮で 天明五年(1785) 「最上徳内常矩」は 「青島俊藏」の「小者(こもの)」と成って蝦夷地へ渡った 初名が 「高(かう)元吉(げんきち)常矩(つねのり)」 「最上徳内常矩」の名乗りはこの時かららしく 苗字の 「高」は、 「高宮」から 「宮」を省いたモノで、 通称は「元吉」以前は 「房吉」 後に 「億内」とも言った 字(あざな)は 子員 号は 鴬谷・甑山・白虹斎 寛政二年(1790)入牢の際の吟味書に、 「羽州村山郡楯岡村百姓間兵衛倅(せがれ)」 「高宮甚兵衛」の 「第二子」とあるらしい・・・ ・・・徳内は、本田利明の家から呼出されて調(しらべ)を受け、 寛政二年 七月 十三日に、 久世丹後守は 根岸肥前守鎮衛(しづもり)と連名で、 老中 松平越中守に・・・・陸奥白河藩(松平越中守家) 九代 松平越中守定信(1758~1829) 吟味書を上(たてまつ)り 越えて 八月五日に事件の判決を下した 「其方儀(そのはうぎ) 不埒(ふらち)の筋も 無之候間(これなくさふらふあひだ) 無構(かまひなし)」・・・無罪・・・ ・・・「候間=候あいだ」の「間」は「・・・であるので」で、「理由の説明」であるらしいが・・・?・・・「候(そうろう)=です・ます」・・・「間」は「天智天皇」の妹で、「孝徳天皇」の皇后の名は「間人皇女(はしひとのひめみこ)」の「間(あいだ・すきま・はざま・ま・カン・ケン)」である・・・「一間 =6尺」は計量法施行法(昭和二十六年法律第208号)第5条第1号においても踏襲・・・同時に「1尺=(10/33)メートル」と定められ、「一間=約1.818189メートル」・・・「あひだ」は「亜非拿・亜披打」だろう・・・?・・・あるいは「間→ま→真」・・・「間(あひだ)=門(モン)+日(ヒ)」→「英田(あいだ)」・・・ハザマでゴザロウ・・・ ーー↓ 同名の異著の「赤蝦夷風説考」 最上徳内の 「赤蝦夷風説考」 巻頭に「最上徳内常矩著、本田三郎右衛門利明訂」 本文は徳内の話しを聞き取って 「本田利明」が書いたモノらしい 仙台藩の医者 「工藤平助」の同名の著「赤蝦夷風説考」 双方の内容は「赤蝦夷=ロシア」を意識するモノで、まったく別モノではないが・・・ロシアが本々「赤」とは「ウオッカ」の呑み過ぎで「ハナ」が赤かったせい・・・だろう・・・ ーー 「蝦夷土地開発愚存之大意」の末尾に 「北夷」、「本田利明」の 「二印」を捺した 本田利明の 自筆本らしいモノが、 史料編纂所の 所藏する 「向山誠齋」の「誠齋雑記」中に 合綴(ゴウチョウ)されているらしい・・・ ーー 「工藤平助」の「赤蝦夷風説考」 明五年(1785)の 「蝦夷地検分」はこの書が動因 「風説考」の大要は、 露国南進の対応策として 蝦夷地の開発 ロシア交易 ーー↓ 勘定奉行 松本伊豆守秀持は、 勘定組頭(くみがしら) 土山宗次郎孝之に意見書を求め 「風説考」と合せて、 天明四年(1784)六月 老中 田沼主殿頭意次 (とのものかみおきつぐ)に提出した 天明五年 山口高品(たかたゞ) 庵原宣方(いはらのりかた) 皆川秀道 佐藤行信 青島褹起(のりおき) 等の 五有司の蝦夷地派遣 有司派遣目的 蝦夷地の産業と 露国に対する国防との調査 山宗次郎は、 天明三年(1783)に 平秩東作(へづつとうさく)を・・・?経ヅツ→盗作・倒錯・藤作 内密に蝦夷地の調査させていた 山口等は二年に亙つた調査の大要を纏めて、 天明六年(1786)十一月 「蝦夷拾遺・四巻」を著した 書名は 「新井白石」の 「蝦夷志」の修補 天明六年(1786)十月の 「蝦夷拾遺」には、 「佐藤行信」の序文のあるものもあり、 別に 「青島俊藏」の 天明八年(1888)六月の 附言並びに別巻のものもある 文化五年(1808)に この書を手写した 会田安明は 「自在漫録・第五巻」の中に、 「蝦夷拾遺」と同別巻とは、 「青島俊蔵」共に作るとしている ーー 「蝦夷拾遺」は結局 「松本伊豆守秀持」の逼塞(ひつそく)のために、 検討されなかった・・・ 徳内は単身奥羽に下り、再び蝦夷に渡つた・・・ 蝦夷地は寒い雪国ではある・・・ナッ・・・ ーーーーー 枕草子 (一二四段)・・・百二十四段・壱佰弐拾四段・陌念肆段・壱念肆段 1+2+4=7=七=漆 1×2×4=8=八=捌 正月に寺に籠りたるはいみじく寒く、雪がちにこほりたるこそをかしけれ。雨などの降りぬべき景色なるはいとわろし。 初瀬などに詣でて、局などするほどは、榑階のもとに車引きよせて立てるに、帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐といふものをはきて、聊つつみもなく下り上るとて、何ともなき經のはしうち讀み、倶舎の頌を少しいひつづけありくこそ、所につけてをかしけれ。わが上るはいとあやふく、傍によりて高欄おさへてゆくものを、ただ板敷などのやうに思ひたるもをかし。「局したり」などいひて、沓ども持てきておろす。衣かへさまに引きかへしなどしたるもあり。裳唐衣などこはごはしくさうぞきたるもあり。深沓半靴などはきて、廊のほどなど沓すり入るは、内裏わたりめきて又をかし。 内外など許されたる若き男ども、家の子など、又立ちつづきて、「そこもとはおちたる所に侍るめり。あがりたる」など教へゆく。何者にかあらん。いと近くさし歩み、さいだつものなどを、「しばし、人のおはしますに、かくはまじらぬわざなり」などいふを、實にとて少し立ち後るるもあり。又聞きも入れず、われまづ疾く佛の御前にとゆくもあり。局にゆくほども、人の居竝みたる前を通り行けば、いとうたてあるに、犬ふせぎの中を見入れたる心地、いみじく尊く、などて月頃もまうでず過しつらんとて、まづ心もおこさる。 御燈常燈にはあらで、うちに又人の奉りたる、おそろしきまで燃えたるに、佛のきらきらと見え給へる、いみじくたふとげに、手ごとに文を捧げて、禮盤に向ひてろぎ誓ふも、さばかりゆすりみちて、これはと取り放ちて聞きわくべくもあらぬに、せめてしぼり出したるこゑごゑの、さすがに又紛れず。「千燈の御志は、なにがしの御ため」と僅に聞ゆ。帶うちかけて拜み奉るに、「ここにかうさぶらふ」といひて、樒の枝を折りて持てきたるなどの尊きなども猶をかし。犬ふせぎのかたより法師よりきて、「いとよく申し侍りぬ。幾日ばかり籠らせ給ふべき」など問ふ。「しかじかの人こもらせ給へり」などいひ聞かせていぬるすなはち、火桶菓子など持てきつつ貸す。半挿に手水など入れて、盥の手もなきなどあり。「御供の人はかの坊に」などいひて呼びもて行けば、かはりがはりぞ行く。誦經の鐘の音、わがななりと聞けば、たのもしく聞ゆ。 傍によろしき男の、いと忍びやかに額などつく。立居のほども心あらんと聞えたるが、いたく思ひ入りたる氣色にて、いも寢ず行ふこそいとあはれなれ。うちやすむ程は、經高くは聞えぬほどに讀みたるも尊げなり。高くうち出させまほしきに、まして鼻などを、けざやかに聞きにくくはあらで、少し忍びてかみたるは、何事を思ふらん、かれをかなへばやとこそ覺ゆれ。 日ごろこもりたるに、晝は少しのどかにぞ、早うはありし。法師の坊に、男ども童などゆきてつれづれなるに、ただ傍に貝をいと高く、俄に吹き出したるこそおどろかるれ。清げなるたて文など持せたる男の、誦經の物うち置きて、堂童子など呼ぶ聲は、山響きあひてきらきらしう聞ゆ。鐘の聲ひびきまさりて、いづこならんと聞く程に、やんごとなき所の名うちいひて、「御産たひらかに」など教化などしたる、すずろにいかならんと覺束なく念ぜらるる。これはただなる折の事なめり。正月などには、唯いと物さわがしく、物のぞみなどする人の隙なく詣づる見るほどに、行もしやられず。 日のうち暮るるにまうづるは、籠る人なめり。小法師ばらの、もたぐべくもあらぬ屏風などの高き、いとよく進退し、疊などほうとたておくと見れば、ただ局に出でて、犬ふせぎに簾垂をさらさらとかくるさまなどぞいみじく、しつけたるは安げなり。そよそよとあまたおりて、大人だちたる人の、いやしからず、忍びやかなる御けはひにて、かへる人にやあらん、「そのうちあやふし。火の事制せよ」などいふもあり。 七つ八つばかりなる男子の、愛敬づきおごりたる聲にて、さぶらひ人呼びつけ、物などいひたるけはひもいとをかし。また三つばかりなるちごのねおびれて、うちしはぶきたるけはひもうつくし。乳母の名、母などうち出でたらんも、これならんといと知らまほし。 夜ひと夜、いみじうののしりおこなひあかす。寐も入らざりつるを、後夜などはてて、少しうちやすみ寐ぬる耳に、その寺の佛經を、いとあらあらしう、高くうち出でて讀みたるに、わざとたふとしともあらず。修行者だちたる法師のよむなめりと、ふとうち驚かれて、あはれに聞ゆ。 また夜などは、顏知らで、人々しき人の行ひたるが、青鈍の指貫のはたばりたる、白き衣どもあまた著て、子どもなめりと見ゆる若き男の、をかしううちさうぞきたる、童などして、さぶらひの者ども、あまたかしこまり圍遶したるもをかし。かりそめに屏風たてて、額などすこしつくめり。顏知らぬは誰ならんといとゆかし。知りたるは、さなめりと見るもをかし。若き人どもは、とかく局どもなどの邊にさまよひて、佛の御かたに目見やり奉らず、別當など呼びて、打ちささめき物語して出でぬる、えせものとは見えずかし。 二月晦日、三月朔日ごろ、花盛に籠りたるもをかし。清げなる男どもの、忍ぶと見ゆる二三人、櫻青柳などをかしうて、くくりあげたる指貫の裾も、あてやかに見なさるる、つきづきし男に、裝束をかしうしたる餌袋いだかせて、小舎人童ども、紅梅萌黄の狩衣に、いろいろのきぬ、摺りもどろかしたる袴など著せたり。花など折らせて、侍めきて、細やかなるものなど具して、金鼓うつこそをかしけれ。さぞかしと見ゆる人あれど、いかでかは知らん。打ち過ぎていぬるこそ、さすがにさうざうしけれ。「氣色を見せましものを」などいふもをかし。 かやうにて寺ごもり、すべて例ならぬ所に、つかふ人のかぎりしてあるは、かひなくこそ覺ゆれ。猶おなじほどにて、一つ心にをかしき事も、さまざまいひ合せつべき人、かならず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人の中にも、口をしからぬもあれども、目馴れたるなるべし。男などもさ思ふにこそあめれ。わざと尋ね呼びもてありくめるはいみじ。 ーーーーー ・・・勝手に音読、「不埒(ふらち)の筋も無之候間(これなくさふらふあひだ)無構(かまひなし)」・・・
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