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「キク(クク)のチの名前」


菊池病(亜急性壊死性リンパ節炎)=原因不明に首のリンパ節が腫れる病気

菊池病(壊死性リンパ節炎)

白血球減少・小児や若い成人に発症

1972 年にこの病気発見者の人名

↓↑

菊池市(きくちし)=熊本県北部、菊池川上流に位置する市

熊本県

菊池市

隈府

888番地

北緯32度58分

東経130度48分

大宰府府官官

肥後の国

「菊池氏(本姓藤原)」の

本拠地

隈府(ワイフ)を中心に形成された地域

 ↓↑

 中関白

 「藤原道隆」の子

 大宰権帥

 「藤原隆家」の子孫・・・

 「刀伊の入寇」の際

 「藤原隆家」とともに奮戦した

 大宰府官

 大宰少弐

 対馬守となった

 「藤原政則」の子孫・・・・

 11世紀後半

 肥後国菊池郡(熊本県菊池市)

 在地領主

 平安時代末

 「治承・寿永の乱」

 「菊池隆直」は

 一国棟梁的存在として

 「菊池権守」

 鎌倉時代

 鎌倉幕府御家人

 当主

 「菊池武房」

 「蒙古襲来」時に奮戦

 1333年

 「菊池武時」

 鎮西探題館に討ち入って戦死

 その子

 「菊池武重」

 は

 後醍醐天皇の

 「建武新政(中興)」下で

 肥後守

 以降南北朝時代

 「菊池武重・菊池武敏・菊池武光」

 等が

 九州南朝方武将に組した

 両朝和合後

 「菊池武朝」

 肥後の守護

 「菊池能運」まで続いた

 戦国時代

 「阿蘇惟長(菊池武経)」

 「大友重治(菊池義武)」

 などが菊池の名跡継承

 「大友重治(菊池義武)」時代に

 「大友義鎮」に滅ぼされた

 「菊池能運」の子孫は

 日向国米良(宮崎県児湯郡西米良村)

 へ逃亡し

 「米良氏」を名乗った・・・

 「米良氏」

 江戸時代には

 「交代寄合

 (参勤交代をするが

  無高で

  肥後国

  人吉藩

  相良氏の扶養の

  交代寄合家)」

 明治

 「菊池姓」

 に復し男爵

 ↓↑

 肥後「菊池氏」

 『三国志』

 「魏志・第三十巻

  烏丸

  鮮卑

  東夷伝

  倭人条

 (魏志倭人伝)」

 記録の

 「狗奴国の官

  狗古智卑狗(くこちひく)」

  が

 「菊池彦」・・・説?

 平安時代初期の

 勅撰史書

 『続日本紀』に

 文武天皇二年五月甲申

 (698年7月8日)

 「令

  大宰府

  繕治

  大野基肄 鞠智 三城」

 (太宰府をして

  大野・基肄・鞠智

  の三城を繕い治めせしむ)

 の記述・・・

 奈良時代

 天平勝宝元年十一月三日

 (749年12月16日)

 奈良東大寺が

 「大宅可是麻呂」

 から61名の奴婢の進上記録に

 『奴婢帖』

 「右京四條四坊戸主

  鞠智足人」

 の名が記録

 平安時代中期

 承平年間(931年~938年)

 編纂の辞書

 『和名類聚抄』で

 「久々知」と地名を註記

 上代~古代

 この地域は

 「くくち」と呼ばれ

 「鞠智」と表記

 康保四年(967年)施行の

 『延喜式』に

 「菊池」の記載

 「鞠智」に

 「菊池」の佳字を当てていた・・・

 ↓↑

 1019年(寛仁三年)

 「刀伊の入寇」

 時の

 大宰権帥

 「藤原隆家」の孫

 「藤原則隆」

 が肥後国に下向して土着

 藤原姓(藤原北家)を自称・・・説

 代々大宰府官を務めた

 「紀姓」の地方豪族・・・説

 「百済王族」出身の渡来人

 「鬼室福信」の後裔・・・説

 狗奴国の官

 「狗古智卑狗(菊池彦)」 後裔・・・説

 「源経基」の後裔・・・説

 ↓↑

 菊花紋章(キクカモンショウ・キッカモンショウ)

 キク科キク属のキク(菊)の図案化した菊紋中

 花の部分を図案化した家紋

 『万葉集』には詠まれておらず

 『古今和歌集』

 『源氏物語』

 などから記録

 平安時代

 陰暦九月=菊月

   九月九日=重陽の節句・菊の節句

  「菊花の宴・菊花の杯」

   で邪気払い、長命を祈った

 ↓↑

 「後鳥羽上皇」

 菊の花を好み

 自らの印として愛用

 後

 「後深草・亀山・後宇多」

 天皇等が自らの印として継承

 慣例で

 「菊花紋」

 「三十二弁

  八重菊紋

  十六葉

  八重表菊」

 が皇室の紋として定着

 ↓↑

 鎌倉時代

 「後鳥羽上皇」

  後鳥羽天皇

 第八十二代天皇

 ↓↑

 1180年8月6日

 治承四年七月十四

 ~

 1239年3月28日

 延応元年二月二十二日

 ↓↑

       大運1239年3月(58歳)庚寅偏官

 庚┏子(壬 癸)偏官・偏印沐浴⇔己亥正財

 甲┣申(戊壬庚)比肩・偏財 絶⇔丁卯傷官

 甲┣子(壬 癸)  ・偏印沐浴⇔壬戌偏印

 庚┗午(丙 丁)偏官・食神 死⇔丙午偏官

   戌亥空亡 三合壬偏印

 ↓↑

 在位

 1183年9月8日

 寿永二年八月二十日

 ~

 1198年2月18日

 建久九年一月十一日

 諱 尊成(たかひら・たかなり)

 元号

 寿永

 元暦・・・暦の元

 文治・・・文字

 建久・・・建(たける)久(ひさしい)

      ケンキュウ=研究・乾宮・県給・健久・賢久

            兼求・懸球


 ↓↑

 高倉天皇の第四皇子

 母 坊門信隆の娘・殖子(七条院)

   後白河天皇の孫

   安徳天皇の異母弟

 文武両道

 「新古今和歌集」編纂

 鎌倉時代

 1221年(承久三年)

 鎌倉幕府執権

 「北条義時」

 に対して討伐

 「承久の乱(変)」

 承久三年(1221年)

 5月14日?     6月05日?

辛巳・正官    辛巳・正官

 壬辰・偏印    辛巳・正官

 乙亥・劫財    丁酉・傷官

 壬午・偏印    丙午・食神

↓↑

 で敗北

 隠岐に配流

 1239年(延応元年)

 崩御

↓↑

 ・・・「漢字の音訓の読み方」は「日本人の文化」である・・・で、「喩母」って?・・・「中古音の影母・喩母・微母・疑母に由来する声母」・・・「声母・・・影母・喩母」・・・漢字の発音の意味らしい・・・「喩母(云母)」、「喩母かつi介音ありで開となれば、ヤ行のエになる」、「漢字音の研究の喩母」・・・「喩(諭)す母」だが、漢字からして母親の幼児、子供に対する喩(さとす・比喩)コトバだろう・・・「喉音(コウオン)=国語学で、国語音のア・ヤ・ワの3行の音の総称・声門音(セイモンオン)・中国音韻学で、五音 (ゴイン)、 または七音(シチイン)の一・喉頭(コウトウ)で調音される音(声)で、影母・暁母・匣母・喩母の総称」、「呼、喩母于、嗚(四)韻。則爲(容、烏、合)、而無其字。故成呉字。呼、喩母于汪韻。則爲(容、卭、合)、而無其字。故成昂字。(昂五剛切。今法爲恩・・・)」・・・?  兎に角、「漢字」の「音読み」で、音声の発声、音声の出し方の説明らしい・・・漢字の読み方の「規矩(キク)」である・・・  コンパス・定規(ジョウギ・行動や判断のよりどころの基準・手本・寸法や形・・・「規格・規準・規則・規定・規範・規模・規約・規律・軍規・条規・新規・正規・内規・法規」・・・  四文字熟語  規矩縄墨 (キクジョウボク)  規矩標準 (キクヒョウジュン)  規行矩歩 (キコウクホ)  鉤縄規矩(クジョウキク)  規矩準縄(キクジュンジョウ)  規矩元法(キクゲンポウ)  そして、  同音異字漢字の「キク・きく」である・・・  そして、  「菊の名前」である  「chrysanthemum name」  「クリサンセマム 名前」  「クリッサンスマム 名前」  略称は「mum(マム)」・・・「魔夢」・・・?  ↓↑  キク  危懼=危惧(キグ)  奇句=奇抜な句・危言  起句=漢詩の第1句・絶句の第1句     起承転結・詩文の書き出しの句  崎嶇=険しいこと・容易でないこと・辛苦  喜懼=喜び、且つ、恐れること  ↓↑  きく  利く=効く=効果・効き目・甲斐がある  聞く=聴く=声を耳に受ける・耳に感じ取る  訊く=尋ねる・訊問  ↓↑  キク  菊=キク科の多年草    菊花・寒菊・観菊・残菊・白菊・野菊  掬=すくう・むすぶ・水をすくう    掬水・一掬  麹=こうじ・こうじ    麹塵(キクジン)    酒・麹君・麹車  鞠=まり    蹴鞠(シュウキク)    身を丸くかがめる  菊秋=きくあき     陰暦九月の異称     菊月(きくづき) ーーーーー  ↓↑  人名の  「菊(キク)」  文禄四年七月二日(1595年8月7日)   ~  元和元年六月六日(1615年7月1日)  豊臣秀次の娘  母は  淡輪徹斎隆重の娘の  小督局  文禄四年(1595年)八月二日  他の38人の豊臣秀次の妻達と共に、  31歳で京都の  三条河原で処刑  ↓↑   お菊の皿  古典落語の演目の一  古典的な怪談である  皿屋敷を下敷きとした噺  別名「皿屋敷」  上方落語で  2代目  桂枝雀  3代目  桂春団治  などの得意演目  東京では6代目  三遊亭圓生が  2代目  桂三木助から教わった  ↓↑  お菊  播州皿屋敷  お菊井戸  ↓↑  真田幸村の側室  堀田興重の娘、or 妹  その長女の  「阿菊=すへ」・・・ 石合重定=道定の室  ↓↑  趙州院(チョウシュウイン)   ?~寛文六年五月十三日    (1666年6月15日)  名は一説に  「於菊」  ↓↑  真田昌幸の五女で、  真田信之  真田信繁(幸村)  らの妹  はじめ  宇多頼次(石田刑部少輔、河内守)に嫁いだ  宇多頼次は  石田三成の舅  宇多頼忠の甥で、  三成の  父・正継の猶子となり、  石田刑部少輔を称した。  娘が  宇多頼次に嫁いだ関係から、  父の  真田昌幸は  関ヶ原の戦いの際に  石田三成の西軍に加担  ↓↑  慶長五年(1600年)  関ヶ原の戦い  西軍が敗北  宇多頼次は  九月十七日  石田三成の居城  佐和山城で自刃  ↓↑  趙州院は離縁し  逃た後に、  滝川一積(三九郎、滝川一益の孫)  に再嫁  ↓↑  大坂の陣の後、  寛永九年(1632年)  滝川一積は  幕府から  真田信繁の娘を  養女として  他家に嫁がせ  幕府使番の職を解かれて除封  その後は  京六条付近に夫婦で隠棲  その際、  松代藩より500石の  合力米が出された  ↓↑  寛永十九年(1642年)  寿像(肖像画)が  描かれ、  東禅寺嶺南が賛を記した  夫の死後、菩提寺として  妙心寺に  趙州院を建立し、  甥の  石禅を開山  ↓↑  寛文六年(1666年)に死去  法名は  趙州院殿  瑚月妙珊大姉  自らが建てた  妙心寺趙州院に葬られた  ↓↑  お菊(阿菊、於菊、おきく)は人名。  ↓↑  お菊=豊臣秀次の娘  お菊=怪談、皿屋敷に登場する人物、亡霊  阿菊=真田信繁の娘。別名、すへ  阿菊=上杉景勝の正室     菊姫 (上杉景勝正室=阿菊御料人)  於菊=真田太平記の登場人物     史実における     真田昌幸の五女(趙州院)  於菊=豊臣秀次の側室     伊丹忠親の孫     於菊の前  ↓↑ ↓↑  菊 (文禄四年七月二日・1595年8月7日)   ~  元和元年六月六日・1615年7月1日)  豊臣秀次の娘  母は  淡輪徹斎隆重の娘の  小督局  ↓↑  母の小督局は  文禄4年(1595年)8月2日  に他の  38人の  豊臣秀次の妻達と共に、  31歳で京都の三条河原で処刑  しかし、  菊はまだ生後一ヶ月で、女子で  助命され、  菊の祖父の  弟の子供である  後藤興義に預けられた  ↓↑  菊は、  元和元年(1615年)4月20日  紀伊国の代官である  山口安弘=山口安弘喜内の嫡男  山口朝安=山口朝安兵内の元に嫁いだ  その年に  大坂夏の陣が起こり、  淡輪家・後藤家・山口家は豊臣方に味方し  菊の夫の朝安はわずか結婚5日目に大坂城入  山口の城は敵軍に囲まれ、  援軍を求めるために  菊は  舅の安弘の命令により、  密書を持ち農夫の姿になり  敵軍の包囲を脱出  風吹峠から尾根伝いに北へ向かい、  信達山中で  男装に変え、  大坂城に入って使命を果たした  その帰り、  樫井川で敵方に返書を奪われた  ↓↑  大阪方は敗れ、  菊の養父の  後藤興義  叔父の  淡輪重政達は、  樫井川の合戦で  四月二十九日に討ち死  菊の夫の  朝安も  五月七日に討ち死  五月八日に大坂城落城  後、  菊は後藤家に身を隠したが、  敵の  浅野方に捕らえられ、  同年の  六月六日に  紀伊南の河原で処刑  享年20  養母の静は  菊を哀れみ、  後藤家の菩提寺  法福寺に  菊の木像を納め、冥福を祈った  ↓↑↓↑  姫路城城主が  木下家定であった頃、  宮本武蔵は名前を隠し姫路で  足軽奉公をしていた  城内では天守に妖怪がでるという  噂が広まった  髪が伸びる  「お菊人形」  ↓↑  番町に  青山鉄山の武家屋敷があった  腰元の  お菊  がおり  鉄山は  お菊に横惚れたが  お菊に  三平という夫が居た  その為  意趣返しと言う事で、  10枚組の葵の皿を預け、1枚だけ隠した  怪談・「皿屋敷」の「お菊」  ↓↑ ↓↑  姫路城内の  播州皿屋敷  お菊の  井戸  姫路城の  上山里(かみのやまさと)  曲輪に、  お菊井戸があり  播州皿屋敷で知られる  お菊の井戸  皿屋敷譚の主人公  主人秘蔵の皿をわったため  惨殺され  井戸になげこまれた  のちに  怨霊となって  皿をかぞえる  物語は  元和(ゲンナ)~元禄(ゲンロク・1615~1704)  のころ  江戸、播磨(はりま=兵庫県)  をはじめ全国各地に伝承 ーーーーー  菊の御紋・紋章  ↓↑  後鳥羽上皇(1183~1198)  が  身の回りのものに  菊に関するモノを施し、  その時期に  天皇および皇室の紋となった  鎌倉時代には  蒔絵や衣装の文様として流行  日本の南北朝時代以降には  天皇より下賜されることにより  公家や武家の間で家紋として使用  ↓↑  九州豪族  菊池氏も・・・本姓、藤原氏、本拠地  ↓↑     久々智(鞠智)         九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)         西郷隆盛も菊池一族の末裔         藤原則隆が         御三条天皇の         延久二年         肥後の国菊池郡に下向         阿蘇山麓下流に流れている         菊池川の畔深川の地に構え         地名をとって         菊池氏を称した  ↓↑     菊池氏         四代         経宗         五代         経直は         鳥羽院武者所に任じられ奉仕         室町時代         岩手への下った         菊池氏の支流が「菊地」に改姓         肥後の菊池は昔は        「ククチ」と読んで  ↓↑    「久々智(鞠智)」と書いた  家紋に  「菊花」  もしくは  「菊葉」  を使用  ↓↑  宮中では  菊の節句  重陽の節句  (旧暦九月九日)  黄色の菊→記句⇒「おぼろげな思い出」          「失恋」  献花として菊が使用  (慣習として故人への供花とされ、   病室への見舞いの花としては忌避される)  ↓↑  「万葉集」には  157種の植物が登場  菊を詠んだ歌は一首もない・・・「菊の紋章=太陽?」は                  オリエンタル                  メソポタミア  飛鳥時代・奈良時代の日本に  菊がなかった・・・  「古今和歌集(905年)」  「枕草子(996年頃)」  清少納言の随筆  「源氏物語(1010年頃)」  紫式部  の時代になって登場・・・  「源氏物語」に多く登場する草花は、  ナデシコ(撫子)  キク(菊)  オミナエシ(女郎花)  の順・・・  ↓↑  菊の  異称  ↓↑  隠逸花(インイツカ)・・・「隠し逸(それる)花」?  周敦頤の  愛蓮説の一文  「菊、花之隠逸者也」・・・  陰君子(インクンシ)=隠遁する有徳の人  菊の異称  「逸=それる・はやる・イン・イツ     ある場所からさっと抜け去る     逸出・逸走・後逸     横にそれて逃れる     抜けて見えなくなる     逸脱・散逸     世間に知られていない     逸事・逸聞・逸話」  ↓↑  星見草(ほしみぐさ)・・・菊の異称  霜見草(しもみぐさ)・・・菊の異称  特に「寒菊」の異称  ↓↑  千代見草(ちよみぐさ)  菊、松の異称  ↓↑ ↓↑  花言葉  「高貴」「高潔」「高尚」  「清浄」・・・清(水の青)+浄(水の争)         清の山水(纂隋)の争い?  「真の愛」   ↓↑  菊の名前  「窮まる(きわまる)」が語源・・・?  「一年の最後に咲く花」という意味  学名=「Chrysanthemum(クリサンセマム)」  ギリシア語の  「chrysos(黄金)」  と  「anthemon(花)」  が語源・・・  ↓↑  「菊石」=アンモナイト・・・三笠ダム周辺から発掘多  ↓↑ ↓↑  春藤流(しゅんどう-りゅう)  廃絶した  能楽ワキ方の一流儀  ↓↑  金春流座付のワキ  後にここから  下掛宝生流が分流  ワキ方  高安流の初世  高安重政が師事した  下掛り系統の  ワキの源流  家譜では  畠山家に仕えていた  春藤六郎次郎長慶を初世  長慶は金春流の脇の仕手  金春源七郎に学んで一家を興し  後に  金春座の  「虎-菊大夫」の子が・・・「虎の菊大夫」って?  長慶の女婿となって  春藤遊巽と名乗り(「隣忠見聞集」)  師家金春源七郎家が廃絶し、  同家は金春流の本ワキとなった  ↓↑  三世道覚  「髭春藤」のアダ(綽・渾)名  四世寿朴の代に至って、  徳川綱吉の命により弟  権七(祐玄)が  別家して  下掛宝生流を興し、  宝生流の座付となった  六世は  五世道定の子で中興の祖  ↓↑  明治維新後  十二世春藤高明が  1893年に後嗣を欠いたまま没  門弟の  浅草  鳥越神社神職  鏑木祚胤が  伝書・伝来品などを  預かって芸系を守った  1922年  祚胤の子  建男が宗家代理となるものの流勢ふるわず  子の  岑男の代からは  下掛宝生流に転じ、  同流は廃絶 ーーーーー  ↓↑ ↓↑  鴨長明  賀茂御祖神社の  禰宜の  鴨長継の次男  京都で生まれた  高松院の愛護を受け、  応保元年(1161年)  従五位下に叙爵され  承安二年(1172年)頃  長継が没した後、  安元元年(1175年)  長継の後を継いだ  禰宜・鴨祐季  と  延暦寺との間で土地争いで  祐季が失脚  長明は  鴨祐兼とその後任を争うが、  敗北  ↓↑  和歌を  俊恵の門下として、  琵琶を楽所預の  中原有安に学ぶ  歌人として活躍し、  歌林苑の会衆として  賀茂重保撰の  『月詣和歌集』に入撰  『千載和歌集』にも  「よみ人知らず」・・・「よみ人知らず」とはナニか?  として入集  以降、  石清水宮若宮社歌合  正治後度百首、  新宮撰歌合、  和歌所撰歌合、  三体和歌、  俊成卿九十賀宴、  元久詩歌合などに  出詠し、  建仁元年(1201年)八月  和歌所寄人に任命された  ↓↑  元久元年(1204年)  河合社(ただすのやしろ)の  禰宜の職に欠員が生じ  長明は就任を望み  後鳥羽院から推挙の内意も得えたが  賀茂御祖神社  禰宜の  鴨祐兼が長男の  祐頼を推し  長明の神職は閉ざされた  長明は出家し、  東山次いで大原、  日野に閑居生活を行った  出家後は  蓮胤(レンイン)を名乗った  建暦元年(1211年)  飛鳥井雅経の推挙を受け  将軍  源実朝の和歌の師として  鎌倉に下向したが、  受け入られず失敗・・・  ↓↑  建暦二年(1212年)  「方丈記」は和漢混淆文  他に歌論書の  「無名抄」  説話の  「発心集(1216年以前成立)」  歌集の  「鴨長明集(養和元年(1181年)」  「千載和歌集(1首)」以下の  勅撰和歌集に  25首が入集  ↓↑  光行賀茂社の歌合で  「石川やセミの小川」  を出詠し、賀茂川の異名と顕昭に告げ、  蟬(せみ・蝉)の小川を使用した歌を多作し  禰宜の鴨祐兼から非難された  ↓↑  「文机談」  長明が出家遁世した経緯の伝  琵琶の師の死亡後  演奏禁止の秘曲  「啄木」を演奏したため・・・「啄木」?  ↓↑  建暦元年(1211)十月大十三日辛夘  鴨社氏人  菊大夫  長明入道(蓮胤)  依雅經朝臣之擧。此間下向。  奉謁、將軍家。及度々云々。  而今日當于幕下將軍御忌日。  參彼法花堂。念誦讀經之間。  懷舊之涙頻相催。  註一首和歌於堂柱。  「草モ木モ 靡シ秋ノ 霜消テ 空キ苔ヲ 拂ウ山風」  ↓↑  代表作品  「方丈記」、  その他に  「発心集」、「無名抄」  通称、  「菊大夫(きくだゆう)」  出家後の法名  「蓮胤(レンイン)」  ↓↑↓↑  北極北米のオオカミ  白い毛皮を持ち尾の先端が黒い  (wolf of Arctic   North America having white fur   and a black-tipped tail)  ↓↑  北極狼  ホッキョクオオカミ  (学名:Canis lupus arctos)  北極圏周辺に棲息するオオカミの亜種の一  ↓↑  the Arctic Ocean=北極海・北氷洋  Arctic Circle=北極圏          23°27′の圏内  antarctic=南極  語源はギリシャ語  「大熊座に近い」の意・・・熊本・大隈・羆・月の輪熊               熊襲  「the Antarctic Pole=南極」.  ギリシャ語「北と対をなす」の意  「(ANTI‐+Arktikós =大熊座に近い・北の」 ーーーーー  ・・・???・・・「キク(クク)のチの名前」・・・

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